「半どん」149号(2007年12月)に掲載したから11年を経て、ここに立っています。
仮名遣いと五句三十一音詩 | ||||
平成30(2018).5.25 | ||||
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『狂歌大観』(明治書院)の凡例には「本文」として「行移り・丁移り」「文字」「符号」「その他」と四項目に分かれて詳しいが、歴史的仮名遣いという言葉は一度も出てこない。底本のままなのである。『近世上方狂歌叢書』(近世上方狂歌研究会)も同様で「原本の表記については、出来るかぎり原本のおもかげを残すことに努めたが」云々とあるが、仮名遣いについての言及はない。『江戸狂歌本選集』(江戸狂歌本選集刊行会)も同様で「翻字に当たっては、できる限り底本に忠実にするよう心がけたが、活字化の都合上」云々とあるが、仮名遣いへの言及はない。これに対して『新編国歌大観』(角川書店)の凡例は「表記は底本のそれをできるだけ尊重したが、よみやすさへの配慮から、次のような処置をとった」とした上で「③仮名遣いは歴史的仮名遣いに統一した。(略)」とある。たしかに読者の側からいえば読みやすいだろう。しかし作者の側からすれば、どうなのか。いずれも古人であるから異議申し立てはない。だからといって何をしてもいいというわけではないはずだ。 以下、専門家に教えを請いながら、実作者として、この問題について考えてみた。 一、仮名遣いとは何か 一―一、『歴史的仮名遣い―その成立と特徴―』を読む 『歴史的仮名遣い│その成立と特徴│』(吉川弘文館)の著者、築島裕(つきしまひろし)(一九二五~二〇一一)は国語審議会委員を務めていた人物で、『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「仮名遣い」について執筆している。本書の解説を書いている月本雅幸によると「国語学者(日本語学者)の間ではよく知られていることだが、著者は通常歴史的仮名遣いを使用していて、それは書簡等でも同様であった」という。道理で巻末に「歴史的仮名遣いの要点」が置かれているわけである。これから歴史的仮名遣いで歌を作ろうとしている人には親切だろう。 本書で押さえておきたいのは「『仮名遣い』の二つの意味」で、「まず第一に、ある文献の仮名が、どのような状態で使われているか、という、『実態』を示すことばとしての意味である」(一五頁)、「これに対して『現代かなづかい』『歴史的仮名遣い』『新仮名遣い』『旧仮名遣い』などという場合の『仮名遣い』の意味は、実態(○○)ではなくて、仮名でことばを書き表すに当ってのきまり(○○○)、規則(○○)をさしている」(一五頁)、「だから、第一の意味の『仮名遣い』の場合には、『正しい』も『誤り』もない。ただその『状態』があるだけである。これに対して、第二の意味の『仮名遣い』の場合には、それを『正しく』守っているか、『誤った』用法であるか、二つのうちのどちらかであって、それ以外のケースはあり得ない」(一五頁)、さらに「歴史的に振り返って見ると、(略)社会一般で統一的に仮名遣いが行われるようになったのは、明治以来、近々百年ぐらいのことに過ぎない。それまでは、世間に広く通用する仮名遣いというのは存在していなかった」(一六頁)という点である。 一―二、『かなづかい入門―歴史的仮名遣VS現代仮名遣―』を読む 『かなづかい入門 歴史的仮名遣VS現代仮名遣』(平凡社新書)の著者、白石良夫(一九四八~)は略歴によると、前後を省略するが「大学教員を数年勤めたのち、83年に文部省(現文部科学省)入省。以来、国語教科書の検定に従事しながら、研究活動をつづける。現在、主任教科書調査官。博士(文学)。専攻は国語国文学」とある。 本書は「仮名遣の種類」(四一頁)として「記述仮名遣(特定の時代や文献や書き手における仮名のつかわれざま)」と「規範仮名遣(仮名のつかい方の規範または規則)」に分けられるという。前者が築島のいう「実態」であり、後者が「きまり、規則」に該当する。その「記述仮名遣」には「上代特殊仮名遣」「西鶴の仮名遣」「古文書の仮名遣」「平安仮名遣、など」がある。「規範仮名遣」には「定家仮名遣」「契沖仮名遣」「歴史的仮名遣(旧仮名遣)」(「歴史的仮名遣」は「国語仮名遣」と「字音仮名遣」より構成される)「現代仮名遣(新仮名遣)」「純粋表音仮名遣」がある。なお著者は「空海や紀貫之は歴史的仮名遣をつかっていたわけではない」で、「たとえば、九世紀における仮名のつかわれ方をさして、『歴史的仮名遣』とよぶ国語学者がいる。歴史的仮名遣は仮名のつかい方の規範につけられた名称であるから、規範仮名遣のなかった九世紀の日本人が歴史的仮名遣を念頭において仮名をつかっていたわけではない。この時代の仮名のつかい方(記述仮名遣)をもとにして定めたのが歴史的仮名遣(規範)であるから、結果的に表記が一致するだけの話である」(四四頁)、「学術用語としての『歴史的仮名遣』は、現代仮名遣が施行されるまえに日本人の規範であった仮名遣をさして言うのが普通である」(四五頁)という。 これに関連して、私の問題意識を繰り返すと、近代の規範仮名遣いである歴史的仮名遣いを近代以前に遡及適用する、しかも全時代を通じて、あたかもブルドーザーで地均しするように書き換えてしまう、塗り替えてしまうことの是非にほかならない。 二、歴史的仮名遣いとは何か 二―一、『日本語の歴史』を読む 平凡社ライブラリーの『日本語の歴史』全八巻は初版が一九六三年に出されている。本書の底本は第二版第一刷で、編集委員は亀井孝(一九一二~一九九五)・大藤時彦(一九〇二~一九九〇)・山田俊雄(一九二二~二〇〇五)の三名となっている。 以下、抜粋である。 「歴史的仮名づかいというものは、その基準とあおぐべき時代をどこにえらぶべきかで、これまた一様ではありえないという観点から、世俗にいうところの歴史的仮名づかいを、じつは〈契沖仮名づかい〉だとし、この名でそれをよんでいる(念のためにくどく説明するならば、契沖仮名づかいは歴史的仮名づかいであるとして、しかし、その逆は、真ではないのである。〈歴史的仮名づかい〉には、契沖仮名づかいとはまったくちがったものがあっても、理論的には、いっこうにさしつかえないわけなのである)。」(「7世界のなかの日本語」二〇八頁~二〇九頁) 「定家仮名づかいが現実の世界に君臨した時代に、そのときの日本語が明治政府の世にひろめた歴史的仮名づかいと一致しないかたちで書かれていても、これは、あやしむにたりないのである。(略)。西鶴や芭蕉が〈歴史的仮名づかい〉と無縁な文章を書いていることは、あえていうまでもないとして、それを歴史的仮名づかいになおして覆刻するならば、それのえせ歴史主義であることは、いうまでもない。もし西鶴や芭蕉をしてこんにちにあらしめるならば、これに対してなんというであろう。」(「7世界のなかの日本語」二〇九頁~二一〇頁) 「仮名づかいの問題は、明治時代において、しばしば論ぜられている。なかで、森鴎外が、明治四十一年六月の臨時仮名遣調査委員会において、その委員の一人として発表した演説は、仮名づかい改定の意見を粉砕したものとして、いまに記憶されている。ここで鴎外の演説はつぎのようにはじまる。『私ハ御覧ノ通リ委員ノ中デ一人軍服ヲ着シテ居リマス』と。もし、彼が、軍部をかさに、それで文部当局その他を威嚇するはらで会議にのぞんでいるとすれば、それは、この場合、かならずしも人間鴎外の一面を示すだけのものではない。日本では、国語問題のごときも、また、ただに文化への純粋な関心からかえりみられるだけのものでないところに、まさに日本に特有なその性格があるというべきである。(略)。大槻文彦と芳賀矢一(はがやいち)も、森鴎外とともに、右の委員会の委員であった。この二人は、仮名づかいに改定賛成論者であったから、鴎外からもはげしい反対をこうむっているのであるが、その大槻について、芳賀が彼の演説で言及しているところによると『此間承リマスレバ大槻先生ガ演説ヲナスツタ時ニ天誅ノ葉書ガ飛込ンダト云フコトデアリマス(云々)』。」(「7世界のなかの日本語」二一一頁~二一二頁) 「〈歴史的仮名づかい〉が真に上からの権威のもとに厳格な意味で行われた時代を、もし明治四十年から、戦後の〈現代仮名づかい〉へのきりかえまでとかぎれば、じつは、それは、半世紀にもみたない短いいのちしかもっていないのであるが、それにしても、すでに、そのかぎりでも、現代の文化に根をおろしてはきたし、したがって、それなりの、いわば実績をもっているといいえよう。」(「7世界のなかの日本語」二二九頁) 二―二、『話し言葉の日本史』を読む 『話し言葉の日本史』(吉川弘文館)の著者、野村剛史(一九五一~)との出会いは『日本語スタンダードの歴史│ミヤコ言葉から言文一致まで』(岩波書店)であった。かねてから疑問に思っていたことがあった。それは方言分化が最も激しかったといわれる江戸時代、たとえば杉本苑子の『引越し大名の笑い』(講談社文庫)にも登場する松平直矩(まつだいらなおのり)(一六四二~一六九五)とその家臣団は、なぜ姫路から越後大野、姫路、豊後、山形、白河と言葉の国境を越えることができたのか。事例には事欠かないのであるが、そうした疑問に答えてくれたのが野村剛史の先の本であった。その該博な知識から歴史的仮名遣いについて学ぶ。 「歴史的仮名遣いとは、言語史のある一時代の仮名の使われ方に基づいて現在の仮名遣いを決定する『仮名遣い』である。明治期以来現在に至るまで言われるところの『歴史的仮名遣い』とは、大体十世紀の後半、すなわち先の源順(したごう)時代の仮名の使われ方を基準とした仮名遣いである。この時代の仮名の使われ方は、『いろは歌』に反映している。しかしながら『いろは』時代以外にも基準とされるべき時代が認められるはずである。たとえば、『あめつちの詞』に従った仮名遣いが考えられる。江戸期には『あめつちの詞』に反映している『衣』『延』の区別が発見はされていたが、広く認識されていなかった。五十音図は『あめつちの詞』に従うことによって、最も整然とする。江戸期の国学者は五十音図が大好きだったから、『あめつちの詞』についての認識が一般化していたら、必ずや『あめつちの詞』が『歴史的仮名遣い』の地位を獲得していただろう。上代が非常にありがたい時代ということであれば、特殊仮名を用いた『上代仮名遣い』を歴史的仮名遣いとすればよい。今日の『歴史的仮名遣い』は『復古仮名遣い』とも言われたくらいであって、所詮は恣意的な時代設定に基づく人工的なものである。また、時代を下げればワ行とア行の区別などは失われてしまうが、『じ・ぢ・ず・づ』四つの発音の区別が保たれている時代も認められる(室町時代)。『じぢずづ』は『四つ仮名』と呼ばれるから、この時代を基準にすれば『四つ仮名仮名遣い』が設定され、これも立派な『歴史的仮名遣い』である。要するに、明治期以来の『旧仮名遣い』は、確かに歴史的仮名遣いの一種には違いないが、『いろは歌』に基づいた『いろは仮名遣い』と考えるのが適切である。」(五六頁~五七頁) 「しかもすでに見てきたように、『いろは仮名遣い』の基準となる時代は短い。これは源順の時代であるから、十世紀の後半である。源順は、『和名類聚抄(わみようるいじゆしよう)』(『和名抄』)」という一種の漢和辞典(字書)を作った。そこには漢字の日本語の意味(訓訳)が万葉仮名で示されている(漢文による説明もある)。たとえば『天河』には『和名 阿麻乃加波』とある。万葉仮名は字面が漢字であるから、書写の際勝手な書き換えがあまり行われない。『源氏物語』の原本がどのようであるかはわからないが、おそらく『お』と『を』の発音は同一化していただろう。しかも写本でしか伝わっていないのだから、どの写本を見ても『いろは仮名遣い』が維持されているようなことはない。実は『いろは』を反映する大きな作品資料は『和名抄』しか存在しないのである。そのような次第であるから、江戸期に『歴史的仮名遣い』(いろは仮名遣い)を発見したと言われる浪花の真言僧の契沖(けいちゆう)は、その典拠としてしきりに『和名抄』を使用している。すなわち、世に言う『歴史的仮名遣い』とは『いろは仮名遣い』にすぎず、また『いろは仮名遣い』を直接に反映するまとまった作品資料は『和名抄』しか存在しないと言っても過言ではない。」(五七頁~五八頁) 「なお、定家において仮名遣いという問題意識が発生しても、それは言語感覚の鋭い個人の場合であって、大方の人々はそんな問題意識とは無縁である。院政鎌倉期以降のどのような書き言葉資料を見ても、おおむねは仮名遣いなどは無視されている(略)。しかしながら、中世以降『歌を詠み、文を書く』ということには教養の競い合いのような一面があり、そこでは『(定家)仮名遣い』がやはり問題になる。江戸期の契沖による歴史的仮名遣い(いろは仮名遣い)の発見以降も同様である。けれども『仮名遣い』が広く一般の問題となるのは、やはり明治期以降の近代国民国家の『国語教育』の成立を待たねばならないのである。」(六〇頁) 二―三、『かなづかい入門 歴史的仮名遣いVS現代仮名遣い』を読む 再度、登場を願う。 「地動説の以前と以後」より引く。「定家も契沖も、仮名の混乱が発音の変化に起因していることをしらなかったのだ」(三三頁) 「契沖は、万葉集研究の過程で、古代(一〇世紀以前)の真仮名文献においては、後生に見られるようなつかい方の混乱がない、という事実に気がついた(精撰本『万葉代匠記』「惣釈」)。(略)。この発見は、日本語研究史上、画期的なものであった。(略)。契沖は、古代文献に見えるこの真仮名表記がそのまま古代の発音の忠実な反映であった事実、後生の仮名の混乱が発音の変化によって引き起こされたという事実の国語史的発見に、あと一歩のところまで来たことになる。ところが、契沖は、表記が発音と密接に関係するとは明言していない。すくなくとも、自分の発見したこの現象を古代日本語の発音の問題と結び付けていないのである。(略)。契沖は、古代の仮名表記の拠ってきたるところを考えるよりも、これを規範とすることのほうに関心があったのである。」(八八頁~九〇頁、「真仮名」は「万葉仮名」をいう) 「契沖が古代文献から用例を採集したのが『和字正濫鈔』であるが、契沖の時代、その資料となる文献の整備は不十分であった。そのため、『和字正濫鈔』で掲げた語彙のすべてにその仮名遣を実証するための確実な用例があったわけではなかった。文献によることのできないものについては、語源を推定することによってその仮名を決定した」(九一頁) 契沖仮名遣と歴史的仮名遣の「違いの最大のものは、歴史的仮名遣が、外来語などごく一部の表記をのぞく、日常言語をもふくめたほとんどすべての日本語表記のための規範であるのにたいして、契沖仮名遣は、和歌や和文(擬古文)のための(ためだけの)規範であった、ということである。契沖仮名遣は、その規範のおよぶ範囲が、じつはきわめて狭くかぎられていた。契沖は、自分の発見した古代仮名表記のありかたが和歌や和文を書くときの基準になると考えたのであり、そのほかの文章のことは念頭になかった。(略)。江戸時代の文献に接している研究者なら、この時代の多くの文章が、学問的にただしい規範であったはずの契沖仮名遣では書かれていない、ということを経験で知っている」(一〇四頁) 「歴史的仮名遣がそのころの日本人の多くにとって、いかに負担であったかは、すでに明治二〇年前後、表音式仮名遣を要求する世論がおこったことからも想像がつく。それにこたえて文部省が同三三年、小学校の教科書で一部の語彙を表音式にしたが、不徹底だったため、すぐ元にもどした。あらためて同四一年から、表音式仮名遣を視野に入れた委員会や調査会・審議会などが設置されて、たびたび仮名遣改定案や表音式仮名遣案が出されては消えていった。表音式仮名遣への渇望のほどが窺えるのだが、容易に実現にはいたらなかった。実現を阻んだのは、仮名遣の本質を知る専門家の声よりも、歴史的仮名遣の学問的権威に漠然とあこがれる作家や文化人の情緒的な声のほうが強かったからである」(一一一頁~一一二頁) 「古典が歴史的仮名遣で書かれるようになったのは、近代に入ってからである。江戸時代には、歴史的仮名遣とは理念の異なった契沖仮名遣がつかわれていた。それも、古学という狭い世界でのことであった。伝統重視の堂上派のひとたちは、じつは、あいかわらず定家仮名遣で古典を書き写していたのである。あの宣長でさえ、わかいころは定家仮名遣の信奉者だった。古学勃興以前は、定家仮名遣が古典専用の仮名遣であった。定家以前に仮名遣は存在せず、表記は混乱していた」(一六五頁) 「定家仮名遣は古典を書写するという定家の都合で作られ、契沖仮名遣はいにしえびとの心を知るための階梯として、一部の尚古趣味の学者たちによって磨きがかけられた。歴史的仮名遣は、明治政府によって政策的につくられ、教育で叩きこまれたものである。百年ちょっとの歴史しかもっていない」(一八五頁) 三、定家仮名遣いとは何か 定家仮名遣いが載るのは『下官集』という書物である。『国史大辞典』で引くと「鎌倉時代の歌学書。一巻。藤原定家の撰と考えられる。書中の語『下官』による後人の命名。成立時期は明らかでなく、『先人』の語がみられる点から、父俊成の没した元久元年(一二〇四)以後、定家の没した仁治二年(一二四一)以前の間としかいえない。歌人の立場から、仮名で歌や草子を書く法式を五項目に分けて記したもの。特に『嫌文字事』の項は、仮名遣いに関する最初の記述で、しかも定家が実際に書き残したものとも一致し、注目される」とある。執筆者は樋口芳麻呂、参考文献として大野晋の「藤原定家の仮名遣について」(『国語学』七二)をあげている。 以下『かなづかい入門 歴史的仮名遣いVS現代仮名遣い』から引く。 先の「嫌文字事」の項に、「を」「お」、「い」「ひ」「ゐ」、「え」「ゑ」「へ」の三類八字について六十八の語例が示され、最後に「右、此の事は師説に非ず、只だ愚意より発す。旧草子を見て之を了見せよ」とあるが、語例のうち「こんにちの歴史的仮名遣と相違するのは、『をく(置)』『をとはやま(音羽山)』『おぎ(荻)』『おしむ(惜)』『おのへ(尾上)』『おりふし(折節)』『おる(折)』『かえで(楓)』『うへ(植)』『ゆへ(故)』『ゆくゑ(行方)』『おひ(老)』『いゐ(藺)』『つゐに(遂)』『よゐ(宵)』の一五語である。この数はわれわれに、定家仮名遣の原理が歴史的仮名遣(契沖仮名遣)のそれとは異なることを予測させる。とくに『お』『を』の仮名遣において顕著である」(五二~五三頁) この原理を解き明かしたのが大野晋で「『緒の音〈を〉』『尾之音〈お〉』に掲げられた語一七例を、院政期から鎌倉期にかけてのアクセント資料と照合してみた。すると、『緒の音〈を〉』の標目にあげられている八例の語のオがすべて、高いアクセントで発音されていたことばであり、『尾之音〈お〉』の標目にある九例がすべて低いアクセントであった事実をつきとめた。それをさらに、定家自筆(あるいはその忠実な模写)になる平仮名文献・古典書写本をつかって調査したところ、その基準、つまりアクセントの違いによって『を』と『お』とを書き分けるという基準は、完全にちかいかたちで徹底して守られていた。『下官集』にない語例についても、結果は同様であった」(五四頁~五五頁) 「イ音・エ音の書き分けについては、アクセントと関係がないようであったが、これは、最後の一行、(略)、とくに『旧草子を見て之を了見せよ』の一文は『え』の標目以下を指していると思われるが、定家は、これらの書き分けの根拠は古い文献にある、というのである。そして、古い文献に根拠をもとめるという方法が自分の独創である、と言いたいのであった。/そういった方法で定められた『え』『へ』『ゑ』の書き分け、『ひ』『ゐ』『い』の書き分けは、さきの定家の自筆本やその模写本で調査したところ、きわめて厳密に守られていることが明らかになった。ただ、定家のいう『旧草子』が具体的にどういうものであったかは、よくわからない」(五五頁~五六頁) 「仮名の混乱が発音の変化に起因したものだという事実を定家は知らなかった。(略)、定家以前の平仮名文学作品の写本は、たしかに表記が乱れてはいたが、『を』と『お』の混乱以外については、無政府状態というほどひどくはなかったからである。つまり、それぞれの語彙には表記上の偏りがあった。定家はそれを伝統的な表記意識の残存と考え、偏りの大きいほうの仮名を、いわば多数決の原理で規範に採用した。だから、かれは、『旧草子を見て之を了解せよ』と言ったのである。無意識の規範を意識化させた。沈黙の規範に声を与えたのであった。/だが、『を』と『お』については、多数決の原理がつかえなかった。そこで定家のつかった方法、それがアクセントの高低によるつかい分けであったのだ。このアクセントは定家の時代の京都アクセント、すなわち定家の生活圏の言語であった」(六九頁) 「『下官集』は平仮名文学作品書写のためのマニュアル本であったが、やがて『嫌文字事』の項目がひとりあるきして、後生、定家仮名遣の重要文献となる」(七七頁) 「定家のさだめた仮名遣を実行しようとする人は多かった。そのため、完備した規則集・基準書がもとめられるようになる。南北朝時代の和学者、行阿(ぎようあ)(俗名源知行(ともゆき)、生没年未詳)は、それらの要請にこたえて『仮名文字遣(かなもじづかい)』を著した。『下官集』の用例を増補し、定家が言及しなかった標目(『ほ・わ・は・う・ふ・む』)を追加した。以来、これが定家仮名遣の語例集の基として、ひろく流布するに至った。/行阿は、定家の仮名遣の原理を正確に理解していたようである。ところが、その正確な理解が、皮肉にも、定家仮名遣のなかでの混乱を生じさせる結果になった。/『仮名文字遣』における『を』『お』の書き分けが、定家の実行していた書き分けと相違するところがあった。そして、相違するオの音はいずれも、鎌倉初期と南北朝時代とでアクセントの変化したものであることが、これも大野晋によって明らかにされた」(八二頁) 「定家仮名遣は右のような矛盾をかかえ、内部に批判の芽を孕みながら、ときにはそれが顕在化しながらも、定家の権威を背景にして、行阿の『仮名文字遣』をもとに多くの実用的な仮名遣書がつくられた。こうして、定家仮名遣は、定家個人の基準から社会に運用される規範仮名遣になったのである。したがって、一般に『定家仮名遣』の規則といえば、この行阿作成の語例集にあるものをいう」(八三頁) なお契沖仮名遣いの方は楫取魚彦(かとりなひこ)(一七二三~一七八二)・本居宣長(一七三〇~一八〇一)・村田春海(一七四六~一八一一)・清水浜臣(一七七六~一八二四)・山田常典(やまだつねのり)(一八〇八~一八六三)などによって改訂増補されていく。 四、暴走する歴史的仮名遣い さて、こうなると『新編国歌大観』の歌を、歴史的仮名遣いで塗り替えられる前の状態にもどしたくなる。原風景を見てみたい。 はたして、それは可能なのか。 明治書院から『和歌文学大系』(全八十巻、別巻一)が刊行中である。特徴の一つに「底本の形に復元しうる厳密な本文作成に心がけました」とある。西行の『山家集・聞書集・残集』(二十一巻)を手にとると凡例の三「2、仮名遣いは歴史的仮名遣いに統一した。底本の仮名遣いが歴史的仮名遣いと異なる場合には、底本の仮名を振り仮名の形で示した」とある。これなら可能である。方針として「A 非歴史的仮名遣い」「B 歴史的仮名遣い」として同一歌を並べることにした。『新編国歌大観』と番号が一致する場合はA歌に番号を記載、異なる場合はB歌に『新編国歌大観』の番号を記載することにした。また「3、仮名には適宜漢字を宛て、もとの仮名を振り仮名の形でしめした」とあり、こちらにも非歴史的仮名遣いが含まれるが、探索の対象から外した。あと丸括弧に入れた読み仮名があるのは「4、難読の漢字・宛字や送り仮名がないために読みにくい場合は、()に入れて読み仮名を付した」に拠る。 人選としては藤原定家(一一六二~一二四一)以前、定家以後契沖(一六四〇~一七〇一)以前、契沖以後を目安に選んだ。絞り込めば『下官集』(一二〇四~一二四一)以前、『下官集』以後『和字正濫鈔』(一六九五)以前、『和字正濫鈔』以後ということになろう。 四―一、山家集(和歌文学大系21) 著者は西行(一一一八~一一九〇)、編者・成立年ともに未詳である。一五五二首のうち非歴史的仮名遣いが一三二首に見られた。以下、重複を避けて三十八首を引く。 A 何となく軒なつかしき梅ゆへに住((すみ))けん人の心をぞ知る(四四) B 何となく軒なつかしき梅ゆゑに住((すみ))けん人の心をぞ知る A 水底に深き緑の色見へて風に並み縒(よ)る川柳かな(五五) B 水底に深き緑の色見えて風に並み縒(よ)る川柳かな A をしなべて花の盛に成にけり山の端ごとにかかる白雲(六四) B おしなべて花の盛に成にけり山の端ごとにかかる白雲 A 今よりは花見ん人に伝えをかん世を遁れつつ山に住まへと(八六) B 今よりは花見ん人に伝えおかん世を遁れつつ山に住まへと A をのづから花なき年の春もあらば何につけてか日も暮らさまし(九二) B おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日も暮らさまし A 見る人に花も昔を思ひ出((いで))て恋しかるべし雨にしほるる(一〇一) B 見る人に花も昔を思ひ出((いで))て恋しかるべし雨にしをるる *右、『日本国語大辞典』で「しおれる」を引くと「しほれる【萎・撓・霑】〔自ラ下一〕しほ・る〔自ラ下二〕(歴史的かなづかいは『しをれる(しをる)』とする説もある。『しほる』の『ほ』がハ行転呼を起こしたため、早くから『しをる』と表記されたものか)」とある。 A 跡絶へて浅茅茂れる庭の面に誰分入((わけいり))て菫摘みけん(一五九) B 跡絶えて浅茅茂れる庭の面に誰分入((わけいり))て菫摘みけん A なをざりに焼き捨((すて))し野の早蕨は折((をる))人なくてほどろとやなる(一六一) B なほざりに焼き捨((すて))し野の早蕨は折((をる))人なくてほどろとやなる A 躑躅咲(さく)山の岩影夕映へて小倉はよその名のみ成けり(一六四) B 躑躅咲(さく)山の岩影夕映えて小倉はよその名のみ成けり A 岸近み植へけん人ぞ恨めしき波に折らるる山吹の花(一六五) B 岸近み植ゑけん人ぞ恨めしき波に折らるる山吹の花 A 時鳥しのぶ卯月も過((すぎ))にしをなを声惜しむ五月雨の頃(一九七) B 時鳥しのぶ卯月も過((すぎ))にしをなほ声惜しむ五月雨の頃 A 夕立の晴るれば月ぞ宿りける玉揺り据ふる蓮の浮((うき))葉に(二四九) B 夕立の晴るれば月ぞ宿りける玉揺り据うる蓮の浮((うき))葉に A さまざまのあわれをこめて梢吹風に秋知る深山辺の里(二五四) B さまざまのあはれをこめて梢吹風に秋知る深山辺の里 A 花薄月の光に紛(まが)はまし深きますをの色に染めずは(三八六) B 花薄月の光に紛(まが)はまし深きますほの色に染めずは A 夜もすがら袂に虫の音(ね)をかけて払ひはづらふ袖の白露(四五四) B 夜もすがら袂に虫の音(ね)をかけて払ひわづらふ袖の白露 A 思わずによしある賤の住処(すみか)哉蔦の紅葉を軒に張らせて(四八一) B 思はずによしある賤の住処(すみか)哉蔦の紅葉を軒に張らせて A 惜しめども鐘の音さえ変(かわ)る哉霜にや露の結び替ふらん(四九〇) B 惜しめども鐘の音さへ変(かわ)る哉霜にや露の結び替ふらん A 難波江の入江の蘆に霜冴へて浦風寒み朝朗((ぼらけ))かな(五一〇) B 難波江の入江の蘆に霜冴えて浦風寒み朝朗((ぼらけ))かな A あわせたる木((こ))居(ゐ)の鷂(はしたか)招(を)き取らし犬飼(かひ)人の声しきる也(五二三) B あはせたる木((こ))居(ゐ)の鷂(はしたか)招(を)き取らし犬飼(かひ)人の声しきる也 A 身の憂さの思ひ知らるることはりに抑へられぬは涙成けり(六六八) B 身の憂さの思ひ知らるることわりに抑へられぬは涙成けり A なをざりのなさけは人の有物を絶ゆるは常のならひなれども(六七二) B なほざりのなさけは人の有物を絶ゆるは常のならひなれども A 亡き跡を誰と知らねど鳥辺山をのをのすごき塚の夕暮(八四八) B 亡き跡を誰と知らねど鳥辺山おのおのすごき塚の夕暮 A 神楽歌草取り飼ふは痛けれどなをその駒になることは憂し(八九九) B 神楽歌草取り飼ふは痛けれどなほその駒になることは憂し A 逃れなくつゐに行((ゆく))べき道をさは知らではいかが過ぐべかりける(九〇五) B 逃れなくつひに行((ゆく))べき道をさは知らではいかが過ぐべかりける A うかれ出((いづ))る心は身にも叶はねば如何(いか)なりとても如何(いか)にかわせん(九一二) B うかれ出((いづ))る心は身にも叶はねば如何(いか)なりとても如何(いか)にかはせん A 淡路島瀬戸の余波(なごろ)は高くとも此((この))塩曲(わだ)にをし渡らばや(一〇〇二) B 淡路島瀬戸の余波(なごろ)は高くとも此((この))塩曲(わだ)におし渡らばや A あわれびの深き誓ひに頼もしき清き流((ながれ))の底汲まれつつ(一一八七) B あはれびの深き誓ひに頼もしき清き流((ながれ))の底汲まれつつ A 波寄する白良(しらら)の浜の烏貝拾いやすくも思ほゆる哉(一一九六) B 波寄する白良(しらら)の浜の烏貝拾ひやすくも思ほゆる哉 A 山深み気近(けぢか)き鳥の音はせで物恐(おそろ)しきふくろうの声(一二〇三) B 山深み気近(けぢか)き鳥の音はせで物恐(おそろ)しきふくろふの声 A 浅ましやいかなるゆへの報ひにてかかることしも有((ある))世なるらん(一二三一) B 浅ましやいかなるゆゑの報いにてかかることしも有((ある))世なるらん A 今よりは逢わでものをば思ふとものち憂き人に身をば任せじ(一二七〇) B 今よりは逢はでものをば思ふとものち憂き人に身をば任せじ A あやにくに人目も知らぬ涙かな堪えぬ心に忍ぶ効(かひ)なく(一二七三) B あやにくに人目も知らぬ涙かな堪へぬ心に忍ぶ効(かひ)なく A 我((われ))のみぞ我((わが))心をばいとおしむ憐れむ人のなきに付((つけ))ても(一三〇五) B 我((われ))のみぞ我((わが))心をばいとほしむ憐れむ人のなきに付((つけ))ても A ひとり着て我身に纏ふ唐衣しをしをとこそ泣き濡らさるれ(一三二八) B ひとり着て我身に纏ふ唐衣しほしほとこそ泣き濡らさるれ A 今よりは厭(いと)はじ命あればこそかかる住((すま))ゐのあわれをも知れ(一三五七) B 今よりは厭(いと)はじ命あればこそかかる住((すま))ひのあはれをも知れ A 伊勢島(いせしま)やいるるつきてすまう波にけごと覚ゆるいりとりの海人(あま)(一四五一) B 伊勢島(いせしま)やいるるつきてすまふ波にけごと覚ゆるいりとりの海人(あま) A 湊川苫(とま)に雪葺く友舟はむやいつつこそ夜を明(あか)しけれ(一四八六) B 湊川苫(とま)に雪葺く友舟はむやひつつこそ夜を明(あか)しけれ A 我((わが))園(その)の岡辺に立てる一松((ひとつまつ))を友と見つつも老(お)ひにけるかな(一五四六) B 我((わが))園(その)の岡辺に立てる一松((ひとつまつ))を友と見つつも老(お)いにけるかな 四―二、後鳥羽院御集(和歌文学大系24) 後鳥羽院(一一八〇~一二三九)は一二二一年、承久の乱に敗れて隠岐に配流となる。御集は、その地で成立した「詠五百和歌」と「撰歌合」を含む一七六八首から成る。編者・成立年ともに未詳、但し「解説」に藤原「家隆が成立に関与している可能性はきわめて高いと見られる」とある。非歴史的仮名遣いが一九八首に見られるが、重複を避けて五十七首を引く。 A 春来てもなをおほ空は風さえてふる巣恋しき鶯の声 B 春来てもなほおほ空は風さえてふる巣恋しき鶯の声(二) A 昆陽(こや)の池のあやめにまじるかきつばた花ゆへ人に知られぬる哉 B 昆陽(こや)の池のあやめにまじるかきつばた花ゆゑ人に知られぬる哉(一八) A いつしかと荻の上(うは)葉にをとづれて袖に知らるる秋の初風 B いつしかと荻の上(うは)葉におとづれて袖に知らるる秋の初風(三六) A 虫の音はほのぼのよはる秋の夜の月は浅茅が露に宿りて B 虫の音はほのぼのよわる秋の夜の月は浅茅が露に宿りて(五三) A ものごとにさびしき宿のすまゐかなまがきになるる峰の白雲 B ものごとにさびしき宿のすまひかなまがきになるる峰の白雲(八九) A 結びをきし雲雀の床も草枯れてあらはれわたる武蔵野の原 B 結びおきし雲雀の床も草枯れてあらはれわたる武蔵野の原(九三) A しらたまの松の木かげに隠ろえてやすらに住めるらいの鳥哉 B しらたまの松の木かげに隠ろへてやすらに住めるらいの鳥哉(九五) *右、『新編国歌大観』では初句「しら山の」である。和歌文学大系は脚注に「しらたま│不詳。『しらやま』の誤りか」とする。 A 千はやぶる日吉(ひよし)のかげものどかにて波おさまれるよもの海哉 B 千はやぶる日吉(ひよし)のかげものどかにて波をさまれるよもの海哉(一〇〇) A あま人は袖ともわかずしほるらん雄島が磯の五月雨の比(ころ) B あま人は袖ともわかずしをるらん雄島が磯の五月雨の比(ころ)(一二三) *右の三句、西行の一〇一番の歌を参照。 A うちなびきさやかに見えぬ秋なれど荻吹く風ぞかたえすずしき B うちなびきさやかに見えぬ秋なれど荻吹く風ぞかたへすずしき(一二六) A 冬の夜のしののめの空は明(あけ)やらでをのれぞ白き山の端の雪 B 冬の夜のしののめの空は明(あけ)やらでおのれぞ白き山の端の雪(一四三) A あやにくに時雨にたへし松の葉の心よはきは雪の下折(をれ) B あやにくに時雨にたへし松の葉の心よわきは雪の下折(をれ)(一四四) A 出づる朝日山の高嶺をてらせどもゆくゑも知らぬ谷の埋(むも)れ木 B 出づる朝日山の高嶺をてらせどもゆくへも知らぬ谷の埋(むも)れ木(一五六) A 難波津に咲くやこの花朝霞春立つ波にかほる春風 B 難波津に咲くやこの花朝霞春立つ波にかをる春風(二〇七) A 白露のをくての稲葉仮初に宿るともなき夕月夜(ゆふづくよ)かな B 白露のおくての稲葉仮初に宿るともなき夕月夜(ゆふづくよ)かな(二五二) A 冬の来ていくかもあらぬをながむれば空さへわたる霜の上の月 B 冬の来ていくかもあらぬをながむれば空さえわたる霜の上の月(二五八) A 引きて植へし人のゆくゑは知らねども木高き松の風の音(をと)かな B 引きて植ゑし人のゆくへは知らねども木高き松の風の音(おと)かな(二八一) A をのづから楢のかげもる夏の月いかで下(した)葉の露にすむらん B おのづから楢のかげもる夏の月いかで下(した)葉の露にすむらん(三二四) A 鈴鹿山伊勢の浦はの秋の波宿れる月をよする春風 B 鈴鹿山伊勢の浦わの秋の波宿れる月をよする春風(三七九) *右、一六一三番の歌に「志賀の波や浦わの月のさゆるよに昔こふらし山の秋風」がある。 A かりにても思ひをこせよ都(みやこ)人おなじ心に月は見ずとも B かりにても思ひおこせよ都(みやこ)人おなじ心に月は見ずとも(三九九) A 散らば散れよしや吉野の山桜吹きまよふ風はゆふかひもなし B 散らば散れよしや吉野の山桜吹きまよふ風はいふかひもなし(四一五) A をしてるや難波の葦の下がくれ仮寝もる鴨の霜に鳴(なく)声 B おしてるや難波の葦の下がくれ仮寝もる鴨の霜に鳴(なく)声(四六四) A 過ぎにけり春もほどなくしゐて折りしきのふの藤の露もひぬまに B 過ぎにけり春もほどなくしひて折りしきのふの藤の露もひぬまに(五二一) *右、『新編国歌大観』は三句「しひてをる」となっている。 A 天河雲のみお行(ゆ)く月なればながれてはやく明くる夏の夜 B 天河雲のみを行(ゆ)く月なればながれてはやく明くる夏の夜(五三〇) A 初雁の鳥羽田の暮の秋風にをのれとうすき山の端の雲 B 初雁の鳥羽田の暮の秋風におのれとうすき山の端の雲(五四三) A をしねほす伏見のくろに立つ鴫の羽音(をと)さびしき朝霜の空 B おしねほす伏見のくろに立つ鴫の羽音(おと)さびしき朝霜の空(五六〇) A 音(をと)に聞く久米のさら山さらさらにをのが名立てて降る霰かな B 音(おと)に聞く久米のさら山さらさらにおのが名立てて降る霰かな(五六四) A 山人の道のしほりと成にけり帰る高嶺の松の白雪 B 山人の道のしをりと成にけり帰る高嶺の松の白雪(五六八) A ももちどりさえづる春のあさみどり野辺の霞に匂ふ梅が枝 B ももちどりさへづる春のあさみどり野辺の霞に匂ふ梅が枝(六二五) A 梓弓をして春雨入るかたもさだかに見えぬ春の夜の月 B 梓弓おして春雨入るかたもさだかに見えぬ春の夜の月(六三五) A 面影ぞ夕ゐる雲もまがひけんたぐひおもえぬ山桜かな B 面影ぞ夕ゐる雲もまがひけんたぐひおもへぬ山桜かな(六五二) *右、『新編国歌大観』では四句「たぐひおよばぬ」となっている。 A あたら夜の名残を花に契りをきて桜分(わけ)いる有明の月 B あたら夜の名残を花に契りおきて桜分(わけ)いる有明の月(六五七) A 雨そそく蓮の立葉(たちは)にいる玉のたまらぬものは涙なりけり B 雨そそく蓮の立葉(たちは)にゐる玉のたまらぬものは涙なりけり(七三九) *右、七八一番の歌に「我ならでたれか起きゐてこたへまし外面(そとも)の荻のとはずがたりを」がある。 A 鳴きよはる野原の虫の声聞けばわが身の秋ぞいとどかなしき B 鳴きよわる野原の虫の声聞けばわが身の秋ぞいとどかなしき(八二二) A 奥山の岩垣紅葉いたづらに時雨にそおち折(お)る人もなし B 奥山の岩垣紅葉いたづらに時雨にそほち折(を)る人もなし(八三五) A 夜やさむき時雨にきおふ雁がねに衣打つなり山のべの庵 B 夜やさむき時雨にきほふ雁がねに衣打つなり山のべの庵(八三六) *右、一六九四番の歌に「み吉野や春雨きをひ散る花をけふも暮れぬとさそふ山風」がある。 A 竜田山峰の時雨の糸よはみぬけどみだるるよもの紅葉は B 竜田山峰の時雨の糸よわみぬけどみだるるよもの紅葉は(八六一) A しほれ葦の伏葉(ふしば)が下もこほりけり一夜二夜(ふたよ)の鴛鴦(をし)の夜がれに B しをれ葦の伏葉(ふしば)が下もこほりけり一夜二夜(ふたよ)の鴛鴦(をし)の夜がれに(八七九) *右の初句、西行の一〇一番の歌を参照。 A 雪降ればみなをしなべて白妙の鷺坂山の松ものこらず B 雪降ればみなおしなべて白妙の鷺坂山の松ものこらず(八八二) A 嘆きあまりをさふる袖のひまをあらみ色に出でぬる我(わが)思ひかな B 嘆きあまりおさふる袖のひまをあらみ色に出でぬる我(わが)思ひかな(九〇七) A 恋せよと鳴海の浦の塩干潟かた思ひにぞしほれわびぬる B 恋せよと鳴海の浦の塩干潟かた思ひにぞしをれわびぬる(九三二) *右の結句、西行の一〇一番の歌を参照。 A なをざりのをちかた人やはらふらんあはで来る夜の道芝の露 B なほざりのをちかた人やはらふらんあはで来る夜の道芝の露(九四三) A かくしつついつかとくべき下紐の結びもをかぬ人の契りに B かくしつついつかとくべき下紐の結びもおかぬ人の契りに(九四四) A 袖の中に人の名残をとどめをきてこころもゆかぬしののめの道 B 袖の中に人の名残をとどめおきてこころもゆかぬしののめの道(九五七) *右、『新編国歌大観』は三句「とめおきて」となっている。 A ともねせぬ鴨の上毛(うはげ)の夜の霜をき明かしつる袖を見せばや B ともねせぬ鴨の上毛(うはげ)の夜の霜おき明かしつる袖を見せばや(九六六) A 頼めをきし露の宿りを分けわびて君にぞまどふ道の笹原 B 頼めおきし露の宿りを分けわびて君にぞまどふ道の笹原(九九三) A をろかなる心のうちををたづねみよほかに仏の道はなけれど B おろかなる心のうちををたづねみよほかに仏の道はなけれど(一〇八三) A 空にこふ身のをこたりのつれなさを嘆き嘆きのはてを知らばや B 空にこふ身のおこたりのつれなさを嘆き嘆きのはてを知らばや(一〇八八) A あはれ知れ神の恵みは知らねども伊勢までなをもかくる頼みは B あはれ知れ神の恵みは知らねども伊勢までなほもかくる頼みは(一〇九二) A 言問はんたれかはここに隅田川名にしほふ鳥はありやなしやと B 言問はんたれかはここに隅田川名にしおふ鳥はありやなしやと(一一四六) *右、一五〇四番の歌に「名にしおはばしばしやすらへ時鳥橘寺の夏の夕暮」がある。 A 明けわたる山路の花のほしもあえず朝露ながら春風ぞ吹く B 明けわたる山路の花のほしもあへず朝露ながら春風ぞ吹く(一一五二) A 吉野川いせきに花をせきとめて水のこころも春惜(お)しみける B 吉野川ゐせきに花をせきとめて水のこころも春惜(を)しみける(一一五八) A ほのぼのと心づくしにもる月をなを吹きしほる庭の松風 B ほのぼのと心づくしにもる月をなほ吹きしをる庭の松風(一一七二) *右、『日本国語大辞典』に歴史的仮名遣いは「ふきしほる」とある。 A 末たはむ庭の小萩の朝じめりもの思ふ雁や鳴(なき)て過(すぎ)つる B 末たわむ庭の小萩の朝じめりもの思ふ雁や鳴(なき)て過(すぎ)つる(一三九四) A 神まつる木綿四手(ゆふしで)かくるさかき葉のさかへやまさん宮(みや)の玉垣 B 神まつる木綿四手(ゆふしで)かくるさかき葉のさかえやまさん宮(みや)の玉垣(一四八一) *右、『新編国歌大観』も四句「さかへ」。但し小学館の『全文全訳古語辞典』では「さかえ」で「〔名詞〕 《動詞「栄ゆ」の連用形の名詞化》 栄えること。繁栄。栄華」とある。 A 駒なめてうちいでの浜を見わたせば朝日にさはぐ志賀の浦波 B 駒なめてうちいでの浜を見わたせば朝日にさわぐ志賀の浦波(一五一二) A 梅が香をながめし袖にとどめをきて空しき枝に風ぞのこれる B 梅が香をながめし袖にとどめおきて空しき枝に風ぞのこれる(一五二二) A わがためとさてや山川瀬になびく玉藻仮初(かりそめ)にかはく世もなし B わがためとさてや山川瀬になびく玉藻仮初(かりそめ)にかわく世もなし(一六〇七) A 都思ふ涙に月を宿しをきて朝たつ野辺の末の秋風 B 都思ふ涙に月を宿しおきて朝たつ野辺の末の秋風(一六五六) A み吉野や春雨きをひ散る花をけふも暮れぬとさそふ山風 B み吉野や春雨きほひ散る花をけふも暮れぬとさそふ山風(一六九四) *右、八三六番の歌に「夜やさむき時雨にきおふ雁がねに衣打つなり山のべの庵」がある。 A 奥山のをどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせん B 奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせん(一六九八) 四―三、金槐和歌集(群書類従・第十四輯) 源実朝(一一九二~一二一九)の『金槐和歌集』は「和歌文学大系」の六十三巻にあがっているが未刊のため『群書類従・第十四輯』よりデータを取った。藤原定家所伝本・貞享本・群書類従本の三系統があるらしい。定家所伝本は六六三首、実朝二十二歳までの作品を収める。群書類従本は定家所伝本を基に「一本及印本所載歌」を加えたもので全体の歌数は七一九首、編者は不明である。『新編国歌大観』も同数だが、貞享本を使っていて、歌の順番も違っている。うち非歴史的仮名遣いは八十五首に見られる。以下、重複を避けて三十一首を引く。 A かきくらしなを降雪の寒けれは春ともしらぬ谷の黄鳥 B かきくらしなほ降雪の寒けれは春ともしらぬ谷の黄鳥(五) A 春たたは若菜つまんとしめをきし野へ共見えす雪のふれれは B 春たたは若菜つまんとしめおきし野へ共見えす雪のふれれは(六) A 我宿の梅はなさけり春雨いたくな降そちらまくもおし B 我宿の梅はなさけり春雨いたくな降そちらまくもをし(三六) A をとに聞よしのの桜咲にけり山の麓にかかるしら雲 B おとに聞よしのの桜咲にけり山の麓にかかるしら雲(五一) A 道とをみけふ越くれぬ山桜はなのやとりを我にかさなむ B 道とほみけふ越くれぬ山桜はなのやとりを我にかさなむ(五五) A 木の本にやとりはすへし桜花ちらまくおしみ旅ならなくに B 木の本にやとりはすへし桜花ちらまくをしみ旅ならなくに(六〇) A 鴈かねの帰る翅にかほる也花をうらむる春の山かせ B 鴈かねの帰る翅にかをる也花をうらむる春の山かせ(一〇四) A わかやとの八重の山吹露ををもみ打払ふ袖のかほりぬる哉 B わかやとの八重の山吹露をおもみ打払ふ袖のかをりぬる哉(一二〇) *『群書類従』の一一一頁上に「露をおもみまかきの菊のほしもあへす晴れは曇る宵の村雨」、一二六頁上に「竹の葉に降おほふ雪のうれをおもみ下にも千世の色に隠れす」の例がある。なお『新編国歌大観』の結句は「そほちぬるかな」となっている。 A 今幾日春しなけれは春雨にぬるともおらんやまふきの花 B 今幾日春しなけれは春雨にぬるともをらんやまふきの花(一一九) A をのつから哀ともみよ春ふかみ散残るきしの山吹の花 B おのつから哀ともみよ春ふかみ散残るきしの山吹の花(一二三) *『群書類従』の一一九頁下に「春きては花とかみえんおのつから朽木の柚にふれる白雪」の例がある。 A 古郷の池の藤なみ誰うへてむかし忘れぬかたみ成らん B 古郷の池の藤なみ誰うゑてむかし忘れぬかたみ成らん(一一二) A 五月まつ小田のますらおいとまなみせきいるる水に蛙鳴也 B 五月まつ小田のますらをいとまなみせきいるる水に蛙鳴也(一三八) A 秋ははや来にける物を大かたの野にも山にも露そをくなる B 秋ははや来にける物を大かたの野にも山にも露そおくなる(一八七) A あまの河みなはさかまき行水のはやくも秋の立にける哉 B あまの河みなわさかまき行水のはやくも秋の立にける哉(一九二) A 朝ほらけ荻のうへ吹秋風に下葉をしなみ露そ翻る B 朝ほらけ荻のうへ吹秋風に下葉おしなみ露そ翻る(二一一) A さを鹿のをのかすむ野の女郎花はなにあかすと音をや鳴覧 B さを鹿のおのかすむ野の女郎花はなにあかすと音をや鳴覧(二四一) A よそにみておらては過し女郎花なをむつましみ露にぬる共 B よそにみてをらては過し女郎花なをむつましみ露にぬる共(二一七) A 三室山紅葉ちるらし神無月龍田の河に錦をりかく B 三室山紅葉ちるらし神無月龍田の河に錦おりかく(三一九) A みさこゐる磯辺に立るむろの木の枝もとほほに雪そ積れる B みさこゐる磯辺に立るむろの木の枝もとををに雪そ積れる(三六〇) A 打つけに物そかなしき泊瀬山おのへの鐘の雪の夕暮 B 打つけに物そかなしき泊瀬山をのへの鐘の雪の夕暮(三八二) A 老らくのかしらの雪をととめをきてはかなの年や暮て行覧 B 老らくのかしらの雪をととめおきてはかなの年や暮て行覧(四〇三) *『新編国歌大観』は三句「とどめきて」となっている。 A 千早振いつのを山の玉椿やをよろつよも色はかはらし B 千早振いつのを山の玉椿やほよろつよも色はかはらし(六四四) A 秋萩の花のの薄露をおもみをのれしほれてほにや出なん B 秋萩の花のの薄露をおもみおのれしをれてほにや出なん(五三三) A 雁のゐるはかせにさはく秋の田の思ひみたれてほにそ出ぬる B 雁のゐるはかせにさわく秋の田の思ひみたれてほにそ出ぬる(五六二) A うきしつみはてはあはとそ成ぬへき瀬々の岩波身を砕きつつ B うきしつみはてはあわとそ成ぬへき瀬々の岩波身を砕きつつ(四四七) A 暁のしきのはねかきしけけれとなと逢事のまとを成らん B 暁のしきのはねかきしけけれとなと逢事のまとほ成らん(五〇四) A 年ふれは老にたうれて朽ぬへき身は住の江の松ならなくに B 年ふれは老にたふれて朽ぬへき身は住の江の松ならなくに(六九三) A 道とをし腰は二重にかかまれり杖にすかりてそこ迄もくる B 道とほし腰は二重にかかまれり杖にすかりてそこ迄もくる(六八五) A さりともと思ふ物から日をへてはしたひしたひによはる悲しさ B さりともと思ふ物から日をへてはしたいしたいによわる悲しさ(六八六) A 咲しよりかねてそおしき梅花ちりのわかれは我身と思へは B 咲しよりかねてそをしき梅花ちりのわかれは我身と思へは(二六) 四―四 兼好法師集慶運集(和歌文学大系65) 兼好すなわち吉田兼好(一二八三?~一三五二?)、自撰家集である。ただし解説によると「俗姓は卜部(うらべ)、俗名は兼好(かねよし)。兼好(けんこう)は俗名をそのまま音読した法名。『吉田兼好』の呼び名は、江戸時代になってからの通称で、学問的には不当な呼称である」という。歌数は和歌文学大系の二八六首に対して国歌大観は二八五首、したがってB欄に後者の番号を記録した。非歴史的仮名遣いの歌は二十三首、うち重複を避けて十九首を引く。 A 逢坂の関吹きこゆる風のうへにゆくゑもしらず散る桜かな B 逢坂の関吹きこゆる風のうへにゆくへもしらず散る桜かな(三) A 天の川みおゆく月は流(なが)るともあふせにかけよ雲のしがらみ B 天の川みをゆく月は流(なが)るともあふせにかけよ雲のしがらみ(七) A もろともに聞くだにさびし思ひをけ帰らむあとの峰の松風 B もろともに聞くだにさびし思ひおけ帰らむあとの峰の松風(一七) A をしなべてひとつにほひの花ぞとも春に逢ひぬる人ぞ知りける B おしなべてひとつにほひの花ぞとも春に逢ひぬる人ぞ知りける(二六) A 春雨に柳の糸は染めかけつ花のにしきをはやもをらなん B 春雨に柳の糸は染めかけつ花のにしきをはやもおらなん(四四) A 世の中の秋田刈るまでなりぬれば露もわが身もをきどころなし B 世の中の秋田刈るまでなりぬれば露もわが身もおきどころなし(四五) A かぎり知る命なりせばめぐり逢はん秋ともせめて契りをかまし B かぎり知る命なりせばめぐり逢はん秋ともせめて契りおかまし(六九) A 辛からば思ひ絶えなでさを鹿のえざる妻をもしゐて恋ふらむ B 辛からば思ひ絶えなでさを鹿のえざる妻をもしひて恋ふらむ(九〇) A かはりゆく心はかねて知られしを恨みしゆへと思ひけるかな B かはりゆく心はかねて知られしを恨みしゆゑと思ひけるかな(九八) A ことはりや天つ空より吹く風ぞ森の木の葉をまづ誘ひける B ことわりや天つ空より吹く風ぞ森の木の葉をまづ誘ひける(一〇四) A 思ひやれかかる伏(ふせ)屋のすまゐして昔をしのぶ袖の涙を B 思ひやれかかる伏(ふせ)屋のすまひして昔をしのぶ袖の涙を(一二七) A 秋ふかき霜をきそふる浅茅生(あさぢふ)に幾夜もかれず打つ衣哉 B 秋ふかき霜おきそふる浅茅生(あさぢふ)に幾夜もかれず打つ衣哉(一五六) A いつはりの雲の幾重にこりもせでつゐに紛(まが)はぬ花を見つらむ B いつはりの雲の幾重にこりもせでつひに紛(まが)はぬ花を見つらむ(一六二) A なをざりにかこたばかくや知らざらむいはれぬばかり深き心を B なほざりにかこたばかくや知らざらむいはれぬばかり深き心を(一九四) A たのめをく言の葉なくは逢はぬまにかはる心を歎かざらまし B たのめおく言の葉なくは逢はぬまにかはる心を歎かざらまし(二二三) A 春ちかき鐘のひびきのさゆるかな今宵ばかりと霜やをくらん B 春ちかき鐘のひびきのさゆるかな今宵ばかりと霜やおくらん(二二五) A をくれゐてあととふ法(のり)の勤めこそ今ははかなきなごりなりけれ B おくれゐてあととふ法(のり)の勤めこそ今ははかなきなごりなりけれ(二二七) A 代々((よよ))を経て治むる家の風なればしばしぞさはぐ和歌の浦波 B 代々((よよ))を経て治むる家の風なればしばしぞさわぐ和歌の浦波(二四〇) A 山の端に夕(ゆふ)ゐる雲はのどけきにをのれ別れて雁(かり)のゆくらん B 山の端に夕(ゆふ)ゐる雲はのどけきにおのれ別れて雁(かり)のゆくらん(二四九) 四―五 草庵集(和歌文学大系65) 著者の頓阿(一二八九~一三七二)は二条為世に師事し、兼好、浄弁、慶運とともに為世門の和歌四天王といわれた。『草庵集』の成立は一三五九年頃、歌数は「和歌文学大系」の一四四三首に対して『新編国歌大観』は一四四六首、したがってB欄に後者の番号を記録した。うち非歴史的仮名遣いは一〇九首、重複を避け、かつ該当箇所が対応できる四十二首を引く。 A 朝な朝な霞の上にあらはれて山の端とをく残る白雪 B 朝な朝な霞の上にあらはれて山の端とほく残る白雪(三〇) A をのづからつもると見えし木下((このもと))に分(わ)きてつれなく残る白雪 B おのづからつもると見えし木下((このもと))に分(わ)きてつれなく残る白雪(三四) A 花に憂きをのが契りも春の雁思ひつらねて音((ね))をや鳴((なく))らん B 花に憂きおのが契りも春の雁思ひつらねて音((ね))をや鳴((なく))らん(九二) A またも来ん秋もまどをに帰((かへる))なり塩やく海人((あま))の衣かりがね B またも来ん秋もまどほに帰((かへる))なり塩やく海人((あま))の衣かりがね(九五) A 影ばかりやどかる袖の涙ゆへ空行く月のなど霞むらん B 影ばかりやどかる袖の涙ゆゑ空行く月のなど霞むらん(一〇四) A 木(こ)の本((もと))は雪と降るまでとふ人もなくてやつゐに山梨の花 B 木(こ)の本((もと))は雪と降るまでとふ人もなくてやつひに山梨の花(一一八) A をしなべて四方((よも))の木の芽も春の雨にひとりつれなき山桜哉((かな)) B おしなべて四方((よも))の木の芽も春の雨にひとりつれなき山桜哉((かな))(一二五) A 山高み夕ゐる雲の春風に入日もかほる花ざかりかな B 山高み夕ゐる雲の春風に入日もかをる花ざかりかな(一五九) A 言の葉もをよぶばかりの色ならば折らでや花を人に語らん B 言の葉もおよぶばかりの色ならば折らでや花を人に語らん(一七一) A 吹((ふく))風のおさまれる世の花なれば猶(なを)散((ちり))やらで君をこそまて B 吹((ふく))風のをさまれる世の花なれば猶(なを)散((ちり))やらで君をこそまて(一八二) A 山桜散((ちり))なん後の家路さへ花に忘れてしほりだにせず B 山桜散((ちり))なん後の家路さへ花に忘れてしをりだにせず(一九一) A とまらぬもことはり成((なれ))や憂き世には咲くべき花の色と見えねば B とまらぬもことわり成((なれ))や憂き世には咲くべき花の色と見えねば(二一四) A 散りはてし跡をだにとて尋((たずね))ずはをくれて咲(さけ)る花を見ましや B 散りはてし跡をだにとて尋((たずね))ずはおくれて咲(さけ)る花を見ましや(二二二) A 契りをく初音ならねば中々に待たぬ夜もなき時鳥哉 B 契りおく初音ならねば中々に待たぬ夜もなき時鳥哉(二七一) A 五月雨の日数にまさる水茎の岡の湊はさぞさはぐらむ B 五月雨の日数にまさる水茎の岡の湊はさぞさわぐらむ(三三〇) A 小倉山ともしの松ををのれさへ峰立ならし鹿や待つらん B 小倉山ともしの松をおのれさへ峰立ならし鹿や待つらん(三五二) A 夏引の手引の糸の緒をよはみ乱るる玉と飛ぶ蛍かな B 夏引の手引の糸の緒をよわみ乱るる玉と飛ぶ蛍かな(三六七) A 浅茅生の末(すゑ)葉をしなみ置(を)く露の光に明((あく))る小野の篠原 B 浅茅生の末(すゑ)葉おしなみ置(を)く露の光に明((あく))る小野の篠原(四三八) A よもすがら風にをきふす荻の音を明(あ)かしかねたる枕にぞ聞く B よもすがら風におきふす荻の音を明(あ)かしかねたる枕にぞ聞く(四四八) A 待ち出((いづ))る同(をな)じ尾上の鹿の音を月よりをくる夜半の秋風 B 待ち出((いづ))る同(をな)じ尾上の鹿の音を月よりおくる夜半の秋風(四九四) A 月をそき磯山陰に残るなり海人のいさりにともすかがり火 B 月おそき磯山陰に残るなり海人のいさりにともすかがり火(五六三) A 鳴((なく))虫はよはる夜寒の露霜に猶音(をと)高くうつ衣哉 B 鳴((なく))虫はよわる夜寒の露霜に猶音(をと)高くうつ衣哉(六二九) A 川舟の深きよどみにさすさほのをよばぬ中を何と恋(こふ)らん B 川舟の深きよどみにさすさをのおよばぬ中を何と恋(こふ)らん(九〇四) A なをざりに人や伝えんことの葉のをよばぬをだに歎く思ひを B なほざりに人や伝へんことの葉のおよばぬをだに歎く思ひを(九〇九) A 先の世もかくやつれなき心にてむすびもをかぬ契りなりけん B 先の世もかくやつれなき心にてむすびもおかぬ契りなりけん(九一一) A 三((み))吉野の滝のしらあはのわきかへり心たかくも人を恋ひつつ B 三((み))吉野の滝のしらあわのわきかへり心たかくも人を恋ひつつ(九一六) A 貴船川今はみなはも消えねとや御祓(みそぎ)にかけん波のしらゆふ B 貴船川今はみなわも消えねとや御祓(みそぎ)にかけん波のしらゆふ(九三四) A 今来んとたのめをく日はなけれども逢ふを限りと待夕哉((まつゆふべかな)) B 今来んとたのめおく日はなけれども逢ふを限りと待夕哉((まつゆふべかな)) (九五九) A 一夜にも憂きいつはりは知らるるを何のたのみにたへて待らん B 一夜にも憂きいつはりは知らるるを何のたのみにたえて待らん(九七六) *右、『新編国歌大観』は結句を「たへてまつらん」とする。『日本国語大辞典』によると補注に「中世からヤ行にも活用した」とある。 A 立ち濡るる山のしづくにあらねども待((まつ))夜は袖のかはく間ぞなき B 立ち濡るる山のしづくにあらねども待((まつ))夜は袖のかわく間ぞなき(九八二) A かちよりぞ木幡(こはた)の里もかよゐこしなどか恋路(ぢ)のくるしかるらん B かちよりぞ木幡(こはた)の里もかよひこしなどか恋路(ぢ)のくるしかるらん(一〇二八) A あだなりや空行(ゆ)く月を形見にてなを同じ世とたのむばかりは B あだなりや空行(ゆ)く月を形見にてなほ同じ世とたのむばかりは(一〇三三) A 契りしもかひこそなけれ雲のゐる遠(とを)山鳥(どり)のゆくえ知らねば B 契りしもかひこそなけれ雲のゐる遠(とを)山鳥(どり)のゆくへ知らねば(一〇六九) A 煙だに跡なき海士(あま)の藻塩草又書きをくをあはれとぞ見る B 煙だに跡なき海士(あま)の藻塩草又書きおくをあはれとぞ見る(一一四七) A さびしさは忍びこそせめいとゐきて世をうぢ山の峰の松風 B さびしさは忍びこそせめいとひきて世をうぢ山の峰の松風(一一九二) A 我が庵は都をとをみ人も来でいたづらに吹く軒の松風 B 我が庵は都をとほみ人も来でいたづらに吹く軒の松風(一一九四) A 和歌の浦に老ひてかたぶく松が根のうづもれぬ名を思ふはかなさ B 和歌の浦に老いてかたぶく松が根のうづもれぬ名を思ふはかなさ(一二三五) A 行((ゆき))やらでここにやしばしすみだ川都を鳥の名にしほひつつ B 行((ゆき))やらでここにやしばしすみだ川都を鳥の名にしおひつつ(一二八六) A 見るたびに袖こそ濡るれ桜花涙のたねをうへやをきけん B 見るたびに袖こそ濡るれ桜花涙のたねをうゑやおきけん (一三四五) A とどめをく跡をも知らで友千鳥いかなる方(かた)の浦にすむらん B とどめおく跡をも知らで友千鳥いかなる方(かた)の浦にすむらん(一三五九) A 人を分(わ)くをしへならでや法の道あまたの門(かど)をひらきをきけん B 人を分(わ)くをしへならでや法の道あまたの門(かど)をひらきおきけん(一三六〇) *右、『新編国歌大観』では結句が「ひらき初めけん」となっている。 A かくてこそ千代もさかへめたちかへり一方(かた)による和歌の浦波 B かくてこそ千代もさかえめたちかへり一方(かた)による和歌の浦波(一四四四) 四―六 慶運集(和歌文学大系65) 著者の慶運(?~一三六九頃)は二条為世門の和歌四天王に数えられる。『新編国歌大観』は書名『慶運法印集』で解題に「晩年に自撰したものと思われる」とある。歌数は「和歌文学大系」の二九五首に対して『新編国歌大観』は二九六首、したがって『新編国歌大観』の番号をB欄に付す。非歴史的仮名遣いは二十五首、うち重複を避けて十三首を引く。 A 今日もなを雪気(ゆきげ)の風は新玉の年とも分(わ)かで春や来(き)ぬらん B 今日もなほ雪気(ゆきげ)の風は新玉の年とも分(わ)かで春や来(き)ぬらん(一) A 帚木(ははきぎ)はよそにさえこそ見え分かね霞(かす)む伏せ屋の春の明((あけ))ぼの B 帚木(ははきぎ)はよそにさへこそ見え分かね霞(かす)む伏せ屋の春の明((あけ))ぼの(七) A 鶯のをのが羽風(はかぜ)も吹きとかでいかに氷れる涙なるらん B 鶯のおのが羽風(はかぜ)も吹きとかでいかに氷れる涙なるらん(一〇) A 志賀の浦や松吹きしほる春風に落ちては水の淡(あは)雪ぞ降る B 志賀の浦や松吹きしをる春風に落ちては水の淡(あは)雪ぞ降る(一八) A 別れてののち偲べとやをそざくら春の残せる形見なるらん B 別れてののち偲べとやおそざくら春の残せる形見なるらん(六五) A 常磐木にまがふばかりもなかりけりまだ染めあえぬ峰のもみぢ葉 B 常磐木にまがふばかりもなかりけりまだ染めあへぬ峰のもみぢ葉(一四二) A をしなべてまだ色薄き紅葉かないづれ柞(ははそ)の木末((こずゑ))なるらん B おしなべてまだ色薄き紅葉かないづれ柞(ははそ)の木末((こずゑ))なるらん(一四三) A なをざりの契りなりとも頼まばやつれなきをだに慕ひこし身を B なほざりの契りなりとも頼まばやつれなきをだに慕ひこし身を(一九一) A しゐてなを頼みこそせめ憂き人も偽りばかりある世ならねば B しひてなほ頼みこそせめ憂き人も偽りばかりある世ならねば(二〇一) A 宿かへて待たぬものゆへ宵宵になしとは人のなど答ふらん B 宿かへて待たぬものゆゑ宵宵になしとは人のなど答ふらん(二一七) A 忘れめや磯(いそ)山本(もと)に一夜((ひとよ))寝て波の枕のあけのそを船 B 忘れめや磯(いそ)山本(もと)に一夜((ひとよ))寝て波の枕のあけのそほ船 (二五七) A 数ならぬ和歌の浦はの藻塩草かくにつけても袖は濡れつつ B 数ならぬ和歌の浦わの藻塩草かくにつけても袖は濡れつつ(二七二) A 吹く風の目に見ぬ色となりにけり花も紅葉もつゐにとまらで B 吹く風の目に見ぬ色となりにけり花も紅葉もつひにとまらで(二九〇) 四―七、権大僧都心敬集(和歌文学大系66) 著者の心敬(一四〇六~一四七五)は歌人、連歌師。正徹に師事した。解説に「集の編纂年時は未詳」とある。内容は「百首和歌」「百首」「百首和歌」「(題詠歌)一三二首」の計四三二首、うち二十三首が非歴史的仮名遣いであった。重複を避けて十三首を引く。 A をのづからおはりに向((むかふ))夕暮や日来((ひごろ))の法((のり))もさはりならまし(九九) B おのづからをはりに向((むかふ))夕暮や日来((ひごろ))の法((のり))もさはりならまし A 行((ゆき))くらす花にたおやめ足引の遠山桜あすや尋((たづね))ん(一一三) B 行((ゆき))くらす花にたをやめ足引の遠山桜あすや尋((たづね))ん A しゐて猶((なほ))誘ふぞつらき濡れつつも手折(たをる)が上の花の春風(一一八) B しひて猶((なほ))誘ふぞつらき濡れつつも手折(たをる)が上の花の春風 A 枯((かれ))やすき色とは見えずひややかに夜半の露をく朝顔の花(一四八) B 枯((かれ))やすき色とは見えずひややかに夜半の露おく朝顔の花 A 仮枕かほれる花に身をなして袂にしむる宇治の山風(一七八) B 仮枕かをれる花に身をなして袂にしむる宇治の山風 A 秋の風しほる芭蕉の露よりも破((やぶれ))ての世は置(を)く影もなし(二四四) B 秋の風しをる芭蕉の露よりも破((やぶれ))ての世は置(を)く影もなし A 憑((たのみ))つる人のゆくゑに身を捨((すて))ぬならひ悲しき墨染の袖(二五二) B 憑((たのみ))つる人のゆくへに身を捨((すて))ぬならひ悲しき墨染の袖 A ただ今を誰も惜(お)しまでおろかにもよはりゆく身の末を待哉((まつかな))(二六四) B ただ今を誰も惜(お)しまでおろかにもよわりゆく身の末を待哉((まつかな)) A 大方の身にだにとをる秋風を古き枕に誰か聞((きく))らん(二七二) B 大方の身にだにとほる秋風を古き枕に誰か聞((きく))らん A つゐにゆく道の此方((こなた))のやすらひは誰が身か旅の宿りならぬを(二八四) B つひにゆく道の此方((こなた))のやすらひは誰が身か旅の宿りならぬを A 我((わが))仏たうとしといふ人のみは迷へる末の世に多くして(二九九) B 我((わが))仏たふとしといふ人のみは迷へる末の世に多くして A 甲斐が嶺や狭山の照射(ともし)影白しよこおりふせる鹿やなからん(三六九) B 甲斐が嶺や狭山の照射(ともし)影白しよこほりふせる鹿やなからん A 弱(よは)りてはむなしき空に射る矢より絶へずも落我((おつるわが))涙かな(四〇一) B 弱(よわ)りてはむなしき空に射る矢より絶えずも落我((おつるわが))涙かな 四―八、後水尾院御集(和歌文学大系68) 御集は後水尾院(一五九六〜一六八〇)の自撰説と他撰説があるらしい。一四二六首を収める。但し、凡例に「仮名遣いは歴史的仮名遣いに統一した。」とあるが、不思議なことに他の巻にある「底本の仮名遣いが歴史的仮名遣いと異なる場合には、底本の仮名を振り仮名の形で示した。」の類がない。したがって資料としては使えないのであるが、ここにその旨を書き留めておくことにする。著者は鈴木健一、七十四巻の『はちすの露』も担当している。六十八巻が平成十五年、七十四巻が平成十九年に出ている。どのような事情があったのかは知る由もないが、「和歌文学大系」の売りと思われるので残念である。 四―九、六帖詠草(和歌文学大系70) ただごと歌を提唱した小沢蘆庵(ろあん)(一七二三~一八〇一)の家集『六帖詠草』は、一八一一年に門人の小川萍流(おがわへいりゅう)・前波黙軒(まえばもくけん)らによって刊行された。魯庵は冷泉為村(れいぜいためむら)の門にあったが、のちに破門される。その理由について鈴木淳は解説で「私見によれば、賓興の勧めもあって編纂した明和四年刊の類題集『千首部類』が、仮名遣いを契沖の『和字正濫鈔』に拠ることを鮮明にしていることから、為村との間に仮名遣いや契沖をめぐる確執のようなものがあり、半ばは覚悟の上の破門劇であったのではないかと憶測している」とある。旋頭歌十八首と長歌一首を除く短歌一九九五首に占める非歴史的仮名遣いは九首、うち重複を除いた四首を引く。 A 梅かほり柳けぶりて糸雨のつれづれとふる春の日長き(一二五) B 梅かをり柳けぶりて糸雨のつれづれとふる春の日長き A 勝間田の昔の蓮も玉だれのみすのを池の花にをよばじ(四八六) B 勝間田の昔の蓮も玉だれのみすのを池の花におよばじ A 結ぶより消(け)やすき草の露の上を思へば袖ぞ先しほれける(六七八) B 結ぶより消(け)やすき草の露の上を思へば袖ぞ先しをれける A 今日よりや人を恋路にまどふらんあやしく袖の濡れてかはかぬ (一一九三) B 今日よりや人を恋路にまどふらんあやしく袖の濡れてかわかぬ 四―十、『はちすの露』(和歌文学大系74) 著者は良寛(一七五八~一八三一)、『はちすの露』は一八三五年に晩年の弟子、貞心尼によって編まれた。短歌一三四首、長歌十三首、旋頭歌四首、発句十句からなる。うち短歌から非歴史的仮名遣いの五首を引く。なお長歌や詞書などにも同様の例が散見した。 A 忘れても人ななやみそ猿(ましら)もよ汝もむくひはありなむものを(一三) B 忘れても人ななやみそ猿(ましら)もよ汝もむくいはありなむものを *右『新編国歌大観』も四句は「むくひ」である。小学館の『全文全訳古語辞典』は参考として「『むくゆ』はヤ行上二段活用の動詞であるが、中世には『むくふ』というハ行四段活用に変化して通用したため、『むくひ』の表記もある。」とする。 A かにかくにかはかぬものは涙かな人の見る目をしのぶばかりに(五二) B かにかくにかわかぬものは涙かな人の見る目をしのぶばかりに A あは雪の中に立てたる三千大千世界(みちおほち)またその中にあわ雪ぞ降る(七六) B あわ雪の中に立てたる三千大千世界(みちおほち)またその中にあわ雪ぞ降る A つきて見よ一二三四五六七八(ひふみよいむなや)九(ここ)の十十(とをとを)とおさめてまた始まるを(九三) B つきて見よ一二三四五六七八(ひふみよいむなや)九(ここ)の十十(とをとを)とをさめてまた始まるを A 山がらす里にい行かば子がらすもいざなひて行け羽根よはくとも 貞心尼(一四〇) B 山がらす里にい行かば子がらすもいざなひて行け羽根よわくとも 貞心尼 四―十一、草径集(和歌文学大系74) 著者は大隈言道(おおくまことみち)(一七九八~一八六八)、『草径集』は一八六三年の刊である。収録歌九七一首すべて歴史的仮名遣いであった。なぜなのか。「解説」を読んでも仮名遣いに言及した箇所は見当たらなかった。しかし興味を引く箇所があったので以下に引く。 「言道は『をさなくいふ、これぞ歌の本心なりける』(『こぞのちり』)とした」(四四六頁) 「宝暦前後から流行した李卓吾の『童心の説』は、秋成から蘆庵へ、景樹へ、そして、言道へと繋がっていった理念だった。言道の歌語でないものを歌に利用することも、漢詩の俗語訳を学び、摂取していったと考えられる。これらを歌に利用していこうと言う風潮に自然と乗り合わせた。加えて、これらの流れに水面下での地方歌人の層の厚みも見え、福井の橘曙覧を取っても同様のことが言えよう。二人の接点はほとんどないながらも、それぞれが申し合わせたように、己が感性を見つめ、普段の生活の感動から発する歌を紡ぎ出す。それぞれの地方で、そのような歌を作り出す地盤や風潮があり、やはり普段に歌を歌うという下層階級の武士たち、神官たち、商家主人やおかみさんたちなど庶民層の厚みがあったからこそ、その上に言道も突出してきた。決して特別に希有の歌人というわけでなく、彼だけが新しく、次の時代を予感し今を悟っていたわけではなかった」(四五四頁) 上田秋成(一七三四~一八〇九)の『藤簍冊子(つづらぶみ)』(「和歌文学大系」七十一巻)は未刊、しかし『かなづかい入門 歴史的仮名遣いVS現代仮名遣い』の「古学学統図」(一〇一頁)に名前があがっているので仮名遣いも想像できる。小沢蘆庵には契沖仮名遣いの採用が破門の一因という説があった。香川景樹(一七六八〜一八四三)の『桂園一枝』『桂園一枝拾遺』(いずれも「和歌文学大系」七十三巻)も未刊であるが、『日本国語大辞典』を引くと「小沢蘆庵(ろあん)に学び」とある。言道が、その景樹の影響を受けたことは「解説」で述べられている。秋成、蘆庵、景樹、言道、そして橘曙覧(あけみ)を含めて、いずれも地下(じげ)の歌人であった。 李卓吾(りたくご)(一五二七〜一六〇二)を『日本国語大辞典』で見ると「王陽明の主観的な心学を極度におしすすめた結果、あらゆる世俗の権威を否定し、遂に孔子の権威をも否定して儒家の外に出た。一般に軽視されていた小説・戯曲を好み、『水滸伝』『西廂記(せいそうき)』などの評論にすぐれている。時の権力者にうとまれ、獄中で自殺」とある。これで思い出すのが言道の弟子、野村望東尼(一八〇六〜一八六七)である。勤王の志厚く、黒田藩の流刑地・姫島(福岡)に流されるが、かつてかくまったことのある高杉晋作によって救出されている。 四―十二、志濃夫廼舎歌集(和歌文学大系74) 著者は橘曙覧(一八一二~一八六八)、一八七八年に子の井手今滋(いましげ)(一八四五~一九一一)によって出版された。収録する七八六首すべてが歴史的仮名遣いである。集中「契沖阿闍梨」の詞書で「もしほやく難波の浦の八重霞やへやへならぬしわざ立((たて))ける」(一六〇)もある。ただ詞書に限ると「つかふまつる(つかうまつる)」「かんがうる(かんがふる)」「まろうど(まらうど)」「けうじける(きようじける)」「こわき手足(こはき手足)」「をとな(おとな)」「思ふ給へらるゝ(思う給へらるゝ)」「せうやう(せうえう)」の類があった。 五、非歴史的仮名遣いの中にこそ時代の真実が宿る サンプルが少ない中での大雑把な印象だが、西行・後鳥羽院・源実朝の仮名遣い混乱の時代から定家仮名遣いを経て、契沖仮名遣いが浸透していく様が見てとれる。ただし、『新編国歌大観』並みに裸の五句三十一音詩が姿を現したならば、仮名遣い混乱の時代、定家仮名遣いの時代、定家仮名遣いと契沖仮名遣い共存の時代になると思われる。歴史的仮名遣いによって、いちばん割を食ったのは藤原定家であった。仮名遣いを素にもどしていくと改めて定家の存在がクローズアップされていくのが実感されるところであった。それだけではない。 『国史大辞典』で「定家仮名遣」を引くと、こうある。執筆者は小松英雄である。 「定家仮名遣は、歌学を中心に、中世から近世にかけて実践的に継承されており、その期間に成立した伝統的文体の作品だけでなく、平安時代の諸作品の伝本にも支配的に行われている。契沖の『和字正濫抄』(元禄八年(一六九五)刊)によって復古的仮名遣(いわゆる歴史的仮名遣)が提唱されて以後も定家仮名遣は実用され続けたが、明治以後、公的に歴史的仮名遣が採択されて、事実上、廃絶した。定家仮名遣で表記された文学作品は、現在、歴史的仮名遣に書き改めて活字化するのが慣行になっているが、機械的な書き換えによって、原表記に籠められた意図が失われたり、解釈が変更されたりしている場合がしばしばある。」 文学が歪められているというのだ。 歴史的仮名遣いを素にもどしていく作業は契沖仮名遣いにも影響がないとは言えないだろう。白石は「古代仮名表記の研究成果に拠るというのがたてまえの契沖仮名遣では、たとえば新資料の出現や研究の深化などによってそれに修正がくわわると、当然、基準のほうも修正されなければならない。そうでなければ、『契沖仮名遣』とはいえなくなる」(九六頁)というが、その深化の跡も、研究者また和歌という具体的な作品とともに浮き彫りになる。それは歴史的仮名遣いの名のもとに埋没するよりも、はるかに意味のあることに違いない。 せっかく採ったデータである。活用しない手はない。 西行の次の作品である。 A 見る人に花も昔を思ひ出((いで))て恋しかるべし雨にしほるる(一〇一) B 見る人に花も昔を思ひ出((いで))て恋しかるべし雨にしをるる 素が「しほるる」、歴史的仮名遣いが「しをるる」である。少数派のようだが『日本国語大辞典』の「しほれる【萎・撓・霑】〔自ラ下一〕しほ・る〔自ラ下二〕(歴史的かなづかいは『しをれる(しをる)』とする説もある。『しほる』の『ほ』がハ行転呼を起こしたため、早くから『しをる』と表記されたものか)」は、やはり気になる。それより何より、手を入れること自体、作者をないがしろにすることだとは思わないのだろうか。 もう一例、やはり後鳥羽院の歌である。 A 神まつる木綿四手(ゆふしで)かくるさかき葉のさかへやまさん宮(みや)の玉垣 B 神まつる木綿四手(ゆふしで)かくるさかき葉のさかえやまさん宮(みや)の玉垣(一四八一) 素が「さかへやまさん」、歴史的仮名遣いが「さかえやまさん」、ところが『新編国歌大観』も四句「さかへやまさん」(かみまつるゆふしでかくる榊葉のさかへやまさん宮の玉がき)に与している。一方で小学館の『全文全訳古語辞典』では「さかえ」で「〔名詞〕 《動詞「栄ゆ」の連用形の名詞化》 栄えること。繁栄。栄華」とある。伝家の宝刀「歴史的仮名遣い」が二つあることになるが、この「え」は、どこからやってきたのか。『日本国語大辞典』で「さか・う[さかふ]【栄】」を引くと「ヤ行下二段活用の『さかゆ』から転じて、鎌倉・室町時代ころから用いられた語)」とある。「さかえ」から「さかへ」に変化したことになる。そして変化した方の「さかへ」こそ、まさに後鳥羽院の時代である。歴史的仮名遣いは平安時代中期以前の仮名表記を規範にするというのが本旨でなかったのか。 さらに、頓阿の『草庵集』から引く。 A 一夜にも憂きいつはりは知らるるを何のたのみにたへて待らん B 一夜にも憂きいつはりは知らるるを何のたのみにたえて待らん(九七六) 『新編国歌大観』も結句を「たへてまつらん」(一夜にもうき偽りはしらるるに何のたのみにたへてまつらん)とする。『日本国語大辞典』によると補注に「中世からヤ行にも活用した」とある。「たふ」から「たゆ」に変化したというのだ。頓阿の時代に照らせば「たえて」でもよかったが、頓阿自身は古い時代の「たへて」を使ったことになる。 『はちすの露』からも引いておこう。 A 忘れても人ななやみそ猿(ましら)もよ汝もむくひはありなむものを(一三) B 忘れても人ななやみそ猿(ましら)もよ汝もむくいはありなむものを 小学館の『全文全訳古語辞典』によると「『むくゆ』はヤ行上二段活用の動詞であるが、中世には『むくふ』というハ行四段活用に変化して通用したため、『むくひ』の表記もある」という。そして『新編国歌大観』は、この「むくひ」に与しているのである。 いずれも立派な学者の仕事であり、背景にはそれなりの根拠もあるのだろう。しかし、こうした事案が重なると規範としての歴史的仮名遣いに対する信頼が薄れることにもなる。 ともあれ結論は一つ、狂歌に倣って古人を歴史的仮名遣いから解放することを提言しておこう。近代というレンズを通すことなく、直に、その時代、その歌人と向き合いたい。素で見る時代の風景は格別であろう。そこに立ち、同じ空気を吸ってみたいのである。 六、現代語短歌と現代仮名遣い~未来への宣言~ 白岩良夫が規範仮名遣を分類して最後に置いたのが純粋表音仮名遣いである。国語教科書の検定に従事していたときに出会ったグループの主張に名を与えたものだ。 「現在ではどうなっているか知らないが、現代仮名遣に例外規則のあることを不徹底だと批判したグループがあった。例外は旧仮名遣いの一部を残したところであり、これは発音主義を謳(うた)いながら、旧来の習慣との妥協の産物である。どちらにも顔をたてようとして二つの原理が混在してしまった。このような中途半端なものは、学問的に容認しがたい、という主張であったかと記憶する」(四三頁) ほかの仮名遣いでもいいわけだが、想像もできないので、仮にこのグループが息を吹き返したとしよう。息を吹き返しただけならいいが、歴史的仮名遣いの遡及適用よろしく一九四六(昭和二十一)年までの作品を塗り替えることになったら、どうだろう。まず思いつくのは助詞「は」「へ」「を」である。私の作品を例にあげよう。 A 涙もろくなってしまっためがしらを押さえて今日は花嫁の父 B 涙もろくなってしまっためがしらお押さえて今日わ花嫁の父 A 養殖のウニへ人より先に手をかけるラッコにこそ痛風を B 養殖のウニえ人より先に手をかけるラッコにこそ痛風お こんな感じだろうか。二首目の結句「痛風」は平仮名書きなら「つーふー」になるのかも知れない。あるいは「じ・ぢ」「ず・づ」などはどうなるのか。更なる変更を余儀なくされる要素だろう。もちろん、それを受け入れるも受け入れないもない。おそらく遡及適用の時点で私は生きていないのだから。しかし国会図書館の片隅で埃を被っているだろう無名歌人として、拒否宣言を遺しておくことは必ずしも無意味ではないだろう。 私たちの歌は、記述仮名遣いの時代であれ(たとえそれが混乱していようが)、現代仮名遣いの時代であれ(たとえそれが折衷的仮名遣いと批判されようが)、私たちが生きた時代とともにあり、仮名遣いも、その例外でないことを忘れてはならないと思うのである。 |
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参考 | ||||
狂歌を五句三十一音詩史に回収する 狂歌逍遙録 | ||||
句またがりの来歴 | 私の五句三十一音詩史 | 短冊短歌と応募原稿 | ||
歌の未来図~文語と口語~ | 歌の未来図~あるいは歌の円寂するとき~ | 字余りからの鳥瞰図~土屋文明『山谷集』~ | ||
夫木和歌抄と狂歌 | 文語体と口語体 | 近代短歌と機知 | ||
狂歌とは何か~上方狂歌を中心として~ | 狂歌と歌謡~鯛屋貞柳とその前後の時代~ | 談林俳諧と近代語~もしくは古代語からの離脱一覧~ | ||
用語論~鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない~ | 用語論~矮小化された近世の狂歌すなわち「上方狂歌」の名称について~ | 一本亭芙蓉花~人と作品~ | ||
一本亭芙蓉花~その失われた風景~ | 仙人掌上玉芙蓉 | 近世の狂歌~ターミナルとしての鯛屋貞柳~ | ||
インタビュー「短歌人」 | 用語論~文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ~ | 口語歌、口語短歌は近代の用語。今は現代語短歌なのだ | ||
近代の歌語「おほちち」と「おほはは」の来歴を問う | 現代語短歌と古典語短歌 | |||
「狂歌大観」33人集 | 狂歌大観(参考篇)作品抄 | 「近世上方狂歌叢書」50人集 | ||
YouTube講座「吉岡生夫と巡る五句三十一音詩の世界 | 狂歌史年表 | 日本語と五句三十一音詩 |
ス ラ イ ド シ ョー | ||||||||
五句三十一音詩のツールとしての言葉について~内容もさることなから~ 少し長いので、YouTubeでは3分26秒、全体を見渡すには便利です。 |
用語論~文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ~ 現代語短歌のすすめ、YouTubeなら3分15秒、見え方が少し異なります。 |
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用語論~鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない~ 狂歌とは何か、youtubeなら3分35秒、見え方が少し異なります |
用語論~矮小化された近世の狂歌すなわち「上方狂歌」の名称について~ 近世の狂歌、YouTubeなら3分35秒、見え方が少し異なります |
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