HP管理者日記8

7/15 ちょっと言い訳させて。某大学内の本屋行って、思想書コーナー行ったら、20才前後の女子二人が「Aさんっていまどき竹田青嗣読んでるんだよ。信じられない。馬鹿だよねぇ」つってて、俺もよく、ネットで(ネット以外ではこんな話できる友人がいない)竹田青嗣のどこが良いの?つって言われてその本屋行くまで、質問の意味が分からんかってん。今日大学生協の本屋行って本棚見て分かった。10年前竹田青嗣コーナーには竹田青嗣の書いた入門書「意味とエロス」や「現象学入門」やがいっぱいあった。いま行くと、10年前竹田青嗣が書いた本の子引き孫引きが入門書コーナーに竹田青嗣じゃない名義でいっぱいあって、竹田青嗣コーナーは対談集ばっかり。良い本は書店から消えて悪い本だけ書店に売れ残るという最悪なパターンで、こりゃ竹田青嗣への風当たりもつよなるわと。ブームってのは何かを必要以上に持ち上げて、そして必要以上に叩き落す行為だとすれば、今一番叩き落とされてる周期に入ってるんだろうなと。

言い訳すると余計ドツボにはまるかもしれんけど、俺の名誉のために言っとくと、いまの学生さんハタチの学生さんは10代で竹田青嗣ブーム経験してるから小中学校で下手すると竹田青嗣読んでる。そういう人からすると「大人にもなって竹田青嗣って・・」ゆうツッコミも分かる。俺いま27で、この歳で竹田青嗣ゆってたらヤバイでしょってのも、ワカランでもない。専門用語を使わずに日常語だけで哲学を語るスタイルが馬鹿っぽくみえるのも分かる。でもな、竹田青嗣のゆう「エロス」ゆうのは、ギリシャ哲学の専門用語やで。それ分からずに、「ああ、この人はポルノが好きなんだ」ぐらいの認識で批判するのは止めようや。

竹田青嗣があの時代どう新しかったのかって辺りを書くと、80年代の浅田ブームがあって、浅田彰って「構造と力」除くと対談集とインタビュー集とエッセー集ばっかりで、理論的な本が無いと。実際には最近の建築関係の本や批評空間での仕事が対談とはいえクオリティー高いんだけど、80年代浅田の書いた理論書は「構造と力」だけだったと。80年代頭の浅田の対談ってのは、専門用語と固有名詞をいっぱい並べてそれを、好きだ嫌いだ知ってる知らないと言ってるだけのが多かった。「ドラゴンアッシュ知ってる?」「日本初のHIP‐HOPだよね」「ドラゴンアッシュの前にイーストエンドプラスYURIやスチャダラ居たけど、不良っぽさを前面に出したのはドラゴンアッシュが初めてでしょ」「砂原まりんの新譜聴いた?」「あ、それも知ってる。音響っぽい奴でしょ」ってな感じの、ドラゴンアッシュ・HIP‐HOP・イーストエンド・スチャダラ・砂原まりん・音響と専門用語や固有名詞が並ぶけど、その単語の意味が分からなきゃ読めない文章で、かつその単語の意味が分かる人には読む価値のない会話ってのが多かった。個々の固有名詞や専門用語を話者が好きか嫌いかってのは読者にはどうでも良いわけで、本当はそれらの固有名詞や概念に対して分かり易い説明や深い考察が必要だったのが、好き/嫌いの話をしてしまった。ちなみに当時は好き=ポストモダン、嫌い=モダンという専門用語で区分けされて、その区分けの表が構造と力の最後に載ってます。

小阪修平のイラスト思想史シリーズがあの時代出されるんだけど、それも「西部邁-大衆批判。廣松渉-疎外論。デリダ-脱構築。フーコー-知の考古学」と、固有名詞と専門用語をくっつけるだけの歴史年表みたいな内容で、「源頼朝-鎌倉幕府。徳川家康-江戸幕府。」ゆわれても、江戸幕府や家康のことを知らない人が見たらさっぱり分からんと。多少成りともそれらの専門用語や固有名詞を知ってる人が見て初めて、頭の中が整理される、情報整理に役立つ。そのぐらい内容だった訳です。

別冊宝島で「わかりたいあなたのための現代思想・入門」が出て、その後「自分を知るための哲学入門」が筑摩書房から出た(個人的にはこの「自分を知るための〜」が竹田青嗣で一番お勧め。筑摩書房は哲学関係はしっかりしてるね。ちなみに「自分を生きるための哲学入門」は似たタイトルだけど×。)辺りで、やっとニューアカの専門用語が日常語として理解されるようになったわけです。竹田青嗣さんは浅田さんが書かなかった部分を主に書いてるわけで、相互補完的なんですね。浅田さんの本が外国の偉い思想家の理論をトップダウンで輸入する演繹的な物であったとすれば、竹田青嗣さんの本は自分の日常生活を掘り下げて行きながら理論に到達しようとする帰納法的な物であったと。浅田さんは外国の優れた思想がじゃあ、今日本に住んでる僕達の日常生活とどう関係するの?って部分は書かなかった。その立派な思想家は、どのような社会的状況の中で、どんな必要性から、そんな理論を考えたのか。その理論が出てくる個人的な動機や社会的な背景を書かなかった。浅田さんは立派な答え=理論を出してくれるけど、どんな問い=動機に対する答えなのかは、教えてくれなかった。竹田青嗣は理論を書くのではなく、理論と日常生活との接点を書こうとした。だからさ、よく「白樺派とか、金八先生とかみたいな人生訓たれる人でしょ?」つう竹田青嗣批判あって、確かに対談集やインタビューだけ読むとそういう気もするけど、十年前に書いた書き原稿の中には質の良いのもあるんだよと。

一例出すとさ、竹田青嗣の後、色んな人が哲学入門みたいなの書いて市場荒らしてるけど、その中にはさ、ニーチェの「神は死んだ」つう言葉を、「神様がいなくなり、希望が無くなった現代。でも、その希望がない中を生きていこうとニーチェは言いました。」ってな意味だと平気で書いてる解説書あるんだ。著者みると、アルファベットのガイナックスをもじったペンネームでどっかの大学の哲学科の講師らしいんだけど、ペンネーム使ってる地点で怪しいって。ちなみに竹田青嗣的には、カントの認識論で行くと、机の上のコップをアメーバ-のような微生物が見た場合と、昆虫がコップを見た場合と、人間が見た場合ではまったく別の認識になる。アメーバ-・昆虫・人間、それぞれにそれぞれの認識の限界がある。完璧な認識というのは神しかできない。神にしか分からない領域というのがあるのだってのがカント。ヘーゲルの場合、バイオリンを弾けない人にとってのバイオリンと、バイオリンが下手な人が弾くバイオリンと、上手い人が弾くバイオリンでは同じバイオリンでも全然違う。より上手い人の方がそのバイオリンの持ち味を引き出せる。つまり、よりそのバイオリンを深く認識できる。人間はいくら努力しても完璧=神には成れないから、そのバイオリンの100%を引き出すこと(=完璧に認識すること)はできない。でも、努力をすることで少しでも完璧=神に近づくことは出きる。となるのがヘーゲル。で、ニーチェの「神は死んだ」ってのは、カントやヘーゲルが言ったような完璧な認識=神はありえない。つまり、客観的な世界ってのはどこにもなくって、ただ、人間・生物の数だけ主観的に解釈された世界が並列されるだけなんだと。神の死ってのは、客観世界が無くなったという意味に、竹田青嗣は解釈する。ずいぶん違うやろ?有象無象の解説書とは。ってなこと書いた後こんなHP観ると、俺が精神科に強制入院させられる日も近いなと。

WEBに余計なこと書くの辞めようと何度も思ってんけど、実際、ここに書く事で自分にも他人にも迷惑掛かることあるんやけど、書くの止めると、自分の内側に黙読してるときの声が延々流れてくるねんな。吐き出さなやってられへん。かといって、ここで書いてるような内容、しゃべれるような話相手居るかっつったら居ーひんねん。職場で、同僚に、取引先に、家庭内で親に、子供に、地域の中で御近所に、こんな話出来るかゆうたら、できひんねん。内側に溜まった物を吐き出す。精神治療の一種やわこれ。ここ読んでるあんた。精神科医やよ。俺の主治医。

ロリコンに関してやねんけど、SEX・思想・精神病つうリスキーな3大話で申し訳無いんやけど、日本の代表的なロリコン写真集つうと、プチトマトつう雑誌の撮影:清岡純子 被写体:まゆってのが有名で、内容的には10代の巨乳の女の子が多いと。俺の中では、これ全然ロリコンちゃうねん。ただのエロ本やんと。外国だとデビッド・ハミルトンつう写真家が撮った「陽のあたる場所」つう写真集があって、ロリじゃ無い人も表紙の写真ぐらいはどこかで観たことがあるはず。名前ゆわれても分からんやろけど、観たら必ず、「あーー、これどっかで見たことある」ゆう奴ですわ。ハミルトンの方は俺の中ではに入るんです。

プチトマトとハミルトンの違いつうと、単純にハミルトンの方が照明がきれい。ハミルトンの方が構図がきれい。ハミルトンの方がモデルがきれい。つう、クオリティーの差に行っちゃうんだけど、そこへ藤田朋子の「遠野物語」撮影:アラーキーを持ってくると、また違ってくるんだな。まず、アラーキーのエロ写真は俺、基本的にあまり好きじゃなくって、和服・縁側・縁台・行灯がある和の世界がダメなんだ。アラーキーが和にこだわるのは一つは海外進出の意欲があるからで、洋雑誌観てるとたまにアラーキーの写真が載ってて、電柱に縛り付けられた和服の女性の半裸だったりするんだけど、まあ、日本人が外国に出て行こうとすればそうなるってのは分からんでもない。もう一つはアラーキーの幼少の頃の記憶がああゆう、和室の一戸建ての和服のつう世界だったと思うんだ。俺の場合、幼少の頃の懐かしい映像、原風景つうと打ちっぱなしのコンクリートで出来た市営住宅だからさ。化粧剤塗ってない古びたコンクリートのシミとかヒビとかは懐かしい感じがして好きなんだけど、アラーキーの撮る和の世界は、俺には怪談の中に出てくる映像の中でも特に気味悪い部類に入る絵なわけで、エロ本とゆうよりゴシックホラーに見えるんだな。

それはともかく、遠野物語の中で、和服でも和室でもない映像が一部あって、物凄くきれいな照明で、きれいな構図で撮ってて、ハミルトンだなと。相当きれいなロリコン写真だぞと思った。思った後で、藤田朋子のどこがロリなんだというツッコミがまた来るなと思って考えた。10代の巨乳の女の子が出てるプチトマトは俺の中でロリじゃないと。でも、推定年齢30かな、藤田朋子が出てる遠野物語は俺の中でロリコン写真集だと。ロリかロリじゃないのかが、自分の中では必ずしも年齢の問題ではないと。光や構図の問題なのかと。それもある。でも、もっと別の問題もそこに隠されてるような気がした。

日本のロリ物つうと童顔で巨乳つうのが売りなわけです。こんなに幼いのにボールのように丸い乳。とかキャッチコピーだったりする。それは違うやろ。と、ずっと思ってた。プチトマトでもそんなんです。胸の形が丸い、もしくはお椀型。遠野物語の藤田朋子観ると、胸が富士山型なんですね。丸くない、とんがってる。これや!思ってね。ハミルトンもそうなんです。胸を真横(女性に対して右側)から観たときに、縦にY軸・横にX軸を引くと、丸い胸というのは二次関数:x=−(yの二乗)+10ですわ。それに対して、藤田朋子は反比例のグラフ:xy=|10|(x≧0)のようにえぐれてる、無限遠点でしか交わらないわけです。これが正しいロリコン写真集や(自爆)思ってね。

7/9 いままで柄谷ってのは消費されない思想家の代表だった訳ですよ。内容はある、でも難しくて読めない。だから消費されずに長く残る訳です。消費量(分かり易さ)×耐用年数=思想の絶対量だとすれば、柄谷の耐用年数の長さは分かりにくさと絶対量の多さから来てた。柄谷は自分と同じ分野の研究者相手に書いてるとこあるから、易しく書こうなんて意識はそれまで無かった。

それが竹田青嗣辺りが出てきて、柄谷や浅田やデリダを中学生や高校生でも読めるように解説書を書き出した。竹田青嗣さんは、知は権力で、権力やルールは無ければ困るけど、少なければ少ないほど良いつう考え方の人で、フーコーの権力論に近い人やね。医者は患者よりも医学に関して知識を持ってる。だから患者は医者に「こうですよ」と言われると、それに従わざるをえない。そして医学の知識と言うのは6年間大学に行って、ドイツ語を勉強して、留学してインターンに入ってを経験しなければちゃんとした専門家になれない。ってのが柄谷だとすると、竹田青嗣は、そういうのは医者の権力を増強するだけじゃないかと。専門家向けじゃなくって、一般向けに「薬の辞典/ピルブック」があって、どの薬にはどんな作用と副作用があって動物実験の結果どうだったかってのを、難解な言葉使わずに誰でも知れる形で知れるなら、その方が良いんじゃないの?つう人です。英語と日本語とフランス語がごちゃ混ぜになった論文を書く浅田さんや、世界の名著シリーズに入ってるような全集は当然教養として読んでることを前提に物を書かれる柄谷さんの本を中学2年の女の子(朝日や読売などの一般紙やニュースステーションが、中学二年生の女の子が分かる言葉でという表現をよく使う)でも分かる言葉で解説しちゃえってのが竹田青嗣さんです。元々、竹田青嗣さんや小阪修平さんや西研さんが所属してた「ヘーゲル平らげ研究会」ってのは、当時(80年代初頭)浅田彰の本を読みたいけど読んでも意味が分からないという大学生を交えて、学生相手に世界の名著全集を片っ端から要約して行ったらしいのですが、柄谷さんが全集を読んで身に付けていることで専門家としての特権的地位を確立してるのなら、その何十巻もある哲学全集を分かり易い言葉で書かれた一冊の薄っぺらな本に要約しちゃえ、そうすりゃ知識=権力を大衆の側に一部取り戻せるんじゃないの?つうとこに情熱注いだと思うんですよ。で、面白いのは日本の場合、大学生は勉強しないじゃないですか。自分に知的エリートだという自意識があって、その自意識からものを勉強するのって有名私立に通う小・中・高校生なわけで、竹田青嗣さんなんかでもほんとは、分かり易い言葉でっつっても大学生が読むはずと思ってたと思うんだけど、意外と低年齢層に行っちゃって、俺なんかも中学のとき、公立の頭悪い奴だったんだけど、小阪修平のイラスト西洋思想史が学校の図書館に入ったとき衝撃的だったもんなぁ。これだよこれとか思ったもん。

で、難解側に居たはずの柄谷さんが、NAMで異様なぐらい分かり易い言葉を使ってる。社会運動みたいな物を作ろうとするとき、難解な言葉で少数精鋭じゃ話にならないから、ある程度大衆も仲間に取り込んでってことなんだと思う。インタビューで面白かったのは、「ニューヨークタイムズを読んでるような大衆は」つう表現があって、ニューヨークタイムズでも大衆なんだと驚いて、文字読まないTVしか観ないってのは柄谷さんの中じゃ大衆ですらないんだろうなと。

ただ、俺と同世代(団塊世代でNAMってのには多少敬意を払う)でNAMに行ってる人って、保守化してNAMなんだな。柄谷の消費の仕方が「チーズはどこへ行った」「金持ち父さん、貧乏父さん」とあまり変らない。ラジカルに世の中を変革してやるぜっていうよりもは、80年代、幼稚園ぐらいから有名私立行くための受験勉強させられて、良い学校行って良い会社入ったら楽できると教えられた俺ら世代、安定した平和な世の中しか知らない俺ら世代の奴が、一流企業もつぶれる、一流大学だって少子化でつぶれる。一体どうなってるんだと。安定した社会の中で良い学校、良い会社、安定した生活って世界観しか与えられてこなかった奴らが、安定を求める保守的な思考でビジネス書として柄谷読んでる。そういう消費のされ方がなんか違うなと。

著者的には大量消費されることを望んでたかにみえる東さんの方が相対的に昔の柄谷の方へ行ってる。たぶん本人は浅田彰的な消費のされ方をすることを望んだんだと思うんだけど、浅田さんの本は実用書としてみたとき、社会構造は安定していて、効率の良い生き方ははっきりしていて、良い学校・良い会社ってのが良い人生だとなってる中で、それとは違う物を示したんだけど、それは安定した社会なんて嘘っぱちだ、加速度を上げて混沌の中へ逃走しちゃえつうのは、フィクションとして娯楽として楽しめたけど現実的にどうすれば良いという方法が無かった。東さんのデリダ論の3・4章は浅田さんの構造と力の図を持ち出してきて、それをさらに緻密化して推し進めてるんだけど、時代の流れが、知的な面白味のある理論より、具体的に俺らの生活どうしたら安定するの?って方向行ってて、「チーズはどこへ行った」の隣においてあるNAM関連本へミーハーな流れは行ってるねんな。デリダ論の3・4章目はいまはまだ消費=理解されてないけど、消費できないだけに柄谷的な残り方すると思う。

7/6 60・70年代のスター思想家つったら吉本隆明で、80年代は浅田彰、90年代竹田青嗣ときて、ひょっとしたら2000年代って柄谷行人なのかもなって辺りで、この辺プラス東浩紀さん辺りを俺なりにちょこっと整理してみたい。

まず、大きな物語ってのは、親子3代の物語だって話で、なんにもないアメリカの荒野に渡ってきたイギリス移民の話をしてたんだけど、第2次世界大戦で日本が焼け野原になっちゃったってのも、新大陸の荒野に立った移民の家族と似た状況だと思う訳です。その例えで行くと吉本隆明は移民1世、柄谷・竹田青嗣は2世で、東浩紀や私などは3世になるわけです。

都市のインフラ・旧社会を支配してきた財閥・過去から続く教養や伝統それらが一度リセットされて、無意味になってしまった。その状況が第二次大戦の敗戦ですね。それと似た状況は明治維新時にも起きてます。士農工商が四民平等になり、江戸時代メインカルチャーだった歌舞伎や浄瑠璃や俳句や日本庭園の庭師やなんやの文化が一度リセットされて、西洋文化の輸入を急ぎます。漢詩や短歌や俳句に代わり、西洋の近代文学を漱石やなんかが輸入し、歌舞伎は西洋式の新劇に移り、鹿鳴館を建てて毎晩舞踏会をやった。何故それをやらなきゃいけなかったかというと、欧米の植民地になりたくなければ、欧米の文化を身に付けた欧米人に成らなきゃ行けなかったからです。日本人の文化を捨てて、欧米人の文化に移行することが、日本の植民地化・奴隷化を防ぐ唯一の方法だった。だからイギリス文学をやってる漱石やドイツ文学をやってる鴎外は偉いとされた。

江戸の井原西鶴や馬琴やってのは文芸という娯楽で、明治の漱石はイギリス文学という学問だった。文学が成立するには先進国からの軍事的圧力が前提になければならない。ちなみにイギリス人にとって娯楽的なイギリス文芸は存在しても、アカデミックなイギリス文学って存在してない。なぜなら、イギリス人はイギリスからの軍事的圧力を感じてないからなんだけど。

自分達の内側にある日本文化を否定し、欧米の先進国の文化に従う内側からの植民地化のみが、外から軍事的に植民地化されることに対する唯一の抵抗手段だった。明治や1945年の敗戦直後のそういう状況下で、内側からの植民地化に抵抗したのが移民第1世代の吉本隆明と、移民第2世代の柄谷だったというのが前回までの話で。

で。東浩紀さんは大きな物語がポストモダン化した現在では存在しないんだということを言ってる。外国に偉い思想家が居て、その言葉を輸入することで自らも偉い思想家であるかのように振舞える。そういう状況じゃ無いんだと言ってる。軍事力によって打ちのめされた経験を持たない移民第3世代にとって、偉大な先進国や外からの軍事的脅威は存在していない。そうするとなんでわざわざ苦労して外国語を勉強して外国の難解な思想書を読まなきゃならないのか分からない。もっと身近なJ回帰に行きつくいた方が分かり易い。第2次大戦以降はベトナム戦争や湾岸戦争やポーランド紛争やアイルランド紛争といった、大国対小国の戦争はあったけれど、大国間の戦争は存在していない。少数民族が大国に独立戦争を仕掛ける場面はあったにせよ、先進国に住む多くの人は戦争を経験していない。移民第3世代だと言えると思う。

戦争という激しい国際交流がなければ海外への関心も薄れる。ってのと同時に、戦争とは別な形の国際交流。みんなニコニコして仲良しってのじゃなく、A国とB国どっちが上かを決める競争的な国際交流への欲求も出てくる。例えば最近のWカップの盛りあがりとか、日本人野球選手の大リーグでの活躍とか、柄谷のアメリカ進出とか。吉本隆明ってのは野球でいうと王・長島だった。日本じゃ国民的英雄でもアメリカ人と勝負すると全然試合にならない。そういう世代だったのが、柄谷はアメリカに行って、勝てる勝てないは別にして、勝てるつもりで試合をしてる。吉本隆明に「国外に出るべき」と言い続けてきた人が自らアメリカに渡った。これはわりと大きな物語だと思うんですよ。

NHK教育TVの十代の子達を集めてやる討論番組で、右翼と左翼に分かれて討論みたいな設定だったんだけど、右翼と左翼みたいな大きな物語は10代の子達の中じゃ完全に壊れてて、右とか左とか分からないって側についちゃう(笑)。NHK側の議題の設定ミスだと思うんだけど、その中で面白かったのが、オタク代表でオタキングの岡田さん出てて、右翼の人が「日本はアメリカから軍事的独立を果たすべきだ。憲法で自衛権を保障されてるのだから、いつまでもアメリカの管理下にあるのはおかしい」ってなこと言った時に、右も左も分からない、ロシアが昔、ソビエト連邦だったことすら知らない子達も、そこだけみんな拍手して歓声上がったんだ。したときに、オタキングが「日本が独自の軍事力を持つと言うことは日本からアメリカに対して独立戦争を仕掛けるってことだよ。それでもやるの?」って言ったときに、みんなしゅんとして、黙っちゃって次の話題に行ったんだ。右とか左とか分からなくても、そのぐらいの現実認識は10代の子達にもあるわけ。して柄谷がやってることってのは、日本からアメリカに対して思想的な意味での独立戦争を仕掛けるってことで。これは大きな物語として充分成立してると思う。

日本初!お茶漬けラーメンの店
都営地下鉄東西線高架橋下の浦安メトロセンター入口に「元祖お茶漬けラーメンの店てんてん」がある。うす味のスープに、お茶づけの素とうめぼし、鳥のからあげ二個がのった、文字通りお茶漬けラーメン。うめぼしとスープが意外なほどマッチしたこの組み合わせ。

正しい食べ方は「どんぶりの底でうめぼしをほぐしてスープになじませてから食べる(店長談)」らしいが「細かいことは気にせずに、とにかくうまいんだから食ってみな(同)」ってなもんだ。ほぐしたうめぼしと緑茶の香りとお茶づけの素の絶妙のハーモニー。緑色の緑茶スープは、いっけん新しいが食べてみるとどこか懐かしいこの味。あの深夜ラジオを聞きながら受験勉強していた頃の夜食の定番「お茶漬け」の米が麺に変わったようなものだと思ってもらえれば分かりやすい。「超低カロリー、とってもヘルシー。特に女性の方、お年寄りの方、泥酔された方にお勧めです」とメニューにも書いてあるように、胃にもたれないあっさりした食べ応えで、飲み会の後のとどめのラーメンに最適。難を言えばこの店の人気メニューのため、閉店間際に食べに行くとたいてい売り切れていたりする。どうしても食べたい人は昼食時に行けば手に入る。他にもこの店では、ビールよりちょっぴり安い値段で上野ダンボール系路上生活者の定番になってるホッピー(三百八十円)や「百円ビール」ってのもある。百円ビールはコップにビールを注いだだけという代物で、

「110番に捕まらない、100円ビール」ってコピーがダサカッコイイ。

さらにはジョッキごとビールを凍らせた「凍結ビール(大ジョッキ六百円・中ジョッキ四百八十円)」。ジョッキの周囲が凍りついたまま持ってこられるんだけど、素手で持つとジョッキが冷た過ぎて指先が痛い。ジョッキの外側が白く霜が降りてるのは当然として、ジョッキの内側も五ミリほどの厚さでびっしりと凍ったビールが貼りついている。飲んでるうちに内側の氷がとけてきてビールの上に浮いてビールフロートになる。口の中でザクザクシャーベット状の食感がたまらない。氷入りのビールだから氷が溶けるとビールが薄くなるかってぇーとそうじゃない。ちゃんとジョッキごと凍ったビールがとけて浮いてるだけだから、氷がとけてもビールのまま。とにかく、おいしく頂けます。  珍しい物好きにはうってつけ、ごくごく身近な非日常を体験出来る。「元祖お茶漬けラーメンの店てんてん営業時間午前11:30〜午前1:00」

嘘っぽいきれいさやろ擬似リゾート都市新浦安
メルヘンタウン化した人工都市新浦安には目を見張るネーミングセンスがある。まずすごいのが小学校の名前が「日の出小学校」まるでサザエさんにでも出てくるような漫画チックな名称だが、これが学校の実名だったりする。通りの名前一つとっても「しおかぜ緑道」、広場一つとっても「少年の広場」とNHKの素人参加討論番組の名前みたいだ。公民館も浦安市民プラザ「WAVE 101」とFMラジオ局か外資系レコード店のノリ。町名に至っては、夢海の町・望海の街・海園の街・海風の街と、まるで愛称、とても正式名称には思えない。さらにその近くにあるのが東京ディズニーランド・・・これは本物だけど、「東京」を名乗ってるとこがすでに嘘つきだし。他にはMONA新浦安はまるで現代美術のイベント名を思わせるし、パークスクエアにシンボルロード、ベイシティ浦安に、EL・CITYと何からとったのか分からない名前まで。なんでこんなにメルヘンチックな名前が並ぶのか。それはこの辺りが最近開発されたばかりの場所で、もともと何にもない場所だったところに町を作っちゃったものだから地名も何も付け放題、どうせだったらカッコイイ名前をつけちゃえってことでつけたのが、上のような名前だったってわけだ。南国風の街路樹が夏は良いけど冬は嘘っぽいんだよ メルヘンなのは地名だけじゃない。写真を観ていただいても分かるように、南国の観葉植物に彩られた街並みはまさにメルヘン。人さえ居なきゃハワイかグアムと思ってしまう。ただのベッドタウンなのに一階にガラス張りの三角出窓やカフェテラスがあるだけで、オシャレに感じてしまうのは木造家屋で育った日本人の哀しいサガか。正直、住んでる人にとって歩道から中が見えてしまうガラス張りのカフェテラスや三角の出窓なんて何の実用性もないと思う。実際、出窓はカワイイぬいぐるみかファンシーグッズを家の外の歩道側に向けて設置し、出窓から部屋の中をのぞかれないようカーテンを閉めちゃうなんてのが多くて、部屋の中に光を取り入れたり、出窓に観葉植物でも置いて部屋の中からみて美しいインテリアにするってなことは誰もしていない。誰のための出窓だと思うんだけど、そこはオシャレな街の住人達、部屋の前の歩道を通り行く歩行者へのミエとサービスってのが行き届いてる。  そうこんな光と風の魔術師鈴木英人な街では日本全国どこにでもあるはずのローソンさえ、リゾートチックに思える。中に入ると、かかる有線は地元密着型ラジオ局のBayFM。番組スポンサーの紹介も「ららぽーと三階入ってすぐ右の・・」なんておしゃれ過ぎ。客もサングラスに半ズボン、アロハにサーフボード。日本型西海岸がここにはある。

コンサートの終了時間をアナウンスするマック
JR中央線水道橋駅前のマクドナルドは東京ドームの前にあるためドームのイベントが終わるとドームから何万人規模の人間が移動をはじめ、マック店内が満席になる。そのため、ドームのイベント終了数分前に「ただいま、東京ドームにて、ルナシーのファイナルコンサートが終了致しましたので、店内が込み合うことが予想されます」などと放送が流れる。

キンキキッズは回文がお好き
キンキキッズのコンサート名が「きんきらキンキ」で、タレント本のタイトルが「どうもとモード」と頭文字=末尾の文字になるネーミングが好きであることが判明。言葉遊びが過ぎて、駄洒落オヤジにならないことを願う。

柄谷行人、取次ぎを通さない書籍流通を模索
アメリカに渡っていた思想家の柄谷行人氏は自らの新刊&(著者いわく)主著である「トランスクリティーク」を取次ぎを通さずに直接書店と取引するらしい。発行元は新たに立ち上げる批評空間社との噂。書籍の流通に風穴をあける事件となるか。

週末の浦安に女子高生フォークデュオ
毎週末、夜に西部浦安店内ドトールコーヒー前、第一勧銀アーケード下で女子高生二人組デュオの路上ライブがある。  「ゆず目指してます。KUZU」  と書かれたスケッチブックを看板に、ギターとタンバリンで歌う二人はこの街のちょっとした顔役。アーケード下という好条件もあってか、雨風に関わらず週末の夜は必ず歌っている二人の周りには常に何人かの常連客がついている。こんな夜中にジャージ姿の女子高生が何してると、目じりにしわを寄せる大人達にも、ウィークデーの疲れが背中ににじみだしたままトボトボ帰宅する大人達にも、しっかりと目の前の客を見つめながら、彼女達は歌いかけている。

正月のディズニーランド
ディズニーランドの入場者数が一番多い日は12月31日で、その日から正月にかけてのオールナイトチケットは、枚数限定で入場制限もあるのは有名な話。  だが、正月入場のチケットには入場制限が無いため、最寄の駅からディズニーランド直行バス乗り場までの待ち時間だけで3時間待ちだったとか。この事態にディズニーランド側も職員を最寄駅数カ所に配置して対応。

CDレンタル屋でさ、ブルーススプリングスティーンの歌詞カードを読んだんだけど、あれって演歌とどこが違うの?ついでにエミネムの歌詞も読んだんだけど、あれって古館伊知郎のトーキンライブと何が違うの?ロッキンオン読んでるって言うと、色んな人に馬鹿にされるんだ。で、馬鹿にする奴に何読んでるのって聞いたら、ギターマガジンとか群像とかいう答えが返って来るんだけどさ、ロッキンオンってのはロックの歌詞を読む文芸誌なんだよ。リットーミュージック系のギターマガジン・ベースマガジン・ドラムマガジンはどれもロックの楽器演奏に関する雑誌だけど、ロッキンオンはロックの歌詞を読み書きする文芸誌なんだな。で、文学は元々文字ではなく声だったってことを主張してる俺としては、「文学なんてダサいぜ!」っつうロックキッズは文学=言葉に頼らない純音楽=インストゥーメンタルに専念すべきで、言葉が乗った文学付きの音楽なんて聴いたり歌ったりすんなよと思うんだけど、もっと言えばオリジナル曲を作って著作権を主張したいなら、ギターのような既製の楽器は使うなよと思うんだけど。木琴とか鉄琴とかパイプオルガンなんか典型だけどその楽器を作った人の音階で音楽をやるってのはオリジナルと言えるのか?単音で弾けば全部既にその楽器の製作者が出した音だぜ。だったら机を叩いてのデスクパーカッションや金属バットを糸ノコで弾くスチールストリングスのバットリンの方がオリジナルと言えないか?現に「たま(Exサヨナラ人類が大ヒット)」は木製のおけを叩いてたし、クレージーキャットは金たらいにパチンコ玉入れて演奏してたぜ、そゆのをオリジナル曲っつうんじゃねぇーの?つまりアレだよ、オリジナルの芸術作品を作る天才芸術家という概念は、ゲーテによって作られたつう柄谷の考えを音楽に転じると、ある時期まで、例えば1950年代の黒人ブルースミュージシャンは伝統的なブルースを伝統的な方法で演奏する古典芸能の職人だったわけで、酒場でギター一本で流しやってるところを、ちょっとレコーディング室で一曲歌ってくれよつって、ボトル1本付けとくからちゅわれて、録音室で一曲歌ってバーボン一本もらって、著作権も何も無かったわけじゃん?それがいつから、著作権を主張するようになったのか?音楽産業って奴がどのようにして生まれ育ってきたのか?それを考えるときエルビスプレスリーと大佐の関係とか、ビートルズとブライアンエプスタインとか、面白いんだよね。

レコードがまだ無かった頃、音楽を保存する方法は楽譜とオルゴールだけだった。メロディーは保存できたけど、リズムや音色は保存できなかった。当然、リズムや音色に対する著作権も主張できない。いまではハーレーダビッドソンのバイクのエンジン音に著作権があって似たエンジン音を出すバイクを無断で売ると訴えられるからね。映画やレコードの中でハーレーのエンジン音を入れるときはお金払わなきゃいけない。バイクのエンジンでそうだってことは、ギターメーカーやピアノメーカーが「我が社の楽器を個人で楽しむ以外に営利目的で無断使用することは禁止されております」とか言い出すとどうなるのかね。ギターやピアノだとギャグっぽいけど、シンセのプリセット音やサンプラーの音素材に成り出すと、実際そういうこと書いてあるからね。楽器なのに演奏を録音しちゃダメとかなんとか。

6/19 60・70年代のスター思想家つったら吉本隆明で、80年代は浅田彰、90年代竹田青嗣ときて、ひょっとしたら2000年代って柄谷行人なのかもなとか思ってみたりしてですね。ネットでそっち系の人としゃべっても柄谷口調の人多いもんな。

学者の世界ってのは基本的に外国の文献を日本語に翻案するのが主な仕事だったりするんだけど、日本独自の思想をなんとか打ちたてようとしたのが吉本隆明で、あの人の戦略ってのは、欧米の学者の方が俺達よりもどう考えてもエネルギッシュだし優れてる。まともにやって勝ち目がない。だから、彼らが扱わないような日本ローカルの問題に限定して仕事をして行けば、世界的にみてもそれなりに意味のある仕事になるんじゃないかってやつで。柄谷はそれに対して、欧米人と同じテーマで同じ話題で対等に渡り合いたい人なんよな。それは、軍国主義教育を受けて欧米と戦って敗戦という経験をしてる吉本隆明と、敗戦したかもしれんけど直接自分が戦ったわけじゃないという柄谷との世代の違いだと思うんだけど。

柄谷の「吉本批判=外国に出るべき」を言い続けてきた本人としては、アメリカのコロンビア大学から教師として招かれれば当然アメリカに行って物を教えようとなりますが、問題はそこで何を教えるかですね。以前に一度アメリカで教授をしてたときの公演論文が「日本近代文学の起源」なんだけど、あれだと隆明と変らんわけやん。日本文学という日本ローカルな対象を使って出てくる理論がローカルとは限らんけど、少なくとも扱う対象は日本というローカリティーを使ってるわけでさ。

じゃあ、柄谷の代表作といわれてる「探究」を持ってアメリカに行くかというとそれもキツイと。ネットで柄谷口調の人は論争になったときに相手に対して専門知が足りないとか国際的な視点が欠如してるとか留学経験がとかいうのですが、柄谷がアメリカに行った時、柄谷よりも国際的(=アメリカ的)な視点持って、海外経験(=在米経験)豊富な奴っていくらでもいると思うねん。まして専門知言い出したらやね、探究でウィトゲンシュタインやカント扱ってるけど、大学教授ってのは細かく区分けされた縄張り内において第一人者だったりする訳です。論争で敗北すること=失業を意味するような業界において、例え狭くてもこのジャンルでは誰にも負けないという看板が各学者にある。この分野を研究してるのは日本で現役バリバリの学者内では私だけで、上は引退した某老教授がこの分野の第一人者だったけどいまは私がそれを引き継ぎ、下は院生クラスに一人私の部下がいるけど、このジャンルではいまのところ私は第一人者だと。いう縄張りがあるのが大学教授で、例えばカントの専門家であれば、その分野を30年40年やってるわけですから、カントが有名になってからのスケージュールってのは何年の何月何日に誰とどこのホテルに宿泊してその宿泊台帳の写しを自分が持ってるとか、何年の何月何日に誰宛てにどんな手紙を書いてるとかものすごく詳しく知ってるわけです。それを専門知と呼びたい呼びたくないは別にして、そういう人とカントに関する議論して勝てるほど柄谷はカントがいつどこで何をしたとか、何年の何月何日のカントの昼飯は何だったとか知らないと思うんですよ、知る必要がないとも言えますが。そのぐらいの専門性しかない人がカントやウィトゲンシュタインやクリプキやフロイトとジャンルを横断して語るのは、一般的な学者から見て縄張り荒らしに見える。ジャンルを横断して行くニューアカってのは悪質な道場破りだと。その手の道場破りに対しては保守的な学者は一致団結して戦いますからね。そうなったときにクリプキだけを30年40年やってる人と論争して柄谷が勝てるとはちょっと思えない。

「探究」に対して悪態つこうと思ったら、あれって典型的な日本の私小説じゃん。とか俺なんか言っちゃうんだけど、書斎から出ずにひたすら本を読んでああ思ったこう思ったという内的独白でしょ。だからどうするとか、どうすれば良いという行動に結びつくような結論は出ない。だからこそ文芸誌で連載出来るんだけど、アメリカって知識に対して実用性求める国だから探究持ってアメリカ行っても成功すると思えない。したときにNAMに行くと思うんだ。

6/15 どうでも良い話題から入ると、HPのカウンターって役に立たんな。俺、インターネットエクスプローラーの立ち上げをこのHPのトップからにしてるんだけど、ホームを30回押したら30回カウンター回った。逆にアクセスが本当に込んでる時間帯にはHI-HOのCGIサーバーがハングアップして止まってカウンター一個しか回らへんねんな。某アクセス解析の有料サービスに入ると、キャッシュ(オフライン)で何回読まれてるとか、プリントアウトされたとかまで分かるちゅうんだけど、ほんまかな。

巨人の投壊が言われてるけど、桑田のやる気ださすには「ちゃんと努力さえすれば、お前は名球界入り出来る投手だ」と言い続けることが大事だと思う。確か先発投手は200勝しなきゃ名球会入りできなくて年10勝ペースで20年やる計算でいたらしいんだ桑田は。で、当初の予定では一番投手として波に乗ってる予定だった10年目前後に2年ほど手術とリハビリで休んじゃって、復帰後TVや雑誌で「僕は名球会入り出来ない」と言いまくっていた。当時まだ100勝しかしてなくて、残り100勝本当に出来るのか?って辺りで、「名球会入り出来ない」と言いまくってた。飲み会でさ「私もう若くないから」という女の子は「なに言ってるのまだまだこれからじゃん」と言われる年齢の子だけなんだよね。「うん、そうだね。確かに若くないね」と言われるような子は、「もう若くないから」と言わずに、「私はまだ若い」と言うんだよ。謙遜ってのは自信があるんだけど周りにはげまして欲しいときにいうセリフでさ。

で、桑田は何故、リリーフへの転向を拒んでるのか、先発にこだわるのか?リリーフに回ったら、今まで築いてきた先発での白星がチャラになって、名球会入り出来ないんだよ。桑田ぐらいになると、たぶん金銭感覚はもうグチャグチャだから金では働かないでしょ。でも、名球会へのこだわりはそうとうあると思う。手術で2年休んだときに「僕は名球会入り出来ないんだ」とマイク向けられるたびに言い続けてきたからね。よっぽど名球会入りしたいんでしょう。いま152勝で、残り48勝だからね。

6/9 古典落語には必ずハチベエと御隠居が出てくる。仕事を引退した爺さんで何でもよく知ってる教養人が御隠居で、物を知らないおっちょこちょいがハチベエだ。古典落語が生まれた江戸時代には、落語を観に来るような時間とお金に余裕のある人は歳を取った御隠居しかいなかった。だからこそ、若くて物を知らないハチベエを笑い、知的で教養のある御隠居がカッコよく振舞う古典落語の形式が成立していた。漫才のいとし・こいし師匠なんかも、漫才を観に来るのは老人が中心であるというそういう世代の人だと思う。

落語でいうとヤングオーオー(70年代)の頃、桂三枝さんが創作落語を始めて、そのヤングオーオーのオーディションで少年マガジンの漫画をネタに落語をしたという。「左手に朝日ジャーナル、右手に少年マガジン」と言われた頃の安保世代が大学で読み漁った少年マガジンだ。ここで落語のメインターゲットは大学生になっている。寄席を観るような金と時間のある大学生が発生したというよりもは、TVの出現によってタダでお笑いを観ることが出きるようになったため、TVの公開録画の閲覧希望ハガキを送って番組を観に行けるぐらいの時間さえあれば、もしくは家でTVを観て、視聴率測定機のメーターを回せれば、消費者層として認知される時代になったのだ。で。大学生というのは当時から小中高よりも極端に少ない出席日数で卒業できるため時間を持て余してる人達だった。

同時期に大学生から支持されたお笑いでコント55号がある。博士が出来の悪い助手を叱ったりおちょくったりからかったりするコントで、最初は年齢が上のニ郎さんが博士役をやっていたがまったく受けなかった。博士だから、年齢が上のニ郎さんがやった方が説得力があるだろうとの判断からそうしたが、まったく受けないので一度役を逆転させて、若い欽ちゃんが博士役をやったら大受けだった。コント55号が売れたのはそこからだ。頭の良い博士役は若い人がやり、いつまでも出世しない出来の悪い助手の役を年取った人がやった方が、逆にリアルだったと言うのがニ郎さんの説明だが、私の解釈では違う。暇を持て余した大学生が主要購買層のお笑いで、若い人が、歳食った中年の上司にいびられるコントなんて受けるわけがない。大学出立ての若き天才がダメな大人を叱り飛ばし、殴り・からかい・いびる。その方が、旧体制を打破し、新しい理想社会の建設に向けて活動していた安保世代の学生達の精神に合っていたのだ。

80年代頭の漫才ブーム時、新しい漫才を作っていたのは、B&B・ツービート・紳助竜介で、大学生に最も人気があったのがB&Bだ。お前出身どこやねん。から始まる地方出身者同士のお国自慢トークが、やはり地方出身で東京に出てきたばかりの大学生達にはリアルだったのだ。ただ、上の3グループの中で吉本の若手に最も大きな影響を与えたのは、紳助竜介でリーゼントのヤンキー2人が出てきて、ケンカやナンパ、公立校と私立校というネタで盛りあがる高校生がメインターゲットの笑いだった。この紳助竜介の延長で、ヤンキーネタを扱うハイヒール、女子高校生ネタで攻める春やすこ・けいこ、高校のクラブ活動ネタが得意だったとんねるず、と大学生よりも一段低い年齢層の笑いがメインになっていく。

この前チャットをしていたとき「最近、家族みんなで笑えるお笑いがない」「お笑いがつまらない」と言い出す人がいた。年齢的には30前後で私とほぼ同世代。ドリフが家族みんなで笑える笑いだと信じて育った世代だ。ほんとにドリフの笑いは家族みんなで笑えたのか。当時、PTAや一般の父母からの苦情が殺到したという「8時だよ全員集合!」お母さん役のいかりや長介が4人の子供たちを教育しようとするのだが、とにかくいうことをきかない。おちゃらけて、ふざけて遊んで、母親をからかう。それこそ赤ちゃん用のイスに座って離乳食食べていたときから、スパゲティーを床に撒き散らしたり、牛乳の入ったコップにストローを入れて吹きながらブクブクやったり、ケーキの中に顔を突っ込んだり、食べ飽きた食べ物はぐちゅぐちゅに混ぜて床に撒き散らしたいし、おもちゃ箱の中のおもちゃは箱の外に散らかしたいし、クレヨンやマジックを持ったら辺り構わずラクガキしたいし、お菓子についてるシールは壁や冷蔵庫やあちこちに貼りまくりたい。そういう自分のやりたいことをやりたい放題してる志村けんはカッコ良かったし、マネしたいと思った。そして、いかりや長介みたいな顔をして僕らを怒る母や父をみて、また爆笑したりもしたものだ。でも、そのとき僕らを怒ってた母親は、いかりや長介のまねをして怒ってるのではなく、本気で怒ってたのではないだろうか?TV局に電話をして苦情をぶちまける父母と言うのは特殊な教育ママや厳格なパパでなく、ごくごく普通の子育てに手を焼いてる夫婦だったのじゃないだろうか。

例えば今、自分がこうして30になって、子供を持っていざ本当に子供が床にミートソースべっちょりのスパゲティーを撒き散らしてゲラゲラ笑っていたら、じゅうたんや壁紙についたミートソースのシミが雑巾でなんべん拭いても取れなくなっていたら、教育云々、お笑い云々抜きに本気で怒るんじゃないだろうか。「最近、家族みんなで笑えるお笑いがない」というのは、昔は家族みんなで笑えるお笑いがあったということを前提にしている。「お笑いがつまらない」のは、お笑いをやってる人達がつまらないのではなく、同じコメディーを観ても、笑うことが出来ない年齢に自分達がなっちゃったのではないかと最近思う訳です。

ここで終わるときれいなんだけど、叙情的な終わり方が出来ないタチでさ。ある人が人を攻撃する笑いは嫌だと言ってたんだけど。じゃあ、人を傷つけない攻撃的じゃない笑いは存在するのかと。これは筒井康隆が朝まで生テレビで言ってたんだけど、スプラッタ物を書いてると必ず抗議に来る人がいる。その人達は必ず「私は筒井さんのファンですし、筒井さんの他の作品はいつも楽しく読ませて頂いてるのですが、今回のこの作品だけは許せないのです」と、言ってくる。自分以外の人を攻撃する笑いは楽しく読んでるのに、自分の番になると抗議してくるのはおかしい。と筒井は言う。

たぶん筒井康隆は、人を傷つけない笑いなんて存在しないと思ってるんだと思う。チャップリンも笑いは必ず誰かを傷つけてると感じていたと思う。彼が言うには、弱者を笑う笑いは小さな笑いだと。社交界なんて縁のないチャップリン演じる田舎者が、ダンスパーティーに呼ばれての席で生まれて初めてソフトクリームを食べる。田舎者だから食べ方が分からない。ソフトクリームをなめようとすると、ソフトクリームの塊がチャップリンのタキシードの上にべちょっと落ちる。そこでみんな笑うが、それは誰もがチャップリンと同じ目に合う可能性のある引きつった笑いだ。その後、その服の上のソフトクリームがチャップリンのタキシードを滑って下の階にいた公爵夫人の頭の上に落ちると前回よりも大きな笑いが起こる。社交界慣れした貴婦人の顔にソフトクリーム。大衆は公爵夫人には絶対になれないので思いっきり笑うことが出来る。・・ってんだけどさ。叩いたらつぶれるような、赤ちゃんやリトルリーグやスポーツなんとか党の悪口は言いにくいけど、叩いてもつぶれなさそうな大人や巨人や自民党の悪口は言い易いってのはあるけど、それを人を傷つけない笑いだと感じるような無神経な大人にはなりたくないんだな。幼い頃はさ、人を傷つけないほのぼのした笑いが存在すると思って居ても良いけど、物分かる年齢になってさ、自分が笑いの対象にならないときには笑ってるのに、自分が笑われると突如怒り出すってのは、器が小さいよ。

6/7 今ビデオでガンダム観てる。ファーストとマニアの中で呼ばれるガンダムだ。ガンダムの再放送が始まった当時、小学3年だった自分はガンダムの話で盛りあがるクラスの話題について行けなかった。ガンダムの放送されてた5時台にはまだ外で遊んでいたというのもあるかもしれないし、どうせ観るなら同時間に放送されているキカイダー01を観たかったというのもある。毎回同じ話を繰り返す子供向けアクション活劇キカイダー01に対して、ガンダムは前回までの放送を観てないと話について行けない複雑な構成で、当時他の同級生に比べ知能の発達の遅れてた私には登場人物の名前を覚えることすら困難だった。操縦席のことをコックピットと言い、巨大ロボットをモビルスーツと言い、宇宙を海と呼び、宇宙船を船/艦と呼び、正義対悪でなく、ジオン軍対連邦軍であったガンダムは、面白いから観るアニメではなく、周囲に話題を合わすために努力して観る教養であった。

鉄腕アトムがアストロボーイとして、ガッチャマンがG-Flyとして放送されたアメリカで、ガンダムは放送されていない。ヨーロッパでもアニメ雑誌で一度ガンダムの特集を組まれた以外は、ガンダムのことは報じられない。日本であれだけ話題になりながら、何本もの続編を生み出しながら海外に放送されない理由はある程度予想がつく。ガンダムは豊かな地球に対して、貧しい植民地/コロニーが、地球に対して独立戦争を仕掛けるところから始まる。地球側の軍隊の名前が”連邦軍”。アメリカ側に対して”ソビエト連邦”の”連邦”ですよと言い訳しても、第二次大戦時の連合国軍をイメージしてるのは容易に想像がつく。第二次大戦は富める連合国に対する貧しい植民地/コロニーからの独立戦争だったのだというメッセージはアメリカやヨーロッパに対して伝えられるはずがない。

ボニーピンクがテレビに出てた。デビューして6年目らしいけど、前回のアルバムがニューヨークに住居を構えてメロディーも歌詞も洋楽ノリで作った本格派でプロモーション中もアーチストって感じで良く言えば本物志向、悪く言えばお高くとまった感じだったのが、今回歌詞も日本語でメロディーも邦楽からの影響が色濃く出てて、プロモーション中も愛想が良い。で、ボニーピンクってシンガーソングライターとしてそこそこの力持ちながらシングルヒットは今のとこ出てなくって、かつルックス的にはアイドル系の可愛い顔。事務所的にはアイドルとしてルックスを前面に売り出したい素材で、かつ本人的にはミュージシャンだよ、アイドルじゃないよって感じだと思うんだ。

こうゆう人がこないだまで英語で洋楽歌ってたのに突然、日本語で歌謡曲歌い出して、音楽番組で明るくトークしてたリすると昔からのファンは「落ち目なんかな」と思うわけじゃん。特に今日観た番組ではタンクトップ着てMAXと一緒に出て、「巨乳です」みたいなくくりやねん。それはちゃうやろと。アイドルアイドルしたノリで出すんであれば、榊原郁恵・小泉今日子・相原優・渡瀬まき系の少年キャラじゃん。

もう少し違う流れで言うと、ツッパリ系アイドル・脱アイドル宣言し続けてるのにアイドル扱いされるマッチ・ヤックン・岡本健一・キムタクの流れだと思うんだ。前髪に入ったハサミをニラミ付けてる渡辺美里のCDジャケットあるじゃん?アレがボニーピンクだと思うんだ。校則だかなんだかで前髪を切られる。そのハサミを涙目でニラミ付ける渡辺美里。ルックス的にはアイドル扱いされてるけどでも私は本当はミュージシャンなんだと主張し続けていた頃の美里のような見せ方じゃないとさ。今日のゲストは「ボニーピンクちゃんです。どーーぞぉ。」とか言われて出てきてさ、チャラチャラした小物の付いた衣装で登場させられて「ピンクちゃんはオフの日とかはどうやって過ごしてるのかなぁ?」とか質問されて、散々アイドル扱いされた挙句、「私アイドルじゃないよ」とか言い出して「じゃあ、何?」って言われて「ミュージシャン」とか答えて、司会の人が本人に聞こえないようカメラにだけ聞こえる声で「うわ、この子自分のことミュージシャンとか言ってるよ」つって笑うみたいなさ。でも、歌うとすごいちゅうそうゆうの欲しいよね。

昔、安室奈美江がまだ全然知られてなくってスーパーモンキーズ時代、初めて出たTVがナインティーナイン司会のズームイン朝みたいな番組で、スーパーの前で歌って踊る営業してるスーパーモンキーズにナイナイがインタビューしてて、最初安室を「安室ちゃん」と呼んでたナイナイが、歌のコーナーで安室が物凄い気合の入った歌と踊りをしたため、その直後矢部&岡村2人してあっけに取られたままインタビューで「安室さん」と思わず「さん」付けで呼んじゃった事件ぐらいのギャップがボニーピンクに欲しいわけでさ。

ボニピンマジ可愛いなと思ったのは、トークの流れ的にちょっと得意になって威張るシーンがあって、アゴ突き上げてちょっと唇も突き出し気味に上向いたんだけど、そうすると当然カメラ的には首の下のタポンとした肉が写ってアゴのラインが丸みを帯びて顔が子供っぽく見えるわけで。アゴを引くとほほの輪郭がシャープに見えるのに、本来威張ってるはずの場面で逆に可愛く子供っぽく見えてしまうという、絵的には伊藤つかさ・伊藤麻衣子系の、怒る時ほっぺたふくらます系の映像。どうせアイドル系で売るなら、ソニーマガジンのガールズポップに出るんなら、可愛く怒る系のツッパリ・脱アイドル系アイドルで行って欲しいと、思ったんだけど。

5/26 古いネタですがレバンナ対ベルナルド戦で、隠れたキーワードは金かなと、以前書いたんだけど。レバンナ選手はつい最近(2001年の1・2月頃)まで公営の無料で使えるボクシングジムでトレーニングしていた。冷暖房は無く、雑居ビルの3階にあるボクシングジムで、設備も充実してないし、レバンナ選手の体格にあったヘビー級のスパーリングパートナーもいない。そんな貧乏な中でトレーニングしてたレバンナ選手にスポンサーがついた。スポーツウエアを売ってる企業で、レバンナ選手のスポーツウエアに会社名を入れるという条件で、大量の資金を提供した。レバンナ選手のインタビュー記事が増えたのはその辺りからだ。「ギリシャ神話で触れるものすべてが金になる王様がいたが、今の俺はまさしくそれだ。俺の触れる物はすべて金になる」「今の俺を一言で言うと稲妻だ。すべてをぶっ飛ばす」ほんの3ヶ月前、打ちっぱなしのコンクリートで出来た雑居ビルのボクシングジムで、零下10度の寒い冬にも関わらず、暖房が入らない無料で一般に公開された公営ジムでインタビューを受けてた貧乏なレバンナ選手が、ブランド物を身に着け、ステータスシンボルに囲まれた部屋のソファーでリップサービスをするレバンナ選手に変っていた。ベルナルド選手との大事な試合の数ヶ月前に、どん底の貧乏から突如大金持ちになったレバンナ選手。この金でスパーリングパートナーやボクシングのトレーナーを雇えるというメリットもあるのだが、金に溺れるんじゃないかという不安もあった。

一方のベルナルド選手は、ボクシングのチャンピオンベルトを取ったことで、マスコミの前から遠ざかっていた。日本の剃刀のCMに出て、そのCM料で食っていたときは、愛想の良いベルナルド選手というイメージで売り、インタビューはほとんど断らずに受け、片言の日本語もおぼえ、カメラの前では常に笑顔だったのだが、ベルトが手に入ったことで、ボクシング一本でも生計が立つ見通しが立った。ルールが違うとはいえ、ボクシングのチャンピオンとして、K−1ルールでもボクサーであるレバンナ選手相手に負けるわけにはいかないという自覚が出てきた。レバンナ選手には2戦2敗でこの地点では一度も勝ったことがないにも関わらず、チャンピオンである以上は勝って当然であり、勝たなきゃこのチャンピオンベルトを欲しがっている、自分より下のランクにいるボクサー達に失礼だ。インタビューのすべてを断り、マスコミシャットアウトで対レバンナ戦の練習をしていた。

CM収入は選手の成績よりむしろイメージやメディア露出に対して払われる部分が大きい。CM契約をしたとたんインタビュー等のメディア露出を増やしたレバンナ選手と、ベルトを取り、レバンナ戦が決まったとたん、インタビューのすべてを断ったベルナルド選手。試合前の位置関係は対照的だった。試合前にやった記者会見での2人の表情も対照的だった。愛想の良い饒舌なベルナルドで売ってたはずが、恐い顔をして相手をにらむ無口なベルナルドに変っていた。レバンナ選手は愛想よくニコニコとインタビューを受ける。レバンナ選手がインタビューの中でベルナルド選手のことを聞かれると、尊敬してるとか、うらやましいとか、嫉妬してるとか、べルトが有ると無いとじゃファイトマネーが全然違うんだとか、とにかくベルトの話に終始するのも印象的だった。

試合のとき、地味に登場したベルナルド選手と、ゴーグルをかけ剣を持ったオトリ巻きに先導され派手に入場したレバンナ選手。剣とゴーグルの先導者のファッションはアニメに出てくる海賊の船員のコスプレに見えた。CM契約がある以上イメージやパフォーマンスは大事なのだ。

試合が始まるとひたすら勝とうとするベルナルド選手と、見せる試合を心がけたレバンナ選手の違いもはっきりしていた。過去2試合レバンナ選手とベルナルド選手は戦っていて、2戦ともレバンナ選手が勝ってるのだが、うち1試合はローキックでベルナルド選手を倒している。今回も下半身の筋肉の付き方を見れば、ローキックで攻めたいレバンナ選手対ボクシングオンリーの試合をしたいベルナルド選手のはずだった。が、客が期待してるのは、ボクシングのハードパンチャー対決。ゴング直後、レバンナ選手がローキックを入れ、ベルナルド選手が返したあとは、ほとんどパンチオンリーの試合になっていく。試合の見所の一つは、ガードの上からでも利くレバンナ選手のハードパンチにベルナルド選手のガードがどこまで通用するのかだった。ロープを背にガードを固めるベルナルド選手。頭だけをガードするボクサー式のそれと比べ、空手のフィリオ選手寄りの、ボディーもガードするガードだった。レバンナ選手はボディーを嫌がるベルナルド選手にボディーを入れガードがボディー寄りに下がってきたところで頭のガードをこじ開けて頭に一発入れて勝つ作戦のようだった。レバンナ選手のラッシュに会場が沸く。

ベルナルド選手をコーナーに追い詰めたとき、ピンチのはずのベルナルド選手が余裕のリラックスした表情になりガードもボクシング式の、ボディーは打たれるが、その分パンチを出しやすい、ひじを開いたガードになった。コーナーに追い詰め、チャンスとみたレバンナ選手が恐い顔でラッシュをかけたとき、レバンナ選手のパンチに対しベルナルド選手が右に迂回する。逃げるベルナルド選手を深追いしベルナルド選手と共に右に回ったレバンナ選手。コーナーで二人の立ち位置が入れ替わった。コーナーを背に戦うのは常識的に考えて動きにくいためものすごく不利なはずだが、ベルナルド選手はコーナーに誘い込んだ上で二人の立ち位置を逆転させる高度な技術を持っていたのだ。相手の右パンチに対し右に逃げて、相手が深追いし上手く180度回ったところで二人が止まればコーナーでの立場は入れ替わるのだが、それは相当の技術と勘と運が必要な技で、相手の心理が読めなきゃ出来ないし、自分に自信がなければコーナーになんか行けないし、パワーやテクニックやスピードやが、一つだけあっても出来ないことをベルナルド選手は余裕の表情でわざとやったんですね。意図して出来るものなんだという驚きと、この人歴史に名を残すボクサーかもしれんなという思いが沸きました。攻めてたはずがいきなりコーナーに追い詰められた形のレバンナ選手にベルナルド選手のパンチが当たり、レバンナ選手のダウン。会場は大揺れ。

その直後、レフリーがなんかもめ出して、レバンナ選手のカウントすら採らない。なんでも1ラウンド終了の鐘がなった後のパンチだったけれど、会場が盛り上がり歓声が大きくてリング上の誰も1ラウンド終了の鐘を聞いていないことが判明。レバンナ選手に規定以上の休憩を与えて試合続行と審判はいう。レバンナ選手はコーナーに戻るなりグローブを外すよう指示し、試合は結局ノーコンテスト。帰りぎわベルナルド選手にレバンナ選手は「次やるときはもっと大きなファイトマネーでやろうぜ」と言ったという。レバンナ選手がコーナーに戻ったとき一番気にしてたのが、いまの自分が倒れたVTRが何度も色んな場面で使われるのではないかということで、試合を続行せずに帰ったのも、試合を続行してまた倒れれば、そのVTRも色んな場面で使われる。そうすると広告契約のある自分のイメージに傷がつくということだったらしい。

P.S.この試合に関してはどう考えてもベルナルド選手の勝ちだと思うんだけど、次に同じ試合をしたときに、レバンナ選手が同じミスをするとは思えないのもまた事実だったりして。

巨人の桑田真澄選手が引退の危機ということで。1994年頃、よく巨人戦観てたんですよ。東京来てすぐの大学2年時、巨人が珍しかったんですね。当時、斉藤・槙原・桑田の三本柱が先発陣だったのですが、斉藤投手が重い速球で三振をとってく大リーグタイプのピッチングだとすると、槙原選手・桑田選手は打たせて取るタイプだったんですね。

ID野球に代表される送りバンド・ヒットエンドラン・犠牲フライ・盗塁中心の日本式野球というのは、元々大リーグのドジャーズと日本の巨人軍が提携して一緒に練習したときに、ドジャーズ戦法としてアメリカから日本に入ってきたものなんです。投高打低を前提に、一塁ランナーをどうやってホームに返すかを考えるこの戦法は、いまでは日本式野球の特色とまで言われてます。現に日本にやってきた外人選手の中には犠牲フライや、送りバンドの概念が理解できず「自殺を奨励するカミカゼアタックの戦術は嫌いだ」という選手もいます。

このドジャーズ戦法をピッチャー側から観るとどうなるか。塁上のランナーをどうやってダブル・トリプルでアウトカウントに変えるのか、という戦法になります。三振は三球でワンアウト、凡フライは一球でワンアウト、内野ゴロは一球でツーアウト。効率性を考えれば三振より、内野ゴロ。基本的にホームランは打たせない。足の遅いホームランバッターはシングルヒットで塁に出させ、塁上でダブルプレーを取るときの駒に使う。ヒットさえ打たせれば打者は自分のバッティングに満足する。三振を取れば打者はそのピッチャーを研究し、次は成長して戻ってくる。塁上のランナーはアウトカウントのうち。確実に内野ゴロを打たせられるカモを各チームの下位打線に、一人づつぐらいは持っている。桑田投手も槙原投手もそういうタイプのピッチャーでした。

94年当時桑田投手はチームの上層部とうまく行ってませんでした。名前の有る大打者をFAで集める巨人は、年を取った動きの鈍いホームランバッターが多く、守備に関してはボロボロだと。ダブルプレーを取るには内野手の協力が必要不可欠です。当時の槙原投手はノーアウト満塁、6番打者をツースリーにした大事な場面で、よく内野手をマウンドに集めて目に涙を浮かべ頭を下げては指示を出してました。槙原投手がダブルプレーを取るのは、クリーンナップをシングルヒットに撃ち取り、6番打者に回ってカウントがツースリーになってからでした。マウンドに集まってから守備に戻った野手は、サード・ショートが前寄りに守り、明かにダブルプレーねらいの陣形で、槙原投手は右打者の内角低めに120キロの球を投げます。バッターは毎回カモにされてるわけですから、ダブルプレーねらいのボール球に手を出すほど馬鹿じゃありません。でも、今回に限っては内角低目めいいいっぱいでなく、低目の真ん中の甘い球が来てる。これはストライクだ。バッターは甘い球に手を出します。が、球は曲がって内角にどんどん食い込みます。やばい、ボール球だ。そう思った打者はバットを止めようとしますが、急には止まりません。止めようとして止まったバットの先っちょにボールはチョコンと当たり、三塁線上にバンドのようなゴロが転がります。打者はしまったと思い、あわてて一塁に全力疾走しますが、前の方に守ってたサードが走り込んできてゴロを拾い、サードカバーに入ったショートが三塁ベース上で球を受けてワンアウト。そのまま二塁もしくは一塁に球を投げてツーアウト。6番打者は泣きながらベンチに帰ります。毎回カモにされる6番打者のツースリーからの表情は緊張と恐怖感でいつも引きつってます。

桑田投手は三塁でダブルプレーを取るタイプではありません。二塁・一塁のダブルプレーを好みます。三塁を踏まれるのは嫌なのです。もう一つ槙原投手と違うのは、内野陣の守備を信用してないとはっきり断言し、外角低目の球でピッチャーゴロを打たせて自ら球を拾ってダブルプレーを取ろうとします。ピッチャーゴロはピッチャー返しと紙一重で、マウンドでショートバウンドした激しい打球を素手で取って怪我をしたり、取れないはずの打球を滑り込んで取ったりするため、足首の捻挫、ひじの打撲をしょっちゅうしてました。野手と仲の悪かった桑田投手は野手に指示を出しませんでした。二塁に足の早いランナーを置き、一塁ベースが空いてる状態で、足の遅いバッターがサードゴロを打ち、二塁ランナーが走るそぶりを見せて、バッターをセーフに導こうとしている。一塁に投げればワンアウト三塁。このまま投げなければノーアウト一・二塁。二塁に投げれば、ダブルプレーかもしれないし、ノーアウト一・三塁かもしれない。そういう場面で三塁手が桑田選手の顔をみて指示を仰いでるのに、桑田選手はサードに背を向けてうつむいてロージンバックをいじってました。プロなら自分で判断しろという考えも分かるのですが、当時日本で一番頭の良い野球選手と言われた投手にしては大人気ない行動だとも思えます。

いまの巨人はセカンドの仁志選手とセンターの松井選手以外は日替わりメニューで、下手すると仁志選手ですら1.5軍の選手です。そんなチームで連携プレーなど出来ません。打たせて取るタイプの軟投派ピッチャーは巨人では勝てません。剛速球を投げれる若手ならともかく、技巧派のベテランにはキツイチームです。頭を使ったチームプレーでなく、お金で他球団から集めたスター選手が、個人技を見せるのが今の巨人野球です。今巨人戦の視聴率が低いらしいのですが、それはチームプレーや頭脳プレーが見れないホームランか三振かという野球だからだと、私には思えます。

男30にしてどんなな服を着るのかってのはかなりツライ選択だと思う。オフ会で初対面の人と会うとき、普段背広でしか会わない仕事関係者にプライベートで会うとき、どのようなカッコをして行けば良いのか?10代の頃なら選択の余地もあるわけですよ。好きなミュージシャンと似たカッコしてさ、ライダーズの革ジャケットにティアアドロップ型グラサンと革パンとか、テニスウェアの上下でそろえるとか、なんとでもなるんだけど、30にもなるとさ、普段背広・作業着で家では適当な服着てるけど、30超えた男が仕事関係者に会うとなると、相手の服に合わさなきゃならないし、かといって相手の服とかぶり過ぎてもまずい。服から自分の人格だの思想だのを読まれるのもしゃくだし、かといって不真面目過ぎるカッコでもまずい。

俺ね。なるべく意味のない存在になりたいわけで、でも、カジュアル/フォーマル、ハイソ/ローアー、ドレスアップ/ドレスダウン、いくらでも意味は発生するわけでさ。髪型がマッシュ頭だってだけでビートルズやバードランドのファンだと思われるのも嫌だし、ボーダーシャツだってだけでネオアコ文脈もしくはビーチボーイズ・グループサウンズのワイルドワンズ文脈に見られたり、水玉ドットだと50’s(フィフティーズ)を輸入したリットーミュージック系の文脈に入れられるし、30男がフレアな袖のブラウスにブルーの棒タイとベスト着て、初期ローリングストーンズ調のスクール系ってのも痛いし、絞りのTシャツにケミカルウォッシュのGパン履いて古着のGジャンを合わせてグレイトフルデッドっぽくなるのもツライし、かといってプライベートで人と会うのに背広も硬すぎる。先入観を持たれないようになるべく意味のないカッコを目指してたときがあって、そのとき受けた忠告が、「何を考えてるか分からないカッコしてる奴って怖いんだよ」ってことで、自分としてはなるべく無地のもの、色もなるべく地味な物を選んでいたのだが、そのファッションってのは早い話が、典型的なオタクファッションなんだな。

親が与えてくれた服かもしくはスーパーで売ってる一番安い一山千円みたいな服を無作為に組み合わせて着るオタクファッション。コミケの客で一番多いファッションなんだけど、その服が主張してるのは、「自分はファッションに興味がない」「服は着れればなんだって良い」というおしゃれな人達からは我慢のならない主張で服に対する無関心さが非常に気味悪いと。そう言われて俺はわりかし嬉しかったんだけど、自分の意図通り意味の無いカッコになってるんだなと思えたんだけど、長い目で見たとき、それも意味が発生しちゃうんだよ。自己主張のないアイテムでそろえる奴はオタクだという意味が発生する。オタクに特有のライフスタイルもそこに付随する。服の持つ情報量を最小限に押さえたつもりが、持続することで意味を持ってしまう。

逆に意味が過剰に発生するコスプレをしたときどうだろうか。椎名林檎が分かりやすいんだけど、曲ごとに看護婦だの長襦袢だのと過剰に意味のあるファッションで統一するが、そこに持続性や流れがない。毎回違う服を着て前回着た服との関連性もない。毎回着る服の意味が過剰であればあるほど、次回にその意味を否定して別の服を着るとき、今回の服も持続性のない仮の服なのだという虚無感が入り込む。どの服も意味を持たないただのコスプレ(=フィクション)になってしまえば、今着てる服から意味を読み取るのも無意味だ。何も言いたくないとき、何も主張したくないときに沈黙すればそこに過剰な意味が発生するが、過剰な情報量の饒舌なおしゃべりは無意味をそこに引き起こす。

湾岸戦争時、アメリカは湾岸戦争の状況を伝えるビデオを48時間分準備した上で参戦したという。戦争をする前から、油まみれの水鳥の映像を用意した上で、「フセインがやった爆撃によってイスラエルの石油コンビナートが破壊されて、石油が海に流れ水鳥が死んだ」というドキュメンタリーを作成し、小出しに公開していった。その水鳥の映像がフセインと何の関係も無いものであると暴露されたのは湾岸戦争終結後だ。情報を隠したければ、情報規制でなく、無意味なノイズ情報を垂れ流せば良い。それは、政府がマスコミから政治家を守りたいとき、世論の反論が予想される与党案を国民に呑ませたい時、芸能事務所が写真週刊誌から芸能人を守りたいとき、個人が巨大サーバーや盗聴機から個人情報を守りたいとき、デリダがデリダ派からデリダを守りたいとき、情報規制より有効に機能する方法の一つだと思う。

最近、翻訳サイトで英語のHPを日本語で見れたり日本語のHPを英語に訳せたりすることを発見して、自分の英語HP http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/e-umbrella.htmlを翻訳サイト経由で見るとひどいね。英語になってない。funny(変だ・変わってる)をfanny(お尻・女性器)と書いてたり、an umbrellaをun umbrellaと書いてたり。そのHPの直しをしてみたりして。やっぱNOVAに通うべきか?
翻訳サイト例 http://www.excite.co.jp/world/url/

郵便受けに入ってた広告「自分の人生・生活・性格を変えたい方、取り合えずお電話下さい ハッピーライフ」何の広告か知らんけど怖いって。

小田和正氏がワイドショーで語っていた。70年代のオフコース時代、ミュージシャンはTVに出てはいけないと一番かたくなに言って来た人の一人らしく、フォークジャンボリーの司会をしてて某フォーク歌手が出るときに「フォーク歌手はしてないけど、芸能人はやっている○○さんです。どうぞ!」と言ったらしい。

80年代後期、某音楽誌で吉本系アイドルミュージシャン:グレートチキンパワーズに関して「見せる物ないのにTV出てもしょうがないじゃん。みせるものをライブで作ってから出るんだったら分かるけどさ」と言っていた。見せる物があればTVに出て良いんだ。

最近、吉田拓郎とキンキキッズの「LOVELOVE愛してる」に出演した際、(絶対にTVに出ないと思われていたにも関わらずレギュラーで司会をしてる)拓郎に「俺からみると、同じ学年の違う学級の子みたいなさ、同世代なんだけどクラスは違うという」と遠まわしなコメント。歌を歌う場面では生真面目な小田を拓郎がからかいつつも、「すみません」「先生。先生。」とヨイショして頭を下げまくっていた拓郎。最近ヒットした小田和正の「個人主義」は小田の頑なさを売りにした一枚。甘い歌声と生真面目な心の融合。

5/12 AV監督の村西とおる監督について一言。中卒で営業職ついて、1個50万円の英会話教材一つ売ったら25万円もらえるという、限りなく悪徳商法に近いビジネスの販売員としていたときヤクザの組事務所に英会話教材売りに行って「これからの国際化社会で英語の一つもしゃべれないとマフィアに馬鹿にされますよ」と2個も教材売ったつう有名な伝説の持ち主なのですが、あの人ほんとはイエローキャブのような芸能事務所作ろうとしてたんじゃないかなという話で。

いまでこそアダルトビデオってのがどういうもので、それに出たらどうなるかってのを子供でも知ってたりするのですが、ビデオが出始めた80年代頭にはまだすべてが未知数で無限の可能性があるかに見えたと思うんだ。AV女優をスカウトするとき、芸能人に成りませんか?とか女優への近道とか言うんだけど、あの時代、女優さんだけでなく、村西とおる監督自身が本気でAVから女優を出せると信じてた節がある。現に80年代頭にはイヴ、90年代頭には飯島愛と、AVから芸能人になった人も少ないけど居るわけで。村西とおる監督がAVがらみで警察に捕まって復帰第1作主演監督作品に「エロティズムを超えて」というのがある(西部邁の「ニヒリズムを超えて」のパクリか?)。この当時のAVの売りってのは絡みで一本の中で3回絡んでますとかが売りで、絡み以外は早送りで誰も観てないと言われた時代に、「エロティズムを超えて」は海外ロケまでしてちゃんとドラマ作ろうとしてるんだな。ドラマが成功してるかというと失敗してるんだけど、2カ国語で監督自身、ムショ帰りのヤクザって役で出てる(笑)。実際、ムショからの復帰第1作だし。村西監督の演技はド素人も良いとこの演技なんだけど、それが主演女優の演技力の良い引き立て役になってる。ド素人が一人居る事で、女優の演技が上手くみえるという奴だ。

まだ、AV業界が経済的に潤ってたバブル期、監督は看板女優を連れての地方巡業に熱心だった。レンタルビデオ屋さんでのサイン会、握手会。村西監督に黒木香がTVタレント化し、UHFでアダルト番組の司会に小鳩美愛がいた頃、別のアダルト番組(ギルガメッシュナイト)で細川ふみえ(イエローキャブ)&飯島愛が司会をしていて、小鳩美愛が勝ってりゃクリスタル映像がイエローキャブ化してた可能性もある状況の中で。・・・ちがうな、書きたいことと書けることのギャップがあるんだけど、なんてのかな、

ザ・ビートジェネレーション――アン・アメリカン・ドリームちゅうビデオを神田のジャニスで借りたのですが、良い感じです。「バロウズが現場を知らない良いとこのボンボンで、ギンズバークやケルアックの方が本物だ」ってなこと言う人の気持ちが少し分かった。ビートニクのファンが「詩の朗読会のカフェで下らないことに熱中していた。みんな読んだこともないサルトルの本について一晩中熱く語り合うのさ」と楽しそうにしゃべるの観てたら自分ら浅田彰の熱狂的ファンが読んだこともないデリダやドゥルーズ=ガタリについて熱く語ってるのも悪くないなと思えた。・・いや、浅田さんはそういうファンを嫌うだろうけどさ。

アート=リンゼイのパブリックムービーも借りたんだけど、これも楽しかった。坂本龍一と組んでるニューヨーカーでナードなルックスから、ボサノバで愛を語るギタリストぐらいのイメージしかなかったが結構楽しい。工場のラインでノイジーなエレキギターを弾いてどこまで工場の音でどこまでギターか分からない。で、ギターを弾き終わると辺りは静かでラインは止まったまま。すべては風景に合わせた演奏でしかなかった。こういう映像や音楽が好きだって言ったら、「やっぱりな」と言われた。ぴろぴのーるがTV「えびす温泉」で、光線銃を演奏していて途中で光線銃をマイクの前に出すタイミングと、光線銃の音がするタイミングをわざとずらせて口パクである事をネタにしてるのに感動したとか、スペアマイトのギターの人が音合わせのときに動物の鳴き声の音声模写をやってて感動したとか、そういうことばっか言ってると、感性のパターンが読まれてしまうみたいだ。

最近借りたCD。「インディアナ音楽大学生によるエリザベス朝の通俗音楽/Popular Elizabethan Music」古楽の発掘、古楽器の習得に力を入れてる同大学の教師や生徒の作品をリリースするインディーレーベル「フォーカス」からの作品。「アーゴ民族音楽シリーズ:インドの宗教」一枚にヒンズー教・仏教・シーク教の音楽や祈祷が入ったお買い得物。「神の声、預言者の歌/L'Esprit de Dieu et les Prophetes」ヘブライ語による旧約聖書の歌唱。歌:エステル・ラマンディエ/Esther Lamandier。

物々しいタイトルが並ぶが、実際にはTVから流れてくるような普通の音楽ばかりで少々期待ハズレ。ブードゥー教の死者復活の祈りなどはちょっとキテるらしい(中島らも情報)ので、一度聴いてみたい。イメージ的にはストーンズのPaint it blackのピアノみたいな音か。最近買ったCD。元ぷろぴのーるのたけさんのソロで「プロトタイプ#1」。全インスト曲。

「オープニングの重いピアノの鍵盤音に「うわ、芸風変わった?」と驚き、2曲目の光速通信網にバックでうっすら流れてるA-haのTake on meはありなのか?と思い、工業用音楽はインダストリアルミュージックの日本語訳かい!と思いつつこちらでも重いピアノの音が鳴ってて、今後たけさんはこっちに行くのか?などとも思いつつ、歌が入ってないのは売るにしろライブにしろツラクないか?とも思いつつ、まあ、そのような感じです。」などといい加減な感想を御本人に送る。

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