HP管理者日記2

4/22 小室哲哉が拠点をLAに移した。日経エンターテーメントをはじめとする小室談話によると、LAは工場地帯で何もなく働くことしかできないし、近くに来たからこれからメシでも食おうと友人に誘われてもその近くが車で片道2時間だったリする。その点、NYはタクシーの運転手だろうがコーヒーショップのマスターだろうが誰でもすぐにセッションをしてくれる。ってな話だ。

小室のいう工場地帯ってのはデトロイトでなく映画産業の街LA=ハリウッドで、ビートたけしや村上龍などは「アメリカにおける映画監督の地位の高さと居心地の良さを感じる」と言ってるあのLAだ。LAではどうやらミュージシャンの地位は低いらしい。NYというのは音楽産業の街で、ミュージシャンになろうと街へ出てきた若者が、当座の生活費を稼ぐためバイトをしているとそれがそのまま本業になってしまった。って人達であふれてる。だから、タクシーの運転手だろうが掃除のおばさんだろうが、地下鉄の駅員だろうが楽器の演奏が出来、いつでも喜んでセッションをする。「いつかはきっとミュージシャン」という夢を捨てずに運転手をしてるのだ。LAの居心地が悪くて、NYの居心地が良いなら何故小室はLAに居るのか。LAはミュージックビデオの製作所が多くあり、LAで成功しなくては産業として成功しないと、小室は踏んだらしい。ちなみに、NYに行った日本のミュージシャンは坂本龍一・久保田利伸・郷ヒロミ、LAに行ったのがX−Japan・松田聖子・小室哲哉。分かりやすい分かれ方をしている。

Tokyoに住んでて思うのが、東京もまた、NYに負けず元ミュージシャン崩れや、倉庫で日雇いバイトしながらバンドやって将来は漫画家目指してる人とか、元演歌歌手のカラオケ教室とか、元メタル系スタジオミュージシャンのギター教室とか、そういうのが多いということだ。バイト先で普通にしゃべっててもバンドやってるDJやってるイラスト描いてるコンピューターグラフィックが趣味。多いもんねそういう人。地元の京都ではいなかったぜそんなの。趣味でギター弾いてる先生とかいたけど、かつてプロのミュージシャン目指してていまも多少その気がある人。日本だと東京に集中するんだろうなそういうの。

4/14 パソコンを’Baby’と呼ぶのがMacユーザー。’Mother’と呼ぶのがIBM。

「文学とは子供と老人のものだ」と、語ったのが誰だったかは忘れたが、名言だと思う。また別の人は「文学とは女・子供の物だ」と言った。こちらは大の大人が読む物ではないという侮蔑的な文脈で語られる言葉だ。子供と老人は主として書き手として設定され、女・子供は主として読み手、もしくは書かれる対象として存在する。どちらの文脈にしても大人の男というのが一番文学から遠い存在になる。

古来、東洋において、そしていまのアフリカやインディアンや南米においても、老人の語り手は長く生きてきた歴史の証人として尊重される。彼等を語り手として扱った文学は非常に多い。また、近代において「恐るべき子供たち」「アングリーヤングメン」が語り手となった小説も多い。彼等が特権的な語り手となれるのは、そこに新しい時代、新しい秩序を感じられるからだ。ジャズエイジでもフラッパーでもモガでもモッズでもヒッピーでもゼロジェネレーションでもジェネレーションXでも良いが、新しい風俗には新しいマーケットが存在し、そのことがまた人々の関心になる。かつて日本車キラーと呼ばれた車がジェネレーションX世代に向けて売られた・・・という恥ずかしいキャッチコピーだったのも記憶に新しい。

そうして出てきた「アングリーヤングメン/怒れる若者たち」もいつか普通の大人になってしまう。そのことに一番自覚的だったのは江藤淳ではないだろうか。彼は自らアングリーヤングメンとして矢面に立ち、その敗北=時代が去ったことを知るや、文学にも絵にもならない大の大人でなく、ロマン主義に彩られた老人として自らの立ち位置を確保した。対談では真っ先に持病の話を持ち出した。「最近からだの容態はどうですか?」老人を演じる彼の常套句だった。どこの病院が良いとか、どんな食べ物がどの病気に良いとか、どこの先生が権威で、どの薬が効くか。批評では常に若者に厳しく、大御所に優しかった。伝統を重んじる保守主義でならし、老人のような口ぶりで若者と流行を批判し続けた。アングリーヤングメンというジェネレーションギャップを利用したロマン主義的文学で登場した彼にとって、家族を守るため収入を維持し、職務に忠実になり、過激な言動や行動を控えねばならない勤労年代の中年男性という立場はロマンや文学のかけらも無く、非常につらいものであったのだろう。

彼が死んだとき報道された実年齢は、老人と呼ぶにはあまりにも若かった。

4/13 古代ギリシャだったか何だったか忘れたけど、本の分類で1番上に詩・詩歌が来て、2番目に目に戯曲、3つ目に小説ちゅう話があって、文学の中で小説というのは3番目なんだという話ですね。詩や詩歌が音楽を意味し、戯曲が演劇/TVドラマを意味するように、記録系の芸術というのはある種の興行があってはじめて成り立つものな訳で。一般に僕等が文学といったときにイメージする書物と実際の文学というのはかなりかけ離れたものなのじゃないかと、最近思っている。

例えば不思議の国のアリスだって上演されてたわけだし、シェークスピアやオスカー=ワイルドだって劇作家だったわけだ。書物を文学だと思うような倒錯がいつから起きたのか?60年代まで文士劇という形で小説の興行はされていた(もっともシナリオライターの集団である文士たちが演じるわけで役者の演技はかなり低レベルだったらしい)わけだし、大正時代まで詩は暗唱され歌われるものであったわけで、いまでもベストセラー作家の赤川次郎や西村京太郎作品は火曜サスペンス劇場などでドラマ化されている。人気作家だからドラマ化されるのか、ドラマ化されるから本が売れるのかは、鶏と卵だから突っ込まないとして、彼等の推理小説ははじめからドラマの脚本になることを前提として書かれているのであって、上演されない書物として存在しているわけではない。本来、文学=興行であったはずがいつのまにか、文学=書物というような倒錯が起きた。この倒錯が起きた原因を突き止めるのは意外と簡単だ。

文学の中で小説の地位が急激に上がるのは明治時代と敗戦後の'45年から’60年代まで。外圧によって無理やり開国させられたときと、外国に無条件降伏させられたとき。自分達の運命が生活が外国人の手の中にあってかつ、鎖国や敵性文化の排除等で外国に関する情報がほとんど無かった時代だ。明治の文豪夏目漱石は民間人で初の国家予算で留学した日本人だったわけだ。国の期待を一身に背負ってのイギリス留学。彼の文学に彼の言動に求められたのは英国に関する情報であり、英国からみて日本がどのようにみえ、どうあるべきだと考えられているかであった。それはドイツ留学組の森鴎外やロシア文学を学んだ二葉亭四迷やフランス文学の永井荷風でも同じで、彼等の生活と意見が当時の新聞で大々的に報じられるのも、彼等の生活と意見を知りたいのではなく、彼等の生活と意見に公共性があるわけでもなく、彼等を介してしか知り得ない外国の情報が多々あったことを意味しただけだ。

60年代の大江健三郎がサルトルの翻案者であり、太陽族の石原慎太郎がカミュの日本版であり、中上健次が南米のラテンアメリカ文学なのも似たようなものだ。先進国の進んだ情報を小説が伝える。そんな小説の役割はTVの登場によって終わる。もう少し正確に書くと、業務用VTR(ビデオ)の登場によって終わる。すべての放送が生放送であったとき、海外ロケは非常に困難であった。集音マイクと照明とカメラとビデオデッキ。4人一組のクルーがビデオを撮り貯めして日本に送り、日本で編集という作業が出来るようになって、まずNHKがシルクロードシリーズを撮り出した。民間のバラエティーでは「なるほど・ザ・ワールド」「わくわく動物ランド」「世界の車窓から」「世界不思議発見」ときて、海外映像を売りにしたクイズバラエティー「なるほど・ザ・ワールド」が視聴率不振から放映中止に至ったとき、海外映像バブルは終わった。ビデオ版「地球の歩き方」が安く手に入るいま、観光地を回った豪華な海外映像だけでは視聴率が取れないのだ。テーマ性・メッセージ性が必要になってくる。最近は深夜に流れるCBSイブニングニュースがアメリカ発の情報番組として異様に面白い。

そういう時代に書かれる文学は、海外の生活と意見を代弁・紹介するものではありえず、興行の出来る詩や戯曲より低い位置にある小説となるのは致し方ない事と思う。それと同時に、アメリカにおける文学の主流が在米の非アメリカ人によるカルチャースタディー物であるのもまた興味深い。

4/9 TVで中山秀がモー娘。のなっちに「なっちでぇーーす」とやった。するとなっちは「それはノッチだろ!」と突っ込んだ。「マッチでなくノッチ(Exボキャブラ天国)」が出てくるところに世代を感じる。

4/5 情報の加工産業とは何か?つう事を考えてて。普通に考えると一次情報というのが一番情報の鮮度があって信憑性もあって価値もあると、二次情報三次情報になると価値が無くなると、いうのが常識やけど、現に情報の加工業者がいる以上、職業として成り立ってるはずだと思うわけ。で、加工業者は何をするのかと。

一番分かりやすいのが情報の輸出入業者で、外国の情報を日本語で輸入、日本語の情報を外国語で輸出。それは分かるわいと。確かに加工することで消費者にとって扱いやすい情報になってると。で、輸出入じゃない加工業はどうなのかと。一番始めにやるのは一次情報の製造、インタビューとってテープ起こしってのは、インタビューされる側にとっても言葉になってなかった不確定の思いや何かがインタビュアーに尋ねられることによって言語化され、活字化されるわけですから、ここまではまあ、加工業というよりは製造業・一次情報と言ってOKだと思う。

始めの加工は収集・要約・分類かなと。例えば1999年度版新薬辞典という本があったとして、1999年に国の許認可を受けた薬の名前と効能と副作用と使用法と販売元と値段ぐらいが書かれて、まあその薬の写真が出てるそういう辞典があれば、便利やわな。大きな病院はみんな買うでしょう。この時、新薬の一次情報を持ってるのは薬の開発者の人達でしょう。一つの薬を開発するのに長いときだと5年10年かかったりもするでしょう。その時、どんな苦労をして、理論上どんな困難があって、そしてどのようにして開発&研究を進めたか、絶大な効能を持つ新薬にたどりつけてから副作用の動物実験で悪い結果が出て国の認可が下りずに開発が頓挫ということもあったでしょう。そのようなインタビューをとれば一つの新薬だけで一冊の本が出来るかもしれません。でも、一つ一つの薬に対してその薬が効果を発揮する理論的なプロセスを書いた論文やなんかを削って、薬の利用に必要な必要最低限の情報だけを残し、その分他の薬の情報を詰め込む作業。集めた新薬の情報を患者の症例ごとに、薬の成分ごとに、分類する作業。これらは明らかに一次情報に対する加工だけれども消費者にとって有効な加工だと思う。

その新薬辞典が年に一回出るのか月に一回出るのか分からないが、このような加工形態がいわゆるカタログ雑誌だとすると、そのカタログ雑誌の5年間10年間の変遷の歴史は、そのままある業界の歴史になる。新薬辞典の10年史なら薬物史になるし、音楽誌の10年史なら音楽史になる。大正教養主義的な全集、文学全集や美術全集や音楽全集はこの手の加工によるものだし、新書・別冊宝島で読める文学史・美術史など、業界史ってのは雑誌情報の二次利用的に成り立ってる。これはこれで非常に有効な加工だと思う。新薬の主流が殺虫剤的なものから、ワクチンへ移っていく過程を描きながらその時代背景、ネズミやノミを媒体とした伝染経路で細菌が体内に入って病気になる時代から、住環境の整備でネズミやノミが減り、消毒液の普及で細菌が減少し、細菌よりもより小さなウィルスによる発病が主流になると薬も菌を殺す目的の物から体内に抗体を作るためのワクチンへと変化していく。なんて話をその業界の部外者が教養としてざっと読むには良い話だと思う。

カタログ雑誌を一次情報と仮に呼んで、カタログの変遷史を二次情報と呼ぶなら、三次情報を上手に生み出したのがニューアカデミニズムだったと思う。ミシン台とコウモリ傘の例がよく出されたように一見結びつきそうに無いものを結びつけるのが彼らの方法論で、よくあるのは文化人類学という素材に数学という方法論を持ち込んだレヴィ=ストロース型(素材+方法論)と、医学や監獄やの歴史を有機的に結びつけたフーコー型(素材+素材)で、レヴィ=ストロースにしろフーコーにしろ、一次情報に比べると情報の精度そのものは落ちてるらしいんだな。じゃあ、レヴィ=ストロースの持ち込んだ数学に不明瞭な部分があったから、フーコーの描いた歴史に事実誤認があったから、あの方法論が無効だったかというと、全体の像をそれこそ比喩的にであっても上手く描き切れた、有機的に結び付けられたという意味でやはり有効だったと思う。それこそ孫引き的な書物を「孫引きだ」と悪く言うのは、情報の加工そのものがダメなのではなく、その加工の目的と手段が上手く行ってないからダメだ、ということであって、新薬の開発者が自ら開発した新薬のセールストークを自己責任ですればOKという類の問題ではないと思う。

下記のトラッドリアレーベルのHPでNewのコーナーに公開されているmenu200フリーペーパーに私のCDレビューが載ってます。みてくらはい。http://trattoria.eccosys.co.jp

80年代の宝島つう雑誌を圧倒的に好きな自分はある種、Tokyoに憧れていたのかもしれない。若者の風俗を扱った雑誌として70年代の平凡パンチ・80年代の宝島・90年代のPopeyeつう流れがあって、別の流れで街角の一般の女の子のスナップ写真を載せてそこからアイドルを生んでいくって雑誌でモモコ〜EGG・ストニュー、って流れがあったわけだ。70年代の平凡パンチや宝島がアメリカのヒッピー・日本のフーテンを扱っていたとすれば、80年代頭に宝島はロンドンのPUNK/NewWave/ニューロマンチックへ移り、80年代中期から日本のインディーズ中心に回っていくんだけど、82年9月号の宝島買ってみてると、Phewとかスターリン、S‐KENにジューシーフルーツと東京ローカルのアイドルがガンガン出ててかっちょええなぁと。片やモモコでいうと街角で偶然みつけた可愛い女の子を偶然持ってたカメラで写真撮って編集部に送ったら、たまたま紙面に載って人気が出て一代目モモコグランプリでチャンピオンになったのが菊池桃子で、もともと素人の女の子がスターになりましたというシンデレラストーリー+雑誌・ラジオのみのメディア露出でTVに出ないカルトアイドルという地位。いまでいう声優系アイドルみたいな地位築いてさ。今ぐらいの年齢なれば「雑誌と芸能プロダクション組んでの仕込みや仕込み!素人の被写体無許可で載せたら肖像権云々で捕まるわい」とも思うけどガキの頃は信じるやん、そーゆーストーリー。

そーゆー刷り込み入った上で大学で東京・・つっても八王子の田舎の方、単線で2時間に1本しか電車無いようなとこやけど来て、大学入ったらみんなバンドやって雑誌作ってビデオ回して思ってるやん?学内メディアってのが発達してて、モモコのノリでキャンパスのアイドルをデッチ上げて、大学のラウンジや待合室にあるケーブルTVで去年の学園祭でミスキャンパスに選ばれた女の子が南の海の海岸線・・・が無理ならせめて茅ヶ崎、水に戯れながら走ってる映像流れてさ(笑)学内のパソコン&音楽オタクが作った打ち込みシンセな曲原宿のホコ天で歌ってる映像流れてさ、昼食時に流れる学内の有線でDJしてる奴いて、頭が悪くて軟派な俺はそーゆーのが大学だと思ってたわけさ。

いざ大学来たら大学の待合室で流れるケーブルTVは重い木の扉を開けると真っ暗な部屋に一本の赤いじゅうたん、じゅうたんの両側にろうそくが立ってて、その一本の道がすっと奥まで続いていて、一番奥に階段があってその上に大学の総長が木のイスに座っていてBGMがワーグナーの「ニーベルンゲンの指輪」(笑)てめぇーはヒットラーかっつうベタな映像にベタな音楽。著作権フリーの音源使ってプロモ作ったらみんな同じような音楽に同じような映像になるもんですよと、その筋の人から言われたけど、南の島の海岸線走る女の子の映像もベタやけど、ああ、これが大学かと思ったもん。大学の学生課は日大闘争経験者やから学生に学内における表現を禁止することに躍起になってて、学内でポスター貼ろうとしたら、B5サイズで5枚までで貼り出す1ヶ月前から届け出出して、毎日学生課に呼ばれてゴチャゴチャ言われて、それで貼れる期間は最長で2週間。貼ってる期間よりゴチャゴチャ言われる期間の方が長いつう奴で。学内雑誌やビラも1ヶ月前から検閲されてあちこち削られて、それで100部限定費用は100%自己負担。ビデオやバンドやラジオ含めて学内メディアのかけらも無かったもんな。

こんなん大学でもTokyoでもないと思って、学研のBombの第1回インディーズマガジンフェスティバルってのに顔出して、メビウス・アート・ラグって人達が作るQlair(「クレア」ちゅう名のアイドルが居たんだよ!)本みて感動しちゃってさ、4段組(1段目にページのロゴ、2段目右端写真、四段目に囲みで別コーナーとかさ)で段のサイズにあわせて写真入って、イラストあり漫画ありで、スクープ記事が活動実態がさっぱりわからないB級アイドルのクレアが実は香港でイギリス人監督と映画撮ってたってネタで、映画のタイトルが「BlackAngels」という冗談みたいなマジネタ。中みるとMacとフォトショップとクォークとスキャナーがあればこれぐらいの雑誌作れるみたいなこと書いてあってさ。他にも同人活動サークルで月額15000円会費で20〜30名ほどで都内に6畳のアパート借りてMacとコピー機とコタツ、TVとTVゲームが3セット置いてあって会員は自由に使える。部屋には常時15名ぐらい人が溜まってて、コピーも紙さえ持ってくればいくらでも使用可。業務用ホッチキスもあるからタダで同人誌作れる。ただし冬コミと夏コミ前はコピーにみんな殺到するのでお早めに。なぁーーんて社会人&学生サークルがあったりして、いまでこそ個人向けSOHOサービス業なんてあるけど、当時まだインターネットカフェどころかインターネット自体が無くってパソ通と呼ばれてた時代だからさ、こーゆーのってTokyoだよな。と、思ったんだ。

就職の面接で「将来のビジョンは?」なんて聞かれて、ビジョンなんてあるわけないし、わからんから適当に話し合わせてでっち上げるんだけど、まあ、落ちる。「小さい頃何になりたかった?」と聞かれても、「大人になりたくなかった」としか言えない。だって親が「大人は大変だ。大人はしんどい。子供は楽で良いな」ってなこと言い続けてたら、大人になりたくないなぁと思うやん(俺の場合、悪いのは全部人のせいにして自分は悪くないと思いこむのがポジティブシンキングだ。前向きの姿勢ですハイ)。でも、小さい頃何に憧れたのかをよくよく考えると、宝島とかメビウス・アート・ラグとか「よい子の歌謡曲」とか浮かぶ。それは職業なのか?と聞かれたら、趣味でしょうと答えるけど。

3/30 自分の人生が失敗しまくってるという自覚ぐらいはありつつですね。この日記みてみて思うのは、今の自分にとっての興味は、年齢や性別等の外的属性から作られる期待と本人とのズレやってことで。エイジングでもジェンダーでも良いんだけど、その属性から期待される役割と本人の資質がどうズレてくかって部分は非常に面白くて。

具体的には、分かりやすいよう芸能人の名前使っちゃうけど、松田聖子のセクシー路線とか、無理だったじゃん?年齢的にも30超えて清純派はねぇーだろと思ったんだろな、年齢という属性からからくる役割期待だとセクシー路線かもしんないけど、本人の資質が松田聖子じゃん?出来ないことやって無理だと分かって方向転換した先が「永遠の少女」written by松本隆だからね。オードリ・ヘップバーンは年とっても清純派だし、マリリンモンローは若いときから死ぬまでセクシー路線だったわけで。ちなみにモンローは自分のセクシー路線に嫌気がさして、胸を小さくする手術をしたとまで言われてるんだけど。

3/20 K-1で武蔵対アンディー=フグ、5ラウンド判定でアンディー=フグ勝ったんだけどさ、フグは以前、「自分はトリッキーな動きで相手を攪乱して勝つタイプだ」と言ってて、それは武蔵と非常に良く似てると思う。技の正確さやきれいさならホースト、一発のパワーだとレバンナやマイク=ベルナルドや佐竹、スピードだとミルコ。K-1選手としては、身長が低くて年も高齢なフグとしては、技の多彩さで、相手を心理的に攪乱させて試合を自分のペースに持ち込んで倒すというのがパターンで、武蔵も非常に似たタイプだと思うわけ。普通の選手が、パンチとハイ&ローキックぐらいしか使わないとすれば、バックブローや相手に背中を向けての回し蹴り等、回転系の技やかがと落しを使うフグ選手と、ハイキックと同じ軌道から出るミドルキックや飛び膝、オーソドックススタイルとサウスポーをスイッチして使い分ける武蔵選手。

ただ、技の種類が多いということは状況に応じて使い分けることが必要に成るわけで、実践で使えない技や使わない技がいくらあっても意味ないし、使い分けをどうするかというのは非常に大きいと思う。例えば、バックブローや後ろ回し蹴りのような回転系の技は相手に一時的に背中を見せるわけで、背後からカウンター食らう可能性も高いし、回ってる最中は軸足にローキックをもらえばスリップして倒れる可能性も高い、格闘技の常識から言えばやっちゃいけない、デメリットしかないような技だと思うんですよ。そういう技を何故使うかを考えた時にプロレス的なショーアップ、K-1の主催者がお客さんをいっぱい呼ぶために、主催団体に属してる選手に派手な技を使わせている、ぐらいに思っていたんですね。

ところが、試合を見てると100%そうとも言えなくて、ホースト選手でも後ろ回し蹴り出したりもしてるんですね。おそらく、相手にキックが当たるまでの助走距離が長い方が当たった時パワーがあるとか、離れた距離を一気に縮めながら大技に持ち込むのに便利とか、そういう意味だと思います。他には、1ラウンドでいきなりフグ選手のバックブロー食らった選手が、呆然と立ち尽くしてたってパターンもありました。バックブローを受けて肉体的ダメージは無かったと思うのですが、心理的に強いダメージを受けたというのが画面から分るんですね。「見えない角度からパンチが来る」とか「相手が背中向けたのに攻撃できなかった」とか「完璧にナメられてる」とか「練習中こんなパンチは存在しなかった」とか「構えて相手をにらんでる時に急に風景が変わって距離感がつかめなくなる」とか色んな思いがあってしばらくそこから動けなかったってのが、トリッキーな動きを売りにするフグ選手の狙い通りだったです。そういう回転系のリスクの高い技は、最初の方のラウンドでめくらまし的に使われる事が多いですね。

武蔵選手としては主としてミドルキックをどう使うかにかかってくるのですが、ハイキックはリスクが高いから使うなというセコンドの指示が出てたり、解説の石井館長も武蔵選手のミドルを一撃必殺みたいに言ってたりしてるのですが、それは違うのではないかと。ハイと同じ軌道から出るミドルが怖いのは、ハイかミドルか分らないから怖いのであって、100%ミドルだと分ってればガードすれば良いだけの話ですから、大したことないんですよ。武蔵選手がミドル一発で相手を倒した試合もそれまでのダメージがいっぱい溜まっていたところへミドルで倒れたので、始めっからミドル一発で倒すんだってのは無理だろうと。むしろ、一撃必殺のハイキックがあるから、ガードをこめかみまで上げておかなくては成らない。こめかみまでガードを上げるからミドルキックは受けても仕方がない。これ以上ミドルを受けたら倒れるという段階になって初めてミドル用にガードが降りる。そこへハイキックを決めて倒すのが本当じゃないかと。

今回のフグ対武蔵戦の話に戻すと、第一ラウンド、フグ選手は武蔵選手の周りを回り始めた。フグ選手が武蔵選手をヘビー級扱いしたわけです。身長も体重も武蔵選手の方が少し上なだけですから、武蔵選手側に立って言うとフグ選手を追いかけてコーナーに追いつめてボコボコに行けば良かった訳です。圧倒的なウエイトを持ってる選手であれば、重い筋肉や脂肪を持って走り回るのは無駄にスタミナを消耗するだけですが、体格にそれほど差がないんだから、コーナーに追いつめれば、どんなに防御の上手い選手でもコーナーから出ない限り無茶苦茶に打たれるわけです。ロープぎわに誘われて、ラッシュかけてカウンターもらうってパターンは、コーナーじゃなくてロープぎわにしか追い詰めてないから踊らされるんでね。

普段トーナメントで3ラウンド3回戦までなのが、今回5ラウンドと少し長いのでお互いに3ラウンドまであまり打ち合わずに流すんですね。ただ、そのあまり打ち合っていない3ラウンドまでの流れで行っても、武蔵選手はクリンヒット一発もらうと、そのまま2・3発連続でもらうのが、フグ選手は1発クリンヒットもらうと2・3発分腕を振りまわしてパンチを返すんですね。レバンナ対ホースト戦のように、1発のクリンヒットを与えたら、そのまま間髪入れずにラッシュをかけるべきだし、1発のクリンヒットをもらったら、審判の印象点的な意味でも、防御的な意味でも、相手を向こうへ押し返す意味でもパンチを返していくべきなんですよ。スローモーションで観た時に、武蔵選手のパンチがフグ選手の顔に当たった後、フグ選手の首の上に武蔵選手の腕が来て、腕がからまってフグ選手は地面しか見えてない状態からでも、腕を振りまわして武蔵選手にクリンヒットを一つ返してるんですね。練習の時に打たれたら打ち返すというクセを付けてるか付けてないかだけなんですけど、その差は大きいなと。

4・5ラウンドとフグ選手が打ち合いに出た時、下がる武蔵選手に、フグ選手がノーガードで挑発に出たんですよ。ノーガードの相手にハイキックを出せない軽量級選手はK-1で戦うのはキツイだろうと。ノーガードなんだったらハイキック一発で倒せよと。もちろんフグ選手にしても主催者側が武蔵選手を勝たしたがってるのは分ってると、素人目に見て互角の勝負だと武蔵選手の判定勝ちになるぞと、当然素人目に見てもフグ選手が勝ったと分る分りやすい勝ち方をしなきゃいけないのでフグ選手としても必死であーゆーパフォーマンスをしたのだと思う。互角の試合内容で判定だと武蔵選手の勝ちだと分っている武蔵選手が冒険に出れないのも理解できるけど、そこはリスクしょってでも、かわされても良いからハイキックの1発もみせて、飛び膝の1発も披露して、ポイント取りにいかな。

最後に雑多なこと書くと、接近戦で言えばK-1で首相撲は禁止っぽいんだけど、前回のホースト対フグ戦を観てたら、武蔵選手も首相撲状態でボディーに膝蹴りは入れておくべきだろうとか、アウトボクシングで勝負するなら、蹴り対蹴りになるからもっとガードを上げて、ハイキックを量産すべきだとろうとか、色々あるんですけどね。

3/15 テレビ東京「音楽通信」で羽野あきと出てる司会者の富澤一誠さん。あの人オモロイね。いまTVの音楽番組で一番おもろいコメントだしてる人やよ。以前、番組に***という名前の聞いた事もないようなビジュアル系バンドのファン(10代の女の子)からハガキ来て、読み上げたわけ、「***はとても良い音楽をやっているので是非***を番組で取り上げてくれ」となって名前覚えてないから伏せるけど***のライブ映像が少し流れて、正直演奏は音出てないし歌は音痴だしひどい出来だったんだけど、***のファンの人が観てるわけだから、「ひどい歌ですね」とは言えないわけ。そういう時って、普通無難にコメントせず次のコーナーに行くとこやけど、富澤一誠、一言コメントするんよ。ファンが観てるからもちろん悪口は言えない。何言うかな思ったら「彼等は非常にルックスが良いし売れる曲だと思います」。俺爆笑。ファンは「良い曲」と言ってるのに、コメントでは「売れる曲」と言ったからね。遠回しな毒舌やな思って。

今日、あか色4・黄色5・青色7がチャートに来ても、あのユニットもテレビ東京発のユニットやから、基本的にはプッシュしてナンボやけど、シングルチャートの5位に青色、4位に黄色と来て、司会者のコメント「・・ということは1位は赤色かな。大変な時代になりましたね」って、その大変はどういう意味やね!ほめてるのか?けなしてるのか?思いっきり含み持たせて、どっちにも取れるようなコメント残してCM。赤・黄・青の順で売れてると知って言ったコメントが「構成的にこれ(青を持って)が売れると思ったんですけどね」普通に考えれば、メンバー一人あたりのファンの数が同じだとすれば構成人員の多いユニットが売れると思う。けどその仮説が崩れました。と、いうことは・・つって突つき出すと、「昔みたいにレコード店間で伝票回してあらかじめハンディキャップ分、赤・黄・青の順に水増し入れたんじゃねぇーか」とか、「赤・黄・青のそれぞれのセンターの販売力の差が出たわけで、赤でセンター張った後藤の地位向上と、青のセンター市井の責任問題が・・・、さあ、市井ファンは今すぐCD屋さんへ」と煽るとか色々深読みはあるんだけど、「構成的にこれが売れると思ったんですけどね」で止める奥ゆかしさとかね。良いね。あの人。すげーオモロイよ。TVよりもラジオ的なオモシロさやけど、いいね。

3/13 俺もうダメだ 俺のOutLookのメニューバーを動かすとHipHop系のアナログレコードのスクラッチ音がする。しかも上に動かす時と下に動かすときで音が違う。意味もなくOutLookでスクラッチして遊んでた。OutLookって、そういう設定?と思って調べてみたら、マウスの接続不良(笑)でした。

2/23 ロリコンについてでも書こかと(こういうこと書くから、ひんしゅく買うんだよな、色んな方面から)。最近あった少女を9年2ヶ月間監禁してどうこうみたいな事件に、アメリカの有名心理捜査官は「被害者の女性の成長が、ロリコンである加害者男性に多くの心理的圧迫感を与えたことは容易に想像できる」ってなこと言ってて、10/22の日記でも書いたけど、年令ロリコンの人にはそういうのがあるわけで、対するキャラクターロリコンの人は、キャラクター的にロリロリしてる藤田朋子や水森亜土なら、キャラ的にOKでかつ、年齢的に30超えた藤田朋子がこっから先、大人にはならないだろうと、動物で言えば大人になっても小さな、大人になっても室内で飼える小型犬みたいな安心感があるわけで(こういう表現がロリコン+SM的なね。より知人が離れて行くパターンなんですけど)。

で、年令ロリコンにも実は二種類あって、実年令が低くて、かつ子供っぽいキャラクターの子(間下このみ、光GENJIの諸星くん)が好きなタイプと、実年令が低くてかつ、キャラクターが背伸びした子供ってのが好きなタイプに分れる。子供っぽい無邪気なキャラクターが好きってのは割りと分りやすいと思うんだけど、背伸びした子供が好きってのはね、環状線の駅の名前を全部言える子供とか、幼い頃演歌という大人の歌を歌った美空ひばりとか、母や妹を食わして行くため思いつめた顔で思いつめた暗ァーーい感じの歌を歌っていた山口百恵とか、小沢健二とかやね。オザケンなんか進学校の一番頭良い小学生集めたらみんなあんな感じの雰囲気持ってるやん?

で、中田なんだよ。セリエAの中田って、背伸びした子供みたいな雰囲気がどことなくあったやん?中田語録なんか見てるとU2のボノみたいな感じで、ちょっと冗談が通じなさそうな、TVの前で冗談を言う時も事前に台本にギャグのネタ書き込んでそうなタイプやん?中田を「普通」とか「サムライの精神」とか書いた人いたけど、大人社会の規範に過剰適応した子供って感じがあって、契約・ルール・約束を重視して、なあなあで柔軟にってのをすごく嫌った感じで。それがクールに映るんだけど、ちょうどあの頃、高校野球からプロに行った選手数名が脱税で捕まった事件があって、ついこの間まで高校生だった人に何千万って契約金与えた所で、税金云々なんて分らないから税理士に任したらその税理士が選手に有利な様にと上手く節税したつもりが脱税で捕まる。するとその選手まで白い目で見られる。ってな状況を避けようとした時に、一見クールにみえる、経理の出来るサッカー選手、大人社会へ過剰適応した子供。ちゅう雰囲気になると思うんだ。

して、その中田がローマ移籍後、子供っぽさをアピールしてるんだよな。ビックリマンチョコが好きでスーパーゼウスが当たって嬉しいとか、車のCMみても、明るく笑ってるし、車から降りる時しなやかに飛び跳ねる中田がすごく可愛いんだよね。これがバイセクシャルロリコンの俺としては非常に悲しいわけで。ロリコンというテーマで言うと背伸びした子供、幼くみせようとする大人、という二種類のロリータが好きで、実年令と演じる年令のギャップに、演技や技術や倒錯を感じて喜んでるんだけど、子供っぽさをアピールする中田はもう子供じゃ無いんだ、大人なんだな。成長して俺のストライクゾーンから離れた(って、本人からすりゃ試合を見てくれなんだけどさ)。「私はもう子供じゃないんだ。大人なんだ、子供扱いしないでくれ」ってのが好きなロリコンにとって、自然と大人でいられる中田は、もう可愛くないんだ。

中田は気づいているんだよね。イタリアでは日本食より安いカルボナーラでも、イタリアでは普通に見かけるイタリア車やアルマーニのスーツも、日本では高級な舶来品だってことに。して、日本のファン向けのHPで「アルマーニ着てカルボナーラ食ってます」とか書いたら、すげーゼイタクな暮らししてる嫌な奴にみえるってことを分っているから、ビックリマンチョコなんだ。SPA!で「中田の趣味(音楽・ファッション・本)が普通過ぎてツマラナイ」と書かれてたんだけど、「僕の私生活を洗っても普通すぎてツマラナイよと、アピールするかのごとく普通だ」と書かれていたんだけど、スーパーゼウスもビックリマンチョコも普通じゃないよ、普通じゃないけど、中田は中田の年令の普通の日本人を経験してないから、取りあえず知ってる範囲で、日本で過ごした幼児期に流行ったビックリマンチョコの話題を振ってみたんだと思う。実際の中田は、日本じゃ高級なはずのイタリアンを安い値段で普通に食って、日本じゃ安いはずの日本食を高いお金を出して食べるような生活だと思うんだ。でも、イタリアのプレスに対してはイタリアの食事やファッション大好きですと(本心だと思うけど、言葉にして言えるってのが成長だよね)言えて、日本のファンに対しては普通の日本人を演じられる中田は、もうれっきとした大人で、契約やルールを盾に取材拒否を貫いてた中田、規範に過剰適応した背伸び気味の子供じゃないんだよね。今の方が一見ロリロリしてるように見えて、俺にとっての中田選手のロリロリ度はかなり落ちたね。・・・って、ナニ書いてるのかよく分らんけど。

2/19 もし俺が右翼なのなら日本国民から取り上げた受信料でアメリカのホームコメディを流すNHKに対して怒るべきやねん。「パパはなんでも知っている」「名犬ラッシー」に代表されるアメリカのホームコメディの放送は敗戦直後の日本にアメリカ式の民主主義を根付かせるためGHQが取った政策の一つで、そんなアメリカによる日本の植民地化政策をいまだに行なってるNHKの愚かさ、それも日本国民の受信料を使って!と言うべきなのだが、何故か俺は右翼的な心情になれない。日本のTVドラマは観ないのに、アメリカのものは観てしまう。理由はアメリカ人の方が日本人よりも小津安二郎・黒沢明の映画に詳しかったりするように、俺ら日本人もアメリカの「大草原の小さな家」「ビバリーヒルズ青春白書」観て西部の風景やほろ馬車やウエスタンなファッションに異国情緒を感じるってのもあるんだけど、それ以外に日本のトレンディードラマはギャグらしいギャグの一切ない恋愛物だけど、アメリカのはギャグ満載のコメディーだとか、理由は色々あって、その中で俺にとって一番大きな要素は勧善懲悪じゃないってことなわけで。

「スラップスティック」というカート=ヴォネガットの小説を古本屋で124円ほどで買ってきて、電車に乗ってる時間をつぶすのに使ってるんだけど、ヴォネガットの好きなコメディーはローレルとハーディーってのが出てきて、様々なテスト=課題に対して最善を尽くそうと不器用に努力を重ねる、そういうドタバタコメディーらしいんだ。アメリカではチャップリン並みに有名らしいのだが日本ではあまり聞いたことがない。ローレルとハーディの話を読んで真っ先に浮かんだのがキムタクの「体感エレベーター」で「冴えない男役」のキムタクが、エレベーターガールを真剣に口説いてフラれる。それだけの話で、キムタクが真剣であればあるほど、フラれた時、笑える。もちろん、トップアイドルのキムタクが役の上ではモテないという逆転の笑いもあるのだが、ローレルとハーディに通ずるのは不器用で真剣な努力と失敗が笑いを生むというところだ。

Oヘンリーの小説で「貧乏なカップルがクリスマスの日、男は自慢の金時計を質屋に入れて彼女の自慢のブロンドのために髪飾りを買い、女は自慢の長いブロンドを切ってカツラ屋さんへ売り、彼の金時計のために時計につける金の鎖を買う。クリスマスの日プレゼントを交換するが何の役にも立たない」というあらすじの短編があって、それを夏目漱石が感情的な言葉むき出しで、けなしまくってる文章があって、漱石は「エンターテイメントは必ず人に救いを与えるハッピーエンドでなければならない」と、怒りまくってる。他の作品には冷静で客観的な批評をしているのに、そこだけ異常に感情的で浮いてる文章になるんやな。日本で市場に支持されるエンターテーナーつうのは漱石にしろ、宮崎駿にしろ、手塚治虫にしろ、ラストは必ずハッピーエンド、悪は滅び、努力は報われ、努力なしのラッキーで手に入れた幸運は維持する努力を怠った瞬間消えてなくなる・・という話でなければ気持ちが悪いという体質の人達ばっかりやねんけど、

俺が好きなのは努力した人にも、しなかった人にも等しく平等に不幸が訪れる敗戦物とか、悪事を行なうにもそれなりの理由があって、正義の裁きが善意の第三者を傷付けたりもするような、高畑アニメや冨野アニメで、ビジネスとしてみたときに成功してないものばっかりやねんな。多くの日本人は主人公が幸せになることで自分もその幸せを感じることが出来るねんな。でも、全体の2割ほどやと思うけど、バッドエンド(浪花節とも言う)を好む層の人ってのは、主人公が幸せになることで、主人公が俺達とは違う世界に行ったと感じるわけ。ハッピーエンドになることで、主人公は観客である俺を残して一人だけ遠い場所に行ったと、残された観客=俺は孤独感を感じて映画館から出なきゃいけないと。

世界一の軍事大国アメリカが、戦争というのは一方的に悪い国と一方的に正しい国が行なうものだと思っていたとしたら、すごく嫌だし、困るんだけど、CBSニュースやホームコメディーを見る限り、むしろ逆のことを言ってるんやな。「ビバリーヒルズ青春白書」で学内新聞にアダルトショップの広告を入れた。アダルトショップがスポンサーについたことで、廃刊になるはずの学内新聞が継続して出せるようになった。けれども、そのアダルトショップの広告が元で色々なトラブルが起こる。そのトラブルを苦労して解決し、今後同じようなトラブルが起きないよう努力はしながらも、主人公のブランドンは「僕だって理想と現実の違いは分るさ」とアダルトショップ(=悪)の広告は入れ続ける。

アメリカは日本に比べて結果責任の占める割合が大きい社会だと思う。いかに努力をしたかでなく、どういう結果を残せたのかと。そういう社会の方がむしろ、努力は必ず報われるというシンプルなメッセージにならず、真剣で不器用な努力が笑いの対象になるというのは、非常に健全だと思う。低い税率でもって世界中から勝者を受け入れる移民の国アメリカでは、世界一にならなければ、勝者になれない。そしてその大多数を占める敗者に「怠け者」のレッテルを貼るのは陰惨だとしか言えない。みんな努力はしてるさ、ただアイツ=成功者はほんのちょっと俺達より運が良かっただけだぜ。

根っからのフュージョン好きのバンドに、チョッパー好きのベーシストに「いま君達がプロに成れないのは技術が足りないからだ、もっと練習して上手くなれば、いつかフュージョンの時代がくるさ」と言えるだろうか。真空管アンプに魅せられた真空管アンプ開発者に「いま採算が合わないのはあなたの努力が足りないからですよ。もっと頑張って開発すれば、いつか必ずすべてのスピーカーに真空管が採用される日がきますよ」と言えるだろうか。

かつてガロの編集長が「私は漫画家に努力をすれば報われるという話をしない」と言っていた。「売れない漫画家が青春を漫画に注ぎ込み、家庭を持たず、就職もせず、ひたすら漫画を書き続け、努力をして、ひょっとしたら彼の時代が来るかもしれない。でもそれは10年後20年後かもしれないし、3ヶ月後かもしれない。ハタチで描き始めて、40後半でやっと世間で認められるように成ってきた時、20年もかけてやってきた結果が、人生を棒に振ってまでして手に入れた結果が、この程度のものなのか、こんなことなら努力なんてしなけりゃ良かったと思うかもしれない。私はそんな漫画家を何人も見てきた。他人の人生に無責任に口をはさむことは出来ないから、程々に頑張りなさいとしか言えない。」ちゅう内容で、語ってる人が人なだけにね、結果重視の社会になれば成るほど、努力すれば報われるなんて言えないわな。

アメリカのような結果責任の社会で努力に意味があるとすれば、清志郎がほめまくっていたミキシングエンジニアで「ミキサーなんてのは8chか16chあれば充分だ、1000chもある卓は全部淘汰され、いずれこの世から消えるだろう」なんて言ってたような人=敗北に向って努力し続けるような人にとって努力に意味があるとすれば、それは自分の倫理観に対する美意識だけやろと、結果を求めて努力することが不可能な場合、努力は結果をもたらしてくれないけれど、努力することは美しいというナルシスチックな美意識しかないやろと、思うわけで。

高度成長時の日本のように、大多数の成功者=学生&会社員と少数の脱落者=登校拒否児&無職者を出す社会と違い、大多数の敗北者=低賃金時間労働者と少数の成功者を生み出すアメリカのような社会では、敗北者は数量的に勝利を治めており、決して孤独では無い。数量的優勢を保つ敗北者は成功者をマイノリティーとして差別し、ねたみ糾弾し、排他的に扱うことが出来る。ヴォネガットのスラップスティックのキャッチコピーは「もう孤独ではない」であり、愚直な努力を繰り返し、失敗を繰り返しつづける主人公をハッピーエンド嫌いの僕は笑うことが出来る。奴は馬鹿だ!まるで俺のように!同類を笑い飛ばす僕は、もう孤独ではない!

2/9 ありそうでないもの「ナチスの地上絵」

1/20 模索社で休刊から復活したガロを買ってきた。2月号を買ってきたんだけど、復刊第1発目は1月号やってんな・・買いのがした。最近近所でつげ義春の漫画文庫が売られてて、立ち読みしたらすごい内容でビビッてんけど。

浪人時代、友人と本屋でつげ義春みつけて俺得意げに「これ,つげ義春やん。この人な、自殺未遂歴2回の漫画家で、結構有名やねんけど、最近見かけないからどうしてんのかなぁ。」つって、本開いてん。俺、オタクやから、つげ義春=自殺未遂歴2回という要らん知識を持ってる事をちょっと自慢したかって、その友人にほらな、つって著者紹介欄見せたら、自殺未遂歴が3回に増えてて(笑)、その本が出る3ヶ月前まで精神病院に入ってたってのを見て、言葉失って黙って本閉じた経験あってさ。俺にとってつげ義春って歴史上の人物やったから、プロフィールが変わるとは思わんかってんな。自殺未遂歴が増えてる事で「この人は今もリアルタイムで生きてるんだ」って思ったもん。

で。ガロ。俺の中ではつげ義春のイメージが強いんだけど、すごいね。ガロってなんか普通の本屋で売ってないし、下手すると学術書とか専門書的なイメージがあってさ。実際、入手経路が専門書取り扱ってる大型書店だし、漫画雑誌のわりに高いし、初めて買ったの高校の頃だし。して、俺が高校の頃ってもう既にガロがダメになってた時期で、面白くないのを無理して読む雑誌だったわけで。正直、アングラ漫画誌としては「コミックMOE(現在:コミックファンタジー)」の創刊号とか、その後だと「アレ!」とか「TOM」の方がオモシロかってん。西暦にして1988年ぐらいかなぁ。でも85年地点では実はガロって面白かったってのを今回のガロで知って、76年から南伸坊さんが実質的編集長で、77年でホリチョイプロダクションの渡辺和博さんが80年まで実質的編集長、77年に糸井重里さんのエッセイ・・やっぱ70年代で燃え尽きてたのか・・。でも、なんか過去のガロを紹介されるとなんかすごいんだ。歌手の泉谷しげるが漫画描いてて、絵が無茶苦茶上手いの。他に絵は下手だけど筒井康隆とか、絵は描いてないけど作:唐十郎とか。

ガロって呉智英経由でちょこっと知っただけやったから、イメージが白土三平、水木しげる、つげ義春、日野日出志ってイメージだったけど、安西水丸、いしいひさいち、内田春菊、とりみき、唐沢商会、ねこぢる、吉田戦車、古屋兎丸とメジャーな人も描いてるし、実は丸尾末広と花輪和一とひさうちみきおの絵の区別がつかないまま漫画を読んでたということに初めて気が付いた。

固有名詞に感動したからって固有名詞並べるのは良く無いんだけどさ、インタビューの面子見ても、麿赤児、鶴見済、秋田昌美、石渡凌、小島真由子、緒川たまき、平田オリザ、JAシーザー、松本隆・・。1995年にトイレット博士のエッセイ載せるし、キャンディー・ミルキーちゃんのインタビューも載るし、赤田祐一、高杉弾、とうじ魔とうじ・・あの有名な**さんなのか、**さんと名前が似ているだけの人なのか良く分らんレベルまで行ってしまってる。だって、和嶋慎治はたぶん「スケバン刑事」の漫画家さんだけど、鳩山郁子はたぶん、政界とは無関係な鳩山さんだと思うんだよなぁ。たぶんだけど。

1/9 面白いって何?お笑い一つ取っても、子供の時面白いと思った笑いといまオモロイと思うものが違うねんな。「となりの山田君」観に行った時に小学校行くか行かんかぐらいの子供が居て、映画の始めの方で山田君が「お父さん、こんな勉強なんかして、本当に役に立つのかな?」ってなこと言ったとき、その5・6歳の子が笑ってるねんな、山田君のお父さんが「役に立つ勉強が、役に立たんかったり、役に立たん勉強が役に立ったり、役に立つはずの勉強が役に立つこともあれば役に立たないことも・・」とか言い出すと5・6歳の子ども爆笑で、俺は「こんなディープなテーマで笑えるぐらいに、この子は大人なんだ。見かけで判断できないな」と思ってたら、その子が笑うところってみんな、声優さんのしゃべり方が変なとこばっかりで、声が急に高くなるとかデカくなるとか、そんなんに反応してたってのに気がついて、幼稚園の絵本の読み聞かせと一緒やんけと、まあ、子供ってそんなもんだよなと思ったのですが。自分が小さい頃好きだったコントとかってやっぱり、声が変とか動きが変とかそんなんで笑ってて、言葉の意味が分らなきゃ笑えないような「奥様は魔女」とかは今観るとオモロイけど、幼稚園の頃はこんなんを面白がる大人は変だと思ってたもんな。

高校ぐらいの時は、過激なものSEXとかドラッグとか暴力とか面白いと思ったし、笑いで言うと宗教ネタとか時事ネタとか猟奇殺人ネタとか面白いと思ったけど、今は面白いと思えない。いま、何が面白いって言ったときに、立場とか人間関係を逆転させたり過激にしたりした奴で、例えば「いまの若い奴らは何を考えてるのか分らん」と愚痴を言う同期に「いまの子達ってのはさ、甘やかされて育ってるから、そういう接し方してもダメなんだよ。俺達が入った頃は6年に35人もいてさ、一年目からレギュラーやれるなんて誰も思わなかったじゃん。入る時から球拾いをする気があったんだよ。でもいま6年4人しか居なくて5年も8人じゃん。4年から見るといきなりレギュラー出来るような気になるんだよ。」ってな中高年の中間管理職みたいな会話をしてしまう少年野球の小学6年生とかさ、今の若いやつらって、あんたまだ小6だろ!とか、安達祐実がクラスメートのことを「いまの若い子達」と呼んでしまうのとかさ、孫が初めて二本足で歩いたのを見て「裕くん、偉いでちゅねぇーー」と言ってはしゃいでしまうヤクザの親分とか。ドリフなんかも、こわい管理者=いかりや長介、アナーキーな被管理者=志村けんという立場=図式を利用した笑いだったり、フルハウスとかのアメリカのホームコメディーも子供を使った笑いで卑怯だといわれりゃそうなんだけど、やっぱり面白かったりね。

年令によって何を面白いと感じるかが変わってくるとして、やっぱり「等身大の自分」とか「自分の同世代に向けて」なんてのは嘘だろうと。幼稚園の経営が自分と同世代に向けて行なわれるものであるなら、幼稚園の園長先生はみんな4歳とか5歳児だろうし、60・70の老人を介護するのは、他人の介護が必要になった老人達によってであるはずなのだが、おそらく、ガンの摘出手術の執刀を受け持つ主治医の半数以上はガン患者ではないはずだし、多くのベビーシッターは現役の赤ちゃんではないはずだ。自分以外の何かになるのが仕事の役者さんが仕事を離れた時に「等身大の自分を取り戻す」のは有りだとしても、カリスマ美容師が切りかけのお客さんを前に中途半端な切ってる途中の客をほったらかしにして、パチンコへ直行して「等身大の自分を表現しました」とか言っても、ただの職場放棄にしかならんわけで。

1/5 今ごろになって色んな人から年賀状が届く。しかも普段絶対に会えない人が多数。年頭の挨拶に行けない人に対して手紙を書いたのが始まりだといわれる年賀状だが、メールで済ませたいけど、それだと失礼に当たるのか?俺いま、バイト辞めて次のバイト探してる最中でテンパってるのに年賀状まで書かなあかん。何が嫌やって、同窓会の幹事した都合もあって高校の時の同級生から年賀状来るんやけど、ひょっとして、ロリコンがどうのとかアメリカがどうのとか偏見=バイアスかかりまくったこんなHP読まれてる?・・勘弁してくれよ。まあ、人様に笑って頂いてナンボの人生なんですけどね。

2000y 1/3 アメリカが世界の警察だとは思わんけどアメリカって世界の裁判所って感じはわりとあって、中東で紛争あっても日本人にとっては利害関係ないし、無関心だし、どーでも良いことだったりするんだけど、アメリカってのは世界中から移民を受け入れてるから、世界中のどこで起こった紛争でもその国からの移民が国内に居て、当事者同士でモメ出すねんな。A国がB国と紛争になった。在米A国人と在米B国人間の論争ってのがアメリカ国内に起こって、その国内問題の結論を軍隊と一緒に国外まで持ってっちゃったり出来るわけよ。アメリカ国内のA国人村とB国人村でモメて出た結論が国外まで持ってけるし、その結論に対して日本人が口はさんでも在米A国人とかB国人が出てきて話し出したら勝てへんねん。二千年前中東で何があったか?辺りから始めるから、中東の歴史なんて習ってない日本人に二千・三千年前からある民族間の確執なんてどうにもできんて。CBSイブニングニュースが何故おもろいっつうたら、国際社会の縮図をアメリカ国内だけで撮れてしまうとこにあるわけで。

12/17 ネット中毒&早く死にたい病再発。FTPソフトの設定も直ったことだし、誰に気遣うこともなく不満タラタラ書きます。牛丼屋に岡村孝子?流れてニューミュージック=大人文化は嫌いだと再認識。その次に流れた「ペパーミント キス」とか言う下らないガキ向けのPOP MUSICにこっちの方がましとか思った。ブルースブラザーズ2000観た時もそうだったけど、ある時期より古い音楽ってYouthカルチャーじゃないんだよな。日本の音楽のルーツをアメリカのRockにたどって、白人のRockのルーツが黒人のブルースで、そのルーツがワークソングで・・ぐらいまでさかのぼると、ワークソングってYouthカルチャーじゃないからつまんないんだよ。漁に出て網引く時、みんなでタイミング合わせなきゃ行けないから「1・2」とか「オーエス」とか「せーの」とか言うじゃん?「1・2」連呼してもつまんないからソーラン節でも歌うんだけど、「ダルイな、しんどいな」つう愚痴とか、「頑張って働きゃ良いことあるさ」つう変なポジティブシンキングとぐらいしか歌詞に出てこないし、メロディーも変に明るく振る舞うかどこまでも暗いかの2パターンしかなくってサ、ヤなんだよそーゆーの。ブルースブラザーズ2000だって、ブラックミュージックつっても、飲み屋のねぇーちゃんに入れ揚げてるの奥さんに見つかった男が、ひたすら詫び入れる歌とかさ、そんなのPOPじゃないしYouthでもないし、演歌&ムード歌謡の世界で黒人も白人も黄色人種も、ある時期まではすげーつまんねぇー唄歌ってたんだなって感想しか持ち得ないんだけど。でも、ワールドミュージックつうか、民謡=フォークソング、ってのはそれなりに面白かったりすんだよな。大の大人が会社で歌わされる社歌はつまんねぇーけど、老人が孫に歌って聴かせる子守唄的な物はある種昔のYouth文化でスコットランド民謡とかカントリーとかポルカとか今聴いてもそれなりに面白いし、ポルカなんかもろある時代の若者のダンスミュージックなわけで、明るく楽しい気分があるんだけど、無理やりカラ元気な労働歌「東の街から朝日が昇る今日も1日頑張りましょう」みたいなのって死にたくなるぐらいヤな気分になるのな。

K-1で武蔵の不甲斐ない負け方って色々言われると思うんだけど、佐竹が面白くなってきたのって絶対に武蔵が居るからだと思うんだよね。昔の佐竹って前に出てボコボコ行ってそのまま勝つかジャブもらいまくっていきなり倒れて終わりかどっちかで、勝っても負けても「フィジカル面が・・」みたいな試合で、試合の流れみたいなのが見えなかったやん。武蔵は試合中でもこのままの流れだと負けるなと判断したら、色々変なことして試合の流れを変えようとしたし、いま試合の流れがこうだからこうするつう、距離にこだわってた時の辰吉みたいな知的な試合展開してて、客として観てる分には駆け引きとか見えてすごくオモシロかってんよ。武蔵の戦い方って勝てるはずの相手に負ける可能性もあるけど、勝てない相手でも何回に一回は必ず勝てるだけのID野球つうか、奇襲戦と言うか、負けパターンに入ってからでも期待させるだけの流れを変える力あってんよ。

例えば、佐竹やベルナルドやレバンナの必殺パンチでも、ほんとの一撃必殺ってのはアッパーであったりフックであったりってのは打つ時かならずガード開くから、軽量級のハイキックでもカウンターで入れたら流れ変わるしさ、軽量級のハイキックでも打つ時上体揺れるしガードも多少開くからやっぱりカウンターもらう可能性あるわけで、実際調子悪い時のピーター=アーツなんかはハイキック打つとき体硬くて上体後ろに倒れるから、手でロープつかんで体支えてたりするもん。ヘビー級でも軽量級でも最後に決める一撃必殺は危険と隣り合わせなわけで、安全に一撃必殺入れるために、どうやって相手の戦意を喪失させるかとかスタミナ奪うかとか息切れさせるかとか考えるわけで、佐竹がそういう流れ的なことに気を使い出したのって、日本チャンプの座を守るのが苦しいと感じ出して、武蔵が目に入ってきてからやん。それまで前出てボコボコonlyやったやん。佐竹がベルナルド相手に足使って動き回って軽量級がヘビー級相手するときみたいな戦い方するのも、武蔵相手に変則的な戦い方するのもやっぱ、流れ的にオモロイと思うやけどな。

アンディー・フグvsアーネスト・ホーストでいうと、フグはガードを頭まで上げて、ホーストに対して前後運動繰り返してホーストとの間合いを常に変化させ続けてた。ホーストに対して付いたり離れたりを繰り返したのは、ホーストの距離で闘うのを避けたいけれども、距離を決める主導権がホースト側にあって自分の距離を長く維持出来ないから、くっつく離れるの前後運動を繰り返して、自分のキックの距離になった時にキックを出してパンチの距離に成った時にパンチを出すというヒット&ウェーを繰り返したわけやん。よく、「蝶のように舞い。蜂のように刺す」と言うけど蝶々って真っ直ぐ飛ばないねんな。真っ直ぐ飛んだ方が速いんだけど、天敵に捕獲されるのを防ぐためには上下左右にランダムな移動を入れた方が捕獲され難くて、実際蝶ってのは不安定な動きをしながら飛んでるんだけど、フグも前後の動き以外に左右に、不確実な揺れを入れて動いてて、それは急所を確実に狙い打つホーストに対して、正確なジグザグでなく不安定な揺れを含んだ動きをすることで、ホーストが狙った急所から数センチ外してキックを受けることが出来るわけ。

そういうフグの闘い方ってのは、当然勝つためにやってるし、勝つことしか考えてないんだろうけど、結果的にホーストをたたえてることにもなってて。だって、お互いの距離を決める主導権がホースト側にあることを認めるから自分のスタミナの消耗を無視してでも前後運動をし続けるわけだし、ホーストのキックの技術が正確だと認めてるから左右の揺れを入れて数センチ単位でも打撃を急所からズラそうとするわけで。

11/06 Rock.jpに行ってきた。下北沢・・遠い。セルのカラーフレームの眼鏡にショートカットで白の二本線の緑ジャージの女の子がいた。典型的なナゴムギャル。いまどき。ここで問題なのは、なぜジャージで来ているのか?って辺りで、普通に中高生が部活の帰り、着替えずにジャージのまま帰路についてしまうノリなのか?それとも28ぐらいでファッションでジャージ着てClubなのか?部活でジャージ着てるぐらいの年令でClubってのはちょっと背伸びした大人の場所なわけで、ジャージで来るような場所じゃないと思うんですネ。した時に、やっぱジャージはオシャレだという信念で着てきた人。「ジャージで街に出よう!」なんてのは92年ぐらいにファッション誌が流行らそうとして流行らなかったファッションで・・でもいまあえてジャージ。これは、学校卒業しても制服着て街に出るなんちゃって女子高生の、マニアック版?とか色々考えをめぐらせつつ、ポリシー貫く事の困難さとカッコよさを感じたわけで。声かけてせめて年令だけでも聞いとくべきだったと、少し後悔。と、思ったけどこのままじゃオチがないんで・・やっぱ、あれ、女子高生やよ。だって、ほんとに女子高生演じるのなら、緑ジャージで、なわとび片手に、首からラジオ体操に出るとハンコ押してもらえるカードをぶら下げるはずだから。・・オチたかなぁ。

10/22 ロリコンを大きく大別すると、低年齢であればキャラが大人びててもOKという年令ロリータと、キャラが子供っぽければ年令は大人でもOKというキャラロリータがいて、フォルダーのボーカルや安達祐実が好きなのは年令ロリコンで、水森亜土とか藤田朋子系に走るのがキャラロリコン。で、今月号のBUZZのコラムで藤田朋子にふれられてるんだけど、キャラロリにはたまらないキャラですね朋ちゃんは。

本来彼女のキャラなら絶対やってはいけないヘアヌード写真集を遠野物語byアラーキーでやって、その時の動機が、「親孝行をするため。親が背負ってる家のローンを全額この写真集で私が払う」ってな(笑)ことを言ってて、親激怒なんですけど、脱ぐ理由をそこまでストレートに「金のため」と言っちゃうのはセックスピストルズの再結成か、援助交際の女子高生かってノリで。「やっぱお金でしょ」と言い切る女子高生藤田朋子は可愛い。

9/10 いまフジTVで周防監督がレポーターのインド映画のドキュメンタリーをやってて、すごいね。インド映画はなんですぐに踊ったり歌ったりするんだろうって思ったら映画館で客が香のタイマツみたいなのに火をつけて紙ふぶきバラまきながら踊ってた。もちろん静かに映画見てる人もいるんだけど、これってClubだよなぁ、むこうで映画っつうとMTVを意味するわけね。って感じで。ラブソングとラブソングの間をつなぐ小さなラブストーリー。すべての人が幸せになる完璧なハッピーエンド。歌謡曲じみた派手でケバケバしい衣装とダンス。HEY!×3よりも、ザ・ベストテンやPop Jamに近くて、スターをこき下ろして笑う事は許されず、あくまでもスターは夢を見せてくれる存在でなければならない。「Shall we dance」の試写でも竹中直人の現実の醜さを笑い飛ばす演技より、夢を見せてくれるダンスシーンに良い反応が返ってくるインドの観客。いまの日本ではチョットあり得ないと思う反応。

例えば

9/ もう既に日記で無くなってるんだけどさ、大橋巨泉が昔「無能者の法則」ってのがアメリカで言われてるって言ってて、「会社の中で、有能な人は出世して、より上の仕事に就かされる。そこで能力のある人は、さらに上の別の人の仕事を就かされる。能力が追いつかなくなって初めてそこで出世が止まる。人には向き不向きがあって、自分に一番合わない仕事で人は一生を終える。」というマーフィーの法則的なアメリカ式ジョークで、その問題提起に対して、大橋巨泉は「もっと柔軟に、管理職向きの人は初めから管理職、現場向きの人はずっと現場、経験は昇給で示せば良いじゃないか」と言っていた。「低賃金の若い管理職と高給取りの経験豊富な現場の人間。今後はそのような事もあって良いんじゃないか」と。で、いま周り見てるとそういうの多い。就職探すと、現場に行かずにいきなり管理職。で、プログラミング(DTP/C/C++/WinNT)等の専門技術を持った外部委託アルバイターのスケージュール管理。現場を知らない管理職の現場を現場の人間は知らない・・って若いのが愚痴る状況ってあり得るんだよねきっと。

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