HP管理者日記14

11/24 イニシエイション(通過儀礼)に対する超越的な立場に、何か昔から違和感があって、自分は通過儀礼に対して超越論的に接したいと昔から思っていたんですね。超越的というのは2と3だったら3の方が偉い。3と5だったら5の方が偉い。みたいな考え方で、超越論的というのはグーとチョキなら、グーの方が強い。グーとパーならパーの方が強い。という超越的な見方に対して、少し離れた位置からみる見方で、グー・チョキ・パーのそれぞれが、自分以外の一方に対して勝ち、もう一方に対して負けるため、どれが一番強いとも言えない円環状の状態にあるのを、少し距離を置いてみるような視点ですね。柄谷行人がよく使う言葉なのですが。

革ジャンにリーゼントでバイクに乗って、パラリラパラリラみたいな世界は、小学生や中学生からみると、それなりにカッコイイ大人の世界に見えるわけです。俺も大きくなったらああゆうことしたいぜみたいなのは多かれ少なかれあったりする訳です。それがハタチ越えた人間が、同じ事をやってると、同級生からいい歳して馬鹿だねぇという目で見られるわけです。それが反抗期という通過儀礼に対する超越的な立場という奴です。通過儀礼というと、恋やセックスといった青春を連想させる物に代表されがちなのですが、育児系で言えば結婚・出産・公園デビューとか、会社系で言うと同期の誰が昇進しただの、リストラされただの、過労死しただの、ローン組んでマイホーム買っただの、脱サラしただのと、一生続いて行くわけです。日本の純文学というのは何かこう通過儀礼に対して超越的なところがあって、人生の深淵を描いているとか、人生の真実を描いているとか言われている小説家は大抵、葬式と老人性痴呆しか描いてなかったりするんですね。

小沢健二のインタビューを読むと、自分は幼児の頃既に老人だったみたいなこと言っていて、だよね。と僕なんかは思ってしまうわけです。幼稚園に通う前の幼児の話相手や遊び相手は、大抵老人なわけです。昔話の多くが「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」から始まるという事実と、その昔話が鎌倉時代辺りに生まれて、今まで続いているという事から考えても、昔から幼児に話を語って聞かせるのは老人だったわけです。幼児はあらゆる通過儀礼を経験した老人から、老人の体験談を語って聞かせてもらっているわけで、あらゆる通過儀礼を経験はしていないけれども知ってはいるという立場にいるわけです。幼児のその立ち位置というのは、通過儀礼に対する超越論的な立場に私には思えるわけです。

幼稚園児に「好きな言葉は?」と聞いた時に、まあ、大人としては、スペースシャトルとかベイブレードとかピカチュウとか言ってくれれば子供らしいかなと、中にはショートケーキとかスキヤキとか言い出す奴いて、まあ、まあ、それも予想の範囲かなと。ところが、中にはとんでもないこと言い出す奴いて「やってみせ、言って聞かせて、まかせてみて、ほめてやらねば人は動かぬ」とか言い出す奴いて、誰が座右の銘ゆえゆうたと。しかもその言葉「ほめてやらねば人は動かぬ」に重きが置かれているんだけれども、いい歳した大人からすると、幼児にだけはほめられたないなと。幼稚園のうたの時間に、先生がオルガンを弾いて子供達に合唱させようとしたら幼稚園児が先生に一言「キミ、演奏上手いね」なんて、言おう物なら、はりたおしたろかな思いますけど。「ほめてやらねば人は動かぬ」なんて言葉どこで覚えたんやろうと思ったら、園児の親が会社の経営者やったりしてね。まあ、親の言うことを意味分からずに言ってるだけなんでしょうけど。

アイドルポップスの何がオモロイゆうても、中学生の加護・辻コンビが、モー娘の中では大人の目から見た理想的な子供を演じさせられる。テレビの特別番組でサンタは居るか居ないかで喧嘩するネタをヤラされる。中学生ぐらいだと、髪の毛脱色したりパーマあてたり、コギャルっぽいかっこしたりするのがかっこよかったりすると思うんですよ。それなのに、サンタネタで喧嘩。中学の同級生からは、ダサ〜〜とか思われると思うんです。でも、カメラ回ってないところで本人が、しょーがねぇーんだよこれが仕事なんだからよ。いい歳してじゃんけんぴょんとかひなまちゅりとか言って、大人だまして金もらってるわけじゃん。つって、交通費とか衣装代の領収書もらって事務所に提出してたら、大人だぁ〜とか思うじゃん。年齢からくる役割期待からはみ出していく感じが面白いというか、学校という通過儀礼からはみ出して社会に出ている、でもカメラの前で要求されることは、学校内で起きる通過儀礼的な物の再現であったりするわけで、カメラの前では子供じゃなきゃいけないけど、カメラのないところでは大人としての責任感がないと仕事としてやっていけないみたいな、そういう年齢で区切られた属性からはみ出して行く感じが面白いんだけど。

氣志団なんかは、二十年前の暴走族文化を現在に復活させて演じているバンドなんだけど、暴走族ってハタチで卒業式じゃん?なのになんで「あのミラーボール時代に」byワン・ナイト・カーニバルなんて言ってるのか?ミラーボール時代って、80年代初期でしょ?現役の暴走族がなんで二十年前にディスコを経験してるんだよって話だな。そういう矛盾が歌のあちこちにあらわれてるんだけど、彼らは通過儀礼的なものをネタにしながら、常にそれをはぐらかして、通過儀礼に超越論的な立場を取っていると、俺にはみえるわけだ。

で、もう一度小沢健二インタビューをみたときに、和光(日本共産党系の学校)の教育ってなんなんだろう?と思ったわけだ。和光にはイベントがやたら多い。左翼系の人達は受験戦争とか詰め込み教育とかが大嫌いで、ボーイスカウトやグループ学習が好きだったりする。これは何なんだろうと思ったわけです。日活映画で「街は虹色、こども色」という、ボーイスカウト・はんごうすいさん・フォークジャンボリーという市民派左翼映画があって、理由は分からないけどすごくショッキングな感じがして、なんなんだろ、これはと。詰め込み式の受験勉強の弊害としてよく言われるのが、合格の枠が十人しかいないと、自分以外はみんな敵になって、他人を蹴落としてでも自分が上に行こうとする。結果、協調性のない人間が出来あがるというやつで。実際に、推薦入試枠なんてのは、一つの学年に何人というのがあって、それなりにギスギスしたものがあったりするんですね。エスカレーター式の私立大学の付属校でも、上の学校にあがれるのは学年で上位何パーセントとか言い出すと、それなりにギスギスした感じがあったりする。そういう受験文化に対するカウンターカルチャーとして、ボーイスカウトみたいなのがあって、ある程度の枠の中で子供達に自由を与えて、子供達の力だけで、キャンプとか自由研究といったイベントを成功させるというやつです。ポイントは個人でなく、グループで行動させるというところで、いくら個人のテストの成績が良くても、コミュニケーション能力がないと成功しないという辺りですね。自由研究で何を題材に研究するのか?キャンプ地で夕飯に何を作るのか?から決めるのですが、ペーパーテストと違って、唯一の正しい答えというのはありません。他と同じであれば正しいというものでもない。グループの中にあれをしたい、これをしたいと言う人が多すぎても成功しないし、少なすぎても成功しない。同じ人でも他のメンバーを見て、このメンバーだったら、自分がガンガン意見を言って引っ張ってかなきゃいけないなとか、この面子だったら、調整役に徹する方が良いなとか、この組み合わせなら、言われたことにだけ従ってれば良いかとか、色々出てくる。何度もやっているうちに、自分に向いているポジションとか、振舞い方というのが分かるようになってくる。

では受験文化というのは、間違っていたのか?というと、あれが生まれた時代背景を考えれば間違ってなかったと思う。

11/19 掲示板がらみで、文学フリマに関してもっとちゃんと何か書かなきゃいけないのかと思ったりもするのですが、正直言ってよく分からない。たぶん一般の人が興味を持つのは「儲かるの?」ってことで、「儲かるのだったら次回私もやろうかな?」なんですが、この人達の興味には、どのぐらいのページ数の本をどのぐらいの部数刷って、どのぐらい原価が掛かり、どのぐらいの値段で売るのか?という部分への関心がごっそり抜けている。

いままで自費出版と言うと、100ページほどのハードカバー本を百万円で三千部刷る。というのが一般的だったわけです。いわゆるオフセット印刷ですね。百万円で三千部だと一冊333円。これで書店で一冊千円ほどで売られている本と同じような物ができます。

ところが最近、オンライン出版という奴で、もっと安く本を作れるようになったというわけです。五万とか十万とかで100ページほどの本を100部ぐらい作れる。これだと一冊の製造原価が千円。つまり、安く作れると言っても、一冊の単価は上がっているわけです。

オフセットだと、印刷用に凸型の金属板を作って、それを紙に押し当てて印刷する方式です。ページ単価1円ほどですが、金属板の値段が高いため最低三千部は刷らないといけない。対して、オンライン出版と言うか同人出版と言うか、そういうやり方ですと小部数10部ぐらいから作れる代わりに、基本的にはコンビニの10円コピーみたいな作りかたをするため、ページ単価が安くても8円とかで、印刷&製本所からすると基本的にはページ10円欲しいですと。

メルマガで安池さんにも言われたのですが、「一般の本は八百ページ千円とか普通なのに、同人本で百ページ千円は高いぜ」と言われたりもするわけです。作る側からすると、一般の本はオフセットで大量生産大量消費だから一冊辺りのコストを安く抑えることはできるけれども、同人本は多品種少量生産だから一冊単価が高くなるのは当然じゃんと。一般のちゃんとした本ですらページ単価1円なのに、同人レベルで物書いてるあんたがなんでページ10円なの?内容は出版できないほど低レベルなのに、値段は逆に高いのは何故?と言われると、多品種少量生産の同人誌は一般の本よりページ単価が高くなる物なのですよとしか言えないわけです。

プラモデルの自主制作即売会ワンフェスとか、漫画同人誌の即売会コミケなどは、自主制作だから一般の物より高くて当然というのが、ある程度お客さんに浸透しているし、買いに来るお客さんの層も、普通の漫画やプラモを買いに来る層と違って、万札を持ってポルノ限定で買いに来たりするわけです。プラモの自主制作品などは特に一点物だから、一個売ったら同じのはもうないし、作るのに手間隙かかってるの見れば分かるし、デキの良し悪しも自分の好きなキャラクターに似てるか似てないかだけだから分かりやすいし、高くても理解されるんだけど、小説なんてなまじっか印刷してるもんだから、オフセットもオンライン出版も同じ大量生産品でしょ?手作りじゃないよね?なんで高いの?と、まして漫画やプラモなら自分の好きなキャラに似てれば出来が良いし、似てなけりゃ出来が悪い、一目みて好き嫌い言えるのが、小説とか言い出すと、どれが良くてどれが悪いのかいちいち最後まで読んでられないし。

そうなったときに、買い手が何で売り物を選ぶかと言うと一つは既存のネームバリュー。直接ネームバリューのある**さんが書いていればまあ、一番強いわけですが、**さんが受け持ってる大学の**ゼミ生の書いた小説集とか、**さんのファンサークルが書いた**論集とか、**さんの小説の二次創作とか、そうなると**さんを好きな人は買いますよね。

もう一つはセールストークですね。結局、ああゆう場と言うのはコミュニケーションを求めて人が集まっているわけで、私の隣のブースなんかは積極的に通行人に声掛けて、本の中身を見せて、その翻訳本の原作を書いたタイのタレントさんの写真集をみせたり、自分が翻訳した本の書評が載った雑誌を見せたりして、700円近い本を20〜30冊売られてましたね。私は今回作った竹森千珂さんのファジンと寓話集・最悪な気分・文体演錬法の四つ並べてたのですが、竹森千珂さんをご存知の方は喜んでファジンを手に取られるのですが、そうじゃない方は最悪な気分と文体演錬のどちらかを手に取られる。たぶん、最悪な気分はタイトルから内容がイメージしやすいんですよ。で「小説なのですか?」と聞かれるんです。「はい」と答えて「どんな?」と聞かれたときに言葉に詰まる。面白さが相手に伝わるように上手く説明できないんですね。で、一章だけ立ち読みされて帰られる。二・三行じゃなく、一章ちゃんと読んでもらえるのは、一行目のツカミが良いからなんですよ。オリジナルじゃなくて引用なんですけどね。ただ、一章目をすごく小さな些細な話にしておいて、徐々に盛り上げて行ったつもりなんですが、立ち読みで読んでもらえるのは一章だけなんです。そこだけ読んで「詰まらないな」と思われて終わり。どこか一ヶ所しか読まないのなら、四章から読んでくれとか思うのですが、立ち読みってみんな最初の方だけ読むんですね。中は読まない。長めの小説にはツカミが必要だとつくづく感じましたね。長めの話の最初の一章なんて面白いわけがないんですよ。どうせ伏線だけなんですから。それだったら短編集の方を読んでくれと思うのですが、こちらはたぶんタイトルからして字が読めない、意味が分からない、その地点でOUTなんですよ。

文体の方は表紙がカラーということで目に付くんでしょうね。四字熟語がずらっと並んでいるページを開けておいておくと、それなりにインパクトありますし、手に取ってももらえます。ただ、手に取っても何をやっているのか分かりにくい本ですから、説明が必要になってきます。「これは昔話の桃太郎を、内容をそのままにして、形式だけ四字熟語や俳句や短歌やポエムや論文にしてみたらどうなるだろうというやつで」そう言いながら、ポエム風味のページを開いて「キミは桃から生まれたんだよってボクが言ったら、君は僕の瞳をのぞき込んで嘘でしょって笑ったよね。そのときのぞき込んだ僕の瞳は、きっと嘘をついてなかったはずだ」と朗読して、お客さんに笑ってもらえたら、たいてい上手く行くんですよ。ここで嫌な顔されたら終わりですね。そのときは素直に引き下がりましょう。文体を手に取ってもらったお客さんにポエムと七五調を朗読したら、8割がた買ってもらえますね。残り二割は、何も言わずに顔をしかめて早くその場を立ち去りたいオーラ出している人です。営業トークが固まっている文体は売れる自信あるんですが、最悪な気分は手に取ってもらっても、そこから先がなかったですからね。「四章から読んでくださいよ」ってのも言ったんですけど、言ったらお客さん黙って本を置いて立ち去られてしまったので、難しいですね。四章を最初に持ってきていたら売れる自信あるんですけどね。ただ、四章最初だと最初の二・三行読んでイメージと違うからOUTという可能性もある。

あと、ただで良いから持っていってよという言い方をしたときに、それでもお金を払われる方が何名かいて、それは皆さん他のブースに店を出している方でしたね。逆に持って行かれる方というのは、色んなブース回って、チラシやフライヤーや広告をいっぱいもらってリュックに詰め込まれていた方で、そういう人にファジンとか押し付けると「悪いなぁ」と言いながら持って行かれましたね。そのどっちでもない一般の方というのは「ただで良いから持って行ってよ」と言っても、読むのがめんど臭いとかただでもらうのは気が引けるとかで中々持っていってもらえない。あと、申し訳ないなぁと思ったのは、俺のことをやたら気に入ってくれた大学生の方いてさぁ、なんか、俺なんかでも一応18の学生さんよりもは10年近く長く生きてるから、見ようによっては多少知識があるように見えたりもするんだな。文体演練なんて冗談でやってても「すごいですね」とマジ尊敬されたりもするわけだ。して、気に入ってすぐ買ってくれたは良いけど、セールストークが終わらないうちに買って違うブースに行っちゃって、でもなんかまた近くに来て、俺としゃべりたそうにしているわけだ。でも、買っちゃったし、しゃべるきっかけもないしみたいな感じで、3メートルぐらい離れた位置から話し掛けたそうに俺の方見てるの。目が合うとどっか行っちゃうし、気が付くとまた居るしみたいな感じで、あれ、ちょっと悪いことしたなぁと。もっと色々話すべきだったなぁと思ったり。

黙って座ってても人は寄って来ないし、いかにも売る気まんまんで通行人に声掛けてても近寄りがたいじゃん。隣か向かいに知り合いや友達が居て、その人とそれなりにコユイ中身のある文学談義を面白おかしく話してると自然と人が集まってきて立ち読みの人数が増えるんだよね。不思議なことに。そういう意味で、渡邊さんと榎本さんには感謝ですm(_)m。

あと、11/4の日記で学生サークルばっかで社会人サークルは少なかったと書いたんだけど、違ったね。U-KENという社会人サークルが「一億三千万人のための高橋源一郎入門」というのを出してて、見た目俺より若かったんで学生サークルかと思ったら社会人サークルだったんだよね。平均年齢30ジャストで、メンバーの中には三田文学(慶応大学系)の同人の方もいるという王道を行くサークルなんですが、俺も年取ったなと思いましたね。俺の中で三田文学とか早稲田文学とかの大手同人文芸誌のイメージって、自分が二十年働いた炭坑が廃坑になる話とか、自分が生まれ育った村が新しく作られたダムの下に沈む話とか、そういうのを書く47歳公務員・・みたいなイメージだったんだ。電動の踏み切りが作られる前に、緑のオバさんみたいにして、黄色い旗を持って自動車や近所の小学生を誘導する駅の職員さんが居て、新しく電動の踏み切りが生まれたから、明日から来なくて良いと言われて、今日が最後の旗振りになる56歳国鉄職員さんの話とか、そういうのが大手同人誌に載る小説だと思っていたから、最近の浅田彰さんの写真が載ったやたらオシャレな早稲田文学とかみたら、間違ってるのは俺のイメージの方なんだけどさぁ、若くてオシャレな学生さんだと思っていたら、三田文学の同人でしかも私より若い!ショックだったねぇ。U-KEN入ろうかなぁ。割りといまU-KENがマイブーム。

11/4 文学フリマに行ってきた。午前10時必着&開場で、私が会場に着いたのが午前9時。青山大学の真正面という立地からか、ファッション性の高い趣味の良い格好の学生が目立つ中、度のキツイ眼鏡を掛けたコユイオタクファッションの方を発見。私と同じ人種だと思って近づいてゆくと「プロデューサーがベビーフェイスから変ったじゃん?それ以降は聴いてないんだよね。」などというコユイ話をされている。よくみると主催の大塚英志さんだった。そのうち、大塚さんのアシスタントとおぼしき人が、携帯電話で「15・・いや20名ほど人が集まってきているのでそろそろ会場の設置が出来ないか?」という趣旨のTELをされている。この地点(開場の一時間前)で、集まってきているのは、大塚さんのゼミの学生&院生とおぼしき方がほとんどで、それ以外に目立ったのは大学教授風の身なりの方が一名に、ニ・三十キロはあろう本の山を登山用のリュックにしょって、歩いてきた五分ガリの肉体労働者風の方が一名、ちなみにこの方は出店場所が私の右隣で、ネット上でも何度かメールのやり取りをしたことがある白石昇さんだった。私はといえばタイヤの付いたキャリーバッグに本を積んで、楽して本を開場に持ってくるありさま。開場入りして良いことになり、机やイスの設置をこの辺りのメンバーで始める。この地点で、文学フリマ開催に向けてのさまざまな雑務を担当してきたのが、大塚さんとその周辺のボランティアの学生さん達であることが分かる。10時の開場が近づくに連れ、大学生に混じって大人の人の数が徐々に増える。私がインタビューした横浜なぎさ書房さんにも会った。もっと閑散とするかと思っていたが10時開場で予想より多くのお客さんが入って驚く。

もう一つ意外だったのが、開場前の各ブースの設置段階では、みんな自分たちの机の上にポップを立てたりポスター貼ったり商品を並べたりして飾っているのだけれども、その段階ではみんな文字だけの机より、写真やイラストやマンガの入ったポスターを貼った机の方が人が集まると思っていたのに、お客さんが入ってみると意外にそういうブースには冷たく、人気作家の名前が入った「***(作家名)ファンクラブ」の方が人が集まる。二次創作で人気タレントや人気マンガを扱うよりもは、人気作家の作家論や作品論の方が受けている。昔、コミケで自分の同人誌をみせた時「ああ、文字ね」と言われた状況と逆のことがここでは起きる。出店者の層は、大学の文学サークルが多く、社会人サークルが少ない。私の中では文芸の同人誌は9時―5時の仕事をしている公務員によって支えられているイメージなのだが、そういった社会人の集団や朝日カルチャー系の主婦サークルは少なく、社会人の人は個人出店者が多い気がした。

12時1時台になってお昼時で人が減る。自分も昼飯を食べに行きたいが、友達が居ないため一人で参加状態で、昼飯に席を離れるとブースが無人になってしまうため行き辛い。2時ごろコンビニで食料を仕入れて戻ってくると、大塚英志氏と鎌田哲哉氏の討論が始まっている。第二回の文学フリマ実行委員会が発足しなければ、参加費の余剰金をアフガニスタンかどこかに全額寄付すると大塚氏が書いたことに対して、鎌田氏が参加者の意志も確認せずにそんなことを決めるのは主催者の横暴だという趣旨のことを言っていた。具体レベルでは、飲み会で一人3000円徴収したけど、本当は一人2983円で足りるのだから、一人17円返せというレベルの話にみえる。文学フリマがもともと笙野頼子さんと大塚英志さんの論争から生まれたが、大塚さんが笙野頼子さんに言った批判がそのまま今回の大塚さんにも当てはまるのじゃないか、人(笙野さん)には異質な物を受け入れるように求めながら、自分が権力になったときには異質な物(鎌田さん)を排除してるのではないかと鎌田さんが言ったとき、具体レベルの話を超えて文体だの権力だのの話になって一瞬盛りあがった。討論のもう一つの論点は、大塚氏がボランティアベースでの開催を志向したのに対し、鎌田氏は主催者側に安くても良いから時給を払うべきだと言った点で、個人的にはこっちの方が面白かった。ボランティアのデメリットとして、ボランティアでやってあげてるのだからという心理的横暴がボランティア側に発生する。無料で雑務をやらされることでボランティア側が精神的に消耗させられる。ボランティアに参加したいという人間が居なくなればイベント自体が自然消滅してしまう。等の問題があり、非常に面白かった。討論ショーが終わってからまたお客さんがいっぱい来て、プロの作家の人のサイン会があったり、東浩紀氏が訪れたりした。東さんの直筆サイン本限定一冊販売というのをやって0.3秒後に売りきれたり、「写真撮らせてください」と言ったら意外と簡単にOK頂けたり。5時閉幕だけれども4時ごろから撤収に入ってて、5時にはもう完全に終わっていた。

その後、渡邊さん・さえらさん・せいあさん・麦野さん・榎本さん・私の6人で池袋に飲みに行った。渡邊さんに会えたのは収穫で、ボアダムズの山塚アイのような格好であらわれて、すごいテンションでしゃべられているのが強烈だった。今思うと、私のイメージの中にある渡邊利道像を演じられているのだなというのが多少あった。前半は自分の中のMadな部分を前面に出されていて、後半大人しくすることが要求される場面ではそういう振る舞いも出来るということをアピールされていたように思う。サービス精神の豊富な方だ。対する私は榎本さんからテンションが低いと何度もダメ出しを受ける。自分を演じるだけのサービス精神がなかったというより、今回はどういう振る舞いを期待されているのかが分からず、大人しくしていると「もっと下品さを前面に出せ」「君は差別意識が強くあって、それを面白いと思う人もいるのだから、もっと差別意識を出していけ」等のアドバイスを受ける。

10/19 「音楽誌の書かないJポップ批評 松浦亜弥」で、アーチストを名乗るアイドルに「アイドルじゃねーか」とツッコむ世間。その世間に対して、「建築や美術の世界では、アーチスト(芸術家)の対義語は職人だ」と榊ひろとさんが書いてて。ルネッサンスのミケランジェロを引き合いに出し、職人は工房で技術を伝達する事で作られるが、アーチストは技術の伝達では作られないものだと言い放った。人気というそれ自体どうやれば作られるのかよく分からない、実態があるのかないのかさえも分からない何かによって輝くアイドルは、技術の伝達によって作られる職人ではなく、むしろ芸術家(アーチスト)だと、書かれていた。

中学や高校の頃の自分は、人気というよく分からない物を売るアイドルよりも、確かな技術に裏打ちされ、工房の中で匿名性の高い仕事をする職人、スタジオミュージシャンやゴーストライターやデーターマンなどをカッコイイと思っていた。そちらの方が生活が安定しているイメージがあったり、技術という実態のあるものに向かって立ち向かうイメージがカッコ良かったのだ。ところが実際に社会に出てサラリーマンをやってみると何かが違う。サラリーマンは会社という匿名性の高い工房で、自分名義でなく会社名義で仕事を行い、生活は安定して技術を売る。そういうものとは微妙に違った。営業職の人間によく言われるのは、会社の商品を売る前に、まず自分を売れということだ。その会社の商品を説明しただけで、その会社の技術力を評価し商品を買うような人間は、営業が出向かなくても自ら会社に問い合わせて商品を買っていく。営業が相手にするのは、自分からは商品を買わない人間なのだ。その場合初対面でいきなり商品の説明をしても、売ろうという姿勢が見え見えで相手にされない。まず、ちょっとしたあいさつから入り、雑談をし、自分という人間を信用させたり、面白いと思わせたりするところから、仕事は始まる。商品の前に、まず自分の名前と顔を売って、名前を言っただけで「ああ、あの人」と分かってもらえるところまで持っていかなくてならないのだ。社内で自分の企画を通したいと思ったときも同じで、誰の企画を通すのか決める権限のある人間に、自分の名前と顔を覚えてもらうところから、仕事は始まる。そのためには社内イベントには積極的に参加し、自分の面白さを前面に出すために盛り上げ役に徹するのか、それとも信用できる人間である事を前面に押し出すためにイベントのスケージュールと予算の管理を請け負うのか、その辺も考えなくてはならない。会社という工房内には工房内の人気だの信用度だのがあり、技術ではない、生理的に好きか嫌いかと言った人間関係の中で物が動いて行ったりもする(もちろん、仕事が出来る出来ないも大事なのだが、顔も名前も分からない誰かさんの仕事に関する能力なんて誰も分からないわけで、まあ、名前も技術も両方必要だったりするわけだ)。

今回文学フリマで出すファジンに関して、アイドル雑誌的な造りにしたいと思った。その人が作り出した商品=小説でなく、商品を作り出す人にスポットを当てた商品カタログにしようと思った。小説の商品カタログをグラビア的に写真を多用してという方向ではダビンチが既にあり、意味があると思えなかった。それは小説を、私小説的な文脈、芸能ゴシップ的な文脈で読みなおす行為でもあり、作者の死というテクスト論からもう一度作者を取り戻す行為かもしれない。ネット上で小説を書いている人の中には、日記は面白いけど、小説は面白くないという人がいっぱいいて(私自身そう思われているかもしれないが)、小説が面白くない理由の一つに、小説を書くことに関してある一定以上の技術はあるのに、その技術が小説上から作者の実態を隠す方向にのみ使われ、日記上では出てくる作者のユニークな人柄や面白い感性が、小説上では必要以上の技術を使って丁寧に排除されて無味乾燥な、意味らしい意味もない小説が出来あがっていたりする。何かを伝えようとする作者の衝動が日記やエッセイには伺えるのに、小説という媒体では作者の衝動が丁寧に排除され、その作者を隠す技術のみが目立ってしまう。インターネット作家協会のオフ会で「ネットで面白い日記や雑文を書く人はいくらでもいるが、面白い小説を書く人はほとんど居ない」という某氏の話に納得してしまうネット作家な自分も情けないのだが。今回、ファジンで取り上げる人は大手の出版者から小説を出している人で、小説自体も面白く、また、小説上でも作者の人柄や生活感をさらしている人が多い。実際そうでなければ小説なんて面白くないのだ。小説を元に作者の生活周辺を再構成するというやり方が礼儀に反するという自覚もありつつ、しかし、まず人を売らなくては商品を売るところまでたどり着けないというカタログ雑誌サイドからの確信もありつつ。

10/17 文学フリマに出すファジンがらみのインタビューと称して某女性小説家に会った。何かを質問すると「あなたはどうなのですか?」と逆に質問され、こちらが手の内をさらした分だけ、あちらもしゃべってもらえるという形式で進み、こちらが手の内をさらせない部分に関しては、あちらもさらして頂けないという、ある意味正しい線対称ですすんだ。私の準備不足もあり反省点は色々あるが、その辺の落穂拾い(フォロー)も含めて頑張ってみるつもりだ。

8/30 昔好きだったテレビ番組についてでも。高校の頃、深夜2時ごろテレビを観ていたら、エスパー伊藤という人が出ていて、それが彼をはじめて見た瞬間だったのですが、まず彼は自分のことを超能力者だと言いました。超能力者であることの証拠として、雑誌の通信販売で買った数々の超能力グッズを紹介(テレビのこちら側では「超能力者は超能力グッズを買わないと思う」とツッコミ)し、頭にオウムの人がかぶるヘッドギア(脳波測定機)を着けて座禅を組んで、瞑想をしてました。VTRの中で、高校生のエスパー伊藤さんは昼休みも休まずに超能力の練習と称して座禅を組んで瞑想をしていたのですが、ナレーションで「はじめは教室で超能力を鍛えていた彼も、それをすると友達にいじめられるので、いまでは校舎の屋上で一人超能力を鍛える毎日」に笑い、さらに、自宅の部屋で超能力を鍛えるエスパーさんの映像で、自室の壁に当時既にアイドルとしては消えかけていた南野陽子さんのポスターが貼ってあったのに笑い、こんな超能力者は信用できないと思っていると、彼は多くのお客さんと司会者&ゲストが見守るテレビの収録スタジオで、自らの超能力を披露すると言い始めたのです。生卵が10個入ったパックを取り出すと、そのうちの2個を立てて、立てた卵の上にガラスの板を乗せ、その上に乗っても卵が割れないという超能力を実行するというのです。そのときになると、段々このエスパーさんの芸風が分かってきます。この人はテレビの奇人変人大集合に出てくる人の芸を片っ端から真似する電撃ネットワーク(米名:東京ショックボーイズ)のような人なんだなと。過激な宴会芸の名人なんだなと思ってみていたわけです。

この卵の上に乗る芸も「世界のびっくり人間」とかいう特番で観たことがあります。片方の卵だけに体重がかかることなく、上手に平均的に体重を掛ければ、卵は割れないらしいのです。まずは、卵を立てるところから始まります。卵は縦に立てた方が縦からの力に強いのです。が、コロンブスの卵の話にもあるように、卵は中々立ってくれません。立てようとすると倒れ、倒れてはまた立てて、5分ぐらいの放送時間をかけてやっと卵が立つと、次はもう一個の卵を立てなくてはなりません。もう一個の卵を立てようと集中すると、立たずに転がった卵が立ってる方の卵の方を倒しそうになったり、ひじが立ってる方の卵に当たって倒れそうになったり、ハラハラさせながら、さらに5分ぐらいかけてやっと卵が二つ立ちます。その上にそっとガラスの板を乗せる作業、これも大変です。変な方向に力が入って卵を倒しては元も子もありませんし、二つの卵に均等に重さが掛かるように二つの卵の真中に置かなくてはいけません。ようやく、卵が二つ立ち、その上にガラス板が置かれました。次はガラス板の上の一ヶ所に体重が掛かることなく、全体に均等に体重が乗るようにする番です。卵と板はテーブルから床に場所を移され、エスパーは両手でテーブルに体重を乗せ、浮かせた足をゆっくりとガラス板の上に降ろします。あくまでも均等に体重は掛からねばなりません。ゆっくりと慎重に体重を掛けるエスパー。と。グシャ!と潰れて黄色い中身をにじませる生卵。ここでいったんCM。

今のは失敗。次は上手くいくからと言い訳して、再び卵を立てようとするエスパー。しかし、また卵を立てるのを5分も掛かっていては番組にならない。必死になって卵を立てては乗ろうとするが、結局三十分掛けて十個の卵を割って終わり。ここまでが、エスパー伊藤さんのコーナーで、次がエスパー伊藤さんと闘う対戦相手の紹介に行くわけです。番組はルー大柴さんと相原勇さん司会で、ゲストに関根勤さんや宅八郎さんというコアな組み合わせ。対戦相手は、腰蓑をはいた発展途上国系ファッションの東南アジアの方で、ヌンチャクの先に刃物の鎌を付けた武器を振り回して登場。通訳を通じてその人が言うには

「弟子の**さんの頭の上に新聞紙を一枚置いて、その上にレンガを置く。私がヌンチャクの鎌で彼の頭の上のレンガだけを割る」
という内容。司会のルー大柴さんいわく
「++さんは今日で3回目の出演ですが、出られるたびにお弟子さんが変わるのですが大丈夫ですか?」
通訳の方を通して++さんが言うには
「私は弟子がよく変わるんだ。大丈夫、前回一緒に番組に出た彼はいまでは元気に病院で療養しているよ。」
ルー大柴「++さんがすごいのか、お弟子さんがすごいのかいまいちよく分からないですが、やってもらいましょう。」
お弟子さんの頭の上に新聞紙一枚とレンガが置かれ、鎌付きのヌンチャクが振りまわされる。
「怖くないですか?」
とお弟子さんに聞く司会者に
「私は++さんを信用しています。怖くないので目もつむりません」
というお弟子さん。鎌がレンガを割って、お弟子さんが無事両手を挙げて立ちあがった瞬間、会場から拍手が起きる。スローモーションでみると、お弟子さんは確実に目をつむっているが、それもお愛嬌。
「次回もあなたと会えると光栄です」
とお弟子さんに握手を求める司会者。そして、ついにエスパー伊藤対++の対戦が始まるのです。

司会のルーさんが
「それではお二人に闘ってもらいます」
と告げ、安全確保のための金網が客席&ゲスト&司会者と、対戦場との間に組まれ、
「万が一、ヌンチャクから刃が外れて鎌が飛んでも安全なように金網を張らせて頂きます」
とナレーションがはいる。女性の多い客席は騒然となり、悲鳴が起きる。
「さあ、超能力対鎌ヌンチャク勝つのはどっちだ!」
とプロレス中継のような実況が入るが、勝つも何もルールが分からないのです。テレビのこちら側では大爆笑の私。金網が、床を除く六面すべてに張られていることからしてもかなり危険な状況になりうることがみてとれます。異種格闘技で実践を想定したバーリトゥード(何でもあり)といっても、ここまでの何でもありは観た事がありません。第一、エスパーの方は超能力が失敗しているのです。宅八郎さんが顔面蒼白で青筋を浮かせて手と顔を痙攣させながら
「アブナイ・・・あぶないです・・止めた方が良いです」
と言うが、そういう宅さんの顔もかなりアブナイ状態でした。上半身裸でズボンのみの江頭ルックのエスパーは自信たっぷりに
「大丈夫です。私が勝ちます」
と言ってます。ゲストの関根さんは
「ダメだったら、止めて良いんだよ。無理しちゃダメだよ。相手は刃物持ってるんだから、逃げても少しも恥ずかしい事じゃないんだよ」
と説得します。しかし、エスパーは根拠のない自信に満ち溢れ、
「勝ちます」
と言っています。
「馬鹿と刃物は使いよう」
とはよく言った物です。で、その結果どっちが勝ったのか?私は続きを観たかったのですが、父がテレビのある台所へ来たので、続きを観ることはできずに消灯・就寝させられてしまいました。その後、テレビのある台所からはアダルトビデオの音声が流れていたのですが、いまでもあの闘いの結末には興味があります。

8/1 話変わって、一人称の正義と三人称の正義の違いについてでも。いつものように、手元に資料も知識もないのに断言してひんしゅくを買うが、ニュージャーナリズムが一人称で、オールドジャーナリズムは三人称だ。オールドジャーナリズムにとって、すべての情報は正式なルートから仕入れたものであるというのが一つの正義に成っている。警視庁によると、気象庁によると、裁判所によると。公の機関の公式発表がすべてで、どこの誰だか分からない一個人、文章の書き手である私の個人的な見解などは絶対に入ってはいけない。政府が「今度の戦争は、正義の自国軍が勝つか、悪の敵国軍が勝つかの戦争だ」と言えば、政府がそう言ったと書く。政府の言った内容が正しいかどうかはここでは問わない。政府がそう言ったという事実を我々は書いている。それがオールドジャーナリズムの正義だ。対するニュージャーナリズムはフットワークを使って実際に現場に出向いて、実際に自分の目で見て、耳で聞いたことのみを書く。ここでは「政府首脳によると」「**庁の発表では」といった三人称は使われず、「私は」という一人称が使われる。自国軍が圧倒的装備を持って敵国の領土に上陸し、敵国の無抵抗な民間人を殺している場面を見たら、「私はそのような場面を見た」と書く。ここで、「私」を使うのは私を表現したいという自己顕示欲からではなく、むしろ著者の謙虚さから来ている。私は戦場のすべてを見たわけではないし、今回の戦争について特権的に語れる権利を持っているわけでもない。私が見た場面ではこうだったが、別の場所ではその逆の事が行われていたかもしれないし、同じ場面でも違う人が見ていれば違う風に解釈したかもしれない。たとえば、自国の軍隊が殺したのは、無抵抗の民間人ではなく、先日自国軍の未来ある若き青年将校を殺した民間人ゲリラであったとか、彼自身は武器を持っていないが、敵国の軍閥に多くの金と武器を寄付する有力な指導者だったとか。つまり、同じことでも色んな風に言う人がいるし、別の現場では自分が見たのとは逆の出来事が起きている可能性もある。そのような人たちの発言を邪魔する権利は無いし、私は私のみた範囲でしか物を言えないから謙虚さの表現として「私は」という限定が来る。オールドジャーナリズムでは正式な機関の正式な発言に対して、どこの誰ともつかない個人である「私」が勝手に解釈したりコメントしたりしないのが正義だったが、ニュージャーナリズムでは、実際に自分が見て聞いて体験した事についてのみ語るのが正義だったりする。そして、ニュージャーナリズムの正義は私小説の正義とどこか似ているような気がする。

かつて、クイックジャパン誌上で、元宝島編集長の北山耕平さんのインタビューがあった。そのインタビュー上で竹中労の「ビートルズレポート」はニュージャーナリズムかオールドジャーナリズムかで意見が分かれた。クイックジャパンの編集者はニュージャーナリズムだと言い、北山氏はオールドジャーナリズムの最後のところでふんばってる人だと言った。北山氏のオールドジャーナリズム批判はアンカー制度(データーマンと呼ばれる見習いライターが現場に行ってデーターを集め、上司であるアンカーマンが何人かのデーターマンが集めてきたデーターを元に一つの文章にまとめる制度)批判である以上、日本でもっとも有名なアンカーマンの一人である竹中労氏をニュージャーナリズムとは認められなかったのだろう。北山氏の世代ではまだ、強固なアンカーマン制度が残っていて、俺達データーマンに直接文章を書かせろ!という世代間闘争が意味を持っていたのだと思う。それがクイックジャパンの編集者世代では、偉いアンカーマンと下っ端のデーターマンと言った強固な制度は残ってなくって、自分の手下として何人ものデーターマンを私的に雇えるような強固なアンカーマンは居ずに、豊富な活字資料(その多くは誰もが手に入れられる書籍や雑誌)を読んで物を書く書斎派(アンカーマン)と足で現場に行ってネタを集める行動派(データーマン)で両者に上司・部下の関係がないというイメージになってるように感じる。そして実際のビートルズレポートは、アンカー制度で書かれているが、企業や政府の公式発表を集めたものという意味でのオールドジャーナリズムではない。アンカー以外の書き手が匿名であり、ビートルズを呼んだプロモーターやビートルズを警備する警察の内部情報を事細かに記述した内容は、オールドとかニューというよりブラックジャーナリズムを思わせる。オールドジャーナリズムが記者クラブ制度で、ニュージャーナリズムが体験取材だとすると、ブラックジャーナリズムは内部告発だ。Aという有名人(政治家でも芸能人でもスポーツ選手でも良い)について書こうとしたとき、直接本人にインタビューを取るのがオールドだとすると、Aの周辺にいる人たち、Aの家族や親戚、職場の人間やかつての同級生にAに関するコメントを取るのが、ニュージャーナリズムと言ったりブラックジャーナリズムと言ったりする。まあ、ブラックの場合はAの周辺の人たちからAに関する悪い噂のみを聞き出して、良い話は全部捨てて悪い噂のみで構成し、Aを叩きたいAのライバル企業に高く売るというイメージがあるが、情報源を元にオールド・ニュー・ブラックを分けると、A周辺の人たちに直接足を使って会いに行き実際に自分の耳で聞き、自分の目で見て情報を集めたというインタビュアー側から見ればニューで、たまたまAの周辺にいたというだけの人が、Aの悪口を勝手にしゃべっちゃってるという語り手側に重きを置けばブラックになるが、このケースに限っては両者にそれほど大きな差はない。面白いのは、たとえAの悪口だけで構成したとしても、きちんとした手続きを踏んだものはAに深みを与えるだけで、Aの印象を悪くはしない。「Aって奴は、ちゃらちゃらしたこぎれいな服着て気取りやがってよ、なんか良いとこのボンボンらしいぜ」とある人が言うと「A?ああ、あの薄汚いデニム羽織った子ね。ああゆう中産階級出には私達のパーティーにはちょっと来て欲しくないわね」とある人が言う。前者が路上生活者の発言で後者がどっかの令嬢の発言だと、Aがどんな人間か?という問題から話者がどんな人間か?に興味が移り、Aに対しては交友範囲が広いんだなという印象になる。で、ビートルズレポートに戻ると、竹内労はビートルズレポートを書く前に「呼び屋」という本でプロモーター批判を展開している。その本を書くにあたって、竹中労は多くのデータ―を集め、それらを統合して物を書いた。個々のデーターは正しくてもそのデーターとデーターを繋ぐ論理の部分で間違っている部分、過剰に批判的な部分はあったという。プロモーターは竹中の本に反論する事なく、自らの仕事にのみ集中し、プロモーターの秘書はそのような親分の姿を歯がゆく思った。そして、そのプロモーターが今度はビートルズを呼んだと。竹中はプロモーターの秘書にビートルズレポートのライターとして参加するよう誘う。秘書は迷うが、結局参加する。正確なデーターを提供する事で、内部から竹中の暴走をコントロールしようとしたらしい。有力なディープスロート(内部告発者)を得て、本は出版されるが、出版後、秘書は責任を感じてプロモーターのもとを去っている。竹中は責任を感じて彼女に新しい就職先を斡旋するが、彼女はそれも断り次の職場をみつける。ビートルズレポートの復刻版では、そのようなビートルズレポートを作る過程における内部情報がメロドラマチックに入っている。いくつかの内部告発者をライターとして集め、竹中労がアンカーを書き、出版されたという意味ではオールドだし、情報源が公式発表ではないという意味ではニューだし、情報を得るために内部に入って行ったのではなく、元々内部に居る者から情報をもらったという意味ではブラックなのだが、女性自身という日本の女性誌で一番の売り上げを誇る雑誌の編集長を辞め、独立後、「美空ひばり」「呼び屋」といった硬派なドキュメンタリーでベストセラーを作るも、それらはすべて当時の日本共産党の意向に沿ったものを共産党員である竹中労が作ったものであり、中国に渡って文化大革命の現実を見た竹中が、市場経済=女性自身の編集長の地位も、共産主義も捨てて、友人の印刷所に声をかけてビートルズレポートを作り、一部から絶賛されつつも結局売れずに印刷所を倒産させてしまうといった三重の挫折をめぐるメロドラマにもなっていて、過剰なセンチメンタリズムが小説以上に小説的であったりする。

7/10 伝えたい事と伝わる事の間にどうしても溝ができるんだけど、7/3の日記で伝えたかったのは、キムタク中心にあのドラマを見ると、もうすぐ30だし、結婚もしたし、子供も出来たし、いつまでもラブストーリーの二枚目役やってられないんだ、新しい方向性をみつけなきゃいけないんだというキムタク側のあせりがなんとなくある(香港映画がらみのゴシップ参照)。つうことを踏まえて「キムタクのイメチェン先はどこなのか?」というテーマであのドラマを観る。

したときに、端からみた時に余裕で頂点に立ってて、周囲から憧れられたりちやほやされたりうらやましがられたり妬まれたりするトップの位置にいながら、水面下では、すごく焦ってたり不安だったり孤独だったり努力してたり闘ってたりするそういう役でキムタクが出てたら面白いんじゃないかなと男目線では思った。実際にそれをやったら安っぽいスポコンドラマになってたかもしれないが。

で、流れとしては推理物のプロデューサーがついて、キムタクが指名した相手役が男性という地点で、刑事コロンボ〜古畑任三郎的にいくか、探偵物語(松田優作)〜私立探偵 濱マイク(永瀬正敏)に行くか(個人的には俺達は天使だが好き)、その辺りだろうなと。刑事物・探偵物というのが一番打率の高いイメチェン先だろうと思った。

「空から降る一億の星」の第一話を観て、これかと。豪華客船での政財界の要人を招いての社交パーティーという設定がすべてを語っていたというか。二十代の女性が好む映画や少女漫画の設定で、豪華客船でのパーティーというのは王道パターンなんですよ。豪華で派手なものを好む劇団四季&宝塚のミュージカルや、ユーミンの曲と同系統で、彼女達が好きなのは経済的には欲しいものは何でも手に入る貴族や財閥の設定で、恋の悩みにのみ人生を費やすという奴です。

ただ、この設定を日本人で演じると突然嘘っぽくなる。日本は第二次大戦で負けて財閥解体をされてますから、貴族や財閥というものが基本的には存在しない。ハリウッド映画&ハーレクインロマンスの場合、出演者が全員白人だから財閥だ貴族だという設定が嘘っぽくならないし、少女漫画でも登場人物が全員白人で髪が縦巻きロールだったり、逆に「あさきゆめみし」のように日本でも源氏物語の時代にまで過去にさかのぼってしまったりして、恋以外のことはなんでも思い通りになってしまう貴族という設定を維持している。男でミュージカル・劇団四季嫌いの人が言うのは、日本人が金髪のかつらをつけて「ボンジュール・マドモアゼェール」とか「メルシー・マダム・エメラルダ」とか言ってるのが気持ち悪い、お前、どうみても日本人だろってことですが、じゃあ、ミュージカルでN.Y.やパリの社交界の設定を、日本の銀座か麻布か南青山にして、登場人物の名前をピェール・ジョルダンやドロシー・ホリスターやミッシェル・ポルナレフから、近衛歌麿や鬼瓦権ざえもんや玉川田吾作にしてしまって良いのか?貴族や財閥といった設定・恋愛のことのみに頭を悩ませれば良い身分という豪華さを残したまま、日本人の役者を使うには、どうすれば良いのか?長年の間誰もここをクリアすることが出来なかった。それをいとも簡単にクリアしてしまったのがこのドラマの第一話だったのです。

木村拓哉・井川遥という役者のオーラを使い切る事で、何の違和感もなく「豪華客船です」「財閥です」「要人を招いてのパーティーです」と言い切ってしまった。こっから「LOVE BOAT(洋物テレビドラマ)」までの距離は近いぜ。つまり、北川さんの描きたい世界を描くには、等身大の身近さを感じられるスターじゃなくて、過剰にオーラが出てる、ちょっと近づきがたいぐらいの役者の方が必要だったんですよ。ハーレクインロマンス的なハリウッド映画に出てる役者さんみても、みんな40〜60ぐらいの年齢でもラブロマンスの二枚目役やってるでしょう。ケビン・コスナーっていくつだっけ?クリント・イーストウッドって何歳?プリティーウーマンのときのリチャードギアが38歳で、ボディーガードのときのケビンコスナーが37歳、大人の恋愛を演じるにはそのぐらいの年季が必要だということです。二十代最後のドラマだとか、結婚して子供も出来ちゃったから人気が落ちるかもしれないとか言ってるジャニーズ・キムタクに、ハリウッド映画の役者は30を超えてからが華なんだよ、という答えを用意した北川脚本です。・・・うーーん、やっぱり伝えたい事と伝わることが微妙にズレるんだよなぁ。

7/3 少し古い話ですが「空から降る一億の星」というドラマが、私にとって面白かったのでどこがどう面白いのか書きたいと思います。男目線/女目線、視聴率/残る作品、合理的解決のある推理ドラマ/謎を残したままのサスペンス。辺りの対立軸を設定して語ります。

まず、推理ドラマで視聴率を取ってきた敏腕プロデューサーが、同じく推理ドラマHEROで連続ドラマの平均視聴率としては史上最高の視聴率30%を出した木村拓哉と組んで、推理ドラマを作る。もうこの地点で、高視聴率は約束されたも同然だったのですが、脚本家が恋愛ドラマでは超一流の北川悦吏子。彼女の「あすなろ白書」でキムタクはトップスターになったわけですし、その後も北川脚本の恋愛ドラマでキムタクは高い人気を誇ってきたわけです。で、プロデューサーが推理ドラマの人ですから、北川脚本も初の推理ドラマに挑戦だったわけです。しかも、キムタクは自分の相方に明石屋さんまを指名。この地点で、ラブロマンスの女王、北川悦吏子の翼がもがれた状態、男二人じゃ恋愛を絡ませようがない。もう本格的に推理ドラマを書くしかないわけですが、結局、推理ドラマの脚本を上手く書く事が出来ず、ドラマ放送の一ヶ月前になって、井川遥を出演者にもぐりこませ、脚本は井川遥とキムタクのラブロマンスへと変わります。

さて、ドラマ放送前の段階で、プロデューサー=テレビ局サイドは視聴率30%、HEROに続く史上最高の視聴率ということをテレビ雑誌などでしきりに言います。何でも前回放送したHEROはお正月の大河ドラマやNHKの連続テレビドラマ小説といった特殊なドラマを除くと平均視聴率では史上最高だったと、だから今回の「空から降る一億の星」も30%取るので、この枠のスポンサーさん番組を高く買ってねということです。通常のテレビドラマの視聴率が12〜16%が合格点とされるのに、前回好評だったHEROと同じ、木村拓哉&推理ドラマというだけで目標視聴率30%を初めに設定してしまっているのです。ところが、「空から降る一億の星」の公式HPをみると分かるのですが、出演者&脚本家は「視聴率よりも残るドラマ」という事をしきりに言います。一回ごとの視聴率は低くても、最後まで観た後、残るドラマにしたい。これがいったい何を意味するのか?まず、個人的に思ったのはHEROは古畑任三郎系の、毎回ごとに新しい事件が起きて、謎が発生し、その謎に合理的解決が与えられて番組が終わる一話読みきりの推理ドラマだとすれば、今回の「空から降る一億の星」は謎を最終話まで引っ張っていく、場合によっては最終話になっても合理的な解決を与えずに謎を残したまま終わるエヴァンゲリオンやツインピークスみたいなものだぜと言ってるようにみえる。この方向性でキムタクが出て失敗したドラマとしてギフトが挙げられるのですが、何故いまあえて、視聴率を捨ててまで合理的な解決のない方向へ走るのか?

主役のキムタクですが、前回高視聴率を取った事で、今回特に高い視聴率を取らなくても、次のチャンスは与えられる、いわば視聴率のプレッシャーから開放された遊び・実験の許される位置に今回はいるわけです。それと同時に別のプレッシャーがいまのキムタクにはあるわけです。例えば、同じSMAPの稲垣吾郎は年に一本のドラマと年に一本の映画にコンスタントに出ている。役者にとってテレビドラマはリアルタイムの人気のバロメーターですが、三ヶ月もすればみんな忘れてしまう水物だという意識がある。それに対して、映画は残る。ビデオ化されて、五年・十年残るのが映画だと役者さんたちは言います。キムタクはドラマで非常に高い人気を誇ってますが、こと映画になると売れてからはほとんど出ていません。香港映画に出演する事が決まり、途中まで撮ったものの、撮影スケージュールが当初の予定を過ぎたところで、キムタクは日本に戻ってきて、撮影は中止。キムタクのスケージュールが空かないため、監督も別作品を先に撮って公開する始末。香港映画に出て世界デビューと大々的に報じられた後での撮影中断で、木村拓哉は相当焦っているという話があって、香港映画撮影のためのスケージュールを事務所が空けてくれないとキムタクが言っていたとか、空けたら空けたで今度は香港側のスケージュールが空かないで、木村拓哉は仕事が無くて暇だとぼやいていたとか、香港映画のためにスケージュールを空けた結果が、同じSMAPの中居正広との給料格差になってあらわれたり、色々ゴシップ誌に報じられているわけです。そんな中で工藤静香との間に子供が出来て、いままで結婚もしませんSEXもしませんみたいなイメージで売っていたジャニーズ事務所所属タレント初の結婚&出産。「結婚会見のとき、自分を取り囲む記者全員が、あいつはもうダメだという目で自分を見ている気がした」というキムタク発言が芸能レポーター梨本さん経由で流れたり、自分と工藤静香以外は全員が敵に見えたなどという話がゴシップ誌に載ったり。傍から観た時にキムタクは人気の頂点に居て、すごく余裕があるように見えるけれども、片方で変な焦燥感に駆られているらしい。実際、ジャニーズ事務所は十代で未婚のアイドルしか扱ったことがない事務所だから、既婚で子供が居て来年三十になるキムタクをどういうイメージで売れば良いのか分からなくて混乱しているとか、キムタクに「デキちゃった結婚」と書いたゴシップ誌を法に訴える手続きをキムタクがしているのを周囲が止めたとか、色々あるらしい。したときに、いまの視聴率より、今後残っていく作品を撮りたいというキムタクの意向は当然あるわけだ。

で、この残る作品ってのは、具体的にどういうものなのか?ですが、一話読み切りで合理的解決の与えられるストーリーだと、一話終わった地点で解決してすっきりするのが、謎を残して次に引っ張られると、何か見ている人の胸の内に気持ち悪いものが残って、あの謎はこういうことじゃないか、ああゆうことじゃないかと、語る事で見ている人自らが合理的解決を図ろうとする。そういう語らせるドラマの典型が、エヴァ・ツインピークスもしくは村上春樹などになるのでしょうが、このジャンルで質の良いものを作ろうとすると、細部にわたって作者が描いていて、すべての謎に合理的解決を図っていてかつ、その合理的解決に導く伏線もきちんと放送した上で、解決の部分だけを放送しないやり方じゃなきゃいけない。ダメなパターンは書いている本人の中でも合理的解決が出来ていないパターンのものでして。ミステリーだけど、最後の答えを言わないものを、出演者サイドは目指している。少なくとも「ギフト」みたいなドラマにキムタクが出ている事を考えると、出演者らの言う残る作品とは、そういうものだと思うわけです。けれど、これでは当然、プロデューサーのいうような視聴率は取れない。謎があって、解決があるとすっきりする。そのすっきりを求めて視聴者は観るわけで、HEROのときは一話完結のため、毎回事にすっきりがあった。最後の答えをいわないパターンのドラマでも、一話完結で毎回事になんとなくこれが答えじゃないかというのが分かればすっきりするんだけど、「空から降る一億の星」は一つの謎で最後まで引っ張るし、エヴァのように聖書やカバラの専門用語や図案がいっぱい出てきて、ヨーロッパの何百年にも渡る神学論争・異端宗教の文脈でいくらでも語れるというタイプのものでもない。さらに月9・キムタクという組み合わせからして、女性が主な視聴者層になるわけですが、女の人は安心できるものを読みたいという人が多くて、推理小説でも恋愛小説でも先に最後のページを読んで、ハッピーエンドで合理的解決もされているのを確認してから読み進める人が多いらしい。もっというと、このドラマは男目線で企画されている部分が多い。男の場合、解決を持ってくる事で観てる側の言葉を遮断するのじゃなくて、解決を隠す事で、こちらの解釈や言葉を話せるというか聴いてもらえるというか、そういうのがあるわけだ。元々主役がキムタクとさんまという男二人で刑事物、それもキムタクが悪役ともなれば、男臭いドラマになるのは企画段階で想像つくわけだ。で、ラブロマンスの脚本家北川悦吏子は男臭い推理ドラマが書けなくて、放送の一ヶ月前に突然、主役に井川遥を持ってきてラブロマンスへ舵を切る。井川遥はいま男に人気があるらしい、だったら彼女出しとけば男目線的には合格点だろう。後は自分のお得意のラブロマンスで女目線的なクオリティーを上げまくってやる。という感じが北川脚本から感じられます。

女目線オンリーのラブロマンス北川悦吏子脚本第一話目。観てて割りと感動したというか、女目線の物語を極端に様式化することで男でも理解できる話に持って行ったというか。井川遥演じる西原美羽は大財閥の娘。今日は財界の偉い人たちを招いての豪華客船で自分の誕生パーティー。自分には父の決めた結婚相手が居て、でも美羽はその相手と結婚したくない。そこへ、フランス料理の料理見習人片瀬涼(キムタク)が、豪華客船内に料理を運びにやってくる。そこで美羽は涼に一目惚れをする。

このシーンは、タイタニックのパクリだとか言われてますが、私はむしろプリティーウーマンの男女入れ替えバージョンを感じたのですね。男が観て詰まらない映画で、女性がよろこぶ映画の典型として、プリティーウーマンとボディーガードがあるのですが、プリティーウーマンの場合、男が財閥の御曹司で父が引いた人生のレールの上しか走れない。女がストリートガール(路上の売春婦)で、男が女に一目惚れし、女は一夜にして大財閥の社長婦人になる。みたいな話です。男の性欲は女の食欲と類似するという私の説で行くと、経済的には何不自由ない財閥の人間が、無名で貧乏な人間の中に、自分の欲求を満たしてくれる誰かを見つける。表面的にはすべて満たされている財閥の家に生まれて、でも自分で人生を選択した事も無ければ、生き方を選択する事を許されても来なかった。そういう人が生まれて初めてやった人生の選択がこの恋だったというのが物語の骨子で。男女を入れ替えることで古い性別役割分業から脱却してるとも言えるし、女が男を金で買うという女目線の優越感をドラマに組み入れてるとも言える。

俺ね、十代の子が読む少女漫画は多少知ってる気がしてたのですが、二十代の女性が読む少女漫画をあまり知らなかったのですね。最近、リサーチして分かったのは、髪は縦巻きロールで名前はカタカナ、舞台はヨーロッパで貴族もしくは大財閥の出身で経済的には何不自由ない生活で、恋の悩みにのみ人生を費やす。こういうのが基本設定なのです。これは単純にシンデレラ願望が出てて、誰かと結婚した結果お姫さまなのか、生まれがお姫さまなのかは別にして、まずお姫様なわけです。これはね、ある種の現実の裏返しだとも言えるわけです。平日の昼にやっているワイドショーの「おサイフ救助隊」などというコーナーをみると、36歳手取り30万で家族四人暮らしている家計簿みたいなのをみると現実って厳しいなというのが分かるわけです。性別役割分業のもと、結婚したら働かなくても良いと思っていたら、いざ結婚しようかと思って相手の収入聞いたら、男女雇用機会均等法のもとでは自分とたいして変わらない額ぐらいしかもらってなくって、その額で妊娠出産したら親子三人暮らさなきゃいけないってのは、一人あたり三分の一の額、大変だなぁぐらいにはなる。そんなのの裏返しとして、お姫様願望はあるのだと思う。典型的なのは、少女漫画を読んで、マリーアントワネットに自分を置きかえる女性ってのが結構いて、深田恭子なんかも自分の事をマリーアントワネットの生まれ変わりと言ってたりね。これがもう少し歳とって、30代に読まれる少女漫画になると、夫が自分を女として扱ってくれないとか、子供が小学校高学年になって、母親と一緒に街を歩くことを嫌がるようになった、昔は「ママ」ってあんなに泣きじゃくって甘えていたのにとか、人はいつからおばさんと呼ばれるようになるのだろうとか、岸辺のアルバムノリになって行くのですが、二十代向け少女漫画の設定を組み込んだのがこのドラマの第一話だと思われるわけです。

北川悦吏子がテレビ雑誌の番組宣伝でひたすら語っていたのは、さんまとキムタク、どっちを選ぶ?というグループアイドル的な見方で、確かに木村拓哉はかっこいい。ドラマ中でもフランス料理の料理人で、食欲も満たしてくれば、甘い言葉も掛けてくれる。でも、木村演じる片瀬涼は、素性が不明で、大金持ちの女子大生を金目的で殺した疑いがかかっている。色んな意味で魅力的だけど、恋をするには危険な相手だと。それに対して、さんま演じる堂島完三は一般的に言ってカッコよくない三枚目で、仕事上も干されている。人に対しての表面的な優しさなく、妹の堂島優子とはいつも喧嘩してるし、涼には容疑者扱いするし、涼に惹かれていく女の子には、あいつには近づくなと嫌な事も言う。でも、全部相手のことを思って言うわけだと。北川が書こうとしているのは、一般的に言って涼の方がカッコ良いけど、私は完三の方が好きという世界だ。これはいま、女の子達にとって木村拓哉がどういう存在であるのかを象徴的にあらわしている。

キムタクが結婚したというニュースを私は若い女性ばかりの職場で聞いたのですが、職場は仕事中であるにも関わらず、騒然として重い空気が立ち込め、休憩中の女の子は皆携帯でキムタクのニュースを探してました。私はキムタク結婚のニュースが、それほど大きな問題である事が理解できず、大騒ぎする女の子に「キムタクのこと好きだったんだ?」と聞いたら、「好きとかそんなんじゃないけど、キムタクだよ」と、一様にキムタクファンじゃない事を言っていた。私には、何故キムタクにそれほどの関心がありながら、キムタクの事を好きじゃないとみな一様に強く否定するのか理解できなかったのですが、おそらく、女の子にとってキムタクはスピルバーグの映画や小室哲哉の音楽と同じぐらい、メジャー過ぎて「好きだ」と口にするのが恥ずかしい存在であるようです。キムタクのニュースを欲しくて、みなトイレに行って携帯でWebチェックしているのに、いざ好きかと聞かれると、顔をしかめて、好きじゃないとか、興味がないとか言う(・・単に俺と口利きたくなかったからそう言ったというのが正解かも)。ドラマでキムタクがラブシーンを演じても、ヒロイン役に感情移入しつつも、私なんかにキムタクがあんな事を言うわけがないという冷めたツッコミが入る。そういうキムタクに、金銭目的で令嬢に近づく殺人犯というマイナスの疑惑を載せる事で、ドラマに信憑性やリアリティーを与えようとしているのじゃないかと。

いま、普通に女の子に人気のある俳優が藤木直人だとすると、キムタクはもう等身大でなくなってるわけです。どちらかというと昔の映画スターのような存在になってるのが、ドラマの中での扱われ方、フランクシナトラが人気若手俳優だった頃のような古典的で大げさなBGMとカメラワークから分かります。「空から降る一億の星」のエンドロールをみると、50年代の映画じゃないかと思うほどのレトロな作りになってます。これは残るもの=映画という流れだけで来ているのではなさそうです。女目線で言えば、藤木直人に「好きだよ」と言われりゃラッキーだけど、キムタクだと、自分に都合が良すぎて警戒心を持ってしまう、何か裏があるのじゃないかと思ってしまう。けれど、世間知らずな財閥のお嬢様西原美羽(井川遥)はそれに気づかず、どんどん涼にハマって行く。恋のためならすべてを投げ出すわ〜〜という少女漫画の定番を描きつつ、北川悦吏子の一押しは、渋くてかっこいい完三(さんま)で、ベンチの背もたれに両手を掛けて、夜空を見上げてぼぉーーーっとする完三の横顔を真横から撮る。鋭角で構成された横顔のシルエットがシャープな渋みを出す。

一見、ものすごく余裕な位置にいるようでいて、何か分からないけど何かとすごく闘っている感じのするキムタク(Ex香港映画・結婚記者会見)が男目線だとすれば、メジャー過ぎてラブシーン一つ見ても何か裏があるのじゃないかと疑ってしまう女目線。キムタク像一つ取っても、男目線と女目線でずいぶん違う。キムタクにとってこのドラマは20代最後のドラマでかつ、結婚後初のドラマということもあって、いろいろ特別な意味合いが強いドラマであったらしい。色んな人の思惑があって、視点や方向性がいろんな方向へ拡散してるんだけど、拡散しているだけに語ることの多いドラマだという気がする。(テレビが故障したため実は一話と三話しか観ていないのだが)女目線サンプル

宝島社から出ている「音楽誌の書かないJポップ批評 松浦亜弥」で、日本のアイドルポップスのルーツをコニーフランシス〜漣(さざなみ)健児訳詞・弘田三枝子(ひろたみえこ)歌唱のポップスに求めている点に感動。さらに感動したのは、アーチストを名乗るアイドルに「アイドルじゃねーか」とツッコむ世間。その世間に対して、「建築や美術の世界では、アーチスト(芸術家)の対義語は職人だ」と答えた川口瑞夫さん(爆笑)。ルネッサンスのミケランジェロを引き合いに出し、職人は工房で技術を伝達する事で作られるが、アーチストは技術の伝達では作られないものだと言い放った。書き手がよいこ歌謡系の人だからそうなるんだけど、ニューアカ系の文脈でアイドルを語ってんだよね。最近の批評空間って、ルネッサンスの諸条件とか、言ってるじゃん.

漣健児は60年代にフィフティーズ(50’s)と言われる洋楽を日本語に訳して輸入。当時、日本最大の洋楽音楽誌であったミュージックライフ(漣健児氏の父が作ったシンコーミュジック出版の発行する雑誌)に携わった。ミュージックライフは、ロッキンオンの渋谷氏もアルバイト時代携わっていて、女性ばかりの職場で渋谷氏の難解な原稿(ロッキンオン創刊号での渋谷陽一氏の原稿は「アリスクーパー試論」。タイトルを見ただけでも試論などという思想書寄りの語が出てきていて、商業誌には載らなさそう)が載らなくなったのをきっかけに「打倒!ミュージックライフ」を合言葉にロッキンオンを設立した。俺の中ではBRIDGEがフリッパーズギターの弟分である以上に、漣健児の流れを組むジャズ色の強いアイドルポップスの末裔である部分に強く反応してしまう。

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