私の五句三十一音詩史
吉岡生夫(「短歌人」平成19年3月号)
 一、はじめに

 歌人としての私のキャッチフレーズは「私が好きなのは和歌ではありません。/私が好きなのは狂歌ではありません。/私が好きなのは短歌ではありません。/私が好きなのは和歌の『歌』、狂歌の『歌』、短歌の『歌』。/私が好きなのは五句三十一音の定型詩すなわち歌」である。
 短歌を作り始めた頃は現代短歌があった。そして近代短歌があった。そしてそれ以前は和歌という名称で事足りていた。短歌と和歌の間には大きな段差があった。しかし次第にそれがそうでもなくなってきた。和歌の時代にもドラスチックな変化があった。名称変更を伴う大きな段差は明治に入ってからだけではなかったのである。

 二、『万葉集』と『古今和歌集』

 『万葉集』において五句三十一音の定型詩はどのような名称で呼ばれていたのか。小学館の日本古典文学全集に収められた『万葉集』を手に取った。対象に選んだのは最初の巻一から巻三、東歌の巻十四、戯笑歌の巻十六、最終巻で防人の歌の巻二十である。まず巻一から巻三までの目録を見ると長歌は「歌」とある。短歌も「歌」である。長歌と短歌がセットになったときは「短歌」が三十七例、「反歌」が二例、長歌と短歌をまとめて「歌」が一例、このうち「反歌」は「かえしうた」であり、歌体の名称としては「歌」である。巻十四の目録は「雑歌」「相聞往来歌」「譬喩歌」「防人の歌」「挽歌」、いずれも歌の部立であり、また分類である。巻十六は巻一から巻三と同様で長歌とのセットは二例、いずれも「短歌」である。巻二十は五例、これまた「短歌」である。調査した中に「和ふる歌」が十一例、「和へ奉る御歌(歌)」が九例あるが、この種は「追和する歌」「贈る歌」「讃むる歌」「戯り嗤ふ歌」等、枚挙に遑がない。また巻五の目録に「書殿にして餞酒する日の倭歌四首」があるが、これも一般化していない。
 畢竟『万葉集』に登場する五句三十一音詩は「歌」ないし「長歌」に対する「短歌」であった。これを大枠の「和歌」で括れば見えるものが見えてこない。むしろ見えるものを見えなくしてしまう、そんなトリックが働くように思えるのである。
 『万葉集』の掉尾を飾るのは大伴家持の「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」天平宝宇三(七五九)年、因幡(鳥取県東部)国における一首である。
 それから時を隔てること一四五年すなわち延喜五(九〇五)年に『古今和歌集』が奏上される。『万葉集』の私選に対して勅撰かつ文字通りの「和歌」集であった。
 この二つの歌集の間に八〇四年『凌雲集』、八一八年『文華秀麗集』、八二七年『経国集』と勅撰の漢詩文集が続く。いわゆる国風暗黒時代である。六歌仙の一人、在原業平は延喜元(九〇一)年に撰進された『日本三代実録』(吉川弘文館『日本三代実録後篇』)において「業平ハ体貌閑麗。放縦ニシテ拘ラズ。略ボ才学無シ。善ク倭歌ヲ作ル」と書かれている。「才学無シ」の箇所は「才学有リ」の誤りとする説もあるそうだが小沢正夫の増補版『古今集の世界』(塙書房)には「奇妙な評価」とした上で「業平に、どの程度の漢文学に対する知識があったかは問題である。少なくとも、かれがその同時代人であった菅原道真・紀長谷雄・大江千里と同程度の漢文学的知識の持ち主であったとは思われない」とある。端的な例は青木生子の「在原業平」(弘文社『日本歌人講座』)で「才学とは漢詩文の学をやはり意味すると思う」と述べている。そういう時代であったらしい。
 勅撰和歌集の最後は『新続古今和歌集』、成立は永享十一(一四三九)年である。

 三、短歌と和歌

 『万葉集』の特色は東歌であり、防人の歌であり、戯笑歌であろう。換言すれば地域的に広範囲の歌を集めていることであり、多用な階層の人々の作品が見られることであり、雅俗ないまぜ種々雑多な作品が同居している点である。それらが『古今和歌集』以下の勅撰和歌集でどのように扱われているのか、それを調べてみることにした。
 東歌は『古今和歌集』の巻第二十に大歌所御歌として登場するが以後では見出すことができなかった。防人の歌については為す術もない。おそらく零だろう。ちなみに国際日本文化研究センターのサイトに和歌データベースがある。作者名ではないが語句検索で「さきもり」を入力すると十三件がヒットする。九件が奈良時代、四件が鎌倉時代、うち後者は『歌枕名寄』と『夫木和歌抄』であった。戯笑歌は存在しない。そこで誹諧歌について報告しておこう。二十一代集のうち誹諧歌が設けられているのが七集、三分の一である。歌集名は次のとおり(括弧内は全作品に占める比率)。『古今和歌集』(五・三%)、『後拾遺和歌集』(一・七%)、『千載和歌集』(一・七%)、『続千載和歌集』(〇・九%)、『新千載和歌集』(〇・八%)、『新拾遺和歌集』(〇・九%)、『新続古今和歌集』(〇・九%)。やはりその地位は低いという印象である。
 以上は短歌が和歌になって消えたもの、反対に顕著になったものが歌枕である。先の『古今集の世界』には「万葉時代には大和の人たちはしきりに旅をして、その旅の歌を数多く詠んでいるが、『古今集』以後の作家は次第にその活動範囲が狭くなって、いわゆる鴨・桂川の流域だけがかれらの天地になって来るのである」という一節がある。このような土壌の上に歌枕はあるらしい。安田純生は『歌枕試論』(和泉書院)の「あとがき」で「おのおのの歌枕が歌人たちによって、どこにあると信じられ、どのようなイメージで捉えられていたか、あるいは、歌人が歌を詠作するとき、或る歌枕をなぜ思い浮かべ、どうしてそれを選びとったかといった問題に興味をそそられる」と執筆の動機を明かし、『歌枕の風景』(砂子屋書房)では「歌枕を、単純に、和歌に詠み込まれた地名と解するのは、誤解が生じやすいのでよくありません。歌枕は、むしろ、歌に詠み込むことのできる地名と考えるべきでしょう」と述べ、私たちを歌枕発生の現場に案内してくれるのであった。
 ではこのような差違はどこから生まれてくるのか。引用のパッチワークになるが恐れずにいこう。伊藤博の『萬葉集相聞の世界』(塙書房)によると「萬葉の貴族は、京師内でもっぱら風流生活を志向しながらも、その背景や基盤として片や田舎の生産機構を直接経営するという、二面の生活を送っていた」、これに対して「後の平安京こそは、一方に、みずからの土地を経営する土豪性をぬぐいさった完全な都市貴族のみによって、形成された」。この違いが庶民性への共感の有無にもつながっているというのだ。
 ちなみに井上満郎の「平安京の人口について」(学術文献刊行会編『日本史学年次別論文集『古代(一)』一九九二(平成四)年版』)によると初期ないし前期平安京の人口は十二万人前後、逆算すると貴族・官人と天皇・皇族つまり宮廷文学に参画できると思われるのは一万五千人、全国人口約六〇〇万人に占める比率は〇・二五%にすぎない。

 四、狂歌の発生

 和歌の輝きが頂点を迎えた頃、インフォーマルな場で行われていたのが狂歌である。たとえば定家三十歳、建久二(一一九一)年閏十二月四日の『明月記』に「相次で一条殿に参ず。昨日の仰せに依りてなり。夜に入りて、百歌を読み上げらる(御歌・入道・予。三百首なり)。事畢りて当座の狂歌等あり。深更に相共に家に帰る」(今川文雄訳『訓読明月記』河出書房新社)とある。二十四年後の健保三(一二一五)年八月二十一日は「日入る以後参内し、鬼の間に参ず。少時にして頭弁参入。又右武衛参ず。此の間に、治部重長来たりて予を召す。御前に参ず。俄にして人々を召す各々参入し、連歌を始む(人名草を賦す)。一両句の間、狂歌合せ有り(両の方、各々の体を詠ず)。評定了りて按察参ず(夜半なり)。賦物を改む(魚河の名)。又五十句訖りて各々退出す。已に暁鐘なり」とある。
 また俊成の「和歌肝要」(風間書房『日本歌学大系』第四巻)は仮託された歌論書とされいるらしいが「俳諧といふは狂歌なり」の一節で有名である。このほか狂歌集で馴染みの深いのは頓阿の「井蛙抄」(『日本歌学大系』第五巻)である。曰く「後鳥羽院御時、柿本、栗本とておかる。柿本はよのつねの歌、是を有心と名づく。栗本は狂歌、これを無心といふ。有心には後京極殿、慈鎮和尚以下、其時秀逸の歌人也。無心には、光親卿、宗行卿、泰覚法眼等也。水無瀬和歌所に、庭をへだてて無心座あり。庭に大なる松あり。風吹て殊に面白き日、有心の方より、慈鎮和尚/心あると心なきとが中に又いかにきけとや庭の松風/と云歌よみ、無心の方へ送らる。宗行卿/心なしと人はのたまへどみみしあればききさぶらふぞ軒の松風/と返歌を詠じけり。耳しあればが、なまさかしきぞと上皇勅定ありてわらはせ給ひけり」。これなど眉唾物だと思ってきたが『明月記』の建永元(一二〇六)年八月十日「和歌所の輩ヲ狂連歌に籠め伏すべき由、結構す。下官・雅経等、尋常の歌詞を以て之に相挑む。此の事三度許りに及ぶ。事、叡聞に達し、彼方の張本等を召し抜く。長房卿・宣綱・清範(本儀ハ此の方なり。仰せに依り彼方に渡さる)・重輔、之を以て無心の衆と称し、態々狂句を出す。中納言(公)・雅経・具親、御方に候す。之を以て有心と称す」(定家四十五歳)などに照らすと真実を伝えているような気になるのであった。
 さてフォーマルな場で書き残される和歌に対してインフォーマルな場において「言い捨て」がルールだったという狂歌とはどこから来たのか。なぜフォーマルな場から閉め出されたのか。なぜ書き残されることが許されなかったのか。答は簡単である。それが和歌ではなかったからである。和歌が否定した世界、書き継がれることのなかった幻の短歌史なのだ。これを狭義の狂歌とすれば宮廷歌壇の外で作られる五句三十一音詩もあったであろう。これを私は広義の狂歌と呼んでいる。

 五、新体詩と短歌

 明治十五(一八八二)年の『新体詩抄』の出現を契機に和歌が短歌に変わっていく過程をながめてみよう、これが当初の目論見だった。まず明治二十九(一八九六)年に出た与謝野鉄幹の『東西南北』の自序に「小生の短歌と、新体詩とを輯めたるもの」とある。これに序を寄せた正岡子規は短歌と長歌という名称を使っている。但し、鉄幹も新詩社の清規では国詩としているし、明治三十五(一九〇二)年に『新派和歌大要』を出している。過渡期であろう。そして対立軸であった旧派対新派の旧派が後退し、新派対新派に移るのは鉄幹子規不可併称説の明治三十三(一九〇〇)年である。子規庵歌会が根岸短歌会となるのも同年である。このあたりを中心に資料を漁るつもりだった。しかし大正六(一九一七)年になっても歌道普及会編『新派和歌入門』という本が出ていたりする。この本では近代短歌が軒並み短冊扱いになっている。三行書きの啄木など二行にされた上に四句以下を数段落とされるのだからたまったものでない。話が逸れてしまった。ともあれ旧派和歌の存在を印象づける一冊であった。
 ところで昭和八(一九三三)年は由縁斎貞柳の二百回忌であったらしい。『上方』(三十四号)に掲載された菅竹浦編「柳翁没後関係年表」は「狂歌人の没落するにつれ、記念すべき事業を成すものもなくて経過し、遺跡は勿論その墓域さへ顧みられざる状態となれり」とその最後を締め括っている。前後するが明治三十四(一九〇一)年に旧派の入門書『歌まなび』を出した大和田建樹は明治四十二(一九〇九)年に『歌の手引 家庭百科全書』を出している。それなりの需要があってのことだろう。つまるところ潮目の時間はゆっくりと進むらしい。
 では近代短歌はいつからはじまつたのか。『現代短歌大事典』(三省堂)によると明治二十年代半ば説から一九一〇(明治四十三)年説まであるらしい。宜なるかな、である。

 六、鳥瞰図と今後

 五句三十一音の定型詩は名称を変えつつ時代の波をくぐり抜けてきた。そこには先行する五句三十一音詩の衰退があり、それを受けた復活劇があった。同じ歌体でありながら名称の分かれた狂歌と和歌の時代を補足すれば連歌、俳諧の連歌と流出する和歌人口、衰退する和歌に対して五句三十一音の定型詩すなわち様式が選択した自己防衛でもあったろう。近代に入って短歌が『新体詩抄』等の短歌否定論を乗り越えて復活を果たすとき和歌という柿本は枯れる。そしその和歌に添うように立っていた狂歌すなわち栗本も消失する。
 それでも喉の奥に刺さった小骨が気になるのは、敷島の道、歌道、国歌といった伏流水のせいだろう。歴史の重さは拭えない。しかし正史に稗史を接続することによって加味される野太さ、また意味性を排除した五句三十一音の定型詩観は、過去をリセットすることは無理にしても、リフォームには有効であろう。器の機能とは本来無一物にして縦横無碍、だからこそ歌は楽しいのである。
*参考*
 狂歌を五句三十一音詩史に回収する 狂歌逍遙録
句またがりの来歴  短冊短歌と応募原稿  歌の未来図〜文語と口語〜 
 歌の未来図〜あるいは歌の円寂するとき〜 字余りからの鳥瞰図〜土屋文明『山谷集』〜  夫木和歌抄と狂歌 
文語体と口語体  近代短歌と機知  狂歌とは何か〜上方狂歌を中心として〜 
狂歌と歌謡〜鯛屋貞柳とその前後の時代〜  談林俳諧と近代語〜もしくは古代語からの離脱一覧〜  用語論〜鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない〜 
用語論〜矮小化された近世の狂歌すなわち「上方狂歌」の名称について〜 一本亭芙蓉花〜人と作品〜  一本亭芙蓉花〜その失われた風景〜 
仙人掌上玉芙蓉   近世の狂歌〜ターミナルとしての鯛屋貞柳〜   インタビュー「短歌人」   
用語論〜文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ〜  口語歌、口語短歌は近代の用語。今は現代語短歌なのだ   



 狂歌年表  YouTube講座「吉岡生夫と巡る五句三十一音詩の世界」  兵庫県高等学校文芸部の皆さん 熱いエールを送ります 
 狂歌大観33人集 狂歌大観(参考篇)作品抄   「近世上方狂歌叢書」50人集  
   ス  ラ  イ  ド  シ  ョ  ー
 用語論〜鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない〜

 

狂歌とは何か、youtubeなら3分25秒、見え方が少し異なります

用語論〜矮小化された近世の狂歌すなわち「上方狂歌」の名称について〜

 

近世の狂歌、YouTubeなら3分35秒、見え方が少し異なります
用語論〜文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ〜

  

現代語短歌のすすめ、YouTubeなら3分15秒、見え方が少し異なります。

狂歌と天明狂歌
俳諧の連歌の発句は五七五
後発の川柳も五七五
しかし俳諧と川柳の軌道が
接近することはなかった

狂歌は五七五七七
後発の天明狂歌も五七五七七
しかし狂歌と天明狂歌の軌道が
接近することもなかった

俳諧と狂歌の軌道は接近し
ときに交わることがあった
鯛屋貞柳と西山宗因
貞柳を信奉した
一本亭芙蓉花なら蕪村

朱楽菅江は川柳も作っていたらしいが
俳諧と天明狂歌の関係はどうだったのだろう
国語辞典で「天明調」を引くと
俳諧の頽廃俗化を嘆く、から
蕪村らの
清新にして壮麗な
云々が出てくる

五句三十一音詩としての狂歌と
戯作文学としての天明狂歌

片や
八雲立つ
出雲八重垣の時代から
受け継がれてきた詩型であり
片や
鳥がなくあづまぶりはわづかにはたとせばかりこのかた
しかも線香花火に終わった詩型

その差は発句と川柳以上に大きかったようである


アクセスカウンター