HP管理者日記17

4/6 地上に人口10人しか人がいなかったとして、10人分の生活必需品を5人の労働力で作れてしまったとしよう。すると5人分の雇用しか発生しないわけだ。雇用されない残り5人は失業するし、給料ももらえないし、生活必需品も買えない。すると5人は餓死するかもしれない。そうすると、人口は5人になる。1人で2人分の生活必需品を作れる計算だと、5人分の生活必需品を作るのに2.5人いれば十分だから、最低でも2人は失業する計算になる。

生産力には常に剰余があるのだという前提で、物を考える。これはいまの時代が豊かだとかいう問題ではない。インドのカースト制度では、机の上を拭く人と机の下を拭く人は別の人間になる。主人が机からぺんを落としてしまったとして、机の下のペンを自分でひろってはならない。それは別のカーストの人間がやる仕事であり、自分で机の下の仕事をやることは、そのカーストの職を奪ってしまうことになるからだ。カースト制度の歴史の古さを考えれば、昔から生産力は常に剰余しており、ワークシェアリングは昔からあったといえる。カースト制度と似た過剰な分業制、生産効率を落としているとしか思えない分業制度は日本の平安時代の貴族社会にもあった。古代から生産力は剰余しておりじゃなきゃ働かない赤ちゃんを育てるなんてことは出来なかった。

余った生産力は失業率という形で主として若者達の間で生まれる。学校を出てすぐの人間と、同じ会社に二十年勤めている人間では、二十年勤めている人間の契約を優先させるのが普通だろう。エネルギッシュな若年層の失業は、犯罪やデモや政権批判に繋がるため、ときとして戦争を行い内政批判を外部へ向けようと政府はする。余った生産力の消費をどう行うかを真面目に考えなければ、国は戦争に走り、個人は犯罪に走る。生産効率をいかに上げるかという近代経済学とは別に、余った労働力をどう使うのかという経済学も必要である。自分の解釈ではバタイユはそういうことを考えたのだと思う。

ワークシェアリングと言ったときに、古代人達のように酋長の周りにお付きの者が何十人もいて、執事一人に身辺警護二人に、酋長専用のシェフ五人、移動用の車を引く力仕事二人に、ヘアメイク担当、メイク担当、衣装担当のファッションコーディネーターと、ご機嫌取りの道化師一人にってもの、ハリウッドではありかもしれないけれども、生産効率を無駄に落としているし平等性に欠ける。1/27の日記で書いた、ヨーロッパ型の週休二日で八時間労働の厳守みたいな話は単に労働効率を落して、仕事をわけあってるだけに見えるかもしれないが、余暇の時間が増えることで、レジャーや旅行産業といった内需が拡大し、GNPが増えるという面もあるし、地域のコミュニティーやボランティア活動の活性化という面もある。余暇の時間を生涯学習に当てられるため旧産業から新産業への人材の移動もたやすくなる。個人的に一番大きいと思うのは、新産業・新商品立ち上げの原動力になるという部分だ。労働時間が制限されるのは雇われている側の話であって、創業者や経営者やボランティアは制限されない。新商品の開発や新規産業の立ち上げは短期的にみれば、プラスにならないし赤字なわけじゃん。その会社が作ってきた物の延長線上にある商品だったら四半期ごとの決算でも黒字になるかも知れないけど、会社がいままでやったことがない分野に打って出るとか、テレビゲームなんてなかったような時代にファミコンを開発していたような人達って、読めないわけじゃん?他社のこの商品がこのぐらい売れているからその類似品である自社の商品もその半分ぐらいは売れるだろうとか言えないわけじゃん。でも、そういう前例のない経済活動ってをやろうとしたら、ある程度の時間的経済的余裕が必要なのだけれども、八時間働いて・八時間寝て・八時間は自分の時間という考え方は、一日八時間はすぐには黒字にならないかもしれない新産業や新商品の開発に労力を注げるってことなわけです。それが長期的に見たときに経済の活性化に繋がるのじゃないかという見方もあるわけです。

ヒッピーの人達が、2・3年会社にいて現場を学んで、その後2・3年途上国ヘ行って、ボランティアやってて、その後会社に戻って来てずっと会社にいた同期よりも上のサラリーやポジションを要求するってのも、あの人達の発想とすれば、俺は途上国ヘ行って現地のパイプや販路を持ってると、我が社が扱っている商品がまだ一歩も入ってない場所で商売が出来るわけだから、**業界としてはA国のシェアを100%独占出来ると。ずっと会社の中にいて言われた仕事をやっているだけの奴とは違うんだという話ですね。だから、まったくの無茶苦茶を言ってるわけでもないと。ベビーブーマー世代の途上国に行くは今でいう経営学修士を取るみたいなものだと思うのです。会社というのは現場の仕事は平社員がやるとして、新人の平には難しいようなイレギュラー仕事の質問を受けて教えてやる先輩格が係長だとして、課長は現場の人材管理、いつまでにどの仕事をいくらの予算で終わらせてという人と時間と金を管理する仕事だとすれば、部長ってのはその会社がいままで参入してなかった新規事業部を立ち上げて黒字にまで持っていく仕事で、社長ってのが会社の創業者だとすると、部長以上の人間には自分でマーケットを作り出す意識が必要になる。上記のヒッピーの話で言えば、現場の仕事学んだ後は途上国で販路とマーケットを作ったから、部長職用意しろという話なんだろな。

百人規模の会社の社長を見てると、鋭い感じの人ってのが少なくて、丸っこくってどちらかというと鈍い感じの人が多い。その下には鋭くて頭のキレが良い人が3・4人いたりするのだけれども、そういう人はたいてい百人規模の会社の長にはいない。不謹慎だけどオウム真理教の教祖なんかは丸くて鈍い感じの社長に見える。その下にいた上祐・早川・青山の方が鋭くて頭が良くて行動力もあるように見える。プロレス団体のZERO-ONEの橋本選手と小川選手の関係を見てもそうだ。小川選手の方が鋭くて知恵も力も上のように思えるが、社内のポジションは橋本選手の方が上だ。百人規模の会社や団体を維持するのにだいたい鋭くてカリスマ性のある人が3〜4人必要だったりする。新規開拓の営業に一人、商品開発に一人、業務に一人、経理に一人。鋭くてカリスマ性のあるそういう人達は、下に二〜三十人の部下を抱えていて、人望もそれなりにあって、面倒見も良かったりする。した時に、丸くて鈍い感じの社長いらねぇーじゃん、鋭い感じの人だけで良いんじゃねぇ―の?と思わなくもないが、鋭い感じの人は鋭い感じの人同士で口を利くと妙にとげとげしかったり、よそよそしかったりする。鋭い感じの人は、受験エリートだったりするので、何をやっても能力が高く、人の面倒見も良いのだが、自分と同じかそれ以上に能力のある人間に対しては、ライバル・敵という見方をしてしまって、無意識の内に蹴落とそうとしてたりする。常に自分がお山の大将でなければ安心できないのだ。百人規模の組織を運営するには、そういう鋭い人が3〜4人必要で、かつ鋭い人同士は直で口を効くことが出来ない。丸くて鈍い感じの社長というのはそういう人達のパイプ役というか、潤滑油になる。人にコンプレックスを与えないよう能力の低さ、謙虚さを前面に出し、誰にでも頭を下げる。以前、「リングの魂」というウッチャンナンチャンの南原司会のプロレス番組で、橋本真也選手がやたら南原にペコペコしてて、「今の私があるのは南原さんのおかげです」ぐらいのことを言うんですよ。客観的に見ればいまの橋本選手があるのはナンチャンのおかげではないんだけど、そうやって誰にでも頭を下げれるからこそ、プライドが高くて鋭い感じの長州選手がZERO-ONEに出たりするわけで、人をほめることで自分より能力のある人を自分の下で使えるわけだ。ちなみに百人規模の長でなくて、千人規模とかになるとまた違うタイプの人になるんだろうけど、それはそれとして。実際自分より能力のある人を自分の下で使うって結構難しいわけで、人前で「ここはこうじゃないですか」みたいな意見をズバズバ言ってきて、いや、筋は通ってるんだけど、そういうのは周りに人がいないときに言ってくれないと俺の立場がないじゃんとか、色々あると思うんだ。人に頭下げるにしてもいかにも打算的に見えるのが嫌な場合、打算的じゃなく頭を下げるにはどうすれば良いかなんて考え出すと難しい。

打算で頭を下げるのは俺も出来るし、簡単だけど、打算に少なくとも外見上見えないように頭を下げるにはどうすれば良いのか?選挙期間中の政治家や西川きよしさんのように、会う人会う人片っ端から頭を下げてかつそれが打算に見えない人ってはいて、何故それが出来るのか、すげー考えたんだけど。鋭い感じの人は自分より能力が低い人には頭を下げたりほめたり叱ったり面倒みたりできるけど、自分と同等かそれ以上の人には無意識レベルで蹴落とそうとしている。他人を蹴落とそうとする人の持ってる仕事に対するイメージは、限られたパイをみんなで奪い合うイメージだと思う。対する誰にでも頭を下げられる人ってのは、自分が生み出したマーケットなり商品なりがあって、それを外に広げて行くイメージなんだと感じる。仮に世界で一番始めにラーメンを発明した人がいたとして、最初は変な食い物だとしか思われないわけで、ラーメンのマーケットはゼロだ。それを徐々に浸透させていく中で、誰かが自分の真似をしてラーメンを販売し出したと。自分の真似をした誰かに対して俺のパイを奪うなと怒るのではなく、俺の発明品を外に広げて行ってくれているのだと感謝する。そういうイメージで仕事をしているのだろう。上の話で言えば、課長までは上から与えられた既存のマーケット上でパイを分け合っているイメージだが、部長以上の仕事になると、自分で新しい市場を生み出して行けなくては仕事にならない。

つうか、こんな生々しい話をするつもりじゃなかったんだけど、そうなってしまった。

仮に人は生まれてくるときに何か一つ使命を持って生まれて来ていたとして、「スプーンを曲げる超能力」のみを持って、それ以外のあらゆる能力は人より劣っている人がいたとして、その人は何のために生まれてきたのだろう?

言いたいことはあるが、それを伝える適切な形式がこれではないと感じている。都内某所で、レンタルビデオを扱うTUTAYAっぽい店で、CDレンタルやビデオレンタル、ゲームソフト販売と一緒に、漫画やハードカバー本(綿矢りさ&芥川賞受賞作&世界の中心で愛を叫ぶ&DeepLove‐‐アユの物語)がレンタルで置いてあった。ラインナップはベタな売れ線オンリーだがまあ、経営的にはそうれも仕方ないだろう。貸本制度に関しては自分もメルマガで書いてて、あのあとすぐぐらいに、いまの零細貸し本屋を守りつつ、大手も出版社に印税を払うことで、貸し本業界に参入出来るような法制度が出来たので、ちょっと嬉しい。世間とつながってるような気がした。

図書館で天球の音楽という本をパラパラっと見た。オザケンの「球体の奏でる音楽」と少しかぶるタイトルで、ヨーロッパのオカルトの源泉中の源泉ピタゴラス学派に関する本だ。西洋でオカルトでないものの典型が図像的には十字架、十字路・クロスロードオンザコーナーという感じになる。それに対してオカルトの典型的図像が、正三角形・円になるという話で、日記の別の日付で円はピタゴラスから来てないのじゃないかと思ったら円もピタゴラスから来ているっぽいですね。面白いのが、ユダヤ教とピタゴラスの関係で、ピタゴラスもその弟子も本を残してないので、ピタゴラス学派の文献によればという話しかできないのですが、上記の本によると若い頃エジプトへも旅をしているピタゴラスはモーゼに会っていたのじゃないかという話もある。当時ギリシャでは、ギリシャ神話的な多神教が多数を占めていて、一神教というのは珍しかったのに、ピタゴラスは一神教らしき物を唱えていたとか、ピタゴラス学派の残した図像をみると明らかにユダヤ教のダビデの星だよなという図像もある。

3/31〜4/1にNetskyというウィルスにかかってました。結果、ウィルスが勝手に私のメアドでウィルスをばら撒いてました。私がわざとやっていたわけでないとは言え、迷惑をかけた方、ごめんなさい。m(___)mその後一度解決しましたが。

4/4〜4/5に掛けても、私名義のウィルスメールがあちこちにメールを出して、先方のファイヤーウォールに引っかかって、リターンで私のところへ戻って来てたんですね。また、ウィルスかと思って、色々調べたのですが、どうもそうではないと。リターンパスを私のメールアドレスに設定して、ウィルスを送っているのが、メールのヘッダーから分かったので、ipアドレスサーチでどこから送っているのか調べたんですね。そしたら、株式会社**さんの千葉の市川市のサーバーから送ってるの(笑)メチャ近所。サーバーの責任者にメール送ったのですが、メール送る前の、IPサーチ地点でウィルスメールが来なくなった。外から侵入して、そこまで調べてるのかい!つう状態です。迷惑を掛けた方ごめんなさい。

ゲイターコーポレーションのスパイウエアが、OSが起動し終わるより早く起動してネットにアクセスしようとしてたり、ややこしいことになってます。興味のある人は、「スパイウエア」か「Gator Corporation」で検索して下さい。ファイアーウォール一応入れたのですが、ものすごい勢い(5秒に一回ぐらいのペースで)で外から侵入しようとされていることが判明。履歴は取ってるので、誰がどこから入ろうとしているのかは調べられるのですが、すごく面倒臭いです。私のような素人が常時接続なんかするなってことですね(泣)。

Netsky.Qは04/3/29に発見されたらしいので、アンチウィルスソフトを更新をしないと見つけられません。IE5.01とIE5.5の人は添付ファイルを開かなくても感染するそうです。最悪です。

3/13 1970年代気分を味わいたくて「小さな恋のメロディ」(’71)を観る。小沢健二はビートルズに関して「偉大だけど好きじゃない」と言っていて、その理由に関して、親の世代が好きだったものを子供の頃って嫌いじゃない?と言っていた。俺にとって、「小さな恋のメロディ」やピーターポール&マリーやビージーズがそういった対象で、カレッジフォークを避けてチャック・ベリーやジェリー・リー・ルイスに行ったところがある。でも、この歳になると、やっぱ良いものは良いと分かるわけで、小さな恋のメロディーが日本の少女漫画やドラマに与えた影響てのは計り知れないし、ネオアコ聴くならまずここも踏まえなきゃと思う。ドラマで言うと「俺たちの旅」(’75)「ゆうひが丘の総理大臣」(’78)辺りは、音楽・映像・ストーリーともかなり真似ている。ベル&セバスチャンのプロモビデオがまんま小さな恋のメロディだったり、少女漫画でいうとギムナジューム・学生寮フェチからヤオイ・ホモ漫画への流れにどこかしら影響を与えていると思う。

2/16 メモ的に。レンタルビデオ店で勤めているが扱う商品の半分はアダルトだ。人妻や近親相姦と言ったジャンルコーナーもある。若くてきれいな女の子の出てるビデオを借りて行くというのは分かりやすいが、おばちゃん物や近親相姦は何故借りて行くのか正直分かりにくい。そして、意外にそれらの商品を借りていく年配の男性は多い。しかし私も30になり、徐々にそれらを借りてゆく人の気持ちも分かるようになってきた。

実際、80歳のご老人が「五十路」というタイトルのシリーズを借りてゆくのだが、これなどは相対的にみれば自分の子供にあたる年令の女性が脱いでいるビデオなわけで、老け専ともロリコンとも言いがたい。幼稚園に通っていた頃は、自分の2倍ほどの身長もある小学校高学年や中学生のお姉さん達は大人びて見えたが、30になってみれば子供にしか見えない。

昔憧れていたクラスメートが結婚した苗字が変わった出産したなんて話が噂として流れてくることはある。もう十何年も会ってないので、自分の知ってるその子は中学高校のときのままだったりする。今のその子の姿など想像もできないが、それなりの動揺を覚えつつ街を徘徊していると気がつけば、レンタルビデオ店の人妻コーナーにいて、「いや、違う。そうじゃなくて」と思ったりする。

近親相姦もので多いのは、母と息子という設定だ。父と娘は意外に少ない。近親相姦を借りて行く人の気持ちでずっと分からなかったのは鑑賞者がどの立ち位置で鑑賞しているかだ。近親物で一番多い母と息子の場合、自分が息子の立場から母とやっているのを想像するのか、自分が夫の立場から、妻が息子とやっているのを想像して興奮するのか?これは私の長期に渡る疑問であった。借りていくのは主として40〜50代。自分が息子の立場で母とというには少し無理のある年令だ。また、自分の妻が他の男性とやっているのを想像して興奮するのは分かるとしても、それが息子である必要がどこにあるのか。問題の根は深い。

セックスレスの夫に関する記事があった。結婚して3年〜5年ほど経つと、男性の中には妻とセックスできない人が出てくるらしい。妻以外の女性とは出来るのだから肉体的な問題ではない。また、妻を愛していないわけでもない。他人であった女性が親族になったことで、母親や女兄弟や娘に対するのと同じような感情が妻に対しても発生しセックスするのが汚らわしいと感じるのだという。これは精神病の一種だから夫婦で精神科に行ってカウンセリングを受けるのが必要だと記事では締められていた。

結婚し、長年連れ添い、自分も相手も歳を重ねて行く中で、幼児期にみた自分の母親、自分の知っている一番若い母親と妻が年齢的にも、肉体的にも、内面的にも似てくる、かぶってくるというのは想像に難くない。出産や育児といった通過儀礼を通して形成される役割や内面が類似して行くのだ。育児や近所づきあいに関して発生する悩みや愚痴がかつて母から聞いたものと同じなのだ。近親相姦ものを借りて行く男性の中で、妻=母という精神病一歩手前の心理が形成されていることも想像に難くない。もちろん、女性からすれば失礼極まりない話ではあるが。

オカルトに興味がある。どちらかというと私は大槻教授的なメンタリティーの人間なので、オカルトを馬鹿にしてきたところがあるが、オカルトと言われている世界の中で名著や古典と言われている本の扱っている対象が、宗教・哲学・民話であることが分かり出して、面白くなってきた。アイレスター・クローリーという自称黒魔術師は、ヨーロッパに生まれ、若い頃にユーラシア大陸を横断してインドや中国の宗教・民話・占いに関する情報を集め、ヨーロッパに紹介した。やっていることは文化人類学に近い。ただ著作は学術的な体裁になっておらず、同じユーラシアの民話を収集したものであればウラジミール・プロップの方が学術的価値を評価されている。クローリーはどこかの遠い国の過激で奇妙な風習を面白おかしく紹介するから興味本位でみてくれという見せ方を意図的にしている。

広い意味でオカルトというと、自分が信じる宗教以外の宗教は全部オカルトになる。極端な話、プロテスタントにとってカトリックはオカルトであり、カトリックにとってプロテスタントはオカルトだ。欧米においてオカルトでないものの典型といえば、キリスト教であり、図像的には十字架になる。対するオカルトの典型である黒魔術は、十字架に対して円や正三角形という図像が用いられる。キリスト教の元になっているユダヤ教では聖なる形は正三角形を二つ重ねた六芒星だ。正三角形はピタゴラス学派によって聖なる形だとされ、ピタゴラスはプラトン・ソクラテスにも影響を与える哲学者の一人だ。正三角形を聖なる形だとするのは、和音を形成する琴の形から来ている。ピタゴラス音階で和音を形成するには弦の長さが、1:2、1:3、1:4となってゆく。そのような比の琴を作れば自然と正三角形型の琴になる。木琴や鉄琴が二等辺三角形の形をしているのと似ている。

円を聖なる形として用いるのはクザーヌスの思想を思わせる。無限の大きさを持つ円は無限の大きさを持つ直線と同じであり、円と直線を対立する別のものだと感じるのは人間が有限だからである。無限の大きさを持つ神にとって対立は存在しないとする弁証法的神秘哲学だ。

オカルトは正統とされるキリスト教以外の宗教全てを指すが、宣教師が布教のため遠方の非キリスト教圏に住むとき、その土地土地のお祭りや風習を取り入れてゆく。ヨーロッパにあるキリスト教の教会にとって、どこまでが正統でどこからがオカルトかというのは難しい問題だ。地元の風習や習俗を取り入れずにキリスト教を根付かせることが困難である以上、どこまでが正統でどこからが異端かとデジタルには言いにくい。例えば、クリスマスも元々はキリスト教とは無縁の地元のお祭りであったという説もある。権力闘争に勝った側の歴史が正史であるなら、オカルトは敗れた側の歴史だ。

最近のオカルトの専門用語で、リーディングやヒーリングという言葉をよく聞く。リーディングとは占いのことで、タロットリーディングなどという使われ方をする。未来や運命を読み取るというイメージなのだろう。ヒーリングは癒しなどと訳されて、割りとあやしいイメージがあるのだが、内実をみるとそれほどあやしくない。たいていは、指圧や鍼やお灸や整体を意味したりする。いわゆる東洋医学だが、西洋経由で、しかも自称黒魔術師経由で、みると未開の地にある怪しげな魔術に見えたりする。未開の地にある怪しげな魔術の中身がマッサージだから落ちとしてはチープだ。他によくあるヒーリングとして、精神分析系のカウンセリングや香料を使ったアロマテラピーやサウナ・温泉治療などがある。サウナや温泉治療は正当な西洋医学以外の治療という意味で、東洋医学や民間療法に入れてしまっても構わないし、精神分析系のカウンセリングも、ピンキリではあるが、ちゃんとした医療の一つなのだろう。ヒーリング系の中で一個、これだけはあやしいだろうというのがあって、日本産のヒーリングで霊気(reiki)と言われるものがある。いわゆる真光系の新興宗教から発生したと思われる手かざしだ。霊気治療の資格云々をみても非常にあやしい。あやしいだけに騙されるのを覚悟で受けてみたいとも思う。

1/27 下の日記でシンプルなことを言おうとしたのにこんがらがってしまった。第二次大戦が終わったのが1945年。米国のベビーブーマー(1946‐1964)誕生。ベトナム戦争(1960−1975)。Be-in1967。ウッドストック1969。セカンドサマーオブラブ1989。ベビーブーマーの結婚&出産(1970-1980)。第二次ベビーブーマー誕生(1970-80)。X世代・新人類=第一次ブーマーと第二次ブーマーの谷間の世代。

ベビーブーマというのは、戦争が終わって戦地から戻ってきた若者達が本土の女性と結婚してできた子供達で、戦争直後は出生率が上がるため、そこだけ人が多いと。その人口的に多いブーマーが新卒になる頃、急に求職者が増えて、若年層の失業者が社会問題になる。若くて行動力のある若者がデモや犯罪に走ると政府としては困るため、若者達の不満を内政から外に向けさせるために戦争をする。士族の子供達の不満を外にそらすために戦争を展開しようとした西郷隆盛の征韓論など典型ですが、戦争というのは常にこういう形で行われて行く。日米のブーマー世代が大学生になる頃、学園紛争が起きて、ベトナム戦争に突入して行くというのは、偶然ではないわけです。戦争は、若者達に軍人としての職と給与を与えます。戦場では遊ぶ場所もないですし、生活に必要なものは政府から支給されますから、必然的に金は貯まる。戦場から帰って来たら、2・3ヶ月は働かなくても食えるぐらいの貯金は貯まっている。つまり、若者向け公共事業の要素もあるわけです。半年とか数ヶ月戦場に行って、戻ってきた若者達は、過酷な環境から帰ってきたわけだしすぐに就職しようとせずに、取りあえずはしばらくのんびり遊んで、それから就職活動をしようという感じになります。学生や徴兵からの帰還兵といった少し時間とお金に余裕のある若者が大量発生するところから、ウッドストックの成功も生まれるわけです。

ところがですね。元々、不景気で職が無いから、政府は若者を戦場につれて行ったのに、戻って来て若者に職があるかというとない。既存の会社に雇用がないから戦争をはじめた。戦争から帰っても雇用はない。だったら自分達で会社を始めようという話になる。金はないけど、暇と労力ならある若者達が、何か楽しいことをやろうとして、空き地にロックバンド呼んで、警備や会場の交通整理は自分達でボランティアでやって、入場無料のフリーコンサートをやっても良いし、お金が儲かればどっかに寄付しても良いしという感じで、ウッドストックみたいなことやったり、フェスティバルやったり、イベント企画やったり、絵を描いたり、音楽やったり、演劇やったりして、カウンターカルチャーが生まれると。またそういったカウンターカルチャーを取り上げる雑誌というのも、ブーマー世代の若いヒッピー達が作りだすと。最初のうちは、親からの仕送りで食ってる学生や多少蓄えのある帰還兵がやってるから、人件費ゼロでそういうことを始めるんだけど、徐々に、人件費ゼロでそういうことを続けて行くことが出来なくなる。自分が面白いと思うことをやりたいという初期衝動が回数を重ねるごとに減って行くのもあるだろうし、ビジネスにならないと思っていたロックがビジネスになり出すと、ノーギャラで演奏してくれといっても中々受け入れてもらえなくなるし、空き地での演奏に政府が介入して来て、許可申請だの会場代だのといった話になって来る。続けて行くための運営費が徐々に必要になってきて、最後はその金の流れが非常にシステマチックになって、一般企業と変わらなくなる。

この大雑把な流れを、政治闘争→文化闘争→経済闘争という流れで、三つの時代に別けたい。雑誌をみると、宝島やアースホールカタログでは、1970年代、インフラがない場所で如何に生きるのかというマニュアルになっている。戦争のイメージとして、戦闘機に乗って爆弾を落して、核ミサイルのスイッチを押してというイメージもある。が、それは正しい戦争ではない。侵略戦争のイメージだ。自国の領土内で戦争になったとき、空爆をするか核ミサイルを落すかというと落さない。ロシアがナポレオンやヒットラーと闘ったとき、自国の都市に火を放って、都市のインフラを破壊した。電気ガス水道といったインフラがない都市というのは侵略しても利用価値がない。略奪すべき物もなければ、奴隷のように従順に働いてくれる植民地の住民もいない。ゲリラとして抵抗しつづける住民と機能が麻痺した都市では、ビジネスとして戦争を考えたとき、そこに投下する資本、軍需物資や労働力と、そこから得られる経済的メリット、プランテーションとしての安価な労働力が折り合わないわけです。それでもそのインフラがない土地に住み続ける人間が最終的にその土地の住民となり、住民としての権利を獲得して行くわけです。インフラがなく、治安も悪い場所に住み続けるのが戦争なんだというイメージで戦争をみたとき、野宿の仕方や野草の食べ方や暴漢に襲われたときの対処法を書いた宝島やアースホールカタログは、ヒッピーマニュアルであると同時に戦争マニュアルでもあるわけです。ヒッピーの住みかをコミューンと呼び、軍隊での共同生活をコミューンと呼び、大学での寮生活や合宿生活をコミューンと呼ぶとき、彼らはコミューン主義・コミュニズム・共産主義体制の中で生活しているわけです。

ヒッピー達の芸術家村みたいな場所で、みんなが好き勝手に絵を描いたり楽器を演奏したりして、仲間内で人気者になっていく奴が出る。仲間内のスターを紹介する雑誌も出来る。こいつ絵が上手いんだよ、こいつギターが上手いんだよ。でもそれがビジネスになり出すと、芸能事務所がそういう人達を囲いだしたりして、記事にしても「なんで、うちの**の写真が他の事務所の++より小さいんだ」とか、クレームがいっぱいきて、紹介文が書けなくなっていく。聞いた話によると、アブダビコンバットの記事を書こうとしたら、色んな挌闘団体・プロレス団体の選手が一堂に集まる中で、挌闘団体名を羅列するだけでも、どの挌闘団体名が先かとか、どの選手名が先かとかでもめるらしいし、音楽記事にしても、「バラードとかロックとかダンスミュージックとか、ジャンル名を表記しないでくれ。表記されるとそのジャンルが嫌いな人はこのCDを買わないだろ」とクレームが来たりとか、あきらかにベストアルバムでも「ベストアルバムと書くと、それ以外に良い曲がないみたいだからベストとは表記せずに**(ミュージシャン名)コレクションにしてくれ」とか色々あるらしい。最後はクレーム処理の煩雑なライターの書き原稿がなくなって、インタビューだけになっていく。本人が言っているんだからクレームは来ないだろうという話だ。

インタビューでも面白いインタビューであれば全然構わないんだけど、アメリカの雑誌で言葉のプロじゃないスポーツ選手のインタビューで、見開き左一ページ写真で、右一ページインタビューで、そのインタビューの半分は、打率だの防御率だのといった数値的データで、残り半分は、スポーツ選手のファンに対してのあいさつ「みんなありがとう」とか「応援して下さい」のみ、言葉のプロであるスポーツライターが書いた書き原稿は、どの選手の走塁が何故どのように感動的かとか、誰のピッチングがどのように観ている人の心を打つかとか書いてくれるのに、それが感情を動かさない数字上のデータとプロフィールとあいさつしか載らなくて、ページめくると、スポーツ選手の次は脚本家のインタビューでその次は政治家で、その次はコメディアンとか何の脈略もないただの有名人名鑑になっていたりする。その人選も広告費を払ったか払ってないかになってくると、ビジネスとしてシステマチック過ぎて面白い記事に出会いようがなくなってたりする。

インパクションで海老坂武さんは文化闘争の重要性を語っていて、私もそれに共感するわけです。学生時代色んなカウンターカルチャーを生み出したり、観客としてカウンターカルチャーに参加したりしていた人達が、就職すると会社一本になって文化的なことを忘れてしまうと。現実問題として、就職したら新入社員のときは終電ギリギリまで働かされて、結婚したら家帰って家庭サービスもしなきゃいけないしでライブハウスで音楽聴いたり演奏したりなんてやってられないわけです。ただ、そのカウンターカルチャーを作ってきたブーマー世代がそろそろ退職しはじめるので、そしたらまたちょっと面白い文化の担い手になるんじゃないかという楽観的希望もありつつ。

これがどう左翼と結びつくかですが、ソ連の崩壊によって、政治の選択肢がアメリカ型の資本主義しかなくなっているかのような現状があってですね。この間の選挙でも、司会の田原総一郎が、「日本の民主党はアメリカの二大政党でいう共和党と民主党のどちらを目指すのだ」と聞いた時に民主党の目指す政党が、アメリカの共和党だというわけです。これには田原さんもビックリして「てっきり、民主党と答えるかと思った」「だったら自民党とどこが違うのか?」と聞いた答えが「自民党よりちゃんとやる」とか「自民党より強い」とか曖昧な答えしか返って来ない。日本の政党の中で、目指すビジョンと言ったときに、ソ連型を目指す共産党と社民党、アメリカでもより右よりの共和党を目指す自民党・民主党、非常に選択肢が狭いわけです。少し前の田原総一郎が言っていたような、アメリカ型とヨーロッパ型と言ったときの、ヨーロッパ型を目指す政党がないわけです。

ヨーロッパ型と言ったときに、南ヨーロッパの方だと、シェスタつって昼寝の時間が昼飯の時間とは別に2時間ぐらいあったり、イギリスだと3時のティータイムに職場のみんなでお茶を飲みながら雑談をする時間がある。幼児期ドイツにいたことがあるんだけど、ドイツだと労働基準法が厳しくて、一部警察とか消防とか交通機関を除いて、5時を超えて働いてはいけなかったりします。残業は犯罪なわけです。日本では終電ギリギリまで働くのが美徳とされるが、向こうではそうではない。ダンピング(値下げ)と長時間労働は禁止で、職人は職人としての腕で争うべきだとされる。ドイツとかイギリスって北海道より北にあって、白夜までいかないけど、夏は一日中太陽が出ていて、日本の夏の夕方5時の状態が夜2時3時でも続いていたり、冬は朝10時でも太陽が出てなくて日本の冬の夕方5時の状態が続いて薄暗かったりするわけです。太陽をみても時間が分からないからこそ、人工的に何時から何時まで朝とか何時から夜とかより厳密に決めることになる。だから、5時丁度に仕事が終わって、何するかと言うと、家に帰ってシャワー浴びて服着替えたら遊びに行く。仕事とは別に夜8時からライブをするとかミュージカルをやるとかバーテンダーをやるとかDJをやるとか、友人が演劇をやるからそれを観に行くとかあるわけです。日本だと、太陽が沈むまで働くのが美徳とされて、その太陽の代用品である蛍光灯が点いている以上、終電がなくなるギリギリまで働かされる。アメリカなんかもそうらしいんだけど、向こうでは結婚後、奥さんを連れてのデートを3ヶ月に一回は最低でもやらなきゃいけなくて、それを怠ると、男性側に問題があるとして正当な離婚理由にされてしまう。問題のある男性側が女性に多額の賠償金を払って離婚になる。日本の場合これが、日曜日に子供と奥さんを連れて家族サービスになるのだけど、向こうでは子供を近所もしくは実家に預けて、奥さんと二人で平日の夜にデートになる。だから、地域通貨の元になった子供預かり券なんかも機能する。ライブも向こうじゃ24時からが本番だけど、日本では風営法とかで24時以降のライブは取り締まられる。日本では、仕事を終えてそこからいったん家に帰って、シャワー浴びて服着替えてから外に遊びに行くというのがほぼ不可能だけど、ドイツでは9時〜5時までの仕事後、なんらかの文化的な趣味を持ってて、人前でショーをやったり、友人のショーを観に行ったりするのが普通で、そのような趣味を持たないで仕事一筋なのは人間的に問題がある人だと思われる。働いてばかりで遊ばないとつまんない奴になっちまうぞってわけだ。日本だと「この日は友人とライブをするので定時で帰らせて下さい」なんて言うと人間的に問題がある人だと思われる。

浅田彰が絶賛していたバタイユの著書に「呪われた部分」という経済学書があって、ゴマブックスやカッパブックスノリでパラパラっと読めちゃうような本なんだけど、余剰なエネルギーをどう浪費するのかということを書いている。

例えば地上に人口10人しか人がいなかったとして、10人分の生活必需品を5人の労働力で作れてしまったとしよう。すると5人分の雇用しか発生しないわけだ。雇用されない残り5人は失業するし、給料ももらえないし、生活必需品も買えない。すると5人は餓死するかもしれない。そうすると、人口は5人になる。1人で2人分の生活必需品を作れる計算だと、5人分の生活必需品を作るのに2.5人いれば十分だから、最低でも2人は失業する計算になる。

悪い冗談のような気もするが、労働力が余るというのはそういうことだ。そこで普通は戦争をする。10人中の余った5人が戦争をして、街を破壊したら、また街を作るのに多くの労働力が必要になるため雇用が増える。でも今度のイラク戦争で破壊された都市機能を復興するため、自衛隊を派遣すると言ってるけれども、地元の人は雇用が欲しいと言っているわけです。失業率が60%だとかで、現地の人間を雇って復興政策をやって欲しいというのが現地の声で、自衛隊がボランティアで行って復興させてもそれは現地の人の職を奪っていることになりかねないわけです。しかも、戦地の復興に関わる仕事を落札しようとする企業が世界中からエントリーしてて、アメリカ側につかなかった国の企業は公式復興事業から受注を受けれなくなるとかね。で、その復興事業に金出すの誰やねゆうたら、日本やったりするんやけど。

余剰なエネルギーの消費を蓄積とか貯蔵は出来ないと。放っておくと戦争という形で消費されると。なった時に、労働時間の制限とか、ボランティアとか、黒字を目的としない文化活動とかいったヨーロッパ型の消費の形ってのは、アメリカ型の戦争による消費とは別の形で、選択肢の一つというかオプションとして必要だし、いま左翼といったときそういう形が左翼なんじゃないかなと思うわけです。保守系のおっちゃん達が「日本の若者もオヤジ狩りするぐらいなら途上国行ってボランティアしてこい」みたいなこと言うけど、だったらまずそういう制度を作れいう話になるわけやしね。アメリカのヒッピー系の人でも、就職して二・三年働いたら、長期休暇取って途上国にボランティアで二・三年働きに行きました、戻ってきたら、同期入社組以上のポジションと給与要求するからね。日本だと海外旅行に行きたいからという理由で会社を辞める若い人いるけど、それは一ヶ月会社を休む休暇届とか出すと、いきなり首になるという環境だからでしょ。男女雇用機会均等法とかあるけど、会社が何故女性雇いたくないかというと、妊娠すると産休を取るからでしょ。これ郷ひろみみたいに男でも育児休暇を取るのが普通になったら、女性だからどうとか、男だからどうとかなくなるわけよ。法的に海外ボランティア行ってる人間の身分を保証したりとか、NPO団体に予算回したりとかすれば、企業の競争力は落ちるだろうけど雇用は増えるよね。10人の生活物資を競争力高めて頑張れば4人で作れて6人失業者を生むかもしれないけど、ボランティア活動に力入れることで生産効率は落ちて10人分の生活必需品を8人で作る社会になれば、失業者は2人で済むよねみたいな話だ。なんか微妙に変なことを言っているような気がしつつ。

1/8 左翼についてとか書きたいんだけど。「インパクション82 特集’60〜’90」の特集が60〜90年代の左翼文化=カウンターカルチャーについてで、演劇や小説や音楽や建築について書かれてるんだけど、60〜70年代にベトナム戦争反対や安保条約反対の政治闘争があって、その後、文化闘争、文部省推薦の立派な小説や音楽じゃなくて、いま生きてる自分たちが聴いたり読んだり、描いたり演奏したりしている絵や音楽や演劇や小説といったものを古典より上に持ってくる文化闘争があって、その後、いかにして金を集めるかという経済闘争へ90年代以降移って行く。アメリカの左翼文化みても、Be‐inとか最初はベトナム反戦だったものが、カウンターカルチャーであるロックの演奏会になって最後は、マイクロソフトを企業スポンサーに付けてお金集めになって行くし、日本で言えば宝島という雑誌が政治→文化→経済に目的が移って行くし、しかもその転換の時期というのが、日米でほぼ同時期だったと思う。宝島が参照したといういくつかのアメリカの雑誌、ローリングストーン誌でもフェイスでもホール・アース・カタログでも良いんだけど、偶然とは思えないぐらいほぼ同じような流れに沿っている。この流れというのが何なのか?

ベルリンの壁が崩壊して、ソ連が市場主義経済を受け入れた地点で、社会主義や共産主義は崩壊したとみるのが一般的なんだけど、共産主義を意味するコミュニズム。コミューン主義といった時の、コミューンて何なのか?古い宝島をみると、野草の食べ方とか火の起こし方とか複数の家族が一つの家で共同生活をする方法とか書いてあって、ホール・アース・カタログをみても、野宿の仕方から護身術まで書いてある。これと、自動車カタログのようないまの宝島や、芸能人・スポーツ選手名鑑のようないまのフェイスやローリングストーン誌てのはかなり違う。いまの洋雑誌をみると、見開き左一ページがその有名人の顔写真で、右一ページがその有名人のプロフィールとインタビュー。インタビューの内容もテレビのワイドショーレベルのどうでも良い内容で、誰と誰が仲良いとか悪いとか去年一年活躍したとか、してないとかそんな内容で、見開き一ページで有名人一人。有名人という商品の商品カタログでしかない。それと野草の食べ方や暴漢に襲われたときの対処法が書かれたハウ・トゥー雑誌とはずいぶん違う。60年代のカウンターカルチャー誌をみてビックリするのは、今の自分にとって、やりたいと思わないようなことをする方法について書いてある点で、野草を食おうとは思わないし、一つの家に複数の家族で住もうとは思わないし、暴漢に襲われたら警察呼べよと思うし、ハウ・トゥーの前提に違和感を持ってしまう。

資本主義社会と共産主義社会のどちらが住んでて心地良いかという問題は横に置いておいて、いまある社会体制から別の社会体制に移行するのは、移行にともなうリスクが発生する。移行することによるメリットと、移行にともなうリスクのどちらを取るのか?という問題は常にある。コミュニズムと言ったときのコミューンとは何か?なのですが、いまの私にとって、コミューンてのはリアリティーが無いし、どこにも存在しない抽象的なものでしかないし、その感覚はいま日本に住む多くの人達にとっても同じだと思うんですね。ところが、古い雑誌をみてると、コミューンてのがむしろ彼らにとってすごく身近なものであるように感じます。コミューンを共同生活をする集団と考えると、大学のクラブやサークルてのはコミューンだと。サークルで合宿に行って一緒に生活する。その合宿が終わらずに続いて行く状態がコミューンだと。徴兵制がある国だと、軍隊ってのもコミューンのイメージに近い。宿舎があってみんなで共同生活をしている。敗戦直後や戦中の日本で強化された家長制の大家族、おじいちゃん&おばあちゃんの家に息子・娘夫婦が住んで、親子三代、複数の家族が一つの家に住むサザエさん的な大家族もコミューンだと。

安保反対でもベトナム反戦でもベビーブーマー世代の学生が中心となっていて、彼らの生活スタイル、大学に立てこもったり、サークルで合宿に行ったりってのはコミューン的であったわけだ。ベトナムに参戦した人達が経験する軍隊での共同生活もある種コミューン的であったりするわけです。戦争が終わって戻ってきたときに、それまで軍隊で働いていて、戦争が終わったから軍隊を解雇されて、退職金をもらって失業する若者が増えるわけです。軍隊ではそれほどお金を使わないし、そのときの貯金+退職金を考えると、当面の生活費はあって、それまで忙しかったから、しばらくのんびりして就職はその後考えようと多くの若者は思う。

12/29 高田延彦PRIDE統括総本部長の「泣き虫」K−1の佐竹雅昭選手の「まっすぐに蹴るミスター高橋含め、色んな内幕暴露本が出ていて、ミスターマリックやマスクマジシャンはテレビで手品の種明かしをするし、保坂和志は「書きあぐねている人のための小説入門」なんてのを出す。保坂和志は小説の書き方なんて本を出しちゃいけない小説家の典型だと思っていたので、こんな本が出るのは結構嫌だったんですね。どうやって書いているのか分からないのが魅力の小説家が、書き方を暴露してしまったら、詰まらないじゃないかと思ったわけです。これは手品の種をバラしたミスターマリックや、プロレスのシナリオをバラしたミスター高橋と重なるところがあります。これらの人達が舞台裏を見せてしまったので、もうショーは成立しない。ショービジネスの中枢にいる人がネタを全部バラしてしまったから、もう聖域は無くなってショーはご破算だと。なるかと思ったらならない所が面白くて。

ミスター高橋でいうと、プロレスなんてのはデキレースなんだ誰が勝つか試合前にシナリオが決まっているのだと、既にみんなが知っていることをバラしているのですが、そんな表面的な売りと別に、書かれている内容ってのが面白い。プライドの高い外人選手が、自分の知らない日本人選手に負ける役を与えられると、試合中、その日本人選手がどの程度強いのか試しに本気で襲い掛かってくる場面がある。普段から一緒にスパーリングをしている日本人選手同士だとそのようなことはないが、初対面の外人選手だと何をしてくるか分からないし、本気で襲い掛かられたとき、やられっぱなしではその後の試合でもなめられるし、キチンと力づくで自分の強さを示さなければならない。だから練習の3分の2は相手を倒す練習をして、残り3分の1で試合の見せ場である派手な決め技(ハイスパット)の練習をする。てなことが書いてある。

つまり、いま普通の人は、プロレスなんて全部デキレースなんだから、シナリオがあるんだから、格闘技の練習なんてしてないし、しなくて良いんだと思っているが、実際には最後にどっちが勝つかは決まっていて、そこはお互い守るけど、その間の試合中は本気の喧嘩になる可能性もあるんだと言ってるわけだ。その本を読むまで、永田選手のどこが面白いのかさっぱり分からなかったのが、その本を読んだ後で、色々あさると、永田選手って、自分より体のデカイ外人選手のひざを思いっきり蹴りに行くんだと、プロレスマニアの人の日記に書いてあったりするわけです。明らかに自分より強そうな選手に、プロレスルールではやっちゃいけないはずの蹴りを入れて、怒らせてシュートに持ち込むんだと。最後の試合の終わり方はシナリオ通りだけど、その間に本気の格闘技が一瞬入り込むんだよと言う訳です。そう思って見ると今年のG1レースでも、秋山−中西戦で、秋山選手が勝ったのですが、試合後、何故秋山選手は目に涙を浮かべて無言で記者の前から立ち去り、後に「あの試合だけは自己嫌悪に陥った」とまで言わなければならなかったのか?何となく分かるような気がします。アマレスのスパーリングを永田選手としたいという理由だけで、新日の道場に立ち寄ったりもするアマレス好きの秋山選手が、実際に中西選手とやってみて、試合の終わり方とは別に、シュートな過程の部分で結構厳しかったんやろうなと。いうような、プロレスの中に格闘技を見出すような視点がミスター高橋本の中にはあるわけです。逆にこれを読まないと、どんな素晴らしいルチャ・リブレ(空中を舞うメキシカンプロレス)を見せられても、「CGや!CG!」「特撮や!特撮!」ゆって終わりなわけです。プロレス業界の人は、この手の暴露本に関して「映画のメイキングを見て、映画では二万人のエキストラを使っているように見えたのが、実は二千人しか使ってないと分かっても、映画の価値が落ちないだけの映画を作らなきゃ行けないんだ。メイキングを見せたら価値が落ちるような映画じゃダメなんだ」てなことを言ってますが、むしろ逆で、ジャッキーチェンがビルの五階から落ちるシーンで、観客はみんな特撮か合成かCGかと思って観ているのに、メイキングを観たら、床に安全マットをひいて、本当にビルの五階から飛び降りていた。というのに近い。メイキングを見るまでは「こんなの誰にでも出来るんだよ」「それっぽく見えるように上手く作っているんだ」と思っていたのが、メイキングを見ると「少なくとも、俺にはできん」と思わせる内容になってます。

ミスターマリックの手品の種明かしも似ている。正直、ショーとして見た時、私が一番好きな手品師はマギー司郎だ。トークであれだけ笑いを取りながらやる手品は他にない。一番好きだったネタは、白いハンカチが赤いハンカチに変わるマジックで、「白のハンカチを筒に入れて二時間待ちます」と宣言し、白のハンカチを筒に入れて黙る。変な間で会場から笑いが起きる。最前列のお客さんに「奥さん、最近どう?」などと話し掛けるが、すごく変な間になる。すると「このまま二時間も待ってても、お互いつらいよね?そこで、二時間前に用意したさっきとまったく同じ状態の筒がこちらになります」と、弟子に筒を持ってこさせ「きみ、二時間前は確かに白いハンカチだったよね?」と聞いて「はい」と弟子が答えたところで笑い。持ってきた筒からハンカチを出すと赤くなっているが、拍手が来ない。「あれ?今日のお客さん拍手がないね」と拍手を要求し、拍手が来ると「この手品で拍手するお客さんも珍しいね」と言って笑いを取り、最後に「まだ二時間たってないけど、こっちの筒も開けてみましょうか?」と開けると、ハンカチが途中まで赤くなっているという手品で、個人的には最高に好きなネタなのですが。でも、種も仕掛けも分かっている手品師の人達はみんな、ミスターマリックはすごいと言うわけ。素人が見たら、トークは詰まらないし、無口だし無愛想だし、地味なショーだなとしか思えないけど、種を知っているプロの目から見ると、あの指の器用さはすごいと言うわけ。トランプを投げて、離れた位置にあるろうそくの火を消すマジックとかやる。トランプは薄い紙切れだから投げても空気の抵抗ですぐ床に落ちるし、まっすぐ飛ばない。それをマリックは投げるときに上手くトランプを回転させることで、まっすぐ飛ばしてろうそくの火を消したりする。これなんかも種明かしされなきゃ、なんかズルしてるねんと思うけど、種明かしすると、トランプがまっすぐ飛ぶよう回転させて投げる練習をするという、そのまんまな種だったりする。マジックというより、玉乗りや一輪車やジャグリングに近い。マリックの手品は種が分からないとすごさが分からない物が多くて、種をバラすことでその指の動きの速さや正確さでお客さんを驚かせたりする。これもさっきの映画のメイキングと同じで、種をバラさなければ、「仕掛けさえ分かれば誰でも出来るんだよ」と思っていた客が、種をバラすことで「これは俺には出来ない」と関心する訳だ。

保坂和志の小説入門も、似たところはあって、素人にはマネできないなと思える部分だけを種明かししていて、小説の書き方の入門書としては実用性がないんだけど、小説の読み方とか、現代文学とか純文学とかいわれる物がどんな物であるのかを知るには良い本だと思う。具体的にいうと、出来事が何も起きない話やストーリーのない話を保坂和志は小説だと言うわけ。この小説の定義は現代文学に限定されて、ライトノベルや大衆小説にはあてはまらないけど、何故、そのような物が小説と呼ばれるのか?や何故、物語性があってはいけないのかは読むと何となく分かる。現代**というジャンルには、人の心を動かさない**というジャンルが確実にあって、むしろそれが主流なのですが、普通に生活していると、人の心を動かさない絵画や人の心を動かさない音楽や人の心を動かさない文学が何故必要なのかは分からない。絵画でいうと、建築物の内装の壁紙がそうなんだけど、壁や柱をなるべく目立たせない圧迫感のない壁紙というのが要求される訳で、白一色だと生活する中で壁に付いた汚れが目立ち過ぎるし、黒一色だと重苦しい。天井から壁から床から赤一色だとインパクトがありすぎるし、ある程度の模様があった方が不自然さはない。した時にこの壁紙を貼った方が貼る前より壁が目立たなくなる絵とは何か?ない状態よりもある状態の方が存在感のない絵画とは何か?となる。音楽も、沈黙が重くのしかかった喫茶店というのはしんどい。友人と入って会話が途切れた時気まずくなるから、ノンストップでしゃべり続けなきゃいけない喫茶店はつらい。あまりにも熱狂的な音楽が流れてても、静かに物を考えたいお客さんにとっては辛いし、悲しい曲が流れていても店に入りにくい。人の感情を動かさない音楽というのも必要な場面はあるわけだ。小説も人の感情を激しく揺さぶらない小説というのもあるわけで、感動して泣ける訳でなく、読むとハッピーな気分になるわけでもなく、

12/24 最近手に入れたCD

アーチスト名:武藤正幸
タイトル「僕とキミをつなぐ物語(デモCD)」
収録曲1感情学入門
2僕のフローチャート

アーチスト名:miki(幹さん)
タイトル「2002SHIBUYA−APIA」
収録曲1あいあいがさ
2銀河鉄道にのって
3中野ゲームファンタジア
4あの娘がピアノを弾くときは
5(仮)堀の内97
6バイバイダーリン
7夢の続きに

幹さんはSSWSでのポエトリーとまったく別のアコースティックギター弾き語り。いんこさんが幹さんを「昭和の香り」と言っていたがそのときは何のことか分らなかったが、CDを聴くと初期RCサクセションのノリがある。正直、歌よりポエトリーの方が幹さんに関してはカッコイイ。

12/22 「梅島ゆーことぴあ」で朗読したネタ。社員という掛け言葉が笑いに結びつかなかったのが悔しい。が私の朗読の後、有名な曲を勝手なメロディーで歌うコーナーが流行ったのは嬉しい。

12/21 SSWS今年の最終予選。結局私は定員オーバーでエントリーできませんでしたが、超豪華メンバーでクオリティーも高く盛り上がってました。京都から参戦の高校4年生ちょりさんに、体調を壊していた大御所近藤洋一(a.k.a.鉄腕ポエム)さんの参戦。さらに青木研治さんや5W1Hさんといった面子で行われました。花本さんは「適当」さんを大絶賛で、「奴が優勝だ」と言ってました。

適当は男性ツインボーカルのラッパークルーなのですが、名前を呼ばれてステージに上がるとき、客席からステージ上がる階段を使わずに、客席から助走をつけて、かなりのスピードでダッシュしてステージにカッコ良く飛び上がった、と思ったらステージに足をひっかけて勢い良く転んでる。助走が付いてた分、ものすごく痛そうな鈍い音したので、思わずシリアスになったら、客席から「ビートたけしだ!」と声が上がる。確かにビートたけしは映画祭で受賞するとき、ステージで転ぶ。その後、バックトラックのリズムと大きくズレたラップを展開。コマネチをやりながら歌う2MCに花本さん大絶賛。ラッパーで歌詞カードをみながら歌うのは恥じだとされるのですが、この二人は、若いOLと無理矢理カラオケでデュエットする年配の会社役員状態で相方の肩を抱いて、一枚の歌詞カードを二人で見ながら歌う。ヒドイというか何というか、審査員から「すべての行動がカッコ悪く見せるためにやっているとしか思えない」とコメントされる。主催のいんこさんからは「勝てないけど愛されるキャラ」とのコメント。俺個人としては、トラックからズレたリズムを最後までキープし続けるスキルを見せつけられて、いまいち笑えない。歌の上手い人がわざと音痴に歌うとき、変なメロディーではあるものの12音階の範囲内で正しい音程でズレているようなもので、トラックからカッコ悪くズレたリズムだけど、そのリズムを正しくキープし続けるのはトラックに合わせて歌うより難しいじゃん?と俺のコンプレックスを刺激する。審査員から「ありえないトラックを使っていてすごい」と呼ばれたバックトラックも、宴会なんかで使われる手拍子のリズムをドラムに直したような音で、個人的には変だけどありえないトラックとは思えなかったんですよね。英語圏のslamのCDを聴いていると、トラックがパルス音や手拍子のみという物も多く、楽器を使わずに机や壁を叩いたり床を蹴ったりしてリズムを取っている物が多い。その流れでいうと、「ありえない」よリむしろ、「ベタ」なリズムに感じられたのですが、hip−hop系のライターさんが「ありえない」と言ったリズムを「ベタ」と感じている俺の感性がズレているのか。二重にショックだ。

武藤正幸さんの一回戦でやった「僕のフローチャート」という曲が、めちゃめちゃカッコ良かったです。おそらく、一回戦が全部終わった地点では、武藤さんが優勝すると思っていた人は多かったのではないでしょうか?当たって負けた青木さんは運が悪かったとしか言いようがない。キャンドルさん以来のカッコ良さです。MARZというライブハウスはディスコティックに出来てて、天井が高いため高音域が伸びてきれいに響きますし、照明もミラーボール・レーザー含め、80年代初期ノリのディスコ向きなんですね。武藤さんの一回戦の曲もキャンドルさんのそれも、ディスコティックな高音シンセ&ハイハットがめちゃくちゃきれいに響いてました。「僕のフローチャート」が良かっただけに、二回戦の曲やネット上で視聴出来る曲が普通の地味な曲に聞こえてしまう。そういう意味でも、「僕のフローチャート」はa~haにおける「テイク・オン・ミ−」とイメージがかぶります。

Yassさんという16歳のラッパーのフリースタイルも「さっきの、適当の二人の内の片方、僕の兄ちゃんなんだよね」というネタで笑いを取り、「僕はもう眠たいよう。でも太陽が出るまでラップやりたいよう」と韻も踏み、ちょっとすごかったです。また近藤洋一さんのパフォーマンスも、コメディーだったのですが、それまで言葉の笑いと音楽は相性が悪いと思っていた私の観念を打ち破りました。バックトラック付きでお笑いが出来るんだという驚きですね。ダウンタウンがゲイシャガールでやって成功してなかった、しゃべくり+バックトラックの融合が無理なく完成されてました。

優勝したさんは圧倒的にカッコ良かったです。体を叩いてリズムを取る、身振り手振りで客席を煽る。多分日本語が分からない人が見ても何となく伝わってくるステージだったと思います。マーク・バムシ・ジョセフさんのステージを見た時、英語の分からない自分でも何となく言ってることが分かるようなボディーランゲージの説得力があったのですが、幹さんのボディーランゲージの伝達力も、世界ランカークラスだと思います。この日は全体を通して、お笑い系が少なくて音楽系・ライブハウス系が多かったです。お笑いをされてた方も、トラック付きだったり音楽の形をしたコミックバンド形式だったり。幹さんもバックトラック無しですがライブハウス出身で、言葉に音楽的な節回しがある。今回のようなライブハウスノリだと、HIP−HOP系の審査員の方やSSWSのレポートを書かれているIWATAさんの機嫌が良いんですよね。

過渡期ナイトin毘沙門天ですが、正直に言わせてもらうと、過渡期ナイトに集まるような人達は、過渡期以外で死紺亭さんのネタを散々見ている訳だから、過渡期でネタを見ても、すでに知っているネタが多い訳です。死紺亭さんを知らない人に見せるマストなネタでなく、死紺亭マニアが集まる過渡期ではレアなネタがやっぱ期待されると思うんですよ。で、俺は過渡期の大きい版のイベントだというので、死紺亭さんのコントや落語やロックミュージシャンの物真似といったレアなネタを見れるもんだと思って行ったので、ビートコメディーやられても、いやそれは知ってるから、もっとレア度の高い奴を、と思ってしまった。特にコントに関しては俺とタナソーさんの中で異様にプレミア付いている、激しく動きすぎて死ぬのじゃないかと思ったと言われる動き芸を、いつどこで見せてくれるんだ。この日、京都から来た高校4年生ちょりさんがSSWSで夜を明かして始発で京都へ帰り、名古屋から来た楠木菊花さんが、SSWSで夜を明かし、二次会で私・服部剛さん・おがわ友美さん・飛鳥さんの4人と朝食食って、その後漫画喫茶で少し寝た後、SSWSで優勝した幹さんと「引きこもり・詩と朗読の教室」というイベントの打ち合わせをして、夜は毘沙門天の過渡期でオープンマイクに出演後、渋谷の「青い部屋」のライブを観ながらオールナイトという過酷なスケージュールをこなされていた。

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