歌の未来図〜あるいは歌の円寂するとき〜
吉岡生夫(「半どん」151号)
     一

 大野晋は『日本語の起源』(岩波新書)の最後で次のように述べている。旧版が一九五七年、新版が一九九四年、私が手にしているのは二〇〇七年発行の第二十刷である。

 日本には縄文時代にオーストロネシア語族の中の一つと思 われる、四母音の、母音終りの、簡単な子音組織を持つ言 語が行われていた。そこに紀元前数百年の頃、南インドか ら稲作・金属器・機織という当時の最先端を行く強力な文 明を持つ人々が到来した。その文明は北九州から西日本を 巻き込み、東日本へと広まり、それにつれて言語も以前か らの言語の発音や単語を土台として、基礎語、文法、五七 五七七の歌の形式を受け入れた。そこに成立した言語がヤ マトコトバの体系であり、その文明が弥生時代を作った(そ の頃、南インドはまだ文字時代に入ってなかったので、文 字は南インドから伝わらなかった)。寄せて来た文明の波 は朝鮮半島にも、殊に南部に日本と同時に、同様に及んだ が、中国が紀元前一〇八年に楽浪四郡を設置するに至って、 中国の文明と政治の影響が強まり、南インドとの交渉は薄 れて行った。しかし南インドがもたらした言語と文明は日 本に定着した。その後紀元四、五世紀に日本は中国の漢字 を学んで文字時代に入り、漢字を万葉仮名として応用し、 紀元九世紀に至って仮名文字という自分の言語に適する文 字体系を作り上げた。

 南インドの言語とはタミル語である。平凡社ライブラリーの『日本語の歴史1』(初版は一九六三年)では大野説は出てこない。南洋語基層説についても否定的である。二〇〇六年に出た山口仲美の『日本語の歴史』(岩波新書)では北方説と南方説の対立を述べる。半世紀の間には微妙な変化もあるのだろう。遍く認められるところでないとしても、私は大野晋の仮設のターミナルから出発したいと思う。すなわち五句三十一音の定型詩は日本語の揺籃期において、すでに私たち日本人のDNAに組み込まれていたのである。

     二

 いわば歌は約束された文芸なのだ。ちょっとやそっとで滅びるものではない。しかしたとえば『万葉集』の短歌と『古今和歌集』の和歌の間には国風暗黒時代が広がっている。あれは歌の衰退ではなかったのか。また連歌、俳諧の隆盛時代と時を同じくした和歌と狂歌の並立時代はどうだったのか。あるいは近現代の短歌への移行期とそれ以後はどうなのか。こうして五句三十一音詩の名称変更を伴うドラスチックな変化の中に衰退、円寂そして復活の因子を探ってみた。
 まずは国風暗黒時代である。
 『万葉集』最後の歌は天平宝宇三(七五九)年、最初の勅撰和歌集(『古今和歌集』)の奏上は延喜五(九〇五)年、この一四五年で気になる出来事をあげてみる。
 延暦一三(七九四)年。平安遷都。
 弘仁五(八一四)年、最初の勅撰漢詩集『凌雲集』成る。
 弘仁九(八一八)年、勅撰漢詩集『文華秀麗集』成る。
 天長四(八二七)年、勅撰漢詩文集『経国集』成る。
 寛平六(八九四)年、遣唐使の廃止。
 国風暗黒時代とは実は漢風全盛時代なのだ。平凡社ライブラリー『日本語の歴史3言語芸術の花ひらく』は、この時代のエピソードとして「菅原道真、橘広相、紀長谷雄、都良香(みやこのよしか)ら四人の家集を唐へ紹介する企てがあった」また「宗家のシナにその詩を紹介しようとしたことによって、当時の日本の漢詩文の水準をある程度は推測することができる」と述べている。これで思い出すのは延喜元(九〇一)年に撰進された『日本三代実録』(吉川弘文館『日本三代実録後篇』)において六歌仙の一人、在原業平が「体貌閑麗。放縦ニシテ拘ラズ。略ボ才学無シ。善ク倭歌ヲ作ル」とあることだ。「才学無シ」の箇所は「才学有リ」の誤りとする説もあるそうだが、むしろ私は「才学とは漢詩文の学をやはり意味すると思う」(弘文社『日本歌人講座』)とする青木生子の説に惹かれる。現代の常識は必ずしも当時の常識ではないのだ。そしてこの漢風は遣唐使の廃止によって国風へと変化する。
 これを日本語の危機と見るならば、時を経て再び大きな風が吹くことになる。近代の国語国字問題である。
 明治五(一八七二)年、森有礼による国語の英語化論。
 明治一六(一八八三)年、〈かなのくわい〉設立。
 明治一七(一八八四)年、〈羅馬字会〉設立。
 昭和二一(一九四六)年、志賀直哉の国語フランス語化論。
 なお昭和二十一年にはアメリカ教育使節団がローマ字採用を勧告し、近年では英語公用語化論が叫ばれている。

     三

 五句三十一音詩の第一の危機が日本語の危機であったとすれば、第二の危機は和歌というエコールの全盛とその裏返しとしての退潮にあった。説明すると万葉貴族における短歌は、その使用する用語においても、素材の選択においても、特段の制約を設けることはなかった。東歌が、防人の歌が、戯咲歌がその良い例である。いわば五句三十一音詩のすべてを代表していたのである。これに対して平安貴族の和歌は五句三十一音詩のすべてをカバーしなかった。一つの排他的世界を選択し、その完成に向かった。彼らの世界は鴨川と桂川の流域に限定され、歌枕はその地において発達した。しかも『古今和歌集』の時代の日本の人口は約六〇〇万人、都の人口は約十二万人、このうち宮廷文学に参画できると思われる皇族・貴族・官人は約一万五千人(実際に『古今和歌集』に収録された歌人は約一三〇人、ほかに読み人知らず約四五〇首)であった。これがフォーマルな場で行われた五句三十一音詩とすれば、定家の時代になって確認されるのであるが、インフォーマルな場で「言い捨て」を条件に許された五句三十一音詩があった。これを彼らは狂歌と呼んだのである。
 和歌は絶対的にして唯一のエコールであった。狂歌にとって不運であったのはインフォーマルな場において行われていた名称をそのまま継承したことであった。その性格からして和歌の対立軸となる資格を持ちながら最後まで「言い捨て」の呪縛から解放されることはなかったのである。しかし時代が移り、連歌が流行り、俳諧が持て囃される。その趨勢に対抗手段を持たなかった和歌に代わって同じ五句三十一音詩である狂歌の果たした役割は、曇りのない目で見るならば、歴然としたものであろう。樋口清之は『笑いと日本人』(講談社『日本人の歴史』第九巻)の中で「狂言も落語も漫才も、その源泉をさぐれば、やはり信仰にたどり着く」また「笑いに招福の呪力があるとした古代の信仰は、今なおわれわれの生活の中に色濃く残っている」とした上で「世の中が不穏だった奈良時代までは、まだ支配者階級の間にも信仰的な笑いは残っていたと思う。しかし世の中が安定した平安時代になると、笑いは低俗なもの、嘲りの表現としての意味あいを強めたのである」(「笑いを低くみた貴族」)と分析する。
 平凡社ライブラリー『日本語の歴史5 近代語の流れ』の「江戸時代の出版と教育」によると寛文十(一六七〇)年の歌書・物語・狂歌の出版点数二二三点に対して俳諧書は一八三点である。明和九(一七七二)年は、別の資料によるが、歌書・狂歌・連歌・片歌一三九点に対して俳諧が一五三点と逆転している。そのこと自体には驚かない。むしろ逆転された側から狂歌を外すと結果はどうなっていたのか。
 そのことに思いを馳せたいのである。

     四

 近世は和歌と狂歌の並立時代であった。それが近代短歌において統合されていく。とりわけ狂歌は近代短歌に吸収されることによってその時代的役割を終えるのである。具体的には明治三十一年の子規「生は和歌につきても旧思想を破壊して、新思想を注文するの考にて、随(したが)つて用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりにて候」(岩波文庫『歌よみに与ふる書』)、また翌年の「万葉集巻十六」(講談社『子規全集』第七巻)の「滑稽は文学的趣味の一なり」や「真面目の趣を解して滑稽の趣を解せざる者は共に文学を語るに足らず」によって、狂歌はその拠って立つ基盤を喪失したのである。約一世紀を経て安田純生は「用語の面のみに着目すると、狂歌は現代の文語体短歌や話しことば調短歌に近いものを有している。少なくとも江戸時代の正統的な和歌より狂歌のほうが、いっそう現代短歌と近い関係にある」(邑書林『現代短歌用語考』)と指摘する。但し「滑稽」云々の部分についてはどうであろうか。吉川宏志の『風景と実感』(青磁社)を読んでいたら「前登志夫が自然を詠んだ歌には、それとは正反対で、体温のあるユーモアが感じられる。もちろんそれはギャグのような笑いを意味するのではない」(「自然とユーモアーー前登志夫ーー」)という箇所が目に止まった。なぜ「もちろん」なのか。何か言わねば、言おうとしたが、思い直した。歌のエコールは一つではないのであった。
 最後に近現代短歌は、どこにたどり着いたのか。テーマで云えば「どうして、高度成長は短歌にならなかったのか。あるいは歌人が作品化できなかったのか。負の部分がないと短歌へのエネルギーが作動しないのか」(小高賢著『現代短歌作法』新書館)、ツールで云えば「現代歌人には文語コンプレックスがあります」(岡井隆著『現代短歌の試み 危機歌学の試み』大和選書)、歌人像なら「うたびとの多くは、すくなからずこうした意識に支えられている。それは社会的・世間的にあまり目立たない、おそらくそれ程きわだった存在ではないが、自分は歌を作っている。歌人である。精神の部分では。ひとに劣ることではない」(岩田正著『現代歌人の世界』本阿弥書店)、あるいは「短歌をつくらなくても元気に生きていける人は、短歌をつくらないでほしいと思います」(枡野浩一著『かんたん短歌の作り方』筑摩書房)等、いずれも近代以前の歌人からは想像もできない発言である。
 ことは単純ではない。しかし推測するならば近現代の短歌は自我を尊重し、個性を尊重し、実感を重視した。そして題詠を排除した。それでは題詠という虚構に閉じ込めることの出来なくなった自我や個性や実感はどこに向かったのか。題詠という社会を追放された自我や個性や実感は現実世界に住処を求めた。そして実際にも現実生活に手を掛けたのである。かくてパンドラの箱が開けられた。
 妙薬は知らない。ただ日本語と共に歩み、日本文化のアイデンティティーでもあった五句三十一音詩史を、指でその原初からなぞるばかりなのだ。
参考 
狂歌を五句三十一音詩史に回収する 狂歌逍遙録  
句またがりの来歴 私の五句三十一音詩史 短冊短歌と応募原稿
歌の未来図〜文語と口語〜 字余りからの鳥瞰図〜土屋文明『山谷集』〜 夫木和歌抄と狂歌
文語体と口語体 近代短歌と機知 狂歌とは何か〜上方狂歌を中心として〜
狂歌と歌謡〜鯛屋貞柳とその前後の時代〜 談林俳諧と近代語〜もしくは古代語からの離脱一覧〜 用語論〜鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない〜
用語論〜矮小化された近世の狂歌すなわち「上方狂歌」の名称について〜   一本亭芙蓉花〜人と作品〜 一本亭芙蓉花〜その失われた風景〜 
仙人掌上玉芙蓉   近世の狂歌〜ターミナルとしての鯛屋貞柳〜 インタビュー「短歌人」
用語論〜文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ〜  口語歌、口語短歌は近代の用語。今は現代語短歌なのだ   



 狂歌大観33人集 狂歌大観(参考篇)作品抄  「近世上方狂歌叢書」50人集 
狂歌年表 YouTube講座「吉岡生夫と巡る五句三十一音詩の世界」  兵庫県高等学校文芸部の皆さん 熱いエールを送ります 


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