狂歌大観(参考篇)作品抄by吉岡生夫

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けんさい物語 新竹斎 二休咄 地誌所載狂歌抄  諸国落首咄  宝永落書  鸚鵡籠中記落首抄 犬百人一首  狂遊集  古今狂歌仙
貞徳狂歌集  江戸名所百人一首  狂歌五十人一首  絵本御伽品鏡        ※ 斜体文字は抄出のない作品です。今後、若干、減らしてしきたいと思っています。

区分 解題  作品抄 作者  参考
再昌草



三条西実隆は『調度歌合』の作者に擬せられています。また『玉吟抄』では判者を務めています。さらに『三十二番職人歌合』の表補絵師の歌〈いかにせん馬ならぬ絵のへうほうゑまきだしわろくのりのこはきを〉の作者であることが判明しています。(吉岡生夫)               
作者 三条西実隆
    (1455~1537)

【日本古典文学大辞典】
-以下、抄出-
実隆は若いときから歌を詠んだが、明応九年(一五〇〇)七月の大火で詠草をほとんど焼失した。翌文亀元年より日ごとの作品(和歌・発句・漢詩句など)を書き留めることとし、それ以後、死の前年の天文五年(一五三六)まで記録された三十六年間の日次詠草。発句・漢詩句を含めて七四四七首。和歌は、「竹の葉に玉ぬきちらし夕立の名残涼しき軒の下風」(永正三年(一五〇六)二月二十二日)のように、優美巧妙な叙景歌や季節の歌が目立ち、題詠歌として上乗のものが多い。戦国初期の時代相を反映し、公家も現実との関わりを深め、日常の感慨を狂歌に託している点も興味深く、また発句や連歌師の動向を書き留めている点、連歌史の好資料でもあり、更に「実隆公記」の欠けている点を補いうる史料でもある。 
   十一月廿三日の夜歯の落ちたるに思ひつづけし
あはれなり我が身朽ち木の葉落ちても心に花の春をわすれぬ
三条西実隆  【日本大百科全書(ニッポニカ)】
三条西実隆 さんじょうにしさねたか[1455―1537] 室町後期の公卿(くぎょう)、学者。三条西家は正親町(おおぎまち)三条家の庶流。父は公保(きんやす)、母は甘露寺親長(かんろじちかなが)の姉。1460年(寛正1)公保の死没により6歳で三条西家の当主となる。応仁(おうにん)の乱が起こった1467年(応仁1)は13歳のときで、実隆と母は鞍馬寺(くらまでら)の坊に難を避け、母はそこで病没する。後花園(ごはなぞの)、後土御門(ごつちみかど)、後柏原(ごかしわばら)、後奈良(ごなら)の4代にわたる天皇に仕え、とくに後柏原天皇の信任厚く、1506年(永正3)に内大臣に任ぜられる。足利義稙(あしかがよしたね)が将軍職についた1508年から、実隆は義稙政権を支持し、朝廷と幕府のパイプ役を務める。このため1509年から1512年まで、毎年の正月に義稙臣下の大内義興(よしおき)や細川高国(たかくに)の来賀を受けている。1516年廬山寺(ろざんじ)において落飾し、法名堯空(ぎょうくう)、逍遙院(しょうよういん)と号する。1520年に至って、高国が家督をめぐる澄元(すみもと)との抗争に敗れ近江(おうみ)へ敗走すると、それまで親しくしていた高国との関係が薄れ、さらに高国と将軍義稙との不和に遭遇すると、武家社会に対する失望から実隆の現実政治への関心は急速に冷却していき、以前からの学問・文芸の生活に立ち戻っていった。 実隆は一条兼良(いちじょうかねら)やその子冬良(ふゆら)とともに学才・歌才の誉れ高く、飯尾宗祇(いいおそうぎ)から古今伝授を受けたほか、『源氏物語』『伊勢(いせ)物語』の権威であった。また当代一流の能書家としても知られ、地方大名などの求めに応じ揮毫(きごう)した。彼の書は富商武野紹鴎(たけのじょうおう)からの援助とともに、貧しい三条西家の経済を支える収入源でもあった。著書に『詠歌大概抄(たいがいしょう)』『源氏物語細流抄』、有職(ゆうそく)に関する『装束抄』、日記に『実隆公記』、歌集に『雪玉集(せつぎょくしゅう)』『聴雪集(ちょうせつしゅう)』、歌日記に『再昌草(さいしょうそう)』などがある。 [新井孝重]
 
   回文歌(心にうかびしまま書きつけし)
理なくとも理のはしばしにここはとはここにしばしばのりもとくなり
三条西実隆
   除日狂歌
年はただくれうくれうといひながら手にとるものはけふまでもなし 
三条西実隆
   (八月)廿一日右京太夫鞍馬にこもりてかれより入道相国のもとへ  高国
山ざとやさぞなさびしき鹿のねも世の公事よりはききよかりけり
右京太夫高国
   (五月)廿五日痔のおこりたるにたはぶれに
何事もまけをのみする身の上に持といふ物のあるがあやしき 
三条西実隆 
あなたへもこなたへもなる声をきけこれぞらっこの皮堂の鑓 ※革堂=行願寺  老禅門 
   (八月)廿七日水茄を二(つ)中御門大納言枝ながらをくるとて
心ちよく見よや二(つ)の水なすびいまぞおほきにながく成りぬる 
中御門大納言 
   返し
大きなる二(つ)の水の茄こそ新年号のあひにあひけれ ※新年号=大永 
三条西実隆 
   入道宮よりゆを七給ふとて ※ゆ=柚
みゆらんをゆゆしとも又ゆくゆくもとはぬゆへこそゆの木末なれ 
入道の宮 
   御返し
ゆめやゆめやゆめのうき世のゆかのうへにゆうゆうとして秋も暮れゆく 
三条西実隆 
   十月十日比永元寺より帽子のためとて綿ををくらるとて
心ざし数にもあらぬわたつ海かづきのものと同じめされよ ※潜き=被 
入道(永元寺) 
   返事                               ※海女=尼
わたつ海のあまにはあらぬ入道のかづきに身をもあたためよとや 
三条西実隆 
   七月廿三日永元院よりほしいひをこすとて ※ほしいひ=ほしい(音変化)
天の河ほしいのころの過ぎて又此のふくろく寿たてまつるかな ※二句「星居」 
永元院
   返し
八百万あひかたらはん世もおほし今福禄寿君に得つれば ※ほし今(い/ま) 
三条西実隆
   宗長法師たよりにつけて伊豆国熱海の湯に入りてあがるとて柱にかきつけしとて ※「瑞歯ぐむ」=きわめて年をとる
たがためはしるしありとも三輪ぐむ老いが起ち居は湯のかひもなし 
宗長 
   と侍りし返事
君がためしるしありとぞみづわぐむ起ち居もやすく出湯入湯に 
三条西実隆
   (七月)二日嵯峨の墓所にまうでて法輪寺にまいりし橋の上あやうく水も又おほかりしかば
水も又思ひしよりもおほゐ川橋はあやうしいかがわたらん 
三条西実隆 
   (八月)十五夜におちのこりたるむか歯の此の程ゆるぎつるがおちたりしかば
おりしもあれ今夜の月に葉の落ちて木のまさはらぬ影をみよとや 
三条西実隆
   此の返事これよりつかはす次に腰の痛む事申して
いつもよむ歌の姿にあやかるやこしおれかへる身のあやしさよ 
大館入道 
宗長手記・日記


※島津忠夫校注『宗長日記』(岩波文庫) 
作者 宗長
    (1448~1532)

【日本古典文学大辞典】
-以下、抄出-
宗長手記。二巻二冊。上巻は大永六年(一五二六) 三月三日、下巻は同七年の春で終り、それぞれその後に成ったものであるが成立の年次未詳。上巻末と下巻のはじめは共通し、下巻は改めて大永六年の正月から書き改めていて、それぞれ当初は上・下巻としての意識きなかったものと思われ、それぞれ何次かにわたって書きつがれて成ったものか。
   八月中旬ごろまで子規よるひるとなく啼きければ斎非時(ときひじ)にもたへがたくて
聞くたびにむねわろければほととぎすへととぎすとこそいふべかりけれ
(宗長手記)  【日本大百科全書(ニッポニカ)】
宗長 そうちょう[1448―1532]室町後期の連歌師。初め宗歓、長阿、柴屋軒(さいおくけん)とも号した。駿河(するが)国(静岡県)島田の鍛冶(かじ)職五条義助の子。早く今川義忠(よしただ)に近侍し、18歳で出家したのちも書記役のようなことを務めていて、合戦などにもたびたび従軍していた。義忠戦死のあと今川家を離れて上洛(じょうらく)、一休宗純に参禅、また宗祇(そうぎ)に師事して連歌を修行した。1478年(文明10)の越後(えちご)の旅や80年の『筑紫道記(つくしみちのき)』(宗祇の連歌紀行)の旅にも宗祇に同行し、やがて『水無瀬(みなせ)三吟』『湯山三吟』をはじめ、宗祇一座の多くの作品に加わって、宗祇門として頭角を現す。96年(明応5)駿河に帰国、改めて今川氏親(うじちか)に迎えられ、宇津山麓(うつさんろく)に柴屋軒を結庵(けつあん)し、駿河と京都の間を何度も往来し、享禄(きょうろく)5年3月6日、駿河で没。句集に『壁草』『那智籠(なちごもり)』『老耳(おいのみみ)』など、連歌論書に『連歌作例』『永文(ながふみ)』など、日記紀行に『宗祇終焉記(しゅうえんき)』『宗長手記』などがある。俳諧(はいかい)をも好んだことが『宗長手記』から知られる。
[島津忠夫]

  
   九月の初めにここもと四五町罷り出でて帰るさに落馬して半身いたみ右の手かなはずして
いかにせんものかきすさむ手はおきてはしとる事と尻のごふ事
   痢病に日比わずらひてたはごとに      ※こめる=話し言葉
おもはずもひたたれをこそきたりけれ名をば糞一こめるといはん 
   伏見を払暁にいでて宇治八幡春日山を見はたし木幡の里を過ぐとて
むかし我おちて杖つく老いなれば馬のあるさとの名さへおそろし 
   ある夜炉火(ろくわ)しどろなる火榻(こたつ)にねぶりかかりて紙子に火をつくをもしらずおどろきて ※胸走り火=比喩ではなく実景、跳ね飛ぶ火
とるところなくてぞ明けぬかたすそもむねはしり火のうらめしの夜や 
   京には役おとしとて年の数銭をつつみて乞食の夜行におとしてとらする事をおもひしりて
かぞふれば我八十の雑事銭(ざふじせん)役とていかがおとしやるべき
   奥州岩城民部大輔由隆多年書状通用にて……さればかつは愚老もうら山しくおぼえて泰昭の文の伝達の様にして
八十(やそぢ)ぞもしもなをもしながらへば 岩木の奥の中にかくれむ
   七夕に老いのいのちのながさを歎きて
願きぬねがふにたえぬ八十なりけふぞ我世はあひはての星
宗長日記。享禄三・四年(一五三〇-一)の日記。     丸子(まりこ)草庵卅年にをよび住みあらし侍る宇蘭盆過ぎ十六日よりとりこぼち誠に竹を柱垣壁には松の葉をつけ庭のかたはらに山畑を作らせ大豆小豆鴨瓜など心ちよげ也田を堀りうへやうやうほのめきわたるすこし山かたちをして芝をつけ朝貌をははせ萩さかりなるに
おもしろくかりしめかこひいづくへもいにたうもなし住みたうもなし
(宗長日記) 
   小田原にてもさる人余り連歌につきて傍若無人の過言ありし
このごろの連歌はよしや射でをかう見るべしがほの弓の本すゑ 
新旧狂歌俳諧聞書 編者 未詳
成立 江戸前期

【日本古典文学大辞典】
-以下、抄出-
狂歌一六五首、俳諧の連句一七三句、発句四十七句。狂歌では、和泉式部・西行・藤原定家・暁月坊(冷泉為守)を主要な作者とし、そのほか伝教大師・弘法大師・凡河内躬恒・藤原俊成・同家隆などの名を詠者としてあげるものが「旧」い時代の狂歌に当る。但し、これらは伝承性の強い狂歌であって、多くは実作と信じられないものである。狂歌咄の中で活用されたと思われる狂歌も多い。一休・宗祇の作とするものも「旧}としていいであろう。それに対して「新」しい狂歌とは、信長・秀吉の時代かに大阪の役にかけての落首や里村紹巴・細川幽斎、さらに下って近衛信尹・沢庵禅師・細川三斎・木下長嘯子・烏丸光広などを作者とするものである。特に幽斎の作は十数首に及んでいる。
   定家卿六歳のときよみ給ひけるとなん
霜月にしものふるこそだうりなれなど十月にじうはふらぬぞ
藤原定家 順徳天皇の『八雲御抄』並びに正徹の『清巌茶話』から「霜月に」は家隆の作、しかしそれでは面白くないと考えた御仁が「十月に」を作り、父子鷹の歌にしたのでしょう。
   返し
十月にじうはふらぬと誰かいふしぐれはじうとよまぬものかは
藤原俊成
   筆のふるくきれたるを見て
あはれなり筆になりてもしかのけのりやうしのうへでつゐにはてぬる
 
   つくしのおほちどのざいきやうの御とき、きたのかたひさしくつかはれける女郎花といふ女をのぼせられけるに、おほちどのしのびしのびかよはれしより、きたのかたきき給ひて女郎花につかはし給ひける     きたのかた
なびくなよしめしがはらのをみなへしおとこ山より風はふくとも
きたのかた  
   返し     をみなへし
なびくまじしめしが原の女郎花おとこ山より風はふくとも
女郎花  
   大ぢどの
月いでばそなたのそらをながむべしかたむかばまたおもひをこせよ
大ぢどの  
   返し     北のかた
月なくば思はじなさてうらめしややみのゆふべもわれはこいしき
北のかた  
   有る人、道を夜るとをりし時うつくしきすて子ありけり。しばしなかざりければ
あはれなり夜半にすて子のなきさすはははにそひねの夢や見つらん
有る人 捨て子の歌です。 
   ある人かみこをきてよなよなあるむすめのもとへしのびしのび物いひければ
おそろしやおもふなかをもさけつべしよるのふすまのかみなりのおと
ある人  紙子(紙で作った衣服)。襖(「襖障子」の略。雷=紙鳴り。
   関白秀吉公供御上りける時にいひの中にそばとなんいふものあやまりて有ければ秀吉いときしよくかはりければよめる     げんし
うすずみにつくりしまゆのそはかほをよくよく見ればみかどなりけり
   此のうたにて御きしよくやはらぎけるとなん
細川幽斎
*「玄旨」は法号
幽斎の甥、雄長老に「君がかほ千世に一たびあらふらしよこれよこれて苔のむすまで」(雄長老狂歌百首)があります。秀吉の顔でしょう。 
   人のかたよりたんぽぽをおくられければよみてつかはしける    よみ人しらず
此ほどはうちたえけるにたんぽぽをたまはりてくふしたつづみかな
よみ人しらず 植物の「蒲公英」に玩具の「蒲公英」(鼓の小さいもの)を掛けています。 
遠近草
(おちこちぐさ) 
編者 未詳。
成立 安土桃山時代

【日本古典文学大辞典】
-以下、抄出-
序文に、和歌の道の手引き書として、初心者の耳に入りやすい「狂ある歌(狂歌がかった歌)」を古今にわたって集成した旨を述べている。このような目的に沿って、①人麿・貫之・和泉式部・赤染衛門など著名な歌人の伝とそれにまつわる歌、②平中(平貞文)墨塗り説話・実方奥州下向説話のような伝説・説話を伴って伝えられてきた歌、③『源氏物語』『西行物語』などから編者の意図に適う部分を切り取って収録した章、④貫之の改名説話、西行・定家・暁月坊(冷泉為守)などの狂歌説話のごとく、中世、狂歌の盛行に伴って生まれてきた説話、⑤近い時代の、多くは京を舞台とする狂歌のやりとり(詠み手は無名の人物である場合が多い)など、百三十余話が収められている。  
けふよりは紀貫之とめさるべし紀の實定はかぶりおとせり  紀貫之  「實」のウ冠を取ると「貫」になります。 
酒がめにわが身を入れてひたさばやひしほ色にもほねはなるとも  紀貫之   
おととしも去年もとしもおとといもきのふもけふもわれこふる君  柿本人麿  『古今和歌六帖』では「われ」が「わが」です。 
いとはるるわが身は春の駒なれや野がひがてらにはなちすてらる 伊勢  
あともなく雪ふるさとのあれたるをいづれむかしのかきねとかみる 赤染衛門  
人はたたあかれぬうちに世を出でよなさけのあるをおもひでにして 和泉式部  
人はたたあかれてのちに世をいでよなさけのあれば名残おしきに 小式部  
恋をしてのちはほとけといはませば我ぞ浄土のあるじならまし ある好色の人  
我にこそつらさを君がみするともかほにすみつく人のけしきよ  
浦山しこゑもおしまず野らねこのこころのままにこひをするかな 権中納言定家卿  
霜月にしものふるこそだうりなれなど十月に十雨のふらぬぞ ある人 『新旧狂歌俳諧聞書』では定家の歌。 
十月に十雨のふらぬと誰かいひし時雨ふるこそ時雨のふるなれ 又人 『新旧狂歌俳諧聞書』では俊成の歌。 
恋しとも我はもうさずあだしそそしぬるものなりしぬるもの也 東三条右大臣 三句「そそ」なら女陰になるが…。 
わがいゑのひつにちやうさしおさめたるこひのやつこのつかみかかりて 源実朝朝臣  
筆のあとに過ぎにしことをとどめずばしらぬむかしにいかであはまし 式子内親王  
わが妻を人のとるとて人ごとにへらぬものをばなにおしむらん 教月法師  
いもがかほきめはわろくとあぢはひのえぐだになくばこらふべしやは 喜田監物  
これぞかしととのひかりはななひかりかかのひかりはえんのしたかな 人々  
大ふぐりくらの前輪にかかるをばきんぷくりんと人やみるらん 桂外記 『醒睡笑』に雄長老で類似の歌があります。 
下戸なれど廿七をば一期とし尾崎長次はきょねんしなれた 自辛坊  
中山におるへい花はえらあれと露うほけれは折にもいかれなひ  東国しもつふさの先達  話し言葉です。 
いにしへの花のさかりも時すぎていまはくち木にからむみのむし 非人  
いにしへのかもの祭りにあらね共ながえをとつてやりやつけなん  杉坂角弥  四句の促音便に注意しました。 
身にまさる物なかりけりみどり子はやるかたもなくかなしけれども ある人  
夏はあふぎ冬は火おけに身をなしてつれなき人によりもつかばや ある人  
地水火風そのことはりはしりしりぬれど空につまりてこつじきをする  よみびとしらず  「空(くう)」=「食う」 
越後在府日記 作者 多賀秀種
成立 奥書1604年

【日本人名大辞典】
1565−1616 永禄8年生まれ。兄に堀秀政。羽柴秀長,豊臣秀吉につかえ,大和(奈良県)宇陀郡で2万石を領する。関ケ原の戦いで西軍に属して越後(新潟県)へ追放されたが,のち前田利常の家臣となった。元和2年10月死去。52歳。初名は秀家。通称は源助。号は鴎庵。日記に「越後在府日記」。

【狂歌大観】
「是より自撰古今狂歌抄の中を抜侍也」 
   同集十八
夏は扇冬は火桶に身をなして恋しき人によりもつかばや
読人不知 『拾遺集』 
   近衛左大臣信輔公詠三首有(「輔」の横に「尹」)
此ことを人にいふなと口がためいふがひろまる初め成けり
近衛左大臣信輔  
   八条殿にてそばがゆもちいを食て
薄墨につくれるまゆのそばがほをよくよくみればみかど成鳧(なりけり) 
幽斎   
   おなじき時摂津守一門男女数百人はた物にかけられけるに色々の衣小袖風に翻るを見て
荒木殿国をば人にくれは鳥あやしくみゆるはた物の袖 
幽斎細川兵部大輔  機物=磔(はりつけ)用の木材。
三句「呉服(くれはどり)」=枕詞。美しい綾のあるところから「あやし」にかかる。 
   同集
ぬす人といふも理(ことわり)さ夜中に君が心を取りにきたれば 
よみ人不知  『金葉集』 
   北陸々奥には大雪の時そりといふものに乗るなり集未勘
会津山麓の雪のむら消えにそりのつな手を引きぞわづらふ 
定家卿  四句「そり」の右に「雪舟」。 
はつみ雪ふりにけらしなあらちやまこしの旅人そりに乗る也  (源兼昌)  『永久百首』。初句「初深雪」、結句「まで」。 
   定家の舎弟に暁月坊とて侍りける狂歌百首よみける中に時の女院にやしきのはうじをこされて地をとられけるとき
女院の御まへのひろくなることは暁月坊かしぢの入るゆへ
暁月坊(冷泉為守) 為守は為家の子、母は阿仏尼、為相の弟、定家は祖父になる。「はうじ(榜示)」=境界を示すために立てる石等。結句「しぢ(指似)」=陰茎。 
   あまりに狂歌をよみければ定家卿秀歌の一首もよみてさる物也と人にいはれかしと教訓せられければ
暁月に毛のむくむくとはへよかしさる物也と人にいはれん
暁月坊 藤原定家(1162~1241)
藤原為家(1198~1275)
冷泉為守(1265~1328) 
   暁月坊が辞世に
皆人は死ぬる死ぬるといひけれど暁月坊はいきとまりけり
暁月坊  
   同万葉ニ夏ノ雑談
あらあつや事の外なる天気哉夕立しなば涼しかろうの
結句、話し言葉です。 
   集未勘
蚊のこゑをいとふとすればあやにくに我をもいだす閨の煙の
三句「あやにく」=形容動詞。予期に反して程度のはなはだしいさま。 
犬枕并狂歌

【日本人名大辞典】
-以下「犬枕」-
諸本中、天理図書館蔵古活字本一冊。内題「犬枕并狂歌」。七十三項目三〇八条。末尾に物は尽し狂歌十八首を付す。
一冊。仮名草紙。近衛信尹(のぶただ)を中心とする、その側近・御出入り衆たちの合作したものか。『当代記』に「犬枕双紙作者」と寿命院法印秦宗巴(慶長十二年(一六〇七)十二月十四日没)の如きも、その中の一人であったかと思われるが、なお検討を要する。慶長初年のの成立と考えられるが、随時増補・改刪が行われたのであろう。
-以上-
ひろき物さとりの心四方の空子もちがものにむさし野の原 【日本国語大辞典】
仮名草子。一冊。近衛信尹(のぶただ)側近の合作か。慶長一一年(一六〇六)頃成立。「枕草子」の「物は尽し」の形式により、「うれしき物」「かなしき物」等、七十余項目を箇条書きにし、末尾に狂歌を付す本もある。卑俗な記事が多い。

*近衛信尹(1565~1614)。寛永の三筆
四句は経産婦の膣が連想される。
すべる物王の入道とろろじるなまづうしくそはだししる道  滑る物王の入道薯蕷汁鯰牛糞跳湿道
むさき物よだれかすはき人心ちうみはれ物かつたいのへど  むさき物涎滓吐人心血膿腫物癩の反吐
能き物はこがさのたでゆはり小袖柳の風にいねぶりのとき  …小瘡の蓼湯張小袖柳の風に居眠の時 
高き物しゆみせん王位ひさう伝とうじのたうやとう人のはな  …須弥山王位ひさう伝東寺の塔や唐人の鼻
せばきものけふのほそぬの井のかへるいなか侍かんひやう口  狭き物狭布の細布井の蛙田舎侍干瓢口
ひらき物女のしりに高野がさきりのはならす秋のやきごめ  平き物女の尻に高野笠桐の葉鳴らす秋の焼米
あまきものさたうくしがきあめやみつ公家上らふや大ちごの武者  …砂糖・串柿飴や蜜公家上臈や大稚児の武者 
にがきものはへのうるかにふきのたうくろかわおどし大ひげのむしや  …はへのうるかに蕗の薹黒革威大髭の武者 
ぬめる物うなぎいとまきなめくじりねりぬきはだか女ばうの風呂 ぬめる物 鰻糸巻蛞蝓練貫裸女房の風呂
青き物空もひとつのうなばらや六しやういろの野辺のわか草  …空も一つの海原や緑青色の野辺の若草 
きなるもの黄金山ぶきはく仏五百あふぎにきんらんのけさ  黄なる物黄金山吹箔仏五百扇に金襴の袈裟  
しろき物あかりしやうしに庭の霜卯の花おどし有明の月 …明かり障子に庭の霜卯の花威有明の月
寒川入道筆記

*作者として松永貞徳を擬する説がある。
【日本国語大辞典】
江戸初期の随筆。一冊。著者未詳。慶長一八年(一六一三)頃成立。文学の故実、狂歌咄や謎々を記した書。笑話本的要素があり、笑話本の発生を考える上で注目される。
いつの日のいつまで爰にでくるばうまはしまはしてはてはがつたり 出狂坊(人形)、がったり(倒れて響く音) 
しにたきといふは浮世のすてこと葉まことの時はねかはざりけり 
夏山の青葉まじりのをそ桜はつ花よりもめづらしきかな 
書き捨つる藻くづなりとも此のたびはかへらでとまれ和歌の浦波  蜷川新右衛門親当
おもひきやかりてん井のをちかかり あたま板手をかふむらんとは 昌叱(里村昌叱) …仮天井の落ちかかり頭痛手を被らんとは
三井寺の児は歯白になりにけりつくべき鐘を山へとられて 児=ちご。鐘に鉄漿を掛けた。山は延暦寺。
婿入りもまだせぬさきの舅入りきくていよりもたけたふるまひ  (菊亭、舅は武田) 「聞く」、「長けた」か。早く婿を見たいのだ。
醒睡笑
(せいすいしょう)


安楽庵策伝とは?

【日本大百科全書】
あんらくあんさくでん[1554―1642]
近世初頭の説教僧。美濃(みの)国(岐阜県)の人。幼年期に浄土宗の僧となり、青年時代に山陽、近畿地方で説教僧として活躍。美濃の浄音寺住職を経て、1613年(慶長18)京都の大本山誓願寺55世住職となる。同寺在住中に京都所司代板倉重宗(しげむね)の依頼で笑話本『醒睡笑(せいすいしょう)』8巻を著作し、同書が完成した1623年(元和9)に誓願寺塔頭(たっちゅう)竹林院に隠居し、茶室安楽庵で風雅な生活を送る。この間に『百椿集(ひゃくちんしゅう)』『策伝和尚送答控(おしょうそうとうひかえ)』を書く。策伝は僧、茶人、文人としてそれぞれの道に名を残したが、快弁をもって落し噺(ばなし)を説教の高座で実演し、その話材を『醒睡笑』に集めたため、落語の祖としての名声がもっとも高い。
[関山和夫]
 醒睡笑とは?

【日本大百科全書】
噺本(はなしぼん)(笑話本)。八巻。浄土宗の説教僧であった安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)が、京都所司代板倉重宗(いたくらしげむね)の懇請によって編集したもの。1623年(元和9)に完成し、28年(寛永5)3月17日に重宗に贈呈した。写本で伝わるもの(広本)には1000余の咄(はなし)を、整版本(略本・狭本)には311の咄を収め、それぞれ42項に分けられている。内容は、策伝が見聞した各地の逸話、僧界の内情、戦国武将の行状、民間説話、風俗や書物から得た説話を材料にした笑話が主であるが、経典の解釈や教訓・啓蒙(けいもう)的な咄も多い。咄の末尾に落ちをつける「落し噺(ばなし)」の型をもつものがほとんどであり、策伝自身がこれらを説教の高座で実演したために安楽庵策伝は後世「落語の祖」とたたえられた。この書は、説教僧としての策伝が、説教話材のメモを集成したものである。したがって、噺本(笑話本)ではあるが、説教本(仏書)の性格をもっている。 [関山和夫]    
星一つ見つけたる夜の嬉しさは月にもまさる五月雨の空     
鬼は内福をばそとへ出だすともとし一つづつよらせずもがな  雄長老  「もがな」は願望を表す。 
大きなる柿うちはかな二三ぼんびんぼう神をあふぎいなせん  雄長老  柿うちは=柿団扇、しぶうちわ。 
七夕にかしつと見えて木幡山けふはかちにてこゆる旅人  招月  山科の木幡の山を馬はあれど徒歩」〈万2425〉
風呂たきのわが身はすすに成はてて人の垢のみおとすものかな  
吉野川その水上をたづぬれば桧原が雫槙の下露     
ますかがみむかひて見れば我がすがたしらぬ翁にあふ心地する     
老いにけり今年ばかりと詠むれば花よりさきにちる涙かな     
むかしよりきとくありまの湯ときけど腰をれ歌はなをらざりけり  西三条逍遙院   
花ならば咲かぬ梢もあるべきに何にたとへん雪の明ぼの 西三条逍遙院 逍遙院は実隆の号 
雪ならば幾度袖をはらはましはなのふぶきの志賀の山越 西三条逍遙院  
年よらば飯やはらかにそつとくへ酒は過ぐとも独ねをせよ 夢庵 連歌師、牡丹花肖柏の号 
憂き事も嬉しき事も過ぎぬれば其の時程は思はざりけり  
捨て果てて身はなき物とおもへども雪のふる日はさむくこそあれ 西行  
住吉と人はいへども住みにくし銭さへあればどこも住よし 一休  
なびくなよませの内なるをみなへし男山より風はふくとも 石谷 『新旧狂歌俳諧聞書』に類歌があります。  
なびくまじませの内なるをみなへし男山より風はふくとも  石谷妻女  北の方→侍女が夫→妻、に変化しています。 
おしまるる時散りてこそ世の間(なか)の花も花なれ色もいろなれ 清水長左衛門宗治 のちにガラシャ夫人の辞世に使われます。 
日本さえをよびなき身に三ごくをままにせよとの御意ぞめでたき  鉈の庄の百姓  宮川尼の作かと思ったら、こんな伝わり方もある。 
めぐりくる春春ごとに桜花いくたびちりき人にとはばや  木こる童  「童」に仮託して美しい、生の一回性に訴えます。 
花ゆへにとはるる事のうれしさよ苔の下にも春は来にけり  児  亡くなった児の歌、という設定でしょう。 
倉の内にいかなる河のあるやらん我かおくしちのながれぬはなし 宗湖  
夕顔の棚の下なるゆふすすみ 男はててら妻(め)はふたのして ててら=襦袢、ふたの=腰巻 
五月雨にかたつき麦をほしかねて宇治の里人宵ねをぞする   …片搗麦を乾しかねて宇治の里人宵寝ぞする 
おもひきやしぢのはしがきかきつめて百夜もおなじまろねせんとは  (藤原俊成、千載・恋)  榻の端書書き詰めて、百夜で同衾のはずが…。 
円かりしなりもかくるや天人の夜毎にかぶるもち月のはて  雄長老  月と空腹の取り合わせ、その投影でしょう。 
ひだるさと寒さと恋とくらぶればはづかしながらひだるさぞます     
唯ひねれそれこそそれよただひねれすはふのうらにわたがみはなし    裏のない素袍、綿上(綿の目)でなく虱です。
大そらにはばかるほどのもちもがないける一期にかぶりくらはん  大児  四句「一生に一度その形見に」、強い願望です。 
人は唯十二三より十五六さかり過れは花に山風  
音に聞く有馬の出で湯は薬にてこしをれ歌のあつまりぞする 宗祇  
山城の井出の下帯手にはづしあらふへのこの玉河の水 玄旨 へのこ=睾丸 
まま母のもりたるいひはふじの山汁をかくればうきしまがはら 富士山から浮島ケ原、どんな食事やねん。 
ここにきしかかるうき世かたびの身にながき情けをたのみてぞゆく  旅の僧  句頭句尾から拾うと「小刀たしかに置く」です。 
いはざると見ざるきかざる世にありておもはざるをばいまだみぬかな  
桜さく遠山までの花見にはながながし日ぞもてや中食 雄長老 一日二食の時代、今なら昼食です。 
たづね入る人はさまざまかはれども同じ桜を見よし野のおく  
唐土より日本にひよつと躍りでて須弥(しゅみ)のあたりを遊行する人  時宗の僧  二句「ひょっと」に注目しました。 
をしまわし虚空をぐっとのみこめど須弥の中骨(なかほね)喉にさはらず  禅宗の僧  二句「ぐっと」に注目しました。 
賤(しづ)のめが庭の木の葉にかきたえて明日の薪にあらしをぞ待つ    め=女、かきたえて=掻き絶えて。 
わたくしは高野聖にあらねどもおいにおひたるゆへにめさずや 年ふりたる女房 初句に注目、めす=召す。 
渡り得てうき世の橋を詠むればさてもあやうく過ぎし物かな    彼岸の、無事に渡った人の感想です。況や…。 
かきくれてふる白雪のつめたさを此のわたにてぞ寒さ忘るる  三条殿  署名によって庶民離れした生活が思われます。 
君か代は千代にや千世にさざれ石のいはほと成てこけのむすまめ 幽斎 結句「まめ」(豆)。 
なら坂や此の手をほむるおやごころ兎にも角にもうつけ人かな 幽斎 我が子自慢が見苦しい、うつけ人=おろか者。 
のりくらのまへにあまれる大へのこ金幅輪とこれやいふらん 雄長老 『遠近草』に類歌が見えます。 
さきに出て友まつ雪のいろに又おとらぬほどの玉霰かな  三藐院殿  三藐院(さんみゃくいん)は近衛信尹の院号
ますらおが小田かへすとて待つ雨を大宮人や花にいとはん     
花をのみまつらん人に山里の雪まの草の春を見せばや     
下さるるくるみの数も君が代も目出たかりけり五百八十  会下僧  五百八十=「五百八十年七回り」の略。 
竹斎
【日本国語大辞典】
仮名草子。二巻二冊。富山道冶(どうや)作。活字版は元和七〜九年(一六二一〜二三)成立。整版本は寛永三年(一六二六)以後同一一、二年までに成立刊行か。  
やぶ医竹斎と下僕にらみの介の、京から江戸までの道中記の形をとり、二人の笑話的な行為の描写や名所旧跡の見聞を中心に、狂歌的発想や修辞を生かした文体で書かれた滑稽文学。近世に流行した道中記物の先駆けとなり、以後、模倣作、影響作が続出した。    さいはうへ日々にかよふときくからにけふもほとけのるすにてやある 初句「西方へ」。 
なむやくしるりのつぼぞと思ひしによくよく見ればたこつぼぞかし 瑠璃の壺=藥師如来が手に持つ薬壺。 
あけくれに申すねぶつのじゆずのをのきれてひやく八ぼんなうもなし     
せんたくはひだらひにてやあらふらんとくのりまでもなまぐさきかな    緋盥=女陰の異称。上句、言いがかり的…。 
あのくたらさんみやくさぼだい病者達わがゆくさきにあらせたまへや     
われはただちゑさいかくもいらぬなりつめのあかほどくわほうたまはれ  
五つ六つ七つ八つはしわたりきてすゑは九つとをたうみといふ  
ねぶたやなさよの中山なかなかにあしはいたくてくたびれにけり     
見るがうちにふちはせになる大井川さだめなきよのためしなるらん     
策伝和尚送答控

※日本古典文学大辞典、以下抄出

一巻一冊。狂歌・和歌。安楽庵策伝編。題簽・内題等を欠くため、原題名は不明。「策伝狂歌集」と呼ばれたこともあるが、天理図書館に収蔵後、「送答控」と仮題を付せられた。
     (右に続く)
-日本古典文学大辞典-
【成立】
策伝が書家と行なった贈答歌・狂歌を、相手別に分類し、これに自詠歌をも加えたもので、当初は清書本を意図したが、途中から草稿化し、随意に加筆・抹消を施したもの。年次のわかるものは寛永八年(一六三一)以後、同十二年にわたり、歌数の最も多い年次は寛永十一年。寛永十二年にほぼ出来上り、その後、余白などを利用して書入れと抹消を行い、現形になったものと認められる。
【内容】
歌数は一応六九一首を数えるが重複歌十一を除き、また墨消歌中から新たに再生しうる九首を加えて差引すると、六八九首となる。策伝には一種の蒐集家的性癖があり、笑話を集めて『醒睡笑』を編み、椿の品種を蒐めて『百椿集』を草した。本集もその蒐集癖の結果と見ることができるもので、当時の貴紳・大名・武士・学者・文人・僧俗等、各界の代表的人物多数を含む一二三家との贈答歌を収める。策伝には、ほかに、伊達政宗に献呈した自筆歌集(出口神暁蔵)と、島原松平文庫蔵の写本『近代和歌雑集』(上)とがある。いずれも贈答相手により分けた歌集で、『送答控』の分身と見うる。人物の選択の上で、出口本は貴紳本位、松平文庫本はやや低い僧に重点が置かれている。三本を通じ、策伝の贈答頻度の多い者は、良恕法親王・近衛信尋・烏丸光広・木下長嘯子・小堀遠州・淀屋三郎右衛門・松永貞徳・友庵など。
        〔鈴木棠三〕
   霜月朔日初雪に
ついたちて見れば何やらびらりしやらり花めづらしき雪のふり袖 
安楽庵策伝 初句「つい立ちて」に「朔日(て)」を掛けています。 
   返し
翁さびびらしやら雪のふり袖をさのみもすかは人やとがめん 
木下長嘯子  四句は「然のみも(それほど)す(動詞)かは(反語)」 、そこまでしますか、人が咎めるでしょう。
   霜月上旬小堀遠州へ江戸へ狂歌
うちあひてあそばん物を雪つぶて向かひの岡のほどの遠さよ 
安楽庵策伝  雪合戦をして遊びたいが、向かいの岡とするような遠さは、どうすることもできません。 
   壬申十二月五日つり柿にそへて烏丸殿へ
あまほうし見るからなりもへたくろし恥をかきのきわらはれやせん 
安楽庵策伝 尼法師に「甘」を掛ける。下手くろし=見苦しい(下手に蔕を掛けた)。搔きのき=柿の木。 
    毎編難至謝 御返事
となふればこの身ながらもほとけにて無上菩提のあまほうしなる 
烏丸光広  この身=木の実。 
   同貞徳へ
我がいもにあらぬ物から衣かづきいづちゆけども名残おもはず 
安楽庵策伝  芋に妹。衣被きは里芋をいう女房詞、これに貴婦人が外出する際に顔を隠す衣服の意を掛けた。 
   返し
お僧さまにほりくじられて衣かづき寺から里のいもとこそなれ 
松永貞徳  ほりくじられて=あれこれ詮索されて。芋の擬人化。歌では、もう少しエロチックな空気をまとう。 
   酉十二月廿日雲門にそへて長嘯へ
君が手のいかでかからん肌つきはしろく見ゆれどこもちなりけり 
安楽庵策伝  雲門=銘菓の一種。もち米を白あずきの小倉餡で包んだもの。仏事に用いる。  
   御返し
こもちとて誰かきらはんまる顔にはだつきしろく見めもうつくし 
木下長嘯子 こもち=小餅、これに「子持ち」を掛けた。長嘯子は『四生の歌合』の作者に擬せられる。 
   甲戌八月十九日松茸にそへて烏丸大納言殿へ
秋と吹く風身にしめば朝日まつたけのほるまもほどぞ久しき 
安楽庵策伝 三四句「朝日待つ/だけ上る間も」に「(朝日)松茸(の)掘る(間も)」を重ねた。 
   同八月廿八日素麺にそへて烏丸殿より 使万助
まつたけの笠さしかけて極楽へそろりそろりとわれもまいらん
烏丸光広 結句「われも」の「も」は策伝が説教僧だからでしょう。光広は『職人歌合』の作者に擬せられる。 
   戌の霜月廿三日大仏(餅)をそへて滝本坊へ遣
白妙に雪のはだへをもちながらかちんといへるいろのふかさよ 
安楽庵策伝 三句「持ち」に「餅」を掛ける。四句「かちん」は餅をいう女房詞。結句は容色・容貌が美しいこと。 
   返し
白妙の雪のはだへも是程に人のもちゐておもひつくかは 
惺々翁(松花堂昭乗) 四句「人の用ゐて」に「(人の)餅(て)」を重ねた。但し「餅」の歴史的仮名遣いは「もちひ」。 
   戌霜月廿日に淀ヶ庵よりしびんにそへて
大小の用も使はせよ老いの浪よるはたちゐもくるしとぞきく 
ヶ庵(淀屋个庵を淀の庵、ヶ庵と解した)  溲瓶。大小は大乗と小乗の意か。二句「せよ」は尊敬の助動詞。淀屋三郎右衛門、言当でも登場。
   返し
老いにけりさゆる夜ごとに沖津波ふかき情けをしとしてやねん 
安楽庵策伝  しと=尿。 
   戌の霜月朔日長嘯公へ饅頭にそへて
津の国のただにもあらぬまんぢうや兎角姿は美女御前哉 
安楽庵策伝 上句に「多田満仲(ただのまんじゅう)」(源満仲)を挿入。美女御前は満仲の子、美女丸伝説をいう。 
   御返し
案ずれは佐藤殿ともいひつべしただのまんぢうならぬうまさは
木下長嘯子 「案」に「餡」、「佐藤」に「砂糖」を掛けた。 
   竜泉院へ米にそへて
何事もいひつけ給へとばかりに俵藤太はそれへこそゆけ 
安楽庵策伝 三句「とばかりに」が軽快。俵藤太は藤原秀郷の俗称。米を連想させる名前がよかった。 
   返し
何事も思はず年を打ちこさん俵藤太のちからもとめて 
   
   寛永十二乙亥二月廿九日狩野主馬猿まはしの屏風かけるに
えもいはで過ぎこし主馬の筆を見ればちらぬ花咲く春にあふかな 
安楽庵策伝 1635年。狩野主馬は次の歌から狩野興以(?~1636)とわかる。下句が感銘を伝える。 
   同乙亥三月十四日八景の間かかる時 
八景に一景そへて見つるかなえたりや興以筆の勢ひ
安楽庵策伝  四句に人名を入れているところに注目。 
   甲戌筍にそへて従宗珀
柿色の袴をきたる竹の子の名字をとへは藪の内殿
玉室宗珀 一首とりわけ結句が洒落ています。玉室宗珀(1572~1641)は臨済宗の僧侶、書画で知られた。 
   癸酉五月三日狂歌を笋にそへて
土つけて賤しきそだちはづかしやけふ寺入りをさする竹の子
久世  
   返し
竹の子の寺入りするとしるからにあへてもつてぞ人のあつまる 
安楽庵策伝 四句「あへて以てぞ」(「あえて」を強調していう語)に竹の子を「和えて」を掛けた。 
仁勢物語 【日本大百科全書】
仁勢物語
にせものがたり
仮名草子。作者不詳。上下二巻。1638年(寛永15)から1640年までの成立刊行。書名の「仁勢」(似せ)が示すように流布本『伊勢(いせ)物語』125段のことごとくを逐語的にもじったパロディーである。雅語を俗語に置き換えたり、古典の世界を当時の世相、風俗に絡ませたりするなど、卑俗化することによって滑稽(こっけい)をねらっている。近世古典享受の一面であり、近世人の知性と感覚、機知と諧謔(かいぎゃく)の精神を示したものといえる。広く読まれ、後続の擬物語の系譜に多大な影響を与えた。
[坂巻甲太]
 
起きもせず寝もせで夜も又昼も妙な顔とて眺め暮らしつ おきもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめくらしつ*2段 
おじやるなら筵の上に寝もしなむ肥前瘡には蓋をしつつも 思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも*3段 
面(つら)やあらぬ鼻や昔の鼻ならぬわが身一つは本の身にして 月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして*4段 
男(おの)子子(ご)か何ぞと人の問ひし時鬼と答へて斬りなまし物を 白玉か何ぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを*6段 
駿河なる宇津の山辺の十団子銭が無ければ買はぬなりけり 駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり*9段 
人はいさ笑ひやすらむ我(われ)が面(つら)水ばかり飲みいとど痩せつつ 人はいさ思ひやすらむ玉かづらおもかげにのみいとど見えつつ*21段
腹に飽ける菜飯はいつも食ひしかど今日の花見に煮る米もなし 花にあかぬ嘆きはいつもせしかども今日の今宵は似る時はなし*29段 
飲み明けば限なるべみ羨しげに樽の底にて鳴る音を聞け いでていなばかぎりなるべみともし消ち年経ぬるかと泣く声をきけ*39段 
河豚汁に去年(こぞ)の茄子の香の物あな塩辛し人の心は 吹く風に去年の桜は散らずともあなたのみがたひとの心は*50段 
我が頭は夏の螢にあらねども暮るれば月の光なりけり わが袖は草のいほりにあらねども暮るれば露のやどりなりけり*56段 
荒れにけりあわれ幾つの徳利にもすみけん酒の音だにもせぬ 荒れにけりあはりいく世の宿なれやすみけむ人の訪れもせぬ*58段 
髯生ひて荒れたる面の睡たきはかりにも鬼の姿なりけり むぐら生ひて荒れたる宿のうれたきはかりにも鬼のすだくなりけり*58段 
うち寄りて我が頬髯を抜かませば痛さに面も歪みしものを うちわびておち穂ひろふと聞かませばわれも田づらにゆかましものを*58 
福の神我が身に金をたび給へ貧(ひん)も富みつつ有るべき物を 吹く風にわが身をなさば玉すだれひま求めつつ入るべきものを*64段 
目には見て手には取られぬ月の中の桂のごとき金にぞ有ける 目には見て手にはとられぬ月のうちの桂のごとき君にぞありける*73段 
世の中に絶へて妻子の無かりせば今の心はのどけからまし 世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし*82段 
死ねばこそいとど妻子はめでたけれ憂世に誰か久に生くべき 散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき*82段 
ちくちくと木末に春も成ぬれば疱瘡(もがさ)で鼻も根から散りけり 千々の秋ひとつの春にむかはめや紅葉も花もともにこそ散れ*94段 
鼠戸の銭をば許せ真平(まつぴら)に嫌と云ふとも入り参らする 寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな*103 
古(いにしへ)は有もやしけん今は無し鼠の猫を齧(かぶ)るものとは いにしへはありもやしけむいまぞしるまだ見ぬ人を恋ふるものとは*111 
波間にて釣れる鱸(すずき)の浜塩は秋風ならぬ君に参らす 波間より見ゆる小島のはまびさし久しくなりぬ君にあひ見で*116段 
むつかしと平家も知らず三味線も琵琶も小歌もいかで過(すぎ)てき むつましと君はしら浪みづがきの久しき世よりいはひそめてき*117段 
終に行く道には金もいらじかと昨日経読む僧に呉れしを つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを*125段 
かさぬ草紙 『日本古典文学大辞典』(岩波書店)並びにジャパンナレッジで検索しても項目としての『かさぬ草紙』は出てきません。また編者。成立について解説した文章にも出合いませんでした。  びんぼうの神も出雲へましまさば十月ばかりたのしからまし ぶりやくしたる人  
我よぶに人のよばぬがあらばこそ人のよばぬは我よばぬなり 連歌師  
どんよくをすてよといふて捨てさせてあとより立ちてひろふ上人 ある人  
おしゆるとまことの道はよもゆかじわれみてたにもまよふ心を  
成仏は一念弥陀と聞く物を百万返はむやくなりけり 一休  
木をきざみ筆にかくをばみだはみつかかずきざまぬ弥陀ををしへよ 太閤  
皆人はしするしするといひけれどさいぎやう斗いき留りけり 西行  
しやかといふいたづら物が世に出でておほくの人をまよはするかな 一休  
我はただ知恵才覚もいらぬなりつめのあかほどくわほうたまはれ さるもの  
理(ことわ)りやいかでかしかのなかざらんこよひばかりのいのちとおもへば 和泉式部  
むさし野にへたの碁うちがあつまりてしんたともいふしなぬともいふ さるうつけもの  
きんちゆうにせつちんはなし大弁や小べんたちはなにとなさらん 勝熊  
さためなき世にもわかきはたのみ有りとにもかくにもおひが身ぞうき 家隆  
とにかくにおひはあまたの年もへつ さためなき世にわかきみそうき 定家  
そらずとも心のうちはすみ衣かうべのうへはとにもかくにも 純蔵主  
しら鷺かなにぞと人のとひし時露とこたへてきりなまし物を 細川玄旨  
しらみ子の身のゆくすゑを尋ねればつめのさきこそはかどころなれ ある人  
のみしらみつめのうへにてなく泪つもりつもりてふちと成けり ある人  
のみしらみ声ふり立てて鳴くならばわがふところはむかし野のはら ある人 結句「むさしの」ではなく「むかしの」、? 
寛永以前落首         後太平記九
   大坂門跡信長方より近く詰めの城まで攻め込まれ念仏の息短くナマ鯛ナマ鯛と唱へたれば
一向に仏の御名もなまくさしとなふ念仏なまだいとなる
    一向宗の門徒鯛を阿弥陀魚といへるとて喜びけるとなり 
   
    鎌倉管領九代記六 政氏の条
   三浦義意が首三年まで不死駿州久能の総世寺の禅僧首の傍らに一夜坐禅して一首の歌を詠みしかば忽ち肉ただれて白骨となれりとぞ
うつつとも夢ともしらぬ一眠り浮世のひまを明ぼのの空
    ※四句は「浮世の今を」か?
【日本人名大辞典】 三浦義意 みうら-よしおき 1496−1516 戦国時代の武将。明応5年生まれ。三浦義同(よしあつ)の子。相模(さがみ)(神奈川県)新井城主。北条早雲の相模侵攻に抵抗し,父とともに籠城(ろうじょう)。永正(えいしょう)13年7月11日自決。21歳。身長2m余,85人力とつたえられる。通称は荒次郎。 
    文禄清談
   命松丸楠正行が墓にて
楠が跡の印をきてみればまことに石なりにけるかな 
鈴木棠三編『落首辞典』は出典を『塵塚物語一』として解説。命松丸(みょうまつまる)の談として「くすの木帯刀正行がはか所に石塔を立てたる其のまへに、いかなるものかしたりけん、書きつけて侍る」。 
    武家盛哀記三
   一万石 島左近允勝猛
治部少に過ぎたる物が二つあり島の左近に佐和山の城 
島清興 しま-きよおき ?−1600 もと筒井順慶の臣。石田三成の参謀。文禄の役にしたがう。関ケ原の戦いでは,先鋒として西軍の士気を鼓舞したが,慶長5年9月15日戦死。通称は左近。名は別に勝猛。 
百物語

【日本大百科全書】
仮名草子(咄本(はなしぼん))。二巻二冊。編者未詳。1659年(万治2)刊。「百物語をすればかならずこはき物あらはれ出る」と聞いて百物語をしてみたが、太平の御代(みよ)に恐いものなどは現れぬと大笑いした、という序のもとに、100の笑話を集録した作品。

以下、右へ。
 宗鑑や一休、策彦(さくげん)、紹巴(じょうは)、宗祇(そうぎ)、貞徳などの著名人を登場させて読者の興をひく話、狂歌や付句(つけく)のおかしみをねらった話、落ちのおもしろさをねらった話などが雑纂(ざっさん)的に並列されているが、中世末から近世初頭の時代風潮を反映した話も少なくない。『きのふはけふの物語』や『醒睡笑(せいすいしょう)』ほどの影響力はもたないにしても、それらとともに、近世を通じて流行する笑話本の先駆けをなしたものとして注目される作品の一つである。 [谷脇理史] こころこそこころまよはすこころなれ心にこころこころゆるすな     
絵にうつし木にきさめるもみだは弥陀かかずきざまぬ弥陀はいづくぞ ある人  
なむとただとなふる人のこころこそかかずきざまぬそのままの弥陀 遊行上人  
一つある心をしらでみな人のしどろもどろに物をこそ思へ  弘法大師            
二つともあらざるものをなどさればみがきてもみよちゑのかがみを   
三宝にいのらぬとてもみな人の心のをにのつのををとせよ   
四大とて地水火風をかりあつめかへさずとてもかへるおほぞら   
五躰とてかりに此の世にあらはれて出づるも入るもたれかしるらむ   
六道とおもふこころはまよひなりおもはぬもまたまよひなりけり   
七仏の世に出でざりしそのさきはただやみの夜に音も香もなし  釈迦と、その以前にこの世に現れたという仏。 
八万の諸経をとくはなにならむただ一すぢの道をしへなり  八万は八万四千の略、初二句で八万聖教の意。
九ゆるとも今はかなはじむまれきてかならずしするならひある世を  初句「悔ゆるとも」。 
十あくをのぞくこころのなかりせば一時の間もごくらくはなし  四句「ひとときのまも」。 
露の身をあらしの山にをきながら世にありがほのけぶり立つかな  尊氏   
隠居してこころをすますものならばにごりざけをばいかにのむらむ 尊氏  
隠居してのむべきものはにごりざけとても此のよにすむ身ではなし 夢窓  
三三にたばこのはいをふきちらしやけねどたたみむさくなりけり ある人 初句「散々に」。数え歌の中の三首目。 
一休ばなし 【日本国語大辞典】
江戸前期の咄本。四巻四冊。作者未詳。寛文八年(一六六八)刊。一休宗純和尚を主人公とした狂歌咄集。当時流布していた、一休俗伝中の奇行を集めて好評を博し、以後一休を主人公とする咄本が多く生まれた。
有漏路より無漏路へかへる一休み雨ふらばふれ風ふかばふけ  
なにをがなまいらせたくはおもへども達磨宗には一物(もつ)もなし     
一物もなきをたまはるこころこそ本来空の妙味なりけり  親当   
生れては死ぬるなりけりをしなべてしやかもだまもねこもしやくしも  
しら露のおのがすがたはそのままに紅葉にをけばくれなゐの玉  
仏法はなべのさかやき石のひげ絵にかく竹のともずれの声     
よの中はくふてはこしてねておきてさてそののちは死ぬるばかりよ  
我のみかしやかも達磨もあらかんも此の君ゆへに身をやつしけり  
にくげなき此のしやれかうべあなかしこ目出度くかしくこれよりはなし     
私可多咄     【日本国語大辞典】
江戸前期の咄本。五巻四冊。中川喜雲作、菱川師宣画。万治二年(一六五九)刊。冒頭に「むかし」「昔々」を冠した、短編笑話集。笑いのみを指向し、軽口本の先駆的な作品である。万治二年版は所在不明で、寛文一一年(一六七一)版のみ現存。    
人は武士はしらは檜魚は鯛きぬはこうばい花はみよしの  読人不知  
はなもはもさそふなあたらふくあらしにほひばかりはおしからずかし  ていとく   
きのふといひけふとくらしてあすか川ながれてはやき質に置きけり  喜雲父   
世の中は何かつねなるあすか川きのふのしちぞけふは銭に成る  伏見の奉行   
あだにだに思ふかたにぞなびきける扇の風も人の心も  扈従   
しる人にひけらかしてもよき物は軍場(いくさば)でとる大将のくび  
酌人(しやくにん)のめもとに塩がこぼるれば手もとの酒はしづくなりけり  咄の者   
もろこしの宰予は昼もねぶりけりせめて予斎はゆるし給はれ  咄のもの  宰予は孔子の弟子、予宰にすると予斎。 
つつゐづつ井筒にかけしろくろ縄負ひにけらしな身も見ざるまに    作品からは縊死体が思われますが…。 
くらべこしふり分けがみの肩ぐるま君ならずして誰かあぐへき  遊女  幼なじみの君に身請けを、の読みは甘い?
狂歌咄

浅井了意とは?
【デジタル大辞泉】
江戸前期の仮名草子作者。浄土真宗の僧侶、唱導家としても活躍。松雲・瓢水子などの別号がある。多数の仏教書の他に、仮名草子三十余部を著したが、中国の怪異小説「剪燈新話(せんとうしんわ)」などを翻案した「御伽婢子(おとぎぼうこ)」、浮世房の一代記の形をとって現実社会を批判風刺する「浮世物語」などが代表作。享年は八十歳前後と推定される。生年未詳、元祿四年(一六九一)没。  
【日本古典文学大辞典】
五巻五冊または三冊。仮名草子。浅井了意作。寛文十二年(一六七二)鈴木権右衛門刊。【内容】狂歌説話。柿本人麻呂・紀貫之から細川幽斎・紹巴に至る人々の狂歌(和歌・俳諧を含む)にかかわる咄を集めてある。無名の人物や、主人公を特定しない場合も多い。総数一六〇話。中世から近世にかけて盛んになってきた狂歌咄を、この書に集成しようとする意図が感じられる。しかし、中には、地名を中心にして記述し、狂歌を配した、名所記風の箇所もある。先行書との関係では、『遠近草』と極めて多くの狂歌及び咄が共通している。とは言え、人名や狂歌の詞にまま異同が見られ、現存の『遠近草』から直接に取り入れたものとは考えられない。その異本として位置づけ得る未知の一書を中心に据え、他書を参看して、了意が新たに編んだものであろう。〔髙橋喜一〕
     -以上、抄出-   
なき跡のしるしの塚に立ちよりて和泉しきみの花をたむくる     
うらやましこゑもおしまぬのら猫の心のままに恋をするかな  定家   
蛛(くも)だにもすゆるやい火に声はせずいかにわびしきいぬのながなき 平俊方  
神風も心してふけ伊勢ざくらはなのさかりをあだにちらすな     
桜さくこすゑをたかくふりあけて みるは鼻毛のなかき春の日 花のあるじ  
今もその名に流れたる紙屋川かきやる物は芥のみして    四句「搔きやる」に「書きやる」を掛けた。 
世をそむく身は谷川の蟹なれや横大路をもよこばしりして  ある人   
身は更にいやしけれ共心には人をへだてぬほとけもぞある  乞食   
いにしへの花のさかりも時過ぎて今はくち木にすがる蓑虫 乞食  
哀れなり夜はに捨子の啼きやむは親にそひねの夢やみるらん 赤染衛門  
とんつはねつ流れにそふてのぼり鮎汲みてぞしるき数おほゐ川  
戸奈瀬よりながすにしきのきれぎれは時雨に染めし木の葉也けり    京都府綾部市戸奈瀬町、由良川が流れる。 
商(あき)人の空せいもんやいつはりのかうべにやどる神も在りけり     
弥陀頼む来迎往生同じくはのばさせたまへをそからぬこと     
汗水に成りて世渡る人の身の夏の虱は浮(うい)つしづみつ  
冬ごもる布子の綿にすむ虱雪のごとくにしらけてぞふす     
人を喰ふことより外はいざしらみいきぢく生のはてといふべき    三句「知ら」を掛ける。生畜生の「生」は接頭語。 
血まじりにころし捨てたる虱こそさながら修羅の巷也けれ  
五月雨や龍の鱗(いろこ)にわく虱つれて諸友(もろとも)天に上れり  
いつはりを恥ともしらて売る牛の皮よりあつき顔の皮かな ある人  
とにかくにわかきは年のたのみあり定まりつめし老いが身ぞうき  親   
とにかくに老いはあまたの年を経ぬ定めなき世に若き身ぞうき  むすこ   
一休関東咄

 作者不詳
 1672年刊
 【日本古典文学大辞典】
*狂歌咄を主体とした一休宗純和尚の逸話三十八話を収めたもので、最後の一話は一休作と称する狂詩十七詩を収める。 
村雨はただ一ときの物ぞかしをのがみのかさそこにぬぎをけ  みねのやくし   序文によると、『一休咄』には関東での物語が稀なので、「いつわりまじりのむかし物語、筆にまかせかきつづり侍る」とあるように、一休伝説として伝わっていた咄を集めたものではなく、全くの創作や、一休説話ではない先行説話を一休説話に仕立て直したものである。〔岡雅彦〕 -以上、抄出- 
花はねに鳥はふるすにかへれども 人はわかきにかへる事なし
春ごとに咲くや吉野の山桜木をわりて見よ花のあるかは
山居して心すますと聞きつるににごり酒をばいかでのむらん 或人
山居してのむべき物はにごり酒とても浮世にすむ身でもなし
一休諸国物語

 1672年頃
【日本古典文学大辞典】
以下「一休宗純」より抄出
※一休は自ら風狂の狂客と称していたが、(右へ) 
女をば法のみくらといふぞ実(げ)にしやかもだるまも出づる玉門 後世文学の題材ともなり、噺本『一休咄』『一休関東噺』、仮名草紙『一休諸国物語』などが作られた。 
たからともならぬたからは彦八が持ちたるかねは我が身きんたま
何事も見ざるいはざるきかざるはただほとけにはまさるなりけり
へつらひてたのしきよりもへつらはでまづしき身こそ心やすけれ
秋の夜の友

 噺本    
刊行 1677年   わが世帯あがる雲雀のごとくにてさがることこそ矢よりはやけれ  
びんぼうの神もおなじくねいるらんわがみるゆめは夢もわびしき     
我がうへに露ぞをくなるあまの川とわたるふねのかいのしづくか     
足引の山鳥の尾のしだり尾のながながしくも牢人をして    牢人=浪人 
あまが崎ふりさけみればかすか成りうみのとなりにたてし城かも     
杉楊枝

六巻六冊。仮名草紙。野本道元作。延宝八年(一六八〇)江戸林文蔵刊。題名は杉楊枝を使う時葉をむき出すように、この軽口も読者が笑って歯をむき出させる意からの命名という。

以上、『日本古典文学大辞典』より引用。以下、右に抄出。  
一休和尚と竹斎を主人公として、多くの狂歌を交えて滑稽的行動を描く。六巻に二十四の小題を立て、それぞれは一応の完結性を持つ。中には二度にわたる咄もある。それらの話はほとんど京を舞台とするが、中に一休・竹斎同道による関東下向や諸国廻りの話も二、三ある。序文に『一休咄』や『竹斎物語』の書名を出すが、両書のみならず『一休関東咄』『一休諸国物語』の影響も受けている。有名古歌を本歌取りにした狂歌を多数収めている点では『ひとり笑』に類似する。
         〔岡雅彦〕 
越中は雪国なればさりとてはふどしにしてもひえわたるかな 竹斎  
大ざけのあげくはしどもどりみちあしよはぐるまころびてぞ行(ゆ)く  一休   
人ごとになしありのみとへだつれど○(くう)にふたつのあぢはひもなし  一休  記号挿入歌 
山伏がやまのなりしたものをきて貝吹くときんぞあきのみねいり    二句、口頭語。四句「時」と「頭巾」。 
   けつかう人
あふときはまづうなづきし野辺の草ぐなりぐなりとかぜにまかせて 
竹斎  
   けいはく人
ふしもなきやなぎの糸のめをほそめくる人ごとにわらひかからん
竹斎  
   女中
丸かれやただまるかれや人ごころかどのあるにはもののかかるに
竹斎  
   りくつもの
丸くともひとかどあれや人ごころあまりまろきはころびやすきに 
竹斎   
   うそつき
むつかしきうき世をわたる丸木ばしぐれりぐれりにむずおれはせず 
竹斎  むず折れる=力を加えないで折れる。たやすく折れる。 
   つゐせうもの
とにかくにおかたじけなや御もつともおまへさまにておがむ仏気(ほとけぎ) 
竹斎  二句、御忝い=感謝の気持を表わす語。ありがたい。『日本国語大辞典』では方言とある。 
   述懐人
すぐなるはまづきりたをすそまやまのゆがむはのこるうき世なりけり
竹斎  
   ぶしやうもの
人はげにみづへなけたるひやうたんのぬらりくらりにながれゆくとし
竹斎  
新竹斎

 浮世草紙
作者 西村市郎右衛門
    (俳人、未達)
刊年 1729年 
いだてんに口の過ぎたるあまのじやくおがむもおかしふまれての上     
あまのじやくふまるるとても口計りはたたきかへしてまけぬ也けり     
五つ六つ七つ八橋見渡すはここのつゐでのとをりがけ哉 「ここのつ(ゐでの)」「とを(りがけ哉)」 
地誌所載狂歌抄 出来斎京土産

  1677年刊  
   多武杜(たぶのもり)
唐(もろこし)に渡るは易しから橋のあたりに近き多武の杜まで 
  【日本古典文学大辞典】
出来斎京土産。七巻七冊。地誌。浅井了意著、吉田半兵衛画。延宝五年(一六七七)正月、京都磯田平兵衛刊。従来、著者不明とされていたが、了意の『京雀』の文章の流用が随所にみえ、名所の配列も同著によった形跡が認められるので、了意の著と確認された。【内容】洛中洛外二七七か所の名所案内。挿画五十九図。実を写さず、資料としての価値は低い。生鉄の純太郎、発心して出来斎坊と名のり、諸国行脚を志して京に上る。名所を巡って狂歌をよむ趣向は『京童』の亜流である。なお、以後、京名所記としては、かかる戯文調は次第に行われなくなった。
                      〔矢野貫一〕

以上、抄出。 
   冥土
心せよここは六道の辻と聞くふみたがへつつゆくな冥土へ 
 
   耳塚
故郷をきかまほしくや思ふらんそのから人の耳づかの耳 
 
   鞍馬
僧正が谷に嵐の吹き落ちて木の葉天狗やとんでちるらん 
 
   暗部山(くらぶやま)
夕べこゆるみちづれなれや暗部山ともす燐火(きつねび)をくり狼 
 
   小督桜(こごうのさくら)
小督桜ちりて流るる大井川さぞなむかしの花のすがたは 
 
   神南備杜(かみなびのもり)
神なびの森の嵐にちりまがふ木の葉とみゆるむら雀かな 
 
   宇治川
きて見れば昼は藍染(あゐぞめ)宇治の川夜るは蛍のひだりめんかな 
(結句、緋縮緬) 
有馬私雨
  1672年跋刊 
湯の山のゆげたをはきて左にはひさく持ちつつ右に手拭ひ  友信  湯の山=有馬温泉の古称、湯下駄、柄杓。 
   湯治の内に歌の点望む人ありしがよろしからぬ巻なりけるを思ひて
昔よりきとく有馬の湯ときけど腰おれ歌はなをらざりけり 
実隆公  二句「奇特有馬の」。 
有馬大鑑迎湯抄
  1678年刊 
   落葉山
真白な雪に跡つけ問ひ来るはなげきの山の中のよろこび
愛好  
   車瀬橋
山川の風にもまるる螢火のくるりくるりと車せのはし
光重  
河内鑑名所記
  1679年刊 
   六万寺 岩滝山往生院
寺内なる往生院のざくろの実六万つぶもあらんと思ふ
意朔  
古郷帰の江戸咄
  1687年刊 
   吉原傾城町
ほのぼのとあげやを出でて今朝(けさ)がへり名残をしよりかね惜しぞ思ふ
 
諸国落首咄

五巻五冊。噺本。作者不詳。元禄十一年(一六九八)京書林刊。【内容】八十八の狂歌咄を収める。書名に「諸国」とあるが、ほとんど京を舞台とする咄であり、諸国の咄は十話に満たない。

※右へ続く。    
露程なる人物が本書の作者である可能性がある。露程が自作の狂歌咄に仲間の俳諧師や狂歌師の狂歌咄を交えて一書にしたものであったか。本書の狂歌咄の特色は『醒睡笑』や『新撰狂歌集』その他の近世初期の諸書に見えるような伝承された狂歌咄では全くなく、元禄当時の新作の狂歌咄である。
         〔岡雅彦〕
以上『日本古典文学大辞典』より抄出。    
仏には立像座像ねはんぞう人にきねぞう木ぞう豆ぞう  露程   
足高くさしあげてみればふじさんり八卦(けい)にます十四けいらく  さる人  ~風市・三里八卦に増す十四経絡 
丸びたい二八にたらぬ月のかほお名は望月三五郎どの  露程  丸額。二句=十五。結句=三五、十五(夜) 
そろそろと我は仏にあたまからなりかかるやらひかりこそすれ 五十歳あまりの人  
見わたせば柳馬場(やなぎばんば)ともへあがり京は火のこのにしきなりけり     
りんどうの花を一枝おりもちてまいるこころは嵯峨のほうりん  公家衆のちご  結句、嵯峨法輪寺。 
りんりんと小ぞりにそつた小長刀(なぎなた)一ふりふればてきはおぢりん  侍の子  二句と四句、はっきりと話し言葉です。 
りんりんと小ぞりにそつた赤いはし七疋くへばはらはぼちりん  百姓の子  二句、話し言葉。三句「赤鰯」。 
手こ引きをやめでうきめにあふさかやそうせんゆへに丹波(ば)ごへした  所の人  丸ごと話し言葉。丹波越えは駆け落ち、逃亡。 
御法度としりてばくちをうつけ共はじめ銭掛け後は首かけ    三句「(博奕を)打つ」と「虚けども」。 
狂げんの其のあたりさまの上手とて都座のものいかいじまんだ    結句「いかい自慢だ」。 
三貫やあまの川原ににせがでた其の手くはぬぞあまひことあまひこと    三句と結句「あまいこと~」、口頭語。 
鸚鵡籠中記落首抄

【国史大辞典】
名古屋藩士朝日重章(定右衛門)の日記。三十七冊。貞享元年(一六八四)八月二十九日から享保二年(一七一七)十二月末日まで三十四年間にわたっているが、元禄四年(一六九一)六月十三日以前は父の留書などで補遺している。書名は鸚鵡の口真似のように、あらゆる見聞をそのまま書いたという意味らしい。

※右へ続く
【国史大辞典】
内容は、あまりにも詳細かつ多方面にわたり、しかも赤裸々に記されている。一日中の天気の移り変りをはじめ、藩主・大奥の秘事、藩士生活の実態、町人の生活苦など、時代世相を生々とつたえ、その範囲も重大事件ともなれば三都はもとより他藩にまで及び、当時の一大史料である。一個人の日記としては、あまりにも多角的であり、二、三の人々に資料を仰いだらしい。裏面問題や秘事も多いため、絶家の際に流布する危険を恐れて藩の秘庫に納められ、そのまま徳川林政史研究所に蔵されていたが、昭和四十年(一九六五)―四十四年に『名古屋叢書』続編九―一二に収録して刊行された。 [参考文献]加賀樹芝朗「天野信景と鸚鵡籠中記の筆記」(名古屋郷土文化会『郷土文化』二一ノ二) (小島 広次)
   〔元禄十一・三〕今日廻状来る。(後略)
にごり酒けふより鬚につくまいぞ左様でごはりごはります故 
   
   〔元禄十五・七〕(略)
西陣之織屋女一位織尾張之姫がおらばなるまひ 
  上句は桂昌院。尾張の姫は家光の長女。出自からしても破格であった。『落首辞典』参照。 
   〔宝永二・閏四〕狂詠 御参宮百人一首
菅笠の白きを見ればぬけ参り渡せる橋も銭をとられず 
   
   〔宝永五・閏正〕(後略)
おふじさま雪の肌へに火とまりて小ふじをうんで御代は万年
   
   少今集
風さそふ姉が小路の火元よりふり行くものは火のこなりけり 
   
    同
三芳野の山の春風火事出でてはやがね早く火消し打つなり 
   
    同
南風雲のかよひ路吹きとぢよ禁裡の姿しばしとどめん 
   
    同
是やこの行くも帰るも焼き出されしるもしらぬも丸やけの京 
   
    同
四条より二条あたりを見渡せば都は春のこじきなりけり 
   
    同
見渡せばやなみすらりとこもかけて都は春の乞食なりけり 
   
   三猿 見ざる
世の中は其時々のさばきにて行末のことは見ざるものを
井伊
   三猿 きかざる
何事も御為御為とせこいれて世のつまるとはきかざるものを
御勘定方 勢子(せこ)を入れる=励む。詰まる=決着がつく、筋が通る。 
   三猿 いわざる
心にはどふかこふかと思へども器量なければいわざるものを
御老中  
金銀も民の竈の売餅も国のあるじもちいそこそなれ  
狂遊集

 ※狂歌絵本 
著者 夢丸編
跋文 寛文9(1669)年  
きみならで誰にか見せんねいり花いびきも皃もしる人ぞしる 高瀬梅盛 解題に「本文は、まず古歌一首を挙げて、それを本歌とする俳諧発句と狂歌を挙げる、という構成になっている」とある。狂歌36首中17首が高瀬梅盛(1619~1702?)の作品である。 
ちちをだにすはせんと思ふおもひ子やいもとわがぬるとこのさむしろ  竹井常久 
のごへどもかくれぬものは夏衣身よりあまれる汗にぬれけり 大八木正令
我が庵は都のたつみあがりにて世を宇治山は雨といふ也  高瀬梅盛 
古今狂歌仙

 ※狂歌絵本  
著者 愛香軒睋鼻子編
刊記 延宝7(1679)年

解題に「本書の板下は岡西惟中の筆蹟の特徴をあらわしているので、編者愛香軒睋鼻子は、その匿名かもしれない」とある。 

36歌仙中
左首座  雄長老
右首座  豊蔵坊信海
右17坐  貞柳(26歳)
右18坐  卜養  
つぼのうちにつくりをきたる菊の酒くちをひらけfば花の香ぞする  雄長老  豊蔵坊信海
~その史的ポジション、惟中より貞柳へ~



銀山寺(大阪市天王寺区生玉町6-2)

岡西惟中の墓訪問記
君とわがつれぶきにする尺八はこれぞうき世の中の落あ弥  法橋由己 
三国の山の中でもふじはきやらじやあのそらだきのけぶり見るにも  豊蔵坊信海 
かしまししこのさと過ぎよほととぎす宮古のうつけいかに待つらむ  山崎宗鑑 
つくりをくつみがしゆみほどあるならば焔魔のちやうにつき所なし  東海一休和尚 
いにしへのよろひにかはるかみこさへ風のゐる矢は通さざりけり 蓮生
しはん坊三井の古寺かねはあれど野郎をかへる声はきこえず  一時軒惟中 
こころにはおもひますれどまごの身にてきみおちよとはえ申さずそろ 嶋久清
火で候かいや火にあらず高野山たにみづこえてほたるとぶなり 正法寺成安
菓子にころもかけまくもさてかたじけな三輪のしるしの杉重のうち  珍菓亭言因
このたぐひあるものでない過去未来げんざへもんが舞のなりふり  半井卜養 
貞徳狂歌集

 ※狂歌絵本        
著者 不明
画者 菱川吉兵衛(師宣)
刊記 天和2(1682)年          
くさや木はうれしかるらん春雨のもりてつらきはふる家のぬし   森川昭氏は「『貞徳狂歌集』は仮託の偽書である」(『日本古典文学大辞典』)としている。         
さく梅のにほひを四方八方へわがものにしておくる春風 
冬ごとにあられこぼして天ぢくのくはしぶくろをやほころばすらん 
七夕はこよひゆるりと大空のひろきざしきにねどころやせん 
さけならでなにあたためん冬きぬとおもふこころのうちのさむさを 
にわのおものながめはたまりやせんじちやのあわのごとくにふりかかるゆき 
おかぐらのはやしにかけてしあわせもようなるふゑやたいこなるらん 
我が恋をかなへてたべとあらたなる神にいのりをかくるかねのを 
こひしやなときともすればりんきしてふつつふられしむかしおもへば 
狂歌五十人一首

 ※狂歌絵本 
著者 珍菓亭
    (珍菓亭言因、
    鯛屋貞柳)
刊記 享保6(1721)年 
神子(みこ)たちのかぐらにはけふ唐の土更におもてはしろじろとして  雄長老  『五十人一首』(国立国会図書館デジタルコレクション)

豊蔵坊信海
~その史的ポジション、惟中より貞柳へ~


※貞柳68歳、50人の中に貞柳の名前を見出せません。      
行衛しらぬ時しらぬとてしら雪をひつかぶりふるふじのいただき  豊蔵坊信海 
世をうしとひつこみ思案する人はそうふのわるき生れつきかな  半井卜養 
借銭も病もちくとある物をものもたぬ身と誰かいふらん 松永貞徳
君が代は千代にやちよにさざいにしころころころと苔のむすまで  惟中 
かしましや此里過よほととぎすみやこのうつけいかに待らん 山崎宗鑑
碁なりせばかうをも立て生べきを死ぬるみちには手母なかりけり 本因坊算砂
双六のさいとなりても鹿の角はつゐにこひめのあふ事もなし 良忠
人は城ひとは石垣人は堀情はみかたあだは敵也 信玄
絵本御伽品鏡

 ※狂歌絵本
画者 長谷川光信
狂歌 鯛屋貞柳
刊記 享保15(1730)年 
我が宿は御堂のまへの菓子所油煙斎とも人はいふなり  御堂前鯛屋/28コマ  『絵本御伽品鏡』(国立国会図書館デジタルコレクション)※26コマからです。


絵と歌のコラボレーションです。 
やよ螢哀とおもへ客に無心いわぬ女郎の胸の思ひを 螢売/45コマ
じいやばば参ル柳の道場へ枝(つへ)にすがるやきりよくなふして  柳の道場/49コマ 
三味線の音はてんつく天神の祭り見にとて続く御座舟  遊山舟/50コマ 
沙魚釣てすぐに料理の舟の中は客に火吹(く)竹ふく物もあり 沙魚釣舟/50コマ
はだかてもさむそうにない行人はいくつ重ねて酒やきてゐる 百日行人/51コマ


カウンター

私の五句三十一音詩史 夫木和歌抄と狂歌 狂歌とは何か~上方狂歌を中心として~
いわゆる天明狂歌と少女のいる風景  浅草寺絵馬事件~一本亭芙蓉花と大田南畝~  近代短歌と機知 
   ス  ラ  イ  ド  シ  ョ  ー
 用語論~鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない~

 

狂歌とは何か、youtubeなら3分35秒、見え方が少し異なります

用語論~矮小化された近世の狂歌すなわち「上方狂歌」の名称について~


  
用語論~文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ~

 

  現代語短歌のすすめ、YouTubeなら3分15秒、見え方が少し異なります。
  
狂歌と天明狂歌
俳諧の連歌の発句は五七五
後発の川柳も五七五
しかし俳諧と川柳の軌道が
接近することはなかった

狂歌は五七五七七
後発の天明狂歌も五七五七七
しかし狂歌と天明狂歌の軌道が
接近することもなかった

俳諧と狂歌の軌道は接近し
ときに交わることがあった
鯛屋貞柳と西山宗因
貞柳を信奉した
一本亭芙蓉花なら蕪村

朱楽菅江は川柳も作っていたらしいが
俳諧と天明狂歌の関係はどうだったのだろう
国語辞典で「天明調」を引くと
俳諧の頽廃俗化を嘆く、から
蕪村らの
清新にして壮麗な
云々が出てくる

五句三十一音詩としての狂歌と
戯作文学としての天明狂歌

片や
八雲立つ
出雲八重垣の時代から
受け継がれてきた詩型であり
片や
鳥がなくあづまぶりはわづかにはたとせばかりこのかた
しかも線香花火に終わった詩型

その差は発句と川柳以上に大きかったようである