短冊短歌と応募原稿短冊の実例集
吉岡生夫(「半どん」148号)
 兵庫県歌人クラブに入ったのは平成十六年である。翌年から幹事になって兵庫県歌人クラブ新人賞選考委員、神戸短歌祭選者、ふれあいの祭典短歌祭の選者を務めることになった。そして驚いた。最初に読んだのは中学生と高校生の作品であったが、原稿の書き方がてんでばらばらだったからだ。
 拙作で例をあげると、こうなる。
  ・はじめてのくちづけをへてあふぐときどこかでいつか
    みた空がある
 歌は一行で書く。二行に渡る場合も升目は空けない。
  ・はじめてのくちづけをへてあふぐとき
       どこかでいつかみた空がある
 二枡あるいは三枡空けた例、しかも四句目から折り返している場合が多い。原稿は短冊ではないのである。
  ・はじめてのくちづけをへて
       あふぐとき
         どこかでいつかみた空がある
 こんな例もある。原稿は色紙ではないのである。
  ・はじめての くちづけをへて あふぐとき どこかで いつか みた空がある
 句と句が升目で空けられた作品もある。これなどは島と島を「てにをは」で結べば短歌らしくなる場合が多い。
  ・はじめてのくちづけをへてあふぐときどこかでいつかみた空がある
 繰り返すが歌は一行で書く。次の行に渡る場合も頭から書く。例外は啄木のような確信犯か、さもなければ色紙か短冊である。ちなみに右の例歌は色紙に書いたことがある。
 日本近代文学館の「恋うたの現在」展に出品するためであつた。同時に日本近代文学館編、中村稔・馬場あき子責任編集『恋うたの現在』(角川書店)が刊行された。昨年の話である。生年は大正から昭和の百人の恋歌であるが、これを手に取ると右ページに作品が一行で載っている。そして自註となる。左ページは色紙か短冊の写真である。つまるところ右が読むページなら左は眺めるページということになるだろう。

     二

 話をもどすが、応募原稿の作者は中学生か高校生である。まわりの大人が気をつければよさそうなものだが、そうもいかないらしい。一般の応募原稿を見て、それがわかった。原稿の書き方を知らないのは大人の方だったからである。とりわけ二行目を三桝から五桝を空けて書いている場合が多い。しかも四句目ときている。呆然とした私はこれを短冊短歌と呼ぶことにした。これも具体的に書こう。
 昨年、養父市で行われた「ふれあいの祭典・短歌祭」の応募は三八六首だった。うち短冊短歌は一二六首である。比率にして三十三パーセント、三人に一人という勘定である。ほかの選者はともかく私はこうした作品をとらない。歌は一行で書くものだからである。しかも作者のオリジナリティを尊重するならば、もう選考の対象から外さざるを得ないではないか。当日の講評でもそのことを話すつもりで出かけたのだった。しかし入口で迎えてくれたのは、直筆か否かは不明だが、入選作を短冊に墨書した展示そのものだった。
 子供の間違いは大人に起因していた。では大人の間違いは何に起因しているのか。答は一つではない。
 身近なところで兵庫県芸術文化協会に友の会ニュースとして「すずかけ」がある。毎年「ふれあいの祭典・短歌祭」の入選作が紹介されているらしい。平成十七年二月号の記事を見ると、これが短冊短歌である。平成十八年は協会のサイトを見ただけであるが、やはり短冊短歌である。ところがこれををさかのぼると平成十六年以前は一行なのである。始めよければ、とはいかないらしい。平成十九年はどうなるのか。期待しているのであるが現時点では更新されていない。また先の講評の中で市の広報誌を例にとって話すと、そうだそうだ私の市も短冊だった、私の町も短冊だった、そんな声が返ってきた。いずれも身近な媒体だけに影響は大きい。
 もう一つ、同志社女子大学が二〇〇二年度から「SEITO百人一首」という短歌コンクールを実施している。こちらは二〇〇四年に出た『ピクルスの気持―高校生短歌の『こころ』―』を例外として通年の作品集は一行であった。
 こう書くと、あるいは言うだろう。編集の問題に過ぎない、短冊を模したものだから第三者がとやかくいうのは大人げない、と。しかし実作への影響はどうなのか。歌には初句切れ、二句切れ、三句切れ、四句切れ、句切れのない歌とあるが、そのうち三句切れのみを誘導し、また句跨りや句割れを封印する。結果的に一行の歌が秘め持つ豊かな可能性を奪うことになりはしないか。そのことが心配なのである。
 去年の秋、短歌祭が終わったあとになるが、取材で高知県香美市を訪れた。吉井勇が隠棲した渓鬼荘が保存され、記念館も建っている。そこで吉井勇の短冊と対面した。すると違うのである。二行に折り返して一字も下げていない。ところが、達筆の読めない来館者の便宜を図ってのことであろう、
活字の短冊が添えてある。こちらは二行目が四、五桝分は落とされていた。根の深さは全国区であった。
 また別件で歌道普及会編『新派和歌入門』(東盛堂)を手にすることがあった。大正六年の刊行であるが、これを見て驚いた。近代歌人の作品が軒並み短冊短歌なのだ。吉井勇然り。北原白秋然り。若山牧水然り。石川啄木も例外ではない。こうなると冒涜以外の何ものでもないだろう。

     三

 そも短冊の書き方はどうなっているのか。
 色紙を書くときに参考にしたのは落合直文編『新撰歌典』(博文館)であった。この本の「短冊書体」を見ると男と女で違っている。題と名は省略する。歌は二行で右が上句、左が下句、ここまでは短冊短歌と同じである。違っているのは左の書きだしである。男はそのまま書きだし、女は「一字さげて、書くこと、常のことなり」とある。大正七年に出た弥富賓水の『短冊物がたり』(磯部甲陽堂)の「短冊の書方」では上句と下句の頭が揃うのは当然のこととして触れない。これは図で示して、墨次ぎ、下端の空き、上下句の頭に漢字が並ぶことの是非などに費やしている。また「昔は婦人の短冊としては、多くは第二行の頭字を少し下げて、署名を裏面にするといふ事になつて居た」の前に「公式の懐紙の書式は男子と違ふやうに規定されてある、元来短冊は私の内々的のものである故でもあらうか、短冊の方には其の区別を規定せぬ」を置いて『新撰歌典』よりも詳しくなっている。
 昭和三十年に朝日新聞社から『短冊覚え書』を出した多賀博は略歴を見ると朝日新聞社友、短冊研究会を結成、雑誌「短冊」を主宰とある。短冊の専門家である。この本によると「懐紙を十文字に四つに切ったものが色紙で、短冊は、その後になって懐紙をさらに縦に八等分したものといわれる。懐紙は平安朝のころすでに存在していて、これが色紙と短冊の母体になっている、という説が一般に信じられている」。また「色紙の寸法を定めて、これを完成したのは定家とされており、その曾孫の為世が今度は短冊をつくり出したわけで、これは鎌倉末期とみられ、その間かれこれ百五十年を経ている。つまり短冊は色紙におくれること百五十年の弟分ということになる」らしい。通説であろう。次は書式である。

   まず短冊を三等分に折ってみて上部三分の一の折目あ  たりの高さから筆をおろして書きはじめ、三句目で一回  目の墨を継ぐ。そして四句目から行を改めて、一行目の  初句と肩を並べて書いてゆき、五句目で二回目の墨をつ  いで、そのまま最後の署名まで一気にかきあげてしまう。

 これを「三つ折り半字がかり」と呼ぶらしい。但し「それにしたがって書く人など昨今はほとんどない」とある。
 昭和五十四年に出版された和歌文学会編『和歌文学の世界・第四集』(笠間書院)に収録されている春名好重の『短冊の成立と書式』にも目を通しておきたい。これによるといくつかの説があるらしいが結論として「短冊は鎌倉時代の中ころから用いられたと考えられる」とある。また「短冊の書き方というと、三つ折り半字がかりといわれている。しかし、三つ折り半字がかりに書いた短冊はすくなくて、たいてい任意に書いている」ともある。気になるのは「題詠がすたれると、短冊に歌を書く場合、題を書かなくてもよい。そのため、現代の短冊は『三つ折り半字がかり』とは少し違う書き方で書かなければならない」のくだりである。
 短冊短歌と呼んだ奇妙な書式が実は広くなった料紙に起因するのであるならば、むしろ上句と下句の幻想から解放される好機とすべきではないのか。私はそう考えるのだ。

     四

 ついでだから『短冊の成立と書式』の「成立」の部分を、もう少し紹介しておきたい。すなわち「貴族階級が栄えていた平安時代及び鎌倉時代の初めまでは、作文会の漢詩、和歌会の和歌は檀紙の懐紙に書いた。しかし、平安時代の末以後、貴族階級が衰運に傾くと、檀紙のかわりに杉原紙を用いてもよいことになった」、さらに「承久の乱の後、貴族階級はいっそう衰えた。そのため『はれ』の場合はやはり檀紙あるいは杉原紙の懐紙を用いたが、『け』の場合には杉原紙を切って短冊を作り、短冊に書くようになった」。したがって「中世の短冊は、懐紙のかわりに用いられたのであり、また、倹約のために用いられたのであるから、白紙がそのまま用いられた。そして、裏打ちをしないばかりでなく、装飾も施さなかった」とある。短冊のイメージには落差がある。
 多賀博によれば美術的に最も優美な短冊は桃山期のものであり、次いで元禄期のものらしい。そして元禄短冊の模様は貧乏な公卿の内職であったらしい。もっと悲惨なのは戦国時代を生きた後奈良天皇で「帝はお手許が苦しいままに御製の宸筆短冊をひそかに市中でお売りになったと伝えられる」とある。料紙も一般民間歌人と同じ粗末さであったらしい。
 こうしてみると曲水の宴で貴族が短冊にさらさらと一首というのは時代考証の面で問題がありそうである。
 さて所期した目的にたどり着いたらしい。それは『短冊の成立と書式』の終わりの部分「昔の短冊はたいてい和歌の詠進に用いられたもので、『読む短冊』であったが、現在の短冊は『見る短冊』に変っている」にも呼応するだろう。
 私が短冊短歌に頑ななのは作品のオリジナリティに対するこだわりがある。応募原稿の変型二行を一行に改変するにはためらいがある。かといって丸飲みする気にはなれない。いや、それ以上に「見る短冊」が文芸の領域を侵犯していることに対する抗議の思いが底流しているのである。

短冊の実例集
岡井隆

夕餉(ゆふがれひ) をはりたるのち自(し)が部屋にこもりたれども夜更(よふ)けて逢ひぬ

【出典】
日本近代文学館編『恋うたの現在』(角川書店)

[注]
少し見にくいですが一行目は四句の三文字目、「こもり」で折り返しています。
二行目の文字もほぼ同じ高さです。
 e-短冊ドットコム

短冊のオンライン販売のサイトです。論より証拠。ホンモノを見て目を養ってください。 
俵万智

思い出の一つのようでそのままらしておく麦わら帽子のへこみ

【出典】
日本近代文学館編『恋うたの現在』(角川書店)

[注]
はっきりと見えます。一行目は四句の四字目「しておく」で折り返しています。
二行目の文字も同じ高さとなつています。
 平安人物志短冊帖

日文研のデータベースです。似非歌人、似非歌誌に注意しましょう。 
ほかに一行書きの短冊もあります。色紙に比べると面責が狭いため、工夫の余地は限られていますが、参考になります。
万葉集は丈夫振、平安遷都以後は手弱女振と云われます。また前者は五七調、後者は七五調とも云われます。短冊の右に上の句、左に下の句というのはバランスの問題ではありません。七五調の帰結なのです。あるいは歌の主題となる体言の多く集まる位置を基に万葉集を上実、古今和歌集を中実、新古今和歌集を下実と呼ぶこともあるようです。
それぞれの時代にそれぞれの特色があるのです。
一律の書き方を要求する短冊は、万葉集の歌を短歌、平安遷都以後の歌を和歌と呼ぶならば和歌の末裔において用いられたものでした。

伝統的な書式に従うのも結構ですし、岡井隆や俵万智の書き方に倣うのも自由です。後者が注目されるのは、現代歌人にとっても受け入れやすいスタイルです、したがって今後の主流になる可能性があるからです。

それにつけても、と云っておきましょう。明治以降、非短歌界において定着した二行目を極端に落とした書き方だけは願い下げにしたいものです。
特に実作を前提に云うならば間違いなく「百害あって一利なし」であることを強調しておかなればなりません。
参考 
 狂歌を五句三十一音詩史に回収す.る 狂歌逍遙録
句またがりの来歴   私の五句三十一音詩史  文語と口語 
歌の円寂するとき  字余りからの鳥瞰図〜土屋文明『山谷集』〜   夫木和歌抄と狂歌 
 文語体と口語体  近代短歌と機知  狂歌とは何か〜上方狂歌を中心として〜 
狂歌と歌謡〜鯛屋貞柳とその前後の時代〜  談林俳諧と近代語〜もしくは古代語からの離脱一覧〜  用語論〜鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない〜  
 用語論〜矮小化された近世の狂歌すなわち「上方狂歌」の名称について〜 一本亭芙蓉花〜人と作品〜  一本亭芙蓉花〜その失われた風景〜 
仙人掌上玉芙蓉  近世の狂歌〜ターミナルとしての鯛屋貞柳〜  インタビュー「短歌人」   
 用語論〜文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ〜 口語歌、口語短歌は近代の用語。今は現代語短歌なのだ     
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