辞世の風景

    和泉書院/四六版・上製・カバー装・224頁/本体1,800円(税込み1,890円)

歌人・吉岡生夫が北海道から鹿児島まで百人の足跡を取材。神話時代の弟橘比売命から現代の江國滋まで、また武蔵坊弁慶や石川五右衛門・鼠小僧次郎吉など日本人の心象風景に棲みついた人物も見逃さない。辞世について一次資料を繙くときに顕われてくるもの、それはリライトや創作を含めて辞世が生まれ、あるいは生まれた辞世を人が人に伝えようとする場に立ち合うことでもある。脳内出血・阪神淡路大震災を経た後の著者入魂の一冊。

 旅に病て夢は枯野をかけ廻る                        芭蕉
 病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし   宮沢賢治

上記二作の他、神話時代から現代までの百人の辞世を収録。
一次資料と写真でたどる辞世の風景。死が生を鮮(あたら)しくする。

  目次/弟橘比売命有間皇子大津皇子柿本人麻呂山上憶良在原業平菅原道真阿倍晴明の母小松女院藤原定子源頼政平忠度平維盛二位尼弁慶西行源実朝菊池武時楠正行太田道灌鶴姫山崎宗鑑鳥居強右衛門別所長治武田勝頼の妻清水宗治小谷の方柴田勝家石川五右衛門蒲生氏郷豊臣秀吉細川ガラシャ黒田如水伊達政宗伊丹右京山中源左衛門乞食千子井原西鶴芭蕉浅野長矩大石良雄大高源五貝原益軒小西来山岩田涼菟近松門左衛門尾形乾山燕説羽川珍重平田靭負慶紀逸浮風加賀千代朱楽管江父と子手柄岡持田上菊舎十返舎一九鼠小僧次郎吉柳亭種彦英一珪伴信友長島寿阿弥曲亭馬琴葛飾北斎歌川広重吉田松陰高杉晋作河井継之助西郷千重子中野竹子貞心尼原田きぬ新門辰五郎大田垣蓮月稲妻雷五郎井月正岡子規尾崎紅葉三遊亭円朝山川登美子乃木希典有島武郎大町桂月芥川龍之助巖谷小波宮沢賢治木下尚江江口きち泉鏡花萩原朔太郎緒方襄阿南惟幾永井隆中勘助島秋人新田次郎荒畑寒村江國滋あとがき


 弟橘比売命(初出「栄根通信」十分の二号、平成11年6月28日)
 
さねさし相模(さがむ)の小野(をの)に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
                                    古事記


 景行天皇の条、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)で火難を脱した倭建命(やまとたけるのみこと)であるが東国征伐は終わっていない。
  其れより入り幸でまして、走水海(はしりみづのうみ)を渡りましし時、其の渡(わたり)の神浪(なみ)を興(おこ)し船を廻(めぐ)らして、得(え)進み渡りたまはざりき。爾に其の后(きさき)、名は弟橘比売命白したまはく、「妾(あれ)、御子(みこ)に易(かは)りて海に入らむ。御子は遣はさえし政(まつりごと)を遂げて覆(かへりごと)奏(まを)したまふべし」とまをしたまひて、海に入りまさむとする時、菅畳八重(すがだたみやへ)・皮畳(かはだだみ)八重・絁畳(きぬだたみ)八重を波の上に敷きて、其の上に下(お)り坐しき。是に其の暴浪(あらなみ)自(おのづか)ら伏(な)ぎて、御船(みふね)得(え)進みき。爾に其の后歌日(うた)ひたまはく、
    さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも
  とうたひたまひき。故、七日(なぬか)の後(のち)、其の后の御櫛(みくし)海辺(うみへ)に依りき。乃(すなは)ち其の櫛を取りて、御陵(みはか)を作りて治め置きき。
 人身御供としての入水である。同様の話が『日本書紀 上』(岩波書店、日本古典文学大系67)にあるが歌は登場しない。弟橘媛(おとたちばなひめ)の言葉として「今風起(かぜふ)き浪泌(なみはや)くして、王船(みふね)没(しづ)まむとす。是必(これふつく)に海神(わたつみ)の心(しわざ)なり。願(ねが)はくは賤(いや)しき妾(やつこ)が身(み)を、王(みこ)の命(おほみいのち)に贖(か)へて海(うみ)に入らむ」を伝えている。倭建命の悲しみを述べて『古事記』(小学館、日本古典文学全集1)は、
  悉に荒ぶる蝦夷等(えみしども)を言向け、亦山河の荒ぶる神等(ども)を平げ和(やは)して、還り上り幸でます時、足柄(あしがら)の坂本(さかもと)に至りて、御粮(みかれひ)食(を)す処(ところ)に、其の坂の神白き鹿(か)に化(な)りて来立(きた)ちき。爾に即(すなは)ち其の昨(く)ひ遺(のこ)したまひし蒜(ひる)の片端(かたはし)を以ちて待ち打ちたまへば、其の目に中(あた)りて乃ち打ち殺さえき。故、其の坂に登り立ちて、三歎(みたびなげ)かして、「あづまはや」と詔云(の)りたまひき。また『日本書紀』には「毎(つね)に弟橘媛を顧(しの)びたまふ情有(みこころま)します。故(かれ)、碓日嶺(うすひのみね)に登(のぼ)りて、東南(たつみのかた)を望(おせ)りて三(み)たび歎(なげ)きて日(のたま)はく、『吾嬬(あづま)はや』とのたまふ」とある。

 走水神社(はしりみずじんじや)(写真、神奈川県横須賀市)。
 祭神は倭建命と弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)(『日本書紀』では日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛)。最寄りの駅は京急本線馬堀海岸駅、そこから観音崎行きバスに乗って走水神社前下車。本殿への階段を上ると、左に弟橘比売命の歌碑がある。振り向くと海。
  「さねさし」の欠け一音のふかさゆゑ相模はあをき海原の国
   小池光歌集『日々の思い出」(雁書館)
 
 有間皇子(初出「栄根通信」十分の一号、平成11年4月?日) 
 
磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまたかへりみむ
                                    万葉集

 巻第二141(小学館、日本古典文学全集2)。題詞に「有間皇子、自(みづか)らを傷(いた)みて松が枝を結ぶ歌二首」とある。蘇我赤兄(そがのあかえ)の罠にはまって白浜に護送される途次の歌である。宇治谷孟著『日本書紀(下)全現代語訳』(講談社学術文庫)によると斉明天皇の三年九月「有間皇子は性さとく狂者をよそおったところがあったと、云々(しかじか)。/紀国(きのくに)の牟婁(むろ)の湯(白浜の湯)に行って、病気療養してきたように見せて、その国の様子をほめ、『ただその場所を見ただけで、病気は自然に治ってしまいます」と、云々。天皇はこれを聞かれ喜んで、自らも行ってみたいと思われた」。四年十月十五日、紀の湯に行幸。十一月三日、留守を守る赤兄の甘言、有間皇子それにのる。五日夜中に赤兄が「有間皇子の市経(いちぶ)(生駒町一分)の家を囲んだ。そして早馬を遣わして天皇のところへ奏上した」。九日、有間皇子は紀の湯に送られた。「皇太子(中大兄皇子)は自ら有間皇子に問われて、『どんな理由で謀反を図ったのか』といわれた。答えて申されるのに、『天と赤兄が知っているでしょう。私は全く分かりません』といわれた」。十一日「有間皇子を藤白坂で絞首にした。この日、塩屋連鯯魚(しおやのむらじこのしろ)・舎人(とねり)の新田部連米麻呂(にいたべのこめまろ)を藤白坂で斬った」。ほか二名を流罪。蘇我赤兄。後に大臣となり娘は天智天皇との間に山辺皇女(やまべのひめみこ)を生んでいる。あと一首ひく。
  家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
                                (巻第二142)
 乱暴な話だが、鉄道換算すると生駒・鶴橋・天王寺・白浜経由の往路が一八七キロ、白浜から藤白口のある海南までの帰路が九五・一キロ、馬を使ったにせよ二泊三日で二八二・一キロは旅という印象からは遠い。詮議も形式的なものだったのだろう。海南は岩代を過ぎて七〇・九キロ。後世、結び松を見た長忌寸奥麻呂(ながのいみおきまろ)が歌っている。
  磐代(いはしろ)の崖(きし)の松が枝(え)結びけむ人はかへりてまた見けむかも
                                  (巻第二143)

 有間皇子(ありまのみこ)(六四〇~六五八)
 写真左に結松記念碑。JR紀勢本線岩代駅から国道を西へ一五分、歩きながら磐代と岩代が同音であることに初めて気がついた。迂闊である。明光バス西岩代停留所の横。空が眩しい。海が眩しい。ここから海南までは一七駅八〇分、藤白坂に歌碑が建っている。有間皇子の死、父親である孝徳天皇の晩年、二代にわたる不運に中大兄皇子が絡んでいる。
 
 大津皇子(初出「栄根通信」十分の一号、平成11年4月?日) 
 
ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
                                    万葉集


 巻第三416(小学館、日本古典文学全集2)。題詞「大津皇子、死を被(たまは)りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首」。宇治谷孟著『日本書紀(下)全現代語訳』(講談社学術文庫)によると六八六年九月九日天武天皇崩御、「二十四日、南庭で殯(もがり)をし、発哀した。このとき、大津皇子が皇太子に謀反を企てた」とある。皇太子とは草壁皇子、次の持統天皇の息子である。「十月二日、皇子大津の謀反が発覚して、皇子を逮捕し、合わせて皇子大津に欺かれた」「三十余人を捕らえた」「三日、皇子大津に訳語田(おさだ)の舎(いえ)で死を賜わった。時に年二十四。妃の山辺皇女(やまのべのひめみこ)は髪を乱し、はだしで走り出て殉死した。見る者は皆すすり泣いた。皇子大津は天武天皇の第三子で、威儀備わり、言語明朗で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は、皇子大津に始まったといえる」。これに対して異母兄の草壁皇子の人物像を彷彿とさせるような記述は見あたらない。また『懐風藻』(岩波書店、日本古典文学大系69)には、
  状貌魁梧(じやうばうくわいご)、器宇峻遠(きうしゆんゑん)。幼年にして学を好み、博覧(はくらん)にして能(よ)く文を属(つづ)る。壮(さかり)に及びて武を愛(この)み、多力にして能く剣を撃つ。性頗る放蕩にして、法度(はふど)に拘(かかは)れず、節(せつ)を降(くだ)して士(し)を礼(ゐや)びたまふ。是れに由りて人多く付託す。時に新羅(しらぎの)僧行心(ぎやうしん)といふ者有り、天文卜筮(てんもんぼくぜい)を解(し)る。皇子に詔(つ)げて曰はく、「太子の骨法(こつぱふ)、是れ人臣(じんしん)の相にあらず、此れを以(も)ちて久しく下位に在らば、恐るらくは身を全(また)くせざらむ」といふ。因(よ)りて逆謀(ぎやくぼう)を進む。此の詿誤(くわいご)に迷ひ、遂に不軌を図らす。嗚呼(ああ)惜しき哉(かも)。彼(そ)の良才を蘊(つつ)みて、忠孝を以ちて身を保たず、此の奸豎(かんじゆ)に近づきて、卒(つひ)に戮辱(りくじよく)を以ちて自(みづか)らを終(を)ふ。
とあって傑出した人物像が窺われる。『万葉集』に四首(大津、草壁ともに石川郎女(いしかはのいらつめ)に歌を贈っている。しかし草壁への返歌を『万葉集』は載せていない)、『懐風藻』に四首の詩が収録されている。

 大津皇子(おおつのみこ)(六六三~六八六)
 写真は雌岳(めだけ)から見た二上山雄岳(にじようさんおだけ)山頂。大津皇子の墓がある。近鉄南大阪線二上神社口駅下車のルートで登山。雌岳山頂からの眺望が抜群で弁当をひろげるハイカーが多い。同母姉大伯皇子(おおくのひめみこ)の歌六首は、すべて大津皇子にかかわっている。その一首、巻二165(同前)。
  うつそみの人なる我(われ)や明日(あす)よりは二上山(ふたがみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む
 
 柿本人麻呂(初出「栄根通信」十分の十号、平成13年6月3日) 
 
鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹(いも)が待ちつつあるらむ
                                    万葉集

 鴨山はどこにあるか。梅原猛の『水底(みなそこ)の歌ー柿本人麿論ー(上巻)』(新潮社)は明快に「鴨山はあのとき、つまり人麿の死のときから高津の沖合にずっとあったと思う。それは万寿三年の津波で水没してしまったけれど、その跡は今でも高津の沖合に存在し続けているはずである」。また「人麿は早くから神として祀られていた。そしてそのことは、人麿の歌道における天才をもってしても説明ができない」。神として祀られるための理由である。「現代人は今現に存在しているものしか、つまり今現に眼に見えるものしか信じないというはなはだ科学的な理性をもっている。しかもその科学的理性なるものは、深い理由もなく一切の伝承を疑う」。「私はこの長い論文において、徹底的にこのような国学的、あるいは科学的合理主義の浅薄さを告発したい」と述べる梅原は「流罪と水死と復活」の人麿像に逢着する。巻第二223の詞書は「柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)、石見国(いはみのくに)に在りて死に臨む時に、自(みづか)ら傷(いた)みて作る歌一首」(小学館『万葉集 一』日本古典文学全集2)。ほかに自傷という言葉の使われている例は有間皇子しかない。推理の結論は政治的スケープ・ゴート。
   私は、どうもそれは和銅元年の初夏の一日だったような気がして仕方がないが、おそらくはうららかな初夏の一日、詩人は舟にのせられて海に投げられたのであろう。ひょっとしたら、詩人の首には重い石がつけられていたかもしれないが、この六十を越えていたのではないかと思われる都の詩人に、荒海を泳ぎ切ることができるとは思えない。詩人は、悲鳴をあげて海に落ち、その姿はたちまち波間に沈んで見えなくなったのであろう。そして初夏の海は何事もなかったようにうららかであり、舟は詩人を一人海の中におきざりにしたままで、やがて帰ってきたのであろう。
 なぜ和銅元年(七〇八)なのか。なぜ初夏なのか。これは未見の読者のために残しておこう。

 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)(生没年不詳)
 大阪梅田から高速バスに乗ってJR山陰本線益田駅前下車、タクシーで戸田小浜駅に近い戸田柿本神社(人麻呂生誕の地)、益田駅に近い高津柿本神社(写真)と島根県立万葉公園を取材。ほかに鴨島展望地。タクシー、電車とも車窓には海が親しかった。なお神野志隆光の「臨死歌」(和泉書院『セミナー万葉の歌人と作品』第三巻)を読むと現在では虚構説が主流らしい。
 
 山上憶良(初出「栄根通信」十分の十号、平成13年6月3日) 
 
士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき万代(よろづよ)に語り継ぐべき名は立てずして
                                    万葉集


 日本古典文学全集3『萬葉集 二』(小学館、以下同じ)に、次のようにある。
    山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、沈痾(ぢんあ)の時の歌一首
  士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして (巻第六978)
     右の一首、山上憶良臣の沈痾の時に、藤原朝臣八束(ふじはらのあそみやつか)、河辺朝臣東人(かはへのあそみあづまと)を使(つか)はして疾(や)める状(さま)を問はしむ。ここに、憶良臣(おくらおみ)、報(こた)ふる語已畢(ことばをは)る。須(しまら)くありて、涕(なみだ)を拭(のご)ひ悲しび嘆きて、この歌を口吟(うた)ふ。
 解説は中川幸広の「憶良の辞世歌」(和泉書院『セミナー万葉の歌人と作品』第五巻)に聞こう。曰く「将来尊貴の身になることが確実であるにしても、七十四歳の老人が孫のような十九歳の青年に対して、自らの生涯の悔恨を吐露するのみで終始するであろうか。もしそう考えるとすれば罷宴歌の憶良をして宴会嫌いの愛妻家に仕立てたアララギ派の解釈に似てしまいはしないであろうか」「死が間近に迫っているとはいへ、社会的には、憶良は渡唐を経験したすぐれた文人、老練の高級官吏であり、もしかすると彼の年少の師でさえある。したがってこの場の憶良の涙には春秋に富む有為な青年の見舞いに対するよろこびが混じっていないとは言えない。そしてこの歌には自らの生涯を振りかえって志を果たしえなかった悔恨が底流してはいても、それは訓戒として表現され激励のことばとして発せられた、とするのが礼儀と場にかなう解釈ではなかろうか」。
  憶良(おくら)らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も我(わ)を待つらむそ                           『同 一』(巻第三337)
 右が、その罷宴歌。村山出の「大伴旅人論」(和泉書院『セミナー万葉の歌人と作品』第四巻)によると「この歌は、従来宴を中座するおりの詠とされたが、近時の見方は終宴の際の挨拶がわりの歌とされている」らしい(初句の「ら」は接尾語)。

 山上憶良(やまのうえのおくら)(六六〇~七三三?)
 写真は平城宮の朱雀門(近鉄大和西大寺駅)。
  我(あ)が主(ぬし)のみ霊賜(たまたま)ひて春さらば奈良の都に召上(めさ)げたまはね     『同 二』(巻第五882)
 筑前国司憶良の偽らざる心情である。朱雀門から羅城門までのメインストリートは幅七四メートル、約三・七キロ続いていた。ならシルクロード博記念館・東院庭園・遺構展示館・平城宮跡資料館、いずれも無料なのが嬉しい。
 
奈良文化財研究所許可済
 在原業平(初出「栄根通信」十分の四号、平成12年1月3日) 
 
つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
                                  古今和歌集

 『古今和歌集』(小学館、日本古典文学全集7)に「病して弱くなりにける時よめる」の詞書とともにある。『大和物語』(小学館、日本古典文学全集8)では「死なむとすること、今々となりてよみたりける」に続いて、この歌が登場する。『伊勢物語』(小学館、日本古典文学全集8)では最終段に「むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ」とある。辞世であろう。吉川弘文館の『日本三代実録 後篇』(黒板勝美、国史大系編集会編)の元慶四年(八八〇)五月二十八日の項に次のような記述がある。
  従四位上行右近衛権中将兼美濃権守在原朝臣業平卒ス。業平ハ故四品阿保親王第五子ナリ。正三位行中納言行平之弟也。阿保親王桓武天皇女伊登内親王ヲ娶リ。業平生マル。天長三年親王上表白。无品高岳親王之男女。先ヅ王号ヲ停メ。朝臣姓ヲ賜ル。臣之子息未ダ改姓ニ預カラズ。既ニ昆弟之子ヲ為ス。寧ロ異歯列之差。於是。詔仲平行平守平等。姓在原朝臣ヲ賜ル。業平ハ体貌閑麗。放縦拘ラズ。略ボ才学無ク。善ク倭歌ヲ作ル。貞観四年三月従五位上ヲ授カル。五年二月左兵衛佐ヲ拝ス。数年左近衛権少将ニ遷ル。尋イデ右馬頭ニ遷ル。累加シテ従四位下ニ到ル。元慶元年遷リテ右近衛権中将卜為ル。明年相模権守ヲ兼ヌ。後ニ遷リテ美濃権守ヲ兼ヌ。卒時年五十六。
 中でも、よく引用されるのが「業平ハ体貌閑麗。放縦拘ラズ。略ボ才学無ク。善ク倭歌ヲ作ル」であり、前記『伊勢物語』の解説でもすなわち「美男、それに気ままな行動、謹直な才学の人でなく、詩人肌の人で歌がうまい」、そうした風姿と性向が「多彩な逸話に包まれて後代に伝えられた」としている。才学については「才学有り」の誤りとする説もあるそうだが青木生子は「在原業平」(弘文社、『中古の歌人』日本歌人講座2所収)の中で「才学とは漢詩文の学をやはり意味すると思う」と述べている。当代にあって異色の人物であったと思われる。

 在原業平(ありわらのなりひら)(八二五~八八〇)
 東京都墨田区には業平一丁目から五丁目まである。地図を見ると業平橋があり、東武伊勢崎線の業平橋駅もある。業平にちなんだ命名は隅田川十三橋の一つ、言問橋だけではない。兵庫県芦屋市にも業平町、業平橋がある。写真は奈良市にある不退寺、別名を業平寺。供養塔がある。寺が出している冊子によると墓は一六ケ所、うち一一ケ所が現存とある。
 
 菅原道真(初出「栄根通信」十分の八号、平成12年11月12日) 
 
東風(こち)吹かばにほひを(*お)こせよ梅花(*むみのはな)主(あるじ)なしとて春を忘るな
                                  拾遺和歌集

 生きながらの死。すなわち岩波書店『拾遺和歌集』(新日本古典文学大系7)に「流され侍(はへり)ける時、家の梅(むめ)の花を見侍て」の詞書に続く歌。但し、作者は「贈太政大臣」。
 以下、吉川弘文館『日本紀略 第三(後篇)』(新訂増補国史大系〈普及版〉)より記事を拾う。昌泰四年(九〇一)正月二十五日「右大臣従二位菅原朝臣ヲ以テ太宰権師ニ任ズ」。二月四日「諸社ニ奉幣シ。菅原朝臣左遷之事ヲ申サル」。延喜三年(九〇三)二月二十五日、道真死去。延喜二十二年(九二三)三月二十一日「皇太子保明親王薨。年廿一。天下ノ庶人悲泣セザルハ莫シ。其声雷ノ如シ。世ヲ挙ゲテ云フ。菅師ノ霊魂宿忿ノ為ス所也」。四月二十日「詔シテ。故従二位太宰権師菅原朝臣ニ本官右大臣ヲ復シ。兼ネテ正二位ヲ贈リ。宜シク昌泰四年正月廿五日ノ詔書ヲ棄ツベシ」。正暦四年(九九三)五月二十日「故右大臣ニ正二位菅原朝臣ニ左大臣正一位ヲ贈ラル」。閏十月二十日「重ネテ故正一位左大臣菅原朝臣ニ太政大臣ヲ贈ラル」。寛弘元年(一〇〇四)十月二十一日「平野北野両社ニ行幸ス」。 次に小学館の『大鏡』(日本古典文学全集20)から引用する。
  内裏(だいり)焼けてたびたび造らせたまふに、円融院の御時のことなり、工(たくみ)ども、裏板(うらいた)どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出でつつ、またの朝(あした)にまゐりて見るに、昨日の裏板にもののすすけて見ゆる所のありければ、はしに上(のぼ)りて見るに、夜(よ)のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、
    つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは
  とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。
 「むね」に「棟」と「胸」、「いたま」に「板間」と「痛ま」が掛かっている。円融天皇の在位は安和二年(九六九)から永観二年(九八四)。贈太政大臣、北野社への天皇行幸も近い。道真の死後、およそ百年。いずれも生者の世界に生起した事件であった。

 菅原道真(すがわらのみちざね)(八四五~九〇三)
 写真は道真邸跡に建つ菅大臣神社(白梅殿)。京都市下京区仏光寺新町西入ル菅大臣町、阪急電車烏丸駅下車南に五分ほど。「東風吹かば」と歌った紅梅殿はその北側の北菅大臣神社。今は無人の祠のみとなっている。連想ゲーム風に言えば北野天満宮・太宰府天満宮・大阪天満宮・天神祭・「通りゃんせ」、学問の神等、今の繁栄からは怨霊の影を見ることもできない。
 
 阿倍晴明の母(初出「栄根通信」十分の一号、平成11年4月?日) 
 
恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信田の森のうらみ葛の葉
                                    信太妻
.

 伝説的な陰陽師、阿倍晴明(?~一〇〇五)の出生をめぐる物語『信太妻(しのだづま)』(平凡社、『説経節』東洋文庫243)から美しくも悲哀に満ちた前半のクライマックスを引用する。同浄瑠璃は国書刊行会『徳川文芸類聚(十二巻第八)』にも収められている。
   さればにや女房、世の常の人ならず、信太の、野干(やかん)なりしが、保名(やすな)に命助けられ、その報恩のため、人界(にんがい)に交わり、はや七年(ななとせ)となりにける。頃しも今は、秋の風、梟(ふくろう)、松桂(しようけい)の、枝に鳴きつれ、狐、蘭菊(らんぎく)の花に、蔵(かくれ)れ棲(す)むとは、古人の伝えしごとく、この女房、庭前なる、籬(まがき)の菊に、心を寄せしが、咲き乱れたる、色香に賞(め)でて、ながめ入り、仮りの姿をうち忘れ、あらぬ形と、変じつつ、しばし時をぞ移しける。折ふし、童子は、うたた寝していたりしが、目を覚まし、母の後ろに来たりしが、顔ばせを見るよりも、「やれ恐ろしや」と、おめき叫んで嘆きける。母、はっと思いしが、さあらぬ体(てい)にて、「やれなにを、さように、恐れ嘆くぞ」。
 しかし「これぞ縁(えん)の尽きばなり。あの体(てい)ならば、父上にも語るべし。せめて、あの子が十歳になるまで、見育てたく思えども、力及ばぬ次第なり」別れは突然にやってくる。寝ついた童子の衣(きぬ)に保名(夫)への手紙を結ぶと、そばの障子に掲出の歌を遺すのであった。かくて後半は稀代の陰陽師に成長した童子(晴明)と宿敵道満の対決の場となる。
 阿倍晴明は『宇治拾遺物語』(小学館、日本古典文学全集28)に「晴明蔵人少将封ずる事」「晴明を試みる僧の事」「晴明蛙を殺す事」「御堂関白の御犬晴明等奇特の事」、『今昔物語集 三』(小学館、日本古典文学全集23)に「阿倍晴明随忠行習道語(あべのせいめいただゆきにしたがひてみちをならふこと)」ほか逸話の多い人物である。天文博士。従四位上。『尊卑分脉 第四篇』(黒板勝美篇、国史大系、吉川弘文館)によれば父親の名は益材、母親の名は記されていない。

 信太森葛葉稲荷神社(しのだのもりくずのはいなりじんじゃ)(大阪府和泉市)。
 JR阪和線北信太駅下車すぐ。写真は本殿。白狐が葛の葉に化現したときに鏡に代えたという姿見の井戸がある。同じ異類婚では『日本霊異記』(小学館、日本古典文学全集6)に「狐を妻として子を生ましめし縁」という話がある。こちらは男の歌が哀切である。
  恋は皆我が上に落ちぬたまかぎるはろかに見えて去(い)にし子ゆゑに
 
 小松女院(初出「栄根通信」十分の九号、平成13年2月25日) 
 
笛竹のひとよの節としるならば吹くとも風になびかざらまし
                                ふるさとの伝説

 『ふるさとの伝説 第一巻 愛・悲恋』(ぎょうせい)に収録されている「小松女院と清原正高」は大分県玖珠郡玖珠町の滝神社に伝わる物語である。
 場所は京の都。醍醐天皇の孫で琴の名手の小松女院と笛の名手清原正高が恋をする。しかし帝の怒りに触れて正高は豊後の国に左遷、小松女院は因幡の国に配流。やがて正高を慕う姫は九州にやってくる。そこで男の結婚していることを知って絶望、松の枝に笠と衣を掛けると十一人の侍女と一緒に滝から投身する。右が、その際の辞世である。
 正高は豊後清原氏の祖とされる。松永孝子の『家伝縹渺ーもうひとりの清少納言』(葦書房)によれば小松女院は醍醐天皇の皇子章明(のりあきら)の娘・隆子。伝説では九七四年九月に入水。正史では九七一年十月に斎宮として伊勢で病死している。小松女院の由来については確認できない。また相手の正高については最後まで史料に出てこない。ただ隆子女王の姉・済子(なりこ)女王も斎宮で平致光(むねみつ)との密通の噂が立った、とある。大隈和喜は『豊後清原氏の成立過程を再考する』(玖珠郡史談会『玖珠郡史談』第45号)で平致光(公雅流平氏)は「後に罰せられることもなく従五位下太宰権大監に任ぜられていた。その赴任時期は『江見左織氏所蔵文書』によれば、正暦四年(九九三年)である。正歴四年当時、太宰府在庁官人には、少監(しようげん)二人、小典(しようてん)一人の清原氏がいたことが記録から明らかである。さらにこの少監のうち一人は」「清原元輔の子、前少監清原致信(むねのぶ)であった可能性が強いのである」とし、「清原氏が北部九州の在地支配に取り組んでいた頃、太宰府の庁舎で、平致光自身が語る、いくらか自慢気な斎宮との密通事件が評判になっていたことは、想像に難くない。豊後清原氏の祖となった清原氏の人物が、そんな話を語り伝え」、(致信の兄)「雅楽頭為成など一族本宗家の伝承を織り混ぜつつ、先祖伝説を作り上げた可能性も大きい」としている。

 三日月(みかづき)の滝(たき)(写真)
 場所は大分県玖珠郡玖珠町。写真はJR久大本線(ゆふ高原線)北山田駅前から見た三日月の滝。但し、本数が少ないので隣の豊後森駅を拠点としてタクシーで訪問した。上流の橋は神幸橋。左岸の散策路に笠懸松・滝宮元宮跡の碑がある。右岸に滝神社と小松女院の塚がある。周囲はキャンプ場。滝の上に立ってみたが、少し高さが不足しているような気がした。
 
 藤原定子(初出「栄根通信十分の七号」平成12年8月20日) 
 
よもす(が)ら契りしことを忘れずは恋ひん涙の色ぞゆかしき
                                   栄花物語

 一条天皇の皇后、定子は関白藤原道隆の娘。「げに千年もあらまほしげなる御ありさま」(『枕草子』小学館、日本古典文学全集11)から道隆の死、兄伊周(これちか)は叔父道長と対立、花山上皇への不敬事件による左遷。自らは落飾、再び入内(その間、道長の娘彰子(しようし)入内)。不遇の中で懐妊、出産、死亡。以下『栄花物語全注釈(二)』(角川書店)より。
  宮は御手習(てならひ)をせさせ給て、御帳の紐に結び付けさせ給へりけるを、今ぞ帥殿・御方方など取りて見給て、「この度は限(かぎり)のたびぞ。その後(のち)すべきやう」など書かせ給へり。いみじうあはれなる御手習どもの、「内わたりの御覧じ聞(きこ)しめすやうなどやとおぼしけるにや」とぞ見ゆる。
    よもす(が)ら契りしことを忘れずは恋ひん涙の色ぞゆかしき
  又、
    知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎたつかな
  又、
    煙(けぶり)とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれと眺めよ
  など、あはれなることども多く書かせ給へり。「この御言(こと)のやうにては、例の作法にてはあらでとおぼしめしけるなめり」とて、帥殿(そちどの)急がせ給ふ。
 かくて土葬。鳥戸野(とりべの)での雪の葬送に供した兄弟の歌、御所での一条天皇の歌がある。
  誰も皆消え残るべき身ならねどゆき隠れぬる君ぞ悲しき          伊周
  白雪(しらゆき)の降りつむ野辺は跡絶えていづくをはかと君を尋ねむ   隆家
  故里(ふるさと)にゆきも帰らで君ともに同じ野辺にてやがて消えなん    隆円
  野辺までに心ばかりは通へどもわが行幸(みゆき)とも知らずやあるらん
                                   一条天皇

 藤原定子(ふじわらのていし)(九七七~一〇〇〇)
 藤原定子の眠る島戸野陵(六人の火葬塚を含む)はJR奈良線の東福寺駅下車。歩いて一五分ぐらいか。案内板もないので随分と迷った。正解は泉湧寺(せんにゆうじ)の参道より二本北側の道を東へ進む。左に剣神社、左にカーブする手前の脇道を入る(写真)。橋を渡ると程なく「鳥戸野参道」という道標が建っている。階段を登る、であった。京都市東山区今熊野の丘陵にある。
 
 源頼政(初出「栄根通信」十分の二号、平成11年6月28日) 
 
埋木(むもれぎ)のはな咲く事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりける
                                   平家物語


 治承四年(一一八〇)、以仁王を担いだ頼政の軍勢三〇〇余騎、味方する三井寺を合わせても一〇〇〇人、平氏は二八〇〇〇余騎、宇治川をはさんで対峙するが多勢に無勢である。負傷した頼政は「渡辺長七唱(わたなべのちやうじつとなふ)を召して、『わが頸(くび)うて』と宣ひければ、主のいけくびうたん事のかなしさに、涙をはらはらとながいて、『仕(つかま)ッつともおぼえ候はず。御自害候ひて、其後(そののち)こそ給はり候はめ』と申しければ、『まことにも』とて西にむかひ高声(かうしやう)に十念となへ」、辞世を「最後の詞(ことば)にて、太刀のさきを腹につきたて、うつぶさまにつらぬかッてぞうせられける。其時に歌よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道なれば、最後の時も、忘れ給はず。その頸をば唱取ッて、泣く泣く石にくくりあはせ、かたきのなかをまぎれいでて、宇治河のふかき所にしづめてンげり」(『平家物語 一』、小学館、日本古典文学全集29以下同じ)とある。子の仲綱、兼網も戦死である。源氏挙兵の先駆となった頼政であるが、決意までには平宗盛(清盛の三男)との確執がある。すなわち仲綱所有の名馬を所望した宗盛が、出し惜しみしたことをうらんで、馬に仲綱という焼き印をして笑い者にしたというのである。反対に頼政の家臣は蜂起の際、宗盛の愛馬をだましとり、たてがみを切った上で「昔は煖廷(なんれう)、今は平の宗盛入道」という焼き印をして返している。
 頼政といえば二度にわたる鵺退治が有名である。一度目「比は卯月十日あまりの事なれば、雲井に郭公二声三声音づれてぞとほりける。其時左大臣殿、/ほととぎす名をも雲井にあぐるかな/とおほせられかけたりければ、頼政右の膝をつき、左の袖をひろげ、月をすこしそばめにかけつつ、/弓はり月のいるにまかせて/と仕り、御剣を給はッて、まかりいづ」。二度目も「五月闇名をあらはせるこよひかな」(右大臣)に「たそかれ時も過ぎぬと思ふに」(頼政)かつ「御衣を肩にかけて、退出」と演出が心憎い。

 源頼政(みなもとのよりまさ)(一一〇五~一一八〇)
 勝ち馬と負け馬の違いか、それとも死んだ場所がよかったのか。東大寺と興福寺を焼き討ちした平重衡の場合、京都府相楽郡木津町にゆかりの寺があるが観光地ではない。平忠度(ただのり)の場合は地元でひっそりと祀られている。二人に較べると頼政は決して埋もれていない。写真は京阪宇治線宇治駅下車すぐ、宇治橋からの眺め。「頼政公墓所」のある平等院は中の島の右対岸。
 
 平忠度(初出「栄根通信」十分の一号、平成11年4月?日) 
 
ゆきくれて木(こ)のしたかげをやどとせば花やこよひの主(あるじ)ならまし
                                   平家物語


 ただ乗りのことを薩摩守というが、これはご本人のつゆ知らぬことである。
  春の蚊は只乗りしたり車窓より薩摩の海を眺めゐたりき
                     窪田薫歌集『舞踏病の手錠』(冬青社)
 その薩摩守忠度すなわち平忠度は源氏に追われて都落ちする際、藤原俊成を訪問している。「一門の運命はやつき候ひぬ。撰集(せんじふ)のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて」(小学館、日本古典文学全集30の『平家物語 二』より引用、以下同じ)、
  日比(ひごろ)読みおかれたる歌共のなかに、秀歌とおぼしきを百余首、書きあつめられたる巻物を、今はとてうッたたれける時、是をとッてもたれたりしが、鎧のひきあはせより取りいでて、俊成卿(しゆんぜいのきやう)に奉る(中略)
  馬にうち乗り、甲(かぶと)の緒をしめ、西をさいてぞあゆませ給ふ。三位うしろを遥かに見おくッてたたれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途(ぜんど)程遠(ほどとほ)し、思(おもひ)を雁山(がんさん)の夕(ゆふべ)の雲に馳(は)す」と、たからかに口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残(なごり)惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ
という場面である。
 忠度の首を取ったのは岡部(をかべ)の六野太忠純(ろくやたただずみ)であるが、最初は大将軍としかわからない。振り向いたとき「内甲(うちかぶと)より見いれたれば、かね黒なり。あッばれみかたにはかねつけたる人はないものを。平家の君達(きんだち)でおはするにこそと思ひ、おしならべてむずとくむ」が一騎打ちでは分が悪い。しかし忠純の側は郎党と二人、対する忠度は一人。その郎党に右腕を切り落とされると「今はかうとや思はれけん、『しばしのけ、十念となへん」とて、六野太をつかうで、弓(ゆん)だけばかり投げのけられたり」。六野太、「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と唱える武将の後ろから白刃を振り下ろすが、箙(えびら)に結ばれた文に「旅宿花(りよしゆくのはな)」と題する右の歌そして忠度の署名を見いだすのは、そのあとである。

 平忠度(たいらのただのり)(一一四四~一一八四)。
 一の谷から敗走中の死である。兵庫県明石市の山陽電鉄人丸駅下車すぐのところに一騎打ちの両馬川旧跡と腕塚神社(旧右腕塚(うでづか)町、現天文町)、徒歩五分のところに忠度塚(写真)がある。別に神戸市長田区駒ケ林町にも腕塚堂がある。野田町には胴塚、また腕塚町として町名にも残っている。最寄りの駅はJR山陽本線新長田駅。但し、知る人は少ない。
 
 平維盛(初出「栄根通信」十分の九号、平成13年2月25日) 
 
生れてはつひに死ぬてふ事のみぞ定めなき世に定めありける
                                  源平盛衰記


 熊野三山すなわち本宮・新宮・那智の参詣を終えた維盛(これもり)のその後を水原一(みずはらはじめ)考定『新定 源平盛衰記』(新人物往来社)の第五巻から抄出する(「中将入道入水の事」)。
   三位入道、三(みつ)の山の参詣事故(ことゆえ)なく遂げられければ、浜(はま)の宮(みや)の王子の御前より、一葉(いちえふ)の舟に棹さして、万里の波にぞ浮び給ふ。遥かの沖に小島あり。金島(こがねしま)とぞ申しける。かの島に登りて松の木を削りつつ、自らの名籍(めいせき)を書き給ひけり。
   「平家の嫡々(ちやくちやく)正統(しやうとう)、小松内大臣重盛公子息、権亮三位中将維盛入道、讃岐屋島の戦場を出でて、三所権現の順礼を遂げ、那智の浦にて入水し畢(をはん)ぬ。
    元暦元年三月二十八日、  生年二十七
  と書き給ひ、奧に一首を遺(のこ)されけり。
    生れてはつひに死ぬてふ事のみぞ定めなき世に定めありける
   その後又島より船に乗り移り、遥かの沖に漕ぎ出で給ひぬ。
 しかし迷いは切れない。妻子に手紙と歌(「故郷にいかに松風恨むらん沈む我が身の行(ゆく)へしらずは」)を託すと「又念仏高く唱へ給ふ。『光明(くわうみやう)遍照(へんぜう)十方世界、念仏衆生摂取不捨(しゆじやうせつしゆふしや)』と誦(ず)し給ひつつ、海にぞ入り給ひける」。あとに与三兵衛入道と石童丸が続いた。
 なお『源平盛衰記』は「或説」として二つの説を載せている。一つは助命を願って源頼朝のいる関東に向かう途中で亡くなったという説、もう一つは那智の客僧の計らいによって匿われ「かの人の子孫繁盛しておはし」「入海は偽事云々」である。
 また冨倉徳次郎の『平家物語全注釈 下巻(一)』(角川書店)では金島は「山なりの嶋」(山成島)、「生れては」の歌は登場しない。『平家物語』では『鎌倉本』に「生テハツイニ死テフ事ノミソ定ナキ世ノ定アルカナ」とあるらしい。

 平維盛(たいらのこれもり)(生没年不詳)
 探索例。JR紀勢本線の紀伊田辺駅で下車、駅前からバスに乗車(便少なし)、本宮大社前で下車、やはりバスで大社前から新宮へ、泊。紀勢本線の新宮から那智へ。写真は浜の宮王子。左に補陀洛山寺(ふだらくさんじ)(見えない)、維盛の供養塔が裏山にある。徒歩で那智大社へ、熊野古道体験。バスで勝浦に移動。紀の松島めぐり。但し、波が荒くて山成島はコースから外された。
 
 二位尼(初出「栄根通信」十分の九号、平成13年2月25日) 

 今ゾシルミモスソ川ノ流(ながれ)ニハ浪ノ下ニモ都アリトハ
                                   平家物語

 北原保雄・小川栄一編『延慶本平家物語 本文篇下』(勉誠社)の「檀浦合戦事・付平家滅事」で元暦二年(寿永四年)(一一八五)三月二十四日にタイムスリップしてみよう。
  二位殿ハ今ハカウト思ワレケレバ、ネリバカマノソバ高挟(たかくはさ)ミテ、先帝ヲ負奉(おひたてまつり)リ、帯ニテ我御身(わがおんみ)ニ結合奉(むすびあはせたてまつり)テ、宝剣ヲバ腰ニサシ、神璽ヲバ脇ニハサミテ、鈍色(にぶいろ)ノ二衣(ふたつぎぬ)打(うち)カヅキテ、今ハ限ノ船バタニゾ臨マセ給ケル。先帝今年ハ八ニ成(なら)セ給ケルガ、折シモ其日ハ山鳩色ノ御衣(ぎよい)ヲ知召(しろしめし)タリケレバ、海ノ上ヲ照シテミヘサセ給ケリ。御年ノ程ヨリモネビサセ給テ、御貌(かほ)ウツクシク、黒クユラユラトシテ、御肩ニスギテ、御背ニフサフサトカヽラセ玉ヘリ。二位殿カクシタヽメテ、船バタニ臨マレケレバ、アキレタル御気色(おんけしき)ニ、「此(これ)ハイヅチへ行(ゆか)ムズルゾ」ト仰有(おほせあり)ケレバ、君ハ知食(しろしめ)サズヤ、穢土ハ心憂所ニテ、夷共(えびすども)ガ御舟(みふね)へ矢ヲ進(まゐ)ラセ候トキニ、極楽トテ、ヨニ目出キ所へ具シ進(まゐら)セ候ゾヨ」トテ、王城ノ方ヲ伏拝給テ、クダカレケルコソ哀ナレ。「南無帰命頂礼天照大神正八幡宮、慥(たしか)ニ間食(きこしめ)セ。吾君十善ノ戒行限リ御坐(おはしま)セバ、我国ノ主ト生(うまれ)サセ給タレドモ、未(いまだ)幼クオワシマセバ、善悪ノ政ヲ行給ワズ。何ノ御罪ニ依テカ百王鎮護ノ御誓ニ漏(もれ)サセ給べキ。今カヽル御事ニ成セ給ヌル事、併(しかしながら)ラ我等ガ累葉一門、万人ヲ軽(かろ)シメ朝家(てうか)ヲ忽諸(いるかせに)シ奉(たてまつり)、雅意ニ任(まかせ)テ自(みづから)昇進ニ驕(おごり)シ故也。願(ねがはく)ハ今生世俗ノ垂迹三摩耶ノ神明達、賞罰新ニオワシマサバ、設(たとひ)今世(こんぜ)ニハ此誡(このいましめ)ニ沈ムトモ、来世ニハ大日遍照弥陀如来、大悲方便(だいひはうべんを)廻(めぐら)シテ必ズ引接(いんぜふ)シ玉へ。
    今ゾシルミモスソ川ノ流(ながれ)ニハ浪ノ下ニモ都アリトハ
  ト詠ジ給テ、最後ノ十念(じふねん)唱(となえ)ツヽ、波ノ底へゾ被入(いられ)ケル。
 底本の異なる『平家物語 二』 (小学館、日本古典文学全集30)では「二位殿やがていだき奉り、『浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめ奉ッて」入水の場面となる。

 二位尼(にいのあま)(一一二六~一一八五)
 平清盛の妻、時子。建礼門院の母、安徳天皇の外祖母。写真は御裳川(みもすそがわ)碑、右に関門橋が見えている。御裳濯川(みもすそがわ)は五十鈴川の異称。御裳濯川の流れとは皇統の意。JR下関駅前から六つ目のバス停が「御裳川」。右方向にもどると「壇之浦」「赤間神宮前」。大安殿の左に耳なし芳一で有名な芳一堂と平家一門の墓がある。また神宮に隣接して安徳天皇阿弥陀寺陵がある。
 
 弁慶(初出「栄根通信」十分の八号、平成12年11月12日) 

 六道の道の巷に君待ちて弥陀の浄土へすぐに参らん
                                     義経記

 小学館の『義経記』(日本古典文学全集31)から「衣川決戦の事」を抄出する。
  武蔵坊は敵(かたき)追払(おひはら)ひ、御方(かた)へ参り、長刀(なぎなた)脇(わき)に挟(はさ)み、弁慶こそ參りて候へ」と申しければ、判官は、法華経(ほけきやう)八の巻にかからせ給ひけるが、「如何(いか)に」とて見やり給へば、「軍(いくさ)ははや限りになりぬ。備前(びぜんの)平四郎、鷲尾(わしのを)、増尾(ましのを)、鈴木兄弟、伊勢(いせの)三郎、思ふ儘(まま)に軍(いくさ)して討死(うちじに)仕り候ひぬ。今(いま)は弁慶と片岡(かたをか)ばかりになりて候。君を今(いま)一度見参(みまゐ)らせん為(ため)に参りて候。君先立(さきだ)たせ給ひ候はば、死出(しで)の山にて待たせ給ひ候ふべし。弁慶先立ち参らせて候はば、三途(さんづ)の川にて待ち参らせ候ふべし」と申しければ、判官「如何(いかが)すべき。御経(きやう)読みはてばや」と仰せければ、「静かに遊ばしはてさせ給へ。その程(ほど)は弁慶防矢(ふせぎや)仕り候はん、縦(たと)ひ死にて候ふ共(とも)、君の御経(きやう)遊ばしはてさせ給ひ候はん迄(まで)は守護し参らせ候べし」とて、御簾(すだれ)を引上(ひきあ)げて、君(きみ)をつくづくと見参(まゐ)らせて、御前(まへ)を立ちけるが、また立帰(たちかへ)りてかくぞ申しける。
    六道の道(みち)の巷(ちまた)に君待ちて弥陀(みだ)の浄土(じやうど)へすぐに参らん
 ただ一人への辞世である。「縦ひ死にて候ふ共」以下は、このあとの場面「十方(ぱう)八方(ぱう)を斬りければ、武蔵坊に面(おもて)を合はする者ぞなき。鎧に矢の立つ事数を知らず。折り掛け折り掛けしたりければ、蓑を倒様(さかさま)に着たるが如し。黒羽(くろは)、白羽(しろは)、染羽(そめは)の矢共(やども)の、色々に風に吹かれて見えけるは、武蔵野の尾花の末を秋風の吹き靡かす如くなり」という立ち往生となって現れる。なお底本の異なる岩波書店の『義経記』(日本古典文学大系37)は弁慶の辞世と、それに対する義経の歌を載せている。やりとりにも若干の相違がある。
  六道(だう)の道(みち)の衢(ちまて)に待(ま)てよ君(きみ)後(おく)れ先立(さきだ)つ習(ならひ)ありとも       弁慶
  後(のち)の世も又後(またのち)の世も廻(めぐ)り会(あ)へ染(そ)む紫(むらさき)の雲(くも)の上(うへ)まで      義経

 弁慶(べんけい)(?~一一八九)
 武蔵坊弁慶。熊野別当の子と言われ、幼名鬼若。写真は中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町)の表参道入口にある弁慶の墓所。三井寺の「弁慶の引摺り鐘」・吉水神社の「弁慶力釘」・須磨寺の「弁慶の鐘」等に比較して、松の右根方にある五輪の塔はいかにも小さい。意外であった。JR東北本線平泉駅下車、徒歩一五分。
  色かえぬ松の主(あるじ)や武蔵坊      素鳥
 
 西行(初出「栄根通信十分の一号」平成11年4月?号) 

 ねがはくは花のしたにて春しなんそのきさらぎのもちづきのころ
山家集


 桑原博史著『西行物語全訳注』(講談社学術文庫)は、西行の死後五十年あまりのちに成立したといわれる『西行物語」が手近に読めるということもさることながら、語釈・鑑賞・西行略年譜・和歌初句索引・文献一覧・解説といった周辺の配慮がありがたい。『物語』では亡くなる朝の作とする右の歌だが、史実としては『山家心中集』に収められており、この歌集が成立した五十八歳以前の作と考えられるというのも、その一つである。
 藤原俊成の哀傷歌(『長秋詠藻』)。
    河内ひろかはといふ山寺にてわづらふことありと聞きていそぎつかはしたりしかば、かぎりなくよろこび、つかはして後すこしよろしとて、年のはて比京にのぼりたりと申ししほどに、二月十六日になんかくれ侍りける、彼上人先年にさくらの歌おほくよみける中
  ねがはくは花のしたにて春しなん其二月の望月のころ
    かくよみたりしををかしく見給へしほどに、つひにきさらぎの十六日望の日をはりとげけることいとあはれにありがたくおぼえて物にかきつけ侍る。
  ねがひおきし花のしたにてをはりけりはちすの上もたがはざるらん
 慈円の哀傷歌(『拾玉集」)。「文治六年二月十六日未時、円位上人入滅臨終などまことにめでたく存生にふるまひおもはれたりしに更にたがはず、世のすゑに有りがたきよしなん申しあひけり」。
  君しるやそのきさらぎといひおきてことばにおへる人の後の世
 藤原定家の哀傷歌(『拾遺愚草』)。「建久元年二月十六日、西行上人身まかりにけるを、をはりみだれざりけるよしききて」。
  もち月の比はたがはぬ空なれどきえけむ雲の行へかなしな
 『山家集』と俊成以下の歌集は角川書店の『新編国歌大観』第三巻に収録されている。

 西行(さいぎよう)(一一一八~一一九〇)
 『山家心中集』は『西行上人集』(別称『西行法師家集』『異本山家集』)からの抄出本、右の『国歌大観』では『西行法師家集』。
  ほとけにはさくらの花をたてまつれわがのちの世を人とぶらはば    『山家集』
 写真は西行墳のある弘川寺。大阪府南河内郡河南町弘川。近鉄長野線富田林駅下車、金剛バスで二〇分位。但し、バスの便は少ない。
 
 源実朝(初出「栄根通信」十分の八号、平成12年11月12日) 

 出でていなば主(ぬし)なき宿と成りぬとも軒端(のきば)の梅よ春をわするな
                                     吾妻鏡


 新人物往来社の『全訳 吾妻鏡』第三巻を開くと実朝の最後の日は建保七年(一二一九)正月「甘七日 甲午 霽(は)る。夜に入りて雪降る。積もること二尺余。今日将軍家、右大臣拝賀のために鶴岳八幡宮に御参。西の刻御出」と書き出されている。夕方の六時前後であろうか。出発の前から異変の予兆はあった。「公氏(宮内)御鬢(ごびん)に候ずるのところ、みづから御鬢一筋を抜き、記念と称してこれを賜ふ。次に庭の梅を覧(み)て、禁忌(きんき)の和歌を詠じたまふ」。すなわち右の「辞世」がそれである。では暗殺の現場を覗いてみよう。「夜陰に及びて神拝の事終り、やうやくに退去せしめたまふのところ、当宮別当阿闍梨公暁(くげう)、石階(いしばし)の際(きは)に窺(うかが)ひ来り、剣を取りて丞相(実朝)を侵(をか)したてまつる」。岩波書店の『愚管抄』(日本古典文学大系統86)では「夜ニ入(いり)テ奉幣(ほうへい)終(をはり)テ、宝前(ほうぜん)ノ石橋ヲクダリテ、扈従(こしよう)ノ公卿(くぎやう)列立シタル前ヲ揖(い)シテ、下襲尻(したがさねのしり)引(ひき)テ笏(しやく)モチテユキケルヲ、法師ノケウサウ・トキント云物(いふもの)シタル、馳(はせ)カヽリテ下ガサネノ尻ノ上ニノボリテ、カシララ一(いち)ノカタナニハ切(きり)テ、タフレケレバ、首ヲウチヲト シテ取(とり)テケリ」。岩波書店の新日本古典文学大系43の『古活字本承久記』では「去程ニ、若宮ノ石橋ノ辺ニ近ヅカセ給フ時、美僧三人イヅクヨリ来共モナク、御ウシロニ立添ヒ進セケルガ、左右ナク首ヲ打ヲトシ進ラス。一太刀ハ笏ニテアハセ給ヒヌ。次ノ太刀ニ切フセラレ給フ。(略)。クラサハクラシ、上ヲ下ニゾ返シケル」。
 再び『全訳 吾妻鏡』にもどる。二十八日「戌の剋(こく)、将軍家を勝長寿院の傍に葬りたてまつる。去夜御首の在所を知らず、五体不具なり。その憚りあるべきによつて、昨日公氏に給ふところの御鬢(ごびん)をもつて御頭(みぐし)に用ゐ、柩に入れたてまつると云々」。「戌の剋」だから夜の八時前後の埋葬である。ちなみに勝長寿院は現存しない。また実朝の家集である『金槐和歌集』(岩波文庫)に「出でていなば」の歌は収録されていない。

 源実朝(みなもとのさねとも)(一一九二~一二一九)
 鎌倉幕府第三代将軍。写真は神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮本殿からの風景。階段右の大銀杏が別名「別当公暁の隠れ銀杏」。左方面に大倉幕府跡・宇都宮辻子幕府跡・若宮大路幕府跡。右方面に寿福寺・源氏山公園。JR横須賀線の鎌倉駅下車、徒歩十余分。源氏山公園から裏大仏ハイキングコースを経て江の電(長谷駅)に乗ると稲村ヶ崎(新田義貞の碑)も近い。
 
 菊池武時(初出「栄根通信」十分の三号、平成11年9月9日) 

 故郷(ふるさと)ニ今夜許(こよひばかり)ノ命トモシラデヤ人ノ我(われ)ヲ待(まつ)ラン
                                     太平記

 元弘三年(一三三三)、鎮西探題の北条英時を討つために出陣した菊池武時は小弐(しように)・大友(おおども)の裏切りにあって戦死する。『太平記 一』(岩波書店、日本古典文学大系34)を覗いてみよう。裏切った小弐・大友も形勢が後醍醐天皇に傾くと、今度は英時を攻めて滅ぼしている。
  探題ハ、兼テヨリ用意シタル事ナレバ、大勢ヲ城ノ木戸ヨリ外へ出シテ戦ハシムルニ、菊池小勢ナリトイへドモ、皆命ヲ塵芥ニ比シ、義ヲ金石ニ類シテ、責戦(せめたたかひ)ケレバ、防グ兵若干(そくばく)打(うた)レテ、攻(つめ)ノ城(じやう)へ引籠(ひきこも)ル。菊池勝(かつ)ニ乗(のつ)テ、屏(へい)ヲ越(こえ)関(きど)ヲ切破(きりやぶつ)テ、透間(すきま)モナク責入(せめいり)ケル問、英時(ひでとき)コラへカネテ、既ニ自害ヲセントシケル処ニ、小弐・大友(おほども)六千余騎ニテ、後攻(ごづめ)ヲゾシタリケル。菊池入道是(これ)ヲ見テ、嫡子(ちやくし)ノ肥後守武重(たけしげ)ヲ喚(よび)テ云(いひ)ケルハ、「我(われ)今小弐・大友ニ出抜(だしぬか)レテ、戦場ノ死ニ赴クトイヘ共、義ノ当ル所ヲ思フ故ニ、命ヲ堕(おとさ)ン事ヲ悔(くい)ズ。然(しか)レバ寂阿ニ於テハ、英時ガ城ヲ枕ニシテ討死スベシ。汝ハ急(いそぎ)我館(わがたち)へ帰(かえつ)テ、城ヲ堅(かたう)シ兵ヲ起シテ、我ガ生前(しやうぜん)ノ恨(うらみ)ヲ死後ニ報ゼヨ。」ト云含(いひふく)メ、若党五十余騎ヲ引分(ひきわけ)テ武重ニ相副(あひそへ)、肥後ノ国へゾ返シケル。故郷(こきやう)ニ留置(とめおき)シ妻子共(さいしども)ハ、出(いで)シヲ終(つひ)ノ別レトモ知ラデ、帰ルヲ今ヤトコソ待(まつ)ラメト、哀(あわれ)ニ覚(おぼえ)ケレバ、一首ノ歌ヲ袖ノ笠符(かさじるし)ニ書(かき)テ故郷へゾ送(おくり)ケル。
    故郷(ふるさと)ニ今夜許(こよひばかり)ノ命トモシラデヤ人ノ我(われ)ヲ待(まつ)ラン
  肥後守武重ハ、「四十有余ノ独(ひとり)ノ親ノ、只今討死セントテ大敵ニ向フ戦(たたかひ)ナレバ、一所(いつしよ)ニテコソ兎モ角モ成(なり)候ハメ。」ト、再三申(まう)ケレドモ、「汝(なんじ)ヲバ天下ノ為ニ留(とどむる)ルゾ。」ト父ガ庭訓(ていきん)堅(かた)ケレバ、武重力無ク是ヲ最後ノ別ト見捨(みすて)テ、泣々肥後へ帰(かへり)ケル心ノ中(うち)コソ哀ナレ。其後菊池入道ハ二男肥後三郎ト相共ニ、百余騎ヲ前後ニ立テ、(略)探題ノ屋形へ責入(せめいり)、終(つひ)ニ一足モ引(ひか)ズ、敵ニ指違々々(さしちがへさしちがへ)一人モ残(のこら)ズ打死(うちじに)ス。

 菊池武時(きくちたけとき)(?~一三三三)
 鎌倉時代後期、肥後の武将。写真は熊本県菊池市の菊池神社。明治三年(一八七〇)、菊池城址に造営。主神は武時・武重・武光。境内に菊池神社歴史館がある。JR鹿児島本線熊本駅下車、熊本電鉄バスで約八〇分。墓に胴塚と首塚がある。胴塚は福岡市城南区七隈七丁目の菊池神社となっている。首塚は未確認だが福岡市中央区六本松三丁目、護国神社に隣接しているらしい。
 
 楠正行(初出「栄根通信」十分の一号、平成11年4月?日) 

 かゑらじとかねておもへば梓弓なき数に入る名をぞとゞむる
                                 如意輪寺蔵堂扉

 『太平記』(岩波書店、日本古典文学大系36)によると、高師直・師泰兄弟率いる大軍が迫っていることを知った正行は正平二年(北朝貞和三)(一三四七)十二月二十七日、吉野の皇居に参内した。後村上天皇に今生の別れを告げるためである。
  主上則チ南殿(ナデン)ノ御簾(ミス)ヲ高ク巻(マカ)セテ、玉顔殊ニ麗(ウルハシ)ク、諸卒ヲ照臨(セウリン)有テ正行ヲ近ク召テ、「以前両度ノ戦ニ勝ツ事ヲ得テ敵軍ニ気ヲ屈セシム。(エイリヨ)先憤(マヅイキドホリ)ヲ慰(ヰ)スル条、累代ノ武功返返(カヘスガヘス)モ神妙(シンベウ)也。大敵今勢ヲ尽シテ向フナレバ、今度ノ合戦天下ノ安否(アンピ)タルベシ。進退(シンタイ)度ニ当リ反化(ヘンクワ)機ニ応ズル事ハ、勇士ノ心トスル処ナレバ、今度ノ合戦手ヲ下スベキニ非ズトイへ共、進ム可キヲ知テ進ムハ、時ヲ失ハザランガ為(タメ)也。退ク可キヲ見テ退クハ、後(シリヘ)ヲ全(マツタウ)センガ為也。朕(チン)汝ヲ以テ股肱(ココウ)トス。慎(ツツシン)デ命ヲ全ウス可シ。」ト仰出サレケレバ、正行首(カウベ)ヲ地(ヂ)ニ著(ツケ)テ、兎角(トカク)ノ勅答(チヨクタフ)ニ及バズ。只是(コレ)ヲ最後ノ参内(サンダイ)也ト、思定メテ退出ス。正行・正時・和田新発意(ワダシンボチ)・舎弟新兵衛・同紀(キノ)六左衛門子息二人・野田四郎子息二人・楠将監(シヤウゲン)・西河子息・関地良円(セキヂリヤウエン)以下今度ノ軍ニ一足モ引ズ、一処ニテ討死セント約束シタリケル兵百四十三人、先皇(センクワウ)ノ御廟(ゴベウ)ニ参テ、今度ノ軍(イクサ)難儀ナラバ、討死仕ルベキ暇(イトマ)ヲ申テ、如意輪堂(ニヨイリンダウ)ノ壁板(カベイタ)ニ各名字ヲ過去帳(クワコチヤウ)ニ書連(ツラネテ)テ、其ノ奥ニ、
    返ラジト兼(カネ)テ思ヘバ梓弓(アヅサユミ)ナキ数ニイル名ヲゾトヾドムル
  ト一首ノ歌ヲ書留(カキトド)メ、逆修(ギヤクシユ)ノ為卜覚敷(オボシク)テ、各鬢髪(ビンハツ)ヲ切テ仏殿ニ投入レ、其ノ日吉野ヲ打出テ、敵陣ヘトゾ向ヒケル。
 翌正月五日、四条畷の戦いに敗れた正行は弟正時と差し違えて自害。このほか『太平記』は和田兄弟、「一族二十三人、相順(シタガ)フ兵百四十三人、命ヲ君臣二代ノ義ニ留メテ、名ヲ古今無双(ブサウ)ノ功ニ残セリ」と伝え、「壁板の奥」ではないが正行の辞世は如意輪寺の宝物館で往時を偲ばせている。

 楠正行(くすのきまさつら)(?~一三四八)
 写真は現在の如意輪堂。江戸時代の再建である。場所は近鉄吉野特急終点、奈良県吉野郡吉野町吉野山。辞世の扉のほかに髻(もとどり)塚がある。JR片町線四条畷駅で降りると正行の墓、和田賢秀の墓、明治時代に創立の四条畷神社がある。また今は昔「大楠公」(青葉茂れる桜井の)で有名な父子像は阪急京都線水無瀬駅下車、徒歩五分。訪れる人も少ない。
 
 太田道灌(初出「栄根通信」十分の九号、平成13年2月25日) 

 昨日迄まくまうさうを入置しへんなし袋今やふりけり
                                   室町殿日記

 『室町殿日記 上』(臨川書店)の「管領上杉噂之事」から抄出する。
  道灌つくつく(と)あんするに所詮定正をほろほしていきとをりを散するより外はなしと思ひ切て計策をめくらす時に定正いまた運のかゝはりけるにや早く聞付給ひ道灌か館にをしよせて〔頂刻に〕詰腹をきらせり道灌思ふ程はたらきて〔よきものともをあまた討取そのゝち〕郎従等をよひて申されけるは日比思立し事本意をとけすかへつて定正にほろほさるゝ事露塵も恨み〔す〕前生にてかれにきせし罪たゝ今むくふ所因果暦然也世にも人にも恨なしとて〔やかて〕辞世に〔云はく〕
    昨日迄まくまうさうを入置し/へんなし袋今やふりけり
  押返し唱て腹かき切て空の煙とうせ〔に〕けるを見聞人(に)をしまぬはなかりけり
 「まくまうさう」は莫妄想、「へんなし」は「変無」「扁無」で「なんの役にも立たないさま」の意。画策したのが道灌、事前に攻め滅ぼしたのが上杉となっている。
 次に『太田氏関係文書集 第四』(練馬郷土史研究会)の「太田資武(すけたけ)書状」から引く。
  道灌ハ文明十八年丙午七月廿六日五十五歳にて遠行之由、慥被為聞之段被仰越(たしかにきかせられ(さうらふ)のだんおほせこされ)、拙者右申進(まゐらせ)候も其通に御座候。扨又、死去之正説ハ、風呂屋にて風呂之小口迄被出候時、曾我兵庫と申者太刀付、被切倒なから、当方滅亡と最後之一言。其時代ニハ都鄙以無隠由(とひかくれなきよしをもつて)、親度々物語仕候。
 また万里周九(ばんりしゆうく)の詩文集すなわち市木武雄著『梅花無尽蔵注釈』第四巻(続群書類従完成会)の「武州、江戸城にて、太田二千石(せき)、春苑道灌禅定門(ぜんぢやうもん)を祭る文」には「維(こ)れ時、文明龍集、丙午、秋の孟(まう)、年有六日(ねんいうろくじつ)。太田二千石、春苑道灌、相陽(さうやう)、糟屋(かすや)の府第(ふてい)の匠作君(しやうさくくん)の幕(まく)に入り、俄(にはか)に白刃の厄(やく)に系(かか)る。形骸、隕墜し魂魄、飛沈す」(原漢文)とある。

 太田道灌(おおたどうかん)(一四三二~一四八六)
 江戸城を築いたことで有名。小田急小田原線伊勢原駅前(神奈川県)から大山ケーブル駅行きのバスで約一〇分の道灌塚前で下車。写真前方、林の中に洞昌院の墓がある。少し歩いて左折すると家臣の七人塚、糟屋館の空堀跡がある。市内、大慈寺にも墓がある。伊勢原駅から徒歩三〇分、バスの便は多くない。なおJR山手線の日暮里駅前に道灌の騎馬像が建っている。
 
 鶴姫(初出「栄根通信」十分の七号、平成12年8月20日) 

 わが恋は三島の浦のうつせ貝むなしくなりて名をぞわづらふ
                                   海と女と鎧


 三島安精(みしまやすきよ)の『海と女と鎧ー瀬戸内のジャンヌ・ダルクー』(小峰書店)は「大祝家記(おおほうりかき)」に基づく小説である。主人公、鶴姫の先祖は三島水軍の越智氏。この越智(おち)氏が祭政を分離した結果が大山祇神社(おおやまずみじんじや)の祭祀職つまり大祝職三島氏と水軍の統帥としての守護職河野氏である。大祝家の神領十八万石。父は三十一代大祝安用(やすもち)。大山祇神社を警護する三島城陣代は兄安舎(やすおく)。敵は周防の大内。九州の大友と手を結んでいる河野へ圧力が強まっていた。大永二年(一五二二)七月、第一回大三島合戦。天文十年(一五四一)六月、第二回大三島合戦。大祝職は兄安舎。この戦いで次兄の三島城陣代安房(やすふさ)を失う。
  敵軍はすでに三島城攻略のために、台の浜に上陸を開始していた。漆黒の黒髪をなびかせた女武者鶴姫、神々しく、威風堂々、あたりを圧していた。鶴姫は大薙刀を持ち、騎馬にまたがり、頃合いを見はからって、
  「われは三島大明神の使い鶴姫と申すものなり、われと思わんものは出あえ」
  声は高々と響き渡った。この鶴姫の大声に力を得た味方の軍勢は、鶴姫に続けとばかり、勇気をふりしぼり、手負いの武士たちも、渾身の力を出して、じりじりと海岸へ敵の軍勢を押し返していた。鶴姫は敵陣の真中におどり込み、陣頭指揮で敵を追い払っていた。
 同年十月、第三回大三島合戦。三島城陣代は鶴姫が心を寄せる越智安成(やすなり)。この戦いでは、早船から敵の将船に乗り移り、軍将小原中務丞を討ち取っている。しかし天文十二年(一五四三)六月、陶晴賢(すえはるかた)率いる大内軍に敗退、安成は戦死。城にもどった鶴姫は装束を改めると辞世をしたためた。そののち三島宮の浜から小舟に乗って夜の海へ漕ぎ始めた。
  三島江の暁深し色更けて神さびわたる鈴の音かな        池原近江守
 「大祝家記」によると鶴姫入水の海では今も鈴の音が鳴り渡るという。

 鶴姫(つるひめ)(一五二四~一五四三)
 「大祝家記」には別伝もあるらしい。写真は大山祇神社(愛媛県越智郡大三島町)。宝物館に鶴姫着用の鎧が展示されている。大三島藤公園に建つ銅像の説明板には一五二四年出生、一五四四年死亡とある。山陽新幹線福山駅下車。駅前の今治方面行きバスに乗って大三島BS下車、タクシー(歩くには遠いし、バスは本数が少ない)。別にJR周遊バスも走っている。
 
 山崎宗鑑(初出「栄根通信」十分の十号、平成13年6月3日) 

 宗鑑はどちへと人のとふならばちと用ありてあの世へといへ
                        古今夷曲集(ここんいきよくしゆう)


 潁原退蔵(えばらたいぞう)の『山崎宗鑑伝』(中央公論社、『潁原退蔵著作集』第二巻)は「山崎宗鑑の伝、それは凡そ疑問符のみで包まれたものと言つてよい」と書き出されている。また「宗鑑の終焉に至つては、益々茫洋乎として捉へる所がない」とも。同じことを、
   山崎を去つたのちの宗鑑は、どこで亡くなつたか、残念ながら当代の資料では知ることができない。「霞の衣」を『犬筑波』の巻頭に掲げて時人を驚かせた宗鑑は、自ら霞の衣をまとい、四百年の彼方に遠のいてしまつた。
と書くのは『山崎宗鑑伝』(養徳社)の著者、吉川一郎である。「霞の衣」は「霞の衣すそはぬれけり/佐保姫の春立ちながら尿(しと)をして」(新潮社『竹馬狂吟集・新撰犬筑波集』新潮日本古典集成)。では辞世はどうかというと『滑稽太平記』(集英社『貞門俳諧集 二』古典文学大系2)に「宗鑑は長命成(なり)しが、癰(よう)といふ物を病て」に続いて、
  宗鑑はいづくへ行(ゆく)と人とはゞちとよふありてあの世へといへ
とある。これより古い『古今夷曲集』(岩波書店『七十一番職人歌合・新撰狂歌集・古今夷曲集』新日本古典文学大系61)では「背に癰瘡(ようさう)の出来(いでき)て身まかる時よめる」、
  宗鑑はどちへと人のとふならばちと用ありてあの世へといへ
 ところが一番古い『新撰狂歌集』(同前)になると、
  宗閑はいづくへゆくと人とはばちと用ありてあの世へといへ
宗鑑が宗閑に変わっている。詞書は「背中に腫物」云々で、ほぼ同じである。
 次に伝宗鑑の作を引く(前記『新撰犬筑波集』の作には署名がない)。
  月にえをさしたらばよき団(うちは)哉  『俳諧初学抄』(同前『貞門俳諧集 二』)
  手をついて哥申あぐる蛙かな        『阿羅野』(岩波文庫『芭蕉七部集』)

 山崎宗鑑(やまざきそうかん)(一四六五~一五五三)
 写真は俳諧の祖・山崎宗鑑が晩年を過ごしたとされる一夜庵。場所は香川県観音寺市。JR予讃線観音寺駅下車、徒歩二〇分。付近には小林一茶の俳跡・専念寺、有明浜の「寛永通宝」銭形がある。またJR東海道本線の山崎駅を降りると妙喜庵がある。宗鑑の旧蹟であるが要予約、あきらめて大山崎町歴史資料館に入る。宗鑑理解の一助になること請け合いである。
 
 鳥居強右衛門(初出「栄根通信」十分の十号、平成13年6月3日) 

 我君の命にかはる玉の緒はなにいとひけん武士(もののふ)のみち
                                改正三河後風土記


 天正三年(一五七五)、長篠城。鳥居強右衛門、敵に包囲された城を脱出。「我君」とは奥平九八郎。『改正三河後風土記(中)』(秋田書店)によると長篠城は「今年二月廿八日奥平九八郎に下し給ふ。是九八郎が最愛の妻をすて一族をはなれ、父美作守父子打つれ、己が居城(いじよう)を出て、御味方に参りし志一方ならず御感あ」ってのことである。徳川に走る者があれば武田に内通する者もいる。大賀弥四郎の場合「大賀が妻子五人を念志原にて磔にかけ置、弥四郎をば馬の三頭(さんず)の方へ顔を向鞍に縛り付、浜松中を引廻し、念志原にて妻子等磔にかけし有様(ありさま)を見せ、其後岡崎町口に生ながら土に埋め、竹鋸にて首を切らしめられしに、七日に及びて死したりとぞ」。援軍の約束を取りつけた鳥居強右衛門は再び城にもどるところを生捕りにされる。勝頼は言う。城際に立って味方は来ないと叫べ。「然らば汝恩禄をあたへ、勝頼が家人として、追々重く用ゆべし」。「強右衛門大に悦べる顔色して」、しかし実際は逆のことを高声で叫ぶ。「勝頼たばかられたりと大に怒り、強右衛門を有海原に磔(はりつけ)にかけたり。/この強右衛門はじめ城中忍出る時、/我君の命にかはる玉の緒はなにいとひけん武士のみち/と物に書付て出しとぞ。兼て覚悟の程哀れなりし事共也」。
 戦後、「九八郎妻を勝頼磔に懸しゆえ、神君の姫君を遣はされ信昌御聟となさるべし」とは信長の措置である。九八郎改め信昌、神君の姫君とは家康の長女亀姫であった。
 『落日の武将 武田勝頼』(山梨日日新聞社)の著者、上野晴朗は武田軍団の瓦解を例にとって「いわゆる江戸時代の、あの完成された武士道の忠義の思想は、幕府がこの人間の弱さの離合集散の習性を、儒教的に軌道修正して、幕藩体制に都合よくつくり直していったものだった。それはあくまで現実から離れたのちの哲学であり、のちの思想であったことが、この面でもよくわかると思う」と述べている。

 鳥居強右衛門(とりいすねえもん)(?~一五七五)
 写真は長篠城址史跡保存館。JR飯田線長篠城駅下車、徒歩八分。付近には武田勝頼の本陣となった医王寺山。隣が島居駅(徒歩可)、鳥居強右衛門磔死之碑と墓。一駅置いた三河東郷駅付近では新城市設楽原歴史資料館、馬防柵再現地、信玄塚ほか見所が多い。なお『三河物語』(岩波書店、日本思想体系26)にも鳥居強右衛門は登場するが辞世の記述はない。
 
 別所長治(初出「栄根通信」十分の一号、平成11年4月?日) 

 今ハ只恨ミモアラス諸人ノ命ニカハル我身ト思へハ
                                  播州征伐之事

 天正六年(一五七八)二月から天正八年(一五八〇)一月にかけての約二年、場所は現在の兵庫県三木市、包囲する羽柴秀吉と籠城する別所長治(べつしよながはる)による戦いは、食糧補給の道を断たれた別所側が長治・友之兄弟と一族の別所吉親(よしちか)が切腹することで幕引きとなった。条件は「諸人ノ命」すなわち残る士卒の助命である。資料としては秀吉に仕えた大村由己(ゆうこ)の『播州征伐事』と別所家の譜代である来野弥一右衛門の『別所長治記』があり、ともに『群書類従 第二十一輯合戦部』(続群書類従完成会)に収められている。『播州征伐事』は漢文、六人の辞世を知ることができる。より詳しい『別所長治記』は漢文読み下し、そのため読みやすいが辞世は長治女房・友之女房・山城女房が欠落している。以下『別所長治記』に従うと十七日「山城守ノ内室。男子二人女子一人ヲ左右ニ置。長治ヲ見奉リ。守リ刀ヲ抜。三人ノ子ドモヲ三刀ニ刺殺シ。我身刀ヲ口ニ啐ヘ俯ニ成テ死ス。是ヲ見テ長治モ三歳ノ男子引寄一刀ニ刺殺シ。北ノ方。友之ノ内室諸共ニ刺殺シ。大庭ニ下シ蔀遣戸(シトミヤリド)ヲ打砕キ。七人一所ニ心静ニ葬礼シ。兄弟打連出ラル。三間ノ客殿ニ畳一畳シカセ。兄弟左右ニ座シ給へバ。御乳人三宅治忠御前ニ畏」。徹底抗戦を主張する山城守は家臣によって討ち取られた。「長治。友之此由ヲ聞給。心閑ニ生害アリケルヲ。三宅治忠後ヘ参介錯仕。其刀ヲ取直シ腹十文字ニ切。刀ヲ啐ヘ俯ニ貫カレテ死ス。長治生年廿三。友之甘一」とある。
  モロ共ニ消ハツルコソ嬉シケレ後レ先タツ習ナル世ヲ       長治女房
  命ヲモ惜マサリケリ梓弓末ノ世マテノ名ヲ思フトテ        友之
  頼メコシ後ノ世マテニ翼ヲモナラフル鳥ノ契リナリ鳧(ケリ)   友之女房
  後ノ世ノ道モ迷ハシ思フ子ヲ我身ニソヘテ行末ノ空        山城女房
  君ナクハ憂身ノ命何カセン残リテカヒノアル世ナリトモ      三宅肥前入道

 別所長治(べつしよながはる)(?~一五八〇)
 神戸電鉄三木上の丸駅を降りると南側に城跡がある。公園整備された天守閣跡には辞世の石碑が建っている。「長治公照子夫人首塚」のある雲龍寺、また秀吉が首実検をしたという本要寺も近い。辞世の六首は「其中小姓一人持短冊来。見之辞世之歌也」(『播州征伐之事』)とある。俗に「三木の干殺し」と呼ばれる。写真は美嚢(みのう)川に架かる城山橋から撮影した本丸跡。
 
 武田勝頼の妻(初出「栄根通信」十分の十号、平成13年6月3日) 

 黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき思ひに消る露の玉緒
                                     甲乱記


 桑田忠親監修・宇田川武久校注『改正三河後風土記(中)』(秋田書店)、『甲乱記』(甲斐叢書刊行会編『甲斐叢書』第二巻、第一書房)、『理慶尼の記(一名武田勝頼滅亡記)』(古谷知新編『江戸時代女流文学全集』日本図書センター)に描かれる武田勝頼の妻の最後は一様でない。『改正三河後風土記(中)』は「へたてなき法をそたのむ身は田野のあしたの露と消はつるとも」を辞世として伝え、『理慶尼の記(一名武田勝頼滅亡記)』は歌物語さしずめ悲歌劇の趣である。だが武田八幡宮に奉納した自筆願文からは肉声が伝わってくる。
  敬って申し候。/南無帰命頂礼八幡大菩薩(なむきみようちようらいはちまんだいぼさつ)、此の国の本主(ほんしゆ)として、武田の太郎と号せしより此のかた、代々護り給う。ここに不慮の逆臣(げきしん)出で来たって、国家を悩ます。よって、勝頼運を天道にまかせ、命を軽んじて、敵陣に向かう。然りと雖も、士卒(しそつ)利を得ざる間、その心まちまちたり。なんぞ、木曾義昌そくばくの神慮をむなしくし、あわれ、身の父母を捨てて、奇兵を起こす。これ、自ら母を害するなり。なかんずく、勝頼累代重恩の輩(ともがら)、逆臣と心を一つにして、まちまちに覆さんとする。万民の悩恨、仏法の妨げならずや。抑々(そもそも)、勝頼いかでか悪心なからんや。思いの炎天にあがり、瞋意なお深からん。我もこゝにして、相共に悲しむ。涙滾㵎(こんかん)たり。神慮、天命まことあらば、五逆十逆たるたぐい、諸天かりそめにも加護あらじ。此の時にいたって、神心、私(わたくし)なく、渇仰肝に銘ず。悲しきかな。神慮まことあらば、運命此の時に至るとも、願わくば、霊神力をあわせて、勝つことを勝頼一しに告げしめ給い、仇を四方(よも)に退けん。病魂却って迷を啓(ひら)き、衆命(しゆうみよう)、衆恩、子孫繁昌の事。/右の大願成就ならば、勝頼、我ともに、社檀みがきたて、回廊建立の事。/敬って申し候。/天正十年二月十九日/源勝頼内(うち)(秋田書店『戦国の女性』桑田忠親著作集第七巻)
 武田家滅亡は天正十年(一五八二)三月十一日、場所は田野であった。

 武田勝頼(たけだかつより)の妻(一五六四~一五八二)
 小田原城主北条氏康の娘。北条氏政の妹。探索例。京都駅八条口から夜行バスに乗車。翌朝、韮崎駅前着。徒歩で武田八幡宮(写真。駅前のタクシーを利用するのが賢明)。もどって新府駅下車。徒歩一〇分弱の新府城跡散策。もどって甲斐大和駅下車、徒歩三〇分の景徳院。もどって甲府駅下車、武田神社へ。宝物殿に自筆願文が展示されていた(引用は「解説」文)。
 
清水宗治(初出「栄根通信」十分の三号、平成11年9月9日) 

 憂世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して
                                     高松記

 織田信長が本能寺で殺されたのが天正十年(一五八二)六月二日、毛利氏と対戦中であった羽柴秀吉が訃報を知ったのは三日。驚くべきことだが四日には和睦し、五日に兵を引き上げて出発、十三日には明智光秀を山崎の戦で破っている。講和条件は高松城主・清水宗治(しみずむねはる)の自刃であった。山根華陽(やまねかよう)の『高松記』(人物往来社『第二期戦国史料叢書7 中国史料集』)によれば四日午前十時頃、宗治と兄の月清と家臣を乗せた船が秀吉の本陣に向けて漕ぎ出すと、向こうから酒肴を乗せた検使の小舟がやってくる。秀吉の差入れである。宗治は最後の盃を取り交わすと「誓願寺の曲舞」を謡ったのち死についた、とある。
  憂世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して      宗治
  世の中の惜しまるゝ時散てこそ花も楓も色も色なれ     月清
 ところが中島元行の『中国兵乱記』(吉備群書集成刊行会『吉備群書集成第参輯(戦記部)』)では宗治と月清の歌が逆になっている。
  世の間の惜るゝ時散てこそ花も花なれ色も有けれ      宗治
  浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して      月清
 また小田木工允編『老翁物語』(近藤出版部『改定史籍集覧』第十五冊)も同様の辞世を記録しているが、月清の歌は登場しない。
  をしまるゝ時ちれはこそ蓮すはの花も花なれ色も色なれ   宗治
 ちなみに『高松記』は元文四年(一七三九)に清水元周が毛利藩に提出した同家譜録の一冊である。山根華陽は漢学者、当時は萩藩校明倫校の学頭であった。『中国兵乱記』の著者の中島元行は武将として高松城水攻めの際には二の丸に立て籠もっている。『老翁物語』の成立は寛永元年(一六二四)、小田木工允なる人物については不明である。

 清水宗治(しみずむねはる)(一五三七~一五八二)
 写真は羽柴秀吉本陣跡から望む高松城趾公園。中央の木の茂みが本丸跡、その左下に資料館。上を足守川が流れている(見えない)。築堤は右から左へ三キロ。右方向から取水し、湖水面積一八八ヘクタールの中に城は孤立した。最寄りの駅はJR吉備線備中高松駅。上田秋成の『吉備津の釜』(『雨月物語』)の舞台となった吉備津神社は隣の吉備津駅下車。
 
 小谷の方(初出「栄根通信」十分の三号、平成11年9月9日) 

 さらぬだに打ぬる程も夏の夜の夢路をさそふ郭公(ほととぎす)かな
                                     天正記


 大村由己(おおむらゆうこ)の『天正記』(人物往来社『戦国資料叢書1 太閤資料集』)は小谷の方と柴田勝家の辞世を次のように伝えている。賤ヶ岳の敗戦を経た四月二十三日である(賤ヶ岳古戦場へはJR北陸本線木ノ本駅下車、レンタサイクルとリフトが便利。小谷城跡へは一駅おいた河毛駅下車)。
  勝家、力及ばず、天守に入り、年来(としごろ)頼むところの股肱(ここう)の臣八十余人を呼び双(なら)べ、勝家が運命明日に相究む。今夜、曙(あけぼの)に及びて酒宴遊興をなし、余波(なごり)を惜しむべしと、勝家盃を取り、一族一家、次第々々に酌み流し、乱れ合せ、入れ違ひ、中飲み、思ひ指し、珍肴珍菓山の如く前に置き、後(うしろ)には上臈(じようろう)・姫公(ひめぎみ)を始め、局々(つぼねつぼね)の女房達、老婆・尼公に至るまで、(略)、繰返し繰返し酔(すい)を既(つく)す。(略)。夜深更に及ぶの間、酒を止めて、諸士退散す。勝家夫婦も深閨に入り、夜半の私語(ささめごと)、歳比(としごろ)相馴れ思ふところなく、唯(ただ)、(略)万春の盟(ちか)ひを算(かぞ)へ、翡翠(ひすい)の衾を重ねて、千秋の喜びを加へんと願ひしも、風前の灯、日影の霜となり、明日の晩をも待たずして消え果つべし。小谷の方は、勝家妻女たりと雖も、将軍の御一類にして、所縁多し。殊更、秀吉は、相公の后孫に至るまで、憐愍(れんみん)相親しからざる者なし。明朝、敵陣へ案内し、落ち給はんに、何の妨げかあらんや。其の儀に同じ給はば、慥(たしか)に送り届くべき由を打ち語る。小谷の御方聞き敢へず、泣き詢(くど)き、一樹の陰、一河の流れも他生の縁に依る。況んや、われ多年の契りをや。冥土黄泉までも誓ひし末へ、縦(たと)ひ女人たりと雖も、意(こころ)は男子に劣るべからず。諸共(もろとも)に自害して、同じ蓮台に相対せん事、希(こいねが)ふとこ ろなり。其の後、昔語りになり、閑然として少し真眠(まどろ)む程、半天に杜鵑(ほととぎす)の音信(おとず)るゝを聞きて、
    さらぬだに打ぬる程も夏の夜の夢路をさそふ郭公(ほととぎす)かな                 小谷御方
    夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山郭公(やまほととぎす)                 勝家
  かくの如く読み替(か)へす心の程、想像(おもいはかる)るべし。

 小谷の方(おだにのかた)(一五四七~一五八三)
 信長の妹。名は市。浅井長政との間に生まれた三人の娘は、長女の茶々が秀吉の側室淀君、次女の初が小浜城主・京極高次室、三女の江与が二代将軍秀忠室となっている。写真は福井市左内町の西光寺にある供養塔。勝家・お市らが合祀されている。楠戸義昭の『城と女 上巻』(毎日新聞社)によると中には「遺骨をはじめ遺品の類は何も」ないということである。
 
 柴田勝家(初出「栄根通信」十分の三号、平成11年9月9日) 

 夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山郭公
                                     天正記


 ルイス・フロイスは一五八四年の書翰で柴田勝家が「死するに先だち、談話が巧妙で身分のある老女を選び、この状況を目撃した後に城の後の門より出てその見たるところを詳しく敵に語らせた」(雄松堂書店『イエズス会日本年報 上 新異国叢書3』)と伝えている。また「彼は城に入る前、追撃する敵が市の糧食と富を利用するを得ざるやう火を放ち、風があったため、市はほとんど皆焼けた」とある。では『天正記』の続き。
  小谷の御方に対して、はかなき盟(ちか)ひに依り、夫(おつと)の手に懸かる事、痛ましいかな、歎かはしいかな。これ又、前世の業因(ごういん)にあらずや。打死自害は猶(なお)、武家の習ひなり。生者必滅(しようじやひつめつ)、会者定離(えしやじようり)、誰あつてか、これを免れんや。小谷の御方を始め、十二人の妾(おもいびと)、三十余人の女房達、唯今の最後を期して、念仏称名(しようみよう)の声の裡(うち)にも亦(また)涙欄干(らんかん)たり。譬(たと)へば、緑鬢(りよくびん)紅(こう)顔、楊柳の風に随ふ如く、桃花の露を含むに似たり。如何なる邪見(じやけん)の人も剣を取りこれを害せんや。勝家思ひ切り取りて寄せ、引き伏せ、一々差し殺し、勝家が腹の切り様を見よとて、左手の脇に差し立て、右手の背骨に引き著(つ)け、返す刀にて心(むね)の下より臍(ほぞ)の下にいたるまで、(たちき)つて、五臓六腑を掻き出だし、文荷(ぶんか)を呼びて、首を打て、と請(こ)ふ。文荷、後に廻り、首丁(ちよう)と打ち落とす。其の太刀にて腹を切つて死す。其の外、股肱(ここう)の臣八十余人、或は差し違へ或は自害し、天正十一年四月二十四日申(さる)の剋(こく)、かの城に楯籠(たてこも)る柴田が一類、悉く相果つるものなり。
 勝家の介錯をした文荷とは中村文荷斎。辞世の話を聞くと、「文荷、落つる涙を押へ、筆硯を取り出だし、これを書し、奥に一首を添ふ」とある。
  おもふどち打(うち)つれつつも行道(ゆくみち)のしるべやしでの山郭公(やまほととぎす)      文荷
 「勝家、武(たけ)き心にもこれを感じ」と、唯一、涙をみせる場面である。

 柴田勝家(しばたかついえ)(?~一五八三)
 写真は北の庄城本丸跡の柴田神社本殿(柴田神社提供)。JR北陸線福井駅より徒歩五分。フロイスは一五八一年に訪れて「この城は甚だ立派で、今大きな工事をして居り、予が城内に進みながら見て最も喜んだのは、城及び他の家の屋根の悉く立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである」(同前)と書き送っている。わずかに遺構が残る。
 
 石川五右衛門(初出「栄根通信」十分の一号、平成11年4月?日) 

 石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ
                      釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ)


 アビラ・ヒロンの『日本王国記』(岩波書店『大航海時代叢書』第Ⅰ期11)に一五九五年
  「都に一団の盗賊が集まり、これが目にあまる害を与えた」
  「都、伏見、大坂、それに堺の街路には、毎日毎日夜が明けると死体がごろごろしている有様であった」
  「日中は真面目な商人の服装で歩き廻り、夜になると、昼間偵察しておいたところを襲う」
  「その中の幾人かは捕えられ、拷問にかけられて、これらが十五人の頭目だということを白状したが、頭目一人ごとに三十人から四十人の一団を率いているので、彼らはいわば一つの陣営だった。十五人の頭目は生きたまま、油で煮られ、彼らの妻子、父母、兄弟、身内は五等親まで磔に処せられ、盗賊らにも、子供も大人も一族全部ともろとも同じ刑に処せられた」
とある。さらにローマ・イエズス会文書館所蔵の写本には、同時期に滞日したペドロ・モレホンが「これは九四年の夏である。油で煮られたのは、ほかでもなく、石川五右衛門とその家族九人か十人であった。彼らは兵士のようななりをしていて十人か二十人の者が磔になった」と注を加えている。
 私たちの知る石川五右衛門は、その後、浄瑠璃や歌舞伎などの作者によって再生された五右衛門であり、統一した人物像を描くのは困難である。釜煎りの場面で比較しても浄瑠璃の『石川五右衛門』(国書刊行会『徳川文芸類聚(十二巻)第八)、西鶴の『本朝二十不孝』(小学館『井原西鶴集 二』日本古典文学全集39)、近松門左衛門の『傾城吉岡染』(岩波書店『近松全集』第五巻)、並木宗輔(そうすけ)の『釜淵双級巴』(東京創元社『名作歌舞伎全集』第六巻)と一様でない。成立もしくは上演年次は一六八四~一六八七年、一六八六年、一七一二年、一七三七年。南禅寺三門が舞台の並木五瓶(ごへい)『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』(東京創元社『名作歌舞伎全集』第八巻)は一七七八年。なお『本朝二十不孝』に辞世の歌は登場しない。

 石川五右衛門(いしかわごえもん)(?~一五九四)
 百日鬘(かつら)に褞袍(どてら)と大煙管。四方を眺めて「絶景かな絶景かな。春の詠(なが)めは値(あたい)千金とは小さなたとえ、この五右衛門が目からは万両。もはや日も西に傾き、誠に春の夕暮の桜は、取り分け一入(ひとしお)一入。ハテ、麗(うら)らかな眺めじゃなア」(『楼門五三桐』)。写真は南禅寺三門。拝観料五百円を払うとあなたも五右衛門になれる。地下鉄東西線蹴上駅下車、徒歩五分。
 
 蒲生氏郷(初出「栄根通信」十分の六号、平成12年5月9日) 

 限リアレハ吹子(ふかね)ト花ハ散物(ちるもの)ヲ心短キハルノ山カセ
                                    氏郷記


 『氏郷記』(近藤出版部『改定史籍集覧』第十四冊)から「氏郷逝去之事」を抄出する。  去朝鮮征伐ノ頃モ下血ヲ病レケリ猶其ヨリ以下気色常ナラス面色黄黧ニシテ頂首ノ傍ラ肉少ク目ノ下微シ浮腫セシカハ去シ秋ノ比法眼正純ヲ召テ養生薬ヲ用ラレシカ其後腫脹弥甚(いよいよはなはだ)シカリケレハ去年名護屋ニテ宗叔(そうしゆく)カ薬相当シケルトテ又彼ヲ召テ薬ヲ用ラレシカトモ更ニ其験ナカリケリ同十二月朔日太閤如何思召ケン江戸大納言加賀中納言へ被仰付テ諸医ヲ集メ氏郷ノ脈ヲ見セヨトアリケレハ両人承テ竹田半井道三以下ノ名医ヲ集メ脈ヲ見セラレケルニ各大事ニテ候トソ申ケル明ル文禄四年正月迄宗叔薬ヲ盛ケレトモ氏郷次第ニ気力哀へシカハ其ヨリ道三ノ薬ヲ用ラレケリ去トモ早不叶シテ同二月七日生年四十歳ト申ニハ京都ニテ朝ノ露ト被消ケリ其時辞世ニ角ハカリ
    限リアレハ吹子ト花ハ散物ヲ心短キハルノ山カセ
  未タ勇々シキ年歳ヲ一期ト見捨給フ事哀ナリケル事共ナリ近習外様ノ老若男女賤男賤女ニ至ルマテ泣悲メトモ甲斐ソナキ其後葬礼美々シク取繕ヒ紫野大徳寺ノ和尚ヲ請シテ一時ノ烟トナシ進ラセケリ
 高橋富雄編『蒲生氏郷のすべて』(新人物往来社)の「蒲生氏郷関係年譜」から拾うと一五五六年、中野城で出生(滋賀県)。一五八四年二十九歳、秀吉より松ケ島城を与えられる(十二万石、三重県)。一五八八年三十三歳、松坂に新城を築く。一五九〇年三十五歳、会津に四十二万石を与えられる(福島県)。一五九一年三十六歳、加増されて七十三万四千石(後の検地で九十二万石)。氏郷ならずとも「心短キハルノ山カセ」である。なお夫人は信長の娘。十三歳で嫁いで三十八歳で氏郷と死別、八十四歳の天寿を全うするが、それは蒲生家の断絶を見た七年後であった(同「蒲生氏郷関係史跡事典」)。

 蒲生氏郷(がもううじさと)(一五五六~一五九五)
 写真は滋賀県蒲生郡日野町の信楽院。蒲生家の菩提寺である。近江鉄道日野駅からバス、村井新町下車。中野城址も近い。また日野高校前下車、雲雀野公園に建つ蒲生氏綿公銅像は『蒲生氏郷紀行』(続群書類従完成会『群書類従 第十八輯』)所収の望郷の歌を刻む。
  おもひきや人の行ゑそ定めなき吾ふる郷をよそにみんとは
 
 豊臣秀吉(初出「栄根通信」十分の一号、平成11年4月?日) 

 つゆとをちつゆときへにしわかみかななにわの事もゆめの又ゆめ
                         大阪城天守閣蔵自筆辞世和歌詠草

 真田増誉(さなだぞうよ)の『明良洪範(めいりようこうはん)』(国書刊行会)巻之十から「秀吉公の辞世の歌」を引用する。
  太閤秀吉公聚楽の城出来し時何とか思召れけん和歌一首を詠ぜらる其和歌「露と置き露と消へぬる吾身哉難波の事は夢の世の中」と自筆にて書せられ尼考蔵主(かうざうす)に命じて深く納置くべし用ある時に出せよと宜ひける年経て慶長三年八月十七日考蔵主を召していつぞや預け置きし和歌はと御尋ねあり考蔵主やがて出し差上げければ年月日御諱をも書き加へ給ひ其の儘さし置れ翌日薨御ましましける右の和歌を太閣の辞世なりとて木下家に伝へて今猶肥後守豊臣公定所持せりと也
 自筆辞世は現在、大阪城天守閣の所蔵となっている。『平成の大改修竣工・秀吉四百回忌記念 特別展 豊臣家の名宝』(大阪城天守閣特別事業委員会)に写真が収められている。解説によると縦四四・八㎝、横一七・八㎝、右と重複する印象は免れがたいが、引用すると
  有名な秀吉自筆の辞世和歌詠草。末尾の「松」は秀吉の雅号である。//秀吉は、慶長三年(一五九八)八月十八日伏見城中に病没し、その波乱に満ちた六十二年の生涯を閉じたが、これはその生涯をふり返り(略)万感込めて詠(うた)い上げたものである。真田増誉の著した『明良洪範』という史料によれば、秀吉が絶頂期にあった天正十五年(一五八七)、関白公邸として京都に聚楽第を築いた時点で既にこの辞世和歌は用意され、いざという時にはすぐに出せるようにと命ぜられた侍女考蔵主の手もとで保管されていたというが、真偽のほどは定かでない。/秀吉の正室北政所おね(高台院)の実家、備中足守藩木下家に伝来し、昭和三十三年大阪城天守閣の所蔵に帰したとある。
 人気の高台寺(通称ねねの寺)は京阪電車四条駅下車。一般的ではないが、豊国廟と豊国神社そばの耳塚は多くのことを考えさせてくれる(いずれも京阪七条駅下車)。

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)(一五四六~一五九八)
 写真は水上バスから見た大阪城。あいにくの雨だった。秀吉は伏見城築城の際、宇治川の流れを変えて伏見に河港を開いた。以後、鉄道が通るまで伏見と大阪問の水運は交通運輸の大動脈であった。元禄七年(一六九四)、松尾芭蕉の遺骸は膳所の義仲寺に運ばれる。付き従う者一〇人。伏見までは、やはり川舟であった。
  なきがらを傘に隠すや枯尾花   其角
 
 細川ガラシャ(初出「栄根通信」十分の二号、平成11年6月28日) 

 ちりぬへき時しりてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ
                          綿考輯錄(めんこうしゆうろく)

 天明二年(一七八二)に清書が完成したという『綿考輯録』の巻十三(出水叢書『綿考輯録』第二巻)に「又一書、秀林院様御辞世の和歌」として右の一首が記録されている。書名は明らかにされていない。同書では事件から四十八年後に書かれた『霜女覚書(しもじよおぼえがき)』も読むことができる。慶長五年(一六〇〇)、石田三成が人質として大阪城に移そうとしたときのことである。夫忠興(ただおき)は出陣中でいない。「御上様御意には誠押入候時ハ御自害可被遊候まゝ、其時少斎奥へ参、御かいしやくいたし候様ニと被仰候、与一郎様 御上様へも人しちニ御出し有ましく候まゝ、是ももろ共に御しかい(自害)なさるへきよし内々御やくそく御座候事、」「少斎・石見・稲留(冨)此三人たんかう(談合)有之、いなとミはおもてにて敵を防き候へ、其ひまに 御上様御さいこ候様ニ可仕由談合御座候故、即いなとミハ西の門へ居申候、左候而其日の初夜の比敵御門迄よせ申候、稲留ハ其時心かハりを仕り敵と一所ニ成申候、其様子を少斎聞、もはや成ましくと思ひ長刀を持 御上様御座候所へ参り、只今か御さいこにて候由申され候、内々被迎合候事にて御座候故 与一郎様奥様をよひ、一所にて御はて候ハんとて御へやへ人を被遣候へハ、もはやいつかたへやらん御のき被成候ニ付、力なく御果被成候、少斎長刀にて御かいしやくいたし申され候事」とある。
 元文四年(一七三九)五月九日付で自序のある『常山紀談(じようざんきだん)』(岩波文庫)の浄写本が完成するのは四十年近く後世である。その巻之十四に「細川忠興の北の方義死の事」(岩波文庫では中巻)があり、ここでは別の辞世を伝えている。
  先だつはおなじかぎりの命にもまさりてをしき契とをしれ
 すなわち「かたみとやおもはれけん、手ずさみのやうに書(かき)すてゝ硯の中に入れられし歌」だという。細川家史と戦国武士の逸話集。しかし、ほぼ同時進行の著作である。

 細川(ほそかわ)ガラシャ(一五六二~一六○○)
 写真は細川邸跡に残った井戸、越中井。碑の正面は「細川忠興夫人秀林院殉節之遺址」と読める。場所は大阪市中央区法円坂、最寄りの駅はJR環状線森ノ宮駅。天守閣が望めそうだ。このほか阪急京都線崇(そうぜん)禅寺駅からだと「秀林院細川玉子之墓」のある崇禅寺が近い。JR京都線長岡京駅から歩くこと一〇分、公園という先入観を裏切る勝竜寺城公園が見えてくる。
 
 黒田如水(初出「栄根通信」十分の三号、平成11年9月9日) 

 おもひおく言の葉なくてつひに行く道はまよはじなるにまかせて
                                    黒田家譜


 『黒田家譜』(国書刊行会『益軒全集』第五巻)の巻之十四「慶長九年、如水五十九歳。長政三十七歳」は次のように書き出されている。
  三月如水病に臥したまふ。かねて長政に告(つげ)ていはく、我が死期来る二十日の辰の刻ならん。我死なば葬礼を厚くすべからず。又仏事を専とすべからず、只国を治め民を安ずる事、我が好む志なれば、是を以死後の孝養とすべしとぞのたまひける。長政父の病を憂へ、湯薬をもみづから試みて、孝養を尽し給へども、医療験なくして、終に三月二十日辰の刻に身まかり給ふ。如水病中に辞世の歌を詠じ給へり。
    おもひおく言の葉なくてつひに行く
     道はまよはじなるにまかせて
  此歌、自短冊に書て名を記し、判取を加へらる。連歌の宗匠昌琢(しやうたく)、玄朔、此歌を聞て、各歌を詠み短冊に書て送り参らす。
    いまよりはなるにまかせて行末の
     春をかぞへよ人のこゝろに        昌琢
    なに事もなるにまかする心こそ
     よはひをのぶるくすりなりけれ     玄朔
  長政右三首の和歌を台紙におし、裏にみづからの名判をしるして、什襲(じふしふ)しおかれける、又昌琢、如水の逝去を聞て、追悼の発句をつかうまつる。
    をしみこし春やはつかの夜半の月
  如水の遺骸は、那珂郡十里松の内崇福寺に葬る、龍光院と号す。京都大徳寺内にも、一院を建立し、龍光院と号し、如水の位牌を安置せり。

 黒田如水(くろだじよすい)(一五四六~一六〇四)
 黒田孝高(よしたか)。通称、官兵衛。軍師として名高い。『黒田家譜』では福岡城で死んだことになっているが、京都伏見説から両論併記まで事典も一様でない。写真は福岡城跡。黒田如水隠居地(三ノ丸御鷹屋敷)跡碑がある。墓のある崇福寺(福岡市博多区)、また有岡城跡(兵庫県伊丹市)ほか足跡は多いが、しっくりとこない。洗礼名シメオン、福岡(京都)に客死であろう。
 
 伊達政宗(初出「栄根通信」十分の九号、平成13年2月25日) 

 曇りなき心の月をさきたてゝ浮世の闇をはれてこそゆけ
                                 政宗公御名語集


政宗側近の手になると思われる『政宗公御名語集』(宝文堂『仙台叢書 復刻版』第一巻)によると寛永十三年(一六三六)正月、鹿猟に出かけた際の逸話として
御入馬と相定りし日。雨ふり其日は御逗留被成。朝夕の御ぜんいつよりもはやく過して。其上御はなしにみな人さいこの時。ちせいとて歌をよみ詩をつくる。げにも我等年かたのごとくなれば。死期もちかからんとおもひ。ぢせいともならんとつらねたり聞候へとて
と披瀝されるのが掲出歌である。二月三月の頃より気分すぐれず。四月二十六日「梅のみやと申所にて。朝の御ぜんめし上られ。何のついでもなきに。追腹切の御はなし被成。それよりいにしへいままでの国々方々の。おいはら仕たるよしあしきのみ。しみじみと御はなし被成候」。病篤し。公式記録ともいうべき『伊達家治家記録』(藩祖伊達政宗公顕彰会)によれば殉死を願い出た南次郎吉には「夜前ハ両通具二見ラレ申シ候内々ニ存候ハヽ留メ申スへキ処是非ナキ次第ニ候」(五月七日)、加藤十三郎安次に対しては「今度煩ニツイテ所存之通届承リ候是非ナク候身之相果候以後之義ニ候条留メ申スヘキ分別モ之ナク喉落涙訖候」(五月十八日)、さらに「殉死ト志ス輩書付ヲ以テ申上ク御自筆ニ御返書ヲ賜ハルモ有リ㝡早叶ヒ玉ハストテ御口上ニ仰下サルヽ者有り」(五月二十二日)、二十四日死去。柩は江戸から仙台へ。再び『政宗公御名語集』にもどる。「御供と申あげし石田将監事。上意として讃岐殿・但馬殿いろいろ御とめ候へども。ならずして御供衆引つれて下られける」「御供申上る衆下りしかば。そのさいし親類のなげきかなしむ事あはれなり。御葬礼一二日まへに。やどにて腹切る人もあり。又寺々にてはら切るもありて。みなみなしがいはけぶりとなしぬ」。かくて一五人が辞世を詠んで殉死。陪臣五人を加えると二〇人。「是も何ゆへ我君の温情たぐいなかりしゆへ。うけがたき人身をうけ。百ねんの命をあやまつこそかなしけれ」とある。

 伊達政宗(だてまさむね)(一五六七~一六三六)
 写真は政宗が眠る瑞鳳殿への道。JR仙台駅西口バスプールより観光スポットを循環する「るーぷる仙台」に乗車、瑞鳳殿前下車。住居表示は青葉区霊屋下(おたまやした)。寛永十三年四月十八日、杜鵑(ほととぎす)を聞くため「経峯へ御出此所ニ暫時立セラレ御心細キ御様子ナリ御薨去ノ後ハ此辺に御座シテ然ルヘキ所柄ナリト奥山大学ニ向テ仰セラレ御杖ヲ卓テ玉フ」(『伊達家治家記録』)。
 
 伊丹右京(初出「栄根通信」十分の五号、平成12年2月12日) 

 春は花秋はもみぢとたはぶれてながめし事も夢のまたゆめ
                          藻屑物語(もくずものがたり)


 時は寛永十七年(一六四〇)、『増訂武江(ぶこう)年表』(国書刊行会)から引用する。
  此頃何某候に宮づかへせし伊丹右京といへる美少年、十六歳、男色の意地によりて、今年四月同藩細野主膳といふ者を切害したれば、同月それの日主君より命ぜられ、浅草慶養寺に於て自尽を給ふ、其時右京と男色の契りありし、同藩舟川采女といへる美少年十八歳も、爰に来りて倶に自害して失けるを、此頃世のかたりぐさとなりけるとぞ右京辞世の歌、
    春は花秋は月にとたはふれてながめし事も夢のまたゆめ
  采女辞世の歌
    もろともにいさゝは我もこゆるぎのいそぎてこえんしでの山川
 『藻屑物語』(中央公論社『燕石十種(えんせきじつしゆ)』第四巻)によると右京は
  主膳近き比、われに心をかけ、様々無理非道を申かけ候得ども、つやつやいらへをだにせで打過侍るを、にくしつれなしとて、ひたすら我をたばかり、やみ討にして、けふ翌の内他国へいなん、と道の程の用意いたせしよしを聞侍りし故、今は是までと、只一筋に存詰
と申し開きをしている。ちなみに右京は「天下の御後見」である「何某候」(『藻屑物語』では「桜川侍従」)と男色の関係にあったことが「唐の賢王、御寵愛の童御褥を越しとてさへ、掟なれば南陽県へ遺し給ふ、いはむや」と切腹を主張する意見からも明らかである。また右京と采女の間を取り持った志賀左馬助という人物も「采女と浅からずいひかはせしが」とある。そこに割り込んできたのが「事もなきに太刀の柄捻りければ」という細野主膳であった。
 なお西鶴の『男色大鑑』巻三(小学館『井原西鶴集 二』日本古典文学全集39)に「薬はきかぬ房枕」があるが、これは『藻屑物語』のダイジェスト版となっている。

 慶養寺(けいようじ)(写真。台東区今戸一丁目)
 事件が事件だけに石碑そのほか思い出させるものは何もない。『燕石十種』の『藻屑物語』は曲亭馬琴がまた写ししたものであり、その元を辿ると慶養寺の所蔵である。しかし小学館『井原西鶴集 二』の解説によると関東大震災で消失、また桜川侍従は大老か老中の匿名としている。『武江年表』は名主で随筆家でもあった斎藤月岑(げつしん)(一八〇四~一八七八)の編である。
 
 山中源左衛門(初出「栄根通信」十分の六号、平成12年5月9日) 

 わんざくれふんばるべいかけふばかりあすはからすがかつかじるべい
                             增訂武江(ぶこう)年表

 『増訂武江年表』(国書刊行会)の承応三年(一六五四)に次のような記事がある。
  ○今年町奴御穿鑿(せんさく)あり、夢の市郎兵衛、唐犬権兵衛、などいへる男伊達と号せし悪党の事なり、六法組などゝ号して市中をはいくわいし、喧嘩を仕かけ諸人の妨せしもの也、六法組六法言葉等の事、醒世翁(せいせいをう)が奇跡考、柳亭翁の用捨箱等を見て其趣をしるべし、この男伊達の内、山中源左衛門といふもの、正徳年中麹町真法寺にて腹切し時、辞世
    わんざくれふんばるべいかけふばかりあすはからすがかつかじるべい
  これ則六法言葉なり、この時の町奴の名三十四人談海(だんかい)に見へたり、
 また『大猷院殿御実記(たいゆういんどのごじつき)』巻六十二(吉川弘文館『徳川実紀 第三篇』新訂増補国史大系)の正保二年(一六四五)十一月八日の記事に「この日山中源左衛門某切腹せしめらる。よて検死として使番下曾根三十郎信由まかる。これは病のよし申閉居してありながら。市中を出めぐり。不良のふるまひせしをもてなり」とある。『新訂 寛政重修諸家譜(かんせいちようしゆうしよかふ) 第四』(続群書類従完成会)に山中は「先祖累世甲斐国都留郡山中城に住せしより家号とし、市兵衛某にいたりて家たゆ」、重之(源左衛門の項は)
  元和八年はじめて台徳院殿に拝謁し、のちめされて大番に列し、廩米(りんまい)二百俵をたまふ。そのゝち番を辞し小普請となる。正保二年十一月累年病を称して仕へを怠るうへは、つゝしみて蟄居すべきのところ、みだりに市中に出、不法のふるまひありしむね御聞に達し、糺明あるのあひだ、支配杉浦内蔵允正友にめし預けられ、八日切腹せしめらる
とある。文中の台徳院殿は秀忠、大猷院殿は家光。
 なお森銃三編『人物逸話辞典』下巻(東京堂出版)が紹介する『武備目睫(ぶびまつげ)』は活字化されていないのか、読むことができなかった。元文四年(一七三九)の序があるらしい。

 山中源左衛門(やまなかげんざえもん)(?~一六四五)
 写真は外堀内では唯一の寺、心法寺(千代田区麹町六丁目)。JR中央線四ツ谷駅下車。寺院本末帳研究会編『江戸幕府寺院本末帳集成 下』(雄山閣)の「寺院名索引」を見ると真法寺という寺はあるが備中国哲多郡金屋村、古義真言宗、これしかない。江戸しかも外堀内ということを考えれば記録から抜け落ちることも考えにくい。真法寺は心法寺の誤伝であろう。
 
 乞食(初出「栄根通信」十分の七号、平成12年8月20日) 

 ながらへばありつる程のうき世ぞとおもへば残る言の葉もなし
                                    新著聞集


 『新著聞集』(吉川弘文館『日本随筆大成』第二期5)に次のような話が載っている。著者は神谷養勇軒(かみやようゆうけん)(一七二三~一八〇二)、寛延二年(一七四九)の刊行である。
   ○乞食自害して歌をのこす
  寛文十二年四月上旬に、洛東三条橋の下に、廿歳あまりの乞食の女、自害してけり。かたはらに書残せし一首あり、
    ながらへばありつる程のうき世ぞとおもへば残る言の葉もなし
とありし事、都にかくれなき事にて、有りがたくも、天上の御沙汰にまで及びて、有る貴き御方和せさせたまひて、
    言の葉は長し短し身のほどをおもへばぬるゝ袖の白妙
  又、
    なきと侘るその言の葉の残るさへ聞に泪の袖にあまれる
  さり共和歌の徳、いふも更なりと、聞人ごとに泪せきあへず侍りき。
 寛文十二年すなわち一六七二年である。
 鴨川と橋あるいは河原から連想するのは石川五右衛門・豊臣秀次の妻妾幼児等二十九人・阿国歌舞伎、幕末では井伊直弼の侍女で三条大橋の橋脚に縛られて三日三晩晒されたという村山たか女といった具合に私達の記憶は多くの抽斗を持っている。
 ところで五条大橋のたもとに牛若丸と弁慶の石像が建つ。しかし『義経記』(岩波書店、日本古典文学大系37)その他を開いても橋は舞台として登場しない。子供の頃に読んだ絵本では確かに橋だった。あれは明治四十四年(一九一一)の文部省唱歌「牛若丸」の歌詞「京の五条の橋の上」「来い来いと欄干の」「ここと思えば又あちら」からきているのだろうか。

 三条大橋(さんじようおおはし)(写真は四条大橋より撮影)
 パリの「ポン・デ・ザール」(芸術橋)をデザインした橋の建設が予定されていたのは、この二つの橋の中間である。白紙撤回されたのは吉報であった。なお河原に坐っているカップルを見ていると測ったように等間隔を保っている。もし新しい二人が仲間入りするとどうなるのか。静かな波紋の末に元にもどるのであるが、これをカップル均等の法則と呼ぶらしい。
 
千子(初出「栄根通信」十分の二号、平成11年6月28日) 

 もえ易く又消え易き蛍哉
                        俳諧玉藻集(はいかいたまもしゆう)


 本名千代子、去来の妹。掲出句は蕪村の編集になる女流句集『俳諧玉藻集』(有朋堂文庫『名家俳句集』)に「辞世」の前書で収録されている。生年不詳、一子をもうけたらしいが元禄元年(一六八八)五月十五日、婚家において死亡。兄妹の仲はよかったらしい。   日(ひ)あたたかに。風涼(かぜすゞ)しき頃とて。妹の伊勢まうでするに催(もよほ)され。八月廿日あまり。宵(よひ)より臥す。
    伊勢まてのよき道づれよ今朝の雁         千子(ちね)
  といひ出たれば。
    辰己(たつみ)のかたに明る月影         去来
 に始まる去来の『伊勢紀行』(日本図書センター『日本紀行文集成』)に、
    秋の夜(よ)も寝(ね)ならぶ旅のやどり哉    去来
  千子はじめて。父母(ふぼ)の国わかれ来ぬる憐(あはれ)も。大かたならねど。
云々とあり、この年すなわち貞享二年(一六八五)旅行当時は独身であったようだ。伊勢参りの後「今宵(こよひ)は家づとの品々買取りて夜更(よふか)し。明の日千子が。いまだ伊勢(いせ)の海士(あま)しらぬを。口をしがれば。二見(み)にまはりいづ」とあるように兄と妹の旅行記である。
 蝶夢(ちようむ)編の『去来発句集』(有朋堂文庫『名家俳句集』)に次の句がある。
    妹千子身まかりけるに
  手の上に悲しく消ゆる蛍かな
 同じ句を『阿羅野』(岩波文庫『芭蕉七部集』)で見ると前書は「いもうとの追善に」。
  手のうへにかなしく消(きゆ)る蛍かな
 また『猿蓑』(岩波文庫『芭蕉七部集』)で芭蕉の追悼吟を知ることができる。前書「千子が身まかりけるをきゝて、みのゝ国より去来がもとへ、申(まうし)つかはし侍(はべり)ける」。
  無き人の小袖も今や土用干

 蛍(写真)
 兵庫県川辺郡猪名川町で撮影。宮本輝の『蛍川』(新潮文庫)に「蛍の大群は、滝壺の底に寂寞(せきばく)と舞う微生物の屍(しかばね)のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱(おり)と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた」とある。時代背景は昭和三十七年。場所は富山県の「いたち川」。今では環境問題と切り離しては考えられない。
 
 井原西鶴(初出「栄根通信」十分の四号、平成12年1月3日) 

 浮世の月見過しにけり末二年
                                   西鶴置土產

 『西鶴置土産』(小学館『井原西鶴集 三』日本古典文学全集40)は弟子の北条団水がまとめた西鶴の遺稿で、次のような辞世吟を見ることができる。
      難波俳林
        松寿軒 西鶴
    辞世 人間五十年の究(きはま)り、それさへ
       我にはあまりたるにましてや
  浮世の月見過しにけり末二年
    元禄六年八月十日五十二歳
 中央公論社の『定本西鶴全集』第十二巻に所収の元禄五年(一六九二)三月四日付うちや孫四宛書簡に「今程目をいたミ 筆も 覚不申候」云々とある。これが末二年のことなのだろう。矢数俳諧や浮世草紙作者としての文名とは別に西鶴の伝記的資料は少ない。その中で西鶴十三回忌追善俳諧集『こゝろ葉』(前記『定本西鶴全集』第十二巻)に、
  虚労裡にふるきあはれを秋の風        鷺助(さぎすけ)
とあるのは興味深い。虚労とは肺結核の症状を指すらしい。また湖梅の前書に「井原入道西鶴は風流の翁にて机に/蘭麝を這し釣舟に四季のものを/咲せ哥行引曲をさとりて俳諧の通/達なる事浦山の賤の子も乳房を/離してこれを訪ふ下戸なれは飲酒の/苦をのかれて美食を貯て人に喰せて楽むおもへは/一代男」とあって趣味と嗜好を彷彿とさせる。このほか伊藤梅宇の『見聞談叢』(岩波文庫)に「貞享元禄の此、摂の大坂津に平山藤五と云ふ町人あり。有徳なるものなれるが妻もはやく死し、一女あれども盲目、それも死せり。名跡を手代にゆづりて僧にもならず、世間を自由にくらし行脚同事にて頭陀をかけ、半年程諸方を巡りては宿へ帰り、甚誹諧をこのみて、一晶をしたひ、後には又流義も自己の流義になり、名を西鶴とあらため」云々とあって私生活の一端を窺うことができる。

 井原西鶴(いはらさいかく)(一六四二~一六九三)
 小学館の日本古典文学全集38『井原西鶴集 一』の「解説」によると矢数俳諧独吟四〇〇〇句の場合で一句の持ち時間二一秒、一昼夜二三五〇〇句の場合だと一句四秒になるらしい。写真は独吟四〇〇〇句の舞台となった生国魂神社、境内に西鶴の座像がある(天王寺区生玉町)。終焉の地に辞世の句碑(中央区谷町)。墓は誓願寺(中央区上本町、いずれも大阪市)。
 
 芭蕉(初出「栄根通信」十分の二号、平成11年6月28日) 

 旅に病て夢は枯野をかけ廻る
                                     笈日記


 各務支考(かがみしこう)の『笈日記(おいにつき)』(日本俳書大系刊行会『蕉門俳諧後集』日本俳書大系3)によると、元禄七年(一六九四)十月八日「之道(しだう)、すみよしの四所に詣して此度の延年をいのる。所願の句あり、しるさず。此夜深更におよびて介抱に侍りける呑舟(どんしふ)をめされて、硯の音のからからと聞えければ、いかなる消息にやとおもふに」とあって、これが右の「病中吟」である。病床は御堂前花屋仁左衛門(にざえもん)方である。さらに十日「此暮より身ほとをりてつねにあらず。人々殊の外におどろく。夜に入て去来をめして良談(やゝだん)ず。その後支考をめして、遺書三通をしたゝめしむ。外に一通はみづからかきて伊賀の兄の名残におくらる。その後は正秀あづかりて、木曾塚の旧草にかへる。/是より後、十六日の夜曲翠亭に会して、おのおのひらき見るに、伊賀への文はたゞ何事もなくて、先(さき)だち給へる事のあさましう、おぼゆるよし、かへすがへす申残されしなり。/外の三通には、思ひをかける形見の品々、おほくは反故・文章等の有所、なつかしき人々への永き別をおしめるなりけり」。十二日「名残も此日かぎりならんと、人々は次の間にいなみて、なにとわきまへたる事も侍らず也。牛の時ばかりに目のさめたるやうに見渡し給へるを、心得て粥の事すゝめければ、たすけおこされて、唇をぬらし給へり。その日は小春の空の立帰りてあたゝかなれば、障子に蠅のあつまりいけるをにくみて、鳥もちを竹にぬりてかりあるくに、上手と下手のあるを見て、おかしがり申されしが、その後はたゞ何事もいはずなりて、臨終申されけるに、誰も誰も茫然として終(つひ)の別とは今だに思はぬ也。此夜河舟にてしつらひのぼる。明れば十三日の朝、伏見より木曾塚の旧草に入れ奉りて、茶菓のまうけ、います時にかはらず。埋葬は十四日の夜なりけるが、門葉焼香の外に、余哀の者も三百人も侍るべし」とある。
 このほか上方行脚中で十一日に馳せ参じた榎本其角の『枯尾花』(日本俳書大系刊行会『蕉門俳諧前集』日本俳書大系2)に「芭蕉翁終焉記」がある。十日の遺書四通は富士見書房の『校本松尾芭蕉全集』第八巻で読むことができる。

 松尾芭蕉(まつおばしよう)(一六四四~一六九四)
 写真は御堂筋東側緑地帯にある碑「此附近芭蕉終焉ノ地」云々。大阪市中央区、南御堂前、最寄りの駅は地下鉄御堂筋線・中央線・四ツ橋線本町駅。気がつく人は少ないだろう。南御堂境内に句碑がある。ちなみに『全国文学碑総覧』(日外アソシエーツ)で、ざっと計算したところ一八〇〇前後。数にも驚かされるが、所在地を見ると生前の足跡を凌ぐものがある。
 
 浅野長矩(初出「栄根通信」十分の二号、平成11年6月28日) 

 風さそふ花よりも猶我はまた春の名残をいかにとかせん
                                 多門伝八郎筆記


 元禄十四年(一七〇一)三月十四日、内匠頭(たくみのかみ)の最後に立ち会った御目付当番の多門伝八郎の記録(鍋田晶山『赤穂義人纂書 一 赤穂義士資料大成』日本シェル出版)によると、こうだ。
  切腹の場所へ罷越候処、昼よりは明の六ッ過頃也、銘々座に付き、内匠頭も座に付候て被申候には、御検使衆江一ッの願有之、拙者差料の刀定て是迄御預被置被下候、右刀にて介錯致し貰度候、右刀は跡にて介錯人に差遣度と被申候故、(略)、直に取寄候内、硯筥紙をと申故、差出候処、刀参り申候内に、内匠頭硯筥引寄、ゆるゆる墨を摺、筆を取、風さそふ花よりも猶我はまた春の名残をいかにとかせんと書て、刀を介錯人御徒目付磯田武太夫に相渡候内相待被居候、右の歌は御徒目付水野杢左衛門受取、田村左京太夫江差出候に付、請取被申内、介錯人磯田武太夫古法の通介錯致し、切腹相済見届候返答有之、死骸等は田村左京太夫方にて取計候、
 身柄を幕府から預けられた側の「田村右京太夫殿江浅野内匠頭御預一件」(『赤穂義人纂書 二』)で同じ場面を見ると、こうなる。
  上意之趣庄田下総守申渡、
   其方儀、意趣有之由にて、吉良上野介を理不尽に切付、殿中をも不憚、時節柄と申、重畳不届至極に候、依之切腹被仰付候由、
     内匠御請
   今日不調法成仕方、如何様にも可被仰付儀を切腹と被仰付、難有奉存候、
  一、右畢而即御徒目付左右後に附添、障子を明、庭へおろし、毛氈之上に着、小脇差三方に戴之、中小性愛沢惣右衛門麻上下着持出、前に差置之、介錯御徒目付之内磯田武太夫即相仕廻、首を指揚検使江見之、

 浅野長矩(あさのながのり)(一六六七~一七〇一)
 『多門伝八郎筆記』は『赤穂義士事典』(新人物往来社)によると、内匠頭の辞世は他書になく、興味深いが、あまりにできすぎているため、偽書ともいわれている、とある。写真は東京都港区新橋三丁目にある奥州一ノ関三万石の城主田村右京太夫上屋敷跡。碑は「浅野内匠頭終焉之地」とある。最寄りの駅は都営浅草線新橋駅。交差点脇、車道側に向いて建っている。
 
大石良雄(初出「栄根通信」十分の二号、平成11年6月28日) 

 あら楽や思は晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし
                              介石記(かいせきき)


 『介石記』(鍋田晶山『赤穂義人纂書 二 赤穂義士資料大成』日本シェル出版)の巻第三の「義士伏誅、并辞世詩歌」の項、「癸未二月四日、一列四十六人之者共、徒党を結び飛道具を以、公儀を不憚之仕方不届之由にて、切腹被仰付候、其子共は及遠島、被仰渡趣」に続いて右の歌が「辞世」の前書で登場する。このほか『江赤見聞記(こうせきけんもんき)(赤穂義人纂書補遺 赤穂義士資料大成三)巻七の「切腹前辞世之詩歌」として、さらには『義人遺草(ぎじんいそう)(『赤穂義人纂書 一 赤穂義士資料大成』)に「泉岳寺にて」(すなわち元禄十五年(一七〇11)十二月十五日)の前書で、やはり収録されている。気になるのは、
  あら楽や思ははるゝ身は捨る浮世の月に掛る雲なし       『江赤見聞記』
  あら楽や思は晴るゝ身は捨つるうきよの月にかゝる雲なし     『義人遺草』
 右の歌三首が三首とも「あら楽や」であって「あら楽し」でないことだ。この点『赤穂義士事典』(新人物往来社)も同じで「あら楽し思ひは晴れつ身は捨つるうきよの月にかかる雲なし」となっている。出典としている『江赤見聞記』は右のとおりであるし、『義人録』(『赤穂義人纂書補遺)は漢文であるが「嗚呼(二音阿羅)楽哉(音耶)」となっている。巷間「あら楽し」となっているのは別に有力な異本でもあるのだろうか。
 浅野長矩の「小さ刀」(『赤穂義人纂書 二』所収『梶川氏筆記』)は、藩にとどめを刺したのみならず、吉良、浅野双方に多くの犠牲者を出した。とりわけ『忠誠後鑑録』(『赤穂義人纂書補遺』)は内蔵助の二男十三歳、三男二歳をはじめとする四十六士の遺児一九人の遠島を伝えている。すでに十五歳以上の四人は元禄十六年四月二十七日に伊豆の大島に流され、十五歳未満は十五歳になるのを待って執行、いずれも男子である。まこと「活残りたる者の母や祖母、流刑の年を待つ心の中いかばかり悲しからん」である。

 大石良雄(おおいしよしお)(一六五九~一七〇三)
 写真は現在も整備が続く赤穂城跡(兵庫県)。大石邸長屋門、大石神社のほかに隣接して赤穂市立歴史博物館がある。本丸公園には御殿の間取りが復元表示されている。天守台も残るが天守閣は当初よりなかった、とある。名物の塩味まんじゅうが旨 い。JR山陽本線の相生駅乗換、赤穂線播州赤穂駅下車、徒歩二〇分。途中に息継井戸と花岳寺(浅野家の菩提寺)がある。
 
 大高源五(初出「栄根通信」十分の二号、平成11年6月28日) 

 梅でのむ茶屋もあるべし死出の山
                      松山叢談抄(まつやまそうだんしよう)


 『赤穂義人纂書補遺 三 赤穂義士資料大成』(日本シェル出版)に元禄十六年(一七〇三)二月四日「大高源吾切腹に罷出候時、番衆へ、発句仕候、石筆御貸被下候様望、鼻紙に書付置之」(一説に堀部安兵衛の句)とある。『江赤見聞記』(『赤穂義人纂書補遺』)は「梅で呑茶やもあるべし死出の旅」、『介石記(『赤穂義人纂書 二』)が「梅でのむ茶屋もあらじな死出の旅」、『赤穂鍾秀記(あこうしようしゆうき)』(赤穂義人纂書 二)は同句を中村勘助の辞世としている。
 元禄十五年(一七〇二)九月五日付で母親に宛てた手紙が『赤穂義人叢書 一』に収められている。
  世の常の女のごとく彼是と御歎の色も見へさせられ、おろかにおはしまし候はゞ、いかばかりきのどくにて心もひかれ候半に、さすが常々の御覚悟ほど御座候て、思召切、却てけなげなる御すゝめにもあづかり候御事、扨々今生の仕合未来のよろこび何事か是に過申候半や、あつぱれわれわれ兄弟は侍のめうりに叶ひたる儀と、浅からぬ本望にぞんじ奉り候、(略)、御齢もいかう御かたぶき、いくほど有まじき御身に、嘸(さぞ)御心ぼそく、便もあらぬ方に、とぼしく月日を御渡り遊ばし候半とぞんじ奉り候へば、いか斗りか心うく候へども、其段力および不申候、(略)、これこれの道理にくらからぬそもじ様におはしまし候へども、筆にまかせ申残候、九十郎母お千代へもよりよりは仰きかされ、処々おろかにかなしみ申さぬやうに、互に御ちからをそへさせられ候はゞ、幸かな、御法体の御身にて御ざ候へば、此後いよいよ以て仏の御つとめのみにて、うさもつらさも御まぎれましまし、未来の御事朝夕に御わすれなふ、世もおだやかに御ざ候はゞ、寺々も節々御まいり遊ばし下されべく候、ひとつは御歩行御養生にも成申べく候、うばにもあきらめ候やうによくよく仰られ被下べく候かしこ、
 『松平隠岐守殿江御預け一件』(『赤穂義人纂書 二)中「大高源吾親類書」その他によると兄弟とは叔父の小野寺十内(おのでらじゆうない)の養子となった弟の幸右衛門、九十郎とは父親の名前を継いだ従弟の岡野金右衛門で、いずれも四十六士に名前を連ねている。

 大高源五(おおたかげんご)(一六七二~一七〇三)
 写真は吉良邸跡(本所松坂町公園)、最寄りの駅はJR総武線両国駅。回向院(鼠小僧次郎吉)から数分の距離。大高源五以下一〇名が切腹した松平邸跡はイタリア大使館になっている。都営三田線三田駅下車。なお小野寺十内の妻は元禄十六年七月十八日、京都において自害。
  つまや子のまつらんものをいそげたゞなにかこの世にこゝろのこらん      たん
 
 貝原益軒(初出「栄根通信」十分の三号、平成11年9月9日) 

 越方は一夜ばかりの心地して八十路あまりの夢をみしかな
                                  益軒先生伝


 『益軒先生伝』(国書刊行会『益軒全集』第一巻)に「先生自ら起たざるを知りて賦する所、七絶二首歌一首あり」として紹介されている。「著述年表」を見ると有名な『養生訓』(国書刊行会『益軒全集』第三巻)は死の前年、八十四歳のときの著作である。
  人の身は父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生れ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つゝしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。是天地父母につかへ奉る孝の本也。身を失ひては、仕ふべきやうなし。わが身の内、少なる皮はだへ、髪の毛だにも、父母にうけたれば、みだりにそこなひやぶるは不孝なり。況大なる身命を、わが私の物として慎まず、飲食色慾を恣にし、元気をそこなひ病を求め、生付たる天年を短くして、早く身命を失ふ事、天地父母へ不孝のいたり、愚なる哉。
 「総論」の部分である。以下「飲食」「飲酒」「飲茶(附煙草)」「慎色慾」「五官」「二便」「洗浴」「慎病」「択医」「用薬」「養老」「育幼」「鍼」「灸法」と、すこぶる具体的である。「洗浴」を例にとると「湯浴はしばしばすべからず。湿気過て肌開け、汗出で気へる。古人十日に一たび浴す。むべなるかな」とした上で盥の寸尺にまで言及するといった按配である。同じく長生きをした曲亭馬琴の『馬琴日記 第四巻』(中央公論社)を開くと、こちらの「洗浴」頻度は現代に近い。その『著作堂雑記抄』(国書刊行会『曲亭遺稿』)に「貝原篤信身まかる時によめる」として「こしかたは一夜ばかりのこゝちして//八十ぢあまりの夢を見しかな」(文政九年戌二月記)の記述がある。さて『養生訓』にもどるが「然れば長命ならんも、短命ならんも、我心のまゝなり」という精神主義は、益軒といえども五十代では言えなかったに違いない。やはり「八十路あまり」の翁の口吻であろう。

 貝原益軒(かいばらえつけん)(一六三〇~一七一四)
 江戸時代の儒者・本草学者・教育家、福岡藩士。本草学というのは近代以前における広義の薬物学をいうらしい。年譜に慶安三年(一六五〇)二十一歳藩主の怒りに触れて浪人生活七年とある。結婚したのは三十九歳、夫人は十七歳。益軒の死は東軒夫人に遅れること九ケ月。子供はいなかった。写真は福岡市中央区今川二丁目にある金龍寺。立派な銅像の後ろに二人の墓が見える。
 
 小西来山(初出「栄根通信」十分の九号、平成13年2月25日) 

 我は只生れた科(とが)でしぬるなりそれで余波(なごり)もなにもかもなし
                                  小西来山全集


 東洋文庫202『近世畸人伝 続近世畸人伝』(平凡社)は「来山は小西氏、十万堂といふ。俳諧師にて、浪華の南、今宮村に幽栖(いうせい)す。人と為り曠達不拘(くわうたつふく)、ひとへに酒を好む。ある夜、酔てあやしきさまにて道を行けるを、邏卒(めつけ)みとがめて捉(とら)へ獄にこめけれども、自ら名所(などころ)をいはず。二三日を経て帰らざれば、門人等こゝかしこたづねもとめて、官に訴しにより、故なく出されたり。さて人々、いかに苦しかりけん、ととぶらへば、いな自炊の煩(わづ)らひなくてのどかなりし、といへり」等の逸話を紹介して「さればこそ、其辞世も、〽来山はうまれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし。といへりとなん」としている。飯田正一編『小西来山全集』(朝陽学院)の「来山年譜」(後編)は五十八歳の頃の作と推定している。亡くなったのは六十三歳。追善集『木葉古満(このはごま)』(後編)は、
  よしやよし身は夕暮のもどり馬/月をめあてに一筋の道
を辞世として記録している。いずれも俳諧歌として全集「前編」で見ることができる。
 来山は九歳で父親と死別。母親は来山四十八歳のときに没、七十七歳。「七十七はけつかうなる御寿命哉(かな)と、ひとびとのいさむるを聞(きく)にも、なを泪はますものをゃ」「母に別れて後、大酔に及ばぬ時は一日も夢に見ぬ事なし。機嫌よき時は其朝こゝろよし。さもなきときは其朝こゝろょからずして、せめてこよひのゆめはと、まちかぬるぞかし」(前編)。五十歳を過ぎて結婚、しかし妻子と死別。再婚して二児に恵まれるが長男と死別。次男一来は来山没後十年目に死去、剃髪した妻貞林尼も、その八年後に没。辞世に「しる人も知らざる人も淀川のぐぜいのふねは内にこそあれ」(「来山年譜」)がある。
  門松や死出の山路の一里塚
 年次未詳の発句。「これはあたりの婆々の死けるをいたむ句なるよし」(「前編」)。

 小西来山(こにしらいざん)(一六五四~一七一六)
 大阪市営堺筋線の恵美須町駅西側に「小西来山十万堂跡」碑、そこから国道二五号を東に歩くと右に通天閣が見えてくる。前方に一心寺。骨仏で有名。受付所左に「時雨之句碑」。
  時雨(しぐる)ゝやしぐれぬ中の一心寺
 開山堂の側、銀杏の木と向き合って来山すなわち「堪々翁之墓」がある。写真は門を出て振り返った所。JR天王寺駅まで徒歩一〇分。
 
 岩田涼菟(初出「栄根通信」十分の五号、平成12年2月12日) 

 がつてんじや其暁のほとゝぎす
                                 芭蕉翁頭陀物語


 寛延四年(一七五一)に刊行された涼袋(一七一九~一七七四)の『芭蕉翁頭陀物語(ばしようおうずだものがたり)』(国書刊行会『建部綾足(たけべあやたり)全集』第六巻)から「涼兎辞世」の部分を引用する。
  涼兎病の末つかたいひをく事のあはれなれば、門人枕に立より、さばかりの団友斎辞世の句なからんや、がてんがいてかとはげませば、涼兎目をひらき、高らかに、
    がつてんじや其暁のほとゝぎす
  かく吟じながら、あかつきのその杜宇(ほととぎす)とやせんといふに、乙由(おついう)かたはらにありて、爰に何をか輪廻せん、其暁のほとゝぎすと、打あげてとなへたれば、曽北筆をとりてしるしぬ。
 天明五年(一七八五)に刊行された蘭更(らんかう)(一七二六~一七九八)の編著『俳諧世説』(日本俳書大系刊行会『俳諧系譜逸話集』日本俳書大系15、この一冊で『芭蕉翁頭陀物語』も読むことができる)にも同様の話が載っている(「凉莵辞世の説」)。
  凉莵終焉の病中に、したしき誰かれ枕頭につきそひ居たり。今や臨終と見ゆる時、門人辞世ありやと尋ねし詞(ことば)の下に、くるしき目をひらき、
    合点(がつてん)じや其暁(あかつき)のほとゝぎす       凉莵
  と聞ゆると思へば、言下に息絶たり。此事は世の人の多くしりたる事なれども、此句を暁(あかつき)の其(その)とせんかなど、麦林叟(ばくりんそう)に相談ありしと、跡かたもなき説有て、みだりがはしければ、其正しきものをしるす。もとより其病は「やまいだれ+鬲」症(かくしやう)にて、病中の咏(ゑい)にも、
    今迄は人が死ぬると思ひしに                  凉莵
      我身の上にかくの仕合
  かやうの風流も聞え侍る
 「やまいだれ+鬲」という字は諸橋轍次の『大漢和辞典』(大修館書店)にも載っていない。角川の『古語大辞典』で「膈」は噎膈(えつかく)の病、食道の病気と考えられるとある、これか。

 岩田涼菟(いわたりょうと)(一六五九~一七一七)
 大世古墓地の入口に教育委員会の手で「一之木町に住し」云々という標柱が建つ。しかし墓の周囲には何もない。中川竫梵著『増補伊勢の文学と歴史の散歩」(古川書店)の写真がなかったらどうなっていたか(近鉄の宇治山田駅下車、伊勢市立図書館に直行したのがよかった)。団友斎涼菟翁(写真、「涼菟」の表記は一様でない)。通路のお地蔵さんと背中合わせである。
 
 近松門左衛門(初出「栄根通信」十分の九号、平成13年2月25日) 

 それぞ辞世去ほどに扱もそのゝちに残る桜が花しにほはゞ
                                 近松画像辞世文

 小学館の『近松門左衛門 一』(日本古典文学全集43)の口絵に「近松画像辞世文」のカラー写真と活字による翻刻及び解説が掲載されている。以下に、全文を引用する。
  近松門左衛門性者杉森字(あざな)者信盛平安堂巣林子(さうりんし)之像
  代々甲冑(かつちう)の家に生れながら 武林を離れ 三槐九卿(さんくわいきうけい)につかへ 咫尺(しせき)/し奉りて寸爵なく 市井に漂て商買しらず 隠に/似て隠にあらず 賢に似て賢ならず ものしりに似て何もしらず 世の/まがひもの からの大和の数ある道々 妓能 雑芸(ざふげい) 滑稽の類/までしらぬ事なげに口にまかせ 筆にはしらせ 一生を囀り/ちらし 今ハの際にいふべく おもふべき真の一大事は一字半/言もなき倒惑 こゝろに心の恥をおほひて七十あまりの/光陰 おもへばおぼつかなき我世経畢(へをはんぬ)
    もし辞世はと問人あらば
  それぞ辞世 去ほどに扨もそのゝちに/残る桜が花しにほはゞ
     享保九年中冬上旬
  入寂名(にふじやくみやう) 阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)
      不俣終焉期 予自記 春秋七十二歳 印
     のこれとはおもふもおろかうづミ火の/けぬまあだなるくち木がきして
 解説によると像は杉森多門(近松の子)筆と考えられる、とある。また中冬は十一月、亡くなったのは享保九年(一七二四)十一月二十二日。辞世文から十数日後である。
 なお大久保忠国編『鑑賞 日本古典文学 第29巻 近松』(角川書店)によると辞世の「『さるほどにさてもそののち」は、浄瑠璃の語り出しの決まり文句」「『桜』は桜木に彫った板本。浄瑠璃の正本を指す」とある。

 近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)(一六五三~一七二四)
 浄瑠璃作者。本名、杉森信盛。号に平安堂巣林子(そうりんし)。写真は墓のある広済寺。場所は兵庫県尼崎市久々知一丁目。JR福知山線塚口駅下車、南東へ徒歩一五分。同じような墓が大阪市中央区谷町の谷町筋、地下鉄谷町六丁目駅と谷町七丁目駅の中程にある。なお広済寺に隣接して近松記念館があり、一階に遺品展示室がある。但し開館日については事前の確認が無難である。
 
 尾形乾山(初出「栄根通信」十分の八号、平成12年11月12日) 

 うきこともうれしき折も過ぬればたたあけくれの夢計なる
                                     墓碑刻

 石塚青我の『乾山の生涯ーその実証的研究ー』(東京美術)によれば乾山の終焉資料としては二点、うち『上野奥御用人中寛保度御日記』の原本は現在所在不明ということである。活字化もされていないようなので石塚の著書から一部を孫引きする。
  乾山深省事先頃より相煩ひ候処、養生相はず今朝死去の旨、進藤周防守方へ兼而心安く致候に付、深省懇意の医師罷越物語り申候。無縁の者にて取仕廻等の儀仕遣はし候者もこれ無く、深省まかり在候地主次郎兵衛と申者世話致し遣はし候得共、軽きものにつき難儀いたし候由。就而者何卒取仕廻まかりなり候程の御了簡なされ遣され下され候様に仕つり度由、周防守より左衛門へ申聞候に付、坊官中迄申入候処、何れも相談これあり、御先代御不便にも思召候者の儀不便の事にも候間、仕廻ひ入用金一両下され然るべく候。(後略)。
 次に『古画備考下巻』(思文閣出版)。乾山二世から弟子宮崎への譲状である。
  深省儀至病死ト、早速武江東叡山准后様御納戸へ我等遂伺公、病死之趣申上、庄屋方ニテ奉願候処、則金子壱両被下置、其方如何共取置候様ニ被仰付、寺茂御末被下、医王山善養寺へ罷出、右取置可申様被仰付候。尤三日ニ至、日牌料御付被下置候事。
 先の「無縁の者」云々は周防守の心遣いであり、一部で信じられているような孤独死でなかったと いうのが石塚の説である。なお次に掲げる墓碑刻の顛末は不明である。
  放逸無惨八十一年一口吞却沙界大千
   うきこともうれしき折も過ぬれば
   たたあけくれの夢計なる
            霊海深省居士

 尾形乾山(おがたけんざん)(一六六三~一七四三)
 陶工。兄は尾形光琳。初名は権平、のち深省と改名。若くして隠棲する。号に霊海。乾山はもと窯名であった。生涯独身。六十九歳のとき公寛法親王(こうかんほうしんのう)に従って江戸下向。写真は墓のある善養寺(豊島区西巣鴨)。地下鉄都営三田線西巣鴨駅下車。また京都市右京区鳴滝泉谷町の法蔵寺には「尾形乾山陶窯跡地」の碑が立つ。こちらは京都駅より市バスに乗って福王子下車。
 
 燕説(初出「栄根通信」十分の六号、平成12年5月9日) 

 此界に二度と用なし秋の風
                                  こぬ世の風

 燕説(えんぜつ)の追善集『こぬ世の風』(四日市市史 第十巻 史料編近世Ⅲ)から抜き書きする。
     辞 世
    随緑多岐七十三年
    末後何謂自性本然
      吃々
    此界に二度と用なし秋の風
      七十三才 無外坊
             印 印
   右無外坊自筆之写
   九月十九日夜、亥の終る比、重きまくらをあけて、嗚呼予か天命、今宵にかきれり、我風雅禅に逍遥する事五十年、今に至りて何かいはんと、料紙を乞て、筆を染め此偈此句をさらさらと書、周行に命して印を押しめ、欣然として終りをとれり
 津坂治男の解説に、こうある。
  無外坊燕説は大垣に生まれたが、名古屋や江戸で僧としての修行をし、その後、伊勢の松林寺や一之瀬(度会町)の桂蔵庵などに住み、傍ら師沢露川(芭蕉の弟子)と共に西国や北国を行脚して回った。四日市に住み着いたのは晩年(享保一四年=一七二九)で、北町の建福寺の一隅に逢春軒をあてがわれ、以後死ぬまでの一四年間、当地や尾張の人たちに蕉風の俳諧を教え続けた。
  この追善句集には、あとに「行状記」も書く指天斎周行や、燕説のパトロン役となった太田芦舟ら四日市宿の門人の作が並び、続いて富田・上鵜川原・菰野・佐倉(桜)、治田など北勢各地からの出句が収められている。(略)。奥州や北越からの出句が多いのも、壮時の彼の行動の広さを物語っている。

 無外坊燕説(むがいぼうえんぜつ)(一六七一~一七四三)
 写真は建福寺。近鉄四日市駅下車、徒歩一〇分。かつては境内の面積七六○○有余坪の大寺院だったが、織田信長勢による災火、安政の震災、明治三十八年(一九〇五)の大火、昭和二十年の空襲という四度の火難によって往時の建物・什物・古文書を失ったとある(石碑)。墓地は他所に移転しているらしい。燕説を偲ぶ縁は何もなかった。
  木綿帆の汐ごし涼し鷺の声
 
 羽川珍重(初出「栄根通信」十分の六号、平成12年5月9日) 

 たましひのちり際(ぎは)も今一葉(ひとは)かな
                           燕石雑志(えんせきざつし)


 曲亭馬琴の随筆『燕石雑志』(有朋堂文庫『骨董集・燕石雑志・用捨箱』所収、『骨董集』は山東京伝、『用捨箱』は柳亭種彦の著作である)から引用する。
  羽川珍重は武蔵国(むさしのくに)埼玉郡(さいたまのこほり)川口村の人なり、三同(さんどう)と号す。本姓(もとのせい)は真中(まなか)氏、俗称を大田弁五郎といへり、大田は川口の旧名(きうみやう)、珍重はその画名(ぐわみやう)なり。父の諱(いみな)は直知(なほとも)、予が祖父(おほぢ)の為には叔父なりき。弱官(じやくくわん)より江戸に来(きた)りて画(ゑ)をまなび、元祖鳥居清信を師とし、後に羽川に更たる歟、当初の画名をしらず。下総国(しもふさのくに)葛飾郡(かつしかのこほり)川津間(かはつま)の郷士(がうし)藤浪氏の家に往来(ゆきき)す。藤浪氏の妻は珍重の姪なり。生涯娶らず、仕(つかへ)ざれどもなほ武を捨(すて)ず。只画をもて旦暮(たんぼ)に給(きふ)し、享保に至りてますます行(おこな)はる。万海節用集(まんかいせつようしふ)、その余(よ)珍重の繡像(さしゑ)したる冊子(さうし)、今罕(まれ)に伝(つた)ふ。心ざま老実(まめやか)にして言行を慎み、遊山(ゆうさん)翫水(ぐわんすゐ)といへども肩衣(かたぎぬ)を脱ぐことなければ、浮世絵師には稀(まれ)なる人物なりとて人嘆賞せざるはなし。いづれの年にかありけむ、書肆某甲(なにがし)珍重にいへりけるは、今より衣食住を吾儕(わなみ)にまかして、居(すまひ)を近隣にうつし、蔵板(ざうはん)の絵本を画(ゑが)きて給はれかしとて、叮嚀(ねんごろ)に誘(いざな)へども、珍重絶えてうけ引(びか)ず、貧は士の常なり、人に恵(めぐみ)を受くるものは人をおそる、われは五斗米(べい)の為に腰を折(かゞ)むることを願(ねがは)ず、況(まい)て足下(そこ)に口を餬(もらは)んとて拳(こぶし)をやは售(う)ると答(いら)へて、そのこゝろ画にあらざる日は利の為に筆をとる事なし。また志画にある日は、歌舞伎の画看板(ゑかんばん)といへども辞(じ)する事なかりしとぞ。晩年に及びて自画(じぐわ)の絵馬を故郷(ふるさと)川口なる稲荷五社へ奉納し、又みづから肖像を画(ゑが)き小引(せういん)一巻を自記(じき)して、嫡姪(ちやくてつ)恒直(つねなほ)が二郎にとらしたるに、画像(ぐわざう)と小引は災(ひ)に係(かゝ)りて焼亡(せうぼう)し、絵馬のみ今にありといふ。珍重既に老衰して、みづから三同宜観居士(さんどうぎくわんこじ)と法号(ほふがう)し、宝暦四年七月二十二日川津間の郷(さと)藤浪氏の家に病死す。辞世、「たましひのちり際も今一葉かな」享年七十余歳、江戸下谷(したや)池の端東円禅寺(とうゑんぜんじ)に葬りぬ。
 なお『増訂武江年表』(国書刊行会)は寺の名前を「東円寺に葬す」としている。

 羽川珍重(はねかわちんちょう)(一六七九~一七五四)
 長谷川義一の『羽川珍重の墓』(東京名墓顕彰会『掃苔』第四巻第四号)によると墓は現存しないし、不思議なことに過去帳には戒名も見あたらない、とある。写真は、その東淵寺(円は淵の誤りらしい、台東区池之端二丁目)。「墓を復興したい」と書いたのが昭和十年、モダンなコンクリート建築に圧倒され、また啞然とし、その結末を確認するのを忘れてしまった。
 
平田靭負(初出「栄根通信」十分の十号、平成13年6月3日) 

 住みなれし里もいまさらなごりにて立ちぞわづらふ美濃の大牧
                                       伝

 木曽・長良・揖斐三川の治水工事を命じられた薩摩藩の派遣した人員は約一〇〇〇名、惣奉行は御勝手方家老職の平田靱負。工事期間は宝暦四年(一七五四)二月から翌年の三月。竣工検査の終わったのは五月二十二日。御手伝普請である。にもかかわらず薩摩藩の要した費用は約四十万両、これに対して幕府の出費は一万両にも満たなかった。当時の薩摩藩の収入は二十万両。藩債の推移は寛延二年(一七四九)の約五十六万両、宝暦四年の約六十六万両、享保元年(一八〇一)の約百十七万両と好転の兆しはなく、文政十年(一八二七)には約五百万両にまで膨張している。この破綻状況を精算するには「お由羅騒動」で悲運の最後を遂げる調所広郷(ずしよひろさと)の出現を待たなければならなかった。
 話が逸れたが平田靱負は五月二十四日に国もとに報告書を書き、二十五日に自刃。但し、海蔵寺(三重県桑名市)の過去帳(写)には割腹とあっても公文書・系図では病死である。全体では切腹五一名、病没三三名。筆舌に尽くしがたい困難を伴ったのであろう。また現在において名前の判明するのは約一〇〇〇名中一九〇余名に過ぎないという。
 薩摩義士顕彰の歩みは明治三十三年(一九〇〇)、宝暦治水碑の建立に始まり、大正五年(一九一六)の平田靱負に従五位贈位。昭和三年(一九二八)の平田靱負終焉の地記念碑の建立。昭和十三年の治水神社創設、昭和二十八年の宝暦治水観音堂の建立へと続いて、現在に至っている。
 以上、参考図書としては『国営木曽三川公園 千本松原』(宝暦治水史蹟保存会)、『海津町史 史料編一(海津町)、『千本松原 宝暦治水と薩摩義士』(大垣青年クラブ)、『薩摩義士』(鹿児島県育英財団)、阪口達夫『宝暦治水 薩摩義士』(春苑堂出版)、池水喜一『改訂宝暦薩摩義士物語』(著作社)、南郷茂『武士道と薩摩義士』(人と文化社)、田尻佐編『贈位諸賢伝 二』(国友社)、新人物往来社『新編物語藩史』第十二巻である。

 平田靱負(ひらたゆきえ)(一七〇四~一七五五)
 写真は岐阜県海津町油島の木曽三川公園にある展望タワーからの眺め。左に木曽川・長良川、右に揖斐川、眼下に靱負を祭神とする治水神社と薩摩義士を祀る宝暦治水観音堂、その先に薩摩藩士が植えたという千本松原が続く。周辺には海津町歴史民俗資料館、終焉の地記念碑(養老町大巻)がある。また隣接する平田町の町名の由来ともなっている。バスの便は少ない。
 
 慶紀逸(初出「栄根通信」十分の五号、平成12年2月12日) 

 此としてはしめてお目にかゝるとは弥陀に向て申しわけなし
                                     句経題(くきようだい)


 追善集『句経題』(講談社『近世俳諧資料集成』第四巻)の巻頭は祗貞の描く慶逸の画像と右の辞世の狂歌を掲げている。大田南畝(おおたなんぽ)の『一話一言 1』(吉川弘文館『日本随筆大成』別巻)には「六誹園立路の随筆寝ざめの硯の中に」として次のような記述がある。
  俳匠慶自在菴紀逸(けいじざいあんきいつ)は竹尊者青流又祗空(ぎくう)といひし法券也。後鼠湖十の法券にして高名ありし俳人也。大病の折から辞世の狂歌して逆修に彫。其墓。
    此としではじめてをめにかゝるとは弥陀に向て申訳なし
  されども此病平癒して後亦も健なりしが、宝暦十一年午年五月に卒し侍る、時に六十八歳、谷中竜泉寺に葬る。
 『句経題』編者の田杜によると真相は次のとおり。
  ことし卯月下旬下谷了源精舎はこのかみの菩提寺なれはとて此墓にならひて寿蔵を造立し碑面に辞世の狂歌をゑり生涯のねかひ残る事なく老後を安むせしにおしむへし同し月廿七日より宿嬰(しゆくえい)の脚痛再発して湯剤剃治おこたらすあまねくくすしの手を尽といへとも桑楡(そうゆ)かけせまり日々に重き恙と成て終に皐月八日のあかつき飄然として仙化しぬ
 四月下旬に墓を建てて五月八日に死亡。平癒とはいかなかったらしい。
  虫ほしも手むけ心や武玉川           台簫子(六七日)
  武玉川五月の空の濁かな            黛社(記念の品々を贈られけれは)  涼しい歟(か)法(のり)の巷も六玉川     杜鼠(廟所へまかりて)
 中を覗くと、こんな句がある。武玉川(六玉川)すなわち俳諧付句集の『武玉川』である。紀逸は前句を省略して『柳多留』に先行する『武玉川』の撰者でもあった。

 慶紀逸(けいきいつ)(一六九四~一七六一)
 谷中の竜泉寺に出かけたが案内板標柱等の手がかりはなかった。写真は文京区関口二丁目にある関口芭蕉庵。夜寒の碑がある(入口は左)。講談社『近世俳諧資料集成』第三巻に付録として紀逸編『夜寒碑(抄)』が収められている。その「夜寒碑説」に「禅司に年ころ交ふかく我棲をも去こと遠からねは」云々とある。
  二夜啼(なく)ひと夜は寒しきりぎりす
 
 浮風(初出「栄根通信」十分の八号、平成12年11月12日) 

 つれもありいまはの空にほとゝきす
                                    その行脚

 浮風(ふふう)の追善集『その行脚』(和泉書院『湖白庵諸九尼全集』所収、以下同様)は諸九尼(しよきゆうに)編。筑後国中原村の庄屋永松万右衛門の妻なみ(のちの諸九)が出奔し、元直方藩士で医を業とする浮風と上京したのが寛保三年(一七四三)とすると浮風四十二歳、なみ三十歳。欠落(かけおち)、不義密通である。翌年執筆と思われる妹はなへの書簡に、こうある。
   (略)。わもし事ふしにい参らせ候。しかしかやう成行候事、うきは世の中の人のこゝろとうらめしくおほしめすとの御うらみ、御もつともに存参らせ候。わもし家出いたし候一通り、いつくにおちつき候とも、たよりをもとめ申ひらきいたし申へくと存い申候に、ふき一通りと成行まうし喉へは、今さらとなたへも文にて申わけいたすへきやうも御さなく、かゝ様かたは申にもおよはす、一家中の人々ふとゝきにおほしめし候はん事、御もつともの事、とにもかくにもわもしいんくわとあきらめ申候へは、身ひとつすたり候事はおもひもうけたる事に而候へとも、かゝ様かたははしめまうし、きやうたい中の御かほはつかしめまうし候身のつみとかのほと、おそろしく、後の世のほともかなしく存参らせ候。(略)。申しんし度御事はむねに余り候へとも、つとつとにかきつくしかたく、何事も御すいもし可被下候。(略)。
 再び『その行脚』にもどる。「寺詣ての帰るさ諸九婦をいさめて」という前書きで、   散(ちり)てなし花も末摘ならひあり            琴之
という句がある。夫の浮風没六十一歳。前書「百ヶ日にもとゝりをはらひて」、
  掃捨て見れは芥や秋の霜                  蘇天
 剃髪して蘇天。しかし、ここは浮風と暮らしていた頃の句を紹介しておこう。前書「あるじ行脚の留守を守りて」。雎鳩(しよきゆう)すなわち諸九と同音、諸九以前の俳号でミサゴに同じ。「和して押れぬ鳥」から「婦徳高き婦人の譬」(日本図書センター『日本大辞典 言泉)とある。
  待日数うれしや暮て郭公                  睡鳩

 浮風(ふふう)(一七〇三~一七六三)
 姓は有井。肺疾その他の病を得て致仕、野坡(やば)に入門。諸九尼(一七一四~一七八一)は庄屋の娘として現在の福岡県浮羽郡田主丸町に出生、同族の庄屋に嫁ぐ。写真はJR筑豊本線直方駅西口より徒歩一〇分の随専寺(左側)。本堂の裏山に比翼塚がある(わかりにくい)。金森敦子の『江戸の女俳諧師「奥の細道」を行くー諸九尼の生涯ー』(晶文社)が手頃である。
 
 加賀千代(初出「栄根通信」十分の五号、平成12年2月12日) 

 月も見て我は此世をかしく哉
                                   近世奇跡考


 山東京伝(一七六一~一八一六)の『近世奇跡考』(吉川弘文館『日本随筆大成』第二期6所収)に「加賀千代尼の伝」がある。
  千代は、加賀松任(かがまつたふ)の駅(ゑき)〔割註]金沢ヨリ洛ノ方へ四里去。」福増屋六兵衛といふ者の女(むすめ)なり。いとけなき時より、風雅(ふうが)の志(こゝろざし)あり。一時(あるとき)俳諧(はいかい)の句をせしを、父母聞て、さばかりの志あらばとて、行脚(あんぎや)の俳人(はいじん)〔割註〕一説支考門人廬元坊ト云。」を家にとゞめて学ばせけり。扨十八歳の頃、金沢の福岡某が家に嫁(か)す。其後夫(をつと)身(み)まかりければ松任にかへり、父の家にありて、ますます俳諧をたしみ(ママ)、廿三歳の時京にのぼり、勢州にいたりて、麦林舎乙由(ばくりんしやおついう)の門人となれり。廿七歳の時再び上京す。其後、頭をそりて素園(そゑん)といふ。容㒵美にして言語少(すくな)く、常に閑寂を好む。画も又よくす。松任は京へゆきゝの要路(えうろ)なれば、日毎に諸国の旅客に交り、もとむるに応じて、書画をあたへけるゆゑに、其名、海内にきこえけるとなん。安永四年九月八日寂す。享年七十四。辞世、
    月も見て我は此世をかしく哉
  金沢専光寺〔一向宗〕に葬る。又松任駅聖興寺(しやうこうじ)に碑を立て、辞世の句を刻む。
 このあと「千代秀吟おほし。柿のはつちぎりの句、おきて見つ寐て見つの句、百なりの句のたぐひ、人口にあれば、こゝにはもらしつ」とある。但し、中本恕堂著『加賀の千代全集』(北国新聞社)の「千代尼俳句全集」は、
  百生や蔓一すじの心より
を収録するのみ。「渋かろかしらねど柿の初ちぎり」は疑問視、「起て見つ寝て見つ蚊帳の広さ哉」は遊女浮橋の句として除外している。また享年は七十三、「辞世の句/月も見て我はこの世をかしく哉/の真蹟は今のところ得られないが、尼の二十五回忌に建碑された辞世句塚及び親しかつたすへ女らの追悼句文によつて確め得られる」という。

 加賀千代(かがのちよ)(一七〇三~一七七五)
 写真は聖興寺。境内に千代尼塚や千代尼記念館「遺芳館」がある。前の道は千代尼通り。JR北陸本線松任駅下車、徒歩で十数分にある。ところで「かしく」は『日本大辞典 言泉』(日本図書センター)で憔悴の意味の動詞、別語として「かしこ」(恐)の転の名詞がある。書状の筆止めに用いる後者を採りたいが角川書店の『大古語辞典』では感動詞になっている。
 
 朱楽管江(初出「栄根通信」十分の五号、平成12年2月12日) 
 執着の心や婆婆にのこるらむよしのの桜さらしなの月
                            三囲(みめぐり)神社歌碑


 平凡社の『日本人名大事典』第三巻で演劇通として紹介されている関根只誠(せきねしせい)(一八二五~一八九三)編『名人忌辰録』(ゆまに書房)から引用する。
  通称山崎郷之輔名貫後景貫寛政十午年十二月十二日没す、歳六十三。青山久保町青源寺に葬る。(菅江は四ツ谷甘騎町に住せし御先手与力なり。漢籍を内山淳時に学び又和歌をも能くして本名を景基といひしが家基公の御諱を避けて景貫と改む。又初め俳名を貫立といひしかば人皆貫公と呼びしを遂に菅江の字に書き改めしなり。朱楽(あけら)の字を冠することは曾て太田南畝(おおたなんぽ)宅にて酒宴の折菅江戯れに「我のみひとりあけら菅江」と詠ぜしより遂に朱楽(あけら)渾名の如く呼ぶやうになりしなり。寛政七年六十一にて薙髪(ていはつ)せし時産神市谷八幡社前にて「まさかきのはたち余りの男山かみさへすつる身とはなりにき」。辞世の狂歌は「執着の心や娑婆にのこるらむ吉野の桜更しなの月」。
 重複する部分も多いが絵師で江戸幕府にも出仕した朝岡興禎(あさおかさきさだ)(一八〇〇~一八五六)の『古画備考上巻』(思文閣)からも引用する。
  〇朱楽菅江、山崎氏、名景貫、字道甫、号淮南堂、通称郷助、幕府先鋒隊長たり、大久保ニ住、始漢学及和歌を、内山淳時に学ぶ、後夷曲を以て、人に知らる、元文戌申年十月廿四日に生れ、寛政戌申年十二月十二日に没す、墓在青山久保町青原禅寺○補菅江辞世、執着の心や婆婆にのこるらん吉野の桜更級の月 蜀山人追悼、執着の、心が婆婆に、残るなら、再び口を、あけら菅江、
 蜀山人(しよくさんじん)また四方赤良(よものあから)・四方山人・寝惚(ねぼけ)先生・山手馬鹿人すなわち幕臣・太田南畝(一七四九~一八二三)、やはり『名人忌辰録』に辞世が載る。
  時鳥鳴つる片身初松魚春と夏との入相のかね
 朱楽管江(あけらかんこう)(一七四〇~一八〇〇)
 狂歌師。幕臣。写真は墨田区向島二丁目の三囲神社。歌碑は死の翌年に建てられたらしい。文京区関口二丁目の関口芭蕉庵にも辞世の歌碑がある。妻「まつ」は狂名、節松嫁々(ふしまつのかか)。菅江死後のグループ朱楽連(あけられん)を率いた。『狂言鶯蛙集(きようげんおうあしゆう)』(国書刊行会、『新群書類従 第十)から引く。
  うかうかと長き夜すがら憧(あくが)れて月に鼻毛の数やよまれん
 
 父と子(初出「栄根通信」十分の十号、平成13年6月3日) 

 蓮の実やどこへなりとも飛び次第          松軒
 飛んだ実の生えて又とぶ蓮(はちす)かな      白兎
                                     墓碑刻

 岐阜県の瑞浪市編集発行の『瑞浪市史 歴史編』中「郷土の庶民文芸」から引用する。別に『瑞浪市の歴史 略市史編』中「江戸時代の文芸」にも同様の記述がある。
   安藤松軒(あんどうしようけん)は、天和二年(一六八二)釜戸に生まれ、竈山人と号して宝暦五年(一七五五)、七十 三歳で没しているが、その間、加賀の千代とも交友し、子白兎(はくと)とともに東濃における美濃派俳諧の中心人物として活躍している。
   享保年中と考えられる千代尼からの書簡は、この年、松軒が発句を送り、千代の返句を請うたことに対する返信で、「此度のお発句のよし、仰にまかせ賤句にもなるまじく存じ申し上ぐべくも、御返しにしるしあげまいらせ候」とあるから、千代の句が同封されていたものであろう。
   松軒は没年の春、桜堂薬師に美濃派正統の蓮阿坊白尼(れんあぼうはくに)・五条坊木児(ごじようぼうもくじ)らを招いて「宝暦五年観花の句会」を行ない、記念句額を薬師に奉納した文化活動を終わりにして、八月十三日「蓮の実や どこへなりとも 飛び次第」の辞世句を残して他界している。
 次に、「二代目松軒白兎は、名を範倶・喫茶仙白兎と号して、早くから父とともに俳諧界に活躍した。彼も寛政三年(一七九一)六月、巨海道勇亀を招いて桜堂薬師で『東濃大句会』を行ない、寛政句額を同薬師に奉納している」。また一八〇四年すなわち、
   文化元年九月父の辞世句を受けて「飛んだ実の 生えて又とぶ 蓮かな」の一句を残して他界し、そのあとは子の里仙が継いでいる。
とある。本巻には「安藤松軒三代画像」と桜堂薬師の「宝暦観花句額」「寛政東濃句会句額」の写真を掲載、組本である『瑞浪市史 史料編』の方には「加賀千代書簡」と「桜堂薬師句額」(宝暦観花会句額)の句が収録されている。

 墓碑刻と桜堂薬師(さくらどうやくし)
 JR中央本線の釜戸駅を降りて北側に回ると二人の墓のある大島阿弥陀墓地がある。その最上段、父・松軒と一つ置いて子・白鬼の墓がある。側面に彫られた辞世が素人目にもよくわかった。桜堂薬師は隣の瑞浪駅下車、徒歩で三〇分ぐらいか。山門(写真)の先、左側にある本堂の外陣に句額らしきものは確認できるが字は薄れて読めない。ほか絵馬も多い。
 
 手柄岡持(初出「栄根通信」十分の十号、平成13年6月3日) 

 死たうて死ぬにはあらねとおとしには御不足なしと人やいふらん
                                   我おもしろ

 通夜の席で、あるいは葬式で、何人の人が出かかった言葉を飲み込んだことであろう。あるいは半分出てしまった一言を慌てて両手でふさいだことだろう。
 掲出歌は、文政三年(一八二〇)に刊行された手柄岡持(てがらのおかもち)の家集『我おもしろ』(東京堂出版『江戸狂歌本選集』第十巻)よりの引用である。狂歌・長歌・狂詩・狂文を含む上下二巻、寛政元年(一七八九)の自序、文化十一年(一八一四)の蜀山人(しょくさんじん)の序がある。
    辞世三首 寿七十九歲
  つひの身の瀬となりぬれは飛鳥川あすより淵とかはるへきかは
  死たうて死ぬにはあらねとおとしには御不足なしと人やいふらん
  狂哥よむうちは手からの岡もちによまぬたんては日柄のほたもち
 六十九歳の折に執筆した『後は昔物語』(吉川弘文館『日本随筆大成』第三期12)の解題によると三首目の「たん」は段、「ほたもち」は「牡丹餅」であるらしい。下戸で「盃のめくるをうはの空に見てともにそてれりもちつきの影」とあるのは意外だった。
    何調子難問の歌に
   後の月いさよひにてもあるへきにとうした事そ十三夜とは
    かへし
  字の画て見よ望月と後の月と丁度かなひて十五十三
    又問
   後月の文字のくわくは十三夜之の字いるれは十六夜なり
    かへし
  四角なる之の字は歌にあたるまし丸いのゝ字てすめる月かけ
 手柄岡持(てがらのおかもち)(一七三五~一八一三)
 本名、平沢常富(ひらさわつねとみ)。久保田藩江戸藩邸留守居役。手柄岡持は狂号。明誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)は戯号。写真は墓のある一乗院(寺ではなく同じような墓地が並んでいる、その一つ)。場所は東京都江東区平野二丁目。門をくぐって一番奥の右から二つ目。正面に「平沢氏累代之墓」。右側面に「文化二年」云々、左側面に「常富代〇の建之」の文字。案内板等なし、驚くほど質素である。
 田上菊舎(初出「栄根通信」十分の九号、平成13年2月25日) 

 無量寿(むりようじゆ)の宝の山や錦時
                                     墓碑刻


 上野さち子は、その編著『田上菊舎全集』(和泉書院)の中で「田上菊舎の世界」(下巻)を次のように書き出している。生涯の「七十年余を、まずは俳人として、後にはより幅の広い文人として生きた。所謂、化成期を代表する女流としてその生涯の大半を旅に過し、その間、俳人、あるいは文人として知り合った人物の数は、彼女自身書き残したものから拾い上げてみても二千名に近く、歩いた道程を略算すれば二千里(八千キロ)に及ぶ。北は奥州から、南は九州まで。近世の女性でこれだけの土地を歩き抜いた人物は稀であろう。しかも、そのほとんどは独りの旅であった」(同巻に「旅年次」「行程図」収録)。
  またも世にうき草の身の手向事
  教へられて新茶汲みしも夢なるか
 先の句には「露の身の消も果やらで、斯(かく)雲水(うんすい)の旅にしありながら、別れし人の十三年の忌を弔ふのみ」、あとの句には「実の子よりもと、いつくしまれし姑なる人の忌を、とぶらひ侍るとて」の詞書 (菊舎三十五歳)がある。十六歳で結婚。二十四歳で夫と死別。翌年、実家に復籍。二十六歳、姑没。俳人として立つ。天明元年(一七八一)、二十九歳で得度。「長府~防府~大坂~京」を歩く。以後「旅年次」は文化十三年(一八一六)六十四歳の折の「京~長府」まで二三回に及ぶ。
  山門を出れば日本ぞ茶摘うた
  故郷や名も思ひ出す草の花
 菊舎の墓は二ケ所にある。一つは長府中町の徳応寺。「一字庵菊舎尼墓」の右側面に辞世、遺骨が納められている。境内には父母の文塚がある。碑の表には、
  雲となる花の父母なり春の雨
 もう一つは長府金屋町の本覚寺で遺髪が納められている。階段を登ってすぐの左側に「一字庵菊舎釈妙意大姉」、やはり右側面に辞世とおぼしき文字が彫られている。
 田上菊舎(たがみきくしや)(一七五三~一八二六)
 JR下関駅前からバスに乗って二〇数分で「城下町長府」に着く。もう一つ先の「金屋浜」で下車、徒歩数分で「女流俳人菊舎尼宅址」、南に数分で徳応寺(写真。右方向から歩いてきた)。少し南下(左方向)して本覚寺。功山寺は南西へ一〇数分。山門下に句碑が建つ。
  鐘水る夜や父母のおもはるゝ
 東に一五分歩いてバス停「城下町長府」。
 
 十返舎一九(初出「栄根通信」十分の六号、平成12年5月9日) 

 此世をばどりやおいとまにせん香とともにつひには灰左様なら
                                   戲作六家撰

 『戯作六家撰』(中央公論社『燕石十種』第二巻)から十返舎一九を引用する。
  重田氏、名貞一、通称与七といふ、駿河の産にして、居を橘町又深川佐賀町に占め、竟に通油町書肆仙鶴堂が裏 に移住せり、
  〇墨川亭日、一九幼き時、市九と呼ぶ、故に市を一に作り、雅名とす、弱冠の頃東都に出、或候 一説に、小田切君江都尹にておはせし時、その館にて注簿たりしといふ に仕へ、そのゝち大坂へ登り、彼の地に住て志野流の香道に称誉あり、十返舎の号は、黄熟香(おうじゆくかう)の十返をとりて然よぶといへり、其頃のことにや、並木千柳(なみきせんりう)、若竹笛躬(わかたけふえみ)と倶に、木下蔭の繰戯曲を編述したる由、後、故ありて自ら香道に遊ぶ事を禁ず、寛政六寅年、復び東都に来りて、始て稗史(はいし)両三部を著述して、耕雲堂が梓に上せて発市せり、天保二辛卯年、病て没す、浅草土富店(ドブダナ)善竜寺 俗にぬけ寺と云地中の東陽院に葬る、墓所は惣乱塔裏門方より二側目にて東三軒目
 このあと近松余七は一九だとする頭書と墓の絵につづいて辞世が登場する。
 ところで棚橋正博の『笑いの戯作者 十返舎一九 日本の作家35』(新典社)1刷52頁以下に紹介される『戯作六家撰』は『戯作者考補遺』の誤記ではないのか。この項の標題も「伝記資料(二)(『戯作者考補遺』)」となっている。ともあれ、それによると辞世の右側に小さく「石塔左リ方ニ」とあって墓碑刻の位置を示す資料となっている。また『全国文学碑総覧』(日外アソシエーツ)にも中央区勝どき四丁目東陽院の狂歌碑として辞世が掲載されている。したがって一次資料としては墓碑刻ということになるが一般には開放されていないのだろう。東陽院に案内板等はあるが杉本苑子『現代語訳 日本の古典21 東海道中膝栗毛』(学研)に載るような墓は見られなかった(ずいぶんと古そうな写真である)。
 十返舎一九(じっぺんしやいつく)(一七六五~一八三一)
 『膝栗毛』の作者。膝栗毛は膝で栗毛の馬に代用する意、徒歩旅行。写真は伊勢のおはらい町通り(旧参宮街道)。江戸時代、ある時は二百万ある時は五百万に達した伊勢参宮である(藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』岩波書店)。ちなみに当時の人口は三千万人ぐらいだった(板倉聖宣『歴史の見方考え方 いたずら博士の科学教室3』仮説社)。
 
 鼠小僧次郎吉(初出「栄根通信」十分の六号、平成12年5月9日) 
 天(あめ)の下、ふるきためしは白浪の、身こそ鼠とあらはれにけれ
                      石川一口(いしかわいっこう)「鼠小僧」

 鼠小僧の辞世が初めて登場する本はどれか。
 まずノンフィクションの世界から探ることにした。以下『泰平年表(たいへいねんぴょう)』(続群書類従完成会)なし、『天言筆記』(中央公論社『新燕石十種(えんせきじっしゅ)』第一巻)なし、『兎園(とえん)小説余録」(中央公論社『新燕石十種』第六巻)なし、『浮世の有様』(三一書房『日本庶民生活史料集成』第十一巻)なし、『事々録』(中央公論社『未刊随筆百種』第三巻)なし、『巷街贅説(こうがいぜいせつ)』(吉川弘文館『続日本随筆大成別巻 近世風俗見聞集9)なし、『甲子夜話(かっしやわ)3』(平凡社、東洋文庫321)なし。『視聴草(みききぐさ)第九巻』(汲古書院、内閣文庫所蔵史籍叢刊特刊第二)は本文影印のため判読できず、また『歴史家のみた講談の主人公』(三一書房)で時野谷勝が挙げている『温古実録』は所在を確認することができなかった。
 次にフィクションに移るが『鼠小紋春着新形(ねずみこもんはるのしんがた)』(春陽堂『黙阿弥脚本集』第三巻)なし、『鼠小僧実記』(早稲田大学出版部『近世実録全書』第七巻)なし。最後は講談である。松林伯円(しょうりんはくえん)講演・酒井昇造速記『天保快鼠伝』(大川屋書店)なし、松林伯円講演『和泉屋次郎吉』(大川屋書店『八千代文庫』第六編)なし、一流斉文雅講演・高畠政之助速記(内題下に酒井楽三速記)『義賊鼠小僧』(文事堂)なし、四代目石川一口講演・丸山平次郎速記『鼠小僧』(博多成象堂)あり。江戸市中引き廻しの場面、
  其時の次郎吉の服装(いでたち)は、紺の縮布(ちゞみ)の上衣、下には白無垢を着まして、帯は黄糸八端、白足袋を穿き藤倉草履、下には天鵞絨(びろうど)の腹掛けを致して居りました、紫房の念珠を持ち、顔には薄化粧を致して口臙脂(くちべに)をさし、裸馬に打乗り(略)。
辞世を口ずさむのである。同様の服装を記録して「見物の群集堵の如し」とは『兎園小説余録』。『浮世の有様』も薄化粧と芝居が休みになったことを伝えている。
 なお『緑林五漢録(みどりのはやしごかんろく)』は外題であり、これを出典とする本もあるが正確でない。
 鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)(一七九七~一八三二)
 盗んだ金は公式には大名屋敷を中心に三〇〇〇両余、非公式には一二〇〇〇両余(巷街贅説』)、使途は酒食遊興博打。墓は南千住の小塚原回向院にある。写真は墨田区両国、回向院。供養墓がある。なお石川一口は東京にも大阪にもいて特定し難いが、発売所の博多成象堂をはじめ発行者・印刷所・特約所も大阪市内であることを考えると辞世も大阪生まれの可能性がある。
 
 柳亭種彦(初出「栄根通信」十分の五号、平成12年2月12日) 

 ちるものと定る秋の柳かな
                                   柳亭先生伝


 中央公論社の『燕石十種(えんせきじつしゆ)』第二巻に収録されている『戯作六家撰』から引用する。
    柳亭種彦
  姓源、名知久、愛雀軒と号し、足薪翁と号す、又、偐紫楼の号あるは、田舎源氏大に行はれたるに依て也、通称高屋彦四郎といふ、麾下(おはたもと)にて食禄二百俵賜る原(もと)横手氏にして、甲州の土地、浅草堀田原に第宅(ていたく)あり、初め□□が門に入りて漢画を学び、後、俳諧の古調を好み、又川柳が誹風を嗜みて、秀吟多し、天保十三年壬寅年七月十八日卒す、行年六十、赤坂一ツ木平河山浄土寺に葬る、
   法号 芳寛院殿勇誉心禅居士
   辞世
    ちるものにさだまる秋の柳かな
     源氏の人々のうせ給ひしも、大かた秋なり、
   とありて、
    我も秋六十帖をなごりかな
 また龍田舎秋錦編『新増補浮世絵類考』(畏三堂)も同様の文を載せるが「□□」の部分は「文晁(ぶんちよう)」、辞世の「ちるものにさだまる秋の柳かな」は「ちるものにさたまる秋の柳かな」である。さらに『森銑三著作集』(中央公論社)の第一巻には荻野梅塢(おぎのばいう)(一七八一~一八四三)の『柳亭先生伝』が全文掲載されている(『柳亭種彦(その二)』)。これによると没日は天保十三年(一八四二)七月十九日。その年の「はじめより、ことしは道山に帰るこゝろがまへとて、よろづこゝろの細きさまなるが、精神は健なることは、水無月の半あけの月は、おのれ命終の期なり。今は筆とるもやすければとて、細君に短冊いださせ、みづから筆」を取ったとある。「友人梅塢蘇長これを状す」。辞世の句は「ちるものと定る秋の柳かな」「我も秋六十帖の名残かな」。助詞一つの違いであるが梅塢の方に無理がない。

 柳亭種彦(りゅうていたねひこ)(一七八三~一八四二)
 写真は浄土寺墓地の入口、現在は品川区荏原一丁目にある。東急の武蔵小山駅下車、徒歩一〇分。伊狩章の『柳亭種彦』(吉川弘文館)の写真に比較すると案内板も立ち「荒れはてた気配」はなかった。墓の左側面に「散ものにさだまる秋の柳かな」と彫られている(らしい)。『戯作六家撰』は岩本活東子(かっとうし)(一八四一~一九一六)の著、『燕石十種』の編纂で知られる。
 
 英一珪(初出「栄根通信」十分の十号、平成13年6月3日) 
 二三百生きやうとこそ思ひしに八十五にて不時の若死
                                   浮世絵師伝

 渡辺版画店を発行所として昭和六年(一九三一)に刊行された井上和雄編『浮世絵師伝』(皓星社、日本人物情報大系64)によると、
英氏。名は信重、墓所は芝二本榎承教寺中、顕乗院なるが、辞世に「二三百生きやうとこそ思ひしに八十五にて不時の若死」と「百までは何でもないとおもひしに九十六ではあまり早死」の二説ありて、未だ何れとも決定し難し。
とある。生年は「宝暦九年或は寛延元年」、没年は「天保十四年十二月廿一日八十五或は九十六」、画系は「一川の男」、作画期は「寛政ー文化」となっている。
 これに対して大正二年(一九一三)に啓成社より出た沢田章編『日本画家大辞典』(皓星社、日本人物情報大系62)は没年九十六、辞世は「百まではなんでもないとおもひしに九十六ではあまり早死」を採っている。逆に『名人忌辰録』は没年八十五歳、辞世は「二三百生きよ(ママ)うとこそおもひしに八十五にて不時の若死」である。
 さて、二説あるが、どちらを伝えたいかといえば断然「二三百」である。「百までは」では比較の幅が狭すぎてつまらない。「早死」が生きてこないのである。むしろ死の床にある老人の弱々しい未練を聞くようでさえある。「二三百」だからこそ世間的には長寿の八十五も「不時の若死」となる。歌舞伎では「見得を切る」という。あるいは「六方を踏む」。辞世は挨拶である。観客の掛け声もかかる花道には演出が欠かせない。
 なお『増訂古画備考』(皓星社、日本人物情報大系63)に「文化六年七月、深川宜雲寺に、英一蝶(はなぶさいっちょう)の筆塚を築、碑を建る、市野光彦文を選し、英一珪これを建る、これは一蝶寓居の所なりし故也」とある。英派の祖と四世交感の場所を撮りたいものと江東区白河二丁目にある宜雲寺を訪れたが、それらしい塚は見あたらなかった。
 英一珪(はなぶさいっけい)(生年未詳~一八四三)
 法号は英樹院一珪日仙。英一川(いっせん)の養子。墓は東京都大田区の池上本門寺。東急池上線の池上駅下車、徒歩で一〇分。鐘楼の裏の階段を降りた左側(写真)、もしくは総門の手前を左折して車坂の途中の右側。正面を向く一蝶に対して、右に一川と一舟(いっしゅう)、一珪、一蜻(いっせい)と一笑(いっしょう)の墓が並ぶ。但し、池上本門寺のパンフレット「池上本門寺一帯墓所巡り」には記載されていない。
 
 伴信友(初出「栄根通信」十分の三号、平成11年9月9日) 

 今はには何をかいはむよの常にいひし言葉ぞわが心なる
                                   伴信友家集


 大鹿久義編『稿本 伴信友家集』(温故学会)は「例言」によると『伴信友歌集』編纂のための稿本(未定稿)であるというが「失題」で括られた最後に次の歌がある。
    辞世
  今はには何をかいはむよの常にいひし言葉ぞわが心なる
  終に行くときは来にけりのこり居て嘆かむ人ぞかなしかりける
 「失題」は「『架蔵の自筆詠草によって増訂された弥富校訂本を底本とした」とある。このうち「今はには」の歌は形を変えて二度出てくる。
  いまはには何をもいはじよのつねにいひし詞ぞわがこゝろなる(「伴信友歌集」)
  いまはには何をもいはじよのつねにいひし詞そわがこゝろなる(「拾遺抄」)
 題詞は、いずれも「いかなるときにかありけむ(ん)」。かねてから用意されていたものであろう。また「終に行く」からは次の歌が連想される。題詞は「天保十三年二月廿五日、子うま子等が、おのれが七十の賀、おこなひける時に、よめる長歌かへし歌」。
  年よめば 七十といへ かかなへて 日数をよめば 緑児と うまれ出でつる 其の年の 月日にあたる けふまちて ふたよろずまり いつちゝ ふたもゝちまり いそか日に なりにけるかも あはれあはれ ゆたけき御世に あひにあひて 父の命 母刀自の めぐみたばりて ひとゝなり とほつおやより うみの子も いや継々に かしこきや 君の御蔭を かゝぶりて もなく事なく 長ら経る みたまのふゆを 忘れてあらめや
    反歌
  子よたりにひこ十あまりこゝのたりひゝこふたりもたる古翁ぞわれ

 伴信友(ばんのぶとも)(一七七三~一八四六)
 国学者。小浜藩士。四十九歳で家督を譲って退隠。以後の活躍がめざましい。藩主の京都所司代就任に伴い上京、官邸において死去。写真は墓のある発心寺。JR小浜線の小浜駅下車、駅前でレンタサイクルを借りると南へ五分ほどのところにある。長歌に、生まれて二五二五〇日、反歌に子四人、孫一九人、曾孫二人とあるように恵まれた晩年であったようだ。
 
 長島寿阿弥(初出「栄根通信」十分の七号、平成12年8月20日) 
 孫彦に別るゝことのかなしきもまた父母にあふぞうれしき
                        名人忌辰錄(めいじんきしんろく)


 この辞世を読むと私は二つのことを思い出す。一つは三木清の『人生論ノート』(青龍社)に収められた「死について」の次のようなくだりである。
   私にとって死の恐怖は如何(いか)にして薄らいでいったか。自分の親しかった者と死別することが次第に多くなったためである。もし私が彼らと再会することができるーーこれは私の最大の希望であるーーとすれば、それは私の死においてのほか不可能であろう。仮に私が百万年生きながらえるとしても、私はこの世において再び彼らと会うことのないのを知っている。そのプロビリティ(可能性)は零である。私はもちろん私の死において彼らに会い得ることを確実には知っていない。しかしそのプロバビリティが零であるとは誰も断言し得ないであろう。死者の国から帰ってきた者はないのであるから。二つのプロバビリティを比較するとき、後者が前者よりも大きいという可能性は存在する。もし私がいずれかに賭けねばならぬとすれば、私は後者に賭けるのほかないであろう。
 もう一つは「倶会一処」と彫られた墓石である。出典は『阿弥陀経』(岩波文庫『浄土三部経(下)』所収)の経文らしいが、右と同様の思いを連想するのである。
 なお『戯作者小伝』(中央公論社『燕石十種』第二巻)に「ある年の八月十五夜に、病重く、既に終らんとせしに、快くなりければ、『月こよひ枕だんごをのがれけり』と云ふ句を扇に書て、孫に遣りけるとぞ」とある。森鷗外は『寿阿弥の手紙』(岩波書店『鴎外全集』第十六巻)で「活東子(かつとうし)は月今宵の句を書いて孫に遣つたと云つてゐるが、寿阿弥には子もなければ孫もなかつたゞらう。別に『まごひこに別るゝことの』云々と云ふ狂歌が、寿阿弥の辞世として伝へられてゐるが、わたくしは取らない」としている。
 長島寿阿弥(ながしまじゅあみ)(一七六九~一八四八)
 二代目劇神仙。長唄、浄瑠璃の作が多い、とある。森鷗外の『渋江抽斎(しぶえちゆうさい)』(岩波文庫)と前記『寿阿弥の手紙』に詳しい。水戸家御用達菓子商。奇行の人。写真は文京区小石川三丁目の伝通院。境内の一番奥左の階段を下りた右側に寿阿弥の墓がある。但し二代目。東陽院寿阿弥陀仏曇奝(どんちょう)和尚とある。曇奝は緞帳に音が通う。都営三田線の春日駅から徒歩一五分。
 
 曲亭馬琴(初出「栄根通信」十分の四号、平成12年1月3日) 

 世の中の役をのがれてもとのまゝかへすぞあめとつちの人形
                                  著作堂雜記抄

 『著作堂雑記抄』(国書刊行会『曲亭遺稿』)の「天保十四年癸卯年正月続筆」の中に次のような一節がある。天保十四年は一八四三年、実際の死は五年後である。
  〇ある人、柳亭種彦が辞世也とて予に吟じ聞かせける其発句、
   吾もまた五十帖を世のなごりかな
  種彦この発句四時の詞なし、古人に雑の発句は稀也、ばせをに一句歩行ならば杖つき坂を落馬かな、支考に一句歌書よりも軍書に高しよしの山、只是而已、況や辞世の発句に雑なるはあるべくもあらず、種彦は前句などこそ其才はありけめ、俳諧を学びたる者にあらず、且享年五十歳ならば五十帖も動きなけれども、只田舎源氏三十余編、いたく世に行れたるを自負の心のみならば、其識見の陋(いや)しきをしるべし、都て古人といへども辞世の詩歌発句などに妙なるは稀也。意ふに其人病苦に心神衰へながら、強て拈り出す故なるべし、癸卯の春二月中旬、解大病の折、いでや辞世の歌をものせんと思ひて、
    世の中の役をのがれてもとのまゝ
      かへすぞあめとつちの人形
  と詠じたるに余命ありていまだ死なず、人の生前に建る墓を寿蔵といへば、この拙詠も寿世といふべしと自笑したりき、
 このあと人の噂で四度殺されたというエピソードにつながっている。
 また同書をめくっていると文政五年(一八二二)すなわち「壬午卯月十四日の朝、いさゝか思ふ事あり、なき親のなつかしければよめる」として、こんな歌があった。
  うちむかう鏡に親のしたはしきわが顔ながらかたみとおもへば

 曲亭馬琴(きょくていばきん)(一七六七~一八四八)
 文中の解は名前。号は著作堂主人ほか多数。菩提寺は営団丸ノ内線茗荷谷駅下車すぐにある深光寺。墓(写真)の後左側に嫁の路女の墓があるが植え込みで一部しか見えない。また日本武道館の近くに硯の井戸跡(標柱のみ)、江東区深川老人福祉センター(江東区平野児童館)の敷地内に「滝沢馬琴誕生の地」の案内板と和綴じの本を山と積んだモニュメントがある。
 
 葛飾北斎(初出「栄根通信」十分の六号、平成12年5月9日) 

 人魂でゆくきさんじや夏の原
                                   戲作六家撰


 飯島虚心の『葛飾北斎伝』(岩波文庫)に、嘉永二年(一八四九)「翁病に罹(かか)り、医薬効あらず。是よりさき医師窃(ひそ)かに娘阿栄に謂(いい)て曰く、『老病なり、医すべからず』と。門人および旧友等来(きた)りて、看護日々怠りなし。翁死に臨み、大息し『天我をして十年の命を長ふせしめば』といひ、暫くして更に謂て曰く、『天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし』と、言訖(おわ)りて死す。実に四月十八日なり」とある。また、
  北斎翁の墓
   正面に 画狂老人卍墓  川村氏
    右側に 辞世
     悲(ひ)と魂でゆくきさんじや夏の原
とあって墓の図も挿入されている。永田生慈の『葛飾北斎年譜』(三彩新社)には墓碑の写真が掲載されている。したがって一次資料としては台東区元浅草四丁目の誓教寺にある北斎の墓碑刻ということになる。ただ都旧跡としての案内板はあるものの誓教寺では北斎の胸像以外は目にすることができなかった。そこでやむなく『戯作六家撰』(中央公論社『燕石十種』第二巻)から引用したというのが右の次第である。
 なお『葛飾北斎伝』の述べるところによると「此の画狂老人卍の墓は、寺僧の話によれば、加瀬次郎といふ人が、後に建てたる所なりといふ」「翁固より貧し。故に死して碑石を建つること能はず」とある。また天保五年(一八三四)の『富嶽百景』の跋に「己(おのれ)六歳より物の形状(かたち)を写(うつす)の癖ありて半百の比より数々(しばしば)画図を顕すといへども七十年前画く所は実に取に足ものなし七十三歳にして稍(やや)禽獣虫魚(きんじうちうぎよ)の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十歳にしては益々進み九十歳にして猶其奧意を極め一百歳にして正に神妙ならんか百有十歳にしては一点一各にして生るがごとくならんか願くは長寿の君子予が言(こと)の妄ならざるを見たまふべし 画狂老人卍述」とあり、これ画狂老人卍の初出であるという。

 葛飾北斎(かつしかほくさい)(一七六〇~一八四九)
 写真は祭屋台天井絵を展示する北斎館。北斎を招いた高井鴻山(たかいこうざん)の記念館、二一畳大の北斎画「八方睨み鳳凰図」を見ることができる岩松院、いずれも長野電鉄小布施駅下車徒歩の圏内にある。号を改めること三〇数度、九三回の転居、孫の放蕩に悩まされる北斎、そのほか逸話に事欠かないにしても八十代半ばで江戸と信州小布施を行き来する体力も非凡である。
 
 歌川広重(初出「栄根通信」十分の四号、平成12年1月3日) 

 東路へ筆をのこして旅のそら西のみ国の名ところを見舞
                                      死絵


 内田実の『広重』(岩波書店)から辞世を取り上げた部分を引用する。
    東路に(へ) 筆を残して 旅の空
      西の御国の名ところを見舞(ミん)
   広重の辞世である此狂歌は、死後に直ぐ「死絵」によつて伝へられ、諸書にも之を載せてゐる。本書の巻頭第2図に出したものは、その実物であつて、半切りに書かれてあるが、遺言書二通と共に、今自分の手に有つてゐる。「東路に」の「に」の傍らに「へ」と勘考してあり、「名ところを見舞」の「見舞」に「ミん」と訓(よみ)が振つてあるところなどは、広重式を現してゐる。外には別に定稿となつたものも、清書したものも無かつたやうである。「死絵」の詞書にある辞世は、漢字と仮名字とに、実物と違つたところがあるが、これは、詞書の筆者である天明老人が取計らつたものであらう。
 「死絵」(巻頭第1図に出ている)は「広重が死ぬと、直ぐ其月に、一枚絵の死絵を、下谷の絵双紙問屋、魚栄から発行」されたもので
  生前に親しくしてゐた三代豊国が描き、「思ひきや落涙ながら」と署名に肩書きをして、「起煙一空」の雅印を押してゐる。詞書は、生前の狂歌の友、天明老人
が書いている。遺言書は安政五年(一八五八)九月二日と三日に書かれ、六日に亡くなっている。
  広重の辞世は後人の擬作であらうと、「歌川列伝」や其他の書籍にも書かれてゐるものがある。それは虎裂拉(コレラ)病に罹つて辞世などの詠めた筈が無いと云ふところから揣摩(しま)したものであらうけれども、今この実物を一見すれば、その直筆であることに些かも疑ひの余地があるまい
とした上で病名自体を疑っている。

 歌川広重(一七九七~一八五八)
 浮世絵師。安藤氏。写真は墓のある足立区伊興町前沼の東岳寺。最寄りの駅は東武伊勢崎線竹ノ塚駅。案内板に「墓石は震災および戦災で破壊され、昭和三十三年百回忌に際し再建した。記念碑は大正十三年に建立された」とある。内田実が「最近(昭和三年)広重の記念碑か墓かと云つた洋風のものが、新規に東岳寺の門内に造られた」とあるのは、これであろうか。
 
 吉田松陰(初出「栄根通信」十分の三号、平成11年9月9日) 
 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
                             留魂錄(りゅうこんろく)

 『留魂録』(大和書房『吉田松陰全集』第六巻)は刑死を翌日に控えた安政六年(一八五九)「十月二十六日黄昏(こうこん)書す」とある。その中から死生観と同志への付託の窺える箇所を引用する。
  今日死を決するの安心は四時(しいじ)の順環に於て得る所あり。(略)。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼(かか)の未だ秀でず実(みの)らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは蟪蛄(けいこ)をして霊椿(れいちん)たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪蛄(けいこ)たらしめんと欲するなり。斉(ひと)しく命に達せずとす。義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、其の秕(しいな)たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若(も)し同志の士其の微衷を憐み継紹(けいしょう)の人あらば、乃(すなわ)ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年(ゆうねん)に恥ぢざるなり。同志其れ其れを考思せよ。
 文中、四時は春・夏・秋・冬。禾稼は穀物。秀実は稲の穂が長く伸びて実ること。蟪蛄(けいこ)と霊椿は寿命の短いものと長いものの譬え。秕と粟は実のあるなし。有年は豊年。なお『留魂録』は二部作成され、一部が現存、萩市の松陰神社蔵となっているらしい。また安政の大獄というイメージとは別に「書く自由」は保証されていたようだ。
 また十月二十日には萩の父叔兄宛に手紙を書いているが「平生の学問浅薄(せんぱく)にして至誠天地を感格(かんかく)すること出来申さず、非常の変に立至り申し候。嘸々(さぞさぞ)御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候」(同第八巻)に続いて、次の歌をしたためている。
  親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん
 吉田松陰(よしだしょういん)(一八三〇~一八五九)
 幕末の志士、長州藩士。義卿は字。写真は営団日比谷線小伝馬町下車すぐにある十思公園、伝馬町牢屋敷跡である。現在の拘置所にあたり、面積は二六〇〇余坪、四方は堀。揚座敷・揚屋・大牢・女牢等、牢屋奉行の屋敷もあった。在牢者は二〇〇人から四〇〇人、ときには一〇〇〇人を超えたという。明治八年(一八七五)、市ヶ谷監獄ができて廃止。公園の奥に「松陰先生終焉之地」碑がある。
 
 高杉晋作(初出「栄根通信」十分の三号、平成11年9月9日) 

 面白き事もなき世にをもしろく          些々生
  住なすものはこゝうなりけり         望東
                                  東行先生遺文

 一坂太郎は『高杉晋作の手紙』(新人物往来社)の中で次のように述べている。
   伝えられるところによれば、高杉晋作の辞世は死の直前、つまり臨終の床で作られたものだという。晋作は、
    面白きこともなき世を(に)面白く
  とまで書いたが、後が続かない。枕辺にいた野村望東尼が見かねて、
    住みなすものはこころなりけり
  と下の句を付けてやったのだという。さらに下の句を聞いた晋作は、薄れゆく意識の中で、「面白いのう」と呟いて絶命したという逸話まである。
 東行記念館学芸員の一坂太郎は「しかし、これは後年に作られた逸話だ」と否定する。それによれば晋作直筆の原本を書き写したと思われる和装本『東行遺稿』(東行記念館蔵)の「中に『辞世』が出ている。それは『丙寅未定稿五十首国歌十首』と題された中に、まとめられているのだ。『丙寅』、つまり慶応二年の作であるという。晋作の死は慶応三年だから、前の年の作ということになる。/逆に言えば、これが臨終の場で作られた『辞世』だという説を裏付ける史料的根拠はどこにも無い」という。また「今日、その臨終の枕辺には、誰が居たかすらわかっていない」のだそうだ。
 大正五年(一九一六)に出版された東行先生五十年祭記念会編『高杉先生遺文』(民友社)には右の歌を含む「以上十七首 東京 高杉春太郎氏所蔵」とある。この本には「略伝」もあって「辞世」は「望東尼の看護」の中で終焉の地、林算九郎宅に移る前の出来事として述べられている。また春山育次郎の『野村望東尼伝』(文献出版)も、文脈からして慶応二年(一八六六)のエピソードとしており、巷間、伝えられる辞世とは一線を画している。

 高杉晋作(たかすぎしんさく)(一八三九~一八六七)
 幕末の長州藩士。JR山陽本線下関駅北側に「高杉東行終焉之地」碑、奇兵隊を結成した白石正一郎宅跡など。写真は東行庵境内にある東行記念館(山口県下関市吉田町、下関駅前からバスで一時間)、また福岡市平尾五丁目に野村望東尼の山荘が復元されている。ここで望東尼は潜伏中の晋作を庇護した(後日、晋作は遠島になった望東尼を姫島から救出している)。
 
 河井継之助(初出「栄根通信」十分の八号、平成12年11月12日)  

 八十里こしぬけ武士の越す峠
                                  河井継之助伝


 慶応四年(一八六八)の小千谷会談決裂、開戦。五月十九日、長岡城落城。七月二十五日、奪回。継之助、激戦地へ移動中足に被弾、致命傷となる。同月二十九日、再び落城。敗走。今泉鐸次郎の『河井継之助伝』(博文館)より引く。すでに戸板の人である。
  八月三日吉ヶ平に達す。是より先は有名の八十里越なり。然るに継之助は、頗る不興の体にて、『会津へ行つたとて何のよいことがあるものか、己は往かない、置て行け』とて、断乎左右の言を斥け如何にしても退却に応ぜざりしかば、已むなく一行は両日を此地に費せり。是長岡落城以来、東軍の会津に落ち行く者、大勢の帰向する所も察せずして、何れも一時を苟婾(こうとう)するの状あるを見、意私に激する所ありて斯くは殊更に危激の言動に出でしものなるべきか。当時継之助傍人に一首の俳句を似す、
    八十里こしぬけ武士の越す峠
  越は即ち越に通ず。既にして三間等遅れて至り、百方継之助に説き、漸く八十里越を越すことゝなれり。
 三日、会津領只見村。ここで従僕の松蔵に髪の一部を切り取らせる。「奥様から、御体に万一の事があつても是非見届け申して御遺髪だけは持ち帰るやうにとの仰せでした」。十三日、塩沢村。同村の医師矢沢方に投宿。十五日の夜、死後の準備を命じられた松蔵は徹夜で柩と納骨箱を作る。「翌朝継之助は、準備の整へるを見て喜び、暫の間、平日と異りなく談笑し、午時一睡せんとて傍人を遠け、眠に就きしが、是より全く昏睡状態に陥り、午後八時前後、竟に白玉楼中の人となり了んぬ」。四十二歳。明治改元は九月八日。なお、安藤英男編『河井継之助のすべて』(新人物往来社)の「あとがき」で安藤は、河井の名を冠した土産物が氾濫していた昭和三十四年と一つも見かけなくなった近年を比較して地元人気の消長を述べている。司馬遼太郎の『峠』が毎日新聞に連載されるのが昭和四十一年から四十三年、その後の文庫本化を考えると意外な変化である。

 河井継之助(かわいつぎのすけ)(一八二七~一八六八)
 越後国長岡藩士。号は蒼龍窟。北越戊辰戦争では軍事総督として作戦を指揮した。写真は福島県南会津郡只見町の河井継之助記念館。終焉の部屋が保存されている。JR只見線会津塩沢駅下車、徒歩一五分。国道沿いに駐車場、館は線路の向こう側で見えない。近くの医王寺には墓。また新潟県長岡市長町一丁日に河井継之助邸跡、東神田三丁目の栄凉寺に墓がある。
 
 西郷千重子(初出「栄根通信」十分の七号、平成12年8月20日) 
 なよ竹の風に任する身ながらもたわまぬふしは有とこそきけ
                              栖雲記(せいうんき)


 宮崎十三八編『会津戊辰戦争史料集』(新人物往来社)に収められた西郷頼母(さいごうたのも)の『栖雲記』は明治元年(一八六八)八月二十三日の悲劇を次のように書きとどめている。
  己が出陣中に、母君をはじめやから空しくなりぬるは、腸もたゆる計りなり。こわかねて自殺の覚悟なりければ此頃打よりて、或は先きつ年かくれ給ひし北の方の御かたみに賜はりし衣をとり出、又は幼なき子がおのれと肌着の襟袖付るなど、いと甲斐々々しかりき。母君の「秋霜飛兮金風冷、白雲去兮月輸高」とは、父君のいまぞかりし程家宴の唱和に聯句をせし折の句を改めて絶命辞にし給ひしと覚ゆる。老成めきて夫人の句と聞こえず。いともかしこし。御歳は五十八歳にておはしましき。妻の千重子は三十四歳なりしが、「なよ竹の風に任する身ながらもたわまぬふしは有とこそきけ」とは、流石におとなひて聞ゆ。妹なる眉寿子は兼て雄々しき心なりしが、「死にかへりいく度世には生るともますら武雄と成なん物を」。こは二十六歳にて、由布子は二十三歳なりしが、「ものゝふの道を聞しをたよりにて思ひ立ぬる黄泉の旅哉」とは、赤穂義士の歌に等類有と覚ゆれど、暗合にて決心の様さこそとかなし。十三歳のむすめ瀑布子が、「手をとりて共に行なは迷はしよ」と云しに、「いざたとらまし死出の山道」と十六歳なる姉の細布子が下の句を付たるなど中々にうひうひし。田鶴子は九歳、常磐子は四歳、季子が二歳にて、支族近虎夫妻外に、此春江戸の邸を引払へて同居せしか小森氏の家族外祖母をはじめ五人、町田伝八が家族三人、折節其女の浅井氏へ嫁せしが子をつれて来しとて空しくなりぬとぞ。千重子は太刀をとり有隣に佩はせて出せしと云り。それより幼なき者共の始末如何にしけん、思ひやられてあはれなり。
 残されたのは頼母と有隣。しかし有隣は明治十二年に死亡、父親の頼母は明治三十六年、若松栄町(現・東栄町)の十軒長屋で死亡とあるが、思えば永い余生である。
 西郷千重子(さいごうちえこ)(一八三五~一八六八)
 会津藩家老西郷頼母の妻。写真は西郷邸跡。鶴ケ城北出丸正面右側の碑である。東山温泉入口の会津武家屋敷(ミュージアムパーク)に家老屋敷として復元されている。門田町の善龍寺には自決した一族二一人の墓、西郷頼母夫妻の墓、戊辰の役に殉じた婦女子を合葬した「なよたけの碑」が建つ。JR会津若松駅下車、飯盛山を含めてレンタサイクルが便利である。
 
 中野竹子(初出「栄根通信」十分の八号、平成12年11月12日) 
 武士(もののふ)の猛き心にくらふれは数にもいらぬ我身なからも
                               会津戊辰戰爭史料集


 宮崎十三八編『会津戊辰戦争史料集』(新人物往来社)に収録されている水島菊子の「会津婦女隊従軍の思ひ出」によると婦女隊を含む会津方と政府軍が衝突したのは慶応戊辰(明治元年)(一八六八)八月二十五日、場所は越後街道の涙橋、時刻は夜の九時から十二時前後、雨が降っていたという。斬髪(ざんぎり)頭に白羽二重(しろはぶたえ)の鉢巻、しかし「中野竹子様御姉妹は江戸生れの方なので殊に御美しい御召物で、竹子様は青味がかつた縮緬(ちりめん)の御召物、優子様は紫縮緬の御召物、私共は竪縞の入つた小豆(あずき)色の縮緬の着物を着まして、孰(いず)れも白羽二重の襷で袖をからげ、細い兵児(へこ)帯に裾を括(くく)る義経袴と云ふ模様の入つた短い袴を穿き、脚絆に草履は紐で締め、大小刀を手挟み、薙刀を持ち」という格好である。婦女隊あるいは娘子軍(じょうしぐん)とも呼ばれるが正規軍ではない。したがって
  男達の方で、私達には出るな出るなと止めますので、充分な働きは出来ませんでしたが、それでも私共も相当には薙刀で切つてやりました。この時の中野竹子様、そのお母様のこう子様、殊に心配された一番お若い優子様、孰れもたいした御働きをなされましたが、惜しいことには竹子様だけが、真正面から来た弾丸が額に当たつて亡くなられました。(中略)若し弾丸が横から来たのなら私共も一所にやられたのでした。お妹御の優子様は其時御母様に「お姉様の御首級(おしるし)を敵に渡さぬやうに、私が介錯しませう」と云つて、敵と遣り合ひ乍(なが)らに段々とお姉様の方へ近寄つて来られて、到頭見事に介錯せられて、白羽二重の鉢巻か何かに御首級を御包みになりました。尤(もっと)も女の事なので頭髪の毛が引蒐(ひっかか)つて御首級が容易に取れなかつたのを、男の方が手伝つておあげになつたやうです。
 但し、この談話には辞世のエピソードは登場しない。同本所収の「戊辰の役会津殉節婦人の事蹟」(荘田三平)の中で「初め竹子、軍に従ふ時、和歌一首を詠み、これを短冊に書して薙刀に結べり、其の歌に曰く」とあるのが右の歌である。
 中野竹子(なかのたけこ)(一八四九~一八六八)
 写真は墓のある福島県河沼郡会津坂下町(あいづばんげまち)緑町の法界寺。小竹会が組織され、薙刀と遺墨が伝わっている(白虎隊記念館にも資料の展示あり)。若松駅前(バスターミナル)から坂下営業所行きのバスに乗車、喜多方街道入口で下車すると、すぐ。途中の黒川バス停東側には中野竹子殉節碑が建つ。なお生年は『日本女性人名辞典』(日本図書センター)に拠った。
 
 貞心尼(初出「栄根通信」十分の七号、平成12年8月20日) 

 くるに似てかへるに似たりおきつ波立居は風のふくにまかせて
                                     墓碑刻

 復刻された相馬御風(そうまぎょふう)の『良寛と貞心』(考古堂書店)は御風の『貞心尼全集』(復刻)、堀桃坡の『良寛と貞心尼の遺構』(復刻)を含めて便利な一冊である。では全集の「はちすの露」(一八三五年成立)から二人の唱和に耳を傾けよう。初対面は貞心尼三十歳、良寛七十歳。詞書に「(略)打とけて遊びける中に君は色くろく衣もくろければ今よりからすとこそまをさめと言ひければげによく我にふさひたる名にこそと打ち笑ひながら」、
  いづこへも立ちてを行かむあすよりはからすてふ名を人のつくれば    師
    とのたまひければ
  山がらす里にいゆかば子がらすも誘ひて行け羽ねよわくとも      貞心
    御かへし
  いざなひて行かば行かめどひとの見てあやしめ見らばいかにしてまし   師
    御かへし
  鳶は鳶雀は雀さぎはさぎ烏はからす何かあやしき           貞心
 また詞書「日もくれぬれば宿りにかへり又あすこそとはめとて」、
  いざさらばわれはかへらむ君はこゝにいやすくいねよ早あすにせむ    師
    あくる日はとくとひ来玉ひければ
  うたやよまむ手毬やつかむ野にやでむ君がまにまになして遊ばむ    貞心
    御かへし
  うたもよまむ手毬もつかむ野にも出む心ひとつを定めかねつも
 辞世の上三句は「はちすの露」に登場する。このときの下二句は「あきらかりけりきみがことのは」(良寛)であった。良寛七十四歳没、このとき貞心尼三十四歳であった。

 貞心尼(ていしんに)(一七九八~一八七二)
 写真は貞心尼の墓。新潟県柏崎市常磐台の洞雲寺、JR柏崎より徒歩一五分。右側面の辞世を知ったのは後日のことであった。墓への入口に「恋は学問を妨ぐ」の歌碑が建つ。
  いかにせむまなびの道も恋くさのしげりていまはふみ見るもうし    貞心
  いかにせんうしにあせすとおもひしも恋のおもにを今はつみけり    良寛
 
 原田きぬ(初出「栄根通信」十分の五号、平成12年2月12日) 
 
夜嵐にさめてあとなし花の夢
                夜嵐阿衣花迺仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)


 岡本勘造の『夜嵐阿衣花迺仇夢』(講談社『明治初期文学集』日本現代文学全集1所取)に登場する殺人犯の辞世。但し、登場する原田きぬ、恋人の嵐璃鶴(りかく)、被害者の小林金平、いずれも実在の人物、しかも実名である。毎日コミュニケーションズの『明治ニュース事典』第一巻から引用すると「原田きぬとの密通事件」(明治五年(一八七二)二月二十三日 東京日日)「東京府貫属小林金べいの妾にて浅草駒形町四番地借店 原田キヌ 歳二十九 この者のぎ妾の身分にて嵐璃鶴と密通の上、主人金べいを毒殺に及ぶ段不届至極に付き、浅草において梟木(きょうぼく)におこなう者也。みぎは当二十日おん仕置きとなり、昨二十二日迄三日の間同処に晒(さらし)ありたり」、「原田きぬ密通のため夫を毒殺」(明治五年二月 新聞雑誌)「猿若町の奸婦原田幾奴(きぬ)、俳優嵐璃鶴と密通し、主人小林金平を毒殺せし事件、二月廿日官裁ありて、婦人は当申二拾九歳小塚原に於て梟首せられ、獄中にて出産の男子は身寄の者へ御預けに相成りたり。璃鶴は十年の間徒罪に処せられたりとぞ」(凡例には引用新聞・雑誌をあげているが個々には「新聞雑誌」の例も多い)、刑期満了して改名(明治七年十月六日)、長文であるが「俳優嵐璃鶴改め市川権十郎謹白」「自詠、期限満刑を慶びて」として次の一首が載っている。「罪は皆みそぎぞ果し隅田川きよきながれを汲ぞ嬉しき」。内容を読むと「璃鶴いったん毒婦の妖舌に誘われ」云々とあるが、はたしてどうか。『明治ニュース事典』第二巻に市川権十郎「水茶屋お春と密会」(明治十三年十月二十三日 東京曙)という記事がある。野島寿三郎編『歌舞伎人名事典』(日外アソシエーツ)によると、この市川権十郎は二代目で京都の出身、「芸風に品があり、時代物と世話物に適し、口跡と台詞は良いが、上方訛が酷かつた。立役として武士事を得意とし三都の舞台に勤めた」とある。五十九歳、肺炎で死去。『明治ニュース事典』第七巻に「梨園の勇将死去」(明治三十七年三月二十八日 東京朝日)とある。なお続編を予告していた『夜嵐阿衣花迺仇夢』の作者岡本勘造は明治十五年に三十歳で亡くなっている。肺結核だった。

 原田きぬ(一八四三~一八七二)
 写真は営団日比谷線南千住駅から眺めた小塚原回向院。見えている線路はJR常磐線。高架をくぐると首切地蔵で有名な延命寺がある。そのパンフレット「刑場跡周辺」によると明治になるまでに埋葬された死者の数二十万(しかし取り捨てられたも同様で野犬の出没する荒涼とした風景だったらしい)、明治十三年に梟首場が不要とされ、監獄埋葬地になったとある。
 
 新門辰五郎(初出「栄根通信」十分の六号、平成12年5月9日) 
 思ひ置くまぐろの刺身鰒と汁ふつくりぼぼにどぶろくの味
                                   侠客の辞世

 『日本及び日本人』という雑誌が明治四十四年(一九一一)元旦号で「現代諸家の侠的人物観」という特集を組んでいる。肝付兼行(きもつきかねゆき)の「俠客の辞世」も、その一文である。
   故の榎本子爵から度々聞いて、成る程侠客と云ふ者は、其の意気ばかりでない、一種悟入した所があるものだらうと感じた事がある。それは近世有名な侠客新門辰五郎の親分で、名前はつい忘れて了つたが、御本丸炎上の時に命にかけて隅の櫓を防ぎ止めた為に、俠名一時を圧した男である、其の男が辞世に、
    思ひ置くまぐろの刺身鰒と汁/ふつくり〇〇にどぶろくの味
  と云ふ歌を読んだと云ふ事であるが、どうも其の天真爛漫の間に、一種の哲理を含んだ所が云ふに云はれぬ味がある、之れから考へても多少世に現れた侠客などは、単に男の意気ばかりでなく、何か自得した信念を有して居り、又た真の風流をも解したと思ふがどうかね。
 掲出歌は、改訂版であるが昭和四十四年の田村栄太郎『やくざの生活』(雄山閣出版)に「思ひおく、まぐろの刺身、鰒と汁/ふつくりぼぼに、どぶろくの味」とあり、これによって伏せ字を起こした。ちなみに肝付兼行は男爵、このほかにも「現代諸家の侠的人物観」には子爵・伯爵・衆議院議員といった肩書と爵位を冠した執筆者が多い。
 慶応年間、京都に本宅、南隣に妾宅、大阪には別宅を構えていたが「奢りもまた分を過ぎて」官軍に没収されたという逸話が明治十三年十一月七日の読売新聞(毎日コミュニケーションズ『明治ニュース事典』第二巻)に載っている。『やくざの生活』の著者の人物評は「慶喜の供をした辰五郎には、主人と共に憂えることはなく、国難を悪用し」また「弱者を搾りに搾りとった。そうして女と酒、ぜいたく三昧に使った」とにべもない。
 新門辰五郎(しんもんたつごろう)(一八〇〇~一八七五)
 町火消十番組の頭。幼時、上野輪王寺の寺侍の養子となった。本姓町田。新門の由来は伝法院に隠居した舜仁准后(しゅんにんじゅこう)が上野に通行するために新門をつくり、町田を門番としたことによる。縄張りは浅草上野一帯。テキ屋から所場代、スリや人買いらからも目こぼし料が入って莫大な金額になったという。娘は徳川慶喜の妾。写真は夕刻の浅草寺、雷門(台東区浅草二丁目)。
 
 大田垣蓮月(初出「栄根通信」十分の五号、平成12年2月12日) 

 ねがはくはのちの蓮の花のうへにくもらぬ月をみるよしもがな
                                   蓮月尼全集

 村上素道編著『蓮月尼全集全』(蓮月尼全集頒布会。思文閣から増補された復刻版が出ている)の「和歌篇」の拾遺雑部に「辞世」として二首が載る。うち一首は左のとおり。掲出歌は「観月辞世の像 (尼自画讃)」として「消息篇」の口絵にも掲載されている。
  ちりほどの心にかかる雲もなしけふをかぎりの夕ぐれのそら
 富岡鉄斎に与えた自筆「履歴書」がある。杉本秀太郎の『大田垣蓮月』(筑摩書房『蔦の細道 杉本秀太郎文粋4』所収。小沢書店版は人名索引を載せる)で見てみよう。但し55頁の引用には「履歴書」と「大田垣蓮月履歴書」の混同がある。
  百姓にて今猶同姓あまた侍り、ちゝはいなばの国人 大田垣光古といへり ゆへありてみやこ東山に住 そのころくわんせい三 出生名誠とよぶ はゝは早うなくなりてちゝにはぐくまれて人となる三十あまりにて つまもこもなくなりて
    つねならぬ世はうきものとみつぐりのひとりのこりてものをこそおもへ
  やがてちゝのもとにありて四十あまり ちゝにおくれて
    たらちねのおやのこひしきあまりにははかにねをのみなきくらしつゝ
  このちかきところにをらばやとおもへど 山の上にて 人のすむべきところにもあらねば なくなくかぐら岡ざきにうつりぬ もとよりまづしきみにてせんかたなく つちもてきびしよといふものをつくる (略)
    あけたてばはにもてすさびくれゆけばほとけをろがみおもふことなし
  夕ざりそらをながめて
    ちりばかり心にかゝるくもゝなしいつの夕やかぎりなるらん
                           時とし八十四   蓮月

 大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)(一七九一~一八七五)
 写真は晩年を過ごした京都市北区西賀茂にある神光院(じんこういん)。JR京都駅より市バスで神光院前下車。墓は西(左)へ徒歩五分の小谷墓地。鉄斎筆「大田垣蓮月之墓」とある。ちなみに兵庫県宝塚市の清荒神清澄寺山内に鉄斎美術館がある。また大阪府立中之島図書館の玄武洞文庫は蓮月の実子説もある田結荘千里の自筆稿本ほか田結荘家の寄贈になるコレクションである。
 
 稲妻雷五郎(初出「栄根通信」十分の六号、平成12年5月9日) 

 腕押しにならでや涼し雲の峰
                                    墓前石柱

 JR山手線原宿駅から歩いて十分ほどにある妙円寺(渋谷区神宮前三丁目)に稲妻雷五郎の墓がある。正面に「根本家墓」(裏面に「昭和三十一年春彼岸建」)、その墓前右側に「第七代横綱稲妻雷五郎墓所」という石柱が建つ。左側面を覗くと右の句に「山岡鉄舟筆墓誌/昭和二十年五月/戦災の為焼失」とあって根本家公認の辞世という趣である。
 一般に稲妻雷五郎の辞世としては「稲妻の去りゆく空や秋の風」(あるいは「稲妻の消えゆく空や秋の風」)が知られている。ちなみに私の手にした本の中から辞世の言及のあるなしを拾うと次のようになる。明治三十年(一八九七)、伊藤房太郎『横綱力士伝』(青眼堂)なし。明治四十二年、常陸山谷右衛門『相撲大鑑』(文運社)なし。昭和三年、三木貞一『江戸時代の角力』(近世相撲文化史研究会)なし。昭和十三年(一九三八)、加藤進『歴代横綱物語』(博文館)あり。昭和十八年、横山健堂『日本相撲史』(冨山房)あり。昭和二十八年、彦山光三『横綱伝』(ベースボール・マガジン社)あり。昭和四十七年、小島貞二『大相撲名力士一〇〇選』(秋田書店)なし。平成元年、影山忠弘・小池謙一編著『古今大相撲力士事典』(国書刊行会)あり。いずれも「稲妻の」であって「腕押しに」ではない。
 ところで野中孝一『稲妻雷五郎の謎を探る』(読売新聞社『大相撲』一九九二年三月号~六月号)は旧墓に墓碑刻「腕押しに奈羅天や涼し雲の峰」とあったことを紹介している。山口豊山の『夢跡集』であるが、その写真も四月号に掲載されている(この『夢跡集』という本、辞世の取材で目にすることが多 いのであるが活字化されていない、幻の墳墓録である。山口豊山も明治三十五年(一九〇二)に生存、しかし生没年は未詳らしい)。ちなみに現在流布している辞世は「稲妻の作だという明確な証跡も見当たらない」という。
 ただ稲妻雷五郎の郷里(茨城県稲敷郡東町)では、
  稲妻の去りゆく空や秋の風
が今も辞世として伝えられているそうである。

 稲妻雷五郎(一七九八~一八七七)
 生年も諸説あるが『古今大相撲力士事典』に従った。古今十傑の一人に数えられる。写真は東町立歴史民俗資料館(右。左は図書館)。稲妻雷五郎自筆の相撲訓や俳句など多彩な資料が展示されている。入館無料。但し、交通の不便なところで電車を利用した場合もJR成田線佐原駅下車、タクシーで約二〇分。帰りの便を確保しておかないと佐原まで歩くことになる。
 
 井月(初出「栄根通信」十分の八号、平成12年11月12日) 

 何処やらに鶴の声聞く霞かな
                                    井月全集

 昭和四十九年に出た増補改訂版再版の『井月全集』(伊那毎日新聞社)によると井月の辞世は一通りでない。まず右の句。「発句篇」に「右臨終の二時間前、俳友霞松氏一盞の酒を勧めて一句を乞ふ。井月頭を左右に打振り出来ぬよし答ふ。強て筆を把らしめしにこの句を書けりといふ」とある。但し「上伊那郡南向村四徳の小松慶太郎(桂雅の孫暁甫)方短冊に此の句の若書が有るという。
  落栗の座を定めるや窪溜り
 これにも注記「塩原梅関方へ入籍せし際の句」とある。
  涅槃より一日後るゝ別れかな(辞世)
 「後記」によると死亡後、句碑の建立計画があったものの実現しなかったらしい。
  闇き夜も花の明りや西の旅
 これも「後記」に「荒井畔牛が示した短尺に、井月代筆梅関と署した『闇き夜も花の明りや西の旅』があつて、裏にやはり梅関の筆で、『旧二月十六日塩翁斎柳家井月居士』と認めてある。井月の縁の有る人々の所へ梅関から配つたものらしい」とある。また臨終の様子についても分けてもらった饅頭を胸の上に持ったまま事切れたという異説もある。
  立ちそこね帰り後れて行乙鳥(つばめ)
 前書に「国へ帰ると云うて帰らざること三度」とある。
  今は世に拾ふ人なき落栗のくちはてよとや雨のふるらん
 前書「述懐」、署名は「よし貞」。越後国長岡の生まれ、武士であったろうといわれる。伊那へやってきたのは安政五、六年(一八五八、九)、以来この地を離れず、人呼んで乞食井月。酒を愛し、言語不明瞭、ただ一つわかるのは「千両千両」だが意味と用途は多彩であった。
 同じ井月を扱って瓜生卓造の『漂鳥のうた』(牧羊社)は伊那を意識し、つげ義春の『蒸発』(筑摩書房『つげ義春全集』第八巻)は捨てた故郷を意識した標題となっている。

 井月(せいげつ)(一八二二~一八八七)
 JR飯田線伊那市駅下車、徒歩で上伊那郷土館の人物室、さらに駅前のタクシーで美篶(みすず)太田久保へ(写真)。林の中にある 墓碑には、
  降るとまで人には見せて花曇
と刻まれているらしい。あと六道原バス停そばに井月の句碑と墓参に訪れた山頭火の文学碑(西箕輪与地にもある)がある。但し、タクシードライバーも不案内な探索行であった。
 
 正岡子規(初出「栄根通信」十分の四号、平成12年1月3日) 
 
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
                                    子規全集

 河東碧梧桐の『絶筆』(日本図書センター『子規言行録』)を覗いてみよう。
  妹君は病人の右側で墨を磨つて居られる。軈て例の画板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取つて病人に渡されるから、何かこの場合に書けるのであらうと不審しながらも、予はいつも病人の使ひなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添へ、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ
    糸瓜咲て
  とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくさうにあつたのでこゝで墨をついで又た筆を渡すと、こんどは糸瓜咲てより少し下げて
    淡のつまりし
  まで又た一息に書けた。字がかすれたので又た墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駆られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに
    仏かな
  と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるやうに感じた。書き終つて投げるやうに筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つゞけざまにして痰が切れんので如何にも苦しさうに見えた。妹君は板を横へ片付けながら側に坐つて居られたが、病人は何とも言はないで無言である。又た咳が出る。今度は切れたらしく反故で其痰を拭きとりながら妹君に渡す。痰はこれ迄どんなに苦痛の劇しい時でも必ず設けてある痰壺を自分で取つて吐き込む例であつたのに、けふはもう其痰壺をとる勇気もないと見える。其間四五分間たつたと思ふと、無言に前の画板をとりよせる。
 このあと左の二句を書くが「其後再び筆を持たうともしなかつた」とある。
  痰一斗糸瓜の水も間に合はず
  をとゝひのへちまの水も取らざりき

 正岡子規(一八六七~一九〇二)
 絶筆三句はアルス社の『子規全集』第三巻に拠った。戦火にあった子規庵は戦後に再建されている(内部公開あり)。最寄りの駅はJR山手線・京浜東北線鶯谷駅。写真は生誕の地、愛媛県松山市にある松山市立子規記念博物館。伊予鉄道松山市内線で道後温泉駅下車。三階には漱石の下宿で子規も過ごした愚陀仏庵が復元されている。また子規堂は松山市駅前下車すぐ。
 
尾崎紅葉(初出「栄根通信」十分の四号、平成12年1月3日) 
 死なば秋露のひぬ間ぞ面白き
                                    紅葉句集


 岩波書店の『紅葉全集』第九巻には没後の句集として『紅葉山人俳句集』(明治三十七年刊)、『紅葉句帳』(明治四十年刊)、『紅葉句集』(大正七年刊)が収録されている。このうち辞世は『紅葉句帳』と『紅葉句集』で見ることができる。まず掲出した『紅葉句集』であるが前書は「病中」となっている。『紅葉句帳』の表記は「死なば秋露のひぬ間そ面白き」であるが、こちらも前書は「病中」であって「辞世」ではない。同巻所収の「俳諧」(新聞等発表分)を見ても辞世という言葉は使われていない。では「辞世」ではないのか。少し気になって岡保生の『明治文壇の雄 尾崎紅葉』(新典社)を開くと「終焉」の項に、この句は「辞世の句として世に知られている」とある。受信者の側に問題はない。では発信する方はどうだったのか。全集第十一巻の「日記断片 病骨録(明治三十六年三月)」から引用する。回診にやってきた入沢博士(途中で長沢氏になったりする)によって「此の病症の宣告が如何に与へらるゝ乎は、未だ試験中の事ゆゑ知り難いが、若し其が悲しむべき者であると為るならば」という前提で話し合いが行われるが、紅葉の考えとは別に医師は「故に死を賭して手術台に上る覚悟は持たれたい」という言葉を残して去る。
  嗚(あゝ)、予は死の宣告を受けたのではあるまいか!
  切開を避(さく)れば、病の為に早晩(さうばん)斃(たふ)れねばならぬ。進んで手術台上に身を置けば、命を賭さねばならぬのである。氏は病名を告げず、猶試験中であると言はれたが、予の胃部の隆起は、切開乃至切除を要すべき一種の腫物たるや疑無い。 葡萄酒を飲み、煙草を吸い、不安と煩悶の中で長い夜が明ける。
  超えて三日、十四日の午前九時半、入沢博士は自ら来つて、其の断症試験の結果を告げ、而(さう)して去るに臨んで
  「私(わたくし)の誤診であることを希望するのです。」
 すでに死は深く棲みついていたのである。ただし日付までは特定できないようだ。
 尾崎紅葉(おざきこうよう)(一八六七~一九〇三)
 作家・俳人。年譜(全集第十二巻)から拾うと明治三十六年三月三日、大学病院に入院、胃癌と診断される。十四日退院。十月三十日死去。三十六歳。手術はしなかったようである。写真は代表作『金色夜叉』の舞台となった静岡県熱海市の「お宮の松」、左に貫一お宮の像が見える。駅から歩いて十数分。但し、海岸まで急坂の連続だった。途中に紅葉山人筆塚もある。
 
 三遊亭円朝(初出「栄根通信」十分の四号、平成12年1月3日) 
 耳しひて聞き定めけり露の音
                                     墓碑刻


 角川書店の『三遊亭円朝全集』第七巻雑纂篇に「円朝資料」があり、鈴木古鶴が「円朝遺聞」を書いている。その中から「辞世」の項目を引く。
   円朝の辞世として世間へ伝わっているのは「目を閉ぢて聞定めけり露の音」であるが、墓碑には「聾ひて聞定めけり露の音」とある。これは初め円朝が、目を閉じてと作って千葉立造(ちばりゅうぞう)翁に見せたところが、これでは「無舌」にならぬ、聾(みみし)いて聞き定めてこそ無舌の落語家(はなしか)になろうといわれて、「聾ひて」と改めたものである。千葉氏が円朝の没後勝手に改めたようにいわれるはうそで、鏑木(かぶらぎ)氏所持の幅には新宿北浦の草庵にてとして「聾ひて」になっている。のち、ある人が南天棒老師(なんてんぼうろうし)に謁した折、この辞世の話をすると、老師は「聾ひて」は理屈じゃ、矢張り「目を閉ぢて」のほうがよろしい、といわれたということである。
 同記事には一子朝太郎について、円朝も深く心を傷めたとあり、その間の事情を「学問好きでもあり、英語の教師もでき、牛込辺で塾を開いたほどの力は持っていながら、酒に身を持ち崩して放浪生活にはいってしまった」と次のように述べている。
  円朝の死んだ時にも住所がわからないため知らせることもできなかったが、葬儀の時に、ふらりと現われて父の冥府(よみじ)の旅を送った。三回忌の時全生庵(ぜんしょうあん)で盛んな法要が営まれたが、このときはついに姿を見せなかった。門弟初め一同心をつけて見たが朝太郎の影もなかった。読経(どくきょう)も済んで一同打ち揃って墓所(はかしょ)へ行くと、円朝の墓には露の垂るるような美しい花がたっぷりと供えてあって、小さい紙切れに鉛筆で「円朝せがれ」と記してあったので一同は顔を見合わせて暗涙(あんるい)をのんだという。その後三井の慈恵病院(じけいびょういん)とやらで死んだといううわさもあるが、たれもめいりょうにその終わりを知っているものはない。ともかく臨終(いまわ)の際にも円朝の子であることは明かさなかったものらしい。
 三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう)(一八三九~一九〇〇)
 写真は全生庵。本堂の裏が墓地になっている。正面に山岡鉄舟の墓、右側の区画に「三遊亭円朝無舌居士」、側面に辞世の刻まれた円朝の墓がある。傍らに「ぽん太の墓」があるが、これは弟子の名前らしい。場所は台東区谷中五丁目。最寄りの駅は営団千代田線千駄木駅。八月は円朝まつりが行なわれていて、この期間、円朝の幽霊画コレクションが一般公開されている。
 
 山川登美子(初出「栄根通信」十分の五号、平成12年2月12日) 
 
父君に召されていなむとこしへの春あたゝかき蓬萊のしま
                                 山川登美子全集


 坂本政親編著『山川登美子全集』(文泉堂出版)の上巻の短歌第二部生前未発表として辞世が、下巻の資料篇に山川亮の「姉の思ひ出」(以下に抜粋)が抄録されている。
   明治四十二年四月十五日午後一時ごろ、姉は静かに荒い呼吸ひとつ立てず、母一人にその手を握られながら死んで行つた。その月の十日あたりから何となく衰へが感ぜられたが、自分にはまだ姉の死と云ふやうな現実感が、身に迫つては来てゐなかつた。仰臥したきりで身動きも不充分ではあつたが、顔色は美しく艶さへ持つて、蒼白い皮膚にはぽつと赤ら味さへ帯びて美しい顔だつた。声は弱つて素枯れたやうであつたが、はつきりと聴きとれた。その十三日の午後だつたが、突然私を呼んで筆と紙とを持つて来いと姉は云つた。私が紙を探さうとして病室を出やうとすると、「そこの机の上の巻紙でよい。筆に墨をつけて」と云つた。私が次の室からそれを持つて行くと、姉は仰臥のままで筆を握り、巻紙を拡げて自分の顔の上へ出せと云つた。自分は巻紙を少し拡げて、それを姉の顔の上にかざすやうにした。姉はすらすらと、一呼吸に筆を紙の上に走らせて、筆を止めるとぽたりと夜具の上へ落した。それから巻紙を引き裂くと「これをお前にあげるから、誰にも見せずに仕舞つときな」と云つた。そして眼を瞑つて終つた。自分はそれを見た。字は平常の通り少し癖のある、男のやうな字体だつた。すこしも字には衰へを見せてゐなかつた。
    父君に召されて去なむ永遠の夢あたたかき蓬萊のしま
  大きさにして半紙半枚ほどのものだつた。そこへ母が入つて来た。私はその紙を懐に入れて黙つて立上つた。室を出る時に姉を見ると、やはり眼を瞑つたままだつた。
 なお両者の歌の表記の異同については下巻に掲載の実物写真が参考になる。歌としてみれば「永遠の夢」では弱い。やはり「とこしへの春」であろう。
 山川登美子(一八七九~一九○九)
 歌人。福井県小浜市の小浜公園の階段を上る途中、案内板に比して小さな歌碑がある。
  いくひろのなみはほをこすくもにゑみ北国人とうたはれにけり
 写真は階段を上ったところから生家方面を撮影。季節は十二月下旬。小浜城跡も、この方向にある。山川登美子記念短歌大会が催され、小浜公園には新しい歌碑も建っているらしい。
 
 乃木希典(初出「栄根通信」十分の二号、平成11年6月28日) 
 
うつ志世を神さりましゝ大君のみあと志たひて我はゆくなり
                               乃木神社蔵自筆辞世

 大正元年(一九一二)九月十四日の国民新聞(毎日コミュニケーションズ『大正ニュース事典』第一巻)は「学習院長軍事参議官陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵乃木希典氏(六十四)及び夫人静子(五十四)は、十三日午後八時、すなわち明治天皇霊轜(れいじ)御発引の折を見計らい、号砲を合図として、赤坂区新坂町五十五番地なる自邸において、美事なる自殺を遂げたり」と報じている。九月十六日の続報では「これ自刃せる乃木大将夫妻が料紙に清書して、明治天皇、皇太后両陛下御真影の前に捧げたるものなり」として辞世を掲載。
  神あかりあかりましぬる大君のみあとはるかにをろかみまつる
  うつし世を神さりましゝ大君のみあとしたひて我はゆくなり
                                希典上
  出てましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふそかなしき
                               希典妻静子上
 さらに九月十七日は「遺言書」が報道される。「資産分与の儀は、(略)、その他は静子より相談仕るべく候」「遺物分配の儀は、(略)、静子承知の次第、御相談成らるべく候」「静子儀、追々老境に入り、石林は不便の地、病気等の節心細しとの儀もっともに存じ候。家は集作に譲り、中野の家に住居しかるべく同意候。中野の地所、家屋は、静子その時の考えに任せ候」「此方死骸の儀は、石黒男爵へ相願い置き候間、(略)。(静子承知)」「細事は静子へ申し付け置き候」「伯爵乃木家は、静子生存中は名義これあるべく候えども、くれぐれも断絶の目的を遂げたき大切なり」とあり、日付は九月十二日夜、宛名は湯地定基、大館集作、玉木正之と静子の四名、その後の状況に変化のあったことがわかる。
 十八日葬儀。翌日の東京朝日新聞は「葬列沿道に十万余の群集」と伝えている。

 乃木希典(のぎまれすけ)(一八四九~一九一二)
 写真は旧乃木邸。祝祭日だったため拝観できなかった。場所は東京都港区赤坂、最寄りの駅は営団千代田線乃木坂駅。辞世は隣接する乃木神社の宝物殿に陳列されている。京都の乃木神社は広大な伏見桃山陵のそば、「臣希典上」(『大正ニュース事典では「臣」の文字が落ちている)に納得させられる。近鉄京都線桃山御陵前駅もしくはJR奈良線桃山駅下車、徒歩。
 
 有島武郎(初出「栄根通信」十分の八号、平成12年11月12日) 
 世の常のわか恋ならはかくはかりおそましき火に身はや焼くへき
                                 有島武郎全集

 筑摩書房の『有島武郎全集』(第六巻)に収録されている「短歌」の最初に右の歌がある。以下は「解題」(安川定男)からの引用である。
   最初に掲げた短歌十首は、有島武郎の個人雑誌『泉』の「終刊 有島武郎記念号」(大正十二年発行)に「有島武郎の絶筆」と題して掲載されたもので、その末尾に「(この九首は没後その書斎にて発見されたもの)」と付記されているが、「九首」は「十首」のまちがいである。これらのうち第一、第四、第九の三首は現物が日本近代文学館の有島武郎遺品の中に現存し、かつうち七首は、『泉谷遺墨集」の中に複写されている。
 また石丸晶子編『作家の自伝63 有島武郎』(日本図書センター)の中表紙に辞世句短冊として右の歌の書かれた短冊の写真が掲載されている。
 『有島武郎全集』(別巻)の「年譜」から拾う。大正十一年(一九二二)三月二十四日、弟妹一同に財産処分の意向を伝える。七月十一日、北海道へ出発。十八日、小作人一同を集めて農場解放(無償譲渡)を宣言。大正十二年三月十七日、大橋房子洋行送別会に出席、波多野秋子ら同席。六月四日。午後、家を出る。波多野秋子と落ち合い、午後七時上野発金沢行の急行列車で、深更、雨の軽井沢に着く。九日未明、ともに縊死。七月六日、遺体発見。
 やはり「別巻」の「有限責任狩太共生農団信用利用組合設立の由来」によると「本組合は、故場主有島武郎氏の理想として、土地は一個人の私有すべきものにあらず、共有して互に責任を感じ、協力一致相互扶助の観念をもつて、多々益々生産の実を挙ぐべきものなり、との見地より、大正十一年八月土地及債権(小作料及貸付残余金)を無償にて小作人に解放されしに端を発す」とあって、農場は四百四拾四町一段七畝二歩となっている。
 有島武郎(ありしまたけお)(一八七八~一九二三)
 小説家。写真は北海道虻田郡ニセコ町の有島記念公園(右方向に有島記念館)。農場及び解放後の共生農団の跡地である。JR函館本線ニセコ駅下車、徒歩三〇分。タクシーもある。情死の舞台となった別荘「浄月庵」は長野県北佐久郡軽井沢町塩沢湖の軽井沢高原文庫に移築保存されている。長野新幹線の軽井沢駅下車、タクシーで一〇分。あとに三人の子が残された。
 
 大町桂月(初出「栄根通信」十分の八号、平成12年11月12日) 

 極楽へ越ゆる峠のひと休み蔦のいで湯に身をば清めて
                                    桂月全集

 蔦温泉に「酒仙・鉄脚の旅人 大町桂月先生終焉の地」碑がある。北海道は大雪山系に桂月岳の名を残し、層雲峡の命名者であれば鉄脚に問題はない。では酒仙はどうか。
  身をかへて樽にならばや倉の中/一百石の酒をたゝえん
 不名誉なエピソードも多いが、土佐には越の桂月という酒もあるらしい。日本図書センターの『桂月全集』(別巻下)から大町文衛の「父の最後の冬籠り」を抄出する。
   父は始め死なば地獄へ堕ちるものと考へた。二月十八日の日記の端に、
    浮世より地獄へまでの一休み/いで湯も清き鳥山のいほ
  と始め書いてそれから「浮」の字を消して「憂」の字に、下の句は「からだ清むる蔦の出湯に」と訂正してゐる。然し思ひかへたのであらう。その翌日の所には
    極楽へ超ゆるばかりのひと休み/蔦のいで湯に身をば清むる
  と新しい歌が記されてゐる。それから三四回推敲して最後の歌が出来たのであつた。これらのゆきさつは飯坂和尚にあてた四月一日の手紙の稿に明かである。
   「蔦の薬師堂の余材をやるから庵を結べと宿の主人の好意に甘へて瓢箪池の側に蝸廬を構へ可申候余材庵と先づ命名いたし候老齢旦夕を図られず地獄へ堕つるかも知れず候ふが先づ極楽に往生するものと独断安心して
     極楽へ超ゆる峠のひと休み/蔦の出湯に身をば清めて
    供御一笑申候」
   父はとうとう楽しみにしてゐた余材庵の出来あがるのを待たずに死んでしまつた。 また「父は何を思つたかこの三月に籍を急遽として蔦に移して、私達を皆青森県人にして仕舞つた」。六月十日、永眠。義姉の塩井ふく「臨終の桂月」(同前)に詳しい。

 大町桂月(おおまちけいげつ)(一八六九~一九二五)
 土佐出身の紀行作家。戒名は「清文院桂月鉄脚居士」(生前自記)。十和田国立公園既成会趣意書を起草。写真は蔦温泉旅館(道を隔てた林の中に桂月の墓がある)。JR東北本線青森駅前からバスで二時間弱(十和田湖町大字奥瀬字蔦野湯一番地)。部屋から余材庵が見える。大町家が墓参の際に利用するらしい。桂月ほか二名を顕彰して十和田湖畔に乙女の像が立つ。
 
 芥川龍之助(初出「栄根通信」十分の七号、平成12年8月20日) 

 水洟や鼻の先だけ暮れ残る
                                   二つの絵

 小穴隆一の『二つの絵 芥川龍之介の回想』(中央公論社)から引用する。芥川の自死は昭和二年(一九二七)七月二十四日。文中の伯母とは同居するフキ。
   七月二十三日、芥川の伯母さんの考へでは午後十時半、芥川は伯母さんの枕もとにきた。
  「タバコヲトリニキタ、」
   七月二十四日、芥川の伯母さんの勘定では、午前一時か半頃、芥川は復た伯母さんの枕もとにきた。さうして一枚の短冊を渡して言つた。
  「ヲバサンコレヲアシタノアサ下島サンニワタシテ下サイ、」
  「││先生ガキタトキ僕ガマダネテヰルカモ知レナイガ、ネテヰタラ、僕ヲオコサズニオイテソノママ、マダネテヰルカラトイツテワタシテオイテ下サイ││、」
   先生といふのは下島勲(空谷)、田端の医者、短冊の句は、
     自嘲
    水洟や鼻の先だけ暮れ残る
 なお村山古郷は『芥川龍之介句集 我鬼全句』(永田書房)の解題で別形「土雛や鼻の先だけ暮れ残る」に触れて次のように述べる(新装版初版、「先」が「下」になっている)。
  いずれも大正十四年の作であるが、土雛が初案で、水洟が再案の形であろう。この句など、改作によって句柄が一変し、土離ならば単純な写生句であるが、水洟となったことにより自画像化し、『梅・馬・鶯』に採録した際には「自嘲」の前書が付けられて境涯句の様相を帯びる句となった。更に自殺の前夜、この句を短冊に認めて下島勲に遺したことによって、この句は龍之介の晩年の心境を託した悽愴味のある句と解されるようになって、これを辞世句と見る人さえある位であるが、原形の土雛の句で見れば、平凡な作にすぎぬのである。

 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)(一八九二~一九二七)
 写真は墓のある慈眼寺(右、左が墓地)。芥川文の『追想 芥川龍之介』(中公文庫)によると「従来の墓石は、細長くて不安定で、台風でも来ると倒れそうなものが多いから、自分のはもっと低くして、どっしりしたもので、風などに吹き飛ばされないようにしたい」(愛用する座布団の寸法)と書き残したらしい。JR宇都宮・高崎線駒込駅下車、染井通りを一五分。
 
 巖谷小波(初出「栄根通信」十分の五号、平成12年2月12日) 
 極楽の乗り物や是桐一葉
                              波の跫音 巖谷小波伝

 巖谷小波が息を引き取ったのは昭和八年(一九三三)九月五日午前八時二四分、小波の四男巖谷大四の『波の跫音 巖谷小波伝』(文藝春秋)によると、
    「重く散つて軽く掃かるゝ一葉かな
    極楽の乗り物や是桐一葉
   大不孝者を父として皆よくもよくも孝行つくしてくれた 深くかんしやして天国へ行く 云ひたい事山々なれど 只此上は皆仲よく あとをにぎはしてくれ
    何事もあなたまかせの秋の風」
  そんな走り書きの遺書が枕元に残っていた。
  また別の紙には、
  「財産とてはなし、たゞ名のみを残すべし」とあった。
という。そして「墓は、川田綾子が既に眠っている多磨墓地に土地が求められ、第十二区第十八側に建てられた。/それは勇子のとりはからいであった。」という一文で『波の跫音 巖谷小波伝』は終わる。川田綾子は歌人川田順(じゅん)の姉。「金色夜叉」のモデル説があるが、年譜から拾うと明治十八年(一九八五)十六歳「九月、父の親友川田剛(甕江)の家塾=牛込若宮町に入って、三女綾子(九歳)を知る」、明治二十年十八歳「父修、借財のため平河町の生家を売却」、明治二十三年二十一歳「中村須磨子(後に大橋新太郎博文館主夫人)と親しんだ」、明治二十九年二十七歳「七月二十一日、川田鷹を通じ、綾子に求婚して断られた」、昭和二年五十八歳「出版権問題で博文館と違和を生じ、絶縁」「『金色夜叉の真相』を黎明閣から出版、これと前後して自殺を図り未遂に終る」が注意を引く。岡保生は『金色夜叉』の原構想を「如是畜生」としながらも小波の川田綾子や中村須磨子への失恋そのほか紅葉の身辺に起きた諸事件が「なんらかのヒントをもたらしたであろうということを否定するものではない」(新典社『明治文壇の雄 尾崎紅葉』)としている。
 巖谷小波(いわやさざなみ)(一八七〇~一九三三)
 児童文学者。写真は滋賀県水口町の歴史民俗資料館併設の巖谷一六(いちろく)・小波記念室。一六は旧水口藩士で書家。尾崎紅葉の墓碑も一六が揮毫している。巖谷小波は一六の三男。東京で生まれているが妻の勇子を水口から迎えるなどつながりは深い。最寄りの駅は近江鉄道水口城南駅。なお辞世の「桐」は巖谷家の家紋から採ったものだろうとは同館・米田実氏の見解である。
 
 宮沢賢治(初出「栄根通信」十分の九号、平成13年2月25日) 

 病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし
                                  宮沢賢治全集


 筑摩書房の『宮沢賢治全集』(第一巻)の「原稿断片等の中の短歌」に右の一首と、
  方十里稗貫(ひえぬき)のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる
が「絶筆」として収録されている。「校異」には
  この二首は半紙の左半分(縦二四〇耗、横一五八粍)に墨で書かれている。右半分には「魚灯して霜夜の菊をめぐりけり 風耿」と自作の俳句を手習いしてある。現在は俳句と切り離して裏打ちされている。/(中略)/この短歌二首は、内容上昭和八年九月十九日夜ないし二十日昼の間の筆と考えられ、従来から『絶筆』と呼んでいる。(口絵写真参照)
とある。稗貫は郡名。全集(第十四巻)の「年譜」によると十九日は鳥谷ケ崎神社の祭礼第三日。賢治は「夜八時神輿をお迎えすると拝礼して家に入った」。二十日、容態急変。半紙に短歌二首を墨書。夜、肥料相談の来客と応対。二十一日、喀血。硯箱と紙を用意した父政次郎に賢治は言う。
  「国訳の妙法蓮華経を一、〇〇〇部つくってください」
  「うむ、それは自戒偈だけでよいのか」
  「どうか全品をおねがいします。表紙は朱色で校正は北向さんにおねがいしてください。それから、私の一生の仕事はこのお経をあなたのお手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい、正しい道に入られますようにということを書いておいてください」
 このあと一人残った母イチの差し出す水を嬉しそうに呑んだ。オキシフル綿で体を拭いた(「ああ、いいきもちだった」)。「ゆっくり休んでじゃい」。蒲団を直して、そっと部屋を出ようとしたときだった。「『賢さん、賢さん』/思わず強く呼んで枕もとへよった。/ぽろりと手からオキシフル綿が落ちた。午後一時三〇分である」。

 宮沢賢治(一八九六~一九三三)
 詩人。児童文学者。JR東北本線花巻駅下車、観光案内所でもらえる「花巻市内観光案内図」の「新・奥の細道(賢治文学散歩の道)」が便利である。身照寺、宮沢賢治詩碑、イギリス海岸、宮沢賢治記念館(写真)、羅須地人協会の家等を含む全一二・五㎞。レンタサイクルで回ったが記念館までの長い坂道しかも入口から記念館本館までの急勾配は予想外だった。
 
 木下尚江(初出「栄根通信」十分の七号、平成12年8月20日) 
 何一つもたで行くこそ故さとの無為の国へのみやげなるらし
                           病中吟(びょうちゅうぎん)

 『病中吟』(明治文献『木下尚江著作集』第十五巻)に収録されている「病床の木下翁」(逸見斧吉)によると木下尚江が発病したのは昭和十二年(一九三七)九月十三日。病状が悪化する中で逸見ほか周囲の者は病名を告げる機会を探っていた。癌。そして十月二十九日、
  (略)、遂に翁の病症の真実を逐一に告げた。私の言葉に聴き入つて居た翁は途端に莞爾として、〝さうか解つた、それで安心しました〟と言ひ、朗かな声で私の妻に紙と筆を求められた。用意が整ふのを待つてヤヲラ四半身を起してさらさらと認められたのが辞世の一首であつた。筆力雄勁少しの衰へを見せて居ない。二児への遺訓、私達夫妻への訣別、続いて後事に関する注意が語られた。正造君へは〝一箇の良民になれ〟といひ、後事に関しては〝一切形式を用ひず、唯辞世の歌を三唱してくれ〟との事であつた。
という。辞世の写真を見ると、初めに「仰臥尚江」・辞世・日付の順となっている。十一月五日、永眠。六十九歳。文中に出てくる正造は長男である。さて後事であるが「遺旨に依つて葬儀は全く世の常の形式を脱却して行はれた。所狭い迄に集つた花は、どれにも贈り主の名札が無かつた。其花の中に埋つた柩と真影の前に、聞き伝へた百人近い人々が集つた。松本から駈けつけた故人の従兄百瀬興政氏が辞世を三唱した」とある。
 なお『病中吟』は十月一日から十一月二日にかけての遺稿で短歌が中心となっている。口述筆記をもとに没後に編集・発行されて知人に贈られたものである。
 年齢に不足があるにしても大往生であろう。しかし同年四月十一日付の青木吉蔵あて書簡の「小生も宗教的隠遁三十年、精気も殆ど抜けて枯草のやうになりましたから、一つ娑婆へ出掛ける積りです」からは社会への関心、活動への復帰の意思も窺われる。
 木下尚江(きのしたなおえ)(一八六九~一九三七)
 明治の社会運動家、作家。卓越した演説力によって「幸徳の筆、木下の舌」と称された。明治四十三年(一九一〇)、ほとんどの著作が発禁処分となる。以後、第一線を退いて求道生活を送る。写真は長野県松本市島立小柴、日本司法博物館を中心とする「松本歴史の里」。復元された生家、木下尚江記念館がある。松本電鉄大庭駅下車、徒歩一五分。隣接して日本浮世絵博物館もある。
 
 江口きち(初出「栄根通信」十分の七号、平成12年8月20日) 

 大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり
                                 江口きちの生涯

 江口きちの両親が群馬県利根郡川場村の金五郎親分のもとで草鞋を脱いだのは明治三十年代の終わり頃、父熊吉はその後事件にかかわって十年間の逃避行、母いわは栃木屋という飲食店を始めるが昭和四年(一九二九)に死去。やむなく十八歳のきちが店を継いだ。そして妻子ある名望家との愛。昭和十三年十二月二日、精神障害の兄を道連れに服毒自殺。父と妹が残された。島本久恵の『江口きちの生涯』(図書新聞社)から小林なを子の手記を引く。
  いつもの座敷の障子をあけて入ると炬燵の向ふに床が敷かれてあり、生けるが如きその顔は白い枕の上にきちんと眠つてゐた。(略)。何といふいたましい事をと人々は 寄つて来て皆泣いた。炬燵の上には便箋が開かれたままで、
    睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聞きをさめなる雀鳴きそむ
    大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり
  と二首の歌が記してあつた。何処もちやんとして、床の間の本箱の中には白衣観音の御像と、観音経がおかれてあり、鏡台には紅い数珠が掛けてあつた。北向に座を直さうとして蒲団を動かすと白無垢を着た全身が見えた、一糸のみだれもなかつた。お兄さんも新しい毛糸のシヤツと股引をはき、髪も油をつけてきれいにとかしてあつた。着物も一番いいのが一揃へ、足袋も帯も出してあつた。
   私はもう何も言へなかつた。用意された死、その人の厳粛な人生の最後の決定の前に、ただ謹んで合掌するのだつた。
 なお十一月二十五日、きちは東京の恩師(歌人)の家に女中として行ってほしいという生方たつゑの手紙を受けるが翌日には電話で断っている(小林なを子「文面は叮重を極めてゐた」)。開かれた転機の窓を自らの手で閉ざしてしまったことが惜しまれる。

 江口(えぐち)きち(一九一三~一九三八)
 歌人。川場村へはJR上越線沼田駅下車、タクシーで一五分。岩田橋を越えて右に栃木屋の跡と墓のある桂昌寺があり、左に江口きちコーナーのある歴史民俗資料館(旧校舎)とふれあい橋の歌碑が近い。写真は桂昌寺。両親の墓にはきちの手跡で次の歌が彫られている。
  流れ来て異郷の土の祖(おや)となりし法名記すべく石は貧しき
 
 泉鏡花(初出「栄根通信」十分の六号、平成12年5月9日) 
 
露草や赤のまんまもなつかしき

                                   鏡花全集巻一

 泉鏡花は昭和十四年(一九三九)九月九日没。行年六十七歳。年譜(岩波書店『鏡花全集』巻一)に次のようにある(昭和三年八月より小村雪岱(こむらせつたい)追記。それ以前は自筆)。「逝去前数日、夫人二階物干台に咲きたる露草一茎を摘みて御目にかけられしにいたく賞美せられし由。逝去後枕頭の手帖に鉛筆にて/露草や赤のまんまもなつかしき。としるされあり。」
 但し、この句は『鏡花全集』巻二十七の「俳句」には収録されていない。夫人の名は「すゞ」。大正三年(一九一四)に「婦系図補遺」として発表された『湯島の境内』(岩波書店『鏡花小説 戯曲選』第十二巻)から引用する。
  早瀬 お蔦(つた)
  お蔦 …………
  早瀬 俺と此(これ)ッ切(きり)別れるんだ。
  お蔦 えゝ。
  早瀬 思切(おもひき)つて別れてくれ。
  お蔦 早瀬(はやせ)さん。
 沈黙する早瀬。クライマックスである。
  お蔦 切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云ふものよ。…….私にや死ねと云つて下さい。蔦には枯れろ、とおつしやいましな。
 また、
  お蔦 (消ゆるが如く崩折れる)えゝ、それぢや、貴方(あなた)の心でなく、別れろ、とおつしやるのは、真砂町(まさごちやう)の先生の。(と茫然とす。)
 「真砂町の先生」のモデルは尾崎紅葉、師の紅葉によって仲を割かれたのは鏡花と神楽坂の桃太郎、桃太郎は名前「すゞ」、奇しくも母の名前「鈴」と同音であった。

 泉鏡花(いずみきょうか)(一八七三~一九三九)
 写真は生家跡に建つ泉鏡花記念館(左、奥まったところが入口)。JR金沢駅から「ふらっとバス」に乗車、尾張町二丁目下車。記念館を出て浅野川大橋から「鏡花の道」を歩くと梅の橋のそばに滝の白糸碑、天神橋を渡って卯辰山公園頂上に向かう途中に泉鏡花句碑がある。
  ははこひし夕山桜峰の月
 石川近代文学館も散策の範囲内である。
 
 萩原朔太郎(初出「栄根通信」十分の十号、平成13年6月3日) 

行列の行きつくはては餓鬼地獄
                              萩原朔太郎年譜(未定稿)

 堀辰雄の「萩原朔太郎年譜(未定稿)」(四季社『四季』昭和十七年九月号、冬至書房『近代文芸復刻書刊「四季」追悼号・全四輯』、ゆまに書房『近代作家追悼文集成』第二十九巻)の昭和十七年(一九四二)「三月末より遂に風邪気味にてずっと寝ついた」と「家人の話によると、(略)、しきりに実物幻灯といふものを欲しがつた」の間、アステリスクがあって次の一文が小文字で挿入されている。朔太郎の死は五月十一日。
  彼は小泉八雲全集の他に「平家物語」「日本開化小史」「利根川図志」などを読んでゐたさうである。又此の頃から新しい手帳に鉛筆にて何やら論文のノオトらしいものを十頁ほど書き散らしてある。前述の「ピストルの話」もその中にある。その西洋の武器の一つを中心にして東洋と西洋との道徳の差異などを考へてゐたらしい。又、或頁には「黒幕の影からいよいよ角を出し」といふのや「行列の行きつくはては餓鬼地獄」といふ謎めいた句が何かの暗示のやうに其処に書かれてゐる。
 この句は膝原定の『萩原朔太郎』(角川書店、ほか日本図書センター『萩原朔太郎』近代作家研究叢書89)、嶋岡晨『伝記 萩原朔太郎 下 〈虚妄〉の時代』に紹介されている。
 しかし、その後を「年譜(未定稿)」に着目して追跡するが消息不明である。「萩原朔太郎年譜(未定稿)」は『萩原朔太郎』と改題されて筑摩書房『堀辰雄全集』第三巻に収録されているからよい。小学館『萩原朔太郎全集 別冊 遺稿』下巻には年譜ではなくて「年譜に代へて」があるのみ。右の句は登場しない。創元社『萩原朔太郎全集』第八巻も「年譜に代へて」で登場しない。新潮社『萩原朔太郎全集』第五巻には「萩原朔太郎年譜」があるが登場しない。全集ではないが角川書店『鑑賞日本現代文学12 萩原朔太郎』の「年譜」も同様である。筑摩書房『萩原朔太郎全集』第十五巻の「萩原朔太郎年譜」にも登場しない。俳句としても認知されていないし、同全集の補巻でも復活していない。こうなると黒幕の向こうに押しやろうとする意思のようにも思われてくるのだが、どうだろう。

 萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)(一八八六~一九四二)
 写真は群馬県前橋市の前橋文学館。朔太郎展示室・資料閲覧室等がある。JR両毛線前橋駅下車、萩原朔太郎生家跡地も徒歩圏内。離れ座敷ほかを移築した萩原朔太郎記念館のある敷島公園へはバスを利用。前橋市の北端、墓のある政淳寺へは往路をタクシー、復路を田口町からバスを利用した。なお『四季』ほか往時の雑誌は神奈川近代文学館(横浜市)で閲覧した。
 
 緒方襄(初出「栄根通信」十分の九号、平成13年2月25日) 
 
いざさらば我はみくにの山桜母のみもとにかへり咲かなむ

                                    緒方家集

 昭和四十八年に刊行された緒方三和代・緒方親著『緒方家集』(風日社)の性格は「あとがき」に「私共親子が拙いながら、戦中戦後を通じ詠んで参りました長短歌あはせて六百首余りと、故徹、襄の遺詠を抄出輯録致しました」「母三和代にとりましては、さきの大東亜戦争に散華致しました、長男徹、次男襄の菩提をとむらふ意味もあり、また早く世を去りました、亡夫三十七回忌の追善供養の素志によるものでございます」によって知ることができる。緒方三和代の「はないくとせ」に「昭和十九年十二月二十五日、神雷特別攻撃隊員となりし次男襄に/面会せんとて佐原に赴く」という詞書に続いて、
  うつし世のみじかきえにしの母と子が今宵一夜を語りあかしぬ
 また「帰宅後トランクの中にひそかに入れありし襄の歌/いざさらばわれはみくにの山桜母のみもとにかへり咲かなむ/とあれば」、
  ちる花のいさぎよきをばめでつつも母のこころはかなしかりけり
 また「昭和十九年長男徹、比島出陣の折、鹿児島の友人に托しありし歌/戦死後到着/初陣の感激高し我が翼国歌浮沈の運命(サダメ)かかれり」、
  草莽の身にはあれどもすめらぎのみ楯とちりし吾子をしぞあはれ
 さいごに緒方襄の「遺詠」より抄出する。
  すがすがし花の盛りにさきがけて玉と砕けん丈夫我れは
 靖国神社編『シリーズふるさと靖国・いざさらば我はみくにの山桜・「学徒出陣五十周年」特別展の記録』(展転社)によると出撃三〇分前の作品である。「昭和二十年三月二十一日、『第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊桜花隊』隊員(ロケット特攻機『桜花』搭乗員)として母機一式陸上攻撃機に搭乗、鹿屋基地を出撃、九州南方洋上にて戦死」。

 緒方襄(一九二二~一九四五)
 往路は鹿児島市の鴨池港から乗船。垂水港から鹿屋市行きバスで航空隊前下車、鹿屋航空基地史料館を見学。写真の特攻慰霊塔へはタクシーで引き返した(昔は鉄道が走っていたらしい)。階段上に無署名の歌が刻まれている。
  今日もまた黒潮おどる海洋にとびたちゆきし友はかえらず
 復路はバスで鹿児島空港に直行(二時間弱)。
 
 阿南惟幾(初出「栄根通信」十分の二号、平成11年6月28日) 

 大君の深き恵にあみし身は言ひ遺すべき片言もなし
                              遊就館(ゆうしゅうかん)蔵自筆辞世

 昭和二十年(一九四五)八月十六日の朝日新聞(日本図書センター『朝日新聞縮刷版 昭和二十年下半期)は「阿南陸相自刃す」という見出しで「陸軍大臣阿南惟幾大将は十四日夜麹町の陸相官邸で割腹自刃し、この旨十五日陸軍省から発表された、阿南陸相は就任以来四ヶ月余この難局に際してよく部内を統率して今日に至つたが、陸相自刃の心境は今次の戦争終結に至る経緯について陸相としての補弼(ほひつ)の責を十分に果たし得なかつたのを闕下(けっか)に御詫び申上ぐるとの衷心より発したものである/陸軍省発表(昭和二十年八月十五日)/陸軍大臣阿南大将は補弼の責を十分に果し得ざりしを闕下に御詫び申上ぐるの微衷(びちゅう)を披瀝し八月十四日夜官邸において自刃せり」と報じている。さらに「遺書」。
  一死以て大罪を謝し奉る
    昭和二十年八月十四日夜
     陸軍大臣 阿南惟幾 花押
  神州不滅を確信しつゝ
   大君の深き恵にあみし身は
   言ひ遺すべき片言もなし
    昭和二十年八月十四日夜
       陸軍大将 惟幾 花押
 このほか写真と「徳高き名将」「けふ陸軍省葬執行」の記事が載る。同じ紙面に「玉音を拝して感泣嗚咽」また社説「噫 玉音を拝す」を見ることができる。
 写真は靖国神社にある遊就館。原寸・原色・写真複写の遺書ほか遺品が展示されている。辞世を除く遺書の部分は漢字とカタカナ表記である。最寄りの駅は営団東西線九段下。

 阿南惟幾(あなみこれちか)(一八八七~一九四五)
 辞世の歌について沖修二著『阿南惟幾伝』(講談社)は「昭和十三年以来肌身を離さなかった」と伝えるが、それ以上の言及はない。「恵に」、相手が「大君」でなければ「恵を」だろう。また昭和四十二年に記念碑「陸軍大臣・陸軍大将・阿南惟幾荼毘の跡」が「市ケ谷台」に建立されたとあるが、これは現在の陸上自衛隊市ケ谷駐屯地にあるのだろうか。確認できなかった。
 
 永井隆(初出「栄根通信」十分の三号、平成11年9月9日) 
 白薔薇の花より香りたつごとくこの身を離れ昇りゆくらむ
                                                       新しき朝

 昭和三十六年十一月五日改訂二刷発行とある片岡弥吉著『永井隆の生涯』(中央出版社)で「バラの花」の章は次のように書き出されている。
  「死はどのようにして自分の身にやってくるであろうか。」
  きょうか、あすかと死の訪れを待たねばならぬ身に、これは大きな懸念であったろう。そしてふと、大好きなバラの花を見ながら自分の死を連想したことであったろう。昭和二十五年ごろ、次の歌を読んだ。
    白バラの花よりかおりたつごとく この身をはなれのぼりゆくらむ
   目に見えぬ香気が自然に花から放散するように無色無形の自分の魂も、自分の意志にかわることなく、神の欲したもうとき、この肉体から離れ去るであろう。
 そして「永井さんの死後、この歌は辞世の歌と理解された。永井さん自身は、そういったことは一度もなかったけれども、人々はこれを美しい辞世の歌として扱った」「永井さんの訃(ふ)が伝えられると、山田耕作氏はじきにこの『白バラの歌』を混声合唱曲に作曲して速達便で、故人の霊前に供えられた。五月十四日、市公葬の日に、この曲は、純心女子学園の学生たちによって合唱、故人の霊にささげられた」とあって、残念ながら初出が明らかにされていない。また片岡弥吉が編集委員の一人として参画している『永井隆全集』(講談社)にも収録されていない。しかし山田耕筰のエピソードからも、生前から広く知られていたらしいことがわかる。なお永井隆の詩歌を集めて平成十一年に発行された『新しき朝ー短歌集ー』(聖母の騎士社)では表記が〈白薔薇の花より香りたつごとくこの身を離れ昇りゆくらむ〉となっている。「あとがき」に「収集しましたものは、総てを原文のまま」とあるから『永井隆の生涯』と出典を別にするのであろうか。
 永井隆(一九〇八~一九五一)
写真は如己堂(にょこどう)。昭和二十三年、教会の世話で竣工した。『この子を残して』(アルバ文庫)には二畳一間「私の寝台の横に畳が一枚敷いてあるだけ、そこが誠一とカヤノの住居である」「この浦上の里人が皆己のごとくに私を愛してくださるのがありがたく、この家を如己堂と名づけ、絶えず感謝の祈りをささげている」とある。隣接する水井記念館は改楽中だった。
 
 中勘助(初出「栄根通信」十分の四号、平成12年1月3日) 

 どん栗の落るばかりぞ泣くな人
                                中勘助全集
 
 岩波書店の『中勘助全集』第十七巻の年譜、昭和三十一年に「前年十二月はじめから胆嚢その他の病気のため日本医科大学附属第一病院に入院。手術三回、生死の境をさまよう」とある。その間の事情を同全集第十二巻所収の随筆『辞世』で知ることができる。
   (略)。さうしてるあひだになんだかいつもより人の出入りする足音が頻繁だと思った。もう大丈夫となってからの話によるとその日腎臓の機能が止ってしまった。さうなると大抵見込みがないので「もうあと三日ぐらゐだらうが奥さんには黙つてるやうに」と看護婦さんはいはれてたとのこと。
   家内と交代に看護にきた上の妹は危機ときいて脳貧血を起した。それを知った私は自分が死にかけてるとは気がつかず世話をする妹に「病人は安静にしていらつしやい」といつた。よくなつてから妹に、
   「今度の病気では二、三遍三途の川までいつたね」といったら
   「どうして渡らなかつたの」
  と憎まれ口をきいた。
   「渡し銭がなかつたからさ」
  と私は答へた。今の人たちは知らないかもしれないが渡し銭は六もんだ。三もん文士には持合せがなかつた。そんな事のあつた前後だらう、はなから「お迎へ」を感じてた私にふと辞世の句が浮んだ。
    どん栗の落るばかりぞ泣くな人
   あいにく今度は役に立たなかつたからこのつぎお迎ひがきた時にはこれで間に合せようと思ふ。
 後記には初出不詳、角川書店版全集を底本としたとある。辞世の顚末については岩波書店版全集第十七巻、昭和三十二年一月十七日付の坂本真民宛書簡にも綴られている。

 中勘助(一八八五~一九六五)
 作家。『銀の匙』(岩波文庫)が有名。写真は静岡市新間にある「中勘助文学記念館・杓子庵」。静岡駅前から藁科線のバスに揺られて三〇分ほど、見性寺入口下車すぐにある。館のパンフレによると中勘助は昭和十八年(一九四三)十月、阿倍郡服織村新間に転地療養。三月、服織村羽鳥に移り、二十三年四月に東京に帰っている。写真左が杓子庵。仕事場にしていたらしい。
 
 島秋人(初出「栄根通信」十分の四号、平成12年1月3日) 
 
この澄めるこころ在(あ)るとは識(し)らず来て刑死の明日に迫る夜温(ぬく)し

                                                                   遺愛集

 『遺愛集』(東京美術)に「著者のこと」と題する紹介があるので引用する。
  昭和九年六月二十八日生れ。幼少を満州で育った。戦後父母とともに新潟県柏崎市に引揚げたが母は疲労から結核になりまもなく亡くなった。本人も病弱で結核やカリエスになり、七年間もギブスをはめて育ったが小学校でも中学校でも成績は一ばん下だった。まわりから、うとんじられるとともに性格がすさみ転落の生活がはじまった。少年院にも入れられた。昭和三十四年雨の夜、飢えにたえかねて農家に押し入り二千円を奪い、争ってその家の人を殺し死刑囚として獄につながれることになった。
  中学の頃、たった一度だけほめられた記憶を忘れられず、獄中からその先生に手紙を出したことがきっかけとなり、ひめられた〝うた〟の才能の扉が開かれ、身も心も清められていった。昭和四十二年十一月二日小菅にて処刑。
 島秋人は仮名。おそらく被害者の家族をおもんばかってのことだろう。生前の歌集出版を志したが初版の出たのは昭和四十二年十二月十日であった。昭和三十九年五月に書かれた窪田空穂の序文と昭和四十二年十一月十六日付の窪田章一郎の後記が収められていて刊行に至る曲折と逡巡を知ることができる。以下は昭和四十二年の作品より抄出。
  今日の今(いま)在(あ)るを尊び冬日ざし明るく浴みて窓に佇ちたり
  母在らば死ぬ罪犯す事なきと知るに尊き母殺(あや)めたり
  にくまるる外に詫ぶすべ今はなく母を殺めし罪重く知る
  獄塀(へい)外に子供神輿(みこし)の行くらしく笛と太鼓と聴えて楽し
  湯あがりの温(ふく)きあしうら板の間に触れゐて愛(かな)しこころよき日を
  童貞の身のさびしさにこほろぎの澄むこゑ愛(かな)し寝返り打てば

 島秋人(しまあきと)(一九三四~一九六七)
 写真は東京拘置所。最寄りの駅は東武伊勢崎線小菅駅。平成十年版の『犯罪白書」(大蔵省印刷局)によると昭和六十三年から平成九年までの犯罪被害者のうち死亡者をトータルすると一三、七五八人、これに対する全事件裁判確定人員のうち死刑は五三人(執行された数ではない)。命の重さを秤にかけると死刑囚一人に対して被害者二六〇人という勘定になる。
 
 新田次郎(初出「栄根通信」十分の七号、平成12年8月20日) 
 春風や次郎の夢のまだつづく
                             わが夫 新田次郎

 藤原ていの『わが夫 新田次郎』(新潮社)に「墓碑」という章がある。「『もしオレが死んだら、墓石にこの句をきざんでおいてくれ』/と、夫は、かなり前から云っていた」という。昭和五十五年二月十五日、死は現実のものとなる。さて夫人は、どうしたか。まず場所である。「たしかに生前に購入した土地はある。それは、故郷の裏山で、先祖代々のねむっている場所の近くであった。諏訪湖を見おろす美しい所で、裏の落葉松林の裾を流れる小山のせせらぎと、草の根にすだく虫の声と、そして湖から霧が上って来て、野菊の花を紫に染めて太陽の光りの中へ解けてゆく、そんな場所だった」。しかし、その後の環境の変化によって「先祖の墓石に、ガムがついていたり、縄とびの縄が捨ててあったりするような場所になってしまった。/その様子を見聞して、やはり基地は移転すべきだと考えるようになった」。結論は菩提寺の境内であった。そして関係者の好意で土地を入手する。次は墓石である。「最も夫らしいものをと考えて、自然石を探しまわった。適当と思われる石はなかなか見つからなかった。/「天竜川の支流の松川の岸にいい石がある」/と聞いて、そこへ出かけて行った。それはおよそ二トンほどの、ぬれれば、やや小豆色を見せる石であった。丁度、牛が横になっているような恰好だったけれども、その肌をなでさすっているうちに、夫にはこれが最もふさわしいように思われてきた。テコでも動かない強情さと、その奥に秘めたあたたか味と、そして素朴さを、この石は持っているような気がした」。石工。「石工の選択は、かなり早かった。その地の近くにすばらしい人がいることを知っていたからである。彼は、私の説明を、殆ど無言で聞いていたが、すべてを了解してくれていた」。揮毫。「さて、夫の云いつづけた句を、きざむのだが、夫の書き残したものはない。それを誰に書いてもらうか。書家か、家族か。そして、長男が最も適当だと意見が一致した」。一ケ月後、アメリカから「送られて来た文字は、夫の文字とあまりにもよく似ていた」。墓が建つのは十月十二日、その死から八ケ月後であった。
 新田次郎(一九一二~一九八〇)
 墓と同様、夫の遺志を受け継いだ藤原ていの奔走によって一周忌目前に新田次郎文学賞の母胎となる財団法人新田次郎記念会が認可された。写真は長野県諏訪市岡村一丁目、正願寺の墓地(本堂は左岸)。墓は安山岩の自然石。まさしく「牛が横になっているような」趣に「なるほど」と思われるロケーションでもある。JR中央本線上諏訪駅下車、徒歩一〇分ほど。
 
 荒畑寒村(初出「栄根通信」十分の十号、平成13年6月3日) 
 
死なばわがむくろをつつめ戦いの塵にそみたる赤旗をもて
                                            寒村自伝

筑摩書房刊『新版寒村自伝』(下巻)の掉尾を飾る一首である(岩波文庫版『寒村自伝』の下巻も同様)。本題の前に大逆事件に絡むエピソードを引く。寒村は十八歳で管野須賀子を知り、翌年には同棲。しかし二十一歳「千葉監獄に送られて服役」(「年譜」以下同じ)。二十二歳「初夏、幸徳と管野の結婚を知って憤慨、煩悶す」。二十三歳「二月初旬、千葉監獄を満期出獄。五月九日、拳銃を懐中にして伊豆湯河原温泉の天野屋に幸徳と管野を襲ったが、二人が帰京していたため自殺を企てるが果さず」。ときへて八十四歳「激情青年寒村はステッキに寄りかかる寒村翁となり」「革命の先駆者管野スガここにねむる」(寒村書)と「書いて彫り刻んだ墓前に」「感無量の面持ちで立ち尽くしておられた」(近藤真柄『とりとめなき 牛涎式 くりごと』、マルジュ社、寒村会編『荒畑寒村 人と時代』所収)。
 さて『荒畑寒村 人と時代』から葬儀の模様を覗いてみる。宝樹文彦の「追悼のことば」。三月八日の密葬である(本葬は三月二十三日)。
   十八年前の昭和三八年に、先生は私に一枚の色紙をくださいました。
    死なばわがむくろをつつめ
     戦いの塵にそみたる赤旗をもて   寒村
   そのときにこの歌の由来を聞いたのですが、先生は笑って何も言いませんでした。  きょうは、十八年前におっしゃったとおり、先生のむくろは赤旗に包まれております。 瀬戸内晴美も「いま先生の柩は、赤旗に包まれ、菊の花に囲まれて、本当に美しうございます」と述べている。また、こうも。「寂庵に先生が持っていらした、親指ほどだったあの小さな杉が、いまは私の背丈を越すほどに大きくなっております。私どもは、寒村杉と呼んでおります」(寂庵=JR山陰本線嵯峨嵐山駅下車。バスなら大覚寺道下車)。

 荒畑寒村(一八八七~一九八一)
 写真は寒村の眠る冨士霊園正門付近。とにかく広い。場所は静岡県駿東郡小山町大御神。JR御殿場線駿河小山駅下車、バスで二〇分(当日は富士スピードウェイでレースがあり、大変な渋滞だった)。総面積七十万坪。園内バスで移動。春は桜、初夏はツツジ。隠れた花のスポットである。荒畑家の墓は三区二ー一三四五。裏に荒畑勝三(寒村)と二人の妻の名がある。
 
 江國滋初出「栄根通信」十分の四号、平成12年1月3号
おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒
                                         癌め

 江國滋という人はサービス精神旺盛な人だったようで生前に自らの死亡記事と追悼句を残していた。罫線の入った名前は略して本文のみ、引用する。
    おれ。随筆家。一九九七年八月十日、食道癌のため死去。六十二歳。著書『落語美学』『スペイン絵日記』『日本語八ツ当り』『俳句とあそぶ法』ほか多数。本誌創  刊以来の連載『慶弔俳句日録』は、単行本全三冊で、ここに終りを告げた。こよなく酒を愛し、俳号を「滋酔郎」と名乗っていた。
    墓洗ふ代りに酒をそそげかし
 本誌すなわち『フォーサイト』(新潮社)の担当者が「追悼句」を託された一九九六年十月、俳句は春夏秋冬と新年の五句が用意されていた。『慶弔俳句日録』の最終回を自分に対する「追悼句」で締めくくるつもりであったらしい。これは『新潮45』編集部が『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒  江國滋闘病日記』(新潮社)の「はじめに」で明かすエピソードである。日記は平成九年二月五日から七月十六日まで書きつがれ、十七日以降は書き残された俳句とメモ、夫人の話をもとにまとめられている。二月六日、癌告知。「よし、今日から退院(できれば、だが)まで、闘病俳句を作り続けることにしよう、と自分に言いきかせる。/〝療養俳句の金字塔〟といわれる石田波郷の『惜命』に張り合って、巧拙はともかく、数だけでも凌駕してやろうという気になった」。四月二十三日、友人の矢吹夫妻、江國滋の俳句を「じっくり読んで、大いに感心してくれる。深刻な事態を詠みながら、ユーモラスなゆとりをたたえているところは、滋酔郎ならではだ、と。わが意を得た」。八月九日、筆談である。外科医でもある矢吹に「なんでもいいから/らくにさせて/矢吹さん/はやくよろしく」、主治医が投薬を指示したから「もうじき痛みも楽になりますよ、と懸命に励ます矢吹」に「らくにしての/らくのイミがちがう」。
 句集『癌め』は富士見書房より刊行、五四五句が収録されている。
 江國滋(一九三四~一九九七)
 写真は国立がんセンター。北側、みゆき通りからの撮影。営団日比谷線東銀座駅下車三分。句集に「朝霞いつもどほりの魚河岸(かし)の景」とあるから病室は南に面していたのだろう。
  三枚におろされてゐるさむさかな
  癌と癌目礼して過ぐ試歩の春
  ナースコール競争で鳴る暑さかな
  死にたいと呟きやつと夜の秋
 
 あとがき  
  「栄根通信」十分の一号を私信というかたちで発信したのは平成十一年の、たぶん四月(うかつなことに日が落ちている)。十分の十号を出したのは平成十三年六月三日。本書は、これらを一冊にまとめたものである。執筆に至る経過等については「辞世の風景」(「短歌人」平成十一年十一月号)がある。以下に再掲すると、こうだ。

一、プロローグ
    平成九年四月十三日のことである。吉野へ桜を見に行った帰途、如意輪寺の宝物殿で楠正行「辞世の扉」と出会った驚きは同時に深い謎でもあった。なぜ扉に、しかも矢尻で残したのか。生への哀惜、士気の鼓舞だけでは説明ができない。『太平記』(日本古典文学大系三六、岩波書店)には、こうある。
     正行・正時・和団新発意・舎弟新兵衛・同紀六左衛門子息二人・野田四郎子息二人・楠将監・西河子息・関地良円以下今度ノ軍ニ一足モ引ズ、一処ニテ討死セント約束シタリケル兵百四十三人、先皇ノ御廟ニ参テ、今度ノ軍難儀ナラバ討死仕ルべキ暇ヲ申テ、如意輪堂ノ壁板ニ各名字ヲ過去帳ニ書連テ、其ノ奥ニ、
    返ラジト兼テ思ヘバ梓弓ナキ数ニイル名ヲゾトヾムル
  ト一首ノ歌ヲ書留メ、逆修ノ為卜覚識テ、各鬢髪ヲ切テ仏殿ニ投入レ、其ノ日吉野ヲ  打出テ、敵陣へトゾ向ヒケル。
 つまり個人的な感慨ではなかったのである。そのことが、すんなりと理解できるようになったのは、しかし最近のことである。
  二、風景
 私的な事件から披瀝したい。
 平成七年一月十四日、脳内出血で倒れて、気がつくと十七日の阪神大震災は過去の出来事だった。世の中が一変し、同時に私自身も変わっていた。三月三日退院、リハビリ期間を経て七月より職場復帰、いちばん不安な頃である。右の握力は十キロを少し上回る程度だった。
  朝顔や食いはぐれたる飯の数         中原道夫
 蝸牛社が募集する『一億人のための辞世の句 Ⅰ』(坪内稔典選)を知ったのは吉野に行った年の夏である。私も応募した。
  さればこそ月に草食獣がおり。        𠮷岡生夫
 体が回復してくると、飲みはぐれた酒の銘柄を思い、食べそこねた料理の種類を思い、かつは行きはぐれた土地を思い、ウォーキングに出かけるようになった。持ち物はリュックサックに万歩計と帽子、ときにサングラス、道案内は「歩いて健康六十六コース」と銘打った『ウォーキングマップ関西』(法研)であるが、これを消化する頃になると気持ちも変わってきた。歩くだけでは物足りない。成果品がほしくなったのである。図書館司書の資格を取るために近畿大学通信教育部の科目等履修生になったのは翌年すなわち平成十年である。思えば如意輪寺での楠正行との出会い、『一億人のための辞世の句』への応募、これに図書館司書の資格取得が加わって一つのコピーに突き動かされるようになっていた。
  一次資料写真でたどる
  辞世の風景
  死が生を鮮(あたら)しくする
 本格的に取材を開始したのは資格取得に目処がついた今年になってからである。まずカメラを 買った。芸術写真が目的ではない。丹野清志『コンパクトカメラ撮影事典』(ナツメ社)の「T2は何年たっても高性能コンパクトカメラのプリンスであり続けるに違いない」という言葉に惹かれてコンタックスT2を買った。一九九〇年十二月発売の十二万円、隣の街で見つけたら七万円だったので「中古ですか」と訊ねてイヤな顔をされた。
 最初に選んだのは『平家物語』である。源頼政は宇治の平等院で自決して同地に墓もある。平重衡は木津川で首を刎ねられた。しかし被写体としては、もう少し絞り込みたい。『歴史街道を行く」(昭文社)で木津町にゆかりの首洗池と安福寺のあることを知った。平忠度の場合はガイドブックにも掲載されていない。インターネットのホームページを漁っていると神戸市長田区に腕塚がある。さっそく行ってみると密集した住宅街の路地に、それは骨接ぎ・鍼灸・按摩の治療院のような看板とともに御堂の中にあった。一見すると民家である。路地を抜けると海。タイムスリップしたような錯覚に襲われた。近くには胴塚もある。腕塚のあるのは駒ヶ林町であるが、別に腕塚町もある。観光ブックとは別の次元で忠度も神戸に顕在していた。
  三、墓
 計画では百人を収録、しかし百人一首ではない。五・七・五・七・七の短歌・和歌・狂歌形式による辞世、これに五・七・五の俳句・川柳のジャンルも含めることにした。主役は歌人や俳人ではない。定型を通して人物あるいは時代が立ち上がってくるのをファインダーから覗きたいのである。したがってゆかりの場所・建造物・記念碑・文学碑・墓碑の類が重要になるが、例外的措置もある。
  もえ易く又消え易き蛍かな          千子
 作者は去来の妹である。蕪村編『俳諧玉藻集』(有朋堂文庫『名家俳句集』)に「辞世」の前書で右の句が収録されている。兄妹は仲がよかったようである。蝶夢編『去来発句集』(有朋堂文庫『名家俳句集』)に「妹千子身まかりけるに」という前書きで、
  手の上に悲しく消ゆる蛍かな
がある。しかし千子という人物については手がかりが何もない。考えたあげくに兄妹愛を強で括ることにした。
  合点ぢや其暁のほとゝぎす          岩田涼菟
 『芭蕉翁頭陀物語』(国書刊行会『建部綾足全集・第六巻』)が紹介する辞世であるが、これも同様である。仕方がない。ホトトギスで括ることにしたが、いかにも難題である。
 それ以外では墓を最後の選択肢として風景を積み上げていきたいと思っている。ゆかりの場所・建造物・記念碑・文学碑が故人を顕彰し、忘れないためのモニュメントであるとすれば、墓は一部例外を除いて開かれていない私的モニュメントであるからだ。
 福井県の小浜市に発心寺という寺がある。伴信友の墓があるので写真を撮りに行った。ここには山川登美子も眠っている。岩井寛編『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版)によると山川登美子は、
  父君に召されて去らむ永久の夢あたゝかき蓬萊のしま
という辞世を残しているらしい。もし本当なら対象者である。生家があるというのでレンタサイクルで見に行った。表札にも山川とあって今も縁者が住んでいるらしい。これは写真に撮れない。小浜公園に、
  いくひろのなみはほをこすくもにゑみ北国人とうたはれにけり
という歌碑がある。そちらから生家付近を撮るつもりで走り始めたが、同行の息子よりタイムリミットを宣告された。今から思えば海岸通りに出たときの写真を一枚でも収めておけばよかった。潮の香りに包まれたとき私は山川登美子と出会ったのである。
 墓地は人が死んでいるだけである。
  四、一次資料
 有名な辞世、社会的事件としても忘れられない場合であっても、食指が動かないこともある。逆に食指が動いても「~と伝えられている」だけでは取り上げることができない。問題は、どこまで一次資料に迫れるかということである。
  朝によし昼はなおよし晩によし飯前飯後その間もよし      会津塗師久五郎
 民謡「会津磐梯山」に「小原庄助さん/なんで身上つぶした/朝寝/朝酒/朝湯が大好きで/それで身上つぶしたア/もっともだ/もっともだ」という囃子詞が入る。その小原庄助のモデルとされる人物の墓に刻まれているらしい。場所は福島県白河市、墓は徳利に盃をかぶせたスタイルで、戒名も「米汁呑了信士」というから出来すぎた話であるが、やはり捨てがたい。ポイントとしては「会津磐梯山」が小唄勝太郎のレコードでヒットする昭和十年以前からのものかどうかというのが最低限のハードルになるだろう。
  思ひ置くまぐろの刺身ふぐと汁ふつくりぼぼにどぶろくの味     新門辰五郎
 こちらは酒だけではない。食生活に女性の方面を含めて贅沢三昧の大往生である。『日本伝奇伝説大事典』(角川書店)も、この辞世を紹介するが、参考文献を見よということか、出所を明らかにしていない。
  きのうまでまくめうしうをいれおきしへなむしぶくろいまやぶれけむ  太田道灌
 道灌の辞世については「かゝる時さこそ命の惜しからめかねてなき身と思ひしらずば」が一般的である。掲出歌を紹介するのは、私の知る限り、山田風太郎の『人間臨終図鑑Ⅰ』(徳間書店)だけである。どちらがおもしろいかといえば、当然のことながら「きのうまで」である。何を言ってるのかわからないのが魅力であるが、如何せん、風太郎氏も出所を明らかにしていない。
  五、リライト
 天正十年(一五八二)の秀吉の備中大返しの際、講和の条件として自決した清水宗治と兄月清入道の辞世は、山根華陽の『高松記』(人物往来社『第二期戦国史料叢書7中国史料集』)によると、こうなる。
  憂世をば今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して          清水宗治
  世の中の惜しまるゝ時散てこそ 花も楓も色も色なれ         月清入道
 ところが中島元行の『中国兵乱記』(吉備群書集成刊行会『吉備群書集成第三輯(戦記部)』)では二人の歌が逆になっている。
  世の間の惜るゝ時散てこそ花も花なれ色も有けれ          清水宗治
  浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して          月清入道
 また『老翁物語』(近藤出版部『改訂史籍集覧第十五冊』)も清水宗治の辞世として「をしまるゝ時ちれはこそ蓮すはの花も花なれ色も色なれ」を伝えている。ちなみに『高松記』は元文四年(一七三九)に清水元周が毛利藩に提出した同家譜録の一冊である。山根華陽は漢学者。『中国兵乱記』の中島元行は高松城水攻めの際には二の丸に立てこもった清水方の武将である。老翁物語の成立は寛永元年(一六二四)、編者についてはわからない。
 なぜ、このように「とりかえばや物語」が発生したのだろうか。いや「とりかえばや物語」はなかった。最初から二種類の情報が別々に伝わったのだということも考えられなくもない。ほかの辞世を伝える記録もあるそうだから簡単ではないが、成立年代と現場に居合わせたという点で、私は『中国兵乱記』の情報が出発点に近いのではないかという印象を持った。いつ、どの時点かはわからないが、家譜録を編纂するときに「これはおかしい」「これは間違っている」「『憂世をば』が責任をとって割腹する城主の歌でないはずがない」と判断したのであろう。そうすると「世の中」も月清入道の歌として納得がいく。
 思い入れが強いほど、こうした書き直しの余地は十分にあったはずだ。
  六、創作
 『太平記』に、討死を覚悟した菊地武時が「汝ヲバ天下ノ為ニ留ルゾ」と子の武重を郷里に返すくだりがある。その際に一首の歌を袖の笠符に書いて送ったとある。
  收郷ニ今夜許ノ命トモシラデヤ人ノ我ヲ待ラン            菊地試時
 これについて杉本尚雄(吉川弘文館『菊地氏三代』)は、楠正成・正行の桜井の別れと同じ駆向であることを指摘した上で「事実としては疑わしい」と述べている。
 また高杉晋作の「おもしろきこともなき世をおもしろく」(東行先生五十年祭記念会編『東行先生遺文』)について中西進の『辞世のことば』(中公新書)に、
   死は翌三年(一八六七)四月十四日にやってきた。高杉が冒頭の句を書くと、和歌の下の句を傍の野村望東尼が「住みなすものは心なりけり」とつづけた。
とある。有名なエピソードのようで山田風太郎は、このあと「彼は『面白いのう』と笑って眼を閉じた」(『人間臨終図鑑Ⅰ』)と書く。これはいけると目星をつけておいたが、東行記念館学芸員の一坂太郎(新人物往来社『高杉晋作の手紙』)によると「臨終の場で作られた『辞世』だという説を裏付ける史料的根拠はどこにも無い」「今日、その臨終の枕辺には、誰が居たかすらわかっていない」と述べている。
 但し、『菊地氏三代』は続けて述べる。
   天皇の国家の到来することを信じながら死んだ武時のあの時の心境は、よく写されている。そのあと、菊地氏一族全部がながく天皇方に与した事実を考えあわせるとき、その精神を惣領たる子武重に遺訓として伝達したのは、この訣別においてであるということを、『太平記』の筆者は明らかにしたかったのである。
 また『高杉晋作の手紙』も同様に続く。
   晋作はおそらく「辞世」を作らずに没したのだろう。しかし詩人晋作に「辞世」が無いことを残念に思った者がいて、数ある作品の中から望束尼との合作「面白き……」を撰び出したのではないだろうか。
   若くして逝った英雄に、伝説はつきもののようだ。
 このように考えるとき、リライトや創作の背景が理解できる。また架空の人物であるという障壁も小さいだろう。すでに辞世は一人歩きをはじめているのである。
  七、エピローグ
 久しぶりに乗った寝台列車は内臓が揺られるようだった。五時前に着いた下関で「高杉東行終焉之地」をカメラに収め、その足で博多に向かった。黒田如水・貝原益軒・菊地武時・野村望東尼の足跡を訪ねたあと、すでに帰りたい気持ちを励まして、さらに特急「かもめ」の乗客となった。
  白バラの花よりかおりたつごとく この身を離れのぼりゆくらむ     永井隆
 片岡弥吉著『永井隆の生涯』(中央出版社)によると、市公葬の際、「白バラの歌」(山田耕作作曲)が合唱されたとあるが、初出を明かさず、『永井隆全集』(講談社)では見ることもできない。その永井が二人の子供と暮らした如己堂は道路に面していた。二畳ほどの小屋である。しかし、隣の永井記念館が改築中なので庭先まで近づけない。ここで写真を数枚、平和公園を経て原爆資料館に駆け込んだ。二時間弱という慌ただしい取材である。館内では、一個の弁当箱が目を惹いた。炭化した御飯。副食入れの裏蓋に「2の3ツツミサトコ」の文字があるという。十四歳の少女の集団写真が飾ってある。そのとき初めて、一九四五年八月九日午前十一時二分、長崎の上空で炸裂した一発の原子爆弾による死者七万四千人、負傷者七万五千人という数字が人の顔をして迫ってくるのを覚えた。「白バラ」の歌は「辞世」であると同時に祈りであり、鎮魂歌でもあったわけだ。

 右は、歩き始めた頃の設計図である。歩き終わった感想でもあるが墓碑刻の多さを考えると「墓地は人が死んでいるだけである」は若干の修正が必要かもしれない。
 なお執筆取材にあたっては茨城県東町立歴史民俗史料館及び東京都大田区教育委員会より貴重なご教示をいただいた。河井継之助の取材で訪れた新潟県長岡市では長岡市人物誌「ふるさと長岡の人びと」編集委員の田所仁氏に車で案内していただくという幸運に恵まれた。併せてお礼申し上げる次第である。
 また出版を引き受けていただいた和泉書院の廣橋研三氏に感謝したい。
   平成十四年十二月十日、菟月庵にて                𠮷岡生夫
 
 番外篇 (本篇には収載していない)
 平重衡(初出「栄根通信」十分の一号、平成11年4月?日) 
   


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