五句三十一音詩の歴史に、日本語の歴史を重ねるとき、歌のスタンダードとしての現代語短歌が見えてくる。


用語論~矮小化された近世の狂歌すなわち「上方狂歌」の名称について~
 吉岡生夫(2016.2.19)
   一、はじめに

 狂歌を読もうとすると『狂歌大観』(明治書院)・『近世上方狂歌叢書』(和泉書院)・『江戸狂歌本選集』(東京堂出版)がある。あるというか、分かれているので別々に手にすることとなる。『国歌大観』のように一つにまとまっていない。いわば『狂歌大観』に収録する狂歌史が一本あって、そこから『近世上方狂歌叢書』と『江戸狂歌本選集』という二つの狂歌史が並走しているかのような印象を受ける。何故なのか。このセクト主義とも呼びたくなるようなイレギュラーの拠って来たる由縁を明らかにしたい。また必要以上に矮小化されてきた「上方狂歌」の実態を明らかにしたい。端的にいえば天上天下唯我独尊的「天明狂歌」の煽りを食って「上方」の名を冠さないと語れなくなっている、押し込まれた近世狂歌の豊かさを明らかにしたい。なぜなら五句三十一音詩としての「狂歌史」は、和歌と短歌を結び、またその未来のあり方をも照らしているからである。

   二、用語としての「上方狂歌」

 ジャパンナレッジで見出検索しても「上方狂歌」は出てこない。全文検索すると「上方狂歌壇」という形で三件がヒットする。うち二件は「鯛屋貞柳」の人物解説、うち一件は「日本文学」の記述の中で「狂歌なども、元禄のころまで学者や歌人などの余技であったものが、享保期に入ると永田貞柳(ていりゅう)などの職業的な狂歌師が現れるようになり、上方狂歌壇が形成され、江戸でもまた四方赤良(よものあから)(蜀山人(しょくさんじん))を中心とする江戸狂歌壇が形成されてともに幕末に及ぶのである」といった具合である。「職業的な狂歌師」も気になるが、これで『江戸狂歌本選集』の「江戸」が江戸時代の意味でないことが分かる。いや、それもあるか。紛らわしい。
 次に「天明狂歌」の見出検索ではヒットしないが、全文検索をかけると「天明狂歌壇」を含めて二十七件がヒットする。但し、見出検索でも「天明風(てんめいぶり)」や「天明調(てんめいちょう)」なら各一件がヒットする。『日本古典文学大辞典』(岩波書店)ならどうか。第六巻の「索引」を引いても「上方狂歌」は出てこない。「天明狂歌」も出てこないが「天明調」で立項されている。石川了の『江戸狂歌壇史の研究』(汲古書院)を見ると「天明狂歌」という用語の成立は新しい。昭和それも確立を見るのは戦後といってもいいのかも知れない。
 用語として存在しない「上方狂歌」に対して、歴然と存在する「天明狂歌」ないし「天明風」「天明調」、この違いはどこから来ているのか。それは時代と地域で説明できる狂歌と、時代を超えて、越えなければ説明できない、地域を越えて存在する、越えなければ説明できない、そのようなものとしてしか説明できない狂歌との違いである。「上方狂歌」の「上方」は不要なのだ。こうした結論に至るには、それなりの理由がある。
 一つ。『狂歌大観』の三巻ともに載せてある「序」である。以下に抄出する。

狂歌は、これが盛んに行われた時代においても、その包含する所は多種多様であり、作者によっても、その意図する所は多種多様であった。一般に、こんにち狂歌と呼ぶものは、所謂天明狂歌とその流れをくむものであるが、天明狂歌の成立によって、いわばその前史と見なされるに至った数百年間の狂歌は、まことに骨太であり、豊饒でもあったのだ。豊饒は、ときに粗野であり、洗練を欠くが、天明の江戸狂歌が、洗練のうちに、払い落し、失って行ったものが、実はそれ以前の狂歌においては、他のさまざまの文芸・芸能の領域と深く力強く結びつけられて存在した。

 一つ。大田南畝の「狂歌堂に判者ゆづること葉」(『四方の巴流』、『江戸狂歌本撰集』第十五巻)の一節である。

鳥がなくあづまぶりはわづかにはたとせばかりこのかたわがともがらよりもてはやして

 一つ。右とも関連するが、梅本高節の『狂歌師列伝』(『江戸狂歌本全集』第十五巻)の一節である。

江戸風狂歌の勃興せる原因は、他にも有るであらうが、黄表紙と称へる、小説の流行が、確に其の原因の一である。黄表紙は、宝暦より安永の初までは、極めて幼稚なるので、児童の玩弄物であつたのが、安永の中葉から、春町、喜三二、全交、京伝等の戯作者が相踵いで起り、滑稽諷刺を主として、著作せるのみでなく、有産階級を揶揄したり、智識階級を翻弄したのが、当時の江戸人の意気に適つて、大流行を来したのであるが、江戸風狂歌は、殆、黄表紙と同時に勃興したもので、前に挙げた黄表紙の作者等は、孰れも狂歌師を兼て居たから、一部の黄表紙を圧縮したものが、三十一文字の江戸風狂歌となつて、世に顕はれたのだとも云ひ得ると想ふ。

 このあと「
世間では、江戸風狂歌を、天明風狂歌と称へるが、此の狂歌は実に、明和六年頃に萌芽を発生したもので」と続く。初めて狂歌の会を持った年をいう。
 いずれにしても地域も年代も限定され、その出どころも戯作文学となれば、説明できる狂歌にも自ずから範囲がある。これに対して「上方狂歌」が負っている内実は、その名称から予想される許容量をはるかに越えたものなのだ。
 では、なぜ「上方」などというあらぬ言葉に押し込められることになったのか。そこには、自分の生まれる以前に亡くなった貞柳(一七三四年没)や卜養(一六七八年没)を掴まえて「
近来、鯛屋貞柳(油煙斉)・半井卜養などいへるやから時々流行の詞をもて蒙昧の耳目を驚かせり。あらぬ風情を求めて、歌のさまに関はらず、軽口などいう類にて座客におもねり、笑ひを求む。然るを当世の児女これを狂歌のさまと心得、まことの狂歌を知らず。浅ましくなん侍る」と貞柳以前また貞柳以後の「上方狂歌」を空白化してみせたハッタリスト朱楽菅江(一七三八年生)に続いて真打ちがとどめをさすのである。

   三、耳を疑う罵詈雑言の数々

 鹿都部真顔編の狂歌集『四方巴流(よものはる)』(刊記一七九五年)に四方山人(大田南畝)の「狂歌堂に判者をゆづること葉」が載る。狂歌堂とは鹿都部真顔(一七五三~一八二九)で、この年四十三歳、大田南畝(一七四九~一八二三)は四十七歳である。平仮名表記は、適宜、漢字表記にして抄出する。

難波の行風といへるもの、古今後撰のふたつの集をえらびて、かの宮にささげしかば、院の御所にめでさせ玉ひて、はじめて夷曲とも夷歌とも呼ぶべしといへるみことのりをさへ下し玉ふぞかたじけなき。しかるに新撰狂歌集には落書を書きまじへ、銀葉夷歌の頃より底金(そこがね)の響きも移ろひたるに、言因とかや言ひし痴れ者いかなる由縁の侍りしや、雲の上まですみのぼる烟の名を立てしより、その流れを汲み、その泥(ひじりこ)をあぐる輩(ともがら)・京わらんべの興歌などいへるあられもなき名を作りて、はてはては何の玉とかいへる光なき言の葉も出できにけり。

 「古今後撰」は『古今夷曲集』(一六六六年)と『後撰夷曲集』(一六七二年)で共に生白堂行風(生没年不詳)の編である。「かの宮」は『後撰夷曲集』に出てくる八宮だろう。『新撰狂歌集』は行風以前で、誤った情報に基づいたと思われる。「銀葉夷歌」は行風の編著『銀葉夷歌集』(一六七九年)、「底金」は雪駄の踵の革が減るのを防ぐために打ちつけた金、「移ろひたるに」は上方における狂歌の隆盛も過去のものになって、という意味だろう。「言因」は永田貞柳の名であるが、普通は使わない。没後六十二年、一七九〇年には仙果亭嘉栗の『狂歌貞柳伝』も出ていて、歴史上の人物なのだ。こんなところからも南畝の悪意が伝わってくる。「痴れ者」とは愚か者とか馬鹿者をいうが、次の「由縁」は南都古梅園の大墨が御所に献上されたときの作〈月ならで雲のうへまですみのぼるこれはいかなるゆゑんなるらん〉(『家づと』)が評判となり、以後「油煙斎」(由縁斎)と改名したことをいっている。「その泥(ひじりこ)をあぐる」以下を含めて朱楽菅江に輪を掛けて高圧的、しかも内容といえば、ひたすら罵詈雑言を重ねているに過ぎない。興歌を謳った歌集には鈍永撰『興歌老の胡馬』(一七五一年)、一好詠・梅好撰『興歌帆かけ船』(一七六八年)、山居撰『興歌河内羽二重』(一七七六年)、繁雅撰『興歌野中の水』(一七九二年)ほかがある。「何の玉」は一本亭芙蓉花(一七二一~一七八三)の歌そしてその歌に対する落首をいう。南畝の『俗耳鼓吹』(岩波書店『太田南畝全集』第十巻)より引用する。

浪花の一本亭芙蓉花は狂歌に名あり。ことし(壬寅)あづまに下りて、浅草観世音の堂に一つの絵馬をささぐ。自ら宝珠をゑがきて、かたはらに狂詠をそへたり。
  みがいたらみがいただけはひかるなりせうね玉でも何の玉でも
ある日何ものかしたりけん、一首の落書をおしおけり。
  みがいてもみがいただけはひかるまじこんな狂歌の性根玉では
京都にても落書あり。
  ひかろかのこんにやく玉も藍玉もたどん玉でもふぐり玉でも


 これにはおまけがあって、悪いことはできないものである。「ひかろかの」の左に星印(*)があって「
〔欄外。多稼翁当時(ソノカミ)の落首。金玉はみがいてみてもひかりなしまして屁玉は手にもとられず〕」とある。「多稼翁」とは大田南畝のことを暗示する。後年、事情を知る誰かが『俗耳鼓吹』を閲覧した際に書き込んだものであろう。歴史の証言者であり、その証言を闇に葬らなかったところに全集編集者の誠実さが思われる。
 さて、こうして近世の狂歌史は歪められていくのであるが、そのはてに『嬉遊笑覧』の次の記述があるだろう。筆者は喜多村信節(一七八三~一八五六)、『古事類苑』で見つけた。文学部十歌四、九一八頁である。

〔嬉遊笑覧三詩歌〕後世は、連歌師また俳諧師の詠めりしを、○狂歌、専ら好みてよめるは、建仁寺長老、八幡山信海、生白庵行風、江戸に徳元、卜養、末得、就中聞えたり、其後、しばらく廃れたりしが、安永ごろ又流行出て、漢江、赤良、橘洲、木網等を始めとして、其徒あまた出来ぬ、みななぐさみわざとして、点料など取ることなし、其後これをもて業としたるものは真顔なり。

 貞柳以下が「
其後、しばらく廃れたりしが」の一言で片付けられている。二十一世紀に五句三十一音詩を弄ぶ私などには、近世狂歌のいちばん美味しいところが、完全に消されてしまっているのである。

   四、貞柳は近世の狂歌にとってターミナルだった~着駅~

 豊蔵坊信海(一六二六~一六八八)は石清水八幡宮の社僧で貞柳の師である。四十一歳のとき『古今夷曲集』に二十四首、四十七歳のとき『後撰夷曲集』に二首、五十四歳のとき『銀葉夷歌集』に十七首が入集している。『古今狂歌仙』(一六七九年)も同年、著者の愛香軒睋鼻子は談林俳諧の理論家、岡西惟中と思われるが、序で「
われわれごときのにじり書せん人のよみならふべきはじめにもと建仁寺八幡山のふた歌をいろはにしてゑひもせず狂歌仙と名付るものならし」と述べる。貞柳の時代に移って『狂歌五十人一首』(一七二一年)は没後三十一年、『続家づと』(一七二九年)で雄長老と共に狂歌二聖とされ、序に歌論「箔の小袖に縄帯したる姿によみ出る外に別の習ひ候はず」が掲げられるのは没後四十二年である。さらに貞柳は一六九三年(没後六年)、信海の遺歌集『八幡拾遺』の出版を試みるが黒田月洞軒の叱責を受けて中断、紆余曲折の末に『狂歌鳩の杖集』として名護屋の青簟舎都真によって出版されたのは一七八三年、信海の没後九十六年、貞柳としてはその遺志が五十年後に実を結んだのであった。
 半井卜養(一六〇七~一六七八)は堺の人であるが幕府に召されて御番医師を勤めた。六十歳のとき『古今委曲集』に七首、六十六歳のとき『後撰夷曲集』に四首、没後二年になるが『銀葉夷曲集』に一首が入集している。同年『古今狂歌仙』にも名前が出ている。没後四十四年に貞柳の『狂歌五十人一首』に選ばれ、没後五十二年の『続家づと』では狂歌二歌仙に次ぐ狂歌六歌仙に選ばれている。しかし序では「
若(もし)他をそしるの落首をよみ候はば和歌三神の御罰を蒙り信海法印半井卜養二仙のおしへにはづれ本意に背き候べし」と、狂歌二聖の雄長老を外している。近世では信海と卜養の二人だといいたいかのようである。ただ同歌集末尾の「狂歌式」で、

半井卜養狂歌に秀句いひかけ多くよめるは上手のうへにて、座敷の興にさらりとよめると見へ、元来歌学有て古今伝授をも古(いにしえ)卜養は伝へしるとかや、風聞あれば、卜養においても誹諧の名句ども多し、いかやうの狂歌にても躰をさまざまによみぬる人ならねども、ただ座興のみのしわざと見へ侍るならし

と、その限界も見据えている。卜養には生前に『卜養狂歌集』(一六六九年)もあるが、『古今狂歌仙』の評価ないし価値観を継承するかたちで貞柳に取り上げられた意味は大きいだろう。
 旗本の黒田月洞軒(一六六一~一七二四)は、信海の死後、貞柳が雲洞の名で指導を受けた同門である。しかし月洞軒の名前を信海の歌集に見いだすことは出来ない。行風の編著にも登場しない。公に知られるのは六十一歳、『狂歌五十人一首』が初めてだろう。『続家づと』で狂歌六歌仙に名を連ねるのは没後六年である。信海や卜養の場合と違って、貞柳の二著がなければ、月洞軒の自由で奔放な世界は知られることがなかったかも知れない。その幸運を月洞軒のみならず私たちも分け合っている。もちろん信海や卜養もその評価の仕方が変わっていたかも知れない。
 それはどういうことなのか。
 平凡社ライブラリーの『日本語の歴史5近代語の流れ』の「第四章 近世文学にみる発想法の展開」は「一 文芸に俗語を登場させた俳諧」で始まる。少し耳を傾けておこう。

 
もともと、伝統文学では雅意識が尊重され、上品で美しいことが、文学の第一の要素となっていた。そのため、対象にも古来から本情のたしかめられたものを選び、用語にも出典のあるものが使われた。つまりは先出の文学の跡にのっとっていくことで雅の範囲を逸脱しないことに努めたのである(略)。
 これに対して、近世の新しい文学は、雅文学だけでは満足しきれない当代人の文学心の要求としてうまれたのであり、そこに実用性をもちえたとするならば、対象も現実に即してとりあげられ、用語も現代語がえらばれた。そして、なによりも文学のふくむ精神的内容が、当代の人びとにそのままアピールするものであっことは、いうまでもない(略)。


 ここで述べられる「俗語」とは近代語の僭称といってもいいだろう。そして強調しておきたいのであるが、俳諧に起こったと同じことが実は狂歌の世界にも起きているのである。それが信海であり、卜様であり、次の世代に当たる月洞軒なのである。

  
をのが名にもたれかかるは布袋くらひ肥えたは又はらぶくろ      半井卜養
  酒をさてすき頭巾とはつく杖の竹のよよまでかたりつたへた     豊蔵坊信海
  河波にばつとはなせば鵜の鳥がこぶなくはへてぶりしやりとする   黒田月洞軒

 ではターミナルと名付けた貞柳の来歴も眺めておこう。十九歳で『後撰委曲集』に八首入集、このとき父の貞因三十五首、叔父の貞富百七首、貞富の子・長丸四首の入集を見ている。二十六歳のとき『銀葉夷歌集』に二十三首が入集している。このとき父の貞因二十八首、叔父の貞富が七首入集している。同年の『古今狂歌仙』三十六人には三人そろって名前が入っている。 このほか俳諧との関わりも見逃すことができない。二十歳のとき西鶴撰の『生玉万句』(一六七三年)に一句入集、貞因、貞富も各一句入集している。二十七歳のとき宗円編『阿蘭陀丸二番船』に三句入集している。父・貞因は十五句が入集している。こうした環境に恵まれていたということも多分にあったろうが、狂歌と俳諧の両方に作品が見られるのである。
 貞柳の没後、栗柯亭木端は『狂歌ますかがみ』(一七三六年、『狂歌大観 第1巻 本篇』)において「
常々の物語に先師信海法印の授けられし詞に狂歌を読むはただ箔の小袖に縄帯せるを風体と定めて学べよと教へられ侍りき。箔の小袖とは本歌古語、縄帯とは俗諺俳語也といひ聞かされし」とその遺訓を伝えるが、中に「狂歌は紙子に錦の裏を付け候」という言葉も記録する。乾裕幸の『俳文学の論〈読みの有効性〉』(塙書房)によれば、

 
貞柳の「紙子に錦の裏」は、岡西惟中が『俳諧蒙求』(延宝三年刊)に引用する西山宗因のことば、
  古人のおしへとやらん紙子ににしきのゑりさしたるやうに一興あるを俳諧と申とかや
まで遡ることができる。


というのである。延宝三年は一六七五年である。乾は同書で、信海の言葉との共通性を認めた上で「
驚くには当たらない。宗因と信海、それに貞柳の父貞因などは同じ文学的世代に属したし、寛文・延宝の談林盛行時にあって、俳諧と狂歌とはまるで蜜月の親しさにありもしたのである」と述べている。
 行風の編著『古今夷曲集』(一六六六年)・『後撰夷曲集』(一六七二年)・『銀葉夷歌集』(一六七九年)も、そうした時代を映す鏡であったろう。ただ貞柳の心には談林俳諧の嵐が去ったあとも西山宗因が生きていたのである。そしてくどくなるが、やはり付け加えておかなければならない。これは雅俗折衷などではないのだ、と。「雅俗折衷」をジャパンナレッジで見出し検索すると『日本国語辞典』が一件ヒットする。用例にあるのは坪内逍遙と石川啄木の小説である。同辞典には「雅俗折衷文」もあって、

明治初・中期に発達した文体。地の文は、雅文もしくは文語体、会話は口語体で、この名称は明治時代にできたが、そのさきがけは西鶴、近松にさかのぼる。

とある。しかし古代語が支配する言文二途の時代と国策として言文一致化が進められる明治とでは、言葉の置かれた状況は真逆であろう。同日に論じるのは愚かなことだ。

  
いかなるか是いんげん豆もはなの色は抹香くさふもござんせぬのふ   鯛屋貞柳

 話を狂歌にもどせば、信海と卜養は保守的な短詩型、五句三十一音詩に近代語を登場させたのである。貞柳は機会を捉えて、この二人を顕彰した。また同門である月洞門を忘れなかった。この狂歌人が加わるか、加わらないかによってはターミナルの輝き、また魅力は異なっていたはずである。

   五、発駅~近代短歌へ~

 ジャパンナレッジで「開化新題歌集」を全文検索すると「短歌(文学)」がヒットする。その「近代短歌の黎明」で「
明治維新とともに急激に輸入された西欧文化や制度・文物のなかで、動き始めた散文の世界からも遅れたままの状態だった。ようやく『開化新題歌集』(一八七八)などによって新制度、外来の事物、風俗などを新題として詠む歌、歴史上の人物を詠む詠史歌にも西欧の人物が登場するなど、新奇な題材に動きをみせるが、内実は旧来のままだった」(武川忠一)とある。
 しかし、この「新題」ということなら木端撰の『狂歌かがみやま』(一七五八年)が百二十年ほど先行している。「新題百首の歌読みけるとき」という一連である。

   
  新題百首の歌読みけるとき麦秋
  泪ならですずろに落るいがほこり袖やすからぬむぎの秋かぜ       栗柯亭木端
     同「虹」
  天人の洗濯してや雲の袖にかけしたすきとみる虹の形          坤井堂宵眠
     同「煙草」
  煙てふ草のはじめは其のむかしたれぞ思ひのたねやまきけむ       栗柯亭木端
     同「煎綵花(ツクリバナ)」
  咲くかたち似せう似せうと天つちのたくみを盗むつみつくり花      栗柯亭木端
     同「田犬(カリイヌ)」
  夜は守り昼はかり場をかけまはる是ぞ猟師の左右のめいけん       坤井堂宵眠
     同「閏」
  指もちて目をひねらねど閏あるとしは第二の月をこそみれ        栗柯亭木端


 六首目の「閏」だが右肩に「本語」とあるのは「目指(まなざし)」(視線)であろうか。して題となっている閏月は珍しいものではない。『狂歌かがみやま』の出た宝暦年中でも四(一七五四)年は二月が二回、六(一七五六)年は十一月が二回、九(一七五九)年は七月が二回、十二(一七六二)年は四月が二回といった塩梅である。
 明治の『開化新題歌集』に対する評価は概して低いが、中には小林幸夫の「開化期和歌の問題――新題歌が和歌を殺した」(『国文学―解釈と教材の研究―』平成十二年四月号)のような見解もある。卓見であろう。

 
新題歌は、その新題歌の有つ性質ゆえに和歌伝統の題詠に付随する美意識・美的観念を殺したのである。それは、和歌伝統の美意識・美的観念の消失を意味する。新題歌は、和歌史において、題を新題に替えただけの伝統和歌としてその範疇に回収されてしまうものではなく、和歌伝統の美意識・美的観念の息の根を止める仕事をしてしまったのである。和歌伝統の基盤は、新題歌において初めて切り捨てられた。基盤が残っている限り、変わってもそれは表層だけの差異であり、大きく変化することはない。和歌の終焉は実は新題歌にあるのであり、鉄幹や子規が和歌を革新したことは問題の層を異にしているのである。鉄幹や子規は、和歌の基盤が崩壊した後に『自我』とか『写生』によって新たな歌を構築したいわば建築師と捉えるべきなのである。破壊者は新題歌の担い手たちだった。

 同じく木端撰の『狂歌手なれの鏡』(一七五〇年)巻末に「柳門狂歌十徳」が箇条書きになっている。番号を付すと次のようになる。

①本歌物語の詞を用ゆればうた人もくちずさみ
②古詩本語をもちゆれば詩人も又吟弄し
③俗諺俳言を用ゆれば児女のたぐひ牧童樵夫のともがらも耳近くて心得易し
④梵漢の語も其ままにもちゆれば詞広して詩歌にいひ残す情ものべやすし
⑤詞長うして俳諧の句にいひつくし難き趣意もまたいひかなえやすし
⑥ことば聞えやすくて教戒の助に成易し
⑦はやりうたはやりこと葉の拙きも此道に用ゆればやさしくなれり
⑧即席の詠に興を催しやすし
⑨余力なき人も学び易し
⑩和歌の本意を忘れねば箔の小袖に縄帯のことばの海に簸の川上の流れを堪えたり


 十番目に「箔の小袖に縄帯」を出しているが、これに貞柳の「紙子に錦の裏」(宗因「紙子に錦の襟」)を加えて具体化したものが「柳門狂歌十徳」といえるだろう。そしてこれから連想されるのが正岡子規の「六(む)たび歌よみに与ふる書」(岩波文庫『歌よみに与ふる書』)の次の一節である。

生は和歌につきても旧思想を破壊して、新思想を注文するの考にて、随(したが)つて用語は、雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりにて候。

 眺めている限りは同じに見える。ただ両者には決定的な違いがあった。
 歌に近代語を登場させた近世狂歌に対して、近代短歌は歌から近代語を退場させたのであった。言文一致が進められる中での例外的ともいえる逆走を見せたのである。

   六、終着駅~現代語短歌~

 さて狂歌と短歌の関係に初めて言及した歌人は、おそらく安田純生であろうと思われる。その足跡を辿っておくのは、今後のためにも無駄ではないだろう。
 一九九三年「
貫之の生きていた時代では、書きことばと話しことばとの間に、まったく同じとまではいえないにしても、それほど大きな違いはなかった」(『現代短歌のことば』)。私との関連でいえば、これを契機として平凡社ライブラリーの『日本語の歴史』七冊を読むことになった、記念すべき一節である。。
 一九九七年「
漢語や話しことばの採用、破格の語法など、用語の面のみに着目すると、狂歌は現代の文語体短歌や話しことば調短歌に近いものを有している。少なくとも江戸時代の正統的な和歌より狂歌のほうが、いっそう現代短歌と近い関係にある。これを逆にいえば、現代短歌は、歌人が意図しているか否かにかかわらず、用語の面で江戸時代の狂歌を継承しているということである」(『現代短歌用語考』)。このくだりが、どれだけ私に勇気を与えてくれただろうか。ちなみに二〇一三年の「和歌から短歌へ」(『樟蔭国文学第五十号別冊』)では「江戸時代の狂歌を読んでいると、用語の面だけでなく、内容的にも近代短歌の世界を思わせるような作品が散見している」が付け加えられている。
 二〇一〇年「
古代にはいちおう言文一致歌でありましたのに、中世になりますと、だんだん言文不一致歌になっていきました。そして和歌の世界では、明治時代になって、ふたたび言文一致の口語短歌、つまり現代語短歌が、(略)現れてくるのです」(「文語体と口語体」、「白珠」二〇一〇年七月号)。これが用語としての「現代語短歌」との出会いであった。
 二〇一三年「
狂歌は、いうまでもなく和歌から出た一つの流れである。しかし中世近世を通して、和歌の流れとは異なる流れを成していた。それが、近代になり、用語の面において、和歌の流れが狂歌の流れを取り込んだこともあって、新派和歌が生れたともいえそうな気がする。比喩的にいえば、平行して流れる和歌の川と狂歌の川とがあって、和歌の川の水量が減少してきたので、和歌の川の方から強引に水路を掘って、狂歌の川に繋ぎ、狂歌の水を和歌の川に導いたのである。それゆえにか、和歌の川の水量は回復して豊かになり、近代短歌の大河になった。そんなふうにもいえるのではなかろうか。つまりは、狂歌は和歌に取り込まれてしまったのである。そして、このような見方に少しでも妥当性があるのならば、近代短歌の歴史を顧みるとき、狂歌の流れを視野に入れる必要があるはずである」(「和歌から短歌へ」、『樟蔭国文学第五十号別冊』)。
 この「取り込まれてしまった」云々で思い出される狂歌がある。まずは取り込んだ側の短歌を紹介する。

  
久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも      正岡子規

 『子規歌集』(岩波文庫)の明治三十一年の後半に載る歌である。この作品の背後に、取り込まれて、取り込まれたことさえ知る人は少ないだろう、そんな狂歌のあることを次に並べてみよう。

  
久かたのあまのじやくではあらね共さしてよさしてよ秋の夜の月
  久かたの雨戸へ闇やひきこんでことにさやけき月は一めん
  久かたの天津のつとの太はしら探る雑煮のあなうまし国
  久かたのあめの細工やちやるめらの笛のねたててよぶ子鳥かも
  久かたの天津空豆かみわればにほひとともにかかるはがすみ


 一首目の作者は半井卜養、出典は『卜養狂歌集』(一六六九年。『狂歌大観本篇』)。詞書に「八月十五夜月曇りて出でざりければ」とある。同字を辿って「天の邪鬼」、囃すように「差してよ差してよ、お月さま」となる。
 二首目の作者は雪縁斎一好、出典は『興歌帆かけ船』(一七六八年。『近世上方狂歌叢書二十』)。こちらは同音の「雨戸」に接続した。戸袋に闇を引き込むという趣向である。
 三首目の作者は九如館鈍永、出典は『狂歌野夫鶯』(一七七〇年。『近世上方狂歌叢書十三』)。「天津」は「天の」、これに接続する語は多いが「のっと」は「祝詞」で「天津祝詞」は祝詞の美称、イレギュラーだろう。
 四首目は同じ作者、出典も同じである。題は「喚子鳥」、二句「天」「雨」ならぬ「飴」に転じて行商人の登場となった。
 五首目の作者は白縁斎梅好、出典は『狂謌いそちとり』(一七七六年。『近世上方狂歌叢書二十一』)。題は「有る方にて茶菓子に空豆の出でしに」。「天津空」までは正統だが「豆」を付けて脱線した。結句「歯がすみ」(歯くそ)に「霞」を掛ける。
 このほか常識のように享受している短歌の中に、かつては狂歌の中でしか見られなかった、つまり取り込まれた例は多い。それも「久方のアメリカ人」と同じで、狂歌集を読んでいて初めて気がつくことである。
 では鯛屋貞柳をターミナルとして動き出した近世狂歌の終着駅は近代短歌だったのか。
 私は、そうは思わない。
 生白庵行風が準備し、半井卜養や豊蔵坊信海が登場させた近代語を出発点に置く限り、彼らのミッションの終了は現代語短歌がスタンダードの位置を占めるときでなければならないだろう。狂歌の常識は疑うに足る、それだけの値打ちがあるのだ。
 まずは用語の見直しから始めよう。 
参考 
狂歌を五句三十一音詩史に回収する 狂歌逍遙録 
句またがりの来歴  私の五句三十一音詩史  短冊短歌と応募原稿 
歌の未来図~文語と口語~  歌の未来図~あるいは歌の円寂するとき~  字余りからの鳥瞰図~土屋文明『山谷集』~  
夫木和歌抄と狂歌  文語体と口語体  近代短歌と機知 
狂歌とは何か~上方狂歌を中心として~  狂歌と歌謡~鯛屋貞柳とその前後の時代~  談林俳諧と近代語~もしくは古代語からの離脱一覧~ 
  用語論~鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない~ 一本亭芙蓉花~人と作品~  一本亭芙蓉花~その失われた風景~ 
仙人掌上玉芙蓉   近世の狂歌~ターミナルとしての鯛屋貞柳~  インタビュー「短歌人」  
用語論~文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ~     
 
「狂歌大観」33人集 狂歌大観(参考篇)作品抄  「近世上方狂歌叢書」50人集  
YouTube講座「吉岡生夫と巡る五句三十一音詩の世界」   兵庫県高等学校文芸部の皆さん、熱いエールを送ります  狂歌史年表 
   ス  ラ  イ  ド  シ  ョ  ー
 

狂歌とは何か、youtubeなら3分25秒、見え方が少し異なります



 

近世の狂歌、YouTubeなら3分35秒、見え方が少し異なります
用語論~文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ~

 

現代語短歌のすすめ、YouTubeなら3分15秒、見え方が少し異なります。

狂歌と天明狂歌
俳諧の連歌の発句は五七五
後発の川柳も五七五
しかし俳諧と川柳の軌道が
接近することはなかった

狂歌は五七五七七
後発の天明狂歌も五七五七七
しかし狂歌と天明狂歌の軌道が
接近することもなかった

俳諧と狂歌の軌道は接近し
ときに交わることがあった
鯛屋貞柳と西山宗因
貞柳を信奉した
一本亭芙蓉花なら蕪村

朱楽菅江は川柳も作っていたらしいが
俳諧と天明狂歌の関係はどうだったのだろう
国語辞典で「天明調」を引くと
俳諧の頽廃俗化を嘆く、から
蕪村らの
清新にして壮麗な
云々が出てくる

五句三十一音詩としての狂歌と
戯作文学としての天明狂歌

片や
八雲立つ
出雲八重垣の時代から
受け継がれてきた詩型であり
片や
鳥がなくあづまぶりはわづかにはたとせばかりこのかた
しかも線香花火に終わった詩型

その差は発句と川柳以上に大きかったようである
  
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