■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第56号 2003/8/15発行 ■ ■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1文学の民営化 文学の経済的自立を目指して、重力と新現実の2誌が創刊され、 文学フリマなるイベントも催されたと。 その辺の事情は以前このメルマガで書いたのだが http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/47gou.txt 最近、文学の経済的自立というよりも、文学の民営化ではないかと 思うところがあってですね。 江戸時代末期、文学というのは民間の物であり、 好色一代男のようなポルノは春画として 国から取り締まられることはあっても 国から保護されることはなかった。 明治になって、漱石は国の金でイギリスに渡って 国の金でイギリス文学を日本に輸入する。 この時代文学者の多くは公務員だったりするわけです。 国の金で作られた文学と民間の金で作られた文学の間に 質的な差を私は感じるわけです。 国立大で教えられる文学研究という学問と ポルノとして国から取り締まられる娯楽、 この差は大きいでしょう。 国営/民営、学問/娯楽、純文学/大衆文学、 翻訳/創作、というような分け方をして行ったときに 変なねじれが生じていてそれが、話をややこしくしているのです。 漱石は18世紀と19世紀のイギリス文学を一人で翻訳し 日本に持ち帰るという使命を持っていたのですが、 結局彼は自ら望んだ大学の教授職には就けず、 新聞屋として朝日新聞に就職し、そこで新聞小説を書き始めます。 この時期の漱石の日記を見ると、新聞屋という下賎な職に就くのだとか 大学教授が必ずしも立派な職とは限らないとか、職業に貴賎は無いとか 収入のため、金銭のためには新聞屋になるしかないのだとか、 やたら書いていて、新聞屋が大学教授より下賎な職だなんて嘘っぱちだと 言えば言うほど、大学職にこだわっていた漱石の本音がみえます。 ここで彼は、英国文学研究者から大衆小説の書き手へ転職します。 漱石が朝日新聞に入ることで、朝日新聞から去らねばならなくなったのが 二葉亭四迷です。彼は朝日新聞に漱石よりも早く入ったにも関わらず、 競争に敗れ、朝日新聞内で書く場所を奪われます。 朝日新聞社は、漱石と二葉亭四迷を競争させ 勝った方を優先的に使おうとします。朝日が当時二人に出した課題が 読者が喜ぶような創作小説を書く事で、漱石は指示に従いますが、 二葉亭四迷は創作小説ではなく、文学研究にこだわり、 折衷案として、外国文学(小説)の翻訳を行うという案を出しますが 朝日は素直にメロドラマを書いた漱石を採用します。 つまり、この時期既に、高名な外国文学研究者に大衆小説を書かせて 高級な学問というブランドイメージで、娯楽を売るという商売が 生まれているわけです。 国営/民営、学問/娯楽、純文学/大衆文学、翻訳/創作、 このような2項対立を曖昧にすることで、商売につなげるわけです。 読み手は研究だ、学問だと思って漱石を手に取る。 実際、多くの学術研究書と比べると、漱石の本は読みやすいし面白い だから売れると。 「貸本小説」 http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3f3ca732402cd01038ee?aid=&bibid=02066283&volno=0000 という本の中で昭和30年代に貸本屋と言われる商売があって、 普通の本屋には置かれない、貸本小説という娯楽小説があった という話が出てきます。 ピーク時で二万五千店もの貸本屋が日本全国にあり、 (2003年時で日本全国で200店 貸与権連絡協議会調べ) 店員は本を持って病院へ行商に行き、 テレビのない時代に暇を持て余した入院患者相手に いまのお金にして200〜300円ほどで本を貸していたという話です。 貸本屋というと貸し本漫画を私などは連想するのですが、 ここで書かれているのは、漫画でなく娯楽小説で、 冒険物・企業スパイ物・恋愛物など、いわゆる娯楽小説です。 全国H13年度小学校数23,964校 文部省大臣官房調査統計課「学校基本調査報告書」より すかいらーくの店舗数が全国 2,385店(平成15年7月末現在) 吉野家の店舗数 全国939店(19037月度現在) 図書館数 全国2,639館(2000年現在) 公共図書館集計 「日本の図書館 統計と名簿」より TUTAYAレンタルショップの店舗数 1140店 (2003年7月現在) ローソンの国内店舗数 7,625店(2003年2月末現在) この数を見た時に、 貸本屋が全盛期には小学校の数より多くあったという事実に まず驚きます。ただ、よくみると、全国チェーンの一企業と 業種全体の店舗数を比べているのだから、そりゃ多くて当然なわけですが 今現在の日本の書店の数と、全盛期の貸本屋の数がほぼ同数と言えば 分かりやすいかと思います。 大きな店を構えることなく、本を入れるカバンと営業部員が数名いれば 開業できたという手軽さも貸本屋隆盛の一因かもしれません。 貸本屋の全盛期が昭和30年代、1955〜65年。 日本の敗戦が1945年ですのでその10年後から高度成長期にかけて というのも面白いデータでしょう。 テレビの普及が急速に進むのが1959年皇太子ご成婚パレードと 1964年の東京オリンピック。 テレビによって貸本屋がつぶれたという説もあるが、 60〜70年代に公共図書館が増えているのも見逃せない。 大江健三郎・倉橋由美子(71年より長期休筆)・ 高橋和巳(71年死去)に代表されるいわゆる純文学が 60年代を境に衰退して行く、その流れというのは、 60年代の高度成長期に国や地方自治体が 公共図書館を大量に作って図書館に入れる 立派な純文学を大量に買い込んだと。 それによって、純文学が非常に大きな市場を持ったのだが 公共図書館が普及し終わり、各小学校区に一館づつ行き渡ると 今度は図書館が本で満歳になるため、 新しい本は古い本を捨てないと買ってもらえなくなる。 公共図書館が作られ終わると、文学は国が買ってくれる公共事業から再び 民間相手の市場主義経済の中に戻ってしまうのだ。 大江・倉橋・高橋和巳に、70年代の古井由吉や後藤明生まで含めても 何かこう、公共事業で成り立っている学術研究の匂いがしませんか? 80年代のw村上や田中康夫と比べて、 もしくは90年代以降の純文学雑誌に連載している小説家と比べても 良いのですが、 国営/民営、学問/娯楽、純文学/大衆文学、翻訳/創作、 という分類で行くと、娯楽より学問、創作より翻訳翻案でしょう? 80年代において文学研究と言ったときに、純文学よりもはむしろみんな ニューアカデミニズムがらみの本を読んだ訳です。 高名な外国文学研究者に娯楽小説を書かせて売るという漱石商法が 通用しなくなって、外国文学研究者の書く外国文学研究書を、 小説でなく、批評や思想や哲学や評論を 直接読めば良いじゃんとなってしまったのが80年代。 日本語で創作された小説は、学問でも研究でもなく娯楽でしょ?と なったときに、 小説が国からでなく民間からお金を集めなきゃいけなくなった時に 図書館の無料貸し出しに反対する小説家が出てくる。 馳星周のことを言ってるわけだが、 本を買う人の数と図書館で本を借りる人の数が 同数であるというデータが最近発表されて、 しかも図書館に多く入荷されて、 多く借りられるのがベストセラーの娯楽推理小説。 TUTAYAやBook off並みに、人気新刊を何十冊入れて 発売日から1ヶ月たったら中古市場に流すという扱い。 ここでも、ねじれが発生している。本来図書館は小部数の学術書、 売れないけれど価値のある研究書を保管する場所でなかったのか? からはじまって、保管よりも利用者の要求を優先するにしても、 外国の図書館は本の回転率に合わせて、著者に著作権料を払っているが 日本は何故払わないんだ?CDだって、レンタルしたら回転率に合わせて ミュージシャンにお金が行くし、カラオケだって一回歌われたら いくら作曲・作詞者に行くという金の流れがあるだろと、 何故、書物には著作権がないのだという話になる。 これ、音楽は娯楽だけど、書物は研究書だから知識は人類の共有物、 てな考えが残ってて、でも現実には、小説は学術書でもなければ 小説家が国からの金で食ってるわけでもなく、市場主義経済になってるのに 税で運営された図書館が自由主義的な市場を荒らすという 変な状態になっていて。 文学というのは、国語の教科書や文学史の授業といった国営の部分に 支えられている部分が多いのですが、そうではなく、 民営でやって行くにはどうすれば良いのかという 話になったときに「貸本小説」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757208553/ref=sr_aps_b_/250-0522418-8913008 というノンフィクション本は 一つのビジネスモデルを見せてくれています。 いつの時代も健康な人間は本なんて読まない。 だから、病院に本を貸しに行くとか、 本というのは元々誰かが誰かに語り聴かせる物であった 江戸時代の本にもこの本を買って人に読み聞かせれば どのような功徳があるとか、どんな得をするとか書いてある。 本は誰かに読んでもらうものであり、 本を買うのは自分で読むためでなく 誰かに読み聞かせるためのものであったとか 結構示唆に富んでいる。 だってね、一見貸本屋と言うと、漫画喫茶みたいなものだと思うでしょ? でも、病院の待合室とか入院患者さんに直接本を持っていっての営業とか 仕事で体を壊した働き盛りの長期入院患者に、 資格試験の問題集や参考書を貸し出す営業とか 言い出すとちょっと風向き変わるし、 著者の表現を読者が金出してまで受け止めなきゃいけないとまでなると 読書ってうぜーなとなるけど、 自分が気に入った本の気に入ったフレーズを周りに読み聞かせて 自己表現するために本を買うとなると、 また別のニュアンスが出てくるでしょ。 コンサートを聴きに行くのではなく、カラオケで歌う感覚に変わる。 この差は大きいでしょう。 黙読は表現の受容ですが、音読は表現の発露ですし、 本が黙読のためのものなのか、音読のためのものなのかでは かなり変わって来ますし。 国が義務教育を通じて、この小説を受容しなさいと言うのと 個人が、この小説のこのフレーズをみんなに伝えたいというのでは 当然違います。文学の民営化を考える上で、 「貸本小説」は私にとってインパクトのある本でした。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html 発行者 木棚 環樹:kidana@pat.hi-ho.ne.jp ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□