狂歌大観33人集by吉岡生夫


狂歌逍遙録  狂歌大観(参考篇)作品抄  「近世上方狂歌叢書」50人集 江戸狂歌本撰集 夫木和歌抄の歌人たち 狂歌史年表  YouTube講座 


目   次
あ行  愛宗  池田正式 石田未得  雪縁斎一好  正親町公通 
か行  黒田月洞軒  さ行  斎藤満永 三条西公条 重勝
重勝妻 潤甫周玉 如竹 甚久法師  生白庵行風 た行
太女  鯛屋貞柳 常女  貞因  貞富  な行 
永井走帆  半井卜養  猶影 入安  は行 伯水 
藤本由己  方碩 豊蔵坊信海 細川忠興  ま行 松永貞徳 
水谷李郷 塘潘山堂百子 や行 雄長老  ら行 栗柯亭木端


  私の視点
 1  五句三十一音の定型詩は名称を変えつつ時代の波をくぐり抜けてきた。そこには先行する五句三十一音詩の衰退があり、それを受けた復活劇があった。狂歌も、その例外ではなかった。  
 2  前項で得られた五句三十一音詩史に日本語の歴史を重ねることによって、近世の狂歌人の仕事の全貌また本質が見えてくる。※近世の和歌は書き言葉(古代語)、共通語だったが前時代的かつ識字率の内側にあった。一方で狂歌は話し言葉(近代語)を導入、時代に適合したが方言のゆえに非共通語だった。それを均した応援隊が歌謡であったろう。 
 3  総括すれば、次のようになる。

『万葉集』の短歌は言語体、『古今和歌集』の和歌は言文一致体、言文二途の近世は言語体の狂歌に対して和歌は文語体、歌の原点を継承したのは名称の異なる狂歌であった。系譜でいえば半井卜養・豊蔵坊信海・黒田月洞軒・鯛屋貞柳・栗柯亭木端・仙果亭嘉栗となろう。通史的には和歌が否定した幻の短歌史、和歌史寄りなら柿本の和歌に対して栗本の狂歌となる。いわゆる天明狂歌とは時の戯作文学が生んだ異端の花であった。
 今後は言文一致歌を軸に据えた近現代短歌史の構築が喫緊の課題となろう。

 未来は待ってくれない。  


 甦れ!五句三十一音詩
 
① 古今和歌集(10世紀)の五七五七七=日常語
② 古典語歌人(21世紀)の五七五七七=非日常語
③ 現代語歌人(21世紀)の五七五七七=日常語

∴ ① ≠ ②
   ①=③  

歌の原初から江戸時代の近代語さらには明治の言文一致運動を顧みるとき、甦れ!五七五七七、歌を滅亡から救うものがあるとするならは、日常語以外に何があるというのか。 
 



狂歌逍遙 第1巻 狂歌大観を読む 
区分 歌人名(等) 作品(括弧内の数字は『狂歌逍遙』第1巻の回数) 参考 
あ行 岸田愛宗(生没年不詳)
『銀葉夷歌集』(1676年)に55首入集。作者之目録に「摂州 大坂并所々」。
夏の夜はとにつけかくうにつけてしも団(うちわ)社(こそ)よきつかひ物なれ(79)
卯の年の卯の月卯の日卯の時にうけに入るこそうれしかりけれ(83)
まてといひて又くることのならぬとはやらめいわくの糸ふしんなり(84)
ひねつてもきかずかるたをうつけたら切つてすてふぞづんとたしなめ(89)
打つ音もこちかちとなる碁の石のめをさますほど切り合ひにけり(89)
食の時よしの漆のぬり箸ははなの下へのあんないしや哉(89)
葉たばこを給はりたりし御礼は貴面のきざみ申すべくそろ(90)
算用をしるもしらぬもをしなべてしに天作の五りんとぞなる(92)
宝鐸の風にゆらるる音迄もがらんがらんとなるぞたうとき(93)
 
池田正式(いけだまさのり)(?~一六七二頃)
 大和郡山藩士、のちに浪人。入水自殺という。

【著作等】
『堀川百首題狂歌合』
『堀川狂歌集』(1671年)
地頭殿のお手さくの田を先づうへてまいらせ尻にならふさをとめ(43)
またぐらやいとどぬまぬまぬまづかんふけたのさなへとれるさをとめ(43)
時鳥鳴きつる方をながむればただあきれたるつらぞのこれる(43)
いんぢするつぶてにあたるあたまよりたらりたらりとちをあやめ草(43)
夏はらひしてもうき身はうらめしのうへにあつまるはいに社(こそ)あれ(43)
草ふきに門をかまへて西がはのむかひに秋の花ぞかほれる(43)
越路より南へむけてくる雁もよこぎれにする西風ぞ吹く(43)
秋かぜに草のは武者のはらはれて残れる露は一てきもなし(43)
灯をいさよひのまにそむくるや油にことをかく月の空(43)
さもふかきよくあかつきの寝覚めにはそのこととなくおこる煩悩(44)
山畑にむさくさすだくむしくしはほりにしいもの跡にや有らん(44)
ちかづけばばちのあたるとゆふたすきかけもかまはぬ神無月哉(44)
時雨さへいそがしぶりに成りぬればまして木の葉の尻もたまらず(44)
夜もすがら板やの軒をぱらぱらとうつはあられのふりつづみ哉(44)
へんは二水作りは水とかく氷春にもならばとけて三水(44)
たびねして思ひ出づれば古郷の子もちむしろにしく物ぞなき(44)
はたごやに宿かりてねし一夜妻したたか銭をおきぞわかるる(44)
すがみこのおもてをみてもうらみてもかはらぬ君が心こはさよ(44)
観音の堂に打ちふるらく書きをかたみに残す諸国順礼(45)
あとさきへいきや出すらんしづのめがしりをほつたてふく火ふき竹(45)
大雪に往来をふさぐ信濃路は是そ日本のかんこくの関(45)
誰となく送る野原の無常堂たつる煙や火さう三昧(45)
ねがはくはことかかぬ程ぜにもちてめ子ひきつれて世をのがればや(45)
先づ以て御機嫌のよき君か代をおほそれながらいはふめでたさ(45)
金銀はつむ石ぐらのごとくにていやがうへにもおさまれる御代(45)
飛ぶ螢みな火おどしの鎧きて宇治の網代にかかりけるかな(45)
 
石田未得(一五八七~一六六九)
 元両替商。

【著作等】
『吾吟我集』(1649年)
なにはめのはらむ子だねの冬こもりいまは春べとつはるこのはら(24)
いつはりのなきやうなれどいかがはと中人(なかうど)口はうれしがなしき(24)
わが庵はみやまの茶つみしかぞすむ世をうぢうぢとくらすいとなみ(24)
わが門を一間ひらくあしたより天下の春をしるかざり松(24)
春の来る道筋ならし庭の雪に日あしふみこむ跡ぞ見えたる(24)
春一季宮づかへして紅梅はちるや北野のかみさまのまへ(24)
白妙の雪とけそむる比もきて野は色なをしするよめがはぎ(24)
すがりてもひきとどめまし行く春の霞の袖の手にしさはらば(24)
夕かほの花に扇をあてぬるはたそかれ時の垣のぞきかな(25)
春過ぎて夏の日影にわたぬきの衣ほすけふあせのかきぞめ(25)
ほそかりし滝の糸筋よりあはせ大綱になす五月雨の比(ころ)(25)
風かほり夕だつ空の涼しきは雲に水をやあぐるりうなう(25)
夏の日のあつけをはらふ泉こそ手にむすぶてふ水のゐんなれ(25)
うら盆の月夜にともすちやうちんは外聞のためまた後世のため(25)
見事にて手にはとられず白露のきえやすきこそ玉に疵なれ(25)
かれ木さへ花さくちかひあるなれば観音草の秋は尤も(25)
常よりもまろくてしろく見ゆればや今宵の月をもちといふらん(25)
やよ時雨猶うはぬりをたのむぞやまだ色うすきうるし紅葉に(25)
吹く風の手にやははきをつかふらん山を木の葉のちり塚にして(26)
木すゑをやすりこぎにしてこがらしのあへ物となる森の落葉は(26)
人ならば脚気(かつけ)といはん霜がれにおれふすあしのふしもかなはず(26)
河づらのしはは氷にのびぬれど冬ごとによるわが老いのなみ(26)
河の名のうぢある人の風情にて網代にのれる氷魚のゆゆしさ(26)
名にしおはば夏の空にしふらせたやかたびら雪にあつさしのがん(26)
ふらずんば空たのめとやうらむべき雪こんこんと人にまたせて(26)
節分の夜半にまきぬるいりまめも花咲く春の種とこそなれ(26)
代を久にたもつは天下一ちやうの弓はり月よ君の御いせい(26)
亀のこゑすぽんとはやす小鼓に万歳楽といはふ君か代(26)
活計(くわつけい)に腹のふくるる世にあへば天下たいへを国土万民(26)
いつまでかせんなき恋を信濃なるあさま夕さまもゆる思ひぞ(27)
車井戸のつるべの縄の一すちにかけておもへばめぐりあはなん(27)
うきことを聞きては耳をあらひけり枕にながすたきつ泪に(27)
思ひ川へだててこねばしきなみに人はしかけて恋わたりぬる(27)
人心じゆんじゆくせねばしぶ柿のなるにつけても気味のわろさよ(27)
そひはてぬわかれをなげく暁にやもめがらすのなくもいまはし(27)
君こむといひし夜ごとに過ぎぬるはたのまぬ狐身をやばかせる(27)
つれなきはかいるのつらにかくるてふ水くき一度あひさつもなし(27)
待つよひの吉凶(きつきやう)あしきささがにのくもでにあがき物をこそおもへ(28)
口ぐせにうそつく人とみつ蜂のさしてたのめる我ぞはかなき(28)
あふ中も今ははなれてはまぐりのむきみより猶うき身成りけり(28)
わか恋のさしみならねどからし酢(す)の目はなとをりて涙こぼるる(28)
おもふこと寝言(ねこと)にいへば敷妙の枕やかくす恋をしるらん(28)
つつめども外にもるるはまんぢうのあんに相違のわが契り哉(28)
うすなさけ契りをこめのつきはててこぬかこぬかと待つほどぞうき(28)
あだ人のつくま祭にかづくてふなべての数に入るわれぞうき(28)
うき恋のやまひを治(ぢ)する灸ならでむねをやく火ぞくるしかりける(29)
こぬ人をまつ夜にともす蝋燭のおもひこがるるしんのくるしさ(29)
恋やみにほねかはとなるちやうちんの内のおもひの外にほのめく(29)
忍びあまる涙の雨にかくれみのかくれ笠こそきまくほしけれ(29)
堂宮にのろひごとしてうつ釘はかなづち論のりんきいさかひ(29)
おもひにしこがれてしづむわが恋は小舟に過ぎた荷物なりけり(29)
つつめどもそなたに心ひくあみのめもとに恋のあらはれやせん(29)
船遊びうかれをんなのさほの歌きけばよふしもなべておもしろ(29)
誰なをす中とはなしにめをとするいさかひはてて夜のちぎりき(29)
人しれずころびてつきしむかふ疵いへぬる跡やけがの高名(30)
軒にふく瓦をとめてさす釘や手づよく見ゆる鬼にかなばう(30)
ゐねぶりも奉公がほにあづさ弓いびきの音のする夜番哉(30)
にくまれ子世に出づるてふたぐひ哉藪よりそとにそだつ若竹(30)
世間こそはり物なれと月の夜にちようちんともす人もありけり(30)
手のきかぬ女子の親のせつかんは針を棒にや取りなをすらん(30)
かまはじな是もさはるにぼんなうの犬ははげしく人にかみつく(30)
双六のならびはじめはさいの目のいちをもつてぞしるばんのうへ(30)
口のうちにとなふる阿弥陀ぶつめかし手にもつ数珠も老いのくりごと(30)
馬のあし四本がかりによる浪のくつ音たかくこすまりこ川(31)
のりかけのつづらおりしてつかれたる馬には沓をうつの山こえ(31)
あふのけにころばぬほどは富士も見つそれよりうへはいさやしら雲(31)
男山むかふは北のかたなれば是やはらむといはんおほはら(31)
山姫のをごけ成るらし谷底にたくりためたる滝のしら糸(31)
けだ物の名にながれたる熊野川水にも影のうつる月の輪(31)
船出して松浦の沖につる魚もひれふりにけり浪のわかれに(31)
から崎の松は一ぽんたちながら名をば日本にいひぞひろむる(31)
めにみえぬ物ともいはじ草木のうごくは風のかたちならずや(32)
ふくろふの声よりほほんほんのりと月の桂の木ずゑ明けゆく(32)
くちなはのをのが針めのほころびを誰にぬへとてぬげるきぬぞも(32)
人を見て人は人をもたしなめば人こそ人の人のかがみよ(32)
鹿の皮はゆがけになるもやすからず又狩人の手にぞあひぬる(32)
塵をよく取りぬる徳をいふならば是もこはくの玉ははきかな(32)
住みわぶる世のうきふしもわすれけりのみし寝ささのよひのまぎれに(32)
桧物師のまぐるをも見よ人心しなへてこそは中まろくなれ(32)
一まいを万枚になすはく屋こそ金を打出のこづちなりけれ(32)
棚ばたををれる糸屋の織女(しよくちよ)こそ天乙女にもをとるまじけれ(33)
おにぐるみわりそこなひて手のかはをむくりこくりと身は成りにけり(33)
ぬすみより外の事をはしら浪のあはれあぶなく渡る世の中(33)
笠きてもこびんのはしにをく霜のしろきは人の世ぞ更けにける(33)
名を残す跡の五輪はくすの木の石となりたるしるしなりけり(33)
まじらへば七重の膝をやへにおる袴のひだのむつかしの世や(33)
茶をのめばねられぬ老のはつむかし大むかしまで思ふ夜すがら(33)
たむくるはしぶ茶なりとも明け暮れのつもらば無上極楽のたね(33)
極楽は涼しき道ときくからに経かたびらをきてや行くらん(33)
身の留守にきてはおりとるこのはなはのこる鳥をば敵にするのみ(33)
しら雪は今朝野ら草の葉にもつも庭のさくらのさけばきゆらし(33)
湊川(みなとかは)とまのぞきつつまはりけり浜つづきその窓は門(かと)なみ(33)
又飛びぬ女(め)とおとあはれぬししらじ死ぬれば跡をとめぬ人玉(ひとたま)(33)
孫よりもゑの子かへとはうば玉のよるよるおもふ用心のため(34)
二代なき長者の身こそ借銭の子をむさぼりし報いなるらし(34)
ねぢつけていざやちぎらんをのれとはまだおちそうもなき小姫瓜(36)
をのづからなすびの色を紫のふくさにつつむ茶入れとぞみる(36)
精舎には諸行無常となるかねのしやぎりしきりにかはる祇園会(36)
ゆたんなくこやしかくれはよきえんの茶もや宇治よりそたちなるらん(41)
 
雪縁斎一好(生没年不詳)
 貞柳門。
【著作等】
一好詠、梅好撰『興歌帆かけ船』(1768年)
盃のうちへぞ酒のみちとせやももとは下戸の詞なるらん(140)
唐人に似たる間があつち物さかやきそつて神国の人(141)
こまやかに落ちる粉雪の白妙は空にかすみのきぬふるひかも(148)
風の手も花にはいとふ習ひじやに雨のあしとは慮外千万(148)
酒呑みものまぬ人にも寒空は面向不背の玉子なるらむ(150)
時鳥啼きつる跡は短うて只かぶろ等があいいぞ残れる(150)
星合ひも見えぬ斗(ばかり)の黒雲は天の川にも硯洗ふ歟(か)(150)
曇る歟とおもへばさつと晴れわたる天の気にさへ村時雨哉(150)
腎情のもれぬやうにと今爰(ここ)に立てる玉子のふはふはの関(150)
 
正親町公通(おおぎまちきんみち)、
 風水軒白玉翁(一六五三~一七三三)
 垂加流神道家。公家。

【著作等】
白玉翁著『雅筵酔狂集』(1731年)
下陰に雪のしら鷺かた足をかがめてたつは(まつば)のごとし(122)
とんぼうや花田色なる狩衣の露をたづねてかするくびかみ(122)
風をうけてななめになびく青柳のいと軽(かろ)げにもとぶつばくらめ(122)
清水ある所まて追ひ来れとや尻にほたるの光みすらむ(122)
釣り置きてふりたる網のやれやれといふ間に瓜の一つは丼(どぶり)(122)
立ちよりて花たちばなの香をかげば遠きむかしも鼻のさきなり(122)
落馬せし嵯峨野々露のふることをしのぶやうにもなく轡むし(122)
吉田山のほりてみれば黒谷も白川となる雪のあけぼの(122)
生まれつき人のおもての有りながら横にのみはひありくはいかに(123)
雪ふればいつはりのなき世とぞしるからすを鷺の人の言の葉(123)
節分の二度ある時ぞなを迷ふ今年かこぞか又おととし歟(123)
惜まれて山のあなたにべらつけよ人まつ宵のかこつけの月(123)
江の水のながれ渡りと世をしらばよしやあし間のかにの横ばひ(123)
狼のころもにひとし魚の棚上下(かみしも)きつつ番をするねこ(123)
風になびくふじの煙の空にきえて行衛もしらぬ法師なりけり(123)
今よりは酒のとぎにとちぎるなり正徳二年やよひのはじめ(123)
凸の岩根の渦は凹に釣りする舟も魚もノ(124)
人の来てさしの言の葉きれ口によしや芳野のたばこ一ふ(124)
我が国の道はたしかにさかへむと一位公通愚歌自筆(いちいきんみちぐかじひつ)(124)
河波にはつと花よりもみぢより月おもしろく見ぬや鵜づかひ(124)
天地(あめつち)のひらけ初めしを大根(ね)にて国家さかゆく花の春哉(124)
千世まもる神のお留守の時分ぞと都の空に鶴見まふらし(124)
春の空おもひの外に暮れがたき日あしや勢多のおほまはりする(124)
立ちよれば鼻をつきぬく匂ひより兵庫が宿の鑓(やり)梅としる(124)
 
か行 黒田月洞軒(一六六〇~一七二四)

【小伝】
黒田月洞軒は、名は直常、通称玄蕃、後に源右衛門。父用綱(直相)の本知を襲い千二百二十石を知行し、寄合を勤めた。妻は水野忠久の女。月洞軒を名乗り、法名も同じ。享保九年(一七二四)三月二十四日、六十四歳で没し、江戸雑司谷の法明寺に葬る。
【著作等】
『大団(おおうちわ)』。元禄元年(一六八八)より同十六年(一七〇三)の自筆詠草。
【翻刻】
狂歌大観

以上、『日本古典文学大辞典』(岩波書店)より参考抄出。
いや我はあづまのゑびす歌口もひげもむさむさむさし野の月(94)、(125)
師匠なきてがらとなりてはやみとせせめて手向けむわが歌の作(94)
狂歌よむひともむかしの男山げにもなまきになたまめ名月(94)
はや今宵年も十三ねんごろに月の夜ねぶつ手向け申すぞ(94)、(103)
なには江の藻にうづもれて居はせひでよしなき歌のゑらびだてかな(94)
げに玉の雲の翁か狂歌をばかがやく月の洞にとへかし(94)
玉のやうな月はむさしに有るものをたのまでくらき雲の洞かな(94)
山のかみおこぜにあふたここちしてあたらさくらをちらと見たとな(95)
山の手に宿はありつつ祝日のやつ子のこのこの五色餅かな(95)
さして扠何の風ぜいもなき宿ののきばをとふてお気のつきかげ(95)
うれしさはどふもなりませぬつと出た花の木の間の月を見さいの(95)
をめいこにぼぼしたばちやあたりけんつゐにじむきよで死なれまらつた(95)
あさ夕はどこやら風もひやひやとお月さま見て秋をしりました(95)
むかし見し栄花の夢もかくやらんさまにあふたは遺精也けり(95)
そちも無事こちも無事にてまつの葉ぞかへれかきの葉もどれももの葉(95)
弟子も弟子たぐひあらじの歌の弟子弓矢八幡八幡(やはた)御坊の(96)
さのみにはもうそもうそとゆてくれそいまでもかほのあかふなる事(96)
河波にばつとはなせば鵜の鳥がこぶなくはへてぶりしやりとする(96)
おもひ出づるおりたけぬかの夕煙むせぶもうれし蚊めがをらねば(96)
軒にきて鳴く音やかまし長ざほでてうどうつせみうちころせかし(96)
むしやくしやとしげれる庭の夏草の草の庵もよしや借宅(96)
妹とわがぬる夜たがゐに目があけばへそのあたりをなでしこの花(96)
つれもなくつれあひもなくばせう葉に残れる露のうきねいとしや(97)
つのくにのなにはの春のはなやかに伊達をしまきぬ着て遊べかし(97)
たづねきてひろき武蔵の野でつぽうはなして見やれたまりやせまいに(97)
むさし野にはばかるほどの団がなあふぎてのけむふじのむら雲(97)
おみやうぎなおこゑならずと初こえを先づほととぎすおらにきかせよ(97)
蚊屋つりて蚊をばふせげど蚤がきてねいろとすればさあさしやうわる(97)
ふともものしろきにむかしを思ふかな早苗取女(め)の尻からげして(97)
ひえた斗(ばかり)あぢがよかろふといふはすいくはつとうちわつて見てきこしめせ(98)
きのふまで借銭こひと見えつるもけふあらためてきつとしたじぎ(98)
めで鯛とかくつんだして柳樽やつ子こと葉でひな祝ふべい(98)
とつと遠き海路にによつと見見(みみ)ゆるはよくよくいつかいものじやふじのね(98)
さくらあさのあふてかたるが間遠さに花のいろいろかひて送つた(98)
やれやれな今くれゑんの夕すずみちつとあつさをわすれ水うて(98)
酒のみのひたいに夏を残しつつ秋とも見えぬ此此(このごろ)の空(98)
千秋も半ばならざるたのしみはふたりの中のよき子もち月(98)
五月空かしはの葉守神こばたたつるは玉のやうな男子(98)
ささをもるお座がさむるときらはれて下戸の心はなんぼうやつら(99)
きいたかと問へばきかぬがきいたかと客も亭主も待つ時鳥(99)
きの毒ややめにしましよかしましよかのせうがのぶしの小歌ならねど(99)
御代万歳ねがひもざつとすみ頭巾をくらるる歌よく出来まつちや(99)
男子花はじめて開く梅じやほどにえだもさかへて葉もしげります(99)
御返事はわざと申さぬ一声も子故と思へばなふうらめ子規(99)
じまんくさく長尻くさらかすうちに身がひるへにはみが出(い)づる也(99)
喰ひ過ぎし腹はる風にへひらんとそつとすかひてもやらくさのもち(99)
くそざつと下りやしまのだんのうらはまべもくさくとまりこそすれ(99)
夏衣ひとへに御免慮外にて御座りまらまで出だされにけり(100)
おごしより先におごぜんをあげられよ上はおかもじ下はおひもじ(100)
ぼくせうとのたまふはひげこのりんご喰へさへすればこちやだいじなし(100)
わが尻をしたりやむかし恋衣かへすがへすもわすれぬか坊(100)
今こそあれ我もむかしは若衆也あふたら君はこはものであろ(100)
いくとせも海老のめでたく鬚ながくそなた百までをれ二百まで(100)
春の日の江戸紫のせち小袖かしてねよげにかかを見あげた(100)
ぬのこ着て余寒ふせげどこしはひえ山の手なればかたはるの雪(100)
ふじとわがかはすばかりのおてまくらそちは雲の手こちは山の手(100)
ちよとあふとたちかへらるる春毎に花めづらしの御客也けり(100)
きりしやむとまはした帯のむすびめもあまりにさむき衣がへかな(101)
一にたはら二にはにつこり三に酒大黒まい年かくお出であれ(101)
見にゆかんむまにくらをけさくらがりはなふみちらすあとはおしけれど(101)
乗物の上下の者は歌人にてなかなる我にはぢをかかする(101)
やれ火事よのけやはいはいはいはいといふまに跡はこはいにぞなる(101)
火事におふて雪を見るさへうらめしや水にことかかぬふじと思へば(101)
かりほにはあらでもとまをやねにあらみわが火事ごやの雨ふせぎせり(101)
ちちつくはひと夜のふくる迄御ざれかしうづらの床のあれたいほりへ(101)
とまぶきのこやのすがきのしたひへに尻から風がさそふすいこへ(101)
からかさのさしてはぬれぬものながらひたすら雨の音羽町かな(102)
初声はせんずりこゑかしはがれて内所の庭にきなく鶯(102)
けつこうなみどりのそらのはるていすたまのうてなぞ花もあるへい(102)
つまごめにつくりならべし新宅はいよいよ爰(ここ)(ここ)に八雲たつ也(102)
神も我も爰にいなりのみやれただ女房子むまこ子孫繁昌(102)
うらめしの人のほむらに家こがす思ひしらずやおもひしりをれ(102)
御不自由はたがいはずともすい風呂のかまへてあすはまち入るぞ君(102)
もつともだ我屋へがきよつまも子もまこひこやしや子かんなぼうしを(102)
ふびんやな土蔵のすみのやけ坊主かんがよふても酒はあるまひ(102)
あははんとわらひて福はいりまめに鬼めはしりのあなうたれゆく(103)
けふすでに春の日数もつきがねの又来年もこんとひびきて(103)
顔に疔てうずつかはで物くへばくちもなまぐさ鬚もばさらだ(103)
はねつくははごいたゐけな春遊び祝ふしるしの歳暮にて候(103)
御しやうくはんさうらへかしといはぬ也さしても花の見事ならねば(103)
むさしのの末広がりにはるがすみたてた烏帽子と見るふじの山(103)
ことし猶目出度く春のたつがしらひとに愚息のもちひらるれば(103)
 
さ行 斎藤満永(生没年不詳)
 『古今夷曲集』(1666年)に20首入集。作者之目録に「摂州 大坂并所々」。『後撰夷曲集』(1672年)に144首入集。作者之目録に「山城 京并所々」。『銀葉夷歌集』に8首入集、作者之目録に「山城 京并所々」。大坂から京に転居したらしい。
水にすむ蛙が歌をよくきけばとかく卑下なり愚意愚意といふ(35)
なまぐさき恋をもいのる神なれは御前てとるもみくじらぞかし(38)
どうどうとなるもひびくも打ちよする波の鼓はかはのはりあひ(40)
春の月弓張りにかへるかりまたは北斗の星やめあてなるらん(49)
海中へさしいる月の舟にそひて折からあぐるほたて貝かな(52)
神々の旅立ちたまふ道筋をきよめにふつてきた時雨かな(53)
炭やくにひまもなうしてはたらくは身のくらうなる仕事なりけり(54)
くらべ馬相手をとしていさめるはかつにのつたる禰宜の皃つき(55)
夢になりとあはせてたべと君がぬる枕がみにやきせひかけまし(58)
妻戸をも妻がたたけば内よりもおつとこたへてあけていれぬる(58)
此の葛は味もよしのの名物とくはぬさきよりこれもすいせん(61)
是や此の仏もおやくし給ふはよるひる二六十二しんたち(63)
僧や此の御すきの魚の名にたたばあかめんぼくぞうしなはるべき(64)
此の世界くるしき海といふなれば身にうきしづみあるは尤(もつとも)(64)
山伏の祈りをかくる三ヶ月も春の夜なれはおぼろほろほん(65)
さしむかひ東山より西方をねがふもあみだ仏光寺哉(65)
出づるより西へいるまで時付けのときをちがへぬ月の御船(80)
 
三条西公条(さんじようにしきんえだ)
(一四八七~一五六三)
 公卿で古典学者、歌人。実隆の子。
【著作等】
『玉吟抄』(1532年頃)
夕霧の立ゐに物や思ふらん光源氏の秋のゆふぐれ(6)
さきも根も心地よげなる竹の子の六寸ばかりおひぞ出でたる(6)
世の中はなにやらかやらいとまなみせりせり川に行く月日かな(6)
料紙にも書きとめばやと思ふかな年寄りたちの古物がたり(6)
蓮葉(はちすは)の上に乗りたるあま蛙ただ一飛びにまいる極楽(6)
 
坂本重勝(生没年未詳)。『銀葉夷歌集』12首入集。作者之分類に「摂州 大坂并所々」 一声はどちの方にか有明の月にばけたかやよほととぎす(79)
たかはしとおもふが中に秋風も今日ついたちの文月ぞうき(85)
 
重勝妻(生没年未詳)。同上1首入集。 お小袖はいくつめすともとにかくにかりにも妻を重ね給ふな(86)  
潤甫周玉(一五〇三~一五四九)
じゅんほしゅうぎょく、若狭守護武田元信の嫡子、建仁寺282世。
【著作等】
『玉吟抄』(1532年頃)
茶つぼをもをかすといふは霧なれやしめりはいたく物をとをせば(6)
男をばせぬせぬといふ御比丘尼のはらむに似たる竹のじねんに(6)
なに事もむかしにはあらぬ今出川内裏のあたりむざと流れて(6)
甲斐なきは年のよりたる尼が髪たけなどいふも見た人もなし(6)
をしなべてわぶるあつさを荷(はす)の実のくつとぬけたる池の涼しさ(6)
 
如竹(生没年不詳)
 池田正式編『堀川狂歌集』(1671年)は『如竹狂歌百首』ほか6作品を集成したものである。(狂歌大観解題)。如竹の伝記等は不明。
七草にままごとをするわらはべの髪さきみるもつめる簪(46)
ぽちぽちとふる五月雨に軒口もはなしの口もくちはてにけり(46)
年よりてまづ一はちる口にこそすかすかあきのはつかぜは立つ(46)
幾秋の霧にしやれたる堂塔の板も柱も目にぞ立ちける(46)
柴漬けのあたりえさらぬあやうさよ鴨やさきたつ魚や先たつ(47)
日をかぞふ命みじかき筆つ虫あはれしごくとゆふくれの声(47)
ちはやふる神楽の鈴も舞殿も物さびたるはかたのことこと(47)
風よりもぞつとすごきはふうふうと吹いてかかれるのべののらねこ(48)
泳ぎえぬ稽古を見れば瓢箪の浮きつ沈みつはらのかは哉(48)
手のものと頸ふりかたげ鶴の箸野沢の水にくはゐほる也(48)
朝な夕な窓の戸障子をのれさへたがひちがひに立ちぞわかるる(48)
心もて心おどろくしめし哉尿のしたさの尿たるる夢(48)
 
甚久法師(一六四八~一七二一)
 山中鹿之助の末葉と称し、四十歳頃出家、江戸に行き、豊前中津に下り、後、小倉の法華宗の寺に住し、享保六年三月、七十四歳で没した。(日本古典文学大辞典より)
【著作等】
甚久法師狂歌集(1722年。翻刻:狂歌大観)
つゐと立つその日ぐらしの身は軽しおもむくかたにつくつく法師(106)
めぐり来てさらりさらりと新玉の数珠半分とおないどしかな(106)
なき人の三七二十一日はむかしといへる文字によめけり(106)
一位二位三位しゐたの五位鷺は鯲(どじよう)みかけてくらひにぞつく(106)
月影はやどるまもなく汲みこぼしせはしき淀の水車かな(106)
なき人の姿を見れは阿弥陀堂けふはちやがまのふた七日かな(106)
とんでから蓮のみとせになる玉は彼岸の人にあたりこそすれ(106)
木のはしのおれが姿を写し絵にかきたてぼうと人やみるらん(106)
右左ともへのごとく廻れともさざいのふたのとれにくき世や(106)
 
生白庵行風(せいはくあんこうふう)(生没年未詳)
 姓は朝倉氏、字は懐中。大坂高津の富裕な町人。
 編著書に『古今夷曲集』(1666年)、『後撰夷曲集』(1672年)、『銀葉夷歌集』(1679年)。
【YouTube講座】
 編者・生白堂行風~狂歌の定義考①~
 編者・生白堂行風~狂歌の定義考②~
 編者・生白堂行風~狂歌の定義考③~
 編者・生白堂行風~言語体の芽~
こつきよし色は猶よし匂ひよし已(い)上三よしのの花の勘定(35)
御簾(みす)ごしになかめまいらせ候は只文月の透き写しなり(37)
春の礼にござりやすとも待つ程にまつの内さへ打ち過ぎて候(39)
一番の風の手なみに霜氷川しもさして雑乱雑乱雑乱雑乱(さらさらさらさら)(49)
梅こよみ三百六十余ヶ日も子の日とひよりさく年の花(49)
池水のかはき果てぬる日でりには自然とほせる亀の甲かな(50)
移徙(わたまし)はかねてのぞめる家なればすみよからふと思ひこそやれ(59)
西の海の浪のひらりとひかめくは朝日にむかふ太刀魚の色(60)
鑓ならでつくつくつくといふ音をきけば太鼓をうつきざみ也(60)
なき玉の今宵くるくるくるくるとまはり灯籠ともしてぞまつ(80)
 
た行 太女(生没年未詳)
 『銀葉夷歌集』に30首入集。
 作者之目録に「京」の人。
天下一いふはかりなき名の月を目にかくる社(こそ)ことはりよなふ(81)
まつかいに紅葉は色に出でぬるを詠(ながめ)る人は面白しとや(81)
櫛のはをひけどひかねど昔より心は君によりしもとゆひ(85)
籠の内に思ひを入れておくらるるかたじけなしの果成けり(89)
 
鯛屋貞柳(一六五四~一七三四)

【日本大百科全書(ニッポニカ)】
永田貞柳 ながたていりゅう
江戸中期の狂歌作者。名は良因、のち言因。父貞因(ていいん)は禁裡(きんり)御用を勤めた大坂雛屋(ひなや)町の菓子商鯛屋(たいや)。貞因も叔父貞富(ていふ)も俳諧(はいかい)をよくし、弟は浄瑠璃(じょうるり)作者紀海音(きのかいおん)という風流一家。早く狂歌を豊蔵坊信海(ほうぞうぼうしんかい)に学んで『後撰夷曲集(ごせんいきょくしゅう)』に10代で入集(にっしゅう)した以後、「箔(はく)の小袖(こそで)に縄の帯」すなわち雅俗折衷の平明な狂歌を理想として、大坂の庶民に狂歌を普及させた。とくに南都古梅園(こばいえん)の墨が天覧に入ったと聞いて「月ならで雲の上まですみのぼるこれはいかなるゆえんなるらん」と詠んで評判になったのにちなみ、油煙斎(ゆえんさい)、由縁斎と唱えてから名声いよいよ高く、門人は西日本や中京にまで広がった。家集に『家づと』『続家づと』があり、死後に『貞柳翁狂歌全集類題』(1809)がある。
[浜田義一郎]

※「箔の小袖に縄帯」を雅俗折衷で説くのは正しくありません。書き言葉(古代語)に対する話し言葉(近代語)でしょう。:言文が二途に分かれてからは書き言葉(伝統)一辺倒であった五句三十一音詩に話し言葉(現実性)を導入ないし開放したのです。これは画期的なことでした。
 ちなみに「箔の小袖に縄帯」は豊蔵坊信海の論、弟子である貞柳は別に「紙子に錦の裏」ともいっていますが、この先には談林の祖・西山宗因が待っています(「紙子に錦の襟」)。
 歌論は残していませんが半井卜養も話し言葉に道を拓いていきます。編集者としての生白庵行風は奴詞ほか多くの話し言葉を採集しています。
 しかし標準語を持たない時代の話し言葉には大きな壁がありました。

 ふみまよひとへど互ひにことばさへ わからぬひなの長路くるしき
             西隣亭戯雄

 このあたりの事情は岡本雅享氏の「言語不通の列島から単一言語発言への軌跡」から学びましょう。
 で貞柳は「西山梅翁はいにしへ諷ひの詞を用ひ誹諧に名句おほく世にきこえしもはや五十回忌になりければ」と題して次のように詠っています(『貞柳翁狂歌全集類題』)。

 俳諧に謳のことばのこりしも早五十 年邯鄲の夢

 「諷ひ」も「謳」も謡曲を意味しているのでしょう。狂歌も例外ではありませんでした。話し言葉は共通語たり得なかったけれども、その溝を埋めるような働きを歌謡は果たした。
 卜養・信海そして貞柳のもとで近世の狂歌は大きく動き出したのです。
[吉岡生夫]

【著作等】
・『狂歌五十人一首』(1721年)
・貞柳著『家つと』(1729年)
貞柳詠、長谷川光信画『絵本御伽品鏡』(1730年)※26コマから、絵と歌のコラボレーションです。28コマで鯛屋の店先風景です。
・貞柳著『続家つと』(1731年)
以下、没後
・由縁斎貞柳著、永田貞竹編『置みやけ』(1734年)―10月刊行、貞柳は8月死去―
・百子堂潘山編『狂歌糸の錦』(1734年)―貞柳追悼狂歌―
・一周忌の祭祀、永田貞竹編『狂歌机の塵』(1735年)
・十三回忌追善集、基律撰『狂歌秋の花』(1746年)
・五十回忌追善集、自休撰『狂歌今はむかし』(1776年)
・五十回忌追善集、梅好撰『狂歌いそちどり』(1776年)
・五十回忌追善集、百喜堂貞史撰『狂歌栗のおち穂』(刊記なし)
・無心亭有耳編『貞柳翁狂歌全集類類』(1809年)←国立国会図書館デジタルコレクション

【参考文献】
仙果亭嘉栗『狂歌貞柳伝』
(大谷篤蔵「翻刻『狂歌貞柳伝』」文林12号)

石田賢司氏「紀海音の浄瑠璃作者引退に関する一考察 : 兄油煙斎貞柳との和解をめぐって」
島津忠夫氏『謡は俳諧の源氏―西山宗因の場合―』 (和泉書院)

【YouTube講座】
 豊蔵坊信海~弟子 珍果亭言因~ 
 豊蔵坊信海~その史的ポジション、惟中より貞柳へ~
 豊蔵坊信海~その史的意味を問う、箔の小袖に縄帯の論~
学びぬる歌の病ひも頼みあり時疫をいのるしるし山城(77)
なむをみやたうふたうふの声たてて皆彼の岸へよふね也けり(93)
おとこ山詞の花は散りぬれど猶頼みあり武さしのの月(94)、(125)
商人によき島絹を給はりて歌よみたてをするもはづかし(97)
てつぽうのたまたま江戸に参るともいかではなさん町人の身は(97)
百人一首にどうありとても元日のあかつきばかりよきものはなし(107)
みそじあまりひとつの春になりにけり守らせたまへいつも八重垣(107)
年の名も神にねがひの絵馬なれば誰も皆令満足(かいりようまんぞく)のはる(107)
みかんかうじだいだいところの名主ぞと髪(ひげ)くびそらしちといせいゑび(107)
初はるは目出たき本のごぼう様おひげのちりをとりもこそすれ(107)
梅はいかが思ふもしらず御懇意は初瀬山々香(か)に匂ひけり(107)
冬もよし春きくもよし鶯のほうほけきやうは勝劣(しようれつ)ぞなき(107)
西方に浄土の春はありといへど花見て千代もこちやひがし山(107)
かしこきもかしこからぬも花に来てほしがるものは酒よ肴よ(107)
音にきく車返しの花の下は心にのりて行くそわづらふ(108)
住吉や車返しの花見とて袖引くつれも人ぞとどろく(108)
節供とて祝ふ言葉もとりどりのももさえづりや花にやなぎに(108)
かしましや此の里過ぎよほととぎすと思ふほどに一度ききたや(108)
祇園会やはやしの鐘の七日とてしやぎりしきりに雨ぞふりける(108)
夕立の雨のふる夜もふらぬ夜もかみなりさわぐ紙帳侘しき(108)
秋たちて幾(いく)日あらねと朝さむござる小袖かさばや七夕の空(108)
歌のさまふつつかなれば織女(たなばた)に手向けんことも梶のはもじや(108)
七夕のすまふとる夜と下帯をむかしのすいが手向けこそすれ(108)
星さまに着(き)ならし衣慮外(りよがい)なれとしきしのあれば手向けもやせん(108)
火の用心の声あはれなりさよしぐれぬれて夜番のひとり行くらん(109)
千金にかへぬ今宵の一輪は月のかつらの実(み)はへなるらん(109)
さればこそ生けるをはなつよはなれば蟻のはふまて見ゆる月影(109)
うろくずもうかみ出づるやにごり江をいとはですめる月の今宵は(109)
いかなるか是いんげん豆もはなの色は抹香くさふもござんせぬのふ(109)
かみなりも太鼓をうつてまはりけり雨やあらしの顔見せの宵(109)
独(ひとり)ねをせぬ夜なりとて鬼は外へ気を通してや出でて行くらん(109)
あんずれは此の世は夢のかりまくら草葉の露じや玉でないもの(109)
よし野山峯吹くあらしさぶけれは花を見捨てて帰りこそすれ(109)
花と見る梢を風にさそはれてずぼろぼうずになるや木男(110)
さざれ石の千代に八千代とそだてしに卒塔婆に苔の娘はかなや(110)
百合の花ちり行く秋のはつ風にさながら夢の世とぞなをみん(110)
いろいろの膳部をなしてとぶらはん春やむかしの蕗のしうとめ(110)
世の中よ何としやうぎのこまりものはるもよしなやすててつまらず(110)
祖父(ぢい)は山へしばしがほどに身は老いてむかしむかしの咄(はなし)恋しき(110)、(144)
金銀はあるも猶よしなしとても人間万事宗桂かこま(110)
くらま山をあちらむかでぞひらひけりこれそ毘沙門天のあたへか(110)
滝の音はひいふうみのおとんとんとん手まりのやうな玉ぞちりける(110)
駕籠舁(かごかき)の心くらがり峠にて天目酒にまよひぬるかな(110)
日盛りは暑き峠の苦しさに昼にさがりて風を枩坂(110)
月ならで雲のうへまですみのぼるこれはいかなるゆゑんなるらん(111)
油煙斎と世にうたはるるころもきぬ心をすみにそめまほしさよ(111)
ありま山いなといへどもささひとつあがれあがれと湯女か一ふし(111)
夜船にて苫(とま)よりのぞく男山月のおかほのちよつとほの字で(111)
范蠡(はんれい)とさかさまなれや鯊釣りに小船漕ぎ出でて喰ふはれいはん(111)
かほりさへよし野たばこの夕けぶりはなのあたりを立ちのぼるかな(111)
音にのみ聞く胡鬼(こぎ)の子をつくつくとめの正月をけふこそはすれ(111)
あづさ弓ひくではないが此のしばゐめつたまとりにあたりこそすれ(111)
身を捨ててよしやみかんのかわ衣六君子(りつくんし)にも交はらぬかも(111)
四つ橋に杜若(かきつばた)こそあらずとも人にみせばやほりの菖蒲(あやめ)を(112)、(145)
下さるる鯛ぞとしるを相伴もああうまあんまはらをなでけり(112)
飲むからに冬のさむさも忘られて春の心をあら玉子酒(112)
にほふてふ丁子じやかうはいらねどもしたたるささる夫婦丸哉(112)、(118)
此のかいにたぐひあらじなくみてしる酒も満ち干の玉の盃(112)
おしあふは象無頼なる見物となれもしるにや鼻であしらふ(112)
又や見ん交野(かたの)をとほる大象のはなに水ちる夏の明ぼの(112)
めづらしとはなのあたりに立ちよるは夏にさくらのふげんぞうかな(112)
優曇華とおもふ斗(ばかり)に大象のはな待ちえたることし嬉しや(112)
さらに又雪かと見ればやあ是の手ぎはよしのの峰の花塩(116)
雪つもる柴の菴(いおり)のしばしばも春の時得てひらく花しほ(116)
住よしや木(こ)の間の月のかたわれはありけるものをここにそりはし(125)
むかし思ふ男山へも帰山なく遠きあづまのはて給ひける(125)
桟敷での酒のみなもと尋ねいれば清水辺に花ぞ浮瀬(うかむせ)(125)
名にしおふくらま寺へのお初尾は百のおあしをまいらするかな(125)
ちやうど百とおぼしめすなら山椒の皮にもめをばたして給はれ(125)
地主(じしゆ)の桜おもしろやあれ滝の糸くりかへし返し地主のさくらや(126)
仕合はせにむいてきのとのみをいはひ人をもいはふ千代の初春(126)
此の春は芋の子だから手にいりてああ楽茶碗いはふ大(おお)ぶく(126)
かたいぢと人はいふとも鶯のほう法花経にしくものぞなき(126)
花を見に京へとくとくつなでなわ夢をも引きて行く夜ふね哉(126)
花を詠(なが)め霞をくめば堂のゑんも真如平等の台(うてな)ならずや(126)
世の中にたえて上戸のなかりせば花の盛もさびしからまし(126)
花にあかで月になるまて酌む酒は入あひの鐘に下戸やちるらん(126)
よめがはぎふきのしうとめ有馬山をむこのをくとはむべもいひけり(126)
方丈の室(しつ)には似れど蚊帳のうちに和泉式部はさがしてもなし(127)
宵々に待つこそ侘びれ時鳥老いての恋は是ひとつのみ(127)
千はやふる神代もきかす天満川数万の桃灯(ちようちん)水くくるとは(127)
祭礼と素麺も又同じ物どふやらのびてあぢのわるさよ(127)
切麦やうどんげよりも珍しきべいふんたりけ空(くう)にじやくする(127)
七夕を祭る寺子のおどり歌是も手習ふはじめなるらん(127)
払子(ほつす)かととつて見たればすすきの穂たてる僧都のさぞな笑はん(127)
桜ちる春過ぎ秋の綿畠空にしられぬ雪ぞふきける(127)
鬼よきけなんぢ打ち出すいり大豆を年の数ほとわれとつてかも(128)
楊貴妃の十八の事さもあらばあれ軒のかはらの鬼のしら雪(128)
さむうても地獄の釜のそばはいや猶如(ゆうによ)火燵にそねたか極楽(128)
此の暮れは諸事の商ひ利がなうてたらずがちなる大つもごかな(128)
年もはや碁ならけちさす時分にてかつ色見えて梅ぞゑみぬる(128)
払はましと思へばかねのないくれは花のふぶきのしがをあらはす(128)
餅つきに内儀世話やきいとまなみよひべつかうもさらす出にけり(128)
雲の上へもうのぼりぬるたつの春はげにも冥加にかのへなりけり(128)
なりたいや松になりたや住吉の神のおまへに千代もまいらむ(128)
さまざまの神のお庭の芝居とて木戸をひらけばおもてしろやな(129)
神前に御寄附の鈴をかけまくも忝なしや時節がらがら(129)
祈るより思ふかひある蛤の玉の御垣(みかき)ににじりよりけり(129)
明石なる蛸の入道をうらやみて鯛屋もいのる住吉の神(129)
あらたなりと名に立花の八幡宮むかひに見えたるは正覚寺村(129)
かなしむも歎くも恐れ多けれは申し上ぐべきやうもなきかな(129)
法問(もん)をえせぬ我が身がましじやまて棒はくわひて馳走にぞあふ(129)
医者へやれば長いきせんと思ひしにあてが違ふた産後十八(129)
かたみをばぢいに残して母はあちへいのふ峠の孫ぢゃくしかな(129)
国はなんの都はなんのうかれめの一たびゑめば銚子かたぶく(130)
道心者浄土法花とへだつれどおつるはおなじ谷町のうら(130)
おなじやうな情(なさけ)の露もみなみより西こそ秋の色の極上(130)
西行は土でもゆかし見世さきにしばしとてこそ立ちどまりけり(130)
南無おみは黄檗(おうばく)のみと思ひしに南禅寺にもとうふ有りけり(130)
此の酒によいにいのより二ツ三ツせめて五ツをすこし給へや(130)
とびだんごそれならなくに此の臼は夏衣とぞついたやれもさ(130)
けい馬をはかけ奉る御宝前是かや神の乗りうつるとは(130)
狂歌こそつくばの道のいぬつくばさんたをしても奉るべき(131)
歌の会に南の坊へ来た我は西も東もしらずよみによめる(131)
貴僧ともしらで咄を申上けしりこそばいや高野六十(131)
杉折をあけて中見つまんぢうの色の白さは美女御前かな(131)
農(のう)の時もわすれぬためにげんくわんにかねてつりをく心世になる(131)
庄屋殿のげんくわの鐘の音すなりあかつきかけていづる早田乙女(さおとめ)(131)
親もなし子もなしさのみかねもなし望む義もなし死にとうもなし(131)
百居てもおなじ浮世におなじ花月はまんまる雪は白妙(132)
としは牛迎へし戎さんろ殿まのの長者となして給はれ(132)
うつくしき享保十九のとらが石石かとみればかがみ餅かな(132)
物ずきにていがよければ夏の物をはるにもつかふうちはゆへ哉(132)
冨士の山夢に見るこそ果報なれ路銀もいらず草臥れもせず(132)
住吉のむかい通るは清重郎じやないかいやいやあれは帆懸船也(132)
面白やあらりきやうがり改玉のはるは鼓の声はちちとせ(132)
ごさつたごさつたひんの病をなをそとて薬袋を持つた大黒(132)
思ひあらばおだれのうへに寝もしにやん軒の忍をひじき物にて(133)
毛氈(もうせん)はひかん参りの蓮にて下戸も上戸もひとつ極楽(133)
茶臼(ちやうす)山友引きつれて永き日も花を見めぐりあくびこそせね(133)
散ればこそいとど桜はめでたけれけれ共けれ共そうじやけれども(133)
春雨のつれづれなるままに下戸ならぬ友こそよけれいざ呼びにやろ(133)
墨吉や汐日の暮れの足たゆくにじりにじりて帰るぐりはま(133)
桃山の下をのづから茶屋たてて赤前垂れは物をいひけり(133)
やつこ尼へ立ちよりて見る藤浪は扨も見事でごわり申そ(133)
螢こひ女房どもの乳(ち)をのましよ金の釜は出ようと出まひと(134)
花の王の宿直(とのい)がほにも打ち眠(ねぶ)る是にやん命婦の大臣(おとど)とやいはん(134)
空蝉と名にはたてれど声いろはひたちの君かせみせみせみせみ(134)
ほたろこひちちをのまさふ姥玉(むばたま)の闇にありくも子共すかしに(134)
蚊は冨士の山ほど多き裏屋小屋ならぬ思ひのもゆる大鋸屑(おがくず)(134)
ひこぼしの来べき宵なりささがにの蜘(くも)の糸より細きそうめん(134)
物洗ふ下女のせんらも鵲(かささぎ)のはしの白さに星をうらやむ(134)
露と消えし人を問ひぬるうら盆の重の内にも萩の花哉(135)
涼しかろと思ひまいらせ候になほなほなほあつき文月(135)
湖の海にてる月影をかぞふれば今宵ぞ五十四帖初まる(135)
鎌かけていふではなひが野も山も穂に穂ぞなりて目出田かりけり(135)
淋しさは碁の相手さらになかりけり手もやや寒き秋の夕暮(135)
心なき身にもあわれや立つ鴫(しぎ)をやにはに射たる秋の夕ぐれ(135)
節句とて諷(うた)ふつ舞ひつ見る菊はありとほしともおもふべき哉(135)
本復を祝ふ節句の丹波栗鬼ともくまん心地こそすれ(135)
茸狩(たけがり)に誰も北山秋ふかく積もる鬱気をまじなひぞする(135)
埋み火の灰口をとふ老いの身は消えさへせねばいつも吉日(136)
六字づめのこゑきく時ぞ鹿谷へ紅葉ふみ分け詣りこそすれ(136)
おざしやんな大門様は道ひろき法(のり)の教への六条参り(136)
うかうかと長息をするやうなれど彭祖(ほうそ)はなげの老いの暮れ哉(136)
彭祖には八百の上若ければさのみに老いの暮れにてもなし(136)
木に餅のなるてふ柳いとはやし花咲く春の色めいて来た(136)
命こそ宝の市と聞くなれば神の恵みを得るぞとうとき(136)
煩悩の種を求めし年たけてけふは菩提の花ぞ咲きぬる(136)
西行に杖と笠とは似たれども心は雪と墨染の袖(136)
極楽はらくなと聞きて苦の世界こちや堪忍せう待つて居しやしやれ(137)
茄子(なすび)こそ瓜実顔にまけまじと油付けたり串を指したり(137)
こぬ人を隣りもまつか小夜更けて灰吹きたたく音のみぞする(137)
歌枕ひと夜双べて寝たれども男同士は恋の部はなし(137)
有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ我は二休みとくと雨風止みてゆかばや(137)
蓮葉においどすはるとくみてしる思へばもはや三年じやもの(137)
口上にぢゐか出でねば竹田芝居しやて歯のぬけた様に見えぬる(137)
ちつとした機関(からくり)なれと玉の緒は竹田近江も力及ばす(137)
ふぐと汁よく味はふて誰も見よあわの鳴戸は北枕なし(138)
夏衣うすき縁ともさもしらで来春参らふといふて北村(138)
黒髪の末長かれと神さまをめうがあらせ給へと祝ふことぶき(138)
公界(くがい)せぬ宿は聞きわく事ぞなき米の高ひも伽羅の安いも(138)
老の浪よるの衾のすき間より風の入江は寒きあし哉(138)
たびまくら幾度酒のかんをして呑んであかしのむまやむまやと(138)
冨士の山影は二つやみつしほを一荷(いつか)にするか田子の浦人(138)
風そよぐ柳の枝のつばめかや秋は故郷へ帰去来(138)
ゑんこうの望む心の月やさしこちらはいもに手をのばすのみ(139)
そろばんを置きてにににと笑ひぬる大黒殿はかねやのびけん(139)
乗合の舟は寝る人起きる人夢をくだきて分けて見るかも(139)
ほめ給ふ御意はしやうゐんせられねど詞の花は匂ふ藤村(139)
よい物を持ちてもそれにつかはるる身は鑓もちに髭のないもの(139)
ありし世の玉露霜ともおぼしめせ是皆さまへ置土産ぞや(139)
はなになき鳥に驚くめに逢ひて我が家土産にとちめんぼふる(139)
いかのぼり親の心も空になり子ゆへの昼に迷ひこそすれ(140)
祝ひに水かかれとてしもかぞいろは我に女房呼ぶはせざらん(142)
行く年の惜しくも有る哉びん鏡那知にて花をやるもけふ迄(142)
涼み床うなぎはあれど雨の夜はかわらをぬめる人ぞすくなき(142)
神啼につけふ薬のあらざれば道三箱を捨てし六尺(142)
長生きをしたるばかりに鰭もなし昔の鯛や今のたら魚(142)
隣まで来たる無常の旅衣よいつれなれどちと用か有る(142)
高瀬舟浪に入り日のまつかいに猶見ゆるかな大仏の門(142)
ほととぎすさぞな鳴くらん死出の山聞きたけれども行くことはいや(143)
月かげはあまのはらなる臍か扨(さて)かみなりどののなるとかくるる(143)
七夕に子供もすなる短冊を我も手向けん老いのこしおれ(143)
ささをのみ饅頭くへば象を見し春にも増る秋のよの月(143)
神無月あまり時雨は誠すぎたちと偽りて日和なれかし(143)
君か代の久し王余魚(かれい)のためしとて兼ねてぞ石に魚の見えぬる(144)
西をさして乗合船は出でて行く南無あみだ仏我はをくれた(144)
かりくらし夜は轡むしささめきてせこをまつ虫鷹の鈴虫(145)
ゆきがけの駄賃とやらて老いの坂はんとうそくの年をとらばや(145)
かり葺きのさやかにてらす影もりて宵々毎に月も湯に入る(146)

光傳寺、大阪市天王寺区下寺町1-3-64



鯛屋貞柳の墓訪問記



安養寺、大阪市西成区岸里東1丁目6-7

 

鯛屋貞柳植柳跡地の訪問記



大舟寺(兵庫県三田市波豆川605-1)


運命の追善碑、完全剥落寸前

一本亭芙蓉花の墓

一本亭芙蓉花建立 貞柳追善碑



貞佐建立由縁斎碑銘

福蔵寺(広島市西区古江上1-659)



念声寺(奈良市川久保町30)

,念声寺の貞柳追善碑を尋ねて
常女(生没年未詳)
たえかぬる二日灸の切もぐさ我も昔のいとならなこに(140)
いささかなさかななれ共どふぞしてお口にあぢの早うつけたさ(149)
 
貞因(一六二一~一七〇〇)。
【日本人名大辞典】
榎並貞因。江戸時代前期の俳人。 寛永4年生まれ。永田貞柳,紀海音)の父。榎並貞富の兄。宮中御用達の大坂御堂前(みどうまえ)の菓子商。貞門の安原貞室にまなび,談林派とも交流して大坂俳壇に重きをなした。狂歌も得意とした。元禄(げんろく)13年3月23日死去。74歳。元和(げんな)7年生まれ,享年80歳とする説もある。通称は鯛屋善右衛門。別号に長閑堂,白后斎。
虎の尾の花の盛りはつりがねの龍頭のをこす雲かとぞみる(49)
商ひの片手に案しつづくるは節季仕舞ひと元日の歌(82)
まじはりをなすびの色も紫のゆかりといはばひしこ成りけり(87)
駄賃馬も是れ観音でござつけいそく坂東の日をは縁日(88)

(宝樹寺:東大阪市菱屋西6-1-28)
永田貞因の墓を尋ねて
貞富(一六四一~一七一二)。
【日本人名大辞典】
榎並貞富 えなみ-ていふ ?−1712
江戸時代前期-中期の俳人。榎並貞因の弟。安原貞室の門人。生家は大坂御堂前(みどうまえ)の菓子商鯛屋。狂歌にもすぐれ朝倉行風(こうふう)と交遊した。正徳(しょうとく)2年5月6日死去。七十余歳。別号に花実庵,調菓軒。
やり水につきながされて苗代へ迯(のが)れてかへるまけ軍(いくさ)哉(49)
けみもゆるせ神田の台の百姓の与吉が女房うへし早苗は(52)
難波人かれたる芦のかるわざは鎌宝蔵院そもえなるまい(53)、(118)
釜の下に住みつけたりし灰猫の目が光るかとみれば埋み火(54)
とりなりを見るとわしらがくせにしてつかみつく程君ぞ恋しき(56)
梓弓引く手に筈をちかへじとやにわに君をいてをとしけり(56)
君が今夜をちたればこそ恋死ぬる命を我はひらひけるなれ(56)
こつつりとうてる火打ちの石の火のちらと斗(ばかり)の世にもすむ哉(62)
びくりして肝がなたねの油屋はそらにしられぬ雷の音(91)
 
な行 永井走帆(一六六一~一七三一)
【日本人名大辞典】
永井如瓶 ながい-じょへい1661−1731 江戸時代前期-中期の書家,狂歌師。寛文元年生まれ。大坂の人。書を和気由貞にまなぶ。狂歌は冷泉為守風をならう。大坂の永田貞柳と親交をむすび「狂歌乗合船」をあんだ。享保16年7月28日死去。71歳。本姓は大江。名は喜。字(あざな)は政純。別号に走帆(そうはん)堂。著作に「三徳筆抄」「走帆堂筆帖(ひつじょう)」など。
【著作等】
『狂歌乗合船』(1730年)
走帆詠・李郷編『狂歌種ふくべ』(1737年)―7回忌―
稀に逢ふてまづくむ酒の名も高き天の川ならふたつほしませう(116)
花と娘色香いづれと見わかねばふためぐるひと是やいふべき(119)
風の手や雲のねたばの一ふりに思ひきつたる夕たちの空(119)
徐々(そろそろ)とかたぶくおしきこよひ哉月の鏡も樽のかがみも(119)
祝ひ歌かく墨色に雲起り出世の竜の末ぞ見えける(120)
よい名とてはやしたつれば後万歳(ごまんざい)と祝ふて祖父(じい)がよめる徳和歌(120)
大切なものは天にもをしほ水琥珀のつぼに唯(たつた)一ぱい(120)
こよひしも御意を絵筆のほそう長うしんから情かけて給はれ(120)
さめにけり浮世をあかしくれ竹のしちく六十三年の夢(120)
法性の京繻子を今さとり得てあつち物にぞついなられける(120)
竹馬の友はそろそろ皆うせて山の大将となれる老か身(121)
水のたる男盛りもあり来しをかはる渕瀬や老の涕(みずばな)(121)
大象をけふは是非とも見かの原しばしは見世のはなをかせ山(121)
くき菜さへくふ事ならぬ老か身は又菜刀の刃をたのむ哉(121)
あつかはにうき名をながす女夫丸(めおとがん)中の衣やかけて売るらむ(121)
おもしろう花の下にてたのしむも鼻の下にて呑み喰ふがゆへ(148)


源聖寺(大阪市天王寺区下寺町1-2-35)

永井走帆の墓訪問記
半井卜養(一六〇七~一六七八)
【著作等】
『卜養狂歌集』(写本、1669年)
『卜養狂歌拾遺』(狂歌大観編)
【YouTube講座】
 半井卜養~奴俳諧と御番医師~
 半井卜養の歌を読む①
 半井卜養の歌を読む②
 半井卜養の歌を読む③
公家も武家も今夜の月は町人もあれ出て見さいこれ出て見さい(52)
きしれうる今や君のみその友とのそみのみきやまいるうれしき(66)
久かたのあまのじやくではあらね共さしてよさしてよ秋の夜の月(66)
かきくけこおこそとのほもよろこびは過分至極におしやらりるれろ(66)
をのが名にもたれかかるは布袋(ぬのふくろ)くらひ肥えたは又はらぶくろ(66)
きえやらで今にいきとしいけだずみかしらもしろく尉(じよう)となるまで(66)
てつぽうづたまのおきやくのおはなしにちよよろづよとうちぞさかゆる(66)
天下太平なりし愈(いよいよ)御疱瘡万代かけてさかゆめてたき(67)
かつらおとこ雲の衣をふんぬいて丸はたかなる月のなりかな(67)
まいるたびかく御馳走に阿波様のあかぬこころはいちごまつたい(67)
ほのぼのとあかしいろづく柿の本のひとまるくちにかぶりくはばや(67)
口のはたにむさくさむさくさけがはへてそそぼだいとやこれをいふべき(67)
春たつた霞もたつた松たつたこれぞさんたのいぬの年かな(67)
うさいわうよろこびあれや年の暮れにさらばこがねの鈴を参らしよ(67)
武士(もののふ)の鎧のさねもたまるまじ三人ばりのかりまたのさき(67)
ごばんをは打ちくつろいで此のいしの苦労をのがるしろの御かげで(67)
月の船ひともとすすきほにあげて尾花が浪をはしるむさし野(113)

南宗寺、堺市堺区南旅篭町東3-1-2

半井卜養の墓訪問記
猶影(生没年不詳)
 池田正式編『堀川狂歌集』(1671年)は『猶影狂歌百首』ほか6作品を集成したものである。(狂歌大観解題)。猶影ま伝記等は不明。
春の雨ねりかへしたる大道は色もにたにた地黄煎かな(46)
とんつはねつおもしろさうにみゆる哉囀る比(ころ)のひはりけの駒(46)
一葉の舟に帆かけて秋や来る今朝ふき出すは追つ手成るらん(46)
垣壁に取りつく虫の哀れさよ如何に死にたうもなく声のして(47)
氷りゐし石鉢の柄杓引き折りて手水えつかひがたき事かな(47)
祢宜神子がかぐらの役を仕舞ひては皆我が宿へかへり申しす(47)
いつ甑(こしき)しかくることのなきままに竈は苔をむしにける哉(48)
とありしと我が身の昔いひしらべいけんこく社(こそ)いけんくさけれ(48)
 
入安(生没年不詳)
 堺北庄の人(銀葉夷歌集)
【著作等】
『入安狂歌百首』(1610年)
春くればいろも花香も別義にてやどの大ぶくたつかすみかな(10)
河内女が手づからとりていひもりの山のはかすみたなびきにけり(10)
春の野にみなつくづくしかたやして日も暮れすきなすまふとり草(10)
ぬぎて今日かへすがへすもはづかしや花みるほどのかりきぬのそで(10)
さらさらにあられん物かあられふるささの一夜もささをのまずは(10)
雨風にみのもさなへもさみだれてしのぶももまで見ゆるさをとめ(10)
水まさる沢辺に匂ふ藤ばかますそをひたさばざこやたまらん(10)
かきごしにししする音の聞こゆるはかの十六になる人ならん(10)
今はただ腿もこぶらも播磨潟飾磨の徒(かち)の旅は苦しも(15)
だれもみな諸行無常や極上をむくる茶の湯のあはれ世の中(15)
 
は行 住友伯水(生没年不詳)
 『銀葉夷歌集』に95首入集。
 作者之目録「摂津 大阪并所々」 
さいめよりあらく吹きこす春風に花の浪たつうら屋なりけり(78)
そよとだに風もふかぬに禅寺の花ちる事よいかなるか是(78)
聖霊のちさうのためにそなへ置く瓜もなかごは仏ならずや(80)
雲の浪こいで出でぬる月の船の棹になりてやわたる鳫がね(80)
月弓(つくゆみ)のはすの違ひしやくそくはひくにひかれぬ用とおぼせよ(80)
淀川の月の光ものりあひの船賃にをく露の玉かも(81)
※籠の内に思ひを入れてをくらるるかたじけなしの心也けり(81)
人とはぬ隠居の門ををとづるる風のみやげは木の葉成りけり(82)
春の夜の一夜もさぞな長あくびああすうあすと待ちこがるらん(84)
千話をしてくらせやあののものさしの一寸先はやみの世の中(85)
中々に君をしらぢがましじや物もんしやいもなく思ひそめぬる(85)
千話文をむすぶ契りはもろともに思ひまいらせ候(そろ)べく候(そろ)(86)
銀薄がをしてる海をながむれば只一枚の白なみの色(88)
あばらやのあるるをままの天井は下にゐるさへねずみなりけり(89)
小夜更けて風にまたたく行灯のかげさしそゆる油つき哉(89)
うけがたし人身よりも爪の上にのせてすへぬる灸のあつさは(92)
 
藤本由己(一六四七~一七二六)
 ふじもとゆうこ。初号を松庵、後号は理庵で春駒翁とも号した。由己は字。京都の生まれ。儒学と医術を学び、水戸家に仕えた。その後、医師として柳沢家に仕えた。江戸駒込の藩邸に勤仕したが主家の移封に従って大和郡山に転じた。墓所は大和郡山の瑞竜山雲幻寺(良玄禅寺)。
【著作等】
『春駒狂歌集』(1713年)
『甲州紀行狂歌』(1718年)
『続春駒狂歌集』(1721年)
風のたより匂ひををくる梅の花あるじるすでも春を忘れぬ(104)
鶯がいまだなかぬと申すとも梅さへさかばやがて来い来い(104)
おそば衆打ちかたらひて是からは花見にいざやよそへでんがく(104)
花ならば散ると申さん吉野紙すきとをりてや螢みだるる(104)
日はくるる人にとらるるつつまるる又はなたるる螢みだるる(104)
駒込や風の手づなの一通りかげをのつたる夕立の空(104)
ひかひかと草葉に露ぞ置きそむる秋にあふぎの銀かなめかも(104)
年に一度おあひなされてぬる数はいくつときかまほし合の空(104)
ひろい江戸引く手あまたのその中につつてんとはやるいをぬけ舟(105)
ふるの蓑唐人笠でちやるめいらふく瀟湘の夜のあめうり(105)
暮れかかる江にふらすこのちんたには天さへ雪の花にええりや(105)
高つきの盆のあしべに落つるなり客たちあさる菓子の落鳫(105)
永き夜もそらたきしめて香炉峯すだれあげやの秋の月影(105)
これはなむめうたん柿のふうみよくうまいにたれもほれげきやうかな(105)
はいれうの味はわるいぞさけを柿にとりかへられてこれはしぶしぶ(105)
元日はうしの角文字つきぬ世のすぐなる文字の御代ぞめでたき(105)
花はただ目に見たばかり是は又はにあぢはひし吉野みそかな(105)

良玄禅寺(奈良県大和郡山市野垣内町2-2)

藤本由己の墓を尋ねて
井上方碩(生没年不詳)
 『銀葉夷歌集』に71首入集。
 作者之目録「摂津 大阪并所々」 
是や此れよめなをつかふ料理にはあとよりいたせ蕗のしうとめ(78)
みるからにひれある人の家ゐには玄関口もささでさし鯖(80)
秬にあらず稗にもあらで畑際にほにほのそふる薄なりけり(80)
月弓のひくにひかれぬ用ぞとてやくのちがふは大はずぞかし(80)
真白にて丸う見事なもち月を申さば是もてん夜もの也(81)
君か代の久しかれいと祝ふてふ書き初めに先づめでたく歌詩句(83)
我恋はちぎの棹かやふらるれはおめにかかりて猶思ひます(84)
物さしのさしてそれとはいはずとも寸の情けをかけて給はれ(85)
是やこの娌(よめ)とり肴いださるる魚も契りもおなじ海老(85)
浮雲やおこし米あるかたがたにあめもふる程うるる両みせ(90)
武蔵野やさすか上戸の盃にたらぬもわろしこすもうるさし(90)
から笠のえしれぬ人の心をばとかくろくろになすよしも哉(90)
ちぎならで是も同じきふり物の雨のあがりを待つ問屋かな(91)
切り艾ふじ三里五里やく灸に猶あしからのはこびよからふ(92)
捨て坊主ともいはばいへ世の中に髪筋ほども望みあらねば(93)
煩悩の犬は地獄の鬼よりもこはき物ぞとおもほゆる哉(93)
 
豊蔵坊信海(一六二六~一六八八)
【日本人名大辞典】
江戸時代前期の僧,狂歌師。 寛永3年生まれ。山城(京都府)石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)豊蔵坊の社僧。豊蔵坊孝仍(こうじょう)の跡をつぐ。松花堂昭乗に書を,小堀遠州に茶道を,松永貞徳に俳諧(はいかい)をまなぶ。狂歌をよくし,門人に永田貞柳がいる。貞享(じょうきょう)5年9月13日死去。63歳。名は孝雄。字(あざな)は子寛。別号に玉雲翁,覚華堂。作品に「狂歌鳩杖(はとのつえ)集」「豊蔵坊信海狂歌集」。
【著作等】
『孝雄狂歌集』(写本、1790年)
『豊蔵坊信海狂歌集』(写本、1814年)
『信海狂歌拾遺』(狂歌大観編)

【YouTube講座】
 豊蔵坊信海~石清水八幡宮の社僧~
 豊蔵坊信海~故郷~
 豊蔵坊信海~書簡「故郷ニ達候事」~
 豊蔵坊信海~親不知子不知の国へ~
 豊蔵坊信海~石田末得と半井卜養~
 豊蔵坊信海~京都時代の北村季吟と~
 豊蔵坊信海~永井尚政と『狂歌旅枕 上』~
 豊蔵坊信海~永井尚政と『狂歌旅枕 下』~ 
 豊蔵坊信海~その人脈、武家篇一~
 豊蔵坊信海~その人脈、武家篇二~
 豊蔵坊信海~その人脈、公家篇~
 豊蔵坊信海~その人脈、文人篇~
 豊蔵坊信海~徳川光圀と淀屋重当~
 豊蔵坊信海~弟子 珍果亭言因~ 
 豊蔵坊信海~その史的ポジション、惟中より貞柳へ~
 豊蔵坊信海~その史的意味を問う、箔の小袖に縄帯の論~
おもしろしつばさもしろし山がらすいく世かふじの雪にさらして(68
難波がたみじかきあしの水鳥は言葉の海の底はさぐらじ(68)
くりかへしつかひこそやれくだ鑓のいらふいらじの心みむとて(68)
ばくちをは蝶々とまれなのはたに判形(はんぎよう)居(し)てさする一札(68)
春さむき空にも人のはだぬぐはうまれ庄野のよき所がら(68)
うらやまし地獄のかまにいりぬへき業をぬけたるしやくの依狠は(68)
時鳥こゑをきくより筆とりて一首のうたをすみぞめの茶や(68)
ねていびきかきくらしぬる乗物のゆりわかどののもとの身やこれ(69)
ちとゆかる我がふるまへは親しらず子しらぬ国の人といはめや(69)
弟子に寺をゆづりて世をもいとひ川君にあふせのありやせんもし(69)
あふてさてこよひ更(け)るをしらなんだたぶるうどむの話しすぎて(69)
たぬきたぬきごまのけぶりにむせぶともはらつづみうつ楽しみはなし(69)
とく人のなきかまくらはさびはてて草のみふかきさととあれぬる(69)
浪まくらうつつのやうに起きつ寝つ夢路きよみが関やこれなん(69)
大和竹のをさへやよはき堂宮のあつたらものぞ屋ねはまくるる(69)
御使ひかはいらさんせい入りさんせいふみばこそこにおかさむせいのふ(70)
むつかしき山川海をこえて来てもはや苦はなややがて宮古路(70)
燈籠なくて大津の雨に駕籠の戸をあげつさげつに辛苦こそすれ(70)
無馳走(ぶちそう)をきらひ給はでやがて又上野といふ殿(以下欠)(70)
三国のやまのうちでは冨士は伽羅あのそらだきの煙りみるにも(70)
気も空も晴れにし月を宮古ぞとのぼれば我が枝まめやさて(70)
をきまよふ霜夜の道のかごの内はげにもみかんのつめたいやのふ(70)
此のごろの寒をいたまず我が山にのぼり給ふはわかさ成りけり(70)
大阪へやがてこひとの地黄煎あまい詞にちよいとのる舟(70)
網の糸でくくり枕やぬれそひてめごとにあまるなみだ成るらん(71)
秋の夜の長過ぎたるに御朱印を月星とまつ武蔵野の原(71)
なでてみよ気のくすり湯に入るからにすんへいるりくはうの如来はだへを(71)
春雨のかかれるゆへにせんかたなさや海道をかへり船かな(71)
那智八十高野六十やはたにはけふ四十三我うしろやく(71)
身の上の丹波ごえするはじめにはまづ借銭をさえのさかかな(71)
借銭をこひつめたらば帯ときてはだかに成りてねてやかからむ(71)
おちの人のしんだといふにはつと扠(さて)ちのあがりたるここちこそすれ(71)
おつともせいでいつそいはじや水鳥のおもひゐおもひゐ名残おしおし(72)
八まんへまいるたびたびつけばげに是ぞすずかけばとの杖かな(72)
酒をさてすき頭巾とはつく杖の竹のよよまでかたりつたへた(72)
そろそろと自然こしきとなる身かなささらの竹のすつた世の中(72)
成つてさてみたや空ふく風の手になでてよふじの雪の肌えを(72)
くもなくて硯の海を出でたるはさてもみごとのすみの江の月(72)
雲となりめぐりて春は立ち帰るふじは世界の雪のふるさと(73)
歌袋の口のあがればもろともに財符もつれて空にふはふは(73)
文の内に御礼申さばあさくらやあいましてさておもひさんせう(73)
正直のかうべにやどる神のあればやしろの家にためた財宝(73)
古郷をこふるおもひの深くさに露置きまよふすみぞめの袖(73)
東路をはたやるやうに行き来していつかにしきをきてかへらまし(73)
かけておし忍ふ若衆の口吸ひて夜をあかすべき菊の下葉を(73)
のりもののよしだとをれば窓よりもかほつんだいてあふたうれしや(73)
ゆひかひの有りもやするといそしまでたどる袂に浪はこえけり(74)
命毛のながき五十の筆ばこを明けてこころむうのとしの春(74)
雪ふればなべておしろいますかたの鬼瓦さへけさはだてして(74)
いはし水の井にすむ蛙時を得て小田原の殿に申すことぶき(74)
山も川もおぼろおぼろとかすみ絵にかたわれ月の山水と出た(74)
しつらいを蝸牛のつののつかまつり何といほりのものづきやのふ(74)
あはれただふつつふられついきもよくねみだれ髪のちやせんやごろず(74)
われことし後住(ごじゆう)にはなれありてうきいのち也けりさよの中山(75)
御酒によふて足もとよろつけばまだあかさかのうちに帰らふ(75)
越前のものなりければ我が宿へいのふ峠の孫左つれなや(75)
せなかには重荷をおふてわれことし五十三つぎのむまの春かな(75)
京へとてまだ宵ながら出でぬればかごの底にや我やとるらん(75)
御免あれ急用あれは御返事も尻をからけてはしりかき哉(75)
あなたへひよむこなたへひよむと風になびく是こそ雲の帯ぐるまなれ(75)
後々まてもつがひつがひにはなれずに是そ屏風のおし絵也けり(75)
菩提やか妙なる歌の言因にかの蓮台にのる菓子袋(76)
初にきた隔心がまし馳走すな名をばゑんていしつたお人じや(76)
母をすくふためし有明の月ほどなこれは菓子盆それはうら盆(76)
見る人も見らるる花もさつとひまあきのさくゐの珍菓亭哉(76)
くろごりややがて夜あけてしろごりやひつつれだつた京のぼりかな(76)
京までの同道はよしともなれどわれはかごにてふしみどきはじや(76)
やがてやがて香の花のと供せられ扨かのきしにわたりものかも(77)
父の気色もはやゑいかもむびやうにて命ながけんめで鯛屋かな(77)
けふ御礼いちいち首尾のよかれかし各心中に御祈念をして(77)
梅咲いて大木小木の花ながめあぶるかき餅みそじ一もじ(77)
弟子はけふ麓の野辺をたどるかと心にかかる富士の白雲(77)
ひげまんをするとはなしにをとこ山七日急いて八日にすらり(77)
御祈祷の御礼納めて如律令(によりつりよう)いはふて三度急急の急(77)
秋風とつれたつとてもひえはせしかさねかさねのたひ衣にて(77)
墓が消えた!! 


足立寺史跡公園、京都府八幡市西山和気

豊蔵坊信海の墓訪問記



豊蔵坊信海ゆかりの地を歩く
細川忠興(一五六三~一六四六)
【大辞林】
安土桃山・江戸初期の武将。細川幽斎の子。号は三斎。織田信長・豊臣秀吉に仕え丹後宮津城主。関ヶ原の戦いでは徳川方に属し,小倉四〇万石を領。和歌・絵画・有職故実に通じ,茶の湯は千利休門下七哲の一人。室はガラシャ。
【著作等】
『三斎様御筆狂歌』(1590年)
穴きたな江しりを出でててゆく人のあしからくだりかかるはこね路(9)
米のねはふじより高く成りにけり陣の賄ひいかにするかの(9)
武蔵野でけふはやき米かみちらしつまへこぼれりそれもくいけり(9)
名にしおふ日光山をながめてもものをばくはで行くぞかなしき(9)
兵粮もなすののはらのぢんがへにおつる涙やしらかわの関(9)
みちのくの浅かの沼の花がつをかつへし人のくいやわたらむ(9)
浅か山かげさへ見ゆる山のいも朝くうは夜のじんいらぬかは(9)
かつへつつここへきた田てしろしろとみれどくはれぬもち月の空(9)
夏ごろもまだ其のままに冬のきてさむさましたにやどるたび人(9)
 
ま行 松永貞徳(一五七一~一六五三)

【日本人名大辞典】
織豊-江戸時代前期の俳人,国学者。 元亀(げんき)2年生まれ。父は連歌師松永永種。九条稙通(たねみち),里村紹巴(じょうは),細川幽斎に和歌,連歌をまなぶ。20歳ごろ豊臣秀吉の右筆となったが,関ケ原の戦い後は私塾で和歌や俳諧(はいかい)を指導した。貞門俳諧の祖。承応(じょうおう)2年11月15日死去。83歳。京都出身。名は勝熊。別号に長頭丸(ちょうずまる),逍遊軒,延陀丸(えんだまる),明心など。家集に「逍遊集」,著作に「新増犬筑波集」「俳諧御傘」など。

【著作等】
『貞徳百首狂歌』(1636年)
棹姫の裳すそ吹き返しやはらかなけしきをそそとみする春風(21)
恋に人腎虚するこそ道理なれ見そめしにだに腰がぬくれば(21)
銭金でねをさすならば鶯の法法花経も一ぶ八くはん(21)
とととととけふたたかるる七種やおひし野原のまま子なるらん(21)
年男あふて日数もたたざるにはやくもとくる雪女かな(21)
うまさうに草くふ音ぞ聞こえけるこれや霞の中のはる駒(21)
業平の折句の歌のまねをせばたちまち恥をかきつばた哉(21)
玉かつらくるる夜毎にみだるるはこれや螢の兵部卿殿(21)
極楽でのらむより只いつまでも死なでながむる蓮ともがな(21)
月故にいとど此の世に居たきかな土の中では見えじと思へば(22)
凉しさを巻きこめてくる文月は一葉の風のちらし書きなり(22)
生きながらしほしたやうに水鳥の翅も箸も霜ぞ降りける(22)
をの山や煙にあたる草木迄やかねど炭の色にこそなれ(22)
おもひとは只大石のごとくにてすてんとすれどちから及ばず(22)
うらめしや思ひは鬼と成りぬともさすがに君をくひはころさじ(22)
名人の流れをくめど末の代は万の道が下手のかはかな(22)
雀ほどちいさく老いの身はなれどうひたる人はおどりわすれぬ(22)
生るるも死ぬるも人はおなじ事腹より出でて野原へぞ入る(22)
借銭も病もちくと有る物をものもたぬ身と誰かいふらん(22)
衣がへの今日しもわたをぬかるるは魚の腹もやう月なるらん(39)
不思議やな風にまたたく灯のきえぬと思へは螢にて候(50)
しうとめにふすべられぬる夏の夜は紙帳のすみでほゆるよめかも(50)
しやこめなふ三五夜中の月すめばこんこんるりの世界とぞなる(52)
人の欲たとへんかたはなかりけり冨士の山にもいただきぞある(61)
 
水谷李郷(生没年不詳)
 永井走帆の弟子。
【著作等】
走帆詠・李郷編『狂歌種ふくべ』(1737年)
雨もふれ腰もふれやれしつほりとたのみますげの笠踊衆(119)
十七の月も仲人があつたやら入るかた見れば武庫の山のは(119)
今ン日よりからくりかはる冬の景自身番所に火がともります(120)
いきた象を見しは卯月の廿日にて毛さへ色さへ鼠色なる(121)
自由さは橋の数さへおほ坂の栄えを爰(ここ)と渡る初東風(148)
花代のいらぬあやめをやらふとて御持参うれしいけてよし沢(148)
何事のおはしますともしらやまの神楽に巫か靨(えくぼ)こぼるる(149)
田楽も扨やはらかや鬼つらの名めしはこはい筈とおもふに(149)
 
塘潘山堂百子、百子堂潘山、摸稜舎百子
(生没年不詳)。紀海音の女婿
 編著『狂歌糸の錦』(1734年)
【著作等】
貞柳の七回忌追善集、百子編『狂歌餅月夜』(1740年)
あすの夜はかけかよむべはまだ若しけふの今宵は丸きもち月(114)
望月をおのぞみなれど今日はきれたこざれこんどの豆の粉の月(114)
御本社はさいふにいます神なれば金銀自由自在天神(141)
世に住めば扨も願ひのいと多き小判付けたる笹に短尺(142)
ぞべぞべとちちたる春の遠ありき子にかこつける恋もする哉(146)
月見んと難波の川の船遊び時々にくき橋くもり哉(151)
けふよりを夏女房のはじめにて衣かへよき尻やふるらん(151)
ちやうちんでもちゐられしも老いゆへと門口でつい御礼申した(151)
 
や行 雄長老(一五四七~一六〇二)。
【大辞林】
安土桃山時代の学僧・狂歌師。京都建仁寺塔中(たつちゆう)如是院の長老で,正しくは永雄長老。母は細川幽斎の妹。近世狂歌の祖と称される。著「狂歌三百首抄」「雄長老百首」など。
【著作等】
『雄長老狂歌百首』(1589年頃)
まねきよせてばかさんとてや秋ののにふれる狐の尾花なるらん(8)
春毎に去年より物の見えぬ目は空にしられぬ霞なりけり(8)
よるごとに式部がそそや洗ふらしむすぶいづみの水のくささは(8)
田のはたに家は作らじ度々の検地の衆の宿にからるる(8)
君がかほ千世に一たびあらふらしよごれよごれて苔のむすまで(8)
やぶれじな理にくらからぬ君が代は天下太平国土あんとむ(8)
おうぢうばひうばひおうぢことごとく死なずに居ては何を食はせん(8)
金ひろふ夢はゆめにて夢のうちにはこするとみし夢はまさ夢(8)
鹿の毛は筆になりても苦はやまずつゐにれうしのうへではてけり(18)
 
ら行 栗柯亭木端(りつかていぼくたん)
(一七一〇~一七七三)
【著作等】
木端編『狂歌ますかがみ』(1736年)
【YouTube講座】
 豊蔵坊信海~その史的意味を問う、箔の小袖に縄帯の論~



「近世上方狂歌叢書」50人集、に続く
短尺に今宵たちぬる雲紙よふたつの星の中なへだてそ(143)
をときけば誰も心はうつばりのちりつててんのおどりさみせん(143)
正直の頭(こうべ)もいたし神無月あまり時雨の誠すぎるで(143)
たけたかふたけ長ならてうつくしふよふいひなしたかつらきのかみ(144)
こひ死ぬる夜半の煙の雲とならば君か洗濯の日毎に時雨れん(144)
傾城の浮き身の上を夕時雨すいとふすいにふりみふらすみ(144)
なき人をかぞへてみれば三つ四ついつぞは我もよみやこまれん(144)
むかしむかしの咄と成りてさるの尻まつかうくさふなる親仁達(144)
本復の日数はひいふうみかきもりゑじかりまたも今しばしなり(145)
すほうではあしうかがめはひだおれて身のいづまいがむつかしうなる(145)
見たらなを我をや折れなん大象の長ひはなしを聞くにつけても(145)
名人のゆかりの色の花あやめあやなおやぢのおもかげぞする(145)
此の氷水より出ずに砂糖より出て砂糖よりあまきあぢかな(145)


栗柯亭木端の墓訪問記
 


 私の五句三十一音詩史   夫木和歌抄と狂歌   狂歌とは何か~上方狂歌を中心として~ 
 いわゆる天明狂歌と少女のいる風景   浅草寺絵馬事件~一本亭芙蓉花と大田南畝~   近代短歌と機知 



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