HP管理者日記7

5/8 片桐さんが精神安定剤プロザックから復帰したのを記念して、精神異常ネタで。私自身一度精神病院に強制連行されたことがあるのですが、今回はそれとは別に。月に2・3回精神病院に通ってる人と知り合ったことがあるのでその話を。

夏の午後5時ごろクーラーの利いた銀行の無人キャッシュディスペンサールームのソファーにランニングと短パンとスニーカーという姿でくつろいでる20代後半ぐらいの男性が居て、私は単純にお金を降ろしに行ったのですが、なんか色々話しかけてくるので話を聴いてると微妙に変なんですよ。まず、夏休み中とはいえ、平日の午後5時にランニング姿で街を歩いてる20代後半の男性って普通あまりいません。用も無いのに涼しいからという理由でキャッシュディスペンサー室でくつろぐのも変です。普通の路上生活者はクーラーを求めて公共図書館に行きますが、銀行はガードマンがいたりして管理が厳しいため普通は行かない。次に手にペットボトルを持っていて、公園の水道で水を入れて飲んでいる。これも奇妙な行動です。一番変なのは道ゆく人々に、お金を降ろそうとする人々に何かを語りかけたり、やたら大きな声で独り言を言って大笑いしたり、自分に興味を持ってくれそうなそぶりを見せたら、積極的に話しかけたり。この辺も微妙に変です。

彼はまず私に「私の父は総理大臣なんだ」と言いました。当時社会党の村山さんが総理だったので、「村山さんが総理じゃないのですか?」と尋ねると、困った顔をして「そういう話もあるんだよね」と言いました。彼は自分の家に時々遊びに来るショパンやヘーゲルやキルケゴールやウルトラマンの話をしました。「ショパンがよく自分の家にピアノを弾きに来るんだ」と嬉しそうに語ってくれます。「僕のヘーゲルはね・・」と語り出した時には、マジでびびりました。「僕のヘーゲル」というフレーズがあまりにも斬新だったからです。「僕のカント」なら駄洒落でよく言っていた私ですが、「僕のヘーゲル」という発想自体が出てこなかったですし、ヘーゲルに「僕の」や「君の」が存在することを知らなかったのです。(ちなみに「カント/Kant」も「ヘーゲル」もドイツの哲学者の名前ですが、「カント/cunt」には英語で女性器という意味があります)

彼は、自分は小さい頃5カ国語しゃべれたと言ってました。幼い頃、5カ国語同時に聴くリスニングテープを聴きまくって、5カ国語出来るようになった。でも、英才教育を受けた結果、途中で馬鹿になっていまでは標準以下の頭しかないという話や、UFOで宇宙人にさらわれて火星で性的嫌がらせを受けたという話や、他には水は大事だという話や、ノドが乾くとか、オナニーが好きだとか、いろんな話をしました。

軽度の精神異常者である自分にとって彼の方が一般の人よりも話しやすく、話も合いました。彼が一般の人とどこがどう違うのか考えると初対面の私に対して、自分を良くみせたいという気持ちが、一般の人より強い。その警戒心や自尊心が「僕のお父さんは総理大臣だ」「ショパンがよく自分の家にピアノを弾きに来るんだ」「ウルトラマンも僕のお父さんの仕事仲間でよくうちに遊びに来るんだ」という話につながる。ある程度以上仲良くなると、彼は自分の父が工場機械の説明書の翻訳を専門にやってる翻訳家だと言ってくれましたし、ショパンやウルトラマンの話は少なくなり、普通の人が話す内容とほぼ同じような中身になって行きました。ただ話す内容が普通の人と近くなったところで、唐突に性的な話を始める。空想上の話が好きだ。極端にノドが渇くことが多く、飲み水に対する執着心が強い。等、私との共通点は多かったです。普通の人であれば周囲の目を気使って話題を選ぶはずが、そういうものと無関係に性的な話や空想上の話をし始めるのは精神障害者の特徴として分かりやすい物ですが、ノドが渇く水を欲しがるというのは、人にもよるのかもしれませんが、向精神剤に近いような毒性の強い精神安定剤を体内に入れてその薬が切れてくる時、体は汗や尿と一緒に早く毒物を体外に排出しようとします。その結果、体内の水分が足りなくなってノドが渇く・・あくまで想像ですが、精神安定剤と無関係でもノドが渇くときは渇くのですが、理由は分からないけどノドは渇くと。

彼の家に連れて行ってもらったのですが、御家族は彼の祖母を除くと彼を少し煙たがってるようにも見えました。彼の祖母に「小さい頃は5カ国語を話せる天才だったと聞いたのですが、本当ですか?」と聞くと、「そんなわけないでしょう」と笑われました。ですが彼の部屋には百科事典や辞書の類が多くあり、幼い頃英才教育を受けたというのはまんざら嘘でもなさそうでした。つまり、彼は幼い頃、何らかの両親の期待を背負い、その期待に応えられなかったという罪悪感みたいな物は感じているのだと思います。現にヘーゲルやキルケゴールやショパンといった難解な語が、日常会話に多用される。その使われ方は「ヘーゲルの朝が来て、僕に『おはよう』と言うのだけれど、パンはいつもキルケゴールなんだ」といった使われ方なのですが、当時難解な哲学書を理解できないのに読んでは語っている大学生だった私にとって、自分のリアルなパロディーに見えました。自分の周囲の世界は女の子との合コンやドライブに熱心な大学生ばかりで、当時の私にはそういう大学がリアルな世界に見えなかったし、逆に原書で哲学書を読んでる人達から自分の語るヘーゲルだのキルケゴールだのを見れば「僕のヘーゲル」で「ヘーゲルの朝」でしかないという感覚も痛切で痛かったです。

当時、80年代頭のニューアカブームを引きずったまま、94・5年を迎えていた自分にとって、大学生の遊びとは「カフェバー&喫茶店で浅田彰や批評空間について語ること」だったんですね。現実の多くの学生にとって遊びとは、車で海水浴かスキーに行くことを意味してました。女の子との飲み会でキルケゴールや柄谷の話をすれば、「難しい単語を使って自分を賢くみせようとしている」「中身が無い話をする奴ほど難しい言葉を使いたがる」というレッテルを貼られて終わりでしたし、かといって当時の私にはパチンコや麻雀や競馬や旅行の話をするのはすごくダサくて退屈な気分でした。そういう自分と周囲とのズレや対立が、自分以外の精神障害者を通じてより明確な形でみることが出来る。精神病院に治療の効果があるとすればそこが一番大きいと思います。スポーツでも自分のプレーが上手く行ってないのは自覚できても、どこが悪いのか?どうすれば良いのか?は、なかなか分からない。でも、自分のプレーをビデオに撮って客観的に観ることが出きれば、どこがどう悪いのかがより明確になって、治し方も分かりやすくなるわけです。

話変わって、ドラエもんはなぜ指が無いかという奴で。彼が割りと間抜けなヤクザだったとかいう話は信憑性が無いので無視して良いがこれから俺が語ることは全部事実だから分かって欲しい。

今から30年ほど前、俺は都内のボロアパートに住んでいた。世間は浅間山荘と過激派の内ゲバで揺れ、気温は毎日三十度を超える馬鹿みたいに暑い夏が続いていた。俺は美大に行ってると親に嘘をついて仕送りをもらい、学費は入学金だけ払って親を安心させ即休学し、後は自分の口座に学費を振り込ませた。振り込まれた学費はイラストレーターになるための資金、アクリルガッシュやキャンバス、トレースの用紙や画材を買うのに消えて行った。娯楽の世界で手っ取り早く金になるのは暴力とセックスだと思った俺は毎日洋ピンの金髪ねぇちゃんを書いては色んなところに持ち込んでいた。エアーブラシを使ったスーパーリアルな超絶技巧から、ほのぼの系の墨絵タッチの風刺絵まで、相手の好みに合わせて何でも描いたが、あんまり金には成らなかった。風呂なし共同トイレの3畳半のアパートで、毎日インスタントラーメンと塩漬けのキャベツばかり食べていた。

俺の描いた星条旗のビキニを着たパッキンねぇーちゃんを気に入ってくれたTVのディレクターが、これで番組を作りたいと言い出した。日曜の朝に流す子供向け番組だから、もう少しディフォルメは必要だが、ベティーちゃんみたいなセクシーキャラが子供番組に居ても面白いんじゃないかと言ってくれた。当時、澁澤龍彦やコリン=ウィルソンが流行っていたこともあって、魔法のキノコが出てくるファンタジー色の強い話を俺は書いた。子供たちが仲良く遊んでいると、幼稚園の先生はお遊びの時間はもう終わりだという。子供たちはもっと遊んでいたい。そこで金髪の星条旗ビキニのねぇーちゃんが現れて、ビキニの中に手を入れるとそこから魔法のキノコを出してみんなに食べさせる。キノコの魔法で幼稚園の遊び場は映画のセットのようにバタバタと倒れ周りに広がる大草原のお花畑はどこま出も続き、真っ青な空は低く手の届く位置まで降りてきて、流れ星は子供たちのお口の中に飛び込んで溶けて行く。遊び時間はいつまでも続く。そういう話だ。エアーブラシで気合を入れて描いた絵コンテを完成させてTV局に持っていくと、ビキニのねぇーちゃんが水着の内ポケットに手を入れてキノコを出すそのシーンが良くないという。水着の上からでも指の動きがはっきり分かるようにリアルに描いたのだがそれが良くなかったようだ。水着の中の指の動き、どこをグリグリして、どこに指を二本入れたとか、はっきりと分かる絵の書き方は子供番組にふさわしくないというわけだ。俺はエアブラシで陰影を付ける技術に自信を持ってたし、キノコのかさの裏のヒダヒダのイッポンイッポンまでリアルに描いたのだが、キノコの形が良くないとか、幼児がキノコをほおばる時、キノコを口に入れようとする女の子の口の開き方に問題があるとか、女の子のほほの膨らみ方でキノコのどこが当たっているのか分かるのは問題だとか、いろいろ言われた。キノコでなくもっと日本的な竹トンボかなにかで空を飛ぶような話にしてくれと言われ、金髪のねぇーちゃんが水着の中から竹を出すシーンを描いたのだが、竹の節が当たる度にビクッと反応するパッキンはまずいだろとか散々言われて、結局この企画は採用にならなかった。

その後、日曜日の朝の枠で流れた子供番組は俺の描いたイラストとはずいぶんかけ離れた物だった。エアコンや扇風機どころか蚊取り線香すら手に入らなかったあの夏。木造アパートの部屋の柱であぶらゼミが鳴き、公園の水道でTシャツの上から体を洗っていた下積み時代。今ではもう冷暖房完備のオフィスで中古車販売のHPを管理する毎日。イラストを描かなくなってから十年以上もたつ。

柄谷の日本近代文学の起源」で書かれてるのはロマン主義(=下積み時代・青春)を克服する(=卒業する)物語自体がロマン主義(=成長文学・ビルディングロマンス・RPG)的だってことで、はっきりとは言って無いけど、たぶん柄谷はロマン主義が嫌いなんだと思う。村上龍が中上の「灰色のコカコーラ」を好きなのも、俺がパーフリやブリッジやぷろぴのーるを好きなのもロマン主義的だからだと思う。だから何とは言えないけど。文芸ってのは多かれ少なかれロマン主義的であると思うし、柄谷の評価するロマン主義後の中上健次って文芸というより文化人類学的なんだよね。どっちが良いとかじゃなくって、まったく別物と言うか。

秋葉の漫画喫茶で「プロデューサーになりたい」という漫画を読んで思ったんだけど、成長小説の中にもロマン主義的じゃないもの、文芸よりも文化人類学寄りの物ってあるんだ。「プロデューサーになりたい」ってのはTVドラマのプロデューサーを目指す女の子の業界ネタなんだけど、この漫画が成立するのは、TVドラマのプロデューサーってのが

1 新しい産業であり、過去にこの産業について詳しく触れた本が少ない。
2 世間の注目度が高い。若い人達に人気の職業である。

この辺の条件を満たしてるってのが重要だと思う。特に1ね。プロレタリア文学なんかも結局、業界ネタで持ってると思うんだけど、女工哀史とか蟹航船つってもあの当時、若い労働者を大量に雇用してた産業でかつ、その新産業であるため年取った大人達はその産業の労働実態を知らないので、自分の子供にアドバイスも出来ない。当然若い学生はその産業に従事する前にその産業の労働実態を知りたいわけじゃん。女工哀史なんかは紡績業が廃れ出してから書かれたから違うんだろうけど、基本的にこの辺、小説=フィクションじゃなくって、業界ネタ=情報・データーなんだよね。だから、ロマン主義的なものは入れる必要も無いし、入ってもじゃまなんだけど。

近代文学史を大雑把に振り返るとさ、明治期に鎖国をといて、外国文化の輸入を大急ぎでやったわけだ。その時期の文学者は英国文学担当夏目漱石、ドイツが森鴎外、フランスが永井荷風、ロシアが二葉亭四迷。大正時代にある程度輸入が終わると、ロマン主義的な風俗小説とプロレタリア文学。戦中は従軍記者が戦場の報告をして、戦後は敵性文化の排除で戦中入ってこなかった外国文化を再び大急ぎで輸入。大江健三郎は小説家になる前フランス文学の翻訳者で、日本のサルトル。石原慎太郎は「太陽の季節」で日本版異邦人byカミュ。中上健次はラテンアメリカ文学。

学校の文学史で習ったのって小説=フィクションで、事実を書かねばらないとする自然主義文学は価値が低く、反自然主義文学が文学の主流だとなってたのですが、結果をみてみると、明治・戦中・戦後は外国文化のデーターが入ってるのが良い文学で、大正時代の風俗小説ってのもいまでいう、ヤングアダルト情報源的なさ、こういうところで、こういうデートをして、こういう風な恋愛をするのがカッコ良いですよという恋愛マニュアルじゃん。恋愛だけじゃなくって、不良になるにはこうすれば良いとか、家出をするにはこうだとか、そういうライフスタイルマガジン的な奴で、プロレタリア文学や成長小説が業界ネタだとすると、文学ってのはデーター・情報のことなんだと、言わざるを得ないと思うんですね。事実文学史をみるとそうだろうと。なんか学校で習った反自然主義文学的な文学史って嘘じゃねぇーのと、小説とはデーターを盛り込むための物だよと、感じたりもしつつ。

5/3 K-1ネタ最近書いてないんだけど、武蔵対ホースト戦が高視聴率(平均視聴率16.7%。瞬間視聴率20.7%。占拠率34.7%。以下視聴率データーはすべて4/18内外タイムスより)を稼いだらしくて、レバンナ対マイク・ベルナルド戦(12.7%)や野球の巨人戦よりも高い視聴率。K-1史上最高視聴率も武蔵対天田戦(22.6%)で、武蔵選手の人気が実証されたてな記事がある。見世物としてはどう考えてもレバンナ対マイク・ベルナルド戦の方が上だろと思いつつも、まあ、日本の視聴率だけ見ればそういう結果なのかなと。

ホースト-武蔵戦振り返ると、まずホースト選手は武蔵選手のことを「k-1の世界トップランカーが何人か居て、武蔵はそれより1ランク下の選手だ」と発言してます。そしてこの発言は試合後も変わらず、「武蔵はBランクの選手だ」と言ってました。ホースト選手は1Rいきなり武蔵選手の腹を殴りに行ったわけです。と、いうことは頭振ってよけるのが上手い選手だというデーターは頭にあったと思います。つまり、ホースト選手はBランクの選手相手にデーターをとって対策を立ててたと言えます。ところが、ホースト選手のボディーパンチは試合開始後の早いラウンドで止めてしまいます。つまり、武蔵選手への対策が失敗だったと言えます。ボディーパンチを止めた理由はいまいち分かりませんが、体重を乗せたボディーパンチを打ちに行くとホースト選手の頭が武蔵選手のひざの良いマトになってしまうってことだと思います。

1・2ラウンドは互角かややホースト選手寄りに進んで行くのですが、3・4ラウンド武蔵選手有利に流れが変わります。武蔵選手のローキックがホースト選手を捕らえ、何度かホースト選手が倒れそうになります。1・2ラウンドはパンチの距離で戦いたいホースト選手対キックの距離で戦いたい武蔵選手の戦いで、ホースト選手の望む距離でパンチ&ヒザボディーの戦いだったのが、3・4ラウンドではキックの距離で武蔵選手が先にローを出し、ホースト選手がローを返すと、そのローに反応して武蔵選手がさらにローを返す。ローを出して片足立ちになってるホースト選手の内ヒザにローが入るためヒザカックン状態で何度かホースト選手がぐらつきます。テクニックのある選手はよくインローや後ろ足を蹴ります。足を前後に開いて立つとき、前足はよく蹴られるので蹴られなれてて耐えられるのが、後ろ足はめったに蹴られないため蹴られなれていない。その慣れてない後ろを蹴るわけです。これはホースト選手がボクサー相手に使う決め技なのですが今回は武蔵選手がホースト選手相手に使ってました。また、インローってのは普段蹴られなれてない内股(右足の左側や左足の右側など)を蹴るローキックのことで、ローを蹴ってる最中のホースト選手にローを返すと、必然的にインローになってしまう。このインローがホースト選手を苦しめるわけです。

「お前が先にローを出せ。相手に先に打たせてどうする」とセコンドがホースト選手に指示を出してた(by実況席)らしいのですが、ホースト選手がローを出すとそれに合わせてカウンターでインローが入る。そのたびに上体がぐらつくホースト選手としては、先にローなんて出したくない。もっと言えば、パンチの距離で戦いたい。けれど、3・4ラウンドに関していうと、パンチの距離に入ろうとするとローキックが来て中々パンチの試合にならない。パンチの距離になったところで、パンチに関しては一撃必殺を持ってない武蔵選手が、パンチに対してガードを固めながらヒザボディーを打ってくる分けです。体重を乗せたホースト選手の一撃必殺パンチ、あのレバンナ選手を倒した体重乗せパンチを打とうとすると、ホースト選手の腰の高さぐらいに頭を低く構えてひたすらローキック。腰の高さに体重乗せパンチ打つとこけるからそれも打てない。ホースト選手の動きは完全に封じられて、武蔵選手の作戦通りに進んで行きます。

で、延長なしの最終5ラウンド目。お互い疲れてるのは分かるのですが、ガードが思いっきりダルそうに下がった武蔵選手とこのラウンドでポイント取って勝ったると目を輝かせて跳び込んだホースト選手、あ、ヤバイ、このラウンドで武蔵選手ダウンやなと思ったら、パンチでボコボコにされながらも亀になってなんとか立ってる武蔵選手。疲れてくると両腕のガードが下がる悪癖から、サンドバック状態になって、ギリギリ立ててる武蔵選手。両手両足を縮ませて丸く亀になった武蔵選手ですが、むかしより成長してるのはサンドバックだけど倒れないサンドバックなんですね。ホースト選手も相手が戦意喪失してるの分かってるんだから、ハイキック一発で倒せば良いんですよ。パンチで倒そうなんて時間かかることやってると判定までもつれ込むから、さっさとハイ出せよと思ったんです私わ。でもハイを出さない。代わりにローキックを出すと、ローが返って来る。ローで武蔵選手の戦意を確認すると、ハイを出せないんですね。ハイ一発で武蔵選手を倒す確率とハイを打ってる最中にインロー返されてそのインローで倒される確率を計算すると、ホースト選手の中ではパンチを選んでしまったようで、見てる側からするとBランクの選手相手に判定はカッコ悪いから、ハイ一発で倒そうぜ!なんですが、色んな計算した結果パンチになっちゃうんですね。武蔵選手も倒れそうになりながらもクリンチを繰り返したりして何とか最終ラウンドしのぎました。クリンチのし過ぎで教育的指導をもらったりもしつつ、判定に行きます。

判定で、引き分けが1、ホースト選手が2で、ホースト選手の勝ち。これをどう解釈するかですね。ホースト選手はこの試合後も、武蔵はBランク発言を取り消しませんでした。ホースト選手は昨年のK-1で優勝しましたが、その勝利は全部判定で1回戦目で2R、2回戦目に1Rの延長をしてます。つまり僅差の判定で勝つのはいつものホースト選手の手なので今回もその手の中にあったと、ホースト選手の思惑通りに進んだとも言えます。逆に前・前々回優勝者のホースト選手に僅差で破れたということは、武蔵選手も優勝を狙える位置に居るんだとも言えます。武蔵選手は自分の勝ちを主張してますし、引き分けはあっても判定負けはないだろとも言ってます。正道会館の石井館長も「引き分けが正当だと思うよ」と武蔵選手をかばってます。佐竹選手みたいに判定でもめて去られるのを気にしたのでしょうきっと。ちなみにボクシングの場合、チャンピオンがコロコロ変わると興行に差し支えるので、お互いにダウンなしで判定にもつれ込むと、客席が挑戦者側の内容をいくら支持しようとチャンピオンの防衛成功になるパターンが多いんですね。そういう意味では、ホースト選手の勝ちというのは正しいのではないかと。

私が思ったのは、武蔵選手側の作戦が成功したにも関わらずホースト選手を倒すことが出来なかった。作戦が成功して引き分けというのはある意味ちょっと痛いかなと。確かに武蔵選手は成長してる。パンチに対するガードも出来るようになったし、打たれたら反射的に打ち返す習慣も身に付けた。目が良くってかわすのが上手いのは相変わらずだし、対マイク・ベルナルド戦に向けて練習したのであろうボディーへのヒザ攻撃(テンカオ?前蹴り?)はかなり今回の戦いで有効だった。パンチをもらって熱くなっても、パンチオンリーの戦いにならず、膝蹴り中心に組みたてられたし、連続技も多少出来るようになってる。でも、最終ラウンドだと思った瞬間、安心するのか3分立ってりゃ判定勝ちだと思うのか、これで終わりと思った瞬間に自分に甘くなるのは昔っから変わってなくって、アンディーフグ選手に「生まれついてのガッツが無い」と言われた言葉、石井館長に「試合での集中力が無い」と言われた言葉は今でも当てはまると思う。5Rに「目は死んでない」と解説者の人は言ってたけどガードの下り方で疲れが読めちゃうし、判定を受けるときの表情見てたらまだ2Rぐらい戦えそうな顔してたじゃん。だったら5R目もうちょっとガード上げようや。最終ラウンドでなぜああなるのかが精神の弱さなのか集中力なのかよく分からんけど、そこさえ治ればAランクで、そこが治らなきゃ日本一でもBランクの選手だと思う。

次のトーナメント(6月?)で、ホースト選手・武蔵選手・ミルコ選手が出るらしいんだ。優勝者しかグランプリに出れないってことは、武蔵選手はミルコ選手にもホースト選手にも勝たなきゃトーナメントに出れない。ホースト選手はどうせ1試合3Rで延長2Rまでの試合を、最初っから5Rのつもりでやって相手の集中力切れるのを待つみたいな戦い方でしょうきっと。ミルコ選手なんですが、武蔵選手サイドにデータがあるかどうかなんですね。ミルコ選手は自分のことをピーター・アーツ選手のようにバランスの取れた選手だと思っているらしいけど、俺は全然違うと思う。筋肉の付き方からしてミルコ選手ってアマレスの選手っぽいんですね。打撃の筋肉の付き方と違うでしょうあれわ。本職警察官のミルコ選手ですが警察では関節を極める練習をするんですよ。一人の犯罪者に2・3人がかりで飛び込んで行って、ナイフや銃を持ってる犯人の片腕を一人の警官が確実に極める。打撃系格闘技って武器所有者相手には向かないですから。

ミルコ選手の勝ちパターンは離れた位置から相手の顔面に視界をふさぐ意味でのパンチを入れながら、ヒザボディー&パンチを入れて相手の横を通りすぎて相手の背後に回る。相手が振り向くと同時に視界をふさぐパンチとヒザボディー&パンチを入れてまた後ろへ。これの連続なんですね。パンチもヒザもかなり体重乗ってます。決め技はハイキックですがそこへ行くまでの段階がかなり独特なんですね。

前回のホースト選手やピーターアーツ選手のミルコ選手封じは、ミルコ選手の癖を利用したもので、ある一定の条件が整うとミルコ選手はクリンチに行く癖があるんですね。アーツ選手とホースト選手はそれを利用してミルコ選手にクリンチさせて、そこから首相撲で倒しに行ってました。ミルコ選手の言動見てると「相手がクリンチしてきてる。俺はクリンチしていない」という、自分の癖に無自覚なもので、その癖はまだ使えると思うのですが、どうすればクリンチしてしまうのか今の私には分かりません。

私に分かるミルコ選手の癖は、背後からは絶対に攻撃をしないという奴です。武蔵選手が2年前ミルコ選手にボコボコにされてコーナーの鉄柱と向き合ったままミルコ選手に背中向けていたとき、ミルコ選手はかなり長い間じっとして武蔵選手が自分の方を向くのを待ってました。K-1ルール上背骨や後頭部への攻撃は禁止ですので背後から攻撃しにくいのは分かるのですが、武蔵選手が振り向くまで待つ必要はどこにも無くって、ミルコ選手の方から回り込んでも良い訳ですよね。でも、ミルコ選手はそれをしない。

ミルコ選手の構えって足を大きく横に開いてるじゃないですか。それってアマレスだと思うんですよ。クリンチしてしまうのも、アマレスのタックルをしてしまうのと同じ原理で、相手の背後を取りたがるのもアマレスの選手がバック取ったら何点ってのと同じだと思うんですね。ミルコ選手の動きのいくつかはアマレスから来てると思うので、その辺を調べてみると面白いかもしれません。ミルコ選手の勝ちパターンに乗らないでおこうとしたら、振り返る時は必ずバックハンドブローか後回し蹴りで振り返る癖をつけた方が良いと思います。なんにもなしで振り返ってグローブで視界ふさがれたら、いくら目の良い武蔵選手でも目の良さ生きひんし、回転系の技を入れずに振り返って、かつミルコ選手にクリンチさせるテクも無いとなると武蔵選手は負けるのじゃないかと。逆に癖読まれて攻撃され出すと防御や忍耐力自体はない選手なので、勝っても負けてもワンサイドゲーム。ミルコ選手に関しては癖をどれだけ調べられるかに掛かってるような、そういう選手じゃないかなぁと。

レバンナ対マイクべルナルド戦の隠れたキーワードは金かなと。

5/2 藤田朋子さんはロリキャラなのか?とメールを頂いたので、今回藤田朋子ネタで。昔、小堺一機司会で「夏の特番!納涼2時間スペシャル!」みたいなのがあったんですよ。お化け屋敷のようなセットを組んで、小堺一機さんが20代後半〜30前半にかけてのOL層(F1層)を客席に入れて怪談話をするという企画でゲストが藤田朋子とAさん(名前忘れた)かなんかだったんですよ。

で。ゲスト紹介が終わって、藤田さんとAさんが「あたし達なんで呼ばれてるのか分からなぁーーい!」とか幼児口調で言ってるわけです。呼ばれてる理由は誰が見ても確実でしょう。「キャーーー!」とか言って怖がる役を期待して呼んでるわけです。で、実際にあった怖い話を再現VTRでお届けします。と言ってVTRに行きました。

VTRの内容が「東京で一人暮しのOL(主人公)が毎日家に帰ったら疲れて寝るだけ。家事なんて出来るわけがない。でも、彼には料理が得意で毎日作ってると言ってアピール。あるときスーパーで賞味期限ギリギリの鶏肉を半額で買ってきた。その日は疲れて鶏肉を冷蔵庫の中に入れたまま寝てしまったのだが(中略)で、私の部屋に来た彼が冷蔵庫を開けると中には一週間前の鶏肉が。ギャー!」

でVから会場に画面が戻る。怪談話をする企画だと聞いていた小堺一機・藤田朋子・A、3人とも素で画面に映ってる。会場はシーーンと静まりかえってる。こういうVならこういうVでやり方はあったと思うんですよ。「どーなってるの?」のノリで、「こういう笑える失敗談ってありますよね。」「こわいこわい、皆さんも気をつけてくださいね。」「そうそう私もこれと良く似た失敗で・・」こうゆうトークは小堺一機の得意なジャンルだと思うのですが、いかんせん怪談話用のセット組んで、納涼企画だと始めに言っちゃって、番組頭でみずから怪談話を語ってしまってる以上、いまさらVに合わせて軌道修正も出来ないわけです。

「これどこが怖いの?」とゲストに言われ、鶏肉は腐るのが早いから1週間も置いとくと臭いとか凄くて大変なことになるんですよ。と解説しようとしたがすぐに、「こんなの全然怖くないじゃんねぇー」と小堺もVを非難。2時間番組の30分ぶんをこのコーナーが占めてて、残りのVがあと2本ある。残り20分この空気の中で番組進行しなきゃいけない。会場にお客さんの入った生本番で、編集は利かないし、客は素人だからつまらないVに歓声をあげてはくれない。

このとき、小堺一機が突然取った行動がスタッフ紹介だったわけです。「彼がこの番組のチーフディレクターの**さんで、とても良い人なんですよ。いつもお世話になってます。」「彼がこのVTRの編集に関わった**くんで、非常に優秀な人材で今後も色々とお世話になっていくと思います。」スタッフ紹介を始めることで現場はさらに混乱。カメラはスタッフを写すし、ADの走りまわる背中は画面下に小さく映るし。ドタバタした現場のまま、さらにVへ。

「ごみの分別回収にうるさいおばちゃんが近所にいて他人のうちのゴミ袋まで開けて中を見る。
私達は密かにそのおばちゃんをゴミババアと呼んでいる。私は専業主婦と違って独身一人暮しのOL、細かい分別なんて出来ない。あるときゴミババアを避けて、自分の家から少し離れたゴミ捨て場まで行くとそこに立っていたのが、そのゴミババア。ギャーー。」

Vから会場に画面が切り替わったとき、こともあろうか藤田朋子は「キャーーーーーー」と叫びながら、両手で耳をふさいでステージの端まで走って行って、席に戻るなり、両手で自分の肩を抱いてブルブル震えながら「私こうゆうのに弱いんです。もう、怖くて怖くて。昔っからすごい怖がりで。今日も怪談特集だと聞いて、絶対ヤダ、行きたくないってダダこねたんですけど、マネージャーに『ちょっとで良いから、絶対怖くない』って言われて、無理やりつれてこられて、・・」と話す話す。怖いったって、怪談の怖さなのか、生活体験に基づいたゴミババアの怖さなのかさっぱり判らないし、第1あんた、さっきVの後、素だったじゃん?今のVもさっきのVと何ら変わってないんですけど。Aさんは、藤田朋子を見て爆笑。その後、私にもこれをヤレって言うの?と少し不安な顔をするが、それはそれ。会場は、藤田朋子を見て爆笑するのが半分。「怖いよねぇ」という反応が半分。小堺かずきはノリノリで、とにかく必死にトークを盛り上げる。ゲストに無理なお願いをしてるのが分かってるだけに、あのVの何がどう怖いのか?なんて絶対に聞かない。

最後の3本目のVを観てもやっぱり同じような内容なのですが藤田朋子は相変わらずカワイク怖がり、Aさんは爆笑しつつ、小堺一機は必死でフォロー、会場の客は完全に藤田・小堺ペースで怪談話にうなずいている。そんな番組を数年前に観たのですが、あそこでやった藤田朋子の行動は明らかにブリッコです。若い頃はそういうのを批判したりもしますし、出来るのですが、あそこでそれを断れば、藤田朋子が「キャーキャー」言ってハシャがなければ、ディレクターもプロデューサーも地方へ飛ばされます。Vの編集に関わった若いADの将来もありません。そういう周りの人達への気配りというのが大人の行動じゃないかと私は思うわけです。スマイル0円のマックで働くには、嫌な客にもスマイルが必要だし、職場の人間関係でも敬語だのスマイルだのが必要になる。そういう大人の判断・大人の行動があの子供地味た良い歳してキャピキャピの藤田朋子にはあると思うのです。

昔、月刊角川の酒井のり子のエッセーで「怪談番組によくゲストで呼ばれる。正直言って、この年齢(30代)でお化けのVTRを観て怖がるのはツライ。SPEEDとかもっと若い子達が居るのだから、十代の若い子達を呼んでくれとディレクターに言ったら『いやぁ、若い子達は本当に怖いVじゃないと怖がってくれないからねぇ』と言われた。」ってのが載ってて、大人だからこそ子供の役が出来るんだよとちょっと思った。

P.S.VTRに関していうと、報道・ドキュメンタリーという建前なしにテレビでショッキングな映像を流すことが出来ないという現実がある訳です。血とか死体とかを再現VTRで流すとクレームがいっぱい来るわけでテレビの怪談特番で稲川淳二のアップが多用されるのはあれより怖い映像を流すとクレームが来る。怪談を話している人の顔とお墓・お寺ぐらいしか映せない。再現VTRを怪談特集で作るという発想自体が間違っていたと言わざるを得ません。

4/28 宗教というのは宗教じゃなかったのじゃないかという話で。世界三大宗教、キリスト教・仏教・イスラム教のうち、一番古いのが仏教ですね。インド発祥なのですが、柄谷の本によると、インドの仏典の中にアリストテレスが出てくるってんだよね。柄谷は哲学に西洋も東洋も存在してなくって、元々東洋哲学と西洋哲学の間に交流があってこっからここまでが西洋哲学でなんて線引き出来ない物だってな文脈で語ってるんだけど。仏典の中にアリストテレスが出てくるってことは、仏教は宗教じゃなくって哲学なのじゃないかと思えるわけだ。インドで発祥しながらインドで仏教が廃れた原因が、大学で仏教を教えるようなシステムが出来て、仏教が一部知識人向けの難解な物になり過ぎたためらしいんだな。一部知識人向けの難解な物なんて宗教というより哲学のイメージに近いし、曼荼羅みても分かるように仏教って多神教なんだけど、その神様や聖人の中のいくつかはアリストテレスであるような、哲学者や思想家なわけじゃん。

キリスト教も、元々ユダヤ教から派生したんだろうけど、ローカルな話になるけど、STCの帯瀬さんが、キリストって、宗教を作ろうとしたんだろうか?どちらかというと宗教批判・宗教改革だったのじゃないの?ってなこと掲示板だかどこかで書かれてて、なるほどなぁと。ユダヤ人のみが救われるという一民族のローカルな宗教に対して、ユダヤ人以外の人も救われるという、「世界宗教by柄谷」を打ち立てたわけじゃんさ。つまり自分はユダヤ人でありユダヤ人文化の中で育ちながら、ユダヤ以外の文化や民族にも目を向けて、そういう人達への配慮もしたのがキリスト教なわけじゃん。イスラム教も、耳学問で申し訳ないんだけど、樋口さんのHPとか見てると、ヨーロッパとアジアを結ぶ地中海貿易の重要都市で生まれた宗教で、ヨーロッパの人達の文化=宗教もコショウを高い値段で買ってくれるお客さんの文化だから否定しちゃまずいし、アジアのインドとか中東の文化=宗教も良いお客さんであり商売相手であるから否定しちゃまずい。でも、まあ、お互いの宗教や文化が違うと色んなトラブルが起きたりもするわけで、どうすれば文化の違いから来るトラブルが減るかという問題意識から生まれた解決策がイスラム教だったってなものらしいんだ。実際、イスラム教が崇めてる何人かの聖人のうちにイエス=キリストも入ってるわけでさ。

した時に、三大宗教というのはどの宗教も、どこか一箇所にある特定の民族や地域に密着した文化・習俗というよりもは、自分達の文化も大事だけれども、他文化の中で生活してる人達の生き方や人格も尊重しましょうってな物なわけだ。でもヘーゲルの弁証法が時としてすごくファシズム的に働くように、こっちにある我々の文化も大事で、向こう側にあるあの人達の文化も大事で、で、その両方を尊重するこの第三の文化を、我々とあの人達に強制すべきだ。ってなことに時としてなるんだな。

4/24 辻仁成ネタでまだ引っ張れるんですが、ちょっと違う方向で。メルマガのページを見てもらうと分かるのですが、英語やラテン語やギリシャ語で文体演練法書けとアドバイス受けたり、別の方から「フランス語がほとんど出来ないのは致命傷だ」ってなメールもらったりして、ちょっと待ってくれと。文体演練って、口語と文語、幼児語と十代の不良っぽい口語、官僚の使う意味の分からないまどろっこしい物の言い方(Ex:前向きに検討しないでもない)を同じ内容に対して当てはめてみてどうなるかって奴で、それをラテン語だの英語だのフランス語だのって、英語もろくに出来ない奴に、「トムソーヤの冒険」のマーク=トゥエーンの田舎臭い口語文体と「ライ麦畑で捕まえて」のサリンジャーの都会的な口語文体を書き分けろってのは、無茶という奴でしょう。第一それが出来たとして、俺より上手く手軽にそれをやってる人が英語圏にはいっぱい居るでしょ。なんで俺がちゅう話ですわ。

片方でそういうインテリっぽいのを期待されながら、もう片方でニューエイジ系の人からもメールもらったりするんですね。ニューエイジつってもイメージ湧かないかもしれんけど、「太陽のように微笑みなさい。笑顔は人を幸せにします」とかいう格言(326?みつを?)みたいなのを大量に書いてる人から、メールもらったりして。俺、哲学をちょこっとかじってるつもりやねんけど、ニューエイジ系の人からは仲間やと思われるみたいやねんな(爆)。同時に哲学系の人からは「外国語を出来ない奴は学者じゃない」と、つま弾きにされたりするわけだ。この辺ちょっと整理しますね。

「太陽のように微笑みなさい。笑顔は人を幸せにします」ってなフレーズを聞いて、ああこれは哲学なんだと思う人も居ると思うんです。そのぐらい世間の人にとって、哲学って意味が分からない物なんですね(「〜〜ですね」という文体自体が既にニューエイジなのですが)。実際、大学の哲学の講義で上のフレーズに似た言葉が出来てきたりもすると思うんです。一般教養の授業で哲学の先生が「太陽のように微笑みなさい。笑顔は人を幸せにします」と言いました。それに対して、ある生徒が「それは、あんたの意見だろ!俺はそう思わないぜ」と言い出したらどうでしょ。「自分が悲しいとき一緒に悲しんでくれて、自分が嬉しいとき一緒に喜んでくれる。それが友人って奴だろ。常に営業用スマイルの奴なんて気味悪くてヤダね」と言い出す生徒が居たら、先生はどう対処するのか。哲学の授業でやってる以上は、どこかの偉い哲学者のセリフなんですよ。だから、「これは私の意見ではなく、Aという高名な学者さんの意見です。その意見に賛成か反対かではなく、Aがこう言ったという事実が試験の中で問われます。ですからこれを暗記しなさい。」そういう言い方はありでしょ。先生は生徒に対し、Aという権威を持ってきます。ではAはなぜ権威を持っているのか。Aもですね、これは私の意見だとは絶対に言わなかったんですよ。

日本の(哲)学者の主な仕事は欧米の進んだ思想を翻訳し輸入することです。では、欧米の哲学者はどうしてるのか。フランスのサルトルの場合、第二次大戦でパリがドイツに占領され、フランス人にとってフランスよりドイツの方が進んだ国だという意識が大戦直後は非常に強くあった。その時期にサルトルはドイツのハイデガーの「存在と時間」を翻案し、「存在と無」を出してるわけです。大江健三郎がサルトルの紹介者として、サルトルの権威の下にまるでサルトルのように振舞える。それと同じことが、サルトルの場合にも起きてるわけです。学者でも思想家でもない一介のジャーナリストであるサルトルが、ハイデガーの翻案者としてハイデガーのように振舞うことが出来る。サルトルの言葉がハイデガーの言葉として理解される訳です。ではハイデガーはどうして権威を持ったのか。ハイデガーはドイツ語の語源をたどることで、古代ギリシャ人の思想に触れようとします。古代ギリシャ人が存在や自然をどのように考えていたのか。そのようなハイデガーに対し、「あんたはそう思うかもしれないけど、俺はそう思わないぜ」と反論するなら、ハイデガーよりも古代ギリシャについて詳しくならなければならないし、ドイツ語の語源や古代ギリシャ語について詳しくならなけばならない。

レヴィ=ストロースという文化人類学者は思想界に大きな影響力を持ってる人なのですが、その人も南米の部族社会に入ってって、そこで昔から伝わる神話を集めたり、未開といわれるような土地における婚姻制度を研究したりした人なのですが、そういう文化人類学系の人の研究成果がテレビ・新聞レベルで紹介されるときは、資本主義・近代社会・先進国批判とセットになって、「こういう自然に近い暮らし、例えば私有財産という概念を持たず、全ての土地を公共物・神の所有物と考える彼等のような暮らしから我々が学ぶべきことは多いのではないかと思われる」ってなニュアンスで、ビルの住人の共有スペースとしてスポーツジムやサウナやプールがある欧米のマンションを紹介して、日本ではまだ少ないこのようなビル経営のあり方も、先進国の人達が途上国から文化人類学経由で学んだことだよ的な説明が入るわけじゃん。文化人類学者に「俺はそう思わないね」と反論したとしても、「これは私の意見ではなく、現にこのようなやり方で社会を機能させてる人達も居るのは事実です。その文化をあなたに押し付けようとはしていません。我々とは異なる文化を紹介しただけです。」と言われると、反論できないんですね。ィ~ナ{

哲学って文化人類学なんじゃないかと思い出してきてね。ある文化の中に居た人が、その文化から離れて別種の文化を学んでその文化の中に紹介する。内容的にいくら良いものであっても、私の意見でしかないのであればニューエイジに成ってしまうんよ。学問的にきちんとやる気があるなら、ハイデガーのように古語の研究をするか、文化人類学者のように外国へ行ってその国の風習や言い伝えや常識を学ぶかしろと。私としてはニューエイジは嫌いだけど、学者になりたいとは少しも思ってなくって、思想や哲学の消費者に成れればそれで十分なのですが、語学が出来ない奴はニューエイジだぜと、変なプレッシャーをかけられてるのが現状であったりしてですね。

4/22 テープ起こしてみて思ったのは、辻仁成の曲は佐野元春や浜田省吾の影響を受けてるということだ。元春も浜省もデビューしてすぐの頃は「反抗する若者達」というくくりだった。当然、このようなテーマは長続きしない。ドント・トラスト・オーバー・ザ・サーティーと叫んだ奴が30になるのは時間の問題なのだ。ただ、この二人が日本で普段着ロックを定着させた最初の人達なのだ。キャロル・クールス・銀蝿がリーゼント・革ジャンのロックンロールだとすれば、チャックベリーのスイートリトルシックスティーンをコピーしない、リーゼントでも革ジャンでもない。そういう日本のロックはこの二人から始まって、辻もこの二人の影響を多大に受けてる。ちなみに尾崎豊がデビューしたときのキャッチコピーは「第2の佐野元春」だった。浜省のライブにはアコースティックコーナーというのがあって、バックバンドの力を借りずに一人でアコースティックギター一本で歌う。尾崎豊がスランプに陥ると、レコード会社の人は浜省のコンサートを観に行くよう勧めたらしい。レコード会社からすると、アコギ一本のライブは低コストで出来るため非常に採算性の良いミュージシャンだということになる。当時の俺にとって、ロック=チャックベリーで、アコースティックギター一本で歌う浜省はフォーク歌手で、レコード会社の考え方はロックバンドよりフォークの方が安く興行できるという採算性重視の音楽観に思えた。実際には4人で演奏してるにも関わらず、歌を前に押し出したエコーズも当時の私にはフォークに思えた。例えば、横浜銀蝿やビルヘイリーとヒズコメッツよりもは、チューリップや海援隊に近いバンドだと思えたわけだ。

で。改めて今回テープを起こして歌詞のみをみると、B'zっぽい詞とかあって、ロックの様式美・形式を備えてかつまあ音は歌重視なんだけど、バックの演奏あまり聴えないのですが、詞だけみるとロックかなと思えたわけだ。     

お説教系ミュージシャン  反抗系ミュージシャン  応援歌系ミュージシャン
長渕剛 尾崎豊・エコーズ・ストリートビーツ・佐野元春・浜田省吾 ZARD・それが大事マンブラザーズ・岡村孝子・KAN

というカテゴリーに分けたとき、マイレボリューションの渡辺美里は反抗系と応援歌系の中間に入る。ストリートビーツは反抗の中でもお説教寄りだろう、尾崎と元春は反抗の中でも応援歌寄り、などと分けってった時にエコーズは反抗系ミュージシャンの中でもお説教寄りになる。

反抗系お説教寄り 反抗系応援歌寄り
浜田省吾・エコーズ・ストリートビーツ 佐野元春・尾崎豊・渡辺美里

まず、佐野元春や浜田省吾が「反抗する若者達」というくくりでくくられてたことを知らない人のために書くと、佐野元春は「ガラスのジェネレーション」という歌の中で「つまらない大人にはなりたくない」と歌っていた。また、浜田省吾は「路地裏の少年」という歌の中で「あれはおれ、16」と少年の立場から歌を歌っている。エコーズの「Good-by Blue Sky」より

「さよなら、ダンサーを夢みたハタチのブルー/抱き寄せられ君はつばを吐き飛び出した/素直に受け入れていれば君はプリマドンナ/グッバイブルー君は利口じゃない」

上記のグッバイブルースカイという曲でハタチの「怒れる若者」が何に反抗してるのか、何を言おうとしているのか。それは非常に分かりやすい。その反抗系の逆を行く岡村孝子の「夢をあきらめないで」の場合、

「乾いた空に続く坂道/後姿が小さくなる/優しい言葉 探せないまま/冷えたその手を 振り続けた」

と誰も何にも反抗していない。ただ、反抗系の曲と共通点があって、「乾いた空に続く坂道」って、上り坂なんですよ。下り坂は空に続かないでしょう。坂を登る=困難に立ち向かう。この辺のテーマは反抗系の曲とほぼ同じですね。で。曲の出だしはそうだとして、サビに行くとですね。

「今度は少し長いお別れになるかもしれない/どこかの街でみかけたら声をかけて欲しい/深くかぶったハンチングの下/白い歯を光らせたら合図さ/そのときはもう一度手を組んで派手にやろう」

反抗系のグッバイブルースカイですが、KANの「最後に愛は勝つ」のような無責任なポジティブさはないですね。「今度は少し長いお別れになるかもしれない」なんてのはどちらかというと、暗い見通しですよ。現実は厳しいぞとサビで説教するのが、反抗系お説教寄りミュージシャンの特徴です。さらに「深くかぶったハンチングの下」というのは、帽子の下に素顔を隠さなきゃいけないということで、長いお別れの後、どこかの街で出会ったとしても、やっぱり社会や世間は自分達の敵なんですね。世間に対しては素顔を見せない。仲間に対してだけ白い歯を光らせる。それに対して応援歌系ミュージシャンのサビは、

「あなたの夢をあきらめないで/熱く生きる瞳が好きだわ」

と、まさに応援の真っ最中です。いま一応、反抗系お説教寄りミュージシャンと応援歌系ミュージシャンの歌詞をみてきたのですが、売れる売れないで言うと、応援歌と反抗の中間辺りが一番売れるんです。上の図で言えば、尾崎豊・渡辺美里・岡村孝子。この辺は売れましたね。いや、長渕や浜省の方が売れてるぜって人も居るでしょうが、長渕は今回置いといて、浜省に関していうと、一般にラブソングで売れたでしょう。浜省の反抗系の曲を知ってるのは浜省ファンだけで、一般の認知度でいえば、浜省はラブソングの人だと思います。反抗系応援歌寄りの歌詞として、尾崎の「ハイスクールRock’n’Roll」をみると、

「Oh!朝は目覚めても昨日の疲れ引きずったまま/様にならない制服着て表へ出るよ」

と出だしは反抗系お説教寄りミュージシャンと同じく、世間に反抗的な態度をとってます。ところが、反抗系応援歌寄りミュージシャンはその不満をサビの部分でポジティブに解決してしまうのです。

「Rock'n'Roll 踊ろうよ/Rock'n'Roll くさらずに/Rock'n'Roll 手を伸ばせば自由はあと少しさ」

ね。ポジティブでしょう?ツライ状況を描いて、落ち込むだけ落ち込んで一番ブラックなとこまで落ちたらサビで一気にポジティブに向かってエネルギーを解放する。その落差にカタストロフィーを感じさせるわけです。渡辺美里のマイレボリューションもこのパターンで、曲の出だしが反抗系のちょっと暗い情景描写を描いて、サビで一気にプラスへ転じる。反抗系と応援歌の良いとこ取りです。ポジティブだけじゃなぜダメなのか?応援歌だけで良いじゃないかという考え方もあると思うのですが、応援歌が必要な人、応援歌系の曲のニーズがある人というのは、壁にぶつかってくじけてる人が多かったりします。そういうちょっと落ち込んでる人に、ミー&マイとかスキャットマンジョンの無茶苦茶明るくて元気な曲を聴かせたら、歌詞で言えば、MC.ATの曲で「Oh!HAPPY メチャ ラッキー ノリノリ」とかあったのですが、疲れるでしょそういうの。落ち込んでる人には、その人の精神状態と同じような波長の曲をかけて、曲と精神状態が同調してきたら曲を明るくして行く。当然そういうもんだと思うんですよ。一連の応援歌のビジネスモデルになった「夢をあきらめないで」の場合、「いつかは 皆 旅立つ/それぞれの道を歩いていく」という一見ポジティブに見える伏線があっての「心配なんて ずっと しないで/似てる誰かを愛せるから」と「遠くにいて信じている」辺りがスパイスとして効いてるわけですね。

で。やっと本題なのですが、エコーズの歌詞が佐野元春や浜田省吾を元ネタにしながら、活動自体はエコーズの方が先であったにも関わらず同時期に売り出した尾崎豊だけが売れてしまったという辺りの話で。

「ギターをかついで/バイクを転がし/真夜中のスタジオに飛び込んだ/始めようぜすぐに/とびきり速い奴を/あのころの二人は無敵だった/ここなら誰にも遠慮なんかいらない/ボリュームを上げてキープ オン ロック/分かるだろうあの頃の気持ちが/熱く燃えたトラック オン ストリーム/はたちを過ぎた夏/仕送りが止められた/貯金も恋人も底をついた/不安と現実が俺達をせめたてる/自信だけで・・」

上のエコーズの歌詞をみて分かるのはパターン通りなんですよ。青春を表現するアイテムが、バイクとギターとロック。青春の終わりを表現するのが、ハタチを過ぎた夏(ちなみにアメリカでは学校の年度は夏休みの終わりから始まり、夏休みで終わる)。仕送りが止められた結果が金と人が離れて行く。ロックというのは、このような物を歌うのものだという形式しかそこにはない。余分な情景描写や余分な固有名詞や余分な思い入れを省いたシンプルなあらすじ。これが辻仁成の歌詞だとすると、辻仁成が作詞する上で手本にしたと思われる浜田省吾の歌詞をみると、「路地裏の少年」の場合

「真夜中の校舎の白い壁に/訣別の詩 刻み込んだ/朝焼けのホームに/あいつの顔探したけど涙で見えず/「旅に出ます」書き置き机の上/ハーモニカ ポケットに少しの小銭/さよならの意味さえも知らないで/訳もなく砕けては手のひらから落ちた/あれは おれ16/遠い空を憧れてた路地裏で」

これで、一番の歌詞全部なんだけど、あらすじを書いた辻仁成と違って、情景描写が多くを占めるため、ストーリーの展開が遅く、分かりやすいメッセージは少ない。「あのころの二人は無敵だった」「不安と現実が俺達をせめたてる」というような、それまでの歌詞の意味を説明するようなフレーズは浜省の歌詞には入り込まない。辻をあらすじだとすると、浜省は本文。辻を説明的だとすると、浜省は描写的。辻を三人称だとすると、浜省は一人称。辻をコンスタティヴだとすると、浜省はパフォーマティヴ。辻を論文だとすると、浜省は詩。

理解と共感は当然違う訳です。Aさんの言ってることを理解出来るけど、共感できない。ということはよくあることです。理解を求めるのが論文=辻仁成の歌詞だとすると、共感を求めるのが文芸=浜省の歌詞です。上記の「路地裏の少年」と同じ内容を論文的に説明的に書くとどうなるか。「私は学校を中退する決意をしました/なぜならば狭い路地裏から遠くに在る広い場所を夢見ていたからです/駅では友人の姿を探しましたが見つかりませんでした/なぜならば駅から出発するときはとても悲しくて涙が出たからです」となりますが、どうでしょう。言いたいことは分かる(=理解できる)かもしれませんが、浜省の歌詞を読んだときに感じるような感情は沸いてこない(=共感できない)でしょ。文芸というのは、理解でなく、共感を目標として発せられる物であるから、説明的であってはダメなのです。そのような感情が沸くような描写が必要なんですね。で。辻の歌詞は浜省に比べると説明的に映るんですね。

なぜ辻の詞が説明的なのかを考えると、ある種の感情や経験から歌詞を書いているのではなく、始めっからこの人は、ロックの形式にのっとった詞を書こうとしていたのではないかと、思われる訳です。素朴な体験論で申し訳ないのですが、浜省も元春も安保闘争をリアルタイムで体験してるんですね。本人が火炎瓶を投げてたという意味でなく、そういう人が身近に居たという意味ですが。前出の「ガラスのジェネレーション」で佐野元春は「ガラスのジェネレーション/さようならレボリューション」と歌っていて、浜省は「遠くへ――1973年・春・20才」という歌で「僕は20才で まだキャンバスも春/赤いヘルメットの奥の瞳に」と歌ってます。つまり、この辺の人達にとって「反抗する若者達」ってのは要するにスチューデントパワー、学園紛争だったわけです。これが辻仁成世代になると、辻さん自らそう言ってますが、学園紛争の経験はないわけです。音楽をやるきっかけは、大学で知り合った女の子とデートしてたときに、街頭テレビでジョン=レノンの死を知って、こんなことをしている場合じゃないと思ったから。と、ものすごく平和な条件の中で反抗的な若者スタイルを作らなければならなかった。学校の先生と対立して高校を中退した尾崎豊さんと比べても、反抗や対立がはなっから借り物なわけです。

別冊宝島系の書評を見てると、辻仁成さんの小説に関して、「文学とはこのような物だという一般的なイメージをただなぞるだけ」ってなことを書かれていたりします。これは辻さんの文学に限らず、音楽においてもそうなのです。

さらに、ここまで書いてきた辻さんへの指摘は私自身にも向けられます。私は文体演練法といって、およそ中身があると思えない文章を様々な形式で書くことにより、形式その物を浮かびあがらそうとする試みを試したり、読む人の感情を動かすような情景描写を極力排除したショートショートという形式、あらすじのみで成り立つ小説を書いたり、自分が一度も行った事のない南米の話を書いたり、そういうことをしていたわけです。私にとってロック=チャック・ベリーだった時代が長くありました。チャック・ベリーは、いい年をした大人になってからスイート・リトル・シックス・ティーンを書きました。チャック・ベリーはレコードの主な購買層である白人のティーンエジャーの気持ちになって曲を作ったと言います。自分を表現する芸術家でなく、消費者の表現をサポートする職人だった訳です。小説=フィクションとは作者の属性から来る視点以外の視点から物を書くのが唯一にして最低限の倫理だと、当時の私は思ってました。

注)欧米文学におけるアングリーヤングメンというのが、日本におけるロックのそれと違って、階級意識に基づく物、文字の読み書きすらろくに習ってないはずの階級に属する単純肉体労労者風情が、独学で勉強して文学を書くに至った。物を考えない家畜か奴隷ぐらいに思ってた単純肉体労働者の中から物を考える人が出てきたという驚きに満ちた物で、日本のロックのただ若いという理由だけで反抗してる奴とは違うぜ!ってなのは、重々承知の上であえて書いてるんですけど、先に言っとかないとちょっと賢い人だと色々つっこんでくると思うんで。 

4/16 辻仁成のオールナイトニッポンの最終回放送分のテープを活字起こししてました。STCさんとの共同企画ということで近々UP出来ると思うのですが、辻仁成さんってのは最近では小説家としての方が有名ですが、元々エコーズというロックバンドをされていて、尾崎豊さんやストリートビーツなんかと一緒にされて「反抗する若者達」ってなキャッチコピーでくくられてた時期がありました。「大人達は何も分かっちゃくれない」とか言いそうな、アングリーヤングメンというか「恐るべき子供達byジャン=コクトー」というかそういうくくりに入ってた人で、かつ自分も高校時代リアルタイムで聴いて影響受けてたりもするわけだ。具体的にこのHPで言えば、DJ風桃太郎とか明らかに辻のラジオのマネですね。

アングリーヤングメン的な物ってのは中学高校ぐらいの反抗期のいち時期にハマってそこから、いつかは卒業していくんですが、修学旅行の写真とかで、タバコくわえてサングラスかけてウンコ座りしてメンチ切ってる写真ってよくあるじゃないですか。自分の人生の中で5本の指に入る恥ずかしい写真。自分にとってその恥ずかしい写真の一つである辻仁成のオールナイトニッポンを今あえて、10年の時を経て出してくる。正直、イタイです。

具体的に、どこがどう痛いのかって話をするとですね、まあ、STCの片桐さんはいまでも割と熱狂的な辻のファンなので書いちゃいけないのかもしれないですけど、この最後の放送のラストの方で辻は「僕はこれからも誰にも頭を下げません。だから嫌われて行きますけれど」ってな発言をしてて、次の日期末試験があるにも関わらず朝の3時から5時という時間帯に起きて生で放送聴いてテープ録ってた高校時代の自分はそのセリフに結構感動してたりもするわけです。して1ヶ月後ぐらいにタモリさん司会のミュージックステーションにエコーズが出て、番組の冒頭でガチガチに緊張した辻は30回ぐらいタモリさんに頭下げてるの(笑)。「エコーズの皆さんです」と紹介受けると、ドモ・ドモ・ドモと小刻みに3回ぐらい頭下げて、タモリさんに「いえいえこちらこそ」と言われるとさらに小刻みに3回、ガチガチに緊張してる辻は名前呼ばれるたびに三回頭下げる。当時(いまでもだけど)無名のエコーズ&辻仁成の紹介をするために司会の女性が「辻仁成さんは小説家としても・・・、エコーズはこのようなライブ活動を・・」とナレーションを入れようとするのですが、ナレーションの中に「辻仁成」とか「エコーズ」という単語が出るたびに「いえいえ、どうもこちらこそお世話になってます」と頭を下げまくる辻。辻が頭を下げるたびに中断されるナレーション。場の流れを止めてまで無理矢理自分のペースに巻き込んでいく辻はいまでいうエレファントカシマシの宮本さんみたいなキャラでした。後半タモリさんは面白がって、誰かが何かを話そうとするたびに、「辻さん」と名前を呼び、それを受けて「いえいえ、どもども申し訳ない」と頭下げまくる辻で話を中断させて遊んでました。タモさんいわく「丁寧な方ですね」。

他には、今回テープ越しした中で辻は「俺はてめぇ、別にラジオなんか出たくないけどよぉ。みたいな感じで出てる。」若いロックミュージシャンを批判してます。若くて反抗的なロックミュージシャンが、サングラスかけてメンチ切りながら「俺、トーク苦手なんで」とか言ってる姿はよくみると思うんですよ。怖いイメージで売ろうとしてるミュージシャンからすれば無口な方が怖そうに見えるし、トークで笑い取ってもしょうがないだろうという思いもある。でも、テレビだったら、怖いカッコした人がメンチ切ってれば場は持つのですが、ラジオの場合、3秒黙ったら放送事故でクビの世界じゃないですか。絵が無いから、しゃべらない=存在してないなんですよラジオは。で、そうやってカッコつけてるロックミュージシャンなんて少しもロックじゃないと、オールナイトの放送では批判してたのですが、辻仁成の一冊目の小説が発売されたとき、やしきたかじんさんはTVでこんなこと言ってました。

昔、AMラジオでロックバンドを紹介する番組の司会をやらないかと言われたことがあって、俺フォークは好きやけどロックみたいなんワカランから、いっぺん断ってんよ。でも向こうが「どうしても」って言ってきて、「もう一人ロックに詳しい人付けるから」と言うんで渋々引き受けたら、そのロックに詳しい人ってのが落語家の**師匠で、俺より年上やん、ロックなんか分かるのかなと思って「師匠、ロックなんか聴かれるんですか?」って聞いたら、「ワシは演歌と民謡しか聴かん」ゆって、「ええか、ワシがついてる以上は、司会なんてのは成るようになるんや。大船に乗ったつもりでドーーンと構ええ」ゆわれて、ほんま大丈夫かな思って、公開録音するライブハウスに行ったんよ。番組始まる前に**師匠酒飲んでグデングデンに酔っ払って、楽屋で「あと、まかした」言ってるし、しゃーない俺一人で司会やこんなもん。師匠はじめっから仕事する気ないやん。番組始まって生放送や、エコーズとかいうわけワカラン奴居るわ。俺かて相手が拓郎さんとか陽水さんなら聞きたいこといっぱいあるし、しゃべりがいもあるわ。知らんやろ?エコーズ。聞いたことないやん。何しゃべって良いか分からんへん。取り合えず紹介して、一曲目行くはな。曲終わって、インタビューするわ。何聞いても、うんともすんとも言わへんねん。しゃーない。しゃべるだけしゃべって、次二曲目行くわな。曲終わってまた司会や、何聞いてもしゃべらへん。また一人でしゃべって曲や。3曲目終わって、会場壁づたいに歩きながら、しゃべって、どうせ何聞いてもしゃべらへんから一人でしゃべって会場の一番後に来たわ。で、もういっぺん話振った。ギターいじり出して黙って演奏始めようとするから、俺ブチ切れて、会場の一番後の席からステージのボーカルに「ガーーン」マイク投げつけて、生放送でスイッチ入ったマイク投げたん俺が初めてやろ。会場中のスピーカーから「ボコッ」ってマイクのぶつかる音響いた。ステージ駆けよって「なめとんかこら」言ったら、あいつ、完全にビビってヒザと声震わせながら、「ぼ・ぼくは、歌の中にメッセージがあるから、しゃべらなくても良いんだ」とか言ってんの。だったらFM行け!AMはトークするとこじゃ!

引用長なったけど、なんて言うのかな、高校の時にはDJの辻仁成がかっこ良くみえたわけだ。その仁成が言ってることとやってること違うやんと、いう部分にあるとき気が付いたと。その時は好きだった分だけ反動もあるわな。でも、ある程度の年齢になると、人にはそれぞれ事情があるって部分も分かるようになるわけだ。子供のときはウルトラマンの背中のチャックみつけて、嘘吐きだとかダマされたとか言って怒ったり泣いたりあるけど、ある程度の年齢になると、ウルトラマンの中に入ってる人達の苦労も分かるわけじゃん。子供たちの夢を潰しちゃいけないから、デパートのウルトラマンショーではトイレに行きたくなっても我慢しなきゃいけないとか、熱い三十度を超える炎天下の屋上でヌイグルミの中40度超えるわ。15キロもある重い怪獣の衣装着たまま俊敏な動きもしなアカンわ。ヌイグルミかぶってたら、呼吸もしにくいし、視界も狭い。汗も流れるし、ヌイグルミも汗臭い。暑いからって冷たい飲み物飲んだら、トイレ行きたくなるし、飲む量制限しなアカン。それを鬼の首とったように背中にチャックがあるんだとか叫んでも、しゃーないやんってことですね。

アメリカングラフティーって映画でウルフマンってDJが出て来る。夜の街で車やバイクを流してナンパしてる不良達にとってカーラジオから流れるイカした海賊放送番組のDJウルフマンは憧れの人物だ。高校の卒業を控えた主人公は仲間が進学だ就職だでチリジリバラバラ、地元から去って行くのを寂しく思いながらも、今夜辺りが最後のドライブかも知れないと思い仲間達と走る。ちょっとした用事で山の上にある海賊放送の放送局に行く。太った中年が放送局の録音室でアイスキャンディーを食べながら手をベトベトにしてる。海賊放送用の曲が流れてる間、アイスキャンディーを食べながら「俺はウルフマンからもらったテープをかけてるだけで、彼の手伝いだ。奴はここに週に一度しかこない。あいつは最高にイカしたカッコ良い奴だ。」という。主人公が用事を済ませて録音室の前を通って外に出るとき、アイスで手をベトベトにしてたカッコ悪い中年が、マイクに向かってカッコ良くアジテートしてる。ウルフマンは少年の夢を壊さないように「俺はウルフマンじゃない」と嘘をついたが、青春期から卒業しつつある主人公は嘘がバレたウルフマンの姿を横目でチラッと見てちょっとあきれたような顔をして出て行く。あのウルフマンをみると辻仁成思い出すね。 関連HP

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