HP管理人日記5

2/2 ニューアカ関係で http://www.post1.com/home/hiyori13/other/asada.html ってな浅田彰批判が出たりしててですね。でもさ、浅田の言ってたクラインの壷って四次元モデルだったわけで、三次元モデルの壷持ってこられてもなとか思いながら。

野島伸司の「ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ」。時代はさ、大人向けの推理ドラマ、伏線至上主義な論理的でテクニカルなシナリオが流行ってるわけよ。パワー一発な勢いしかないような野島の脚本なんか下火なわけよ。竹内豊や木村拓哉とトラブル発生したりもあったわけやん。野島=トレンディードラマ=噴水ちゅう定番アイテムも、今日の放送だと噴水の水が少ししか出てなかったりするねん。野島ドラマの主な視聴者だった若者が大人になって野島から卒業して行く中で、いまだに中高生向けのアイドルドラマを撮る。子供の数が減ってきてて、中高生をターゲットにした商品が売れないと言われている中でターゲットを中高生に絞りまくりなドラマ書いたりするわけやん。優等生がつまんなくって、不良がカッコよくみえる年齢層の視聴者を想定して、窪塚を不良、滝沢を優等生、内山を優等生、深田恭子を不良っぽいスターをして描いてたりする。

今回の話の中で内山を海や空のように永遠に続く青色が好きな女の子。深田を一瞬でも熱く燃える赤色が好きな女の子。滝沢を自分の色を持たない他人に色を染められっぱなしな白色で表現してる(Exエンディング)。ささやかな幸せが永遠に続くような落ちついた色=青=内山。一瞬でも世界一幸せだと思える瞬間が欲しい、永遠の微熱なんてつまらないと言う深田=赤。滝沢が赤い電気ストーブを消して青い灯りの階段に消えて行くところでドラマが終わって、エンディングのいつものシーンが白い雪の中に倒れてる滝沢から始まって、青い金魚鉢に入った赤い金魚。金魚鉢ごと地面に落ちて青い金魚鉢が割れて苦しそうにばたつく赤い金魚。白いショートケーキの上にのった赤いイチゴ。滝沢が赤いボールを持って青い海に向かって遠投する。白い旗に赤い絵の具で書かれた「SOS」の文字。で主題歌がSOS。

ささやかな幸せが永遠に続く(=青)のなんて嫌だと言い放つ深田(=赤)をスーパースターとして描きながら、エンディングでは抽象的にでは有るけど赤色のスターが発するSOSを描いてる。ここでいう赤色で表現されるスターってのは、深田を通して描かれる野島自身の姿で、その野島を守ってくれていた青い金魚鉢が割れたってのは、スタッフサイドやもっと言えばかつて野島(=トレンディー)ドラマを見てくれていた視聴者を意味してるんだろう。時代と自分が合わなくなってもメインで仕事し続けるのがスターなんだろうなと思いながら。

1/22 最近ニューアカモード入っててね。柄谷・東・吉本隆明とか雑誌でよく見かけるんですわ。ジョン=ケージの本立ち読みして、ノイズ=アルケミーレーベル、音風景=P-MODEL・砂原マリン思ったり、浅田さんが現代美術の偉いさんと抽象表現主義に関して難しい概念使いまくりで対談してる「別冊批評空間:モダニズムのハードコア」読みなおしたりして、羊5さんのHPみると心理学や音楽理論(関連HP)やの難しい話出てきてたり、第三期批評空間では浅田さんが美術や建築や現代音楽に関して対談したり論じたりするらしくて、TINAMIXは漫画を美術史や個人史や図像学(イコノロジー)の文脈で論じてたり、そういう難しい話と平凡なフリーターしてる自分の生活との接点がどんどん見えなくなって来たり、久しぶりに昼まっから昏睡状態に陥って白昼夢みてしまったり、野島伸司の新作が深田恭子&滝沢&窪塚&石田ひかりだったり、キムタクの新ドラがもろ古畑任三郎(伏線至上主義な脚本・クラッシックなカメラワーク&音響)だったり、色々なんですが、それらの趣味に対して俺は受験生並の詰め込み勉強しなあかんの?と思うこともあったりして。いや、NHK教養講座レベルの浅い知識を広く身に付けたいわけじゃなくって、ニューアカ系の文章を読んで分からない語が出てきて意味が取れなくなる今の状態から抜け出したいだけでして。基本的に俺頭悪いから、「構造と力」もろくすっぽ理解してないんすからほんと。

そんな自分でも地下鉄に乗ってると幼稚園児が母親に
「A駅は2つ前だよね」
と言って、母はそれを聞いてちょっと不思議そうに
「A駅はまだ先ですよ」
なんて答える場面に出くわしたりもするわけです。幼稚園児は「電車の進行方向に対して2つ前」と言ってるのに対し、母は「時間的に2駅分前=過去」の意味でとらえたわけです。

「進行方向に対して前方」と「時間的に過去」がこの文脈では正反対の意味を示しているにも関わらず、同じ「前」という言葉で呼ばれる。進行方向と時間というまったく別の領域において、「前」という同じ名称が与えられているということは、日本語において過去と前方が同じ、もしくは似た物として認識されている。と考えることが出来る。こっから何らかの有意義な論を立てていくのがニューアカ的な思考だ。

いくつかの異なる分野の専門用語に、共通して使われている語(Ex「前」)をみつける。そして、それらが何故同じ物として扱われるのかを考え、論を進める。例えば、スポーツの世界で、選手のことをプレイヤーと言い、チームの監督のことをディレクターという。映画の世界でも役者をプレイヤーと呼び、監督をディレクターと呼ぶ。音楽の世界では演奏者はプレイヤーで、録音技師はディレクターだ。楽器演奏者とスポーツ選手と俳優というのは、まったく別の職業であるにも関わらず同じ名前で呼ばれるのは、それぞれの業種の中に何らかの共通する点、プレイヤー/ディレクターという共通した何かが存在するはずだと。業種の形態は変わっても変化しないプレイヤー/ディレクターという構造について考えてみよう。ってな具合で進めて行くわけです。

でも、これ、俳優をアクター、女優をアクトレス、楽器演奏者をギタリストとかピアニストと呼んでる間は、上記のような論の立て方が可能であることに気がつかないわけです。この論はプレイヤーという語で呼ばれていることに気付くことがスタートになります。

ソーカルという人がニューアカ用語を散りばめた論文を書いてその論文がある研究雑誌に載ったと。で、その後その論文はまったくデタラメな内容であったことを本人がばらして、いっけん難解で華やかなニューアカ用語を散りばめるだけで論文が評価されてしまうようなニューアカデミニズム業界を批判したという、ソーカル事件ってのがあったらしいんですね。で、その批判の対象にフーコーやレヴィ=ストロースも入ってるらしいんですね。

ソーカルは権威付けのために専門用語を使うことを批判してるわけです。広告業界なんてのはそういうことするのが仕事ですから、小説のジェネレーションXとまったく無関係な車に「ジェネレーションX世代に向けた車」なんてキャッチコピー平気で付けますし、それを悪いことだとは少しも思ってないと思うんですよ。ポストモダンと何の関係も無い小説に「ポストモダン小説」なんてキャッチつけたりしますよね。良い悪い別にして、専門用語のもしくは流行語の消費者ってのはそんなもんだと思うんですよ。でも、学者が装飾として専門用語使い出したら最悪ですよね。

ニューアカってのは複数の専門分野を横断するアカデミニズムですから、ソーカルが書いた理系の論文は、ニューアカ用語を使うことによって他の分野のニューアカ、文学や心理学や文化人類学や社会学やに接続されるわけです。ソーカルという著者本人が自らの論文を無意味だと言ったから本当に無意味だと思ってしまいがちなのですが、理系の論文の中に文学や心理学や数学の論文でも使われている専門用語が登場すれば、そこから何らかの新しい意味が発生して論が建てられるわけです。ソーカルが意図してないような意味を感じとって感心する読者もいるかもしれないわけです。フーコーやレヴィ=ストロースまで批判対象にするってことは、アクターをプレイヤーと呼び、録音技師をディレクターと呼びかえることで、論を展開するニューアカの方法論まで批判してると受け取れるわけです。偽者の学者と本物の学者を分ける意味でソーカル事件は良い事件だと思いますが、ニューアカの方法論まで批判すると俺みたいな部外者レベルでも反論しまっせ。

1/16 日記4の9/15関連で西部邁って人はショーアップした論争、TV的なみせる論争が得意で、論文も論争形式のため、何に対しての反論なのかが見えないと何を言ってるのかさっぱり分からない変な論文に見えてしまうって辺りの話で、一番印象に残っているのが、別冊宝島の「天下国家を語る本」ちゅうのに載った奴で「恋愛を盛り上げるために戦争は必要だ」ってなことを西部先生は説いておられます。「恋愛を盛り上げるために戦争は必要だ」なんてことを最高学府である東大の元教授が言ってるわけですよ。いっけん意味わかんないでしょ?下手するとTVタックルや水曜スペシャル辺りで「2年後に隕石が落ちてきて全人類は滅亡する」とか「私はUFOで宇宙人にさらわれて火星で性転換の手術を受けた」とか言ってる人と同じ扱いなわけですが、もう少し中身を見ていくと。

世の中には恋愛至上主義という考え方もある。恋愛がこの世で一番大事だという価値観これはこれで大いに結構だ。で、恋愛を盛り上げるために、戦争というスパイスは非常に有効だ。戦争になって十代の若者が戦場に行く。生きて帰って来れるかどうか分からない。これが最後かもしれないと思えば、祖国に彼女の一人も作ろうとするし、彼女を守るために自分は死んでいくのだと思えば、彼女のこともいとおしく思える。彼女だって、平時であればそれほどカッコ良くない、顔もブサイクで背も低い男でも「この人は私のために戦場へ行ってくれるんだ」「ひょっとするとこの世ではもう二度と会えないかもしれない」そう思うと必然的に恋愛は盛り上がるでしょう。

ってなことを説くわけです。なんのことか、これでもワカランって人は西部の本を読む資格なしなんだけど、まず西部は相手の得意分野で論争をしようとします。この場合、別冊宝島の読者の得意分野ですね。別冊宝島を出してる宝島という雑誌は当時若者向けのロック雑誌でした。ロックミュージックの中で一番有名な思想って言えばラブ&ピースでしょう。そのラブ&ピースに対しての反論が「恋愛のための戦争」になっていくわけです。

ラブ&ピースと言えばベトナム反戦運動。「Make Love Not War!(戦争よりSEXを)」ちゅうキャッチコピーにしてもそうですが、アメリカ本土に彼女いるし、離れたくないし、死ぬの嫌だし、痛いの嫌だし、しんどいの嫌だし、戦争反対。ってノリで、戦争するよりしない方が快楽的じゃん?楽しいじゃん?って運動だったんですね。戦争反対を言うときにもっと真面目になぜ戦争をしてはいけないのかを論じる戦術もあるのですが、そういう難しい話をし出すと政府系の官僚だの学者だのジャーナリストだのがいっぱい出てきて、頭良い人が難しい言葉使って論じてくるので勝てない。で、どっちの方がより楽しい?より快楽的?って選択肢で迫る大衆的な戦術がラブ&ピースだったのですが、それじゃ弱いよってことを西部さんは言いたいわけです。

いざ戦争をするとなったらTVに可愛い女の子がいっぱい出てきて「怖い外人に襲われてるの、お願い守って!」みたいなCMガンガン流れるぜ、ローラースケートはいたカッコ良い男の子がいっぱい出てきてクルクル回って踊りながら「みんなで戦争しようよ」とか「この国を守るのは僕達一人一人なんだ」とか言って、そのCMみてキャーキャーゆう女の子がいっぱい発生して、それみて「俺も責任ある一人の男として軍人にならなきゃだめなんだ」とか思う奴も出てくるぜと。恋愛と戦争どっち取るんだよと迫って、恋愛側を選択させたのがラブ&ピースだったとすれば、戦争をさせる国側も、恋人を守るために戦争をしようというキャンペーンを当然張るぜ。恋愛のために戦争しようって言い出すぜ。それでも戦争反対と言えるのかお前ら。ってことを本文には無いけど行間で言ってるわけです。で、その行間は俺の推測でしかないわけです。

突発的に過激なことを言って注目を集める。西部さんの典型的な手口なんですが、そういうことをしたときに、一番困るのは西部さんの言葉を鵜呑みにする人だと思う。

俺がモテないのは戦争が無いからなんだ。そっかぁ。やっぱ戦争しようよ。じゃないと俺モテねぇーもん。西部さん、モテない仲間集めて軍隊(そういう軍隊の映像ってみてみたいね。モテない奴だけで作った軍隊の映像(笑)天国の三島が泣いてるぜ)作ったんで、言い出しっぺの西部さんが隊長になって下さいよ。取りあえずは、平和憲法を掲げる日本政府を相手に戦争して、政府に勝ったら国外進出しましょうよ。

西部さんが期待する読者ってのはおそらく、西部の言葉を鵜呑みにする人ではなく、西部に反論し西部の論を乗り越えて行くような読者だと思う。西部の大衆批判ってのは、知識人に読まれたいために知識人向けに媚を売って書かれているというより、大衆に読まれたいからこそ、大衆の論敵として振舞うような形式の大衆批判だ。

TVや雑誌のエンターテイメントの世界では絶対に必要な人だと思うけど、学問かと言われるとちょっと違う。上記の本の中(別冊宝島「天下国家を語る本」)で竹田青嗣さんからは「プロレス」と言われてました。見世物(エンターテイメント)としては面白いけど真剣勝負(アカデミック)ではないってことでしょうね。西部さんがそういう娯楽の世界から足洗って学問に向かったきっかけって、当時学問寄りになっていたビートたけしさんと芸風がかぶったからだと思うんだけど、最近たけしさんの芸の力落ちてるんで、ここら辺りで西部さん芸能方面に復活しないかなぁ。

1/13 どうでも良い事かもしんないけど、不況時のレイオフって先進国には絶対必要だと思うんだ。アメリカのITバブルが生まれる人的背景にはアメリカの自動車会社がレイオフやって、その人材が休みの期間中パソコンにはまって会社作り始めたってのがあるわけでさ。レイオフとリストラの違いってぇーと、日本型のリストラって、100人社員いて売り上げが前年度の半分に落ちたら社員も半分に減らして50人にしたら切り抜けられました。ってことでしょ。売り上げ半分に減ったから経費も半分、人件費も半分。

レイオフってさ、いままで週休二日で週5日出勤の社員を100人抱えてました。それを週2〜3日出勤の残業一切なしで給料も半分。抱えている社員は100人のまま。 給料半分にされたら、食ってくのは大変だと思うよ。家のローンも車のローンも払えなくなるかもしれない。子供も私立から公立に変わったり、奥さんもパートに出なきゃいけなかったりするかもしれないけど、でも週に3日しか会社に行かなくて良いなら、残り4日を他のことに回すわけじゃん。例えばバイト、例えば勉強。いままで会社の中にいて新人社員をあごで使ってきた30代・40代がいきなりハンバーガーショップで新人として20代の先輩にこき使われるわけでさ(ExジェネレーションX)、新入社員の気持ち、新人の気持ちってのが分かるようになるわけよ。したら、今度別の会社から中間管理職として再雇用されても、良い管理職になれるだろ。バイト用のマニュアル一つ作るにしてもさ、何が分かって何が分からないのかが分かってる人が作るのと、分からない人が作るのとでは違うしさ。

他にも通信教育やなにかで、経理の勉強とかパソコンの勉強とかして、資格とってより上の時給、より高いキャリアを目指すってのがあるわけじゃん。アメリカのニュースみてる限りだと、むこうじゃ大学卒業後、3年ほど会社員して自主退社し、も一度2年間大学行ってMBA(経営学修士)取って、元の会社もしくは元の業界に戻って働く、もしくは自分達で会社を立ち上げるってのが一般的らしいんだよな。自分が働きたい業界の現場を3年ほどかけて働きながら学び、大学に再入学して経営者の視点も持った上でもう一度会社に戻る。レイオフってのはそれを強制的にする機能があるんだよ。週に4日会社から離れて別の視点を持たなきゃいけなくなる。しかも給料半分でケツに火が付いてるから、観光客や消費者の視点でなく必然的に自営業者・経営者の視点になる。

アメリカのITバブルは自動車産業でレイオフされた人が休みの間パソコンいじってたら会社を作りたくなってやってみたら上手く行った的なのが多いわけ。レイオフによって旧産業から新産業への人材の移行ってのが上手く行ってるわけだ。日本の場合さ、売り上げ半分になったから、人も半分に減らすけど、仕事量は減らないから、社員として残った人達は1日12時間でも18時間でもかけて辞めた人の分の仕事もこなさなきゃいけないし、辞めさせられた人は職安かよって次の仕事探すのに一杯で、新しい産業の技術を勉強するのは学生さんのみで、採算合わない旧産業の技術を持った人達の生活は税金で保護しますってなもんだから人材が旧産業から新産業へ移行しないんだな。アメリカのMBA系の大学って研究室に自分の赤ちゃん連れて来たり大学内に託児所あったり平気でしてるけど、日本の大学ってまだそういうのあんまり無いでしょ。学生数少なくなるんだから大学的にも企業的にも生涯学習で新産業の担い手育てる努力しないとヤバイよ。

取りあえず、NTTだっけ?社員数半分に減らしたら、インターネット接続料金アメリカ並に安く出来るって?分かった。社員数そのままで勤務日数と給料を半分にしてくれ。

2001 1/9 あけましてです。おめでとです。ニューアカ関連で柄谷さんが今年批評空間社を立ち上げて「トランスクリティーク」を取次ぎ通さずに出す。ってなことを某文芸誌で語られてました。個人的には「探究V」を早く出していただきたいのですが。

浅田さんの「構造と力」ってのはダメなテクスト派を駆逐する目的で書かれたと。ダメな奴を駆逐して良質な奴だけ残そう。というとき、ダメなテクスト派のことを浅田さんは「文学的にやってる人達」ってな言い方をしてて、具体的な例だと私の日記4の9/15の結論部分。宮台さんを批判してるんだけど、「自分の頭で思考し決断するシステムが必要だ」という宮台さんの正しいメッセージは、自分の頭で思考し決断する機会を邪魔しないか?宮台さんに言われたから「自分の頭で思考する」のは自分の頭で思考してることになるのか?ってなことを書いたわけだ。これがダメなテクスト派の例で。

自分より偉く見える人=宮台さんの文章の中に、決定不可能性を発見して批判する。文学的でダメなテクスト派の典型ですね。俺より偉い人なんていくらでもいるから、宮台さんでやった後には、柄谷さんの文章やクリントン元大統領の文章や、まあ、対象を代えていくらでも出来るわけです。そういう、おんなじことを対象を代えて繰り返してる人達を駆逐するために構造と力は「チャート式」=データベース型で書かれた。「どこか違うのか?」と書かれた文章の中に「どこが違うのか指摘してくれ」という意味と「どこが同じだというんだい?まったく同じじゃないか!」というまったく正反対の意味を同時に感じとって決定不可能性に陥らせるその原理・方法論を取り出すことで、その方法論は一度研究し尽くしたから打ち止めと言ったのが構造と力だったわけだ。俺の知ってる限りだと源氏物語や聖書やルソーの文章に対して脱構築批評してた本があって、まあ、そういうのを止めようってことだったわけやね。

ちなみに私が上で書いた宮台批判は宮台さんの文章の中にサブレベル「他人の思考の一つである宮台さんの思考」からメタレベル「他人の思考に頼る思考」を攻撃しても、攻撃している自分自体がその攻撃対象全体のうちの一つでしかないという、ありきたりな脱構築=決定不可能性の一つですね。

で、前回の東さんの「存在論的、郵便的」でいうとダメなテクスト派と良質なテクスト派、デリダ派とデリダ自身を分けようとしてるわけ。ダメなテクスト派ってのは、疑問文(・・だろうか?)と付加疑問文(・・だろうか?いや、そうではない)が同じ形態であることを利用して、どっちの意味か分かりませんと言い切る人達で。東さんがそれとは異なるデリダオリジナルの思想として取り出したのが、従来「差延」と呼ばれていたような「郵便的脱構築」で、ある文脈の中で使われた言葉が別の文脈の中で解釈されるって奴。

会社でお昼休みに同僚とメシ食いに行きますよね。昼なに食べようかなと思ってるときに、こう言うんですよ。「ドイツの独裁者ヒットラーがかつてこう言ったことがあってね。『昼メシどうする?』」冗談としてオモロイかどうかは横に置いとこ。ヒットラーだって昼飯ぐらい食ってただろうし、同僚に「昼飯どうする?」ぐらいは言ったと思うんだ。でも、そのヒットラーと現在の私とでは、昼飯を食う相手も違うし、昼飯を食う場所も時代も違うし、要するにおんなじことを言ったとしても、文脈はまったく違うわけだし、言葉の意味も違ってくる。

東さんの本の中でデリダが書いた小説が出てくるんですよ。アメリカに居るデリダがフランスの奥さん?彼女?に電話をしてる。二人の間に誤解があって、その誤解をとくために手紙を書いて出したのだけれど、まだ届いていない。二人の間でその手紙のことが話題にのぼる。デリダは電話ボックスからTELしてるが、外は雨で酔っ払いがボックスの外からデリダに絡んでくる。デリダが奥さん?彼女?に出した手紙は最終的には受取人不在で帰ってくる。

ここで、用語の説明に行くと。デリダは言葉のことを「手紙」「葉書」「幽霊」ってな言葉で表現する。あることを伝えようと手紙=言葉を書く。その手紙がフランスとアメリカだから、出して到着までに2週間かかったり、その2週間の間に二人の事情が変わってしまったり、最終的に手紙が受取人の引越しや何かの事情で受取人不在のままで戻って来たりする。手紙を書いていたときには事実であったことが、手紙が到着する頃には事実に反する内容に成っている。この効果のことを「差延」「郵便的脱構築」と呼んでいるわけです。「幽霊」という語が何故出てくるのか、なのですが。誤解をとくために書いた手紙が、彼女の元に届かないうちに、二人の間のTELで話題になるわけです。「二人の手元には存在していないにも関わらず影響を与える存在」という意味で「幽霊」と呼ばれるわけです。

質の悪いデリダ派でなく、デリダオリジナルの脱構築として「郵便的脱構築」があって、それは「すべての言葉は引用である」って感覚に裏打ちされている。手紙を書いてるときの文脈と、その手紙が相手の手に渡って読まれたときの文脈では、時間も場所も状況も違うってことですね。上記のヒットラーの昼飯はその例の一つなんですが。

で。俺にとって大事なのはこれがフッサール批判とどうつながってくるのかって辺りで。言葉は通じないということを言ってるだけですと、分析哲学内部の問題ですから、それほど大きなことではないのですが、コギト批判なるものをデリダはしてて、これは近代哲学全般をひっくり返す大きな問題なんですね。これをちょっと考えたいわけです。日記4の10/25 とダブるのですが、近代哲学は、死後の世界や神の国を論じるスコラ哲学を批判するところから始まって、すべてを疑ってみようという方法的懐疑、で、すべてを疑ったところで、疑っているってことは最低限疑う私は居るだろうってことで、「我思うゆえに我あり」に行くのですが、デリダは、その近代哲学の基礎を疑うというか批判するわけです。

これね、なんでこんな慎重に物書かなあかんかゆうてもね、あるHPの掲示板で本物の東浩紀さんらしき人が書き込みされていたりしてね。そこの掲示板俺常連だったりもするんで、本人に読まれてたら、あんまりおかしなことも書けんなぁ思ってね。これ、とまどうのは、みず知らずの有名人に対しては呼び捨てやけど、年上の知り合いに対しては「さん」付けやろと。で、掲示板で御一緒したのは、どうすれば良いんやろ。「さん」付けたら、「俺、東さんを知ってるねん。まあ、ちょっとした仲やねん」ゆう、変に業界人ぶったヤな奴になるし、かといって、ご本人が読まれていたとき、呼び捨てしてたらヤバイよなぁとか。でも、東さんがデリダについて書くとき、デリダは呼び捨てなんよな。「デリダさん」とか「ミスターデリダ」には成らない。中学の英作文で「徳川家康」を「Mr. Ieyasu Tokugawa」にしたら、「徳川家康は歴史上の人物だから、Tokugawa Ieyasuのままで良い」言われてね。家康は英語でも呼び捨てかと、じゃあ田中角栄は?大江健三郎は?普通の人なのか歴史上の人物なのかどっちやねんと。

話戻すと、この辺自信は無いけどやね、何かに対して「疑わしい」と思いました。思ったからには「疑わしい」という「内語=黙読してるときの自分の声」が聞こえてる。自分の声が聞こえてるから、自分は存在する。というのがフッサールの思考だと。けれど、ものすごく短い時間だとは言え、思ってから聞こえるまでにタイムラグはあるだろう、その間に差延の効果は起きてるんじゃないかと。もっと言えば、声という自分以外の物を証拠として自分の存在を確認するのは、自分の書いた手紙があったから自分の存在を確認出来るといってるのと同じで、偽造かもしれないし、いまはそこに居ないのかもしれないし、分からないよと。現にデリダの小説の中でデリダはアメリカに居ながらフランスに居る奥さん?彼女?の声を電話で聞いている。声が聞こえるからといって、物理的に近くに居るとは限らないんだよ。ってな話になっていくわけです。

で。私の記憶が正しければ、柄谷・竹田青嗣対談で問題になったのは、「疑わしい」という声を発した私と、「疑わしい」という声を聞いた私の間に自己同一性があるか?無いか?ってなことだったと思うわけです。ただ当時「差延」という語の意味をさっぱり理解できなかった私はその対談の最初の一行に知らない哲学用語が3つも出てきて、哲学用語辞典で引いたのですが、辞典に載ってる哲学用語って新しくてサルトル(1960年代)ぐらいまでの語で、最新の語は載ってないんですね。結局、3つのうち1個しか載ってなくって、その後も知らん単語続出の対談読んで、意味がさっぱりだったので、あきらめました。で、さらにこの対談は、柄谷のダイアローグにメインとなる前半部分は収められてないんですね。

この対談自体、柄谷先生に文学に関しておとなしくインタビューを取る竹田青嗣って場だったのを、限りなく不意打ちに近い状態でいきなり竹田青嗣さんが哲学的な論争を振って一瞬市街戦ゲリラになったところを、本題の文学的話題に戻るって内容で、読む側からしたら、日本思想界のトップが流派を超えてそろってニコニコしてるのと、血みどろの論争してるのだったら、ぐちゃぐちゃな方を見たいわけでさ。なんで面白い方をカットするんだよ柄谷。つってもカットしたい気も分かるんだけど。

して。国会図書館に行ってその対談の載った雑誌を直接もう一度読んでみたいのですが、仕事を持ってる夜型人間にとって9-5時しか営業してない国会図書館って、行きにくいんですよね。ああ、言い訳や!こんなもん。休みの前日終電に乗り遅れるまで遊んでそのままカラオケボックスに泊まって朝帰りして、外が暴風雨だからという理由でそのまま寝ちまう俺なんざ言い訳の塊だよチキショーゥ。

P.S.その後、1月15日図書館行って調べたけど対談みつからん。検索した限りだと柄谷・竹田対談って86年12月号群像しかなくって、それではないねん。92年前後にユリイカ?現代思想?辺りであったはずやねんけど、みつからん。おれの記憶創作だったのかとちょっと自信なくす。

12/23 ラウンドテーブル in 下北沢 Club Que。北川君にこれから売れようとしているバンドに特有のテンパリ方をみました。もともとラウンドテーブルってフリッパーズギターに似てるバンドとして注目浴びて、どこかの有名バンドに似たバンドのままじゃダメだというわけで、「脱パーフリ」がテーマだったりもするわけです。ドゥ・ザ・アフロでアフロのかつらかぶって踊ったのも、2ndフルアルバム「キャノンボール」がロックなのも、色んな音楽のジャンルに挑戦してネオアコのイメージを覆そうとするのも、「脱パーフリ」というテーマが裏にあると思うんですよ。

で、今回のライブ、客席にコール&レスポンスを要求しまくって、「イェーーーイ!」「ウォーーー!」つって客席を暖めまくる。間奏でギタリストにメタルっぽいフレーズを客の頭上で演奏させる(ロック系のライブビデオでよくギタリストがギターを客の頭上に持ってって、客がギターに触れようと手を伸ばしたりする場面よくありますよね)。曲間のトークではドラマーに「ヒップホップぽいの出来る?」とループ音を要求して、ラッパーのようなあおり方をしてみたりと、暴れ放題でした。

が、曲を演奏すると、ラウンドテーブルでしょ。お客さんもラウンドテーブルのお客さんなわけで、静かな曲を静かに聴いたりするわけです。客はそれで満足でも、ステージ上の人間は客席が静かだと不安だったりするわけで。前半、暴れまくってた北川くんが、曲の合間にチューニングいじり出して、その辺から内向的で内省的な、ラウンドテーブルと聞いたときにみんながイメージするラウンドテーブルになっていきました。北川君の顔は血の気が引いて真っ白の肌の中に唇だけやたら紅くて、背は猫背気味にうつむいたまま、声は暗くて無口、時々神経質にチューニングをいじる。でも、客席全体が音楽に合わせて揺れてて静かに盛り上がっている。ロックの盛り上がりではないけど、ネオアコとして正しい盛り上がり方をしてました。

前半のメンバー紹介で、トロンボーンの方を紹介するとトロンボーンのアドリブ、割りと上手く行ったのですが、トロンボーンの方が満足できなかったのか、もう一回つって、ワンモアでアドリブやったら1度目より良いアドリブかました。次にトランペットの方を紹介して、アドリブ振ったら音を出さないし何も出来ない。もう一度、アドリブ振るとまた出来ない。MCで北川君爆笑して、良い味出してるよ(音を出さないってキャラもあり)って感じで。次にベースの人のメンバー紹介に行くが、ベースの人もアドリブ演奏できない。北川君がそれじゃダメだよっつって、もう一度振るけど、音は出してるけどいまいち決まらないアドリブ。で、ドラムスのメンバー紹介でやっぱりアドリブが上手く行かない。これ、たぶんメンバー紹介の練習してないんですよ。アドリブがあると思ってないから、突然振られても出来ない人の方が多い。一度楽屋に引っ込んで、二度目出てきたときにもう一度メンバー紹介したのですが、その時は皆さんアドリブ出来てましたから、打ち合わせ不足なだけなんですけど、MC中も「気を抜かないで、ココで(トークに合わせて)音入れて」とか、音入れたら入れたで「ちょっと長いな」とか言って、ステージ上で作ってる。北川君がアドリブやMCに合わせた音の合の手等、練習でやってないことをステージ上でメンバーに要求する。曲の間奏中も後ろ向いてメンバーにアイコンタクトを入れて気合入れる。サポートメンバーの人と一緒に居る時間が短いからそうなるって部分と、「これから売れてかなきゃいけない」っていう北川君が背負ったプレッシャーと、「まあ、この人についてきゃ大丈夫」っていう他のメンバーとのギャップって部分があった。

これから売れようとしているバンドに特有のテンパリ具合。客席を異常なぐらいにあおるのもそうだし、練習でやってないことをサポートメンバーに要求するのもそうだし、急に黙り込んでチューニングしまくるのもそうだし、ネオアコのイメージを払拭してロックなイメージに行こうとするのもそうだし、そういう北川君の焦りって奴に共感できたし、焦燥感やあせりも込みで後半の演奏は良かった。でも、売れなきゃってプレッシャーがどこから来てるかはイマイチ分からない。サードアルバム?3月のクアトロのライブ?・・・ベスト盤発売?これが一番プレッシャーになるような気がする。ベストって出して消えてくバンドと、伸びてく(Ex:GLAY)バンドとあるから。でも、ラウンドの場合、小野リサのベスト盤と同じで、音楽シーンと無関係に来た人がベスト版出して、やっぱりシーンと無関係に伸びも落ちもせず続いていくパターンだと思う。

12/19 武蔵選手負けたね。ただ、負けるにしても負け方があると思うんだ。パンチもらって前後不覚に成ったときにクリンチに行って時間稼ぐ(レフリーが離れろと言ってもしつこく抱き合うってボクシングの最終ラウンドではありがちでしょ)か、腕振りまわして相手に距離を取らせて時間稼ぐ(ヘビー級のハードパンチャーって倒れる寸前腕振りまわすクセある人多い)か、してればまだ分かるやん。もっというと、ダウン取られた後、意識は回復してるはずやから、作戦変更する時間はあったと思うねん。カウント9取ったあと、試合再開後の武蔵選手は試合始めるときより腰の位置高くなってて、それがもうダメやったね。

武蔵選手って隠し技で勝負するタイプだと思うんですわ。猪木対モハメッド=アリ戦で、アリ選手サイドからすると最初はどこの馬の骨やら分からんプロレスラーに対戦申し込まれても余裕で勝てると思ってたと思うんですよ。何しろ当時は何RでKOするかを予告するほどの無敵ボクサーでしたから。で、試合の2時間前に記者用に猪木選手が公開練習したらしいんです。パンチの届かない距離から走ってきて相手の頭を蹴ったり、足で頭を挟んだりする練習だったらしいのですが、それを見たアリ選手サイドは、ボクシングみたいな物をやれば良いと思っていたのが、ボクシングの試合にならないことにそこで気がついた。試合直前にルールの変更の申し入れがあって、ボクシングのルールじゃないと試合をしないと言い出した。で、ルールが直前になってボクシング寄りに変更されたけれども、猪木選手は寝転がってボクサーと戦ったわけです。パンチの届かない距離から走って行って滑り込んでローキックを打ってそのまま滑ってパンチの届かない距離まできたら方向転換してまた滑る。これ、ボクサーに対する一つの隠し技です。

マイク=ベルナルド選手対フィリオ選手の試合で、途中まで普通に試合をしてて良いパンチをもらったフィリオ選手が一度ダウンした後、フィリオ選手はコサックダンス状態でベルナルド選手と闘って、最後フィリオ選手が逆転勝ちする試合があったのですが、当然その試合の内容もビデオで観て武蔵選手の頭に入ってると思ったわけですよ。

ジャパングランプリ決勝でもコーナーに追い詰められてラッシュ掛けられそうになる武蔵選手がラッシュをかわしてリング中央に出、ボクサーの天田選手相手に足を思いっきり開いて腰を落としまくった武蔵選手がガード腰まで下ろして、こっちこいよって煽る場面在りました。武蔵選手の頭がかなり低い位置にあると同時に、武蔵選手の両拳は左右に大きく開いて下ろされてました。通常ボクサーは顔の前に両拳を構えるので相手の顔さえにらめば拳も見えます。でも、左右に大きく開いて下ろされた拳は武蔵選手の顔面にパンチ入れようと飛び込む選手の視界から外れた位置にあるわけです。意識して見ようとしないと見えない位置に拳を持ってきた武蔵選手。見えない角度から来るパンチを浴びせたるつう顔してました。ボクサー相手の隠し技を武蔵選手は身に付けていると私は思ったわけです。

ボクシングのルールでは、腰より下って殴っちゃいけないんですよね確か。フィリオ選手はしゃがみ込んでベルナルド選手の腰より下に頭を含む全体を持ってきた。自分の腰より下にいる相手を殴るって練習を普段していないボクサーは、寝転がったりしゃがみ込んだりする相手をぶっつけ本番で殴らなきゃいけない。練習でしてないことって本番いきなりやってもなかなか上手く行きません。仮に、フィリオ選手の頭がベルナルド選手のお腹ぐらいの位置に来てたとしましょう。人間の重心っておヘソ辺りになるらしいのですが、頭へのパンチをスウェーでかわすとき、重心変えずに頭を動かせるのでよけやすいんですよ。でもボディーへのパンチは重心変えずに腹だけ動くとか出来ないですよね。ガードさえされなきゃボディーパンチは当たるんです。上手いボクサーは効かない角度でボディーをもらうのが上手いのですが、それは少し置いといて。すばやく動き回るボディーを打つ練習なんてしてないのに、ボディーの位置に頭があるということは、ボディー打ちのフォームですばやく動き回る頭を打ち当てなくてはいけない。基本的にそんな練習はしてないはずなんです。動き回るボディーなんて物がふつうは存在しないはずですから。さらに言うと、低く構えれば足のリーチを稼ぐ事ができるので、フィリオ選手はパンチの当たらない距離でローを打ち続ければ良いわけです。

天田武蔵戦を見れて、武蔵選手はボクサー相手の隠し技を持ってる。奇襲が出来る。そう思っていたのに、ダウン取られた後、武蔵選手の腰の位置は試合開始直後より高いんですよ。あれを見ると、どうやら武蔵選手は多彩な技を持ってても、何故・誰に対して・どのような場面で・どの技が有効かを判断出来るほど賢くないんじゃないかと、練習のとき、どの場面で使うかを考えずに練習してるんじゃないかと思ってしまうんですね。石井館長がホースト選手の優勝に関して、「セコンドの作戦勝ちの要素が高い」と言っていたのが印象的で、「そのセコンドにあんたがつかな」と少し思いました。

12/16 人生ドロップアウトしつつある自分にさらに社会復帰できなくなるエサが与えられる。竹内義和・北野誠の共著を見つけたのが失敗の始まり。サイキック青年団の影響を受けたと思われる大阪の学生の人達のネットラジオ放送「最低差異判所」を聴いてしまう。さらに、ネットでラジオ番組「サイキック青年団」の音声をダウンロード出来るとか、竹内さんの「長靴をはいた猫の靴下」をネットの古書検索で手に入れられるとか、トマスピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」は読んどくべきだとか、国会図書の蔵書検索で秋田昌美と入れてみようとか入らん雑音が聞こえまくる。しかも竹内義和公式HPまで発見。

12/15 都市伝説=噂話=現代の民話って奴は探せばある物で、うちの職場で聞いた話。小学生の頃、夜暗くなってから学校に忘れ物をしたのに気が付いて夜の校舎に取りに行くと、暗い廊下に職員室の明かりだけがついてて職員室の向こうの暗い廊下に入っていくと、いつもはそこにあるはずの宿直室が無かった。って話で、部屋が無くなるって怪談としては怖いなと思った。だって、その部屋に居たはずの宿直担当の人はどこへ消えたのだろうってことになるじゃん?

その話を聞いたその日に本で似たような話を読んだ。パリ万国博覧会がもようされている1900年のパリ。カイロからマルセイユ経由でパリをおとづれた二人のアメリカ人女性。母と娘なのだがほとんどフランス語を話すことは出来ない。彼女達のうち母親の方は病気で疲れていたので、二人はコンチネンタルホテルに泊まった。部屋は真っ赤な壁紙で非常に居心地がよさそうだった。母の様態を心配した娘が近くの医者の住所をホテルの従業員から聞き出し馬車で向かった(1900年なので電話は普及していない)。馬は遅く、御者は馬鹿で、道を何度も間違え、やっとたどり着いた目的地も医者の住所ではなく、ホテルの従業員にもらったメモは間違いだらけだった。娘は当惑し、医者なら誰でも良いのでと御者に頼み込んだ。御者はのろのろと明らかにスラムと分かる地域に馬を走らせ、娘は医者を連れてホテルに戻った。

娘はホテルの従業員に母の病状を聞くと従業員は「お客様(娘)はお一人で来られましたが」と変な顔をする。娘には当然納得できることでなかったので、すぐさま母の居る部屋の前に立ちカギを開けた。ドアが開いたとき、真紅だった部屋の壁紙は灰色になっており、家具や暖炉の位置・色・形ともに別物になっていた。カギと部屋の番号は同じで、母と部屋が消え、従業員は始めから娘さんは一人出来たと言い、最初に母と娘を乗せた御者は見つからず、警察を呼んだが手がかりはつかめない。多くの時間を費やした後、娘が医者を探しに行っている二時間の間に、壁紙が貼り替えられ模様変えがなされたことが立証された。彼女は始めっからダマされていたのだ。母は死んでいて葬られている。ここから先は推測になるのだが、彼女達は東洋からやってきた事から考えて、母はペストだった。ホテル側は博覧会でにぎわう街を混乱に陥れることが出来ないと判断し、部屋を驚異的なスピードで改装した。ここまでは本(「アメリカの奇妙な話1巨人ポール・バニヤン」ちくま書房)に書いてある内容なのだが、ここでさらに私の推測を入れると、記憶が正しければパリ万国博覧会で最も有名な出品物と言えばエッフェル塔でこれが世界で初の一般に公開されたエレベーターだったと思う。あるとき、部屋がまったく別の部屋になってるという話は、エレベーターのことを言ってるような気がする。また、話のバリエーションとして1931年の植民地博覧会のときというバーションもあるらしいのだが、非西洋に存在する未知の風土病に対する恐怖感やフランスという鏡に写ったアメリカ人の姿をアメリカ人がどう見ているかってのも面白い。ホテルの名前がコンチネンタル(大陸的/イギリス側からヨーロッパを指すときに使う言葉)ホテルってのも象徴的だし、壁紙が真紅から灰色ってもの分かりやすい。

12/14 不覚にも西原の「ぼくんち第1巻」を読んで泣いてしまう。漫画の内容は殺し・さらい・シャブ・詐欺・売春ってヤクザネタなんだけど、ジュネやセリーヌ・ヤクザ映画の漫画版。

12/12 中身の無い言葉を多少でも。今午前4時「アパートのかぎ貸します」って白黒映画をやっている。大量生産大量消費、スモールイズビューティフルなんて言葉の無かった近代の話。どこまでも広いオフィス、どこまでも均一に並ぶ蛍光灯と鳴り止まない電話とタイプライターの打刻音。寅さんの第一話に出てたさくらの通うオフィスもこんな感じだった。今の会社はもう少し分社化・個性化・細分化されている。ラブストーリーの主役は既婚者で、浮気をいかに上手くやるかを中心に話は進む。10代が文化(映画)に金を払えるほど豊かな時代じゃなかったってことだ。

10日のK-1は午後5時に東京ドーム、午後10時からTV放映。スポーツ新聞に流れるより早くTVに流せってことだ。9時に職場を出て10時に自宅で観るのもつまらないので、10時に新宿か渋谷の街頭TVで通行人に混じって観ようと思った。TVが珍しかった時代に力道山の試合を街頭TVでってノリを決め込んだわけだ。午後10時の新宿アルタは人がまばらで、TVは映画のCMをひたすら流してる。辰吉戦を流したアルタのTVがK-1を流してないことに頭にキテ、スポーツバー(TVで人気の試合をみんなで観ながら、ワーワー騒ぐ店。ブラジル系の店でサッカーの試合なんてのが多い)を探すも見付らなかったのでマンガ喫茶でTVを観る。まあ、街の空気からして武蔵が負けたのはなんとなく分かった。アルタで流れてないのも、地下鉄でアベックがK-1の話題で盛り下がってたのもそういうことだと思う。新聞欄をを見ると10時から11時までらしいので11時新宿だと12時半には家に帰れると思ったら、12時まで番組は続く。そのまま新宿で一晩過ごす。ドンキホーテでアイマスクを買って、黒人の客引きに連れられてClubに行く。Clubってのも色んな種類あるが楽しむってより、本気でブレイクダンスの練習をする人達の集まる場所で少々引く。午前3時ごろスポーツバーをみつけるが時既に遅し。で、またマンガ喫茶に入って何故かプレステで「ときメモ」をプレイ。ユルーーイ時間をユルーーく過ごす。新宿のマンガ喫茶もね、ある種オタクになると、アトムというマンガ喫茶は資料的価値の高い手塚治虫氏の古典を多く置いてるとか、ネットをしたけりゃどこが安いとか、少女マンガを多く置いててカワイイ女の子が集まるのがどこだとか、あるんだけど、そんなのもどうでもよかったりしてね。

まあ、掲示板でも書いたけど、日本の赤字国債が多いって話で、こういう話題ってみんな引くと思うし、俺も無知をさらけ出しながら床屋政談なんですが。今の赤字国債って一時のブラジル(南米の開発ブームで先進国が大量に金をつぎ込むも開発に失敗し、借金帳消しを先進各国に申し込んだ)より多くてファシズムに走った頃の日本と同額(円の価値自体変化してるから何を基準に換算してるのかも怪しいのですが)あるって話で。

正直、赤字国債があるとどう困るのかをよく知らないのですが、国家予算の3倍ぐらいの赤字国債を発行してるらしくて、国債ってのは、例えば百万いま貸してくれたら年利5%で五年後に百二十五万円で返してあげますよ的なもんだと思うのですが、これ、景気が良いとみんな国債を買うのですが景気悪いと、国が銀行に押し付ける形になる。国が「国債返す能力無いから、借金チャラにしてな」と一言言えば、銀行は預金者に「国に押し付けられた国債が紙切れになったから、俺らも預金者から預かった金返せなくなった。ゴメンな」って形で、倒産・もしくは預金の引き降ろしの凍結ってな事態になる可能性もある。実際に戦前の日本でそういうことはあったらしい。いまのところ、国は国債を銀行にかなりの部分押し付けてるし、銀行の体力も落ちてる。破産した銀行を立て直したり、預金者保護のために税金を投入する。その税金も赤字国債で銀行負担。なんか変な循環に入ってるのですが。

国債を返す能力の無い政府が取る方法として、一つは国債の借金を帳消しにする(上の例)。もう一つはインフレを起こす。国がお金を発行してるわけだから、大量に刷ればそれで済むってことだ。いま流通してるお金の倍の量の金が流通すれば、円の価値は半分に落ちる。100円の国の借金も100円の価値が50円に落ちれば、実質的に50円分の借金に減る。と同じに、預金者の貯金の価値も半分に減る。第1次世界大戦後のドイツなどはインフレ率何万%とか普通にあったので、無い話ではないと思う。コーヒー一杯トランク1個分の札束、という値段だったのにコーヒーを飲んで店から出るときにはインフレでトランク2個分に上がってたなんて話もある。

上の二つは非常時の金の返し方で、本来どっちもやってはいけない方法だけど、預金者、具体的には老後に備えてお金を貯蓄してる第1次ベビーブーマー世代の預金を食いつぶしてる計算になる。普通は国の予算の中から返して行くのが筋で、仮に国家予算の3倍の赤字国債を発行してるとして、年利5%だと、利子を払うだけで国家予算の15%がつぎ込まれる。俺の記憶が正しければ国家予算の30%ほどが国債の返済に当てられてる。15%が利子だと残り15%が国債を減らすのに使われている訳だから、国家予算の3倍=300%の借金を返すのに20年かかる。これは国債を新たに発行してなければ、という前提の上で20年なんだけど、実際には国債の発行は増えているらしいんだな。小泉さんが、国債を返して行くのが無理ならせめてこれ以上借金を増やさないプランを出したけど厳しすぎるって事で却下されたらしい。

政府自民党の見解では、80年代あれだけ財政赤字を出してたアメリカがいま景気良いのは景気刺激策を行ったからだということになる。いま、景気刺激策を行っていても税収が落ちているのに景気刺激策を止める訳にはいかない。ということで赤字国債を出し続けてるのですが、その景気刺激策の中身が問題で、今回の国会でも、17億円の公共事業を発注するのに、議員が仲介手数料五億円も取ってたりするのな。赤字国債を発行してても17億円の公共事業をすれば、17億円が民間の企業に流れて、雇用やなんかの面で役に立ってるかと思ったら、議員さんが中間マージン五億も取って丸投げしてるって最悪やん。マージン1割ぐらいやったら納得もするけど、3割は取り過ぎでっせ。

ananって20代前半の女性誌としてはメインカルチャーしてると思うのですが、そのananで「女から見たときなんでこの人がと思うような女がなぜモテる」ってな特集してて「男の前で突然態度が変わるような女がモテたりすると、なんであんなのに引っかかるのだろうと思う」ってなベタベタなネタで、まあそういう話題は古くは堀田あけみの「アイコ16歳」ぐらいから、まあ、初期コバルト文庫からある話題なのですが、問題は「アイコ16歳」自体が、カワイイじゃねぇーかブリッコじゃねぇーかって話で、「男の前で突然態度が変わるような女がモテたりすると、なんであんなのに引っかかるのだろうと思う」ってなことをいう言い方自体がカワイイよとか、幼いよとかあるんだけど、20代前半だとそれもありじゃん、これが30代後半になると違うんだよ。

37歳独身のバリバリのキャリアウーマン系の人がね「ヘップバーンは嫌いだ」ってなこと言うんだよ。オードリ=ヘップバーンは、美人で可愛くて、男に媚びなくても周りからちやほやされるそういう役だと、対するマリリン=モンロー(ヘップバーンのライバルとしてよく対比されるんだけど)は、頭悪い巨乳のお姉ちゃんが金持ちの玉の輿になろうとしてセクシーな服着てがんばって、最後悲惨なふられかたして、その時なぐさめてくれた地元の貧乏な幼なじみの青年と結婚すると。ローマの休日のヘップバーンが最初っからお姫様だとすると、モンローは場末の娼婦だと。若い内は男に媚びなくても男の人にちやほやされるヘップバーンに憧れたさ、でもね、30越えるとヘップバーンみたいに自然な美しさでなんて言ってられなくなるんだよ、化粧して服選んで、内面から醸し出す美しさなんて物が無いのを分かってるから露出の激しい服着てセクシー路線で迫って、それで振られるモンロー見て泣けない奴は女の敵だよと(この地点で俺かなり爆笑入ってんだけどね)。こういう話をしてる人自体が、バリバリのヘップバーン系の人だから余計に笑えるんだけど。

それに対して男性誌ってなんでこんなバカなんだろうね。上のような女性誌のネタってカッコイイじゃん、知的じゃん、して男性誌の場合、「女のセックスOKのサインを見逃すな。ラーメンを食べるとき髪をかきあげるしぐさはOKのサイン」とか、読んでて違う意味で笑えるでしょ。走り出したら「ラーメンを食べるとき割り箸を割るのはOKのサイン」とか書き出しかねないからね。40代のおっさん誌だったらそれも納得するんだけど、ヤングアダルト情報源とかでも違う意味で納得するけど、普通のね、20代向けの雑誌でかつわりと先端行ってますって奴でも同じようなの多いからね。男ってなんでこんなにバカなんだろうってネタで笑ったのが小学館の学習誌で小学五年生。女の子向けの特集記事がプリクラの写り方とか「不思議ちゃんになろう・・篠原ともえや鈴木あみちゃんのような不思議少女を目指せ」って、無茶なネタでコギャルや不思議少女を養成してるのに、男の子向けの記事が「夏だ!山だ!カブトムシだ!・・クヌギの森で今年の夏もカブトムシを大量ゲッチュ」って同じ年齢の女の子に比べてかなり幼くねぇーか?

この辺もね、法政大の田嶋女史に言わせると、この年齢のときから既に男は主体・女は客体って刷り込みがなされているって事になるんでしょうけど、実存主義的な主体って割りとシンプルな単体なんだけど、自分が他人からどう見られているかってな客体に踏み込むと、あの鏡に映った自分と、この鏡に映った自分は違う自分で、別のレンズを通せばまた違う自分が居てという形で主体が溶けて行く構造主義的な方向の方がぐちゃぐちゃのドロドロって感じで面白いんだけどね。「人間」という概念は砂浜に書かれた文字のように波の中に消えて行くだろうbyフーコー的なね。

12/8 マイク=ベルナルド選手に続いてレバンナ選手も欠場ということで、ハードパンチャー組の不在に揺れているK-1ですが、ハードパンチャー組ってお金だけで言えばボクシングの方が全然良いらしいんですね。ただ、西洋だとボクサーの社会的地位が低いと、K-1だとTVタレント的な人気があって、ベルナルド選手のようにCMでの副収入も期待できる。その辺が違うらしいのですが。日本以外だとボクシングって金を掛けて応援するギャンブルとしての要素が強くて、その辺が高いファイトマネーと低い社会的地位ってのに結びつくようで。

あと、マイク=ベルナルド選手が言ってのは「ボクシングよりK-1の方が難しい。ボクシングは二つ(両拳)だけ注意すれば良いが、K-1は六つ(拳・ヒザ・足)も注意しなくてはいけないところがある。自分はより難しいことに挑戦したい」ってことで、より難しい=高度な技術=技術に対する敬意ってのがどこかで結びついてるようにも読める。

ハードパンチャー組が抜けることで、苦労するのは一回戦当たるはずだったフィリオ選手と武蔵選手で、フィリオ選手は某スポーツ誌で「レバンナ選手を倒すのを最大の目標にサウスポー対策をしていたのに、サウスポーじゃない選手を当てられた」と語っている。レバンナ選手に勝てば、準決勝で負けてもカッコが付くが、ステファン=レコ選手相手だと、色々と難しいよね。極真空手の後輩(ニコラス=ペタス選手)を倒したレバンナ選手相手に勝って、準決勝仮にホースト選手が出てきて負けても、K-1 2000の予選でホースト選手に勝ったレバンナ選手に勝ったんだよってことで、体面は取り繕えるけど、強くてネームバリューの無いステファン=レコ選手と一回戦で当たるとなると、対戦する側からするとしんどい相手だよきっと。

レバンナ選手も各誌の優勝候補に上がってたし、悪役的人気が高かったのにな。視聴率にも響くぜ。マイク=ベルナルド選手も「優勝すればボクシングでマイク=タイソン戦の確約を石井館長からもらった」とよろこんでたし、モチベーションは高かったはずなんだけどな。

11/27 小室とエイベックスの決別を象徴するのが華原の後釜がエイベックス=浜崎あゆみと小室&CBSソニーの鈴木あみに別れたって部分だと思うのですが、avex globeを作る形で小室とエイベックスの修復がはかられ、華原が徐々に復帰しつつある中で、ちょっとオモロイのがグローブのニューシングルのタイトル「Don't look back」って、もろ織田哲郎のバンド名やねんな。なんや、エールというか比較広告というか、小室/織田哲郎で名プロデューサーのミュージシャン対決、テーマは70年代リバイバルですか。小室がプログレの織田哲郎は・・・なんかよく分からんけど70年代音楽を2000年代テイストでって感じで。

11/19 「ほんやら堂」の樋口さんが出口主義ってのを唱えてらして、やっぱ文化ってそういうものなんだろうなと思ってみたりしてですね。出口主義ってのは、たこつぼ的に細分化された文化圏からの出口ってことらしいのですが、哲学者の東さんがサブカルとオタクを対立概念として使われてるんですね。オタクは細分化・専門化された文化圏の人で、サブカルはオタク的な文化を横断する人。出口主義は当然、サブカルに属するわけです。細分化されすぎた文化というのは、例えばアニメならアニメ、フィギュアならフィギュア、コスプレならコスプレ、TVゲームならTVゲーム、それぞれ独立していて交流が無い訳です。同じエヴァンゲリオンの物でも、フィギュアとTVゲームでは交流が無かったりする訳です。

カタログ雑誌を例に取ると、アニメのカタログ雑誌と映画のカタログ雑誌とフィギュアのカタログ雑誌では、同じエヴァンゲリオンを扱っても交流が無い訳です。何を根拠に言い切ってるのかが分からなければ、こうしましょう。交流があったとして、それらをトータルで論じる雑誌が存在しない訳です。トレーディングカードのエヴァとPCゲームのエヴァを比較して論じた文章はどこに持っていけば扱ってもらえるのか?消費者サイドからすると同じエヴァだからファンになってしまえば、テレホンカードだろうが、DVDだろうがエヴァの情報はトータルで欲しい訳です。でも、生産者サイドで言えば、トレーディングカードはトレーディングカード会社が出す。DVDはDVD会社が出す。メーカーがそれぞれ異なっていて、それぞれのメーカーに貼り付いた専門誌が存在していて、専門誌サイドからすると自分達の縄張りを荒らして欲しくない。雑誌とメーカーの間にある太いパイプ、広告料をもらう代わりに取材して記事書きますって関係に、他業種から割り込んで欲しくない訳です。

そういう業界のドロドロした関係抜きにしてさぁ、もっと消費者サイドに立とうよってのが、出口主義であり、東さんのスタンスなのだと私は勝手に解釈します(違ってたら申し訳ない)。私としても昔の「宝島」って雑誌が好きだったわけで、あの雑誌って、それぞれの業界誌の若手No1ライターにそれぞれ1・2ページづつぐらい連載ページ持たせて書かせてたんだよね。アイドル業界からは「よいこの歌謡曲」が1ページ、広告業界からは川崎徹さんが1ページ、文学業界からは村上春樹さんが2ページ、ロックだとミュージシャンサイドで遠藤ミチロウさん、ライター兼ミュージシャンサイドだとタコの山崎春美さん・・。結局アレなんだ、靴の専門誌がある、腕時計の専門誌がある。メーカー的には腕時計会社は靴作らないし、靴のメーカーは腕時計作らないけど、ファッション誌としては肌着から、髪型からメイクから服、靴、鞄、腕時計までトータルでみせてかなきゃいけないし、生活様式を提案する雑誌なら、自分の部屋のインテリアから、通勤中の車内のBGMから、休日の時間の使い方まで、全部トータルで紹介して行かなきゃ文化と呼べないわけじゃん。下の話とも重なるけど、ドラゴンアッシュがHIPHOPの象徴として振舞うなら、音楽だけでなく、服やベースボールキャップや金のネックレスや靴や言動やそれらすべてが商品として扱われるわけで、それら全部コミコミでHIPHOP文化になるわけです。

宝島が提唱していた文化、レンタルビデオ店やコンビニでアルバイトをしながら、高円寺の風呂無しのアパートに住んで、いつかはプロになることを目指して演劇やバンド活動をしようぜ。ってのは、より消費者よりに消化されてる訳です。そういう生活様式の人向けに必要な商品を紹介しましょう。ってことですから、腕時計であればなんでも載せる雑誌や靴であればなんでも載せる雑誌より、より読者に優しい訳です。これ一冊在ればアルバイト情報から住宅情報まで全部載ってる訳ですよ。文化ってそういうものとちゃいますか、ananで言えば「男の子の前ではかわいく振舞いましょう。それが幸せになるコツですよ」でJJだと「男に媚びない芯の強い女が結局男を引きつけるものだ」と。で。同じ服のメーカーが同じ服の広告をananとJJに出したとして、服の見せ方は違って当然でしょ。その服の着方も見せ方も目的も違う訳ですから。(俺の女性ファッション雑誌観ってつくづく古いよな。いまananとJJって微妙に逆転してる気もする)

やっぱ雑誌って生活をトータルでサポートできなきゃダメなんだよ。スタジオボイスがカッコイイグラフ誌として存在してても、どんなにカッコイイ写真載せてても、そのスタボイの読者が何を考えてて、どんな職業についてて、そんな生活を送ってるのかが見えなければ、生活のリアリティーに欠ける雑誌になるわけだ。似たようなラインでポパイも少し前までカッコ良いけど生活感の無いグラフ誌だったのが、最近コラムが充実してきて、生々しい生活感が出るようになってきたし。もっと話飛ぶと森VS加藤だってね。議院内閣制だから党内の数合わせだけでどうこうってのじゃ無しに、加藤は森総理の支持率低下をみて不信任って言ってるんでしょ?したら、世論の後押し欲しいじゃん?森総理の提唱してる社会のあり方、その社会に生きる人の生活と、自分の提唱する社会のあり方、その社会の中で生きてる人の生活を示すべきなんだよ。それが文化じゃん。支持率とか議員の数合わせも必要かもしれないけど、有権者のレベルにまで話を消化して提示するには生活様式のレベルまで下ろさなきゃダメだって。

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