HP管理者日記20

08/02/12 机上の空論だが、想像の上で金の計算などしてみる。ジュニアノベル、一冊380円ぐらいで四百字詰め原稿用紙四百枚で一冊の本の最低ロットが三万部。これがノルマだとして、三万部は完売するが増刷は無しの作家の印税を計算すると、定価の10%が印税で一冊約40円として三万部で120万円。原稿用紙一枚辺りの原稿料=印税は120万円÷四百枚で三千円。通常の売れている作家の原稿料と同額だ。仮に原稿用紙一枚書くのに一時間掛かるとして、時給三千円。生活していくのに最低時給千円必要だとして、書いた原稿のうち三分の一が出版されれば食っていける計算になる。コミックバンチの出版時に北条司が言っていた話で、少年ジャンプでは週一ペースで出さなければいけないので、ダメな原稿を持って行っても編集者が没を出してくれないから、思い入れのない原稿でも出版されてしまうと嘆いて、編集者に見せた原稿のうち三分の一が出版されるぐらいがちょうど良いと言っていた。新井素子が「素子とひでおの愛の交換日記」というエッセー本で、第一回の原稿を書いたとき、最初に書いた原稿が著者の目から見てダメな原稿だったので、別の原稿を二種類書いて、三つ編集者に渡し、どれを採用するか編集者に選んでもらうという形を取ったという。編集者に見せた原稿の内3分の1が出版されるというのが著者-編集者の間の一つの目安であるらしい。時給千円というのが一つのラインだと思う。これをどのぐらいのペースで書けるのか?仮に一日十枚書くとして、40日で一冊分の原稿が書ける。出版率が3分の1だとして、1200枚=120日で一冊本が出る。年間三冊ペースだ。これで年収は約360万円。栗本薫は一番すごい時で月に五冊の新刊を出したそうだし、赤川次郎は年に十六冊新刊を出すらしい。月に四百枚の本を五冊書くとして、月産二千枚。三日で二百枚。一日七十枚。私もテープ起こしでなら、そのぐらい書いたことはあるが。

会社員の平均年収が各種保険付きで約500万円。保険が給料と同額で会社負担だから、会社は年一千万払っていることになる。夏冬のボーナスを給料の3ヵ月分だとして年15ヶ月で月給約33万円。お財布救助隊などに出てくる平均的な家庭の収入で、乳児と奥さんを養うには一人10万で月33万円は必要な額だ。各種保険を自分で払う非会社員がその生活水準で妻子を持ちたいと思えば、年一千万円の収入が必要となる。時給千円の作家が年一千万稼ごうとすると、年一万時間働かなければいけない。一年=365日を仮に400日で計算したとして、4日で100時間の労働。一日25時間。物理的に無理だ。一日八時間ぐらいの労働で会社員並みの収入を得るには時給三千円必要になる。没原稿なしで一時間に一枚ペースだ。印税で年収一千万必要だとして、売上げの10%が印税だと、年一億円売り上げなければいけない。一冊千円の本だと10万部、一冊380円の本だと約30万部。ジュニアノベルで30万部売るにはドラマ化か映画化かアニメ化クラスの作品になる。最低でもOVA。そのクラスの売れっ子になって初めて家庭を持てる収入になる。

ロックバンドをやるとしよう。メンバーは四人。ギャラは四等分。それぞれが家庭を持てるぐらいの収入が必要だとして、一人一千万、四人で四千万の年収を得たいとする。楽曲の作詞作曲印税を6%だとして、年にシングル三枚アルバム一枚出すとしよう。シングルが一枚千円、アルバムが一枚三千円。年に6千円分の商品を出す。そのうち6%が収入で360円が、該当する。四人で割ると90円。年一千万稼ぐには11万枚売らなければいけない。仮に音楽事務所に所属して、事務所の取り分が50%だと22万枚売らなければいけない。カラオケで音楽バブルがあった一時期、小室ブーム時を除けば、オリコンで週間チャート一位の曲の売れ行きがだいたい30万枚〜20万枚。つまりチャートの一位を取り続けないと家庭を持てない。大雑把に作詞作曲印税が5%ぐらいだとして、メンバー四人で年に四千万必要なら、年間8億の売上げが必要になる。

どっかの会社の社長が言っていた。25歳以下で会社を辞めずに勤め続けてくれれば、年一千万ぐらい会社は払いますよ。フリーで一千万稼ぐのは大変でしょうが、会社員で一千万はいくらでもいますよ。なのにみんな辞めちゃうんですよね。会社はこんなに払っているのにどうして定着しないんでしょうかね。それに対して40歳〜50歳ぐらいのフリーの人が言っていたのは「25歳ぐらいだと、自分には無限の可能性があるとか思っちゃうんでしょう。30超えた辺りで初めて、フリーじゃきついなと気づくんでしょう。」いまの俺が正に、その苦しい時期なんだけどさ。会社は保険込みで一千万払っていると言うけど、社員は年収五百万しかもらってないと感じるし、月三十万じゃ、物凄くもらっているという感覚にはなれないでしょう。俺も会社員をやっていた時期があって、会社員をやるということは、家庭を持てるというメリットが一番大きいと思うんだけど、私がいた会社は日本中に30ほど支店があって、二・三年に一回転勤して、日本中の支店を回るのが会社の方針だった。そのやり方だと、持ち家を買うというのがまず無理で、子供を私立に通わせるもの無理で、子供の学校も自分の住居も二・三年ごとに変わるというライフスタイルになる。上司を見ると、単身赴任者が多く、ローン組んで家を買った場所から転勤を命じられたことを理由に会社を辞めた人もいた。親が倒れて要介護になり、奥さんは子供を連れて親の介護をしながら、月に二回夫の単身赴任先に新幹線で通う。なんてパターンも見た。月三十万で単身赴任手当てもない中、親子3人4人暮らしていくとなると、単身赴任している上司の生活は家賃込みで月十万。学生時代の自分と比べて決して良い暮らしをしているわけでなく、風呂トイレ共同の木造アパートでスーパーの惣菜を買って食うみたいな生活で、うら寂しい物があった。十代後半から二十代前半で東京の大学に出てきて初めての一人暮らしとかなら、木造アパートでの貧乏暮らしも楽しいよ。近所の仲間呼んで朝まで鍋やって飲んでしゃべって、麻雀やテレビゲームやってさぁ、若いうちは楽しいさ。定年間際の、もしくは定年後の嘱託で働いている頭はげてよぼよぼの、おじいちゃんみたいな上司が、ぽつんと西日の当る四畳半で缶ビール飲みながら巨人戦見ているのは、哀しくなるよ。会社は年一千万払っていると言うかも知れないけど、実際単身赴任先の上司が手にする金は月十万で、近所の大学生の方がよっぽどいい暮らしをしていたりするわけで、大学生や新卒が自分の将来を上司に重ね合わせた時に、ああなりたいと思えるような生活水準じゃないわけですよ。当時の私にとって会社員のメリットは一にも二にも家庭を持てるということだったのですが、単身赴任で老人の孤独死を連想させるようなボロアパートに住んで、盆と正月にだけ家族に会えるなんてのは、そしてたまに奥さんに会ったら、私に介護を押し付けてあなたは何もしてくれないなんて言われた日には、やってられなくなりますよね。

かといって、一生一人で創作活動しながらフリーター生活をするという覚悟もなく、30までに再就職して普通に家庭持って幸せな生活を送りたいとかヌルイ人生設計していた自分がいま30代半ばになって、家庭を持つことを目的とした就職をするのであればいまがラストチャンスみたいな中、ヌルイこと言わずに創作で食ってく覚悟をしろとか思わなくもないが、出版や音楽では30万部・30万枚売らなきゃ家庭持てないんだよな、テレビドラマの原作小説やテレビドラマの主題歌にならないと家庭持てないんだよなと思うと、創作なんてやってたら路上で野垂れ死にするイメージしか沸かないのが現実だ。

07/8/24 昨日書いたプロレスのビジネスモデルが何故崩壊したのかという辺りで。一番大きな理由は、創業社長兼ベビーのトップ選手が、歳を取ってトップを張れなくなり、トップを他の選手に譲ったり、選手を引退したり、社長業からも寿命等の理由で去り、二代目に引き継がれたりしたことだろう。プロレス団体のオーナーとエース選手が同一人物でなくなるとどんな弊害が起きるのか。

オーナーとエース選手が同一人物の場合、エース選手が他団体に引き抜かれる心配がない。プロレスというのは一人のスターを作るために、残りのすべての選手が負けブックを飲む競技で、その頂点に立つスターの人気やネームバリューは、残りの負けた引き立て役の選手の技量やギャラで成立している。仮にその団体に十人の選手がいて、トップヒールも含めてすべての選手が最終的にはベビーのトップに負けるわけだ。で、選手のギャラは十等分だとしよう。勝った選手も負けた選手も、全選手が同額のギャラをもらっている。オーナーとエース選手が別の人間だと、エース選手を今の三倍のギャラで引き抜いて、別団体のエースに負けさせたとしよう。十人の団体でトップの成績を持つ選手に勝てば、十一人の中でトップということになる。たった三選手分のギャラで、十選手分の勝ち星を買った計算になる。

このリスクを避けるために、エース選手のギャラを上げるとか、エースの選手を一人に絞らず、三銃士などといった形で分散させ、誰か一人が引き抜かれても残り二人が残っていれば良しとするとか、なんなら、チャンピオンを作らず全選手が全選手に対して勝率を五割にするとか、エースを年功序列にして、2・3年ごとに新しいエースを生み出していき、チャンピオンを流動的にするとか、色んな方法があるのだが、結局これらがプロレスを詰まらなくしている。全選手が全選手に対して勝率が五割になるような平等方式が客にとって詰まらないのはもちろん、エースが複数いたり、年功序列でエースを持ちまわるようなのは、結局誰が強いのか分かりにくく、勝ち負けをはっきりさせない煮え切らなさが残る。

かといって一人の絶対王者を作れば、彼が引き抜かれると団体そのものの存続が危うくなる。結果WWEのビンス・マクマホンのように、元々レスラーでもない二代目オーナーだったのが、結果看板レスラーとしてリングに上がり、三代目オーナーを引き継ぐであろう娘もリングに上げてレスラーにするはめになる。ノアの経営状態が現状それなりに良いのも、創業社長がエースで他団体に引き抜かれる心配がないからだろう。

07/8/23 プロレスのビジネスモデル。1950年代のアメリカで完成されて、80年代半ばの日本で潰れたプロレスのビジネスモデルについて考えたい。基本的にプロレスラーには4つのポジションがあって、プロモーター(日本だと社長)兼エース選手(力道山選手・ジャイアント馬場選手・アントニオ猪木選手)がベビーフェイスのトップを張る。次に団体所属でヒールのトップ選手にボコられてヒールの強さを見せ付ける役割のベビーのやられ役の選手がいる。この二つの関係はイメージとしては空手道場の師範と練習生のようなイメージだ。

次にこの道場に道場破りに来た体のデカイトップヒールのポジションがある。このトップヒールは、悪いことをするからヒールという場合もあるが、団体の部外者で、この選手に師範が負けると道場としてのメンツが保てず、団体の存続が不可能になるため、団体にとってヒールだという意味合いも強い。そして、道場にトップヒールを連れてくる悪徳マネージャー兼ヒールのやられ役。

大雑把に言うと、ベビーとヒール、トップ選手とやられ役の二つの概念の組み合わせで四つの役割が出来る。最低、この四つのポジションに一人づつ人がいれば、タッグマッチも組める。アメリカだと各地区ごとにプロモーターがいて、それぞれのテリトリーが決まっている。各地区ごとに団体があって、その団体間を行き来するフリーの選手がいる。

各ポジションの役割を細かく見ていこう。ベビーのトップは創業社長兼エース選手で、この地位はよほどのことがない限り揺るがない。団体所属の他の選手がどんなに人気が出ても、団体所属でいる限り、創業社長には勝てない。メキシコなんかの小さな団体を見ると、タッグマッチで、ハタチ前後の若くて切れの良い動きをする選手に混じって、一人だけデブでチビで動きの悪い五十代の選手が混じっていたりする。すると間違いなくその五十代の選手が客席から一番声援を浴びているプロモーター兼エース選手で、動きが悪いにも関わらず他の選手より圧倒的に強かったりする。よくみると、五十代の選手以外は皆、十代後半から二十代前半で、全員独身であったりする。つまり、メキシコの小さな団体では、プロモーター以外の選手は自分一人ぐらいは食べて行けても、妻子を養えるほどの給料は団体所属では稼げなかったりするのだ。ベビーのやられ役の選手としてはここである程度のキャリアを積んで、プロレスを学び身に付けた後は、もっと大きな団体へ移籍するか、まだ誰のエリアでもない場所でプロレス団体を旗揚げするか、フリーで活躍するかを考えなくてはいけなくなる。

トップヒールの選手の第一条件は体が大きく、見た目が怖いこと。参戦する団体にとって部外者であること。部外者という意味では外国人であればなお良い。トップヒールの役割は、マンネリ化した団体所属選手同士の試合に波風を立て、新しい話題を提供し、マスコミにメディア露出し、お客さんを大量に呼び込むことだ。プロレスの技術的な上手さや内容のある面白い試合などは、ベビーのやられ役の選手によって作ってもらう物であり、トップヒールに要求される役割ではない。試合のない日、プロモーターは社長業や経営などの仕事をし、ベビーのやられ役は試合の練習をし、トップヒールはメディアに出て、リンゴを握りつぶしたり、バスを手で引っ張ったり、大型冷蔵庫をジャーマンスープレックスで投げ飛ばしたりして、広報活動をする。当たり前だが、プロレスが一番上手いのは選手に専念しているベビーのやられ役の選手だ。特異なキャラクターと怪力で注目を浴び、マスコミを通じて会場までお客さんを運ぶまでがトップヒールの仕事、それほどプロレスが上手くないトップヒール相手に、良い試合を組み立てるのがベビーのやられ役選手の仕事。ストーリー的には、トップヒールが団体に道場破りに来て、練習生がハンディキャップマッチで二人がかりでトップヒールに立ち向かうが、ボコボコにされ、トップヒールの圧倒的な強さを見せ付ける。その後もトップヒールは連戦連勝し、最後に社長兼エース選手が出てきて、この試合で社長が負けたらこの団体は解散だという場面まで追い詰めて、社長に負けるまで、基本シングル戦でトップヒールが負ける事はない。

もう一つのポジション、ヒールのやられ役、トップヒールのマネージャーですが、ストーリー的には「かつてその団体の人気選手で、現社長を脅かすぐらいの力を持ったが社内の権力闘争に破れ、団体を去った。が、自分を外へ追いやった現社長への恨みは忘れず、自ら道場を持って復讐のときを待っていた。そして、自ら育てた若くてデカくて強い選手を連れて、かつての古巣を潰すために再びその団体へ道場破りとして舞い戻ってきた。」というような設定で、実際にはロートルの現役選手兼スカウトマン兼トレーナーで、あることが多い。もっと古い時代には、早口でしゃべり笑いを取り解説をするコメディアンがこのポジションであったらしい。トップヒールが団体の部外者=外国人であった場合、言葉が分からないので通訳としての役割や、トップヒールがいかにすごい選手かということをマスコミに対してしゃべる役割、そして実際にそのトップヒールのすごさをアピールするためにトップヒールから技を掛けられる役割などがある。トップヒールの体のデカさを際立たせる背の低い小男が、こいつはこんなにすごいんだということをしゃべった後、自分の後ろにいるトップヒールに「(目の前のマスコミ陣をボコボコに)やれ!」と命じ、トップヒールがその小男に必殺技をかけ「違う。俺じゃない、こいつだ、こいつ。」と記者を指差すお決まりのコメディーをやる。いまだとダチョウ倶楽部の上島竜平か出川哲郎辺りが似合うリアクション芸だ。時代が進み、しゃべりの達者なトップヒールが増えてくると、このポジションは、コメディアンというより、ロートル選手兼スカウトマン兼演出・脚本という役割になる。自分の道場で練習する無名の練習生をトップヒールとして売り出すスポークスマンなので、元々しゃべる仕事なのだが、そこから転じて、しゃべる内容を生み出す仕事、各選手のキャラクターや試合の見所、試合に到るまでの因縁やストーリーを考え作る部分や、トップヒールとして新人を売り出す時のキャッチコピーやギミック、衣装やポージングや入場曲などの演出面をトータルで生み出していく仕事だ。アブドラ・ザ・ブッチャー選手についていたザ・シーク選手や、タイガー・ジェット・シン選手の通訳兼タッグパートナーだった上田馬之助選手などがこのポジションだろう。もっと昔ならミスター珍選手、いまだと新人選手の育成と売り出しを担っているという意味でウルティモ・ドラゴン選手やエル・サムライ選手だろうか。

私は今のプロレスの衰退は、古典的なプロレスのビジネスモデルが壊れたことにあると思っている。壊れた理由は色々あって、創業社長兼エース選手が歳を取ってベビーのトップを張るのがきつくなり、トップの座を他の選手に譲るようになると、それまでベビーのやられ役に甘んじていた団体所属の選手が皆、ベビーのトップをやりたがり、トップヒールの強さを引き出して負けることをしなくなったとか、アメリカのプロレス団体がWWE独占状態になり、他団体へ選手を貸したり、他団体の選手を借りたりしない鎖国政策のWWEから、トップヒールを呼ぶことが出来ず、かといってメキシコの選手は小柄すぎてトップヒールと呼ぶには難しかったとか、団体所属内で日本人トップヒール(長州力)を作った方が海外から呼ぶより安上がりだとか、色々あると思う。

中西学選手の試合を見たときに、西口プロレス以上に西口プロレス的だと感じるのは何故だろうと考えると、レスラーとしての資質とポジションのズレが大きいと思う。団体所属のベビーの引き立て役選手は、基本トップヒールより体が小さく腕力がなく弱い選手でなくてはならないのだが、どう見ても物理的に中西選手が外国人トップヒールより大きかったりする。その上、手四つからの力比べで、どう見ても体の大きな中西選手が自分より小さな選手に腕力で負けて痛がっているのが嘘っぽく、さらに言えば、引きたて役に徹するため、自分の体を小さく見せようと手足を折り畳んで手四つをやるのが、一般的なプロレスの手四つ、自分の体を目いっぱい大きく見せるそれと真逆すぎて笑えるとか、コミカルな動きがいっぱいあるのだが、それは中西選手が悪いとか、そういう問題ではなく、物理的に大きな体を小さく見せるにも限界があるという話で、大日本プロレスやWCWなどの他団体にトップヒール=道場破りとして出向く時には、ストーリーががっちりかみ合う。ノアの森嶋選手がノアの中ではいまいちパッとしなかったのが、アメリカの団体に乗り込んだらトップヒールとしてROHのチャンピオンベルトを巻き、一流の選手になるのと似ている。日本プロレス時代の馬場選手などもそうだが、ファンの間では「力道山が馬場選手の潜在能力に嫉妬し、日本では絶対にトップに立たせなかった」とか言うが、そういう問題でなく、ヒールのトップ選手より体の大きな選手に、ベビーの引き立て役はつとまらないという話だと思う。

70年代のアントニオ猪木=西村修説というのが頭に浮かんだ。アントニオ猪木選手がアメリカ武者修行時代に卍固め(米名オクトパス・ホールド)を盗んだ選手は、正統派のベビーフェイスで、そういう選手を猪木は目指したと成っているのだが、その選手というのは、言ってしまえばトップヒールをやるには体が小さく、かといってプロモーターというわけでもない、いわばベビーの引き立て役選手だと思う。それって、西村選手じゃん?という話だ。アントニオ猪木選手ですら、力道山の下で働いていた日本プロレス時代には小柄なテクニシャンファイターと闘うのが好きで、デカくて下手で怪力のトップヒールと闘うのは嫌だったらしいんだ。でも実際に自分がオーナーとして団体を立ち上げると、プロレスが下手どころか、プロレス経験ゼロのボクサーや空手家相手に名試合を作って、猪木というブランドを確立させた訳で、西村選手も本気でプロレスビジネスをやろうと思ったら、デカくて下手で怪力で無名の選手、アメリカの弱小団体で練習生クラスの選手を安く借りて、ボブサップ並みにメディア露出させてトップヒールとしての集客をさせて、安くてダメな素材を使って高級料理を作って利ざやを稼ぐのをやるしかないと思う。昔の外国人ヒールはクロー系の技とベアハッグぐらいしか技を出さないのだが、それらの技は技を出す選手よりも技を受ける選手の表現力で技の完成度が決まるという。中西選手にアイアンクローされて、最初抵抗したが、途中でピクピク痙攣して、腕と脚がぷら〜〜〜んとなった残酷映像な西村選手なら、プロレス経験ゼロのボディービル世界チャンピオンとか、世界一背の高いギネス記録保持者で、高い位置まで血を運ぶと心臓に負担が掛かるので、なるべく立ち上がらず座るか横になる姿勢で一日を過ごすよう医者から言われている選手とか相手でも、そこそこの試合を作れると思う。

プロレスを映画に例えると、プロレス団体は撮影所だと思う。監督の下にカメラさん音響さん脚本家さんメイクさん大道具さんなどのスタッフがいて、スターを生み出すスターシステムがある。そこへ主演俳優を派遣する芸能事務所は、プロレス団体や撮影所とは別の物だ。むしろ芸能事務所に近いのは、ヒールのやられ役で引退まぎわの選手が運営するプロレス道場とかだと思う。ただ、新日本プロレスという団体が不渡り的な物を出して、そこへテレビ局やゲーム会社から社員が派遣されると、基本テレビ局もゲーム会社もタレントの版権を扱う会社で、プロレス団体=芸能事務所と思ってしまうわけです。すると売れる版権を持つスター選手は残すが、引き立て役の選手はリストラに合う。世間的には無名だが業界的には腕前の良いカメラさんや大道具さんや照明さんが首になり、撮影所に主演俳優だけが残ると、主演俳優達がカメラマンや脚本家を兼ねて映画を作る。当然だがひどいクオリティーの映画が出来上がる。撮影所を首になったカメラさんやタイムキーパーさんたちが集まって作った団体も、自分たちスタッフが主演の映画を撮り出す。ニヒルでカッコ良いスパイが派手なアクションをスタントなしでこなすアクション映画の主演に三谷幸喜、ボンテージ調のブーツに網タイツでセクシーなヒロイン役アクション女優に橋田寿賀子とかになる。

何故こんなことを考えるのかというと、自分が組織の中でどんなポジションにいるべき人間なのか迷いがあるからだ。

2007/7/8 教養について。

私にとって教養とは、あるコミュニティーに所属・参加するための許可証のようなものだ。 例えば、mixiのB'zコミュに入ろうとしたとしよう。そこに入って、自分でスレッドを立てたりするには、最低限B'zに関して興味を持っていることが条件となるだろう。出来ればB'zの曲は全部歌えるとか、B'zの曲は全部持ってるとか、DVDなら「あのDVDのどの場面」と言われたら「ああ、アレね」とすぐに反応できるとか、そういう方がより相応しいにしろ、最低限、B'zに興味があり、これからB'zを知ろうとしていることが条件となるだろう。逆に、B'zコミュで、B'zとまったく関係のない話を延々続けたり、B'zと関係のないスレッドを立てたりすれば、荒らしとみなされてそのコミュニティーから強制排除されるだろう。このとき、B'zに関することがコミュニティー内で教養として機能する。

教養を身に付けることが何の役に立つのか?自分の属性と異なる集団とコミュニケーションが取れるようになる。これは色々な意味で役に立つのではないか。例えば、中学生ぐらいで、異性としゃべりたいが共通の話題がないという状況だとしよう。そのとき異性が読んでいるであろう漫画、相手が女性であれば少女漫画、男性であれば少年漫画を読んで、相手と共通の話題を持ち、相手のコミュニティーに入っていくということをしなかっただろうか。

社会人一年目の新入社員が五十代の上司とカラオケに行ったとしよう。相手は自分が10代20代のときに聴いた30年から40年前のヒット曲しか知らない。このとき、上司の好きそうな演歌やGSについて調べて、当日までに一・二曲歌えるようにしておくのが教養だ。そうやって、上司との関係を良好にできる教養があれば、仕事上でも色々と有利だろう。例えば、次のステップとして、上司から取引先とのゴルフや麻雀に誘われるかもしれないし、そこでゴルフや麻雀を覚えればさらに、人脈が広がるかもしれない。

あるコミュニティーが要求する教養の量と、コミュニティーを形成する人員の量は反比例する。B'zのファンが集まるコミュニティーがあって、そこで要求される教養が「B'zを好きなこと」であったとしよう。B'zの曲は知らなくても、テレビで見て、ポスターで見て、B'zカッコ良い、B'z大好き、そう思っただけでも、B'zファンになれるコミュニティーが一個ある。もう一つ、B'zの楽曲を理論に照らし合わせて論じていくコミュニティーがあったとしよう。B'zのどの曲は、どういうコード進行になっていて、音階がどうで、スケールがどうで、音像がどうで、を論じるコミュでは、B'zの曲をある程度耳コピーして譜面に起こして分析し、音楽理論の専門用語を使って論じることが要求される。当然、高度な教養が要求されるし、その教養を共有するコミュニティーの人員は、B'zファン全体と比べると少数と成るだろう。

Aさん「B'zのこの曲のコード進行は〜〜」

Bさん「は?あんた馬鹿じゃないの?コード?何それ?Cセブン?なに?意味ふめぇ〜〜〜〜」

というやり取りがあったとしよう。B'zファンコミュにおいては、Aさんが荒らしとして排除されるだろうし、B'zを理論的に論じるコミュではBさんが荒らしとして排除されるだろう。

英米系の分析哲学と独仏系の哲学の一番大きな違いは、そのコミュニティーに要求する教養の量だと思う。英米系の哲学は基本的に英語を使う。英語は世界で最も多く使われている言語で、セカンド・ランゲージとして最もよく使われる言語だ。日本語の分からない中国人と、中国語の分からない日本人が話をするとき、お互いに片言の英語でしゃべる。そういう使われ方をする言語だ。母語として英語を使う人の数よりも、セカンドランゲージとして英語を使う人の数が増えることで、セカンドランゲージとしての英語が正しい英語として、ファースト・ランゲージに影響を与えるということが起きている言語だ。

英語を母語としている人は外国語を覚えなくて良いから楽だよね。という話ではない。英国のクイーンズ・イングリッシュから、米国のヤンキーズ・イングリッシュがメインになり、そこからさらに文法が簡略化された黒人英語が、正しい英語になりつつある。日本でいえば、ゾマホンやボビー・オロゴンのしゃべる片言の日本語が正しい日本語になるようなものだ。ファースト・ランゲージとしての豊かな表現やニュアンスが禁止され、より記号的なセカンド・ランゲージとしての英語が正式の英語になる。このとき、英語のライバルは、数式や化学反応式になってくる。「This is a pen.」が通じる英語圏よりも「1+1=2」が通じる数式圏の方が、より広く構成員数も多いとなれば、世界語としての英語はより数式に近づこうとする。自然言語としての英語から離れて、数式や化学反応式や幾何学の証明やプログラミング言語などと同じ、人工言語(=世界語)としての英語というものが立ち上がってくる。こちらの方がより広いコミュニティーで通用する(=教養が少ない)からだ。

対する独仏系の哲学は、より豊かで高度な教養を要求する。ハイデガーが、個々の単語の意味を、古代ギリシャにまでさかのぼったように、古代ラテン語だの古代ギリシャ語だの古代ヘブライ語だのの語源についての教養を要求する。それによって、分析哲学にはない豊かな内容を表現できると彼らは考える。

「4+9=13」という式を見よう。4は日本語で死を意味する語と同音異義語で、死の象徴として、不吉なものとして扱われ、9は日本語で苦の同音異義語であり、13はイエスキリストが磔にされた13日の金曜日を連想させる不吉な数字としてキリスト教圏では扱われる。といった個々の数字の意味が、数式内部においては取捨され、13は数字の13であり、それ以上の意味がない。というのが分析哲学的だと私は感じる。

教養を最小限にとどめようとするのか、最大限に高めようとするのかの違いが、独仏系と英米系の違いだと感じる。

文学において、星新一の「点化」という技法に興味があった。一文が短く、主語+動詞+ピリオドという、非常にシンプルな文型の羅列でできており、一文の中に主語が二つあったり、動詞が二つあったり、句や節や関係代名詞が入り組んでいたりすることのない、中学生の英作文のような、小学生の作文のような単純な文型であること。固有名詞や情景描写がなく、物語の構造がむき出しで描かれていること。教養のない説明的な文章であることが魅力的であった。

文学において教養のある文章の一典型が、季語辞典・歳時記を引いて作られた俳句だろう。ある季語を引けば、その季語を使った有名な句がいくつか出てきて、その解説も載っており、その有名な句に対する本歌取り・反歌・返歌・パロディ・パスティーシュ(文体模写)・オマージュ・リスペクト・インスパイアとして、句が作られる。その句を受け取る側も、同じ季語辞典・歳時記を読んでいて、その季語を使った類似する俳句を教養として当然知っている事を前提として作られる。万葉集に生活を歌った素朴な歌が多く載せられ、古今和歌集には万葉集で使われた技法がより洗練された形で使われ、新古今和歌集では、先行する和歌集に対する本歌取りが多く使われるという形で、先行する和歌集に対する和歌が増えていくのと似ている。その和歌集をより再利用しやすいよう、季節・季語ごとに索引を付け並べなおしたのが歳時記であり、季語辞典だ。これは東浩紀氏の言葉を使うならデータベースだと言えるだろう。

柄谷行人や吉本隆明などを読んでいると、ある時期、1970年代後半から80年代ぐらいまでの純文学とは、文学全集をデータベースにして書かれた文学を指しているようだ。つまり、純文学というコミュニティーに所属するためには、文学全集を教養として読んでおく必要があったわけだ。その教養の中身が80年代のポップ文学辺りで、少女漫画や映画に変わり、最近のライトノベルではアニメや恋愛シュミレーションゲームに変わったようだ。

教養や権力は少なければ少ないほど良いが、なければ困る。と竹田青嗣は言っている。ある人間とコミュニケーションをとるのに、高度で難解な教養を大量に要求されてもしんどいし、かといって、文字や言語をまったく理解できない相手とコミュニケーションを取るのもまた困難で、できれば日本語をしゃべれる相手の方がコミュニケーションは取りやすい。

2007/6/3 反抗期のメンタリティーについて。

群れで生活する動物が、第二次性徴期に反抗期というやつが来て、親と同じ群れの中にいるのが我慢ならなくなって群れを出ようとする。中学・高校の時期だろうか、自分にもそういう時期があった。親がウザくてしょうがないし、心底嫌だったが、同時に自分の親は客観的に見て、それほど問題がある親とは言えず、はたから見たときにごくごく普通の幸せな家庭に見えたであろうことも分かっていた。幸せな家庭で立派な親であるにも関わらず、一緒にいるのが我慢ならない。いや、立派な親であるからこそ、群れから離れる時期には、群れで生活する動物の本能が健全にはたらいて、存在そのものがウザくなる。

人間が狂っているのは、そんな時期に受験勉強などをさせて、ストレスをさらに強化している点だ。一番親から離れたい時期に、親の元で受験勉強をさせて、それを乗り越えた時期に、大学を卒業して社会人になった二十代・三十代で群れから離れさせるが、その時期には反抗期的なメンタリティーが弱体化して、逆に親離れできない大人として社会問題になったりする。

ロックや小説や映画や漫画といった文化・芸術を本当に必要としているコアターゲットは基本、反抗期のメンタリティーを持った人たちだと思う。この時期の子達にとって、世界とは学校と家庭と通学路、世界中の人とは親と兄弟と先生と友達。親から与えられた群れの中に育って、外の世界に出たいのだが出る能力も決心もなく、精々コンビニの前で同世代の仲間達と作った群れでたむろするぐらいで、自分と世界をつなぐ国家や社会といった中間項がないセカイ系の中で生きている。自分が生まれ育った群れの中しか知らずに、その群れを本能的に嫌う。セカイしか知らずに、セカイを嫌う。

大人なら、自分の群れ、自分の家族、自分の仲間、自分の職場、自分の会社を自分の能力、自分の責任で選び、作り上げることができるし、そうあるべきだ。セカイが嫌なら、その外のセカイへ出れば良い。理想とする群れがないなら、自分でその群れを作れば良い。自分が所属する群れに対する不平不満は、全て自分の責任で自分に返って来る。

ある会合で「ヘイト・スピーチ」という言葉を知った。特定の民族・宗教・人種・職種・属性の人に対する差別的憎悪的言動のことで、ヨーロッパではヘイト・スピーチはネット上で禁止されており、(日本における違法ポルノ画像のように)本人の許可なく削除されるらしい。これは言論統制だと主張する若者と、取り締まる側との間で論争になっているらしい。

インターネットは反抗期のメンタリティーで満ちていると個人的に思う。実際、mixi、2ちゃんねる辺りを見ると、10代後半から20代前半の若者達の、群れに対する反抗的言動であふれている。無記名や仮名で書き込める空間に、自分の中の不平不満を匿名で書き込みまくる。ネット上に書くとき、まずその書き込み先の群れを批判する所から始める。**コミュなら、そのコミュニティーの主旨や主催者や参加人やルールに、まず異議を唱える。スレッドがあれば、そのスレ主を批判する。スレッドやコミュニティーとまったく無関係の話を書き込み、注意されるとキレる。コミュやスレを仕切るお前らはそんなに偉いのか?同じ人間のクセして威張り腐りやがって!反抗期のメンタリティーとは、自分以外の全てのセカイ、すべての他人に対する憎悪と否定だ。自己を顕示し、他人を否定する。この他人を、固有名でなく、もう少し普遍性を持たせて、**人とか、++な奴等と一般化すれば、ヘイトスピーチの出来上がり。

物書き・小説家を目指すような人間の多くが、一番最初に書くまとまった量の文章はヘイトスピーチだ。例えば夏目漱石が一番最初に書いた小説「我輩は猫である」などはその典型で、猫視点でインテリ層の悪口をひたすら書き綴っている。「くたばれ専業主婦」の作者は専業主婦をしている実の妹への不平不満を集めて本にしただけらしいし、サポセン・クレーマー系実話話も電話のクレーム対応の仕事をしている人に嫌なお客さん話を集めて、笑えるテイストに編集しただけだ。「銀座のママが教える〜〜」なども、こんな客は嫌だという職場の愚痴・不平不満を集めて、それを編集部がほんの少しひっくり返し、「こんなことをしなければ女の子にもてます」とすることで、銀座のホステスに持てる方法本に仕上げているだけだ。

小説というのは、商業的に成功しないと出版社的には扱えない。商業的に成功するには、みんなから愛されるルックスの良いアイドルを主演に映画化ドラマ化しなくてはならない。かわいい男の子や女の子がいっぱい出てきてその子達がより魅力的に、よりかわいく見えるような話でなくてはならない。そこに悪意は必要ない。映像化して売れる小説とは主人公≒作者が萌えキャラでなくてはいけない。多くの観客がその主人公を好きになるから本や映像は売れるのだ。自分以外は全部敵というメンタリティーでは、万人に愛されるキャラクターを描けない。

純粋理性批判の巻頭で書かれているのは「従来の哲学は単なる独断論と、単なる懐疑論しかなかった」ということだ。「俺はこう思う」という独断論と、「それはあなたの個人的な考えであって、普遍的に全ての人にとって正しいわけではないですよね」という懐疑・否定の論理だ。どちらも反抗期のメンタリティーで、自分以外の全てを否定して終わり。そこに何も生まれない。実際、mixiの哲学コミュや2ちゃんねるの哲学板にでも行けば、独断と否定以外の何もなかったりする。カントはそこから一歩出ようとする。自分の所属する群れを全否定するかわりに、理想的で誰にとっても居心地の良い群れを作る方法を考える。普遍的に正しい文章だけで、哲学を組み立てようとする。ある文章が普遍的に正しいためには、先験的に、つまり、経験以前の地点で正しくなければならない。実験の結果正しいと確認されたというような正しいは、100回やって100回とも正しかったとしても、101回目には正しくない結果になる可能性もある。「このさいころを振った結果は1〜6までの自然数になるはずである」という文章の正しさは、実験によっては確認できない。百回やって百回とも1〜6の間の自然数であったとしても、次は8が出るかもしれないからだ。数学や幾何学の法則は実験によって正しさが証明されるわけではない。1+1=2というのは、実際にやってみる前に、その正しさが存在している。先験的に正しい文章だけで哲学を組み立てようとする。自分の力で、自分の群れを作ろうとするカントに、反抗期のメンタリティーはない。

反抗期は子として群れの中に所属する限り存在し続ける。群れを離れて実際に自分が親として責任を持って群れを作り運営し始めると、群れの中のセカイに対する不平不満は全て自分の責任に返って来る。現実の中での仕事や活動が忙しくなると人はインターネットなどをやる時間がなくなる。企業広告的なインターネットや、人間関係のコネクションを維持するためのマッサージ的な時候のあいさつ的なネット利用は増えるが、反抗期的なメンタリティーは確実に薄れる。反抗期のメンタリティーを仮に中二病だとすると、いまの自分のメンタリティーは中二でも高二でもなく大二病だと思う。

07/4/12 いまの自分はびっくりするぐらいやる気がなくて、NHKスペシャルで松田聖子をドキュメンタリーで追いかけてて、1980年デビューの松田聖子を80年の男女雇用機会均等法世代の働く女性代表みたいに扱ってて、ジェンダーフリーの中で結婚して子供がいても社会に出て働く女性がいても良いのですよというメッセージ、家庭や子供に縛られることなく社会の中で自由に自分のやりたい仕事を追及する姿勢が賞賛されるメッセージの裏で、じゃあ、男性にとってのジェンダーフリーとは何かという問題があって、結婚して家庭を持ったら家族のために働いて家族を養わなければいけないという男性的ジェンダーからフリーな生き方を実践している若者像とは何かと言えば、結婚して家庭や子供を持っても、定職にもつかず、部屋に引きこもって趣味(アニメ・テレビゲーム)に没頭する引きこもり・オタク・ニートなわけで。

ミスター高橋本を読んで以来、自分の中でプロレスが面白くて、その面白がり方がたぶん他人から見ると変なんだろうなと思いつつ。ミスター高橋はプロレスに台本はあるという前提の中でプロレスの面白さについて語っている。で、一応いま格闘技と言われている物は、台本が無いことになっている。台本のあるプロレスと台本のない格闘技だと格闘技の方がより暴力的で面白いという人がいる。それに対して自分がどうプロレスを擁護するかですが、プロレスを手品だとすれば、格闘技は超能力なわけです。手品師が手品師としてテレビに出演し「種も仕掛けもありません」と言って、手品をして、種も仕掛けもあったとしましょう。そのテレビ番組が誤った情報を流したとして訴えられることはないでしょう。でも超能力者を名乗る人間がテレビに出演し同じことをすれば、テレビ局の責任が問われる可能性がある訳です。

日本のテレビ局から今一番信頼されている手品師と言えばMr.マリックになるわけですが、そこにプロレス復興の鍵があるように思います。私はテレビの前でマリックの手品を見てもどこがすごいのか分からないことも多いのですが、種も仕掛けも見える舞台裏から手品を見ている人達の話を聞く分には、マリックのすごさの一つは、手品の種を自分で考える所にあると言います。マリックさんが書いたコラムで面白かったのは、テレビ局から特番の依頼が来て、こういうマジックをやってくれと言われる。そのマジックは南極大陸のペンギンの群れを一瞬にして消すとか綾小路きみまろさんのかつらを燃やして、かつらを消し、その後にもう一度かつらを出すとか無理のありまくる物ばかりだという。三ヶ月先の特番に向けて、一ヶ月掛けて種を考え、二ヶ月前には出来るか出来ないかの返事をし、一ヶ月掛けて種に必要な道具を準備し、番組放映の一ヶ月前になってもまだ種のアイデアが浮かばずに眠れない夜を過ごし、番組の告知が色んな媒体に出ているのを横目に見ながら、プロデューサーに番組を降りるためのお詫びの電話を入れようか悩み、番組収録ギリギリになってやっと種の辻褄を合わせるといった内容でした。素人目に見ても、手品で動物を使うのは非常に危険で、相当トレーニングを積んだ動物でも、いざ大勢のお客さんの前に出て大量のスポットライトを浴びれば、練習通りには動けなくなり手品を失敗させる可能性が高いのに、ペンギンの群れという非常に扱い難い対象、百歩譲ってもそれはサーカスで芸を仕込まれた一匹のペンギンであるべきで、群れは無理だろうとか思うし、さらに言えば南極大陸という人工的な建築物のない真っ平らな大地で、手品に必要な透明の釣り糸を引っ掛ける場所がないし、物を隠すための死角、視界をさえぎる家具や壁がないどころか、崖や山すらない真っ平らな大地という手品をするには非常に困難な環境でやってくれというオーダーになる。既製の手品をするのではなく、テレビ局が考えた視聴率が取れそうな手品のオーダーに合わせてオーダーメードの種を考えて手品をやる。マリックがテレビ局からすごいと言われる理由の一つがこれだという。

超能力者はテレビ局からのオーダーに対して「出来ない」と言えるんですよ。昔は空中浮揚できました。今日は出来ません。とかね。でも手品は常識的に考えて出来ないことをやってのけるから手品なんで「出来ない」とは言っちゃいけないわけです。出来ないことをやるのが手品なんですから。あと、超能力者は失敗したら「失敗しました」と言える。「超能力だから、失敗することもあるんです」と言える。テレビ局の中には超能力ショーを舞台裏から見ていて、種も仕掛けもある手品だと気付いている人達もいるわけです。その人達が言うには「超能力者は三流の手品師だ」となる。

格闘技の世界はドキュメンタリーの世界で、通常同じウェイト、同じような体格、同じぐらいの技量の選手が闘います。でも、柔道の漫画とかを見ていると、身長160センチの柔道の達人が、2メートルのデカくてパワーのある柔道の素人に殴りかかられて、投げ飛ばすシーンとかあるわけです。やっぱり私としては、デカくてパワーのある格闘技の素人と、小さくてパワー負けする格闘技のテクニシャンが闘うシーンを見たいわけです。でもね、それは台本のない格闘技でそういう場面は観れないと思うわけです。体格差や技術差がありすぎる試合では、どちらかが大怪我をする事故が起きる可能性が高いですし、格闘技経験のない素人は無意識のうちにルール上禁止されていることをやってしまう可能性も高いわけです。例えば、相手選手の目に指を入れるつもりは無くても、体勢が崩れて絡まって倒れる時に、偶然指が目に入ってしまう可能性はゼロではありません。競技の熟練者同士なら絶対に起きない事故が、ド素人の場合起きてしまうかもしれない。また、事前に試合があると分かっていれば、例え三ヶ月やそこらであっても練習はします。まったくの素人というわけではありません。私が見たい試合はプロレスじゃなきゃ見れない試合です。

例えば、アントニオ猪木選手対ジャイアント馬場選手の試合。あきらかに体格差はあるわけです。ノアでいうと高山選手対小川良成選手の試合も体格差を売りにした試合でした。大きい体をさらに大きく見せるために背筋を伸ばし、胸を張り、両手両足を大きく左右に開いて、わざとゆっくりと動くことで、より体を大きく見せる高山選手対、アマレス式の前傾の構えをすることで小さい体をより小さく見せる小川選手。実際の身長差が、高山選手が約二メートル、小川選手の百八十センチで、二十センチの差だとしても、構えることで、身長差が一メートル以上あるように見えます。小川選手は小柄な体を生かしてスピードで相手を攪乱する作戦・・であると同時に、速く動くことで小さい体をより小さく見せる効果があります。小川選手は相手選手に捕まらないようにヒット&ウェーで遠くから射程距離に滑り込んでは小刻みにローキックを入れては逃げる戦法で、それに対して高山選手は痛がることもせず、ローをまったく無視してゆっくりとコーナーに追い込み捕まえようとする。新日だとマット・モーガン選手対永田選手や中西選手対西村選手などがそういう試合で、プロレスならではの良さがある訳です。

プロレスにおいて巨人怪力キャラと小柄なテクニシャンキャラでは要求される動きが正反対で、怪力キャラは、相手選手が押してきたら押し返す、引いてきたら引き返す、腰を落としたら持ち上げて、腰を上げようとしたら上から押さえ込む。相手の力を力でねじ伏せることで、自分の方が腕力があることを観客に示すわけです。対するテクニシャンファイターは、相手が押してきたら相手の力を利用して引き込んで投げる、相手が引いてきたら引く力を利用して押し倒す、腰を上げようとしたら下からもぐり込んで投げ、腰を落とそうとしたら上から押さえ込む。相手の力を利用することで自分がテクニシャンであることを観客にみせつける。プロレスの打撃は相手選手が怪我しないように殴らなきゃいけないし、お客さんに痛みが伝わるぐらいに激しく殴らなければいけない。この加減が難しい。体格差のある試合で大きい方が小さい方を殴る時には加減が分からないので、ジャイアント馬場選手のように、相手選手をロープに振って、自分は足を上げるだけで足の裏に当るときの激しさはロープから戻ってくる選手まかせというのが定番で、その時誰よりも速く、誰よりも激しく当るのが猪木選手だったという話がある。マット・モーガン選手対永田選手の試合などもゆっくりと動くモーガン選手の打撃に永田選手が激しく当るというハード・バンプで客席を沸かせてました。

ミスターマリックに話を戻すと、南極のペンギンの群れを一瞬にして消してくれとオーダーを出すテレビ局なら、北極の北極熊と北極点で闘ってくれぐらいは言うと思うんですよ。それなら水曜スペシャル二時間特番で視聴率三十パーセント行くよと。もちろんそこに種も仕掛けもあって良いわけです。北極点と言ってるけど実際にはアラスカかグリーンランドか辺りで、北極熊といってるけど、実際にはボリジョイサーカスの白熊で、一部着ぐるみの白熊のはく製も持って行って、氷点下何十度のアラスカかどこかで、パンツとリングシューズのみの上半身裸で本物の白熊と向かい合って、抱き合って氷の上を転がるだけでも良いじゃないですか。熊が上から下に腕を振り下ろして、熊から二メートルぐらい離れた所にいる選手が後ろに吹っ飛んで倒れるのを選手の背中側からカメラで撮れば、遠近法的に熊のパンチが当ったように見えますよ。メーキャップで傷跡や氷の上の血も作れば良いじゃないですか。世界最北端にある温泉地の近くで、五秒のカット一つ撮るのにテイク16ぐらい掛かっても良いじゃないですか。ジャキー・チェンだってワンカット撮るのに何十テイク掛かってますよ。それで仮に種も仕掛けもバレたとしても、氷点下何十度の場所で、カメラさん照明さんのヒゲや髪や息が凍りついている空間に、上半身裸で立って野生ではないにしろ本物の熊と抱き合ったとしたら、尊敬されると思います。西村選手辺りがやらへんかなぁと妄想中。

2007/3/26 なんかさぁ、やっぱ俺、HTMLのHPじゃなきゃダメだわ。blogはカウンターが回りすぎて怖いし、文字サイズも自分の思うサイズにならないし、デザインもなんか違うし、メルマガはメルマガでなんか色々責任感じるしちゃんと書かなきゃとか思うし、mixiも記名で知り合いに見られながらの公的発言ぽいしんどさあるし。病院のカウンセラー代わりに愚痴こぼすのはHPじゃないとキツイ。無責任にダラダラ長話するのはここが一番落ち着く。

2005/7/9 永田選手は新日本プロレスの中で、上の世代と世代間闘争をする前に、上の世代(三銃士)が団体から独立してしまい、上の代と世代間闘争をすることなく、下の代(棚橋選手・中邑選手)から世代間闘争を挑まれることになった第三世代(永田選手・中西選手・天山選手・西村選手)に属することを、不幸だと言っていたが、正直、永田選手が三銃士と純プロレスのフィールドで名勝負をすることを周りは期待していないと思う。

若い頃の永田選手は、上の世代の名前のある選手にガチンコを仕掛けて、散々関節を極め、投げ、最後はマッチメーカーの指示通りに負けて見せたとしても、試合後に「どちらが強いのかは観ている人は分かったと思います」と発言した問題児として扱われていたわけだ。つまり永田選手は、純プロレスサイドの人間ではなく、かといって総合格闘技でもないのだけれども、新日本プロレス内急進的改革派の旗手として、前田日明選手−永田選手−中邑選手という流れの中にいて、より格闘技寄りのプロレス、格プロサイドの人間と見られていたわけだ。だからそこ、永田選手が世代間闘争をするなら、上の代は三銃士ではなく前田日明選手、下の代は中邑選手でなければおかしい。なのに永田選手VS中邑選手が盛り上がらない。永田選手VS棚橋選手の純プロレスや、中邑選手VSカシン選手のルチャ、中邑選手VS中西選手の格プロと比べても、盛り上がらない。中邑選手にとって一番かみ合うはずの相手なのに、三十代後半の年齢、長いプロレスのキャリア、格闘技をするために必要な試合三ヶ月前からの準備期間や試合後三ヶ月の治療期間を取れないプロレスラーとしてのポジション、様々な理由があると思うが、中邑選手からの仕掛けに対し、もしくは前田日明プロモーター(で合ってるのかな?)からの仕掛けに対し、純プロレスサイドへ逃げて、棚橋選手と名勝負を繰り広げる。引退後の永田選手のキャリアを考えるなら、総合格闘技での一勝は、どんな無名の選手相手でも、どんな弱い選手相手でも必要だ。かといって前田軍の山本選手と総合ルールでというのも永田選手にとって酷だろう。K-1から人を引っ張れるのであれば、村浜選手と永田選手が、総合ルールで闘うとかだと、ウエートなら永田選手、総合のキャリアなら村浜選手、グラウンドなら永田選手、打撃なら村浜選手と、絶妙なバランスになると思うがどうだろう。プロレスのスケージュールが入りまくって、ギリギリまで総合の練習を出来ないという条件も村浜選手となら互角だと思う。

6/24 総合格闘技が総合格闘技という一競技でしかないなら、非対称性を前面に打ち出した異種格闘技というのも面白いと思う。グローブをつけたキックボクサー対グローブをつけていないアマレスベースのプロレスラーが、異種格闘技戦で闘う。キックボクサーにはキックボクシングルールが適用され、キックボクシングで許されている攻撃しかできない。プロレスラーはプロレスルールで許されている攻撃しかできない。プロレスラーは相手の顔面を殴っちゃいけないが、キックボクサーは当然、レスラーの顔面を殴る。キックボクサーは当然相手をつかんじゃいけないが、プロレスラーは当然、相手の関節を極めようとする。

こういうのをガチじゃなくても、素人目にはガチに映るように試合できれば永田選手は猪木選手並みの伝説作れる。高坂−永田戦は、リングの上の試合がガチに見える見えないを横に置いて、高坂選手の試合のスケージュールを見ただけで、素人目にもガチに見えないのが辛い。高坂−永田戦浮上とスポーツ新聞に載った次の日のスポーツ新聞にはヒョードル−高坂戦決定と出る。高坂−永田戦の数日後にヒョードル戦があるなら、永田選手は高坂選手に怪我をさせずに試合を終えてヒョードル戦に送り出してあげなくてはならない。ヒョードル戦をはさんだ二度の高坂−永田戦で、高坂選手がヒョードル戦をするにあたって必要な資金を、永田選手が用意してヒョードル戦に送り出してあげているのが素人目にもバレる。せめて、最初の高坂−永田戦の一ヵ月後にヒョードル戦なら、まだガチだと言い張れるが、二日後や三日後じゃ素人をダマすのもキツイ。

前田軍対永田戦は、総合ルールで総合の選手と戦うのじゃ、結果が分かり過ぎるので、K-1の選手と異種格闘技ルールでの方が面白い。柴田−武蔵戦のような異種格闘技の方が盛り上がる。中邑選手の総合進出もそうだけど、総合ルールだと、準備に三ヶ月、試合後の治療に三ヶ月の計半年の時間を一試合にかけなくてはいけなくて、プロレスとの両立がほぼ無理と言うのが素人にも分かってしまった。

6/22 私がプロレスを面白いと思ったきっかけは、初代タイガーマスク&古館伊知郎の時代を除くと、中西学選手の意味不明な発言が大きかった。

テレビで試合後のインタビューで、アナウンサーにマイクを突きつけられて「**(相手選手の名前)、これで勝ったと思うなよ。朝は早寝早起き。早起きは三文の得。」などと、脈略のないことを言い出して、アナウンサー(たぶん女性だった)がマジで怖がっているのが画面から伝わってきた。

普通、俺たち一般人はプロレスをショーだと思っている。だから、悪役レスラーが竹刀で壁を殴りながら、「ぶっ殺すぞ。コラ」とアナウンサーに迫ってきても、それは、悪役商会の俳優さんがドラマ用の刃物を振り回してアナウンサーに迫ってくるのとあまり変わらないと思っている。つまり、悪役レスラーも本当は良い人で、本当に人に怪我をさせることはないと思っている。ところが、中西選手のインタビューはあきらかに何かが違った。

巨大な体をした中西選手が、試合後で汗だくになって息を切らした興奮状態で、脈略のない意味不明な言動を繰り返し、アナウンサーは本気でおびえて、震えている。まず、その試合では中西選手は悪役ではなかったので、人を怖がらせる必要はないわけだ。アナウンサーは「試合はどうでしたか?」と聞いているのに「朝は早寝早起き」と答えたのでは意味が分からないのだ。役を演じて、ショーとして発言しているのではなく、真剣に真面目にしゃべって、試合の感想が「朝は早寝早起き」なのだ。頭がおかしいとしか思えない。頭のおかしな人が興奮状態で意味不明なことを脈略なく怒鳴っているのだ。これがショーでなく、本気だとすれば、脈略なく、突然、人に殴りかかる可能性がないとはいえない。アナウンサーが怖がって当然なのだ。興奮状態で意味不明な四字熟語を並べたり、よく分からないことを口走る中西選手を見て、これは本気で怖いと思った。プロレスで怖いと思ったのは、幼児期に見たアブドラ・ザ・ブッチャー選手が控え室でジャイアント馬場選手を呪い殺そうとしている場面を見たとき以来だ。自分の理性で理解でいない不可解ななものを見たとき、僕は怖いと感じる。

当時中西選手はプライドやK-1の試合に出て負けて「中西神話崩壊」「中西スランプ」などと言われていた。インタビューでも野生を売りにした「ワイは〜〜なんじゃ」というしゃべり方から、「ボクは〜〜なのです」というしゃべり方に変わり、一人称はワイからボクに、語尾は「じゃ」から「です・ます」に変わり、野獣キャラから、ナイーヴで繊細で病弱なボクにキャラ変更し、G1では力比べで棚橋選手に負け、「愛読書は羅生門」であることを公開し、パワーファイターから頭脳派へ転向している時期だった。が、あの外見で「羅生門」と言われても、焼肉屋の羅生門しか頭に浮かばないし、知性派という自己演出がギャグにしか見えなかった。また、現にカシン選手・秋山準選手から知性派に転向した中西選手の言動がギャグにされていた。

スポーツ新聞で当時流行っていた「スローフード」について語る中西選手もすごく奇妙に思えたし、ギャグで変なことを言っているのではなく、真剣にしゃべっているのだというのもテレビから伝わってきていた。ツッコまれたり、からかわれたりすると、腹の底から頭にきているのを、表に出さないように我慢して、でも、頭にきているから顔がプルプル震えるのだ。

武藤選手ホストでゲストに格闘家やプロレスラーを呼んで対談をするテレビ番組がある。その番組で多くのレスラーや格闘家に会った感想として武藤選手が言っていたのは「格闘家の人は狭い視野で一つのものを突き詰めて極める。遊びを知らない。プロレスラーの方が遊びは知っている。」アスリートとエンターテーナーの違いだ。この定義でいくと中西選手はアスリートだ。狭い視野で真剣に「朝は早寝早起き」と語る。真剣だから突っ込めない。下手なことを言うと殴られそうだ。中西選手はアスリートだから、試合の感想を聞かれて、アスリートとして、「早寝早起き」や「スローフード」といった、コンディション作りの専門的な話をする。インタビュアーはプロレス=ショーだから、プロレスラーはエンターテーナーだと思って、試合のストーリー展開を補う話をしてくれるものだと思って、試合の感想を聞くが、突然「早寝早起き」と言い出すので、パニックになる。

エンターテーナーとしては確実に間違えている中西選手の頭の中はどうなっているのか?そこに対する興味から、ミスター高橋本や活字プロレス、シュート活字、WJなどへも興味が広がったわけだ。

中西選手以外にもアマレス出身選手の中には「自分はエンターテーナーではなくアスリートだ」と思っている人は多いのだが、それらの人たちは「周囲は自分のことをエンターテーナーだと思っている」のも知っている。が、中西選手はそれも知らない。アナウンサーは試合後のインタビューで、プロレス=ショー=映画みたいなものだと思っているから、映画俳優に「今回の映画はどうですか?」と聞いているような気分でいるし、視聴者もそういう感覚で見ている。でも、中西選手は試合のストーリーや演出には一切触れず、アスリートとしての体作りやコンディション作り、技術の向上の話など、プロレス=ショーとは思えない発言を繰り返す。この中西選手の話す内容がWJのコアなファンと通じるものがあって、プロレス=真剣勝負と本気で思っているだけではなく、プロレスをショーだと思っている人もいることを知らないかのような部分がある。

下の日記でも書いたが、競技化された格闘技であれば、ルールも勝ち負けも第三者に分かる形で示される。が、参加している当人たちだけが分かる暗黙のルールでやる男と男の勝負は、ルールも勝ち負けも第三者に分からない。「あの電信柱まで勝負だ」と言って突然走り出す。ここから、電信柱までの距離は分からないし、事前にその距離、そのコースを走る練習をしておくこともできない。勝負当日に、何で勝負をするのかを決める。「あの煙突まで走る」のか「あの夕日まで走る」のか「海に向かってどっちが遠くまで石を投げれるのか勝負」なのか、まったく分からない。片方が腰を落として、「俺をここから一歩でも動かしてみろよ」と言う。押したり引いたりタックルしたりするが、アマレスで元オリンピック日本代表の長州力選手辺りが腰を落としていると、中々動かない。単に腕力の問題ではなく、こちらの動きに合わせて体重・重心の移動をするのが上手いのだ。足を動かさないまま二人向かい合って立って、相手の手のひらにだけ触れて良いルールで押したりスカしたりして、相手の重心を崩して倒すゲームがあるがあれと似ている。腕力だけじゃなく、バランスだのポジショニングだの戦術だの心理戦だのがある。男同士の闘いとはそのようなものだし、総合格闘技なんかよりもこっちの方がよっぽどバーリトゥード(なんでもあり)だし、よっぽど実践的だし、よっぽど総合的だし、競技化された格闘技より本物だという考え方がある。プロレス雑誌でプライドの運営している人たちが、それに近いことを言っていてびっくりしたことがある。ルールがある地点でそれは単なる競技だ。武道というのはそうじゃない。平らな場所でばかり闘いが起きるとは限らないし、階段のような狭い場所や海岸のような広い場所で闘いが起きるかもしれない。そのようなことを想定する武道の方が競技より上だという人がプライドの運営者サイドにいたりするのだ。

競技化されてしまった100m走では、その競技の競技歴が長い選手が勝つが、100m専門のスプリンターが、「あの煙突まで走る」という男と男の勝負で、勝てるかというと別問題だと。そういう意味で総合格闘技もただの競技でしかない。と本気で思っている人が、プロレスや格闘技イベントの主催者に結構多いという事がわかる。でもね。素人考えで言わせてもらうと、ルールが毎回変わるのはともかく、ルールが本人達にしか分からないのでは見ている第三者は面白くないわけです。UWFというのはその辺を上手く競技化して、見れるものにしていったと思う。ルールを作り、技術体系を作り、その技術体系に沿った試合を作った。結果としてガチンコでなかったことはバラされたけれども、UWFの技術体系が間違ってなかったことはUFCでもプライドでも証明されている。

UWFが出てくるまで、私はケンカといえばボクシングスタイルのケンカがケンカだと思ってました。ケンカが一番強いのはボクサーだと。UFCでもプライドでも、グラップリング=投げ技・寝技・関節技=アマレスの選手が、ストライカー=打撃=ボクシングの選手に勝って行く歴史だったわけです。グレーシー柔術はプロレス幻想を壊す以上に、ボクシング幻想を壊したわけです。相手を血だらけにする野蛮なストライカーに対して、ポジショニングの計算をする知的なグラップラーが相手を怪我させることなく、関節を決めてタップを取る。ノールールの格闘技は野蛮なケンカではなく、お互いに無傷で勝敗を決める知的技術なのだと当時の格闘雑誌は謳っていたわけです。ここからアマレス幻想=永田幻想・中西幻想が生まれてきます。

グレーシー柔術以後、猪木−アリ状態からグラウンドの選手に蹴りを出す、シュートボクセアカデミーの技術や、お互いがグラウンドで相手の足首をつかんでいる状態で相手の頭部を殴るヒョードル選手のパウンドなど、新しい技術がいろいろ出てきて、格闘技通信やナンバーといった雑誌で紹介されるのですが、ナンバーと格闘技通信の違いも面白くて、日本の明治期や江戸期の格闘技の古文書をひも解く格闘技通信と、海外の格闘技の専門書を訳して紹介するナンバーでは文体がずいぶん違って、総合格闘技のことをロシアではアブソリュート、アメリカではマーシャルアーツ、ブラジルではバーリ・トゥードなどと別の言葉になり、同じ技術でも原語によって別の単語があてられたりするナンバーは「大学院以上の最終学歴がある人って洋書読むんだよなぁ」と大学までしか出てない私の知的コンプレックスを大きく刺激する。

ちゃんとした技術体系があって、かつ目新しい技術を取り入れてれば、たとえ事前に勝ち負けが決まっていたとしても、UWFのように幻想は崩れないと思う。だからWJもロックアップの技術を前面に出すのなら、ナンバーや格闘技通信でそういう記事を出していれば、もっと行けていたかも知れないと思う。が、新日本プロレスを見ていると、それは非常に困難なことだとも思える。技術体系を公開するということは、八百長を公開することと等しいとする考え方もあるからだ。技術体系を公開すれば、この間接技は決まれば絶対に外れないと分かる。にも関わらず、自分のプロレス団体で外れない関節技を外して試合を続けていれば、観客からインチキだと言われる。外れないはずのものが外れるなら、外す技術体系が別個必要になる。アマレス出身のレスラーが解説についたとき、口下手になるのはこのためだ。下手に技術的なことを言えば、結果として八百長をバラすことになる。格闘技の技術を取り入れたショーをするなら、その技術と矛盾しないショーにしなくてはならない。UWFはそれをやった。WJは前半の力比べとは無関係に、最後は大技で試合を終えた。中邑選手のように若ければ技術解説もできるかもしれないが、ベテランで自分の名前の入ったプロレスビデオが何本も出ている場合、下手な技術解説をすると、自分のビデオの試合が八百長だと遠回しに言ってしまうことになりかねないのだ。

6/4 プロレスについて考えることが何故面白いのかが、最近分かった。いまプロレス低迷と言われているが、はっきり言うと新日本プロレスのメインの試合が論理矛盾に陥っているだけで、ルチャ系の団体やショーであることを強調する団体はそれほどおかしなことにはなってないと思う。で、その論理矛盾自体が論理的に求められているという入れ子構造が新日本の面白さであり困難さであると感じた。

詳しく書くと、新日本プロレスの試合は一日に10試合あったとして、最初の3試合ほどはヤングライオンと呼ばれる若手の試合で、前座なので派手な大技の使用を禁じられており、関節やポジションの取り合いがメインになる。UWFの起源になっているのが新日本の前座試合で、ショーアップされた実用性のない技を排して、グラップリングをきっちり見せる試合として、プロレスを見る目の肥えたプロレス夕刊誌の熟年記者達は、ヤングライオンの試合が一番面白いという。

次に、四試合目から六試合目ぐらいまでが、ジュニアの試合で、ルチャと言われるショーアップされたメキシカンプロレスの試合になる。マスクをかぶり、善玉と悪玉に分かれて、空中戦をやって、正義の味方が勝つ。勧善懲悪のわかりやすい試合。子供や初めてプロレスを観る人はジュニアの試合が一番面白いという。WWEや武藤全日に一番近い試合だ。

最後のメインとなるヘビー級の試合。ここが、論理レベルでグチャグチャになっていて、その混乱した論理が俺にとって面白かったのだと気付く。

新日本プロレスのヘビー級の試合と対比するため、アメリカンプロレスWWEやアメリカで人気を博した武藤選手率いる全日本プロレスについて書いてみる。WWEはテレビの放送権料がメインの収入で、その次にグッズ販売、最後に試合の入場料という収入構成で、ショーのチケットではなく、テレビで稼いでいる。テレビでやる以上は生放送か、それに近い状況を要求される。スポーツの中継で、オリンピックでも巨人阪神戦でも良いが、試合の翌日にはスポーツ新聞に結果が出る。試合の一ヶ月後にテレビ中継をやっても誰も見ないだろう。視聴率を取るには、試合結果がスポーツ新聞やネットに出る前に放送しなければならない。スポーツの生中継をした時、一番問題になるのは、試合終了時間がわからないことだ。野球中継で二時間枠をとって放送したが、一対一、9回表、ワンアウト満塁、「ここでそろそろ放送終了の時刻になって来ました。続きは**ラジオでお楽しみください」なんてのはよくある話だし、ボクシングのヘビー級の試合で二時間枠を取っていたが、一ラウンド1分30秒ぐらいでチャンピオンがKO勝ちして、チャンピオンの勝利者インタビューやKOシーンを色んなカメラ、色んな角度から何度も流して、それでも残った残りの放送時間1時間30分ほどを、そのチャンピオンが若い時の10年ぐらい前の試合のビデオを流してつなぐなんてことが普通にある。つまり、試合時間がどうなるかまったく分からないスポーツの試合ですとなると、テレビ局はタイムスケージュールを組めないわけです。CM中にKOが出るかもしれないし、ホームランが出るかもしれない。どこでCMに行くか判断がつかないわけです。そこでWWEは「プロレスはショーです。真剣勝負ではありません」と宣言してしまったわけです。武藤選手は自らのプロレスをミュージカルに例えて、ライバルは劇団四季と言ってしまったわけです。結果、何が起きるかというと、WWEでは1人持ち時間が10分だとすると、入場から試合、試合後のマイクパフォーマンス、退場まで、全部含めて10分以内に抑えなくてはならなくて、一秒でも超えてはいけない。その中で一秒でも長くテレビに映ろうとすると、9分59秒の試合をすることになる。リハーサルを何度もやって、カメラの位置がどことどことどこに何台あって、このシーンではこのカメラでこのようなアングルからこのような構図のショットをこのように入れて、次にこのカメラに切り換えて、この技をこの角度から・・・。映画の長回しの一発撮りですよね。アドリブの入る余地が一切ない。だって、アドリブを入れたら全体の尺が数秒狂うわけですから。その数秒というのがテレビのCMの放送料に直すと、何百万円になると思っているのだという話です。武藤選手がよく「パッケージでみせる」という言い方をしますが、パッケージとはアドリブも入らないし、その興行用に一部を改変することもなく、百パーセント練り込んだものを、まったく同じクオリティー、まったく同じ内容で見せるということですよね。

TVショーとしてのクオリティーを上げたら、放送時間ジャストに試合が終わる構成からして、ガチンコの試合ではないと宣言せざるをえなくなるわけです。新日本プロレスでいうと初代タイガーマスクがそういう試合でした。60分一本勝負で、毎回ジャスト30分で試合が終わるわけです。現役時代の猪木選手の試合やいまの新日本ヘビー級の試合は、TVショーとしてのクオリティーとガチンコらしくみえるリアリティーをはかりにかけて、リアリティーを取ったわけです。アドリブの要素を残す、猪木選手が勝つ台本を関係者に渡しておいて、猪木選手が負ける。突然のハプニングで混乱する関係者席やテレビマン達の姿が全国に放送されて、そこにリアルをみているわけです。猪木選手の試合が終わらないまま、試合結果が分からないまま放送時間が終了しても良いわけです。新日本と全日本のチャンピオンが新日本の舞台で戦った天山―小島戦で60分引き分けにするつもりが、脱水症状で新日本の天山選手がダウンして、「1・2・3・4・5」とレフリーがダウンのカウントを取り出して、「7・8」辺りで異変に気付いた全日本の小島選手が慌てて天山選手の肩を抱き起こしに走ったのを新日本のレフリーが止めに入って、「10」カウントで小島選手が勝って、テレビ関係者含め関係者席が騒然となっても、良いわけです。全日本的には、そんなハプニングは許されなくても、新日本的にはOKなわけです。リアルを追求するのか、ショーの質を追及するのかの違いです。

新日本プロレス的な試合の見方はミスター高橋本を読んで初めて分かった。試合の勝ち負けと決め技はあらかじめ決まっているが、そこへたどり着くまでの流れはアドリブで、相手の力量を試す意味でのガチンコを仕掛けるときもあるし、相手から仕掛けられることもある。同内容のことは力道山もどこかのインタビューで言っている。この手のプロレスは建前上、格闘技と言うことになっている(一つ目の枠)。が、実際にはショーである(二つ目の枠)。と思われているが、そのショーの中にガチンコが入っている(三つ目の枠)。と三重の入れ子構造になっている。プロレス団体やプロレスマスコミは一つ目の枠しか当然提示出来ないのだが、実際には三つ目の枠が見えて初めて面白いと思える。

一つ目の枠で見える格闘技と三つ目の枠で見える格闘技の質的な差を説明しよう。一つ目の枠で見える格闘技はボクシングや柔道や空手やアマレスや相撲などだ。一般にサッカーや野球や卓球やオセロや将棋や百人一首はこの手の格闘技に入らない。ところで、ボクシングや空手と、卓球やオセロとの違いは何だろう?ケンカから派生し、競技化されたスポーツは格闘技と呼ばれるが、ケンカから派生していないようなスポーツは格闘技とは呼ばれない?もしくは、実践のケンカで使える技術を使ったスポーツは格闘技で、ケンカで使えないような技術しかない卓球やオセロは格闘技ではない?例えば、将棋はあきらかに実践のケンカの巨大版である戦争から派生している軍事戦略ゲームだ。軍を複数の隊に分けて配置して行った時に、一隊の規模や装備が同じだとして、一つの隊に対して、二つの隊が両側から攻めれば圧倒的優位でもって勝利することができるとしよう。すると、ハサミ将棋やオセロや囲碁もある種の軍事戦略ゲームだと言える。ボールをダイナマイトか火炎瓶、ミサイルにでも見立てれば、ラグビーやアメフト、サッカーやバスケットボールだって、戦争を模した実践的格闘技だと言える。将棋や囲碁を格闘技だなどと言い出すと、格闘技の定義が広くなり過ぎるので、その種の軍事戦略ゲームは格闘技から除外して、素手の一対一での実際的なケンカの場面を想定しよう。

この種のケンカをする場合、お互いにどちらが強いのかやってみるまで分かっていない事が前提になる。力の上下関係がはっきりしていれば、ケンカするまでもなく、勝負はついている。腕力における上下関係がまだ形成されていない初対面に近い状態で、ケンカは始まる。次に、この種のケンカは殺し合いにまでは発展しない。どちらかが負けを認め、腕力における上下関係が生まれた地点が終着点になる。例えば、学校に突っ張った人間が転校してきて、その学校に元々いた不良グループ内におけるどのランク、どのポジションになるのかを腕力で決める場合に、刃物を振り回したり、いきなり相手の目に指を入れたり、首を締めて殺してしまったりしてはいけない。お互いが大怪我をしないような状態で相手に「まいった」を言わせないと、他の不良仲間に示しがつかないわけだ。刃渡り三十センチの日本刀を振り回して勝っても、誰も認めてくれない。顔面の形が変わるほどボコボコに殴るというのも出来れば避けたい。理想は、相手の両手首をつかんで動けなくした上で、殴ってこんかい、ぐらいの一言を言って、腕を振りほどき抵抗しようとする相手の腕がどうやっても動かない事を確認した上で、向こうが負けを認めれば、お互いが無傷で上下関係がハッキリする。このお互いの腕を組んだ状態での力比べこそが、ロックアップであリ、WJで長州力選手が最もこだわった技だ。WJにおいてすべての試合はまずロックアップから始まらねばならない。

ロックアップにおいてお互いの上下関係を作り、間に見せ技を入れつつ、試合の締めの勝ち負けや決め技はマッチメーカーまかせだとしても、ロックアップから始まる前半部はガチですよというのがWJ=長州力選手やWJではないが中西選手のプロレスで入れ子構造でいう三つ目の枠にある格闘技だ。WJは一部のコアなファンに支えられつつも、ほとんどの一般人には何をやっているのかが伝わらなかったプロレス団体だ。ルールが第三者に分かる形で示されるのではなく、やっている当人達の暗黙の了解のみがルールであったりするので、暗黙の了解を分かる人は面白いだろうが普通の人には何をやっているのかが分からない。

5/6 最近、会社組織の中のポジションや役割について考えることが多い。個人的に思うに、ポジションが三つぐらいある。プレーヤー・ディレクター・ドリーマーと仮に呼ぼう。

現場の仕事を実際にするのがプレーヤーで、労働組合に入れるもの=平社員&係長までを指し、課長以上は経営者サイドとみなされるため労働組合に入れない。最近はアウトソージング(外注)が進み、派遣社員・アルバイトに現場の仕事をさせ、社員の仕事はバイト・パート・派遣社員の管理であることが多い。バイト・パート・派遣社員は労働組合がなく、各種保険にも加入してないことが多く、保険料も含めて考えると一人辺りのコストが安く雇えるからだ。

ディレクターの仕事は、プレーヤーの管理であり、現場監督だ。現場の仕事=平社員という従来の仕組みの場合、課長がその位置になるが、最近の現場=バイトの場合、社員がディレクターの位置になる。小売り店の店長、契約社員で構成された営業所の支店長、人材派遣会社の正社員などがこの位置だ。直接的な彼らの仕事は現場に人員を派遣することであり、現場に病欠や無断欠勤が出れば、休暇中の人間か別の現場から人員を回し、最悪自分が現場に出る。より高次元の仕事として、経営者から下される現場への指示を伝達し、現場の人員が持つ不満を解消し、アルバイトや社員を定着させ、現場に対する顧客からのクレームに対応し、謝罪に出向くことにある。いわゆる中間管理職だ。学生バイトなんてのは「仕事が詰まらない」という理由で平気で辞めていく。一ヶ月掛けてやっと仕事を覚えた頃に、職場に友達が出来ないとかそんな理由で辞められると、また一からバイト募集の広告を掛けて、面接を行って、採用後仕事を教えて人材を育てて、と面倒なので、新人が入れば歓迎会をやったり、誰かが辞めるといえば、引き止めたり、辞めることが決まれば送別会をやったりする。例えばマクドナルドの場合、夏と冬の年2回、アルバイトの社員旅行をやっている。詰まらないとか、友達が出来ないとかで辞めようとする人間を引き止めるためにバイト旅行があるのだ。他に主な仕事としてクレーム対応などがある。クレーマーサポセン系の本を買うのもこの層だ。

ドリーマーは会社の創業者だ。映画産業でいうとプロデューサー。この位置の人は、自分とその家族が生計を立てていくことよりも上に、なんらかの目的がある人達だ。あきらかに、自分たち家族が一生食っていけるだけの資産を持っていながら、それでも働く人。経営することで使用者責任や生産者責任が発生し場合によっては、資産の没収という可能性を持ちながらも経営をする。大企業の創業社長などは一生食っていけるだけの金を既に稼ぎ終わっているにも関わらず、経営をしている訳だ。個人的な主観だがこの手の人達は、既存の社会に対して怒りや不満があって、そこを改善するために働いているのだと思う。**というものがあったら良いのに、現実にはない。不満だ、だから私は**を作って世に出す。他にやる人がいないから私がやる。かなり性善説だが、そういう人達だと思う。自分とその家族が食っていくことだけを考えたら、自営業で店一件持つぐらいまでは行っても、その儲かっている店を担保に銀行から金を借りてチェーン店を全国展開してどうこうには行かないし、業界トップ企業の経営者というのは、その業種が今後どの方向に発展して行くのかを示さなくてはならない。特許が5年で無効になるとすれば、今業界トップの技術力を持っていても、5年後には無効になるわけで、技術開発に関しても、どの方向でどういうものを開発するのかビジョンを出せなきゃまずい。現状を否定し理想を追い掛ける能力が経営者には要求されると思う。

自分がどの位置にいるのか、どの位置に行きたいのか、そういうのは割と考える。学生の頃は現場に出るのが仕事だと思っていたのだが、十年ほど前、某コミュニティサイトを運営する企業の面接を受けたとき、このコミュニティーサイトを使ってどうやって利益を出すのかビジョンを示してくれみたいなことを言われて、そこを受ける前からそのコミュニティサイトを使ってたんだけど、他の類似するサイトと比べて圧倒的にビジョンがないサイトだったわけだ。その面接官も色々ビジョンを語ろうとするのだけど、圧倒的にビジョンがないわけだ。その会社に入って、もし俺が良いビジョンを示して、それなりに利益が出れば、簡単にこの会社操縦出来るなとか、もしこの会社入って、何もビジョン示さずに言われたことだけやってたら2・3年でつぶれるなとか、色々思った。ビジネスモデルが確立されてない新興の成長産業ってのは、どこもこんなもんだと思う。ライブドアだって入社2年半の社長秘書が社長に唯一タメ口で意見出来る古株というから、まあ、新興産業ってのはそういうものなのだと思う。逆に、衰退産業に行っても、いきなりビジョンを示してくれみたいになる。例えば、西陣織の企業とか受けても、たぶん今の若者に受ける西陣織の利用法みたいなのを面接で出題されたりする。和服の消費は減る一方だとして、西陣織で作った人形の携帯ストラップとか、携帯電話のカバーとか、そういうのを考える位置にいきなり行かされたりする。

3/30 元アマレス出身レスラーで、新日本プロレスで長州選手と選手育成のコーチを務め、現在アマレスからプロへのスカウトマンをいている馳国会議員が、中西選手のことを「最初見たときはみんな感動するんだけど、しゃべるとみんながっかりする」と言っていたが、段々、私も中西選手にがっかりしてきた。プロレスに必要な最低限の自己演出能力がない。ルックス・身体能力・発想力共に素晴らしくて、エースとして期待され、多くのブレーン(カシン選手・秋山準選手・蝶野選手・ウルティモドラゴン選手)が中西選手に近づいては失敗して行った。ブレーンの人達が伝えようとするような高度な演出を理解する能力が無いのは仕方ないとしても、プロレスに必要な最低限の演出も分かってないのが辛い。PRIDEのノゲイラ選手の試合が総合格闘技であるにも関わらず、中西選手のプロレスよりプロレスしていたので、余計に中西選手の試合がひどい物に見える。

中西選手のプロレス観は長州選手直系のWJ的な格闘プロレスであって、ノーマルなプロレスからズレていて、そこに気付いてないのが辛い。前田日明がすごいのは、WWEの面白さを理解した上で格闘技を作っているところだし、総合格闘技でも結構プロレス的な演出を入れていて、プロレス的な展開をみせることに関して、プロレスが格闘技に負けることも珍しくない。

点を線にするという言い方をよくするが、単発の技(点)ではなく、点をつないで、流れ・物語(線)を見せるのがプロレスだというのだが、その線のつなぎ方が、中西選手の場合、良い悪いは別にして長州選手直系の格闘プロレスの線になっている。素早い動き・派手な技を単発でなく、ずっと出し続ければ、高いボルテージを維持できる。高い位置で直線を引こうとする。これが長州選手の線の引き方だとすると。

普通のノーマルなプロレスはもう少し違って、地味で膠着した動きがない状態と、展開が速くて派手で素早い状態の緩急のギャップを見せる。勝っている状態、攻め込んでいる状態と、負けている状態、攻め込まれている状態の攻守の落差を見せる。そのギャップや落差が大きいほど観客は驚いたり感動したりする。こっちが一般的なプロレスなんよ。その落差を見せるときに、何がきっかけで攻守や緩急が入れ替わったのかが大事になる。

中西選手の技は野人ダンスにしろ、アルゼンチン・バックブリーカーにしろ、中西選手が攻めている状態、上り調子の線を描いているときに、線のピークで出して、これをきっかけに落ちて行くという技が多い。野人ダンスもアルゼンチンバックブリーカーも優勢な状態からしか出せない大技で、劣勢から優勢への転換には使えないし、使うとすれば、そこで試合が終わるという場面じゃなきゃ使ってはおかしい技だ。ところが、実際の野人ダンスやアルゼンチンバックブリーカーの使われ方は違う。相手選手をダウンさせて、野人ダンスを踊っている時に、起きあがった相手選手に後ろから攻撃されて負けるとか、アルゼンチンバックブリーカーをかけて、持ち上げたところをチョークスリーパーをかけられて負けるとかそういう使われ方をする。普通、その選手しか出せない必殺技は、その技をきっかけに劣勢から優勢に転じないといけないのに、中西選手の必殺技は優勢から劣勢に転じる技ばっかりだ。

中西選手のサービス精神は分かる。負けブックを飲まされている試合でも、中西選手の必殺技を見たいファンがいるだろうと、ファンへのサービス精神で、大技見せて負けるのは分かるけど、大技はそこで試合が終わるから大技なんで、そこから負けに転じるのはファンとしてみてられない。自分の必殺技を、優勢から劣勢に転じるポイントとなる技と位置付けることで、その技の価値を落していることに気付いて欲しい。負けるなら大技出すなと、正直思う。

プロレスてのはだいたい、喘息持ちで冬になると体育の時間に、みんながサッカーやマラソンをしている運動場の隅っこで三角座りしていた奴が、クラスで一番スポーツできるクラスの人気者を眺めながら、「俺も運動場走りたいなぁ。でも、お医者さんに心拍数が増えたり呼吸が乱れたりするような運動は禁じられているしなぁ」思って、試しに走ってみたらすぐにむせこんで、クラスのみんなに背中さすられて「大丈夫?保健室行くか?」言われて、運動場走っている女子に横目でチラッと見られてクスクス笑われて、カッコ悪いなぁ思いながら、運動場を走りまわるクラスで一番のスポーツマンを眺める視線の延長線上にあるものやねん。喘息持ちの高山選手や糖尿で医者から運動を禁じられた猪木オーナーは、三角座りしながら体育の授業を眺める奴の立ち位置に立ったことあるけど、スポーツエリートはその位置に立ったことがないから、プロレスファンの立ち位置や視線を分かってないんよ。八百長だと言われても、走れるということ自体に、憧れと嫉妬、幻想や過大評価があるわけやん。映画はフィクションかもしれんけど、フィクションを見るためにお金を払う人がいて、ドキュメンタリー映画より、いかにもフィクションですというフィクションに夢をみることもあるんよな。

高山&鈴木VS天龍&中西戦で、ボコられて倒れている天龍選手に、リング内に入りながら、一切手を貸さずに、自力で立てと指示していた中西選手やけど、天龍選手50代や、世間では老人の域に入る。路上で50代の老人が若者二人にボコられているのを見て、30代の人間が「自力で立て」と指示してたらオカシイやん。アスリートとしては年齢に関係なく正しい指示なのかもしれんけど、医者から心拍数を上げるなと言われて三角座りしていた人間が見たときに、「自力で立て」と50代に檄を飛ばす人間に感情移入は出来ない。

中西選手のホーは劣勢からでも出せるわけやん。劣勢から優勢に転じるポイントで出せば、ホーを出したから優勢に転じたと思うわけやん。仮に明日手術しなきゃいけない子供がいて、その子が中西選手のファンで、手術の前にホーやって、自分を勇気付けたら、それはプロレスとして成功していると思う。現実的に考えれば、ホーなんてフラシーボ効果しかないし、格闘技の試合でホーは意味を持たないけど、プロレスはフラシーボ効果があれば成功なんよな。

2/5 近所の中古CD屋の百円ワゴンセールでECDの「walk this way」を買った。10曲目に「ECDの”東京っていい街だなぁ”」が入っている。死紺亭さんの「東京っていい街だなぁ」の元ネタは左とんぺいの「ヘイユーブルース」B面に入っている「東京っていい街だなぁ」だけだと思ったら。ECDも入ってたわけですね。高校時代、地元のアングラレコード屋でランキンタクシーなんかと並んでECDも置いてあった気がするが、良い悪いは別にして売れねぇ-だろうなと思った。ラップというより、ポエトリーか、スネークマンショーか、トーキョーNo1ソウル・セットかみたいなノリ。売れてるラップって、B-BoyPark系のヤンキーノリなんで、いや、そのヤンキーノリの「Microphone Pager」も100円ワゴンセールだったから、まあ、似たようなものかも知れないが。他に100円で買ったCD「SNOW」。「EXILE」は980円。

HIP-HOPの人達はよくILLという言葉を使う。英語で病気を意味し、そこから転じて「カッコイイ」の意味で使われる。FUCKなんてのもHIP-HOP文脈ではほめ言葉であるようだ。ILL(イル)という音ですが、フランス語ではIL(彼)を意味し、英語のItのように、天候や時間を指したり、転じて神のことをIL(イル)と言ったりする。金日成(キムイルソン)、金正日(キムジョンイル)のイルは「日」と書き、「金田一少年の事件簿」は韓国語読みで「キムジョンイル少年の事件簿」となるらしい。(参照)ちなみに日本ではイルとは、「存在する」の意味に使われ、「奴はイルだ」と言われても奴はカッコイイという意味にはならずに、奴は存在するという意味にしかならない。日本語のイルにカッコイイという意味は存在しない。イルは存在するけど存在しない。

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