HP管理人日記6

3/11 俺、自民党のCM作ろうかな思ってね。「あんなのが総理だったら、私がやった方がマシよ!」と主婦が電話で怒鳴ってるCMを自民党が作って話題になったけど、俺やったらもっと上手なCM作れるよ。
デスクと電話が並ぶオフィス
A:部長がお呼びだぞ
いかにも偉いさんの居そうな重役用のドアのアップ。B恐る恐るドアをノック。
いきなり九官鳥のアップ。
九官鳥:コラ!何やってんだバカ!お前なんて辞めちまえ!
でっかい机とイスと窓のある重役部屋。ゴルフウエアを着た森首相が室内ゴルフ練習セットでゴルフをしてる。机の右上には九官鳥を入れた鳥かごがある。
ナレーション:反省だったらサルでも出来る。批判だけなら九官鳥でも。
デカイ文字テロップで「やります自民党!」

俺、自民党支持者ではないし、どっちかってぇーと左寄りなんだけどさ。何でこういうこと言うかってぇーと、これだけ低い支持率なのに森内閣に替わる内閣を作れない野党の責任ってのはどうなってんだって話だよな。森首相がダメだから支持率が低いんでなくって、その森首相より野党の支持率が低いから、森内閣が持つし、より問題が深刻だっていうさ。

問題は色々あるんだ。選挙には世論の反映の部分と集約の部分が必要だってんだけどさ、20%の得票率で当選できてしまう小選挙区制。しかもその小選挙区が地区によって3倍もの一票の格差がある。つまり、農村の過疎地域を支持基盤にしてる自民党は同じ票数から都市政党の3倍の議席を得ているってことになる。朝生で外国人の新聞記者が「一票の格差を是正すれば、自民党は60年代に既に崩壊していたはずだ。」って発言がカッコ良かった。しかも国会内では議員の半数である与党内の根回しだけで全てを決めることができる。

1)議員はその選挙区の20%の選挙民しか代表しない。
2)農村地区は議員の数を都市の3倍送り込んでいる。
3)国会は全議員の半数で全てが決まる。

以上の三つから森さんが全国民の何%を代表してるのか考えよう。1)から議員一人が20%を代表してるとして、その議員の半分に支持されて首相になった森総理は全国民の10%を代表してる。ところが、森さんを支持した議員が全員、一票の格差を利用して農村地区から出てきた自民党議員だとすると、都市の得票率に比べ3倍の議員を送り込んでる計算になるため、3で割らないと正確な支持者数は出ない。10%の3分の1。3%。つまり、森総理は日本全国の3%の国民の代表者なんだな。で、その数字は森内閣の支持率とそう遠くない。で、その3%は各種利益団体の固定票だけで作れてしまったりするんだよ。日本全国に一億二千万人居て、360万人に支持されれば良いわけだからさ。この360万人ってのがどのぐらいの数字かというと、宇多田ヒカルのファーストアルバムの売り上げが800万枚でしょ。全盛期の頃の少年週刊ジャンプの売り上げが800万部。三大紙、読売・朝日・毎日の売り上げが、それぞれ1000万部・400万部・260万部。森首相は朝日と毎日の間ぐらい。宇多田ヒカルの半分。ちなみに当たり前の事だけど、アメリカの大統領は少なくともアメリカ合衆国民の50%は代表してるんだよ。

森内閣に替わる内閣を作れない野党の責任ってのに話戻すと、森首相じゃ何故ダメなのかが、正直言ってよく分からないんだよ。支持率が低い、株価が低迷、これは全て結果であって、森さんが具体的にどんな悪いことをしたから、そうなったのかがよく分からない。もっというと、誰がやっても、同じなんじゃない?株価は低迷して、支持率低い。誰がやってもすぐには変わらないよ。とも言えるわけ。誰がやってもダメな物はダメなんだというニヒリズムは良くないんだけど、そのニヒリズムを超えるには野党が「森さんのこのような政策から株価低迷が始まった」「このようにすれば景気は回復します」という具体的な森首相の政策批判とその対案を出さなきゃダメなんだ。結果が悪いから森さんを下ろそうだと、他の人がやってもすぐには良くならないかもしれない。けど、誰がどんなにきちんとやっても急には良くならないことをみんな分かってるんだけど、やるべき事をやってないから森さんじゃダメだだと、他の人が首相になれば、急には良くならなくても、もう少し長期的な展望をみせてもらえるかもしれないという希望が持てるわけだ。

国会中継みてると、KSD疑惑とか追求して、森さんのどこがダメかを野党が追及してるように見える。でもね、その批判の論調が小沢−自由党ですら60年代の共産党のような論調なんだな。小沢一郎って一応、経世会(旧竹下派・現橋本派・野中さんとか青木さんとか今でも自民党最大派閥なんですね)の中心に居たわけじゃん。金権政治の良い所も悪いところも知ってるわけじゃん。そんな人が金権政治の悪いところは知ってますが、良いところは忘れましたじゃ話にならないんだよ。

17億円の公共事業を発注するのに、議員が仲介手数料五億円も取ってたりするのな。赤字国債を発行してても17億円の公共事業をすれば、17億円が民間の企業に流れて、雇用やなんかの面で役に立ってるかと思ったら、議員さんが中間マージン五億も取って丸投げしてるって最悪やん。マージン1割ぐらいやったら納得もするけど、3割は取り過ぎでっせ。

ってだいぶ前に書いたネタやけど、国会中継で自由党が持ち出してきたネタやねん。国会内で論議するときには、内閣に対して事実関係を問いただす言い方になるのは、まあ、正しいとして、小沢一郎クラスになると、一般の雑誌や新聞にもコラムだのインタビューだののページ持ってるわけやん(Ex夕刊フジ毎週木曜7面)。そこで言ってるのが、自民党は汚職をしてるからダメだって論で、批判のセンスが古いんだ。60年代の共産党というのは自民党にそういう批判を言いました。当時大学生だった第一次ベビーブーマー世代、団塊世代は、汚職は悪い。自民党は間違ってると、思いました。で、いざ大学生が社会に出て、会社員にでもなると、ある一定の仕事に対して金を受け取るのは当然の権利だと、何をするにも金はいると、より大きな仕事をしたければより大きな投資が必要で、より大きな投資をしたければ、より多くの金が要るだろうと、考えるようになる。80年代当時は景気が良くってみんなバブルで、政治家だけ貧乏でいる必要ないじゃん?ってことだったんだ。今わ、みんな貧乏になっちゃってるから相対的にさ、俺達が貧乏なんだから政治家も同じぐらい貧乏じゃないとって論調もあるけどさ。

具体例ださな分からんやろけど、選挙をしようと思ったら金が居るわけだ。朝生で一年生議員二年生議員集めてスイッチ押すやつで、「今回の選挙で一億円以上使った。Yesの方はスイッチをどうぞ」って言ったら、2人居たからね。サラリーマンの平均生涯賃金を約二億だとして、その半分を一回の選挙に使う人が居る。そんな金どうするねんって話やね。金のかからない選挙をすべきだってことで、青島元都知事が、事務所も持たないポスターも貼らない選挙カーも走らせない選挙をやったんだけど、そのとき青島元都知事がね、「私はなーーんにもしないで家でゴロゴロしてたので、今回の選挙に数百万しか使ってない」と言ったのみてビックリしたもんね。家でゴロゴロしてても数百万かかるんだ。やっぱ選挙って恐いなと。

例えば選挙のポスター一つ取っても、みんな結構有名カメラマンさんに高いお金出して取ってもらってたりするんですよ。それに、あのサイズのポスターって一枚いくらするのか知らないけど、カラーコピーだと50円、写真の現像だと500円。実際はその間だと思うけど、仮に一枚500円のポスター三千部刷ったら150万円。選挙カーをレンタカー屋さんから借りてレンタル代1日一万円だとして、ウグイス嬢の日当1日一万だとして、車にウグイス嬢4人乗せて1日走って五万円。1ヶ月フルに走ったら150万円。それにウグイス嬢の衣装代や弁当代や車のガソリン代やは別にかかりますしね。そういう事を考え合わせて行けば、企業献金なしで、個人で選挙なんてできないの分かるでしょ。だから、企業から多少お金をもらっていても多めに見てね。という自民党の論理に、80年代、多くの人は納得したわけです。

政治家というのは事業主なんだ。個人商店の八百屋さんでも、一千万二千万という額が動くでしょ。店舗を持って仕入れして、ビラを配って店員雇ってしていたら、それぐらいのお金の動きはありますよ。という論理に納得したわけです。そういう自民党の論理に納得した上で、批判を展開しようとすれば、「公共事業のキックバック、昔は1割前後だったのが、今この不況の最中3割要求するのはひど過ぎませんか?」とか「普段、規制緩和を訴えてらっしゃるA議員が、規制緩和反対のB社から企業献金受け取るのはおかしくないですか?」とかそういう言い方になると思うんだ。金を受け取る事自体が良い悪いじゃなくって、どこからどのような意図でいくら受け取ったのか。

具体例でいえば、インターネット上での音楽配信を合法的にやろうとすれば、法律を色々整備していかなくてはいけなくなる。有料配信をしたとき、その料金のうちの何%をどこに払うのか。音楽配信会社を作りたいから、早く法律を整備してくれと言われて、整備したと。そのおかげで、音楽配信業界というものが誕生して、そこそこ大きな産業として成立したと。だから、その産業の成立に貢献したA議員に毎年いくら献金するってのは、はたから見てて、全然OKな献金ジャン。80年代の自民党がしてきた説明はそういう説明だったんだよ。

それに対して、上のは、17億円の公共事業を建設大臣の息子さんがやってるA社に依頼しました。A社は何もせずにB社に12億円で丸投げしました。B社の社長やB社と一緒に公共事業の競売に参加した地元建設業者は非常に怒ってます。公共事業に使う金は税金です。12億円で発注できる仕事なのであれば、無駄な税金使わずに始めっから12億円で発注すれば良いし、17億円かかる事業なのであれば、17億円使ってもらって、それだけの経済効果が地元に発生すれば良いわけじゃん。それがさ、5億も中間マージン取るのは取り過ぎだよと。それを上の自民党さんの説明と対比させながら、上手く説明しないと、金を受け取ったから悪いって論だと、どの党だって金なしじゃ選挙なんて出来ないんだしさ、党が運営する政党新聞作ってたりもするわけじゃん。それ自体、金儲けの事業だからやっちゃいけないってことになっちゃうしさ。金その物の批判じゃなくって、その金を受け取った政治家の仕事量や質と照らし合わせて、説明しないとさ。

「反省だったらサルでも出来る。批判だけなら九官鳥でも」ってキャッチコピーに戻ると。昔は野党は批判と反対しかしてこなかった。政権担当能力がないから、自民党内で森さんがダメなら別の人という形で森派から橋本派へ自民党内政権交代だったわけだ。いまマスコミで次の首相とか話でてるけど、全部自民党内の人で、選挙して別の党の誰を総理にしたいなんて話は出ないわけだ。森さんの支持率が低くても野党の支持率はさらに低いちゅう話になってしまう。野党が政権担当能力を持ってる事を見せつけようとすれば、「内閣支持率の低迷」や「株価の低迷」や「景気の低迷」といった結果の連呼でなく、

1)何故そうなったのかをきちんと分析し、その分析をテレビの前でキチンと発表し、
2)森さんの政策に代わる政策を立案し、
3)その政策を実行するためのプランを示す。

とこまでやらなきゃいけない。1)2)だけなら自民党の若手議員でもやってるんだよね。構造改革をやらなきゃいけない。規制緩和をやらなきゃいけない。そんなのはみんな言うんだよ。地価が下がって資産デフレが起きてるのは、競売にかけてる土地にヤクザ屋さんが居座って立ち退いてくれないからだ。イタリアでは、そういうとき軍隊を出動させてでも立ち退かせている。日本も機動隊や自衛隊を出動させてでも、彼らを立ち退かせなきゃならない。ぐらいは、自民党の若手議員も言うんだよ。それは出来るのですか?誰がやるのですか?実行するためには誰を首相にすれば良いのですか?と問われると、自民党の若手議員は黙るんだ。理想論は理想論としてあるんだけど現実には、既得権益を得てる企業から献金もらってる自分達としては、実行すると献金をもらえなくなる。献金もらえなくなると、自分一人だけなら我慢できるとしても他の自民党議員にも迷惑がかかる。他の自民党議員に迷惑がかかると、自民党内のポストや内閣のポストを与えてもらえない。だからできないって話なんだけど。でも、論としては野党の出すやつより自民党の若手議員の出すやつの方が立派だったりするんだな。結局、自民党批判も、シャドウキャビネットも自民党内で作られてしまう。野党が政権交代をしたければ、自民党批判をしてる自民党内の若手議員や反主流派議員に勝たなきゃいけないんだ。でも、野党の自民党批判が与党の与党内与党批判に勝ててない現実ってのは、議員内閣制が機能していないってことなわけで。

・・・あかん。嫌な話題にまで手をつけてしまった。政治・宗教・セックスって初対面の人と話すとき避けるべき三大話らしいけど、三つとも手を出してしまった気がする。嫌なHPになっていく。

大正時代の風俗小説って割りに馬鹿にされがちなんだけどさ、いま考えると実はすごかったのじゃないかと思うんだ。ここでいう風俗というのは時代の流行とか流行りのファッションとかのことで、いまでゆうとプリクラとか日焼けサロンとかルーズソックスとかE-メールが出てくるような小説のことで、いまでいうコバルト文庫やスニーカー文庫のことなんだけど。

大正時代の風俗小説の何がすごいったって、日本に「青春」つう現在でこそダサいんだけど、当時としてはカッコ良かった概念が入ってきたのってこの頃じゃないかと思うんだ。「子供」の概念が生まれたのってそれほど新しくないんだよ。俺、大学で社会史っての習ったんだけど、中世ヨーロッパでは4・5歳になると大人と同じだけしゃべれるし、動けるという事で家の大事な労働力として扱われるわけ。赤ちゃんと大人の間に、子供時代や青春時代なんてものが誕生するには、義務教育が生まれて、文字の読み書きが普及するまで待たなきゃいけないんだ。と、習ったんだけど、日本の中世=江戸時代には元服とかあって、16ぐらいで大人になる通過儀礼があったんだよな。アフリカなんかの無文字社会みても、16ぐらいでバンジージャンプやったり、刺青入れたりして、痛いのや恐いのを我慢出来るようになったから大人ってのがあるけど、それはちょっと置いとこ。江戸時代なんかでも金持ちの子は寺子屋とか行って読み書きそろばん習ったんだろうけど、普通の子は10歳ぐらいで丁稚奉公かなんかに行って、人様の所で礼儀から商売から色々学んで、一人前になってから実家に帰ってきて後継いだりとかしてたわけだ。

大正時代ぐらいやねん。夏休みにさ、家族で親の実家に帰ったりするわけ。東京と違って自然の多い海も見える、山もある。クヌギ林で昆虫捕まえたり、渓流で魚捕まえたりしてたら、麦わら帽子かぶった女の子が現れて、その女の子は自分とは違うイントネーションでしゃべる。文化的背景も育ちも自分とは違う(たいてい片方が日本的な庶民の文化で、もう片方が西洋文化バリバリだったりする。和服/洋服、わらぶきの家/洋館)。お互いにお互いの文化にひかれたりしながら、夏休みの終わりが近づいて東京に戻る。それ以来その女の子には会っていない。みたいなストーリー。アイテムとしては夏休み・麦わら帽子・白いワンピース・自転車・山・海・恋愛。いまでいうあだち充、少女マンガ的な、自転車の後ろに女の子乗せて川沿いの並木道を走るってな映像はあの頃の物だと思うんです(Exアニメ版ニ十四の瞳)。ある時代までは恋愛といえば家庭を持ってる大人が自分の相方の目を盗んでいかに浮気するかが恋愛だったわけで、そうじゃない10代向けの恋愛を扱いだしたのって音楽でいうとフィフティーズ=50'sだし、日本の小説だと大正時代の風俗小説じゃないかなと。ティーンエジャーの発見がこの時期にされたのだとすれば、そこを馬鹿にするのは絶対にしちゃいけない行為だと思うんですよ。

俺にとってフリッパーズギターやブリッジの歌詞が衝撃的だったってのもその辺で、フリッパーズギターで言うと「いとこが来る日曜日」って曲聴いて、それまで自分はスターリンやあぶらだこなんかを聴いて良い歌詞だと思っていたのが、まったく別の種類の何かに出会って、それが何なのか理解できなくって、すげーなと思ったんだよ。まず、いとこってのが友達と家族の中間ぐらいの位置にいるわけじゃん。いとこがきて、僕のほっぺたをつねってクスクス笑って帰って行く。って歌で、後で考えるとあれが初恋だったのかなってニュアンスの歌でさ、あのアルバムに入ってる他の曲聴いても、その曲聴いても歌の中の僕って、小学校低学年からせいぜい高学年ぐらいなんだよ。そのぐらいの年齢を主役に据えたってのがまず衝撃的なんだ。ブリッジでいうとバピーラブって曲があって、パピーってのは幼児語でパパを意味するんだけど、「パパ大好き」ってすごいタイトルだなと思ってね。いくらロリータポップっつっても「パパ大好き」はすげーだろと思って、後で辞書引いたらパピーラブで「幼い恋」って意味があったんだけどさ。アルバム単位で聴くと特にそう感じるんだけど、どう聴いても主人公が小学校低学年か幼稚園児ぐらいなんだ。そのぐらいの年代に特別な意味を持たせるってのが当時なかったし、いまもないと思う。例えば、プッチモニの「じゃんけんピョン」なんかは大人の目から見た子供を子供が演じてるだけで、大人からは理解の出来ないような子供の世界を表現した「いとこが来る日曜日」とはまったく別物。

それまで誰も注目しなかったような特定の年代の輝ける瞬間ってのを過剰な意味付けとともに表現する。それは文学だから出来ることであって、映像は文学による過剰な意味付けが成功した後でしか生み出せない類のものであると思う。

3/3 プロレスネタでノアの高山選手(Exノー・フィアー)が「怖い外国人がいなくなった」と発言。「昔はブロウザ・ブロディーとかマスカラスとかハンセンとかが交互に来て、それ対日本人選手勢だったじゃん。いま固定メンバーでの紅白戦ばっかだから。」「プライドに参戦予定がある。俺も元U−インターだから」うん。経営的視点を持った良い発言だと思う。しかしU出身だとは知らなかった。

リングスの田村選手がリングスもプライドに比べて決してダメな試合をしてるわけじゃないのに、向こうの方が話題になる。人も金も集まる。何かおかしい。ってなこと言っててですね。リングスの経営者前田日明は世界中にリングスの支部を作って、世界中から強豪を集めて世界一を自分とこのリングで決めたいわけだ。でも田村選手からすると、正道会館やパンクラスのように日本の支部を増やして行った方が、日本全国のジムに通うジム生も試合を観に来るだろうし、アマチュアの層を高めて行けば、アマからプロのリングに立てる人も出てくるだろうし、そうなればジム生も夢を持ってジムに通えるだろうと。いまのままではアマとプロとの力の差が在り過ぎて、アマのチャンピオンがプロのリングに立つことは無理だ。と言う話になる。

新日プロレスでは現場監督の長州力-現チャンピオンの佐々木健介-若手のホープ中西選手対、新日本大株主アントニオ猪木-新日社長藤波辰巳-元チャンピオン橋本選手の対立というのがあるらしくて、長州側からすると俺達が年間200だの300だの試合してもうけた金だから俺達に分配しろってことなんだろうけど、猪木側からすると30億円出してマイクタイソン選手と試合したり、18億円出してモハメッドアリ選手と試合したりするのは必要なんだと。そういう異種格闘技戦がプロレスラーは強いという証明になるし、そういう証明が在って初めて、年間何百試合という興行に人が入るんだ。大赤字を出すBIGカードも必要だからそのための金を会社側に貯めておこうなという話だ。

この辺の流れってのはみんなレトロプロレスの復活と読めると思う。レトロプロレスってのは悪役の凶悪な外人選手対それを迎え撃つ日本人選手という図式で展開されて、外人選手としては強いか強くないかでなく見た目が恐いってことが優先されたんだよね(かつては。格闘技ブームの現在は格闘家としてある程度の実績がないと恐さに説得力を持たせられない時代なんだけどさ)。歯をヤスリで磨いて見せたブラッシィーとか、カメラの前に巨大な手を開いて見せた鉄の爪エリックとか、一目見て人間に見えない存在感が必要だった。初期リングスだとリングスオランダで身長2メートルほどで体が骨と皮だけのスキンヘッドの恐い顔したディック=フライ選手居たやん。リングネーム死神かなんかで、あの選手と前田日明選手の試合が、一目見て悪役と分かる外人選手対善玉の日本人選手って分かりやすい図式で展開されてて、その試合が常にメーンイベントやってんけど、リングスの最強を決めるトーナメントで、その死神でも前田日明選手でもなく、リングスロシアのヴォルグハン選手が優勝してしまって、そこからダメなってね。ハン選手って間接技の名手で地味だけど強い。しかも2枚目。前田日明選手と試合すると打撃中心の前田選手がガラの悪いゴロツキに見える。しかもハン選手が勝ってしまう。完全にハン選手が善玉で前田選手が悪玉になってしまってね。リングスの田村選手が本当に観客動員だの金だののことを考えたら、格闘技・スポーツという要素を多少あいまいにしてでも、人と金を集めたいと考えたら、デッィク=フライ対前田日明みたいな試合をするしかないと思うんだな。

見た目が怖い外人選手が空港に到着するとTVのワイドショーや子供向け雑誌のカメラマンとかが殺到してて、外人選手は自分がいかに狂暴で恐いかってことを見せつけるわけだ。典型的なのだと、日本の国旗を燃やす破る食いちぎるぐらいのことしてね、記者会見で日本のプロレス界のスター選手をボロクソにののしって、地方の試合で下っ端の選手相手に連戦連勝のボロ勝ちして、最後の大舞台、武道館の試合で日本のスター選手に負けてスター選手がTVに向かって「俺が凶悪な外人から日本を守った」みたいなこと言って終わるっていうパターンね。力道山から初期新日本プロレスぐらいの時代だと、一人のスター選手とその周辺に居る付き人、ビートたけしとたけし軍団ぐらいの上下関係と言うか力の差があったから、そういう試合・見せ方が成り立ったんだろうけど。

で、当然プロレスは見た目の恐い外人選手の人気で持つわけだから、悪役を依頼してばかりではヒクソン=グレーシー並にギャラが高騰する。ちゃんと日本からも外国に悪役レスラーを貸し出すわけだ。具体的には長州力とかタイガーマスクとかグレート・ムタが悪役として外国行ってたわけじゃん。日本で悪役させられてる分、その選手の住む現地ではスーパースターとして扱ってもらわないとやってられないでしょう。そういう地元主義ってのが良くも悪くもプロレスなわけで、完全な雑魚クラスのレスラーでも、そのレスラーの地元で試合するときはちゃんとスター扱いになるのな。普段はマントも付けずにリングに上がるのに、地元でやるときだけは豪華な衣装着てな、普段は外人レスラーにボコボコにされてスター選手にタッチすると入れ替わったスター選手がカッコ良く悪役レスラーをやっつけるという、悪役レスラーの狂暴さを表現させるやられ役でしかないのが、その日だけは「師弟対決」とタイトルうってスター選手とシングルマッチやって、持ち時間いっぱいまで動いて引き分けて「お前も強くなったな」なんてスター選手に言われて「いや、ここまで来れたのも**さんのおかげですよ」なんてマイクパフォーマンスやってがっちり握手交わして、リングサイドには自分の両親や中学高校時代のクラスメート呼んで、近所の商店街のおっちゃんおばちゃんに「**さんちの息子さん、立派にならはって、私もサインもらっとこかしら。」言われて、小学生の頃入ってた地元の少年野球チームの監督(普段はラーメン屋をやってる)が「うちの店で飾るから、スター選手のAさんとリング上で握手してるお前の写真焼き増ししてくれ」言われたりしてね。明日からまた外人選手にボコボコにされる役回りなんですけど、年に一回その会場でやるときだけは試合の順番もセミファイナルで準主役ぐらいの扱いを受けるというね。カッコイイのか悪いのか微妙なんですけど。

そういうプロレスラーの強さってのは子供に対しては説得力を持つけど、大人は信用しないわけじゃん。出来すぎてない?と思うわけじゃん。そこで、力道山選手なんかは、飲み屋でみんなの前でガラス(に見えるだけで、飴細工やゼラチンやオブラートでなかったという保証はない)のコップ食ったり、ビール瓶頭で割ったり、野球選手にバットで腹殴らせたり、興行を取り仕切るヤクザの組長の車を持ち上げてひっくり返したりしたわけじゃん。特に力道山は興行を取り仕切るヤクザにナメられちゃダメだってことをよく言ってて、ヤクザの組長の車をよく持ち上げてひっくり返してたらしいんだ。通常はひっくり返しても、力道山の興行を取り仕切ってるのが日本最大の組織のトップだから、その組の二部団体や三部団体の組長の車壊しても大丈夫だったらしいんだけど、たまたま、その最大会派の組と長年喧嘩してた組の組長が和平に訪れてて、その組長の車が酒飲んで酔っ払った力道山の目の前に在ったと。いつものようにヨイショとひっくり返したら、その組事務所が坂の上にあったため、和平交渉に訪れてた組長の車が坂の下まで転がってしまったと。それが原因で力道山が刺されて死んだという話がある。嘘かほんとかは知らないけど。

K-1武蔵選手対ニコラス=ペタス選手。空手対空手で、ニコラス=ペタス選手って日本人好みのアンディーフグ選手そっくりな動きする選手で、正直言うとどっちも負けて欲しくない試合になるのですが、見所としては、ノーガードで頭振った武蔵選手にペタス選手はパンチを当てることが出来るかどうか。とペタス選手のブラジリアンキック気味のハイキックを武蔵選手はよけきれるかと。この辺でしょう。

ペタス選手はおそらく180度開脚出来ないんですよ。そういう選手がハイキックを打つ場合、ハイキックの軌道で動いて一番高い打点でちょっとスピード落ちて軽く下に下がるんですね。ハイキックの軌道から途中でカガト落とし気味になる。これをブラジリアンキックと呼んでるのですが、横から来るハイキックをよけるのが上手い武蔵選手ですが、ブラジリアンキックはミルコ選手との試合を見てもそうなのですが、結構受けてるんですよ。ハイキックのつもりが体が堅いからブラジリアンキックになってしまう。ただそれだけだと思うのですが、そのブラジリアンキックをよけれるかとなると、2年前のミルコ選手と戦った武蔵選手なら当たりまくってしまうんですね。もう一つは、ペタス選手の場合、意識してのブラジリアンキックじゃないと思うので、武蔵選手が腰を落として低い態勢で闘えば、ハイキックしか来ないと思うんですよ。その辺もどう作用するかですね。

パンチに関して書くと、武蔵選手は96年のK-1でわりと良い試合してたのが97・98年ぐらいは表舞台に出てきません。その間何してたかというと、あるボクサー相手に3回試合挑んで3回負けてるのかな、この選手に勝つまで次に進めないとか言ってたのですが、その負け方ってのが、K‐1ルールで試合してるのに、武蔵選手はボクシングルールで戦ってて、ボクサーから蹴りを食らってその蹴りのダメージが蓄積して倒れるみたいな試合内容なんです。近距離でパンチの乱打戦になった場合、何故か武蔵選手の闘争本能に火が付くんですね。闘争本能が無いと言われ続けてる武蔵選手ですが、パンチの乱打戦のみ闘争心むき出しになる。K-1ルールの場合、パンチの乱打戦の中にいかにキックを絡めるかが大事なのですが、キックとパンチのセットプレーみたいなのが出来なくてひたすらパンチ。ボクシングの場合、12ラウンドあってパンチのみ、K-1だとキックもあるから5ラウンド(トーナメント時3ラウンド)、キックの力が7ラウンドも減らしているということは、キックを絡めないと5ラウンド内に相手を倒せない。しかも武蔵選手のパンチの場合、それほど体重が乗ってるとか、必殺パンチがあるというわけでないので、相手にとってはパンチしか来ないというのはそれほど恐くない。スタミナを奪われることはあってもKOされることのないパンチなんですね。で。ペタス選手のパンチが当たった場合、武蔵選手の闘争本能に火が付いて、パンチだけの試合をしてしまう可能性がある。それがどう作用するかですよね。(3/10地点で、武蔵選手の欠場により、武蔵VSニコラス=ペタス戦はなくなりました)

話変わって、ホースト選手の弱点ないかなと思ったときに、ホースト選手って足を前後にかなり大きく開いて立ってるんですね。ということは、ホースト選手が前に踏み込んでくるときに、前に踏み出した方の足が着地するかしないかぐらいのときに出足払い気味にホースト選手のくるぶしにローキックを出せば重心移動するはずの前足を払われる訳ですからスリップして転がりますよ。極真空手の試合見てると、極真のトーナメント決勝でフィリオ選手と戦った数見肇選手、トーナメントの最初の方の試合は全部出足払い気味のローキックで相手を転がして勝ってるんですね。空手は打撃で、柔道は投げなのですが、数見選手のローキックと元柔道メダリストの小川直也選手の出足払いを比べると、数見選手の方が出足払いっぽくって、小川選手の方がローキックっぽいんですね。相手の重心移動に合わせて右から左上にローを撃って、上体はその逆に左から右下方向に倒す数見選手のローは、投げ技に見えるし、本来投げ技であるはずの小川選手の出足払いの方が相手の重心移動と無関係にむしろ力技で蹴っているように見える。

つまり、ローキックは投げ技なんだと解釈したときに、相手の太ももの裏側を蹴るキックボクシング出身のホースト選手には、重心移動のタイミングに合わせてくるぶしを蹴るローは使えるのではないかと。ベルナルド選手対フィリオ選手の試合で、フィリオ選手が先にダウンして、そこからコサックダンス状態で戦ってフィリオ選手が逆転した試合見ても、ベルナルド選手が前に出ようと片足を上げてその足を下ろそうとするとフィリオ選手はその下ろそうとする足をひたすら蹴るんですね。すると出足払いを警戒したベルナルド選手は前に出られない。ベルナルド選手の言葉で言うと「ボクシングはまずジャブから入るんだけど、ボクサーはジャブを打つとき一緒に前足を出す。その前足を蹴られるとジャブが打てなくなって何もできなくなる。」by某雑誌。フィリオ選手がホースト選手に負けたこのあいだの試合ではフィリオ選手のローキックは相手の太ももの裏に入るキックボクシング式のローキックだったんで、あのとき空手式のローをホースト選手のくるぶしにでも入れてたら、それでホースト選手が転がっていたら。ダウンにはならないけどスリップぐらいは取られただろうし、そのスリップが判定で大きな意味を持ったかもしれないとは思う。

もう一ついうと最近のホースト選手はパンチで相手を倒す場面が多くて、あの軽い体重の選手がパンチだけで相手を倒すのはすごいテクニックだと感心する。ただ、ホースト選手はパンチの威力を増すためパンチが当たることを前提に前のめりのパンチに体重を乗せて打ってたりする。上体が完全に前に倒れてのパンチは拳に体重が乗る分、よけられると何かにつかまらないとそのまま倒れる羽目になる。当然、よけられたらクリンチに行って全体重を相手選手に乗せて相手選手のスタミナを奪う作戦なんだけど、アンディ=フグ選手みたいに上手い選手がいま居たら、上体だけ横に逃げてそのまま残した方の足でホースト選手をこけさせるためのローを打ってるよね。相手が体重を乗せてくるまで打撃戦を展開して、体重を乗せてきたら横に逃げる。辰吉選手なんかもそういう場面多くて、クリンチねらいで両腕広げて抱きついてくるのをよくかわしてたよな。過去のビデオ見て、相手の長所と短所、自分の長所と短所を冷静に分析して理詰めで戦うのは昔だとフグ選手、いまだとペタス選手が得意な気がする。あの、レバンナ選手を恐がらずにハイキック打ちまくったのは、すごかったしね。ハイキックがレバンナ選手に効かなかったのは単純にハイキックのつもりが体重が横でなくやや下に乗るブラジリアンキックになってしまっていたって部分だけで。武蔵選手との試合どうなるんやろね。

掲示板がらみで構造主義について。構造主義の対義語は実存主義になるのですが、その辺の言葉の意味はいくらでも本が出てるので、個人的な話から書くと、高校のときちょうどバンドブームで、ロック全盛だったのですが、ロックの歌詞なんてのは、思想的には実存主義なわけで、「やれば出来る」とか「夢を追いかけよう」とかそんなのじゃないですか。で、色々あって、バンドブームが衰退して行く中でBeing系(ZARD・T‐BOLAN・WANS)の音がメインになっていく中で、Beingの音って構造主義的に聴こえたわけだ。ロック系の人が自由だの何だの言ってるときに、企業のCM作ってる会社が15秒や30秒やのCMで使う音を何十パターンも企業に配布&プレゼンして、企業がOKを出した音に対して、その音がサビに成るような曲を作って売る。なんか非常に計算され尽くした感じがして、Cool(カッコ良いと冷たいの両方掛けてる)にみえたわけだ。音楽的にも白玉使うのが上手いとか、プロトゥール入りまくりの音質加工技術がすごいとか、そういうCoolなBGMが流れているところに構造主義って変にマッチしたんだよな。

構造主義と直接関係ないかもしれないんだけど、構造主義の典型的イメージを伝える本だと「草の根ファシズム」って本があるんだ。要するに、人々がいかにファシズムを支持したかを当時の新聞・雑誌記事を元に構成してるんだけどさ。2・25事件とか5・15事件の時、青年将校のクーデターを多くの新聞や大衆が支持してるんだな。景気が悪い、政治が腐敗している。そういう状況を打破するために青年達が立ちあがった。若いのに政治に興味を持つなんて見上げた若者達だ。未来は腐りきった汚職しまくりの年寄り政治家達でなく、あのような青年達によってなされるべきだってな論調なわけだ。青年将校達によってときの首相が殺される。それが立派なことだと民衆にも支持される。そうなると、次から政治家達は軍部の言うことをある程度きかないと、いつ自分が殺されるか分からない状態になる。内政的には財政赤字が溜まりまくって今すぐになんて景気回復できるわけがない状態だ。軍部や大衆の不満をそらそうとすれば戦争しかない。自分ら政治家に向けられた銃口をそらすには国外に打って出るしかない。

マルクス主義的な世界観で言うとトップに悪いファシストが居て、そいつが自分の意見に逆らう奴を捕まえてきて殺しちゃう。言論弾圧をする。だから民衆は戦争をしたくないのにトップに居る独裁者が恐いから戦争を支持せざるを得ない。トップに居る悪い悪の親玉を殺しちゃえば物事は解決する。ってんだけど、構造主義的にいうと、確かにファシズム体制は民衆に言論弾圧をしたかもしれないけど、「戦争をしないと殺すよ」と政府に言われたかもしれないけど、政府のトップだって民衆に「戦争をしないとあんた殺すよ」と言われたんだよ。って話になる。個人としては誰も戦争をしたくないにも関わらず、社会全体としては戦争の方向へ進む。そういう社会のシステムのことを「構造」byレビィ=ストロースと呼んだり「集団的無意識」byユング?と呼んだり、「制度」byフーコーと呼んだりいろいろするんだけど。

上の「草の根ファシズム」は厳密には構造主義でもなんでも無いんだけど、構造主義に対する通俗的なイメージとしては上記のような感じなんだな。で。柄谷行人なんかは構造主義を保守反動だと。戦争に反対しなかった自分を正当化してるだけだというような言い方をするわけ。主として60年代後半にフランスで起こった政治状況で、それの日本版が上記の「草の根ファシズム」ですね。

社会思想的にはそういうイメージの強い構造主義なのですが、それとはまた別に構造主義文芸批評というのがあってですね。主として物語のあらすじに関しての批評なのですが、個人的にどうしてもそこを踏まえておきたいと思ってみたりしてですね。

文芸批評は 1)作者→2)作品を作る動機→3)作品→4)作品の社会的背景→5)読者

の5つぐらい在ると、1から5のそれぞれに対してそれぞれを論じる批評があってですね。1だと作家論・作者の個人史、その人がどこで生まれて、どんな生活をおくってという奴ですね。2だと主題批評。この作品で作者は何を言いたかったのか。っていう国語の授業でやる典型的な奴ですね。3だと作品の中で使われている技法を論じるのから、ストーリーを心理学的に分析する物から色々あるのですが、批評に可能性があるとすればここだと思います。4だと、その作品が何故その時代に受け入れられたかっていう社会背景。そのままですね。5で印象批評とか読者の個人史に作品との接点を求めるような物ですね。3や4に触れる場合、どうしても構造主義批評をかじっておかないとダメだなと、思うところがあってちょこっとかじってみてるのですが、物になりそうもないですね。いまのところ。

2/27 書きたいことは多いのですが、何からどうして良い物やら。掲示板の流れで、精神異常についてでも書きますか。実は一週間ほど前、精神的にテンパって会社休んだりしてたのですね。精神病院に強制的に入れられる条件ってのが「自殺もしくは殺人を犯す可能性がある人」だそうです。普通の人はいきなり人を殺したり、自殺したりしません。徐々に段階を追ってそこにたどりつくんだと思うんですね。

柄谷行人か何かの本によると古代ギリシャの人は黙読が出来なかったそうです。古代ギリシャの哲学者列伝みたいな本に、唇を動かさずに文字が読める聖人ってのが出てて、黙読が出来る人をものすごい驚きを持って書かれてる。つまり、古代人は黙読が出来ないのが通常だったと。黙読の出来ない人というのは、黙って物を考えること=黙考が出来ないでしょうきっと。黙考が出来ないということはしゃべりながらしか物を考えられない。思ったことは全部口に出して言ってしまう。ポーカーをしてても、「これとこれとこれが来てるから、これがこうなってこうだ!」と全部口に出していってしまう。・・人類の歴史においてそんな時代があったのかどうか、疑わしいけど、まあ、そういう仮説があったりもする訳だ。黙読が出来るようになって、黙考が可能になって、初めて近代的自我が確立する。ってなことが本に書いてあったりする訳です。

みんなが知らない本当の私を、初めてみんなの前に告白しますってのが近代文学の始まりだったとすれば、みんなが知らない本当の私とは黙考する私であり、告白とは黙考の内容を公開することであったりするわけだ。で。この黙考ってのは通常誰でもやってることなのですが、自分の意思と無関係に動いちゃってりすることも多いよな。良いアイデアを出そうと考えてるのに何にも出てこなかったり、勉強に集中しなきゃと思ってるのに、色んな雑念が入って来たり。

で。俺の場合、自分の意思とは無関係に自分の悪口が24時間ずっと聞えていたりってのがあるわけだ。こういう話をすると「それは誰にだってあることだよ」と軽くなぐさめてくれる人も居る。それはそれでありがたい。ただ、ずっと自分の悪口が聞えてるというのは、それが黙読してるときの自分の声だとしても非常に気分が悪い。胃が痛くなったり、食った物が消化されずに胃が重いままだったり、腸が重かったり、腹を下したり、いろいろあるわけだ。そうすると、消化できてない分さらに食わなきゃとあせる。食うと胃が重い。体調も悪くなると、体調がまた精神状態に反映する。悪循環だ。これもよくある話で、胃薬飲んで寝れば良いだけのことなんだけどさ。

今回の自分の場合、他人の声で悪口だのなんだのが聞こえ出して、マジでヤバイなと思い始めた。地下鉄の乗り換えの人がごった返してるとこで、後からやったらナメた口の利き方してくる奴が居るんよ。あんまりムカツクから「なんやコラ」思って振り返ると誰かわからへん。満員電車で若いアベックがこっちみてニヤ付きながらおちょくった態度とってきよる。俺も機嫌悪い最中やから、メンチ切ってそっち向かって行くわ。して、近く寄ったら、さっきまで聞えてた声と違う声質で話してるねん。黙考してるときの声質とは違う声質で自分の悪口が聞える。こいつやろと思って近づくとそいつの声は自分が思っていた声質と違う。早い話、黙考してるときの声が2種類・3種類の声を持ち始めてたんやな。職場で名前呼ばれても、本当に呼ばれてるのか、自分の中の声なのかさっぱり分らへん。仕事休んでぐっすり寝て、思いつく限りのストレス解消法全部試して、それでも幻聴聞えてたときには、もう限界や、明日絶対病院行こう思った。

精神異常者の犯罪というのはメディアではあまり流れない。余計な偏見や差別を助長しないようにとの配慮からだろう。代わりによくあるのが、麻薬中毒者の起こした犯罪の報道だ。ちなみにLSDという麻薬は人工的に分裂病になるための薬と言われるように、麻薬と精神病というのは割と近いと思う。覚醒剤中毒の人でよくいるのが人ごみの中で突然刃物振りまわして人を数人刺して、逮捕後に「俺が刺さなきゃ刺されてた」とか言い出す人だ。駅のプラットホームで「お前ら全員落ちろ」とか「鉄パイプで頭蓋骨かち割ったんぞこら」ぐらいは俺でもしょっちゅう聞えてるんですね。自分の声で聞えてる分には別に無視してれば良いわけじゃないですか。胃は痛くなるけど我慢出来る範囲内ですよね。でも、他人の声で聞えてきて、現に鉄パイプ持った人が襲ってきたらどうしますか?怖いからまず逃げるでしょう。逃げ道ふさがれてたりして、逃げれなかったら戦うでしょう。現に、麻薬中毒の人には日本刀を持った人が自分に襲い掛かるのが見えたんです。だから刺したんです。刺さなきゃ自分が殺されてたんです。本人の中ではこれは正当防衛なんです。本人には正当防衛でも、傍から見たらただの人殺しですね。だから刑務所なり精神病院なりに入らなきゃいけないんです。

何故、麻薬中毒の人は人ごみの中で暴れるのか。経験(麻薬でなくって精神病ね)してみて分かったのは、「殺すぞコラ!」ちゅう声聞えても、Aさんの声を知っていれば、「殺すぞ」ゆったその声が、Aさんの物でないと分かるんですね。でも、人ごみというのは、自分の知らん人がいっぱい居て、目の合った人を片っ端から疑ってしまう結果になります。それと、満員電車の中というのは逃げようとしても逃げられないんですよ。私の場合、声だけですが、幻覚も見える人の場合、日本刀持った人に襲いかかられて、普通だったら逃げますよ。戦おうとはしません。でも、人ごみだと逃げられない。闘うしかないんですね。で、何故その人は刃物を持っていたのか。普通の人はある日突然、日本刀を持った人に切りつけられたとしても、刃物を持ち歩いてないので、相手を刺せません。その中毒系の人は、いきなりではなく、徐々にそういう状態になって行ったのでしょう。刃物を持ち歩かないと誰かに殺されるという精神状態に徐々になって行った。自分が殺される幻覚を何度か見てるんですね。だから、次こそは大丈夫なように刃物を持ち歩いてる訳です。

最後に、これは非常に重要なアナウンスですが。現地点での私は非常に安全なので、心配しないで下さい。それと、今回テンパったのは何か原因があったわけでないです。体調弱ってるとこにメンタルも弱ってしまっただけで、責任感じたり気使ったりせんといてな、マジで。

2/21 マニアックなアダルトビデオで雑誌に載ってたのでこれ良いなと思ったのが指フェチの人に送る「あやとり」ビデオってのがあるらしくて、これ良いですね。

何が良いったって、手のアップがずっと続くから顔にモザイクがいらない。手だからいくらでも脱がし放題。しかも毛糸の手袋脱がしたその手袋の糸であやとりが出来る。ミトン(親指だけ離れてる手袋)の四本つながってる方を脱がせると、その下から指先が切れた第一関節までしかない手袋が出てくる。手のフルヌードだから年齢制限が無い(18歳以下も出演可!)。手だけ丸っこくって肉がパンパンに膨らんで幼児体型な大人もいれば、指先がすらっと長くて大人っぽい指をした子供もいるし、その辺の手の体型と話している時の声から年齢を推測するのも一興。あやとりしながら「きしゃきしゃ、しゅぽしゅぽ、しゅぽしゅぽしゅぽぽ、ぼくらをのせて」なんて歌ってると、子供か?いや、いまの子は「(アンパンマンの)あんぱーーーんち!」はするけど、汽車の歌はしらねぇだろ、どっちかってぇーとカマトトぶってる大人じゃねぇーか?とか、「カブタックやビーダマンの話が俺は聞きてぇーんだよ!」とか画面に叫びながら、あやとりの途中で、小指で反対側の手の糸を取ろうとするんだけど、上手く指先に引っかからなくて、糸周辺を指が行ったり来たりするそのいじらしい指の動きが妙になまめかしくて、「この不器用さはガキだろ」「いや、このじらし方はかなりのツワモノだぜ、手タレか、じゃなけりゃ風俗嬢だよ」なんて言いながら見るのが良かったりね。普通、指フェチものだとタバコ・チアリーダーのバトン・キーボードのブラインドタッチ・そろばん・カクテルグラス辺りが普通だと思うんだけど、あやとりという地点で、指×ロリみたいなね、マニア×マニアになってるよね。なんか、そういうマニアックなAV情報あったら下さい。

毎度のことながらどうでも良い話で、「別冊批評空間:モダニズムのハードコア」を斜め読みして分かったのが、外から決められた制約の範囲内でいかに上手に物を作るのかが職人の仕事、制約の無いところで何を何故作るのか?を問われるのが芸術家の仕事。ってことでして。

これで、「現代**」は何故難しいのかがはっきりした訳です。現代**の具体例としては、現代美術とか現代音楽とか現代文学とかですね。この現代**はすべて芸術家の仕事だとされてます。ですから、既にあるジャンルで上手な何かを作っても評価されない訳です。みんなが絵画だと思ってるものをみんなより上手くキャンバスに絵の具で描こうとか、みんなが音楽だと思ってるものをみんなより上手く演奏しようとか、みんなが文学だと思ってるものをみんなより上手く書いてみようとかしても、それは職人の仕事であって芸術家の仕事でないわけです。現代**の芸術家はみんなが音楽だと思ってないものを演奏して、みんなが美術だと思わないような絵を描いて、みんなが文学だと思わないような文章を書いて、それを芸術だと認めさせなければならない。

必然的にそれは理論的になっていきます。世間が芸術だと思わないものを芸術ですと言って提出する訳ですから、世の中の多数派をねじ伏せられるだけの理論が必要になります。世間的には芸術ではない物が何故必要なのか、どのような理由で生み出されたのか、それらの疑問に答える理論が先に生まれ、その後に創作物が作り出されるコンセプチャルアートも多くなっていきます。美術が写実をやめるのが写真の発明以後、印象派の前後からだと言われてます。何を描いたか分かる絵を見ると多くの人は安心しますがそのような写実が写真の登場によって行われなくなる(厳密に言うと教会の宗教画でも天国を見ながら天国の絵を描いた訳じゃないですし、イエスキリストを観ながら描いてるわけじゃないんですけど)。

音楽の場合、第一次大戦時に民族を鼓舞するような音楽を作って戦争に音楽家が荷担した反省から、戦後、人の感情を左右しないような音楽の研究にクラッシック全体が流れていくと何かの本で読んだんですよ。勇ましい曲で自国の若者を戦地に送り出したり、悲しい曲で戦死者を弔ったり、楽しい曲で政治家の語る明るい未来を演出したりした音楽家の戦争責任を問ていったときに、人の感情を動かさないような音楽を研究しようということでシェーンベルグの無調12音階を始めとする現代音楽が生まれてきたと、何かの本に書いてあったわけです。

で、現代文学が難解な理論中心になっていくのって年代的には70年代、世界的にはヌーボロマン、日本だと内向の世代で、絵画との対比で言うとTVの登場・普及以降だと思うんですね。

2/14 メモ的に混乱を混乱のまま提出すると、ラカン入門ってな本をざっと読んでみたんですね。ニューアカ系のHP見てて出てくる専門用語で分からない語が多く話に参加出来ないことが多かったため、ちょっとぐらいは専門用語かじっとこってのと、羊5さんが構造と力をラカンがらみで読み直そうとされてて、俺は当時流行っていたドゥルーズ=ガタリがらみのとこしか読んでなかったので、やっぱラカンかじらなアカンのかなぁゆう感じで読んでみてんよ。軽度の精神障害者である自分としては、患者に共感することはあっても精神科医に共感することは一切無く、理論の一部は不快感以外の何もんでもなかったのですが、まあ、用語の辞書的な意味ぐらいは分かりました。

象徴界=ルールの世界。
想像界=自分が相手の立場に立って物を考える世界。
現実界=ある種のズレを含んだ形でしか物事を認識できない世界。

で、象徴界から想像界、想像界から現実界に人は成長するとラカンは言ってるわけです。専門用語の意味が分かってだから何なのちゅう話ですわ。どっかの雑誌の座談会で「吉本隆明、柄谷行人、浅田彰をそれぞれの世界に分けると、象徴界に居るのが浅田で、想像界に居るのが吉本で、現実界に居るのが、柄谷でしょう。そしてその三つを上からながめる悟性が蓮見」とか発言してる奴が居るんだな。俺は、象徴界とか想像界とか言われても意味が分からんから、意味を分かるようになろうと一生懸命薄っぺらな文庫本を読んだわけ。例えば、将棋をするとき、将棋のルールってのは象徴界です。どの駒がどんな動き方をするとか、どうすれば勝ちだとか、そういうルールの世界が象徴界。浅田彰の主な仕事が外国の思想の翻訳・翻案であるから、まあ、そういう意味では文法のルールにのっとった仕事そしてる浅田彰は象徴界の人かもしれん。

で。その将棋も慣れてくると、段々戦術的なことも考えるようになるわな。やっぱり勝ちたいから、相手の動きとか戦術を予想して、そのニ手先・三手先を考える。自分が相手の立場に立って物を考えて、その結果を受けて自分の行動も決める。これが想像界だとすると、吉本隆明ってのは常に現状肯定派だと。みんなが新左翼になったときは新左翼、社会主義が崩壊して保守に回れば保守(Ex反核異論)。だから、吉本は想像界の人。

で。そうやって相手の立場で物考えても、自分の予想と違う行動を相手が取ったりもするわけだ。つまり私と相手はイコールじゃない。「私は人間だ」という文型はA is B、A=Bの形を取ってる。私=人間と言ってるのだが、私と人間は当然のように別の言葉で、別の言葉である以上、百パーセント同じであることはありえない。私と人間がある意味で、ある共通点を数%持っていると言ってるだけなのだが、どういう意味でどの部分が同じなのかは読み手の判断に任される。このような決定不可能性、不完全性を言葉は持つ。持たないようにしようとすれば、A=A、私は私だ式の同義反復しかない。そして、そのような同義反復は意味を持たない。てな感じのことを探究で書いてた柄谷は現実界の人だと。

さらに悟性というわけの分からない語まで出て来るんだけど、悟性って要するに、大工さんがカンナで木の板を平らに削るときに使うような感性。バランス感覚とか運動神経とか器用さとかそういう意味の語です。蓮見というおっちゃんは東大で総長になったと。学内政治に才能を発揮した蓮見さんは、バランス感覚に優れた悟性の人ですよと。

長々解説したけど、トリッパーか何かの雑誌の座談会で、話されてた内容ってこんな程度のことなんですわ。象徴界とかいう語の意味が分からんかったから、象徴界とか言う難しい専門用語の意味の一つも知れば、こういう高級な座談会の文章も読めて楽しいのだろうなと思って勉強して意味分かってみたら、すげー下らないことしかしゃべってないのな、人の名前と専門用語くっつけただけ。たまたま人の名前の方は俺全部分かってたけど、分からん人が一から勉強して言葉の意味取りに行ったら、すげー苦労した結果がこの中身の無い内容かいっちゅうね。

難しい系の本読んでも、結局何をしたいねんちゅうのが見えないと非常につらいよね。ラカン入門読んで分かったのはラカンって精神病治療のマニュアルを作りたかっただけの人なんですわ。俺が何でラカン入門読むねんゆうたら、四大構造主義者の一人、構造主義の究極と限界を示す人だと構造と力に書いてあるからやねん。ラカン以外の構造主義者つうとレビィ=ストロースが自分の大学にラカンを招いて、レビィ=ストロース自身一度だけラカンの授業を受けて、「正直言って、私にはさっぱり分からなかった」ともらした。とか、アルチュセールがラカンの授業を熱心に受けていて、アルチュセールの思想にラカンは多くの痕跡を残している。とか、らしいんだけど、レビィ=ストロースの分からなかった思想を俺が分かる必要も無いやろ思ったり、確かにラカンの人間観はサルトルのそれとは大きく違うし、どちらかというとフーコー寄りなんだけど、だからって構造主義のために何かをしたとかじゃなくって、純粋に精神病の研究じゃん?こっから構造と力に飛ぶってしんどいなぁ思ったりね。

2/10 掲示板の流れでアダルトビデオについて書いてみます。三島由紀夫が自分の劇団で演劇をするときに、主演女優をオーディションで選んだってのがあって、オーディションのとき2・30名の女性を全裸にして一列に並べて決めたらしいんだな。そのとき選ばれた女優さんってのが、胸が真っ平らで背が高くて髪型も男性的な人で、分かりやすく言うと宝塚の男役の人ってノリなんだ。同性愛者の三島にとって性的興奮を感じるのはそういう女性だったてことだ。

今のアダルトビデオの中で三島のストライクゾーンに入るAVが何本あるかって話だな。色白・巨乳・セミロングがAV女優の必要条件らしいんだけど、そんな画一的で良いのかと。村西とおる監督自身巨乳の女性に性的興奮を感じない人なわけじゃん。したらもう少しバリエーション考えろよと。微乳・貧乳、色んな言い方あるけど、個人的にはフラットと呼んでるんだけど、そういうのが好みという男性は、主として同性愛者かロリコン。巨乳好きはマザコンと言われてる。フラット系の中でも同性愛者かロリコンかを分けるのが好みの女性の背の高さで分けるとかね。低いのが好きだとロリコンで、高いのが好きだとホモ。

実際にはそんな単純じゃなくって、日本のロリコン系の写真集・ビデオでも人気あるのは、年齢が低くて顔が童顔で、首から下が大人の体型=巨乳ってのが売れてたりして、「そんなの買うのはロリコンじゃねぇー!真性のロリコンてのはなぁ・・」つって熱く語っても良いけど、ロリコンネタは他の日付で書いてるから省略して、ホモの話をすると、一般には同性愛者の中にネコとタチがいて、ネコが女性役・タチが男性役となるのですが、俺の知ってる狭い世界ではマッチョ同士のホモのカップル、なよなよ系のホモのカップルはいても、マッチョとなよなよした奴のカップルってみたことがない。人間というのは自分と似たようなタイプの人を好きになる(話が合うとか・性格が合うとかいう奴ね)。もしくは、自分の理想とするタイプの人間になろうとすると、同性愛者の場合ある程度までその理想が表面上は実現できてしまうため、似たようなルックスの同性愛者カップルが多い。

で。この仮説を異性愛の方に持っていくとどうなるか。藤原紀香のファンってのがボディービルダーやウエイトリフティング系の人に多くて、紀香自身もマッチョマンが好き。もう少し一般化して、マッチョ系の男性に巨乳好きが多い。ここでは巨乳を筋肉もしくは胸板と解釈しているわけだ。(自分で書きながら、これ書いてる奴、頭大丈夫?電波入ってる?サイコ入ってる?ってセルフのツッコミ入りまくってますが)男はみんな巨乳好きだぜ!一般論としてはそうでしょう。でも、中には「俺、巨乳ダメなんだよね」という奴もいて、そういう奴ってのは何故か胸板が無いタイプの男に多いんだよね。もう少し具体例出すと、グラビアアイドルの山田まりあが「私マッチョな人好きなんですよ」という。巨乳を売りにしたグラビアアイドルだと上の仮説で行けばマッチョ好きになるわな。「タレントでいうと誰が好きですか?」と聞かれた答えが「羽賀研二さん」って絶妙でしょう。山田まりあという巨乳といえば巨乳だけど、世間の常識から大きくはみ出すほどの巨乳じゃない人が、羽賀研二という世間の常識の範囲内のマッチョを好むと。これが叶姉妹辺りになると、好みの男性が「シルベスタ=スタローン、アーノルド=シュワルツネッガー」という国際派になってきたりする。女性でも厚い胸板に魅かれる人は多くて、アメリカの映画スター(男性)の多くは胸にシリコン入れてるとか聞くからね(古くはスーパーマンの俳優さんが有名)。つまり、自分の胸囲と自分の好みの異性の胸囲というのはほぼ一致すると言えなくも無い。

アダルトビデオって本数出てる割りに、ほんとに観たい物、俺のような少数派が見ても楽しめる物って少ないよねって例で、同性愛者の目から観た場合の話をしてきたんだけど、これを眼鏡フェチの観点から見ると、どうなるか。

アダルトビデオの中で眼鏡が出てくる時は大抵、女教師とか秘書とか女社長とか、職業がらみが多くて、知的イメージ・地位・権力の象徴として出てくる。で、眼鏡フェチの人が撮った眼鏡物のビデオって一本もないなという気がする。HPの検索で「眼鏡っ子/眼鏡っ娘」ってのを入れると、そっち系のHPが出て来るんだけど、まず彼らは眼鏡の度数とか屈折率とかにこだわるんだよ。もちろん世間一般の価値観とは違って度数や屈折率が高ければ高いだけ良いという価値観で、牛乳瓶の底みたいな眼鏡に性的興奮を覚えると。で、そのような眼鏡は知的にみえるだろうか?地位や権力の象徴となりえるだろうか?むしろ間抜けなドン臭そうな印象を与えないだろうか?それはむしろ日本的なロリータアイドル、背が低くて、か弱くて、守ってあげたいイメージに近いのではないだろうか。

して、眼鏡フェチじゃない人の撮る眼鏡物ってさ、度数入ってない伊達眼鏡だったり、普段眼鏡かけてない人に眼鏡かけさせていたりするわけで、そうすると、眼鏡はずしても目のピントが合ってる人が映っていたりする。だってさ、普段高い度数の眼鏡掛けてたら眼鏡外した状態だと目のピントが合ってなくって、どこ見てるか分からないぼーぉっとした印象の目になる(遠視・乱視系)か、もしくは黒目がちょっと寄り気味になってたり(近視系)するはずなんだな。そういうディーティルまできちんと撮れてるビデオがどの程度あるのか、てぇーとかなり本数少なくなる。

結局、眼鏡フェチつっても色んな人が居るんだよ。知的な感じの眼鏡が好きな人も居りゃあ、すっとぼけた感じの大村昆系が好きな人もいて、間抜けと知的を両方兼ね備えたウディ=アレンも居れば、Clubファッションに分厚いセルフレームの中田・ティトワ・フューチャーアイズみたいなのもいて、ホモは平らな胸の女性が好きかってぇーと、マッチョな同性愛者の人は意外と巨乳好きだったり(マッチョ系の男性がやるとき筋弛緩剤ってのを注射して筋肉をグニャグニャにしてやるらしいんだけど、それとやってるときの感覚が似てるから巨乳系に行くんでしょうきっと)、そういう多様性があって当然の業界なのになんでアダルトビデオってあんな画一的なんだ!つう怒りなんですけどね。ちなみに私、性的嗜好が偏ってるため普通のレンタルビデオショップ行っても、自分の好みに合うビデオ一本あるかないかです。上野に8階〜5階までアダルトビデオのショップってビルがあって、各フロアがSM専門ショップとか、コスプレとかロリコンとか制服とか分かれてるのですが、そこでも全パッケージ見て、これかなと思うの2本しかなかったですからね。

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