HP管理人日記9

10/11 いまね、私の頭は相当おかしなことになってるし、正しい判断ができてるとは思わないけど、馬鹿は馬鹿なりに変な妄想と幻覚の中で生きてるので、その幻覚の一部を皆様にお届けするつもりで日記を書いてみるのですが、NYの自爆テロネタ。皆様もう飽きられてるとは思うのですが、犯人の動機って何なんでしょ?あれによって誰がどう得したのかがいまいちわからない。いやね、この日記でイスラエルとアラブの両方に武器を売って儲ける武器商人の姿が云々って書いた直後辺りに、「旧ソ連のアフガン侵攻時にソ連軍が残して行った兵器がいまもアフガニスタンで使われてる」ってな報道がしつこいぐらいにあちこちでされてて、「ああ、事実確認もせずにいい加減なこと書いたから恥かいたな」と思ってたんですよ。でね、それから一ヶ月ぐらい経ったのかなふと疑問に思ってね。アメリカは歩兵が背中にかついだバズーカみたいなので爆撃機やヘリを打ち落とすスティンガーという対空砲を恐れてるんだけど、あの兵器ってソ連兵が置いてったのかな?と思ってさ。ソ連がアフガニスタンの領土で対空砲使って何を打ち落とすのだろう?対空砲ってのは空爆してくる爆撃機やヘリを落とすんだろうけど、アフガニスタンがアフガニスタン領内を空爆するかな。空爆するとして、そのヘリや戦闘機は何製なんだろ。例えば、今アフガニスタンで使われてる戦車や戦闘機がソ連の置いてった物だとして、ソ連兵はアフガニスタンと戦争して、負けて逃げるときに、一刻も早く家に帰りたくって兵器を置いてったってことになるんだけど、ソ連からアフガンまでって結構遠いよね。戦車や戦闘機でアフガンまで来て、帰りは歩きなのかな?歩いてソ連まで帰るって大変だよね。アフガン内にソ連が軍事基地を作ってソ連が撤退するとき、基地をそのままにして車か飛行機でソ連に帰りました。ありえるかな?負け戦で撤退するときに、兵器を爆破せずに敵が自由に使える状態にして置いて帰る。その基地に残った戦闘機や戦車で追ってこられるかもしれないし、仕返しされるかもしれないのに、撤退するときその基地を爆破しないできれいなまま残して帰る。たぶんソ連の兵士は几帳面できれい好きだったんだよ。だから、弾丸も燃料も数年分補填してきちんとメンテナンスして戻っていったんだよな。

NYのツインタワーが崩壊する映像だけどさ、一つ目のビルはビルの真ん中より少し上に飛行機が突っ込んで、二つ目のビルは下から三分の一ぐらいの高さに飛行機が突っ込むんだけど、最初にテレビのニュースで見た映像ってかなり変でさ。ビルがね、テレビの横幅いっぱいいっぱいに写ってるんだ。その画面のど真ん中に飛行機が突っ込む。で、それが二つ目のビルの崩壊を偶然とらえた映像ってんだけど、何故そのビルに飛行機が突っ込むことをそのカメラマンは知っていたのか?ツインタワーの片方が崩壊してしまった。その映像を撮りに報道カメラマンが集まる。そして一棟だけになったツインタワーを撮る。ここまでは良いさ。普通、一棟だけになったビルを撮るとき、ビルの足元からてっぺんまでが、テレビ画面の高さに収まるように撮る。ビルの上下全体が収まるように撮ると左右はかなり開いて空間ができてしまう。あの細いビルの横幅をテレビ画面いっぱいまでズームアップすると、長さにして10倍、面積にして100倍ぐらいの拡大が必要で、それを光学的にでなく、電気的にやれば画質は相当荒くなる。でも、私が見た画像はかなりきれいなものだったんですよ。何故かなと。あの周辺ってツインタワー以外に高いビルがなくって、青空をバックに一棟だけになったツインタワーを撮った映像ってすごくシンボリックで報道カメラマンだったら絶対撮りたくなるような映像だと思うんですね。で。ツインタワー崩壊を偶然地上から撮った映像と、偶然上空のヘリから撮った映像ってのを観たことがあるのですが、上空からの映像だと、ビルの側面よりも屋上の方が見えてる面積多いんですね。逆に地上からの映像だとビルがパーツつき過ぎて、下の階と上の階のサイズが違いすぎる。旅客機も側面ではなく下からの面が見える。ビル崩壊の第一報で見た映像(つまり一番有名な、一番多く流された映像)はビルに突っ込む飛行機の側面がきちんと写ってました。つまり、飛行機が突っ込む高さから撮ってる映像です。何故その高さに飛行機が突っ込むことをカメラマンは知っていたのでしょう?テレビ画面の横幅いっぱいいっぱいまでビルの横幅をアップで撮ると高さ的には、ビル全体の十分の一か、二十分の一しか撮れてないと思うんですけど、でも、ちょうどその高さにカメラマンがいて、その高さにあるツインタワーを撮っている。地上からではあんな映像は撮れませんよ。犯人じゃなきゃ、あの高さに飛行機が突っ込むことを予想できない、つまりあの映像は犯人じゃなきゃ撮れないのじゃないかと。で、そのカメラマンはアメリカ人だったりする。

犯人以外に飛行機がビルに突っ込むことを知りえた人間がいるとすれば、飛行機を無線とレーダーで管理する管制塔の人間だ。夜にハイジャックした飛行機を夜ではなく、夜が明けた朝にビルに突っ込ませたテロリストの判断を計算高いと報じた新聞があった。テロリストはビルが崩壊する映像を全世界に配信させるために朝に自爆テロを実行したのだという。では、夜が明けるまで管制塔の人間は何をしていたのだろう。夜が明けるまで飛び続けるだけの燃料を飛行機は積んで居たのだろうか、夜が明けるまで飛び続けるだけの燃料を積んでいることは第三者でも知りえる状況だったのだろうか。何でこんなわけの分からないことを言い出すかといえば、第一次世界大戦のきっかけとなった中東のなんとか国王を暗殺した犯人の証拠写真ですが、現在では合成だということが判明してるんですよ。あの写真、私が中学の頃は歴史の教科書に載ってましたよ。日本が第二次世界大戦に参加するきっかけとなった鉄道の爆破事件も、当時は反日的な感情を持つ中国側が犯人だとされていたのですが、今では戦争をするきっかけを欲しがった日本側の軍隊の自作自演だったとされています。じゃあアメリカが爆破テロを自作自演して何かメリットがあるかとなると、あるんですね。CBSニュースでやってたのですが、アメリカの由緒ある陸軍学校が閉鎖の危機にあるというニュースあって、冷戦対立が終わって軍の需要がないのに、税金を年間**ドルもつぎ込んで学校を維持するだけのメリットがあるのか学校自身が問われてる。陸軍学校を出た学生の半数以上が一般企業に就職する。というニュースでした。他にはこれもCBSニュースネタですがアメリカの諜報機関の存続も危うくなってますね。内部が腐敗して使途不明金が出てきたり、仕事の質を軍事スパイから産業スパイに変化させることで生き残りをかけていたり。諜報機関や陸軍学校で働いてる人にとっては軍事的緊張は常に必要なのです。せっかく陸軍学校を出ても一般企業に就職されるのでは、学校の意味がありません。今アメリカは軍事力を維持するためのさまざまな予算が重荷になっているのです。そして、その重荷の予算を削ると、今度はその産業で働いてた人が失業し再就職しなければならないので、困るのです。だから法廷ではなく戦場での決着を付けたいのです。このように、ビンラディンが犯人だという状況証拠をあげることができるように、アメリカが犯人だという状況証拠だってあげることはできるわけです。ですからやはり弁護士付きで正当な裁判をと思うわけです。

世界がどうなって欲しいという理想論を言うとね、米軍に世界の警察になって欲しいわけよ。警察は司法判断に身をゆだねる。法廷ではアメリカがビンラディンを訴えることができるのと同じように、ビンラディンだってアメリカのサウジ駐軍を訴えることができる。テロ発生時、テロを祝福するアラブの人々の映像が流れました。あの人たち全員がテロに共感しているのだとして、あの人たち全員が潜在的テロ予備軍だとして、あの人達全員をテロリストとして殺そうとすれば、民族浄化・民族撲滅運動になってしまうなと。ホロコースト・ジェノサイド・・言い方はどうあれ、ナチスのユダヤ人撲滅運動と同じだぞと。でも、私たち西側の人間ががテロの危険にさらされるのは嫌だと。彼らアラブの人たちの主張というのは今まで西側諸国には黙殺されてきたと。今回のテロで初めて日の目を見たと。あのテロがビンラディン氏によって計画されたものであったとして、自らの主張に注目を集めさせる以上の効果は期待できないわけです。つまり、テロを行わなくても自らの訴えを聞いてもらえる場があるなら、テロは必要ないわけです。アメリカがビンラディンを訴え、ビンラディンが米軍のサウジ駐留を訴える国際法廷の場を作り、米軍がその法廷の指示の下に動くなら、それはアメリカの国益のために働く米軍ではなく、世界の警察です。治安の維持にはお金がかかります。米軍が世界の警察なのなら、その維持にみんなでお金出しましょう。人材も世界中から集めましょう。クリントン政権時に「これからはアメリカの国益になる戦争にしか米軍を使わない」という発言があったり、アメリカン・ファースト(米国最優先)というキャッチフレーズが出てきたりしたように、今アメリカは米軍を維持するコストとパフォーマンス、費用対効果をはかりにかけてます。

1)ソ連の脅威がなくなっても現在のコストを負担しようとすれば、軍事力を背景にアメリカが有利になるような条件を各国から引き出すしかありません。具体例を挙げれば世界中のWEB・放送・通信を傍受しているというエシュロン(軍事・諜報部門の技術)を使って、フランスの公共事業をフランスの土木会社がいくらで見積もりを出してるのかを事前に知り、それより安い値段の見積もりを出してアメリカの土木会社がフランスの公共事業をセリ落とし、それに対しフランス側が文句を言った。その後、EU内でエシュロンでは解読できない暗号文章の製作・解読ソフトを開発し無料でダウンロードできるようにしたという話が、CBSニュースでありました。

2)米軍が世界の警察として世界の利益を代表することで、各国でそのコストを分担して負担する。つまり、今日本が米軍のコストを一部負担する形でアメリカの核の傘の下にいるように、米軍を母体にしたような多国籍・多民族の世界警察作ってその軍に万一のときは守ってもらいましょうってやつですね。これは自衛権を放棄してるようで、非常に現実味が薄いと思えるでしょう。そして現在の日本を悪い意味で自己肯定してるなと思えるでしょう。でもね、笑ったのが、冷戦終わった頃、アメリカかどっかのドキュメンタリー番組でさインド・パキスタン戦争に触れて、今後、このような非キリスト教圏が核を持つようになると、日本のようにカミカゼアタックを仕掛けてくる可能性があり非常に危険です。彼らはクリスチャンじゃないため、自殺を肯定し、死を恐れず、理性がないゆえに核抑止力も期待できません。ってなナレーションが普通に入るのね。番組作ってる人はまさかこれが日本に流れるとは思ってなかったと思うんだけど、核抑止力のはたらかない国への核流出をものすごく恐れてて、非キリスト教圏=理性がない=抑止力なしなんだ。いま、人工衛星の打ち上げってアメリカも中国やソ連でやってるんだよね。アメリカはスペースシャトルの有人飛行船打ち上げ技術ばかりに費やしちゃって、安く人工衛星を打ち上げる技術を開発してこなかった、携帯電話の通信や衛星放送関連の人工衛星需要が高まる中、中国でやればアメリカの半分から三分の一の値段で打ち上げられる。で、年間百以上中国で打ち上げてるらしいんだけど、ロケット打ち上げる技術とミサイル打ち上げる技術ってほとんど同じで、アメリカの軍事技術が中国に流れて良いのかってなネタがあったり。核実験はインドもパキスタンもやってるし、ウランは旧ソ連から流出してるし。アメリカとしては非キリスト教圏に軍事力はあまり持ってもらいたくない。でも、アメリカ自体は核を含め軍事力を維持したい。したときに、それを肯定させるような説明をしようとしたら、アメリカが人類代表として、世界警察として、皆様のために軍備を持っているのですよという言い方しかできないんだ。

1)は米軍のコストはそのままで、アメリカへの利益誘導をもっと増やそうというもの。軍事力を背景にした利益誘導が増えれば、アメリカ以外の国、非キリスト教圏の日本だのパキスタンだのアフガンだのも軍拡路線に走る可能性があります。2)は利益を一国でなく公共的なものに帰属させることで、コストも共同負担させようというものです。アメリカ一国のみの軍事的優位を正しいものとして世界に承認させるにはこれしかないでしょう。これならアメリカ国民には冷戦時代よりも安い費用で軍備を維持できることをアピールできるわけです。

私は米軍がアメリカの利益のために働く軍隊でなく、世界の利益のために働く、つまり個々の場面ではアメリカを罰することもありえる軍であって欲しいわけです。今日の日記は完全にキチガイのたわごとですが、まあ、こんな日もあるさと。

10/4 大学の図書館に行ったら試行がほぼ全巻そろってて、一日で心的現象論序説をコピーできてラッキーだったのですが、そこで夢・心像(起きた状態で音や映像を空想すること)についての項を読んでると、気分が非常に悪くなって、かつクォークについても考えてたので変な絵やイメージがガンガン入ってきて、寝てようが起きてようが、意思と無関係に映像が浮かぶから疲れるという状態で、メビウスアートラグのクレア本クォークで写真を使いまくったページを作ろうとしたときに、失敗例もいっぱい見てるわけです。

どこかの新聞社が女性のページと称して、女優さんや女性アイドルに人生観や生活やに関してインタビューして、その女性の顔写真と活字で紙面を構成するというのをやっていたのだが、本当に顔のアップのみで服もどんな服を着てるのか分からないし、場所もどこで撮ってるのか分からない。活字もハタチそこそこのアイドルに人生観聞いてどうするんだって内容だし、女性の意見を尊重と言いながら実際にはアイキャッチとしか考えてないのがミエミエだった。

他にも写真を取り入れた漫画というのを何度か見たことがあるが、ポルノかじゃなきゃ、人物の顔写真+セリフの繰り返しで背景や体の動きのない物が多かった。手塚治虫氏が漫画に映画的手法を取り入れた。山間の一本道・遠くの方から一台の車が走ってくる・車の絵が大きくなり運転席には男の子・男の子の顔のアップ・男の子の目のアップ。新宝島の冒頭の絵は、対象に対して徐々にカメラがズームアップしていく視点の変化を表現している。漫画は背景を動かすことでカメラの視点移動を表現した。写真を取り入れた漫画はたいてい、カメラの動きや背景の動きを表現してない。人物の顔のアップ&セリフ、顔のアップ&セリフが続いていくのがほとんどだ。それでは漫画や映画と比べて相当劣った表現になってしまう。

狭いコマの中に白黒コピーでたくさんの情報を詰め込もうとしたとき、面が写真では真っ黒につぶれてしまうことが多い。劇画という手法は写真をコピー機にかけたとき、つぶれてしまう面と面の境界線を手でトーン・ベタ・ホワイトで区切り、白黒の修正写真を作る手法だった。現に写真家の一部から、漫画が写真の著作権を無断使用してるとの指摘があったりする。私は劇画時代よりコピー機の解像度が上がってるから今なら写真をそのままコピーしても使えるのじゃないかと甘い期待でやってみたのだが、あまり上手くいかなかった。ただ、通常、写真を白黒印刷するとき、業者に頼んで網がけをしてもらうのだが、今はパソコンがあるので写真をスキャンして、プリントアウト時に網がけすればそこそこ、劇画チックな絵として使えるものになったりはする。

ニュースステーションでタリバン側の人間がインタビューに出ていた。「証拠を出せばビンラディンをアメリカに引き渡す」と言った後、「アメリカ大使館焼き討ち事件の証拠は出てるのですが、その件に関しては引き渡さないのですか?」との質問に「証拠があれば、我々のイスラム法廷にビンラディンを引き渡す」と言い直した。つまりアメリカ側には引き渡さないと言うことだ。アメリカ経由でなく、衛星中継の生放送で編集もなしのインタビューで出た結論がこれだ。アフガニスタン北部の反タリバン勢力からの情報でなく、直接タリバン側が出した答えがこれだ。アメリカがいくら「タリバンは交渉が通じない」と言っても、タリバンと敵対してる側からの情報では信憑性は薄い。タリバンが直接話してる内容を私は聞きたかった。アメリカのラジオ局がオマル氏のインタビューを無編集で(アメリカにとって都合の悪い情報も切らずに)、放送したらしいが、日本では「アメリカは正義だ。タリバンは悪だ。」というアナウンスばかりが根拠も何も示さずに感情だけで流されていた。テロが起きた当初、イギリスで頻繁に流されたアナウンスが「すべてのアラブ人が悪いわけではない」というイギリス国内のアラブ人の身の安全を確保するためのアナウンスであったのに対し、日本はなんて遅れた国なのだと思った。

アメリカがイラクに対して簡単に空爆できるのに対し、アフガニスタンに対して簡単に空爆できないのはなぜか。フセインは自分たちに都合の悪い情報をもみ消すために報道規制を引いて国内のあらゆる情報を国外に出ないようにしようとしたが、ビンラディンは公式HPを2つも持ち、プロモーションビデオも作り、新聞にも記事を書いて、ラジオにも出る。言語という表現手段を持ってる者と持ってない者の差だと思う。表現技術や手段を持ってる者に対し、手続きや説明もなしに空爆をすれば、自分達が悪者になってしまう。昔、日本赤軍は武力でもって政府を制圧できると考えた。中核派は政府の正規軍と正面衝突しても勝てないと考えた。全面戦争をして勝てないなら一点突破で、TV局を制圧し、自分たちの掲げる正義を訴えれば、共感してくれる人たちが自分たちの下に集まるだろうと考えた。フセインは赤軍でビンラディンは中核派だ。「聖地サウジから、アメリカ軍は撤退すべき」というビンラディンの主張には説得力がある。そしてそのような主張をする人がいることを広く世間に知らしめるにはテロが必要であった。アメリカには黒人のイスラム教徒、ブラックモスリムの人間も大勢いる。モハメッドアリやマルコムXが有名だが、黒人ではなくアラブ人がテロを起こした。イギリスやアメリカに住み英語やフランス語のできるインテリのアラブ人だった。パブリックエナミーは自分たちのことを「黒人のCNNだ」と言っていた。白人ジャーナリストが白人の視点で作るCNNでなく、黒人のCNNだと。アメリカの黒人にはラップを含めまだ自分たちの表現手段があった。ビンラディンにとってのラップがテロだったとするなら、アラブ人による表現手段をテロ以外の形でアメリカ国内に成立させるべきだった。エミネムがアメリカで人気があるように、現在のアメリカにはプアホワイト層が確実に存在してて、そのプアホワイトに支持されて出てきたのがブッシュJrだという気がする(裕福なインテリほど民主党寄りで、ゴアとかヒラリーなんてのは、インテリの典型でしょ)。プアホワイト層には異文化や異民族を受け入れる余裕がないのも理解できる。でも、反テロリズムの立場からもビンラディンらの主張を編集やどこかの国やを通さずにメディアに乗せることは非常に重要だと思う。彼らの主張が分からないと、彼らを批判することすらできないのだから。

TVでハマコーが「いま日本に必要なのはアメリカの望むあらゆる軍事協力をすることだ」ってな内容のこと言ってて、それじゃ言語能力のないフセインと同じだよと。空爆されちゃうよと思ったんだけど。ドイツなんかは湾岸戦争のときに軍隊出してくれと言われて「ドイツ空軍の優秀さを再びあなたたちの前にお見せしてよろしいのですね?」とブラックジョークを言って断ったってんだけど、小泉総理もそのぐらいのこと言ってみろよ。「本家本元の神風、お見せしましょうか?」「あなた方の育てたアフガン兵が今ではあなた方を脅かしてますが、いま日本で兵を育てれば20年後にはアフガン兵より強大になってるかもしれませんが、よろしいのですね?」「いまの日本の経済状態は第二次世界大戦前と酷似してるのですが、軍備を増強してかまわないのですか?」今度、自衛隊をパキスタンに派遣するために作った法の内容、ワイドショーでやってたのですが、あれはアメリカも怒って当然だし、日本人だって怒るよ。非戦闘区域に非武装で行って、集団的自衛権を持たずに、個別的自衛権のみを持つってんだけど。例えば、アメリカの空母を護衛する形でイージス艦を横に付けて、空母が攻撃されたとき、イージス艦は、空母周辺を戦闘区域だと判断して、非戦闘区域に逃げる。イージス艦が攻撃されたときのみ反撃する。パキスタンに援助活動で行くとき、戦闘服で非武装。ゲリラに襲われたら、武装してる他の国の活動隊はその場に残っても、日本のみ非戦闘区域に撤退。反米デモが起こるパキスタンに何で、自衛隊が戦闘服着て非武装で入っていって、身の危険を感じたら自分たちだけ逃げるの。反米感情持ってる側、親米感情持ってる側の両方にけんか売ってるよね。せめて現地の人と同じカッコをするとかさ。敗戦直後の日本で米兵が食糧の配給をする映像でも、使われるのは味噌汁やトン汁を配ってる映像でしょ。当時アメリカ国内で余った小麦やパンも大量に入ってきて給食なんかで使われたんだけど、日本になじみのないアメリカ食のパンを配られても、ありがとうとは思わないわけよ。アメリカには存在しない日本料理の味噌汁やトン汁が出てきてはじめて、ありがとうと思うわけでさ。現地の服着ようよ。

9/25 法にとって重要なのは相手を裁いた法で自分も裁かれるってことだ。形式上、殺人を奨励するような法や一日一回の窃盗を義務付ける法など作ることができるが、自分は人を殺しても良いが相手は人を殺しちゃいけないという法は作ることができない。

◇日本の沖縄でレイプをした米兵が、アメリカ領の米軍基地に戻ってから逮捕状が出たと。アメリカは日本の米兵引渡しに応じず、アメリカ国内で裁判をして陪審員で無罪になったと。アメリカ側にとっての法がそのようなものであるなら、アメリカでテロを起こした首謀者の逮捕状をアフガニスタンに出して、アフガニスタンがそれに応じず、アフガン国内で裁判をして陪審員で無罪でも文句は言えないはずだ。
◇ある政権がアメリカに聖戦と称して宣戦布告をし、アメリカ本土の民間人を殺したと。これを法律違反だというなら、アメリカは宣戦布告をした敵対国に対して非民間人だけを殺すやり方で戦争をやらなければならない。宣戦布告をし戦争だと公式に発表しさえすれば敵国の民間人も殺して良いというのであれば、アメリカを攻撃したその政権も法を犯してないことになる。
◇テロリストにとって、最大の責任の取り方は自殺だ。テロリストが大量に人を殺す。お前らは生きる価値のない人間だと銃を発砲する。周囲に発した殺意が最後は自分の元に返ってきて自分自身も殺す。彼の中で周囲を裁く法と自分を裁く法の一貫性は保たれている。自爆テロの実行犯は彼自身の中の遵法精神にのっとっている。

国際法というとき、条約という文章化された法が一方にあり、もう一方に不文律の慣習法があるとして、上記二つはアメリカ自身が判例を作った慣習法だと呼べると思う。日本にとって国際法を一番意識したのは極東裁判だ。あの判例を国際社会の慣習法として受け取ったのが左翼で、アメリカの思いつきででっち上げられた法だと、戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた弾劾裁判だ、あんなものは無効だと受け取るのが(小林よしのりが典型ですが)右翼だ。左翼の人たちが無抵抗の民間人を殺しちゃいけないとか、宣戦布告をせずに攻撃してはいけないとか、侵略戦争に打って出るのが人類に対する罪として戦犯に問われると言ったりするのは極東裁判を念頭において物を言ってるわけです。左翼寄りの日本人として物を言わせてもらうなら、日本はアメリカに対し法を守らせる義務があると思う。それが極東裁判で裁かれ、かつあれを正当な裁判として認めている側の論理だ。

右翼側の人間の論理で行けば、自衛のための軍備を持たない国は独立国家じゃないという話になる。雑誌などで噂として載ってる広島型原発並みの(旧ソ連から流出された?)核兵器の入ったアタッシュケースを持ち歩いてるというテロリスト・テロリスト予備軍は自衛のための核を独立した個人として持ってるだけで何も悪いことはしてないという話になる。歌手泉谷しげるが映画監督に挑戦した作品で、核兵器が各家庭に普及した平等な社会ってのが描かれているが、それが冗談でなく現実になってきたってことだ。冷戦時代と違うのは、核を持つ個人が死を恐れないため抑止力が働かないってことだけでしょう。良いジャン別に、一人一核で。

9/15 今回のテロにまったくといっていいぐらい無関心なんですが、片桐さんにコメント求められたりしつつ。テレビで民主党(アメリカのって意味ね。共和党に対する民主党ね。ある人からこの文章が党派的だって言われたんだけど、日本の民主党じゃないから・笑)政権だったら今回のテロは起きなかったってなこと言ってた人がいて、だよな。と思ったりもしつつ(クリントンの時にはローマ法王がイスラム教の偉いさんと対談したりしたんだよ)。周りみてても、「民間人を巻き込んだテロは良くない」という意見と「アメリカは石油がらみの利権があるからイスラエルを中東に置いてる。そしてアラブ諸国とトラブる」という意見があって、何千年も前から続くユダヤ教&キリスト教VSイスラム教の聖地&石油利権の争いなんですが、状況整理すると。

1今回のテロだけを見ればテロリスト側が悪い
2でも、長い目で見れば軍事力を背景にイスラエルを支援してるアメリカにも問題がある

というのが周囲見てると多い意見で、じゃあイスラエル単独であの場所に存在できるかとなると、アラブからの軍事的圧力があってバックにアメリカがいないと存在できない。イスラエルがなくなるということはユダヤ人国家がなくなることを意味するわけで、ユダヤ人はまた世界のどこに行っても少数民族という位置で生活しなきゃいけないのかという話になる。

マスコミは報じないけど、2の意見ってアメリカ人の中にもあると思うんだ。ワイドショーで川崎真世の奥さんカイヤ夫人がアメリカ人代表でインタビューされてたけど、言葉濁すし、デープスペクターとかでも、ビートたけしの「ここが変だよ日本人」で「アメリカはイスラエルから撤退すべきではないか」と言われたら言葉濁すもん。2に対してあえて反論しようとすると、ユダヤ人対アラブ人、ユダヤ教対イスラム教の対立の中に、アングロサクソンのキリスト教徒が無理やり入っていくからおかしくなるんだ。アラブ側が「メッカのある聖地サウジに米軍が駐留してる」と批判してそれに対してアングロサクソンが出て行って何言っても説得力ないのな。ユダヤ人が出てきて話せやと。

今回のことに関して、軍事レベルや経済レベルでの衝突にはまったく興味がなくって、文化レベルでどうなるかしか考えてないんです。軍事的にも経済的にもアメリカを含む西側の方が圧倒的に強いのははっきりしてると。問題は文化レベルでどうなるかってことで。一応、日本は西側諸国だからそっちサイドに立って書くけど、アラブの中でアメリカは悪だと言う教育がなされ、それが浸透し続ければ、軍事的にアメリカに勝つことが不可能だと分かっていても、悪=アメリカに対して自爆攻撃は続くでしょう。日本がアメリカを支援すれば、日本も自爆テロの標的にされる可能性もあるでしょう。軍事や経済レベルで勝ってもそれは一時的なもので、イスラエルを支援する限り地道なゲリラ活動は続いていくと。

戦争を終わらせるのに必要なのは教育と広告だと私は思います。文化レベルの衝突において勝つのは相手の文化をより早くより深く吸収した側だと思うんですよ。日米の戦争において日本は敵性言語を排除し、アメリカはむしろ大学において日本語の受講者が増えた。敵国の暗号や通信の解読に日本語は役に立ったと。

戦争をやめようというメッセージを日本語のビラで上空から撒いたり、ラジオで日本語で訴えたり、戦場で日本の懐かしい古いレコードをかけて、日本軍からアメリカ側へ逃亡することをうながしたり、色々したわけです。アメリカ兵に捕まったら殺されると教育されてる日本兵に、我々は敵国からの逃亡兵を殺したりはしませんよというメッセージを送るわけです。相手の言語・相手の文化的土壌の上に立って、自分たちなりの正義を広告・教育していくってのが、GHQに占領された後もアメリカは上手に行ったわけです。食べ物の配給をする米兵の姿を大々的に報じたりとか、そういうのが非常に上手かった。中東戦争が何故終わらないかと言えば、軍事レベルで勝っているアメリカが、文化レベルではイスラム社会に浸透してないってことでしょう。特に今回のブッシュは異文化を理解できるほど賢くなさそうですし、どうなるのかなと。

もう一つの関心は、法レベルでの決着をどうつけるのかにあるわけでして。法的なことを言えば、誰がやったということをアメリカは証拠物件を持ち出して明確化しなきゃいけない。でも、その際証拠として出すときに世界中のWeb・放送・通信を傍受しているというエシュロン技術が役に立つと思うのですが、その犯人グループの通信を何故傍受できて録音できているのかというツッコミも当然出てくるわけで、それまであるともないとも公式にはコメントせずにいた(けれどもCBSニュースではあるものとして報じられてた)エシュロンの存在を公式に認めるのか?

とかテロに関してはアメリカ国内で行われたのでアメリカの法で裁かれるのでしょうけど、テロリストをかくまう罪は、テロリストが犯罪を犯した国の法とテロリストをかくまう罪を犯した国の法律とどちらの国の法で、どちらの国の裁判所で裁かれるのだろうとか。

法や文化レベルでの勝利を目指さずに軍事的勝利だけを目指すと短期的には米軍が簡単に勝って、でも中東戦争は続くとそんな気がしたんですね。ただ、アメリカがわざと中東戦争を長引かせてるかもしれないという仮説もあって。第二次大戦時、戦争終結後新たな対立軸(米・ソ)が見えていたので、アメリカは日本とドイツにアメリカ型正義を急速に宣伝し教育しました。日本とドイツにアメリカ型正義を根付かせて冷戦下でアメリカサイドに立たせたかったからです。

今回のイスラエルvsアラブにおいて、米国内にユダヤ人の数が多く大統領選の票として無視できなという理由を除けば、石油利権があるためアメリカはイスラエルを支援してると。でも、アメリカがアラブ諸国に対してアメリカ型の正義を教育・広告することに成功し、イスラエルが国としてアラブに承認されたら、イスラエルはアメリカの後ろ盾を必要としなくなる。用心棒としてアメリカを雇う必要がないので石油利権もアメリカに回さずイスラエルで消費することになる。これはアメリカにとって都合が悪い。

イスラエルに武器を回してるのがアメリカだとして、どこの国がアラブに武器を回してるのか?西側諸国が一致してイスラエル支持であるはずなら、アメリカを敵に回してまでアラブに武器を売る馬鹿居ないと思うんですよ。西側諸国が意図的に、両方に武器を回して戦争を長引かせている。武器を売ること、石油をもらうこと、新兵器の実験場としても優れていること、どう考えても戦争が長引いたほうが西側諸国にとって都合がいい。マルクスが指摘したような、途上国間の戦争をけしかけて両方に武器を売って儲ける武器商人の姿があるのではないか?という仮説も成り立つんですね。

9/4 こうゆう、4段組の左上縦二段ぶち抜きみたいな、複雑なレイアウトをしてみたかったんだよな。ワードでも無理すりゃ出来るかもしれないんだけど、右ページみたいな目の画像の横幅と文字部分の横幅がきちんと合うとかっていうと、ワードだときついんだよ。して、いまWin版のクォーク無理すりゃ買えるけど、買うか?買わないか?状態で。だって、Webの場合、レイアウトも何もみる人の画面サイズやブラウザは指定できないし、文字サイズだってブラウザ次第で変わっちゃうし。

メビウスアートラグさんのクレア本より。コンビニコピーでここまで出来ることに感動

クォーク買うってことは、アクロバットリーダー読み込みするにしても、紙媒体で何かをやるってことだし、写真やイラストにだって、下手すりゃ漫画にだって手を出すってことを意味するわけで。本当に写真やイラストやCGに手を出す気かよお前?って声と、クォーク欲しかったんだろ、買いたきゃ買えよって声が聞こえて、かつ、クォーク使う職種を本気で目指すのか?Win版のクォークって使えるようなったとして、職場じゃ普通Macだろ?とか、色々とノイズが走りつつ、心的現象論序説はどこ行ったんだよとか。羊5さん、俺どうしたら良いんでしょ?

9/2 自分が何をしたくて何を欲しいのか分からなくなってるとき、大事なのは昔何が好きだったかってことだ。東京に来てすぐの頃、すでに廃刊になっていた雑誌:よい子の歌謡曲を古本屋でよく買いあさっていた

「よい子の歌謡曲」No20昭和60年3月1日発行より

p9「春は終わりの季節」より「就職活動は僕にとって僕がいかにバカであるかを確認していく作業だった」

p50「世界と一緒に沈んでいく」より「TVのある部屋でしか、呼吸できないの?」

「広告だって好きだ。僕は何を隠そう広告研究会に4年間いて、4月からはヤクザなマイナー代理店稼業である。ちなみに『広研面白いんじゃない』とイージーに勧めたのは梶本学だ。広告に非常に敏感に嫌悪を示す人は中島誠君ですけど、さすが左やってた人は違いますね。」

「実は2年前の夏から僕は都内の某レコーディングスタジオでバイトしている(電話をとったり、お茶だししたりする)。メジャーな歌謡曲のアイドルもよく来るところで、リズム撮りからトラックダウンまで全部できる。伊代が『時に愛は』撮った時には尾崎亜美が付っきりだったり、『永遠に秘密さ』は達郎の仮り歌がメチャメチャカッコ良かったり。」

「だから僕は自分のためにだけ文章を書いていたようなものだ。『よい子の歌謡曲』という場所に居ることに意味があったみたい。昔、配本で一度に250部かついだことがあった。250部ってどんな重さかわかる?そんな量かつげたのも、この集団にどれだけ入れ込んでたかを示しているようなものだった。配本とはそういうナルチズム確認の行為だった。少なくとも僕にとっては。『よい子』についてすることすべてが自分に対する投資のようなもの。メジャーになりたかったんだよね、実は。就職やっててやっと見えてきた。見事なまでに抑圧してたよね。『よい子』はそんな僕の大部分。中島君、”「よい子」を「アンアン」みたいにしたい”と編集長に言ったのは僕です。地方人の成り上がりの欲求と言ってくれてもかまわない。僕、がそれだけのものでしかないことを知ってしまったから、何言われてもヘラヘラ笑ってるし。」

どれも、1985年のもう15年も前の波田浩之さんの文章だが今見ても泣ける。

よい子歌謡のディスクレビューが「斉藤由貴/卒業」「尾崎豊/卒業」「遠藤みちろう/仰げば尊し」卒業特集とはいえ、すげーならびだろ?他にも、"ジャニーズなのにRockBand"ザ・グッバイ、ルースターズ、佐野元春、”高偏差値自殺アイドル”岡田由希子、”ノイズ系ニューミュージック”アーントサリー。よいこ歌謡ノリのちょっと良いページ発見

8/20 SPAのだめんずウォーカーは、ある種の嘘をついている。「ハイソな生活をする専業主婦=シロガネーゼVSローアーな生活をする働く未婚女性=だめんずウォーカー」という図式で引っ張ってきてて、元々あの雑誌の中であの漫画の位置ってのは馬鹿な著者の実体験を読者が優越感に浸りながら笑うというものであったはずが、著者がシロガネーゼをうらやましいとも、ねたましいとも思ってないことが読者には読めてしまう。自分たちよりも上手な生き方をするシロガネーゼを自分たちよりも賢い人達=うらやましいという建前で笑いを作ろうとするのだが、本音の部分では専業主婦という前近代的な馬鹿な生き方を選択したツマンナイ奴という、シロガネーゼに対する優越感がにじみ出ている。これが決定的になったのは、著者の写真やプロフィールが雑誌に載ったときで、一流大学を出て、一流企業に就職して、そしてバリバリのキャリアウーマンの地位を捨てての漫画家への転身。写真を見ると、少々おばちゃん体型になってはいるものの、かなり美人で、学生時代はもてたでしょ?ってタイプの女性だ。男に不自由してないから未婚、男に依存してないからペットとしてのだめんず。そこから読み取れるのは、読者より低い位置に居て、お客様に優越感と上から見下ろした笑いを提供するという連載開始当初の企画から、働く未婚女性のオピニオンリーダーに転身した著者の姿だ。私はそんな著者の芸風を悪いとは思っていない。彼女がやっていることは法政大学教授、TVタックルで有名な田嶋女史的フェミニズムをより精錬されたやり方で、オシャレな芸能として、けれども地に足の着いた、生活費を稼ぐためにあくせくする実体験として、表現するやり方だ。

実はだめんずとシロガネーゼ、だめんずウォーカーとシロガネーゼの夫は男女の性別の違いはあるが、社会的・家庭的役割は似ている。外で働く男女と、その男女の癒しとして存在するペットの関係だ。プレーヤー/マネージャー、労働者/管理者と言ってもいい。あの漫画の中でだめんずは圧倒的に何もしない悪として書かれているが、本当に彼らは労働をしなかったのだろうか?どんな時間に電話しても必ずつながる携帯を持っていたり、「今からどこかに遊びに行きたい」と言ったら、必ず車で迎えに来てくれたり、どんな時間に帰宅しても必ず起きて待っててくれたり、やる気の起きない無機質で空虚な労働に対して、具体的な目標設定をしてくれたりしなかっただろうか?

ちょっと具体的な話しだすと、だめんずウォーカーの職業ってぇーと水商売や風俗関係が多いと思うんだけど、彼女たちの彼氏の条件としてまず上がるのが時間が合うことなんだよね。水商売でも風俗でも、休日・土日・夜が稼ぎ時で忙しい、逆に空いてるのが平日の昼。水商売の場合、終電で帰るか始発で帰るかAM3時ごろ自分の足で帰るかだけど、12時の終電で途中ラーメンでも食って帰れば1時2時。従業員と終電後飲みに行って始発で帰ればAM5時。この時間帯に起きてて待ってる。電話一本で車で迎えに来てくれる会社員ってのはあまり居ない。店始まるのが夕方6時からだとして、起床が夕方5時。この時間帯に起きて「遅刻しそうだから」で車で送ってくれたりする優しい彼氏が会社員である可能性は低い。仕事終わりでストレスたまってて、愚痴聞いて欲しい、パーッと遊びたいで、AM3時TELして捕まる男って、翌朝仕事ない人でしょ。夕方5時に起きて、明け方明るくなるまで遊ぶってライフスタイルに合わせられる人って、学生か自営業か無職に限られるジャン。精々、同じ業種で働いてる人とかさ。はじめっから彼氏の条件が無職及びそれに限りなく近い人に限られるんだよね。また、そのような条件、彼女のための時間をいつでも裂けるって条件を維持し続けてる男ってのは、ヒモ・ホスト・風俗系のスカウトマン・従業員・マネージャー、何でも良いんだけどその条件を維持し続けるために、常に相手の女性が一定の利益を上げられるよう管理するのが上手い。やる気の起きない無機質で空虚な労働に対して、具体的な目標設定をするってんでも「夏には2人でどこどこに行きたいよね」ぐらいから話入って、「いつまでにいくらためる」って話になるんだよ。その努力目標ってのが、頑張れば無理じゃないけど、サボるととどかない、相手の能力とコンディション見て、絶妙なラインに置くんだよ。彼女が働いてる時間にさ、その女の子の写真をグラビア系のカメラマンから風俗情報誌からAV製作会社まであちこちに郵送して、年齢的に風俗が厳しくなったら、ホステスとしてのしゃべりかたやマナー教えて、最終的にはバーのママとして独立して自分の店が持てるようになるまで店の独立資金ためさせたり、ノウハウ教えたりいろいろするわけジャン。その女にくっついて、その女の稼ぎで食わせてもらってるだめんずってのは、その女が稼げなくなったら自分も食えなくなるから、割と必死にマネージメントするんだよ。そのだめんずってさ、自分の自由に出来る金がいくら必要だって努力目標が、相手には言わないけどあって、2人で生活するのにいくらかかるとかあるジャンやっぱり、その利益目標を達成できなくなったときに、その女のもと去ったりすんだよ。

これって、ある種マネージャーだし、ある種専業主婦だと思うんだ。60年代、団塊の世代ってのは会社が雇用も努力目標も人生設計もしてくれたわけジャン。生命保険のおばちゃんが「いつ入社して、いつ定年で、この辺で課長になって、生涯賃金いくらで、だからこの生命保険入った方がお得」とかのとき使う給料の折れ線グラフ通りの人生を会社がある程度保障してくれた。専業主婦ってのは30半ばで子供小学校行くか行かないかの時期に「おれ、会社辞めて田舎で牧場やろうと思うんだ」とか言われない限り、人生設計なんて考えなくてよかった。男も一緒で、会社にいれば、班長・係長・課長とか、何か肩書きつくし、3年もいりゃ後輩や部下やも出来るし、偉くなったような錯覚も起こせたわけだ。家が30年ローンだとして定年までに払い終えたいから、逆算して30までにローン組んでとか、言えたのが、

8/8 心的現象論序説のリポート提出の宿題が羊5さんから出されてて、北洋社版の心的現象論序説(試行15〜28号まで分収録)と、試行の68号から73号までの心的現象論序説のコピーを中央図書館から手に入れたのですが、74号が試行の最終号ですから抜けてるのは29〜67までと74。ほとんどですね。頑張って収集します。

私にとって、学者としての吉本隆明というのは柳田国男−折口信夫の流れを汲む民俗学の人だという認識なんですね。「共同幻想論」では天皇制の成り立ちについて、もしくはある個人の中で発生した概念が世間一般に共有されるまでのプロセスについて、「言語にとって美とは何か」では言語の成り立ちについて、民俗学的な手法で説かれています。で。「心的現象論」ですが、前半の方は心理学的な手法と内容になってます。こっちはもう少し時間下さい。今のところお手上げです。ただ、彼ははしがきで「本稿が文芸批評の原則の追及として」読まれることを望むというようなことを言っていてですね、内容は心理学的なのですが、目的としてはあくまでも文芸批評なんですよ。心的現象論は言語美の続編として試行に連載されたのですが、言語美において彼は言語を指示表出と自己表出に分けて考えたました。話者の外側の物事を語る指示表出と、話者の心の内面を語る自己表出ですね。言語を二つの要素に分けたときの半分をこの心的現象論で解き明かそうということだと思うんですよ。

それだけじゃあれなんで、前回の続きで「浅田ファンから見て何故吉本は変なことを言ってるように見えるのか?」について書くと、浅田彰ファンてのは、いかにもインテリ然とした浅田彰のルックスやファッションやフランス語・英語・日本語がチャンポンになった三ヶ国語ごちゃまぜ文体に憧れて、「ディコンストラクション」だの「リゾーム」だの「器官なき身体」に「多数多様態」といった言葉を使ってたわけだ。そうゆうファッションから浅田に入った人から見ると、吉本隆明ってのは共同幻想論で「口寄せ」だの「霊媒」だの「狐つき」だのといった前近代的な話をしてる。それも卑弥呼から天皇制に至るプロセスをあたかも見てきたかのように語ってる。何でそんな何千年も前のことを見てきたかのように語れるのだ?ちゅう話だ。

結論から言うと吉本隆明は見てきたんです。文化人類学者ってのは様々な辺境の地に行って、未開の地の風習を観察し、未開の地の文明を近代文明への発展過程に置き換えます。つまり、場所の隔たりを時間の隔たりに置き換えるんですね。吉本隆明がやってるのもそれで、細野晴臣・中沢新一著の「観光」に出てくるような恐山のイタコや出雲の巫女等をおそらく見聞きして書いてるんですよ。吉本の言う「大衆」が、柳田国男の「常民」と類似してるのはよく指摘されることですが、文化人類学者が、辺境の地の原住民に成りすまして未開の地の習俗を観察するように、民俗学者も自国の原住民に成りすまして、自国の中の最も未開だと思われる場所に忍び込むわけです。学校の教科書に載ってた柳田国男はまるで水戸黄門か松尾芭蕉のような江戸時代の旅装束でした。第二次大戦前後に生きていた人とは思えないほどのコスプレです。吉本隆明も刈り上げた頭とよれよれのくたびれた麻のTシャツ姿で、どう見ても知識人には見えません。単純肉体労働者の服装です。80年代、大学生の間ではニュートラディショナルブームでIBやDCブランドが流行り、ソフトスーツやブレザーが標準でした。まして浅田ファンならいかにもインテリというスーツに当然憧れてます。そんな中で、吉本隆明は未開の地に住む日本の原住民ルックなんですね。民俗学者としては調査対象に溶け込む服装というのは当然のことなのですが、浅田ファンにはその辺がいまいち理解できません。吉本隆明自身が途上国の部族社会の酋長に見えてしまう。面白いのは柳田国男はあんなかっこしててフランス語が出来たって言うんですね。吉本隆明も会社を首になった後のアルバイター時代、フランス語の翻訳をしていたらしいんですよ。なんでも外国の企業が日本に進出する際の会社の登記簿関連の書類を訳してたそうですが。

80年代学術的な内容ではなくファッションとしてのみ流行した軽薄な浅田彰現象を柄谷・蓮見はじめ、多くの知識人が批判しました。で、それは浅田彰さんが悪いのではなく、表面のみで浅田の真似をしてしまった浅田ファンが悪いんですね。浅田さんに責任はないわけです。俺なんかも同時代ではないのですが、やっぱしミーハーノリで、「若者たちの神々」で筑紫哲也氏と対談してる浅田彰氏の白いセーターがでか過ぎてサイズ合ってないし不恰好だと思いながらも、写真切り抜いてブティックで「このセーター下さい」とか言ってたクチなんですが、そういう現象を批判した柄谷さんが、何故、両サイドと後ろを短く刈り上げて前髪を少し長めに残すあの髪型なのか?何故、学者なのにスーツを着ずに肉体労働者風のシャツを着ているのか?柄谷のファッションや髪型が何故吉本隆明と似てしまうのか?辺りを考えると、誰もが始めはカッコから入るもんなんだなと思うわけでして。

アブダビコンバットが間接技の世界一決定戦で、K−1が打撃の世界一決定戦なら、リングス辺りが投げ技の世界一決定戦開いてくれへんかな。投げオンリーで、サンボ・柔道・アマレス・相撲の異種格闘技。投げオンリーだから、体に取手は必要でしょ。例えば柔道を前提に考えると、帯とエリとソデは必要だと。でもショーの要素を考えるなら、肉体美は見せておいた方がいい。それと、柔道みたいに柔道着の乱れを直すために、試合の流れを止めるのもまずい。袖や帯をゆるくしておいた方が、投げられにくいから有利ってのも良くない。牛革のベルトを金具で固定して、ベルトが上に抜けないように、相撲の回しみたいに股にも一本通して、そのベルトから肩にかけてサスペンダーやアマレスのコスチュームみたいにY字かX字に、前から後ろに一・二本ベルト通して、あと、両手首に引っかかりのあるリストバンドみたいなのつければ、持つ場所いっぱい出来て、どの競技やってる人でも自分の好きな持つ位置を持てる。なんかそんなん見てみたい。

アイドルポップスが好きだ。アイドルポップスが好きだというのは近代資本主義社会に対する全面的肯定にほかならない。一人の天才より10人の凡人。一人の熟練工の手作業よりも10人の見習い職人によるベルトコンベアの流れ作業。シンガーソングライターというのが一人の天才による一点突破だとすれば、近代資本主義は匿名の低技術者集団による強固な建築物。時間と共に自然と崩壊すると昔のマルキストに思われた資本主義は思ったより頑丈だった。スガシカオやドラゴンアッシュよりビーイングやエイベックスの音楽製作集団ってことだ。

8/5 言いたい愚痴が大量に溜まりつつ話す相手もいない。少々テンパリながらも、今日はWEBで買った「心的現象論序説」と「長靴を履いた猫の靴下」が書籍小包で家に届いていたので良いとしよう。ちなみに、心的現象論って30年も前から連載されてる奴で、最後の単行本が82年、俺が昔読んでたのは95年、同じ心的現象論でもどれのこと言ってるねんというツッコミは常にある。竹内義和の「長靴」は廃刊になってないので古本で買う必要もないのだが、書店で探す手間を惜しんでWEBで買った。片桐さんの「20代後半から30代前半ってすっごい生きにくいでしょ?思春期でもないわけじゃん?それを表現するジャンルってのが無いんですよね。」ってなセリフを思い出しながら20から30代フリーターの心情をリアルに描いたガロの漫画や「長靴」をパラパラする。

BUBUKAなんて雑誌をコンビニで立ち読みしていると、モー娘の写真とキャプションが載っていた。ティアドロップ型のグラサンでメンチをきる矢口についたキャプション「殺すぞ」。他には、「あゆのエピゴーネンをひきづる矢口」「**チャンはどんな音楽がすきなのですか?あぶらだこ?インキャパシタンツ?」てなニューアカ語、ノイズネタ満載。鈴木あみの最新シングルをノイズバンド、ホワイトハウスに例えていたのも確かBUBUKA。

7/21 明治時代英文学が漱石、ドイツが鴎外、フランスが永井荷風で、ロシアが二葉亭四迷。要するに文学者の仕事とは外国文化の輸入をすることだったという話で、それを現在に当てはめると、英文学科の教授が柄谷、フランス思想を輸入したのが浅田、ヘーゲル平らげ研究会でドイツ語でヘーゲルを読んでいたのが竹田青嗣、日本の古代文化(民俗学・文化人類学)を研究してたのが吉本隆明。それに現在の日本文化に考察加えるのが、東さんとか大塚英志さんになってくるんだろうけど、それはそれとして。

今回吉本隆明についてちょこっと書くと、トリッパーという雑誌で、吉本隆明特集したときに、30代の若手と呼ばれる物書きが対談で吉本隆明をおちょくってるわけ。その次の号で大塚英志さんがその対談に触れた後、でも、吉本隆明にはなんとも言えない凄みがあるってなこと書いてる。俺らの親世代=団塊の世代に吉本ファンがたくさん居て、柄谷・竹田青嗣も吉本信者の一人なんだけど、その世代の人が何故吉本隆明を好きなのかって部分と、それより下の世代、80年代以降思想書を読み出した浅田ファンにとって吉本隆明の本が奇妙な文章に思えるのは何故かって部分。この辺について考えたい。

個人的な話からし出すと、マスイメージ論やハイイメージ論の最初の方はリアルタイムで読んでたし、好きだったんだけど、吉本隆明自らが主著だと言ってる「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」「心的現象論序説」の三つは、正直あまり読んでない。難解だってのもあるし、正直、吉本ファンの中にもこの辺を読んでいる人、この三つに関してコメントしてる人が少ないってのもある。上記三つに大雑把に目を通して最初に感じたのは違和感だった。

違和感を感じた箇所をちょこっと書き出すと、勁草書房刊「言語にとって美とはなにか」のU巻目の6・7ページ目、日本の古代において詩がどのように発生してきたのかを探る箇所で、古代歌謡(奈良朝以前)と王朝歌謡(平安朝)を区別した上で、「古代歌謡の資料として現存するものが記紀歌謡の百九十首と風土記歌謡二十首、続日本記歌謡8首の合計二百二十首しかなく、しかもそのうち最古のものだと考えられる記紀歌謡にしても文字によって表現された日本最古の詩であるにも関わらず、かなり高度な詩であり、「詩の発生の原像をほとんど保存していない」と言うわけ。記紀歌謡から詩の発生を論じた論考に対して「ときには、みてきたような嘘をいいといった類いの解釈をつみかさねている」とまで言うんだけど、活字化された最古の詩ですら資料として使えないとすれば何を根拠に隆明は詩の発生を論じるんだろう?つう話だよね。

29ページ目に「したがって、足でまわって集めた資料や耳でききあつめた資料を、まるでレンガのようにつみかさね(略)無方法の累積が、わたしたちの頼みうるほとんどゆいいつのものである。」とあって、以下柳田国男の集めた資料を使うことになる。ちなみに柳田国男の集めた資料は共同幻想論でも使われるのだが、最初、俺には隆明が何を言おうとしてるのかさっぱり分からなかった。だって、柳田国男って、古く見積もっても精々100年前、記紀歌謡が約1000年前の資料だとして、どう考えたって記紀歌謡の方が古いでしょ?何言ってるのこの人?ってなわけだ。

団塊の世代に吉本隆明信者は多いんだけど、そのうちの一人に呉智英が居て、彼は「馬鹿につける薬」の中で、吉本隆明の文章で一番好きだった物として、こんなコラムを挙げている。メーデーだか何かで、広場に多くの人が集まりビラを配ったり演説したりアジったりシュプレヒコールにデモ行進と騒がしい。そのような労働争議の中で、一人、突然屋台を組み出して、オニギリを売りはじめたおばちゃんが居る。炎天下で大声出してプラカード掲げて2時間もしたら、お腹も空いてきた、のども乾いた。そのちょうど良いタイミングで、周りに店がないのを良いことに、屋台を組み出したおばちゃんのおにぎりは次から次に売れて行く。おばちゃんはインテリじゃないから、マルクスだの何だのといった難しいことは分からない。でも、人が集まる場所でオニギリを売れば儲かるということだけは知ってる。この生活力こそ、大衆の原像なのではないか。というコラムだったのですが、このコラム読んで、泣けた・感動したって人は若い人にはほとんど居ないと思う。何故、呉智英はこんなコラムに感動したのか。

吉本隆明は詩人としてスタートし、文芸時評も書けばコラムも書き思想書も書く。多くの人はコラムを通して吉本隆明を知ってるんだけど、思想家・学術研究者としての隆明は主として無文字社会の古代人の生活について書いている。俺ら第二次ブーマー世代の日本人ってのは識字率が世界一高くて、99.8%だっけ?外国人を受け入れない島国ならでわの数字なんだけど、俺らの常識で言うと、千年前に源氏物語が書かれたってことは、そのぐらいの時期から、日本は文字社会だと、感じてるわけ。でもさぁ、俺の父方の祖父母って尋常小学校の4・5年ぐらいしか行ってなくって文字はひらがなと一部のカタカナしか読めない人だったんだよね。中上健次の親だか祖母だかも文盲だったとか言ってたなぁ。団塊の世代の親世代って文盲多かったんだよ。戦争中だったし、教育に力なんて入れられなかったんだよね。歴史的にみると、活版印刷が普及し出して識字率が上がる頃、大人と子供で月給が倍ぐらい違う時期があるんだ。児童福祉法とか無かった時代だと、子供でも丁稚奉公行かされるわけでさ。大人と子供の違いがいまみたいに年齢で区切るのかってぇーとそうじゃなく、文字の読み書きが出来るかどうかで区切ったんだな昔は。文字が読めない人間は一生子供の給料で働かされる。勉強して、良い学校入って、良い会社入れば、良い暮らしが出来る。そういうストーリーは団塊の世代が親から言われたセリフなんだ。団塊の世代の親の中には、自分が文盲で新卒の若い奴の半分の給料で働かされてるもんだからせめて子供には、良い学校に入って、高い時給で働いて、老後は親を楽させてくれよって人も居るわけだ。

よく、「新聞読めよ」って言うじゃん?あれ何かってぇ-と、新聞取ってるってのが、我が家は文字が読めるんですよというステータスシンボルだった時代があるんだな。現にうちの父方の祖母がひらがなしか読めないのに新聞とってたもん。テレビ欄すら読めないんだぜ、ひらがなだけだと。なのに新聞取ってるの。あと、戦前の印刷物ってのは全部漢字にルビ振ってたらしいんだ。だから、ひらがなさえ読めれば、後は新聞を読んでれば漢字を覚えられた。戦中になって物資が足りなくなったときに紙面とか色んな物をケチってルビ振らなくなって、それがいまでも続いてるってんだけどな。いまだと、英字新聞読んでる奴って頭良さそうに見えるじゃん。それと同じような効果が昔の新聞にはあったと。

で、学がないために安い給料で一生働かされてる親が、子供には学つけて大学出して、そして老後は楽させて欲しいつって大学に行かす。そういうストーリーってのは、初期の頃の寅さんとか、60年代の演劇ややくざ映画や浜田省吾のマネーって曲にも出てくるんだけど、そう言われて大学来て、親が金儲け学んでくるようにって経済学部に行かせるんだ。60・70年代の経済学部つうとマルクス経済学全盛で資本家を倒せ!労働条件を良くしろ!つってるんだけど、そんなの学んでも金儲けの役には立たん。しかも、団塊の世代の親の代ってのは、敗戦の財閥解体で巨大企業ってやつが壊されて、個人商店ばっかになった時代でしょ。お父さんとお母さんとおじいちゃんとおばあちゃんと、あと近所の若いアルバイト3・4人雇ってる10人前後の企業の資本家が自分の父親だったりするわけで、その父に後継げと言われるわけよ。学校ではその父親は資本家で、労働者の敵だと、8時間労働を守らせろと教えられるんだけど、片方で父は労働基準法なんて守っていたらこんな小さな店つぶれるつうわけだ。小さな町工場で父が一日12時間13時間働いてる。そういう後ろ姿も見て育ってきた。60年代には大きなデパートが建って小さな商店が潰れる、大きな工場が出来て小さな町工場がつぶれる、そういう高度成長時代でした。親は「大学で金儲け学んできて、この小さな個人商店でデパートに勝つようなアイデア出してくれ」という。でも、学校で学んでることは「親に8時間しか働けません。残業は別料金になります。残業をするしないは、個人の都合で決めさせて頂きます。と言え」ってことだったりして、すごくこう、大学と親との板ばさみで苦しむわけよ。

そこに、上記の呉智英が好きだといったあのコラムが入るわけだな。自分は労働運動の集会に出てる。そこへ、マルクスなんて分からない、労働基準法なんて知らないそんなおばちゃんがオニギリを売り出す。おばちゃんはマルクスなんて知らないかもしれんけど、金儲けの仕方だけは知ってる。思えば自分の親も、こうやって金を稼いで自分を大学まで出してくれた。お父さん、お母さん、ありがとう。そこで団塊の世代は泣くわけよ。

言語美に戻ると、隆明は記紀歌謡を「(p14)文字で書かれた詩的言語の世界としてかんがえること」と述べ、「記紀歌謡以前の想定される口伝や口承の時代を、直接資料の存在しない」時代として考えている。で、何故隆明は柳田国男の集めた資料を使うのか。柳田国男は全国各地の無文字社会に住む老人達に会いに行って、そこで色んな話を聞いて集め書きとめている。隆明のいう古い新しいは西暦何年という時間軸のことではなく、文字社会における詩なのか、無文字社会における詩なのかってとこなんだよね。何千年前の詩であるというより、口承文学であるってとこに重きを置く。無文字社会への関心。それが何か、上記のコラムと無関係だとは思えないんだよね。

フリーセルの「ゲーム→選択」で20810を入れてみよう。難しい理由として、Aが同じ列に複数枚ない。5が三枚連続の列・7が三枚連続の列・9が三枚連続の列がある。などがある。1(A)から13(K)までを並べようとしたとき、その流れの真中にあたる7が同じ列に固まって奥の方にあるというのが厄介だ。コツとしては7が単独で入ってる列である左から4列目をまず空にするのが良い。7を一枚手に入れることで、後の展開がずいぶん楽になるのだ。7が手に入らない場合、1から6までの列と、13から8までの列が黒赤各2列づつ、合計4列できてしまう。8列中4列を占められるのはかなりの負担。かといって7を3枚連続で手に入れてもそれはそれで使えない。7を一枚だけ手に入れるのが正しい戦い方だ。この攻略法以外だと、左から2列目をまず消すやり方があるが、中盤7のカードが手に入らなくてそうとう苦労する。

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