HP管理者日記12

4/2 CUTという雑誌で松本人志のインタビューがあって「一人ごっつ」をマニアックな芸だとインタビュアーも松本本人も言っている。でも、それは違うのではないかと、個人的には思う。確かに当時は、松ちゃんのやりたい芸を観客無視でやりたいようにやる番組だと思っていたが、今思うとあれは、舞台芸からテレビ芸へ芸の質を変換するためのトレーニングだったのじゃないかと思う。

コント55号に関して欽ちゃんは一つのネタが完成するのに3ヵ月かかったと言っている。ネタを考えて練習するのに一ヶ月、お客さんに見せて反応を見て、徐々に変更を加えるのに一ヶ月、完成したネタを演じるのに慣れるのが一ヶ月。藤山寛美は、「人生すごろく」のネタをマイナーチェンジを繰り返しながら30年以上もやり続けたし、森光子も同じ脚本の舞台を千回以上もやっていたりする。一つのネタを作るのに3ヵ月かかっても、一度完成したネタは死ぬまで何度でも、演じることが出来る。これが舞台芸だとすると、テレビは違う。ビートたけしは漫才ブームの売れまくっていた時期でも、テレビでは同じネタを絶対に二度やらなかったと言っている。大阪のTVで漫才をやって、東京へ向かう2時間の新幹線の中で30分ぶんの漫才を考えて、2時間後には東京で新作の漫才をやる。お客さんの反応を見ながら練り上げた物じゃないのでスベることもあるが、それでもテレビでは常に新作をやり続けたらしい。

テレビは純粋にネタだけをやる番組はほとんどない。テレビ番組の多くは雑誌と同じ商品カタログだ。旅先の温泉を紹介する温泉番組や料理番組、音楽を広告する音楽番組や、売り出し中の芸能人を紹介するトークバラエティー、世界各地の観光名所からその土地にちなんだクイズを出す番組なども、スポンサーが旅行会社で、クイズの景品も世界一周旅行だったりする。その場合、司会者であるコメディアンに求められるのは、コントのネタではなく、次から次に出てくるVTRやミュージシャンや芸能人を紹介しつつ、アドリブで笑いをとる技術なんです。スタジオでVTRをみながらVTRに何かコメントをして笑いをとる。そういう仕事がビートたけしさんには多いのですが、そういう場合、そのVTRはそこそこ目新しい映像で、かつ普通に生活をしていたら見れない映像であることが多いわけです。カンガルーの赤ちゃんとか、F1レースのクラッシュ&炎上シーンとか。「一人ごっつ」で松ちゃんがやっていたのは、まさにそれで、それなりにインパクトのある写真、それなりに目新しい映像、普段の生活では目にすることのない写真映像を、ごくごく日常的な何かに例えて笑いに変えるという作業でした。自家用車の窓から首を出して後ろを振り返っているチンパンジーの写真に「志村、うしろ、うしろ」と言った松ちゃんは、漫才やコントのネタ中心のお笑い芸人から、次々出てくるVTRや新製品を広告し(ここは司会の浜ちゃんの仕事)、そのVTRや新製品を使って笑いをとる芸人になろうとしていたのです。つまりネタをみせる舞台芸人から、商品広告をするテレビタレントへ変わろうとしたトレーニングが「一人ごっつ」で、マニアックな芸ではなく、メジャーになるための公開練習だったのではないかと。

3/31 中学や高校の頃、毎日毎日学校の授業を受けて、昨日ならったことが次の日には否定されることの繰り返しだった。昨日、日本史で平家が源氏に勝って天下を取る話をやったとしたら、次の日には源氏が平家に勝つ話をやっている。昨日覚える努力をしたことが今日には否定されて明日はまたきっと違うことを習っている。なんかそんな気がしていた。今日努力しても、明日にはそれが否定されて次の何かが出てきて、がんばってそれをおぼえても、また次が出てきて、流れ作業でおぼえることがいっぱい出てきて、いつまでたっても終わらずに忙しく動き続ける割には何も蓄積されずに同じことが繰り返されてゆく。そんなのが自分の一生だと思っていた。

柄谷は中上健次との対談で小林秀雄を「高速に回転するコマだ」と言った。忙しく動いているが決して移動せず結局のところ動いていないと。小説の広告雑誌である文芸誌で、座談会をやり書評を書きといったことをやってきた小林秀雄は今流行りの**文学!という打ち上げ花火を上げて、**文学の特集をして盛り上げるだけ盛り上げて、しばらくすると**文学はもう古い、次はOO文学だ!ってのに変わっている。そうやって様々な意匠を掲げては、次から次へ新しい物を出しては消していく人工的な流行製造法をコマに例えたのだと思う。

よくある言い方だけど、社会のシステムの中で流れ作業的にベルトコンベアに乗って流れてきた知識をただ丸暗記することに必死の学校生活で、学校を卒業しても、普通に会社員をして、会社の中で流れ作業的にベルトコンベアに乗った部品にネジを入れるような仕事をひたすら繰り返して歳とって死んでいくのだと、高校の頃思っていた。一生分の生涯賃金も、一生の間に話す日常会話も既に決まっているのだと思っていた。最近のデータでは日本のサラリーマンの平均生涯賃金は三億一千万で、子供一人が自宅から通える公立の大学を卒業するまでにかかる教育費が平均一千万で、これが私立になるともっとかかるとか、何とか言われているが、私が高校の頃は会社員の平均生涯賃金は二億といわれていた。日常会話も小学生なら小学館の学習誌かコロコロコミックか学研の科学と学習かなんかを見れば、だいたい小学生の話しそうなことは想像がつくし、会社員なら、SPAかホットドックプレスかプレジデントか、高齢者なら壮快や健康。「持病の腰痛が」とか「OO病院には心臓の権威がいるから、手術の際には菓子折りを持って**先生にお願いすれば」とか言いながら、死んでいくんだぜとか思っていた。16のとき、65歳の定年で死ぬとしても、残り49年、17885日しか生きてなくて、そのうちほとんどは朝から晩まで働いて家に帰ってきたら寝るだけの生活で、七日に一回休日があっても休日は2555日しかなくて、その一つ一つの休日も大事に使うどころか昼ごろおきてテレビ観て寝るような、無意味な使い方しかできないんだぜと思っていた。

宝島という雑誌が高校の頃好きだった。ドロップアウトして、バンドやってる劇団やってるイラストレーターやってる同人誌やってる、そういう人たちの、そういう活動の体験記が何より好きだった。当時、宝島は「就職せずに生きるには」なんてシリーズの本を出してて、その本には、ロックミュージシャンになりたけりゃ、雑誌にメンバー募集かけて、一時間2・3千円の貸しスタジオで練習して、デモテープとって、ライブハウスにデモテープ送れば、演奏させてもらえるから、そこから地道に活動して、二千枚二十万円でプレスできるソノシートでシングルレコード作って、それを持ってツアーして、人気が出ればその道で食って行けますよみたいなことが書いてあった。私が好きだった宝島の記事は、都内のレンタルスタジオ&ライブハウス&ソノシートプレス工場の場所と値段とTELを書いた客観的な記事ではなく、「就職せずに生きるには」を読んでそれを実践してしまった人たちが書く、実際に現場で起きている色んな障害やトラブルの話だった。デモテープ送ったけど大手ライブハウスに出演を断られる。ライブをやるけどチケットノルマがきつい。ライブの時間になったけど、お客さんが一人もいない。そのうちバンドメンバーの中から、高校や大学を卒業するから、いつまでもバンドで遊んでなんていられないから、卒業や就職や結婚を理由に抜けると言い出す人が出て、その彼を引き止めたり、彼の代わりとなる人を探したり。そういう話が読んでて面白かった。「就職せずに生きるには」に書いてあるようなきれい事ではなく、実際にはシャレにならないトラブルが次から次に起こり、結局消えていくバンドや劇団なんかも多くある。そういう話が好きだった。「就職せずに生きるには」のシリーズは客観的なデータを集めた三人称のオールドジャーナリズム、情報源が各ライブハウスやレコーディングスタジオの公式発表=宣材だとすれば、実際にそれを実践している人達の書く文章は、一人称のニュージャーナリズム、書く人が実際に現場に潜入し体験取材をして自ら経験したことだけを書いている血の通った文章だった。そんなのを読みながらも、実際には自分は安全な場所から出ることもなく普通に会社員をするものだと思っていた。

昔好きだった宝島を開くと、有名ライターの人達が、カルト宗教に入ったり、洗脳セミナーに入ったり、非武装の自衛隊飛行機が戦場で落ちたという設定で、チキンラーメンとスナック菓子を持って、催涙弾と銃を持った兵士から一週間逃げ続けるセミナーに入ったりとか、体はったネタが多くてびっくりする。裏BUBUKAとかみてても非合法ドラッグの体験取材とか、もしくは暴力団がらみのネタとか、命はっててすげーなと思う。好きだからといって、まねできるかとなるとまねできない。しかもそういう体験ルポものでも、活字でなく漫画が主流になってきてたりする。SMクラブで浣腸プレイの実録体験ルポ漫画を描く女性漫画家とかみると、男で活字じゃ浣腸プレイでも商品にならなくて、違法行為の体験ルポじゃないと相手にされないんだなと思う。ピューリッツアー賞を取りたいと思うカメラマンは戦場に行くように、命を落とす危険のあるとこにいけなきゃダメなんだろうなと思う。

ニューアカというのも私にとって、カルト宗教や洗脳セミナーやバンド活動の体験ルポと同じ、安全なシステムの中で暮らしている自分には一生関わることの無い向こう側の人達の生活として入ってきていた。マルクスは若くて無名で貧乏な人達だけが次の時代の新しい物を作り出せるのだといっていたが、80年代の現代思想やユリイカには若くて無名で貧乏な大学院生たちの文章で埋まっていた。文系の院生たちというのは理系のように就職口があるわけでなく、研究者として大学に残るにも大学の枠が決まっていて、今いる教授が死なないとそのポストが空かない。常に日本中の大学教授の数=ポスト数と同じかそれ以上の数の院生が枠が空くのを待っていて、多くの院生が院で学んだ古典文学や哲学や社会思想と無関係な職業へ就職していく。逃走論などを読むとあの浅田彰ですら、マルクスが自分と同じ年齢のときに書いた論文と今自分が書いている論文を見比べて、将来に対する漠然とした不安を感じていることを告白していたりする。定期安定収入を得るため、家族を維持するため、会社で流れ作業のように同じような質の仕事を繰り返す。一度黒字になったビジネスモデルを維持し、既存のシステムを維持し、家族と収入を維持する、そんな社会のシステムの外側にいるのは、若くて無名で貧乏な人だ。現状では黒字にならない仕事、バンドや劇団や洋書の翻訳に多くの時間と労力をつぎ込み、いつかはそれが黒字に転ずると信じてがんばる人には妙な熱がある。そういう意味で最近の岩崎純一さんの文章は好きだ。

文芸誌の批評家は自分の文章に相反する二つの属性を求める。文芸誌を出している出版社の新刊をジャーナリスティックに広告する広告塔という属性と、文学を通して何かを学んだり考えたりするアカデミックな長く残る研究書という属性だ。前者が高速に回転するコマであるとすれば、後者は若くて無名で貧乏な人が生み出す熱だ。前者が文芸誌に連載されている連載中の記事だとすれば、後者はその記事を研究書として単行本にまとめなおした本だ。その相反する属性にどう折り合いをつけるのかが芸であったりする。吉本隆明の心的現象論序説や柄谷行人の探求Vなどは、連載中、前月は心理学書の話をしていたのに、今月は文学で、来月は文化人類学などと、平気でジャンルが跳び、しかも毎回読みきり形式でなく、心理学書の話をしてて、この続きは来月という終わり方をしてて、来月は心理学の続きで文学の話をしてたりということが平気で行われている。探求Tのときは、対象となる本のジャンルは跳んでも、その本を通じて書かれる内容はほぼ毎回同じで、しかも毎回読みきり形式で書かれているため、連載全体を通じて読むと内容の反復が多く、本一冊で一つの大きな流れやドラマを生み出していたとは言いがたいが、探求Vは反復よりもジャンルの跳躍が多く、5ヵ月分ほどをまとめて読むと一つの大きな流れやドラマをその中で作っているのが分かったので、本になったときどんな感じになるのかが楽しみだった。

心的現象論序説は「何故自分は詩などという表現をせずにいれなかったのか」という問いが初めに立てられている。本当は普通に会社員をして、普通に無難な人生を送ろうと思っていたのに、気がつくと妻子を抱えて、アルバイトをしながら同人誌を出すなどという人生になってしまった理由を、心理学書を読むことで解き明かせるのではないかという思いが吉本隆明の中にあったと思う。本を読んで書評を書くというジャーナリスティックな仕事に、一貫した問いを立てることで、研究書形式にもなるだろうという目論見があったと思う。本になっている方の心的現象論序説は、自分の立てた問いに対する全体の見取り図を描いて、主な心理学書を読んでそれと、著者の体験を重ね合わせていくぐらいで終わっている。青写真どまりなのだ。後半、心的現象論は、心理学だけでなく、文学や民俗学や文化人類学やに手を広げジャンルを跳躍しながら、一つの大きな流れを作っている。

1)胎児に命が宿って細胞分裂し乳児として母胎から出てくるまでの間に経験する胎児の体験を、単細胞生物の発生から人類の誕生までの変化と考える。

2)生まれたばかりの乳児から二足歩行する幼児になり第二次性徴を迎えて子供を作れる体に成り、思春期や青春期に様々な悩みを抱えて、それを乗り越えて大人になるまでの個人の経験を、最古の人類が発生してから現代人に至るまでの何世代にも及ぶ人類の歴史的経験だと考える。

この二つの考えを吉本は心理学から採用する。そして精神病とは幼児期の心の傷を直視せず、心の傷をなるべく見ないようにして抑圧したまま大人になったときに発生する病で、その治療には一度心に傷を負った時期にさかのぼって、その傷を直視し認識することが必要だというのが心理学の発想なんですね。そこで吉本は古代文学や文化人類学を読み解くことで、人類史を過去にさかのぼろうとします。人類史=個人史という彼が心理学から採用した考えで行けば、吉本が心に傷を負った年齢にまで人類史をさかのぼることで、何故彼は会社員としてまっとうな人生を送るつもりだったのに、気がつけば会社を首になり、詩を書き同人誌を出すような生活を始めてしまったのか?表現活動への衝動がどこから来ているのか?という最初の問いに答えることが出来るという話になります。毎回ジャンルを飛び越え単独の読み物としても面白いものでありながらも、通して読めばちゃんとつながった一つの大きなドラマとしても機能している。そういう心的現象論序説の後半や探求Vが雑誌連載のみで本になってない。それは、面白い本は誰にも読ませずに自分一人のものとして独占したい私には嬉しい事実であるのです。

3/21 インターネット創作作家協会オフ会での一発ネタ「昔、好きだったAさんが結婚したという話を噂で聞いて、そうなんだと思って、ふと気がつくとレンタルビデオ店の人妻ものコーナーに居たりして。あ、違う違う。思ったり。」

3/14 WWFという世界最大のプロレス団体が日本で公演をして、それによって日本のプロレスはアメリカ=WWFに食われてしまうのではないかという話があるのですが、実際にテレビでみてみた思ったのは、クラッシックに対するところのアイドルポップスみたいなものだなという印象です。アイドルポップスの場合、垂れ幕やプラカードを作っていって、応援する、歓声を上げる、曲の合の手(PPPH)を入れるという観客の参加があります。クラッシックがただ座って演じる側を鑑賞することしか出来ないのだとすると、観客参加型のイベントがアイドルポップスなのではないかと。

WWFの興行収入の内訳は一位がテレビの放映権料で二位がグッズの売り上げだそうです。日本の格闘技・プロレス団体は収入の内訳の第一位が興行=お客さんの入場料で成り立っているのと対照的です。実際テレビで観てみて、スポーツとしてはプライドやK−1の方が全然面白いですし、ショーとしてはFMWや大阪プロレスやみちのくプロレスの方が面白い。ただ、つまらない試合だけれどグッズは欲しいとか、つまらない試合だけど、プラカードや垂れ幕を作って会場に行って大声を出す応援って奴はやってみたいとか、思ってしまいました。日本の映画とアメリカ映画の違いで、日本の映画は入場料の6割だか8割だかが映画館の取り分で、アメリカ映画は入場料の100%が配給会社に行って、映画館は館内の飲食物の販売だけで映画館を運営できるという話を思い出しました。売上に対するグッズの占める割合がアメリカの方が高いつう話ですね。ジャニーズ事務所はたのきんトリオ時代、観客の応援で盛り上がって行ったのですが、ある時期から、この応援が禁止されるようになっていったのです。過激化するファンの応援に対して警備費がかかりすぎるという理由でザ・トップテンが放送されなくなったり、応援のときのプラカードやグッズとして売ってるスポンジで出来た大きな手(WWFでも売られている)やうちわ、プラカードの類を高く上げると後ろの人がステージを見れなくなるのでグッズを使った応援を禁止したり(これは最近SMAPがらみであった)。この辺の問題をWWFがどう解決しているのか?が気になるのですが、テレビで観た限りでは、試合が始まっても席に着かずにドーム内のグッズ売り場で、グッズや飲食物をあさりながら、ドーム内に設置されたテレビでステージを観ている人が大勢いました。メインイベントでなく前座の時間帯だからというのもあるのでしょうが、ドームクラスだと席で見てもステージ上の人のサイズが三ミリ程度だったりするわけで、会場に設置されたテレビの方がよりはっきりと大きく観れる。日本だと映画というのは、一年に百本以上も映画を観る映画好きが名画座で三本立てオールナイトを観るようなイメージなのが、アメリカだと、今日親戚の子が家に遊びに来たから、今日はみんなで映画にでも行って帰りはレストランでご飯を食べてこようかといって、子供向けの安全なエンターテイメントを観に行くイメージらしいのですね。マニア向けの濃い物でなく、一般向けの安全な娯楽、もしくは社交場としての場所貸し業、そんな感じがしました。その方向で物をみせるのだと、メインイベント以外は、グッズで後ろのお客さんの視界を奪ってしまっても構わないし、観づらいと思ったら、ホットドッグ買いに席を立っても良い訳です。ショーでなく、お客さんが主役なわけですから、試合中に大声で友達としゃべってる奴騒いでる奴がいても構わない。会場全体が野球でいう外野席、コンサートでいう立見席みたいな物で、ショーを観るよりホットドッグを食うことの方が大事な客がいっぱい来て、会場でそういう人どうし友達になって、その友達に会いにまた会場に来る。そのぐらいの安い入場料でその分、人を集めてグッズ販売なんですね。

WWFに近い日本のレスラーとしてイメージしたのが蝶野選手で、あの選手は衣装から入場テーマ曲・照明・ポージング・グッズのデザイン・シナリオ等をトータルで見せていくのが上手いわけじゃないですか。演者と演出で言えば、演出家寄りの演者なわけで。蝶野プロデュースのNWOやT2000がどこで統一感を出し、どこで個々の個性を出すのか?黒という色で統一感を出しながら、シナリオや服のカッティングで個々の選手の違いを出していくというのが、モー娘の服が同じ色・同じデザインを基調にしながらも、エリ回りやソデ回りのカッティングを微妙に変えて13人それぞれがよく見ると2人として同じデザインの服を着ていないってのと同じぐらいよく計算されているわけで。

3/9 男女間の性差について書くと、「白線流し」というドラマに関して、「少女達による少年マンガ」という記述をSPA!でしたのが中森明夫氏で確かに白線流しに出てくる少女たちは、凛としているし、少年漫画的根性や友情や努力の世界にいるかに見えるのだが、私はそれでも脚本に女性らしさを感じた。志があり凛としている主人公達も、最終的に自分が周囲の環境を変えていくのではなく、環境が自分を評価してくれるかしてくれないかという話に終始しているのだ。少年漫画の世界はスポーツマンガなど典型だが、周囲が自分をどう思うかでなく、自分がそのルールの中で結果を出せるかどうかの話だ。対する少女漫画はラブコメなど典型だが、主人公は周囲に好まれるか嫌われるかの話がメインで進んでいく。自分がどうするかでなく、周囲が自分をどう思うかがメインで進む女性原理がそこにある。

ウェブの日記や小説をみてると分かるのですが、女性の書くものは物語的で、男性の書くものは観念的なんですよ。女性の話は「何がどうして、どうなって、それがどうで、こうで」と時系列的に話が進み、そこで起きる出来事の意味や理由を問わないんですね。男性の場合、「OOというのは、そもそも**であり、さかのぼれば、・・が++した&&が初めだったと言われる」などと、具体的な事実の時系列的羅列にならずに自分の意見や考えになっている。渡邊さんの小説にしろ、私の書く日記にしろ、小説家志望なら登場人物の動きを書くべきなのに、書き手の意見を延々延べているのが多い。男性の書く物語というのは、割りと高名な人のものでも、物語の構造が単純で、女性の書く物語とくらべて書きなれていない、頭で書いてる感じがするのに対し、女性の書く観念的な文章は、高名な人のものでも論理の構造が単純でやはり頭で書いている感じがする。男性が物語を書く、女性が論文を書くというのは、女装や男装と似た翻訳が彼の中に含まれているものだと思う。

3/7 小泉総理の構造改革がいつの間にか、汚職したしてないの1960年代的なダサい話に入れ替わっている。大事なのは構造改革と汚職がどう関係しているのかという話だ。もともと構造改革は、国の財政赤字を減らすために、無駄な支出を抑えましょうという話だ。採算の合わない公共事業、高速道路や飛行場の建設を見直して、必要のないものは止めてしまおうという話だ。アメリカが不況におちいったときやったニューディール政策はビルド&スクラップだが、構造改革はまず無駄な物のスクラップから手を出した。今回の鈴木宗男さんの汚職は、公共事業の予算の二割五分をほどを抜いて丸投げしていたという話だ。60年代的なよくある話で、議員が公共事業をどの会社にやらせるかを決めて、その会社は予算の二割五分懐に入れて、別会社に丸投げで、懐に入れた二割五分のうちから、いくらかを議員や党に寄付している。国民から徴収した税を口利きで党や議員の金にしてしまう。そしてその金は、選挙のとき選挙民を買収する金に変わってる。選挙には金が掛かるという例の話になるわけだ。国民から徴収した税が、政治家と結びついた企業に行き、企業から政治家に行き、政治家は国民を買収する。きれいに回って、誰も損をしていない。いっけんそう思える。無駄な公共事業でも、その予算の2・3割が政治家の財布に入っていたら、政治家はその公共事業を止められない。つまり、構造改革は出来ない。さて、無駄な道路でもそれを作ることで多くの雇用が生まれているからそれで良いじゃないかという話がある。問題はさ、そこで生まれる雇用だけど、無駄な道路を作ってる人は、それを必要な仕事だと思って、必死になって働いているわけだ。予定の期日までに仕上げるために、体調壊して、家庭も顧みず、子供の運動会にも参加できないで、必死になって働いていたりする。もちろん、技術革新が華々しい新しい産業についていくための勉強や手に職をつけるための勉強なんてできやしない。でも本当はそれは作る必要のない道路で、O万人という人の雇用を支えることだけが目的でやられている公共事業だとすれば、そこまでして道路作りに精を出さないでさ、かわりに失業保険+職業訓練でも良いわけじゃん。パソコンと金融で日本経済はアメリカに大敗らしいけど、それこそそっち方面の職業訓練を、道路作ってる人にでも受けさせれば良いって話じゃん。で、それが構造改革だったはずなんだ。財政赤字を減らすと言う財政改革でなく、セイフティーネットを張った上で、赤字企業は雇用の大小に関わらず、規模の大小に関わらずつぶれてもらう。それが自由競争だし、自由主義経済だし、旧産業から新産業への人材転換じゃん。構造改革じゃん。公共事業による雇用の確保でなく、同じ予算なら失業保険と職業訓練に金を出して雇用流動化じゃん。汚職したけりゃ、公共事業がらみの汚職から、失業保険・職業訓練がらみの汚職へ移行しないとさぁ、それが汚職の構造改革じゃん。大事だよ、そゆの。(もち、汚職は法で罰せられます)

が、言いたいのはそういうことじゃなくて、K−1のハードパンチャー組がそろって、キックに力入れてて、レバンナ選手が天田選手をハイキックでKO、ベルナルド選手もセフォー選手にローキックを連発ですよ。マーク・ハント選手はやたらめったら速い動きをするし、ミルコ選手は脇の下にマーク・ハント選手の腕をはさんで、クリンチされているように見せてクリンチしてるし、レイ・セフォー選手はベルナルド選手相手に無茶苦茶レベルの高いボクシング技術を披露するし、去年世界中でK−1の予選が行われて、かつテレビ放映されたことで、選手に俄然やる気が出てきている。それまでボクシングのヘビー級チャンピオンと比べれば、ファイトマネーが安いとか言われてたが、テレビ放映されることで、CM料が日本国内から世界マーケットへ広がって、ファイトマネー云々だけの話じゃなくなっているのだ。

で、武蔵―グラウベ戦。最近思ったのは武蔵選手って、チャンピオン体質の選手じゃなくて、挑戦者体質の選手なんですね。日本代表をペタス選手に奪われてから急にリラックスして、極真との対抗試合も楽しそうだし(ペタス選手に負ける以前から、フィリオ選手と試合をしたいと言っていた)、K−1MAXで魔娑斗選手が活躍すると「自分の方が、体はデカイけど、スピードも速い」とすごく生き生きした表情で語っているVTRが流れて、そのVTRを観る石井館長の表情がまた嬉しそうで「武蔵なんかは完全にライバル視してますよね」と語ってたり。勝って当然というチャンピオンの位置に置かれるとプレッシャーで無口になるし表情もこわばるけど、「**選手ってすごいですよね」と語られると、その選手と戦ってその座を射止めたいと思う挑戦者体質なんよな。格上の選手、ホースト選手やピーターアーツ選手とは名勝負するけど、ジャパングランプリで格下の勝たなきゃいけない選手と戦うときもイマイチな試合が多いのも、挑戦者体質だからなんでしょう。今回のグラウベ選手は中迫選手と試合したときに、190センチの中迫選手の頭より高い位置にハイキックを打って高すぎて当たらなかった選手なんですよ。つまり、2mの高さに何の苦もなくハイキックが打てる。百八十度開脚が出来る上に、百八十度開いた状態で足に頭がつくぐらいの柔軟さがある選手なんですね。しかも、ものすごく速いハイキックだったので、リング最前列の客も中迫選手もキックが見えなかった。キックを蹴り終わった後、足がマットにつくときの摩擦音でハイキックを打ったことに周囲が気づいたという、最速のハイキッカーです。ハイキック=細身の選手、ハードパンチャー=デカイ選手のイメージがあるK−1で、ベルナルド選手並みの体格で、上体を動かすことなく2mのハイキックですからね。どれだけ重い体重の乗ったハイキックなのかという話ですよ。K−1の初期の頃は、ホースト・アーツ・アンディ選手のハイキックKOが売りだったのが、アンディ選手が亡くなり、アーツ選手が腰を痛めてハイキックを打たなくなって、ホースト選手も最近は安全策でパンチの試合をして判定勝ちの連続。かわりに人気の出てきたのがボクシング勢で、ハードパンチャー組やスピード&テクニックのシリル・アビディ選手だったりするのですが、いま、ここでハイキックを打てる選手が出てくるのはK−1人気にとっても重要なことで、グラウベ選手は再びハイキックKOを量産する可能性があるわけです。とにかく、グラウベ選手のハイキックは、高さ・スピード・体重・上体の安定どれをとっても最高級で、その多くは体の柔軟さから来ているわけです。ハイキックを打つとき上体を後ろに倒さずに打てる柔軟さを持つのは、ホースト選手かグラウベ選手ぐらいの物です。ただ、最近までのグラウベ選手には、顔面パンチを打たれるとコーナーに閉じこもって出てこないという顔面への恐怖心があったのが、きっちり顔面をガードして顔面対策をしての武蔵戦でした。上で書いたように多くの選手が成長する中、武蔵選手はどう成長していたのかというと、連続技の練習をしていたと思うんですよ。グラウベ選手の顔面に三連チャンでパンチを打ってました。それまでの武蔵選手は単発の攻撃が多く、連続技に結びつかなかったのが、ワンツースリーパンチぐらい打っているのですが、三つ打った後、どうして良いか分からず困っている場面も見受けられました。正直に言うと、連続技は、一発目のジャブで相手の体制を崩しガードを空けさせて、次の攻撃につなげる物なのですが、武蔵選手のパンチは三つとも相手の眉間・鼻頭に当たってました。ボクシングの場合、アゴの先(チン)を打ち抜くパンチが一番脳震盪を起こさせやすいと言われています。アゴに当たるパンチでなく、アゴにかするようなパンチが脳震盪=KOにつながるんですね。ところが、角田選手やセフォー選手やマーク・ハント選手のような骨太で首や肩ががっしりしている選手はアゴを殴っても脳が揺れないですし、アビディ選手のような首が細くて柔軟な選手もアゴを殴っても、首でショックを吸収してしまいます。そういう選手には、こめかみへのフックかハイキックしか効かないんですよ。そういうタイプの選手は相手のパンチをおでこで受け止める練習をしてますし、眉間なんか殴られても脳震盪おこさないんですね。だから、連続技の場合、一発目相手の眉間に視界をふさぐ意味でも、動きを止める意味でもパンチ入れたら、二発目・三発目はアゴかこめかみを狙わなきゃいけないのが、全部眉間に入って、三発打った後、パンチが効いてないグラウベ選手を見て困った顔をしている武蔵選手はちょっと辛かったです。武蔵選手がグラウベ選手について「すごいハイキックで、しかもミドルも強いんですよ。でも、僕もキックはまあまあできるんで」とか言ってて、ちょっと待て、まあまあかい!と思ったのですが。ホースト選手とヒザミドル対決して勝ってたのはどこのどいつやねんゆう話ですわ。自己評価低すぎるぞ武蔵。左ミドルが武器といっても、ひじでガードされると、当たったとき蹴ったすねの方が傷つくので、ひじを蹴り上げて、開いたところに左ミドルってなこと、解説の石井館長が言ってて、うーーーんという感じですが、接近戦でヒザから太ももにかけての部分で相手のわき腹を蹴るときの、精度ってのは武蔵選手かなり高いんですよ(Exホースト戦)。左ミドルは、ミルコ戦で一度、ミルコ選手のあばら折ってるでしょう、ちょっと位置高かったり、ひじでカットされたり色々なのでしょうが。初期ミルコ選手は顔面パンチ・わき腹へミドル・ボディーパンチで後ろに回るという連続技があって、武蔵選手も顔面パンチでガードが上がったところへ左ミドルという連続技が入ると、すげーカッコ良いんだけどな。とか。あと「試合の最後まで集中力が切れなかった」と石井館長が解説していたのですが、武蔵選手の集中力切れは、激しい運動をしたときに脳へ行く酸素が足りなくなって起こる現象で、ラウンド間の休憩時にセコンドが指を立てて「何本に見える?」と聞いて答えられなかったら、頭からバケツで水をかけたり、出て行く直前にほほをビンタすれば直る類の物だと思うんですね。今回は集中力が切れなかったというより、息が切れなかったわけで、ちょっと違うような気がします。

3/5 男女の性差について書きたい。女性が書くポルノは男性が書くポルノとどう違うだろうかという話をしたときに、男性の書くポルノの男女の立ち位置を入れ替えれば、女性の書いたポルノになるという言い方をする方がいて、それはちょっと違うのでないかと。「女性の前でおっぱいの大きな水着女性のグラビアを広げて、『巨乳だねぇ』なんて言うのはセクハラだ。女性がチンチンを膨らましたビキニの男性モデルの写真を広げて、『巨根だねぇ』と言いながら男性に『君は何センチだい?』なんて言い出したら嫌だろう。女性の前で水着のグラビアを広げるのもそれと同じだ。」ってなことをよく言うのが田嶋陽子さんのようなステロタイプなフェミニストだ。これが上野千鶴子さん辺りになるともっと知的になり、精錬されるのだが、それはこの場では脇に置いておこう。ステロタイプのパターン化されたフェミニズムは男女の立ち位置を交換することで女性の権利を守ろうとするが、実際に女性が女性に向けて書くポルノをみると、もっといびつで野蛮な物がそこにはある。男性が女性を襲うのが普通のAVだとすると、女性が男性を襲うのが、女性向けポルノだ。なんてきれいな線対称にならない。実際に多くの女性に人気のあるポルノの一種に、ボーイズラブと言われるジャンルがある。いわゆるホモ小説やホモ漫画なのだが、男性向けポルノとボーイズラブの間には、巨乳/巨根といった線対称のフェミニズムは発生しない。

シモネタを話されるのが嫌だと言う女性がいて「女性の前でシモネタを話すのは、男性の前で巨根の話をされるのと同じような物だ」と言われると、「そのぐらい我慢しろよ」という話になるが「ボーイズラブの話をされるような物だ」と言われると「それはツライな」という話になる。このボーイズラブを線対照的に男性に移行すると、二次コンと似ている。現実には存在しない「少年」や「少女」といった観念が好きで、それらの観念との性的妄想を持つ人にたいして、現実の男女は疎外される。

だめだな、もう少し身近な例を出すと、男性の性欲に対するのは女性の性欲ではなく、女性の食欲だと思う。男性は修学旅行の夜なんかは、好きな女の子の話などで盛り上がるが、女性の場合、男の子の話もするが食べ物の話でも盛り上がるのだという。女性とテレビを観ているとき、ドラマなどで食事のシーンがあると、前後の話の文脈に関係なく「あれ、おいしそう」「あれ食べたい」という話になる。それまでのドラマのストーリーやテレビの外で話していた会話などまったく無視して食べ物の画面に釘付けになる。知的なイメージで売っている女性小説家などでも、ドストエフスキーを読んだ感想が、小説中の食べ物の話のみのことがザラにある。これは男性の多くが食べ物、特にテレビ画面や小説中に出てくる食べ物にはほとんど興味を示さないのと対照的だ。男性の性欲が女性の食欲と対になるという例で言えば、カマキリのオスがメスと交尾した後、メスに食べられるという話や、鳥やコウモリなどいくつかの動物において、求愛の示し方が自分の取ってきたエサをメスに差し出すという話を出せば納得してもらえるかもしれない。

男性にとっての食欲とは何かというのも個人差があるので一概に言えないが、私などは味音痴であるため、高級料理と大衆料理の味の区別などほとんどつかない。田中康夫の「ペログリ日記」の中で高級料理の詳細なレポートを読んでも、自称霊能者に背後霊の話をしてもらっているのと同じぐらい訳が分からない。しかし、ペログリ日記のような高級料理のレポートこそが、女性にとってのポルノ小説であるというぐらいの認識はあり、これだからポルノは難しいと思う次第であったりする。

2/27 小沢健二のニューアルバムEclectic買いました。正直そんなの買ってる場合じゃないだろ、そんなの買ってる暇あったら自分の生活の基盤をどうにかしろよというツッコミはあるのですが、レビューを書きたいという理由だけで買いに行きました。いや、本当は渋谷のレコード店で試聴すればもっと早い日付でレビュー書けたんだけどさ。で、私は小沢にまったく期待してなかったわけです。前作の「球体」がジャズコンボで見事ハズし、高級過ぎて聴けないとかボロクソに言っていた私ですが、今回はすごく良いなと。これ久々にロングセラーになるぜって感じです。今回期待してなかったのは、Eclecticは「宇多田ヒカルのようなR&Bに挑戦」と言うふれこみだったので、球体の再来だと思っちゃったんですね。宇多田が売れたから柳の下のドジョウ狙ったのだろうけど、宇多田のオートマチックってもう2年も前じゃん。柳の下をいろんな人があさりすぎて、もうそこにはドジョウいないだろと。さらにギタリスト小沢が歌唱力勝負のR&Bに挑戦したけど歌唱力不足でどうにもならないとかあちこちで書かれてて、まあ、ジェフ・ベックも「レコード会社に言われて歌うたったんだけど、あんなみじめな気分はなかったね」というぐらいだから、まあしょうがねぇーな、餅は餅屋だぜと思っていたら、想像を絶する歌の上手さ。ジャンルも宇多田というより、スガシカオ・ラッツ&スターのマーチン、TokyoNo1ソウルセット系。低音のささやき声が色っぽくて最高です。

情報量が少ないのでお得意の深読み批評は書けないのですが、気がついたことを書くと歌詞の字数が極端に少なくてアルバム全部の歌詞がたった一ページに収められてます。通常のミュージシャンなら、一番二番三番と歌詞が変わるのに対して、AメロBメロから、またAメロの歌詞に戻るという歌詞の使い回しがパーフリのファーストアルバムを思い出させます。センスの良い上品な伴奏で、でも、どのジャンルに属する伴奏で何の影響を受けて作られた音かが想像つかない(単に私の音楽的知識が足りないだけですが)ところが、やはりパーフリのアルバムを思わせます。特に初めの2・3曲のイントロはすごくかっこいいです。小沢健二ソロのファーストアルバム「犬キャラ」で連呼していた「神様」と「本当」をファースト以後意図的に封印していた(クイックジャパンの鶴見わたる氏との対談参考)小沢が、「本当」を解禁しています。ロッキンオンジャパンで「愛」がどうの「本当」がどうのといった歌詞の中でもそのまんまな部分が引用されていて、こちらの想像力を刺激しない説明的な歌詞が今回のアルバムに載るのだなと思っていたら、むしろ逆で、厳密な意味は一切分からないんだけど、なんとなく雰囲気が伝わってくる歌詞と音。ドラムスが小沢健二のみになっていて、パーカッションは別にいるとしてもそれもすごいなと。バックの女性コーラスが何人なのかが、某音楽誌で話題になっていて、日本語でコーラスしているから日本人だ説と、歌詞カードを見る限りじゃ外国人だ説で分かれていて、いまのところ不明。プロデューサーと広報担当を除くとほぼ全員外国人ってのも特徴的。

Eclecticの一曲目「ギターを弾く女」はイントロがアフリカンなパーカッションで始まり、ワールドミュージック系ですね。単純にR&BとかAORと呼ばせないEclecticな音を思わせる一例です。

今回、オザケンの発声がささやき・つぶやき系の声ですごく色っぽいんです。ダメなAORはボーカルが歌ってしまうんですよ。普通の意味での発声をしてしまう。それに対して、叫ぶ・怒鳴る・しゃべる・はしゃぐ・いのる・泣く・呪う・呪文を唱える・ささやく・つぶやくいろんな発声があることを知った上で、その曲にあった感情表現・発声方法を出来るのが良いボーカルなんですよ。で、今回の小沢はささやいたり、つぶやいたりしている。これは、小沢と聴く人が、内緒話をしているような、2人っきりの閉じた空間でくつろいでるいような効果を与えるわけです。グラフィックイコライザーで同じ曲を中音域を上げて聴くのと、中音域を下げてドンシャリにして聴くのとでは、中音域を上げた方が近くで音が鳴ってるように感じるんですね。今回のオザケンのボーカルはまさに中低音なわけで、聴く人の耳元に唇を当ててささやいているような印象を与える。色っぽさの一番の理由はそこでしょう。

三曲目の麝香と、九曲目のBasslineのトラックは低音ベースと高音金物打楽器の組み合わせがすごく良いですね。生演奏のライブでもDJ系のClubでも、CDと同じ音しかしないのだったら、家でCD聴いていれば良いわけです。ライブハウスやClubに行けば、業務用のデカくて良い音の出るスピーカで音が聴ける。業務用のスピーカーが家庭用のスピーカーと何が違うかといえば、高音と低音なわけで、体にズンズン響くボディーソニックと、頭をクラクラにするドリーミーな高音があれば最高に気持ち良いわけで、麝香・Basslineなんかは明らかにその辺りを狙った曲ですね。

歌詞がらみでいうと、演者=小沢以外に主な登場人物が2人。「あなた」と「あの人」。聴者はおそらく「あなた」で、「あの人」が正式の彼女。テーマは禁じられた愛ですか。一曲目の「ギターを弾く女」では、「弾き語りをするあの人の手がその気にな」って、「あなたが怒りの後ろに隠す 女の顔 女の本能 激しく誘う」「その気にさせる」。あの人はその気に「なる」のに対して、あなたはその気に「させる」。気になるフレーズを抜き出すと「愛 火遊び 二人 燃やしてみたい炎」。燃やしてみたい。あくまで「みたい」で抑えている。あの人とは「雫ひとつ 肌を越えるあの人とあの人と 心二つ溶かす 大きな川のように」「今夜遅くあの人と深い愛を交わす」とセックスを連想させるようなセリフが続く。しかし、それは「悩ましく憂いに満ちた夜」であり、あなたに「誘って」と言い「出口を出て待ち合わせて大通りを上る」。今夜遅くあの人と深い愛を交わすのは、憂いに満ちているのに、あなたには誘ってと言って、夜であるにも関わらず、わざわざ人目を避けるように出口を出たところで待ち合わせる。あなたに対しては「本当の姿を暴いてみたいよ」「あなたの本能を感じたい」「動く動くあなたの心 それを感じたい」とあくまで、「たい」という希望止まりで、プラトニックであることを強調する。特に印象的なのは「遊び慣れた双子のように 友達でも知らない 共犯者のように あなたの愛 炎 隠していて その胸に」と双子という語を持ち出して男女の間ではなく、兄弟のような関係であることを強調する。「足を濡らす遠浅の海 気づかずに歩くうち 遠くへ行くみたい」とあなたとの間に、濡らすという性的な語が出てきても、それは深いところまでは行かずに、遠く浅くどこまでもじらし続ける。そうこうしているうちに遠へ=長期にわたる関係になってゆく。「向かい合わせの鏡 向かい合わせの広がり あなたの心の中にある形」というのが、小沢の心に映ったあなたと、あなたの心に映った小沢の合わせ鏡の広がりであり、「あなたの心の中に棲む蠍」と、その合わせ鏡の中で毒を持ったけれども魅力的なサソリをみつけるなんてのは禁断の愛を端的に表現しているといえる。

2/26 KMさんに言われてベルクソンの「時間と自由」をパラパラみてみたのですが、想像以上にすごいですね。吉本隆明の心的現象論序説を羊5さんに言われて読んだのですが、そのとき分からなかったのが、時間−空間という二元論で、いまいちピンと来なかったのです。どうやらベルクソンを観ると、西洋哲学の中では伝統的に時間と空間は対を成す概念であるらしいことが分かりました。用語としては、空間/時間、外延/内包、外的知覚/意識、物理学/心理学、現象/意識、対象/形式、環界/身体(Ex:心的現象論)、世界/自己になり、空間=外延=外的知覚=物理学=現象=対象=環界=世界になる。そして、周囲からの影響で自分の心理状態が変わるのか、自分の心理状態によって同じ物でも違うように見えるのか?という論になり、それがいろんなところに派生していく。

ドゥルーズもベルクソンがらみの本を書いているが、ベルクソンの「強さ」や「多様性」といった用語はまんまドゥルーズの「強度」や「多数多様体」を連想させる。


くだらない話をしたいんだけれども。文芸誌の新人賞の選評を見てると「大人が書けてない」というコメントが多いんだ。新人賞に応募してくるような人の多くは二十歳前後で、人間ってのは自分より下の年齢は経験してるからある程度書けるんだけど、自分より上の年齢は経験してないから書けないんだよね。新人賞などで書かれている小説の多くはジュブナイル小説で、恋愛ものか成長小説か、セックス・ドラッグ・バイオレンスか、まあ、そんなのが多い。これは明治以降の文学なんてみんなそんなもんじゃんと思うんだけど、どうも、選考委員というか文芸誌側が求めているのはもっと大人の文学だという気がするんだ。文学の型を「障害→克服」の繰り返しだとするなら、大人を書くのが難しい理由ははっきりしてて、大人の欲望が見えにくいからなんだよね。女性の場合は大人でもそれなりに絵になるんだけど、男性の場合さ、毎日毎日工場で機械部品の箱詰めをしている職工を主人公に物を書くといってもまず障害が起きないんだよ。ビルクトゥロマンスってのだと、未熟な職工が一人前に成長していく話に出来るんだけど、それだとただの青春小説で大人を描いている文学にならない。技術的に一人前か、じゃなきゃベルトコンベアの分業作業ではじめから熟練工になることが期待されない職工でなければならない。そうであったとき彼の欲望が非常に見えにくいわけだ。「障害→克服」の型に当てはめるには主人公に欲望がなきゃいけない。一人前の技術を身に付けた熟練工になりたいという欲望があって初めて成長小説は発生するし、誰かのことが好きだという欲望があって初めて恋愛小説は発生する。妻子がいて、技術もある。技術者として一人前だが、それ以上出世して経営者になりたいと思っているかというと、そうではない。そういう大人がどんな欲望を持っているのかを言い当てないと、その欲望にたどり着かせまいとする障害も、その障害を乗り越えたときの開放感も生み出せない。さて、大人の欲望とは何か?

現実の大人がどんな小説を読んでいるのかを見てそこから逆に欲望を見つけ出せば良いと思うんだけど、会社員が通勤電車の中で読む小説。パソコンの使い方マニュアルみたいなのはよく読まれてるし、確定申告の仕方なんてのもよく読まれてる。あと、時代小説とスパイ小説。これがホワイトカラーの会社員じゃなくて長距離トラックの運転手にでもなるとまた違うんだ。ラーメン漫画なんかがよく読まれる。あと、性風俗の体験取材ものとか、パチンコやパチスロの攻略法。トラックの運転手にとって大事なのは仕事が終わる朝四時五時に営業しているおいしいラーメン屋の情報や、仕事で地方に行ったとき(トラックの運転手は決められたルートを走るのがほとんどだが時々イレギュラーでとんでもない地方まで車を飛ばさせられることがある)、その地方のおいしい店や楽しい性風俗店を知っておきたいという話なのだ。会社員の場合、セミドキュメンタリーの業界小説などはその業界の人は買うよね。運送会社でバイトしてたときは佐川急便の元社長が書いた本なんかよく読まれてた。佐川急便事件で辞任に追い込まれた社長が、「このままでは佐川はあと二年でつぶれる」とかいってる内容で、要するに俺を会社に復帰させろと言ってるだけの本なんだけど、その業界に生きてる人間にとっては他社の動きってのは自分の給料に密接に関わってくる重要な情報なので買って読んでしまう。80年代だとトヨタvs日産物とか松下vsソニー物が売れてたり、二・三年前だと銀行の内部暴露ものが売れてたり。ナニワ金融道などもサラ金業界の内部暴露でスパイ小説なども裏社会の内部暴露もので、時代小説も「自分の上司を戦国武将に例えると?」って奴でしょ。大人の欲望ってのが、定期安定収入の確保であり、彼らが政治や経済に興味を持つのはまさにその欲望ゆえなわけで。

この欲望も、定年を迎えるとなくなってしまうんだ。定年を超えた老人の欲望は何なのか。老人になると欲望は定期安定収入から、健康・人望・名誉に変わってくる。特に健康はね、雑誌で言えば「壮快」テレビで言えば「みのもんたの思いっきりテレビ」。人望ってので行くと、会社を辞めても付き合える仲間や友人が欲しいという話で、孫が近所に住んでて時々遊びに来るなんてのが理想だったりする。公民館などに集まる老人会、年寄り同士の茶飲みサークルなんてのも、実は結構熱くて、ばあさんを取り合う二人の爺さんが殴りあいの喧嘩とか、老人ホーム内での会長の座を巡る選挙戦の駆け引きなんてのは、みてると学園ドラマな世界があってね。名誉云々言い出すと、歳とった経営者が突然いろんなところに寄付出してノーベル平和賞欲しがったりね、会社でも名誉会長だの何だのの役職欲しがったりあるよね。

俺なんか雑誌文化好きだから、年齢や性別でマーケットを絞りまくった文学が好きなんだけど、例えば学習誌の「小学O年生」なんてO年生しか読まないし記事も、男の子向けのカブトムシ特集と、女の子向けの着せ替え人形特集が、別々に並列されているわけでさ。小説でも小学O年生ならO年生しか出てこない物を書きたいわけだ、私は。担任の先生とか父親・母親なんてのは出てきて欲しくないし、出てきても子供文化の外側にいる敵としての存在でしかないんだけど、それだと、編集者受けしないんだよキット。テレビドラマのシナリオ系文芸誌なんか典型だけど、あらゆる年代の人が出てくるホームドラマを求めてるんだよね。サザエさん的な、三世代家族のほのぼのした茶の間での出来事なんてのを期待されてる。これから高齢化社会になって老人が増えてくるのだから、老人を主役にしたものでかつ、若者も観れるファッショナブルな物。時代劇だと老人だけだし、トレンディードラマだと若者しか観ないけど、家族みんなを巻き込んだ「ちびまるこちゃん」みたいな物が良いなぁってノリなんだ。昨年度文藝で新人賞とった綿矢りさの「インストール」だって、一見何も考えてなさそうで、ちゃんとすべての年齢層の人間を出してるんだ。主な登場人物が、小学生の男の子と女子高生とその母親と、アダルトチャットに参加してくる成人男性と、パソコンをくれたおじいちゃん。ね、ちゃんと親子三世代同時に描けているでしょ。しかも、三世代に読まれようと思ったら、三世代書くだけじゃダメで、三世代とも善人として書かなきゃだめなんだ。敵として描くと、その世代には読まれない。「くたばれ専業主婦」なんか「私おじさんの味方です」とキャッチ打ってテレビの討論番組にも出たりしてるけど、あれだと厳しい。出版社に主婦の人から苦情の電話殺到で通常の業務に必要なTELが取れない。日常の業務に差しつかえる。インストールだってアダルトチャットに参加してくる成人男性は敵としてかかれてないか?ってことだけど、あまり敵にはされてない。ああゆう人たちとしゃべることで勉強になったってな書かれ方だし、それほどほめられてないのは彼らだけなんだけど、でも成人男性はほめられなくても、女子高生の書いたアダルトチックな小説を読むでしょ。って部分も作者に読まれているわけだ。もっと年上の、老人だって、あまり描かれてないじゃんとなるけど、主人公の女子高生にパソコンをくれたのはおじいちゃんで、動かなくなったパソコンを自分のおじいちゃんのように感じてるシーンが実は延々描かれている。その動かなくなったパソコンにOSを再インストールし動き出すシーン、万能の機械のようにパソコンが活躍するシーンなどは老人に対するお世辞以外の何者でもないだろう。さらに言うと、主人公の女子高生が自分を何者にもなれない処女だと言い、その何者にもなれない処女が、OSの入っていないソフトの入っていないパソコンの比喩であり、そのパソコンが死んだおじいちゃんである以上、女子高生が遠まわしに私はおじいちゃんだと言ってる。孫娘にそう言われて嬉しくない爺さんが居るのかって話だよな。死が差し迫った老人にとって、肉体は滅びるが、名は残したい、生き残る側の人の記憶に残りたい、そういう欲望は強いわけだ。その欲望をパソコンという機械を通じてかなえているのがこの小説なわけで、親子三世代すべての人に媚を売ってるし、すべての人の欲望をかなえている。そういう小説を読んだ後で、じゃあ俺に何が書けるか?つうと俺には物を書く才能がねぇなとなって、さらに2chにでも行くと、綿矢りさに関して「やっぱ女子高生は有利だよねぇ」とか書かれてて、奴らも分かってねぇなぁと思ったりね。

2/20 新日本プロレスの蝶野選手が新日本プロレスオーナーの格闘技路線を批判する記事がプロレス雑誌に出ていていました。蝶野選手の批判は誰か個人を攻撃すると言うよりも、プロレスという競技のルールの不鮮明さに向いています。格闘技とプロレスはルールがまったく違う物で、格闘技もあれば純プロレスもあれば、格闘プロレスもあれば、とルールが乱立している中で今日のルールと昨日のルールが違って、今日はどのルールでやっているのか選手自身も分からなくなっている。ってな内容なのです。蝶野選手は不鮮明で分かりにくいプロレスのルールを何とか分かりやすくて透明な物にしようと努力しているようです。私はプロレスラーとは殺陣師であって、格闘技が強くある必要はない。と思っているのですが、ブルースリーのように格闘家としても一流の殺陣師もいれば、ジャッキーチェンのように、格闘技経験のない殺陣師もいて、別にそれで良いと思うんですね。空中を舞うアクロバットを売りにした殺陣師もいれば、演技力を売りにした役者寄りの殺陣師もいて良いと思うんですよ。

私は小説らしき物を書いているのですが、小説と言ったときに、あれもこれも入ってしまって、何が小説なのか分からない。小説のルールを明確化したいという蝶野選手的な目標を持ってしまうんですね。小説でも詩に近い小説ってのもあるわけで、詩というのは元々歌われるものであったように、音楽寄りの小説というのも実際にあるわけです。平家物語が琵琶法師に路上で歌われ演奏される小説であり、ミュージシャンのパティ・スミスは元々文学志望で自らの詩を読み上げるポエトリーリーディングがきっかけでミュージシャンになったというのが身近な例ですが。大衆文学/純文学で言えば、大衆文学が演劇で、純文学はルポタージュですよね。いまはその境界が曖昧にはなってますが、大衆文学=三人称=フィクションで、純文=一人称=ノンフィクションですね。紙の上の文学でなく、興行的な意味で文学といったとき、大衆文学が演劇・落語・漫談であったのに対し、純文は講演・討論会・シンポジュームであった。こうなったときに、大衆文学だけど漫談は一人称で、純文学だけど討論会やシンポジュームは三人称だとかややこしくなります。歌詞のある歌=詩も文学で、討論・論争も文学だとか言い出したときに、浜崎あゆみの歌から、朝まで生テレビまで文学だという話になってきて、浜崎あゆみと朝まで生テレビを”文学”というくくりで一緒くたに論じると、何がなんだかわけ分からなくなってくるわけです。三人称の純文学で典型なのがドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟で神はいるという立場と神はいないという立場で論争をするという奴でして。実際にドストエフスキーは神学論争史の資料を集める時間と金が必要だってなことを言っていたりするわけです。実際そうやって書かれたものは、資料を当たっているという意味で、ノンフィクションともいえるし、でも実際にそんな名前の人がそんなことを言ったわけじゃないという意味でフィクションだとも言えるわけです。

なにをややこしいことを書いているかというと、神学論争において神様はいるという立場にいるAさんの発言、Bさんの発言Cさんの発言・・・。神様はいないという立場にいるLさんの発言、Mさんの発言、Nさんの発言・・・。各自がバラバラにいろんなことを言うわけです。そのバラバラな発言を整理して、面白いところ重要なところだけを拾い上げていく必要があるわけです。小説・もしくは演劇にしようと思ったら、いろんな人がいろんなことを各自バラバラに発言されてもしょうがないので、神様はいるという立場のAさんと、神様はいないという立場のBさんに絞って書かなきゃいけない。神様はいるという立場のAさんを冗談の通じない真面目キャラ、Bさんをシニカルで逆説的な言い方を好むニヒリストキャラで書き始めたら、参考にしている神学論争で、神様はいないということを真面目にシリアスに言ってる人がいて、その論をBさんに言わしたいのだけれど、そのまま言わせるとBさんのキャラがそこだけ変わってしまって不自然だとか、逆にシニカルで逆説的な言い方で神様はいると言うことをいってる資料があって、これも使いたいのだけれど、それもそのままでは使えない。AとBの論争形式だと、Aの言ったことにBが反論しなきゃいけないのだけれど、手元の資料じゃ、Aの論に反論する論がなくって代わりに、Aの論と無関係だけど面白い論が載っていたり、AにRの論を言わせたいのだけれど、それをすると、Aがそれより前に言ったA'という論と矛盾した内容になってしまうとか、こうなってくるともう無茶苦茶なわけです。そうこうしているうちに、これって小説なのか?戯曲なのか?批評なのか?神学論争史という歴史なのか?神学史という哲学なのか?神学史という宗教史なのか?文献資料を引用して物を書くのは批評家の仕事なわけで、それを小説家がやると縄張り荒らしになるから批評家から嫌われる訳で、そうすると批評家に書評で取り上げてもらえなくなるから不利なわけで、では資料を当たらずにすべて空想で書いてますと言えばそれで良いのかというとそうでもなくって。

ドカベンという漫画を見てると、野球の試合があって、何か試合の流れが変わるたびに、その試合を見てる他チームの選手がコメントをするわけ。Aというチームのエースピッチャーがピッチャーの立場からその流れに関するコメントをし、Bというチームのエースバッターがバッターの立場からコメントをし、Cというチームのエースキャッチャーがキャッチャーの立場からコメントをし、Dというチームの名監督が監督の立場からコメントをする。その四つのコメントがことごとく異なっている。これが、三人称の小説だし、キャラがたってるときの討論会やシンポジュームってこんなもんです。語られる対象に動きがあるたびに、その動きに関して異なる複数の立場から、異なる複数の意見が出てくる。ところが、実際に自分の実体験を元に小説を書こうとすると、私個人の体験なんて誰も知らないし、誰もコメントしないわけです。それを、こういう立場の人ならこういうだろうとか、別の立場ならこうじゃないかなとか考えながら書いていくことで、無理やり実体験一人称を、演劇的三人称にしようとするのですが、これ、スイッチがそんなに簡単に切り替わるのかな?という疑問がわいて来るわけです。野球の試合会場のカメラから、宿舎のテレビで野球を観ているAチームのピッチャーにすぐ画面が切り替わるだろうか?漫画や映画なら一瞬で画面は切り替わります。でも、舞台の演劇の場合、すぐには切り替わらないでしょうし、短時間の間に試合会場からABCDと異なるチームの宿舎に画面を切りかえるのは無駄な動きになるでしょう。で、小説って奴の場合どうなのか?舞台のコピーとして小説を書くのか、映画のコピーとして小説を書くのか、何のコピーとして小説を書くのかで変わってくるような気がします。で、私は何を前提にした小説を書いているの?混乱を混乱のまま蝶野選手に返して今日の日記を終えておきます。

2/13 昨日買った本、富野由悠季著「キネ旬ムック 映像の原則」。渡邊さんが小説の描写に関して描写論を書かれるらしいので、私もネタを仕入れて援護射撃の振りして背後から渡邊さんの心臓ぶち抜こうかなと思っているのですが。吉本隆明のハイイメージ論で、臨死体験の映像・夢の中の映像・CGの映像の共通点に関して書かれています。1つは三つとも半透明だと。ドアがあったり壁があったりしても、壁やドアの向こうに何があるのかをその人は知っている。見えないはずの位置にあるものも認識している。1つはカメラが自由に動ける。臨死体験や夢の中で、よくベッドに寝ている自分の姿が見えるのですが、それは通常であれば鏡でもない限り見えないはずなのに、なぜか見える。これらの特徴は人間の目がみた断片的な映像が、脳に行った段階で総合的に有機的に結びついくよう処理されるからだ。今は見えてないはずの壁の向こうや自分の姿も、過去にみた映像を使っていまも見えているかのように脳が認識するのだと吉本隆明は説明しているわけです。この論はその後、具体的な小説中でカメラがどのように移動し、どのような空間認識を小説中で再現しているかについての論に移行します。

小説を読む上でも書く上でもカメラワークや映像的表現について知っていた方が良いのは当然のことで、渡邊さんはおそらくアカデミックな高尚な著作を下敷きに自分の論を展開されるので、私は俗っぽく富野さんかなと思ったわけで。この本で一番新鮮だったのは画面中、右側の位置と左側の位置では意味がまったく違うのだという話です。右から左に移動するのは自然に見え、左から右に移動するのは力強く反抗的に見える。例えば、漫才の場合、上手(向かって右)から出てきて、漫才終了後、下手(向かって左)に消えます。未来少年コナンで、飛行機の羽につかまったコナンが足を踏ん張るシーンは、右から左に強風が吹き、コナンは左から右に向かって足を踏ん張ります。スーパーマリオブラザーズは左から右へのスクロールで、吉本や松竹の新喜劇は右側が主人公の室内で、左側から訪問者が訪れます。p42「正義の人物は左から入ってきて、右から来た悪漢をやっつけて、勝ったときに左に向いて右に立ち、本当に強い人となる」p80「右から来るものは強い(左に向かうもの)=ふつう。当たり前。自然的に強い印象。/左から右に向くもの=逆行する印象があるために、その物が強いという印象。しかし、左にだけあるものは、安定と下位の印象。」

小説の書きはじめで、街全体の俯瞰から入り、ある建物の描写に移り、その建物の前に立つ主人公、主人公の上半身の動き、タバコをくわえる顔、タバコの先で燃えるライターとタバコの先の火。と描写のズームで始まるのは常套手段ですし、それが手塚治虫の映画的手法と類似している。つまり、小説は映像メディアと無関係ではないわけで。ただ描写というのはストーリーと対立するわけです。少なくとも小説においてわ。1970年代物語を敵だとして、物語を排した描写のみの実験的小説が大量発生して、その親玉がロブ=グリエと古井由吉だったと。彼らがなぜあんな物を書いたのか?しかも何故70年代のみの現象であったのか(注:渡邊さんからの指摘で、ヌーボロマンは1950年代だと判明。ただし「物語のパターンは何種類しかない」という物語論はウラジミールプロップの「昔話の形態学」初版1928年・英訳が出たのが1958年。レヴィ・ストロースの「神話の構造研究」が1955年。時期的にはやはりヌーボロマンより早い。参考文献:現代文学理論――テクスト・読み・世界 新曜社p43)。私が知ってる範囲では、ロブ=グリエの場合、映画が一瞬で多くの物を描写してしまうのを見て、それ以上に多くの緻密な描写をする必要性を小説に感じたから。というものがあります。また、古井由吉の場合。60年代の学生運動が70年代敗北した。その喪失感の表現として、無感情で無感動で無意味な情景描写を多用したという説明がありました。それは、80年代に村上春樹がタバコの本数だのなんだのを無意味に描写するというよりおしゃれなファッション化した形で引き継がれていくのですが。私が今思うのは、ヌーボフィロゾフの影響ってのがヌーボロマンの場合あったのじゃないかと。物語の構造がどうのこうのという批評の中で、物語のパターンは何通りしかないという批評が流行っていたときに、小説家としては当然、その物語のパターンから外れる物を書こうとする。そのとき物語の対立概念である描写に逃れる動きというのは当然ありえたのではないかと思うわけです。ヌーボロマンが、元々アンチロマン(反物語)と呼ばれたように、小説の物語性を極度に嫌い、物語を排していったときに描写のみが残った。物語性を嫌う理由を問うたときに思い当たる理由がヌーボフィロゾフしか思い浮かばないわけです。

日記にツッコミ 投稿者:渡邊  投稿日: 2月14日(木)02時37分53秒

ヌーヴォーロマンは1950年代後半にミニュイという出版社から
デビューした四人の作家、アラン・ロブ=グリエ(「嫉妬」1957)、
ミシェル・ピュトール(「心変わり」1957)、
ナタリー・サロート(「トロピズム」初版は1938年だが、57年に再刊)
クロード・シモン(「フランドルへの道」1960)を代表とし、
一世代若いリカルドゥー、パンジェ、オリエなどの作家(多く兼業批評家)まで
を指すので、1970年代のフランスの新世代哲学者を指す
「ヌーヴォーフィロゾーフ」から影響を受けることはあり得ないです。

ちなみにロラン・バルトらの批評活動は「ヌーヴォ・クリティーク」と
呼ばれますが、その名付け親であるソルボンヌ大のピカール教授が
バルトの「ラシーヌ論」(1963)を攻撃したのが1965年であり、
それがいわゆる「68年」を準備する「新旧論争」に発展するのですから、
ヌーヴォ・ロマンとヌーヴォ・クリティークは批評のほうが少し遅れて
同時代的に起こった現象と考えるのが妥当です。

ちなみにレヴィ=ストロースとヤコブセンによる有名な「猫」の分析が
出たのが1962年。トドロフ編訳によるロシア・フォルマリズム論集が
刊行されたのが1966年で、パンヴェニストの「一般言語学の諸問題」の刊行、
雑誌コミュニカシオンの「物語の構造分析」特集がいずれも1966年です。
年代的に考えて、ヌーヴォロマンの作家(アンチ・ロマンならばもっと)が
構造主義や記号学に影響を受けて書きはじめたとは考えられません。
むしろ逆にヌーヴォ・ロマンによって影響を受けた批評家や読者が、
新しい批評原理を探ったところに
「ヌーヴォ・クリティーク」が生まれたとさえいえるかもしれないですね。

補遺。 投稿者:渡邊  投稿日: 2月14日(木)02時51分48秒

ちなみにいわゆる「ヌーヴォ・ロマン」の作家のデビューそのものは
1950年代の半ばです。(ロブ=グリエなら1953年の「消しゴム」がデビュー作)
「ヌーヴォ・ロマン」という言葉が話題になり、一種の運動をかたちづくったのが、
1957年の「嫉妬」発表後の彼の論争であり、
それが1963年に「新しい小説のために」(新しい小説=ヌーヴォ・ロマン)という
タイトルでまとめられ刊行されたので
「ヌーヴォ・ロマン」という呼称が浸透したわけですね。

まじめなことばっか書いててもつまらないので、眼鏡とセックスについてでも。眼鏡とセックスというのは非常に重要なテーマで、かつて秋元康は女の子とセックスするとき、どのタイミングで眼鏡をはずすかが難しい。と言ってました。眼鏡をはずすと「さぁやるぞぉーーー!」という気合いを入れているようで女の子が引いてしまう。でも、かけたままやると、女の子の上に乗って、上から相手の顔を見つめたときに耳元で眼鏡が「ぷらーーーん」とぶら下がるのも間抜けだと。これは非常に難しい問題なわけです。出来れば天井からひもか何か降りてきて、釣り針みたいなもので眼鏡を引っ掛けて、自然と眼鏡が外れるような仕組みになってくれないかと思う。という秋元康。天井からフックの付いたひもが降りてきて、自然な動きでもってそれに眼鏡を引っ掛けてはずすってのも、コントならともかく、現実にはかなり間抜けな映像ではないかと思う。女の子がシャワーを浴びているとき、もしくは自分がシャワーを浴びるときにはずす。という一番無難な答えに終わっている秋元さんですが、ちなみに円広志さんは眼鏡をかけたままやるそうです。

フェチの中でも眼鏡フェチ・ブーツフェチといったコスチューム系の人に対して、「そんなのは、どーせセックスするときには脱ぐんだぜ。それも分かんないような恋愛経験しかしてないから、変な方向へ走るのだよ」という批判はたびたび聞きます。ただ、これはね、ナースやセーラー服とコスチューム好きな人いっぱい居るでしょ。イメクラでナース・セーラー服・スチュワーデスに走る人は、セックスするときには服を脱ぐということすら知らない浅い人達なのか。どうもね、違うと思うんですよ。ブーツフェチの人は自分の部屋土足可だったりします。眼鏡フェチの人はいかに眼鏡を外させないかにかなり神経を使っています。服の中には眼鏡をはずさなきゃ脱げないTシャツ系のものと、眼鏡をはずさなくても脱げる前ボタン系の物があります。はずさなきゃ脱げない服の場合、脱ぐ必要はあるのか?という方向へ走ります(この辺りから引く人続出だなキット)。シャツなんか脱がなくても良いじゃん。という方向に走るのはコスプレフェチの基本なのですが、万一眼鏡をはずした場合。どうすれば、自然に眼鏡を掛けさせることが出来るのか。これは一つの重要なテーマです。「眼鏡をかけて」とは中々言えないし、黙って眼鏡を掛けさせるってのもかなり不自然な動きで気持ち悪がられる。眼鏡を掛けさせるという意図を悟られないようにいかに自然に眼鏡を掛けさせるのか。このことに苦心している友人の話で笑ったのが、ベッドに二人で寝転がった状態で、離れた位置にあるテレビを付けて、小さい音量で二人でテレビ鑑賞。小さい字で字幕スーパーが出る手話ニュースか洋画系がお勧めだとか。他にあったのが、カーテンを開けて夜景を眺めるって奴で。「あのビルの看板、なんて書いてある?」などと思いっきり不自然な会話に突入、言った後妙に気まずくなったってのは泣きました。カーテン開けて星空だったらまだ普通なのに、遠くの看板の文字読ませるか普通?

コスチューム系のフェチの人ってのは、風俗行くのだったら、イメクラじゃないですか普通は。でもね、ソープとか行っちゃった場合。これが悲惨なんだよね。ああゆう店ってのは大抵組関係者が何らかの形で関与してて、万一女の子に乱暴したりするお客さんが居たらまずいから、用心棒みたいにして怖い人達が別室に居るわけだ。ソープランドって基本的に、こう、お風呂になっててという設定じゃないですか。お風呂でブーツはいている人とか、眼鏡かけている人ってのはあまりみない。風呂の中でブーツはいている人。少ないよねぇ。そこに私の友人がブーツの入ったボストンバッグを持って入っていった。かばん持って風呂に入る人ってのもあまりいないんだけど、彼はどうしてもブーツを履いた女の子じゃなきゃ嫌だったんだな。ブーツも合う合わないがあるから、4足ほどタイプの違う物を持ち込んで、革が痛まないよう耐水スプレーや保湿用のグリスやブーツを磨く布や、そのブーツを履く女の子の為に気を使って消毒液やなんかも、かばんに入れて、風呂に入ったわけだ。結構大き目のボストンバッグがパンパンになってて、それを持って入った地点で女の子は引いてるんだけど、さらにバッグから、ブーツと、ブーツのメンテ用の薬をボトルごと出して、靴や薬の説明をし始めた地点で、他はみんな引いてるんだけど、一人面白がってくれた女の子いてさぁ。その子を指名してブーツ履いてもらって風呂入ったんだって。そしたら、風呂にブーツの油浮いちゃって、風呂全体がお湯も浴槽も赤茶色に染まって、部屋に革特有の変なにおいが充満して大変なことになったんだって。その臭いに気づいた店長が奥から怖いお兄さんたち呼んじゃって、刺青系の方に取り囲まれた彼は別室に連れ出されちゃったんだよね。一応、奥の部屋で話したら悪気はないのは分かってもらえて、開放されたんだけど。ただ、「革自体は水分吸って手触りが滑らかになって、結構気持ち良いんだよ」ってそいつは言うんだけど店としてはそんなの通らねぇーわな。

ワイヤレスインターネット株式会社が月額1980円で2Mbpsの常時接続サービスを開始。 日米の電話料金比較 ケーブルテレビインターネットの料金が常時接続で月2000円 アメリカの場合、ケーブルテレビが普及しているから、この値段が標準らしい。それに比べて日本は一分いくら、10秒いくらの話ばっかで、常時接続計算すると三万とか五万とか普通に行っちゃうのね。第二電電が入ってちゃんと競争行われて安くなって入るんだろうけど、ODNの常時接続が二万二千円だし、KDDIも二万二千円だし。NTT東日本のフレッツISDNの常時接続で月2800円で、電話の基本料・プロバイダー料別。電話の基本料金が普通1750円だけどISDNだと2,830円、電話代が2800で済むのかと思ったら5630円かかって、ADSLの方が得であるらしい。ちなみに私はHI-HOで月1800円の固定だから、合計で7430円。ちょっと前まで平気で、4・5万行っていたから、安くはなってるんだろうけど。YahooBBがプロバイダー料込みで2280円というのも魅力だよなぁ。でも常時接続はウィルスが心配だぁ。回線の速度を測るHPがあるのだけど、ISDNで128k出てるはずが、実際にはアップロード35kbps、ダウンロードが30kbps。遅せぇーー。

2/10 いまのBGMブリッジ。歌謡曲と言われりゃそう聴こえんでもないけど、バービー人形とサンダーバードとフィフティーズみたいな、日本から見たときのアメリカ幻想orカリフォルニア幻想を山下達郎とは違う意味でみせてくれている。

もう一個のBGMはZIGGYのNICE&EASY。このアルバムのプロデューサーは日向大介(Ex明日春がきたらsong by松たか子)さんなんだよね。日本のハードロックバンドとしては、ラウドネスやXやB’zと比べても、最高級の出来だと思うんだけど、その割には商売としてあまり成功してなさそう。メジャーデビューしてシングルが3枚連続大ヒットして、アルバム出して、一番稼ぎ時に半年休んで復活後すぐにメンバーがVo&BとG&Drに別れてバラバラになってしまったのが痛いのか、もしくは、Beingブーム時にZARD・WANS・ZYYG辺りと区別つかないバンド名だったのが悪かったのか。個人的に思うのは、ZIGGYの良さってのはハードロックなのにTVで流しても違和感のないPOPさだと思うんだけど、CMソングにしようと思ったら、商品を売るのがCMだから物質文明礼賛の歌詞じゃないとダメなんだよね。ZIGGYってよく聴くと、貧乏なその日暮らしの旅芸人の歌が多いわけ。反物質文明のヒッピーソングが多いんだ。さらに言うと、半年間の休暇に入る前のライブビデオ見ると、タイアップ無しのシングルカットしてないアルバムの曲をものすごく一生懸命演奏して、お客さんあおったりしてるんだけど、いまいち客が乗ってなくって、ラスト3曲シングル演奏するとき、バンドメンバー全員やる気なさそうにダラダラやって、客席がものすごく盛り上がっているってのを観た事あるんだけど、あれみたとき、なんとなく、このバンド解散するなとか思ったもん。小室哲哉さんなんかはその辺割り切ってて、シングルカットされてないアルバム曲なんかライブでやってもどうせ誰も知らないんだというあきらめがあるんだけど、なまじっか一生懸命アルバム曲演奏して、それでもダメで、シングル曲手を抜いてるのに客席盛り上がってて、その盛り上がりを嫌そうな顔して眺めるバンドメンバーって、プロとしては青いなぁとか。

物質文明礼賛の歌詞って話をすると、ニューミュージックの何が嫌だって、物質文明礼賛の詞がすげー嫌なんですけど、山下達郎や竹内まりやはそれほど嫌いじゃない。なぜだろうと思って、歌詞をよく見ると、松任谷由実と同じリゾート地にいて、同じリゾートミュージックをやっていても、ほめる対象が商品でなく自然をほめてるからなんだな。松任谷由実って、元々四畳半フォーク批判で出てきてキャッチコピーが「貧乏は嫌いだ」だったですからね。「ルージュの伝言」「飛行機雲」タイトルだけみても物をほめてるじゃん。飛行機も口紅も人間が作った人工物で商品なわけだ。それに対して、山下達郎=大滝詠一って髪形見れば分かるけど元々ヒッピーだったわけだ。反物質文明の側にいて、実際にはCMソング作ってるし、リゾートミュージック作ってるんだけど、タイトルだけ見ても「高気圧ガール」に「君は天然色」ですからね。人工色や物質文明じゃダメなんだ。女性を自然に例えて、ヒッピーの自然崇拝を女性崇拝のラブソングに転化している。リゾートとか旅行なんて典型的な金銭浪費型の娯楽で、ほんとは物質文明の側にあるものだと思うんだ。ただ、山下達郎と松任谷由実が同じリゾート地に行って、同じホテルに泊まっていたとしても、達郎はそのリゾート地の自然を賛美して、松任谷由実はホテルや高級車をほめるんだよ。達郎のリゾートミュージックは視点がバックパッカーやヒッピーの放浪生活につながっていくんだ。達郎のCDの売り上げと、松任谷由実のCDの売り上げと、日本の経済指標みたいなのをグラフにしたら、バブル期に売れるのが松任谷で、不況期は達郎ってのがはっきり出ると思うんだ。

2/7 メフィストという文芸誌で小松左京氏と東浩紀氏が対談していた。メフィストというのは推理小説専門の文芸誌で、いま一番教養主義的な文芸誌なんだ。

メフィストの最後にメフィスト賞に送られた小説に対する感想会みたいなのがある。メフィスト賞は400字詰め原稿用紙300から350枚以上の推理小説を書いて送り、見込みがあれば出版されるというもので。そこに送られる小説に対する座談会みたいなのを見てると、毎週新作を送ってくる16歳だの、17歳だのがうやうじゃいる。35歳で、「見込みがないなら早めに言ってください。真面目に就職活動をしないと、お金がありません」とか手紙が添えてあるとか、プリクラ写真を貼った女子高生からの投稿で、「結構可愛いよねこの子」とか、まあ、すごい世界なわけだ。私はシャーロックホームズやルパンや怪人二十面相は多少読んでるが、新本格派は島田荘司氏のものを一冊読んだぐらいであまりよく知らない。たぶん、メフィストに送られたり掲載されたりしているのは、新本格派なんだな。投稿作へのコメントを見てて分かるのは、新本格派の小説の構成は、最初に殺人事件があって、次にある特定のオカルト的なウンチク、もしくは学術的なウンチクを延々述べて、最後に探偵が論理的にトリックを暴く。という形になっている。で、編集者の採点基準としては、そのウンチクのオリジナリティーとトリックの斬新さ&論理的整合性なんだな。要するに、シャーロックホームズの長さ(原稿用紙50枚程度)でトリックのネタ振りと論理的解決ができてしまうので、残り300枚程度はウンチクで固めるわけだが、そのウンチクが占星術・陰陽道・黒魔術・ムー系のオカルト科学だったりするわけだ。ハードボイルド小説だと、酒やタバコやバイクや銃にかんするウンチクが色々述べられる。それと似たような物だと思う。私が思うのはそのウンチクの情報源はどこなのか?ということで、ハードなSFだと、書いているのが大学教授で、内容の三分の二が自身の研究論文と同じ内容で素人が読んでもまったく理解できないとかあるわけだ。そういう大学の研究者が自分の研究成果を論文以外に小説形式でも書くというスタイルだと、ウンチクはオリジナリティーの高い物になると思う。逆に、どこかの研究者が書いた論文の丸写しだと、小説のほとんどは研究書のコピーなのかという話になる。もちろん、難解で専門的な論文を分かりやすく読みやすい文章への加工しているなら、それなりに意味のあるウンチクになるとは思う。編集者の人にダメ出しされるウンチクの典型は他の新本格派推理小説を情報源にしたウンチクだろう。それだったら、元の小説を読んだ方がましだという話になる。最低原稿枚数が300〜350で毎週新作を書いて送ってくる高校生ってのもすげーなと思いがちだけど、トリック以外のウンチクが他の本からの引き写しだったら、一日50枚ワープロ打ちすれば良いんでしょ?それなら出来るという気がする。

一応、大衆文学というジャンルにあるとされる推理小説、その推理小説の専門誌でありながら一番教養主義的だという理由は、分かってもらえたと思う。私自身は教養主義を嫌いだったりする。あれ?ニューアカも教養主義に入るのか?だったらあれだ、その・・文学的な教養主義が嫌いだったりする。ここでいう「文学的」というのは、浅田彰氏が「構造と力」で文学的テクスト派を駆逐しようとしたというような意味の文学的だ。一つの抽象的な論理を提示すれば済む物を、具体例レベルで見た目を変えて同じパターンを延々変奏するような文学的教養主義が嫌いだ。教養主義というのは司馬遼太郎の歴史小説や、科学寄りのハードSFや、新本格派の推理小説や、夏目漱石・太宰治が描くメロドラマの世界にも多々ある。もちろん、教養主義の中にも良質な物もあれば悪質な物もある。

東氏はその教養主義的なメフィストの中で、教養主義の代表として小松左京氏を呼び、小松左京=教養主義=モダンvs東浩紀=教養主義批判=ポストモダンというテーマで、対談を進めようとする。実際には論争形式でなく、お客さんの小松氏を最大限もてなす主人の形式で進み、小松氏の小説の中に出てくる科学的知識や日本人論を聞き出し、広告する。

私が興味を持ったのは東氏の迷走ぶりに関してだ。第二次批評空間が終わった頃、柄谷氏がアメリカに行き、消費者運動を起し、大衆向けの文章を書き出した。1980年代多くのニューアカ論陣が面白主義に走る中、一人ハードなアカデミニズムを守り抜いた柄谷氏の穴を埋めるのは東氏だと私は思った。けれども実際には違った。東氏は「郵便的不安たち」で伝えるべき内容はあるが、それを読者に届けるだけの影響力を持たない柄谷=アカデミニズムと、メディアヘの大量露出で影響力はあるが内容を作りあげられない福田=ジャーナリズムの分裂を嘆いて、自分はその両方をクリアするのだと言っている。量と質の両方をこなすのは理想論としては正しいが、それが出来ないからみんなその片方を選んでいるのが現実だろう。80年代、アカデミニズムの外側にあれだけ豊富な誘惑があったにも関わらず、アカデミニズムの牙城を守リ抜いた柄谷氏が東氏の話に共感しないのは当然だ。ただ、東氏のデリダ論をみれば批評に対し懐疑的になる東氏の気持ちも分かる。言葉が元々の文脈を離れて引用されるとき、元々の意味とは違う意味を持ってしまうというデリダ論は、古典作品の引用と解釈によって成立する批評の形式に対する疑念になる。単なる権威付けのために、持論に都合のいい古典から、都合のいい箇所を抜き取っているだけじゃないかという疑いになる。かといって、引用無しに持論を展開するとその持論の根拠が見えなくなる。「動物化するポストモダン」では東氏は引用を極端に減らしている。もしくは権威のない、アニメや恋愛シュミレーションゲームなどからの引用を駆使している。個々の専門分野が有機的に結びついた教養=モダン=小松vs瑣末な実用知の断片が錯乱するポストモダン=東という図式を東氏が出したとき、立場上モダニズムと対立しつつもモダニズムに教えを請おうとする東氏を見て、小松氏のバックに柄谷氏をみてるのだなぁと思った。

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