HP管理者日記11

見えない敵に監視されてる。

メロン1/27 いや、すごいCDみつけた。既に有名なんかも知れんけどメロン、プラスチックスの中西俊夫さんとCHICAさんが組んだバンドで日本のCLUBミュージックの草分けと言われてるんだけど、プラスチックスファンの私もなんとなく手を出さずに来ていたのだが。Deep Cutというアルバムの裏ジャケットがカッコよかったので借りたら、プラスチックス張りの頭悪そうな奇妙な曲は入りつつ。Farawayという曲がすげーカッコイイの。1987年発売とは思えない。言語的にも音楽的にもすげー前衛で、かつ商業的。なんじゃこりゃ?という驚きが、初めてTokyoNo1ソウルセットを聴いたときや、初めてフリッパーズギターを聴いたときと比べてもすごい。言語も音も訳分かんないもん。

昔日本人の英詞アルバムを日本在住の英語圏出身英語教師が採点という企画があってフリッパーズギターだけが極端に低い点数だったんだ。他のアルバムは作詞や発音に関してネイティブのチェック入ってると思うんだけど、パーフリだけ「lとrの発音が曖昧で、歌詞カードを見ても意味が分からないのに聴いて意味なんて分けるわけがない」という採点で、世界中どこに居ても異邦人なんだろうなパーフリってと思ったんだけど、プラスチックスはそんなのを超えてて、全詞アルファベットだったので英詞バンドかと思ったら、全部ローマ字(笑)。英語も多少入ってるんだけど「パスタ イタリアーナ」とかそんな英語。プラスチックスの歌詞カードで「オリジナリティー99」というのがあって、99%オリジナリティーという意味かと思ったら歌は「オリジナリティー ナ・ナ・ナ・ナ・ナ・ナイ」と歌ってるの。それ英語じゃないから(笑)。1980年に既にラップを取り入れてたとも言えるすげーセンス。しかもプラスチックスってデビューがイギリスのインディーレーベルだからね。なんかすごいのか馬鹿なのかよく分からん。いや、あれだけ馬鹿なことってのは、知的じゃなきゃ思いつかないよとかさ。メロンはプロデューサーが外国人で英語圏の人間がかなり入っているので、ひょっとすると通じる英語使ってるのかもしれないけど、なんかすげー変なんだ。日本語なまりの英語とか中国語なまりの英語を真似する日本人とか、そういうレベル超えて四ヶ国語マージャンに近い。あんたらだけだよこんな発音!と思わせる凄みがあるし、新しい日本語ってこうして生まれるんだろうなというインパクトがある。d.e.p.に屋敷豪太さんが参加してて、「チェリーレッドの屋敷豪太さん」というふれこみだったのですが私はチェリーレッド自体知らなくて、でも名前はどこかで聞いたことがある。どこだろう?と思っていたら、メロンでした。ちなみにd.e.p.の佐久間正英さんも元プラスチックスで、GOTAさん自身はプラスチックスではないけどメロンに居て、佐久間さんとGOTAさんのつながりはここだったのだなと思ったり。

1/25 最近みたビデオ。ザ・モンキーズ「TVショー1」、「キングダム・オブ・ノイズ/ジャパニーズノイズセレクション」、ジュネ「ロック・オブ・ロマンス カルト・オペラ・トウキョウ 1993」。CDはコージー冨田の「Cozy-en」。モンキーズは大橋巨泉がこの番組の紹介を日本のテレビでやっていたらしい。ビートルズの二番煎じバンドだが当時は大橋巨泉がモンキーズを紹介する番組をTVでやっていたため、モンキーズの方が日本ではメジャーだったとかいう。モンキーズのテーマから始まるこの番組だが、このモンキーズのテーマを聴いて真っ先に浮かぶのが「タイマーズのテーマ」まんまパクリというかコピーというか、記憶が正しければ「デイドリームビリーバー」の方はカバーで「タイマーズのテーマ」はオリジナル扱いだったような気が。ボブディランの「風に吹かれて」のパクリもタイマーズしてたよねとか。ビデオの内容的にはアイドルコントでビートルズの映画が大人気のビートルズという設定でコントをやっているのに対し、モンキーズはこれから売れようとしてる無名の若者バンドの設定でコントをやってる。誰かがビートルズの映画を世界初のミュージックビデオと言っていたけど、さかのぼるとプレスリーだって音楽映画出てたし、まあ、ビートルズのマッシュルームカットの元ネタは多分ヘップバーンで、アイドルコント映画もヘップバーンの「アイドルを探せ」の方が先だと思うんだ。モンキーズのTVとビートルズの映画とどっちが先か?ってのはよく知らないけど、どっちかが世界初って訳ではないと思う。

ノイズはAUBU、cccc、非常階段、インキャパシタンツ、ソルマニア、マゾンナ、暴力温泉芸者、メルツバウ等出てて、豪華なんだけど、AUBUはノイズ第三世代だとかでホワイトノイズを環境ビデオ風に見せてて、放送時間が終わったTVの砂嵐みたいな感じ、マゾンナ・ソルマニア辺りはノイズと言ったときにイメージするノイズのまんまでディストレーションかかったギターでフリーセッション&大声で奇声をあげててエフェクターのデモンストレーションを聴いてるような感じで、メルツバウはもっと音楽寄りで、インキャパシタンツと非常階段はチューブかボーカル用エフェクターか知らないけどそんなのに声吹き込んで音出してるのが多分他との差別化になってて、暴力温泉芸者はサウンドスケープ風効果音集、一番インパクトがあったのは、ビデオのエンドロールが終わった後、しばらく真っ暗な画面が続いた後に流れた映像です。ライブ風景を撮ったと思われる乱れた映像をバックに留守電の再生で「もしもし山塚です。あのー、ビデオの件聞きました。ビデオなんかないかいなとハナタラシのを探してたんですが、ぼくビデオ作るような機材まったく持っていなくて、楽器自体も故障してるんですね。ちょっと13日までに何を送ったら良いのか分からなくて困っております。一応、今回棄権させてもらおうかなと思って電話させてもろたんです。申し訳ございません。また何かありましたらお勧め下さい。どうもすいませんでした。失礼します。」山塚EYEさんの生声にドキドキしながらも、関西弁という理由だけで喋りがおっさん臭くなってしまう。

オートモッドのジュネさんのビデオは、日本のビジュアル系・シアトリカルロックの元祖と言われているだけに一度観てみたくて、オートモッド時代は解散ツアー時から人気が出てきて辞められなくなったという話がある。ちなみに解散ツアー時のメンバーはボーカルのジュネ以外みんなBOφWYと同じメンバー。氷室とジュネの間でメンバーの取り合いがあったのかなかったのか。ビジュアル系のルーツが寺山修司・唐十郎・暗黒舞踏にあるとする説を裏付けるようなビデオでまずSMショーから始まるんだけど、そのSMショーが家畜人ヤプーや澁澤龍彦を連想させ、次に詩の朗読に行くんだけどその詩が寺山修司を連想させる。ヌードダンサーをステージに上げる手法はレディースルーム、SM嬢がステージに上がるのは初期非常階段('80)もやっていた。頭の片側そって、もう片側をパーマってジュネの髪形好きだし、バックの演奏すげー上手いし、でも、ボーカルの発音が何を言ってるのか分からなくて曲に感情移入できないのと、歌も下手するとベーシストのコーラスの方が上手かったりする。踊りながら歌うことの困難さを感じさせるビデオです。メンバー紹介でダンサーが9人いてギター・ベース・ドラム・サックス・ボーカル含めて音楽パートは5人。良い悪いじゃなくそれがシアトリカル(=演劇的)ロックなのでしょうきっと。コージー冨田の「Cozy-en」はハズレ。一曲目が物まねメドレーで二曲目は鈴木雅之の物まねで一曲歌う。やすしきよしのCD聴いてもそうなんだけど、無理にリミックスして音楽にするより普通に物まねだけの方が面白い。

1/24 今の景気に関してよく「民間ががんばらないと、いつまでも政府に頼ってちゃ駄目なんだ」とかTVが言ってて、俺はちょっと違うと思うんだ。政府に頼っちゃ駄目ってのは、公共事業に頼るなって意味だと思うんだけど、アメリカ経済の回復は一つは金融、もう一つがITだったわけだ。パソコンのOSに関して、今でもMS−Winより日本製のTRONの方が優れてるって話があって、モバイルや家電製品のOSなんかだと「モーター何回回るまでにこの処理をする」という命令が出来るTRONの方ができないMS−Winより優れてるって言うんだ。それを貿易摩擦で日本が儲け過ぎだからTRONの開発は辞めましょう。とアメリカ政府に言われて、OKしたからOSは全部アメリカ製。OSがアメリカ製だと、OSの仕様書が全部英語で書かれるから当然そのOS上で動くソフトの開発もアメリカ有利。これは民間でなく政府の敗北であり失敗なんだ。

金融だって、ある時期まで日本の銀行が世界のトップだったのをアメリカが有利なように金融のルールを政府が譲ったんだよ。自己資本率5%以上というのは、5円しかお金を持ってないオーナーは100円を動かす銀行しか作れないけど、500円持ってるオーナーは一万円を動かす銀行を作れるということで、金持ち有利の政策なんだな。これは機会均等法に触れるんじゃないかと。チャンスが平等にあり、結果は不平等になるのがアメリカ式の平等だとすると、5円しか持たないオーナーと500円持ってるオーナーで機会の平等性が異なるのはおかしい。銀行の仕事がお金を運用することであるなら、運用後の利益率を見て優れた銀行とそうでない銀行を決めるべきなのに、オーナーが金持ちか金持ちじゃないかで判断するのは間違ってる。何を良いたいかと言うと、日本は第二次大戦後、財閥解体されてそこで一度金持ちと貧乏人の差が0になってるんだ。だから今の日本の資本家はみな一代で築いた資産でしかない。ちなみに鈴木その子さんは死んだとき資産が80億円だっけ?アメリカは新大陸に渡ってきた地点でみんな資産がゼロになってるけどそれ以後に1960年代のケネディーがアメリカ移民3代目だったこと考えれば、日本より資本に歴史があるし貧富の差は大きい。アメリカは金持ち三人だけで銀行作ったりしてる。80億円の資産を仮に相続したとして、日本人のサラリーマンの平均生涯賃金2億だとして、40回遊んで暮らせるのか。そうなるとその金をどう運用するのかが仕事になるわけじゃん。80億相続するの分かってるのに会社員しようなんて思わないよね。80億円を運用する専門家雇って、上手くお金が増えだすと、金持ちの友人にも声かけてさ、80億円ずつ持ち寄って240億円の私的運用機関みたいなの作るわけじゃん。三人しか預金者いなかったらオーナーの自己資本率33%だよね。でも日本って、金持ち=財閥がファシズムを生み出したとして、GHQに財閥解体されたのが1945年。その地点では全員貧乏人で、そっからよーいドンでスタートしてる。仮に日本には大銀行が6行しかなくって、一億二千万人いたら、一銀行に二千万人がお金を預けてると。一人、一円づつお金を預けてるとして二千万円の5%、百万円の自己資本が無いと銀行は経営できない。銀行のオーナーは他の人の百万倍のお金を持ってないと銀行経営できないわけだ。経営手腕があるかないかじゃなく、自己資本率だけをみられちゃうとそうなるよね。アメリカが60年代に移民三代目だったとすると日本は2000年代でやっと移民三代目、敗戦から数えて三代目ぐらいになってるので、そこまでのスーパー資本家が居ないんだよ。それはきっと良いことでもあると思うんだけど、自己資本率5%を適用しようとすると貧富の差が少ない日本では難しい。ちなみにその自己資本率もアメリカ政府に言われて日本政府が決定した、民間の問題でなく政府の問題なんだ。

まあ、上記の自己資本率の例は話を極端にしちゃってるけど、景気をどうやって回復するかみたいな話を田原総一郎がするとき、最近インフレターゲットの話ばかり出るんだ。この間、ニュースステーションにアメリカの偉い経済学者(サマーズ財務長官の恩師だそうだ)が出てて、「日本は物を生産する技術はある。でも信用がない。信用を回復するために政府が株を買うべきだ」なんて言ってるわけ。政府が特定の企業の株を買って株価を上げるなんて政府の公共性を損なうんじゃないかと思う。ただ、信用が無くなってるってとこは正しい。一千万円の土地に工場があって、月に一万円の利益を出すんだけど、土地の評価額が500万円に落ちてしまって、銀行は土地の値段が下がった500万円分の担保か金をよこせと工場に言う。でも工場は月に一万円しか払えない。だったらそんな工場つぶしてしまいましょうという倒産が多いわけでしょ。したら、土地の値段を上げる・・せめて維持すりゃ良いんだけど、何故土地の値段が下がるかというと、ヤクザ屋さんがいるからやん。ほんの数年前まで朝生でもそれ言ってたのにいつの間にか言わなくなったのは何故なんやろ。ヤクザ屋さんの問題は解決したのかな。某芸能事務所が13億円で都心のビルを買った。そのビルは第五次抵当までついてて、異なる組が3つぐらい居座っていた。普通の素人には手を出せない土地だった。その芸能事務所は組関係の人をきれいに処理して18億でそのビルを売った。というネタが「噂の真相」に載ってるわけだ。ブラックジャーナリズムってこういうネタ強いね。さらにいうと芸能事務所ってやっぱり組関係に顔利くのな。ビルから人を立ち退かして転売するだけで5億円の儲け。生涯賃金2人半ですか。ぼろ儲けなのか何なのか、素人にはできない商売だとは思いますが。

企業がお金を借りるとき大抵本社のビルや土地を担保にお金を借りる。その企業が倒産すると、銀行がその土地の所有者になるわけだが、企業がその土地を担保に別のところからもお金を借りていたら、銀行は第一次抵当で、もう一方のところが第二次抵当権を持つ。銀行が貸していたお金よりも高い額で土地が売れたら、第二次抵当のところにも残りのお金がいく。でも、第三次・第四次抵当になるとお金はほとんど回ってこない。法的な優先権は第一次抵当権を持つところにあるからだ。ところがサンデープロジェクトで話題になっていたシステム金融やブラック可のところは、第三次でも第四次でも入り込む。第三次の権利しかなくても、その担保となるビルに組関係者が住んでしまえば居住権が発生してビルを壊せなくなる。ビルや土地から離れて欲しければ金を払えという形で第三次抵当権を持つ者が第一次抵当権を持つものに迫る。現行法では警察は民事不介入ということでそういう問題には関わらない。一千万円の土地に八百万要求してる組関係者が居座ると実質その土地は二百万になる。人が居座ったままその二百万で売買が成立すると、その周囲の土地の評価額まで二百万台に下がる。資産デフレを解決するにはインフレターゲットでは解決できない。これも民間の問題でなく治安を預かる政府の問題だ。組関係者を立ち退かせるのが警察の力ではどうにもならなくて、機動隊を出せる法律を作らなきゃいけないというような話が一時期出てたのにいつの間にか話題がインフレターゲットになってるのがよく分からない。治安関係でさらに言うと、暴力団新法以後、自殺者が増えている。鉄砲玉が人を殺しても上の組長クラスまで監督責任で捕まる新法以後、自殺扱いされる他殺が増えてて、一番有名なのが民暴の女を撮った映画監督で、お酒を飲めないし飲まなかった監督が致死量に相当するお酒を飲んでビルから飛んだと。遺族は他殺だと言っているけど警察は自殺で処理。

噂の真相ネタなんだけどさ、芸能界ってそっち関係と美空ひばりの時代からつながりあったりするわけやん。ある人気投票の投票権を持ってる人達を芸能事務所が接待する。散々飲んで食って女はべらせて、遊ぶだけ遊んで最後に「お土産です」と言って紙袋渡される。その紙袋には200万円入っていたと。その接待を受けて、その芸能事務所の希望にそぐわない方向で権限を使うと自殺するんだと。一昨年、その特殊な権限を持つ人の中から3人自殺者が出た。と言うんだよね。ただの都市伝説かもしれんよ。噂の域を出ないかも知れんけど、その権限を持つ人、おそらく30名ぐらいだと思うけど、その中から年間三人の自殺者は偶然と言いがたいものあるよね。不況による自殺者の急増とか言うけど、そのうち何人が他殺かなというね。凶悪犯の検挙率がここ数年極端に減っていると。凶悪犯の検挙は民間でなく政府の領域で、かつ他殺を自殺扱いしているという警察への不信感は、土地に居座る人の発言権を増すことになるし、土地の値段を下げ、倒産を増やす要因になっていると思う。長い床屋政談だけどね。

1/23 日本人の勤労者の四人に一人は税金を払ってないとか、妻と子供一人の会社員の場合、三百二十万円以上稼いででないと税が掛からない。こんな状態だから日本の財政は赤字なんだとか何とか日曜朝のテレビ番組で言ってるけどね、じゃあ言わせてもらうよ。俺会社員していたとき、年収200万台だったけど所得税天引きされてたぜ、吉本の芸人一番下っ端は一回漫才やってギャラ百円で税引かれて九十円。あれは払わなくて良い税金を引かれてたことになるの?日本人は税金払ってないみたいなこと竹村健一にテレビ越しで言われるのも頭くるけど、じゃあ俺の払ってた金は税じゃなくてどこに行ってたんだって話だよな。誰かガメてる奴がいるんだよ。国か会社か知らないけどさぁ、四人に一人が税の支払い義務がなくて税を払ってないみたいな言い方するけど、リーマンはみんな給料天引きだぜ。どうやって脱税すんだよ。申告したら戻ってくるのかその金は?税務署は何、税を納め忘れると摘発するけど間違えて多く払った分は教えてくれないのかよ。

tommyトミー・フェブラリー、ブリリアントグリーンのボーカルのソロプロジェクトですが、80年代ポップという方向性で。面白いのは振り付け。80年代のアイドルってミニスカでステージ立つと、ステージ最前列からはそれだけでパンチラ気味になるのですが、振り付けの中に必ずパンツが見えるような動きが入ってるんですね。プロのカメラマンは振り付けを覚えてステージに挑み400ミリの望遠でそのシーン押さえて雑誌に売り込み。これ鉄則。で、トミーもその振り付け入ってるんですよ。別にアイドルじゃないんでパンツルックでズボンで踊っても良いだろと個人的には思うのですが、あえてスカートで踊ってます。でも仮にもブリグリのボーカルがパンチラはまずいだろと、なったときに片手片足上げてジャンプするパンチラ振り付けをどうクリアするのか?ロックバンドのボーカルなんだから、振り付け変えればすむ問題だと思うんですよ。普通はそっちを選ぶ。でも、トミーフェブラリーは違った。あげない方の手でスカート押さえて遠慮がちにひざを上げて跳ぶという、パンチラとは違う意味でやらしい方向へ行きました。恥じらい萌え!いい歳してこんなこと書いてる俺も恥ずかしいのだが。DVDでは全身と手で押さえたスカート、恥じらいとためらいの入った表情のUPと三つのアングルから選択できるという特典付きで(嘘)。トミーの何が80年代してるったって、ぼけっとした感じにみえて、女性アイドルが一番やりたがる化粧品のCM、それにBGMを提供。か弱そうに見えて一番おいしいところをGETしている。そんな同性からねたまれる最大公約数を踏まえた上で、某ミュージックスという音楽番組で「男性には自分からは告白しません。それをすると向こうを追い詰めることになると思うので。でも、ちゃんと分かるようにはします。徹底的に差別する。えこひいきをする。」同性を敵に回す系のぶりっこってのが最も80年代しているわけで。

ぶりっこの歴史を振り返ると、80年代の松田聖子が、ぶりっこの元祖であり、集大成でもあったと。それに対し、山田邦子が松田聖子と同じぶりっこをしているのに可愛いと言ってもらえない不細工な女の子役を演じ、ぶりっこをコント・パロディーにした。その後、森口博子が松田聖子の物まねをし、どうすれば可愛くみえるのか?松田聖子っぽく見えるのかを解説し始めた。森口博子さんの物まねで一番笑ったのは、ステージの真ん中に出演者が登場する入り口みたいなのがあって、うつむいて肩を落として疲れてる風にあらわれて、疲れた横顔から、客席に向かって90度振り向いた瞬間元気いっぱいの満面の笑顔で歌いだすって奴で、言われてみれば確かにそうなんですよ。スケージュールいっぱいで疲れている。でもステージ上では元気みたいな静と動を分析・解説してました。ぶりっこの演じ手がいて、パロディーがあって、種明かしがある。もう次はないなと思っていたところに、PUFFYが出てきて、すごく斬新であると同時にPUFFYのやってるぶりっこの元ネタが分からなくて苦心したのですが、テレビの前のお母さん、ありましたよ、娘さんの元ネタ、うちのスタッフが日本全国駆けずり回り、やっとみつけてきました(コージー冨田の島田紳介風に)。PUFFYの元ネタ、キャピキャピしたりカマトトぶったりという伝統は受け継ぎつつも、独特のイントネーションでしゃべるあれ、パソコンのCMで「12万8千円」とか言ってるあの声とイントネーションは、洋画のセクシー女優の吹き替えをする声優さんの物まねだったんですね。(ちなみにアメリカで放送されてるセーラームーンは声がお色気ムンムンに仕上がっててちょっと違和感があるby宇多田ヒカル)鼻濁音を重要視するアナウンサーのしゃべりをパロディーにしたときにすべての声が鼻声になる(Ex山瀬まみ・スーパーベルズ)。鼻声になるのは性能の悪いマイクで何を言っているのか分かるようにしゃべろうとすると、警察・タクシーの無線や列車のアナウンス・パチンコ屋やスーパーの店内放送などまず、鼻から息を抜く発声の練習をさせられるからだそうです(何故か東北弁に聴こえる)。その発声で、セクシーなイントネーションでしゃべろうとする(Exルパン三世の峰不二子・マリリンモンローがケネディー大統領に歌ったハッピバースデートゥユー)とああゆう声になる。キムタクの演技も元ネタ探しの宝庫なんだけど、体感エレベーターの演技が真田広之・刑事物語が松田優作なのはそのままだとして、アイドルアイドルした役でたどたどしいしゃべりをするあの演技の元ネタがすごく気になる。いまのところ、チェキラ!のこずえ鈴しか思い浮かばないんだけど、もう少し近い人いるような気がするんだ。初期藤井隆のようなオカマキャラで売ってるタレントさん(Ex第*回ジュノンシンデレラボーイの定虎さん。)とかああゆう感じかなぁ思ったりね。(8/9アイドルアイドルした役でたどたどしいしゃべりをするキムタクの演技の元ネタが分かった。学校Vで自閉症の子供役を演じた黒田勇樹さんのマネやよ、あれ。)

1/14 「空想哲学読本」という本がある。この本の著者は哲学をアニメや特撮怪獣映画や戦隊物に例えて分かりやすく哲学を語ろうとする。「ソフィーの世界」が流行ったときに、パロディーで「ゾフィーの世界」というタイトルで哲学をウルトラマンに例えて語ろうとして没った企画の敗者復活本らしい。面白いのはこの著者が予備校教師であることだ。1980年代後半から90年代頭にかけてインディーズで何かをやりたいと思ってた人はみんな予備校教師だったんだよね(ちなみに80年代前半はコンビニ店員だった)。第二次ベビーブーマーの頂点が受験したのが92年だから、その頃ぐらいまでは年収一千万を超えるカリスマ予備校教師ってのがいて、それ以後は予備校教師からプログラマーに転進する人が増える(例えば91年から出てるレビュー誌ショートカットの編集者の方は元予備校教師で99年からSEをされている。音楽誌クッキーシーンに連載があるらしい)。この空想哲学読本の著者はあとがきで、「予備校教師は潜在的失業者だ」と言い放つ。「予備校との契約は一年で、生徒は授業に来ても来なくてもよく、自分の授業と同じ時間に別の教室で面白い授業があれば、そちらにみんな集まってしまう。教師に生徒を縛り付けるすべはなく、ひたすら面白い授業を心がけるしかない。それで生徒の出席率が半分を切れば自動的に首になる。厳しい世界だ。」一部の予備校においては教師とは寄席芸人なのだ。私が高校のとき教わった塾の先生も、バイトで塾講師をしながらバンド活動をやっていた。バイトで貯めた金で大学院に通い、大学院では日本の古代音楽の研究をし、バンドは日本人バンドと自分以外は全員外国人のバンドの二つ掛け持ち。塾の生徒を自らのライブに誘い、大学内のバンドサークルにも席を置き18歳の大学一年生のバックでベースを弾く30歳。優雅なモラトリアムだった。先日その先生と少し会ったが学術研究は最近ごぶさたで、子供の数の激減で浪人生を対象とした予備校が儲からなくなり、現役高校生相手の塾で、高校進学と共に入塾してきた生徒を夏休み後いかにしてつなぎ止めるかに苦しんでいた。院生・予備校教師・SE、若年層を大量に雇用する潜在的失業職の理想と現実にものすごく興味がある。

1/12 人はよく踊るポンポコリンと言いますが、これは本当はおかしいのではないかと思うわけです。踊るポンポコリンという言い方は踊らないポンポコリンがあることを前提にしてますが、そもそもポンポコリン自体が既に踊っているのではないかと、ポンポコリンという言い方そのものに、つまりポンポコリンのあり方そのものが既に踊っていると思われるわけです。こういうことを言うと、「人はポンポコリンになるのではなく、むしろポンポコリンとして生まれてくるのではないか?」と言う人が出てきますが、生まれながらのポンポコリンというのは少しおかしい。いや、中にはいるよ。こいつポンポコリンちゃうかなって奴。でも、人を外見だけでポンポコリンだポンポコリンじゃないだと判断するのは善くないと思う。みかけはポンポコリンでも、実際にはちゃんとしてる奴も居るし、見た目はキチンとしてても、やっぱりポンポコリンやったという人もいる。ただまあ、これは世間の風潮というのかな。全体にみんなポンポコリンになっては来てる。何でこんなことを書くのかと言うと、キーワード検索したときに、ポンポコリンで何万件ある中で、上位にランクインされようと思ったら、ポンポコリンをページトップで連呼しなあかん。それがポンポコリンか?と言われると、ちょっと留意が必要だ。そもそもポンポコリンの元々の意味はなんだったのか?元々ポンポコリンというような事を言い出したのは、紀貫之が土佐日記で使ったのが始まりで、ルーツはサンスクリット語の仏教用語らしい。興味のある人はポンポコリンで検索かけてみると色々出てきて面白いかもしれない。ただ、その時代のポンポコリンは庶民の手には入らないというより、知識人と一部有閑階級の生活習慣に根付いた概念であったわけだ。それが大衆の中に広まっていったのが、ちびまるこちゃんで知られるBBクイーンズの曲で、踊るポンポコリン。これは元々のポンポコリンからはずいぶん離れた意味で・・と言うより、単に音が面白いからという使われ方だと思いますが、まあ、ポンポコリンではある。ただまあ、これが非常に日本人的、というより、日本の風土にマッチしたんだな。そのようなポンポコリンのあり方、つまり、彼が一人のポンポコリンであるように私もまた一つのポンポコリンであるかもしれないしありたいと思う。というような意味でのポンポコリンの概念は、人類最古の文字だとされるいまから三千五百年前のエジプトのピラミッドにも書かれている。つまり現存する最古の文明も既にポンポコリン足りえていたといえるわけだ。まあ、文明とはそのような物であるし、それ自体がポンポコリンですらあるわけだが。

1/10 古いネタですがM-1グランプリを観た話で。漫才の日本一を決めるM-1なのですが正直、「いま何故漫才なのか?」という問いが自分の中で強くあったわけです。ダウンタウン以後、漫才の面白さの基準がダウンタウンになってしまった。ダウンタウンと比べて面白いのかつまらないのかという見方をされてしまう後発グループとしては、漫才をせずに動きで見せていく、コントに力を入れるというのが主流になったわけです。具体例としてはナインティーナイン・よゐこ・バッファロー吾郎を生み出した「天然素材」世代はアクロバティックな動きや、小劇場系の演技力を使った笑いに力を入れ、しゃべりでダウンタウンと競合することを避けてきました。「天然素材」後の世代もつぶやきシローの方言ネタ・DONDOKODONの物まね&声帯模写ネタ・いっこく堂の腹話術&声帯模写ネタ・コージー冨田のタモリ&原口あきまさのさんまでフリートークをするネタ等、声帯模写・物まね系がメインで漫才で出てきたのは爆笑問題と浅草キッドぐらいの物です。ダウンタウン以後気軽に漫才が出来なくなったのは、一つは漫才の質が向上しすぎて素人が安易に手を出せなくなったというのがありますが、もう一つはダウンタウンが笑いを狭く深い袋小路へ持っていってしまった。というのがあります。漫才が高度化すると共に誰にでも分かる大衆芸能から、分かる人にだけ分かれば良いという高踏芸術になってしまった。ここの部分でダウンタウンの功罪というのは深いと思います。

正直言っていまお笑いで空いてる席はどこかといえば、コントになると私は思うわけです。ウッチャンナンチャンの「笑う犬の生活」があるじゃないかと言われそうですが、あれはお笑いのプロがネタを観せてるだけで、アイドルや話題の人と絡んでないですよね。シャボン玉ホリデーでも、8時だよ全員集合でも、カックラキン大放送でも良いのですが、いま話題のゲストが来て、番組の後半そのゲストが持ち歌を歌うことと交換条件=バーターで、前半コントに出てもらう。これがバラエティーの王道で、そういう意味ではSMAP×SMAPが(もしくは初期HEY!×3が)一番バラエティーしてるんですね。お笑いの素人であるアイドルをコントで使う時に、どの程度お笑いが出来るか分からない相手と絡む時に、彼らのポジションはネタ振りだと思うんですよ。昔、Mr.ビーンが日本に来て、とんねるずの木梨のりたけとコントをしたことがありました。二人の間では打ち合わせも何も通訳なしじゃ言葉も通じないし、お互いにどの程度お笑いが出来るか分からない。そんな中、Mr.ビーンは「君は黙ってイスに座ってるだけで良い」と言って、高級リゾートビーチのセットの中の、デッキチェアに寝転ばせました。セリフも演技指導も何もなしで、アロハシャツに金のネックレス、サングラスにサンバイザーで、英字新聞を開いて寝転んだ木梨が舞台の端にいて、Mr.ビーンは背広であらわれ、周囲に誰も居ないことを確認すると、鼻歌を歌いながら服を脱ぎ水着になろうとします。と。服を脱ぐMr.ビーンの後ろに木梨が居ることに気が付くMr.ビーン。目が合った二人の間に、気まずい空気が流れ、妙な間と客席の笑いが流れます。ビーンは照れくさそうに服を着直して元に戻すが、木梨がビーンから目をそらし、新聞に目を落とすとまた服を脱ごうとする。そして目が合えばまた変な間が流れて脱衣が一時中断する。「だるまさんが転んだ」状態の笑いなのですが、瞬間最大風速で売れてるセレブ芸能人相手に、セリフを覚えさせるような負担をかけず、相手のイメージダウンになるようなこともせず、かつきちんと相手と絡んで笑いを作るネタをMr.ビーンは持っている。この事実に私は感動しました。いま日本で放送作家さんがネタを考えてコントすると、全部リアクション芸になるじゃないですか。常に演者のステータスを落とすようなコントなんですね。それだといま売り出し中の芸能人は出にくいわけですよ。ドリフなんかの古典的ネタは、可愛い女の子と不細工な女の子が同じことやってるのに、周囲の反応が違うというネタで、可愛い女の子役がゲストで、不細工な女の子役がドリフのメンバーの女装とかパターンでしたよね。私は個人的にいまお笑いで空きのポジションはそこだと思うんですけど、とりあえず話題を漫才に戻します。

M-1の採点ですが、東京でお笑いのプロが7名各100点満点で採点を出し、大阪・九州・北海道の地方に巨大スクリーンで漫才を観ているお客さんが各100名づつで一人一点。計千点満点の採点でしたが、DONDOKODONが大阪で100点満点中12点だったんですね。大阪でのみ極端に点数が低いわけです。これが何を意味しているのか。DONDOKODONがやったネタは、既に私もテレビで何度か観ているネタばかりで新しいネタはありませんでした。ダウンタウンなんかも東京に進出してくる前に、大阪で午後4時台の帯番組のメインレギュラーを5年ほどやっていて、夕焼けニャンニャンをやってた頃のとんねるずのようなポジションでした。そこから東京に進出して、東京で3年ほどリアクション芸やらされているのを観て、これがメインレギュラー張っていた芸人の扱いかと思ったことがあります。たぶん、大阪で劇場に来るような人は、芸人がテレビで売れ出す何年も前から劇場でのその人を知って居るのだと思います。劇場5年・大阪ローカル5年・全国ネット5年とか言い出すと、大阪の劇場に来てる人からは「あんたのどこが新人やね。ベテランが何で新人のコンテストに出てるんだ」という感覚だったのではないかと、思われるわけです。それとは逆に「麒麟」という吉本の社員すら名前を覚えてなかったというまったく無名の新人が、シュールなネタで笑いをガンガンとって、東京会場のプロ審査員の点数は最高値だったのですが、地方票が伸びませんでした。一つは知名度、もう一つは狭く深いディープな笑いが裾野を狭めたといったとこでしょうか。麒麟は審査員のダウンタウン松本人志に高く評価されつつも惜しくも落選。12組中4位ぐらいの位置でした。騒がしくテンションをあげていく素人芸の方も票が伸びず、静かにシュールなネタをする玄人芸の人も票が伸びず、声の強弱やテンションのメリハリが要求される難しい試合でした。最終的に優勝したのが「中川家」で、知名度はあり過ぎずなさ過ぎず、ダウンタウン的な漫才と言うよりも、やすしきよしに帰った、確かな技術に支えられた古典芸だったですね。ネタそのものはテレビで二度ほど観たことのある物をそのままされていたのですが、全体に欠点のない安全パイの様な気がします。

個人的に気になったのは決勝で中川家と戦ったハリガネロックで、漫才の冒頭に「今日は若いお客さんいっぱい入っててよかった。いつもの花月の劇場だと、おじいちゃんおばあちゃんばかりで、何を言っても反応せぇへん。」とかつて松本人志が言っていたネタとまったく同じ内容で入り、「『おばあちゃん、誰か会いたい人いるか?』って聞いたら、『美空ひばり』って答える。好きな人は『ひばりちゃん』とか『お嬢』と愛称で呼ぶ。いつまでも若い頃のイメージがあるんやろな。でも、そんなん会えるわけないやろ!もう死んどるわ!」と大声で怒鳴った後、小声でボソッと「もうじき(死後の世界で美空ひばりに)会えるんですけどね」と言って、「川の流れのように〜」とひばりの物まねで歌い出し、美空ひばりのフォローをするのかと思いきや、三途の川に流される美空ひばりのパフォーマンスをしたのは、老人イジメネタで受けたツービートの直系。「川の流れのように」を三途の川にたとえたのが新鮮だったので私は爆笑だったのですが、ネタに入る前の振りがまんま審査員の人のネタをパクってるのがどう作用するのか気になりました。勉強しているな・あいつ俺のファンなんか。とプラスの印象になるのか。何俺のネタパクってるねん。とマイナスになるのか。画面が一瞬松っちゃんの顔を映したように思うのですが表情は読み取れなかったです。決勝の最終審査は、7人のプロのお笑い関係者がハリガネロックと中川家の二組のどちらかに投票するシステムで、審査員の中で中川家の芸風に一番近いやすしきよしの西川きよしさんだけがハリガネロックに投票、残り六人が中川家で、そこだけ見ると、自分と似た芸風の場合、新鮮さを感じなかったり、粗が見えてしまったりと、マイナス面が多いのでしょうか。コンテストは審査員の芸風を微妙にはずして参加するのがコツなのかと。

1/8 デリダが偉大に見えたのは東西冷戦があったからだ。ってなことを柄谷が言ってて、何を言ってるのかずっと分からなかったんだけど、あるときふと思ったのが、70年代の日本のSFたとえば筒井康隆ってのは冷戦構造を前提としたコメディーを書いていたと思うわけ。米ソの対立があって、日本はアメリカ側についているけど、中には左寄りの人もいるわけだ。で、アメリカは正義、ソ連は悪という固定観念をひっくり返したり逆さにしたり裏側から見たりするのがトリックスターと言われたわけだ。デリダにしてもフランスにいて支持政党が社会党だったりするわけで、ディコンストラクションってのも筒井康隆みたいなもんだろと。

アメリカが大恐慌になったときニューディール政策(一時的に社会主義になる政策)をやった。ソ連がペレストロイカをやって、市場経済に移行した。冷戦が終わってみれば、アメリカ型の資本主義(資本の再分配率0%で全員から同じ額づつ税を取って、同じ額づつ分配する)もソ連型の社会主義(資本の再分配率百%でお金のあるところから多くの税を取って分配後の所得を全員同じ額づつにする)も失敗してて、ではどうすれば良いのかがよく分からない。デリダが脱構築しようとした対象がヘーゲルであれアメリカニズムであれ強固で強大だという前提があって始めて成立する。NAMで大きな物語を作ろうとする柄谷と、大きな物語は今の時代にはありえないとする東浩紀は一見正反対に見えて同じことを違う立ち位置から言ってるように思う。

1/7 竹田青嗣のハイデガー入門を久しぶりに読み返した。買ったときは木田元の方が面白いぜと思ったけど、ナチスとハイデガーの絡み辺りは、中々面白い。フリッパーズギターのシングルズに入ってる曲の中に「青い空 白い雲 ホリゾントのおかげ」という歌詞がある。私はずっとホリゾントを地平線ぐらいの意味でとらえてたのだが、ホリゾントという名前の精神安定剤がある。という話があって、そのときは「ああ、そうなんだ」ぐらいだったのが、さらに舞台美術の話で、舞台の床と壁の接する九十度の横の線のことをホリゾントと言い、照明の具合によって客席から舞台の後ろの壁を見えなくすることによって、奥行きを無限大にし、ホリゾントの位置を照明さんの狙った位置に設定する技術がある。他には、ホリゾント(幕)で舞台奥に緩いカーブをもって備え付けられたネズミ色の壁、もしくは舞台上より垂直に下げられた幕のこと。使用目的は、照明効果及び音響効果を高めることである。ホリゾント(ライト)とは、一般に舞台の奥手にあり、背景となるスクリーンを赤、青、緑の三色の光を用いて任意の色に照明するライトです。設置方法によって、ローワーホリゾントライト(一般にローホリ)、アッパーホリゾントライト(一般にアッパー)に分類されます。ローホリは、舞台の床に設置し、アッパーは、天井のバーに設置します。また、1966年発売、ソビエト製の写角120度首振り型パノラマカメラでホリゾントがある。さらに、後期ハイデガーの芸術論の中でこのホリゾントという言葉が、キーワードになっている。と、成りだして、フリッパーズギターの詞=小沢健二とハイデガーの接点を見出すに至ったわけですが、それはそれとして。

ハイデガーがナチスに関与していたことはほぼ疑いがない。同時にハイデガーが思想家として高名であることも疑いがない。また、ハイデガーの思想からナチス支持の姿勢が現れたことも疑いがない。というややこしい状況の中で、ユダヤ人であるデリダがハイデガー的な物を擁護していたりする。柄谷が以前、デリダはヨーロッパにおいてユダヤ人として扱われるが、アメリカにおいてはハイデガーとして扱われている。とデリダの立ち位置の困難さを語っている。私にはヨーロッパにおけるユダヤ人の位置というのがいまいちピンと来ない。それが、竹田青嗣の本では日本における在日韓国人の問題を例にすることで具体的なイメージが沸くようになっている。「醜い韓国人」という韓国人批判の本を韓国人名義で日本人が書いていたりする。これなんかは分かりやすい韓国人差別の例なんだけども、朝まで生テレビで「日本人は素晴らしい。韓国人は駄目だ。」という典型的人種差別を支持する在日韓国人が出てきたりするわけ。こうなるとちょっとややこしい。俺はこれを過剰適応や過剰防御だと考えたわけ。日本に住んでて、これからも日本に住みたいと思ってる韓国の方が、ナショナリストから自分の身を守るために、自ら日本の国粋主義者・人種差別主義者のように振舞う。NYの貿易センタービルの破壊があったとき、アメリカで国旗が大量に売れたというんだよ。しかも有色人種や移民の方が積極的にアメリカ国旗を買って自宅の門に飾ったと。同じくあのテロがあったとき、日本のワイドショーにアメリカ人のカイヤ夫人が子供とポケモンの試写会に出てる映像が映って、「ポケモン大好き」を連呼していた。子供はワイドショーのカメラが嫌いらしく退屈そうに早く帰ろうとするのだけど、カイヤ婦人は「私たち親子はポケモンが大好きで」を連発してて、この場合のポケモンが日本文化の象徴として機能してるのは明白で、納豆大好きやお箸使えますと同じなんだよね。単純な人種差別や国粋主義でなく、その民族の文化に溶け込もうとする異民族がその民族の中にある人種差別や国粋主義にまで過剰適応してしまうというのは非常に気持ちが悪い。(多数者側=差別する側として生活している自分にとっては、少数者がもっと安心して暮らせる社会にしないといまのままでは私は加害者なんだな。という意味になる。)私はデリダのハイデガー擁護も過剰適応の一種に見えていたわけ。で、在日二世の竹田青嗣はこういう。

p223「ヨーロッパ」や「日本」は支配する共同体であり、「ユダヤ人」や「在日」や「アイヌ」は支配される共同体である。だから、ユダヤ的なもの、「在日的なもの」の核には、支配的な共同体に根本的に対抗しこれを打ち破るような原理が孕まれているはずだ――。これはしばしば目にする論理だが、しかしこのような論理は、あまりに素朴かつロマンチックな論理なのである。
わたしはたとえば「在日的なもの」が、「支配的な共同性」に対する反動性(リアクション)によって、かえってこれを裏返した対抗的な「共同性」を作ってしまう事情について、よく知っている。
p224わたしの見るところ、ハイデガーの「反-形而上学」「反-ヨーロッパ中心主義」「反-近代技術」といった図式にも、イギリス、アメリカ、フランスなどの「強者」に圧迫された「弱者」ドイツの、反-支配的思考が隠されていると思う。(中略)リオタールの、「ヨーロッパ的なもの」への対抗原理としての「ユダヤ人」という図式は、そういう意味でむしろ「ハイデガー的な思考」と同形性を持っているようにわたしは思う。

デリダがレヴィナスに対して、ユダヤ教の教義を説いてるだけだと言ってみたり、レビィ・ストロースに対して、ヨーロッパを超える物として未開を持ってくるのは、未開を理想化しすぎているという意味でヨーロッパー中心主義だ。ってなことを言ったりするのも、ここに来て納得できたりするわけだ。デリダの両者への批判が、マトを得てるかどうかは分からないが、少なくともその動機が過剰適応でないことぐらいは分かる。竹田青嗣経由でしか理解出来なかったところに俺の限界があるのだが。

今日の流行語「本田恭章」byよい子歌謡。

1/4 今日、国会図書館に行ったら休刊日で、1/1〜4&1/6〜7まで休みという暴挙。神田神保町によって、「よい子の歌謡曲No14」800円&宝島1976年11月号1000円&1977年9月号1800円&東京おとなクラブ復刻版「初期の東京おとなクラブ」1500円計5100円を入手。初代宝島で「植草甚一責任編集」と銘打っていた植草甚一氏は神保町の古本屋のワゴンで一山百円の本の中から、ヒット作を生み出すのが上手かったらしいが、定価数百円の本を千いくらのプレミア価格で買ってる私は植草甚一には成れない。どれもこれも、高円寺辺りで買えば2・300円で売ってるのだが、神保町と違って物が置いてないことが多く頻繁に足を運ばないと手に入らない。買える値段だったのでつい、衝動買いをしてしまった。買ってしまった理由の一つに、その店で以前、ロッキンオン創刊号と宝島の創刊号、さらに、初期ロッキンオンを支えたカリスマライター岩谷宏氏の初期音楽評論集に、梶本学氏がらみのアイドル論等置いてあったのに高くて手が出せずにいたら、いつの間にか売られてなくなっていた。というのがある。宝島の創刊号は9800円で買えるものではなかったが、ロッキンオンは3000円前後で手が出せない値段ではない。しかも渋谷陽一氏の「アリスクーパー試論」といういまみると恥ずかしいとしか思えないような論文が読めることを考えれば、ギリギリ手を出せる値段である。

伊藤つかさよい子歌謡の表紙は伊藤つかさだ。「アイドル評論を確立したいなどという高尚な目的ではなく、伊藤つかさに会うために同人活動を始めた」と語る梶本学氏の伊藤つかさインタビュー。しかし、結果的にはアイドル評論というものを確立してしまった梶本氏の伊藤つかさインタビューは、いま、凡百のモー娘評論が、おニャン子評論までしか参照せずに語っている中で、自分に多少の戦略的優位をもたらすはずである。たったの800円でアイドル批評の何たるかを継承できるのであれば、これを買わない手はない。で、つい梶本学氏の伊藤つかさインタビューが載ってるものだと勘違いして買ったのですが、中のインタビューが松本伊代だから大失敗。(訂正:伊藤つかさに会うために始めたのはタモリのテレホンショッキング。梶本氏は石野真子に会うためによい子歌謡を始めた。こういう事実誤認で俺の信用なくなるんだよな)

東京おとなクラブ東京おとなクラブはSPA!の中森明夫氏主催の同人誌で、高橋源一郎の「ぼくがしまうま語をしゃべった頃」で、高橋源一郎が吉本隆明に「彼が東京おとなクラブの中森明夫君です」と紹介してるあの、東京おとなクラブだ。内容的には正直言ってあまり面白くない。書いてる人間が宝島とかぶりすぎてるし、いまいちだ。宝島は、QJ初代編集長の赤田祐一氏が「宝島は80年代になって駄目になった」ってなことを言ってたらしいんだな。私は80年代初期の宝島は好きだけど、70年代のそれこそ植草甚一責任編集だった頃の宝島は知らない。で、QJ研究の意味もあって買ったわけだが、フリッパーズギターが話題にして有名になった自販機本ヘブンにこの頃の宝島って触れまくっていたり、なんか全体に同人誌共同体(宝島・ヘブン・よい子歌謡・ロッキンオン)みたいなのが出来上がっちゃってるのね。どちらかというと、そういう共同体を作ろうとまとめていたのが宝島って気がする。ちなみに創刊号の宝島は執筆陣が筒井康隆・小松左京とSFに力をいれ、表紙が横尾忠則作のインドの曼荼羅。80年代初期の宝島が想定読者を「ちょっと頭のいい高校生」と当時の編集長関川誠さんが言ってる通り中高生向けなんだけど、70年代は若い会社員を相手にしているようなところがあって、バックパッカーネタや旅行案内&旅行記が多い。野草の食べ方だとかコミューンの作り方とかいまいちピンと来ない。テレビで言うと11PMby大橋巨泉みたいなかんじ。

12/31 ザ・ベストテン2001を観た。私にとって歌謡曲とアイドルポップスは別物で私が好きなのはアイドルポップスだった。歌謡曲を作曲したり演奏したりしてる人というのは、音大でクラッシックを学び、レコード会社に所属しているような人たちで、アイドルポップスを作曲や演奏している人というのは、インディーズでバンド活動をしそこからメジャーに行った人で、音的にはシンセのキラキラチャラチャラした音が入ったときアイドルポップスだと感じる。ベストテンのバックを見ると、向かって左にバイオリンが四人×四列の十六人。向かって右に管楽器隊とギターとベースと指揮者そして、真ん中に打楽器と女性コーラス三名とその他色々。ざっと見積もって十六名×二+αで五十名近くいる。要するにクラッシックのオーケストラ並みに人が居るのだ。ドリフのバックで演奏していた人たちも指揮者を始めとして多くの人がいた。それらのオーケストラをフルに活用しての音が歌謡曲で、YMOがピンクレディーのバックでUFOを演奏するときシンセを鳴らした。松田聖子が「赤いスイートピー」を歌ったとき、シンセの自動演奏+歌という構成で、スタジオミュージシャンの労働組合から仕事を奪う曲として訴えられたらしい。その辺りからおニャン子クラブまでの音が私にとってアイドルポップスになる。ちなみにおニャン子以降は、森高千里がプリンセスプリンセスのファンで自らドラムを叩いたんだけど、いわゆるロックドラムの音になる。それまでのアイドルポップスは歌を際立たせるためにジャズ系のシャカシャカいうハイハット中心のドラムだったのが、ズン・ダン・ダダ・ダンとキックやスネア中心になる。

榊原郁恵の「夏のお嬢さん」や松田聖子の「赤いスイートピー」のようなアイドルポップスと「夜霧のスキャット」や「愛の水中花」のような歌謡曲の違いというのは音を聞けばはっきりしている。歌謡曲は暗くて、アイドルポップスは明るい。歌謡曲の想定購買層は大人で、アイドルポップスの想定購買層は子供。歌謡曲は日本的な音で、アイドルポップスには洋楽の影響がある。昔はいまのように通信や交通が発達してなかったから外国の文化が入ってきにくかった。だから歌謡曲はドメスチックな音をしている。本当だろうか?美空ひばりの先輩で笠木しずこがいるんだけど、彼女の「東京ブギブギ」辺りは洋楽の影響が顕著に出ていて、美空ひばりの方が日本の伝統的な歌謡曲の音をしている。歌謡曲がテレビ音楽の主流を占めるのが60〜70年代。その頃はロックが日本に入ってこなかったし、一般人はロックや洋楽になんか興味がなかった。これも嘘だ。GSブームの初期段階において、タイガースなどはローリングストーンズのペイントイットブラックをインディーズで英語でやっていて、それがメジャーデビューしたとき、日本語で歌謡曲を歌っていて裏切られたと感じた。と音楽評論家近田春夫氏が「考えるヒット」の中で言っている。ビートルズの来日でも日本中は熱狂したし、ベイシティーローラーズなどはまず日本で人気に火がついたバンドだ。NHKのドキュメンタリーで60年代の嬬恋での音楽フェスティバル。日本版ウッドストックみたいなのを観たんだけど、ハードなドラムが響くグレートフルデッドな音が主流だった。つまり、ロックの需要も供給もはあったのに、テレビでは需要のない歌謡曲しか流れない時代があったわけだ。グループサウンズは髪が長いという理由で紅白歌合戦に出られなかった。それと同じような政治的圧力が民放にも掛かっていたと言える。

竹中労の「ビートルズレポート」という本がある。ビートルズの来日騒ぎをレポートした本だ。この本は当時、ロックがどのような社会的地位に居たのかを知るのにふさわしい。「私は日本共産党員であった(p133)」中国で文化大革命を取材した竹中はこういう「中華人民共和国での幻滅は、言えば絶望に拍車をかけて、マルクス、レーニンへの信仰は消え去っていった。(p131)」「千万、億の単位の少年少女を、大衆狂乱に投げ込んだ文化大革命とビートルズの音楽、それは時代が生んだ双生児であった。(p133)」ロックの演奏中、大声を上げ暴れだす若者たちを見て、当時の大人はロックを社会主義革命・安保闘争と似たような物としてとらえた。だからこそロックは危険でありテレビで放送してはいけない物だった。1966年の話だ。中国の文化大革命の現実を取材して、絶望した竹中労に共産主義革命と似た物としてビートルズが入ってくる。竹中に現れているのは、ビートルズに熱狂する若者たちに対する共感とビートルズに対する無関心とビートルズ来日の仕掛け人に対する反発だ。p63「ビートルズ側の示した条件の中で、最も強く提示されたのは”一万人以上のファンが収容できる会場”という点、六月三十日から三日間といえば、日本では梅雨期に入っている。おそらく雨は降っていると考えねばなるまい。野外劇場などでは、ファンをズブぬれにさせるばかりか、公演を成功させることはむずかしい。」当時、日本に一万人入れる会場といえば日本武道館ぐらいしかなく、日本武道館の館長である正力松太郎は日本最大の発行部数を誇る読売新聞社の社長であり、広報面でも期待できる。さらに、元警視総監でもありビートルズの警護のため警視庁を動かすにも都合がいい。しかし「日本の武道精神を世界に示すための大殿堂(p64)」という国粋主義的な建物で外来のミュージシャンが演奏することに対し右翼からの反発があり、さらに「警備に要する予算が、約九千万円(p103)」であり、私企業の公演にこれだけの国家予算を使うことの是非も論議されている。つまり、60年代にはロックというのは高度に政治的なものであった。当時、反体制的なものとされたロックが日本で大々的に公演できたのは、右翼の大物正力松太郎のバックアップがあってのことだ。

ミュージシャンがテレビに出ないことが美徳とされた時代があった。昔の私はそのような美徳を当然の物だと感じていたが、あるとき音楽にそれほどの興味を持たないおばちゃんに「そんなに良い音楽をしているのなら、そういう音楽をやっている人こそテレビに出て啓蒙すべきでしょ」と言われ、何故テレビに出ないことが美徳とされたのかを考えた時期があった。ミュージシャンがテレビに出ない理由は、個々のミュージシャンによって違いはあると思う。テレビに出ないイメージで売った方がカッコいいとか、テレビだとコントやお笑いを要求されるが、それをしたくないとか。ザ・ベストテンの場合、その週の売り上げがベスト10以内に入って初めて出演依頼が来る。けれど、ライブツアーの予定は三ヶ月前から入れておかなくてはいけない。来るか来ないか分からないTVの出演依頼のためにスケージュールを空けて待つわけにもいかない。ちなみにライブ会場からの中継をベストテンで最初にやったバンドがサザンオールスターズだ。1980年代のベストテンと違って、1960年代にロックがテレビに出なかったのは、安保闘争や暴力革命を連想させる物をテレビに流してはいけないという政治的圧力があったからだと思われる。七三分けでスーツを着たブルーコメッツは紅白に出れて、長髪のタイガースは紅白に出れない中でグループサウンズ(以下GS)はテレビでも映せるような安全な内容へ移行して行く。グループサウンズブームが終わる頃、新しく生まれたフォークグループの人たちはGSの例からテレビに出てはならないということを学んだ。テレビに出ないことでアンダーグラウンドでダークな内容を守ろうとした。GSの残党がテレビタレント化していくのに対し、フォークはまず自主制作でレーベルを作り(Ex岡林信康)、テレビに頼らないところから何かを作ろうとした。必要最低限のギターだけで演奏するスタイルは芸能事務所にバックバンドを用意されなくてもギター一本で全国を回れるという志を示していた。

私はミュージシャンがテレビを嫌う理由を、コントやお笑いをやらなければいけないからだと思っていた。「シャボン玉ホリデー」や「八時だよ!全員集合」「Hey!×3」を観れば分かるのだが、司会にコメディアン、ゲストにミュージシャンでバラエティー番組を組むのが、ゴールデンで視聴率の取れる番組の鉄則で、コメディアンはコント番組だと思って仕事を引き受け、ミュージシャンは音楽番組だと思って仕事を引き受けている。ミュージシャンはライブやレコードの告知と音楽の演奏だけをやって、トークやコントは真面目にやらない。それに対してコメディアンが切れるという場面はザラにある。(例1の辻仁成とやしきたかじんの絡みなど参考)トーク番組でも、人気アイドルがゲストで、司会者は女性週刊誌を騒がせてるアイドルの不倫や恋愛や奇行や離婚の疑惑について聞きたいが、ゲストは映画やドラマやCDの告知だけして、あとは黙っている。なんてパターンはよくある。司会者側からすると「聞かれたくないことがあるなら、そこに話題が行く前に自分から何か面白い話を振って、放送時間分しゃべってくれれば、こちらは振らないのに、自分からは何もしゃべらないでずっと黙ってたら、ゴシップ触れなしゃーないやろ」という話になる。そういうトークが苦手だからフォーク系の人はテレビに出ないのだと思っていたら、さだまさしさんでも南こうせつさんでも松山千春さんでもトーク上手いのね。コンサートの最初の三十分ずっとトークで場を和ませてから歌に入って、二時間ライブで三曲しか歌わないとか普通にあるからね。コンサートでもショーだから結局、テレビのバラエティーとよく似たことしてるんよ。SMAPのコンサートでも三部構成で三分の二がコントっていうからね。トークの技術があるのに、イメージ戦略で大物ぶってテレビに出ない。そういうのをかっこ悪いなとずっと思っていたんだけど、60年代の政治的な背景やGSの教訓を考えれば、フォーク系の人たちがテレビに出ないのも分かるといえば分かる。参考文献「放送禁止歌」

最近、上記の理由とは別の理由でテレビに載りにくいなと思ったのが、POTSHOT。明らかに音楽のクオリティーは高いんだけど、テレビでは伝わらない。ポットショットの良さは音圧にあると思うんだけどその音圧がテレビでは再現されない。昔の人はよく、クラッシックは静かでロックはうるさいと言ったんだけど、そんなのは大嘘で、クラッシックのオーケストラの方が音圧はあるんですね。でかいスピーカーとアンプで電気的に作られた音圧よりも、百数十人が一斉に音を出すクラッシックの方が箱鳴りがすごいんですよ。席で言うと、真ん中から少し後ろ辺りが壁の反響と楽器の生音がぶつかり合うため一番響きます。それに対して電気的な音はミキサー通すときに音が整理されるため、音圧は余りかからない。強弱のメリハリはアコースティックよりあるけど、全体的な重さはアコースティックの方が上ですね。ただそれを集音マイクなどで録ると、百何十種類の楽器音が混じって、さらに壁や床や天井からの反響が混じる。個々のパートのメロディーがエレキに比べてあいまいにしか録れない。それでも生で聴く分には音圧があるから良いんだけど、家庭用の小さいスピーカーで聴いた日にはしょぼくて曖昧な音しか鳴ってなくって辛い。ちなみにクラッシックでも四人編成のカルテットだったら、家庭用のスピーカーで聴いても各パートの音が聴こえるし、何十というパートがあっても最初っからシンセの自動演奏であれば音が混じらないため聴きやすい(ちなみにモーツアルトを扱ったアマデウスという映画のBGMは全部シンセの自動演奏です)。言葉を武器にインパクトのある歌詞で勝負した昔のアングラフォークはライブと深夜ラジオが主な活動の場で、音圧で勝負したロックがライブ、耳障りの良いポップスはTVのBGMやCMソングを作っているとして、ポットショットのようなアコースティックのインストバンドの場合、テレビのスピーカーで音圧を再現できるとは思えないし、言葉のインパクトも期待できないし、テレビ展開できないのならメジャーレーベルに行ってもメリットは無いと。でも、どっかの企業がCMソングに使わないかなぁとか、テレビ用に音数減らしたバージョンでプロモ作ったりとか出来ないかなぁとか、余計なこと考えつつ。いや、スピーカー問題はDVDが5.1chになったら解決するのか?

あと、関係ないけどストーンズのブリッジトゥバビロンのライブビデオ観ると、洋楽だけどすげー歌謡曲チックなステージでさ。歌謡曲って、歌手一人残して、バックバンドはセットの後ろだったりするじゃん。それと同じで、ステージ上ミックジャガーのみで、それ以外のメンバーは後ろの暗いライトも当たらないようなところに居て、ギターソロのときだけ時々キースに照明あたって、それ以外は、サポートの女性コーラスや吹奏楽のサポートメンバーと同じ扱いなの。同じローリングストーンズなのに。で、たまたまそのアルバムがドラムのチャーリーワッツにスポット当たる回だったんだけど、ミックのダンスの途中で時々ドラムスを真上から撮るカメラに切り替わる。ほんとミックジャガーのソロコンサートかと思ったもん。あと、アルバムごとに、今回はロン・ウッド、次はチャーリー・ワッツ、とミックジャガー以外のパートのスポットライト当たる役を変えていく売り方は、シングルごとに中央のメインボーカルが変わるモー娘みたいで、その辺も歌謡曲っぽい。

12/24 J文学の発信源、文藝の新人賞、最新作「インストール」を読んだ。1984年生まれのごく普通の高校三年生の女の子が書いた小説だ。・・ということになっているのだが、本当にゴーストライターは居ないのか?大体受賞の言葉で女子高生が「しらける」なんていう1970年代の流行語について論じ、最後の結びが「〜幸いである」だぜ。女子高生が「幸いである」なんて言うかぁ。

さらに言うと、文藝p130下段9行目「光一は私に気づくと、歓声を上げ、あだっぽい仕草で私に両手を振った。」とあるのですが、「あだ」って何?本当にこれ、17歳の高校3年生が書いたの?私は誤字じゃないかと思って辞書引きましたね、17歳の語彙に対して、28歳のおっさんである私が。広辞林によると「徒:実のないこと。かりそめ。うわついたこと。」「婀娜:女の美しくなまめかしいさま。」光一は男だから、「婀娜」じゃないと思えるんだけど、じゃあ「徒」の方の「あだ」だとして、「かりそめのような仕草で私に手を振った」うわぁ、さすが文学少女!普段から友達同士で手を振ってるときも、こんな風に思ってんだろうな。深いというか、ひねくれてるというか。

他にもあら探しすると、p120下段4行目「そういう、チャットとかいう奴に関する知識って知ってて当たり前、つまり現代人にとって常識のことなの?」「いや、常識って訳じゃないと思います。インターネットに馴染みのない人なら知らなくて当然だと思います。」という会話が小説の中でされるのですが、チャットを知らない人がいる、インターネットを知らない人がいるということを小学六年生が知っているだろうか?確か数年前に、生活科が出来て、小学四年でメールやHP製作を習うのですが、小学生って、自分が習っている程度のことは当然大人も小学生時代に習っていると思い込んでいるでしょう。私が小学二年のとき社会科でハガキを出すというのをやったのですが、そのとき出した相手が祖母で、戦前生まれの祖母が戦時中教育を受けてなかったため、ひらがなとカタカナしか読めず、漢字が読めない。よって私の書いたハガキも一部読めない。そのことに私は驚きましたから。当然、祖母だって学校で漢字ぐらい習っている物だと思っていた。今の小学生も同じじゃないのかぁなぁ。当然、大人は小学生だったとき学校でインターネットを習っていたと思っているのじゃないでしょうか。

あと、この小説、多少性描写があるのですが、本当にこの子が書いたのかな?とプロフィールを見ました。マイナーなエロ雑誌で脱いでいる18歳未満のヌードモデルのプロフィールを見ると共学率が低いんですね。女子校の女の子がたいてい脱いでいます。共学だとマイナーでも自分の載っているエロ雑誌が同じクラスの男の子の目に触れる可能性がある。学校やクラスの男子にヌードモデルをしていることがばれると、クラスに居づらくなる。学級中に自分のヌード写真が出回っちゃいますからね。これが大学生とか中卒となるとまた話が変わるのですが、高校ぐらいだと小学校からずっと一緒だった女友達とか、幼なじみの友人とかに見られるのって結構きついと思うんですよ。いじめとかもあるだろうし。そこで、この作者は女子校なのかプロフィールを見たところ、市立紫野高等学校在学中。共学っぽいですね。小説の中で「クリトリス」とか「ぬれた。一つHな言葉を書かれるたびに、一つHな言葉を書くたびに、下半身が熱くたぎって崩れ落ちそうになり、パンツが湿った。」などと書いているのですが、これ、クラスのみんなはどう言っているんだろう。

1クラスのみんなには受賞したことなんて言ってないし、知らない。
2クラスのみんなは受賞したことは知っているけど、小説の内容なんて読まない。
3クラスの友人で小説読んだ人居るけど、普通。特に反応なし。
4作者の綿矢りささんはクラスの男子のオカズになっている。

1から4のどれなんでしょう?
新人賞の受賞自体誰も知らないってなことになると、危うし文藝!ですが、知った上で誰も読まないですと、危うしインストール!じゃあ、クラスの友人がこの小説読んで反応なしなのか?小説の中身を作者の実体験だと勘違いする読者なんてのは昔から居ます。ちなみに小説の中では、光一という男子生徒と担任の女性教師がデキてるんですが、良いのか?これで本当に作者の担任が女性教師で、作者の知らないところで男性生徒とデキてたら、この小説読んだとき辛いぜ、きっと。作者の綿矢りささん、結構美人だし、クラスの中に彼氏とか、好きな男の子とか、綿矢さんを好きな男子とか居ると思うんだ。そんなときにさぁ、高校の多感な時期に、隣の席の女の子が「ぬれた。一つHな言葉を書かれるたびに、一つHな言葉を書くたびに、下半身が熱くたぎって崩れ落ちそうになり、パンツが湿った。」とか書いてたら、それ読んだ男の子の下半身こそ大変なことになるんじゃないかと。それこそ、女の子のリーダー的な奴から、シカトとか、いじめにあうんじゃないかと。「最近彼女生意気だよねぇ」とか言われて、口きいてもらえなくなるとか。女同士のいじめって結構陰湿だからさ。そういうリスクを考えた上で、それでも綿矢さんはこの小説を書いて発表するだろうか?本当は別のゴーストが書いてんじゃないの?けどさ、このインストールの主人公である朝子は英文系のクラスに居るため、光一を除いてみんな女子の学級だったりする。これが、作者の実体験を反映した物であったとすれば、ほぼ女子校状態なのでこのぐらい書いても大丈夫ってことなのかもしれない。

インストールという小説のタイトルについて考えると、小説の中で、壊れたパソコンにOSを再インストールしてパソコンを使えるようにする天才小学生が出てくるのだが、小説のタイトルは再インストールではなく、インストールであること、そして、主人公の女子高校生が処女であるという設定から考えて、性的ニュアンスがたぶんにあるものだと思われる。小学生の男の子と主人公が押入れの中で風俗の仕事をしているシーンでp128下段6行目「セックスにかなりの警戒心を抱いたりしていた。しかしチャットルームで何人もの盛った男と会っていくうちに、それらのセックスに対する先入観はなぜか取り払われていき、浄化していき、(中略)純粋なおかしさだけが私の中に残った。」と性的成長をしていく主人公が、物語の最後「私は今もあの時と同じように呆然としている。何が変わった?」と自問しながら、「あの青木夫人は派手なパンツははけないくせにブラなら平気なのかと思うと脱力で」と、青木夫人を批判する。青木夫人と主人公はいくつかの共通点がある。青木家で炭酸水を飲むのは青木夫人と主人公だけだとか、会話に関して不器用であるだとかだ。主人公の分身である青木夫人は、下着メーカーから試着品としてもらった派手なH下着の始末に困り、派手なHパンツをダンボール一箱分、主人公に譲る。主人公はその行為に戸惑うわけだが、押入れの中で男子小学生といくつかの性的冒険をした後で、いくつかの人間的成長をした後で、青木夫人=成長前の主人公の分身に対し、上記のような批判的なことを思う。分かりやすく言えば、胸はOKで、インサートは駄目というのは不器用すぎないか?ということだ。このシーンで主人公は何も変わってないということを強調するが、明らかに主人公は成長している。何も変わらないと繰り返す主人公の心理とは裏腹に成長を示すための描写が続く「私は未だ無個性のろくでなし。ただ、今私は人間に会いたいと感じている。」無個性のろくでなしが、OSのインストールされていない、使えないパソコンの比喩で、人に会う=インストールという性的ニュアンスがそこで発生する。もっといえば、その前のシーンで、男性器の隠喩だと思われるキノコがらみのシーンが続く。なめこ汁を食べるシーンやブラジャーを毒キノコにたとえるシーンだ。

物語全体が、性的な意味での成長小説として読めるのと同様に、人間的な意味での成長小説としても読める。「私、毎日みんなと同じ、こんな生活続けてていいのかなあ。みんなと同じ教室で同じ授業受けてて、毎日。」という同じや普通に対する嫌悪感から始まった登校拒否が、天才小学生や人妻風俗嬢との様々な経験や冒険の中で、チャットでスカトロや泉鏡花の話をしてる彼らのような人も会ってみれば意外と普通である。というところから、物語の最後は、普通であることへの肯定で終わる。主人公の何が変わったのか。何が成長したのか。物語の最初にあった退屈で同じことの繰り返しでしかない狭い普通から、ひと月で十五万も稼ぐ天才小学生も、会ってみれば結構普通だった。という広い普通へ言葉の意味が、主人公の世界観が成長したのだと思う。

「具体的な夢はないけど野望はあるわけ。」から始まった自分探しが、「まだお酒も飲めない車も乗れない、ついでにセックスも体験していない処女の十七歳の心に巣食う、この何者にもなれないという枯れた悟りは何だというのだろう。」と展開してゆき、最後には何も変わらないと言って終わるのだが、不思議に暗くないのは、処女=OSのインストールされていない使えないパソコンで、最後まで主人公は自分の役割・目的を持つことができてないにも関わらず、小学生の男子と組むことで月に三十万円稼いだ=自分にそれだけの価値があることを証明できた。ハサミやナイフのように、初めから何かの目的・役割期待があって作られる道具ではなく、作られた後に役割を自分で探さなければならない人間とインストール前のパソコン。物語の前半、壊れて動かなかったパソコンが、OSを再インストールすることによって動いた。これが、主人公の行く末を暗示するため明るくしている。小学生男子が自分の中にインストールされるだけで、月三十万円の価値を生み出した。だったらもっと多くの人に会って、もっと多くの経験をしていこうというわけだ。「今私は人間に会いたいと感じている。昔からの私を知っていて、そしてすぐに行き過ぎてしまわない、生身の人間達に沢山会って、その人達を大切にしたいと思った。」このシーンは、もちろん性的なニュアンスにも取れるし、登校拒否からの脱却とも取れるのだが、何者にもなれないという感覚から始まった自分探しが、人と会うことで何者かに成れるという、他人探しになって終わる場面でもある。

主人公が受けたアダルトチャットの仕事ですが、時給1500円の仕事をAM10時からPM6時までやって、土日抜きでやるというのが元々の依頼なのです。これで本当にひと月で30万円になるのか計算してみました。まず、一日8時間で1万2千円。5月からの一ヶ月という設定で、5月は31日まであって、ゴールデンウィークに子供の日と憲法記念日があって、その間が国民の休日になるため、土日を含めた休日が10日。実質、21日で25万2千円。そのうち本物の雅さんがチャットしてる時間もあるため、実質もっと営業時間は短いと思われる。じゃあ、残業したり土日も働いたりしてたのかと。ですが、小学生の親に見つからないように、主人公が青木さん宅に入らなくてはならない。しかも、主人公は登校拒否中で親にも見つかっちゃいけない。必然的に親や青木さんが仕事に出かけている平日の10時以降しか仕事ができない。土曜は主人公の学校があって、主人公の親が休日、そんな中で親の目を盗んで青木さん宅に行けるのか?という問題ですね。普通に行って25万のところを、30万稼ぐにはあと5日、40時間働く必要がある。午後6時から8時まで、一日平均2時間の残業を小学生がしていたと考えるのが妥当なのではないでしょうか。

本当に17歳の女の子が書いたのか?という始めの疑問から離れてしまった気がするが、この小説はインターネットのアダルトチャットを別の人間が代筆する話である。そして最後には、チャットやメールのやり取りだけでも本人の性別や年齢がばれてしまうという話である。出来ればこの小説自体が、誰か別のゴーストライターによる代筆であることを願う。インストールとはそのような小説なのだから。

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