HP管理者日記3

9/5 いまBGMが大滝詠一のイーチタイムちゅう、昔の自分だったら絶対に聴かないような奴なんだけど。アイドルポップスやニューミュージックのお手本的な曲が多くて、好きか嫌いかって言われると嫌いだけど流れてると楽って感じで。このCDの面白いところって、深い挫折感に裏打ちされた大人のラブソングが多くてね。この挫折感って奴は大滝のどこから来るんだろってゆう部分で。このCD出た頃って大滝が頂点極めてたときで地位も名誉も手に入れた人が、挫折感を歌ってるねんな。

一つは大人に特有の挫折感ってので言うと、自分には未来がないという残された時間に関するものと、いま成功したところであの時の失敗の埋め合わせにはならないんだって部分とあって、

8/12 「存在論的、郵便的」の続きで、俺がこの本に関して一番気になったのはどういう文体で書いたのか?って事で、結論から言うと、文体がまったく見えないってのが本音で。哲学書ってのは小難しい本の代名詞だけど、実際には優れた哲学者はみんな分かりやすく書こうという努力をしている。にも関わらず難しくなってしまうのには理由があって、優れた哲学者ってのはオリジナルな概念を感じとって、そこから独自の思想へたどり着くことが多いんだけど、独自の思想や独自の概念って言葉で表現するのは非常に難しくなる。

江戸時代の鎖国していて牛肉を食べる習慣のなかった人に「ハンバーグ」を説明するのって難しい。言葉の受け手が経験してない単語というのはどんな一般的な語でも伝えるのが難しいわけ。雪を見たことのない南国の人に「吹雪」を説明するのは難しいし、極寒の地に住む人に「日射病」を説明するのも難しい。肩がこったことのない人に「肩こり」を説明したり、のんびりやさんに「あせる」という言葉を教えるのも難しい。ごく普通の物の名前さえ、その物を見たことのない人に教えるのは難しいのに、感情とか概念になると手におえない。「3」とは何か?と聞かれて、3つの石ころや3本のボールペンならともかく、「3」その物を持ってきて「これが3です」と渡すことは出来ないし、仮に3本のボールペンで説明したとき、「このボールペンが3なのだ」という誤解を生む可能性もある。常にのんびりした人に、焦燥感って何?と言われたとき、一般的な焦燥感の意味、辞書に書いてある焦燥感の意味を言っただけでは、焦燥感の意味を伝えたことにならない。その常にのんびりした質問者のいままで生きてきた経験の中から焦燥感に駆られた経験を話者が言い当てて質問者の中で再現させなくては焦燥感の意味を言い当てたことにはならない。

独自の観点から独自の概念を感じ取り、独自の思想を語ろうとする哲学者の言葉が難しくなるのは、しょうがないと言えばしょうがないことだと思う。でも、みんなに伝わる言語で書こうという努力はするわけ。ある思想家さんの場合、難解な内容を伝える場面でも極力、難解な語や専門用語を使わないでいこうとしていて、「ツーツーからのピッチャー第5球目、投げたぁーバッター空振り三振!」というところを、「ツーツー」は一般の野球を知らない人は分からないから「ツーストライク・ツーボール」と書きましょう。ストライクやボールも野球の専門用語で分からない人も多いだろうから、「打ち返す義務が発生するところに球が行った」と「打ち返す義務が発生しないところに球が行った」と言い替えましょう・・てな具合にしていって「打ち返す義務が発生するところに二回と打ち返す義務が発生しないところに二回球が行った後の五つ目の球、球を投げる役割の人が投げたぁーー、木の棒で球を叩いて打ち返す役割の人が打ち返そうとして振ったけど球にあたらなくて3回目の失敗、みっつ合わせてペナルティー1」なんて書き方しているわけ。確かに専門用語使ってないし、ある観点から見れば分かりやすくなってるけど、別の観点から見れば明らかに分かりにくくなってたりするわけ。

浅田彰さんなんかはその辺ガンガン専門用語使って書いちゃうわけ。差延でもディコンストラクションでも鏡像段階でも、この程度の用語は知ってて当然って感じでガンガン使う。それは、そっちの方がむしろ分かりやすいという考え方やね。ベースボールマガジンの本文に「ツーツー」という用語が出てきたからといって「注)ツーストライクツーボールのこと」とは書かないでしょう。逆に「はじめての野球」とか「野球入門」とかいう本だと注が付くかもしれない。そのへんの役割分担とか住み分けってのがあると思うんだけど、いまいち東さんの場合ポジションが見えにくかったりする。

8/7 気が付くとさ、20代後半なんて年齢になってて、もう良い歳した大人なんだけどさ、周りには結婚して子供いる同級生とかいるけどさ、いまだにフリーターしてて将来のビジョンも無くって、子供の頃考えてた大人とはほど遠い大人になりつつあるんだけど。なんちゅうかね、むかしは親父が「俺はおまえ等を食わしていくために一生懸命働いてやってんだぞ」的なこといってるの聞くと「アホかこいつ、俺はあんたじゃなくて、あんたが所属してる社会のシステムに食わしてもらってるんだ」とか思っていたけど、この歳になってみると、その社会のシステム(例えば会社員)に所属するのも大変だとか、思い出してきてね。肉体労働系の日雇いしてたときに、同じく日雇いしてた40前後のおっちゃんがいて、自分は13時間労働の日給1万だったんだけど、そのおっちゃんは1日5時間働いて5600円だったのかな。寮に入ってて社員食堂で一食400円。生活費はただ同然だけど、日給五千円じゃ妻子養えないし当然独身なんだけど、2ヶ月ぐらい働いたら五千円でも20万ぐらいになるわけだ。その金持って2週間ほど発展途上国行って風俗やなんやで豪遊して帰ってきてまた働くみたいな生活してる人で、「俺はいつかポルノでノーベル文学賞取る」とか言ってたな。人相は中上健次に似てたんだけど。そういう、一生妻子持たないような人が日雇いしてると普通にいっぱいいて、ほら、子供の頃って、自分の友達の親ってみんな家庭を持ってたりしたやん?それが、普通やと思っていたけど、日雇いしてると、上に書いたようなおっちゃんが普通やったりして、俺もそうなるのかなとか思ってきたりするわけやん。

そんなん嫌や思って、会社員になろうと思って就職活動したけど、まあ、俺みたいな奴を取ってくれる所が無いまま3・4ヶ月過ぎて、やっといまのところで1年契約とはいえお世話にならしていただいているのですが。いつの時代でも、若者の雇用を大量に確保する業種ってのがあるわけだ。例えば、ランボーの時代だと奴隷商人とか(笑)、俺らよりちょっと上の世代だと予備校教師とかね。いまだとやっぱりSEでしょとか単純に思ってたわけだ。してそっち方面の就職活動もちょこっとしてみたりもしたわけだ。具体的には「きどりっこ」ってバンドの方とか、「ショートカット」というレビュー誌の方とかが、SEされてて、なんとなくカッコイイなと思ってたわけだ。

正直、プログラマーとネットワーク管理者とSEはまったく違う職業だなんて言い出したときの狭義でのSEがどういったものかはよく知らないけど、要するになんか時代に乗っててかっこいいぐらいに思ったわけだ。俺みたいに新卒でなく歳食ってて技術も無い奴の場合、派遣でWinNTの再インストールやVBぐらいから始めるのだけれど、当然そういう技術を身につけるのは自宅で私用機使ってという話になる。会社が教えてくれたりとかは無いわけだ。で、当たり前のようにハードは3ヶ月ごとにバージョンupして、ソフトも2・3年ペースで新しくなる。最新の技術が欲しけりゃ自分の金で最新の機械&ソフトを買って、仕事以外の時間を使ってパソコンをいじり倒さなくてはならない。DOS/V・Win・Mac、ユニックスだリナックスだつって、広い知識と技術を身につけるやり方も一つにはあるけど、それらの機械とソフトを全部自分で買って触って常に最先端で居続ける費用を考えると、いずれかのジャンルに絞って専門化するという戦略が必要になる。そうすると、自分はなにをやりたいのかという疑問を突き付けられる。低い技術でかつ、そこそこ求人があるのがWinNTの再インストールとエクセル&VBでソート(検索・並び替え)のプログラムを作るやつだが、そんなことして楽しいのか?より上の技術を自分の金と時間を割いて身につけるとしたら、何をやりたい?DTPオペレーターとかHP製作の仕事とかカッコイイイメージあるけど、実際にやってる人の話聞くとそんなに面白いものでもなさそうだ。デザイナーでなくオペレーターってとこがポイントなんだけどね。

「何をやりたいのか?」を就職活動なんかをすると嫌というほど聞かれる。技術を身につけたい、資格が欲しい、自分の能力を高めたいなんて事を言うと、「技術や能力のある奴なんか金で雇えるんだよ。HTMLやVBぐらいなら、学生でも出来る奴わんさと居るよ。コンピューター系の専門学校の卒業生が年に何人出てると思ってるんだい。技術の無い正社員雇うより、JavaやCGI組める東大の学生バイト雇う方がどれだけ安いと思ってるんだ。そうじゃなくってどんなサービスを提供したいんだよ。いまこの業界の提供しているサービスにどんな不満を持ってて、どんなサービスを提供したくて、それのためなら低賃金で睡眠時間削れるってのは、おまえにとって何なんだ」ってことを聞かれるわけだ。「あのね、俺、ミュージシャンになりたいとかお笑いタレントになってゴールデンに自分の名前のついた冠番組持ちたいとか言ってるんじゃないの。普通に安定した生活をしたいのであって、これのためなら命かけれるみたいなもの持ってる奴は就職活動しないでしょ」なんて言えるわけも無く、まあ、アレだ。大人ってのは会社に属してれば一生安定した暮らしが出来て妻子養っていけると思ってたけど、「これのために生き、これの為に死ねるbyキルケゴール」なビジョンなり何なりを持ってないと、仮に会社員になれたとしても、会社員で居続けることは出来ないってことですね。

ここでいうビジョンとは何かってことだけど、例えば「クロネコヤマトの宅急便」。あれなんかビジョンだし信念だよね。元々、個人向けの宅配ってのは郵便局とか国鉄とかが独占でやっていたわけだ。国の事業だから、一般の業者がそこに参入できないような法律だの条例だのがいっぱいあったり、日本全国津々浦々の物流ネットワークなんかも私企業より全然早く整備されてて、普通に考えるとそれを切り崩すなんて出来ないんだけど、法律や条例改正させてね、例えば運送業者のトラックの許認可が地域ごとに下りてて、ある地域で運送業務の出来るトラックが別の地域では出来なかったりとかあったんだけど、その辺の許認可や行政手続きを一元化させたりとか、小包みなんかでも先行業者である郵便局より簡易な梱包で受け付けるようにしたりとか、スキー宅急便やゴルフ宅急便といったCMで新たなニーズを開拓したりとか、あるわけだ。

一見同じように見える運送業者でも、ある業者は個人向け宅配専門で片手で持てるようなサイズ&重さのものを中心に運んでいて、仕分けは全部バーコード自動読み取りのベルトコンベアーで、コンベアに乗らないサイズ&重さの物は引き受けられないとか、ある業者は企業向け宅配専門でサイズ的には両手で運ぶダンボールサイズですべて人間の手作業による仕分け、当然手間やコストはバーコード自動読み取りよりかかるけど、コンベアに乗らないようなもの、人の手じゃ重くて運べないものでも、プラッターやフォークリフトを使って運べるとか、色々企業ごとにカラー・ビジョンがあるわけだ。梱包してない家具とかをそのまま運んでくれる引越し業者なんてのも一つの方向性だし。荷物到着後、設置配線までしてくれるAV・パソコン機器専門業者とか、調律までしてくれるピアノ専門の運送業者とか紫外線対策から湿度温度管理までしてくれる美術品専門の運送業者とか、運送業一つとってもビジョンなり何なりがないと出来ないわけで、でも、俺には何にもビジョンがなく、かつ小中高と12年間受けてきた教育ってのは、そういうビジョン(他者との差別化)なんてのは考えずに与えられたことを何の疑問も持たずにこなしましょうってものだったような気がすんだよな。って、また他人のせいにして終える。

8/4 「存在論的、郵便的」の宿題が残りつつ、この宿題が困難で困ってんですね。まず、自分の立ち位置を確認しとくと別冊宝島の「現代思想が分かる本」ちゅう、竹田青嗣・小坂修平・西研さん(ヘーゲル平らげ研究会のメンバーでオルガンという同人誌で活躍されていた。一部にオルガン学派ちゅう呼び名もある。)共著の入門書から入って、浅田彰カッコ良いぜ!ちゅうミーハーノリになって、柄谷に行く。ちゅう流れで読んできたんで、元々、竹田青嗣・木田元の流れで独仏系の実存哲学(認識論)は多少用語が分かるのですが、英米系の分析哲学(言語論)は用語からして分からんかったりしてですね。柄谷経由でクリプキの固有名論をちょっとかじっただけですもん俺。

デリダってのは「言葉は通じない」ちゅうことを言葉で言った人で、竹田青嗣の流れで言うと「サブレベルからメタレベルを批判できない」とひとこと言って終わりって話です。つまり、言語全体(メタレベル・上位レベル)のうちの一部である言葉(サブレベル・下位レベル)を使って言語全体を批判しても、その批判(言語全体に対する批判)の中にその言語(言葉は通じないという言葉)自体も含まれる。とゆう話です。デリダの仕事ってのは、言語が正確に伝わらないパターンをいくつか提出して、分類していくって作業です。ですから、「言葉で言葉批判されてもなぁ」なんて一言で片付けるのは、デリダを読む大前提を否定することになるから、まずちょっと置いときましょうやってことで。

言葉が正確に伝わらない状態を仮に誤読と呼ぶとして、話し言葉の誤読として「どこに違いがあるだろう?」と誰かが言ったとき、「どこに違いがあるのか教えてください」と言ってるのか、「どこに違いがあるっていうんだい?まったく同じじゃないか」と言ってるのか分からない。というのを一例としてあげている。もう一つ、書き言葉の誤読として、「この先危険」と書かれた看板が、その場所から離れて100年後別の場所から発見された。なんてパターンもある。話し言葉の誤読は、おもに疑問文が、回答を求める疑問なのか同意を求める付加疑問なのか分からないというところから出ていて、書き言葉の誤読は特定の文脈から離れて別の文脈で引用されたときに、引用された文がまったく別の意味を持つってパターンだ。

そういう誤読のパターンをいっぱい提出して分類していくのが分析哲学だってことは分かった。そうやって誤読のパターンを提出して分類すれば、どうすれば誤読=誤解のない文章を書けるかが分かってくる。なるほど分析哲学って建設的で実用的な言語論なんだな。と思うと、そんな考え方はダメだとデリダ(この本の中の)は言うわけだ。誤読のパターンを提出して分類して排除ってのがこの本で言う否定神学システムだけど、それは誤読のパターンを提示することで結果的に誤読のない文章が出来あがるはずだ。という話になる。誤読のない文章はありえないってことをデリダは証明するんだけど、それは竹田青嗣に言わせると「解決策のない問題提起」「解決策のない現状否定」になるわけだ。いきなり言葉は通じないって言われても、「じゃあ、明日からしゃべるのやめますか?んんんなわけにも行かないでしょ。」ちゅうことで。

デリダにしてみれば「言葉は通じるはずだ」もしくは「誤読のパターンをきちんと研究すれば誤読可能性の低い文章を書けるはずだ」なんてのは神学=形而上学じゃねぇーかって話なんだな。明らかに言葉は通じない。にも関わらずそれを口にするとネガティブだとか解決策示せとかいう奴がいるってのは、「神様なんていねぇーよ。」なんて言うと困る人がいっぱいいて、人の見てないところで善行行ってる人とか努力してるのに報われない人を救う神様が存在すると思った方がポジティブだろと言ってる中世時代の人と同じだって話なんだろうなきっと。デリダ的には言葉は明らかに通じないけど、話し続けるし書き続けると。・・・・んんんんん正直、この本まだ完全に読み切れてないし、読んだ部分も身体化されてないし、ましてデリダの著作って一冊も読んでない。でも、他にスターリン言語学だの隆明だのの宿題もあるんでこの辺で勘弁してください。

8/3 「アイドルポップスは敗北者達のゲームだ」とどこかの誰かが言ってたけど、そのゲームがいまさらのように好きだったりする。ザ・ベストテンとザ・トップテンはよくパクリ番組みたいに言われるけど、全然違う。ベストテンはアイドル賞賛番組でトップテンはアイドル批判番組だ。司会の面子を見れば分かる。久米宏&黒柳徹子と島田紳助&和田あきこ。前者は伝統的なメロドラマの形式をとっている。久米宏と黒柳徹子が夫婦で、浮気相手の女性アイドルが出てきて、黒柳徹子がまずゲストの女性アイドルをほめる。久米がそのアイドルにぞっこん、アイドルをほめるとき、その対比として古女房の黒柳を使い、黒柳をけなしてアイドルをほめる、して黒柳がそれに反応して「ひどい」と久米に詰め寄り、浮気相手役のアイドルは久米を捨てて歌のスタンバイに行き、夫婦役の二人はまたもとの生活に戻る。浮気相手役の女性アイドルは次から次へと日替わりで出てくるが、夫婦役の二人の位置関係はそのたびに揺れるが、1話終わるごとにまた元に戻るため長い目で見ると同じ位置関係のままいくらでも長くシリーズ物を続けることが出きる。

対するトップテンはベストテンの対抗馬として他社が後発で作った番組のため、類似してるが独自の主張を持っている。流行り物・時流に乗ったタレントを極端に嫌う和田アキコをメイン司会者に付け、毒舌で鳴らす紳助をそのサポートに付けるというゲスト泣かせの司会陣。司会の仕事はメディア露出が増えたいま売り出し中の人気者の出鼻をいかにくじくか、調子にのってるその鼻をいかにへし折るかにかかっている。これだけではゲストが不利なので、客席にゲストアイドルのサポーターを何千人も入れて、その客席を映す。客席をゲスト寄りにしてその客席の反応を頻繁に映すことでカメラはバランスを取る。コメディアン島田紳助としては、出演ゲストのファンを相手にそのゲストをけなして、笑いを取らなくてはならない。いまで言う、ポップジャムにおける太田のポジションだ。その難しい立ち位置でよく使われた笑いのパターンが、ゲストを散々ほめた後、「でもそれ、**さんがやるからカッコ良いんですよ。同じこと俺みたいなんがやるでしょ。」と言って物まねらしきものをカッコ悪く演じて見せて笑いを取る形式。男性ゲストのときはゲストをネタ振りに使って、自分でオチで良いけど、女性ゲストが難しい。女性ゲストをほめた後、和田アキコでオトさなあかん。プライド高い和田アキコがそれを良しとするはずがない。女性ゲストを口説いて、ナンパの失敗談形式で笑いに持っていこうともするんだけど、これがまた、口説かれた女性ゲストが無反応でオチまで行けへんってのが多くあった。ベストテンの場合、久米に口説かれた女性ゲストが無反応でも、久米が必死になって口説いている女性アイドルが、スタッフの「歌のスタンバイが出来ました」の一言で去ってしまう。それがオチになっていた。

ベストテンの第1回放送で当時ナンバーワンアイドルだった山口百恵のミニスカートの中に久米が手を入れたっちゅうのが、伝説になってるが、それを黒柳徹子に糾弾されて言った久米のセリフ。「いえ、パンツの中には入れておりません」がイカしてた。

ベストテンの場合、男性ミュージシャンの扱いがむづかしかった。男性アイドルが出た日には久米は絡まないし、黒柳はほめまくるけど、オチにも笑いにもたどり着かない。これが、ロックミュージシャンだとまた違う。リーゼントに革ジャンの横浜銀蝿みたいなのが出ると、黒柳徹子が涙流しながらカメラに叫び訴える。「みなさぁーーーん。この子達は本当は良い子なのよぉー。こんなカッコしてるけど、みんなに誤解されてるけど、ほんとは純真な良い子なの。」突然叫ばれて困り果てるミュージシャンの脇で、黒柳はロックミュージシャンにカラむ。「ね、本当は良い子なんでしょう?ほら、こんなサングラスなんか取って(と言いながら強引にサングラスを外す)、ほらこんな純真な目をしてるのよぉーー(と周囲に涙を流しながら訴える)」。ミュージシャンサイドのイメージ戦略とか企画の意図をまったく分かってない天然ボケにスタジオ騒然ブラウン管のこちら側では爆笑。

一番すごかったのは、デビューしてすぐのまだ青山大学出身のコミックバンドと思われていた頃のサザンオールスターズで、ファンの人からの手紙を紹介するコーナーに「僕はサザンが大好きです。でもママはあんなのを聴くとバカになると言います。サザンの人達は本当にバカなのですか」ちゅう内容のハガキが読まれて、黒柳徹子が、「まあ、失礼ね。この子達はバカじゃないの。ほんとはすごく賢い子達なんだけど、テレビの前では演技してるだけなの。ね、そうでしょう?」ちゅったその次の週。コミックバンド的なことを売りにしてた当時のサザンが両手に旗を持って現れた。片方の旗には「2」、もう片方の旗には「4」と書いてある。黒柳徹子に「これは何?」と聞かれて、桑田佳祐が「2・サザン・4」と答えた。このギャグが面白いかどうかはあえて問わない。次に言った黒柳徹子のセリフが光ってる。「まあ、すごい!4が2より大きいとお分かりになる。みなさん見て下さい、この子達は数が数えられるんですよ。」と言った黒柳に、「黒柳さん俺達バカじゃないんすから」と、ぶち切れそうになるも、力なく沈んだ桑田佳祐。

ベストテンで男性ミュージシャンが出るとどうしても夫婦に対する子供という役割設定で出るので、久米宏なんかは正しいリアクションで、ロックミュージシャンに対して「すごいですね。こわいですね。僕なんかほんと威圧されちゃうなぁ。」と棒読みのリアクション(ダウンタウンがよくやるリアクションで、本当はそう思ってないけど、そう言えとカンペが上がっているから嫌々言ってますというリアクション)をとるのですが、黒柳さんは、息子をかばう犯罪者の母親ってのを演じてしまう。

島田紳助が何故サンデープロジェクトをやっているのか?なぜ田原総一郎と?ベストテンに追いつき追い越せとケツ叩かれたトップテン時代の痛い思い出。常に久米宏の背中を追い掛け続けたその痛みがいまでも続いているって事でしょう。和田あきこが「アッコにおまかせ」の10大ニュースの中で筑紫哲哉氏に関するコメントをする。何故かニュース23を意識しているってのも、ベストテンの久米宏がニュースステーションに移っても、どこかで意識してしまうって奴の屈折した表現でして。

7/20 最近、ニューアカ方面にぎやかやね。あれだけ本を出さなかった(雑誌除く)浅田彰氏が対談集出しまくるし、東さんも図像学関係でマンガやアニメやをアカデミックな言語で語るらしいし、柄谷さんは可能なるコミュニズムだし。批評空間がなくなって単行本に集中ってパターンなのかなぁ。ただ、対談集出てみると浅田さんってやっぱり「タダの天才だったのかなぁ」と思う。日本語と英語とフランス語が同じスピードで読める話せる。三カ国語が出来るハイカルチャー好きの天才少年。対談集を読むと、キラキラした外来語がガンガン出てきてムチャムチャ気持ち良いんだけど、その外来語の意味がわかる人にとってはごく普通のハイカルチャーについてのおしゃべりなのかもな。とか。やっぱ時代的に浅田さんの出てきた時代って、60年代のマルクス主義運動があって、70年代それが敗北して、80年代になっても言語論・社会学・経済学・歴史学・文学理論とみんなマルクス主義で、それしかない時代にいきなりマルクスとは断絶した新しい理論と語彙を持った天才少年が現れて、自分たちマルクス世代と断絶した言語で断絶した世界観を語って大人達をビビらせたやん。構造主義自体は70年代に大江健三郎・柄谷行人が紹介してたりするけど、ドゥルーズ=ガタリ辺りのまだ知られてないポスト構造主義を紹介して、「器官無き身体」だの「多数多様体」だの意味不明な、けれども魅力的な語を振りまいたわけやん?

東さんの「存在論的、郵便的」が浅田さんの「構造と力」とよく比較されるけど、東さんの方は、ニューアカがある程度理解されてニューアカ批判もある程度出て、ニューアカが下火になってだいぶたってから出版されたわけで、そこで紹介されているデリダなんかもみんなある程度知っていて、当然典型的ないくつかのニューアカ批判に答える形で書かれることを読者は期待するんだけど、そういう疑問は一切抜きで、デリダの歩みを網羅的に、詳しくけれども分かりやすく見ていこうというデリダ入門なんですね。みんなの知ってるあの有名なデリダおじさんの入門書ですよってのと、大人達を脅かす天才少年の独白とはまったく別だしね。本の構成がデリダに関する網羅的な入門書であるなら文体ももっと日常語中心の組み立てにした方が売れるんじゃねぇーかとか思いつつ、デリダの紹介本ですなんて言ったら批評空間じゃなくって現代思想にしか載らなかっただろうなとか。でも、デリダの思想を流れを追って記述した中にもニューアカ批判に対する反論と読める箇所もいくつかあるわけで。その辺あとでちょこちょこ書いてみようかなとか。

7/15 「存在論的、郵便的」の感想というか雑多なメモでも残そうかなと。この本に出てくる三つの思考形態(形而上学システム・否定神学システム・郵便システム)がそれぞれ、「構造と力by浅田彰」におけるプレモダン・モダン・ポストモダンの図形に対応している。そしてかつて、脱構築すべき強固な建設物=思想のない日本をなげいて、ポストモダンであるよりむしろモダンであるべきだと建築への意思を示した柄谷は、否定神学システムとして間接的にではあるがこの本の中で批判される。

細かい部分を省いてしまえば、郵便システムを良しとする第二期デリダはテクスト派だと言える。デリダの言語論を暴力的に1行にまとめると、「誤読抜きに言葉は伝わらない」ちゅうことで、例えば「イス」という単語一つ取っても、サラリーマンである話者が使うときオフィスにある足にタイヤの付いたイスをイメージして話しているのに、江戸時代の人にイスと言っても、ざぶとんのイメージしか伝わらなかったりする。同じイスでも話者が経験したいすについて話しているのに、聴者は聴者の経験したイスしかイメージできない。ドストエフスキーの「悪霊」という小説は当時のロシアで起きた急進的左翼の内ゲバを描いた小説で、その百年後の日本で浅間山荘事件が起きたときに、「ドストエフスキーの悪霊を読んでれば、こんなことは起きなかったのに」とか、「ドストエフスキーも読まずして革命を語るな」とか言われたんだけど、明らかにドストエフスキーは日本の浅間山荘事件について小説を書いたわけじゃないんだよね。でも、浅間山荘事件の観衆とドストエフスキーの間に良い意味での誤読、デリダで言う誤配が生まれたわけだ。

でもね、柄谷のいうディコンストラクションって、デリダよりド・マン寄りなんだよ。デリダはね、いま私の書いた著作=手紙は誰も読んでくれないかもしれないけど、ドストエフスキーのように百年後に幸福な誤配が生まれて、読まれることになるかもしれない。なんて、幸せなこと言ってるけど、ド・マンの例はどうするんだよと。ヨーロッパの小国に生まれたド・マンの投書が第二次世界大戦時に親ナチ派の新聞に一度だけ載ったと。ユダヤ人を差別するような内容が書いてあったと。そのことによって彼は祖国における知識人としての地位を剥奪され、戦後アメリカに渡ったと。フランスがドイツに支配されていたような時代に、ヨーロッパの小国にできた選択はドイツのヒットラーか、ロシアのスターリンか?どちらと組むのがより祖国のためか。海の向こうの安全な場所にいるイギリスやアメリカなんかは自分たちを助けてくれない。フランスですらドイツの支配下にある時代に一国だけで戦っても勝てる見込みは無い。今思えば、スターリンもヒットラーもあまり良い選択じゃないけど、当時は二者択一だった。ユダヤ人という言葉はあの当時資本家と同じ意味で使われていて、資本家が自らの欲望のために植民地の分捕り合戦をする。争う2ヶ国の両方に軍事兵器を売って金儲けをする。そういう戦争を生み出す資本主義批判をしたら、ユダヤ人批判の内容と誤読され、親ナチ派の新聞に誤配される。そのような背景があった上で、ド・マンや柄谷が脱構築を非常にネガティブに捉えて、誤解や誤配の無い言葉使いをするための脱構築研究をする。って方が自分としても共感するとこ多い。

7/15 昨日久々にフルカラーの夢をみた。厚さ1センチのアクリルもしくはガラスの板に淡い絵の具で色を塗ったそういう映像だ。色を塗った部分は少なくガラス板の向こうの白い光源が見える。カラーの淡い水彩だけでは輪郭が不鮮明なのでところどころ、黒の立体的な半筒状に盛り上がった線が入る。緑の葉っぱをたくさん携えた木の向こうから太陽の光が指しこむ。そういう絵の場合、輪郭の黒い線は所々にしか入らず、正確な縁取りをするというよりもは色がそこからはみ出している場合の方が多い。技法的にはアニメ「となりの山田君」だが、自分の姿はなぜか世界名作劇場のトムソーヤの冒険のトム少年だった。フルカラーだが動画のような滑らかな動きはせず、ナレーターと声優陣による朗読と大きなアクリル板の上を滑らかにすべるカメラで構成される。

自分は昔LSDのパーティーで騒ぎを起こし刑務所に入れられている。パーティー会場で何をしたのか知らないが、会場が集団ヒステリー状態になったときある女の子を殴ってケガを負わせたらしい。会場に入ってからの記憶は音楽と照明の鳴り響く断片的なものが少しと、気が付けば留置所での事情徴収。被害者の女性の顔も名前もわからない。そのときたまたま政府が若い麻薬中毒者のために「はたちのための公正プログラム」というのをやっていて、それに参加すれば通常に刑期を終えるよりも早くムショから出られる予定になっていた。自分はその人体実験的なプログラムに参加し、更正していくプロセスのデーターを政府に提供する代わりに、模範生として人より早く刑務所から出る。両親は世間体を考え、新しいマンションに引っ越している。近所には自分が犯罪者であることを知る人は居ない。ムショから出た自分は両親の住む新しいマンションに向かうが、そのときたまたまパトカーとすれ違いパトカーが落とした紙切れを拾う。自分が持ってる一枚の紙切れ、そこには両親の住む新しいマンションの住所が書いてある。301号室と101号室、なぜか二部屋も両親は準備している。パトカーから落ちた紙切れに書かれた住所も、まったく同じ住所、まったく同じマンション名で103号室。見覚えのある苗字。自分が昔パーティー会場で殴った女性の夫が、妻や近隣住民に対し毒物を飲ませ殺害をしようとした殺人未遂容疑での指名手配されているという内容の紙切れ。

301号室のマンションで父親と夕食をとる。久々に会う親父は変に気を使ってよそよそしい。103号室の住人に対して、父親に何か言おうとするが上手く言えない。夜、変な妖精みたいなのが出てきてLSDを俺に勧める。「薬を使えば103号室の住人の話なんかすぐに忘れられるぜ」と言うが、「気分が悪いから、出てってくれ」と断る。朝、101号室にいた母親が大騒ぎをしている。引っ越してきたばかりで信頼できる友人も近所にいない中、母親が買い物に行っている間、父や俺が帰ってきて家のカギが無いと困るだろうからと、103号室の住人にカギを預けて、その旨をメモに残して玄関に貼りつけて買い物に行ったら、103号室の住人はカギを無くしたとか、郵便ポストに入れておいたとか言って返してくれない。しかも朝になってみると103号室の住人を中傷するビラがポストに配布されて、103号室の玄関にも貼られ、中傷の落書きまでされている。こんな信用できない人にカギを預けるんじゃなかったとか何とか大騒ぎ。自分は相手があの事件の時の被害者であることを言おうとするが上手く切り出せない。父親は顔色の悪い自分と、大騒ぎする母親に気を使い「美術館にでも行こう」という。

ここで夢は終わるのだが、まあ、ことごとくワイドショーのゴシップ記事の寄せ集めというか、中身のないストーリーだなと。カレー毒物混入事件と時計仕掛けのオレンジとが入り混じった感じだ。心理分析しようとしたら103号室の住人の苗字が自分が複雑な(加害者/被害者)感情を持ってる誰かさんと同じだったりとか、前日秋葉原でリトグラフの絵の展覧会or販売促進会みたいなのがあって、入り口でかかる3倍速の「Take on me」に誘われて中に入ったが最後、水商売系の女性店員に散々絵の好みについて聞かれて、バブル全盛期に風俗嬢&水商売の女の子の部屋に行くと必ず飾ってあったちゅうイルカ系の絵を勧められて、そんなの買う金も気もないし、そのことを店員も分かってるんだけど、暇つぶしにマニュアルどおりの営業トークしてくるわけだ。「彼は絵の天才なのです」「17にして絵の才能を国家に認められ」「金箔や銀箔を使っていて非常に豪華」ああ、確かに最近ヒロヤマガタも金銀使っていたね、で?それが何か?夢の中に出てきたパーティー会場の音楽と照明がここから来てるのは確かだね。絵の好みについて聞かれれば聞かれるほど、目の前にある輪郭のはっきりした写実絵は嫌いで、輪郭のあいまいな対象物のはっきりしない絵が好きってのがはっきりしてね。夢の中の画像が正にそういう方向に行っちゃったんだけど。

7/13 東浩紀さんの著作に関して、某掲示板で論争があって、まあ、哲学書をろくに読んだこともない、哲学の解説書・入門書しか読めんような自分も色々書き込んだりしてたんだけど。その掲示板で羊5さんが、東と吉本隆明の類似性を指摘して、対する掲示板の管理者の方が、両者は正反対じゃないのかってことを書いてて、そこらへんに絡んで混じってみたりしてですね。

吉本隆明の「言語にとって美とは何か」と柄谷行人の「日本精神分析」と東浩紀の「存在論的、郵便的」と3世代の言語論を読んで、少しはアカデミックな文章でも書いてみようかと思ったんだけど、ダメ。浅田さんはルックスで得してるとか、東さんは顔写真が上祐(@オウム真理教)に似てるとか、そんなとこにばかり目が行って、まともな文章が書けない。しかも今現在で手元にあるのは「存在論的、郵便的」のみ。批評空間で連載されていたときちょくちょく読んではいたけど、本になったとき、当時日雇いしてた私には本を買う二千円を融通できなかったわけで、本屋で三十分ほど斜め読みしてるとき、一緒にいた同じ職場=日雇い肉体労働系の友人に
「もっとちゃんとマンガとか読まないと友達いなくなるよ。この西原理恵子って知らない?面白いから読んでみなよ。こーゆーの読まないとさぁ、俺達と普通の会話できなくなるよ。」
って言われて
「そーだよなぁ、いま周りにデリダの話なんてできる奴いねぇーし、難しい本読む時間も精神的余裕もないよなぁ」
と思ってそのままだったのが、ニューアカ系の掲示板とか見ちゃうと、難しい話をする相手も出来て、やっぱもすこし勉強しないとなとか思っちゃうわけだ。でも、頭に浮かぶのは「浅田クンって、ジャッキーチェンの映画に出てたよねぇ?警視総監役で」と言ってた女の子の事だったり、「存在論的、郵便的」に付いてくるこの上目遣いの著者近影は著作にとってプラスかマイナスか?ちゅうことだったりして、インテリジェンスのかけらも無い文章しか書けん。うーーーん。言い訳だけが増えていく。

7/1 buzzオモロイね相変わらず。SPAの好きな評論家嫌いな評論家の人気投票で音楽評論家部門ワースト一位に山崎洋一郎(元ロッキンオンジャパン編集長、現在ロッキンオン編集長)が輝いたネタで電気グループ&山崎さんが大盛り上がり。ビートたけしのオールナイトニッポンでハガキ職人していた兵庫さんは、ビートたけしさんの大ファンでビートたけしのことを「殿」と言わないと怒る。と、前振りがある中で、渋谷陽一RO社長と共にビートたけしインタビューに同行。その心境を赤裸々に語るちゅう、爆笑ネタのオンパレード。BUZZみて笑えてる自分に安心する。まだ大丈夫。ブラーメンバーのソロ活動やレッチリの赤裸々な告白も見逃せない。でも買わずに立ち読みだった。

A:俺ぐらい偉大になるとさ、ほら、歴史の教科書に名前載っちゃったりするからさ
B:それはてめぇーの持ち物だからだろ!そんなこと言い出したら数学や国語や化学の教科書にも名前載ってただろ。
A:俺ってそんなに偉大だったんだ。
B:じゃなくって、自分の持ち物には教科書だろうが鉛筆だろうが消しゴムだろうが名前書いただろ
A:おまえ、案外几帳面なんだな

6/17 今日、吉川ひなのの「pink」とラウンドテーブルの「キャノンボール」買ってきた。ピンクすごいよね、藤井ふみや、朝本浩文、高浪敬太郎(Ex.ピチカートファイブ)、黒沢秀樹(Ex.L-R)、CMJk、バッファロードーター、つう、どっから連れてきたのこの人脈?だって、バッファロードーター辺りは、金積んだから仕事するって人でもねぇーじゃん?(イメージねイメージ)L-Rはポニキャニつながりだとして・・ポニキャニ=CX=フジテレビだからなぁ、この辺が微妙にL-Rが馬鹿にされる要素につながっているような気がする。良くも悪くもTVな音してるもんな、アルバムがどう聴いてもシングルコレクションに聞こえるし、L-Rなんで活動休止なのかなぁ。

6/4 理想の体とはどのようなものか?ボディービルダーのように脂肪のない体は、ある意味で美しいと思えるが、硬い筋肉が付き過ぎると柔軟性が無くなり腕の付け根にエラが張って腕が上がらなくなったりするという。ボディービルダーのような瞬発筋だらけの筋肉でなく、マラソン選手のような持久筋のみのスリムな筋肉も魅力的だ。けれど、プロレスで言えば、リングスに田村選手が入ってきたときに、前田選手は「ファット(脂肪)が足りない」と言ったという。1年に1回しか試合の無いボクサーなら脂肪を極限まで減らして試合に臨むことが出来るが、年間300試合のプロレスラーなら脂肪で体をコーティングしないとケガで試合を休場する羽目になる。相撲取りが脂肪を付けるのも同じような理由からだ。月に1試合のリングスですら脂肪がある程度は必要らしい。やる競技や目的によって理想の体は変わってくる。トップアスリートはトレーニングのさい、不要な個所に筋肉を付け過ぎないことにすら気を使うという。

西部時代から肉離れの多かった清原選手だが、西部時代にスポーツ誌でこんな記事が載っていた「清原選手は肉離れの理由を長年の間受け続けたデッドボールの後遺症と思っているようだが、清原選手の瞬発筋はスポーツ医学の常識では考えられないほど上質な筋肉で、それに対して骨格の方はごく普通の骨格をしている。そのため、瞬発筋の負荷が骨にかかったとき、骨格がそれに絶えられなくなり、肉離れが起こる。」日本シリーズやオールスターなどの短期決戦に強い、好不調の波を自分でコントロールできる、西部でチームプレーをし続けたため三冠王を毎年取れる位置に居ながら、いまだに一冠も無い・・などと言われた清原選手は巨人に入ってすぐの頃、桑田選手が投げる試合では全試合ホームランを打っていた。投手のように中3・4日周期でなら確実にホームランが打てて、かつ全試合でホームランを打とうとすると肉離れが起きる。西部時代はペナントレースに直接関わる重要な試合にのみホームランを量産するというチームプレーをしてきたために、重要じゃない下位チームとの消化試合で、試合半ばで大量得点差がついてしまった試合で、ホームランを量産できなかった清原選手。好調・不調の波を自分で操れるのをサボりとみるか、チームプレーとみるかは監督しだいで、出来れば「好調のときだけ代打で出てくれ」というのが巨人の本音なんだろうけど、野村監督や森監督は清原のチームプレーを高く買うと。

清原選手の筋肉の特徴を上記の記事を全面的に信じてしまうなら、今回のオフシーズンにアメリカで行ったトレーニングは間違いだったのじゃないかと。脂肪を落とし瞬発筋を付けるトレーニングは、骨格との絡みで言うと肉離れを触発するだけで、もっと持久筋を付けてシーズン通しての好調を維持するための肉体改造とか、ケガを減らすために筋肉の質を柔軟性の高い筋肉に変えていくとか。

で、K-1の武蔵選手も、清原選手と似たような体格をしてて、だからといって筋肉の質まで同じかどうかは医者やないから知らんけど、試合みてるとすごくセンスの良い試合運びしながら、傍からみてると原因のわからない倒れかたして負けてたりするねんな。それが、石井館長的には「集中力が無い。爆発力が無い。」アンディ=フグ選手的には「生まれついてのガッツが無い」という言い方になるんだろうけど、精神力が無いから負けるんじゃなくって、本人にとっては絶対に倒れるだけのダメージを受けてて、でも傍から見ると余裕で試合こなしてるのに突然倒れる武蔵選手が居て、そこに体の問題があると思うねんな。自分の場合、極端に短距離走が遅いんだけど、それは瞬発筋の問題でなく、循環系が弱いわけで、普通の人が1分間に120の脈拍で済んでる運動に150使ってて、全力疾走すると呼吸が苦しくなる。そんな奴に足が遅いからといくら手足の筋肉をつけてもダメで、心臓の筋肉を鍛えるようなメニュー、肺活量を増やすためのトレーニングが必要なわけ。武蔵選手の場合それが、循環系統の問題か筋肉の質の問題か他の何かか分からんけど、精神力ではないと思うわけ。精神力が無いのはイメージトレーニングで自分が勝つときのイメージが沸いてないってことで、イメージトレーニングの出来てない人にセンスの良い試合運びは出来ないはずやから、精神ではないと思うねんな。

まあ、K-1ルールで空手家が勝つのってむづかしいゆうのも分かるねんけどな。キックボクサーは足の甲で蹴るから、空手のすねで蹴るキックよりリーチが長いとか、顔面攻撃禁止の空手ではキックより構えたときのガードの位置が低いとか、色々言われてるからなぁ。

5/31 上野公園の似顔絵描きに私の守護霊の似顔絵を描いてもらった。いつも私が見ているのと少し違う顔をしていた。きっとそれは、守護霊でなく悪霊だったのだろう。

5/27 最近のプロレスって、なんか変だと思っててさ。力道山の時代のプロレスって、敗戦直後の日本で日本人レスラーが欧米人に殴り合いで勝つというショーで、ナショナリズムを基盤にしてたわけだ。

で、最近の格闘技。プロレスのようなショーでなく本気の格闘技ですってのを売りにしてる武蔵・桜庭・船木、なんで髪の毛を染めるんやろな。武蔵vsアンディー=フグ、桜庭vsホイラー=グレーシー、船木vsヒクソン=グレーシー戦、全部黒髪の外人相手に、日本の脱色頭。言葉さえしゃべらんかったら外人選手のほうが日本人っぽくみえるんよ。サッカーの中田選手の脱色はイタリアの地に馴染なあかんちゅう状況があるから、ちゅうてもイタリアも黒髪か・・まあ、わからんでもないけど、なんで打倒ヒクソンで髪染めるのか?柔道着きた黒髪のヒクソンと金髪の船木だと、ナショナリストはどっちを応援するのかなと。オリンピックでも甲子園でも巨人阪神中日広島の野球も、広い意味でのナショナリズム(地元主義)で見せてるわけやん?したときになんかプロレスだけ見せ方失敗してるような気がするねんな。

むかしのプロレスラーはみんな自国の民族衣装を着てリングに上がったものだ。カウボーイハットに投げ縄、ブーツカットのジーンズと牛革ブーツのスタン=ハンセンの得意技はウエスタン=ラリアット。必殺技にまで地域色を出す。キラー=カンはチャイナ帽で登場し、上田馬之助は竹刀を振り回し、アラブの石油王姿はターバンを巻いてサーベルを振り回すタイガー=ジェット=シン。そこにはディズニーランドのイッツ・ア・スモール・ワールド並の教養主義が存在する。取りあえずプロレス会場やディズニーランドに行けば、世界中の民族衣装を見れて、それぞれの国がどのような国民によって構成されているのかがイメージだけでも浮かぶようになる。

また、むかしのプロレスを見ると、カンフー着を着た選手がカンフー服のまま試合をし、試合の中でもカンフーの型や技をみせていたりする。同じようなことはボクシングや空手の選手でもやっていたりする。モハメッド=アリ対猪木戦のように本物の異種格闘技戦だとルールの問題等あって異なる衣装で試合は出来ないのだが、プロレスをショーだと考えるなら、いろんな格闘技の衣装や型を見れるならお得感が増す。プロレスのリングに上がる合気道の達人とかの経歴を後で調べると合気道での試合経験ゼロで型を習っただけの人だったりするのだが、世界中の格闘技の型と衣装を見れるのは、ディズニーランドで世界中の国旗を見れるのと同程度には知的好奇心を満たしてくれる。

いつの頃からか、プロレスがあたかも一つの格闘技のジャンルのようになり、プロレスラーの衣装を着たプロレスラーが、プロレスの型や技を見せるショーに変わってきた。別の格闘技をやっていた選手がその格闘技の代表・象徴としてプロレスのリングに立つのではなく、プロレスを代表してプロレスラーがリングに立つ状態が増えてきた。

5/15 ここんとこ、日記に不真面目な文章しか書いてないので、今回は少しお堅く少年法で。フーコーによると刑務所はこの世が刑務所であることを隠すために存在するらしいのだが、バスジャックをした17歳の少年はそこのところが分かってなかった。

彼が馬鹿だったのは自分は少年法で守られているから人を殺しても良いと思ったところだ。刑務所は人々から犯罪者を守るためにあるのだ。オウム事件や豊田商亊事件をみても分かるように、犯罪者はひとたび凶悪な一般市民の中に放たれれば、一瞬にして人民裁判に掛けられ英雄気取りの右翼やヤクザに殺される。刑務所とはそんな狂暴な一般市民から犯罪者を守ってくれる場所だ。刑務所の中は一般社会と違って安全だ。何しろ犯罪者しか居ない。殺人犯には殺人犯の同居人が与えられる。誰からも「人殺し」と後ろ指を指されることもなく、安全に日々を過ごすことが出来る。もしこれがシャバならどうだ、求人率の低い不況な世の中、職探しをしてみても前科何犯と付いただけで書類審査で落とされる。就職が無理ならアルバイトででもと、レストランのウエーターに決まったが、すぐに厨房から文句が出る「奴の前で包丁は使えない」。

マジな話、麻薬で捕まって売人の名前をゲロった奴と吐かなかった奴、早くムショから出てくるのは吐かなかった奴だ。売人からの報復を考えて売人の名を口にした方を長くムショで保護する。そして少年法で守られている17歳は成人より早くムショから出てくる。これが何を意味するか。未成年の犯罪者は成人の犯罪者に比べて極めて短い期間しか警察に守ってもらえないということだ。仮にも人を殺していて、恨みやなんかをかっている場合、ましてや学校でいじめられていたような犯人は、出所後いじめっ子に対してどう接するのか。

犯人が少年法を強く意識していたなら、老人を殺したのはともかく、6歳の女の子は人質にすべきでなかった。何故なら、警察によって守られた安全な刑務所から出されたところを、6歳の女の子に刺し殺されたとしても、彼女もまた少年法によって保護されているからだ。

5/14 都営地下鉄線と山手線は近隣住民の住環境云々言わずに24時間営業しろと書こうとしたら、訳のわからん文章になってしまった。推敲しないってのはこういうことです。

5/12 スーパーのジレンマを解決したという意味でマルクス主義は正しい。また同時に解決できなかったという意味でマルクス主義は間違っている。

スーパーってのは、店舗から半径500m以内に住む主婦をメインターゲットとし、広く見積もってもせいぜい半径2km以内の主婦によって支えられている。営業時間は9時から8時9時前後。レジ打ちのパート従業員もスーパーの周辺に住む主婦によってなされる。

あるエリアにスーパーが三軒あったとして、レジを勤める主婦はパートが終わって家に帰ってから家事が待っているわけで、スーパーが空いている時間帯に帰りたいわけだ。スーパー側としては、他のスーパーが閉店し、他店のスーパーの店員が主婦に戻ってから夕飯のおかずを買いにくる時間まで店を空けておきたい。スーパーとしては他店のスーパーが閉店してからの1時間が稼ぎ時で、店員としては閉店までレジを打たなければならないが、レジ打ちが終わってからスーパーに買い物に行きたい。店員=消費者であるとき、店員としての仕事を終えてから消費者になるのだが、消費者になったときには店は閉じている。このスーパーのジレンマをどう処理するのか。

一番よくあるのが、閉店間際の時給を高く設定して他店よりも遅くまで営業し、閉店後従業員向けの営業を行うというものだが、店員が単にスーパーだけの消費者である場合はそれで良いかもしれない。じゃあ、保育園の営業時間が5時までで、美容院が6時までで、市役所や郵便局が5時までであった場合、どうするのか。五時以降従業員向けの託児場を設置して、閉店後従業員向けの市役所や郵便局や美容院を開設するのか。時給の高い午後6時から9時までの3時間だけ主婦のパートタイマーとは別の学生アルバイターを雇うという方法もある。

かつて労働運動が勝ち取った8時間労働は、いまでは9時から5時までしか営業しないお役所的な評判の悪い労働形態になってしまったが、元々8時間労働とは24時間営業の3勤制を意味していた。労働基準法も何もない産業革命時に賃金の安い女子供が16時間18時間働かされていたとき、単に労働者にとって良い環境だけではなく、資本家の立場に立っても良い条件を考えたのが三勤制だ。紡績の機械や工場の建設にいまで言えば何千万何億の金がかかっていて、それを5年間とかで減価償却する以上1日に1時間でも長く機械を回さなきゃいけない。だから長時間労働を要求するわけだが、ある一つのポストを一人でこなす場合、長くてせいぜい18時間が限界だが、二人いれば交代で一人12時間ですむ。労働条件は良くなるが、資本家の側としても1日24時間機械を動かせるため、単純計算して33%売上が伸びる。あるポストを3人で交代して動かせば、一人8時間の24時間営業。これが元々の意味の8時間労働だ。

自分は何も100年以上も前の産業革命の時代の話をしてるのではなく、今目の前で起きてることを書いてるのだが、日雇いバイトで1日14時間労働の2勤制もあったし、長距離トラックのドライバーさんが2時間に一回ペースの仮眠(法律で義務付けられており車に積んだタコメーターで正確に取り締まられる)のみで3日間走り続けた話等をよく聴いた。労使ともに権利意識の薄い業界ではいまだに悪い労働環境で働いていて、しかもそれがスポコン的な美談として本人も他人も話していたりする。長距離トラックで急ぎの荷物の場合、ツーマンのニ勤制で行けば、2時間に一回の仮眠中も走り続けられるし、仮眠も15分だの30分だのでなく2時間本格的に取る事が出来る。大体、2時間に一回の仮眠が強制され、厳しく取り締まられるのも、労働者の人権を保護とかでなく、人間の労働の効率を様々な実験で統計を取った結果、2時間毎に15分の休憩を取るのが一番効率が良いという結果が出たからで、同じ作業を2時間以上続けた際の集中力や注意力の低下、作業効率の低下が、高速道路でのトラックの運転という作業中に起きた場合、非常に重要な事故につながるから厳しく取り締まられているわけだ。

最善の労働運動というのは労働者の側から見て好ましいものを提案するのはもちろん、資本家の側から見ても好ましい案を出している。

5/8 小説における大きな物語と言うのは大抵親子3代の物語だ。3代というのが著者が直接生きてる先祖をさかのぼれる限界なのだろう。そこで書かれる物語は都市が主役で、イギリスからアメリカに移民してきた親子が、何にも無い荒野で生活をはじめ、その土地が少しづつ大きな都市に発展していく話とか、逆にある都市が滅びてしまう話とかだ。2・30代の若夫婦と5・6歳の子供数名が移民する話は、在日2世の竹田青嗣や呉智英にとっても大きなテーマだ。1世は大人になってから日本に来ているので自分を日本人だとは思っていない。むしろ反日感情のほうが強い。3世は韓国を知らないし、行った事も無ければ韓国語も出来ない、完全に日本人だと自己定義している。2世は韓国からも日本からも異人として扱われる。2カ国語が出来て、自分でもどちらに属しているのか分からない。在日2世にとって母国とはどこか?これは竹田青嗣や呉智英にとって非常に大きなテーマで呉智英が儒教や孔子に走るのも、中国文化圏という大きなナショナリズムに対する憧れからだと思う。

親子3代の物語として有名なジャンルとして、アメリカの西部開拓物がある。書き手は移民三世で、祖父は危険をかえりみず冒険を貫いた偉大な開拓者、父は働くことしか脳の無い平凡な牧場経営者、主人公の私は貧困(金銭的な意味ではなく、電気ガス水道といった都市のインフラの有無を指す)を経験したことの無いボンボンで、ジュークボックスに小銭を入れてダンスフロアで踊ったり、日曜日は教会で神への信仰をささげる父を尻目に女の子とクリームソーダでカフェに入り浸り、オープンカーやバイクを乗り回す。父のように汗水たらして働くことは大嫌いで、投資や投機で効率よく遊ぶ金を作りたいと思っている。エデンの東をはじめ、ジェームスディーンが演じた役柄はみんな移民3世の典型的な気性をあらわしている。生まれたときから(しつこいようだがあくまで都市のインフラに関して)恵まれた環境に育った3世にとって、そのインフラを建設し整備するためにひたすら勤勉に働いてきた父は遊び心の分からないただのつまらない奴で、都市のインフラが整った大英帝国を捨て、未開の荒野に降り立った祖父は尊敬すべき冒険者であり、整いすぎた都市の機能がいかに便利でありかつ退屈であるかを知りぬいた遊び心あふれる文化人なわけだ。

都市を捨てた1世、都市を作った2世、では3世は都市をどうするのか?小説上では都市を破壊するんだよね。一つは1世のように都市を捨てて新天地(西部開拓)に行く。もう一つは戦争や放蕩、過剰な投機などによって都市を壊滅させる。具体的にはエデンの東で戦争や、若者の借り入れによる投機が登場する。ジェームスディーンが株の大暴落でエンパイヤステートビルから飛び降り自殺する時代というのは確かにある。日本では光クラブが有名かな。放蕩で言うとドラッグの蔓延で都市の中心部がスラム化し都市機能を果たさなくなるとか。

都市を作る話と壊す話を振り子のように語るのが大きな物語だとすれば、江戸の末期というのは文化的に成熟し放蕩を繰り返した時代だといえるし、明治は諸外国に追いつき追い越せで厳格な父と厳格な母の時代だったし、大正はあらかた諸外国の文化輸入が終わり、文学や美術の全集が流行り、オシャレなモダンボーイやモダンガールが大正モダニズムの中で文化的放蕩を繰り返し、その大正デモクラシーの集大成が男子普通選挙法と治安警察法になる。その後、厳格で非文化的な軍人の支配する戦争があり、戦争によって破壊された都市機能を回復するために働いた世代が高度成長を成し遂げる。明らかに自分はその後の世代で、都市の機能がある状態よりむしろ無い状態に憧れを感じたりする周期に入っているわけだ。

ただ、文学の理論上そうなるのと、現実がどうかというのは知らない・・・知らないつもりだったが、大正生まれの祖父が死んだとき、祖父の残した全集を見て大正教養主義の圧倒的なパワーを理屈じゃなく物理的な物体として感じたわけで。そこにあったのは全30巻や50巻ある全集が文学・美術・音楽・映画・百科全書と何十種類もそろい、文学全集だけでもただの文学でなく世界児童文学全集だのオセアニア文学全集だの、バロックから国民楽派までを網羅した音楽全集には一冊一冊にレコードと解説、作曲家の生涯とその時代が付き、比較的新しい音楽全集ではマイルスデイビスやコルトーレンまで解説してあった。大正生まれでクラッシック好きの祖父がマイルスやコルトーレンを聴くとは思えなかったが、あれを見ると父の世代とはまた別の文化が確かに存在したのだと思わされる。

ちなみに、自分がいま住んでいる千葉が新興住宅地として開発途上の面白さが残った場所であるのも、無意識に住んでる割に理論どおりだったりする。

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