HP管理者日記4

11/19 モーニング娘も浅ヤンと決別したいまがそろそろ終末でしょう、TK論のときのようにモー娘論でも書こうかと思い、オリジナルアルバム3枚&モーニング刑事のサントラ1枚借りるも音楽的には観る物がなくって何も書けない。(イントロがもろスタイルカウンシルの「真夏の光線」が唯一俺好みだった)が、音楽とは別の部分でモー娘は書くことが多い。

モーニング娘は大家族ドラマだった!といきなり書くがTVで一番視聴率の取れるTV欄の見出しは「大家族11人家族のドタバタ奮闘記」とか「大忙し!5つ子ちゃんの悪戦苦闘入学式!」とからしいのだな。TKがあくまで音楽主導であったのに対し、初めにTVありきで作られたモーニング娘は、始めっから大家族=多兄弟をテーマにしていたわけ、姉御の中澤、末っ子の福田明日香、グループ内の年齢差は始めっからTV用に作られたものであったわけです。普通アイドルグループを作るときは、学園ドラマ用に同じ年齢層で中学・高校という設定でやります。それを家族、姉妹という設定で構成し、ジェネレーションギャップを利用した笑いを作り、最後は家族愛で締めくくるあの見せ方がモー娘の最大のオリジナリティでしょう。家族愛というテーマでいえば、TVのスタッフが次から次へと無理難題をモー娘に課し、その難関を乗り越え、感動に涙するシーンで必ずアップになったのが、泣きじゃくる末っ子=福田明日香を抱きしめる姉御=中澤裕子の姿で、これこそ大家族ドラマの最大の見せ場であったわけです。

モー娘の父親不在。これも家庭に帰れない日本のお父さんを象徴するドラマでしょう。父役のつんくは、家庭の外で仕事をし、飲み屋でTVのスタッフと今後の活動について話し合うことはあっても、TVスタジオ=家には帰ってこない。飲み屋でスタッフと話す=仕事が忙しくて子供達=モー娘と一緒にいる時間は少ないけれども、大事な場面=レコーディングでは父としての役割もそれなりに果たす。父親というのは外で仕事をしていることになっているけれども、実際のところ仕事をしているのかどうか分からない、さらに言うとどんな仕事をしてるのかも家族にはよく分からないって部分。サングラスをかけ、暗いレコーディング室で怪しい業界用語でスタッフとしゃべり続けるプロデューサー=つんく。飲み屋で今後の活動についておしゃべりするのが、仕事なのか遊びなのか分からないし、大体プロデューサーって肩書きの人の仕事内容ってのが実際のところ何なのかよく分からない。家庭における父というポジションの持つ怪しさと、音楽業界におけるプロデューサーという役割の持つ怪しさがきれいにマッチして良い味出してました。

モー娘について書こうとすると、「アイドルとは何か」について必然的に触れなくてはならず、さらに「文化とは何か」についてまで拡散してしまうのを力技で収集させたいのですが、アイドル=偶像とはある部族の生活様式の象徴なわけです。部族とは暴走族とかチーマーとかオタクとかクラバーとかヒッピーとかヤッピーとか太陽族とかで、太陽族だと石原裕次郎、暴走族だとキャロル・クールス・横浜銀蝿、ヒッピーだとグレートフルデッド・RCサクセション辺りが、それぞれ象徴として存在しているわけです。アイドルは、例えば矢沢永吉さんなら、どんな服を着てどんな靴をはいて、どんな髪型にして、どんな言葉を話して、どんな行動を取るのかという生活のすべてが商品であり、暴走族としてカッコイイ生活様式を取ることも仕事のうちなんです。矢沢がカッコイイ腕時計をしていた。だから自分も同じ腕時計を買った。矢沢と同じ時計が矢沢モデルとして売れた。だからそのメーカーも矢沢に多額の金を積んでCM契約を交わした。逆に、矢沢がカッコ悪い服を着ていた。それで矢沢を嫌いになった。だからコンサートも行かなくなったし、CDも買わなくなった。ってこともありうる。

美白とガングロという分かりやすい二項対立のムーブメントの中で、SPEED/DEEPS、華原(途中から浜崎あゆみ)/安室という2種類のアイドルを同じメーカーが同時発売して「あなたはどっち派?」という売り方をするのはある種アイドル売り出しの常套手段なんですね。上にあげた4種のアイドルは全部エイベックスなんだけど(スマン、後で調べたら華原はワーナージャパンだった)、SPEED/DEEPSを手がけたのが伊秩、華原/安室を手がけたのが小室、SPEEDを逆さまに読むとDEEPSになるという言葉遊び、デパートでどれにしようか迷ってると、店員が3つぐらい選んで持ってきてその3つから選ばせるあの商法ですよ。

したときにモー娘はグループ内でいくつかの対立項を作って、「あなたはどっち派?」商法を展開してしまった。先ほどあげた姉御/末っ子もそうだが、タンポポ=バラード/プッチモニ=アップテンポなポップス、赤色=バラード・昔の角川系アイドルポップス/青色=デジタルパンク?/黄色=ダンスミュージック、鈴木あみVSモー娘の同時発売。ライフスタイル的なことを言うとヤンキー=ティーンズロード=中澤VSコギャル=EGG・ストニュー=後藤・矢口VS優等生=進研ゼミ?=安部なつみ・福田明日香。メイン=後藤・安部vs日影=保田・市井。誤解の無いように書くと、日影は決して悪い意味ではない。グループアイドルの場合絶対に必要なポジションなのだ。

例えば、かつて光GENJIが全盛期の頃、メインの諸星くんの人気を越えるだけの人気を得ていたのが日影の赤坂くんだ。(某雑誌アンケート調べ)実際、身近な女の子の意見を聞くと、「諸星くんは美男子過ぎて引いちゃう、光の二人(大沢&内海)は自分がメインみたいに前に出るのが嫌、それよりも赤坂くんの身近かにいそうな感じがGOOD!」なんてこと言うのがうじゃうじゃいた。どういうことかというと、「光GENJIの中で誰が好き?」という質問をされたときに、「面食いだと思われたくない」「スポットライトを浴びていない裏方さんにも目配りをしてる自分で居たい」みたいな心理がそこにあるわけだ。たのきんトリオで言うヨッチャン、ビートルズで言うジョージハリソン、モー娘で言う保田は絶対に必要な選択肢=コミュニケーションツールなわけだ。

ここまで書いてきて、モー娘とTKの圧倒的な違いが分かって頂けたと思う。TKはあくまで音楽を作り、つんく=モー娘はTV番組を作ってきた。鈴木あみというピンのアイドルがピンゆえに属性もキャラクターも与えられず、某「うたばん」音楽番組では鈴木あみのトークよりも鈴木あみの歌で視聴率が伸びた(通常、音楽番組は歌で視聴率が落ちる)ってのは、小室マジックのすごさを物語ると共に、TKは最後まで芸能的配慮をしなかったことを物語っている。

モー娘の終焉は、通常のアイドルのようにメンバーの高齢化では訪れない。大家族ドラマの劇団員であるモー娘は、高齢化しても中澤裕子はお母さん役として、森光子・黒柳徹子・加賀まり子まで活動できるし、子役は次から次に新しく入っては、進学等を理由に抜けても行き、新陳代謝は常に行われる。通常のアイドルグループのように女子高生じゃなくなったから、女子大生じゃなくなったから消えて無くなるという訳じゃないのが、このグループの強みなのだ。学園ドラマで言えば、中澤に女子高生役が厳しいなら、教育実習生か保健室の先生役でもしてもらって、ゆくゆくは担任の先生にでもってわけだ。じゃあ、モー娘の終焉はどこから来るのか?ちゅうとやっぱ、浅ヤンとの決別でしょう。TVショーを主たる芸にしているアイドルが芸の見せ場であるメインの番組から外れるってのは致命的で、活動の場が無くなるってことですからね。いや、浅ヤンとは別にモー娘メインの番組がいくつか出来たのは知ってますよ。でも、それは歌を歌って曲のプロモーションをするって事が出来ないトークバラエティーだったりしますよね。浅ヤンのように数字を取るために手間隙かけて頑張るスタッフさんに囲まれてる訳でなく、数字が取れても取れなくてもモー娘の力、自分は言われたことだけをちゃんとやって、数字が取れなきゃ次の番組があるさ的な、どうせこの番組長く続かないでしょうってなノリですよね。変な話モー娘、歌番組出てもTV出身の割りに他のミュージシャンと比べてTV的なトークが特別上手いとか、TV的な演出が上手いとかってのがそれほどなく、視聴率も普通って言うじゃないですか。浅ヤンならドキュメンタリータッチでテープを長く回して後で面白いとこだけ編集していたのが、ミュージックステーションだと生放送で音楽に行く前の15秒で何か面白いことを言ってオチを付けなきゃならない。一週間の生活を追いかけたドキュメンタリーの面白いところだけ30分ぶんつなぐ浅ヤンとは求められる芸の質が違う訳です。司会出来るの中澤ぐらいしかいない現状で、メイン番組まかされても、無理って奴でしょう。

浅ヤンとの決別の原因を雑誌記事から拾ってみると(しょうがねぇーじゃん、俺に独自のニュースソースなんてねぇーんだよ)、浅ヤン以外の番組への露出が増えて、浅ヤン用のスケージュールが組めなくなった(これは本田美奈子がおニャン子クラブを辞めるきっかけになった理由と同じ)とか、シャ乱Qでのバンド活動を再開したつんくがモー娘に興味を持たなくなったとかあるのですが、面白いのはつんくと浅ヤンスタッフの対立って奴で、本来つんくに行くはずのモー娘の印税の一部が、浅ヤンスタッフに行くようになっている。元々、そんなに売れると思っていなかったモー娘が1stシングル「愛の種」を三千枚売り切ったのを見たつんくが、別のプロデューサーに決まりかけていたモー娘プロデュースに自分をねじ込んだ。そのねじ込む際に印税収入の一部を番組のプロデューサーの懐に入る契約にした。今になって、番組プロデューサーにばかり印税が行くシステムに不満を持ったつんくと浅ヤンとの決別という話なのですが、CDの歌詞カードによると「愛の種」の作詞作曲ってパール兄弟の「さえきけんぞう」さんなんですね。・・・マニアック過ぎる。さらに言うと、**が出来なかったら解散!ってな図式で、もしくはタンポポVSプッチモニ、鈴木あみVSモー娘ってな感じで崖っぷち追い詰められ企画に疲れたモー娘が浅ヤンの企画に乗れなくなってしまった。ってな話もあるのですが、モー娘単品で番組持って成功するのか?つんく単独でプロデュース(TOKIO・EEJ)して成功例はあるのか?ってな話になると、浅ヤンの力がデカかったと言わざるを得ない。

11/1 9/27でも書いたけど、生まれつきケンカの強い人は打撃系格闘技をやらないといいう話ね。例えば、全盛期の頃のマイクタイソンは同じジムのプロボクサーに「一緒にスパーリングをしないか」と言った次の日、そのボクサーに傷害罪だの殺人未遂だので訴えられています。相撲だと兄弟子(あにでし)が同じ部屋の若手力士に稽古をつけるなんてのはごく普通に行われていますし、ボクサーの場合も、同じジムの人間に「スパーリングしようぜ」っていうのは普通だと思うんですよ。ただその若手ボクサーの話によると、「マイクタイソンが私に声をかけた瞬間、辺りはシンと静まりかえり、ジムの人間はみな、ジムの稼ぎ頭の言う通りにしろという無言の圧力を私に送った」ちゅうぐらいに怖かったらしいです。そりゃ、パンチ一発でどんなヘビー級ボクサーも秒殺KOしていた時期のタイソンですから、いくら同じジムとは言え、ちゃんとスパーリングパートナーとしてのファイトマネーを十二分にもらって、生命保険や医療保険にも入って、一流の医師をリングサイドに用意した上じゃないと無料じゃ出来ないってのは分かるんですけど、要するにタイソンクラスになると人を呼び止める時に「ちょっと」と肩を叩くと傷害罪、首に手を回して肩を組めば殺人未遂で訴えられる。普通の人がやっても大丈夫なこともタイソンがやると、民事訴訟になってしまう。だからマイクタイソンは家にトラを飼ってて、トラとじゃれあっていた。人間相手に触ったり組みついたりしたら訴えられるからです。

そういう、生まれつき体がでかくて強い系の人は、ケンカのときに人を殴ったりすると先に手を出してきたのが向こうだったとしても、デカイ図体で相手の頭から血を流させたのお前だろって話になる。打撃で相手を降参させるには殴った証拠が残るほど殴る必要があるが、間接技なら相手の腕を締め上げて動けなくすれば、証拠も後遺症も残さずに相手を痛めつけることが出来る。だから、生まれつきケンカが強い人ってのは打撃はやらないことが多いわけ。生まれつきケンカ強い系の人が、打撃系のケンカで大負けして、それをきっかけにボクサーになるとかってパターン(Ex:渡嘉敷選手)もあるけど、そうじゃない場合。生まれつきケンカが強くて、打撃で負けた経験が無くって、かつ打撃をやってるようなパターンの場合どうなるか。

俺は普段から体を鍛えてるし、お前みたいな奴にちっとやそっと殴られたぐらいじゃ倒れないぜ、ほら、殴ってみろよ。バシッ!おう、やるじゃねぇーか、じゃあ、次は俺が行くぞ。バン!どうだ効いただろ。次はお前の番だ。・・・・いや、なんの事か分からないかもしれないけど、プロレスってこういう世界なんですね。要するに「受け」という概念が在る。相手の得意技をノーガードで受ける。相手の攻撃を受け入れられるような丈夫な体を日々のトレーニングで作って行くのが素晴らしい。という世界なんです。

俺、バンタムのボクシングを見るのが好きな人やから、バンタムのボクサーのパンチってガードの上から打っても効かない。相手の厚い胸板の上を打っても効かない。だから、相手の急所を攻めようとするし、相手もその急所をガードしようとする。その技の攻防とか、戦術面での駆け引きとかが見てて面白いわけです。そんな奴から見るとプロレスって、ノーガードで腕広げて、「さあ、殴って来い」つって、相手の胸板をバーン!とチョップして、そんなのの繰り返しでね、「なぜ鍛え上げた胸板とか腕とかばかり殴るんだろう」「何故あそこでみぞおち思いっきり蹴り上げないのだろう」となるわけです。プロレスファンからすると、「さあ殴ってみろ」と両手を広げて待ってる奴の顔面殴るのは非常識も良いとこで、ちゃんと鍛え上げた胸板をチョップしてあげなきゃいけないわけです。

生まれつき体がでかくてケンカが強い人が打撃系のケンカをする場合、まず相手にケガをさせてはいけないという頭が働く。次に、自分の力の強さを見せたいし、思いっきり殴らないと気分もすっきりしない。必然的に、思いっきり殴っても相手がケガしないような殴り方を追求する方向(厚い胸板に水平チョップ)へと技術は進歩して行くわけです。チョップだと拳に比べて相手との接地面積が大きい分当たったときの衝撃が拡散されるため相手にケガをさせる確率が減るわけです。弱い力で強い相手を倒す方向へ進化して行ったボクシングの技術とはまったく逆の方向ですね。

して、K-1の佐竹VS武蔵戦ですね。これは前半、武蔵選手が佐竹選手の胸板をひたすら蹴る。佐竹選手は笑顔で余裕の表情で前に出る。すると武蔵選手は後ろに下がってまた胸板を蹴る。それの繰り返しで進んで行きます。これを見て私は「プロレスだな」と思ったわけです。佐竹選手の胸板を見れば、あんなのいくら蹴っても効かないのはミエミエです。しかも武蔵選手は佐竹選手の胸板と平行に足が当たるよう蹴っているわけです。佐竹選手にあたるヒザから足首までが均等に同じ圧力で力がかかるように蹴っている。広い面積に力を拡散させれば佐竹選手のダメージは減る。先輩に気を使いまくった攻撃に見えたわけです。これ、ちょっと武蔵選手がひざを曲げて、ヒザがみぞおちに入るように蹴れば、みぞおちには筋肉は普通つかないですから、そこをまともに殴られれば、少なくとも3秒ぐらいは呼吸できません。スポーツの途中に突然3秒呼吸止められたら、酸欠になるのでその3秒間は思いっきり動きが止まります。佐竹選手のみぞおちに膝蹴り入れて、まともに入ったら3秒武蔵選手の殴りたい放題なわけですわ。それをやらないのはプロレスだろうと。

いや、みぞおちにひざを入れるのは、それなりに高度なテクニックがいるから難しいとしても、胸板の少し下の腹を蹴ることは出来るだろうと。腹は胸と同じく筋肉がついてるけど、筋肉の下に骨が無くて即臓器だから、これもかなり効くはずだと。実際、武蔵選手の左ミドルが一撃必殺として効くときは大抵、相手選手のわき腹に対して垂直に入る左ミドルなわけです。何度も打たないと効かない左ミドルは大抵、相手選手のへそに対して垂直に入る左ミドルですね。今回の佐竹・武蔵戦はそのへそどころか、一番効かなさそうな胸板一点集中の左ミドルしか武蔵選手は打ってなかったんですよ。

佐竹選手のプレッシャーの前に胸板を蹴っては下がり、蹴っては下がりの試合展開。武蔵選手の表情はひたすら暗い。佐竹選手はひたすら笑顔で武蔵選手を追い詰める。このとき試合を見てて思ったのは、同じ正道会館同士で真剣勝負してもしゃーないから、始めっからどっちが勝つかシナリオあって、今回は佐竹選手なんやな。ってことで。最終ラウンド武蔵選手の飛びヒザが出たり、試合の流れは多少変わるのですが、カメラから遠い位置で接近戦してるからよく見えないし分からない(こんな言い訳でスマン)!で、判定はってぇーと、3−0で武蔵選手だったんですね。

この判定に佐竹選手が怒ってK-1からプライドのリングに移るのですが、そうですね。アマチュアボクシングの場合、点数制でクリンヒットが何個在ったかで勝敗決まるんですよ。マイクタイソンがアマチュア時代、オリンピックアメリカ代表の権利をかけた試合の決勝戦で相手からノックダウンを奪ったにも関わらず、自分はノックダウンしてないのに、クリンヒットの数で判定負けしてるんですね。そういう手数で言えば武蔵選手の圧勝でしょうし、試合会場での雰囲気、お互いの選手の表情とか、プレッシャーをかけてるのがどっちだったかとか、そういうことを言い出すと佐竹選手になるしですね、一概にどっちが勝ったとか言いにくい試合ではありました。

で。結論から言うと、私が試合中に思った「プロレスやん」という感想は間違っていたことになるわけです。じゃあ、あの試合は何だったのかと。武蔵戦の前のK-1グランプリで、アメリカに渡り最高のスポーツ理論のもとに、体脂肪を減らし、筋肉を付け、反射神経をつけるトレーニングをし、最高の筋肉をつけて挑んだ第一回戦、ピーター=アーツ選手のハイキック一発で1ラウンドKO負けしてしまうんですね。体力だけでは勝てんと、その後の佐竹選手はマイクベルナルド選手相手に相手の周りをぐるぐる回りながらジャブを出すという、今までの佐竹選手に無かった戦術で闘ってるわけです。マイクベルナルド戦までの佐竹選手はひたすら前に出てパンチを出しまくるだけだったのですが、フットワークを使うとか、ジャブを使って次のフックやアッパーにつなげるとか、色々物を考えていた時期で、武蔵戦もかなり考えた試合展開だと思うわけです。佐竹選手が取った戦術は、武蔵選手の左ミドルを脇腹で受けないために、武蔵選手に真横を向いて戦おうってことだと思うんですよ。武蔵選手相手に正面向いたら左ミドルはわき腹に来る。でも、フェンシングの選手のように真横を向けば、へそか胸板にしかこない。真横を向いて左腕だけで武蔵選手を倒そうと。もっと言うと審判の印象点を上げるためにひたすら笑顔で闘おう、余裕のあるところを見せよう。とも思っていたと思うんですよ。後半、みぞおちをさすりながらも、作り笑顔をひたすら崩さなかったですからね。

それに対する武蔵選手は、巨体で骨太な佐竹選手相手に左足一本であちこち蹴ったら先に折れるのは自分の左足の骨だと、だから一点集中で左ミドル一本で行こう。と考えたと思うんですね。それが多彩な技の組み立てや選択が武蔵選手の売りだと思っていた私には退屈な試合に見えたわけですが。

また、他に武蔵選手が考えていたと考えられるのは、佐竹選手のことだから絶対にプレッシャーはかけてくるだろう。コーナーやロープぎわに追い詰められないように、ロープを右手に時計回りにグルグルとリングを回ろう。プレッシャーをかけてくる奴を誘導すれば良いじゃないかと。そのようにも考えたのではないでしょうか。で、これが判定時にどう判断するかなんですよ。プレッシャーをかけた佐竹選手が偉いのか、その佐竹選手を上手く誘導した武蔵選手が偉いのか。結果的に手の内を知ってる者同士の試合で、膠着状態が長く続き、退屈と言えば退屈な状態もあったのですが、見ようによっては、考えようによっては、高度な技の攻防や戦術面での駆け引きが感じられる・・・なんかこう非常に微妙な試合でした。

10/25 郵便・幽霊というデリダの用語がやっと分かるようになってですね。ちょっとその辺り書こかなと。元々、東さんの本を竹田青嗣さんとの絡みで読みたい自分としては、デリダのフッサール批判、デリダのフッサール批判に対する竹田青嗣さんからのデリダ批判、柄谷・竹田の対談でデリダ=柄谷vsフッサール=竹田の論争。の流れで「存在論的、郵便的」を見てて、ちょこっと整理すると(誰に対して何を書いてるのかこの地点ですでにあやふや)、

竹田青嗣の論によると、デリダがやっているのは英米系の分析哲学=言語論で、フッサールがやっているのは独仏系の実存哲学=認識論だ。フッサールの言う「言葉は通じる」ってのは、目の前にコップが在ったとして「これは私にとってコップだ」という言葉が自分に対して通じる。私は私の言葉を理解出来るということを言っているのだ。デリダが「言葉は通じない」というときに考えてるのは話者が他人に話したときに言葉が通じない可能性があるというコミュニケーションの問題を言ってるのであって、フッサールが考えてるのとは別の物だ。となる。

が、遠回りしながら整理して行くと

中世の西洋哲学が、天国はどんな状態で、天使はどのような姿をしていて、神の姿はどのようなものかといういわゆる神学=形而上学=スコラ哲学だったと。

その形而上学批判から近代哲学は始まるのですが、その主な内容が「天使だの天国だの神だのといった、存在を証明することも出来ないし、存在しないことを証明することも出来ないようなものを信じるのは止めよう。」「嘘か本当か分からない物はとりあえず全部信じないことにして、確実に存在を証明できるものだけで物を考えよう。」という方法的懐疑ですね。

デカルトは、とりあえずすべてを疑うところから始めて神の存在証明までこぎつけます。目の前にコップがあるとして、このコップの存在も疑わしい。なぜなら、コップが見えるのも幻覚であるかもしれないから。という懐疑を貫いて行ったときに、あらゆる物に疑いをかける。コップを見ればある、触っても確かにある、たたいても音がする。でも、すべて幻覚かもしれない。神はおろかコップの存在すら疑わしい。でも、そのように疑っていることは確かで。疑っているということは疑う人=自分は存在する。これがあの有名な「我思うゆえに我在り」ですね。して、私が存在しているという事は、私の存在を作った誰かがいる。例えば親。ではその親を作ったのはそのまた親。そのようにしてルーツをたどって行ったときに、一番最初の人間を作った何かを創造主=神と呼ぶ。という理屈で、いまのローマ教会ではビッグバンを作ったのは神だということになってます。

フッサールというは大雑把に言うと上とほぼ同じ理屈で、神まではたどり着かないんだけど、とりあえず「考えてる自分」ぐらいはいるだろう。と言った人です。

が、東さんの本によるとデリダは「我思うゆえに我在り」という思想を批判している。

10/19 18日の新宿ロフトライブ行ってきました。HARCO、ラウンドテーブル、アドバンテージルーシーの3バンド。当日券でドリンク代(500円)込みで3800円。ちなみに前売りだとドリンク代別で2500円。帰りには全員にアドバンテージルーシーの新曲(WE GO)のデモテープをプレゼント。大好きなラウンドテーブルと「いま一番フリッパーズギターに似てるバンド」と一部のMLで言われているアドバンテージルーシーを同時に観れたのは収穫。

5時に新宿について7時開場まで時間があったのでマンガ喫茶に入ると、同人誌に書いた「手塚治氏のデビュー作ロストワールド云々」のくだりが事実誤認で正しくは「デビュー作:新宝島」であったことが発覚。・・それは良いとしてロフトやね。

ライブの一番目はHRACOさん。実は俺、この人よく知らん。ネオアコ系の人でアドバンテージルーシートよく対バンしてて、キーボードでアドバンテージルーシーのサポートも勤めているらしい。25さい。という情報を今日はじめて知った。そやね、サポートの人の演奏は3バンドで一番上手かったな。HRACOさん、歌自体はさほど上手くない。失礼だけど、あれより上手い人はうちの職場に3・4人いるよ。ただまあ、上手けりゃ良いかというとそうでもなくって。割りと凝ったというか、難解なフォークってな感じの詞を書く人やね。表現技術=歌唱力のみを売りにする(作詞作曲をしない)歌手と、表現内容を売りにするシンガーソングライターとでは、当然売り物が違うわけやから、あの程度の歌でプロかとは思ったけど、ピアノは上手かったし、言語感覚・作詞の奇妙さは良い悪い別にしてちょっときわだっていた。「恒例になっているのでマイクテレポーテーションします」と言って座ってギターを弾く用のマイクから立って歌を歌う用のマイクに移動。会場では少しウケていた。

二番目の出演はラウンドテーブル。北川くん最高。ルックスがカワイイ!!!!俺に言われたかないだろうけど、すげぇーーーカワイイしカッコ良かった。ライブのあった11月18日は29才の誕生日だったそうなんだけど、高校生か大学生ぐらいに見える。25歳のHRACOの方が老けてみえたもんね。なんで、若くみえるかってぇーと、声や身のこなしが軽いとか、ルックス・服のセンスが若いとかあるんだけど、一番びびったのは、ステージ上で素なんだ。普通、人って誰だって演技してると思うんだ。会社にいれば会社員、子供の前ではお父さんだし、妻の前では夫、街を歩くときは群衆になったり通行人になったり。年取れば取るほど何かを演じ続けるし、素でいる時間が短くなると思うんだけど、ステージ上で演じてないんだ。ミュージシャンを演じるとかラウンドテーブルを演じるとか北川くんを演じるとかあると思うんだけど、なんか素なの。平気で客席に背中向けて仲間にギャグ言うし(もちろんマイクが音ひろわないし、客席には聞こえない。普通ミュージシャンはそんなこと絶対しない)、MCでも「(今日ぼくの誕生日なので)受付のとこに募金箱おいとくのでみんな各自お金入れてください」なんて、学生ノリのギャグを若い声で言うしね。俺なんか、取引先の担当者に自分と担当者だけが知ってるような弊社の新製品の名前を使った駄洒落言って、「こんなマニアックな名前を知ってるのは自分達だけですよね」という内輪の空間作りに専念する親父ギャグユーザーなのにさぁ。次のシングル曲になる「エブリ・エブリ・エブリ」も聴けたし、すげー良かった。ボーカルの声もルックスもCDより全然若くて=幼くて、ちょっとキテた。ちなみに12月23日のクリスマスイブイブにClub Queでラウンドテーブルのライブがあるらしい。

三番目のアドバンテージルーシー(女性ボーカル)。パーフリに似てるという情報しか入ってなかったんだけど、観たら、パーフリよりむしろレベッカに似てる気がした。声質がロリータボイスというかACOとかに似てるんだけど、10の力で歌うと声がとんがってロックな感じになる。6割ぐらいの発声で歌うとネオアコっぽい。エレキギターの人の音のセンスもレベッカっぽかった。ちなみにアドバンテージルーシーのインディーズ時代のアルバムでラウンドテーブルの北川くんがベースを弾いてるらしい。

10/10 鴻上尚史の演劇についてでも書こうかなと。80年代後期の小劇場ブームの中心にあった鴻上率いる第3舞台ですが、一部ではバブルだったなどという人もいて。まあ、時代にマッチしていたのは確かなのですが、いま観ると面白くないってのは、違うんでないかと。

いま、私は退屈の表現にはまってるのですが、退屈ってのは要するに・・・・・60年代のスチューデントパワー、60年安保、音楽で言うとハードロック・ヒッピー文化、演劇で言うとアングラ演劇が、体制と戦い勝利するという希望があったそういう時代です。で、70年代そういうカウンターカルチャーがことごとく敗北するわけです。寺山修司の市街劇や黒テントや赤テントなどのテント公演が禁止されだします。それまで国や市の許可なく勝手に路上で演劇をしたり、広場にテントを張って演劇をしていたのが、道路や広場を管理する市や国の許可なく無断で演劇をすることが出来なくなった。許可を取ろうとすれば、上演の何日前までに申し出て、台本をチェックされ、様々な書類を取り交わし・・というわずらわしい作業が必要になってくる。ある劇場などは劇場の使用に関して五年先のスケージュールまで埋まってるという話まであるのですが、内容に関してもスケージュールに関しても融通が利かなくなってくるわけです。

70年代が60年代から続く闘争と敗北の時代だとすれば、80年代は「退屈なディズニーランドの中で踊ろう」という時代だと。音楽で言えばディスコ、演劇で言えば小劇場。60年代のお祭りが終わり、70年代に暗い反省をして、80年代暗い事が罪だとされた時代、明るく振舞うことが礼儀だとされたときに、TVでは熱湯かぶってパイ投げしてバカ騒ぎしてるバラエティー番組とディスコで流れる空虚な熱狂。権力が押し付けてくる管理体制に打ち勝つこと(60'S)もその管理から逃げ切ること(70'S)も不可能な時代に、その管理下で楽しむことを強制されている時代(80'S)に、作られた熱狂やパーティーに対して、「つまらない」「退屈だ」と一番言ってはいけない事を表現したのが第三舞台だったのではないかと。よく、第三舞台は一発ギャグが多いとか、真面目な話をある程度までは掘り下げるが結論の部分になるとジョークを言ってはぐらかすとか言われるのが、すごくあの時代を象徴しているわけですね。一発ギャグはつまらないバラエティー番組を象徴し、「真面目なテーマをジョークでかわす」のは、一番言いたいことは放送コードという検閲にかかってしゃべれないという時代の空気を表現しているわけです。

音楽で言うとスチャダラ&オザケンの「今夜はブギーバック」なんかがその時代の退屈なパーティーの空気をすごく切実に表現していると思います。あの曲の歌詞で言うと「あの頃の僕らと言ったら/いつもこんな調子だった/心のベスト10 第一位は/こんな曲だった」ってのは本当に好きな曲は一般に流通しているチャートのベスト10に入らないって状況を言ってるわけで。

90年代出てきた「静かな演劇(Ex平田オリザさん)」ってのは、全体としては退屈なパーティー、多少景気が悪くなってるので、パーティーというより日常なのですが、退屈な日常の中で、どこか自分の知らない遠いところですごい大事件が起こってる、それは自分にも関係のあることだし、自分の生活に大きな影響を及ぼすことなんだけど、どこで何が起こってるのか分からない。って内容で、音楽で言うとビートルズの「ア・ハード・デイズ・アンド・ナイト」。TVやラジオからはひっきりなしに重大ニュースが飛び込んでくる。中東で戦争が始まったとか、内閣の偉いさんが汚職で捕まったとか、どこかの高校生が無差別大量殺人を行ったとか、でもその一方で自分の生活はどうということもなく、毎日同じ家から同じ学校に通いまた帰り、異常なぐらいに当たり前の生活が当たり前に静かに進行していく。その当たり前過ぎるぐらいに当たり前な日常と、メディアの伝える事件との間に確かに何らかの関係がある・・ハズなのだがそれが見えそうになるとすぐに姿をくらませる。

無差別大量殺人の犯人はボクと同じ学年の高校生で、犯行当時ボクと同じニューヨークヤンキースのベースボールキャップをかぶってBVDのシャツを着ていた。中東で戦争が始まると石油が値上がりするらしい。汚職で捕まった偉いさんはボクの通っている高校の出身で、毎年多額の寄付をしてくれていた。繰り返されるごく普通の日常生活と異常な非日常だらけのニュースとの間をつなぐ線はほんのわずかだ。でも、本当は劇の主人公達はもっとニュースに目を向けなければならない。社会に興味を持たなくてはならないかもしれない。けれど彼らはニュースから目をそむけ、何事もなかったかのように生活を繰り返す。そしてあるとき、ラジオから核兵器の誤発射のニュースが飛び込んでくる。アメリカで核兵器が誤発射し、5時間後に日本を直撃する。「アメリカ大統領はこの事実を日本国民に謝罪すると共に、一度発射してしまった物を変更することは出来ないが今後は同じような悲劇を繰り返さないよう厳重に注意するとして・・」それでも登場人物達は何事もなかったかのように静かな日常生活を繰り返す。

上に書いた例はオチが70年代ノリなんだけど、要するに退屈の表現てのは、全然いまでも有効だと思うんだ。静かな演劇って奴の中にも退屈は確実に表現されていて、その退屈と対比される物が80年代はパーティーや60年安保的お祭りだったのに対して、90年代は日常に潜む危機に変化して行ってるだけで。

10/6 少し早いけど12月のK-1グランプリの予想。個人的には武蔵選手好きやけど、意外とフィリオ選手有利かなと。今回のメンバー見ると有力な新人がシリル=アビディー選手とレバンナ選手とボクシング出身者が多い。対ボクサー相手になると、極真空手のローキックがかなり有効になるのではないかと思う。ボクサーというのは下半身の打撃に弱いことで有名だが、彼らがよく総合格闘技に参戦するときに言う「ローキック対策はばっちしさ」ってのは、キックボクシングのローキック対策であることが多い。ボクシングやキックボクシングが近代格闘技だとすると、空手は近代化されていない中世の格闘技だ。

どういう意味かというと、SP・ガードマン・警察・軍隊が練習する実践的な格闘技ってのはアマレスや柔道のような腕をきめて動けなくする間接技が多くてノーダメージで相手を降伏させようとするのだけれど、スペクタクルスポーツ=見世物としての格闘技になると勝ち負けの分かりやすい打撃系になるのだが、「打撃でも血を流したり、骨を折ったり、人が死んだりするのは人道上良くない」とするヒューマニズムが西洋にはあって、物理的にケガさせる事なく相手を仮死状態にする方法、失神・脳震盪を相手に引き起こさせる方法がボクシングやキックの世界では常識になってる。アゴにきれいに一発入れば脳震盪を起こして倒れる。見た目にもどちらが勝ったか分かりやすく、次の日には脳震盪を起こした人もピンピンしてるため人道上も問題がない。これが近代ボクシングだ。キックボクシングも基本的にはこれと同じで、太ももにローキックを受けた相手は足がしびれて倒れる。筋肉や骨に異常はないのだが、長時間正座した後立ち上がったときのように、足がしびれて上手く立てなくなる・・・らしいのだな、石井館長の話によると。要するにキックもボクシングも肉や骨でなく、相手の神経を攻撃する格闘技なわけだ。ボクシングのボディ打ちでもよくレバーとかストマックとか臓器の名前で呼ぶでしょ、パンチの位置を。近代格闘技は人間の体の中身がどうなってるのかを分かった上でやる競技なのに対して、中世の解体新書が日本に入ってなかった時代のまま来ちゃった空手ってのは瓦割ったり、バットを折ったり、人じゃなくって物を物理的に壊すのを見せるスポーツなわけで。対人で闘っても相手のすねの骨に、自分のすねの骨ぶつけてどっちがより丈夫か。先にバットのように折れちゃった方が負けみたいな戦い方するので、そういう試合をされると、ボクシングの選手はこういう練習はしてないってあきらめちゃう可能性あるしね。シリル=アビディ戦やマイク=ベルナルド戦みたいにしゃがんでパンチの届かない距離から飛び込みながら回転する後ろ回しローキックでフィリオ選手が勝つパターンが多いと思う。

武蔵選手はジャパングランプリ見てると、ガードを低く構えて相手のパンチを全部よけて、「どうですすごいでしょ」って見せ場が多かったんだけど、テクニック的にはすごいし、観客ももっと沸いて良いぐらいすごかったんだけど、前にそういう試合をしていたブランコ=シカッティック選手(第1回K―1チャンピオン)がマイクベルナルド選手に不故意のバッティング二回されてまぶた切って血を流してドクターストップで負けてるのを見たことがあって、そのパターンになりそうだなと。K-1をテレビでやる際、血を流すのが絶対にダメらしいんですよ。TV放映を前提にしている以上、先に頭から血を流した方が負け。ってのはしょうがないルールだと思うのですが、今度武蔵選手がそんな負け方したら、三回目でしょう。試合の結果負けるならしょうがないと思うんですけど、不故意のバッティングとか不慮の事故とかそういう分けの分からない理由で負けるのは、観客が納得しないと思うんですよ。対アンディ=フグ戦で見せたノーガードで全部をよけきってしまう動体視力の良さもカッコ良いんですけど、不故意のバッティングや不慮の事故の可能性も考えたガードをする必要もあるのではないかと。対戦相手のファイトスタイルにもよると思うのですが、シリル=アビディ選手のような頭を前に突き出して突進してくるようなタイプの選手とあたると、不故意のバッティングは絶対に発生しますよ。一番分からないのはジャパングランプリ決勝で、ロープぎわに追い詰められた後、ラッシュ掛けてくる天田選手と体を入れ返るとき、両こぶしを下ろしてかなり頭前のめりでラッシュかける天田選手とすっとすれ違う。カッコイイのは認めるけど、あのときバッティングされて負けるパターンが今まで何回あったかと。すれ違うときガード上げてれば、10センチ近くまで寄った相手の顔にパンチの一発も入れてれば、バッティングの可能性も減るのではないかと。・・・ただなぁ、これもわかんないんだよなぁ。ガード下ろした方が強いとき多いもん武蔵選手の場合。視野の確保なのか、我流の構えの方がいらん力が抜けてリラックスした試合運びが出来るのかよく分からんけど。

逆に武蔵選手の勝ちパターンの話すると、左ミドルだけじゃなしに、ローにもハイにも体重乗ってることが前提なのですが、武蔵選手の左ミドルは危険だから注意、でもボクサー出身の選手からすると空手のローも要注意、でも軽量級相手にしたとき一番気をつけなきゃいけないのがハイキックと、注意すべきことが一杯ありすぎて攻撃に集中できなくなって、さらによけるのが上手い武蔵選手にパンチやキックがなかなか当たらなくて(ここで体当たり・肩タックル・バッティング・投げ・首相撲に走る選手も多い)精神的にすごくあせって、メンタル面で追い詰められて、最後、危険だって分かってるのに左ミドルをまともに受けて倒れる。ちゅうパターンに相手がハマると武蔵選手強いですね。

9/27 打撃系格闘技は敗北者達のゲームだ。いま、プロレスの格闘技化が進む中、U系・アルテメット系総合格闘技で勝利してる選手はみんなアマレス・柔道出身者なんだよね。サブミッション(間接技)を中心にした総合格闘技を目指したUWFってのは結局、「みんなでアマレスをしましょう」という内容になってしまった。プライドの決勝戦でボクシング出身の選手がアマレス出身の選手の頭をボコボコに殴って、頭蓋骨が変形したのじゃないかと思えるぐらいに血だるまの状態になったにも関わらず、マウントポジションを取ったアマレス出身選手が判定で優勝した。血だるまの選手が勝って、無傷の選手が負けるというのは素人には理解しがたい。理解しがたいのだがあえて理解を示そうとするとこういうことになる。アマレス出身選手が寝転がったボクサーの上に乗り張り付いたと。ボクサーは慌てて相手の頭をボコボコに殴ったが決定打(ノックアウト)が出なかった。アマレス選手があのまま、ボクサーのノドにでもひじを当てて体重を乗せれば相手を殺すことが出来る。格闘技ショーで人を殺すことは良くないから、殺せる状態にまで持っていった地点で、その選手の勝ちとする。ってなことじゃないかと。

間接技というのは相手にダメージを与えていない状態で、「このまま絞めると君は死ぬよ」とか「このまま関節外したら左腕が一生動かなくなるよ」と相手に負けを認めさせる技術だ。打撃系格闘技が血が出る骨が折れるといった素人目にも分かるダメージを相手に与えるのに対し、間接技は決定的なダメージ(殺せるとか、半身不随に出来る)を与える確実性を上げたところで試合が止まる。結果、間接技は相手にダメージを与えずに勝つことが多くなる。

生まれつき体が大きくてケンカの強かった人は、打撃系格闘技をやらないことが多い。幼い頃から体がでかく腕力があり、じゃれあってるだけで「弱い者イジメは良くない」「暴力は良くない」と大人達から注意されてきた人にとって、勝つために相手にダメージを与えなくてはならない打撃はある種のトラウマになる。マイク=ベルナルド選手は決定打を当てた相手がロープぎわでよろけると、突然ジャブしか打たなくなるし、プロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアント選手は「たまたま大きな体で生まれたという理由だけで、それをメシの種にしている」ってな内容の、プロレスラーであることを恥じている発言が妙に多い。バンタム級のボクサー、例えば辰吉選手などは、トレーニングによって強くなった、強さは努力の結果だという自負があるし、リング上でいくら人を殴ってもその結果相手が死ぬことはないはずだという確信もあると思う。これが、ベルナルドやアンドレになると、勝ち負けより先に、リングで人を殺してしまうのじゃないかという恐怖がまず先にきて、人を殴れなくなる。

間接技系の格闘技の方が打撃系より強いなら、そっちの方が見てて面白いかというとそうでもない。見世物としての格闘技って話になると、打撃系が中心になる。間接技は知識がないとどっちが勝ったのか分からないのに対して、打撃はどっちが殴られて、どっちが倒れて、どっちが立ち上がれなかったのかがはっきりしているため、知識がなくても楽しめる。

9/19 今日はじめて読んだけど、サイゾーおもろいね。IT産業に投資するベンチャーキャピタルの内幕暴露みたいな座談会で、IT関連企業について結局インフラ関係の企業が強いとの結論。インフラってカッコイイ外国語やけど、日本語で言うと「土木」ですか。国と自民党が面倒見てくれるしね。

9/15 オタクの定義の一つに「楽しい」を唯一の価値基準にする人。つうのがあって、オタキングと名乗る東大の学者さん=ガイナックス(アニメ会社)の元社長が唱えてるんだけど、その定義で行くと哲学オタクってのも存在して、当然哲学者とは異なってくるわけだ。

孔子と老子ってのでいくと、孔子ってのは儒学の一派である朱子学が江戸の官吏登用試験の主要科目であったように、大企業や国に雇われて官僚になって、無難に安泰な生活を送るために必要な実学なわけだ。人を殺してはいけませんとか、賄賂を受け取ってはいけませんとか、そういう当たり前のことを当たり前に説く、ある意味つまらないけれども実用的な学問なわけ。

対する老子ってのは、孔子の言った事にいちいちイチャモンを付けて、面白おかしく茶化していくわけ。例えば俺は学生時代掃除当番をサボって家に帰るときに「自分みたいにサボって家に帰る人間が居るから、真面目に掃除している人はほめられるんだぞ、みんな感謝しろよ」って挨拶して帰った事があるんだけど、そういうのが老子なわけだ。孔子の思想が官僚や官僚的会社員に支持されるのに対して、老子は冗談とかユーモア系の講談師とか落語家とか文化人系統の人に支持される。孔子は会社員・仕事、老子は学生・遊び。孔子が効率良く物を生産するシステム論・組織論に終始するのに対し、老子ってのは「物事を斜めに見るとこんなに面白いよ」とエンターテイメントを与えてくれる。西洋で言うとヘーゲルが孔子・官僚で、詭弁派哲学・懐疑派哲学は娯楽系やね。

俺は哲学オタクやから、哲学や思想やに面白さしか求めてないわけ。対する哲学者・思想家ってのは正しいかどうかを求めてくる。この場合の正しさとは、効率性だと言って良い。殺人はダメ、窃盗もダメ。何故?となったときに、殺人や窃盗を容認する社会より、殺人や窃盗を排除する社会の方がより効率的だという以外に根拠はないわけ。万引きを容認すると物を一から生産するより、盗む方が個人にとって効率的な選択になる。すべての個人がその方向へ走ると社会全体として効率の良い生産&消費を行えなくなる。道徳とか倫理の根拠ってその程度なんだけど。

柄谷行人って人の価値観には、おそらく面白いか面白くないかって判断は入ってないねんな。少なくとも思想・哲学に関して。オタクやなくって哲学者やねん。消費者じゃなくって生産者。「存在論的、郵便的」の文体で言うと、内容的には著者の思想なんて少しも入ってない。むしろ著者の考えや先入観を排除した上で、デリダについてなるべく客観的にデータを収集・分類してみました。という作りやねん。それって入門書、もしくはデータベースやん。だったら、いかに分かりやすく書くかが命だと思うんだけど、平気でアルファベットがガンガン出てくる。出典に洋書ってのはこの本では普通やし、本文にもアルファベットが出てくる。思想の流通業者=翻案者である浅田彰でさえ、外国語のカタカナ表記(リゾーム・ディコンストラクション)ってのはあったが、アルファベット表記ってのはなかった。翻訳者にとって、本来訳ってのは日本語で書かなければならないのだが、訳せない外国の専門用語をせめてカタカナで書き表すのが、最低限のプライドだったと思うわけだ。入門書を書いてる竹田青嗣さんの場合、出典に未邦訳のものは書かないし、読者が本文を読むときの助けになる本であれば、たとえ参照にはしてない入門書であっても出典に書くわけだ。もちろんそれが、学問的な研究書として正しい姿勢かといわれれば、そうわ思わない。ただ、入門書としてはすごく正しいと思うわけ。

すごく偏った例だけど、竹田青嗣は先生が生徒に物を教えるように書く。上の者が下の者にかみ砕いて教えるわけ。浅田さんは外国語のカタカナ表記が普通にガンガン出てきて、かつその語に対する説明文だの注釈だのがつかない。読者は自分と同じぐらい洋書をガンガン読んでるインテリであるはずだという前提がある。読者と書き手が横でつながった関係なわけ。して、「存在論的、郵便的」に関して思うのは、生徒が先生に対して提出するレポートみたいだなってことで。洋書から本文にいっぱい引用することによって、出典に洋書を羅列することによって、自分の読書量を先生に示すわけだ。もちろんなるべく客観的な書き方をしないと、自分の主観を示せるほど自分は先生に対して偉くないわけだ。先生=柄谷の名前を本文に出して、きちんとほめつつも、批判的な観点も持ち出して、後に先生とフレンドリーにコミュニケーション出来るよう論争のテーマも提示しておくわけだ。

クイックジャパン(以下QJ)の「オタクから遠く離れて」で著者のさんが書かれていたように、東さん自身もある程度オタクで、柄谷さんや浅田さんというスターと会ってコミュニケーションを取りたかった。そのための手段として硬い論文を書くという手段を使ったって話があって(もちろんQJではもっとソフトな表現が使われてるんだけど)。そう考えるとこの本は、柄谷と浅田に向けたファンレターなわけだ。いっけん文体らしい文体が存在しない文章、大学の論文調で書かれてはいるが、論文にしてはある一つの結論、新しい発見に向かって突き進む高揚感や目的意識が希薄だし、データベースと呼べるほど無機質でもなく目次が検索に適しているわけでなく、入門書と呼ぶには難解な専門用語がアルファベットのままで出てくるし、想定読者を想定しにくい作りになっている。著者のHPを見ると、誰に向けて何を伝えたいのかがはっきりしている文章の連続なのに、この本に限ってそれが見えないのだが。だが、ラストの方では、つまり批評空間での連載が終わる頃、編集者に嫌われても良いから好きなこと書いちゃえって時期には、著者の使いたかった文体ってのが鮮明に顔を出してて、もろ浅田彰なんだな。浅田の文体が持つ多幸感や高揚感を控えめにだけれども真似してるわけ。

批評空間での対談を見ると、浅田さんは色々理由はつけるんだけど生理レベルで東さんを嫌っているようにみえる。この辺・・と言うよりこの日記自体が俺の妄想で成り立ってんだけど、責任持って言い切ることはできんけど、浅田さんは自分の口真似をする奴が生理レベルで嫌いなんじゃないかな。現代思想オタクって、浅田さんの口真似から入るジャン。したとき、オタクは好きだから真似するんだけど、北島三郎でも五木ひろしでも自分の物まね見ると気分が悪いって言うジャン。オタクは思想をファッションとして消費するから、浅田ブランドの文体を自分でコーディネートして浅田の服着た自分を鏡でみたり、人にその服自慢したりするけど、コーディネーター気取りのオタクは俺のチョイスは光ってるとか思ってんだけど、その服デザインしたデザイナーは「お前みたいなオタクに俺の服着て欲しくねぇーよ」とか思ってんじゃないのかな。

さらに妄想広げると(笑)、「柄谷に対しては尊敬で接するオタクがなんで自分に対してはアイドル視で友達感覚なんだよ」とか、思ってないかな。オタクは先生が生徒に物教えるみたいに接する文体より、友達同士のおしゃべり感覚で、仲間内でしか通用しない用語を駆使してしゃべる浅田彰に、対談で自分の好きな芸能人(建築家とか美術評論家とか思想家とかハイカルチャーに限られるんだけど)に会って、インタビューしまくってる浅田に、「俺達と同じ追っかけジャン」と思い、バタイユの話になると嬉々としてしまう浅田に、「俺達と同じ芸能人好きのミーハージャン」と思い、浅田彰=オタク界のスターを感じてしまっていたのは、実は間違いだったのじゃないかと。デリダが面白さを追求する懐疑派哲学のスターだったのに、アメリカに渡り英語で論文を書くようになって、実用性へ目的が移っていったように、浅田も、面白いことのみを追いかける年齢を過ぎて、思想の実用性・有効性を考える位置に来てしまってるのかもしれない。

で、この暴言には続きがあって、宮台(社会学者)さんをどうしても好きになれなくってですね。あるエロ本の対談コーナーで「自分の頭で思考し決断するシステム」だの「多様な選択肢を示す社会」だのを説いていて、その違和感がやっと自覚できたんですね。

宮台さんに不信感を持った最初のきっかけは「朝まで生TV」で自分の発言に対して、他のパネラーが答えようとしているのをさえぎって、「私は西部さんと話したいのです」と、言ってからやねんな。西部邁ってのは、典型的な面白さ追求型の思想家で、実用性を追求する人には割りと嫌われるタイプで、かつTVのShowUpされた討論番組ではすごく有能な人なんで、プロレスラーで言うと藤波辰巳。この人と対戦するとどんな無能な人でも名試合になるという、相手を立てて自分の持ち味も出し、娯楽としてきちんと観れる物に仕上げる職人さんなんです。藤波辰巳と試合したら、まったくのド素人がリングの上に立ってるだけでも、走ってきて肩の上に乗って一人で肩の上から落ちていかにもブレーンバスターで投げられたかのような態度を取ってくれますよね。西部ってそういうショーの天才なんです。無能な人と論争しても白熱したショーに仕上げられる人としか論争をしないのは、私は無能ですと言ってるようなもんだと見えたんですね。つまり、橋本真也が復帰第1戦に藤波を希望するのは、「私に楽させて下さい」と言ってるようなもんなんですよ。中西と言う無名だけど強い新人と戦うのを避けて、有名でなおかつ自分を立ててくれる人を対戦相手に選ぶのは、楽してるとしか言いようがない。

もともと俺、「批評する精神」とか「ニヒリズムを越えて」辺りの西部邁好きで、その辺から入ってるんだけど、西部さんってのは、自分の言いたい事を相手に言わせるプロなんですよ。形の上で対立している論争相手に、自分の言いたい事を言わせるには、自分は自分の言いたいことと逆のことを言わなければなりません。相手は必ずしも自分の思いどおりに動いてくれません。でも最後にはちゃんと帳尻合わせるんですよ。

人間関係がまずくならないようにまず相手をほめるところから入ります。「私はあなたの大ファンなんですよ」次に論争相手の「ここが弱いな。説明不足だったな」というところを突つきます。「あなたの思想のこういうところが好きなんですよ」そういうときの西部は相手の思想の間違ってる部分、説明不足な部分の拡大再生産をしています。誤解されていると思った論争相手はすぐさまその説明に反論します。西部はさらにその説明の弱いところを拡大再生産します。これの繰り返しで論争は続きます。では、なぜ始めっから論争相手は自分の思想を1から10まで説明しないのでしょうか?TVでは難しい話を1人の人が延々3分もしゃべることは出来ません。難しい本を一冊読むのに最低2時間はかかります。でも、その内容をTVでは30秒でしゃべらなくてはなりません。当然説明不足の部分も出てくるでしょう。そのパネラーの「もう少ししゃべりたいな」という表情、観客の「もう少しちゃんと聞きたいな」という表情を見逃さないのが西部さんなのです。「もう少ししゃべっても良いですよ」なんて言うと視聴者はチャンネルを変えますが、「あなたの思想のここがおかしい」ってな言い方をすれば、もしくはその思想を明らかに変な風に解釈して「こういうことですね」と突き付ければ、白熱した論争という形になるので、見世物としての緊張感を持続したまま、もう少し同じテーマでしゃべることが出来るわけです。

やっかいなのは西部の本で、これもまた論争形式になっている。「ニヒリズムを越えて」のチェスタートン論は浅田=ドゥルーズ経由のニーチェ主義に対する反論だということが分からなければ、何を言ってるのかさっぱり分からない変な論文になってしまう。西部は著書の中で明らかに間違ったことを書くことがある。おかしな事を書く事で、読者に不快感を与え、読者が著作へ反論する状態を生み出す。西部が本当に伝えたかったとこは、事実と逆のことが書かれ、不快感から形成された読者側からの反論という形でしばしば実現される。西部は知っているのだ。人は自分で下した判断しか実行しないということを。他人が示した正しい答えは理解できても、その答えを自分の判断として実行するとこまでは行けないんだよね。

宮台は正しい答えを僕達に与えてくれる。「自分の頭で思考し決断するシステムが必要だ」とか「多様な選択肢を示す社会が必要だ」とか。宮台は自分の言ってる内容と伝える方法=文体について、どう考えているのだろうか?自分の頭で思考し決断するシステムが必要なら、そういうシステムが必要だという答えを周囲が提出してはいけないのではないか?宮台が正しい答えを提出することで、提出された側が判断し決断する機会はさらに減るのではないか?多様な選択肢を示す社会が必要だという、唯一の正しい答えは画一的ではないのか?宮台の出す答えにはいつも共感しているのだが、どうしても好きになれなかった違和感の理由が、その答えを提示する方法が、先ほど共感した内容と常にズレていることから来ていた。芸としてみたときどうしても、西部の方が何枚も上手にみえてしまう。

言葉について言葉で書くということは、今回のように自己言及的な失敗に陥ることが多い。「存在論的、郵便的」の元ネタになった「構造と力」は程度の低い文学的テクスト派を撲滅するために書かれたものだ。「存在論的、郵便的」もその辺りを踏まえ、なるべく理論的にやろうとしてる。そして今回の自分も理論的にやろうとしたのだけれど、分かりやすく具体例を示しながら書こうとするとどうしても文学的でレベルの低いテクスト派になってしまう。いや、80年代初頭のテクスト派がダメだってのは分かってるんだけど、どうしてもそこを踏まえようとするし、踏まえたところで満足して終わってしまったりもするんだなこれが。

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