HP管理者日記15

7/15 某MLへの投稿ネタ。valisさんとは、新宿の「風花」で一度お会いして、そのきっかけで、ryumei-yMLに参加させて頂きました。その節、valisさんからうかがって面白かった話の一つとして。

吉本隆明の心的現象論序説は、普通に社会に適応しようとしていた吉本が、会社に入って周りに押される形で労働組合の長になり、気が付くと、その労働運動に巻き込まれる形で会社を首になり、失業しながらも、詩を書いて詩集を出すなどと、社会からドロップアウトして行った時期に自分は何故こうなってしまったのかという問題を考え始めたのが最初の動機になっている。

社会に適応できずに、詩などを書いて自己表出してしまう自分の心的現象を説明するのに、フロイトの心理学を用います。心理学的には、精神異常の原因を個人が子供から大人になる過程に原因を求めます。そして、新生児が大人になるまでの過程を人類が誕生してから現在に至るまでの人類史に重ね合わせ、胎児が誕生してから生まれるまでの過程を生命が誕生してから人類になるまでの過程に重ね合わせます。吉本は心理学に基づき、自分の心的問題の原因を追求するために個人史ではなく、人類史をさかのぼろうとします。

私が吉本の論で疑問に思ったのは、何故吉本個人の心的問題を扱うのに個人史ではなく、人類史をさかのぼろうとするのかでした。フロイトが個人史と人類史を重ね合わせているのは良いとして、吉本個人が子供から大人になる過程でなにか問題があり、心的異常=社会不適合な心性を持ったと言うのなら分かるのですが人類が古代から中世を経て現代に至る過程になにか問題があり、心的異常が発生したというなら、全人類が異常だという話になります。

このことをvalisさんに言うと、「吉本さんが参照にしている三木さんの話によると奇形の胎児というのは、肺なら肺が、人類に至る過程の、両生類なら両生類、
ハ虫類ならハ虫類のままで生まれてきているのがほとんどなんだよ。」と言われました。つまり、精神異常というのは、古代人なら古代社会に適応した古代人のままの精神で現代社会に生まれたため、現代社会に不適応な心的状態を持った人間のことを言うという話です。このvalisさんの話はかなり腑に落ちました。

また、私とvalisさんで見解が違ったのは、吉本が共同幻想や個幻想という時の
「幻想」という言葉の意味をめぐってでした。
valisさんは「吉本は幻想批判をしている。」「すべての幻想をなくそうとしている
んだ。」
という趣旨のことを言われました。
事実、共同幻想論のキャッチコピーとして、吉本自身が
「臆することはない。すべては幻想なのだ」ということも言ってます。

私の見解では少し違って、吉本が
「共同幻想というのは、マルクス主義でいうところの上部構造のことだ」
と言ってるように、言語・政治制度・法制度・芸術全般を指していると考えます。
すべての(共同)幻想を批判し、なくした場合、言語も法も国家もなくなります。
「それもまた良し」と、言ってもいいのですが、
幻想が無根拠であると同時に、
無根拠であるにも関わらず存在し続けている現実をみても
それらの幻想にはある一定の利便性があると考えられます。
犬を「いぬ」と呼ぼうと、「dog」と呼ぼうとどちらも無根拠であるにも関わらず
そう呼ばれ続けるのは、言語に一定の利便性があるからです。
吉本は共同幻想論の中で、個人の中にある個幻想が、
一対一の人間関係の中で対幻想になり、
ついには集団における共同幻想にまで広がる過程を描いています。
この中で「対幻想」が吉本の最もオリジナリティーの高い概念とされています。

私の現地点での共同幻想論解釈はこうです。
ある共同幻想が、古くなり利便性を持たなくなってきている時
個々の人間は、これは古くて使えないなとみんな気づいている。
けれど、みんなの前で、「この共同幻想はやめて、別の共同幻想にしよう」と
いきなり言っても、相手にされない。世の中は急には変わらないわけです。
自分の個幻想をいきなり共同幻想と戦わせても勝てない時、
急進的にテロに走る方法もあるけど、そうではなく、
個々の人間が、自分の個幻想と相手の個幻想をぶつけ合い、
対幻想にまで高めて、その対幻想の集合として
一つの新しい共同幻想を作ろうという方法もあると。

具体的には、高校の修学旅行で京都の清水寺へ行くとしましょう。
戦後すぐの頃は、貧しかったので高校二年の時、
一度だけ修学旅行で清水へ行った。
その時はそれで良かったが、その後、世の中が豊かになって
毎年、高校一年・二年・三年と修学旅行へ行くようになったと。
高校一年の時にこのクラスで清水ヘ行って、
二年でも清水ヘ行って、三年のいまも清水へ行く話を
ホームルームで、みんなしてるんだけど、
何か変だなとみんな思ってるわけです。
3度も同じところへ行っても仕方ないだろと個々人では思ってる。
でも「じゃあ、今年は違う場所に行こう」
とホームルームで言ったときに、
一斉にみんなに潰される訳です。
「清水だったら、前回も行ってるから
予算だの宿泊施設だの、雨が降った時の代わりのスケージュールだの
細かいところは全部出来てるけど、別の所へ行くとなったら
それらを全部誰かが都合付けなきゃいけない。
誰がどうやって決めるの?
行きたい場所だって一人一人たぶんみんな違うぜ」と。
「どこへ行くかからはじまって、旅費や宿泊費の計算・交渉、
その他諸々の手続きを誰がやるの?そんな面倒なことやるぐらいなら
今まで通りで良いじゃん?」
つったときに「では、その面倒な手続き全部俺がやります」と
みんなの前で言うと「何で自分だけ目立とうとするんだ。
俺はお前を俺達の代表だとは認めてないぜ」となる。
個人じゃ、全体には勝てない。
しょうがないので、クラスの一人一人と一対一で話して
根回しをするわけです。
何故、一対一かと言うと、一対一なら多数決が機能しないからです。
一致するか一致しないかだけで、
少数派が多数派の意見に従せられる場面が生まれない。
「普通は」「一般的に」「常識的には」「慣例によると」「通常では」を
禁止して、「あんた個人の意見はどうなの?」と問い詰めることができる。
ホームルームではみんな少数派になりたくないから、
「今まで通りで良いじゃん」と言うけど、論理的に考えれば
みんな何か変だと薄々気づいている。
一対一で話して、一人一人を駆逐していく、
もしくは一人一人の意見をまとめていく。
すると、小さな個人の意見でも、全体を覆すことは出来るんだという
根回しの勧めが共同幻想論じゃないのかなと、
現地点では思ってます。

いまの私の考え方で行くと、共同幻想論は幻想批判でも、幻想をなくそうでもなく、より利便性の高い共同幻想を作り上げるには、どうすれば良いのかという話です。

valisさんが構造主義系の思想家の話もされているので、その辺りの用語と絡めて整理したいのですが。

 実存主義    構造主義     吉本
  主体    =  人間   = 個幻想
  状況    =  構造   = 共同幻想

実存主義的には、主体によって状況を変えることは出来るが、構造主義的には主体的な人間などという概念は死んで構造に拘束されるだけのものでしかなくなったと。吉本隆明としては、対幻想という概念を持ち出すことで「構造と力」でいうところの構造を変えていく「力」を描こうとしているようにみえる。まあ、「構造と力」の方がより微分的に力を描こうとしていて吉本の方が古代から中世に中世から近代に変えていった力を描こうとしている点でより大きな力を大きな枠で捕らえようとしているようにみられます。

7/4 事実誤認・妄想に基づく発言・誤字脱字、そんなのはいつものことだから良いんだけどさ、その妄想を描く対象がプロレスであるところに今の自分の混乱をみてとることができる。

教育を、徒弟制度・画一的義務教育・ボーイスカウト的教育と三つに分けてみよう。中世において児童というのは存在しておらず、親の仕事を子供が継ぐため、子供は小さいうちから家の手伝いをして親から仕事を学んだ。例えば親が大工であれば、幼いうちからカンナを磨いたり、道具の手入れをしたり、木材を運んだりはしているだろう。その手伝いの中で、様々な大工として必要な技術や知識を身に付けて行っただろう。この場合、家で親の手伝いをすること自体が教育を受けることでもあったわけだ。

近代になって全員が親の職業と関係なく、義務教育を受けるように成る。中世の職人的な職業教育とは別種の教育がそこでは施される。ミュージシャンに成ることを前提としない音楽教育や経理に成ることを前提としない算数教育、スポーツ選手に成ることを前提としない体育などが教育として行われる。

この、画一的な義務教育、受験戦争を生み出したりもした教育に対する反動としてボーイスカウト・和光・新左翼的な教育というのがある。小沢健二インタビュー、もしくは「街は虹色子ども色」などに出てくる教育だ。

徒弟制度が家内制手工業を前提とした教育だとすると、画一的な義務教育はベルトコンベア式の工業を前提としている。工場に集まって、ベルトコンベアで運ばれてくる製品にボルトを入れる仕事では、一番能力の低い人のスピードに合わせてベルトは動く。生産効率を上げるには一番能力の低い人=落ちこぼれの能力を上げねばならない。学校教育で5教科あれば自分の一番得意な教科でなく、自分の一番苦手な教科の成績を上げることが期待される。時間厳守で1000人なら1000人、時間までに必ず集まらなければいけない。一人でも遅れるとコンベアを回すことが出来ないのだ。1000人中1人が1分遅刻するだけで、1000人が1分待つことになり、1000人分の1分は1人の1000分=16時間半に換算される。ボーイスカウト的な教育は、実際80年代のバブル期に新入社員教育として、流行った。いわゆるみそぎ研修だ。左翼の人が好むボーイスカウトと、左翼の人が嫌うみそぎ研修を同じに扱うのは政治的にはおかしいかもしれないが、やってることは同じようなものだと思う。ボーイスカウトでいえば、5人から10人ほどのグループでテントをはり、はんごうすいさんや自然探索・ウォークラリーを行う。このとき張るテントが結構曲者で、ワンタッチボタンで一人で作れる簡易式テントではなく、本式のテントは左右からロープを引っ張り、張ったロープと地面の間に柱をはさんで立てるのが基本となる。ロープを張るには、ロープの端と端を別の人間が引っ張らなければならないため、最低2人の人間が必要で、ロープと地面の間に柱を立てるにはさらにもう一人の人間が必要となる。最低三人の人間が同時に協力して動かなければテントは立たない。個人の能力がいくら高くても、意志の疎通が出来なければ出来ない作業をあえてやらせる。グループ内の役割分担やある一定の枠内での目標設定などは自由に行える。どこにどんなキャンプを張り、何を持っていってどんな料理を作るのかは、自由に決めれる。もちろん、キャンプを張らない・料理を作らないという選択肢は不可になる。集団内でのコミュニケーション能力や目標設定能力等が問われる。

教育が労働者を生み出すためのものであるをするなら、理想とされる労働者像が変化するにともなって、教育の形も変化する。今現在の日本に関して言えば、ベルトコンベアで運ばれてきたものにボルトを入れる産業は、途上国へ移転し、代わりに小売店や営業所で、アルバイトや契約社員のグループを管理し、努力目標へ到達させることのできる社員が求められている。左翼の人に評判の悪いみそぎ研修は、まだお互いの顔も名前も一致していない新入社員の集団に寒中水泳や滝に打たれるなどの試練を課すものだ。寒中水泳のような困難に、集団で立ち向かった時、その困難を乗り越えるための助け合いが困難の最中に発生する。そしてその困難を乗り越えた後には、お互いの絆や信頼感のようなものが発生する。みそぎ研修は主としてバブル時代の営業マンに多く課された。契約を取るという困難に集団で立ち向かう営業所というイメージなのだろう。

ロマン主義的な概念、芸術だのインスピレーションだの神童だの若き天才だのといったものは、中世と近代の狭間、徒弟制度教育と画一的義務教育の間で生まれている。幼いのに年齢に見合わない能力を持った者を仮に神童と呼んだとして、4・5歳で王侯貴族の前でピアノを弾いたモーツアルトやベートーベンがそのイメージに近いだろう。(俺が個々の専門的な概念を誤用しているのは恥ずかしい限りで、ロマン主義は古典主義の後、古典主義への反発として生まれたもので、ベートーベンは古典主義に属すると音楽史的にはなっている。別の箇所でゲーテをロマン主義の典型として語っている自分の文章を読んで、恥ずかしくなったこともある。文学史的にはゲーテは古典主義に属する。しかし、恋愛という概念はロマン主義の産物で、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」は恋愛を扱ってなかったのか?そしてロマン主義が生み出した「天才」という概念は具体的にはゲーテをイメージした物ではなかったのか?さらに、ロマン主義を体現した英雄、英雄という概念もロマン主義が生み出したもので、ナポレオンがロマン主義的英雄の代名詞だが、そのナポレオンに曲を捧げようとした「英雄」というベートーベンの曲はロマン主義的概念とは相反するものなのか?)モーツアルトやベートーベンは親が音楽家で、その親から徒弟制度的な教育を受けている。画一的な学校教育ではなく、家庭において親の仕事をみようみ真似で子供が真似る、自然と親の技術が子供に伝わるような意味での教育だ。そして、その教育成果を驚異的な物として崇め奉ったのは画一的な学校教育を受けた貴族達であった。「学校教育であれば*年生・*歳児が習うはずの曲を、この年齢で弾きこなしてしまうのは素晴らしい」という評価は、学校教育を受けたものの中からしか生まれてこない。例えば、手品というのは学校教育で必須科目に入っていないが、仮に四歳児が、高校2年で習うような高度な手品をやったとして、手品の画一的学校教育を受けてない者には、その手品が、初心者でも一週間ほど習えば出来るようになる程度の手品なのか、20年ぐらいは手品をやり続けなければ習得できない高度なものなのかまったく分からない。これが数学であれば、四歳児で一桁の足し算をする者と、四歳児で微分積分をする者がいれば、どちらがすごいのかはすぐに分かる。数学は義務教育に取り入れられているため、どれがどのぐらい難しいのか、義務教育を受けた人間になら全員に分かるのだ。

神童・若き天才というロマン主義的概念は、芸術の生産者が徒弟制度の中にいて、消費者が学校教育の中にいるときに有効となる概念である。同じように、芸術・インスピレーションといった概念もまた生産者が徒弟制度の中にいて、消費者が学校教育の中にいる時に、有効な概念なのではないかと。オリジナリティー・著作権・盗作・パクリといった概念はロマン主義を前提にした概念で、中世の徒弟制度において、師匠の技術を盗み、師匠からの伝統を受け継ぐことは盗作でも、パクリでもなく、良いことだとされている。日本のロック・フォークの多くは洋楽のコピーであり、B’zがエアロスミスと日本で競演した時、エアロのイントロを聴いて、エアロがB’zの曲を演奏してくれていると思って客席が盛り上がり、その後、曲がイントロから歌に入るにつれ、B’zの曲の元ネタであるエアロの曲をエアロスミスが演奏していることに気づいて気まずい空気が客席に漂ったというほほえましいエピソードもある。B’zは自分達のラジオで自分達の好きな曲=B’zの元ネタをしょっちゅう掛けていて、師匠=洋楽のコピーをする職人であることを少しも恥じていない。バンドをやっているアマチュアミュージシャンに好きなバンドを聞かれて、日本のバンド名を答えると馬鹿にされるのは、ミュージシャンの仕事は洋楽のコピーを日本語でやることだからだ。日本語のバンドのコピーを日本語でやるのは、一般人にもあからさまなコピーだとバレてしまうため、コピーするのに適さない。ミュージシャン志望の人間が、バンド仲間にいう「好きなミュージシャンは?」という問いは「俺達のバンドで何のコピーをやりたい?」という意味なのだ。同じような理由で小説家志望の奴で、小説家志望の人間に「好きな小説家は?」と聞いて、日本の小説家の名前を出してもあまり馬鹿にされないのは何故なんだろう?本来なら、まだ日本ではあまり有名でない、翻訳されていないが、日本に紹介したら売れそうな小説家の名前を出すのが正しいと思う。以前に、ロシア文学担当二葉亭四迷・イギリス担当夏目漱石・ドイツ担当森鴎外・フランス担当永井荷風と書いたが、第二次大戦後の日本に限っても、フランス担当大江健三郎・ドイツ担当古井由吉・南米担当中上健次・アメリカ担当村上春樹・ロシア担当?島田雅彦みたいなのがある。

中世において工芸・職人であったものが、ロマン主義時代において、芸術・芸術家になり、表現・オリジナル・神からのインスピレーション(霊感)を受け取ることのできる芸術家という独自の存在という概念が生まれた訳だが、工芸品でない新しい芸術を生み出す芸術家という物が世間で広く認知されるには、こっからここまでは、既にある既成の芸術(=工芸)という枠が広く認知されてなければならない。画一的な学校教育によって、消費者の間に広く浅く、美術史や音楽史や文学史が認識されていないと、何が新しくて何が伝統的なのか分からない。先ほどの例で言うと、手品史というのは学校の義務教育では施されていないが、この手品史を学ばなければ、どの手品の種は200年前からある伝統的なもので、どの手品の種は新しくオリジナリティーの高いものなのか、見ている側には分からない。ロマン主義的な芸術の概念が有効となるのは、消費者の中に画一的な学校教育が行き渡っているという社会的条件がある時だけだ。

ロマン主義の発明したいくつかの概念は、生産者側に職人的な意識、消費者側に画一的義務教育がなされていなければ成立しない。竹田青嗣が外国の哲学を日本に啓蒙する際、西洋哲学の大きな主題の一つである、キリスト教における神の問題を上手く回避して紹介する。多くの西洋哲学は肯定的であれ、否定的であれ、キリスト教における神は存在するのかしないのかという問いを立てている。西洋哲学においては、読者は全員クリスチャンである事が暗黙の了解になっているが、日本においてはその前提が成立しないため、ニーチェの神は死んだという言葉を竹田青嗣は、客観世界はなくなったという意味に翻案する。第二次世界大戦時、天皇を現人神と呼んで、宗教戦争を行った経験から、日本では神という単語に生理レベルでの不快感・不信感を持つ人が多い。西洋哲学を日本に輸入する時、「神は我々にこう言いました」なんて書いちゃうと、それだけで読者が離れていってしまう。そこを上手く回避した竹田青嗣に私はオリジナリティ−や表現力を感じる。同じように、吉本隆明はマチウ書簡や親鸞といった、宗教の話をすると言って人を集めておいて、西洋哲学の話をすることが多々ある。第二次大戦中に子供時代を過ごした人達の中にはろくな教育を受けないまま大人になった人が多い。文字の読み書きがろくに出来ない文盲の人達が、戦中世代には多いのだ。そのような人達にとって、哲学なんてのは難しくて嘘臭いものの代表でしかない。ひらがなの読み書きが出来るか出来ないかという人達にとって文化や教養と言えるのは、聖書であり、仏法説話であり、経典なのだ。そのような聖書や仏法説話に出てくる物語を題材にしながら、ユダがキリストとの約束を守ろうと本心から思っていたにも関わらず、破ってしまうエピソードを使って、行為遂行論を紹介する。今の多くの批評家は、ひらがなの読み書きと足し算・引き算ぐらいは出来るが、掛け算や漢字・カタカナの読み書きは出来ないという人を対象読者にしてないと思う。吉本隆明は文字を読めないような人達にまで、講演で西洋哲学を啓蒙している。そんな吉本隆明の姿勢にもオリジナリティーや表現を感じる。それは、外国の哲学を正確にコピーし輸入しようと知恵を絞った結果生まれる表現でありオリジナルだ。

7/1 「ゴリラ並みの腕力とゴリラ並みの知能」と高山選手から言われた中西選手ですが、中西選手の知能と腕力について書きます。ヒクソン=グレーシー選手のプロモーションビデオで、左右の腹筋を別々に動かすエクササイズをしている映像があります。右腹筋を上に上げ、左腹筋を下に下げる。すると腹筋が逆時計回りに回ったようになります。すると次の瞬間、ヒクソン選手は左右の腹筋を逆に動かし時計回りに腹筋をねじります。彼は自分の強さの秘密を、人が動かせないような細部の筋肉まで動かせる部分に求めます。また、彼は柔軟体操と称して上半身の筋肉を前後に揺さぶり、自らの筋肉の柔軟さをみせつけます。彼の上体の肉全体が骨から崩れ落ちるかのようにぶるぶる震えますが、それはあきらかに脂肪ではなく、筋肉なのです。ボディービルダーのような硬く柔軟性のない筋肉はジムに通い、トレーナーの元で、筋肉が耐えられる負荷の何パーセントを何分与え続ける運動を一日何セットすれば、このぐらいの筋肉が付くと割りと簡単に計算できて、割りと簡単に、器具を使って計算されたメニューをこなせば、一日20分の運動を毎日半年続ければ誰でもマッチョマンに成れたりするのです。重量挙げ用の筋肉を作るとかボディービル用の筋肉を作るとか成ると、スポーツ力学だのスポーツ栄養学だのスポーツ**学でほぼ100%解明されていて、君の骨格だとどれだけ努力してもここが限界という数値もやる前から見えていたりします。これが100m走やマラソンに成ると解明されていない要素がまだ多少入り込む余地があります。重量挙げに比べると、筋力以外に技術や心理や天候といった不確定要素が入ってくるのです。筋力がいくらあってもきれいなフォームで走れなければ効率が悪いですし、器具を使ったトレーニングだけでなく、実際に走って身につける柔軟な筋肉が必要に成ります。器具を使ったトレーニングでは往々にして、筋肉の量と筋肉の柔軟さが反比例します。この100m走が、テニスやボクシングのように対戦相手と一対一で闘う競技に成ると、筋力以外に相性だの作戦だのが重要になってきますし、サッカーや野球のように仲間とのチームプレーも要求されるような競技ですとスポーツ力学で試合を予想することはほとんど無意味になります。

で、中西選手の何がすごいかという話ですが、彼がリング上で上半身を前後に揺すり、筋肉をほぐす時の筋肉の揺れ・柔軟さ、筋肉の量と質、それがヒクソンの上体揺すりを超えるインパクトを持っているのです。つまり、ジムで器具を使っても付けられないような種類の筋肉を豊富に身につけているわけです。プロレスのリングで中西選手が上体をゆすり、それに合わせて観客が沸くと、彼はその沸いた観客に向かってさらに上体を揺すります。さらに観客が沸くと、彼は同じ方向に向かってさらに上体を揺すります。すると、3度目には客席が静かに静まり返ります。プロレスには客席が沸くお約束を4回やるという形式があります。K−1では故アンディー=フグ選手が、試合前と試合後にアナウンサーから紹介されると、かがと落しの演舞をリングの四方に向けて、それぞれ1回づつ、計四回かがと落しをしてました。また、ボクサーの辰吉選手はOK出来ず判定勝ちしたとき、四角いリングの四方それぞれのお客さんに1回づつ、計4回頭を下げてました。この形式は、すべてのお客さんに面と向かって何かをするには良い形式で、四回同じことをすることで、どの席に座っていたお客さんも、満足して家に帰ることのできるスペクタクルスポーツ(観客にショーとして見せることを前提とした競技)としては、正しい見せ方なのですが、そのスペクタクルスポーツの典型であるプロレスをやっているはずの中西選手は、ボクサーやキックボクサーですら知っているはずの見せ方を知らずに、同じ客席に向かって3度同じことをして見せたのです。3度目、客席が静かになったのは、ひょっとしてこの人は馬鹿なのではないかという反応から生まれた静けさだったのです。

ヒクソン並みの柔軟かつ豊富な筋肉と、プロレスラーでありながら、プロレスの基本的な見せ方も分かってなさそうな知能。これが中西選手だと取りあえず定義しておきましょう。

プロレスのシナリオについて考えましょう。NWO・T2000・BATTと新日内プロレス団体のリーダーとして輝かしい実績を持つ蝶野選手。私の認識ではかつて新日本プロレスのシナリオを書いていたのが梶原一騎だとすると、いま新日本プロレスのシナリオを書いているのが蝶野選手でNOAHのシナリオライターが秋山選手という認識なのですが、こんどの新日本プロレスのG1で秋山選手対蝶野選手のシナリオライター対決がどうなるのかというあたりで。

私がトラックの荷物を積んだり降ろしたりする仕事をしていたとき、蝶野選手プロデュースのNWOやT2000ティーシャツを着たトラック運転手がやたら多かった。トラック運転手にやたら支持されるTシャツを作っていて、ロックバンドのTシャツよりも人気が高かった。その頃、長州選手が新日本プロレスの現場監督で、橋本選手・武藤選手が正規軍のベビーフェイス。蝶野選手がヒールのボスで、後に武藤選手は蝶野選手とBATTを作る。この頃、新日本プロレスよりも、蝶野選手が作った新日本内レーベルの方が人気が出る。長州選手・橋本選手・武藤選手がそれぞれ独立し、他団体を作る。ベビーフェイスのスターが連続して出ていった団体のトップに蝶野選手が立つ。結果、なし崩し的にヒールであったはずの蝶野選手がベビーフェイスに成り、ヒールは別枠で作られる。武藤選手が独立する時、経理や営業のスタッフ数名も一緒に引き抜いたことに関して蝶野選手が武藤選手に激怒。BATTで一緒に仕事をしていただけに愛憎が深い。武藤選手と蝶野選手の決別は、映画監督と主役の決別、もしくは脚本家兼演出家兼座長と劇団の看板俳優の決別に似ている。蝶野選手の怒りは、武藤選手との決別よりも、武藤選手がスタッフを引き抜いたことに向けられる。自分のブレーンだと思っていたスタッフが武藤選手側に付いたことによって、シナリオライター・演出家としての蝶野選手はトーンダウンしていく。自分宛てにレスラーから演出依頼がよく来るが、それらはすべて断っている。自己演出出来ないレスラーはいずれ消えてなくなる。と語る蝶野選手。私に言わせれば、他人をプロデュースしないなら何のために蝶野選手が新日のトップになったのかがまったく分からない。スター性はあるが自己演出能力がないレスラーと言われて、真っ先に私の頭に浮んだのは上記の中西選手だ。蝶野選手は武藤選手に対して、ベルトを三本も巻かせてみこしを担いだのに、その担がせた人間に対する仕打ちがこれかと言う。他のレスラーを演出してスターにしても、結果、スタッフ込みで独立されるだけだと感じた蝶野選手は、以後選手としての自分の価値を高めるためにNOAHとの交流試合を組み、NOAHのトップレスラーと自分との交流試合で自らの選手としての商品価値を高めようとします。NOAHと新日本プロレスという日本の二大プロレス団体の交流戦を組み、NOAHの三沢選手や小橋選手というベビーフェイスと新日トップのベビーフェイスとして試合をし、これまで交流の無かった二大団体のベビーフェイス同士が歴史的に出会って交流し、良い試合でしたねというシナリオ・演出的には中途半端な、蝶野選手の価値を高めるため以外に目的を見出せない試合を組んでいく。

この流れの中でNOAHの頭脳と言われる秋山選手が微妙に面白い動きをします。NOAHからの参戦組なのに蝶野選手との試合を微妙に避けてます。さらに言うと、今年のG1(新日本プロレスのチャンピオンを決めるトーナメント試合。AグループBグループの2グループで総当たり戦をし、その後、総当たり戦を勝ち抜いたもの同士でトーナメントを戦う)で秋山選手は「蝶野選手と同じリーグでやりたい」と言ってます。これは今年NOAHから初参加で、注目も集まり、蝶野選手から花を持たされる可能性の高い秋山選手が、暗に「G1の目玉である決勝を秋山−蝶野戦にはしたくない」と言っているようなものです。去年のG1はNOAHから初参戦の高山選手が決勝で蝶野選手と当たってましたが、今回、秋山選手は蝶野選手を遠回しに避けてます。NOAHから新日本へ参戦した最初の選手である秋山選手はずっと新日本の永田選手と試合をし、蝶野選手を避けてきました。蝶野選手と秋山選手は日本の2大プロレス団体の2大脚本家だと思うのですが、この関係は妙なところがあります。

秋山選手は全日本プロレス時代馬場選手に「お前は相手選手の弱い部分、ケガしている部分を積極的に攻めていくクセがある。それではプロレスでは大成しない。」と言われたことを公言し、相手の良い部分を引き出して戦うプロレスはなく、アマレス=真剣勝負出身であることを強調します。アマレスをベースにした秋山選手の試合はU−スタイルやパンクラスミッションに近く、ウエイトリフティング系のプロレスから遠いスタイルです。実はウエイトリフティング系のプロレスもアマレスベースなのですが、元々、ルーテーズ時代にアマレスをスペクタクルスポーツ(観客からお金を取って観せるスポーツ)化していく過程で、遠くの客席からでも何をしているのか分かるようにしようとした結果、グラウンドで寝転がっての技の攻防をなくし、高さのある投げ技を増やしていった結果、生まれたのがウエイトリフティング系のプロレスです。普通のアマレスの場合、タックルした側が相手の脇腹に頭を付け、そのまま相手の太ももを持ち上げて倒すか、タックルされた側が、わきの下で相手の頭を抱えてそのまま体重をかけて相手の頭を地面に付けて上体をひっくり返すのが投げでした。この場合、どちらにしても高さのある投げというよりもは、上から下に押しつぶす。体重をかけて叩き落とすみたいな動きです。中腰でこの動きをした場合、地面から50センチほどの高さで動くためリング下からだと見え難い。だから、高く持ち上げて投げることがスター選手には要求された訳です。いまのアマレスベースのプロレス(Ex:U-スタイル・パンクラスミッション)は、少し違っていて、関節を取るため、良いポジションを取るための駆け引き中に起こる速くてトリッキーな動き、剣道やフェンシングの大会でよくあるスローモーションで観なくては何をしてるのか分からないようなすばやい動きのアマレスバージョンを取り入れたプロレスで、投げる側は特別高く持ち上げようとしない代わりに、投げられる側は高く美しく跳ぼうとする、少しメキシカンプロレスなテイストも入ったプロレスです。秋山選手がアマレスベースのプロレスをやろうとしたとき、ウエイトリフティング系の蝶野選手とでは噛み合わないと感じるのは自然だとしても、もう少し別な読み方もできます。

リフティング系プロレスとメキシカンプロレスを分けた時、

・リフティング系=馬場選手=受け=全日本プロレス=ヘビー級
・メキシカンプロレス&格闘技=猪木選手=攻撃=新日本プロレス=ジュニアヘビー級

と強引に言えなくもない。この時、秋山選手は、全日本プロレスに居ながら、全日のやり方に逆らってヒール(寄りのベビーフェイス)として、アマレスという格闘技出身の選手として、相手選手の怪我をしているところ、弱いところを積極的に攻めてきたと宣言しています。また、蝶野選手は猪木オーナーの格闘技路線に逆らいヒールとして新日本プロレス内で、受け主体のリフティングプロレスをやろうとしている。秋山選手はゴレンジャーで言う青レンジャーです。ベビーフェイスですがヒール寄りのニヒルなところがあります。全日本に居ながら新日本プロレスを行うヒールであったとすると、新日本に居ながら全日本プロレスをするヒールが蝶野選手で、このねじれが交わった時どう出るのか?全日本に居たから、相手の弱いところを攻めるのは批判され、ヒールと成れたが、新日では相手の弱いところを攻めるのが当然とされるため、ヒールとしてのカラーを出せない。でも、それは新日で全日プロレスをしていた蝶野選手も同じこと。

2大シナリオライターが交わるという見方をしたとき、二人のライターが異なるシナリオを描いていたという点も見逃せません。それまで仲が悪かった全日本プロレス(現NOAH)と新日本プロレスの交流試合をやるにあたって、蝶野選手が最も気を使ったのは、相手団体に不利益をもたらさないことでした。NOAHのトップレスラーをベビーフェイスとして丁重にもてなし、新日本プロレスと交流しても不利益は生まれない、むしろ得することばかりだと、思わせNOAHから信用を勝ち取ることが蝶野選手の最大の目標でした。相手を最高のベビーフェイスとして扱い、自らも最高のベビーフェイスとして出向く。2大ビッグネームがお互いをリスペクトしながら試合をするそれだけで最高じゃないかというのが蝶野選手のシナリオでした。それにかみついたのがG1に出ることに成った秋山選手です。「G1に参戦する前に、G1に出る価値のある選手かどうか新日内でテストマッチを受けさせる」といった永田選手の発言に「NOAHでナンバー3の俺が何故テストマッチを受けなきゃいけないのだ」というのが表向きの発言ですが、「波風が立たない」「面白くない」「高山選手の方がよっぽど面白いことを言う」という秋山選手の発言は、蝶野選手が描いたベビーフェイス同士の暖かい交流戦シナリオに対するダメ出しです。蝶野選手のシナリオに乗らず、NOAH出身のヒールとして新日に上がった高山選手の自己演出能力・プロデュース能力をほめ、「波風が立たない」「面白くない」と蝶野選手のシナリオを批判し、テストマッチの対戦相手に(新日のヒールである)魔界倶楽部が多いことに関して「魔界の人間は永田選手の言う事をきくの?」と、ベビーフェイスの永田選手の設定したテストマッチに、ヒールである魔界倶楽部の人間が協力しているというシナリオの不備を突き、NOAHのシナリオライターとして新日側のシナリオを却下した。それに対する蝶野選手の対応は、いま秋山選手のG1参戦に関して交渉中だから記事にしないでくれという、従来の丁重にもてなす路線。秋山選手が納得するような面白い、波風の立つシナリオは用意できず。結果、秋山選手は自ら、新日内における自分をヒールに演出。自分はNOAHをしょって立つ人間でもない(秋山選手をけなしてもNOAHをけなしたことにならないから、どんどんけなしてヒールとして扱ってくれ)。一流選手はストンピングをしないが、俺はストンピングをする。魔界倶楽部は良いね、いま新日内で唯一のヒールでしょう?と魔界倶楽部をほめる始末。秋山選手と交換で、NOAHに参戦した永田選手もNOAH内でヒールとして扱う。等、NOAHにとって新日は敵、新日にとってNOAHは敵という蝶野選手とは別のシナリオで試合を演出しようとする。BATTで一緒に仕事をしていた武藤選手がスタッフと共に去って以降、シナリオライターとしての仕事を避けている蝶野選手に、秋山選手がどんなシナリオを仕掛けるのか?蝶野−秋山戦私案としては

・蝶野選手は仲が良い振りしているが、実際には仲が悪い猪木オーナーのゴム人形の覆面を東急ハンズで買って、それをかぶって入場する。
・秋山選手の入場テーマ曲は「猪木ボンバイエ」。
・リングサイドに猪木選手のブロンズ像。
・猪木オーナーの格闘技からプロレスを守ろうとする蝶野選手に対して、バーリトゥードスタイルで試合を挑む。
・手には何故かオープンフィンガーグローブ。
・スネには何故かUWFのプロテクターを付けて入場。
・セコンドが何故かPRIDE人脈。
・試合が始まると、いきなり猪木アリ状態。
・決め技はコブラツイストが外れて逃れようとしたところを卍固め。

そんな感じで、独自シナリオでシナリオライターとしての蝶野選手を刺激し、ライターとして蘇生させて欲しい。そして、蘇生した蝶野選手と中西選手が組めば、かなり面白いプロレスが出来るのではないかと思うのです。いま、猪木オーナーは格闘技路線を訴えてますが、猪木選手の周囲に居るのはプロレスをしたい格闘家ばかりです。ジョシュ=バーネット選手はバーリトゥードの大会で優勝しましたが、格闘技をやりたくない格闘家ですし、最近ではボブ=サップ選手も格闘技はもうやりたくないと言っているらしいです。格闘技路線に嫌気がさして猪木オーナーから離れたのが小川直也選手ですし、例えば新日本プロレスに参戦したいと言っているパンクラスミッションの鈴木選手もプロレスをやりたい格闘家です。格闘技は一試合のギャラは大きいけれども、やればやるほど怪我や故障が増えるし、一度負けると中々次のチャンスを与えてもらえない。格闘家にプロレスをさせたW-1は、選手にも観客にもニーズがあると思うんですよ。ただ、細部の演出において上手く行かなかった。これが蝶野選手プロデュースだともっと上手くみせれると思うんですよ。

ボブ=サップ選手はアメフト経験とプロレス経験しかないのに、格闘技歴たった3ヶ月でこんなに強い。というのが売りでしたが、ボブ=サップ選手の勝ちパターンは、アメフトのタックルを仕掛けて、そのまま相手選手の体をつかんで持ち上げて床に叩き落す。タックルはアメフト、持ち上げて叩き落すのはリフティング系のプロレス。その後のマウントポジションからのパンチは素人。格闘技歴が浅いのにすごい成長だなどと言われてますが、そんなのは嘘で、前職の技術を最大限生かしきっているわけです。ですから、中西選手もアマレスの学生チャンピオンで、プロレスの経験も長いなら、その技術を使えばそれなりに強いはずなのに、打撃のプロと打撃で戦おうとします。相手のフィールドで、相手のキャリアや技術に最大限の敬意を表して戦い、自分の技術やキャリアを生かすことなく負けてしまいます。私が期待する中西選手のバーリトゥード(なんでもあり)は、ネームバリューや人気のある格闘技の選手相手に、勝たせてあげるからリングに倒れてくれと取引をして、試合中、上体の筋肉を揺さぶって、狂暴化した中西選手が相手選手を背後から殴る蹴るの反則しまくりで、失神し、うつぶせに倒れた選手の上に馬乗りになって、レフリーの静止も聞かずに殴り倒し、止めに入ったレフリーも殴り倒し、中西選手のグローブに仕込んだ血糊でリングを真っ赤に染め、翌日新聞に「中西選手**(超有名格闘家)を秒殺」と写真入りで載り、反則負けした中西選手が、何故ルールを守らないのかと聞かれて「バーリトゥードは何でもありだと聞いていたから」とルールを理解してなかったことを暴露し、やっぱり中西選手はゴリラ並みの腕力とゴリラ並みの知能だったんだと思わせてくれる。という展開で、かつそれが、主催者である猪木オーナーの目から見ても、本物の格闘技に見える試合になっている、つまり猪木オーナーもだませるほど、迫真の演技。というのを期待するわけです。

格闘技の選手の中には一度ビッグネームを倒して自分の価値が上がったら、そのまま格闘技の試合から離れてプロレスで稼ぎたいという人が大勢居ます。上記のパターンの中西選手も、ビッグネームを秒殺し、反則負けした後は、プロレスのリングで試合をします(今書いているのはいわゆるファンフィクションですね・泣)。2対2のタッグマッチで、味方選手が中西選手側のコーナーで殴られた時、吹っ飛ばされた味方選手のひじがよそ見していた中西選手の顔面に入り、中西選手激怒。その味方選手をいきなり殴りだし、止めに入った相手選手二人&レフリーも交えての4対1マッチで全選手を秒殺、失神した味方選手をさらに殴ろうとする中西選手に新日本プロレスの練習生が一斉に飛びかかり止めようとするが、キレた中西選手を誰も止められなくて試合はノーコンテスト。止めに入る練習生を10数人連続で投げていく中西選手とかって絵的に面白いと思う。

この際だから、こんなプロレスラーを観たい特集で。元グリーンベレーでほふく前進のスピードの速さだけで客席を沸かせるZERO−ONEのハワード選手。腹が出っ張りまくって動きののろいマット・ガファリ選手とほふく前進の100メートル走をやる。当然ガファリ選手は腹が邪魔で速くはほふく前進できない。ハワード選手の速さを見せるだけの引きたて役。さて、この2人のほふく前進のVTRを観た後で、ガファリ選手の二本足での100M走とグリーンベレー仕込みのハワード選手のほふく前進100M、小川選手と橋本選手の2人3脚100m。この三つで競争して一番早いのは誰だ!というクイズをクイズ紳助くんで観たい。あと、木のイスに両足を縛られ、手をイスの後で縛られたハワード選手とガファリ選手のほふく前進でどっちが速いかというクイズ。木の四本足のイスの前右足にハワード選手の右足、前左足にハワード選手の左足が縛られているが、ひょいと跳んで前かがみになり、地面に自分の両足がつくと、腰を軸に回転させて普通に速く走れるハワード選手が圧倒的速さでガファリ選手に勝つ映像。グリーンベレーだと実際にイスに縛られたまま敵と戦う練習とかあるらしい。

ジャイアント・シウバ選手とジャイアント・シン選手の「下町ぶらり旅」身長230センチのコンビが、屋根の低い純和風家屋が並ぶ町を歩く。電話ボックスに入ろうとすると、狭くて入れない。電話ボックスよりも2人の方が背が高い。新幹線のトイレに入ると狭くて上手く動けない。電車の吊り広告が邪魔で前が見えない。電車の天井に頭がつく。大手洋服チェーン店で「試着させていただいて良いですか?」と聞くアナウンサーに店員がOKを出すが、後からシン選手とシウバ選手が出てきて服をあさり出すと、慌てて試着を断る店員。無理矢理着てみたがサイズが合わない。オープンカーに乗って街を走ると上体が車から出てしまうためやたら目立つ。屋根付きの軽自動車に乗ると狭くてハンドルが動かせない。シン選手とシウバ選手が、軽自動車の左側に乗ると、運転席側に普通の人が乗っても車が左に傾いたままになる。車を発車させると、ハンドルを真っ直ぐにしても、シウバとシンの乗った左側に自然に曲がってしまう。上手く縦列駐車できないでいると、シンとシウバが二人して軽自動車を持ち上げて運んでしまう。昔ながらの平屋の狭い日本家屋に付くと、天井ではなく、屋根の位置がシン選手とシウバ選手の頭より低い位置にある。4畳半の居間でちゃぶ台を囲んで家族団欒の夕食に両選手も混ぜてもらう。デカ過ぎて居間が急に狭くなる。お茶碗にご飯を盛って渡すが、手がデカ過ぎて、おもちゃみたいに見える。しょうがないので、どんぶりにご飯を盛って食べてもらう。赤ちゃんを高い高いすると、怖がって泣いてしまう。試しにカメラさんもカメラを持ったまま高い高いしてもらうが、230センチの身長が手を伸ばすと3メートルに届くため、大人でもちょっと怖い。4畳半の部屋で寝る二人。横幅90センチ長さ180センチの畳で、正方形の4畳半だと270センチ四方。230センチの二人にはちょっと狭い。翌日、近所の幼稚園を訪問。見るだけで泣き出す子供多数。子供から質問を受け付けたり、子供を肩車したり、子供達と綱引きや相撲を取る。三輪車で競争をしたいという子供と、三輪車に乗って競争しようとするが、二人とも上手く三輪車に乗れない。二人がどこから来たのか幼稚園のみんなに想像で絵を描いてもらう。恐竜や怪獣やジャングルの奥地やUFOの飛んでる惑星やガリバー旅行記や瓶の栓を開けると中から出てきた魔人や色んな絵が並ぶ。

5/22 プロレスの分からなさ加減をストーリーの面から考えた時に、今の日本のレスラーの大半は自分がヒール(悪役)かベビーフェイス(善玉)か分からずにやってる気がする。試合後のインタビューで、野球帽をかぶった小学校低学年の子供達に囲まれて握手したり、子供達のTシャツにサインしたりしながら、爽やかな笑顔と声で「やあ、テレビの前のみんな!今日は僕の試合を楽しんでくれたかな?次は君たちの町で試合をするから良い子にして待ってろよ」とデパートの屋上でやってる戦隊物や仮面ライダーショーのヒーローのようなことを言うのがベビーフェイスで、負けて汗だくになったレスラーが怖いダミ声で「おう、**(ベビーフェイスの名前)、これで終わったと思うなよ。俺は必ず復活する。そして音もなく、お前の背後に忍び寄り、お前の首をカッ切ってやる。良い気になってるのも今のうちだけだ。I’ll be back!」と言って、ホラー映画の最後に「必ず俺は舞い戻る」と言って消えてゆく怪物のように振舞うのが悪役レスラーだ。

いまのレスラーは、ベビーフェイスのはずの獣神サンダーライガーでも、ダミ声でガラの悪いしゃべり方をしているし、試合後のインタビューで、息切れてなくて、爽やかな声と笑顔で子供達に囲まれてしゃべってるレスラーが一人もいなかったりする。息切れてなくて、子供達に囲まれている映像があるのであれば、撮るのは試合前に、試合後のインタビューを撮影しても良いと個人的には思うのですが、そういうことをする人はいない。ヌイグルミショーでも、初代タイガーマスクでも子供の夢を壊さないために、動いたあとで息切れてたら、しゃべらずに手を振って終わるのが最低限のルールだったのが、ライガーは声は悪役だし、試合した相手レスラーを罵倒するし、しゃべる内容も悪役だったりする。

魔界倶楽部が何故変かというと、格闘技系の選手が新日本プロレスをつぶすために、新日本プロレスのリングに上がった。ここまでのストーリーはよく分かるんです。多くのプロレスファンにとって、格闘技は敵だと。その敵である格闘技の選手が、プロレスをつぶすためにプロレスのリングに上がると。こうなるとプロレスファンは、格闘技の選手=魔界倶楽部を徹底的に批判するし、プロレスラーを本気で応援するでしょう。ところが、その魔界倶楽部の選手がみんなマスクかぶってるんですよ。このマスクは、桜庭選手がプライドのリングに上がる時にかぶってたマスクを連想させるストロングマシーンのようなデザインのマスクなんです。桜庭選手はこのマスクをかぶって入場することで、格闘技の選手だけどプロレスにも理解のある選手として人気を博します。プロレスはダメで、格闘技は偉いという、プロレスファンには受け入れられない典型的な悪のイデオロギーで登場した魔界倶楽部ですが、マスクかぶって登場することで、プロレスに理解のあるベビーフェイスになってしまってる。もう、最初っから矛盾しまくってる訳です。

1ストーリーがあって、ベビーフェイスとヒールの区別もある。(例:アントニオ猪木対外人レスラー。)
2ストーリーがなくて、ベビーフェイスとヒールの区別はある。(例:初代タイガーマスク、ZERO ONE。)
3ストーリーがあって、ベビーフェイスとヒールの区別がない。(例:世代間抗争・派閥争い系の試合。)
4ストーリーがなくて、ヒールとベビーフェイスの区別もない。(いまの多くのプロレス)

無理矢理、分類したけど、あまり意味ないというか、ストーリーも善玉・悪玉の区別もあるつもりだけど、矛盾しまくっているという部分に、いまのプロレスの混沌があって、あるかないかでなく、あるつもりだけど結果としてなくなってしまっているという部分に問題がるわけでしょう。逆に意図的にストーリーやキャラクターやヒールとベビーフェイスの区別を排除しているWJなんかはそれはそれで立派だと思う。日本のプロレスのストーリーというと、外国から悪役レスラーが来て、日本のスター選手が悪役レスラーをやっつけて外国へ返す。これが主な筋書きで、脇役として、悪役レスラーにボコボコにされる日本人の弱い被害者役レスラーというのがいたりします。外国の悪役レスラーに求められるのは、体の巨大さと見た目の狂暴さです。私の場合、体の大きな選手をヒール、体の小さな選手をベビーフェイスと認識しまう。何故そう認識してしまうのかを考えると、日本対外国という戦争の隠喩としてのプロレスで言うと、国土の狭い日本=小さな選手、国土の大きい列強国=大きい選手。という単純な思考が一つ。

プロレスのコアユーザーを虚弱体質の子供と考えよう。この考えは極端かもしれないが、プロレスの高山選手、漫画家の小林やすのり、コメディアンの北野誠などが、プロレスに興味を持ったきっかけの話をする時に、必ず、喘息持ちで、医者から激しい運動を止められてて、体育の授業も見学が多くなっていた時期にプロレスを見て感動したという話が出てくる。自分が出来ないことが出来てしまう人達に感動するのはよくある話で、医者から激しい運動を止められているような虚弱体質の子供をコアユーザーだとしたときに、自分と同じような小さな体でひ弱そうな人間が、でかくて強そうな人間に勝つという部分に心引かれる訳じゃないですか。

もう一つ言うと、プロレス鑑賞に本気でのめり込むのは子供なんですよ。漫画ドラゴンボールやワンピースを見ても分かるように、主人公は体の小さな子供で、敵は体の大きな大人なんです。児童文学なんかも小さな子供が大きな大人と戦って勝つ話なんですよ。主人公は小さな冒険者で、敵は既存の秩序や社会や大自然だったりする。そうすると、どうしても主人公は小さくて、ヒールはでかい方が都合良い訳です。

ヒール=巨体、ベビーフェイス=小柄という話で行くと、何故ザ・デストロイヤー選手が外人選手であったにも関わらず、日本でベビーフェイスに成れたのかが分かるのですが、では、何故ジャイアント馬場選手はベビーフェイスで行けたのかという話に成ります。それは、その前に力道山対ルーテーズの試合があって、当時日本一のレスラー力道山が当時世界一の選手、ルーテーズに3本勝負をして2−1で負けているんですね。この試合はベビーフェイス同士の試合で、ストーリーが組みにくいのですが、あえていうと、日本一対世界一。日本が世界にどれだけ肉薄できるかという試合です。そういうテーマが提示された後で、馬場選手は当時の世界チャンピオンと試合して、ベルトを取ってるんです。ヒール対ベビーフェイスではない試合で結果を出してるんですね。

昔は外国の悪役レスラー対日本のベビーフェイスという試合を組んでました。いまは、格闘技の試合でも外人対日本人というテーマで試合を組んで、それなりにストーリーやベビーフェイス・ヒールの区別等を付けて客を呼ぼうとしてます。ところが、最近のプロレス見ると外国からスター選手=ベビーフェイスを呼んで日本のベビーフェイスと試合をしたりするのですが、善玉対善玉でストーリーに成りようがなかったりする訳です。ゴールドバーク選手などもベビーフェイスですが、一番扱いにくいのはジョシュ・バーネットみたいな選手でしょう。UFC大会で史上最年少で優勝し、若くて二枚目で強い金髪の白人。典型的なスターなのですが、ストーリー作りに関して言うとどういう役割で使いたいのかがよく分からない訳です。新日の旗を振らして、新日本の広告塔のように使ってますが、大スターなのに人気が出ない。昔でいうルーテーズみたいに、世界一のレスラーという肩書きをつけて、日本一の選手がバーネットと戦って、3本勝負で一勝二敗ぐらいで折り返して「世界の壁は厚かった。でもいつかはその壁を乗り越えるぞ」というぐらいの扱いにするならまだ分かるんですが、「新日本プロレス大好きです」と言って新日の旗を振っているUFCの元チャンピオンって、世界一のはずなのに日本一より下にいるのか?という変な違和感が発生する。プロレス雑誌をみてると、雑誌記者はバーネットを「元々虚弱体質で軟弱なプロレスオタクが、レスラーに憧れてトレーニングしたら、史上最年少のUFC王者になってしまったんだ」というストーリーにして、コアユーザーに共感してもらおうとしていた。でも、そのストーリーは高山選手の時にも使っただろとか思ったり。

最近のプロレスのストーリーで面白かったのは、高山選手に蝶野選手が「新日のトーナメントに出てくれ」と依頼したら、高山選手が「新日トップの蝶野選手が俺に土下座するなら出てやるよ」と言って、リング上で蝶野選手に土下座させ、その後頭部に高山選手が足置いて高笑いしている写真がプロレス雑誌に載って、トーナメントで高齢の蝶野選手は途中で負けるだろうと思っていたら、決勝まで行って決勝戦、蝶野-高山戦で、蝶野選手がKOして、倒れてる高山選手の後頭部に足乗せて自分が土下座した時と同じ構図で写真撮らせてたのがあって、上手いなと。あと、ノアの秋山-志賀戦で、真面目で一生懸命だけど、ちょっと繊細過ぎる志賀選手に秋山選手が「リングに上がったら、先輩だろうがなんだろうが、お互い一レスラーなんだ。思いっきり殴れ」と言い、「いや、でも、先輩には色々お世話になってるし、道場に入って初日に声をかけてくれたのが秋山先輩で、普段道場で色々教えてくれているのが小橋先輩で・・」という志賀選手。後輩は呼び捨て、先輩は「あの人」の一言で片付ける秋山選手が、「力皇みてみろ。先輩だろうが気がねなく思いっきり殴ってるだろ。少しは見習え」と言い、コーナーポストに志賀選手を上げて、そっから空中飛んで俺の首蹴ってみろ、という状態の秋山選手に、でも、秋山先輩首の骨ケガしてたじゃないですか、僕には先輩にケガさせるようなマネできませんという視線を送る志賀選手。本人が良いと言ってるんだから飛べとサインを送る秋山選手と、いや、でも僕・・という志賀選手。あのやりとりは志賀選手のキャラクターが出まくってて面白かったですね。

4/17 はっきり言って、俺は俺と俺を取り巻く世界が嫌いだつうこと以外に言いたいことなんて何もないんだけれども、プロレスについてちょっと書くと。

文学にしろ、プロレスにしろ、自分が興味を持つきっかけは訳が分からないとか意味が分からないとか論理的に変とかそんな理由が多い。

ある時期、プロレスという奴が訳分からなくなってた。その分からなさ加減は12/8の日記でも書いたけど、もう少し別の角度から書くと。

新日本プロレスの蝶野選手が現場監督になる直前ぐらいに言ってたのが「いまはレスラーも自分が格闘技の練習をしているのか、プロレスの練習をしているのか分からなくなっている。昨日やった試合と今日やった試合でルールが違ったり、自分はどの方向へ行くのか自分でも分からなかったり、混乱している」という話で、プロレスと格闘技を分けるべきだと言う蝶野選手と混ぜるべきだ・プロレスも格闘技も同じ物だという猪木オーナーとのやりとりがあったりとか混乱していた。

個人的なことを言うと、初代タイガーマスクやみちのく・闘龍門系のメキシカンプロレスや空中殺法は何をやっているか非常に分かりやすいし、空中でグルグル回って回転しながら落ちてくるのはすごいなと思う。それと、ボクシングや柔道のような格闘技、あれはあれですごいと言うのがよく分かる。きれいにパンチが入ると、相手選手は脳震盪を起こして倒れる。それはそれですごい。

分からないのはコアなプロレスファンやコアなプロレス雑誌が支持した当時のコアなプロレスで「受け」という概念を重視し、「左手」を美しいと感じる、そういったプロレスだった。「プロレスは『受け』のスポーツだから、受け身のために利き腕である右手は残して、常に左手で攻撃を仕掛ける。ハルクホーガンは美しくない。彼の必殺技、アックスボンバーは右腕を使った技だからだ。」という評論を読んで、なんじゃこりゃと。プロレス的な美が、世間のそれとずいぶん違うように感じた訳だ。茶道には茶道の美があり、俳諧には俳諧の美があるように、その世界に馴染まないと分からない、やたら奥深い教養を要求されるマニアっくな世界がプロレスにあるなと感じた訳だ。

プロレスを自分なりに整理してみる。この分け方はリングの中で何をしているのかで分けているので、リングの外のストーリーの組み方やアングルの立て方、ヒールとベビーフェイスの識別の有無などは考えずに、リングの中の動きだけで分けた。

1メキシカンプロレス(主な団体:闘龍門・みちのくプロレス・大阪プロレス。主な選手:初代タイガーマスク・ミルマスカラス)
高山選手が言うところのサルティンバンコ。空中を舞う新体操のようなもの。

2リフティング系のプロレス(主な団体:WJ。主な選手:天龍源一郎選手・長州力選手)
相手選手を持ち上げてリングに叩き落すウエイトリフティング系の技が主流。受けを重視し、選手の体にはある程度の脂肪を付けることが要求される。

3デスマッチ(主な団体:大日本プロレス。主な選手:大仁田選手)
ノーロープ有刺鉄線電撃爆撃デスマッチとか金網デスマッチとか毒蛇デスマッチなど。試合に勝った選手よりも、むしろ負けても痛そうな針や釘やガラスの中にぶち込まれた、入って行った選手がヒーローになる。

4格闘技

格闘技がプロレスという枠に入るのかどうかという問題は置いておいて、大雑把にこう分けたときに1990年代にデスマッチやU系の格闘技は大盛況だったし、空中を舞うメキシカンプロレスも人気があった。が、コアなプロレスファンやプロレス雑誌はそれらのブームを否定して、地味で分かりにくいリフティング系のプロレスを支持していた。プロレスラーというのはそれまで、強いか美しいか、闘うか空中を舞うかのどっちかだった。つまり、4と1はあっても、その間というのはなかった。いま、ここで私が理解しようとしているのは、リフティング系の一番コアでマニアックで分かりにくいプロレスを対象としている。

あるプロレス雑誌で前田日明とルー・テーズが日本の全プロレス団体の主な試合を観て回ってコメントするという企画があった。面白かったのは、格闘技路線から最も遠いみちのくプロレスをルー・テーズは「典型的なアメリカンプロレスだけど、これはこれで面白い」と評価していたところで、選手が空中を跳んでいるのを観て、格闘技派のルーテーズが激怒すると思っていた編集者が安心する場面と、天龍選手対橋本選手の試合を観て「彼等はタフガイコンテストをやっているのか!私と力道山の試合でも空手チョップは出たが、それは20分試合をして、最後の最後に必殺技として出すから良かったので、最初っから最後まで20分も胸板をチョップしあっていたら、観客は飽きてしまう」と激怒して、前田日明が「これはこれで、こういう試合のやり方があって」とフォローしていた場面だ。

タフガイコンテストというのは、ボブグリーンのアメリカンビートでも出てくるが、ボクシングやアマレスのイベントが開かれないような田舎町で、「腕に自信のある者募集!いつどこで、この町一番のタフガイを決めるトーナメントをやります。優勝者には賞金**ドル進呈」と貼り紙を出し、腕に自信のある人達が集まってノールールで殴り合いをするイベントです。おそらくここでルーテーズが言いたかったのは、プロとして見せるべき技術がないということだと思うんですよ。ショーとして見せるのであればもっと色んな動きを絡めて、その動きの中で見せるべきでしょうし、真剣勝負ということであれば、ボクシングのようにお互いにガードを固めながら、上手く相手を揺さぶって、ガードをこじ開けて、ガードの向こうの急所にパンチを入れて脳震盪KOを狙うべきでしょう。そうではなくボディービルダーのように体を鍛え上げた二人が、ノーガードで構えあい、お互いの鍛え上げた胸板をチョップして、どちらがそのチョップにより耐えれるより頑丈な体に鍛え上げているかを競うという競技の暗黙のルールに納得できなかったのでしょうきっと。天龍選手対橋本選手の試合などは典型的な「受け」を見せる試合で、受けという概念を評価しない人間にとっては何をやっているのかがまったく分からない試合であったりする訳です。

コアなプロレスファンやプロレス雑誌は、格闘技が流行っているからといって、プロレスの大きなシリーズのメインイベントで格闘技の技で試合が決まるとすごく怒るわけです。プロレスなんだからちゃんと派手なプロレス技を出してくれと言うわけです。派手なプロレス技といわれると、私のような素人などは空中を飛ぶドロップキックやローリングソバットを連想しますが、彼等の言う派手なプロレス技は、巨大な何百キロもあるプロレスラーを持ち上げて、相手選手を逆さまにして、床に頭から叩き落すリフティング系の技で、バックドロップやスープレックスやジャイアントスイングやパイルドライバーになります。

WJ代表の長州力選手は雑誌で「流れるような試合はしない」というコメントをしていてこれなんかは、リフティング系プロレスの思想をよくあらわしているなと思ったんだけど。バックドロップを掛けようとして相手選手を持ち上げようとしますよね。掛けられる選手がメキシカンプロレス系の藤波辰己選手や武藤選手であれば、ポンと跳んで、相手の肩の上に乗ってきれいにバックドロップを掛けられるか、逆に相手の肩を飛び越えてそのまま向こう側のリングに着地して、その惰性を利用して、相手を背中から投げる返し技系に持って行ったりして、流れるような試合運びをします。その真逆を行っていたのが、新日時代の橋本選手対小川選手の試合で、小川選手は柔道の元チャンピオンで、橋本選手が当時のプロレスのチャンピオンで、橋本選手が小川選手を投げようと持ち上げに掛かったときに、柔道出身の小川選手は反射的に腰を落して投げられないように重心を落しました。メシキカンプロレス的には投げようとしている選手相手に腰を落すとは何事だという話ですよ。メキシカンプロレスなら投げようとしている相手の意図を汲んで上手く飛び跳ねるべきなんです。ところが、橋本選手は腰を落した小川選手をそのまま強引に持ち上げて、四方の客席に向かって持ち上げたぞという見栄を切ってからリングに叩き落しました。これ、柔道を観慣れた格闘技系の客から言えば、そんなわけないじゃんなんですよ。柔道というのは相手の上半身を揺さぶって、重心が崩れた隙をついて投げるわけですから、絶対に投げられない万全の体勢にいる小川選手、仮にも柔道の銀メダリストが力づくだけで持ち上げられる訳がない。でも、リフティング系のプロレスファンはそう考えない。橋本選手が投げようとしたら、小川選手は腰を落した。その腰を落してより重く、より持ち上げにくくなった小川選手を持ち上げる橋本選手の腕力はすごい。これがコアなプロレスファンの視点なんです。持ち上げようとしたときに、流れるようにきれいに持ち上がるとそれはインチキだと。お互いに約束事があってやってるメキシカンプロレスだと。じゃなくて、持ち上げようとしたときに、いったん相手選手が腰を落して溜めて持ち上がらなくなってしまう。その一瞬溜めた時間があった上で、無理矢理力技で持ち上げるのがリフティング系のプロレスの美学だと。

ここで何を言いたいかと言うと、ウェイトリフティング系のプロレスとメキシカンプロレスと格闘技は相容れないんだと。持ち上げようとしたときに、綺麗に跳んで反転して返し技に持っていくのが良いというメキシカンプロレスと、持ち上げられないように踏ん張っているのを溜めて無理矢理持ち上げるのが良いというリフティングと、実際の体重別のスポーツでは、力も技も拮抗している者同士で試合をして、体を崩されてないのに投げれるかというと投げれないでしょというスポーツ的な視点はそれぞれ違う。練習でも、空中を跳ぶ練習をするメキシカンプロレスと、どんな状態で頭から叩き落されてもきちんと受け身を取れる様練習をするリフティング系とアマレスやボクシングのような格闘技は、まったく共通性がないでしょう。まったく別の物なので分けようという、蝶野選手的な考え方はそれはそれで正しいと思う。絶対に必要な考え方だ。それと同時に、新日本プロレスやノアのような多くの選手を抱える巨大なプロレス団体は、多くのお客さんを集めて多くの選手を養って行かなくてはならないため、一つのイベントで色んな種類のプロレスを見せなくてはならないのも事実だと思う。メキシカンプロレスだけをやる団体や格闘技だけをやる団体がジーンズの専門店や、スニーカーの専門店だとすると、新日やノアはデパートでなくてはならない。けれども、そのデパートの中で食料品売り場と婦人服売り場は分けなければいけないし、リフティング系の試合で流れるような試合運びがあってはならないと思う。プロレスと格闘技を分けるのか、混ぜるのかという猪木オーナー周辺の議論は、どういう意味で分けるのか、どういう意味で混ぜるのかをハッキリさせないと生産的じゃない。陸上競技の巨大なイベントを開催しようと思ったときに、100メートル走から高飛び・幅跳び・砲丸投げを同時に同じ場所で見れればお客さん的にはお得だけれども、高飛びに幅跳びの要素も入れて、砲丸投げのテイストも加味して、砲丸を持ったまま高飛びして高さが同じ場合より遠くへ跳んだ方が勝ちとか言い出すと訳が分からなくなる。ルールとしては分けた上で同時開催が落しどころだろう。

3/27 インディーズ落語家の死紺亭さん主催のイベントで過渡期ナイトてのに行ってきたんですよ。で、そのレポートはいずれメルマガに書くと思いますが、そこで死紺亭さんから聞いた爆弾発言「シンジュク・スポークン・ワーズの主催者、さいとういんこさんは実はすごい人なんだ。みんないんこさんをあなどりすぎてる。あの人は、ナゴムの第一弾アルバム土俵王子にタンゴ・ヨーロッパで参加していて、アルファレコードから細野晴臣プロデュースでレコードを出してて、戸川純より早くニューウェイブしてたんだ」を聞いて、パニック。

俺はそれまで、さいとういんこさんを19さいかそこらの子供だと思っていたんだけど、土俵王子が83年11月に出てるとして、いんこさんって何歳?吉川ひなのの「I am pink」にも作詞家として「さいとうみわこ」名義で参加しているいんこさん。このアルバムの最初の曲Pinkなんてさ、かなりヤバ目のポエトリーで、自分の中では遠藤ミチロウのソロアルバム「オデュセイ 1985 SEX」と並ぶぐらいヤバいんだけど、一見POPでミーハーなお子ちゃまのように振舞われているけど、すごい人なのだということを知る。

3/16 最近気になった雑誌記事:モー娘『履歴書』現物入手!!byペントハウスジャパン通巻100号

後藤真希の将来の夢が「手歌デビュー」と書かれている。吉澤ひとみが「漢字がわからない!!読めない」と書きながら、自慢できることとして「英語の試験で80点代をとったこと」と書いてある。80点台と80年代が混ざった造語であると思われる。

プロジェクトX(PROJECT BATSU)失敗者たち 第一回「40億円のアイドル」セイントフォーをめぐる黒い金脈by別冊BUBUKA2003年5月号通巻15号

かなりヤバイ芸能界の裏の内容で、P資金(ピンクレディーマネー)をめぐる話。500億円売り上げ、100億円ほど稼いだはずのピンクレディーが、解散する時には事務所にも事務所社長にもピンクレディー本人にも金が残っておらず、100億ほどの金がきれいに消えていた。この金がその後どう流れたかという話です。

漫画「ぼくんち」で、シンナーを売る不良が「覚醒剤の方が儲かるのに」と言われるシーンがある。するとその不良は「動く額が大きくなると人の命が軽くなるから」と言ってその話を断る。裏社会の記事を読む時「動く額が大きくなると人の命が軽くなるから」という言葉がいつも頭をよぎる。動く額の大きな物と言えば、芸能や不動産以外に、スポーツや万博やオリンピックや軍需産業なども浮んでしまう。

12/28 世の中には色んな人がいるものでさ。Web小説のサイトで「批評や批判や悪口は禁止です。思想や哲学や暴力は止めて下さい。」などと書いてあるHPってのがあるんだな(笑)。批評と批判と悪口を同じ物として同列に並べるってのもすごいし、思想・哲学・暴力を同じものとして同列に並べるセンスも、子供ならともかく、いい年した大人のセンスとは思えなかったりする。この人の中では、批評空間は悪口空間と同じで、哲学者というのは暴力を振るう人なんだろう。批評と批判と悪口が同じというのはギリギリ理解できると思うんだ。tinamixでも漫画批評を大学の授業としてやるときに、漫画家のモンキーパンチ先生が、「自分の描いた物が分析されるのは種明かしをされているようで良い気がしない」と言われているように、もしくは手品の種明かしで有名になったマスクマジシャンが、建前上やろうとしているのは、古くなりすぎた手品の種をバラして分析することで、最新型の新しい種の手品のすごさを一般人に分かってもらおうということだったりする。批評をするということは分析するということなわけで、その分析自体が失礼だといえば、そういう感じがしないでもないが、思想と哲学と暴力ってのはその人の中で、どう結びついているのか?これは私の推測に過ぎないんだけど、その人の中では哲学=思想=極右・極左=暴力なんだと思うんだな。ようするにその人の中では、火炎瓶投げたり、ヘルメットかぶってたり、窓に金網のついた黒いバンにスピーカー乗せて走ったり、企業恐喝したりするのが哲学者なんだな。で、いっけんその人はおかしなことを言ってるように見える。でも、ソクラテスが何故死刑になったのかに思いを馳せるとき、若者達を惑わせるという罪で死刑判決を受け「悪法でも法は法」を毒杯を飲まざるをえなかった時、実はこの人の言ってることは一般的なことなのじゃないかと思わなくもない。

12/15 詩のボクシング第2回「詩のボクシング」東京大会予選会に参加してきた。日曜の午前2時〜11時までバイトに入り、そのまま正午までに神田神保町日本教育会館第五会議室へ直行し、参加料千円を払ってのエントリー。東京出身者の予選が午前9時入りで始まり、千葉・神奈川・埼玉・栃木出身者予選が正午入りで始まり、それ以外の地域の出身者予選が午後3時入りで始まり、十六名の予選通過者の発表が午後四時半に行われる。参加者の数が95名で、一ヶ所に集まっての詩のボクシング大会としては過去最高のエントリー数。一人の持ち時間が三分だから、休憩や入れ替え時間を省いても、4時間45分ほどの時間になる。私は正午からしか聞いてないが、これだけ多くの人が入れ替わり立ち替わり詩の朗読をするイベントを観賞するのは初めてだ。

この詩のボクシングはテレビでも一部放映されたので、多少はどんな人が参加しているのかを知っていたが、正直参加してみて、以前観たテレビより面白かった。普通に朗読をする人、一人芝居をする人、ラップ・スラム・ヒップホップ系に走る人、ナレーション系、アナウンサー系、声優系、漫談系、講談系、演説系、様々なタイプの朗読が始まる。マイクを使ったり使わなかったり、コスプレをしたり、しなかったり。Ben'sCafeというポエトリー系の喫茶店で定期的にライブを行い、チケットを売りながらライブで日本を縦断し、インディーズからとはいえ、ポエトリーのCDも出している青木研治さんも一般参加者として参加されていた。

印象に残ったのはロンパルームな語り掛け系の女性が「はぁ〜〜ぃ、みなさぁ〜〜ん、カルシュームを摂ってますかぁ〜」で入るパターンや、同じく女性の語り掛け系では、20歳のかわいい顔して声がダミ声の人が
「カワイイ声を想像してください(二秒ほど沈黙)いま、高い声を想像したあなた。手を挙げてください。多いですね。生まれつき声の低い私は、あなたがたのためにどれほど苦しんできたか。その様子と言えば、キャッチセールスの電話にすら馬鹿にされる始末。
『トゥルルルル。ガチャ。**商会ですが、ご主人様でいらっしゃいますか?』
『(思いっきり不機嫌な低い声で)いいえ』『では、お坊ちゃまかお嬢ちゃまですか?』
『(不機嫌な低い声で)お嬢ちゃまです。』
中学高校と女子校で育ち、男に免疫のない私はれっきとしたお嬢ちゃま。」という観客参加型の想像させたり手を挙げさせたりして引き込んで行って笑いを取るタイプの方。ちなみにこの女性は詩のボクシング神奈川大会の主催に加わっていた方で、オフ会では詩のボクシングのイベントや審判をすることの困難さを語られていた。この人の詩が声が生まれつきダミ声であるという身体的特徴を利用しているとすれば、太った若い女性の方で「さようならラーメンダイエット」という詩で出られていた方は、ラーメンダイエットといういかにも、やせそうにないダイエットの失敗談で笑いを取られていた。

「さようならラーメンダイエット/トンカツ屋に行けば、ソースはドボドボかけるでしょ/キャベツはおかわり自由といわれりゃ/おかわりしなきゃ損だから/当然おかわりもらうでしょ/ライスもおかわり自由といわれりゃ/当然おかわりもらうでしょ/『ロースとカツのどちらにしますか?』と聞かれれば/当然両方もらうでしょ」

という感じの詩なのだが、まず声とかイントネーションがものすごくきれいで、ラジオのアナウンサーのような感じ。発声やイントネーションが面白かった人で言うと「南無妙法蓮華経」をやたら連呼された女性で、発声法が腹の底から低い声を出す武道(剣道・空手・柔道)系で、イントネーションが念仏。葬式なんかで手を抜いて何を言ってるのか分からないような曖昧な発音と小さな声でお経をあげているような念仏ではなくて、寺に何百人の僧が集まって読経するイベント時の、プロ同士の厳しい目でチェックされている時の読経のようなイントネーションで内容が和風のホラーファンタジー。その女性の方の次に詠まれた詩が

「本日は故**のためにお集まり頂き誠にありがとうございます。祖父も彼岸ではまことに喜んでいることかとおもいます」という葬式のアナウンス系で、あまりの組み合わせに会場では笑いが起きてました。他には真っ黒の特攻服を着て黒いマスクをした山猫さんという方が、「ハタチの誓い」というタイトルで、酒鬼薔薇事件をはじめ、多くの残虐な犯罪を犯した我々世代が、17歳という少年法で守られた透明な存在から社会に責任を持たなくてはならない20になり社会に参加する。というテーマで、ナイフをちらつかせて、俺達が社会に出たらもっと醜い世の中を作ってやるぜ!という詩を詠まれた。カッコがカッコだけに、目立ち、詩のボクシングでは、全国大会にも出られた常連さんらしく、前評判も高かったのだが、そのあとに詠まれた25歳の青年が山猫さんの毒を中和してしまってた。白のTしゃつにチノパンで五分ガリ頭という高校球児のような純朴な青年姿で現れ、戦争は良くない、平和を守るべきだという内容の話を、詩的なレトリックやパフォーマンスをせずに、まるで青年の主張のごとく語られて、後の二次会で30代ぐらいの方が言われていたのですが「ハタチという若さや未熟さを売りにした詩を詠んだ山猫さんの後に、25歳の青年があんなこと言っちゃ終わりだよな。山猫さんは今までずっと、2年も3年も前から詩のボクシング高校生大会とかで、若さをテーマにした詩で活躍してたわけじゃん。そのあとに25の奴が『戦争は良くないと思います』とか真面目に言われた日には、奴の方が若いじゃん。絶対、25の奴の方が幼いよね。あれは山猫潰しだよ」。さらに60代の詩人の方が「25歳の奴が、ナイフ出した方が良かったのかも知れないな。あんな純朴そうな奴がナイフ出した方が、『あれ?俺でもやるかも』と思うじゃん。いかにも狂暴そうな奴がナイフ出しても、あれは特殊な人で俺達には関係ないってなっちゃうじゃん。」と言われてて、黒い特攻服着たお兄ちゃんがストレートに「戦争は良くない」と言ってても、逆に説得力あるかもな。族同士の戦争をやってる奴だからこそ「国家間の戦争は良くない。俺には分かる」みたいなね。

ここのとこ、文学フリマ含め文学系イベント&文学系イベントの二次会?文学サロン?みたいなのに顔を出しているのですが、イベントとしての文学に、ちょっと興味があるわけです。最近音楽でもCDが売れなくて、かつ、音楽のイベント、ライブやフェスティバルの動員は逆に増えている。ってなことをロッキンオンジャパンの兵庫さんが編集後記で書いてたりして。昔だったらAというライブバンドのライブ動員数=AのCDの売り上げ枚数だったのが、CDを買わずに複数のバンドが出演するフェスティバルやイベントに行くという人が増えてたりするらしい。文学も元々は興行だったわけじゃん?明治時代は短歌も歌会があったわけで、60年代は文士劇や公演会があったわけで。オルタナ 人類救済の会

12/8 昨日のK-1すごかったね。世間的にはボブ・サップ選手とバンナ選手が目玉だったんだけど、個人的には武蔵選手を観たくて新宿まで行って観てたんだけどさ(うちのテレビは故障中で映らない)。見所としては、パンナ-マーク・ハント戦で、フラフラのマーク・ハント選手が両腕ロープに引っ掛けて、湯船に浸かるオヤジ状態で、向かってくるバンナ選手の顔を蹴っていたのが、印象的で。普通に考えれば、ロープに腕巻きつけてダウンを逃れるのは反則だと思うんだけど(K−1オフィシャルルール8条の8、攻撃であれ、防御であれ、ロープを掴むこと。あるいは、相手の攻撃から逃れるためにロープを掴むこと。但し、レフェリーが不可抗力と判断した場合には、この限りではない。)絵的にすごく面白かった。あと、片手でホースト選手の後頭部をつかんでもう片方の手で頭を殴っていたボブ・サップ選手ね。脳震盪を起こさせるだけの技術がないなら、物理的に相手を壊せば良いというすごい戦術ですね。あと、ステファン・レコ選手の持つ、努力する凡人の哀しさね。ボブ・サップ選手やバンナ選手のように体がでかい訳でなく、ホースト選手のように良質の筋肉と運動神経を兼ね備えているわけでもなく、マーク・ハント選手のように極端に打たれ強いわけでなく、武蔵選手のような目の良さもない。人間離れした超能力が何一つない選手が努力して頑張って、でも負けていく姿ってのは同じ凡人として共感してしまう部分ありますね。

武蔵選手はホーストダンスを踊るのか?というのが今回のテーマのような気がしつつ。空手の選手というのは、腰を落してすり足で中段突きで前に出て行くという練習をよくしていて、相撲でいうテッポウの動きなんですが、その動きがK-1というルールではあまり有効に機能しないという部分があって。空手の選手が何故腰を落してすり足で中段突きを繰り出しながら前に出るのかですが、今から百五十年ほど前の明治維新の頃、空手と柔道の異種格闘技が頻繁に行われて、柔道でも当て身(打撃)ありのルールで試合をしていたんですね。当時の空手と柔道の統一王者が日本の近代柔道界の生みの親になってるんですけど、そういう環境の中で、空手の技は対柔道相手の異種格闘技を前提とした動きになってると思うんですよ。投げられないように腰を落して、すり足で前に出る。そで・えり・帯をつかまれないように、中段突きを繰り出しながら前に出る。これが、柔道の選手と戦うときには有効な技だったのですが、K-1というルール、キックボクシングに一番近いルールなのですが、このルール上ではあまり上手く機能しないわけです。

ボクシングやキックボクシングの選手は、フットワークを使ってその場でジャンプを繰り返してます。そのジャンプが、打撃のリズムや呼吸のリズムを生み出す上で有効に機能しているのですが、あのフットワークは相手が投げ技を使わないという前提がなければ出来ないものです。だって、そんなにピョンピョン飛び跳ねてたら、出足払いで倒されてしまいますからね。ちなみに近代に入る前のボクシングは空手と同じように両足を開いて腰を落して殴りあっていたそうです。グローブを付けているため相手をつかめない、柔道着を着ないためつかむ場所がない。そういう環境で戦うボクシングやキックボクシングの選手にとって、投げ技といえば、首相撲からの投げになるわけで、柔道よりもむしろムエタイのイメージになるわけです。ホースト選手でもピーター・アーツ選手でもキックボクシングの選手は意外とムエタイの選手と交流があって、首相撲が強いわけです。ところが、空手の選手は異種格闘技の仮想敵が柔道であるため、首相撲には弱い。アンディ・フグ選手でも、ホースト選手の首相撲にかなりやられてましたしね。空手着を着て、素手で戦うことが前提の空手の技術。その技術を持った空手の選手が、空手着も着ずにグローブを付けてキックボクシングのルールで戦うには、空手以外にボクシングの道場に通ったりという作業が必要になってくる。これ、矛盾してるんですよ。空手の素晴らしさを伝えるために、正道会館はK-1を始めたのに、K-1で空手の選手が勝つためには空手の技術を否定しなければならない。この矛盾はアンディ・フグ選手、フィリオ選手はじめ、多くの空手出身の選手に振りかかった問題で、空手を乗り越えることで優勝したアンディ・フグ選手と空手の技にこだわったフィリオ選手という対比があったり、色々するのですが。フィリオ選手対ホースト選手の試合を観ると、ものすごくきれいなキックボクシングの型とものすごくきれいな空手の型の応酬で、フットワークを使いながらリズミカルにジャブを繰り出すホースト選手に、ガードを固めたまま腰を落してすり足で前に詰めていくフィリオ選手という、各格闘技のお手本のような動きなのですが、フグ選手なんかは逆に色んな格闘技のエッセンスを自分の中で混ぜて、各相手の出身格闘技の弱点、その格闘技では反則になるがK-1では許される攻撃を有効に使用していくという戦い方で、同じ空手出身の選手でも自分の適性に合った戦い方があるんだなぁという感じです。フィリオ選手がボクシングスタイルの戦いをすると「空手を捨ててフィリオは弱くなった」と言われるのに、フグ選手だと言われないのも、フグ選手って空手の試合でも空手家らしくない技で勝ち進んで行った選手で、頭部へのパンチは禁止なのに頭部への蹴りはありな空手ルールの裏をかいてかがと落しというトリッキーな技で空手の大会勝ち抜いていた人だからで。

が、武蔵選手の場合、個人の適性が空手じゃないなとなんとなく思ってたんですね。腰を落してすり足ってタイプじゃない。どちらかというと、グローブはめて、力入れずにピンポイントを打ち抜いて脳震盪KO狙うボクサータイプだと思っていたら、今回まさにそういう試合展開で。試合する前はスポーツ新聞に、タイに行ってムエタイの道場で左ミドルの練習してますとか、実は右ミドルでしたとか言っていたのに、試合始まると、もろボクシング。構えをみただけで、ボクシングが相当上手くなってるのが分かる構えなんですね。で、いきなりバンナ選手とパンチの打ち合いをして、負けてないんですよ。互角の打ち合いしてるの。スゲーなと思いましたね。パワーで負ける分、パンチが見えてるから上手くさばける。1R終わる頃に、パンチもらってスリップ気味のダウンもらうんだけど「やっちゃったなぁ」という感じのにが笑い浮べてすぐ立つんですよ。面白いのは物理的には武蔵選手どこもケガしてなくて、ただ、脳震盪起こして足にきている。これは、バンナ選手が最初スタートダッシュでパワーで押し切っちゃえと、思って出ていったら互角に打ち合われてしまったので、テクニックの勝負に切り替えて、物理的にでなく脳震盪で倒そうとしたんだと思います。2R目、やっぱり脳震盪でスリップ気味のダウンをした武蔵選手が、余裕の表情で立とうとするのだけれど、足がしびれて立てない。セコンドがタオルを投げてTKO負けで、帰る時「まだやれるよぉ」と愚痴ってましたが、肉体的・物理的ダメージが無くて、神経系統だけやられているというのは、バンナ選手にピンポイントを打ち抜くテクニックで負けてるんです。パワーファイターにテクニカルファイターがテクニックで負けてるんですね。でも、全然勝つ気で立とうとしている選手にタオル投げるセコンドもどうかなと。立つ立たないは選手に決めさせたれよという気はしつつ。コーナーでラッシュ浴びて立ったまま気を失っててヤバイというときにタオル投げるのは分かりますが、意識があって試合続行するかしないかの判断能力が選手にある状態なら選手に決定権与えたれよと思いつつ。意識失うほどの脳震盪でなく、スリップする程度の脳震盪でダウンしてしまうのは、革の帽子に二キロや五キロの重りぶら下げて首を鍛えるトレーニングしたら済む問題だと思うのですが、問題は解説の石井館長が言っていた「相手に背中向けるたり、横向いたりしてパンチをもらっている」って奴で、須藤元気風のトリッキーな試合をしたかったのか、確かに二度のダウンはバンナ選手に横を向いた瞬間もらっているんですね。あれなんで横向いたんやろ?ゆたっときに、筋肉ほぐそうとして腰ひねったのかな?と思ったりもするわけです。空手の選手って筋肉を鎧のように硬くするイメージあったりするんですけど、ボクシングの選手って逆に筋肉を柔らかくほぐそうとするじゃないですか。ホーストダンスなんかその典型なんですが、マイク・ベルナルド選手やレイ・セフォー選手も試合中にファイティングポーズのまま、肩の関節を回して腕・胸・背中の筋肉をよくほぐしてますよね。あの動きが出来るだけで、かなり疲れが取れて体が動くようになるんです。今回の武蔵選手やバンナ選手のように前に体重を乗せてのファイティングポーズは三分三ラウンドを三試合、三分九ラウンド、合計二十七分ただ、構えてじっとしているだけでもかなり疲れるんです。体重前に乗せてのファイティングポーズというのはパンチに体重が乗りますが、上体を腰の上に乗せるのではなく、宙に浮かしているのでかなりしんどい。寝転がったまま腰を曲げて両足を十センチだけ地面から浮かせた体勢を三分続けるのって苦しいじゃないですか。腰を直角に曲げて、両足を腰の上に持ってきた方が楽という。それと似た状態です。上体が常に腰より前に出ているのでしんどい。その凝り固まった筋肉をほぐすためにホーストダンスのような動きがあるのですが、それが結果バンナ選手に横や背中を向ける結果になったのではないかと。筋肉をほぐす動きは必要だけど、ファイティングポーズを取ったまま、隙を見せずにほぐすというのが上手く行かなかったのではないかと思うわけです。須藤元気選手のスパーリングパートナーが武蔵選手の弟さんだという話があるので、そのルートで須藤元気選手から教わった動きをしたらああなっただけかもしれませんが。

プロレスについてちょっと書きたいんだけど、アメリカのプロレス団体WWEとかって、プロレスのシナリオライターを一般から公募してたり、ハリウッドのシナリオライターにプロレスのシナリオ書かせてたりするらしい。で、日本で一番有名なプロレスのシナリオライターと言えば、梶原一騎になると思う。巨人の星・あしたのジョー・タイガーマスク・空手馬鹿一代というマンガの原作だけでなく、極真空手や新日本プロレスのフィクサーもしていて、猪木vsモハメッド・アリ戦の黒幕でもある。で、俺は大伴昌司もプロレスのシナリオを書いていたと勝手に思っていたのだが、そのようなデーターはない。プロレスマンガの原作ぐらいはしてたのじゃないかと思ったのだが、その資料もない。梶原一騎も大伴昌司も当時の主な活動場所が少年週刊マガジンであったためごっちゃになっていたようだ。

梶原一騎がやったプロレス漫画の原作で、タイガーマスクやプロレススーパースター列伝などは実在のプロレスラーが出てくる漫画だ。その漫画の中に出てくるいくつかのエピソードは実話として扱われている。実際にはタイガーマスク二世の最終回に出てきたタイガージェットシンはアラブの石油王で、タイガーマスクに「わざと試合に負けます」という契約書を付きつけ、これにサインをしないと日本への石油供給を止めると言い、タイガーマスクが申し出を断ったために、日本に石油が入ってこなくなり、オイルショックが起きるという、いくら子供向けでも実話とは言いくるめられない内容なのだが(実際のタイガージェットシンはインド出身だ)、いまあえてタイガージェットシンが、オサマ・ビン・タリバンとかいうリングネームでアメリカ国旗を掲げたスタン・ハンセンと、イラクの石油を掛けて試合をしても面白いかなとは思うんだけど。梶原一騎の描くプロレス(漫画)は戦争の代行品としてのプロレスで、日本に対する悪感情を持った外人レスラーが日本のマット界をつぶすために日本にやってくる。その時、そのレスラーの出身地がどこの国のどんなところで、人口がどのぐらいで、国教は何で、主食は何で、どんな文化で、どんな経済状態で、そのレスラーはどんな風に育って、そして何故日本にやってきたのか、何故日本マット界をつぶそうと思ったのか、その辺を描いて行くのが梶原一騎の見せ場なわけです。日本に外人レスラーが来る前に、そのレスラーに関するそういう漫画をきっちり描いて、それから外人レスラーが来るから、日本の空港に着いた時にはそのレスラーは有名人なわけです。ジャンボジェットからタラップで降りてくる外人レスラーの写真をスポーツ新聞の記者が写真に撮りまくるわけです。当時の日本人にとって飛行機のチケットというのは高くて中々買えないものだった。そのジャンボジェットからタラップで降りる写真というのが、日本人がイメージする国際スターの原型ですよね。ビートルズにしろツイギィーにしろ、ジャンボジェットからタラップで降りてくる写真をみた時にスターだと感じる。いまみたいに空港での写真じゃダメなんですよ。タラップじゃなきゃいけない。今の新日本プロレスの魔界倶楽部、何がダメだって、魔界ってどこにあるんだとか、何故新日本プロレスをつぶそうとするのか?とかそういう説明がなにもない。梶原一騎であれば、ちゃんと描いている部分がなにも描かれてない。突然、マスクかぶって出てきて「魔界倶楽部です」と言われても意味が分からない。

それと大伴昌司がどうつながるのかですが、この人はSF・オカルト・巨大ロボット・怪獣を主に扱われていたライターの方で、怪獣ブームの生みの親と言われていて、円谷プロがウルトラQ・ゴジラ・ウルトラマンで、テレビ・映画を中心に怪獣ブームを作っていたとすれば、子供向けの雑誌媒体で怪獣ブームを作っていたわけで、円谷プロの許可が下りた企画は、ウルトラ**とかタイトルに出きるんだけど、許可が下りない場合は、怪獣という単語を使えないから恐竜にしたり、恐竜だと実際にいた証拠となる化石が残ってなきゃまずいから、謎の巨大生物にしたりと、うまく版権逃れして、ゴジラの体内解剖図とか描いてゴジラの吐く放射能がゴジラの体内でどのようにして作られるのかを擬似科学的に説明したり、鉄人28号や鉄腕アトムの体内模型図なんかを描いて、どこにジェット噴射があって、エネルギータンクはどこでとかやってた人ですね。

ライターの人の仕事って、大学教授並に専門的な知識があればその専門分野について書く仕事があるだろうし、じゃなくて色んな現場に行って今実際に起きてることのデータを集めるという仕事もあるんだけど、そのどっちでもないパターンで、読者投稿欄を埋める仕事があって、例えば小学館の小学一年生で、学校で起きた面白い話を募集しても、小学生じゃ中々一人ではがき書けないし、面白い話も集まらないわけじゃん。まして、四月号とかなれば、去年来た旧一年生のはがき使うわけにも行かないしさ。そういうときに読者投稿欄を埋める仕事をライターの人はするわけで、読者に代わって物を書くんだけど、読み手に人気があるのに投稿が少ないのが、夏の怪談特集で、あなたが実際にあった心霊体験をお寄せ下さいって奴で、実際にお化けみた奴なんてそんなに居ないんだよ。でも紙面埋めなきゃいけないじゃん。他にはUFOみましたとか、ツチノコみましたとか、ネッシーみましたとか、謎の巨大生物みましたとか、そういうのは読者には人気あるんだけど、募集しても集まらないわけじゃん。したら、匿名のライターが書くしかないわけじゃん。大伴昌司のやっていた仕事にはそういうのも含まれるわけでさ。

話変わるけど、矢追純一プロレスラー説てのがあって。世界的にも超有名な某日本のスポーツ選手の父親がしゃべると面白い人で、テレビに出してみようという企画があったらしいんだ。で、カメラクルーがそのスポーツ選手のお父さんのところへ行ったんだけど「息子が有名になることは5歳の頃から判っていた」とかぐらいなら良いんだけど「宇宙人と話をしてみると」とか「先日神様に話しかけてみたら」とか言い出して、テレビじゃヤバくて使えないという結果になったらしい。テレビでは宇宙人の存在を本気で信じている人の話は放送できないっていうんだ。じゃあ、矢追純一とは何なのか?あの人はテレビのディレクターで、何が放送できて何が放送できないかを知ってるはずなんだ。なのに、宇宙人が地球に来ているという特集番組を作っている。つまり、本気で宇宙人を信じている人は使えないけど、本気じゃなければ放送して良いという話なんだな。矢追も矢追の番組も本気じゃないプロレスだから安全だという矢追純一プロレスラー説なのですが。

話を元に戻して、人類は何年に絶滅するとか、ノストラダムスの大予言だとか、宇宙人がどうの、雪男がどうのといったオカルト特集は子供向け雑誌の一種の定番だし人気アイテムであったりするわけだ。大伴昌司なんかも、純粋なオカルトとは違うかもしれないけど、怪獣・巨大ロボットが専門で、いまでゆうUMA(未確認巨大生物)なんかは得意ネタだったわけじゃん。ヒマラヤの雪男なんかでも特集したら、まあ、生存している証拠としてなにか物証を持ってこなきゃいけないわけじゃん?雪男の足跡や頭皮、毛なども持ってくるんだけど、最後の最後に、身長二メートル十五センチの当時世界最大だったプロレスラー、アンドレ・ザ・ジャイアントの写真を持ってきて「彼は雪男の生き残りなのかもしれない」と書いて終わるみたいなのが、あったような気がするんだ。この辺、物証は何もないんだけど、当時の子供向け雑誌で、怪獣やウルトラマンやゴジラや恐竜や雪男やネッシーや未確認巨大生物の話を散々やって、最後の最後に、実在する巨大生物として、プロレスラーを持ってくるみたいな書き方があったと思うんだ。当時はプロレスラーは人間じゃない、怪獣なんだみたいな書き方が許されたのが、いまはプロレスラーの人権の問題や子供の教育上の問題から、そういう書き方が許されないみたいな部分がなにかしらある。ボブ・サップ選手を撮るのにしても、カメラに向かって「ガオォーーー」とやって、りんごを握りつぶしたあと、「ハイ!カット」という声が入って、笑顔のボブ・サップ選手が「こういう演技で良いのかい?」つって、「OK!OK!」と言ってるディレクターと談笑してるところまで映して、放送するわけで、昔だったら「ハイ!カット!」と言ってるシーンとかは放送しなかったんだよね。その代わり、タイガー・ジェット・シン選手がサーベル振りまわして入場してくる場面の放送をみて、警視庁から銃刀法違反の疑いでタイガー・ジェット・シン選手に出頭要請があっても、新日本プロレスは選手には警察に行かせずに、新間営業部長が出頭して「このサーベルは先がとがってない丸い特注品で、凶器にはならないし、人も傷付けない」と説明し、選手を守ったわけじゃん。いまプロレス団体が悪役レスラーの身辺を守りきれないから、あくまでもこれは役であって、本当に悪い人じゃないんですよという見せ方しか出来なくなってる。ちょっと迫力あるシーンを撮るとすぐに「ハイ!これは役であって、普段はとても良い人なんですよ」と注意書きが入る。昔なんかアレだぜ、スター24時間密着取材で、猪木選手が奥さんとスーパーで買い物をしているところをTVカメラが撮ってて、偶然そのスーパーに来ていたタイガー・ジェット・シン選手が猪木選手に気付いてカメラの前でプライベートの猪木選手を襲ってケガさせるんだけど、あれだって、偶然タイガージェットシン選手と鉢合わせになったから襲われただけで、仕込みじゃありません、ドキュメンタリーですってんだぜ。普通に考えてそんなことありえないじゃん。アブドラ・ザ・ブッチャー選手だって、普段のプロレス中継は選手入場からしか放送しないのが、その日は女性アナウンサーが何故かブッチャー選手の試合前の控え室行ったら、壁に向かって青や紫の煙が出る香を炊いてブツブツなにか唱えてて、なんか暗くてとても近寄れないような雰囲気で、ブッチャー選手のマネージャーが通訳越しに「いま、彼はアラビアの呪術で馬場選手を呪い殺そうとしている最中です」とか言ってるの。子供心に怖かったもん。アラビアの魔法で殺される思ったもん。今考えると笑い事やけど。

あの当時のプロレスラーって強い弱いよりも人間に見えないことが大事やってんよな。怪獣のようにデカイ体とか、妖怪のように怪しい雰囲気とか。いま、グレート・ムタ選手なんか、人間に見えないルックスを作ろうとしてるけど、しゃべってる内容が、どういうメイクでどういう見せ方でどういう風にしているから、俺は人間に見えないみたいな、種明かしの話ばっかりやもん。手品する前に種明かしされたら見てる方は驚きようがないもん。

梶原一騎が講談社に殴り込みをかけて警察沙汰になって干されて以降のプロレスって、外人レスラーが入ってこなくなって、日本の中で世代間闘争を始めるようになってんな。その辺からやねん、色んなことが訳分からなくなったのわ。それまで、半年ごとに外人レスラーが日本に来て記者会見して、日本の雑魚レスラー相手に連戦連勝して、最後の最後に日本のトップレスラーが日本武道館の大舞台で勝って終わるパターンだったのが、日本でトップを張っていた猪木選手・馬場選手が年齢的にトップ張れなくなってきて、試合のテーマが外国VS日本じゃなくて、ベテランVS若手という世代間抗争に変わって、同時にヒールとベビーフェイスの区別も曖昧になっていって、戦争の隠喩としてのプロレスから、会社内の派閥争いの隠喩としてのプロレスへ変わって行ってんな。部長派と専務派みたいな、今は専務派の方が力あるけど、専務が58歳であと二年で定年だから、二年後のことを考えると部長派になっていた方が・・いやでも、幹部には社則の定年が適用されないから・・みたいなややこしいプロレスになって行ったわけだ。具体的にはアントニオ猪木対藤波辰己戦やジャイアント馬場対ジャンボ鶴田戦なんかには、力道山がアメリカから輸入したプロレスの図式、ベビーフェイス対ヒールという善玉悪玉の分かりやすい構図が存在しない。さらに長州選手と藤波選手の抗争とか、鶴田選手と三沢選手の抗争とかいうと、社内人事の派閥争いなわけで、興味がない人にはまったく興味がないというか、梶原一騎時代の外人レスラーなら、子供向け雑誌の漫画でその選手のバックボーンを連載してるし、プロレスと無関係なところでもその選手の出身国の文化やなにかを調べることもできる。外人レスラーを応援しようと思ったらその選手の国旗を持ってけばいい。その選手が何を代表しているのかが見えやすかったのが、日本人のベビーフェイス同士の対戦になると、よく分からなくなる。

さらにややこしいのが、それまで曲がりなりにもプロレスはスポーツだとなっていたのが、プロレスの輸入元であるアメリカで「プロレスは、殺陣です。競技じゃありません」となってしまった。日本の野球とアメリカの野球では、公式のボールが微妙に違ったりとか、危険なデッドボールを減らすために、アメリカのストライクゾーンは、アウトロー寄りだったりとか、細部は違うけど、一応同じ物だということになっている。サッカーだって、日本のルールだとプレー中ちょっと接触すればイエローカードだけど、国際ルールだとガンガン当たっても大丈夫だったりとかする。多少、日本のローカルルールが入っていても、ルールが曖昧になっていても、その競技の本場でちゃんとしたルールを作り上げて、競技が競技として認められていれば、日本ではルールに関してそんなに細かく考えなくて良かったのに、日本のプロレスの元ネタになってるアメリカでプロレスが競技からショーに変わってしまった。それまでルールの細部は本場のアメリカに聞いてくださいと言ってられたのが、言えなくなったため、自分達で厳密にルールを作って、そのルールを一般の人に説明し、浸透させて、さらにそのルール上での選手のテクニックや戦術やを説明し、どういう状態の時、どちら側の選手がどの程度有利だというようなことが分かる目の肥えた観客を育てて行ったのが前田日明選手と佐山聡選手で、それが今の格闘技につながっていくんだけど。

1980年代ぐらいの日本のプロレスは、梶原一騎が居なくなったため、子供雑誌でプロレス漫画を書く人がいなくなって、同時にギャラの高い外人選手を呼ばなくなった。初代タイガーマスクのメキシカンプロレスを除くとショーとしては善玉悪玉が曖昧な、分かりにくい派閥争いになって行くし、スポーツとしてはルールの不明瞭さが浮き彫りになって、競技としても見世物としても分かりにくくなっていく。具体的には長州選手のプロレスとか天龍選手のプロレスというのがよく分からんわけです。当時、子供に人気あったのは初代タイガーマスクや藤波辰己選手のプロレスで、ヒーローは必ず勝つんですね。逆に大人に人気あった長州選手や天龍選手のプロレスは、団体の看板になる選手があっさり無名の新人に負けたりします。だったら、その新人が「大型新人現る!」てな感じで大々的に売り出されるかというと、次の試合で年取ったロートル選手相手にあっさり負けたりします。結局のところ誰が強いのか分からない。ショーとしてみたとき、見せ方を完全に間違えていると思います。

こういう話聞きました。プロレスゆうのは、この選手が勝つというのを先に決めてやるんだと。じゃないとスターを作ることが出来ない。ガチンコで勝負すると、無名の新人が団体の看板選手にあっさり勝ってしまったりするんだと。そんなことが起きては団体が持たないから、この選手は必ず勝つという決め事を先に作っておくと。無名の新人が何故勝つかというと、モチベーションが違うんだと。団体の看板選手は一年間に200〜300試合すると。休日でお客さんが多い日には、午前の部・午後の部・夜の部と一日三回公演で戦うんだと。ゴールデンウィークや夏休みのように休日が連続する日には、三日間で九回公演とかするんだと。その看板選手と戦う無名の新人は、毎日リングを組むための鉄柱をトラックから運んで組んだり、針金の入った重いロープを運んでロープ張ったりしている。そんな資材運び生活の中で月に一回だけリングに立って試合をするチャンスが回ってくる。そんな新人は看板選手に勝つためにその選手の癖や試合運びを常にみてるしビデオでも研究している。早くリングに立ってスター選手になりたいとだけ常に思っている無名の新人が、ゴールデンウィークの一日三回公演の三日目、お客さんもまばらな午前の部に立ってみ、看板選手はお客さんも少ないし、相手も無名やし、体のあちこち怪我してるし、ゆっくり楽な試合したいやん。でも、研修生上がりの新人からしたら、月に一回しかない大きなチャンスや。これ、台本無しで本気で試合したら、新人って強いで。ゆう話です。

その話聞いて思ったのは長州力選手って台本無しで試合してたやろと。プロレスのリングで格闘技やってたんちゃうかと。前田日明選手と長州力選手の違いって色々あるのですが、言葉でルールを説明する努力をしてきたかしてこなかったかとか、月に一回ペースの試合をした前田選手と年間二百試合した長州選手とか。長州選手というのはボクシング型の格闘技でなく、プロ野球型の格闘技をプロレスのリングでやってきたのだという言い方をするともっとすっきりするのではないかと。ボクシングのチャンピオンというのは常に勝たなくてはいけなくて、一回でも負けるとベルトを剥奪されてしまうわけです。しかもチャンピオンにはものすごい額のお金が入りますが、二位三位になると極端にもらえる額が減る。一回でも負けると敗北者扱いになる代わりに、年間の試合数は少なかったりする。これがプロ野球になると違うわけです。年間135試合ほどしますが、勝率5割5分、74勝もすれば優勝でしょう。逆に勝率4割5分、60勝だと最下位。トップと最下位の間に勝率にして一割の差しかない訳です。

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