HP管理者日記16

11/28 ミスター高橋のプロレス暴露本を読んだ。世間で言われているほど悪い物ではなくむしろ、これを読んだ方がプロレスを面白く観れる、プロレスの見方入門編のようなものだった。本の中に上手いレスラーと強いレスラーの違いが書いてあって、上手いレスラーは1対戦相手に怪我をさせない2対戦相手に負担をかけない。対戦相手が自分を持ち上げて投げようとしたら、ちゃんと相手の軸足の上に乗ってより軽い力で投げられてあげるのが上手いレスラーだという。上手いレスラーはレスラー内の人気があるが、下手なレスラーはみんな対戦したがらないのでレスラー内の人気がなく対戦相手が中々決まらない。上手いレスラーを目指す選手と、強いレスラーを目指す選手の間に、大きな溝があることを本で感じた。高山選手が新日本に参戦し、蝶野選手と闘ったとき「何故いま、蝶野選手がトップに来るのかいまいち分からなかった。対戦してみて分かったよ。」と言った後で少し小馬鹿にしたように「上手いんだよ」と言った意味が分かった気がした。新日本のライバルであるノアから来た高山選手が「相手選手の負担にならないような、楽な試合をしてくれる蝶野選手がトップに来るようでは新日もたいしたことないな」と言外に言ってるわけだ。

問題は、ショーを見せる純プロレスの人は蝶野選手によって活動場所が与えられるし、総合格闘技の人もPRIDEや猪木関連イベントで活動場所を与えられるが、アマレスというグラッピング(打撃を禁止した寝技・投げ技系の格闘技)出身のレスラーに活動場所がアブダビコンバットぐらいしかないということに気付く。アマレス出身のプロレスラー永田選手・中西選手が、PRIDEに何故出ないのだと高田元選手から非難されるが、ルールの違う試合に出るリスクやプロレスラーとしてのネームバリューを考えれば出場しにくいのも分かる。格闘技の試合でも、主催者側が勝たせたい選手(=主催者サイドの挌闘団体に所属している選手)を勝たせるために、相手選手には試合の三日前までルールや対戦相手を教えないで、自分のところの所属選手には三ヶ月前から対戦相手のビデオや資料を与えて、それ用の練習をさせたりしているらしい。と、するとネームバリューのあるレスラーが他団体のリングに他団体のルールで上がって、ルールも戦術も分からないまま負けるのは単に相手団体に利用されているだけに過ぎない。新日本の新間営業部長は新日の選手が他団体のリングに上がる地点で負けなんだ、何故自前のリングに他団体の挌闘家を上げないと言っていた。相手のルールを飲むのか、自前のルールを押しつけるのかの違いだが、自前の選手の勝率やネームを上げるために、選手でなくフロントが相手フロントに勝たなきゃいけないと言っていた。フロント中心に考える新間さんの発想は強い選手がいればどのリングでも通用するという猪木的発想と違って、選手にかなり優しい。

プロレス最強説を唱える人間にとって、顔面へのナックルパンチがありな総合格闘技はプロレスルールとは言えないため、総合ルールでレスラーが負けても、プロレスラーがプロレスルールで負けたことにはならない。かといって、五秒以内の反則がありという競技性のかけらもないプロレスルールでレスラーが負けてもやはり、その選手の最強説は揺るがない。アマレスルールかキャッチレスリングルールなら、プロレスルールでありかつ、競技性もあるルールだと成る。だったら、競技性のあるプロレスルールを作って、プロレスルールでの最強のプロレスラーをまずトーナメントか総当り戦で決めて、それからそのプロレスルールに総合格闘技やK-1やボクシングやの選手を入れて、最強のプロレスラーがネームバリューのある挌闘家をプロレスルールで倒せば良い。これなら格闘技ファンにもプロレス最強説を示すことが出来る。中西選手・永田選手・新間部長辺りで、競技性のあるプロレス(ルール)を整備して、誰が強いのか公開しちゃえば良い。

挌闘ファンからするとプロレスラーは弱いという話に成るが、格闘技色の強いレスラー、鈴木選手や中邑選手や村上和成選手や安田選手や柳澤龍志選手や成瀬選手が、アマレスルールでアマレスのオリンピック日本代表かつバルセロナオリンピック七位の中西選手に勝てるのか?40前のレスラーは人気も実績もあるから、プロレスのシナリオ的には勝たせてもらえるが、実際には長いキャリアの中で体のあちこちを怪我しているため、20代の若い無名の選手より弱いという話がある。上記のミスター高橋本にもそのようなことが書いてあった。でも、K-1のホースト選手は40歳で打撃系格闘技のチャンピオンになっているし、総合格闘技でもUFCで40歳のランディー・クートゥアー選手がチャンピオンだったりする。だったら、多少腕力が落ちてても、経験と技術のある三十後半の中西選手が若手レスラーより強いかもしれない。

総合ルールでレスラーの最強を決めるのは、クリケットルールで野球の最強チームを決めるようなもんだ。かといって、プロレスが競技でないのは公然の秘密に成ってしまっている。競技性の高いプロレスルール、アマレスかキャッチレスリングかアブダビコンバットのようなルールで、ようは主催者有利の総合挌闘家不利のルールを作って、レスリングルールでレスラーの最強決める大会をやって欲しい。アマレス出身の永田選手・中西選手に、挌闘系の鈴木選手や中邑選手や村上和成選手や安田選手や柳澤龍志選手や成瀬選手、若手から真壁選手や柴田選手や棚橋選手。藤田選手やバーネット選手が入ると中西選手が勝てないかもしれないから、そこは排除して、ある程度のルールや戦術や技術の整備が終わって、レスラー内の最強が安定してから、ルールを理解できないままリングに上げられて負ける挌闘家役になってもらおう(笑)。中邑選手対中西選手をその状態でやったとして、道場での練習では中西選手が圧倒的に強いと思うんだけど、相撲の舞の海選手が稽古では大きい関取に投げられていながら、本番ではめくらまし的な技で大型力士を翻弄したように、本番では中邑選手が練習では見せない隠し技を使うと思うんだよね。普段練習で、散々投げられながらも、いざとなればこの技があると思っていた技を使って、それでも中邑選手が負けてしまったら、中邑選手本気で泣いちゃうと思う。かといって元日本代表が、自分有利のルールで負ける訳にもいかないだろうし。観たいなそういう試合。

11/18 レンタルビデオ屋で働いているのだが、貸し出しデータを見て、一定期間貸し出しされてないものは削除をすることになる。で、ビデオにも監督別コーナーがあって、ゴダールだのウディ・アレンだのあるのだが、スピルバーグコーナー。スピルバーグのイメージといえば、シリアスさが一切ない娯楽大作なのだが、スピルバーグコーナーで人気の無いものを削除すると、シリアスな暗い戦争映画だけが残ってしまった。娯楽大作を借りる人は、監督を好きで監督名で借りるのではなく、作品名で探して借りていくが。スピルバーグ監督の名前で探して借りて行く人は皆、シリアスな暗い戦争映画を借りて行く。文学史や映画史に名を残すような巨匠達も、現役時代は商業的な流行作家であったはずで、それが年月を経てシリアスで深遠な巨匠になって行くプロセスがレンタルビデオ店に勤めていると何となく分かる。

詩を朗読する千葉県民の会第四回朗読会ダイジェスト1死紺亭柳竹 2三村京子 3月野木 舞 4たもつ 5松本温子 6五賀祐子 7沼谷香澄 8伊津野重美 9片野晃司 10渡邊建志(text塚本公平) 11服部 剛 12武力也 13山田三平 14愛海舞(kamome) 15林 帯刀 16よだかいちぞう 17大村浩一 18ユーリ 19小夜 20キキ(music:Ko!)

11/16 新日本プロレスの蝶野選手の社会的意味を考えると、平成12〜13年ごろ、産経新聞のイメージキャラクターを勤めていたように、蝶野選手と日本の経済は微妙にリンクしている。当時、新日本プロレスの現場監督は長州力選手で、日本的なプロレスをしていました。それに対して、蝶野選手は、「WWEという世界最大のプロレス団体がアメリカから日本に来る。このままでは日本のプロレス団体は、WWEに潰されてしまう。だから日本のプロレス団体もアメリカ式になるべきだ。」と主張していました。「グローバルスタンダートを受け入れなければ、日本はアメリカに経済戦争で負けて、アメリカの占領下に置かれてしまう。」と当時の多くの経済学者が主張したように、蝶野選手もまた、アメリカ型のプロレスビジネスを日本に取り入れようと言っていたわけです。その主張は同時に、「長州選手ではなく、自分を新日本の現場監督にしないと、新日本プロレスはWWE傘下に入れられてしまうよ。」という意味も持ち、新日本プロレス内の権力闘争の意味を持った発言でもあったわけです。そして、蝶野選手は新日本プロレスの現場監督になり、長州選手は新日本を去ります。

蝶野選手が現場監督になり、選手としては新日本プロレス内の最高権力を手に入れたわけですが、その頃から、蝶野選手の主張は微妙に変わります。自分は選手を代表して、現場にいる選手の立場から上にものを言うのだという、労働組合の長のような言い方になります。経済政策で言えば、規制緩和・規制撤廃・アメリカ型のグルーバルスタンダートを主張していたハードランディング論者が、権力を取った瞬間、セイフティーネット作りを主張し始め、規制緩和や規制撤廃をセイフティーネット作りの後に回したのと似ています。アメリカ型の弱肉強食社会を推進していたはずの人が、急に労働組合長の様になり、弱者に優しいセイフティーネットを主張し始める。

そうこうするうちにアメリカからWWEが来ます。日本でWWEの試合が開催されますが、ずっと日本でやるわけではなく、いくつかあるWWEツアーの内の一つに過ぎず、衛星放送で人気のあったWWEがこれをきっかけに日本のゴールデンに進出という噂も噂に終わり、終わってしまえば、WWEによって日本のプロレス団体が潰されることも、WWEに吸収されることもなく、WWE来日前と何ら変わらずにプロレスは行われているわけです。これは、日本の企業のうちのいくつかが外資に吸収されたものの、日本の義務教育から日本語が消えて、英語やフランス語がそれにとって代わられることもなければ、司法や立法の場で日本語が禁止されて他の言語にとって代わられることもなく、日産を建て直したカルロス・ゴーン氏などはむしろ感謝されており、当初想像されていたような壊滅的なクライシスも起こらなかったのとどこか重なります。実際にWWEが来て見ると、当初言われていたほど、ひどい状況にはならなかった。そうなると、開国派の発言力は当然弱まってくるわけです。長州力選手対蝶野選手という内部の争いが、日本型プロレス対アメリカ型プロレスというビジョンの違い、経営手法の違いでもあったのですが、闘魂三銃士と言われた蝶野選手・武藤選手・橋本選手のうち、二人が新日本を離れると、武藤選手や橋本選手の方が、蝶野選手よりもアメリカ色の強いプロレスをやっていくわけです。新日本という大きな企業の中でやるよりも、小規模な企業の方が小回りが効き、時代の波に対応するのも早い。蝶野選手=アメリカンプロレスというイメージが徐々に失われ、蝶野色とは何かが見えにくくなって行く。まあ、実際には、照明だの音楽だの衣装だのストーリーだのを見れば、確かに蝶野プロデュースは質が高いし、エンターテイメント性ならこの人というのがあるんだけれども、質でなくベクトルが蝶野選手よりWWE寄りの人というのは昔と違っていっぱい出てきてしまっているのが現状でして。

蝶野路線と長州路線の違いというのは、アマレスや柔道や相撲と言った格闘技出身じゃない蝶野選手と、アマレスでオリンピック日本代表だった長州選手との差で、映画やテレビのアクションスターと、スポーツ選手の違いみたいなもんですね。WWEではプライベートで街を歩いている善玉の選手を、悪役の選手が後ろから車でひいて、ひかれた選手は車のボンネットの上に跳ね上げられたりします。もちろんそれはそういうカースタントで、ドキュメンタリータッチのTVドラマなのですがそういう映像をテレビや試合会場で流して、試合につなげたりします。そういう車やバイクを使ったスタントがアメリカンプロレスの特徴だったりします。蝶野選手が現場監督に就任したときの公約は、地上波のテレビでゴールデンの時間にプロレスを流すでした。ドームの試合を無くしても、深夜の一時間のプロレス中継をゴールデンの三十分に減らしても、選手のリストラや減給が発生しても良いから、地上波のゴールデン。そう言っていた蝶野選手が、どこまで初心の公約を守れるのだろうかと。

11/10 何をどう語れば良いのか分からないけど、とりあえず書き始めると、文学フリマがらみで、模索舎タコシェ・ぽえむぱろうる・自費出版図書館・ハートランドフィクショネスと、色々回っていた。文学フリマという口実をつけないとやらない事を、自分に課して動いてみた。特に自費出版図書館さんは以前から行こう行こうと思いながら中々行けなかったところなので、面白かった。〒103-0014東京都中央区日本橋蛎殻町2-13-5 美濃友ビル3Fという住所を頼りに、地下鉄東西線の日本橋駅で降りたが、むしろ地下鉄半蔵門線の水天宮前駅に近かった。以前、同人誌を作ったとき、公共図書館に持っていったが断られたので、自費出版物でも置いてもらえるという自費出版図書館さんに本を寄贈したことがある。どうやら、図書館に本を入れてもらうには、図書館流通センターの新刊案内に載せてもらわなくてはならないらしい。ちなみに図書館流通センターのHPをみると11/7の「今日の新刊」が365件 。一日にそんなに多くの本が出ていることに驚く。

ちなみに以前、自費出版図書館さんから「寄贈された本の一般貸し出しをして欲しければ一冊に月一万円を寄付して下さい」という内容の郵便を頂いたこともある。結局私は一万円を払ってないが、本の貸し出しは、して頂いている。(参照:文体最悪な気分寓話集)お金を寄付するのと、寄付しないのとでは、
1登録における優先順位が変わる。
2貸し出しの値段が変わる。
この2点が異なるらしい。寄贈後すぐにリストに登録されて貸し出し可になるのと、いつ登録されるか分からないのとの差と、一冊480円で貸し出されるのか240円で貸し出されるのかの差らしい。例えば、東京の自費出版図書館に来れない遠方の人がHPから貸し出し希望を出した場合、郵送費借り人負担で日本全国誰でも借りれるらしい。興味のある人は私の本でも自費出版図書館さんから借りて下さい。自費出版図書館さんには毎月多くの本が寄贈されるため、月に高さ160センチ幅100センチの本棚一個分の本が増えるらしい。そう考えると、入館料300円だけでは、図書館の家賃代もまかなえそうにありません。どう考えても赤字です。公共図書館でなく、個人でやっている以上、国からの補助金ももらってなさそうです。正直、どうやって運営しているのか不安でしたし興味もありました。

うかがってみて分かったのは、自費出版図書館の館長の本業は自費出版専門の出版業で、御自身も自費出版物が大好きで収集されているという話でした。館長が好きな自費出版物は主として個人史・社史・遺稿集・戦争体験記・寺神社仏閣の歴史・郷土史・市町村史・(3号・4号以降も出る)同人誌等で、小説や文学といったものはどちらかというと苦手という話でした。私がうかがった時は二度とも館長不在で女性の担当の方と色々しゃべらせて頂いたのですが、館長は上記のような事実に基づいた歴史資料を集めるために古書店を回って大金をはたくこともあり、希少な資料を手に入れるために古書店さんとのパイプ作りに力を入れられているとか、いまは和食の料理人の中では上から五本の指には入るその世界のトップの料理人さんの自伝&レシピを原稿用紙にして800枚編集中だとか、全身麻痺で体が動かない女の子の口述筆記をお母さんが何十年にも渡って書き取った日記をやはり800枚ほど編集している最中でもう五稿目になるとか、そういう話を多くうかがいました。館長は自費出版専門出版社の組合、自費出版編集者フォーラムの代表を務め(現在館長はフォーラムの代表を退いている)、会報を作るといったこともされて、その会報をまとめて合本にした物も見せて頂きました。

「自費出版ジャーナル1998-2001」と題されたこの合本は、そうとう面白かったです。例えばですね、「自費出版ジャーナル2001 2月号」P2より「書店では一日平均一八〇点以上の新刊が入ってくる状況なので、限られた書店のスペースでは並びきらず(中略)返品業務にかなりの労力と時間を費やしている」一八〇点というデータ。これ、すごいデータですよ。「出版年刊2000より」と書かれたデータによると「書籍の新刊点数65026点。一日平均約180点。書籍の総発行部数13億6831万冊」となってます。おそらくかなり正確なデータだと思われるのですが、上記の図書館流通センターのデータですと一日365点新刊が出ているわけです。約倍違うのですがこの差がどこからくるのか?昨今の出版業界の大まかな流れとして、新刊出版点数の倍増、就労人数の減少、売上げの微増という傾向があって、市場は微増しているが、その業界で食っている書き手・編集者は減って、新刊の出版点数は倍増している。つまり、昔よりも少ない作り手で、昔よりも多くの新刊を出して、なんとか市場を維持しているというイメージなわけです。それがね、出版年刊2000ということは1999年の日本では新刊が180種類だったのが、2003年には365種に、倍増している。たった4年の間に出版点数が2倍というデータになるわけです。短時間で粗悪な物を乱造すれば長い目で見れば業界全体の地盤沈下になる。

という傾向を読み取った後で、私の手元にある国会図書館が出している日本全国書誌1999年-15版「図書・非図書資料の部 書名索引」をみると、書名が左右2段組で58行あり、書名が一冊につき約一行で、所々、[ア][カ]といった物が3行サイズで入る。1ページが116行で28ページあるので、1ページ約100行と計算して2800行=2800冊の本が新刊で出されていると分かる。この日本全国書誌が週刊で年に50冊発行されるので、一日辺りのおよその新刊発行点数は2800割る7で、約400点。同じ1999年データで、国会図書館データと出版年刊データが違うとして、図書館の納本希望リストに載る本の半分は商業出版ルートに乗ってないという話になるのか?

また、「自費出版ジャーナル2001 2月号」P9より自費出版と商業出版の違いに関して、ナカニシヤ出版の中西健夫さんが出した図が面白い。

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費  |                 ○○ 
用  |               ○○  
   |             ○○  
   |           ○○      
   |         ○○      
   |       ●○        ********
   |     ●● ●●   ********
   |   ●●     ●●********* 
   | ●●    ***●●********
   |    *******●●*********
   | ***********●●*******
   |************●●*****
   _|______________________________________________________
     0      A     B      C    部数→

○が出版社の売り上げ、●が著者負担、*が製造コストとして、0からAまでは非流通出版物。つまり出版社の売り上げ○=著者負担●。
次にAからBまでは流通するが、販売利益がなくても著者負担で出版社利益が出るもの。
BからCは著者買取もしくは著者負担はあるが、それだけでは出版社の製造コストがまかなえない物。
Cから右は出版社が費用の責任を全額持つもの。場合によっては著者印税も出る。

さて、これのどこからどこまでが自費出版でどこからどこまでが商業出版なのか?例えば、Cから右でも販売促進費や広告費を著者負担する場合もあるので自費出版と呼べるかもしれないし、Aから左は非流通の私家版だが、Aから右は商品形式の流通本であるという意味で商業出版かもしれない。でも、Aから左の私家版で、仲間内に無料で配っているうちに口コミで話題になり、出版社から出されてベストセラーになることもある(Ex:磯野家の謎)。結局のところ、どこで商業出版と自費出版の線を引くのか分からないというのが中西さんの結論なのだが、自費出版文化賞の応募規定では、出版費用を一部負担した人(Cから左)は応募資格がある。

これ以外にも面白い記事がいっぱいあったので、240円のお金を払って、3週間の貸し出し期間読み漁りました。また、この自費出版図書館に勤められている女性の方の話で面白かったのは、元々、古文書を製本し直す仕事をしたかったという話で、日本の場合、雨や湿気が多いので、江戸時代などの古文書は一度水浸しになって、その後乾いた本が多い。すると各ページがくっついてしまっているためページを開くことが出来ない。そのような本を、丁寧に一枚一枚はがして、和紙ですいて、補強し各ページが独立して読めるようになるまで修繕する専門の仕事があって、元々そっち志望だった。一枚の紙を水に溶かして表ページと裏ページの2枚に分けたり、一枚の紙を二枚に分けて、一冊の古文書から二冊の古文書を作って、一冊は資料館へ、もう一冊は古書店へ売ったり、そういうことをする業者の話を色々うかがった。話を聞きながら、なるほどこういう古文書好きの人なら古書好きの館長とも話が合うだろうし、自費出版図書館などという特殊な場所に勤める人というのはこういう、少し変わった人なんだなと思った。また自費出版社の印刷機の変化についても興味深い話をして頂けた。

昔は自費出版といえばガリ版だったのが、写植になり、デスクトップパブリッシングによるデータ入稿になり、写植屋さんが2・3年の間に一気に潰れてしまったという話を聞いた。ガリ版はコピー機が無かった時代に、1970年代後半ぐらいまで小学校のプリントや商店街のビラなどでよく見た形式ですが、手塚治虫の最初の漫画もガリ版印刷だったらしくて、押すと凹む銅板の上に手塚の原稿を置いて、上から鉛の鉛筆でなぞると、なぞったところだけ凹んでそれにインクを塗って印刷していたらしいのですが、上巻と下巻で別の印刷所に頼んだため、原稿をなぞる印刷所の人のペンのタッチが違い、手塚治虫は二人いると噂になったらしいです。藤子不二雄みたいに二人の漫画家の合作だと初期の手塚は思われていたらしい。漫画の原稿の上にトレーシングペーパーを置いて鉛筆でなぞっても、俺のように下手糞な人間は、原稿通りの絵にならない。ガリ版の場合、その原稿どおりではない絵で出版されてしまうわけだ。漫画にトーンや網掛けが多用されるようになったのと、印刷技術の発展との間にどのような関係があったのか興味があって聞いたが、そこまで詳しいことは分からなかった。ただ、当時は、ガリ版でも点描を多用した絵を書いた銅板画職人みたいな人が大勢いて、美術館で展覧会もやっていたので、ガリ版でも充分、トーンや網掛けに対応できたという。いまで言えば、漫画家が描いたキャラデザインを透明のビニールシートに大量生産するアニメーターみたいな物だろうか。ガリ版時代、大手の印刷物は、活版印刷で一文字一文字が金属性のハンコみたいになったのを並べて、印刷していたらしい。80年代初頭に写植が出てきて、金属性のハンコを人間が並べなくても日本語タイプライターのように機械が打ち込んでくれるようになった。これからは写植だということでみんなが写植の勉強をして資格を取ったが、写植の勉強や試行錯誤を3年ほどして、安定期に入りやっと写植だけで生活していけると思った頃にDTPが出てきた。出てきた頃は高い写植の機械をせっかく入れたのだから、急にはこの技術を捨てなくても良いだろうとのんびり構えていたが、2・3年ほどで写植屋さんが居なくなった。実質写植だけで生活出来たのは5年ほどではないだろうか。あの頃写植をやっていた人達はいま何をしているのだろうと感傷的な話になった。タコシェからコピー誌が消えてWebへ移行し、美術的に美しい豆本とシルクスクリーンのTシャツなどがタコシェをにぎわしているのと少し似てると思った。

模索舎でも面白い雑誌が手に入った。「インパクション82 特集’60〜’90」1993年9月発行の左翼雑誌だけど、ベルリンの壁崩壊後、資本主義対社会主義、市場主義経済対計画経済、アメリカ対ソ連という分かりやすい対立軸がなくなった中で、新しい左翼の人達ってこういうこと考えてるんだってのが非常に分かりやすく書かれてて面白い。布野修司ふのしゅうじ)という京都大学工学部教員のインタビューでポストモダンについて語っているんだけど、通常ポストモダンてのは、ゴリゴリの型通りの古い左翼の文脈では資本主義に対する肯定だとして批判されるわけです。浅田彰は左翼出身なのに権力と闘ってないみたいな言い方をされるわけです。それに対して、建築家の布野さんはポストモダンという元々建築の概念であったものを建築の文脈で語ります。世間で言われているモダン/ポストモダンの概念はズレていると。正確な意味では伝わっていないというわけです。して、p67下段で決定的なことを言います。

要するにモダンというのは、産業的システムのことですよね。だから、ポスト・モダンというのは(中略)産業的システムに代わりえるもの

圧倒的でした。こんなに分かりやすく言い切ってもらえたのは初めてです。モダン=産業的システム=市場主義・資本主義。ポスト・モダン=モダンの後に来る物=産業的システムに代わりえるもの。厳密に言えば、もっとややこしくなるのですが、一言で言うと、これなんだと思いました。

機能性を重視し、工場にしろ、キッチンにしろ、どこに何を置けば一番機能的に物を作れるのかをストップウォッチを持って測り、牛丼屋のキッチンであれば、何百パターンもコンロや流しや皿の位置を変えて、牛丼一個作るのに何歩歩くとか、どれをどこに置いたら、あと3歩歩数が減って、牛丼一個作るのに掛かる時間が0.3秒削ることが出来て、それを製造コストに直すと、牛丼一個辺り何円のコストダウンになってという、細かい計算を何パターンもやって、一番機能的で経済効率の良い配置を探るのがモダニズム建築であったとすれば、機能性よりも装飾やデザインを優先させたのがポストモダニズム建築で、世界で最初のポストモダン建築の理論書は61年にアメリカのロバート・ヴェンチューリが書いた「建築の多様性と対立性」で、ラスベガスのストリートデザインを評価しているといいます。シンプルな四角や丸で出来たモダニズム建築でなく、装飾的なポストモダニズム建築としてヴェンチューリに評価されたラスベガスのネオンサインって、装飾的ではあるけど、めちゃくちゃ経済原理に支配されているギャンブルの街ラスベガスの広告じゃん?産業システムその物なんじゃないの?と思わなくもないですが、そうではなく、あくまでポストモダンは産業システムに取って代わるのもなのです(左翼文脈でいえば)。俺、映画について語る浅田より建築について語る浅田の方が好きだし、浅田彰クラスの天才は俺ら庶民には分からないような難しい現代**というジャンルの解説を常にやって欲しいと思っているので、ポストモダンと建築について語られたこのインタビューはマジ久々に買いでした。モダニズムの後に来る物として色々語られているんだけど、メタボリズム(新陳代謝)てのがあって、要するに建築は移動可能でビルド&スクラップを繰り返すべきだという話などは、浅田がミニマリズム建築や遊牧民のテントやプレハブについて語っていたのを思い出させる。また、自然との共生を言いながらも、南極やジャングルといった大自然の中に建てられる移動する家(テントやプレハブ)が結局、それまで人間が手付かずだった所へ人間が入っていって環境破壊をする結果につながっていくという理想に対する現実的な批判もまた浅田とかぶる。産業システム&経済原理を越えた建築として、インドネシアのスラムや日本の山谷における建設の体験を語るところもかなりかっこいい。

この雑誌の中で、海老坂武(えびざかたけし)という一橋大学の教員へのインタビューなんだけど、これもかなり良い。p18〜p19

大知識人の定義はなにかというと非常に簡単なんで、何か大きな事件が起こったときに、あの人は何を考えているのか、どういう立場を取るのかとみんなが注目する人、それが大知識人なんだ。サルトルにしてもフーコーにしても必ずそれに対する反応をジャーナリズムに出してくれた。イラン革命のとき、ポーランドの連帯のとき、死刑が実地されたとき、フーコーは必ずなんらかの発言をした。

今は大知識人の時代ではなくて、ジャーナリストの時代、専門家の時代です。ジャーナリストや専門家というのは、情報は提供するけれども、最終的な価値的な判断に答えられない。

10/13 初めてオナニーをしたとき、わけもなく与えられる快感に罪悪感を感じたと誰かが言ってたが、初めてかわいい女の子をみたときも、やはりわけもなく与えられる快感に罪悪感を感じるわけだ。美人というものが、ただ眺めるだけでわけもなく快感を与えられるものであるなら、それは太陽のように直視することが出来ない物になる。美人の定義を、見る者に快感を与える者とするなら、美人は見る者に快感と同時に罪悪感を与えるため、美人を眺めるという行為は、禁じられた行為になる。直視できない物の外面を認識することは不可能で、かつ外面を認識できない物の内面を認識することも不可能である。

美人というのは存在自体が表現だから、表現活動を行わないと誰かが言っていたが、芸術や芸能といった表現が、表現の受け手に対して快感を与えるのが目的であるとするなら、美人は存在しているだけで快感を与えるので、それ以上の表現を行わない。この言い方が正確でないなら、美人が仮に映画に出たとして、映画が与える快感に、美人が与える快感が優っていた場合、どんな役で・どんなストーリーで・どんな演技をしていたかという部分が全てとんで、ただ美人が出ていたという認識だけが残る。存在の与える快感が、行為の与える快感を上回ってしまうのだ。

この話にはオチがない。ラウンドカッツの打ち上げ、それも終電後の時間に、モテたいだのSEXだのアイドルだの腕枕だの膝枕だの耳かきだの耳フェチだの話の中で思ったこと。

9/27 最近、K−1のマッチメイクが上手いと感じる。 強いが人気のない選手(ホースト選手やJapanにおける武蔵選手)にシュルト選手やシリル・アビディ選手といった選手をぶつけ、KOが少ないことで観客に嫌われる武蔵選手にジャイアント・シウバ選手をぶつけている。プロボクシングの場合、アマチュアボクシングのポイント制と違って、ダウンなしの判定ではほぼ100%チャンピオンが勝つ。観客動員力を加味しての判定だからだ。つまり、3年に1回しかKOしない、判定オンリーの武蔵選手はJapanでは判定勝ちでチャンピオンになるが、世界では判定負けになってしまう。ダウンを取らなければ、ネームバリューや観客動員力で判定が決まってしまう可能性があるのだ。

KOが望まれる武蔵選手のカッコ悪い負けパターンは、背が低くてフックを振り回す選手、レイ・セフォー選手やマーク・ハント選手などに脳震盪KOをもらうパターンです。逆に背の高い選手、シュルト選手などとやると、脳震盪らしきものを起こさせていたので、脳震盪を起こすパンチを体で覚えるには良い対戦相手だと思います。武蔵選手よりも対戦相手の方が背が高ければ、頭部へのパンチが下からあごを狙う形になるため、手数の割りに脳震盪の可能性が高くなるわけです。シウバ選手との対戦は武蔵選手に脳震盪KOを起こすパンチを体で覚えさせるための物に私には見えるわけです。

むかし、K-1グランプリの会場でK-1関係者が一丸となって「ホーストは勝たないでくれ」と願っていたという話を聞きました。人気や観客動員力がないホースト選手が優勝すると、その一年はK-1を盛り上げにくいからです。ホースト選手はテレビのバラエティーやトーク番組で面白いことをしゃべるようなタイプの選手ではありません。スポーツ雑誌のインタビューでもホースト選手の話は地味で詰まらないことが多い訳です。つまり、キックボクシング出身の彼はアスリートであって、テレビタレントではない訳です。その点、プロレス出身のボブサップ選手は、試合の勝ち負けではなく、個人の観客動員力でギャラが決まるプロレスという業界にいただけあって、タレント業も大事な自分の仕事だと考えてそうです。また、自分が挑戦者としてタイトルマッチをやるためには、企業スポンサーを自分で見つけてこなくてはならないプロボクシングという競技出身の選手も、企業スポンサーをみつけるためには、タレント的なネームバリューや人気・観客動員力が必要であることを知ってますし、試合前に対戦相手の悪口を散々言って乱闘騒ぎを起こし、試合後に仲直りの握手をして、お互いをたたえ合うという古くからあるプロボクシングの演出が身に付いていたりします。つまり、プロレスやプロボクシングは始めからスペクタクルスポーツであり、ショービジネスであったのですが、旧ソ連の軍隊で暗殺術を学んでいたようなPRIDEのロシアントップチーム勢は、それらのスペクタクルスポーツとはあきらかに違う文脈の人達ですし、日本の空手や柔道、オランダのキックボクシングといった護身術は、また違う文脈のものです。

オランダはマリファナが解禁されている数少ない先進国のひとつで、ライトドラッグに寛容であるため、飲み屋やマリファナを吸うためのカフェでは、薬に酔った者同士ケンカが多く、ケンカによって店の物品を壊されないように、各店は用心棒を雇っています。キックボクシング出身のホースト選手もその用心棒出身ですが、用心棒に一番必要な能力は「言葉で相手を落ちつかせること」だと言います。客と用心棒が殴りあって同じだけ怪我を追わせた場合、プロである用心棒の方に警察はより厳しくなります。客に怪我をさせてはいけない用心棒が、暴れている客にまずやることは、腕力的に客より強いことをみせると同時に、興奮している客に声を掛けて落ちつかせることです。酒・マリファナ・ヘビードラッグ、興奮している理由は色々あって、かつ銃やナイフを持っている可能性もある客に、落ちつかせる。これが、オランダの用心棒の仕事です。だからホースト選手は試合前のインタビューで相手選手の悪口を言ったり乱闘騒ぎをおこしたりして、相手選手や観客を煽って興奮させることをしません。まず、落ちついて冷静になれと言うわけです。これはスペクタクルスポーツの思想からはかなり離れた思考です。

空手や剣道やカンフーのようなアジアの護身術も、似たところがあります。ブルース・リーや初期ジャッキー・チェンの映画を観ると分かるのですが、自分の身を守ることを目的としたアジアの護身術で一番大事なのは、自分が護身術を身に付けた強い格闘家であることを人前にさらさないことです。人前にさらせば、名を聞きつけて挑戦してくるものが増え、いつかはその挑戦者に殺されてしまう。だから、護身術を練習していることを人に自慢してはならない。これが護身術の教えです。私はケンカの弱い人間で、あなたの方が腕力があります、だからあまりいじめないでください。そう言っているのに殴りかかってくる者には、陰で殴り返しても良いが、自分から人前でケンカを売って殴りかかってはいけないし、武道大会で腕試しをしてもいけない。ブルース・リーや初期ジャッキーの映画の中では、人前で自分の武術を見せびらかした主人公が、最後には悲劇的な結末に会ってしまいます。空手や柔道や剣道にしても、まず最初に教えられるのは礼儀作法で、武術を身に付けた強い人間は普通の人と同じにしていても、普通の人に威圧感を与えるから、普通の人より礼儀正しくへりくだって威圧感を与えないようにしなくてはならない。まず、そこから入ります。そのような護身術を身に付けた人間が、K-1でスペクタクルスポーツをするというのも、矛盾しているとは思うのですが、まあ、それは良いとしても、やっぱりボクシングやプロレス出身の選手と比べて、試合前のプロモーションが下手だったり、試合の煽り方が下手だったりするわけです。

プロモーターからすると、地味な護身術出身者より、タレント業も出来るボクサーかプロレスラーに優勝して欲しいとなる。シュルト選手は大道塾という空手出身で、パンクラスにも所属し、パンクラスの無差別級チャンピオンにもなっています。シュルト選手の面白いところは、試合前に対戦相手をやたらほめるんですね。ボクシングの選手は試合前に相手選手をけなして、試合後に相手選手をほめるのですが、空手出身のシュルト選手は試合前、試合後共に相手選手をほめます。自分の強さを人前で見せびらかしてはいけないという護身術出身の選手が人前で入場料を取ってショーをするとこうなるのだなと言う一つの面白い例です。そのほめ言葉も、プロ格闘家の目からみた専門的な分析も入っているので、結構鋭かったりします。ホースト選手を世界で一番始めに「スリータイムズチャンピオン」と呼んだのは私の記憶が正しければホースト選手との試合を控えていたときのシュルト選手です。当時、K-1で最多優勝していたのが、3回優勝のホースト選手とピーター・アーツ選手でしたが、シュルト選手がホースト選手を「スリータイムズチャンピオン」と呼んで以降、ホースト選手の人気が急に上がった気がします。シュルト選手はそのトークで対戦相手選手の人気を上げる選手だとすると、シリル・アビディ選手は激しい打ち合いをして試合を盛り上げることで相手選手の人気を上げます。この二人を、強いけど人気のない、ホースト選手や武蔵選手にぶつけたマッチメイクはさすがだと思います。ホースト選手に勝たないでくれと祈るぐらいなら、ホースト選手の人気を上げてしまえば良いという、すごいマッチメイクです。

判定試合が多く、観客の支持がえれない武蔵選手に無名の弱い選手を当てたり、背の高い選手を当てたりして、KOを誘うのも上手いマッチメイクだと思います。ボクサー主体のコーチを編成し、チーム武蔵を作って脳震盪KOを増やそうという、プロジェクトも始まってるそうですが、たぶんいま武蔵選手に必要なトレーニングは、上手いボクサーとスパーリングよりも、ノーガードで無抵抗の人間の頭を殴って、一発で脳震盪を起こす頭部の場所と角度と当たり具合を体で覚えることだと思います。たぶん、高度なボクシング技術のある選手のパンチをかいくぐってガードをこじ開けて、とかは武蔵選手上手いと思うんですよ。じゃなくて、ノーガードの相手の頭を殴るチャンスが来た時に、百発百中で脳震盪が起きるパンチを打てるかですよね。十回中一回脳震盪じゃなくて、十回中十回の脳震盪を起こさせるパンチを、相手がノーガードで無抵抗なら打てるという技術が必要だと思う。で、殴られる役を誰がやるかという話で、やっぱり、借金の多重債務者で、怖い取りたて屋さんに拉致されたおっちゃんが、怖いお兄さんに「保険金掛けたし、後は死ぬだけやな。こっからアクセル踏み込んで、車ごと崖から海へ飛び込む。ブレーキは壊れてるから安心せぇ。どや、死ぬ前の気分は」とか言われながら、借金苦のおっちゃんがガタガタ震えてたら、取立てのお兄ちゃんが「一個だけ、死なんで良い方法あるかもしれんのやけど、試してみるか?少々痛いけど、死ぬよりましやろ」言われて、連れて来られたのがK-1のジムとかで、「脳震盪起きるパンチの練習したいんや。動いたら練習にならんから、手は後ろでしばって目隠しさせてもらうけど、ドクターはいるから応急処置はまかしとけ。後遺症は残っても責任は取れんけどな。」言われて殴られるいう・・一種の都市伝説ですわ。そういう人を殴ることが空手の精神、もしくは武蔵選手のパーソナリティーとして出来るのかという部分はあるけど、ボクシングの世界ってそういう殴られ屋みたいなのいるゆうしなぁ。それと、武蔵選手、整体行って、また割りやってもらった方が良いのとちゃうかなぁ。

9/19 Drスランプアラレちゃんに出てくるがっちゃんは、Get a chance(チャンスをつかめ)の略だと知って、驚く。そう、ガッチャマンは、チャンスをつかむ人であった。電話を切るとき、奴は必ず「ガッチャ!(チャンスをつかめ)」と叫ぶ。しかし、たいていの場合は、チャンスをつかめないからこそ電話をKILLのだ。
ガチャガチャはいつも、チャンスをつかもうとする子供達のためにある。大人になるにつれてガチャガチャをやらなくなった。大人になるということは、ChanceがOnceになる過程だからだ。1オンス硬貨を入れてガチャガチャを回す。出てくるのはかつて遊んだ、スライムやスーパーボール。スライムを手に入れるチャンスの代わりに、手に入るワンス。Get a onceと言うには早すぎる秋が肩口を通り過ぎる。振り返っても誰もいない。

9/2 いま、新日本プロレスが打ち出しているストーリー上の対立軸で新日本プロレスVS外敵という伝統的なもの以外に、エリートVS雑草・叩き上げというのがある。

エリート=中邑(なかむら)選手・秋山選手(NOAH)

叩き上げ=真壁選手・小橋選手(NOAH)・天山選手

スーパーエリート=中西選手

主として、新日の若手の中で優遇されている中邑選手と優遇されてない真壁選手という図式だが、秋山選手がそれを持ち出して、NOAHの中でも秋山=エリート選手と小橋=叩き上げ選手の図式を描き、それに天山=叩き上げ選手と中西=スーパーエリート選手が加わる。アマレスや格闘技等、プロレス以外での実績を持って入門したエリートとプロレスオンリーの叩き上げで、それは公務員における、キャリアとノンキャリアの図式を模倣している。中邑選手がインタビュー時に白いブラウス気味の妙にエリの長いソデが派手なYシャツを着て、高層ビルの最上階で、背中に大きな窓を背負って、デカイ黒光りする社長机とひじ掛け付きの社長イスに座って取材を受けるのに対し、真壁選手はプロレス会場で客席に向かってしゃべった上層部批判が記事になるかならないか、新日の上層部から「口を慎め」と叱られる形で多少記事になるぐらいだ。ルックスもいかにもホワイトカラーな中邑選手と、いかにも道路工事現場のおっさんな真壁選手と対照的だ。その中邑選手が、いかにも頭脳労働者な無我=西村選手と組もうとしている。自分のキャラクターを知り尽くしている中邑選手らしい選択だ。秋山選手に言わせると、叩き上げの方がプロレスファンに支持されるらしいが、NOAHの客層だと肉体労働者が多いが、新日本だと意外に頭脳労働者も多いから一概には言えないと思う。

スーパーエリートという、よく分からない称号で語られる中西選手ですが、アマレスでオリンピック日本代表という実績、かつ他のエリート選手と比べると頭脳労働者とはとても言えないという、マイク・タイソンかボブ・サップかという位置にいる肉体系エリートということだと思うのですが。最近個人的に中西選手が面白くて、何故面白いのか考えたのですが、プロレスをするにも格闘技をするにも適した体とプロレスをするにも格闘技をするにも適さない頭脳、これでしょう。客は自分と同じ欠点を持ったスターが活躍すると喜びます。つまりスターは客が共感できる微笑ましい欠点を持ってなければならないのですが、ジョシュ・バーネット選手には欠点がなく、中西選手にはそれがあるという部分でしょう。中西選手が負けた試合の後のインタビューで「**(勝った選手の名前)、これで終わったと思うなよ。絶対にお前の首をとってやるからな」とカメラに向かって言うのは、どの選手もやるお約束だとして、インタビューが進むうちに「朝は早寝早起き。早起きは三文の得。」などといかりや長介モードでことわざを交えて説教しだした日には、インタビュアーもどうして良いかわからず困ってる。まじめな人だというのは分かる。でも、変だぞそのトーク!スポーツ新聞でスローフードについて語るも、いかに自分が大食漢かという話に終始、スローフードという覚えたての言葉を使いたかっただけかと思われる。権力にすりよるときも、すごい手法を使う。高山選手に負けた蝶野選手の試合後のインタビュー後、写真撮影時に「この借りは俺が返す」などと言って蝶野選手に近づき一緒に写真に収まろうとするが「お前向こう行け」と言われて、黙って後ろに下がる中西選手。高山選手の写真撮影時にも、黙って近づいていって一緒に写真に収まろうとするが「向こう行け」と言われてやはり後ろに下がる中西選手。権力に擦り寄る時、本当に擦り寄ってどうする。あのセンスは野々村誠を超えて、ガッツ石松に通じるものがある。

野人と呼ばれることを嫌い、あくまでも知性ある人間として扱われることを望んだ中西選手。知性を見せるために、蝶野−高山戦の実況席に座って解説をしたり、スローフードという難しい言葉を使ったり、格言やことわざを多用したりするが、どこか変だ。しゃべらないことでスターになる小橋選手の道か、しゃべることで天然ボケキャラを確立するガッツ石松選手の位置に行くかどっちかしかないのだが、本人は知性を見せようとする。

プロレスの場合、強い弱い以上に、人間に見えなければ勝ちだという部分がある。プロレスリングにサイやゾウが上がってプロレスラーと試合をしたら、勝ち負け抜きにすごいじゃん?猪木時代のレトロプロレスって、外国から怪獣がきて猪木選手と戦うというストーリーで、熊殺しのウィリー・ウィリアムスも大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントも怪獣だという扱いで、いまの高山選手やボブサップ選手もそういう扱いでリングに上がってる訳で。鉄やすりで歯を磨いた噛み付き魔ブラッシー選手も、サーベルを振りまわしていたタイガー・ジェット・シン選手も控え室で色のついた煙を出して相手選手を呪い殺そうとした呪術師ブッチャー選手も、どうすれば自分が人間に見えないか、怪獣に見えるかに気を使っていた。なのに中西選手はリング上で、俺は野人ではなくて人間なんだ、怪獣じゃないんだとアピールする。それは人間に見せようとしているのに見えないからできるアピールだ。プロレスラーでそんなアピールをしたのはアンドレ・ザ・ジャイアント選手と中西選手ぐらいしか知らない。野生児にみせるのが仕事のプロレスラーが、俺は野生児でも野人でもなく、一人の人間なんだ、人間として扱ってくれと、主張する。小説で言えばフランケンシュタインのようなものだ。怪獣扱いされる人間の悲劇を背負って闘う中西選手はエリートvs叩き上げの枠から大きくはみ出したスーパーエリートだ。

8/17 「アイドル冬の時代」が好きだ。「アイドル冬の時代」と言われて、何のことだか分からない方が正常なのですが、通常、おにゃんこクラブから広末涼子までの時期をアイドル冬の時代と呼んでいて、乙女塾(Coco・Ribon・Qlair・中嶋美智代etc)や東京パフォーマンスドール・南青山少女歌劇団・高橋由美子・水野あおい・声優系アイドル(椎名へきる)などがアイドルと呼ばれた時代で、時期的にバンドブームと重なっていて、ロック=本物、アイドル=偽物、アイドルファン=宅八郎=キモイという図式が成り立った時代です。バンドブームの初期はロックなんて金にならないと言われた時期にロックをやっていた人達がメインだったので見てて面白かったのですが、段々ロックが金になり出して、アイドルが金にならないようになってくると、金にならないアイドルポップスをあえて作っている人達の方が面白くなってきて、俺の中ではアイドル冬の時代のアイドルって、割りとコアで面白かったわけだ。音楽的にはともさかりえの「くしゃみ」とか時期的には冬の時代から外れるけど、松たか子の「あした春がきたら」作曲日向大介とか、出来が良いと思うし、宮沢りえが歌って、小室哲哉が作曲した「ドリームラッシュ」なんかも割りとよくできてると思うんだ。

どこかの雑誌でアイドル冬の時代のアイドルについて語られた時に、89年〜92年ぐらいにかけてのアイドルを語ってるのですが、西田ひかるとか篠原涼子とかイーストエンドプラスYURIとか、その辺りを売れてるアイドルとして語っていて、違うだろという怒りがこみ上げたのですが。西田ひかる・篠原涼子あたりは、アイドルじゃなくて、タレント・芸能人として当時扱われてて、アイドルというのはそれよりももう一段下の、テレビには出れないけどアイドル雑誌には出てる、地方局のアイドル番組には出てるけど、深夜のラジオでレギュラーを持ってるけど、一般の知名度はない、そういう人達で、アイドル好き=人間失格だったあの時代の痛みが西田ひかるでは伝わらないわけです。アイドルの名前を知ってる=アニメの声優に詳しい・アニメの作画監督に詳しいぐらいに白い目でみられたわけです。西田ひかるの名前をを知ってるといっても、それは宮崎駿・押井守の名前を知ってるぐらいのもので、まだ普通の人扱いをしてもらえるが、OVA(オリジナルビデオアニメ)で人気があった「プロジェクトA子」の作画監督がどうの、演出家がどうの言い出すと、白い目でみられるでしょ?それが当時のアイドルファンの社会的ポジションやねん。

アイドル冬の時代のアイドル雑誌、及びアイドルポップス。金にならないことを前提に、好きで作っていた人達の魂の叫びみたいなのが聞えて好きです。よい子の歌謡曲がギリギリ冬を越せずに廃刊になってしまった。稲増龍夫の「アイドル工学」金井覚「アイドルバビロン」が出て、中森明夫・石丸元章が、アイドル評論家として人気を集めていた時の、あの狭く深い文化は竹内義和「大映テレビの研究」と並んで、アイドル批評をジャンルとして確立させてました。

8/1 社会人の飲み会の話題で一番多いのが仕事の話、二番目に多いのが上司の悪口、3番目に多いのがシモネタというのがワイドショーでやってて、それぞれ、仕事開けの飲み会の一次会・二次会・三次会に属しているという話がある。まあ、だいたい人間の会話というのは、噂話も込みで言えば大半は他人の悪口なわけで、その悪口をいかに上手く・面白くしゃべるかというのも会話の中では大事になってくるわけで。

悪口にセンスは必要だなと最近感じるわけで。ある心理学の実験で、Aさんを被験者に、Aさんと初対面のBさんが、Aさんの知らないCさんの悪口を言いました。「Cさんはこんな奴だよ」と。その話を聞いたAさんに、Cさんはどんな人かと聞くと、Bさんのいう通りの人だという答えが返ってくる。「Bさんはどんな人だ?」とAさんに聞くと「色々親切に教えてくれる私の友人だ」と答える。そのあと、BさんがAさんに、Aさんの知らないDさんやEさんに関しても同じ種類の悪口を言いました。Dさんもこんな人で、Eさんもこんな人だよと。この場合の悪口というのは、「友人の恋人に手を出す」でも「金に汚い」でも「すぐに暴力を振るう」でも「権力者にぺこぺこして、弱い者の前では威張り散らす」でも良いのですが、とにかく、Cさんに対して言ったのと同じ種類の悪口を、DさんEさんに対しても言います。そして、もう一度Aさんを呼んで「Cさんはどんな奴だ?」と聞くと「分からない」という答えが返ってくる。「では、Bさんはどんな奴だ?」と聞くと、BさんがC・D・Eの3人に対して言っていたのと、同じ種類の悪口をAさんはBさんに対して言うわけ。

最初に、「Cは俺の女に手を出して、俺から彼女を奪って行ったヒドイ奴なんだ」とBがAに言ったとして、Aは「なるほどCはひどい奴だ。」と思う。けれども、その後、Bが「Dもヒドイ奴で、俺の女に手を出して、俺が捨てたモトカノといま付き合っているんだ。」と言い、「Eという奴も女にだらしなくてな、俺のいっぱいいる女友達のうちの、俺と非常に親しくしている一人に手を出しやがるんだ。」ぐらいまで話が行くと、その話をしているBという人物は、3人の男性と似たような女性関係のトラブルを起こしていて、3人とも別の女性で、3人とも俺の彼女みたいな言い方をしているけれども、結局全部振られているわけじゃん?他人の女に手を出してトラブル起こしているのはこのBさんじゃないの?となる。この場合の悪口が女にだらしないだけではなく、あらゆる別の悪口でも同じことで、「奴は金に汚い」という悪口をすべての他人に対して言ってる人も、「この人は誰とでも金銭トラブルを起こす人なのだ」と思われるし「奴はすぐに暴力を振るう」という悪口を誰に対しても言う人は「この人は誰とでも暴力事件を起こす人なのだ」と周りからは思われる。

この実験から得る教訓は「他人の悪口をいう時には、人ごとに違うことを言え」ということだ。自分が誰かの悪口を言う時、ある人物に対して言ったのと同じ悪口を別の人物にも言うと、それは人物評ではなく、悪口を言ってる人間の問題に成ってしまう。「Aは頭が悪い」「Bは動きがトロイ」「Cは融通が利かない」これなら、悪口ではなく、人物評として通ってしまうため、言ってる人間は傷つかない。悪口というのは語彙がなければ、言えないものなのだ。

悪口の失敗例としてよくあるのが、普段温厚でめったに怒らない人に、その人の恋人・家族・親友の悪口を言ったら、激怒されるというパターンがある。その温厚でめったに怒らない人は、目の前で自分の悪口を言われても怒らないんだよ。それは本人を前にして言っているわけで、誰が誰に言っているというのがはっきりしていて、本人にその場で反論する機会を与えているし、悪口の発言者も自分の名前で責任を持って言っているわけだ。これだと、悪口というより、忠告やアドバイスとも取れるし、忠告と呼べるような論理的な物でなく、もっと人をおちょくるような内容であったとしても、その場で笑いが取れていれば冗談としても受け取れる。少なくとも、その場に本人がいる以上、陰口ではない。けれど、その場に居ない、その人の大事な仲間の悪口を言うのは、かなりのマナー違反に成る。しかも「いやいや、君は良いんだよ。君は良いのだけど、それ以外の奴等はね」という言い方で、反論を封じ込めて、ひたすらしゃべりまくるのはいただけない。さらに最悪なのが「いやね、これは私が言ってるんじゃないよ。私はキミの味方なんだけど、ただ、他の連中がみんなこう言ってるものだから・・」と自分が言いたい悪口を、他人が言ってるかのようにして、逃げるのはいただけない。悪口を言うセンスに関して、いま一番良いセンスをしていると思えるのはノエル・ギャラガーだ。

本当はもう少しマシなことを書きたいのだけれど良い。あきらめた。

「アイドルと民主主義」というよく分からない話を始めるのですが。広瀬隆的なロスチャイルド家とロックフェラー家という陰謀史観にハマっていた時期があって、

アメリカの政党 地域 主な産業 人種
ロックフェラー 共和党 アメリカ 石油 白人
ロスチャイルド 民主党 ヨーロッパ 金融 ユダヤ人

こういうことを、9・11直後には考えていた訳だ。これらを陰謀史観だと言って批判するのは、常識的と言うか、良識的な判断だと思う。「世界を牛耳る**人の人間達がいて、世界の重要なことはすべて、その**人委員会で決められている。」といったところまで行くと、まあ、100%嘘だなと思うが、アメリカのどの財閥が、その政党の誰にどんな目的でいくら金を寄付していて、どの政治家がどの産業の利権を代表していて、どの政治家がどの人種の利権を代表していてという話は、100%嘘だとは思えないんだよな。こういうことを言うと「あんたが言ってるのは陰謀史観だ。アメリカや日本は民主主義国家で、黒幕や陰の支配者なんてのはいなくて、民主的手続きですべてが決まるんだ。」とムキになって反論してくる人がいる。

ただ、日本でも、財閥や学閥が存在していて、政党の中にも派閥があり、労働組合を支持母体にしている議員や建築業界を支持母体にしている議員や公務員を支持母体にしている議員や、色んな議員と色んな派閥があって、それぞれの議員がそれぞれの支持団体の利益を代表して国会に来ていて、政策立案能力に長けた議員もいれば、異なる政策を出してくる人の間を動き回って、利害の調節をするのに長けた利害調節型の議員もいて、有力な議員もいれば無力な議員もいる。個々の議員がどの利益団体を代表しそこにいるのか?利害の対立するいくつかの利益団体代表者間で、どういう利益配分をどういうプロセスで決めたのかをみていくことは、間接民主制にとっても実はすごく大事で、寄付金だのロビー活動だのの流れをみる者に「陰謀史観」のレッテルを貼って、「民主的手続きを踏んでます」という言葉で、手続きの中身を見せないようにするのはおかしいと思うわけ。もちろん、一時期流行ったみたいに小沢一郎が日本のすべてを牛耳ってるみたいな言い方も間違ってるし、キーマンを過大評価しすぎるのもおかしいけど「民主的な国家だから、議員は民主主義のために動いているのであって、自分の支持母体のために動いているのではない」という言い方も嘘過ぎると。

自分が陰謀史観にハマって行くときの、この心地良さは何だろうと思ったんだけど、民主政治の腐敗した形が衆愚政治で、哲人政治の腐敗した形が独裁政治だとして、システムとしては民主政治も衆愚政治も同じで、哲人政治も独裁政治も同じで、違いは政治を行う人間が立派か立派でないかの違いということになるのですが、独裁的なシステムで政治をして、上手く行かなければ、トップを変えれば良い。マルクス主義的な、民衆が決起して革命を起こして、独裁者を首にすれば良いという話ですが、民主的なシステムで政治をして、上手く行かなければ、それは民主的なシステムに関わった俺達全員が悪いという話になります。独裁的なシステムであれば、その独裁者を辞めさせれば良いですが、民主的なシステムであれば、自分を含む民衆全員を首にしなくてならない。民主政治の居心地の悪さというのは、民衆全員が政治参加して上手く行かない場合、それに変わるシステムがないという部分でして。まあ、間接民主制というのはその辺上手く出来ていて、選んだのは我々民衆だが、政策決定したのは代議士で、それで政治が上手く回らないなら、同じ民衆が別の代議士を選べば良いという話になるのですが、しかし、そのダメな代議士を選んだのは我々民衆だろうという部分は残るわけです。

陰謀史観の都合が良い所は、一見民主的に見えるけど、実は裏に独裁者が居てという話になってて、その独裁者を倒せばすべてうまく行くという、通俗的なマルクス主義的希望と結びつきやすいわけです。陰謀史観が何故ダメかと言うと、ナチスがユダヤ人の虐殺をする時に、ユダヤ人陰謀説を利用したと。世の中の負の部分を全部ユダヤ人のせいにして、大量虐殺を行ったと。そういう負の部分を真面目に理解した上で、それでもなお、お遊びの陰謀史観にはハマるわけです。J−POPのプロデューサー史上主義なんてのは、典型的な陰謀史観で、アイドルが何かネガティヴなことをやっても、それは全部プロデューサーのせいにしてしまえば、アイドルには傷が付かない。シンガーソングライターが直接民主制だとすると、アイドルは民主的な姿をした独裁主義=陰謀史観で出来ていて、裏にプロデューサー=黒幕がいる感じが出てなきゃいけない。トミーフェブラリーのような、セルフプロデュース型アイドルでも、「やらされている感」が出ているから良いのであって、自発的に音楽をやってます感が出てると、娯楽としては成立しない。

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