HP管理者日記10

12/13 下のほうで自分の書いた小説の失敗について語ってるけど、絶望してるとか暗くなってるとかじゃなくって、言語化・客観視できるほど回復してるってことなんだ。渡邊さんとのやり取りにしても、渡邊さんの日記からこちらにリンクを張っていただいて一日に30〜40カウンターが回ったんで、こちらからも張り返したわけで、仲が悪いとか喧嘩してるとかじゃない。この人となら有意義な論を立てられるという見通しがなくちゃ出来ないことをやってるんだから、それだけ相手のことを信頼している。

で、今日の雑談は、ニューエイジの続き。アニミズムというのは非常に原始的な宗教で、体系や教義が明確でない自然崇拝なのですが、そういうのを信仰している民族や部族は原始共産体みたいな生活をしているのが多いわけです。近代化以前のアフリカやインディアンや昔の日本や、キリスト教の一派ではあるけどアメリカのクエーカー教徒とか、自給自足に近い生活をしてます。それに対して、死後に天国や地獄を設定する宗教は、ピラミッドを作ったり大聖堂を作ったり、平等院鳳凰堂を作ったりと、立派な建築物や巨大な墓を作ります。お金をかけて建築物や墓を作れば天国に行けると彼らは考えます。富や権力が中央に集まる中世の一時期にそういう思想が出てくるのですが、何故、原始共産体だと自然崇拝で、中央集権だと天国と地獄なのか。これ、宗教と社会体制のどちらが原因でどちらが結果とは言い難い部分があって、自然崇拝だと極端な人工物を作ってはいけないし、富を蓄えすぎるのも悪だとされる。だから、原始共産体のまま社会が止まっているとも言える。でも。ある権力者に富が集中する。巨万の富と権力を得た人間が恐れるのは死と死後の世界だ。そうすると、その権力者を安心させるために死後の世界を保障する宗教が必要になる。だから、中央集権制の社会では天国と地獄を設定した宗教が生まれるとも言える。前者は宗教を原因に説明し、後者は社会体制を原因に説明してる。まあ、何とでも言えるという事だ。

黒人の宗教の一つにラスタ思想があって、レゲエ音楽で有名なラスタですが、要するにキリスト教はイエスを白人に設定しているのを、黒人に設定しなおした宗教らしいんですね。もう一つにブラックモスリム=イスラム教があって、アメリカにつれてこられた黒人奴隷がアメリカでキリスト教に出会って、反白人・反キリスト教で、キリスト教に対抗できる身近な宗教としてあったのがイスラム教だと。そこで単にイスラム教を信じるだけじゃなくって、黒人社会は昔からイスラム教だったと、歴史を捏造するような人たちも居るらしくて、何故捏造するかといえば、教義や体系のある宗教=教養なんですね。アフリカというのは原始的なアニミズム社会ではなく、昔から知的で近代化された宗教=教養を持った社会だったと、言いたいらしいのです。

宗教というのが教養として機能していた時代があって、日本でも仏教は外国産の思想としてまず知識人階級に普及しました。中世ヨーロッパの哲学といえば聖書の解釈をめぐってのスコラ哲学がメインですし、バッハは教会でのパイプオルガン奏者で、ダビンチだラファエロだというのも教会の内装を受け持つ宗教画の画家で、日本でも大工で一番腕の良いのは神社を造る宮大工であったり、日本最古の出版物は古事記で、音楽では盆踊りも死者の霊を弔う意味合いが元々はあったわけで、ある時期まで文化的なものは建築にしろ音楽にしろ絵画にしろ文学にしろ哲学にしろ宗教と密接に関わっていたと。

近代社会になって市民が台頭してくると、モーツアルトが貴族を、ベートーベンが市民を相手にした音楽を作ったように、色んな物が市民を対象にするようになる。浅田彰氏が書いた別冊批評空間「モダニズムのハードコア」をみると、美術館を三つの時代に区切ってて、第一世代の美術館は略奪美術だったと。大航海時代にある土地を侵略してその土地の神殿なんかにある宝飾品や工芸品を略奪してきて並べる博物館のような物だと。第二世代の美術館は画廊だと。そこに並べられる絵はすべて商品で、売買される以上はどこにでも持っていける移動可能なものだったと。第三世代はもう一度、その固有の場所と結びついた、そこになければ意味のないものに変わっていくと。例えばエッフェル塔が別の場所にあっても何の意味もないように、場所に固定された物に変わっていくということを言っていて、これなんかはもう一度宗教に帰ってるわけです。フジロックは何故、霊峰富士の名前を冠しているのか?トランスやドローンと呼ばれる音楽なども、すごく宗教チックなわけです。トランスなんてそれこそ自然との一体化がどうの、集団的無意識とつながるだの何だのって奴です。ドローンは音響派の中でも残響音を聴こうって奴ですが、お寺や教会の鐘の音を多分に連想させます。アメリカのSFをみても、モーゼが国を追われて新天地に行く話と、清教徒がイギリスを離れて新大陸アメリカを開拓していく話と、ルイアームストロング船長が月面着陸した話の三つを連想させるように、それらの話の隠喩として物語が語られてます。インドやアフリカの演劇をみると、年に一度、もしくは数年に一度、物によっては60年に一度村人全員参加で作られる奴なんかは、全員出演・全員観客で数日にわたる長さで上演されるわけで、ストーリーも神様が大地や空を作って、動物や人類が誕生し、現在に至るまでの歴史を全部演じるとか、言葉も文字もまったく通じない別部族に出会って徐々にコミュニケーションが取れていく話とかで、ブロードウェイミュージカルとはまったく違うと。いまなんか流れがそういうところに来てるのかなぁと思うわけで。何が言いたいかというと、太田出版の「それでも心を癒したい人のための精神世界ブックガイド」を立ち読みして、なんとなく「お前のやってることはニューエイジじゃねぇーか」と批判されてるような気がしたので(批判も何も向こうが俺を知ってるはずがないんだけどね)、俺だけじゃなくって全体の流れがそっち行ってるからさぁと、言い訳してみただけなのですが。

で、話変わって大槻教授問題。志水一夫著「宜保愛子イジメを斬る!」というのがあって、1994年に出た「と学会」からの大槻教授批判です。「と学会」というのはトンデモ本を見つけてきて面白がる集まりで、著者は大真面目に科学について語ってるけど、内容的には無茶苦茶な本ってのを主に集めてます。元々、大槻教授はこの「と学会」に属していたのですが、ある時期に仲間割れして辞めてるんですね。94年ごろ「と学会」から大槻教授批判が噴出します。例えば、UFOの映像を見て、「空中で進行方向を直角に方向転換しているけど、あんな動きは物理学的にありえない」という批判をしている大槻教授に、物理学的にありえないことは起きないですが、物理学的にありえないことが起きているように見えることはありえますよね。火星が進行方向に対して逆行しているように見える現象(地球の公転や自転の関係で火星が一度進行方向に対して逆行してからまたUターンして進行方向に進む)も「物理学的にありえない」と断罪するのですかってな批判やなんかが噴出するわけです。当時、火の玉プラズマ説を立証し、UFOから幽霊からミステリーサークルから何から何までプラズマで説明していた大槻教授に「このUFO写真はプラズマではなく地上から上空の雲に映したサーチライトです。こちらのUFO写真は夜の窓ガラスに映った室内の蛍光灯です。こちらのUFOはCGです。それでもあなたはプラズマだと言い張るのですか。」ってなことを主張してました。私は理屈の上では「と学会」側が正しいと思うんですよ。ただ、心情レベルでは大槻教授側にすごく共感できるんですね。この共感がどこから来るのかというと、ウータンという雑誌の購読経験から来てるんです。

学研から出てる科学雑誌なのですが、学研は「○年生の科学」「○年生の学習」という学習誌やニュートンという科学雑誌を出すとともに「ムー」というオカルト雑誌も出していて、ウータンはその中間に属する雑誌で、一応、科学雑誌をうたってるのですが、広告関係は「聖徳太子が描いた霊験あらたかな絵」とか「ピラミッドパワーのペンダント」だとか、霊感商法に近い物が多く、記事も相対性理論を証明した月面での実験に関する難解な解説もあれば、超能力やピラミッドパワーに関する実験もあるという科学とオカルトの混合雑誌でした。これは私が定期購読したいと言ったのではなく、親が私に勉強をするようにと学習誌のつもりで買い与えた雑誌です。親は科学の勉強のつもりで定期購読を申し込み、しかも子供に読ませても自分は読まないため科学雑誌だと信じている。当時、ウータンの読者欄を担当していたのが大槻教授批判を書いた前出の志水一夫氏でした。志水氏はアイドルの島田奈美が好きで、アニメや戦隊物やアイドルに詳しく、話の面白い人でした。彼はある月、何の前触れも無く突然読者欄を降板してるんですね。降板の理由は私の想像ですが、降板した号にエスパー清田氏のスプーン曲げが特集されていたんですよ。清田氏は幼い頃超能力少年としてマスコミにもてはやされ、某テレビ番組でスプーン曲げをする前に楽屋でスプーンに仕込みをしているところを隠し撮りされ放映されて表舞台から姿を消した人です。つまり、明らかに超能力じゃないと分かっている物を超能力だとして科学雑誌に取り上げてしまった。それに対しての無言の抗議が志水一夫氏の降板だと思うんです。

当時の私はスプーン曲げの記事を見て、本当に超能力はあるのだと思いました。超能力で曲げたスプーンの断面図を顕微鏡で見た写真と、手でスプーンを曲げて折った断面図を顕微鏡で見た写真では明らかに異なっていたからです。東大の理Tや理Vの学生さんが清田氏の超能力を見て、「現代科学は超能力を真面目に研究すべきだ」と言っている記事がありました。当時中学生だった私はまさにその通りだと思いました。東大の学生という権威は中学生には絶対的だったのです。後に大槻教授は上記の実験に対して「手で木の枝を折っても、断面なんて全部違うよ。同じ断面に折る方が難しい。そんなのは顕微鏡を使わなくても目で見ればわかる。」と言ってました。他にウータンの記事で占いは当たるのか?というのがありました。血液型占いで、あなたの性格はこれです。と言われ、当たってると思うかどうかアンケートをとったところ、80%の人が当たっていると答えました。その後、四つの血液型の性格をどの血液型の性格かを表記せずに4つ並べ、どれが一番自分の性格に近いか選んでもらう実験で、45%の人が自分の血液型を選びました。つまり、この地点で80%からは落ちているけど、確率的には25%になるはずが45%と高い確率であるのも事実。ところが、日本人の場合、A型が一番多く、次がO、その次がBで、最後がAB。A型の人の性格を比較的普通の性格にしておけば、そして少ないAB型を特殊な性格にしておけば、正解率が高くなるわけです。実際、回答者の75%が私の性格はA型だと答えました。そして、四つの型の構成比を1:1:1:1にしてもう一度、どれが自分の性格に近いかアンケートを取ると正答率が25%になった。というデーターもウータンには載ってました。こうなってくると、何が科学で何がオカルトなのか、自分で考えるしかないわけです。ウータンの記事を全面的に信用することも出来ないし、全面的に否定することも出来ない。

「と学会」は大槻教授に対し、「科学的な物の考え方が出来なくて、科学を信仰している人」という言い方をしました。科学的な物の考え方というのは結論に至るまでの過程の話です。それと、論理的な過程を飛ばして、一流の科学者が出した結論のみを信じる人というのは別になってきます。ホーキング博士の本の中で古代ギリシャ時代の物理学の話が出てきます。世界は四つの元素、空気と土、水と火から出来ていて、水と火を混ぜるとゼロになり、土と空気を混ぜるとゼロになる。土と火を混ぜると土器になり、水と土を混ぜると木になる。木を燃やすと煙が空に行くのは、煙は元々空にあるべきものが木の中に封じ込められて地上にあったので、元々あるべきところに戻っていくのだ。というような、古代の物理学者を現代の一般人が現代の科学を駆使して論破できるだろうか?煙は空気より比重が軽いから上空に行くのだと説得できるだろうか?おそらく、空気に比重があることを証明することすら難しいってな話になる。つまり、最先端の科学者が出した結論を信じ込む人はいても、その科学者の論理的なプロセスを理解してる人はほとんどいないのじゃないかとホーキングは言います。結論は違っても、論理的な思考というだけなら、古代ギリシャの物理学者だって相当論理的だぜってわけです。じゃあ、自分たちは科学的な物の考え方の出来ないオカルト=疑似科学信者なのか?

論理的な考え方が出来る出来ないは能力の問題で、小学校では天体の動きを天動説で教えますが、中学に行くと動かない太陽が真ん中にあってその周辺を地球や火星が回るような地動説に変わります。でも、さらに進むと、太陽も銀河系の中心から外れる方向で動いているし、座標軸の真ん中をどこに設定しても構わない相対性理論に行きます。では、小学校で教えてる天動説はオカルトで、始めから正しい相対性理論を教えるべきなのか?動かない座標軸をどこに設定しても良いのが相対性理論なのなら地球が動かない天動説でも良いのですが、それでも、小学生が習う天動説と大学で習う相対性理論は別物です。小学校では小学生の能力に合わせて、内容を分かりやすく難解すぎる部分は切り捨てて教えます。このような啓蒙主義と、疑似科学的なオカルトの境界線は非常に不鮮明です。オカルトの多くは権威付けのため科学用語を多用します。「幸福の科学」という新興宗教はその名前からして科学という名前の持つ権威を利用してます。霊感商法で物を売るにもマイナスイオンや電磁波や放射能といった科学的な用語を使って物を売ることが多々あります。そのような疑似科学と、小学生に天動説を教える啓蒙主義の区別は非常に困難です。啓蒙主義はオカルトなのか?「と学会」と大槻教授を比べたときに、「と学会」の方がより科学的で、大槻教授の方がより啓蒙的=擬似科学的なんですね。分かりやすくするために、難解な細部をはぶいて説明するのをオカルトだと言い出すと、原子を球体で表現するのも、ブルーバックスで数式を使わずにゲーデルの不完全性定理を証明するのも、オカルトだと言えてしまう。じゃあ、ゲーデルの不完全性定理を数式レベルで理解しようと思ったら、ブルバキ数学を学ぶためにアメリカに3〜5年留学して学ばなければいけないというのでは、一般人には無理すぎる。その辺りに関して大槻教授は意識的に啓蒙しているわけで、「ブルーバックスレベルで良いから」ってなことを言っていてですね、文系の私からするとブルーバックスでも難解なんですよ。でも、専門家からみればそんなのは理解してうちに入らない。とわいえ、知らないよりましだと。科学―啓蒙―疑似科学―オカルトが、本人の能力に応じて一直線に並ぶとき、どこからどこまでが科学で、どこからどこまでが啓蒙主義でと言えないとき、私の書いてる文章はニューエイジ=オカルトじゃねぇーかと言われりゃ、「すいません」としか言えないわけです。P.S.日記を書くことは、精神安定剤としてすごく有効やね。

12/4 昭和六十一年度文藝賞の候補作の作者たちは「荷風も秋声も、一葉も藤村も直哉も潤一郎も、そういうことをいえば野間宏も小島信夫も河野多恵子も、いやフローベールもモーパッサンも、カフカもモームもサリンジャーも、ウイリアム・サロイヤンもベケット、サロートも、ジョイスもプルーストもチェーホフもドストエフスキーもカミュもサルトルも(この辺で止めて置くが)、夢中になって読んだことがない人たちであるに違いない」と、江藤淳は書くのだが(文藝賞・選評)という文章が渡邊さんの日記に引用されている。渡邊さんとメールを通してやり取りをしてたりするのだが、私と渡邊さんの見解の違いについて書いてみたい。

通時的な歴史認識のないものは駄目だ。アニメや引きこもりなどに関わっている東浩紀も駄目だ。というのが、渡邊さんの見解で、それに対して、私は「保守主義なんてたがだか百年前の前衛じゃねぇーか」と言った竹田青嗣を引用した。一見普遍的に見える保守主義、書斎があって床の間があって畳の上に布団を引いて寝るなんてのは明治期の最先端=流行であって、それより古い世代、江戸時代の人間から見ればずいぶんと流行に流されやすいミーハーな生活様式にみえてしまう。上で羅列された権威ある立派な文学者の名前も、多くは大正時代に作られた文学全集に名を載せていた作家たち(一部、第二次大戦後のアプレゲール作家が居るが)であって、江戸期の小説家が一人も入ってない。そして、文学全集は当時、人気のあった作家の小説を小さい文字と三段組で一冊に何冊分も詰め込んで売られた金儲け主義の産物であった。他の本と同じ値段で他の本の何倍もの情報量が入ってるお買い得商品でしかなかったわけだ。

最近、東浩紀氏がポストモダンをアーカイブ化という言葉で説明しているが、文学全集というのは文字通り文学のアーカイブ化であったわけだが、このアーカイブ化から現代**というのは始まるように思われる。
東浩紀著「郵便的不安たち」p214より
批評と創作がまったくの対等関係であり、しかも相互浸透的だということになると(ポストモダン)、突然双方とも弛緩してしまう。デュシャン以降の現代美術、ケージ以降の現代音楽、ボイス以降のパフォーマンス・アート……と無数に思いつくその類の弛緩状態の中に、八〇年代以降の日本の純文学もあるのだろう。
文学とは元々、歌や劇を意味し、上演されるものであり、書籍を意味しなかったとこの日記の別のところで書いたんだけど、漱石の時代の小説にしても、新聞小説などはラジオもテレビもない時代の放送(=プッシュ)メディアであって、保存され、分類された書物じゃなかったわけ。定期的に送り届けられる小説に、文学史上存在してなかったような斬新さなんてのは誰も期待してなくって、伝統にのっとった安定した芸を期待されていた。アーカイブ化される=分類され、保存されるということは、新しい物を書いても、「それは過去に誰の書いた何と似ている小説です」と分類される。そしてより古い物の方がオリジナルとして尊ばれる。ちなみに、アーカイブ化されていない世界、例えば録音メディアが楽譜とオルゴールしかなかった時代の音楽の音色やリズムなどは、保存されないため、再現者=演奏者=playerに敬意が払われるが、保存が可能になると、再現者=playerでなく、発案者=creator/作曲者=composerに敬意が払われる。料理などは過去に作った料理と同じ物を作ったからといって、パクリだ何だという問題にならないが、作曲の場合過去の物と同じ物を作れば盗作扱いになる。過去のストックにない物・分類できない物を作り、新しいジャンルの開拓者となることを期待されるのが現代**だ。そして、いま作られた物が過去ストックにあるものか、ない物かは、そのジャンルに詳しい批評家でなければ分からない。一般に美術などは今作られている物より、過去に作られた物の方が評価されやすい。そこで現代**の製作者は自らの製作物のどこがどういう意味でアーカイブ化された過去のストックと異なるのかを言葉で説明することになる。つまり批評と創作を兼任することになる。

いま、漫画が売れないのだという。最近まで漫画は週刊誌や月刊誌で読み捨てられる、アーカイブ化されない物であったのが、漫画喫茶の登場でアーカイブ化され、漫画喫茶に置かれる=権威化された漫画と、漫画喫茶に入らない=権威のない漫画に二極化されている。この場合の漫画喫茶は、文学における文学全集や文学史や図書館、美術における美術史や美術館と同じような意味を持つ。tinamixで漫画史やアニメ史、大学での漫画学会の設立等に、関わる東氏はそのような部分に自覚的であると思われる。

80年代初期にW村上氏が対談した「ウォーク・ドント・ラン」の中で話されている内容は、人の脳が面白いと感じる文学の型は限られており、それらの型は20年もするとおよそ書き尽くされてしまう。20年すると過去20年間に書かれた文学を引用したりパロディーにしたりする形でさらに後、20年持ちこたえる。40年も平和が続くとそろそろ次の世代が戦争を始めて、戦争によって主な文化財はみんな燃えてしまうため、過去のストックは消え、戦争の極限状態の経験が残る。そうするとまた新しくその戦争体験を書くことができる。歴史は大体これの繰り返しだが、1945年の敗戦以来、40年を超える平和に自分たちは突入する。この中で文学を書くのは大変だ。という内容なのですが、その後村上龍氏がやったのは、SM嬢や女子高生から活字化されていない生の情報=インタビューを取って書く手法であり、村上春樹氏が好んで訳したレイモンド・カーヴァーの小説が物語の型や文学の伝統を無視し、いま目の前にある現実をありのまま描く写生文のような物であることを考えると、彼らは文学を一度アーカイブから切り離し、現実に接続しようとしているように見える。そしてそれはすごく正しい戦略であると私は思う。少なくとも、アーカイブが存在することを前提に、批評的な創作活動を展開した何人かの小説家と比べれば、正しい戦略であったと思う。脱アーカイブ化する文学と、アーカイブ化=学問化=批評化する漫画。これが私の現状認識で、東氏が一時的な流行に足をすくわれている非学術的な批評家だとは私には思えないのです。

最近気に入ったCMソング
シュガーベイビーラブ/ルーベッツ:あの有名なサビが少し「大都会byクリスタルキングス」の歌い出しと似てる。
タイム・トゥ・ゴー/フル・ムーン:NTTdocomoの曲。ビートルズ風だけど邦楽で現在リアルタイムで活躍してるバンドの曲
僕が作った愛の歌/チューリップ:72年のヒット曲。「ラブリーラブリー、ララーラララ」って奴で。ネオアコっぽい。

K-1対猪木軍の試合で、マイク・ベルナルド対イゴール・ボブチャンチンでルールはボクシングルールって出来ないかなぁ。マイクベルナルド選手はプライドルールでは試合しないらしいし、それは正しい選択だと思うけど、ボクシングルールなら両選手とも文句はないと思うんだ。主催者側に不満が出るかもしれないけど。

11/27 今の日本経済の何が問題なのか?と言った時、団塊世代と、団塊Jrではかなり開きがあると思う。団塊世代は敗戦後の発展途上国から先進国へ日本が高度成長する姿を見てきたし、そこに誇りも持ってる。いま、自分の親の介護に手を焼いてるのも団塊世代だ。現在50代で、70・80代の親の介護をしながら会社で働き、自分が介護される側になったとき、他人には頼りたくないという思いと、果たして自分が介護される側になったとき日本はいまのような先進国のままでいれるだろうか、先進国のままでいれないなら自分は途上国並みの介護しか受けられないのかと不安になるのも団塊世代で、「このまま行くと日本は途上国になってしまう」としょっちゅう警鐘を鳴らすのも団塊世代(Ex:田原総一郎)だ。

戦中世代の吉本隆明がインタビューで「進め!電波少年」に関して、ホームレスのシュミレーションだと言ってた。「進め!電波少年」というバラエティー番組の中で売れないお笑い芸人が発展途上国に行き、ヒッチハイクをする。その映像は不況に入り、倒産や失業が増加する日本に、ホームレスとして生きていく方法論を示しているのだと隆明は言う。同じく戦中世代の野坂昭如は「食料の自給率を上げろ」と訴えてる。敗戦直後の日本は確かに焼け野原で何にもなかったけど、幸い当時は農業国だったので、食っていくことだけは何とかできた。農業立国日本を再建しろと言っている。

私が生まれたときには、日本は既に先進国としてのインフラを持っていた。インフラを持たない途上国を経験していない自分にとって、一度、途上国なりホームレスなりを経験し、日本が最悪、途上国になり、自分がホームレスになっても何とか生きていけるという自信や経験が欲しいと思った。だから自分は会社員を辞めて一度日雇い肉体労働者を一年やった。「進め!電波少年」を観てれば、途上国でもバイトはあるし、生きては行ける。最悪の状況でも何とかなるという経験や自信から、自分の持ち物や守る物は何もないのだというゼロからの出発からしか、次のステップに行けないと思った。上記の例で言えば、戦中世代の問題意識に近かった。

資本主義、自由主義経済の金融なんてのは貧富の差を利用してしか成立しない。銀行にお金を預けていて、銀行は社員に給料を払い、銀行の建物の固定資産税を払い、電気代やATM(銀行のATMって一台の維持費が月百万するらしい)の維持費を払ってもなお、預金者からの預金を目減りさせないのは、利子を取って他に金を貸し出しているからだ。では銀行にお金を払い続けている企業とはどのようなものなのか。利益を上げられなくて倒産するような企業には銀行はお金を貸せません。倒産されると貸したお金が返ってこないからです。利益を上げて、儲けたお金で借金の利子だけでなく、借金の元本を返却しようとする企業も困ります。元本を返されたら、次から利益が上がらなくなるからです。理想を言えば、儲かっているのに利子だけしか返さない企業が良い企業です。高度成長期にはそういう企業がありえたんですよ。鉄工所とかで、設備投資に膨大な資金がいる。でも、設備投資をすればするほど生産量が増え、利益が上がる。そういう時代には、銀行はお金を貸す先に困らないわけです。利益を上げるノウハウは確実にあって、資金さえ貸してもらえればいくらでも利益を上げられる。それは、日本が発展途上国で、一ドル=360円で、日本の人件費がアメリカの三分の一で済み、アメリカと同じ設備を日本につくりさえすれば、アメリカと同じ物をより安く作れた時代の話です。いま、1ドル=120円で中国では日本の三分の一の人件費で人を雇えます。既存のノウハウで物を作るのであれば中国で作った方が安い。1ドル=120円で人件費を払うなら、他の国の人が出来ないやり方で、他の国の人が作らなかった物を作らないと売れない。

デフレと言うのは、要は円が高くなった分、外国から安い物が入ってきた。生産における対外競争力がなくなった分、購買力における対外競争力がついたということだと思うんですよ。お金をためる、先進国になるってことはそういうことだと思うんです。団塊世代はデフレ=生産における対外競争力の低下にすごく危機感を持ってますが、じゃあ、日本の関税をさらに上げて保護貿易に徹し、ガンガン物を輸出すれば、さらに円が高くなって、さらに日本の人件費は外国と比べて高くなるだけです。ではどうすれば良いのか?途上国が作らないような新製品・新技術をガンガン開発して、国際特許をいっぱい取って。という方法もあるのですが、特許の有効期限が五年だとすれば、五年後には途上国ももっと安く同じ物を作れるわけです。さらに言えば、新製品で儲けた多くの企業がわずか数年で倒産してる例がここ数年多いんです。最初にプリクラを作った会社、最初にポケベルブームを起した会社、携帯電話ブームをつくった光通信や、たまごっちをつくったバンダイも、傾きかけてたりします。たまごっちを例に取ると、たまごっちブームの後、いろんな会社が類似品を出しました、そんな携帯ゲームブームの後に、たまごっちの第二段、天使のたまごっちを、たまごっちの初回生産数の三倍のストックを持って販売開始しましたが、こけてボロボロでしたね。セガに吸収合併されてセガバンダイになるという話もありましたが、それもこけるような有様で。途上国には出来ないような先端の技術を駆使してといったところで、科学の先端を行くような流行って移り変わりが激しくて安定しないんですね。少し前まで女子高生がポケベルでやり取りしてたのに、いつの間にかPHS、携帯電話に移り、ポケベル会社倒産とかね。

銀行にしたところで、昔のように利益を上げるノウハウがあってかつ、元金を返そうとしない会社ってのがなくなって、利益を上げれるか上げれないか分からない新会社・途上国に貸すか、金を貸してもらう必要がない大企業に「税金対策ですから」といって押し付けてくるかしかないんですね。民間であれば絶対に金を貸さないような、資金を回収できる見込みのない公共事業に郵便局がお金を貸してるなどテレビで時々やってます。県が飛行場を作る計画に何千億円貸したけど、完成した飛行場の使い道がないとか、やってて、その赤字は郵便局にお金を預けている人のところにしわ寄せが来るのでしょうけど、郵便局も金の貸し先がないんですよ。資金を貸さなければ、郵便局職員の給料分や郵便局の電気代・ATM維持費等で、預金が目減りしていくし、貸すと返ってこない可能性もある。極端なことを言えば、銀行が二極化する可能性すらあるといいます。元本保証のない証券会社化する銀行と、企業に融資せず、安全に金庫にお金を保管し、その保管の管理費を預金者からもらう警備会社化した銀行と。まあ、どこの金融機関も大変なんですよ。それもこれも円=日本国内の人件費が高くなって、対外競争力がなくなったことに由来するのですが。

かつて今の日本と同じような立場に立ってたアメリカは何をしてるかと言えば。会社に入って2・3年勤めて現場の技術を身に付けたら、会社辞めて大学に行き直して2年でMBA(経営学修士)取って、その後、もう一度同じ会社・同じ業種の会社に入り直すか、自分たちで会社を作る。って言うんですけど、テレビでそれのドキュメンタリー見てたらすごいね。MBAを取るために会社にいるときから、大学で社交して仲間集めて、卒業後4人ぐらいのチームで会社作るんだけど、3ヵ月以内に成果を出さないと倒産らしくて、CADのプログラムを10畳ほどのアパートにみんなで雑魚寝して合宿状態でプログラム組んで、資金協力してくれるよう銀行回って、プログラム買ってくれる企業探して回って、銀行が資金協力するしないの審査をするとき、その審査基準の中に「一日13時間以上働ける」なんて項目あったり、銀行も資金協力だけでなく、プログラムの売り込み先紹介したり、駄目だと思ったら、その会社の社長の首切ったりしてて、見てるとどこかで見たことのある光景なんだな。なにかなぁと思ったら、ロックバンドなんだよ。4人ぐらいの仲間で雑魚寝して合宿して、3ヵ月以内に成果出さなきゃクビで、一日13時間以上働けるか聞かれて。銀行ってのはバンドのプロダクションでさ。日本の銀行と違って、資金協力だけでなく、売り込みもするし、メンバーの誰を首にしろとか、誰を入れろとか、方向性はこれで行けとか、色々手を入れてくる。その新会社が軌道に乗るまで3年ぐらいは色々手を掛ける訳だから、一銀行、一会社だったりする。バンドで言うと、一バンド一プロダクション。そのバンドがこけたらプロダクションも終わり。だから、みんな必死。ジャニーズや吉本興業のような大きいプロダクションだと、日本の「銀行−新会社」の関係に似てるけど、そうじゃなくって、広末と後藤理沙しかいない、広末こけたら、プロダクションも消えるみたいな関係の中で動いてる。

ホットドックプレスみると、日本の会社員も、年収三百万以下の仕事か、アメリカ型のスーパーエリートかの二極に分かれていくという脅しに近い記事があって。年収三百万以下というのは、大卒サラリーマンの一年目の年収かフリーターの年収かぐらいのもんで、ボーナスなしで月収20万とか、そういう話でしょ?専業主婦を前提とした奥さんと子供を養うにはきつい額だ。これも一ドル=360円だった頃の日本のような途上国行ったら、先進国内で使う分の三倍の価値あったりするわけじゃん。日本でも関税引き下げれば、物価はさらに下げられるわけじゃん。しょうがないんだもん。円の価値が三倍に上がっただけで、一ドル360円のとき年収900万円稼いでいた人も、一ドル120円になったら、年収300万円しか稼げないわけでさ。そうじゃないスーパーエリートにでもなろうとしたら、上記のような、ロックバンド的ギャンブル人生送るしかないわけで。そうしたとき、合宿所で雑魚寝して最先端の頂点極めたらぁーってのも良いんだけど、万一失敗したときホームレスになって、劣等資材の生産業者として、日雇いの肉体労働も出来る自分で居たい訳です。

11/24 「それでも癒されたい人のための精神世界ブックガイド」ってのが太田出版から出てて、自分のことをニューエイジだと言われてるような気がして辛かったのですが。オカルト・ニューエイジ・新興宗教、いろんな呼び方があるのですが、それと自分との類似点ってのがある。ニューエイジは嫌いだけど、はたから見ればニューエイジに見られるのか、そういう関係の人からのメールが時々来る。ニューエイジの中にはカトリック・プロテスタントを除く異端のキリスト教やユダヤ教なんかも入っちゃうんですよ。薔薇十字とかフリーメンソンってユダヤ教の影響下にあるわけで、フリーメンソンをオカルト・ニューエイジと呼ぶなら、三大宗教(キリスト教・仏教・イスラム教)以外は全部ニューエイジと下手すると言える。少なくとも上記の本ではそういう扱いでした。

私の感覚では、黒魔術・精神病治療・文学の三つはあるところで一致すると思えるんですね。黒魔術で有名なクローリーの本の中で、「鏡の中の自分を笑わせたいと思ったのに、鏡をどういじくっても鏡の中の顔が笑わない。そんなときは世界=鏡を変えようとするのではなく、自分が変われば良い。自分が笑えば、鏡の中の顔も自然と笑う」ってな内容のことが書いてあって、俺このジャンル素人やし突っ込まれると弱いんやけど、クローリーは黒魔術の入門書の前書き、つまり一番の入り口のところで「世界が自分の思い通りにならないとき、世界を変えようとするのではなく、自分の心の中の解釈を変えれば良い。それが黒魔術の本質だ」ってなこと言ってます。呪文や呪いのわら人形で人を呪い殺す密教や黒魔術は、呪文によって実際にその人を殺せるというよりもむしろ、わら人形に杭を打ち込むことで、自分の中のその人に対する恨みつらみを吐き出し解消するものだと。Aさんを殺したい、でも実際に殺すことは出来ない。そこで、呪いのわら人形を使うことで、Aさんを殺したことにしてしまおう。世界を変える=Aさんを殺すことが不可能なのであれば、解釈を変える=想像の世界でAさんを殺せば良い。これが黒魔術の本質であり、精神病治療や文学の本質でもあると、私は思うわけです。

キリスト教の一派でクエーカー教というのがあるのですが、それも上記の本ではニューエイジ扱いだったんですね。クエーカー教というのはアニミズムに近い。カトリックを教会という制度に依拠する宗教、プロテスタントを聖書という書物とその書物を読む個人の理性に依拠する宗教だとするなら、クエーカー教は万物に宿る精霊に依拠する宗教だと。「クエーカー教徒がアメリカに渡ったとき、現地のインディアンがその考え方は我々のものと一緒だと言った」と上記の本で中沢新一さんが言ってます。大自然や自然を利用して人間がつくった人工物も含めあらゆるものに精霊が宿るというアニミズム的な考えは、古代の日本やアフリカなんかの原始宗教を含め、割とポピュラーな考え方です。そういうアニミズム的な考え方をする社会では死後の世界に関する記述があまりないんですね。死んだら土に返るとか、山の向こうへ行くとか(Ex遠野物語)、一度自然の中に戻ってそしてまた新しい子供として生まれてくる(Ex:リトル・トリー)とか。

ところが三大宗教はみな死んだら、善人は天国、悪人は地獄に落ちると言うんですね。私はこの天国とか地獄という考え方が嫌いで、この発想がどこから来たのだろう?と思ったわけです。天国や地獄が何故嫌いかと言えば簡単な話で、免罪符とか印鑑とか壷とか宗教団体の金集めに使われるでしょ。お金を払えば天国へ行ける、お金を払わなければ地獄へ落ちる。ってな言い方で。いまのイスラム教でもジハード(聖戦)で死ねば、天国へ行ける。日本でも神風特攻隊のバックボーンも、天皇陛下のために命を投げ出せば天国へ行けるという説明があったわけじゃないですか。天国や地獄という概念が、金集めや戦争に利用される。この天国とか地獄という概念は日本では8から10世紀にかけて入ってきて、外来のモダンな思想だったわけです。世界的に見れば古代エジプトのピラミッドの絵に天秤を持って生前にやった良いことと悪いことの重さを測る死の番人などが描かれてて、歴史がある古い思想であるかもしれないのですが、片方でインディアンやアフリカの中ではアニミズム的な宗教が強く残っていると。

天国や地獄という発想がどこから出てきてどう根付いたのか考えたときに、黒魔術に戻るのですが。まあ、普通に生きてれば不満の一つや二つ出てきます。生まれつきルックスの良い奴、生まれつき頭の良い奴、生まれつきスポーツの出来る奴、生まれつき金持ちの奴、それに比べて自分はなんて不幸なんだろう、世の中不公平ばかりだ。で。自分はAさん一筋でがんばってきたのに、生まれつきルックスが良くって口先がうまいだけの女たらしに彼女を取られた。あいつはAさん以外にもいっぱい女の子に手を出してる悪い奴だ。私はAさん一筋なのに、この差はなんだ。不満が生まれます。黒魔術の場合、自分で、そのルックスの良いB君に呪いをかけなくてはいけません。人に隠れてB君に呪いをかけていると自己嫌悪におちいるかも知れません。でも、天国と地獄という発想を使えば、他にも彼女がいるのにAさんを奪ったB君は悪い奴だから地獄へ落ちます。Aさんに一途な愛を通した自分は天国へ行きます。仕返しをしなくても、自然と想像の世界=死後の世界で、私の恨みは晴らされるわけです。

文学というのも基本的には同じ構造を持つわけです。悪い金持ちと善良な貧乏人がいて、悪い金持ちから金を盗み、善良な貧乏人に盗んだ金をばら撒く正義の大泥棒ってな話が、日本だと石川五右衛門、外国だとロビン=フット。石川五右衛門でもキング=ラダイッツでも水戸黄門でも良いんだけど、相手の方が悪いんだけど、向こうの方が力があるから逆らえない。そういう相手に仕返しをしてくれる正義の味方ってのを、空想の中で作って、空想の中で仕返しをする。文学の一パターンですね。このニューエイジ問題、大槻教授・現代芸術がらみでもう少し続きます。

11/18 金の話をしようと思う。経済というより金の話だ。叫ぶ詩人の会代表の金髪先生が放送作家をしていたころ、失業中、友達から誘われてラジオの放送作家を一本引き受けたらいつの間にかレギュラー23本も掛け持ちになって年収が一千万を超えてこれでは駄目だと思って全部やめたという話がある。ラジオの放送作家のギャラがいくらぐらいなのか?計算しやすいよう、レギュラー20本で年収一千万だと仮定して、10本500万、1本50万。これ年収で円換算。週に一回2時間録りで年収50万円だと、年に50回放送あるとして一回一万円。時給五千円。23本掛け持ちで、全部週一だとして、一日3本+αの録り、週休一日だと、一日4本録り、ちょうど8時間労働。でも、実際には録音に立ち会うだけじゃなくって、打ち合わせもあるだろうし、ある程度ネタを準備して出なきゃまずいだろうし、録音場所が違えば移動時間だってあるだろう。某漫才コンビが、ラジオの収録なんて「交通費ぐらいしか出ないんですよ、タクシーで行ったら赤字出るぐらいだ」と言っていた。ラジオで放送作家のギャラと出演者のギャラにどのぐらいの差があるのか分からないが、仮に上記の放送作家のギャラとラジオパーソナリティーのギャラが同じ額だとして計算すると、二時間しゃべって一万円。売り出し中のアイドルや漫才師の場合、交通費で赤字を出しても、取り合えず露出命で関東関西を往復したりすることがある。関西拠点の漫才コンビが、週に一回のラジオの収録のために新幹線で東京に来るとして、二人分の往復の新幹線のチケット4万ぐらいするよな。漫才コンビで一つの枠になってるとして、上記の計算だと一回一万。・・・いくらなんでもそれはないか、交通費の4万ぐらいは出してるのかな?ミニバン使ったら2万で往復できるとか。

11/15 ここのとこ、片桐さんの日記の薬ネタや渡邊さんの日記の文学ネタが面白い。で、俺の日記は消化不良なんだけど、量的なことを考えたときに私の小説がどう失敗しているのかって話で。最近、インターネット創作作家協会で感想もらったのが、「ポエム風味桃太郎」と「かさ」の二作で、原稿用紙にして2・3枚の長さのものだけなんだな。自分の文章に興味がない人に、友達だからという理由だけで読んでもらって感想もらえるのは、原稿用紙10枚程度が限界なんだよ。これは大学の文芸サークルで感想会ってのをやってたんだけど、みんな自分の書いた物を持ち寄って集めて同人誌作って感想言い合うんだけど、江戸時代を舞台にしたチャンバラ小説からサッカーの観戦紀から恋愛シュミレーションゲームのキャラクターが恋愛しまくる話から、TTRPG、私小説、ポエム、政治的な論文、第二次大戦時に使われた艦船の詳細データと内容がバラバラで、各人の興味が一致してない中で読んでもらって感想をもらう。感想会の前に各人が読んでくることになっているのだが実際には感想会の中で読むことになり、3分や5分時間をとったところで、読みきれないものも多い。で、3分から5分で読めないと感想はもらえないのだ。当時の私は感想が欲しいので3分から5分で読めるような物を書いていた。400字詰め原稿用紙一枚一分というのが読むのに掛かる時間の目安だった。実際には字数だけでなく内容によっても読むスピードは変わる。ハイデガーの哲学書とシドニーシェルダンや赤川次郎の小説では読むスピードが当然違うだろう。これは実際に数えたことがあるのだが、少年ジャンプの中で文字が多いといわれるこち亀の一話分の字数が原稿用紙にして3枚半から5枚。字の少ない漫画で2枚半。ジャンプの漫画は連載一回分の字数が平均して3枚半ぐらい。日刊紙の新聞小説が一回分3枚半。60分ドラマの脚本が200字詰めで100枚、普通の文庫本が300〜400、弁当箱サイズといわれる文庫本(京極夏彦とかね)が500〜800。上下刊だとその倍。文庫本読むのに5時間は掛からないとゆう指摘はあるが、読み聞かせなどをするとき、音読して聴いてる人が意味の取れるスピードで読むとき、小説を講談・演劇・ラジオドラマ形式で上演する場合、大体この速度なのだ。そして当時好きだったのは原稿用紙10枚の星新一のショートショートだった。

ところが本にする側からすると、一冊の中に異なるテーマがいっぱい入ってると売りにくいわけです。料理の作り方と子育ての方法が一緒に入ってるぐらいならともかく、禅とバイク修理技術ぐらいにまったく違うものが混在してると誰に向けて書かれた物かがわからない。つまり400枚、上下巻だと800枚ぐらいの長さでワンセット、一つのテーマでこのぐらいの長さが欲しい。短編集でも笑話集・人情話集・怪談話集・艶話集と一貫性が欲しい。星新一はそこをクリアしていたけど、俺はクリアできてない。夏目漱石も新聞小説を書くとき、3枚半の短編としても成立し、かつ長編(3枚半×365日=1000枚)としても導入部がありクライマックスがありといった物を書こうと努力しそして成功していない。短いものというのは書き手としての経験が浅い人でも書けるため、書く力がない人だと思われがちだ。一つの出来事しか書いてない4・5枚の話でなく、一つの人格を持ったある人物の一連の話=小説、その人物が住むある社会の盛衰を書いた大河小説、と物語は進化すると思われてるのが一般論だ。赤川次郎のようにテレビ化されることを前提とした小説を書くなら、心理描写と情景描写を削っても、セリフとト書きだけで一話辺り一時間ドラマなら50枚、二時間なら100枚ないとまずい。枚数が多い分には原作を脚本化する段階で削れるが、少ない物を膨らます場合、例えば星新一の10枚しかない物を50枚に膨らます場合、それは脚本家の新作として扱われる。5倍に膨らませばアイデアは星新一のものであっても全体の75%を作ってる脚本家の新作だってのは一般的な考え方だ。具体的には、トレンディードラマの脚本は映画に元ネタがある場合が多い。トレンディードラマが、3ヵ月クールの一時間ドラマを12回放送、映画が2時間物だとして、6倍に膨らましてる脚本家のオリジナル作品扱いになる。そのため星新一はネタをパクられても許すという方法を取っている(「死神くん」や「ついでにとんちんかん」を描いてたジャンプの漫画家さんが編集者にネタとしてこういう小説も読んで勉強しておいた方が良いと星新一を渡されたが、文字が多くて読めなかったという逸話がある)。逆に最後のトリックの部分を最重要視する本格派推理小説作家、星新一と同じで最後のオチにつなげていくロジックが命でそのロジックを生み出した者に著作権があると考えるミステリー作家達は、物語の中に占星術・カバラ・召還魔術・心理学といった謎解きとはほとんど無関係に思える学術的な文章を間に入れてラストまでの時間稼ぎをする。その知識がどっかの専門書からの流用であったとしても、本編が長くなれば、ドラマ化する際にも原作扱いされるし、盗作もされない、字数を水増しした分、原稿料も水増しできる。私のHPでも短編集よりある程度の長さを持ったものの方が若干カウンターの回りが早いので、これからは長さだ、内容なんて関係ない自動筆記でガンガン書くぞと思っていた矢先(某小説家が修行時代、内容考えずに量だけ早打ちしたら三日で千枚書けて、これでプロに成れると思ったって話があって。あと、赤川次郎さんが小説書くとき、速く大量に書かなきゃいけないんだけど、結末考えずに書いてるから、どうなるか僕も楽しみなんですよって言ってたのも笑えましたね)インターネット創作作家協会で短いのの感想を立て続けにもらって、「どっちなんだよ」と思ってる状態なんですけどね。

11/11 自分の書いてる文章の失敗を語ろうとしてるのだけど、どこから話せば良いのかさっぱりわからない。中上健次の「灰色のコカコーラ(集英社文庫「鳩どもの家」に収録)」村上龍の「限りなく透明に近いブルー」山川健一の「初期短編集」(タイトル忘れた)の三つを見たとき、勝ち組に属してるのは村上龍だけだ。この三つの中で私が一番共感し一番失敗してると思えるのが山川健一だ。

山川健一はごく普通の大学生の生活を書いてる。ロックミュージックとタバコとバイトと女とSEX、アスピリンにクラブ活動。おそらく山川健一は「第三の新人(大江健三郎・石原慎太郎・三島由紀夫)」の人たちのように扱われ振舞うことを想定して、物を書いてる。小説というのは大学生がごく普通の大学生活について書く物のことをいうのだと考えてる。大人達が書く大学生ではなく、大学生自身が書く等身大の大学生の悩みや生活を書こうとしている。この動機はごく普通の高校生がごく普通の高校生を書こうとした堀田あけみのデビュー作「アイコ16歳」と似ている。メディアに流れてる大人たちにゆがめられた若者像を少しでも自分たちの手で修正したい。そういう動機だろう。文芸誌はごく普通の学生がごく普通の学生のために書くものだという考え方は、第三の新人世代が作ったもので、さらに中学高校の文学史の教科書が第三の新人辺りで終わることからも、ある層の人たちには深く浸透した考え方だと思う。

ただこれは、ロックミュージシャンがティーンエジャーに向けて「ドント・トラスト・オーバー・ザ・サーティー」と叫んで物の数年で三十になってしまうのと似ている。堀田あけみの場合、女性であるため、結婚や出産といった多くの同世代が経験する通過儀礼が残されており、等身大の結婚や等身大の出産を描くことが出来た。いまで言う柳美里のようなものだ。山川健一は文庫本5冊目で書くことがなくなって文学の実験に走ってる。初期村上春樹的な実験や割とありがちで誰もが思いつくが効果が上げれない二人称文体などの実験だ。この山川健一の失敗がまんま自分自身の姿に見えるし、学生時代色んな先輩や後輩が書いていた物と同じ方向を向いてる。

中上健次や村上龍は当時流行りだったヒッピーの代表者として、ヒッピーの日常をリアルに書いてる。「灰色のコカコーラ」というのは睡眠薬の錠剤を何錠も入れたコカコーラのことだ。村上龍もマリファナやヘロインの体験を書いている。村上龍や中上健次はドラッグに酔い刹那の享楽に浮かれる現代的な若者というイメージでデビューするが、村上龍はいまでもドラッグをやってるだろうか?中上健次はいつまでドラッグをやっていただろうか?彼らは初めっからドラッグ好きなヒッピーでも享楽に浮かれる若者でもなく、物を書くためにそういう風俗の中に入っていって一日体験取材をしたルポライターでしかなかったのだ。事実エッセーの中で村上龍はヘロインをやったのは一度だけだと書いている。さらに村上龍は中上健次との対談で「お前が出てきたことで自分は楽になった」と言われたと書いている。「野球で足の速いランナーがいたとして、自分よりも足の速い若手が出てきた。スピードではどうやっても勝てないから自分は投手のモーションを盗む技術に絞って磨きをかけるようになった。楽になるとはそういうことだ(ウォーク・ドント・ラン W村上の対談より)」と村上龍は言う。中上健次は村上龍の登場以降、風俗小説をやめて民俗学的な土着の物語を収集する方向へ転換する。

中上健次と村上龍の差を書くと、中上健次はドラッグをやってる若者がどんな生活をしているのかについて、外側から見ている。若者たちの生活がどんな風に見えるかについて、大人たちから社会からどう見えてるかについて書いている。ジャズ喫茶にたむろし、ジャズ喫茶の便所でSEXして、学生運動やアナーキズムに酔いしれ、女が妊娠したと言ってはそこから発生する現実や責任におびえる。そこに書かれてる文章の美しさの違いはあっても、書かれてる内容は大人達が現代の若者の風俗を書いてるような女性週刊誌のコラムやワイドショーのネタとあまり変わらない。

村上龍の書く世界は違う。ドラッグをやったとき、コップがどのように見えるのか、ベッドから眺めた天井がどんな風に呼吸してて、目と目が離れた女を見ると鼻の頭に三つ目の目が見えて怖いとか、LSDで体に熱が帯びてくると熱さを醒ますのに猛烈にヘロインが欲しくなる、とかドラッグをやった状態で世界がどのように見えるのかを書いてる。ドラッグをやってる奴がどんな生活をしてるのかではなく、ドラッグで朦朧としている意識で世界を見るとどう見えるのかを書くということは、中上健次のそれと違ってドラッグをやらなければ書けない内容だ。外側からの観察ではなく内側から書いてる。これ以降村上龍がこういう書き方をしたのは「69」と「映画小説集」ぐらいのものだ。「愛と幻想のファシズム」ではフランスの外人部隊に参加してる日本人傭兵のインタビューを元に小説を書き、「トパーズ」ではSM嬢を、「ラブ&ポップ」では援助交際をする女子高生を、「共生虫」では証券会社につとめるトレーダーを、インタビューして小説化してるが、その場合、「灰色のコカコーラ」程度の情報しか入ってこない。自らフランスの外人部隊に傭兵として参加しない限り、体験者しか知り得ない細部を書くことが出来ないのだ。

ネットで小説を書いてる人はなぜか身辺雑記を書きたがる。そしてそれは身辺雑記であるという地点で商品としては失敗作だ。

朝日新聞社刊・東浩紀著「不過視なものの世界」より
P125「小説というジャンルでは『ここに描かれているのは君だよ』という感情移入のトリックが発達していて、現実世界ではばらばらな読者たちが、同じ主人公に平気で同一化してしまう」
P126より「つまり小説の登場人物たちは、いっけん固有名(単独的なもの)をもってるように見えるけれども、実はそうではない。誰もが感情移入できる、ということはそれは真の固有名ではなく、せいぜいが一般的な性質描写でしかない。」

ネットで小説を書いてる身辺雑記系の人たちは自分の名前(固有名)で勝負をしたがる。自分が有名になれば自分の書いたもの、自分の名前が入ったもの、自分について書いたものが売れると思っている。山川健一は学生が学生を、中上や村上龍はヒッピーがヒッピーを書いたことになってる。「学生」や「ヒッピー」という部族・トライブ・属性・下位文化・サブカルチャーを書いてるのであって、自分の固有名を身辺を書いているのではない。とはいえ、ヒッピー文化に入っていったルポライター中上・村上に比べ、自分が学生であるという属性から学生を書いた山川健一は身辺雑記に近い。若い頃の中上健次が大江健三郎に憧れていたというのは有名な話だが、第三の新人が当時新鮮だったのは、当時文学といえば戦争体験を書くのが当然だった時代に、初めて戦争を書かない世代が生まれた。戦争を知らない平和世代の台頭として驚かれたのであって、80年代の山川健一が、もしくは現在の私なんかが戦争を書かない学生小説を書いたところで新鮮でもなんでもない。

私はずっと身辺雑記を書いてないつもりでいた。こうだと思っていたものが実は違ったというオチ、どんでん返しが必ず最後に付く星新一が好きだった私は、論理的で形式的なものを書いてるつもりだった。Aが犯人のように見えて実は違ったという形式的論理を貫く推理小説などと同じような論理を持ってるつもりだった。一見、ファンタジーのように見えて、成長小説の形式で終わるもの(Ex魔王召還術)、一見、勧善懲悪に見えてそうではないもの(Exどろぼう)、一見、弱者に見えるが実は弱者じゃないもの(Ex:うすのろ・蟻と砂場)。私は小説を読み終わったら、読み始める前と同じ世界に戻ってるという小説を書きたくなかった。現実と小説がつながってる小説を書きたかった。小説の中にしかいないAさんが犯人かと思ったら、小説の中にしかいないBさんが犯人だったではなく、世間で常識とされてるものはこうだけど、実はこうだったという小説を書きたかった。読み終わったあと、読む前とは世界が違って見えるような物を書きたかった。けれど自分の書いてるものは、ショートショートやミステリーの作家が書くような論理的なものではなく、自分の実体験でしかなかったことに気が付いた。実際に自分が見たり聞いたりした夢や空想の世界を書いてる身辺雑記系の人間だということに気が付いた。私の書いてるものが、忘れたい過去と決別するための自己治癒的なセラピーでしかなかったことに気が付いて、ものすごい落ち込みと自己嫌悪が起こったんですね。もちろんいまは回復しましたが。

11/3 サウンドオブミュージックをビデオで観た。オープニングのアルプスの自然を観たときハウス食品劇場のアルプスの少女ハイジをはじめとした世界名作劇場の風景や服装、音楽やシチュエーションに大きな影響を与えていることを感じた。世界名作劇場よりも先に作られた作品であるにもかかわらず、個人的には名作劇場を先に見たため、サウンドオブミュージックは名作劇場系アニメのパロディーに見えた。初めてスターウォーズを観たときも、ガンダムのパクリにみえてその後、ガンダムがスターウォーズのパクリであると思い直したのだが、そのときと似ている。お硬い大佐の家に招かれた奔放な家庭教師というシチュエーションは、ハイジやキャンディーキャンディーのシチュエーションと似ている。偏屈の人間嫌いのおじいさんの家に呼ばれた自由奔放なハイジや堅苦しい上流家庭に招かれた孤児院出身のキャンディーと似ている。

途中、大佐の出張中、子供たちとマリアがハイキングに行くシーンで、歌を歌ってる最中にもコロコロ服が変わるのがシュールだった。

堅苦しい日常の中に、奔放な非日常が入り込むという型は寅さんから、ドラえもんまで一緒でよくある形なのだが、最後、大佐の家庭がナチスから逃れるためにアルプス越えをするところで終わる。この終わり方が正しい成長小説のあり方だと思った。寅さんや金八先生というのは日常の中に非日常が入り込んで、日常に戻って終わる。これを普通ハッピーエンドと呼んでるのだが、私にはハッピーに思えなかった。安全で退屈な日常に戻ることが幸せだとは思えなかったのだ。「バックトゥーザフューチャー」において、映画のラストでは主人公の家の生活ランクは確実に上がっている。「ネバーエンディングストーリー2」ではプールに飛び込む勇気をもてなかった少年が、冒険を経てプールに飛び込めるとこまで成長してる。「大人は判ってくれない」という映画のラストは少年が少年院を脱走し、荒野で独りぼっちになるとこで終わる。子供の頃というのは親や学校に守られた安全で退屈な日常の中にいる。大人になれば自己責任や危険とセットになった自由が手に入る。「大人は判ってくれない」で少年院を脱走した少年は、少年院の中のように食事を与えられることも、雨風をしのげる部屋を与えられることもない。だだっ広い荒野の中で野宿し飢え死にする自由=自己責任を手に入れる。サウンドオブミュージックのラストで一家がナチスの手を逃れてアルプス越えするのも似たようなものだ。ナチスの命令に逆らわずドイツ海軍の大佐として働いていれば、いままで通り白亜の豪邸で生活することが出来る。ナチスに逆らおうとするからホームレスになって、他国に亡命しなければならなくなる。このラストシーンは子供から大人になることの象徴だと思う。子供として親元にいれば自由も自己責任も手に入らないのだが、食う物と住む場所には困らない。そこから外に出る、不安を抱きながらも旅立っていくラストシーンは必ずしもハッピーエンドとはいえないかもしれないが、成長小説としての正しいラストシーンのあり方を示していると思う。

「十六歳のマリンブルー」「曖昧ME」「台風クラブ」「1999年の夏休み」この四つの映画はどこか似てるような気がする。

11/2 ここのとこテンパってた理由ってやつを書くと、NYのテロもあるし、色々あるんだけど自分の書いてる小説が何故どのように駄目なのかってのが、よりはっきり見えてきたってやつでして。これは量的なものと質的なものがあるんだけど質の話すると、

1外国文化の輸入
2純文学
3大衆文学
4雑誌

上記四つの違いってやつが始めの頃の俺には分かってなかった。そして最近分かるようになった。1に関しては鴎外だ漱石だに始まり、村上春樹だってそうだし、ロッキンオンの渋谷陽一にしろ、初期宝島に「植草甚一責任編集」と銘打っていた植草甚一にしろ輸入者じゃん。渋谷陽一は、歌詞カードの付いてない海外版のレコードの批評書くときに、在日の欧米人雇って、歌詞を聞き取らせて、その歌詞を日本語に訳させてその訳に対して批評を書くってことを定着させた人で、植草甚一は元々推理小説の翻訳家でしょ。死刑台のエレベーター訳して、その映画版のサントラがジャズだったことからジャズ関連の仕事に移っていったわけで、ジャズがらみで日米行き来するような人じゃん。1になろうとしたら海外行って住まなきゃいけないんだろうけど、俺語学の勉強大嫌いだし、ガキの頃親の仕事で海外行ってトマトジュースばっか飲まされて嫌になったので絶対に行きたくないでしょ。

2は阪神大震災あったときにテレクラが満員になったって話があって、それはナンパ目的じゃなくっていま自分がどんな体験をして目の前で何が起きてるかについて話したい人が大量に発生して、またそういう話を聞きたい人が大量に発生してテレクラ大盛況だったってんだけど。人間は大事件に巻き込まれて強い精神的ショックを与えられると、そのことを誰かに話してショックを軽減したい、ショックを誰かと共有することで自分が孤独じゃないことを確認したいという動物なんだな。そのとき話される内容ってのが純文学なんだよ。第二次世界大戦にしろ60年安保にしろその経験を誰かに話したいし、そういう大事件に関しての話を聞きたい人も居るわけじゃん。亡命文学とか暗黒文学とか獄中文学ってのは、戦争だの政権争いだのに敗れて刑務所に入ったり外国に逃げたりしてる人の言い分だったり、主張だったりするわけじゃん。

純文学は売れないってなこと言う人居るけど、絶対嘘だと思うんだ。例えば郷ひろみの離婚手記「ダディ」とか飯島愛の自伝「プラトニックセックス」とかが100万部以上売れてるけど、普通の小説家にあれと同じ部数売れって言ってもきついと思うんだ。あれってタレント本だし、センセーショナルだし。でもね、歴史的な大事件の中枢に居た人間が告白手記出せばダディ並みに売れると思うでしょ。宮崎勤とか麻原とか上祐とかオサマ・ビン・ラディンとかタイムリーな時期に大々的にやれば売れるじゃん。で、それが純文学なんだよ。明治の文学は自由民権運動の挫折から来てるって言う人居るんだけど、それだってその運動の中核メンバーが告白手記出せば売れるじゃんそんなの、それと一緒だよ。浅間山荘事件の告白手記とか、安保物だと「二十歳の原点」とか売れてるじゃん。ただ1980年以降日本国内で、戦争や内戦のような国民全員が巻き込まれて否応なく体験させられた危機ってのが起きてないんだよね。だから純文学が発生しない。で、俺は2を書くことも無理だなと思ったわけだ。

3は戯曲なんだな。ネットでさ、小説書いてる人のほとんどは大衆文学とかエンターテイメント系の小説書いてるつもりなんだけど、彼らはストーリーを書きたくてストーリーを書いてるんだけど、商売として成立するのはキャラクターを書いてる小説なんだな。ネットで小説書いてる人の小説はほとんどが身の回りで起きた面白い話で、彼らの話は一話ごとに登場人物が変わるんだよ。今回はAさんという面白い人の話で、その話が終わったらもう二度とAさんが出てこなかったりする。身の回りで起きた面白い話ってのはそんなもんでしょ普通。今回はAさんが起こした面白い事件で次回はBさんで、さらに次回はCさん。戯曲の場合さ、劇団ってのがあって、劇団のメンバーは固定されてて、そのメンバーが毎回全員出て、そしてそのメンバー以外の登場人物は居ないんだよ。男2女2の劇団だったら、常にその人数、その属性での話を作らなきゃいけない。女2人のうち一人が美人で一人が不細工だったら、常に一人が美人で一人が不細工の話を作らなきゃいけない。シチュエーションコメディーってそういうものでシチュエーションがどんなに変わっても登場人物と、登場人物の属性は常に一緒なんだよね。元になった話がAさんの起こした事件とBさんの起こした事件とCさんの起こした事件と全部バラバラでも、変人役はいつも通りAさんで、まじめな一般市民役はいつも通りBさんになる。

ネット小説で見かけるのは、「私の彼は本当に無知で何も知りません。この間私の部屋で、マリリンモンローがつけてたシャネルの5番を見つけた彼。『チャンネルファイブ?イギリスの国営放送か?』だって。シャネルぐらいわかれっつーの」とかこんなんです。で、戯曲ってのは例えば、ドラえもんの脚本の場合、さっきの身の回りで起きた面白い彼の勘違いを元に、ドラえもんとのび太を登場させないと話として成立しません。彼の代わりにシャネルをチャンネルと読むのは、のび太とドラえもんのどちらがふさわしいのか?仮に勘違いするのがのび太だとして、ドラえもんは「のび太くんそれはシャネルだよ」と言ってポケットからどんな道具を出せばいいのか?ネット小説と戯曲の差を伝えたいんだけど、これがドラえもんじゃなくって、水戸黄門でもアンパンマンでもトレンディードラマでもハーレクインロマンスでもコバルト文庫でも一緒です。トレンディードラマの場合、主演が男女何名で恋愛をするってのが先に決まってます。主演をつとめる二枚目役の男女が男女一名づつのこともあれば、男女七人夏物語のときもあったりしますが、ストーリーの型はある程度決まってるわけです。主な登場人物のキャラクターやストーリーの型を作るのが脚本家の仕事で、既にあるキャラクターや型の範囲内で物を書くのがゴーストライターの仕事だとして、身の回りで起きた面白い話をそのまま書いて脚本として成立する可能性はほとんどないでしょう。で、普通に考えて私の書いてる短編小説集ってのは身の回りで起きた面白い話の寄せ集めにしか見えないわけです。つまり典型的な失敗例なんですけどね。

あとさ、こいつ駄目だなと思った例では、エンターテイメントなのに小説の企画書とか書いてる奴居るのね。あらすじだけ書いて「どう思う?」とか言ってくる奴。企画書とかあらすじってさぁ、極端なこと言えばそんなのは編集部とか出版社が作るもので、その枠の中でいかに面白いもの書くかが勝負じゃん?「のび太が困難に直面してドラえもんに助けを求めると、ドラえもんが便利な道具を出してくれて、のび太は助かるが、その道具に頼って楽したりいたずらしたりするうちに、墓穴を掘って失敗する」なんて企画書は書かなくてもドラえもん観てりゃ分かるじゃん。「見習いの魔法使いが、各地を冒険しながら少しづつ成長していく話」とか「世界征服をたくらむ悪の組織とそれと戦う正義の使者が巨大ロボットに乗って戦う話」とかそんな企画書は出版社が決めることであんたが決めるなよとかね。

俺ね、ずっと漫才のこと考えてて。「象さんのポット」という漫才コンビが昔居て、カルト的な人気があったんだ。コンビ名からしてシュールでしょ。象印のポットとポットのお湯が出る部分が象の鼻に似てるってのと掛けてる。あと、コミックパンツで男性用パンツのチンチンの部分が象の鼻になってるのあるじゃん?漫画の中でしか見たことないけど、それも連想させるしね。ダウンタウンの松ちゃんや爆笑問題の太田光系統の漫才をしてたんだけど、コンビの二人ともシュールなんだ、で、結局売れなかったんだけど。シュールなことをやりたいという動機は私の書いた寓話集と似てると思う。で、シュールじゃマニア受けで終わってしまうんだってことが、自分でやってると気づかないけど他人がやってると感じるんだよね。いまだとラーメンズとか「ふかわ りょう」とかさ。ダウンタウンでも爆笑問題でも売れていく段階でベタなものを取り入れて行ったでしょ。太田光が「カルト的な人気を得て、伝説を残して消えていくセックスピストルズの様な道と、みんなの人気を得て安定していくビートルズのような道があって、自分はビートルズを選んだ」ってなことをどっかで書いてたのを読んだことあるんだけど、おそらく伝説を残して消えていくといったとき太田の頭に浮かんだのは象さんのポットだと思うんだ。シュールじゃ何故駄目なのか。象さんのポットの場合二人ともシュールってことはツッコミ役がいないという致命傷があるんだけど、俺の書いてる話もカサとかさ、現実の世界に戻ってこないまま話を終えてる。つまりツッコミのない世界を書いてるから致命傷だともいえる。漫才ってのは二人の間にボケとツッコミとか、破天荒とカタブツとか対立点を作って、二つの文化の言い争いを見て、両方の言い分が理解でき、かつ両方の言い分に共感できるお客さんが笑う形式になってる。が、シュールというのは、客にとって理解できないもの、分かりそうで分からないものを意味し、その地点で共感や理解という漫才の型から外れてしまう。

80年代初頭の漫才ブーム時、主な漫才コンビはみんな笑いを取っていた。笑わせるだけでは勝ち抜けなかったときに、勝ち抜いてこれた人はみんな部族・トライブを表現していた。高校生文化を表現した紳助・竜介、地方出身で単身上京してきた大学生文化を表現したB&B、時事ネタに対応したツービート。やすしきよしの、やっさんは下町文化を、きよしさんは冗談の通じないスクエアなサラリーマン文化を表現していた。テレビのバラエティー番組というのがサーカスのテント公演をルーツにしてるとして、人間の脳が面白いと感じるショーの構成ってのは大体同じなんだよな。美男美女が歌を歌ったりラブシーンを演じたりして、その後に間抜けなピエロが二枚目の真似して失敗して笑いを誘う。ショーを仕切る団長=サーカスのクラウンがTV番組の司会者で、彼は特別変わったことはしない。面白い人を紹介して仕切っていく役割で、観客の代表者として素人のような感想を言う。独創的な芸に走りすぎると観客は彼に感情移入できなくなる。タモリがイグアナや四ヶ国語麻雀、ハナモゲラ語のままで司会すると、初対面のゲストや観客は絡みにくくなってしまう。そういう構成のショー、シャボン玉ホリデーやドリフや笑っていいともを想定してるのだが、そのショーに、分かりやすい笑いを取るピエロ役以外に、シュールという役・シュールというトライブの人間はあまり必要ない。むしろ大学生役や高校生役の方が必要なんだ。何が悲しいったって、アイドルや漫才はトライブの表現だと分かっていたのに、文学がトライブの表現だということに気づくのに何でこんなに時間が掛かったのだろうって奴で。

4の雑誌で、雑誌というのは基本的には商品カタログで、ある特定の業種の広報部なんだというのは分かってるんだけど、ガキの頃なぜ雑誌が好きだったのか考えたら、宝島とかよい子の歌謡曲って、80年代の安全で退屈な遊園地の時代に、異文化を見せてくれる数少ないメディアだったんだ。高校にも行かずにデパートの屋上でぬいぐるみショーの司会やって、カラオケ歌って、握手会してるアイドルって、どう考えても社会からドロップアウトしてる人だったしさ、ドロップアウトをしたらどうなるのかという体験談があの時代すごく面白かった。食うものがなくて小麦粉やふくらし粉を水に溶いてフライパンで焼いて食べる話とか・・それって貧乏系の私小説じゃん。とかね。俺にとって、TVに出てて金稼げてるおニャン子クラブじゃなくって、TVでは見たことないけど、デパートの屋上やレコード店の前で握手会やサイン会やラジカセ一個での路上コンサートをしてるのがアイドルだったんだよ。制服向上委員会(略してSKIというアイドルが昔居たんだ・・いまもまだ続いてる。QJネタだけどね)のコンサートで写真撮影禁止のところを無理やり撮ろうとするカメラ小僧と撮影を止めようとする警備員がもみ合って、カメラの三脚で警備員を殴ってどうこうみたいな話なったときに、制服向上委員会のマネージャーが、クールスの元マネージャーで、「クールス時代と比べればかわいいもんですよ。あの頃はお客さんがナイフで刺されて救急車で運ばれたりしてましたから」なんて言ってるのが、すげーなとか。「そこらのロックバンドよりうちらの方が全然ロックでしょ」なんて言ってるの聞いて、「だよなぁ」と思ったり。非産業的・非商業的なとこがすげー笑えたんだよね。何でこの人たち食えてるんだろう。月一回インディーズで自主制作でコンサートやるのは良いとして、それ以外のときは何してるのだろう?制服向上委員会の人たちは、たぶんバイトや仕事がアイドル以外にあるとして、マネージャーって月一以外は何してるの?何故食えるの?みたいなさ。

10/13 平社員の仕事というのは、現場で働くことで、係長の仕事が新入社員の教育やちょっとした特殊な事態における対応だったり、課長の仕事は平や係長クラスの労務管理だったりします。最近は不景気で、現場の仕事はアルバイトの仕事で、新人バイトの教育や特殊な事態における対応を行うのが大学一年のときから数えて3・4年そのバイトを続けてるバイト長の仕事で、バイトのスケージュールと賃金を管理するのが社員の仕事だったりする(Exファーストフード店など)のですが、与えられた仕事をして出世できるのはここまでで、部長になろうとすると、その会社にとってまだ一切実績のない部門を新たに立ち上げ、定期的に安定して黒字を出せるところまで持っていき、初期投資分を回収することであったり、社長の仕事とは会社をゼロから立ち上げて黒字に持っていくことだったりします。言われたことをやって給料をもらうのではなく、何をやるのかを自分で決めて、人を使ってそれをやって、生産したものを売って、その利益で社員に給料を払うという一連の流れを作れないと部長以上の役職には就けないわけです。

あらかじめ決められた答えに向かって努力するのが課長以下の役職の仕事だとすれば、部長以上の人間は答えのない問いに向かって答えを創造していく仕事です。売れる商品を作ってとか、おいしい料理作ってとか、カッコいい服作ってとか言われた場合、答えは無数にあり、どれが正しい答えかはやってみなければ分からず、かつ最終的には売り上げや利益率といった形で成果を判断されてしまう。そういう仕事です。

私たちは幼い頃から、先生や親の頭の中にある正しい答えをいかにして言い当てるかという教育を受けてきました。答えはいつも一つで、その答えは先生がすでに知っていて教科書にも書いてあって、みんなと同じ答えが常に正しい。そういう教育を受けてきました。会社に入ってからも最初の二・三年は先輩からいろんなことを学び、正しい業務進行を徹底的に身に付けようとしますが、ある日突然、「この事業は赤字だ。君たちが今までやってきたことはみんな無駄だった。不採算部門なのでクビ」などと言われます。リストラってやつです。学校教育の中では言われたことだけをやってれば良いという教育をされ自分の頭で考えること、先生の答えに反論すること、教科書に書かれた答えの間違いを指摘することなどは許されませんでした。会社に入ってからも言われたことだけをきちんとやって、余計なことをやらない言わないYESマンが大事にされると思って居たのですが、現実は違いました。「どうしたら良い?なにがしたい?何が欲しい?」意外なほど会社の偉いさんたちが尋ねてくるのです。

今日本経済が低迷してるのは景気循環説で説明されるような不景気ではなく、1945年の敗戦時に財閥解体がなされ、多くの個人商店・個人事業主が発生し、60年代の高度成長時にそれらの多くが自然淘汰・統廃合されたあと生き残った大企業の創業者が年をとり死に差し掛かってるにもかかわらず、創業者の周囲には自分で答えを創造していける経営者が育ってない、与えられた仕事をこなすだけのYESマンしかいなくなってるという状況だと思うんです。ダイエーでもホンダでも松下でもそうなのですが、敗戦時にスタートした企業が多いために企業の世代交代の時期が日本中で重なってしまってるんですね。

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