HP管理者日18

8/8 昨日は高円寺の円盤で開かれたロンリーボーイ・ロンリーガールに行ってきた。1993年夏、私が大学一年のときに学研で開かれたイベント「第一回インディーズメディアフェスティバル」でQlairのコピー誌を作られていたMoebius ArtRag(M.O.さん・K.S.さん・K☆Oさん)さんのうちのお二人が関わられているDJイベントだ。時間はPM11:00〜AM10:00。午前と午後を間違えてねぇ−か?と一瞬思う。値段はチャージ1000円+ドリンクオーダー。私はMoebius ArtRag(以下、メビウスアートラグ)さんのファンだったので、とにかくファンであることを示すために、当時買ったコピー誌とそのコピー誌のデザインをまんまパクった自作のコピー誌を持って円盤に行った。円盤はBar+中古レコード屋+古本屋+インディーズCD屋+イベントというすごい空間で、円盤内インディチャートではECDのECDVDがトップでイベントポスターは「ECD+降神」のライブ告知が貼られていた。中古レコードが詰まったダンボール箱にはディスクユニオンと書かれており、インディーズCDには「CD-R」と明記されている物が多数あり、イベント用の機材としてはピアノ・プロジェクター・ターンテーブルが設置されていた。

11:30ぐらいに着くと、まだそれほど人は居ず、ナインティーナインが「最強最悪のバンドを作る」という企画で、町田町蔵・とうじ魔とうじ・山塚EYEという濃い面子と会っているVTRが流されていた。私が知っている中で一番カッコイイ山塚EYEがそこにいた。ちなみにロンリーボーイ・ロンリーガールとはビートたけしさんの曲です。

私の持っているクレア本は002号Ver.1と書かれているが、実質第3号で、編集長がK☆OさんからM.O.さんに代わった号だ。これは結局4号ぐらいまで作られたらしい。K☆Oさんは1993年当時すでにデザイナーとして仕事をされていて、渋谷系のデザイナーとして有名なTさんのlabolatoryに所属後、独立されている。いわゆる渋谷系デザイナーの一人。今回のロンリーボーイ・ロンリーガールも、H.T.さん・K.K.さんといった人達が集っていて、その割に場の雰囲気はアットホームで、どう振る舞えば良いのか戸惑う。今回のイベント参加者は主催・店員含めて12人ほど。H.T.さんとK☆OさんとK.S.さんは同じ高等専門学校の同級生で、同窓会みたいなイベントだという。K.S.さんは上記のミニコミでは漫画担当をされていて、スターウォーズ通、スターウォーズのフィギュア等を集められていて、オリジナルのフィギュアを作るのにどの素材でどの大きさだと金型がいくら掛かってとか詳しいらしい。K☆Oさんは、10年前のミニコミに載っていた写真ではダサい長髪ルックだったので、これから十年だと、ブサイクなおっさんだろうなと思ってお会いしたら、髪も切り眼鏡もお洒落系に替えて全然カッコ良く有名人で言えば、阿部和重さん・佐久間正英さんみたいな感じだった。オシャレ系の仕事に就く人はメディアに出ないスタッフサイドの人間でも、ルックスを作ることも込みで仕事なんだなと思った。みうらじゅんさんが「北野誠の世紀の雑談」というラジオで言っていたのですが

「80年代の初めにホリチョイプロダクションの方や糸井重里さんと組んで、オシャレ系の仕事をしようとした時期があるんですよ。そのとき、糸井さんに
『いつまでも70年代のヒッピーみたいな髪型をしていてはダメだ』
と言われて、モッズヘアにしようと思って、近所の散髪屋に行って
『モッズヘアにして下さい』
と言ったんですよ。そこのおっちゃんとおばちゃんはモッズヘアを知らんから、
『はい』
と言って、ちょっと店の奥に言って
『モッズヘアにしてくれ言ってるで』
『モッズへアって何や?』
ゆって相談してるわけですよ。そのときの自分は、
『なんや、モッズヘアも知らんのか。』
『いま、若者に人気のあるモッズヘアや。あの、カッコイイモッズヘアにしてくれ。』
思って、座っているわけですよ。すると、店の奥で散髪屋の若い息子みたいなんが
『モッズへアって、髪を切る店の名前やで』
と言い出して、店のおやじが出て来て
『お客さん、すみません。モッズヘアというのは、髪型じゃなくて、店の名前だと息子が言ってるのですけれども』
と言われて、もう、俺は恥ずかしくて顔真っ赤になって、
『テクノカットで良いですか』
言われて、
『良いです』
とだけ答えて、恥ずかしくて早く店出たい一心になったことがあって」

という話を思い出した。いま、私は髪が長い状態で、個人的には山塚EYEを目指した髪型なのですが、10年前の写真ではヒッピーみたいな髪をされていたK☆Oさんがオシャレ系のルックスになられているのをみて、モッズヘアの使用前(俺)・使用後(K☆Oさん)みたいな、気がしました。俺も髪切ればカッコ良くなるのかって・・そういうもんでもないんだろうなきっと、山塚EYEのように髪を伸ばしたから、山塚EYEみたいになったかというとなってないし、髪切ったらK☆Oさんみたいにカッコ良くなるかってぇーと、そうでもないと。まずは、内面からみたいなね。

Qlair本の話も色々させて頂いて、やっぱ、当時、K☆Oさんが使われていた機材はマックとモニターだけで100万して、レーザープリンターが60万してというから、俺も当時中古で10万の機材の割には、頑張った方だよとか。写真の網掛けでドットが粗いのがロイ・リキテンシュタインみたいでカッコ良かったのですが、それもフォトショップじゃなくてクォークだと聞いて、やっぱ24万貯めなきゃダメかぁとか思う。映画「キャシャーン」で、実写の上にCGや色調補正や何かで色を塗りたくると、写真をトレースして背景を描いたアニメやモーションキャプチャーのような実写の画像取り込みで作られたCGと境界がなくなるように、「写真→白黒の粗い網掛け」というメビウスさんの手法が、「手書きイラスト→トーン貼り」と境界が無くなって妙にPOPだったんですね。本来、手描きイラストにトーンを切り貼りするところを、画像取り込みして、パソコン上でデジタルトーンを貼ったり、写真の網掛けを粗くしたり、イラストに写真を貼ったりしだすと、絵と写真と文字がパソコン上では、同じ情報であって差異がなくなってくる。写真に文字を貼りつけ、イラストや写真を新しいフォントとして登録し、文字として使う。手書き文字をフォントとして登録すると、それは文字なのか?手描きイラストなのか?当時まだ珍しかった様々なDTP機能を駆使したPOPセンスに痺れてました。メビウスアートラグさんを紹介して下さったaiteaさんはじめ、ロンリーボーイ・ロンリーガールの皆様に感謝!

8/2 昨日西荻窪の模型屋の隣にある古本屋で買った本「ロッキングオン増刊 岩谷宏のロック論集」1977/9/30初版3000円。平凡社「思想の歴史1ギリシャの詩と哲学」田中美知太郎編100円。手塚治虫「新宝島」500円。絶版本で売れそうな物は値段が高くなる。岩谷宏氏は初期ロッキンオンを支えたカリスマ編集者で、1970年代後半には、夏になると地方の中学・高校生が岩谷宏氏の音楽評論集を片手に、ロッキンオン社に家出に来て、こんなところに家出されても迷惑だからと岩谷氏が家に送り返すということが繰り返されたらしい。音楽をネタに思想や哲学を語るそのスタイルはロッキンオン文体の極北で、「関係論の視坐」などというタイトルをみただけで、本当に商業出版なのか疑問にすら思う。最近はパソコン関係の本を多く書かれているが、パソコンの実用書であるにも関わらず、思想性が強く出るため、多くの議論を呼んでいるらしい。岩谷宏個人HP岩谷氏のコラム。1942年生まれの彼は2004年現在、62歳になる計算だ。コラムをみると、いまだに30年前と同じ貨幣経済批判をやっていて、すごい。良いとか悪いというより、極端で過激な点に驚く。

7/10 今日はどうでも良いことを書く。イラクでアメリカ主導の復興政策に反対するゲリラが戦ってて、そのゲリラをテロリストと呼ぶ人もいれば、レジスタンスと呼ぶ人もいる。近代について、柄谷行人・竹田青嗣・浅田彰・東浩紀が、それぞれに色んなことを言っていて、柄谷の日本近代文学の起源を見ると近代国家ってのは、文学によって、統一の共通語とか歴史とかをでっち上げた訳だ。柄谷の「近代文学の終り」によると、それが国家レベルじゃなくて、地球レベルで起きるみたいな話になっている。それがどのぐらいのスピード(百年二百年単位なのか数年単位なのか)で進行するのかは別にして、大きな流れとしてそうなるだろうというのは俺も思う。インターネットに国境が無いとなれば、ネット犯罪を取り締まる法律・警察は国家レベルを超えるだろうし、言語にしろ歴史観にしろ文学観にしろ、ある程度統一されるだろう。そのようなグローバリズムに対して、反動が実際に起きているのも分かる。近代国家が、小さな国家の集合体であったとすれば、お互いに侵略戦争を行い合うような帝国主義時代が終わったとなれば、北アイルランドがイギリスから独立しようとしたりとか、小さな国がより小さくなろうとするような動きも出る。近代以前のより小さな単位に国を持って行こうとする動きがあるのも分かる。

5/15の日記の続きだけど。アメリカが冷戦で勝利したとき、歴史の終わりという世界観がアメリカにあったが、実際にはそうならなかった。むしろアメリカの分裂が起こった。冷戦時代、世界はアメリカとソ連の二つしかなくて、その後、アメリカが勝利したのだから、世界はアメリカ一色に染まるとアメリカ人は思ったが実際には、多くの移民がアメリカに流入し、カトリックでスペイン・ポルトガル系のラテン語をしゃべる南米の人間やイスラム教を信じる黒人のブラックモスリムやイエスキリストは黒人だったと主張する黒人キリスト教徒のラスタ教の人達が増えて、アメリカ国内だけでもホワイトアングロサクソンプロテスタント一色とは言えなくなった。このことがアメリカの白人社会では脅威になっている。流入する移民への恐怖感がよりアメリカの白人を攻撃的にする。言語や宗教や文化や人種が異なる状態から、どうやって統一の言語や文化を作り上げて行ったのかを描いた歴史が日本近代文学の起源であったとすれば、文化や言語の多様性を抑圧し統一の言語や歴史を作り上げる学者という仕事に従事したくないのだということを非常にアカデミックな言語で語っているのが東浩紀で、客観的にみて唯一絶対の正しい言語や正しい歴史なんてのはありえないけど、右側通行と左側通行、燃えるごみの日が月水金と火木土、英語とスペイン語とアラビア語、どちらが正義とかないけど、便宜上どちらかに統一しなくては不便でかつ、相手の習慣に自らの習慣を合わせる側に、有形無形のリスクが発生するとき、どのような手続きを取れば、統一の決め事は、妥当だとされるのかをヘーゲルに即して論じるのが群像2003/8号の竹田青嗣。そのような政治的な世界から距離を置いて、美術や芸術の話をしようとするのが浅田彰。いま、近代(モダニズム)について考えるのがタイムリーな話題であるようだ。

冷戦が終わったことで、スパイ映画は米ソのスパイ合戦を描くことが出来なくなって、代わりに産業スパイや麻薬シンジケート対捜査官のスパイ合戦を描くようになった。が、最近の映画では、敵はもっぱら軍事産業で、しかも映画の最初から最後まで、誰が敵で誰が味方か、誰が正義で誰が悪か、分からないというパターンが多い。(Exスチームボーイ/キャシャーン/スターウォーズ)大衆向け娯楽がこのような内容であるということは、大衆にとってこのような世界観にリアリティーがあると作り手・出資者が思っているということだ。イラク戦争は始め、アメリカが石油を求めてやった戦争だとみんな思っていたわけだ。アメリカ国内でのイラク反戦運動のプラカードを見れば、石油のための戦争なんていらないとか書かれている。が、イラクの石油はロシアやドイツやフランスにも供給されていて、それをぶん取れば、アメリカ対ヨーロッパの戦争になると、分かってからは、どうやら軍需産業のための戦争であるらしいとなってきた。

80年代後半のバブル経済の頃は日本はインサイダー取引で儲けていた。それまでアジアの小国であった日本では海外からインサイダー取引に関してそんなに厳しい監視がなかったのが、これ以後、日本に対しても監視が厳しくなる。それと前後して、アメリカの個人投資家が作る小さな投資会社は大手の投資会社と比べて情報公開に関する規制が緩いのを利用して、広い意味でのインサイダー取引が多くなる。アメリカに新大統領が誕生すると、3ヶ月以内に中東にミサイルを撃たなくてはならない理由がこれでわかる。新大統領を中心に新内閣で投資会社を作り、軍事部門専用の投資会社になる。Aという軍事会社に投資し、既に米軍が持っているミサイルを中東で使用した後、Aにミサイルを発注すれば、Aの株価は上がり、投資会社を通じて新内閣の懐に大金が入る。この大金で選挙に使った多くの選挙資金を回収する。3人から10数名ほどで作る個人投資会社は、公的投資会社でなく、個人投資家扱いなので、情報公開をしなくても良い。もっとも、大統領や内閣の中心人物達が作る投資会社を公的機関でないと呼べるのかはあやしい。ボーリングフォーコロンバインも華氏911もそういう映画だ。いま流行りのカーライルグループ関連の陰謀史観もそういう内容だ。

問題は善悪の見えにくさだ。ボーリングフォーコロンバインにおいても軍需産業会社ロッキード社で働く人達、個々人を絶対的な悪だとは描いていない。工場の中で決められた作業をする彼らは、ただの工員であり、軍需工場が無くなれば失業するただの弱者であり、絶対的な悪はもっと他にある。例えば政治家だ。民主主義国家である以上、悪い政治家は選挙で落せば良い。しかし、選挙前の公約と選挙後の行動が異なるというのはよくある話だ。日本においても、郵政三事業の民営化(官僚のスリム化)を公約して当選した小泉が当選後最初にやったのが、小泉の写真集の発売と小泉をライオンに見立てたマスコットの制作といった芸能活動。そして、中国・韓国を刺激した靖国参拝と自衛隊の海外派兵。靖国参拝や自衛隊の海外派兵などは選挙前から公約されていたらしいのだが、それほどおおやけには公表されていない。

社会学的には利益団体の構成員の数が大きいほど、自分が運動をやらなくても誰かがやってくれるから運動には不熱心で結果、運動は失敗するという話がある。例えば、アメリカでは95%の国民が銃規制に賛成しているが、残り5%の銃規制に反対の人達の意見が通る。銃規制に反対の人達の方が数が少ない分活動に熱心であるため、その人達の意見が通る。よって、最大多数の最大幸福とはいかない。例えば、麻薬賛成派と麻薬反対派でアンケートを取れば、おそらく反対派の方が数が多いだろう。しかし、現在非合法に麻薬産業で働いている人達が、本気で麻薬解禁に向けて、麻薬合法化に向けて運動をしだしたら、麻薬反対派の人たちよりもより多くの寄付金と票を集めるであろうことは想像出来る。いまの日本の麻薬市場が年間どのぐらいかは知らないが、仮に年商二億円ぐらいだとして、そのうちの10%二千万円を政治家に寄付して、「いまはたった二千万ですが、今後も半永久的に麻薬マーケットの売り上げの10%を寄付させて頂きます。合法化されれば、市場は10倍20倍にすぐ膨らみます。そうすれば、寄付金も10倍20倍になりますよ」と言って渡したとしましょう。その政治家が、麻薬シンジケートに麻薬合法化を公約したとしましょう。でも、多くの人は麻薬に反対しているので、イメージ上、この公約は選挙中公表せず、総理に当選してから、麻薬の合法化を進めましょうと。ここでは、麻薬産業に対する公約でしたが、別のところでは軍需産業とも公約を交わして、さらに別のところでは、また別の公約を交わして、そうやって小さな票、小さな献金をいっぱい集めて、おおやけにははっきりしたことを言わずにイメージ戦術で、芸能活動的なことをすると。さて、選挙民は誰に投票すれば良いのでしょう。裏で誰がどんな利益団体とどんな公約を交わしているのか分からない。表面には芸能活動しか出てこない。この辺が、誰が正義で誰が悪か分からないままストーリーが進む娯楽映画の世界観の基礎になっているような気がします。

6/26 正直人生に疲れてます。参議院選挙も近いので、政治的な訳の分からないこと書きますが、イラク戦争って何が原因で何が目的でどうなれば終わりなのか?日本の防衛戦略ってどうなっているのか?

大雑把に私的な感想書くとですね。今まで日本はアメリカの核の傘の下でやってきた訳です。日本に何かあればアメリカが守ってくれる。それが日本の防衛戦略だったので、イラク戦争で明らかにアメリカが悪いこと(民間人の大量虐殺を含むファルージャでの空爆・文章化された国際法の一つとして認められるジュネーブ条約に反するイラク人捕虜への虐待)しててもですね、アメリカ支持で来たわけです。北朝鮮が日本にとどくミサイルを開発して、日本人を国家ぐるみで拉致していたとなれば、誰が北朝鮮と戦うのだという話です。もしアメリカ人が他国から国家ぐるみで拉致されていたらどうするとアメリカ人に聞いたら、すぐさまアメリカ陸軍が動くと答えたと言うんだよ。アメリカ人サイドからするとなんで日本人は拉致されても平気なんだぐらいの感覚なわけだ。じゃあ仮に、日本の自衛隊が北朝鮮に上陸して、拉致された日本人を救出しようとしたとするじゃん。平和的に交渉しても拉致した民間人を返さないんなら戦争覚悟で普通はそうなるじゃん。北朝鮮側からすれば、無断で他国の軍隊が上陸してくれば当然、戦争になるじゃん。で、日本と北朝鮮の二国間だけで、かつ拉致問題だけをみれば、日本の側に理があるし、軍事的にも日本の方が強いと思うんだよな。国際世論を味方に付けられるし、軍事的にも強いとなれば話は早い。が、現実には、韓国にとって北朝鮮は同胞だし、韓国と北朝鮮で一つの国だという意識もあるわけじゃん。その韓民族の国である北朝鮮に日本軍(自衛隊と言っても英語で言うとジャパニーズアーミー、日本陸軍でしょ)が入ってきたとなれば、第二次大戦のときの恨みもあるから、対日本で戦うよなぁ。して、日本は第二次大戦時に東アジアの色んな国を侵略したから、今でも東アジアでは評判悪いよなぁ。その評判悪いファシズム国家日本が外国に軍を出したとなれば当然、対日本で一致して軍を出すよなぁ。東アジア内では軍国主義国家日本の復活という国際世論が簡単に形成されるよなぁ。

以下、書いたけど機械上の理由で消えたので省略。

6/12 最近好きなジョーク。
A「貧乏人と金持ち、どっちが長生きすると思う?」
B「そりゃあ、貧乏人だろう。奴には相続人がいない。」

ありそうでないもの、殺人バンク。

6/6 ペンサコーラというバーに全米TOP40研究読本てのがあって、学陽書房から「ポップス中毒の会」が出しているのですが、そのp46に仁平孝一さんが書いた「産業ロックに愛の手を」コラムが面白くて、70年代後半から80年代初期にかけて、売れているけど誰にも尊敬されない産業ロックと言われる音楽があって、これを筆者は擁護しているわけだ。売れているけど、誰からも尊敬されずにむしろ軽蔑されるような産業ロック。

日本で言えば、B’z・織田哲郎・WANS・ZARD・T−BOLANに代表されるようなBeing系とその後に出てきたto be continuedやシング・ライク・トーキングやフィールド・オブ・ビュー辺りの人達を個人的には思い浮かべる(同時期にミスターチルドレンやスピッツもデビューしてるが、彼らにはライブにおける観客動員力があったし、L-Rはポップ職人といえるだけの力を持っていた。が、当時ルックス的にはミスチルもスピッツもL-Rも区別がつかなかった)。バンドブームと小室ブームの谷間に、スタジオミュージシャンが組んだバンドが大量デビューしたような印象の時期があって、個人的に産業ロックだなと思っていたわけです。音楽の演奏技術や作詞・作曲・編曲技術はあるのだけれども、スーツを着て、無表情で無駄な動きや客への煽りが一切ない演奏をして、インタビューを受けると、日常会話的な雑談しかしない、主義主張は一切なく、ショーとしても何を見せたいのかが分からないという音楽番組や音楽雑誌を極度に盛り下げる人達でした。アイドルの演奏技術や歌唱力を批判する人は大勢いるが、じゃあ、演奏技術の高いスタジオミュージシャンを集めてステージ上でスタジオレコーディングをするとどうなるかやってみようかつってやってみたら、ものすごく地味だったという話ですが、洋楽だとTOTOやシカゴやスタイルカウンシル辺りが、音楽としては凄腕なんだろうけど、ショーとして芸能として見たとき、どうなの?という人達です。

前出のコラムに戻ると、産業ロックの共通点として
1メロディ的に感動できないバラードが数曲必ずアルバムに収録され、シングルカット第2弾、第3弾に必ず登場し、そして必ずヒットする。
2ハードな曲でも、バラードでも歌詞の内容はほとんど同じで、要するに「男と女のラヴ・ソング」である。
3すべてにおいて中庸である。

が挙げられている。1の例として挙がっている曲がTOTO「ホールド・ユー・バック」、ジャーニー「オープン・アームス」「フェイスフリー」、スティックス「ドンド・レット・イット・エンド」で、感動させようとしているけれどもわざとらし過ぎて感動できなかったり逆に、あまりに無機質で感動できない出来ない曲があって、それでもアルバム内で目立たないように存在していれば良いものを、わざわざシングルカットして、しかも売れなければ目立たずに済むものが、*週連続一位とかになって目立ってしまうものだから余計に馬鹿にされると。ジャーニーに関しては「オープン・アームス」が出るまでは馬鹿にされるバンドではなかったと著者は言います。

2はそのままだから良いとして、3。すべてにおいて中庸は説明がいる。当時、ハードロックやプログレッシブロックが流行っていた時期で、プログレッシブロックは内向的で暗い歌詞・暗いメロディで一曲二十分あったりしたし、逆にパンクロックなどは短い1分半や2分の曲が多かったのが、産業ロックは曲の長さにおいてごく普通の三分半である。歌詞やメロディーもツッペリンやピンクフロイドやキングクリムゾンのような圧倒的な暗さを持っていたわけでもなく、かといって売れているポップスター達(Exポール・マッカートニー/ギルバート・オサリバン)のような圧倒的な明るさがあるかと言うと、それもなく明るさにおいても普通である。ファッションにおいても、グラムロックのデビットボーイようなキラキラしたラメの入った華麗な衣装を着る訳でもなく、かといってパンクロックのようにわざと汚らしいカッコをするわけでもなく、ごく普通の普段着である。ルックスが良いから普段着で十分なのかというと、そういうわけでもなく、見た目はごく普通のおっさんであり、女の子が憧れるようなルックスではない。要するに映像における戦略がなかったのだ。

また、ネオ産業ロックとして、ボン・ジョビ、バッド・イングリッシュ、ナイト・レンジャーを挙げ、産業ロックとネオ産業ロックをつなぐ偉大なミュージシャンとしてエイジアを挙げている。お勧めの産業ロックアルバムはTOTOの「宇宙の騎士」なのだそうだ。

私は高校時代、TOTOを聴いている人間をひそかに馬鹿にしていた。メロディ的なセンスはともかく、少なくともリズム感のない人だと思っていた。しかし、いまだにTOTOを聴いている人がいたりする。身近なところでは青木研二さんが好きなミュージシャンはビリー=ジョイルとTOTOであったり、少し前には小室哲哉さんがTOTOをカバーしていたりする。アイドルポップスにおける作家主義批評を生み出した、よいこの歌謡曲文脈で見れば、作詞家や作曲家や編曲家やレコーディングディレクターやミキサーやスタジオミュージシャンは、アイドルポップスを語る上で非常に重要なポジションであり、その文脈からやっぱり産業ロックは面白いと思う。

5/28 愚痴を言いたい。ふと自分の日記をみるとね、文法レベルでおかしな文章とかあきらかに精神に異常をきたしているとしか思えない文章が出て来て、嫌になった。自分の個人的なことを、「わたし達は」と複数形で書いてたり、どう考えても自分個人のことなのに、「世間はこう考えている」みたいな文章書いてて痛い。

ネットの匿名掲示板・カウンセリング・占い・**相談所みたいなところは、その人の一番醜い部分というか社会不適合な要素をさらけ出す空間だけど、その場を管理している主催者ぐらいは一応、社会適応な部分を出して裁いていかなきゃいけないんだけど、そうならなかったときの空間てのはまたすごい。一人一人は良い人達なんだけど、社会不適合な部分をさらけ出すための空間に集えば、まあ、みんな社会不適合者じゃん。して、主催者が上手く裁けないと、個々人が持ち寄った恨みや妬みや僻みが、共通の仮想敵を作り出して、みんなでそれを攻撃し始める。その攻撃対象が集団の外にあるとオウムで中にあると浅間山荘なんだけど、具体的に何のこと言ってるのかバレるとまずいので、あくまで例え話ですが、男性向けの雑誌だと女性は極端に理想化されて描かれるか、敵として描かれるかで、等身大というのが抜け落ちてたりするのですが、似たことは女性向の雑誌でもあって、レディースコミックなんかに出てくる男は極端に理想化されているか、女性の敵かどっちかで、描いている方もプライベートで辛いことがあって、本気で男性は敵モードで書いていたりするときに、男性読者からのファンレターが来て「僕は先生のことは好きではないですが、先生とSEXしたいです。いついつにどこどこで待ってます。」みたいなこと書いてあって、「同じ男として、どう思う?」と言われたとき、思わず席を立って、床の辺りに良い言葉が落ちてないか探したもん。

ネット小説というか、同人小説の世界ってのも、その人の醜さが表に出る空間なわけで、何十年も同人やってて、文章もそれなりに上手くて、名前も同人内ではそこそこあるのだろうけど、いつみてもひどい内容だなという人もいて。ダメな同人小説・ネット小説のパターンてのがあって、情報源がテレビのワイドショーなんだよな。ワイドショー観ながら書いてるから基本的にみんなの知っていることしか描かれていない。ちなみに、村上春樹は情報源が未邦訳の小説だったり、村上龍は活字化されていない情報を足とインタビューで稼ぐタイプの人だし、司馬遼太郎は地方の図書館にある郷土資料を情報源に歴史小説を書いたり、島田雅彦は学術書を読んで小説書いたり、まあ、色々あるんだけど、ダメな同人小説の典型はテレビのワイドショーを観て、ワイドショーだけを情報源に書いてるわけだ。

ワイドショーをネタしててても、ナンシー関ばりに、鋭い視点、独自の切り口、誰も気付かなかったような細部を突つく観察眼があれば、それはそれでまあ、芸として成立すると思う。推理小説も元々はその時代の実際にあった猟奇事件の未解決の部分を、想像力で埋めて描いた物であったわけだから、ワイドショーが情報源でも、そこから独創的な想像力で優れたトリックを描けるなら、それもありだと思う。誰もが知っている時事ネタを元に何かを書いたり言ったりする場合、ワイドショー内で既に色んなコメンテーターが、色んなことをいうわけで、そことかぶっちゃいけないし、誰も思いつかなかったような斬新なことを言わなきゃいけないと思うわけ。猟奇殺人をネタにするとき、現場に行って足で情報を稼ぐこともせず、専門書を読んで何か専門的な情報を提示するわけでもなく、テレビからの情報と自分の想像力だけで書くというのは、チープになりがちなだけによほど斬新で意外性のある何かを最後に提示しないと、誰もが思いつくような密室トリックじゃ読者は納得しないと思う。

で、ある同人小説を読んでて、まあ、同人歴長い人だけに文章上の粗は目立たない。情報源がワイドショーだから情報量は薄い。すごくチープな情報が提示され続けながら最後はどう斬新な落ちで閉めてくれるのか期待していた。こういうチープな題材は終わり方が難しい。斬新さを求めるあまり、奇をてらい過ぎて共感を得れない物になってもまずいし、期待通りの落ちも辛い。斬新過ぎて読者がついてこれないかなと、親切心で落ちにいくまでの説明を長々としてしまうのもまずい。説明ではなく物語の中でさりげなくみせれなきゃまずいのだ。で、その小説のラスト。当時ワイドショーで話題になっていた猟奇殺人に関して、作者はこう断言して終わる。「殺人は良くない」

ビックリした。当たり前すぎて誰も口にしなかったことを、この作者は断言する。まるで、いまここで世界で初めてこの事実を自分が発見したかのように口走る。「殺人は良くない」もうね、蓮見重彦の「凡庸な芸術家の肖像」を読み直さなきゃいけないのかと思った。ワイドショー観て、ワイドショーで何がどう扱われているかを書いて、それに自分なりの感想かいて、それを小説と思っている感性もどうかと思うけど、それ差し引いてもすごい。その作者の書く物って全部そのパターン。一つ読んだらほか全部同じ。俺の出来の悪い日記とその人の小説を比べたときに、どう考えても、俺の方が多少斬新で、多少進んでいて、「凡庸な芸術家の肖像」でいうところのデュシャン側なわけだ。当たり前のことを当たり前に言うその同人小説の人の方がフローベル側なわけだ。誰も口にしない正論をあえて口に出す同人界の老大家の方が偉大なのか?と思ったりもしつつ。いや、そういう低すぎる次元の競争は止めておこうとか思いつつ。

5/24 ボブサップ選手が浅草キッドにオフレコで「バーネット選手が日本で人気者になるのは難しい。彼はあごが割れている。日本ではボクのようなキュートな顔をした選手に人気が集まるんだ」と言ったという話があって、一見、ボブサップ選手は変なことを言っているようでいて、よく考えると結構まとをえたことを言ってるんだけど。 日本では、ボブサップ選手やアブドラ・ザ・ブッチャー選手やマイク・ベルナルド選手のような丸顔の童顔で幼児体型のカワイイ選手に人気が集まって、鋭角的なルックスの成人体型でカッコイイバーネット選手は人気者になるのは難しい気がする。

K−1でマークハント選手が優勝した頃「マークハント選手カワイイ!」という女の子が結構いて、その手の女の子は、プロレスや格闘技にはまったく興味がないどころか、暴力的だという理由でどちらかというと嫌悪感を持っていたりする。でも、マークハント選手は暴力的じゃないから良いというわけ。プロレスや格闘技を観ている人間にとっては、マークハント選手も人殴っているジャンとなるが、格闘技に興味のない女の子は、マークハント選手はオムツを付けた赤ん坊がハイハイから初めて立ちあがってぎこちなく歩き始めたようにしか見えないわけ。人を殴っているとか暴力的だとか思わないわけ。かわいい赤ちゃんとしか思わない。

これがバーネット選手だとそうは行かない。カッコイイ二枚目の白人男性。この地点で、女の子のバーネット評価は高い。異性として自分の恋愛対象範囲内に入るルックスをしているわけ。そのバーネット選手がリングで人を殴っていたらどうなるか。良い人だと思っていたのに、なんてヒドイ人なんだとなる。もしバーネット選手と付きあったら、自分もあんな風に殴られるんだと思うわけ。女性に対して手を挙げるなんて最低となるわけ。もちろん、プロレスや格闘技を普段まったく観ない女性というのが前提だけど、新日本プロレスがゴールデンで二時間特番をやるなら、プロレスを観ない女性にも観てもらわなきゃいけないわけじゃん?k−1がゴールデンで視聴率20%で、人口一億二千万人の日本で5人に1人が観てるということは、二千四百万人ぐらいは観ているわけで、新日本もそのぐらいの人間に観てもらわなきゃいけないわけでしょ。プロレスを観ない人がプロレスを観てどういう反応をするかってのは大事なわけだ。

棚橋選手が吉江選手のことを「地方に行くと俺より人気がある」と言っていたが、童顔で幼児体型で丸っこい選手というのは日本のプロレスで人気が出やすい。魔界倶楽部の総帥が住む犬小屋をテレビ局の若い女性スタッフに作ってもらったら、やたらカワイイ犬小屋を作って来て、これのどこが魔界倶楽部なんだと男性プロレスファンは思ったと思うんだけど、若い女性ってのはカワイイ=価値がある/かわいくない=価値がないという二元論なところがある。また、田舎のお年寄りなんかも、昔の馬場プロレス=楽しいプロレスの洗礼を受けていたりするので、勝ち負けよりも、元気に動いているかどうかに価値を持っていたりする。孫が幼稚園の運動会で走るとき、勝ち負けよりも、元気かどうか、一生懸命か、に価値を置くようなものだ。この場合も、吉江選手のような、童顔幼児体型の選手が好まれる。赤ちゃんみたいなルックスが受けるのだ。また、男性のプロレスファンからはデカくて筋肉質で強そうなルックスが求められる。それらの条件を考慮すると、中西選手ってのはルックス的にかなり恵まれていると思うんだ。フード付きの毛皮のコートでも着れば、モンチッチのヌイグルミにしか見えないかわいいルックス。全体に丸っこくって、童顔で幼児体型でかつワイルド。

高山選手ってのはプロレスと格闘技を掛け持ちしてて、プロレスラーと戦うときは挌闘家としての持ち味を出し、格闘家と戦うときはプロレスラーとしての持ち味を出す。高山選手がミルコ戦の前に言っていたセリフが面白くて、朝から晩まで道場で練習している若い格闘技の選手は何で俺みたいな奴がミルコと闘えるんだと思ってるだろうな。格闘技でまだ一勝もしてないのにこうしてチャンスが回ってくるのは、こうして練習の合間にテレビに出て、テレビを通じて格闘技のイベントを宣伝しているからだ。俺が広報しているおかげで、若い無名の選手も格闘イベントに出ることが出来るんだ。と言ってて、それってのは、格闘技の選手は練習と試合しかしないけど、プロレスラーである自分は、芸能活動もして、格闘技の広報もやらなきゃいけないんだ。これが格闘家のやってないプロレスラーの仕事なんだということを遠回しに言っていて、私もプロレスラーってのはイベントの広報のために芸能活動もするのが当然だとおもうのですが、現実問題として、プロレスラーでイベント広報のための芸能活動しているのって新日本だと蝶野選手ぐらいしかいない。K−1だと、角田師範がいて、ボブサップ選手がいて、広報担当が一年交代ぐらいで、持ち回りで担当してて、初期の頃は佐竹選手・ピーターアーツ選手がいて、そのあとアンディ・フグ選手やマイク・ベルナルド選手になって、そのあとレバンナ選手やミルコ選手になって、いまボブサップ選手と、角田師範以外にプラス一・二名ぐらいいたりするのが、新日本プロレスではその位置の人が皆無。これで本当にゴールデンで二時間特番出来るのかって話ですよね。

イベント広報のための芸能活動ってのでいうと、ボブサップ選手は四つの芸能事務所に所属して、芸能活動に関してはほとんどノーギャラだそうです。つまり、マスコミとボブサップ選手を取り持つ営業をした芸能事務所の取り分がほぼ100%で、サップ選手自体は交通費程度。高山選手の場合も、紹介VTRで15秒間、高山選手のエベレストジャーマンを流すのが条件で、ギャラその物はほとんどないと。その広報を新日本プロレスの誰がやるのだとなったら、他の芸能人と一緒に並んだときに、一目みてプロレスラーだとわかる体のデカさや筋肉の付き方、丸っこくって愛嬌のあるルックスといえば、中西学選手しかいないと思うのは俺だけなのか!

よく、中西再生とかいうけど、中西選手はものすごくプロレス向きのところと、ものすごくプロレス向きじゃないところがあって、体がデカくてルックスが良くて華がある。これは、主役をやるには良いけど、引き立て役とか脇役が絶対に出来ないというデメリットもあって、脇役として細く長くが出来ないタイプでもある。野球で言えば清原選手のようなもので、巨人で四番打つか引退するかの瀬戸際みたいな、スーパースターとして君臨するかリストラにあうかという両極端の二者択一みたいな感じがある。中西選手のダメなところを言うと、負け役・やられ役をやったときの演技の下手さ。本当に痛いときしか痛いという顔をしない。本当に苦しいときしか苦しいという顔にならない。痛いふり、苦しいふりをすると、客席からはふりをしている中西選手にしか見えない。痛くなくても、痛いと本人が思い込めば、痛みは客席に伝わるのに、アマレスのオリンピック代表だけあって、本当に痛い場面でも、このぐらい平気だ、根性で乗り越えられると本人が思い込むので、客席にも、このぐらい平気だで伝わってしまう。自分のピンチを演出出来ないので、相手選手の見せ場を作ることもできないし、ピンチからの逆転劇を見せることも出来ない。相手選手の持ち味を引き出せずに、自分の見せ場だけを見せる試合をしていると、誰とやっても同じような試合になるので飽きられるのも早い。相手選手の攻撃を痛たがらずに受ける長州力直系のプロレスだ。

長州力直系のプロレスにこだわりを持っているのかと思いきや、初代タイガーマスクを参考にしましたと言って、いきなりマスクをかぶって、コーナートップに立って、空中を跳んでしまうのも、中西選手のすごいところだ。普通は、中西選手クラスのデカい選手は空中を跳べないもんだと思っているが、中西選手は空中を跳べてしまった。身体能力が超人的なのだ。が、空中を跳んだ中西選手が天龍選手の頭部に跳び膝を出したとき、一瞬ジャイアント落合選手の顔が浮んだ。天龍選手が死んでしまう。さすがに気分が悪かった。プロの目からみて、選手の安全性を確保出来る蹴りなのかどうかは分からないが、素人目にはプロレスというより、プロレス中に起きた事故を見るような蹴りだった。空中を跳ぶ中西選手の身体能力はすごいが、それを受けれる選手はいるのか。正直、空中を跳ぶ選手より大きくて丈夫な選手でなければ、跳んでいる選手を受けれないと思う。

中西選手に向いているプロレスのスタイルはルーテーズ選手のプロレスだと思う。アマチュアのレスリングから、入場料を払ったお客さんを客席に入れショービジネスとしてのレスリングを確立した最初のレスラーだ。レスリングをどうすればショーとしてエンターテーメントとしてビジネスとして成立させられるのか、考え抜いて成功した最初のレスラーだけあって非常に上手く出来ている。ルーテーズが考えたのは、お客さんを飽きさせないこと、そのためには、お客さんの予想外の斬新な映像を見せることだ。ルーテーズは関節技を決められた絶体絶命のピンチの状態から、お客さんがもうルーテーズは負けたと思った場面からの、豪快な投げ技をフィニッシュホールドにしていた。絶対に外れないと言われたキーロックを、相手選手ごと持ち上げて、ロープぎわまで運び、ロープブレイクした。ヘッドロックを掛けられた状態から、バックドロップへもっていった。力道山が後ろからチョークスリーパーへ持っていこうとしているところを、まだ完全にチョークが決まってないとは言え、いきなり前かがみになり、自分の足の間から力道山の足をつかんで引きずり込み、足元をすくわれた力道山は後ろへひっくり返って後頭部を打った。完璧に決まっていると思われる関節技に対して、お客さんの予想外の動きで予想外の返し技にもって行く。これが飽きさせないコツだった。

中西選手は体がデカくてルックスが派手で身体能力が優れているので、派手で華のあるフィニッシュホールド・ハイスパットはいっぱい持っている。問題は、普通の技でさえも、中西選手が使うとフィニッシュホールドに見えてしまうところだ。あれだけ大きな体であれだけ派手にかけられた技を受けて、相手選手が何の苦もなく立ってしまうと、非常に嘘っぽく見える。技の説得力がなくなる。かといって、立たないとそこで試合が終わってしまう。中西選手がアルゼンチンバックブリーカーをやって、そこで試合が終われば良いのだけど、仮に20分試合があって、まだ時間をもたせなきゃいけないとき、アルゼンチンバックブリーカーを出したら、そこから相手選手が逆転するストーリーが組みにくい。相手を持ち上げて背骨折りしちゃってるのに、さらにそこから相手選手を投げて、投げたために逆転されるストーリーも、背骨折りされた選手がそこからスリーパーへ持っていったため、逆転されたストーリーも、いまいち説得力がない。アルゼンチンでもう勝負が決まっているのに、わざわざ相手選手を投げ捨てて逆転されるのも変だ。

ものすごく華のあるハイスパットを持っていても、それを出せるのは20分の試合なら、精々ラスト一分ほど。それも中西選手が勝つ試合に限っての話だ。ハイスパットやフィニッシュホールドなしで残り19分をどう埋めるのか?ハイスパットを出したら、試合が終わってしまうから、そこで試合が終わらないとハイスパットの持つ技の説得力がなくなるから、ハイスパットなしで19分を埋める方法を考えなくてはいけないのですが、その19分をチョップ合戦にするのじゃなしに、派手な投げ技の応酬(この場合、きちんと着地して返し技にもっていった場合、技の説得力は落ちなくてすむ)に持って行くとか、関節決められてピンチの状態で、中西選手がキチンと苦しんで、客席から中西コール起きるぐらいにピンチを表現してから、間接決められた状態で相手を投げるとか。ロープに向かって歯を食いしばって目を見開いて、鬼気迫る感じでガーッと手を伸ばして、ロープまで三十センチ足りない。五センチ、十センチづつロープに近づいていって、やっと後、数センチでロープブレイクってところで、相手選手に一気に引っ張られて、またロープから遠ざかる。どうにもならなくなったところでいきなり、相手選手を持ち上げて、マットに叩き落とす。いまだと総合格闘技で三角締めや腕ひしぎ逆十字やアームロックが説得力を持ってるから、それらの技を掛けてる選手を、関節決められたまま持ち上げてマットに投げつけるっても良いし、絵的な面白さで言うと、ジュニアの空中跳べる系の選手にグラウンドで首四の字掛けられたのを、一端うつ伏せに返して、そこから持ち上げれば、肩車ぐらいの高さになるわけじゃん。リングの高さが1mで、中西選手の肩の高さが180ぐらいで、そこにジュニアの選手が乗っかって、そのまま首四の字のままマットに叩き落すってのも良いし、肩の上に立ったジュニアの選手が空中跳ぶのも面白い。高さ的に、リングの1m、中西選手の肩で180センチ、ジュニアの選手の身長が170で、跳躍を1mとしても、5メートルぐらいの高さを舞うわけじゃん。その舞って落ちてくるのをまた中西選手が受けて投げるとかね。

ルーテーズのときは一試合3本勝負だったので、ルーテーズはかなりの長期間チャンピオンだったりするんだけど、一本目負けて、そこから逆転して二本連続取ったりとかできたし、3本勝負だから、一試合でフィニッシュホールドを2個見せれたってのも大きい。

掲示板荒らしをしたい。でも、掲示板を荒らすと怒られるので、自分の日記を荒らす。

バンビーデゥー!

どうだ。ざまぁみろ!

5/16 竹田青嗣の描く哲学史ってのはこういうのだ。古代ギリシャに哲学が生まれて、最初は「世界が何で出来ているか?」という問いから水とか空気とかいう答えがあって、いまでいう物理学に近いんだけど、これは現代の科学の方が進んでいるから、今の時代から見るとそれほど面白い物ではないと。もちろん、そこにあらわれる論理展開や観察眼は面白いが、結論だけをみると、いまの物理学を学んだ方がましだと。ただ、この時期の懐疑派哲学をみると現代のデリダと似ていたり、万物は数であるというピタゴラスの世界観は構造主義の世界観と似ていて面白い。例えば「同じ川に二度入ることは出来ない」というこの時代の懐疑派の考え方、川では常に水が移動しているため、同じ川・同じ水というのはありえないてのは、デリダの差延を理解する上で助けになる。差延てのは、「いま雨が降ってきた」と仮に手紙に書いたとして、書いたときに事実であったことが、その手紙を出すときや手紙を受けとって読む時には、もう雨が降ってないかもしれないし、事実とは逆のことになっているかもしれないって奴ですね。言葉を発したとき事実であったことが、時間と共に嘘になって行くとゆう概念です。

世界は様々な数の比から出来ているというピタゴラスの考え方は、構造主義の数学的な思考と似ていると。で、プラトン・ソクラテスというスターが出て来て、世界はどうであるのかではなく、世界を解釈する私を初めて問題にしたと。で、アリストテレスが出て来て古代ギリシャ哲学を一つの体系の中にまとめたと。

そこから中世のスコラ哲学が出て来て、教会で神がいるのかいないのか、いるとしたらどんな姿をしているのか?みたいな話をずっとしていて、それは信じる人にとってはいるだろうし、信じない人にとってはいないだろうし、いることを証明することもいないことを証明することも不可能な問いである以上、問うこと自体が無意味なのだが、そういう無意味なことをしていた時代が長く続いたと。

デカルトが方法的懐疑によって神の存在証明をやって、そこで初めて近代哲学が生まれたと。こういうのが竹田青嗣の哲学史観で、現代哲学の基礎となるようなものが生まれた古代ギリシャ哲学と、無意味な論争をしていた中世のスコラ哲学と、そしてもう一度理性的に物を考えるようになった近代哲学という3つの時代に分かれている。でまあ、竹田青嗣の影響を強く受けている自分としては、仮に古代ギリシャ哲学が立派だったとして、どうしてそこからダメなスコラ哲学が生まれてきたのか?突然断絶が起きるんじゃなくてなんらかの必然的な流れがあるはずだとは思うわけ。

で、竹田青嗣の哲学史観に自分なりの鋭い切り口で反証・検証出来れば良いのだが、かなしいことに、世間的には竹田青嗣の哲学史観の方が斬新で新しく、俺がこれから書くことの方が、平凡でありきたりな答えなんだ。無駄な部分や細かい枝葉末節を取り除いた竹田青嗣の方が全然切れ味鋭くて新しいのだけれども、あえて常識サイドのことも知っておかなきゃいけないということで。

スコラ哲学のスコラは、英語でいうスクールと同じ語源で、学校を意味していると。この学校では、色んなことを教えるんだけど、一番実用性が高くて需要があったのが弁論術で、ようは裁判のときに、自分の有利なように裁判官を説得し論理を展開しなきゃいけないと。で、いまの競技ディベートみたいに、クラスを半分に割って、Aに賛成サイドと反対サイドで議論して、議論が出つくしたら、賛成サイドと反対サイドを入れ替えてもう一度議論するというようなことをやっていたと。そういう学校で、言いたいことや言ってる内容は何もないのだけれども、やたら論争の技術だけはあって、裁判を起こしては自分に有利なように物事を進める非常に評判の悪い弁論家をいっぱい生み出していて、その中でも特に弁の立つ人は皆政治家になったらしいのだけど、そういうスクールの弊害はプラトン・ソクラテスの時代に既にあって、ソクラテスが裁判に掛けられるのも、若者を惑わせて口先の上手い連中をいっぱい世に送り出したからってわけだ。

このスクールはピタゴラス、プラトン・ソクラテス、アリストテレス、みんな作ってるし、作る側としてはそういう弊害が起きないよう色々配慮しているし、純粋に学問を教えようとしてるのだけれども、結果的にそういう弊害はスコラ哲学以前からあったと。また、中世になると、その学校ってのが建物としては教会を使ってやったわけだから、キリスト教の教会の教えと相反することは言いにくくなると。建物を借りているわけだし、教える人も教会関係者が多くなるし。

ここまででも、ギリシャ哲学とスコラ哲学の連続性はある程度あるのだけど、もう少し踏み込んで。竹田青嗣は世界を三つに分ける。形而上の世界と確認可能な世界と生活世界だ。形而上の世界ってのは、死後の世界はどうなっているとか、神様はどんなんだとか、天使は普段どこに住んで何をしているとか、確認も証明もすることが出来ない世界。天国があるということもないということも証明出来ないから、ここは議論の対象として扱うのはやめましょうという世界だ。生活世界というのは後期フッサールの用語らしいが、普段、家と学校、家と職場を往復している、半径3キロとか5キロの世界。これは何が事実で何が嘘かはすぐに分かる。確認可能な世界ってのは、今イラクで何が起きてるとか、政治がどうなってるとかで、普段はマスコミを通じてとか専門家を通じてしか知ることが出来ないし、彼らが仮に嘘をついていたら、その嘘を信じ込んでしまうけど、でも原理上、よし、会社辞めて一度イラクに行って事実を確かめてみようとか、実際にその場所に行って確かめて見ようということが、可能な世界。現実的にみれば、仕事も学校もあるから事実をこの目で見ることは不可能だけど、原理上、その気になれば出来るはずだという世界。で、竹田青嗣は形而上の世界は扱わないというわけ。生活世界と確認可能な世界については語れるけど、神様がどうとかいった形而上の世界について語るのは哲学じゃないというわけ。

さて、竹田青嗣はプラトン・ソクラテスを非常に高く評価するのだけれども、初期の頃の彼らはピタゴラスの影響を強く受けていて、数学的な世界を重視していた。目で見たり耳で聞いたりするような、知覚・感性の世界は、錯覚が多く曖昧だと。こんな風に見える、こんな風に感じるなんてのは、酒に酔っていたり、眠って夢をみていたりすれば、感性なんてのはいくらでも嘘をつく。感性よりも高度で嘘が少ないのは悟性の世界だと。平行とか垂直とか丸いとか四角いなんてのは、教えられなくても誰でも分かる。具体的に平行なものや垂直な物を与えられたり教えられたりしたわけでもないのに、アプリオリ(経験以前)に知っているのは、この現実世界よりも高度なイデア(概念)の世界があって、生まれてくる以前にそのようなイデアを与えられているのだと彼らは考える。そして、知覚や感性でとらえられるこの現実世界より、完璧で間違いの少ない悟性の世界、そして悟性よりもより間違いのない理性の世界に我々は近づくべきだと。そのためには、数学や論理学で理性を磨くべきだというわけ。プラトン・ソクラテスにおけるイデアの世界は、まんまスコラ哲学の神の世界だし、竹田青嗣の形而上の世界だ。

プラトン・ソクラテスの師匠筋にあたるピタゴラスなんかは数学や天文学や音楽をやっていて、太陽が地球の周りを回っているというのを計算から出していたりするわけです。俺達の知覚や感性からすると、地球が太陽の周りを回るわけがないのですが、数学や天文学を学び、理性を磨けばより間違いのない世界認識が出来るわけです。英米系の分析哲学と独仏系の実存哲学の分裂でいうと、英米系のウィ トゲンシュタインの有名なフレーズ「語りえぬものについては沈黙されねばならない」てのは、哲学というのは語りえる範囲についてのみ扱う学問だという意味で、言葉を使って語ることのできる範囲とは、言葉によって構築された世界=概念(イデア)の世界であるわけで、ドイツ系の竹田青嗣のいう形而上の世界ですよね。概念の世界のみを扱う英米系の哲学と、認識可能な現実の世界のみを扱う独仏系哲学の分裂。五感による知覚を優先させるドイツ系と概念による把握を優先させる英米系。唯名論の分析哲学と唯物論の実存哲学。

竹田青嗣は、「世界を認識する私」について問う実存哲学のルーツとしてプラトンソクラテスを持ってくるのですが、実はそのプラトンソクラテスの中に、スコラ哲学のルーツも、分析哲学のルーツも読み取れると私は思うのです。

もう少し、神の存在証明についてでも書くと、プラトンソクラテスでは、平行や垂直といった抽象的な概念がアプリオリ(経験以前)に与えられているのが、経験によって作られた現世の外にイデア(概念)の世界があるという根拠になっているのですが、アフリカの部族の中には単(一)・対(二)・多(3以上)の三つしか数の概念がない部族とかいて、数という単純な概念でも、生まれてくる以前から神によって与えられているわけではなく、数を数えるという経験によってこの世で身につけたものでしかないという話もある。

5/15 SAPIOって面白いね。今回の特集がNPOバブルって奴で、NPOを使った金儲けのからくりが書いてあるんだけど、ホームレス集めて自分達の施設に入れて、生活保護受けさせて、生活保護から住宅代と食事代を引いて生活保護を渡す。東京都の場合、住宅手当が五万円強、その他生活保護が八万で、計十四万で、うち住宅費と食費でNPOが10万もらって、残り四万を元ホームレスに渡す。もう笑ったね。俺の月収生活保護受けてるホームレスより安いの。そのNPO団体の年間売り上げが四十億とかになってるのね。すげーなと。元手が掛かるにしろ、1人月十万でも、一年120万でしょ。百人集めりゃ一億二千万。あのね、年金もらえなくなったらどうするとかって話あるけど、年金なくても生活保護だけで十分なんとかなるから。ちなみに、生活保護を受けるにはややこしい書類を書いて、審査に合格してという手続きがあるので、法を熟知したプロや役所に人脈のある有力者が必要で、普通のホームレスだけでは無理らしい。そう考えるとダメ連に高学歴の人間が多いのも何となく分かる。

ボーリングフォーコロンバイン観て書いた小ネタ。

タイトルは「世界は遊園地、ドキドキやワクワクがいくらでも手に入る」

学校にいた頃は最低だった。
いつも何かを教え込まれて、
ちゃんと身に付いているかどうかテスト。

自分が他人より劣ってないか、
他の人から変だとか、
変わってるとか、醜いとか思われてないか?
常に比較されて、
15や16でダメな奴はもう一生ダメだとおどされる。
一度脱落したらもう二度と元には戻れないってね。

ところが現実はどうだ、社会に出てみろ、
服装・髪型、チェックされるか?
テストで悪い点を取った、体育の授業を休んでしまった。
だからなんだ!深刻になるようなことじゃない。
今の自分があの頃の自分に会えたら言ってやりたいね。

人生は楽しい。世界は遊園地だ。
キラキラしたまばゆいばかりの輝き、
ワクワクやドキドキがいくらでも手に入る。
金さえ払えばね。

早稲田文学2004/5で柄谷行人さんの「近代文学の終り」と称する講演が収録されていたり、浅田彰さんが同じ講演でやはりモダンとポストモダンについて講演されていたり、東浩紀さんが波状言論の連載「crypto-survival noteZ」でやはり、近代と近代以後の違いについて書かれていたり、群像2003/8で竹田青嗣さんが「絶対知と欲望――近代精神の本質」という原稿で、近代(ヘーゲル論)について書かれていたりと、一見バラバラに動いていたように見えた人達が一つのテーマで語っていたりする。柄谷さんの話は日本近代文学の起源がベースなので、私のメルマガや何かとリンクしてたりもする。大雑把に言うと、近代というのは近代国家が生まれてから終わるまでの期間をいう。日本で言えば、近代以前の江戸時代は出雲の国とか越後の国はあったかもしれないが、日本という国はなかった。江戸時代の日本の地図をみても、北海道や沖縄が載って無いものがほとんどで、下手すると九州すら載ってない。明治に入って近代国家としての体裁を政府が整えようとした時に、日本語とか日本史とか日本文学とかを作り上げることが必要になって、政府が学者に金を出して作らせるわけだ。イギリス文学やフランス文学といった外国の国民文学を日本に輸入して文学全集を作ったりするわけだが、日本だって琉球民族がいて琉球語があって、アイヌ民族がいてアイヌ語があったように、イギリスだって北アイルランドがあったり、ウェールズがあったり、スコットランドがあったりして、四つの国の連合国であったわけだし、アメリカだって、ユナイテェッド・ステイツ・オブ・アメリカで、いくつかの州の連合であるわけだ。それを一つの国としての統一感を持たせるために、共通の歴史観(日本史)や共通の言語(標準語)や共通の文学観(国民文学)を作る必要があったと。柄谷さんの公演録をみると、近代以後は国民文学なんて物は無くなって、世界に通用する世界文学(例としてハリーポッターが挙げられる)と、世界文学として通用しないものに分かれるという話でした。近代が生まれるときにまず、それまであった出雲の国や越後の国といった世界観が壊されて、日本という近代国家へ再編成されたように、日本とかアメリカといった国の概念が壊されて、世界資本・多国籍企業・世界文学に再編成されていくというイメージだった。日本の小説でもそこそこ売れているものは世界何百ヶ国へ翻訳されて売られていくけど、通用しないものは日本の中でも通用しない。国際市場という単一のマーケットしかないんだというイメージですね。

近代国家を生み出したのが、印刷というテクノロジーの持つ宣伝力であったとすると、ポストモダンを生み出すのは、テレビというテクノロジーの持つ宣伝力であるという。江戸時代までは木版印刷で三千部ほど刷ると元の版がすりへって不鮮明になるので作り直さなきゃいけない。それが漱石の時代には一度版を作るといくらでも刷れるようになったので、漱石は第1版で定価の10%、第2版で定価の20%、最終的には定価の40%の印税を手にしていたという。近代文学がそのようなテクノロジーに支えられていたとすれば、新たなテクノロジー(ラジオや映画やテレビやインターネット)によって乗り越えられるのは当然だという。個人的には、漫画も印刷技術の向上によって生み出されたもので、初期手塚治虫の頃のような銅板印刷の時代には、銅板の上に漫画家の原稿を置いて、印刷所の人間が原稿の上をへらでなぞって銅板を凹ませることで印刷していたような時代には、スクリーントーンを多用した劇画タッチの細密な漫画はありえなかったと思う。柄谷は伝統的な民族音楽や民族衣装を着たエスキモーの人達の中にケーブルテレビを引いたら、一瞬にしてその人達の生活がアメリカ化したことを述べて、テレビによって全ては世界商品になりアメリカ化すると言っている。

5/12 ケーブルテレビの撮影めちゃくちゃ緊張した。ガチガチに緊張していたのでしゃべらないし、表情険しいしすごく無愛想な奴に見えたと思う。プロの機材って、安定走行させるために15秒ぐらい前からカウントするんだけど、キュー出されて、2秒以内のNGを3連続で出した。自分の出番が終わったらやっと楽になった。番組の中で作家で恋愛カウンセラーの安藤房子さんの恋愛相談コーナーがあるのですが、その撮影を見せて頂いた後、帰りに福冨一朗さんと安藤房子さん(通称:アン先生)と私とで、お茶させていただいて、その辺でやっと精神状態が戻ってきました。いや、鬱から躁に転じただけとも言いますが。

5/9どぶねずみ男さんからの紹介で所沢ケーブルテレビ改めメディアッティの「メディアッティ笑タイム」に出させて頂くことになり、明日収録なのですが、正直めちゃめちゃ怖いです。「笑いとは客席が何を知っていて何を知らないのかを言い当てるゲームだ」by鴻上尚史というお笑い観を持つ人間にとって、客席も客層も分からない場所でお笑いをやるのは怖い。

5/3 圧倒的にやる気のない怠惰な生活を送っている。言いたいことや書きたいことはいっぱいあるが、それは言ったり書いたりするだけの意味も価値も無いことであることも自分で分かっている。

雑誌というのは広告収入が半分を占めるから、広告主に対する配慮というのは欠かせない。編集部の意向に合わないような広告でもときには載せなきゃいけないこともあるだろうし、こんな無茶な広告と思っても載せざるを得ないときもあるだろう。ある月に出た日本のロック雑誌全ての表紙に、おそらくそれらのロック雑誌は普段なら絶対取り上げないだろうと思われる女性ポップス歌手が取り上げられていたことがあって、「分かる。あるよそういうこと。」と思わずつぶやいたこともある。

最近、一番感動したのはターザン山本氏のコラムで、ギャンブルとはいかに素晴らしいものであるかということを、シックでダンディーな文章で書かれてて、あれ?普段のこの人の芸風と違う文章だなと思ったことがあった。その雑誌はゴングというプロレス雑誌なのだけれども、文体がエクスクァイアとかMONOマガジンとかブルータスの「大人の隠れ家特集」とかの文体なんだ。人生において、働くというのはいかに時間の無駄であるのか。働かずに一生遊んで暮らすということがどれだけ素晴らしいことであるのか。そして、働かずに一生遊んで暮らすための金と時間をギャンブルによって一夜にして手に入れる。これがどれだけ素晴らしいことなのか。そういうことをお洒落でカッコイイ文体で真面目に論じているわけ。ページの半分ぐらいが細かい字でびっしりそういうことが書かれていて、こっからどこへ話が行くのかなと思って読んでたんだ。半分を超えた辺りで、ラスベガスというギャンブルの街へ話が移るわけ。

私はラスベガスが好きだ。金と酒と女と娯楽、あらゆる物が手にはいる街。砂漠の上に作られた砂上の楼閣。そのラスベガスで日本の挌闘イベントをやらないかという話が出ている。ハリウッドのムービースターやアメリカ大統領が愛用する超一流のホテルで日本発の格闘技イベント。日本人として是非成功してもらいたいじゃないか。その話が出たとき、ホテルのオーナーから「一晩で1200万円使える富豪は日本から何人引っ張って来れるのだ?」と聞かれたという。少なくともそういう富豪が10人はいないとイベントは成立しない。私などもそのイベントが開催されれば、少ないなりにも10万ぐらいの金は掛けて、そのイベントに貢献しようとは思う。しかし、私のような貧乏人が何人いても、1200万掛ける富豪にはかなわない。

ここでやっと話が飲み込めるわけ。ここまでの話は、そこへの伏線だったのかと。システムとしては、ホテルの宿泊代や食事代やサービス料、イベントの観覧料にギャンブルの掛け金全て込みでまず宿泊時に1200万円(一ドル=120円換算で、10万ドル)ホテルのフロントに預けて、一晩遊んだ後、ギャンブルその他の追加料金を精算して翌朝ホテルを出るシステムらしい。格闘技イベントに一晩で1200万円使える人を募集するコラムなのだが、普通に考えるとそんなの広告で出しても、中々志願者いないと思うし、雑誌のイメージとしても一晩で1200万使える人募集とは中々出せないと思う。それをストレートな広告にせずに、オシャレな文体でオブラートに包んでコラムとして出すところは、これがカリスマと言われる人の手腕かと私は感動に打ち震えたわけよ。大げさじゃなく真面目に。コラムの後半には親切にも、そのイベントに参加することのリスクについてもちゃんと述べられていて、ラスベガスは世界で最も自殺の多い街だとか、そのうちの何人かはギャンブルの負け分を取り立てる人間に殺された人達だろうとか、書かれているわけ。彼らは非常に優秀な人間だから国境を超えて取り立てに来るし、面子もあるから払えない場合は容赦なく処分するだろうとか言うわけ。では、こつこつ毎日額に汗して働いて貯めた金を一晩でごっそり持って行かれてしまった場合はどうすれば良いのか?また一から働けば良いのである。日本人は元来勤勉な農耕民族である。ギャンブルで失った金は無駄ではない。少なくともその瞬間は一生遊んで暮らせるかもしれない可能性を手にしていたのだから。一生遊んで暮らす。その素晴らしい瞬間を手に入れるために、また一から働けば良いのである。

泣けた。感動した。プロってこういう人のことを言うのだと思った。読者に対して無茶な商品を売りつけているのは百も承知で、でもちゃんと読み物として成立するクオリティーのコラムに仕上げている。無理のありまくる商品を広告しなきゃいけないとき、商業主義に流れちゃいけない!とか言わずに、広告主の意向に沿いながら、それでも読者の期待にも答えられる物を提供するのが一流の職人なんだと思った。

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