辞世「みそひともじ」集by吉岡生夫

ご  案  内
吉岡生夫の本 辞世の風景日本図書館協会選定図書 平成15年3月23日のBS−2「週刊ブックレビュー」で道浦母都子氏「おすすめの一冊」として紹介されました。
※『辞世の風景』(和泉書院)のほかに佐佐木幸綱・復本一郎=編『名歌名句辞典』(三省堂)「辞世の歌」を執筆しています。
「短歌人」(平成20年4月号)に「贈答歌再発見〜辞世の場合〜」を執筆しました。
「短歌人」(平成21年1月号)に「辞世あれこれ」を執筆しました。

辞世「みそひともじ」集のキャッチフレーズは「一次資料の明示」、検証可能な辞世集をめざしてゆっくりと熟成増幅します

時代区分 氏  名 生没年 辞            世 出   典 参   考
大和時代 豊玉毘売命 赤玉は緒さへ光れど白玉の君が装し貴くありけり 古事記 異類婚
弟橘比売命 さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも 古事記 (倭建命)
(乞丐) 斑鳩の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ 日本霊異記 (聖徳太子)
有馬皇子 640〜658 磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまたかへりみむ 万葉集
大津皇子 663〜686 ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
柿本人麻呂 生没年不詳 鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
荒波に寄り来る玉を枕に置き我ここにありと誰か告げけむ 代作
奈良時代 大伴君熊凝 713〜731 たらちしの母が目見ずておほほしくいづち向きてか我が別るらむ 代作
常知らぬ道の長手をくれくれといかにか行かむ糧(かりて)はなしに
家にありて母が取り見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも
出でて行きし日を数へつつ今日今日と我を待たすらむ父母らはも
一世には二度見えぬ父母を置きてや長く我が別れなむ
山上憶良 660〜733? 士(をのこ)やも空しくあるべき万代(よろづよ)に語の継ぐべき名は立てずして
平安時代 石上麿足 かひはかくありけるものをわびはてて死ぬる命をすくひゆはせぬ 竹取物語
かぐや姫 今はとて天の羽衣着るをりぞ君をあはれと思ひいでける 不死、富士
(女) あひ思はで離(か)れぬる人をとどめかねわが身は今ぞ消えはてぬめる 伊勢物語 岩に血書
むかし、男 つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを 古今&大和
(男) 大原やせがゐの水をむすびつつあくやと問ひし人はいづらは (異)
閑院の五の御子 かずかずに我を忘れぬものならば山の霞をあはれとは見よ 古今和歌集
(女) 声をだに聞かで別るる魂(たま)よりもなき床に寝む君ぞかなしき
藤原惟幹   ?〜? 露をなどあたなるものと思ひけむわが身も草に置かぬばかりを
藤原季縄   ?〜919 くやしくぞのちにあはむと契りける今日をかぎりといはましものを 大和物語
酒井人真   ?〜917 ゆく人はそのかみ来(こ)むといふものを心ぼそしや今日のわかれは
橘公平女   ?〜? 長けくも頼みけるかな世の中を袖になみだのかかる身をもて
在原滋春   ?〜? かりそめのゆきかひぢとぞ思ひしをいまはかぎりの門出なりける 古今集
(女) すみわびぬわが身投げてむ津の国の生田の川は名のみなりけり をとめ塚
(女) 龍田川岩根をさしてゆく水のゆくへも知らぬわがごとやなく
(女) あさか山影さへ見ゆる山の井のあさくは人を思ふものかは
幸寿丸 君がため命にかはる後の世の闇をば照らせ山の端の月 舞「満仲」
菅原道真 845〜903 東風(こち)吹かばにほひをこせよ梅花(むめのはな)主(あるじ)なしとて春を忘るな 拾遺和歌集 大鏡
紀貫之 866?〜945? 手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ
藤原定子 977〜1000 夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき 後拾遺和歌集 栄花物語
知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくもいそぎ立つかな
煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれと眺めよ
(読人不知) 問へかしないくよもあらじ露の身もしばしも言の葉にやかかると 後拾遺和歌集 今昔物語集
(読人不知) 露の身の消えもはてなば夏草の母いかにしてあらんとすらん 金葉和歌集
田口重如 くさの葉に門出はしたり時鳥しでの山路もかくやつゆけき
弛みなく心をかくる弥陀仏ひとやりならぬ誓たがふな
藤原道信 972〜994 くちなしの園にやわが身入りにけむ思ふことをもいはでやみぬる 千載和歌集
贈皇后以子 1076〜1103 胸にみつ思ひをだにも晴るかさで煙とならむ事ぞかなしき
鳥羽院 1103〜1156 つねよりもむつましき哉ほととぎす死出の山路の友と思へば
源義経 1159〜1189 後の世も又後の世もめぐりあへ染む紫の雲の上まで 舞「高館」 義経記
弁慶 〜1189 六道の衢の末に待(つ)ぞ君遅れ先立(つ)習ひありとも
鎌倉時代 曽我助成 1172〜1193 今日出でて又も逢はずは小車のこのはのうちになしと知れ君 舞「小袖曽我」
曽我時宗 1174〜1193 秩父山おろす嵐の烈しきにこのみ散りなばははいかがせん
源実朝 1192〜1219 出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よわれをわするな 吾妻鏡
崇徳院 1119〜1164 夢の世になれこしちぎりくちずしてさめん朝にあふこともがな 玉葉集
南北朝時代
室町時代 浄瑠璃姫 あづまよりふきくる風の物いはばとはん物かは君のことのはを 浄瑠璃御前物語 浄瑠璃の起源
遊佐長直 ?〜1493 夢の世は六十よ六道芝の露と我が身のけふぞきえぬる 金言和歌集 正覚寺合戦
安土桃山時代 石田朝成 ?〜1600 気にさそなにしに心はいそかるるかたふく月も今はいとはし 多賀博『短冊覚え書』 血染めの短冊
江戸時代  (ある人) けさまてはもしかもしかと思ひしにいまこそしぬれこれいかな事 新撰狂歌集 :元和頃
堀江頼純 (古浄瑠璃) 連れて行く習ひなりせば死出の山闇路を迷ふ事はあらじな ほり江巻双紙 夢の辞世
寛永頃?
姫君 連れて行く習ひなくとも死出の山暗き闇路を共に迷はむ
又太夫 来世にて又太夫とやなりぬべき死ぬる時にも目こそまひまひ 古今夷曲集 大坂の舞太夫
本因坊算妙 1558〜1623 碁なりせはこうをたてても生べきに死ぬる道には手もなかりけり 碁打
宗朋 ほつくりと死なは脇より火を付てあとはいかいになして給はれ 俳諧師
山崎宗鑑 宗鑑はどちへと人のとふならばちとようありてあのよへといへ
良忠 今日よりは算用いらず人間の八く七十二にて皆済 享年七十二
(読人しらす) 月日くれ身はふる桶の底ぬけぬわがあらはこそゆひもなをさめ 桶工
治貞 我死なば酒屋の瓶のしたにをけわれてこぼれて若かかるかに
休甫 我よはひとはば鐘木杖(しもくづえ)かねはもたでも南無あみた仏 享年六十三
一休 1394〜1481 かりをきし五つの物を四かへし本来空に今ぞ趣むく 地水火風
愛護若 (説経節) 神蔵(かみくら)や霧降(きりう)が滝へ身を投ぐる語り伝へよ杉の叢立(むらだ)ち 愛護若 寛文、血書
田辺吉長 (古浄瑠璃) 儚しや徒(あだ)し桜の花に置く露もろともに消えてゆく身は 一心二河白道 寛文、未遂
一本亭芙蓉花  1721〜1783  いつまでもきのふは人の身の上と我身のうへは思はざりけり  墓碑刻 
明治時代
大正時代
昭和時代
平成時代
「辞世の歌」(三省堂『名歌名句辞典』)
 辞世も、残す人、伝える人、それを左右する時代と場、なかなか一様ではない。

  出でていなば主(ぬし)なき宿と成りぬとも軒端(のきば)の梅よ春をわするな 源実朝

 実朝は建保七年(一二一九)一月二十七日、右大臣拝賀のために参詣した鶴岡八幡宮で暗殺されるが、その日「禁忌(きんき)の和歌を詠じたまふ」として『吾妻鏡』に出てくる。但し家集『金槐和歌集』には収録されていない。

  カカルトキサコソ命ノ惜シカラメカネテ無キ身ト思ヒ知ラズバ  太田道灌

 『相州兵乱記』では体に刺さった槍を手にしての大見得の印象がする。ただ同じ作品でも道灌の家集といわれる『慕景集』では戦死した敵を悼む歌として登場している。

  昨日迄まくまうさうを入れ置きしへんなし袋今やぶりけり

 右は『室町殿日記』の伝える辞世。『太田資武書状』では「当家滅亡」が最後の言葉だった。当家とは道灌を謀殺した主家を指す。

  おもひおく言の葉なくてつひに行く道は迷はじなるにまかせて     黒田如水

 出典は『黒田家譜』。慶長九年(一六〇四)、如水五十九歳の三月に病に臥し、同月二十日に死去。病中での作である。場所には触れていない。城内を連想するが『寛政重修諸家譜』は「伏見において卒す」と明記する。

  風さそふ花よりも猶我はまた春の名残をいかにとかせん        浅野長矩

 出典は『多門(おかど)伝八郎筆記』。元禄十四年(一七〇一)三月十四日、内匠頭の最後に立ち会った御目付当番の記録である。しかし身柄を預けられた田村家を始めとして外に辞世の記録がないことから偽書との説がある。

  今よりははかなき身とはなげかじよ千代のすみかをもとめえつれば   本居宣長

 『鈴屋集』に「山室の山の上に墓どころをさだめてかねてしるしをたておくとて」として「山むろにちとせの春の宿しめて風にしられぬ花をこそ見め」と並ぶ。辞世であろう。しかし『玉くしげ』に「辞世などいひて、ことごとしく悟りきはめたるさまの詞(ことば)を遺しなどするは、皆これ大きなる偽(いつわり)のつくり言(こと)」とあり宣長公認とはいかないようだ。山室山行きは寛政十二年(一八〇〇)九月、死は翌年の九月、墓の後に山桜が植わっている。

  ほととぎす鳴きつるかた身はつ鰹春と夏との入相のかね        大田南畝

 右は『大田南畝全集』第十八巻中「文政六年、南畝絶筆」の一首。一八二三年、南畝七十五歳。『甲子夜話』は「生き過ぎて七十五年食ひつぶし限り知られぬ天地(あめつち)の恩」を辞世として伝えるが、玉林晴朗の『蜀山人の研究』によると、これは旧作から年令部分だけを改めたものらしい。絶筆の詩歌を書いた二日後の四月六日に没。新暦なら五月である。

  世の中の役をのがれてもとのままかへすぞあめとつちの人形  曲亭馬琴

 出典は『著作堂雑記抄』。天保十四年(一八四三)の春に大病をした折の作らしい。ところが「余命ありていまだ死なず、人の生前に建る墓を壽蔵といへば、この拙詠も壽世といふべしとて自笑したりき」とある。実際の死は五年後の嘉永元年(一八四八)だった。

  なよ竹の風に任する身ながらもたわまぬふしは有とこそきけ   西郷千重子

 出典は会津藩家老西郷頼母の『栖雲記』。慶応四年(一八六八)八月二十三日、政府軍の迫る頼母出陣中の屋敷で妻の千重子や母、妹、娘ほか親戚を含めて二十一人が自決した。右は、その際の歌。十三歳の娘の上句「手をとりて共に行きなば迷はじよ」に対して十六歳の姉は「いざたどらまし死出の山道」と付けている。明治改元は九月八日であった。

  池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨ふりしきる       伊藤左千夫

 『左千夫歌集』の「藤」五首中の一首。しかし左千夫の辞世ではない。昭和二十三年(一九四八)に太宰治は入水自殺するが、そのときに伊馬春部に残した色紙「録左千夫歌」、こうなると「辞世」である。伊馬は同時に『斜陽』の元となった日記も託された。エッセイ「斜陽ノートのこと」に詳しい。
 辞世が伝誦されていく背景には、その人の死を、あるいは生を荘厳(しょうごん)しようという気持が働いている。辞世は時代の勿忘草なのだ。
「贈答歌再発見〜辞世の場合〜」(「短歌人」平成20年4月号)
  それぞ辞世去るほどに扨もそののちに残る桜が花しにほはば   近松門左衛門

 小学館の『近松門左衛門 一』(日本古典文学全集44)の口絵に「近松画像辞世文」のカラー写真と翻刻、それに解説が掲載されている。二句と三句は浄瑠璃の決まり文句、四句の「残る桜」は桜の木に彫られた浄瑠璃正本。結句は仮定条件、これに〈のこれとはおもふもおろかうづみ火のけぬまあだなるくち木がきして〉と続くが充足感は誰の目にも明らかで心地よい。私の残した作品、私の残した仕事、それが私の辞世なのだ。こんなことを言える人生はめったとないだろう。
 ところで近松が十九歳のときに刊行された『後撰夷曲集』(一六七二年)に〈上るりのふしぶしとなる中々にさてもそののちあはぬ君哉〉という歌がある。題は「被忘恋」、作者は一幸、注記して「浄瑠璃詞」とある。これによって近松の辞世の出所が狂歌であることがわかる。『後撰夷曲集』は、ほかに「木遣詞」「謡詞」「小歌詞」「狂言詞」「童口遊詞」「下女詞」「奴子詞」「草紙詞」といった多くの「詞」を試みている。うち「奴子詞」は六方詞、六方詞で有名な辞世に山中源左衛門の〈わんざくれふんばるべいかけふばかりあすはからすがかつかじるべい〉(『増訂武江年表』)がある。意味は「えい、ままよ。今日ばかりは、男の晴れ舞台だ、踏んばって見せまいか。明日になったらカラスが突っついている俺の体なのだ」。内向しない。どこまでも視線は世の中つまり明日も生きている人たちを睥睨してやまない。これまた和歌の流れでないこと明白である。
 ここまでを平凡社ライブラリー『日本語の歴史』(全七巻)、山口仲美著『日本語の歴史』(岩波新書)、安田純生著『現代短歌のことば』(邑書林)で得た知識を基にして、私の考えを述べると次のようになる。
 平仮名が生まれた平安時代は話し言葉と書き言葉はほぼ同じであった。いわば言文一致の時代である。しかし時代が下がると両者は乖離していく、言文二途である。これを五句三十一音詩に即していえば、出発点である平安時代の言語体系を志向するのが文語体、保守的な書き言葉に対して変化する話し言葉に依拠するのが口語体ということになる。そして和歌に束縛されない狂歌には文語も、口語も、文語と口語の混用もあった。日本語の歴史で言えば近代語の時代、政治を中心にした歴史で言えば江戸時代である。
 しかし近代短歌は狂歌を継承しなかった。その封印された狂歌の世界を今少しテーマに沿って散策してみよう。ちなみに安田純生は「江戸時代の正統的な和歌より狂歌のほうが、いっそう現代短歌と近い関係にある」(邑書林『現代短歌用語考』)と指摘している。

  来世にて又太夫とやなりぬべき死ぬる時にもめこそまひまひ    『古今夷曲集』
  碁なりせばこうをたてても生くべきに死ぬる道には手もなかりけり
  ほつくりと死なは脇より火を付けてあとはいかいになして給はれ
  親もなし子もなし跡に銭もなしからだ斗はからりちん也        『後撰夷曲集』

 三首目までは『古今夷曲集』。その一首目、題詞に「大坂に又太夫といふ舞太夫ありしが臨終によみ侍る歌」とある。太夫は遊女にとって最高位の称、又太夫はその名、舞太夫は踊りに優れた太夫に与えられた称、したがって二句の「又」には「再び」の意味の「また」を掛ける。結句の「目こそ眩ひ眩ひ」は「目こそ舞ひ舞ひ」を掛けるのだろう。臨終の席を囲む人たちへの挨拶である。生まれ変わっても私は太夫になるに違いないよ。こうして死んでいくときにも目だけは舞っているのだからね、といったところか。二首目は題詞に「臨終に碁打ちなりければ」、作者は算砂。「作者之目録」に本因坊とある。これによって本因坊算砂(一五五八〜一六二三)であることが知れる。二句の「こう(劫)」は「囲碁で、交互に相手方の一石を取ることができる形。これを反復すると勝負がつかないため、一手以上他に打ったあとでなければ取れない」(大辞林)というルールである。さすがは本因坊家の始祖、最初の名人碁所である。自分が何者として死んでいくか、何者として記憶されるか、それを十二分に意識した作である。三首目は題詞に「俳諧師なれば臨終に」、作者は宗朋。俳諧師として生き、俳諧師として死んでいくことを選んだ人の作である。初句の「ほつくりと」に「発句」を隠す。二句の「脇」は「脇句」、問題は四句だが「俳諧」の同音異義語が思い浮かばない。もしかしたら「俳」に「灰」だけかもわからない。苦吟したものやら、筐底に仕舞い置いたものやら、作品の背景は伝わらない。幸いであろう。四首目は『後撰夷曲集』。題は「辞世」、作者は成安。結句の「からりちん」は「ちんからり」(中がからっぽのさま)に同じ、初句から三句まで「なし」を重ねて、四句と五句で頭韻を踏んだ。亡骸という体を残すが「よしなに」そんなところだろう。「ちん」は仏具の「りん」の音。林子平(一七三八〜一七九三)の〈親も無し妻無し子無し版木無し金も無けれど死にたくも無し〉(平凡社『日本人名大事典』)に先行する歌である。

  百居てもおなじ浮き世に同じ花月はまんまる雪は白妙       由縁斎貞柳
  知るしらぬ人を狂歌に笑はせしその返報に泣いて給はれ        紀海音

 一首目、由縁斎または油煙斎すなわち鯛屋貞柳(一六五四〜一七三四)の辞世である。百人いても、百人が見る月は同じまん丸だし、雪は白い。同じ浮き世の同じ花なのだ。かくいう私は齢八十、百まで生きたとしても丸くない月を仰ぐわけではない、白くない雪に降られるわけでもない。そろそろこのあたりでお暇しましょう、といったところか。出典は永田貞竹編『置みやげ』(遺歌集。先の『古今夷曲集』『後撰夷曲集』とも『狂歌大観』で見ることができる)。二首目は『置みやげ』に序文を寄せた弟、紀海音(一六六三〜一七四二)の歌、実際は順序が逆である。近松に対抗した浄瑠璃作者であった。
 最後は古代語の時代に取材した。

  夢の世になれこしちぎりくちずしてさめん朝にあふこともがな     崇徳院
  さきだたむ人はたがひに尋ね見よ蓮のうへにさとりひらけて     藤原俊成

 俊成の家集『長秋詠藻』に長歌と反歌、それぞれの作が載る。うち一首目は「讃岐国にてかくれさせ給ふとて、皇太后宮太夫俊成に見せよとてかきおこせたまひける」という題詞で『玉葉集』に載る。崇徳院(一一一九〜一一六四)から俊成(一一一四〜一二〇四)へ、たった一人のための辞世である。「夢の世」は此岸、「さめん朝」は彼岸、昔のように会えたらいいなあ。「折紙に御宸筆」だった。二首目は、後から行く私を院も捜してください、蓮の上で悟りを開かれているでしょうから。保元の乱に破れ、配所において悶死、ために怨霊として恐れられた崇徳院の、歌を縁とした偽らざる真情であった。

参考にどうぞ
ブログ「狂歌徒然草」
「辞世あれこれ」(「短歌人」平成21年1月号)
     一、暴走する辞世
 荻生待也編著『辞世千人一首』(柏書房)という本がある。「目次」の前に「本書の効用」欄があって最初に「辞世詠の総合資料・史料」であることを謳っている。曰く「古今の和歌辞世一〇〇〇人・一〇〇〇首を集成したのは、本書が初めてです」また「内容の面で、一時期(太平洋戦争末期)を例外に、わが国の過去における著名人が詠み遺した、大方の和歌辞世を網羅してあります。したがって、和歌辞世に関する総合資史料として活用していただけます」とある。もしそうであるなら画期的な一冊である。座右の書にしているという人の話も聞いた。しかし実際に手に取ると首を傾げることが多い。
 第一章は大和時代である。取り上げられているのは日本武尊、弟橘媛、忍熊王、木梨軽皇子、大葉子、有馬皇子、柿本人麻呂、大津皇子、柿本躬都良麿の九人である。最後の柿本躬都良麿(かきのもとみづらまろ)という人物は知らない。この本によると「歌人・廷臣で、人麻呂の子。朱鳥三年(六八八)ごろ隠岐に流人中に客死、享年二十一」。脚注欄に「謀反の容疑を受けた大津皇子の関係者として連座の罪に服し、隠岐島へ流された」ある。人麻呂が妻を亡くしたときの長歌に「我妹子が形見に置けるみどり子の乞ひ泣くごとに」(『万葉集』二一〇)があって子供の存在自体は不思議でない。しかしその後の消息については正史ではない。稗史であろう。ところが出典が示されていない。一括して「参考文献・出典」があるが、これでは用を足さない。「編集要領」に「人物レファレンスは最低限の紹介にとどめてあります。必要に応じ、人物事典や関連文献などを参照してください」また「補注下欄はあくまでも補遺的に設けたものです。説明の不十分な点は、史書などにより補ってください」とある。要するに「免責事項」というわけだ。では柿本躬都良麿の辞世を見てみよう。

  あふことも身はいたつきに沖の島さらばと告げよわたる雁がね

 二句の「いたつき」は病気と骨折りの両意を含むのだろう。気になるのは四句の「さらば」である。『日本国語大辞典』(小学館)によると「さらば」には接続詞としての@願望の仮定条件(それならば)A逆態の確定条件(しかし)と感動詞としてのB別れの挨拶の意味がある。中古では@が中心、AやBが多くなるのは中世以降らしい。また結句「わたるかりかね」を日文研の和歌データーベースで検索すると三十一件、いずれも鎌倉時代以降の作品である。人物を含めて後世の創作だろう(だから駄目だといっているわけではない)。
 もう一人、大葉子の場合も見ておきたい。

  から国の城(き)の辺に立ちて大葉子は領巾(ひれ)を振らすも日本(やまと)へ向きて

 脚注に「新羅討伐に夫と従軍した女傑だが、現地で捕らえられ処刑される前に詠んだ」とある。これも初耳である。正史である宇治谷孟著『日本書紀(下)全現代語訳』(講談社学術文庫)では「捕虜にされた調吉(つきのき)士伊企(しいき)儺(な)は、人となりが猛烈で最後まで降服しなかった。新羅の闘将は、刀を抜いて斬ろうとした。無理に褌(はかま)をぬがせて、尻を丸出しにし、日本の方へ向けさせて大声で、『日本の大将、わが尻を喰(くら)え』と言わせようとした。すると叫んで言った。『新羅の王、わが尻を喰え』と。責めさいなまれても前の如く叫んだ。そして殺された。その子の舅子(おじこ)も、また父の屍を抱いて死んだ。伊企儺(いきな)の言葉を奪えぬことこのようであった。諸将もこれを惜しんだ。その妻の大葉子も、また捕虜にされていたが、悲しみ歌って、/カラクニノ、キノヘニタチテ、オホバコハ、ヒレフラスモ、ヤマトヘムキテ。/ある人がこれに和して歌った。/カラクニノ、キノヘニタタシ、オホバコハ、ヒレフラスミユ、ナニハヘムキテ」と、ここまでなのだ。あとの「処刑」が何に拠ったのか不明なのだ。あるいは想像力で補ったか。
 もう一つ、柿本人麻呂の辞世は〈鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ〉(『万葉集』二二三)である。しかし「他の遺詠に」として挙げる〈石見のや高角山の木の間よりうき世の月を見はてつるかな〉は、どこから持ってきたのか。『日本国語大辞典』の語誌によれば「憂き世(浮き世)」は平安以降の言葉である。
 どうやら『辞世千人一首』の著者は一次資料ではなく、二次資料によって千首を採集したのではないか。そう思われる節がある。
     二、情報の共有
 辞世は風船のようなものだ。糸の先を放すと、どこに飛んでいくかわからない。二次資料つまり加工された資料の怖さがそこにある。
 『辞世千人一首』に刺激されて私も辞世の採集を始めた。小学館の『日本古典文学全集』を第一巻から読み始めたのが切っ掛けである。キャッチフレーズは一次資料の明示、検証可能な辞世集とした。やがて中神守節の『歌林一枝』(風間書房『日本歌学大系』第九巻)を教えてくれる人があった。これで一度に六十余首を採集した。その整理また読書計画も現在では頓挫しているが諦めたわけではない。
 ともあれ大和時代から三首を抄出する。
  
  赤玉は緒さへ光れど白玉の君が装(よそひ)し貴くありけり
  鵤(いかるが)の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ
  荒波に寄り来る玉を枕に置き我ここにありと誰か告げけむ

 一首目の出典は『古事記』。四句の「君」は火遠理命(ほをりのみこと)(山さちびこ)、歌っているのは海(わた)の神の女(むすめ)豊玉毘売命(とよたまびめのみこと)、鰐の姿にもどって出産するところを覗かれた妻はそれを恨んで海にもどる。異類婚の破局は「な見たまひそ」から始まる、その第一号であろう。二首目の出典は『日本霊異記』、上巻の第四「聖徳皇太子の異(くす)しき表(しるし)を示したまひし縁」。凡人には賤しい人、しかし隠身(いんじん)と見た太子は病んだ乞丐(かたい)を自らの衣で覆う。その乞丐の骸が消えて後に残ったのが右の歌である。三首目の出典は『万葉集』(二二六)。題詞に「丹比真人(たぢひのまこと)、柿本朝臣人麻呂の心をあてはかりて、報(こた)ふる歌一首」とある。このように名前を名告っているうちは代作である。しかし悲運非業の死を遂げた人物に、花を飾るように一首を供え、無言で立ち去ったらどうだろうか。
     三、偽作
 浅野内匠頭の辞世は偽作だという説がある。『多門伝八郎筆記』(鍋田晶山『赤穂義人纂書一 赤穂義士資料大成』日本シェル出版)以外にその記録がないというのが主な理由である。たぶんそうだろう。そして偽作であっても少しも私は不名誉なことだとは思わない。
 多賀博は朝日新聞の学芸部長、中部支社長を務め、短冊研究会を主宰した人物であるが、その著『短冊覚え書』(朝日新聞社)の中で「忠臣蔵の短冊」を書いている。浅野内匠頭と吉良上野介について「前者はないが後者はたった二枚ある。/内匠頭は切腹のとき『風誘ふ花よりも猶われはまた……』の辞世を詠んだほどだから多少の歌はつくったであろうが、何分若くて切腹したから、まだ短冊をすらすら書くところまでは、年齢的に到着していなかったのだろう」という。吉良上野介は不人気が災いして残らなかったという推測をしている。
 真贋論争で忘れたくないのは生前における内匠頭の歌作の比較検討である。臨死の即詠が「風誘ふ」なのだ。とうてい初心者とは考えられない。ところが私は内匠頭の歌を他で見たことがないのである。
     四、辞世あれこれ
 柿本躬都良麿の出自が人麻呂信仰なのか、郷土愛その他に根ざしているのかは不明であるが、こと辞世に関していえば創作あり、借用あり、リライトあり、さまざまである。そのさまざまが不名誉にならないのは根底に死を荘厳したいという気持ちが働くからである。愛のないところに辞世は生まれない。可能性のある作品を次に挙げる。

  六道の道の衢に待てよ君後れ先立つ習ありとも
  契りあらば六(むつ)の巷(ちまた)にしばし待ておくれ先だつ事はありとも
  世の間の惜るる時散てこそ花も花なれ色も有りけれ
  ちりぬへき時しりてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ

 一首目は『義経記』(岩波書店『日本古典文学大系』第三十七巻)に載せる弁慶の辞世である。二首目は『常山紀談』(新人物往来社『定本 常山紀談』上巻)が伝える大谷義隆の辞世である。関ヶ原の戦いで討ち死にした。三首目は『中国兵乱記』(吉備群書集成刊行会『吉備群書集成第参輯(戦記部)』)が載せる備中高松城主、清水宗治の辞世である。秀吉の水攻めで開城、大返しの舞台となる。但し、家譜録では同じ舟で切腹した兄の辞世と入れ替わっている。四首目は『錦考輯録』巻十三(出水叢書『錦考輯録』第二巻)が伝える細川ガラシャの辞世である。但し、『常山紀談』(同前)は〈先だつはおなじ限りの命にもまさりて惜しき契とをしれ〉をガラシャの辞世とする。

  憂(うき)事もうれしきことも過ぬれはその時ほどはおもはさりけり
  うきこともうれしき折も過ぬればたたあけくれの夢計なる
  有漏路より無漏路へかへる一休雨ふらバふれ風ふかバふけ
  極楽へ越ゆる峠のひと休み蔦のいで湯に身をば清めて

 次は自作を疑わない例である。一首目は『醒睡笑』(吉川弘文館『日本随筆大成 第三期 四』)の中に西行作として登場するが辞世ではない。二首目は尾形乾山の墓碑に刻まれた辞世である。三首目は『一休はなし』(後出)に登場するが辞世ではない。四首目は大町桂月の辞世(日本図書センター『桂月全集』別巻下)である。
 こうした例を捉えて、あるいは次の一群を捉えて辞世の類型を云々する声は多い。しかし辞世は挨拶なのだ。月々発表される結社誌や商業誌の作品を批評するのとは性質が異なる。最もらしく聞こえる、その最もらしさが私は嫌いだ。歌人の立ち位置が問われるのである。

  風にちるつゆとなる身はいとはねどこころにかかる国の行くすゑ

 『歎涕和歌集』(岩波文庫)の一首である。王政復古の直後に起きた堺事件で切腹した土佐藩士、西村左平次(二十五歳)の辞世である。『歎涕和歌集』は慶応四年の刊行である。私が見ているのは岩波文庫から昭和十八年に出た初版二万部の一冊である。幕末と第二次世界大戦下、両時代の歌には共通するキーワードまた雰囲気がある。典型的なケースであるが、同時に思われるのは辞世に近づかない歌人と、辞世と聞くだけで御輿を担ぎやすい好事家の不幸な関係である。
     五、乱立する辞世
 インターネットで一休(一三九四〜一四八一)の辞世を検索すると立ち所に六首を採集できた。このうち『一休道歌 三十一文字の法の歌』(禅文化研究所)で確認できたのは二首に過ぎない。ちなみに『辞世千人一首』の挙げる〈極楽は十万億土とはるかなりとても行かれぬわらじ一足〉は『一休蜷川狂歌問答』に出るが辞世との註はない。

  借置し五つのものを四つかへし本来空にいまそもとづく
  死にはせぬどこへも行かぬここに居るたづねはするなものは云はぬぞ

 抄出は一首目が寛文八年(一六六八)刊の『一休咄』、二首目が大正二年(一九一三)刊の『一休道歌評釈』である。一次資料にこだわるならば『一休咄』は東京堂出版の『噺本大系』第三巻、『一休道歌評釈』は笈田長陵の著で開文館から出ている。ただ一休が一休としてブレイクするのは死後二百年近くが経過した『一休咄』に起因する。以後の一休ものが六十余点とあるから情報の氾濫はインターネット時代と変わらない。但し、『一休咄』にも「一休和尚の末期の句とて、世の人の口にまかせけるハ其数多し。是が実也、是は不実なりといふも不実也」云々とある。面目躍如というか一休は要注意なのだ。
     六、糸瓜の辞世
 これは人から聞いた話であるが、正岡子規は臨終の床で辞世三句を残した、しかし辞世そのものはそれ以前から出来ていたのだという。主治医が子規自身から聞いた話として書き残しているというのだ。残念ながら幻の一冊である。ただそれを伺わせる文章が次にある。

 兼々「自分が五六月頃に死んだらば方々から追悼句などゝ言ふて、 時鳥の句を沢山よこすであらうが、それはいやでたまらない。それ がいやだから成るべく夏の間に死にたくはない」などゝ話して居つ たが、何故子規の名にちなんだ時鳥の句を嫌ふかといふと、時鳥の 句といふのは、古来より発句中でも沢山句のある題で、己に仕方の ない程陳腐な題である。其陳腐な題では到底よい句は今日得られな いといふてもよい位であるに、まして追悼といふやうな更に作句の むつかしい条件をつけては、更によい句の出来やうがない。その悪 句が沢山出来るといふ事が子規子のいやで堪らないと言ふた所以で あつたのである。所が幸にして子規子はその厭ふて居つた夏も過ぎ、 丁度名月の前後になつて今度は愈々といふ覚悟をきめ、自らも亦た 其死期を知つたやうでもあつた(後に思へば)が、さらばと言ふて、 こゝで月の辞世でも作らうものなら、是亦た矢張時鳥に劣らぬ陳腐 な題であるから、其追悼句も亦た悪句が出来るものと見てもよい。 そこで人の思ひもよらぬ、又た形の雅な「糸瓜」を捕へて其辞世を 作つたのである。糸瓜の辞世といふ事が単に突飛なといふやうな事 ばかりでなく、又た其前庭に糸瓜の棚があつたといふ為めでもなく (それらも一原因であらうが)、実は種々錯綜した意味から糸瓜を 選んだのである。将に息を引取らんとする数時前に於ても、尚この 用意の存して居つたのは、真に驚くべき事と言はねばならぬ。

 河東碧梧桐の「糸瓜の辞世」(講談社『子規全集』別巻二の『回想の子規一』所収)の一節である。俳句革新という大事業の最後の仕上げが、あの奇跡ともいうべき糸瓜の辞世三句だったのである。
     七、近現代歌人の辞世
 『辞世千人一首』に登場する近現代歌人からピックアップする。

  佐保神の別れかなしも来ん春にふたたび逢はむわれならなくに
  今日もまたすぎし昔となりたらば並びて寝ねん西の武蔵野
  死ぬならば真夏の波止場あおむけにわが血怒濤となりゆく空に
  大いなる風より来たれる我なれば息引き取らるることを恐れず

 一首目は正岡子規、『竹の里歌』の明治三十四年「ゑひて筆を取りて」の一首である。明治三十五年没。二首目は与謝野晶子の辞世とあるが塩田良平・佐藤和夫編著『与謝野晶子全歌集総索引』(有朋堂)で調べても出てこない。三首目は寺山修司、第二歌集『血と麦』(昭和三十六年刊)の一首である。昭和五十八年没。四首目は高安国世、最終歌集『光の春』中「手術前」の一首である。昭和五十九年没。
 はたしてこれらは辞世であるか。逸話を含めて教えてもらいたいと思う。私は好事家に分類される一人であるが同時に歌人でもある。検証し、正しい姿を伝えていくのも重要な仕事と考えているからだ。


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