夫木和歌抄と狂歌
吉岡生夫(「半どん」152号)
 『夫木和歌抄』について『新編国歌大観第二巻 私撰集編 歌集』(角川書店)の解題は次のように述べている。

  夫木和歌抄(略)は鎌倉後期の成立。撰者は冷泉為相の門弟で遠江の豪族勝田(かつまた)(勝間田)長清(玉葉集入集)。延慶三年(一三一〇)頃の撰か。永仁勅撰の企画から延慶訴陳を経て玉葉集成立に至る二条(為世)・京極(為兼)・冷泉(為相)三家の抗争の際に拾遺風体和歌集や柳体和歌抄(いずれも為相の撰と推定されている)とともに、そのいわば副産物として成ったと言ってよい。撰定の動機や成立事情を半ば伝説的に記す流布本の跋(略)もあるが、「自今以後之為勅撰之又此道に志あらむ人之ために」というのは一応当っているであろう。事実、玉葉集(約二〇〇首入集)以後の勅撰集に少なからず歌を採られている。

 また「構成・内容は、見るごとく一七〇〇〇余首を三十六巻五九六題に収めた類題和歌集で、規模としては空前のもの」とある。補足すると長清は生没年未詳、藤原姓。遠江勝間田は現在の静岡県牧之原市勝田、勝間田城跡がある。永仁勅撰の企画とは永仁元年(一二九三)、伏見天皇の下命になる十四番目の勅撰和歌集である。撰者は京極為兼(一二五四~一三三二)、二条為世(一二五一~一三三八)、飛鳥井雅有(あすかいまさあり)、九条隆博の四名。これに当時関東にいた為相(一二六三~一三二八)が撰者を希望して為兼が支持する。しかし為兼の佐渡流罪、天皇の退位、隆博と雅有の死があって計画は中断した。その後、為兼は許されて帰京、退位した伏見院は為兼の単独撰を計る。これに対する為世の異議申し立てと為兼の反論が延慶訴陳である。このような経過を経て正和元年(一三一二)に成立するのが為兼撰『玉葉和歌集』である。
 為世・為兼・為相と年長順に並ぶが、関係を云えば為相は為家の子、為世と為兼は為家の孫になる。したがって為相は二人の叔父である。年齢差には為家の後妻(阿仏尼)の子という事情が絡む。つまり為世は為相と領地相続を争った為氏の子である。為兼は為氏の弟、為教(ためのり)の子である。為氏と為教は仲が悪かったらしい。阿仏尼(?~一二八三)は訴訟のために鎌倉へ下り結果を見ないままに客死する。その旅日記また鎌倉の滞在記である『十六夜日記』(講談社学術文庫)には為兼や為兼の姉との歌の贈答も見られて関係は良好である。ちなみに遠江は阿仏尼にとって義父の任国であった。
 『夫木和歌抄』の特色は、その膨大な歌の数、しかもそれが都から離れた遠江で成立した点、加えて従来の勅撰和歌集や私家集から漏れた作品を拾い集めていることにある。

     二

 『夫木和歌抄』への関心は『狂歌大観』(明治書院)を読む中で芽生えた。例を挙げると次のような按配である。

  手にとれば人をさすてふいがぐりのゑみのうちなる刀おそろし
                        (一五一〇九。『後撰夷曲集』四八三)
  きたごちにけゐのとこまでとほりつるこ雪はみすのふるふなりけり
                        (七七四六。『後撰夷曲集』五六三)
  みそのふのませの秋はぎななたぐりたぐるにつけておそき君かな
                        (四一六〇。『後撰夷曲集』七八七)
  山がつのかきほにかこふわれ竹のよまぜになどてあひみそめけん
                       (一三二五九。『銀葉夷歌集』六六三)
  世をそむく柴のあみどのかけがねのおもひはづせば人ぞまたるる
                       (一四九四四。『銀葉夷歌集』七一八)

 括弧内の漢数字は『国歌大観』の番号、続く書名は収録する狂歌集、『狂歌大観』の番号も漢数字で表記した。一首目の作者は権僧正公朝(きんあさ)(?~一二九六)。巻第三十二雑部十四の題は「刀」である。成句に「笑中に刀あり」。四句の「笑み」は果実が熟して開くこと、「笑みの内なる」で「笑みを湛えながら」といった風情、結句の「刀」は毬である。二首目の作者は源仲正(生没年未詳)、源三位頼政の父である。巻第十九雑部一の題は「風」である。上句は「北東風(ごち)に褻居(けゐ)の床まで」。御簾(みす)で篩に掛けられた粉雪が居間の床を濡らすのだ。三首目の作者は源俊頼(一〇五五~一一二九)。巻第十一秋部二で題は「萩」である。初句から二句「御園生の籬垣(ませ)」、萩は秋の七草、七重八重、引いても引いても来ないのは待つ恋である。四首目の作者は藤原光俊(一二〇三~一二七六)。巻第二十八雑歌十の題は「竹」。初句「山賎」は謙遜だろう。三句までは大事にしている娘を云っているようだ。四句の「夜交ぜ」は一晩おき、「などて」は「どうして」の意。五首目の作者は藤原信実(ふじわらののぶざね)(一一七六~一二六五)。巻第三十一雑部十三、題は「戸」である。四句から五句の「掛け金の思ひ」は掛け金となっている思いで初句を受ける。その掛け金さえ外せば人に待たれているのだ、となる。

  牛の子にふまるな庭のかたつぶり角のあればとて身をばたのみそ   (一三一〇九)
  草村にむさとな鳴きそ轡虫野飼ひの馬のはむ事もあり   (『古今夷曲集』一九四)

 次は着想の似た例。一首目の作者は寂蓮法師(一一三九頃~一二〇二)。巻第二十七雑部九動物部で題は「蝸牛」。「角があるからといっても過信してはいけないよ。子牛にだって角がある、だいいち踏まれたらお終いだよ、蝸牛くん」というのだろう。二首目の作者は浄治。轡虫の「轡」は手綱をつけるため馬の口にかませる金具である。その「轡」を名に持つからといって安心してはいけないよ、という点で蝸牛との類似に注目したい。

  こさふかばくもりもぞする道のくのえぞには見せじ秋のよの月     (五二二一)
  わが恋は海驢(みち)のねながれさめやらぬゆめなりながらたえやはてなん  (一七〇六三)

 狂歌集に類似の作品を見たわけではないが一首目の作者は西行(一一一八~一一九〇)。巻第十三秋部四で題は「月」である。初句「胡沙吹かば」の「胡沙」はアイヌ語で蝦夷の人が吐く息、それによって起こる霧とも云い、月を隠すので四句「見せじ」となる。二首目の作者は衣笠内大臣(一一九二~一二六四)すなわち藤原家良。巻第三十六雑部十八で題は「夢」である。二句の「海驢(みち)」はアシカの古名、「海驢(みち)の寝流れ」は河童の川流れと同意に解すればよいのか。「えよみとき侍らず」(判者)とある。
 こうした作に接すると否応もなく期待は膨らむのである。

     三

 夫木和歌抄研究会編『夫木和歌抄 編纂と享受』(風間書房)を読んで、その異色ぶりが徐々に分かってきた。

  あけがたの月のひかりのしろ卯さぎ みみにぞたかき松かぜのこゑ
                              (『十二類歌合』一二)
  まよふなり月の光の白うさぎ 雪にはふかき道もわすれて
                 (一三〇四一。巻第二十七雑部九動物部。藤原為顕)

 『十二類歌合』は『狂歌大観』の目次では三番目に収録される。室町中期の作品である。解題によると「『十二類歌合』は『十二類合戦絵巻』に先立って成立したと思われる」とある。齋藤真麻理の「異類の歌合と『夫木和歌抄』」(『夫木和歌抄 編纂と享受』)は「月の光の白うさき」の表現を『夫木和歌抄』の転用とみる。ほかに類似例がなかなか見出せないのだそうだ。私も日文研のデータベースで検索したが「つき」「ひかり」「うさき」で二件、「しろうさき」にすると『夫木和歌抄』の一件しかヒットしなかった。
 このほか鼠と猪の歌を例にとって次のように述べる。

  『夫木和歌抄』の撰者は、鼠の題にせよ、猪の題にせよ、多種多様な作例を集成するとい  う撰歌方針を取らなかった。彼は、鼠ならば「月の鼠」、猪ならば「ふすゐの床」「ぬた」  といった独自の規範を立て、それに適う歌を集中して集めている。こうして抽出された動  物の印象やそれぞれにまつわる慣用的表現は、『十二類歌合』に直截に反映され、また、  俳諧連歌の付合の源泉として活用されて、広範に流布するに至ったと思う。

 また「同じように異類の歌合を扱いながらも、『十二類絵巻』とは対照に、間接的に『夫木抄』の影響を受けて成立した作品」として『四生の歌合』をあげている。『狂歌大観』の解題に著者は「木下長嘯子か」とある「むしのうた合」「とりのうた合」「うをのうた合」「けだ物の歌合」であるが、齋藤は「『けだ物の歌合』では、『夫木抄』所見の和歌を『万葉』の歌だと断る場合が少なくない」と述べる。これは媒介とした連歌書『藻塩草』に出典が示されていないことからくる誤認であるが「万葉歌と『夫木抄』所収歌とが類似性を以て認識されている点は興味深い」とする。

     四

 石澤一志は「『夫木和歌抄』の成立とその性格│為家『毎日一首』を視座として│」(『夫木和歌抄 編纂と享受』)の中で撰歌について「基本的には為相の意向が反映したもの、つまり、為相監修で、実質的な作業者、その意味での『撰者』が、勝間田長清であった」とし、「夫木抄の編纂の意図は、決して、勅撰集に入るべき資格のある『秀歌』を選び出すという点にはなく、むしろ自らが相伝・所持しているところの和歌関係の典籍が、質的には極めて珍しいものであり、かつ量的にも、その絶対量と種類が他に比類ないほど豊富であるということを、誇示するということにあったのではなかろうか」と推測する。同時に領地相続の訴訟中「為相相伝の歌書類の多くは、阿仏尼の東下に従って携行され、以来、基本的には関東にあったのではなかろうか」と述べる。
 なお為相の撰とされる私撰集について石澤は「拾遺風体和歌集(しゅういふうていわかしゅう)は、新後撰集選集時に行われたもので、新古今集を意識して撰ばれていることが指摘されており、柳風和歌抄は、玉葉集を意識しつつ、自らも撰者となることを望み、関東のつながりの深さを示すことで、幕府に働きかけることを目的に撰ばれたことが明らかにされている」と云う。
 『柳風和歌抄』の書名は幕府を意味する「柳営」に由来するが、このとき為相は鎌倉歌壇の指導者的立場にあった。京都とは異なる磁場に身を置いていたのである。また領地相続の訴訟に勝訴したのは正和二年(一三一三)であった。
 阿仏尼にとっては末の子、為相にとっては弟、為守(一二六五~一三二八)も在俗時から関東にいることが多かったらしい。出家して暁月、『狂歌酒百首』(『狂歌大観』)の作者とされ、狂歌の祖として伝わるのは面白い符合である。

参考 
 狂歌を五句三十一音詩史に回収する 狂歌逍遙録 
句またがりの来歴   私の五句三十一音詩史 短冊短歌と応募原稿 
 歌の未来図~文語と口語~ 歌の未来図~あるいは歌の円寂するとき~  字余りからの鳥瞰図~土屋文明『山谷集』~ 
文語体と口語体  近代短歌と機知  狂歌とは何か~上方狂歌を中心として~ 
 狂歌と歌謡~鯛屋貞柳とその前後の時代~ 談林俳諧と近代語~もしくは古代語からの離脱一覧~   用語論~鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない~ 
 用語論~矮小化された近世の狂歌すなわち「上方狂歌」の名称について~ 一本亭芙蓉花~人と作品~ 一本亭芙蓉花~その失われた風景~ 
仙人掌上玉芙蓉   近世の狂歌~ターミナルとしての鯛屋貞柳~  インタビュー「短歌人」  
用語論~文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ~  口語歌、口語短歌は近代の用語。今は現代語短歌なのだ   仮名遣いと五句三十一音詩 
近代の歌語「おほちち」と「おほはは」の来歴を問う  現代語短歌と古典語短歌   



ス ラ イ ド シ ョ ー
 
五句三十一音詩のツールとしての言葉について~内容もさることなから~ 



少し長いので、YouTubeでは3分26秒、全体を見渡すには便利です。

 
用語論~文語体短歌から古典語短歌へ、口語短歌から現代語短歌へ~

 

現代語短歌のすすめ、YouTubeなら3分15秒、見え方が少し異なります。

 
 用語論~鯛屋貞柳を狂歌師とは言わない~

 

狂歌とは何か、youtubeなら3分25秒、見え方が少し異なります

 
用語論~矮小化された近世の狂歌すなわち「上方狂歌」の名称について~

  

近世の狂歌、YouTubeなら3分35秒、見え方が少し異なります

 
短歌変質論
 
私は尋ねたい
いわゆる「文語体歌人」のあなたに
なぜ古典文法なのか?

口語歌の万葉集から
平仮名が生まれ
言文一致の古今和歌集へ

やがて時代は
古代語から近代語へ
その過程である中世語の時代において
言文は二途に開かれ

明治大正昭和を経て
再び原点に回帰した
-読み書き話す-

ところで
あなたの短歌は
その変質した時代の五七五七七を良しとするのか?
いわゆる「文語体歌人」のあなたに

私は尋ねたいのだ
 
甦れ! 五句三十一音詩 
 
① 古今和歌集(10世紀)の五七五七七=日常語
② 古典語歌人(21世紀)の五七五七七=非日常語
③ 現代語歌人(21世紀)の五七五七七=日常語

∴ ① ≠ ②
   ①=③  

歌の原初から江戸時代の近代語さらには明治の言文一致運動を顧みるとき、甦れ!五七五七七、歌を滅亡から救うものがあるとするならは、日常語以外に何があるというのか。 



狂歌年表 YouTube講座「吉岡生夫と巡る五句三十一音詩の世界」  日本語と五句三十一音詩
 夫木和歌抄の歌人たち  辞世「みそひともじ」集  近世上方狂歌叢書50人集




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