近代の歌語「おほちち」と「おほはは」の来歴を問う
𠮷岡生夫(「短歌人」平成31年2月号) 
   一、はじめに

 安田純生は『現代短歌のことば』(邑書林)の中で「おほちち・おほはは」について「おほちち」は「『言海』などに記された語源説がもとになって出来たことばであろう。『おほちち』というと、〈偉大な父〉である祖父といった感じがあるが、この語が歌壇で普及したのは、ひびきの美しさとともに、いかにも祖父らしい威厳が感じとれるからだろうか」と書く。また「『おほちち』『おほはは』が短歌で使われ始めたのは、大正年間であろうか。『おほはは』のほうが『おほちち』よりも、ひと足さきに使われ始めたようである」とも総括する。「おほちち」「おほはは」という疑古典語の発生と普及について明らかにしているのであるが、私の疑問は、なぜ大正時代なのかという点にあった。結論から先に言えば天皇の治世すなわち明治・大正・昭和(戦前)の御代(みよ)を背景とする歌語を、国民主権・象徴天皇の現代において使用する意味とは何か。このことを問題にしたいのである。

   二、天盃

 岡井隆の「『あらたま』の『祖母』における事実と虚構」(『鴎外・茂吉・杢太郎||テエベス百門』)には有益な二つの情報がある。一つは大正四年の「13 冬の山『祖母』其の一」「14 こがらし『祖母』其の二」「15 道の霜『祖母』其の三」の連作が「おほはは」の初出だとする土屋文明の発言である。今一つは結城哀草果の随筆「斎藤茂吉先生の初印象」(『村里生活記』)からの引用の部分である。すなわち茂吉の祖母(実は父の姉)ひで女は大正四年十一月十三日に八十一歳で死去、十五日が葬儀なのであるが哀草果は「長寿を全うした女の年(とし)寄(より)が、大正天皇からの天盃を戴いてから、間もなくよろこびながら大往生をした」というのである。

 いのちをはりて眼(まなこ)をとぢし祖母(おほはは)の足にかすかなる皸(ひび)のさび しさ
 命たえし祖母(おほば)のかうべ剃りたまふ父を囲みしうからの目の なみだ

 このあと「おほはは」が六首出てくる。最初に擬古典語「おほはは」を登場させ、次に和語「おほば」を出したのは同義であることを知らしめるためだろう。この前にあるのが「12 折々の歌」八首である。最後の二首を引く。

 みちのくのわぎへの里にうからやから新米(にひごめ)たきて尊(たふと)みて  食(f)む 奉祝歌二首
 いやしかるみ民(たみ)の我も髯そりてけふの生日(いくひ)をあふがざらめ や  八月ー十一月作

 一首目が八月の作、大正天皇の誕生日は八月三十一日なのだ。二首目が十一月の作、「み民」(御民)は天皇のものである人民、「生日(いくひ)」は吉日、十一月十日の御大典をいう。

 遠どよむ万歳のこゑここにみる提灯の灯はかぎりを知らず                 小田観螢『隠り沼』
 国つ民我はも酔はむ大御世の今日の御典(のり)にあへらく嬉しみ                   斎藤瀏『曠野』

 前者は「いはひ日」五首の一首、場所は北海道。別の歌に初二句「あきつ神生(あ)れましし日」とある。後者は「御大典」(即位式)四首の一首、いずれも昂揚した一連である。
 神奈川県立図書館がインターネットで公開している公文書館資料に「鎌倉郡役所」がある。その中の「大正4年御大礼に関する書類」を見ると「1 天盃並びに酒肴料拝受高令者名簿 高令者取調の件」、とんで「4 高令者名簿送付の件」があり、この起案日は九月二十九日である。各町村が高齢者名簿の作成に取り掛かるのは、当然ながら、これより早い。茂吉が八月の奉祝歌を詠んだとき、祖母は山形県南村山郡金瓶村の天盃拝受高齢者であったろう。伝達式への出席は無理でも「よろこびながら大往生をした」のだ。こうなると「おほば」は「おほば」であって「おほば」ではない。その死を荘厳するのが擬古典語の「おほはは」であったろう。

   三、忠孝一致、敬神崇祖

 天盃を下賜される側の事情は想像もできるが、下賜する側の事情はどうなのか。予備知識として「神国思想」を『日本大百科全書(ニッポニカ)』で引いておく、一部だが「神国思想は民俗としての祖先崇拝と結び付き、明治以後の敬神崇祖、忠孝一致という家制国家を支える道徳思想として生き続ける。」とある。このことを踏まえて松田隆行の「大正天皇の『御大典』と地域社会ー天皇の即位儀礼と国民統合ー」(「花園史学」第三十二号)を読むと「はじめに」で「『大礼(大典)』と国民との関係については、天皇の代替り儀式の持つ『国民統合機能』を明らかにするという視点から、昭和天皇の『大礼(大典)』を中心に研究がなされてきた。昭和天皇の『大礼(大典)』についての研究においては、天皇の代替りの諸儀式が国民を国家なり天皇なりに統合する力は、日清戦争や日露戦争などの『対外戦争』に匹敵するほど強力であり、その意味で、『大礼(大典)』は『対外戦争』に匹敵するほどの大きな役割を『国民統合』の上で果たしたことが指摘されている。」とあり、「おわりに」では「大正天皇の『御大典』は、近代天皇制国家における国民統合の過程において、昭和天皇の『御大典』と同様に、一つの大きな画期をなすものであるといえるであろう。」と結論している。
 いよいよ天盃であるが「『御大典』に際しては、全国各地の八〇歳以上の高齢者に盃(天盃)と金一封(酒肴料)が天皇から『下賜』された。このことは、高齢者を敬い大切にするという形をとって、天皇自らが模範となって、『忠孝』の『孝』を行動で示すという重要な意味を持っていた。そのため、『天盃』と『酒肴料』の『下賜』は大々的に宣伝されて、その伝達式が役場などで行われたのである。」が、それだけではない。「敬神崇祖」という視点から「なぜ、他の形ではなく、高齢者を敬い大切にするという形をとった」のかというのであるが、それは「八〇歳以上の高齢者は、子から見れば『父母』であり、また、高齢ゆえに遠からず死去して『祖先』となる存在である。それゆえ、彼らに『天盃』と『酒肴料』を『下賜』して高齢者を敬い大切にするということは、『子の父母・祖先に対する敬愛の情』を天皇自らが模範となって行動で示すことに他ならない。こうして示された『子の父母・祖先に対する敬愛の情』は、『祖先崇拝』へ、さらに『敬神崇祖』の精神へとつながっていく。そして、『敬神崇祖』の精神は、『万世一系』の天皇への崇敬へ、さらに、『忠孝』の精神の成立へとつながることは、先に見た通りである。八〇歳以上の高齢者に『天盃』と『酒肴料』を『下賜』することの狙いは、まさにこの点にあったのである。」というのである。
 「おほぢ」「おほば」が尊厳を増して「おほちち」「おほはは」となるには、もう一つの素地も考えられよう。たとえば大正四年に八十歳なら明治初年は三十二歳、この世代の占めるポジションといってもよい。すなわち安政の五カ国条約という不平等条約を改正し、日清・日露の戦争に勝利し、西洋の列強と伍するまでになった明治の日本、その第一世代に対する第三世代の熱い眼差しのようにも思われるのだ。

   四、「おほちち」「おほはは」の歌

 茂吉の「おほはは」に近い年代を探してみた。初めは「アララギ」から広がっていったのだう。

 かへり住む我が家はひろしはや架けし炬燵によれば祖母(おほはは)思(も) ほゆ       中村憲吉『しがらみ』大正十三年刊
 答へせぬ吾にもの言ひその末を独語(ひとりご)ちつつ祖母(おほはは)は寝る
          土屋文明『ふゆくさ』大正十四年刊
 祖母(おほはは)が子守をしつつ摘みしといふ桵(たら)の木(こ)の芽を食へばうま しも         結城哀草果『山麓』昭和四年刊

 中村憲吉の作は「帰住一 大正五年秋東京より帰る」の一首である。土屋文明の作は大正七年「海苔の芽」の一首である。結城哀草果の作は大正七年「桵の芽」の一首である。

 祖父(おほちち)にはじめて逢ひて甘えゐるわが児の声のここにきこゆ る       古泉千樫『川のほとり』大正十四年刊
 葬火(はふりび)のしづまりゆきし夜のほどろ骨となりしかわが祖父(おほちち)は
            結城哀草果『山麓』昭和四年刊
 祖父(おほちち)も父も生(あ)れたるふるさとの薩摩に往にて世を経むかわ れ           吉井勇『人間経』昭和九年刊

 次に「おほちち」だが、その普及は「おほはは」よりも早く広かったと思われる。一首目、古泉千樫の作は大正六年から九年の作品を集めた「青牛集」の最初に出てくる「児を伴いて」の一首である。結城哀草果の作は大正七年「待春」の一首である。吉井勇の作は「おなじく相模野の庵にありて詠みける歌」だから昭和五年から七年の一首であろう。

   五、変容と現代

 高田畊安(たかたこうあん)(医師。八木重吉が入院したサナトリウム「南湖院」院長)が昭和十三年に著した『平和主神武天皇(へいわのつかさじんむてんのう)』(国立国会図書館デジタルコレクション)の「附録」に「あめのおほちち」という六連の詩がある。その最後を引用する。

 まごころ(誠意)いのり(祈願) たてまつる
 しんむ(神武)とイエス(医蘇)の いやさか(弥栄)を
 すべて(一切)をとは(永遠)に しろし(統治)めす
 あめ(天)のおほちち(祖) ぬし(主)のかみ(神)

 天盃から忠孝一致、敬神崇祖と辿ってきた目には、さほど驚くこともないだろう。しかし昭和二十一年一月一日、大日本帝国憲法下において天皇人間宣言、二十一年十一月三日日本国憲法公布、翌二十二年五月三日に施行、その新憲法下においても「おほちち」「おほはは」が生きている。

 不可思議のちからとせよ祖母(おほはは)がなんぢのかうべに置きたる 片手      葛原妙子『鷹の井戸』昭和五十二年刊
 祖父(おおちち)に極刑くだりし夜のことも祝われており侍従長の日記
          佐伯裕子『未完の手紙』平成四年刊
 おほちちとおほははの声乗せながらわが汽車走る信達平野
          本田一弘『あらがね』平成三十年刊

 一首目、「おほはは」は尊称だから一人称はおかしい。そこを逆手にとったところが面白いが三句は「魔法もて」にするなどの選択肢もあったろう。二首目、昭和二十三年十一月十二日は祖父の土肥原賢二が処刑された日であり、皇太子の誕生日である。ちなみに起訴の日は昭和天皇の誕生日、東京裁判とは何か、ここは矜持を忘れない「祖父(おおちち)」であったろう。三首目、この歌集には「おほちち」「おほはは」が二十四首に登場する。加えて〈おほきみとして磐梯の統べたまふ甘き山鳥真土をうなふ〉もあって些か理解に苦しむのである。
 最後は、行きがかりもあるので、私の「おおちち」の歌を上げておく。祖父や祖母ではない。題して「孫へ」。

 爺ちゃんは爺ちゃんであってそれ以外の何ぴとでもない、 まして祖父(おおちち)                𠮷岡生夫

 
参考 
狂歌を五句三十一音詩史に回収する 狂歌逍遙録 
句またがりの来歴  私の五句三十一音詩史   短冊短歌と応募原稿 
歌の未来図~文語と口語~   歌の未来図~あるいは歌の円寂するとき~   字余りからの鳥瞰図~土屋文明『山谷集』~ 
夫木和歌抄と狂歌   文語体と口語体   近代短歌と機知 
 狂歌とは何か~上方狂歌を中心として~    狂歌と歌謡~鯛屋貞柳とその前後の時代~  談林俳諧と近代語~もしくは古代語からの離脱一覧~ 
 用語論~鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない~  用語論~矮小化された近世の狂歌すなわち「上方狂歌」の名称について~   一本亭芙蓉花~人と作品~  
一本亭芙蓉花~その失われた風景~  仙人掌上玉芙蓉  近世の狂歌~ターミナルとしての鯛屋貞柳~ 
インタビュー「短歌人」       用語論~文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ~ 口語歌、口語短歌は近代の用語。今は現代語短歌なのだ 
仮名遣いと五句三十一音詩  現代語短歌と古典語短歌
    
「狂歌大観」33人集 狂歌大観(参考篇)作品抄  「近世上方狂歌叢書」50人集 
YouTube講座「吉岡生夫と巡る五句三十一音詩の世界    狂歌史年表   日本語と五句三十一音詩



アクセスカウンター