HP管理者日記13

6/8 カーライルグループという軍需産業専門の投資会社があって、ブッシュ父、オサマビンラディンの親族が株主・役員に名を連ねていたというのはCBSニュースなどでも普通に報道されている公然の事実で、アメリカでは普通に報道されている事なのです。が、それを根拠に9・11のテロがブッシュ&ビンラディンが組んでテロを起こして金をもうけたという話にまでなると、証拠はなく疑惑のいきから出ない話になる。

◇世界各国の軍事費 (単位:ドル) 
1位 アメリカ、、、、、、、、2946億
2位 ロシア、、、、、、、、、、588億
3位 日本、、、、、、、、、、、444億
4位 中国、、、、、、、、、、、411億
(英国国際戦略研究所資料)
 1位 アメリカ、  ロッキードマーチン   179億
 2位 アメリカ   ボーイング        156億
 3位 イギリス   BAEシステム      155億
 4位 アメリカ   レイセオン         115億
 5位 アメリカ   ノースロップグラマン    71億
 6位 アメリカ   ゼネラルダイナミック    56億
 7位 フランス   トーマスCSF          41億
 8位 アメリカ   リットン              39億
 9位 アメリカ   UTC              35億
10位 フランス   A M             33億
11位 ドイツ    ダイムラークライスラー   31億
12位 イタリア   I R I             30億
13位 アメリカ   T R W            30億
14位 日  本   三菱重工           25億
15位 イギリス   ロールスロイス       24億
16位 イギリス   G K N           19億
17位 アメリカ   ニューポートニュース    18億
18位 フランス   D C N           17億
19位 アメリカ   ゼネラルエレクトリック   16億
20位 アメリカ   コンピューターサイエンスC 15億
(2001年、ストックホルム国際平和研究所資料)
日本でも道路族議員や建設族議員、郵政族議員なんてのがいて、建設関係の予算を配分する権限を持った建設大臣が、自分の息子の経営する会社に18億円で工事を発注し、その会社が別会社に13億円で仕事を丸投げしてたりするわけだ。予算を配分する権限を持ってれば、そういうことをやりたくなるのは想像できる。ガン協会から献金をもらっているから銃を規制できないように、軍事関係でもカーライルがつぶれそうな会社を買収して、その買収した会社に政府が軍事関連の仕事を依頼し、会社の株が上がったら株を売る。で、カーライルの株主や役員は政府首脳。何が嘘で何が事実か分からなくなってきている。カーライルグループ関連HP

6/4 竹田青嗣が好きだ。哲学とは何の目的で何を扱うものなのかというイメージが自分の場合、竹田青嗣によって作られた。彼が扱うのは認識論を軸にした哲学史だ。机の上のコップを指して、コップは在るのか無いのかを論じるあれだ。

竹田青嗣によると、フッサールの生きた時代、ヨーロッパでは第一次大戦・第二次大戦があり、しかもフッサールはユダヤ人で虐待される側の人間だった。何故、話し合いでの解決が出来ず、暴力・戦争に発展するのか?話し合いでの一致が達成されず、認識の違いから暴力にたどりつく、その一致しない認識の理由をフッサールは先入観に求めた。お互いの生まれ育った文化的土壌に存在する様々な先入観を捨てて現象学的還元を行えば、戦争状態にある両者の認識は一致するのじゃないか?が、結局この目論見は失敗し、戦争は再び発生する。何故、認識は一致せず戦争状態になるのか?フッサールはそれを生活世界という概念に求める。人間は朝起きてから夜寝るまでに、家と職場の往復ぐらいはするが、その生活世界の外側の事はメディアを通してしか知ることが出来ない。地球の裏側の情報や自分の生活世界の外側のことはメディアを通してしか知れないため、そこに憶測(ドグマ)が生まれる。

フッサールの弟子、ハイデガーは、「何故、認識は一致せず戦争状態になるのか?」という師匠の問いに、用具連関という概念を持ち出した。一立方メートル四方の木の立方体があったとして、ある人はそれに腰をかけてイスとして使う。ある人はそれを投げて武器として使う。ある人はそれを水に浮かべてイカダとして使い、ある人はそれを燃やして燃料として使う。同じ物でもその物に接する欲望の持ち方で、イスとも武器ともイカダとも燃料とも認識できる。欲望の持ち方が違うから認識は一致しない。

メルロ・ポンティーは同じ問いに身体の違いを強調する。同じ木でも、コケやカビのような身体を持った植物から見れば、その木の湿った部分は住居兼食料だが、乾いた部分は不毛な死の大地だ。けれど、人間にはコケやカビのような視点で木を認識することはできない。また、人工衛星から電波で捕らえた東京と、顕微鏡で観察した東京の地層ではやっぱり違う認識になるだろう。

素人や子供向けに書かれた竹田青嗣さんの本しか読めてないような無学な自分なんだけど、竹田青嗣さんの本を通して感じた哲学のイメージは、ある意見の主張ではなくて、いくつかの意見が対立するとき、どちらが正しいのかをジャッジするルールブックみたいなものだった。裁判官やスポーツの審判のようなイメージだった。私は幼いころから自分の考えが周囲の考えと一致しない事が多く、よく対立してきました。対立から相互理解へ持っていくための手段として竹田青嗣は使えると感じたのです。この人は何故、このように考えるのか?それをその人の生活世界や生まれ育った文化的土壌に還元して分析するとき、その人の個人史をさかのぼれば心理学的になり、その人が属する社会の文化的背景に持っていけば、社会学や文化人類学的になる。自分が何故そう考えるのか?その答えも、自分の個人史や自分の所属する文化的背景に求める事になる。論理的に話したり、論理的に人と接するときに必要なプロセスとしてこのような方法を無意識のうちに採用するのだが、他人に自分を分析されるということは苦痛や不快感をともなう事であり、分析的に人と接することは失礼な事だと自戒しなければならない。

Wカップのベルギー対日本すごいですね。観てて色々感じたんだけど、サッカーのすごいところって、フィジカルだとか技術だとかもあると思うのですが、論理レベルでもすごいなと。どのように当たられると倒れてもそのまま試合続行で、どのように当たられるとフリーキックで、どのように当たられるとイエローカードというのが、後ろから当たったとか、手で押したとか、ユニフォームをつかんだとか、ボールでなく選手をねらって当たりに行ったとか、色々基準はあるらしいのですが、審判の見てないところでの反則はプロレス並にOKだったり、審判の印象点がフィギュアスケートや新体操並に加算されたり、良い弁護士につくと懲役3年だけど、ダメな弁護士に当たると懲役5年だよみたいな、結構、審判に対する見せ方とか印象も競技のうちだぜってな気がするんですね。

一流の野球選手は審判ごとの癖やストライクゾーンを知っているという話で、某巨人軍の野球選手が言っていたのですが「一塁に走りこんでアウトかセーフか分からないようなギリギリの場面で『アウト』と言われたら『何でアウトなんだ』と審判に怒鳴っておくと、気の弱い審判は次の似たような場面で『セーフ』と言ってくれる。そしたら、露骨に審判に話し掛けるわけにはいかないから、一塁でバッターの方をみてリードしながら『ありがとう』と小声で言っておく。同じ事を気の強い審判にすると、ギリギリセーフの場面でも俺だという理由でアウトになる事があるから、その人には怒鳴らない。審判の性格を読むことが大事」なんて言っていたりする。

それと同じなのか違うのか判らないが、ぶつかって倒してしまったら、笑顔で話し掛けて手を差し伸べて引っ張って立ちあがらせて、笑顔でさわやかに話し掛けて肩とか頭を叩いて、走り出す。ベルギーが何語の国かは分からないんだけど国際試合でサッカー選手がそんなに何カ国語も話せるとは思えないんだ。「大丈夫か」「ケガないか」ぐらいは対戦する前に向こうの言葉でなんて言うか調べているかもしれないけど、下手すると日本語で話し掛けている気がするんだ。審判がコスタリカの審判だと何語で話し掛けて何を言ってるかなんて分からないんだし、笑顔で話し掛けてりゃ印象点あがるでしょうみたいなさ。プレー中の危険な接触を避けるために、バックチャージとかを禁止してると思うんだけど、ダメな選手は当たられて、当たりに来ている相手選手を見えてないために危険な角度で頭から地面に突っ込んでいるのに、そのまま流される。一流選手は当たられているのを自分で分かっていて、審判が自分を見ているのも分かっていて、わざとらしく自らケガしないようにこけて、こけるときフリーキックにならなくてもボールを取られないようにボールと相手選手の間に自分の体を入れたり、ボールに覆いかぶさるようにこけているのに、相手選手にイエローカードを与えるというなんかこう、ルールの細部のグレーゾーンのギリギリのところを突つくみたいな動きするんだよね。百メートル走のようなストップウォッチで計れる競技じゃなくて、シンクロナイズドスイミングの芸術点みたいな、人間臭い部分が結構多い競技だと思う。

5/29 女目線で書かれた女に都合の良いストーリーというのは見ていて男として非常に不愉快だったりするのだが、極端に男目線の物語というのもそれはそれで不愉快だったりする。ちょびっツというCLANPのアニメがあってコアなオタク系アニメの極北なのだ。最近のコアなオタクアニメは極端に言葉の丁寧な女性ヒロインが出てきて、主人公の男性を「○○さま」と「名前+さま」で呼んだり、「ご主人さま」と呼んだりする。彼女の職業はメイドという現在の日本ではありえないような職業で、まあ、普通に考えれば「家政婦はみた」の家政婦のようなものだと思うのだが、現実の家政婦は派遣される際、奥様から付けられる条件が「私より美人でない事。私より若くない事」であるのに対し、アニメのメイドは極端に若く極端に美人で過剰な敬語を使い極端に男性の言いなりである。まあ、昔のドラマでいう美人秘書のポジションにメイドという呼称が与えられているのだと思う。

が、「ちょびっツ」が来るとこまで来たなと思うのは、このアニメのヒロインはもはやメイドですらなく、女の子型コンピューターだというのだ。まさにご主人様の言いなりである。女に人格も個性も自由意志も認めず、彼女は僕の言いなりの機械なんだという設定は、かなり凹む。実際のパソコンを使っている人は分かるだろうが、機械は実際には中々こちらの思った通りに動いてくれず、簡単にフリーズしたり壊れたりするのだが、そしてそれと同じくアニメの中の彼女=人間型パソコンも動かなくなったり暴走したりして、そんな彼女のわがままや個性に主人公の男性は引き込まれていったりもするのだが、それはパソコン上で動物を飼うポストペットやアクアノートの休日みたいなもので、プログラムされたハプニングでしかない。

男目線と女目線の差の話をしたいのだけれど、コアな女目線の物語の場合、私は私が何を欲しいのか分からないけれども、彼は私の欲しいものを与えてくれるという物語になっている。デートでどこへ行きたいかは自分でも分からないけれども彼は私の満足するところへ連れていってくれる。自分がどんな職業のどんな立場のどんな人間になりたいのか分からないけれども、彼は私の望む私を私に与えてくれる。現実ってのは、男が彼女のためにっつってやった事が全部裏目裏目に出るもんなんじゃないの?どこへ行きたいのか分からないけど取りあえず○○へ行ってみる、行ってみて初めて、来たいのはここじゃなかったんだということに気がつく、そういうことの繰り返しなんじゃないの?という気がしつつ。

で「空から降る一億の星」が男目線と女目線、論理的解決のある推理小説(Ex古畑任三郎)と論理的解決のない心理的ホラー(Exツインピークス・エヴァンゲリオン・世にも奇妙な物語)の四方向へ広がってて面白いなと。ラブストーリーの脚本家とサスペンスドラマのプロデューサー組んで上手く行くのか?と散々ツッコまれていたのですが、面白いっすよ。キムタク・さんま・井川遥って地点で、ジャニーズ・吉本・バーニングのトップスター揃い踏みでスケージュール管理大変そうだし。撮りのスケージュール都合でキムタクとさんまが絡むシーンは最低限度に押さえてるらしいし。

女目線で見れば井川遥が主役なんですよたぶん。で、男目線で見れば深津絵里が主役になるという感じで。第一話の豪華客船での財界のお金持ちを集めての井川遥の豪華誕生パーティーってのはハーレクインロマンスやシンデレラに出てくる舞踏会とか、少し古風な少女漫画の定番アイテムで、身分を越えた恋だの、豪華な料理、パーティー用のドレスやアクセサリー、花火、海、星空、キスシーンといった定番アイテムがゾロゾロ出てくるのですが、男目線で見たときに深津絵里が主役になってしまうのは何故かって辺りも考え出すと面白くって。他の主役が抑えた控えめの演技をしているのに対して、一人だけキャピキャピしたオーバーアクションでそれだけでかわいく見える。他が抑制の効いた演技をしているのに何で一人だけキャピるのを許されてしまうのか?って辺りですが、残り3人の主役はみんな影のある役で、それなりにみんな隠し事がある。片瀬涼(キムタク)は出生から何から全部謎だし、刑事の堂島完三(さんま)は女子大生殺人事件の犯人は片瀬じゃないかと疑って裏で捜査しているし、孤児になった幼いころの堂島優子(深津)を養子として引き取ったのだが堂島優子(深津)には自分と優子は歳の離れた兄弟であると嘘をついている。他の登場人物やカメラ=視聴者に対しての隠し事があるため、心を開かない影のある役として振舞う結果が、何か隠し事の多い抑えた演技として現れるのですが、堂島優子(深津)は隠し事がないどころか、完三(さんま)は実は兄じゃないという視聴者なら誰でも知っていることすら知らない、視聴者と同程度の情報しか与えられていない中で新しい情報が出て来る度に視聴者と一緒に驚きあわてる役回りのため感情移入しやすい。ただね、いくら男目線で作られてるったって、ぶりぶりに媚びられても嫌じゃないですか。媚びているからかわいく見えるじゃなくて、媚びてないけど美人だからかわいく見えると思わせなければいけないわけです、女優としてわ。深津絵里さんは、普通の人と比べれば美人かもしれないけれど、美人女優として主役やるほど美人ではない。どちらかというと演技力で持ってる人だと思う。演技力でもって自分を美人にも不細工にも見せる事の出来るそういう人だと思う。明らかにこのドラマの中でかわいく見せるための演技=ぶりっ子をしているにも関わらず、それが媚びまくったものではなく自然な演技に見える。何故だろうと思って、画面を凝視して思ったのですけれども、例えば「アレ?」っと思ったときに首を30度右に傾けると、かわいく見える。でも、それをそのままするとあからさまにぶりっ子なわけです。媚び媚びのアイドル演技です。ところが深津は上下にストーリーとは直接関係のない動きを入れながら媚びる事で、媚びている事を見破られないように媚びることに成功している。背中にしょったリュックの位置を直すために上下に体をゆすりながら頭を傾ける、自転車に乗るために自転車の鍵をはずそうとしゃがみ込む動きに混ぜて媚びた演技をする、そういった直接には意味のない動きに混ぜて媚びるため単体ではアイドル演技に見えるような動きや表情も自然に見えてしまう。そういうマニアックな演技が面白いです。

中山選手というのはゴール前のセンタリングをヘディングで押し込むのが得意な選手で、センタリングのヘディング専門と言っても良いぐらいなのですが、どこかの試合で、中田選手が上げたセンタリングを2連続だか3連続だかで、失敗してて、そのときの状況が、コーナーから中田選手の蹴った球がカーブを描いてゴール前に行くんですよ。キャッチしようとするキーパーとヘディングしようとする中山選手の間にボールが行くのですが、ヘディングが失敗してもゴールに入るように中田選手はゴール側にボールが曲がるように蹴っている。すると、真っ直ぐ飛んでれば中山選手がヘディングで押し込んだかもしれないボールが、キーパー側に曲がるため、中山選手の頭からボールが離れていってキーパーの腕に飛び込んでいく、すると中山選手は押し込み切れないわけです。一言でいうと息が合っていないということですが、ゴン選手からすると曲がらない普通のセンタリングが欲しいし、中田選手からすると万一誰もボールに触れられなかったときのためにゴール側にボールを曲げるのは当然だと。中村選手や中田選手の場合、コーナーキックからでも直接ゴールを狙ってしまうんですね。

もし、中山選手が生きるとすれば、三都主(さんとす)選手とのコンビネーションでしょ。縦への突破が持ち味のサントス選手が、左サイドを切り込んでも、そこからシュートまで持って行くパターンが出来上がってないでしょう。サントス選手が左サイドからセンタリングを上げて、鈴木選手のヘディングでも良いのですが、精度や何やを考えると、ここでゴン選手がいればヘディングで点数入る。相手ディフェンダーにプレスをかけられた状態でのサントス選手のあげるセンタリングはカーブをかけてどうこうみたいな余裕もなさそうだし素直なセンタリングに対し素直なヘディングができるのではないかと思う

マネーの虎」というテレビ番組に出てくる創作料理店の小林社長の顔が松本人志氏と似ていて笑ってしまう。彼が真面目にしゃべればしゃべるほど、変に笑ってしまう。昔コントで、浜ちゃんがYOUを連れて、「娘さんを僕に下さい」と新婦の父役の松本人志氏の元へ頭を下げに来ると、松本が「テレビの人はみんなそうなんか、君らが月やったら、わしらはすっぽんか!」と意味の分からない切れ方をするコントがあったが、そのシリーズの松本氏を連想させる。

星新一著の「宇宙のあいさつ」に収められている百目鬼恭三郎の解説より「ロバート・オーバーファーストというアメリカの評論家の定義によると1新鮮な着想2完全なプロット(筋)3意外な結末、の三つをそなえていないといけない」のがショートショートなのだそうだ。さらに百目鬼恭三郎によれば、ショートショートを使いこなした日本人は星新一と山川方夫(やまかた まさお)だけであり、星は時事・風俗・ベッドシーンを扱わず、エヌ氏・エフ氏といった名前をつけることで、登場人物を記号化する技法、星いわく「点化」という技法を使って書かれている。

私はこの点化が好きだったが、いまだに上手くは真似できないでいる。江戸期の戯作文学などは悪太郎やご隠居やきっちょむ、といった名前がそのまま人物の属性を示すような場合が多かった。近代になってそれが批判され、実際にありえる名前で名前から属性を推し量れないような名前が良いとされるようになる。これは推理小説などでは特にそうで名前だけでは犯人か被害者か分からないような名前(例えば、田中明子や山田まさるみたいな名前)が出てくることが多い。では江戸の戯作文学批判の論調の中でお手本とされたイギリス文学などを見てみても、ジキル博士とハイド氏のジキルはフランス語の私を意味するジュに、英語の殺すでKillを足してジキル、つまり「私を殺す」博士という名前がそのままこの小説中で氏に降りかかる事件の伏線になっているし、ハイド氏なんてのも、英語の隠すから来ていることは明らかだったりする。ところがこれも、語呂あわせを優先して、小説版ハイスクール奇面組になってもツライし、同姓同名がいくらでもいそうな名前だけで登場人物を構成すると、名前と人物を一致させにくくなる。戦隊物の様に、レッド・ブルー・イエロー・ピンク・グリーンと色シリーズ、ドラゴンボールのように中華料理シリーズ、というパターンもあるが、そうなると、レッドという名前からどんな属性の人物をイメージするのか?赤は女の子の色?赤はリーダー?赤は血や危険を示す?共産主義者?太陽や炎のような情熱?結局レモンは良い意味か?悪い意味か?みたいなところへはまり込んでいく。レモンちゃん、パセリくん、トマトくんのような野菜シリーズ・色シリーズ・中華料理シリーズは、イソップ的擬人化の方法論だ。名前をおぼえやすいが、ほんの少し文化圏が変わるだけで、名前と属性が逆の意味になってしまったりする。点化・抽象化・断片化することで普遍性を持たせようとした星氏の技法が自分の中では上手く吸収できない。この本にはあとがきを嫌う星氏があとがきを書いてくれと言われて書いた「あとがき」というタイトルのショートショートが載っている。そしてこのショートショートは、書かれるに至るまでの逸話に比べると、話そのものは面白くない。

ずいぶん前ですが、Mの黙示録という音楽番組で「SLAMスラム)/公式HP」というポエトリーリーディングを題材にした映画を取り上げ日本のポエトリーリーディングとして 青木研治を取り上げていました。

5/10 同じ物を意味していても、子供らしい(チャイルドライク)は良い意味で使われ、子供じみた(チャイドリッシュ)は悪い意味で使われる。じゃあ、レモンは良い意味か悪い意味か?「日本ではレモンはさわやかなイメージがあるが、アメリカではレモンは悪い意味で使われる」とラウドネスの初代ボーカリスト二井原実は言っていた。辞書を引くとレモン/lemonは「ダメな奴・欠陥商品」という意味があり、hand 人 a lemonで、人に嫌がらせをするという意味がある。そういう細かいニュアンスまで分からないと、作詞なんて出来ないと二井原実はいう。ラウドネスでアメリカ進出し、自分で英詞を作ったとき、単に言葉がしゃべれるだけでなく、言葉の持つ細かいニュアンス、現地におけるその語のイメージまで知らないと、作詞なんて出来なくて、現地のほとんどの人ですら作詞なんて出来ないしやったこともない。作詞だけで食ってる人間も居る。そんな中で外国人が入って行って現地の言葉で作詞をすることの困難さを語っている。

じゃあ、次の質問で、「秋・青空、それぞれの語は良い意味か、悪い意味か答えなさい」

例えば秋は、木の葉っぱが落ち、草木が枯れて哀しくさびしい季節だ。という感性は、古来の和歌などにも読まれるが、それは労働を行わない貴族階級の発生と共に生まれた感性で、農耕民族である多くの当時の日本人は、秋は実りの収穫の季節だとして、豊作を祝いお祭りをする楽しい季節であった。青空というと、一見晴れ渡ってすがすがしい気もする。でも、アメリカの黒人奴隷にとって、雨が降れば働かなくて良いのに、晴れると働かされるため、ブルースカイは良い意味では使われなかったという。blue skyを辞書で引くと「(米略式)無価値の・非実際的な」と書いてある。

では、青空という言葉に悪い意味があるのか、青空から連想される物に悪いイメージがあるのか?blue skyという言葉自体に、悪い意味が含まれるのか、blue skyには「青空」の意味しかないが、「青空」から、見返りのない強制労働を連想させる文化的な土壌があるだけなのか。意味として「無意味・無価値」が含まれるなら詞=denotationだし、連想・暗示として間接的に示されるなら辞=connotationだといえる。東浩紀は批評空間の対談で、デリダが連想や暗示を駆使して物を語っており、自分はそれらの介在のない直接的な詞で物を語りたいと言っている。東浩紀はデリダの本を読む中で、例えばblue skyという語が、文字通り青空を示す場合と、無価値を示す場合と、両方を指し示す場合などにぶち当たり、それが翻訳や読解に際して障害になったという。だからこそ自分が物を書くときには一種類の解釈しか出来ないような厳密な物を書きたいと思う。そういう東の主張が、他の対談者には翻訳をする人間なら誰もが通る当たり前のこととして簡単に退けられてしまう。実際に日本語で「青空」という語を使ったら、それは英語のblue skyの意味だけでなく、さわやかとかすがすがしいという意味でも「青空」を使ってしまっていると思う。そうなると翻訳のときblue skyではなく、refreshedとかclearという語をあてなくてはならなくなって、連想や暗示を多用した翻訳しにくい、不明瞭な文章を書いていることになってしまう。

米語の中にblue sky=無価値という意味が発生しているとして、もしこれがある文化圏全体に認められた共通の意味ではなく、個人的な連想であった場合どうだろう。幼い頃、腐った牛乳を飲んで食中毒を起こして以来、牛乳が大嫌いになり、牛乳という語をネガティブな意味でしか使わないAさんがいたとする。「あなたって牛乳みたいな人ね」「こんな仕事は牛乳じみている」「牛乳みたいな考え方ね」「まるで牛乳みたいな生活にうんざり」Aさんは牛乳という言葉をこのように使う。blue sky=無価値がアメリカ全土で通用する言い回しなのに対して、こちらはAさんとその周辺の人にしか通用しない言い方だ。けれどAさんもその周囲も、それが特殊な言い回しであることに気付いていない。幼い頃、腐った牛乳を飲んで病院に担ぎ込まれたことすら忘れている。こういう状態を心的外傷/トラウマと呼ぶ。

ちょっと興味があって、精神病治療のHPをみていたら、精神分析・行動療法・認知療法・薬物療法などが、治療の主な方法らしい。精神分析と言うのが、フロイト・ユング等の心理学の主流派でかつ、治療に関してはあまり成果を確認されていない治療法だという。牛乳を飲めない患者のAさんの話を医者はただひたすら聞く。普通、自分の醜い部分や偏見や社会に適応できない部分などは、世間に対して公表しない。そういう自分の姿は、ごくごく親しい身内にしかみせない物だ。しかし、医者はAさんのそういう部分を積極的に引き出そうとする。Aさんが世間に対して思っている不平や不満や何かを全部ぶちまけられるように、リラックスした環境を作る。ベッドに横になり、リラックスできる音楽や香をたいて、目を閉じまどろみ状態の中で幼い頃の体験や何かを語ってもらうのが催眠療法で、どんな夢を見たかを語ってもらう夢分析や抽象的な模様を見てもらってそれが何に見えるかを語ってもらうロールシャッハテスト、実際に患者に思うままに絵を描いてもらったり、空想上の物語を語らせる芸術療法、砂場にミニチュアの模型を並べてもらう箱庭療法なども、患者をリラックスさせて普段人に見せないその人の一番ダークな部分を表に出すための手段だ。そうやって、時間をかけてリラックスし何度も話をするうちに、どうもAさんは、「牛乳」という語を特殊な意味で使っているということに医者は気づく。医者は気づいても基本的にはそのことに触れてはいけない。患者自身が自分でそのことに気づいて、記憶の奥で忘れ去られていた、忘れようとしまいこんでいた、過去の嫌な体験を思い出し、自覚することでトラウマは消え、牛乳は飲めるようになる。何故なら、無意識の中に、腐った牛乳の飲んだ経験をしまいこんだままでは、何故牛乳を飲めないのかに気づかないまま、ひどいときには自分が他の人と違って牛乳を飲めない人であることすら気づかずに牛乳を飲まないまま過ごしてしまうところを、過去の嫌な経験を自覚することで、あの時飲んだのは牛乳ではなく、腐った牛乳なんだと知り、自ら牛乳を飲む努力をするかもしれない。というのが、精神分析治療の基本であるらしい。ちなみに行動療法は、無理やり牛乳を飲ませることでそれを克服、認知療法は牛乳を飲むことの意義を作文に書かせる、認知療法と行動療法は通常セットでさせる。まあ、治療というより学校や刑務所の訓練に近い感じで、薬物療法は牛乳を飲まないことで栄養の偏りが出たのなら、足りない栄養素を薬で補いましょうってな対処療法です。

ちなみに同じ薬物療法でもフロイトがやったのは、患者をリラックスさせ無意識にしゃべりやすくするためにコカインを打つという、精神分析に必要なリラックスのための薬物で、ニューエイジ系の人(中期ビートルズ)がLSD使うのも精神分析寄りの薬物療法ですね。眠れない人に睡眠薬、起きれない人に興奮剤、頭が痛けりゃ鎮静剤、というのが一般に言われる薬物療法で、日本では薬物療法以外の精神病治療って保険おりないんですよ確か。政府ももうちょうっと患者の身になってくれよと思うのですが。

よく精神分析とか夢判断で、ハサミに切られる夢を見たとかいうと、ハサミの動きは女性の脚の動きを象徴しており、性的な欲求の表れを示しています。とか言うじゃないですか?あれは、blue sky=無価値と比べると、もっと暗示的でもっと個人的なものだと思うのですよ。blue skyはアメリカ全土で意味が共有されているかも知れないけれど、ハサミが女性の脚の動きを意味するというのは、ある人にとってはそうかも知れないけれど、別の人にとっては別の意味があるかもしれない。それはその患者さんの幼児体験や何かと照らし合わせていくしかないと思うんですよ。Aさんにとって、牛乳=食中毒かもしれませんが、それは精神分析の本を読んでも、Aさんの幼児体験までは載ってないでしょう。そして、Aさん自身がそのような幼児体験をしていたことも、牛乳=食中毒の意味で使っていたことも、自覚していないわけです。精神分析では自覚したときに病気は治ると考えますから、牛乳=食中毒の意味で使っている間は自覚がない。自覚がない以上、私達もAさんのように個人的な意味を付加して言葉を使っている可能性が多々あるわけです。

私が小説を書き始めたきっかけの一つは自分の言いたいこと伝えたいことを周囲の誰も理解してくれなくて、誰も話を聞いてくれないから、分かってくれる誰かを探すために、分かってくれる誰かに向かって書き始めたのですが、それは精神分析における芸術療法そのものでした。個々の単語が自分の個人的な幼児体験とつながっており、世間で流通しているその語の意味とは違う意味で使っていたり、書くことで今まで見えなかった自分と周囲の人の間にある距離や壁を自覚できたり、何故自分が周囲から浮いているのか、馴染めないのかが自覚できたり、そうした自己治癒・セラピーが成功を収め、無事社会に溶け込めた結果、小説を書くことが出来なくなったり、周囲との摩擦がひどくなると物を書く文章量が増えたり。実際、Webで物を書くようなると、Webってのは性質上、自分の人格の中でも周囲の人間に受け入れてもらえなかった部分を吐き出させる役目がありますから、自分の非社交的な部分やこゆい部分、醜い部分を積極的にさらけ出していくことになります。Webなどで小説を書いている人などをみていると、私以外の人も周囲と上手くいってない人や人格的に問題のある人が多くて、「私は私の私を私にするから、あなたがあなたのあなたに私を、することしかできないのだから、できることをし続けていくべきなのです」てな感じの文章を読んで、論理的に意味を読み取ることは不可能だけど、何か切実なものがあるんだなぁという雰囲気は伝わってきたりするわけです。(続く)

5/8 ピストルズよりクラッシュの方が音楽的に優れているという特集が音楽雑誌で組まれていて、言わんとすることは分かるんだ。パンクからレゲエまで音楽の幅広さや活動期間の長さをとってもピストルズより上だぜってのは分かる。ただ、音楽のみに限っていうとピストルズより上のバンドっていくらでもいるんだよ。ラモーズ・JAM・ブームタウンラッツ・スタイルカウンシル、言い出したらいくらでもいる。して、クラッシュの方が上だと言う人は、割と真面目でユーモアのセンスがない人が多い。俺にとって優れたライブバンドってのは優れた漫才師なんだ。ライブ会場で笑いの取れないバンドは優れたレコーディングバンドかもしれないけど、優れたライブバンドではないと思う。

ライブや深夜ラジオを主な活動の場にしたフォーク系の人は、お笑いのトークセンスで生き残っていった人が多い。南こうせつ・さだまさし・泉谷しげる・松山千春・武田鉄也・ETC(敬称略)。そうじゃない方向で言えば、アイドル・CM・映画に曲提供する形で生き残っていったポップス系の流れがあるのですが、そっちの方はライブから遠ざかっている方が多いわけです。アコースティックギター一本のフォークの場合、ロックバンドと違って音が薄いので、ダンスミュージックとしての実用性はほとんどないわけです。そうすると、いくらきれいな歌声できれいなギター弾いても、二時間のライブが歌だけじゃ持たない。トークも入れて笑いを取って場を和ませないと、辛いわけです。ところが、フォークグループでデビューして、その時はトークで笑いをガンガン取っていたのに、グループ解散後ソロでライブをされていると、トークがすべりまくってツライという状況が多々あったのです。

具体例あげなきゃ分からないと思うのですが、セックスピストルズの解散後、Pilで日本に来ていたジョン・ライドンのインタビューを見ると、微妙に変なんです。インタビュアーとジョンがまったくかみ合っていない。当時日本では、パンクというなんだかよく分からないがとにかく過激で暴力的な音楽のムーブメントがイギリスで起きているようだという情報だけが入ってきて、入れ墨や鋲のついた革ジャンやモヒカンや向こうでのジョニー・ロットンの過激なセリフだけが日本に入ってきている。インタビュアーは当然そのようなつもりでジョン=ライドンにインタビューするのだけれど、ジョン=ライドンはピストルズ時代の過激な言動で注目を集めて、その結果、レコードを多く売ると同時にフーリガンに頭を殴られて入院したり、ライブハウスから会場貸し出し拒否されたりして、身の安全を求めてアメリカに逃げてきているわけです。日本のインタビュアーは過激で面白いブラックユーモアを求めてインタビューしているのに、ジョン・ライドンはピストルズ時代のトラブルに懲りて、あくまでもベビーフェイス(善玉)を演じようとする。「日本のどこが嫌いですか?」「日本でこんな悲惨な事件(当時の殺人事件や汚職事件の具体例を挙げて)があったのですがどう思いますか?」「U2(当時、ジョンライドンはU2の悪口を面白おかしく語ることをライフワークにしていた)をどう思いますか?」これらの質問に対して、「日本は大好きな国だよ」「詳しいことは分からないけどすべての人が幸せに生きていけることを願っている」「俺にU2のことを聞いちゃいけねぇーな」とあくまでもベビーフェイスで通そうとする。アメリカのMTVの姉妹局VH-1の「ロットンテレビジョン」という番組でジョンライドンがワイドショーやニュースの時事ネタを面白おかしく切り取って語る番組を始めるが、ダラダラしてイマイチ切れがないと言われる。

で、セックスピストルズの再結成時のインタビューをみると、プールサイドのインタビューでギタリストのスティーブ・ジョーンズとドラマーのポールクックはプールではしゃいで遊んでいる中、ジョニー=ロットンは、インタビューに対しすべて過激なネタで切り返し、そのネタをベーシストでメインコンポーザーのグレン・マットロックが必死になって、無難な方向へ訂正・フォローし、そのフォローをジョニー=ロットンがまたくつがえし、それをまたグレンがフォローし、最後にはフォローしきれなくなったグレンがジョニー・ロットンの言葉を聞こえなかった振りをして終わるという落ちになっている。このジョニー=ロットンとグレン=マットロックのやり取りが、まんまやすしきよしの漫才や、久米宏&横山やすしのテレビスクランブルで、ジョニーロットン=横山やすし=非常識、グレンマットロック=西川きよし・久米宏=常識、という漫才の型そのものなんですね。グレンマットロックのツッコミさえあれば、ジョニーロットンはいくらでもボケられるんですよ。それが、生真面目なグレンがジョニーロットンと喧嘩してメンバーから抜けてしまった。すると、もうジョニーロットンのボケが成立しないんですよ。ジョン・ライドンのトーク番組も、立川談志一人会、もしくは松本人志の「ひとりごっつ」状態で、ツッコミがいないから会場のお客さんは笑いたくても、「せーの」で一斉に声を出して笑うタイミングがつかめない。自分一人だけ声を出して笑っても恥ずかしいから声を押し殺した笑いになる。グレンが居れば、冗談として笑いに転化できたギャグが、ツッコミの不在によってマジだと受け取られて、過激な発言が全部、客の反感に変わって行く、するともう敵を作るような冗談は言えなくなって、ライブのテンションも落ちていくんですね。

真面目系の人がバンドのフロントマンだった場合どうなるのか。ブラーのデーモンなんかはインタビュー読むと、めちゃくちゃ詰まらないんですよ。サービス精神はあるし、面白いことを言おうという意図はあるのだけれど基本的に昨日の晩、何を食べたかと、今日の朝何を食べたかしかしゃべらない。バリエーションとして飲み物が入ってきたり、どんな服を着ていたかとかどんなテレビを観ていたかが入っていても、「昨日、バスケットボールの試合を観ていたんだよ」で終わり、そこから何か落ちへ行くというのがない。インタビュアーにプレッシャーかけられて、何か面白いことをしゃべらなきゃと思って、自信たっぷりでしゃべった面白いネタが、昨日飲み過ぎて実は二日酔いなんだよ。だったりする。これのどこが面白いのか、これのどこが落ちなのか。次の日に仕事があるのを分かっていたのに飲みすぎてしまった、ね、面白いでしょと自信たっぷりの表情をされても困る。チューリップの財津和夫さんなんかも、基本的に面白いことを言えないタイプの人だ。ライブのMCで何か面白いことを言わなきゃいけない、でもなにも言えない、軽い気持ちで話し始めた話が、長くなればなるほど、面白い落ちをつけなきゃというプレッシャーに変わり、でも落ちがないまま話を終えるわけにも行かず、先延ばしにした落ちがどんどんプレッシャーに成り、どうにもならなくなってきたところで、他のメンバーのフォローが入り、何とか落ちをそのメンバーが付けてくれて話を終えることが出来る。トークが不器用で下手くそであることが表面化し、財津さんの地位が極端に落ちる。観客はスーパースターにもあこがれるけど、ダメでどうにもならないのび太君にも共感するわけだ。ステージの上でさらし者になっている人を見つけて、これは今の俺自身だと思ったりするわけだ。そのどうしようもない人間=自分=財津和夫が、MC終えて歌うたったらめちゃくちゃカッコ良かったりするわけだ。どうしょうもないぐらいダメだと思っていた人間に、一瞬輝ける瞬間が生まれてカッコ良くみえてしまう。これも一つのドラマのパターンなんですね。あんなダメだった奴でも頑張ってるんだ、ひょっとしたら俺でもやれるかもしれない、頑張れるかもしれない。と、錯覚であったとしても思えるわけだ。これがね、ソロになると、最初っから最後までスーパースターで押し切るか、ギャグがスベってもフォローなしで先へ進むかという難しいところへ行くわけです。西川きよしさんが一人でお笑いできるかと、やすしさんなしで漫才できるのかという厳しい位置に置かれてしまう。

ビートルズでいうと、過激なことを言うのがジョン・レノンで、それをフォローするのがポール・マッカートニー。オアシスでいうと、ギャラガー兄弟のどちらも過激なんだけど、ノエル=インテリの過激さvsリアム=子供の過激さで、笑いになったり、過激と生真面目という型でいうと、ブラーのデーモンを持ち出してくることで、デーモンにグレン・マットロック役をさせて、漫才をしたりしている。ジョンライドンがU2のボノをよく引き合いに出すのも、ボノが生真面目で、良いツッコミ役になるからだ。

そうやってグループで笑いを取っていたバンドが、バンド自体の収益が落ちるにしたがって、メンバー全員を養えるだけの収益があがらなくなった地点で各自のソロへ移り、ソロライブでダンスミュージックとしての音の分厚さもなく、トークをしても以前のような漫才が成立せず、妙に空回りしているようなライブってのは時として残酷だったりする。

4/23 武蔵‐シュルト戦。判定で1−2でシュルト選手の勝ちになって武蔵選手は怒って試合後の記者会見を放棄。シュルト選手は「勝ててラッキーだった。武蔵選手は強かった」と発言。試合中、シュルト選手は少なくとも2回は脳震盪を起こしているのですが、近づいてアッパーを打った武蔵選手が、脳震盪を起こして倒れる瞬間シュルト選手に腕を振り回されるのを警戒して、抱きついちゃってて、結果シュルト選手が倒れなくて済むという場面があり、2回とも脳震盪で倒れずに済んでいるのは武蔵選手側からのクリンチだったりしてですね。あれ、クリンチせずに後ろに引いてたらシュルト選手がダウンしていたという場面がありました。あの判定は、主催者側がKO以外じゃ武蔵選手に勝たせないと試練を与えているのか、総合格闘技の選手がK−1ルールで戦ってくれたことに対するご祝儀か、まあ、そんなところでしょう。20cmの身長差と20kgの体重差がある二人が並んだ地点で、武蔵選手勝てねぇじゃんと思われたのに、あれだけ戦ったことに拍手ですね。

脳や臓器に攻撃を与える近代格闘技、ボクシング・キックボクシングと、骨と骨をぶつけ合う古代の格闘技、空手という分け方をしたとき、シュルト選手のパンチや蹴りが「バキ」「ゴキ」と迫力のある骨のきしむ音をさせる骨格攻撃系だったのに対し、武蔵選手が当たった音のほとんどしないアッパーで脳震盪を起させる近代格闘技をしてて、本来二人の出身格闘技は逆だろ、シュルト選手が脳震盪系で、武蔵選手が骨格系だろと思いつつ。PRIDEで骨のきしむ打撃音を出しているのは、グローブが薄いからだと思ったら、K−1でも迫力のある打撃音をシュルト選手が出しててすげーなと思った。ただ、打撃音は、ボクシングのそれほど技術のない選手が手打ちで力まかせに殴っても似た音がするんですね。それに対して、頭部への打撃が禁止されている空手の選手が短期間で頭部への打撃を覚えて脳震盪をおこすパンチを打てるようになっているのは才能だなと思っちゃいます。努力もあるのでしょうけど、普通はなかなか脳震盪をおこさせるパンチって打てないですよ。

力道山時代のプロレスで言えば、拳が武器の選手は拳を何度も殴って、骨にひび入れたり骨折させたりして、それが治ったらまた殴ってひび入れてと、何度も砕いて強くしたという話あるじゃないですか。骨折して治るとその部分だけ元より骨が太くなってるという嘘かほんとか分からない話が。空手ってなんかそういうイメージがあるんですよ、何度も叩いていると、豆ができて豆がつぶれて、つぶれて分厚くなった皮の上にさらに豆ができてみたいな。ところが、キックボクシングをやっているミルコ選手は打撃で使う部分の骨をマキワリで鍛えているらしいのですね。実際、高田選手のローをスネの一番硬いところでカットしたら、高田選手の足の甲の骨が折れたわけですし。それに対して武蔵選手は、スネを守るプロテクターを着けて普段練習しているらしい(ホットドッグプレス5/13発売号魔娑斗選手表紙の号参照)のです。さらに、石井館長は「ミドルを打つとひじでカットされてすねを痛めるのでミドルは打てないんですよ」などと武蔵戦で解説をしている。相手選手のヒジより硬いスネを作るのが空手の精神でないのかと思いつつ。そしたら今回、試合後のシュルト選手のスネを見ると、血だらけになってるんですね。つまり、相手選手のスネを血だらけに出来るぐらいの丈夫な骨格を武蔵選手は作っていると。骨格系のイメージがあまりない武蔵選手ですが、それはそれなりにそういう試合もしているようです。第一ラウンドであれだけ骨がきしむ音を出していたシュルト選手の蹴りとパンチですが、第二ラウンドからは武蔵選手の腹を蹴る前蹴りしか出さなくなったのは、スネと拳を痛めたからでしょう。

脳震盪の話でいうと、今回ホースト−中迫戦でホースト選手のパンチはすごくて、中迫選手の斜め45度の位置からこめかみにショートジャブを打って、それだけで中迫選手は倒れてました。体重乗せパンチでもストレートでもアッパーでもフックでもなく、ただの軽いショートジャブで脳震盪。肩幅があって、あごが短く、骨格ががっしりしているレイ・セフォー&マーク・ハント&角田選手のようなタイプは、眉間にジャブをもらっても良いから突進して行って相手のあご(チン)かこめかみ(テンプル)に、横からのパンチ(フック)を一発入れて脳震盪を起させて勝つ。という発想で、肩幅があまりなく、頭部へのパンチが効いてしまうタイプの選手、ベルナルド&ホースト選手はジャブを打って距離をとり、ジャブの蓄積+体重乗せストレートで倒すという発想です。フックのような外から回り込むパンチは軌道が長いので打ってる最中にカウンターでショートジャブを打たれて体勢を崩されるので基本的には倒れかけの相手にしか打てない。それをホースト選手は横に回りこんで横から相手のこめかみにショートジャブ。あれは正面からフックを打つようなリスクもなく、しかも軽いパンチで脳震盪を起させる危険なパンチです。脳震盪は力じゃなくてどこにどの角度で当てるかなんだよという、テクニック至上主義なパンチです。横に回りこんでいるため、脳震盪を起す瞬間、正面に腕を振り回す習慣のある選手や、正面にクリンチに行く習慣のある選手にも、すごく有効なわけです。今回の武蔵選手は、相手との体の入れ替え技術もすごかったのですが、そのとき相手の横からパンチを打つという発想がないですし、二秒ほど脳震盪中の相手、二秒ロープか相手選手に体をあずけてれば、ダウンを取られなくて済む選手に、ラッシュをかけて二秒を五秒、十秒にしようというホースト的非情さもなく、抱きついてしまっているというのが、脳震盪系の試合をする上ではまだ、改良の余地があると。

判定のとき、武蔵選手が観客を煽るのに、あれだけ客席に支持されない選手も珍しいなと思ってしまったのですが、その理由を考えると、判定が多い、汗をかいていない、息が切れてないという部分じゃないかと。実績の割りに客席に支持されない選手として有名なのはホースト選手もそうなのですが、汗かいてない、息が切れてない、判定の三つは、完全燃焼していない、手抜きだと見えるんでしょうね。魔娑斗−小比類巻戦での魔娑斗選手の人気のなさってのも、この三つが重なってだと思うんです。小比類巻選手は汗かいて、息切れて完全燃焼していたのに、なんで魔娑斗選手は余裕なんだという批判でしょうね。ただ、今回の武蔵選手は汗で髪がバサバサでしたし、表情的にも良い顔してたと思うのですが、試合中でなく判定中に元気なのは、客席の反感買いますねやっぱり。

ショービジネスについてちょっと書きたいのですが。ある雑誌に、美空ひばりさんの御子息の加藤さん(音楽プロデューサー)はすごく良い人だからああゆう人こそ、バーニングの周防さんの引退後、芸能界のドンになって欲しいと書いてあったりとか。何故、子役タレントが売れると事務所を独立しようとするのかとか、何でアイドルは高校生なのかとか、何故ミュージシャンはテレビに出ないのかとか、色々考えてそれをまとめて書きたいのです。

芸能界と暴力団がつながっているというのはよく言われている話ですが、暴力団というのを厳密に定義すると博徒になるらしいのです。麻薬の売買をするのは売人で、これは厳密にいうと必ずしも暴力団と一致しない。企業恐喝をするのも厳密にいうと、総会屋でこれも暴力団とは必ずしも一致しない。一定の縄張りでショバ代や用心棒代を取ったりするのはテキ屋でこれも厳密に言えば、暴力団と一致しない。

非合法の賭場を開いて利益を上げるのが暴力団で、賭場を開かないのがテキ屋だと。テキ屋というのは神社やお寺や町内の夏祭りなどで、屋台を出すとき、誰がどこにどんな屋台を出すのか取り仕切る人なんですね。誰でも自由に屋台を出せるとなると、みんな少しでも人の集まる良い場所で商売をしたいし場所取りが大変になる。そこで、地元の有力者が出てきて「この場所に屋台を出したい人手を上げて」と言って、五人手が上がったら「じゃあ、その五人でジャンケン」と仕切るのがテキ屋で、第二次大戦の敗戦時、じゅうたん爆撃で平地になった東京と、原爆で平地になった広島で、テキ屋さんは必要になったわけです。平地なわけですから、どの土地が誰の物かまったく分からない。証明するものもない。そこで地元の人が話し合いでここは誰の土地で、誰が屋台を出して良いというのを決めていく。そういう屋台の取り仕切りをする権限を使って、場所代を請求して食っていくのがテキ屋で、さらにそのエリアで賭場を開催するのが暴力団。広島には日本最大のそういう組織があるのは、原爆で一度平地になっているからそういう人達が出てくる必要性があったと言えるわけです。ちなみに、芸能界の人はテキ屋さんや暴力団の方を「地元の人」という名で呼びます。

無名のミュージシャンが売れたいと思ったとき、まず自分の音楽を披露する場所が必要になります。既に有名な集客力のあるミュージシャンであれば、劇場で入場料を取ってやれば良いのですが、無名の場合、ただで良いですから音楽を聴いて下さいという場所が必要になるわけです。路上でやる、酒場でやる、夏祭りのイベントとしてやる。色んなやり方があるのですが、上記の三つとも取り仕切っているのはテキ屋さんなんですね。路上で屋台を出したり、演奏したりするにはテキ屋さんの許可が要る。酒場で流しをやるにはテキ屋の許可、まして夏祭りだ盆踊りだなんてのはテキ屋さんが一番活躍するときですから、やはり許可が要るわけです。演歌歌手にテキ屋のプロモーターが付くというのはそういうつながりだと思うんですよ。

何故か、テキ屋さんは演歌やムード歌謡が好きなのですが、60年代、GSブームというのが始まります。ロックのブームが起きるわけです。まず、エレキギターを売る楽器屋さんが、ビートルズやベンチャーズのコピーバンドコンテストを開催し、日本中にベンチャーズブームが起きます。テレビでは「ヤング720」という番組が始まり、ジャックスの早川義夫さんが司会で日本全国の中・高生バンドを紹介します。この番組からプロになった有名バンドとしてはRCサクセションや、三人ズ(後に佐久間正英さんを加え四人囃子になる)などがあります。ところがGSブームが去って、テレビで取り上げられなくなると、ロックバンドが無料で演奏を披露する場がなくなってしまうのです。テキ屋さんが主催する盆踊り大会などでは防音設備等がないためエレキギターを演奏するとご近所から苦情が来ます。防音設備のあるライブハウスなどは、チケットノルマがあり、一定数のお客さんがお金を払って入ってくれないと赤字になります。赤字を背負ったままバンドを続けることは困難で、ライブハウスから出てきた当時としては比較的音楽寄りのバンドでさえ、テレビのバックアップがなくなると、音楽とは関係のない芸能人になるか、サラリーマンになるか、カラオケスナックを経営してそこで自分の持ち歌を歌うかという三択を選ぶようになります(太陽にほえろのサントラを作ったスタジオミュージシャンの方もGS出身ですから、サントラ・CMソング・アイドルへの曲提供というスタジオミュージシャンへの道もあるのですが)。この時代にロックイベントの主催をしていたのが、内田裕也さんと細野晴臣さんで、20バンド30バンド集まってやっとお客さんを呼べるというような状況であったらしいです。

70年代のフォークソングブームはテレビに依存したGSブームへの反省として、アンダーグラウンドレコードという自主制作レーベルを作ったり、広い空き地を使ってフォークジャンボリーというイベントを開くことで、無料で多くの人に音楽を聴いてもらう、路上ライブや深夜のラジオ放送を使って自分の音楽を知らない人にも訴えかけていくという手法を取りました。ただ、これはアコースティックバンドだから路上や空き地で演奏しても苦情が来ないだけで、ロックバンドの場合、防音設備がないところで演奏することは難しく、無料で人々に聴いてもらうという場所がまだなかったようです。

80年代になって、大学の学園祭を回って、話題を振りまいていくバンドが出てきます。コンサートと違ってバンドにギャラはほとんど出ないのですが、人集めは大学の学生がしてくれるため、無名のバンドでも学園祭を回れば多くの人に音楽を聴いてもらうことが出来るようになる。二千人規模の体育館での学園祭ライブを三十ヶ所回れば六万人がそのバンドの音を聴くことになる。そのうちの何パーセントかがレコードを買い、ライブに定期的に足を運ぶようになれば、採算が合うわけです。

ビートルズでもピストルズでもデビューしたとき演奏していたのは二十代の若者達だけど、マネージャーやプロモーターは三十代前半の小売店の店長なんですね。ビートルズで言えばレコード屋の店長で、ピストルズで言えばブティックの店長。30代前半の店長が楽して大金稼げねぇかなと思って手を出したのが、バンドのマネージメントだったと。ピストルズのマネージャーマルコムマクラーレンの金への執着は映画「ザ・グレーテスト・ロックンロール・スインドル」でもみれば分かりますし、ビートルズの場合でも、印税はビートルズのメンバーではなく、マネージャーの懐に入る契約だったという話があるんですね。実際にビートルズのメンバーが金持ちになったのはマネージャーが原因不明の死に方をしてからで、その死自体が、事故死と表向きはなってるのですが、事件死だという説がいまだにあったりするんです。売れてない下積み中のミュージシャンに会社員の初任給ぐらいの金を与えて自分の事務所の所属ミュージシャンにし、大金を稼ぐようになってからも、会社員並みの給料だけ与えて、印税を含むすべての権利を事務所を通して、自分の懐に入れるというのはフィルスペクター時代のモータウンからある話で、基本的に芸能事務所なんてのはみんなそういうシステムになってるんですよ。ビートルズやピストルズも実はそうだったという話が一部ではあって。

例えば、アルバイトをしながら、ライブを続けていくなんて話をしたときに、一回のライブで一枚二千円のライブチケット百枚売るのがノルマで、五バンド出て、一バンド二十枚ノルマ、四人編成のバンドだと一人五枚ノルマで、売れなかったら自分持ち、それでも週に一・二回のペースでライブをするなんてのはよくある話で、そういうバンドに「月十万円の給料を払ってやるから、すべての権利を事務所に所属させて、一緒にバンドを盛り上げていかないか」と話を持ちかければ、喜んでついて来るバンドもあるわけだ。それでもし、そのバンドが売れて、レコードが百万枚売れたりしても、バンドメンバーには月十万だけ渡して、後はマネージャーのポケットに入るってのも契約書さえあれば可能なわけです。

一番ありがちなのが、女子高校生のアイドルなんかで、月十万の給料とか言われると、高校生にとっては大金だったりするわけです。で、その女の子の写真をテレビ局や広告制作会社にばら撒いて、もしCM契約とか決まったら、上手く行けばCM一本一千万円とか入ってくるわけです。5・6本CMあると掛ける5とか。モー娘なんかでも自分達のことを「会社員だ」とうたばんで言っていたりして、実際の給料は一人月二十万ぐらいでしょう。全盛期の頃の光GENJIで一人月三十万とか言ってましたし。そのぐらいの額で、CMだの印税だのといったボロい金儲けの権利を買い取れるわけです。モー娘十三人を一人月二十万で月二百六十万、この額払って週に一枚ペースでシングル出して、千円が五十万枚コンスタントに売れてるとして、売り上げが五億円。原盤権が売り上げの十パーだとして、五千万。週に五千万だと、月二億円。インディーズじゃないので、原盤権が丸ごと事務所にとは行かないでしょうが、仮に歌唱印税が売り上げの一パーだとして、月二千万円+CM出演料やグッズやなんやかんやを二百六十万円で買い取れるなら、まあまあボロい商売だと言えるのではないでしょうか。

アイドルは何故高校生なのかと考えたときに、中学生だと義務教育&児童福祉法があって、労働時間が制限されてしまうんですよ。仕事を理由に学校を休ませちゃダメで、深夜労働も禁止。放課後か夏休みか休日しか働かせられない。それに対して、高校生は売れなきゃ売れないで、給料出さずに普通の高校生として親の生活費で生活させれば良いわけですし、売れたら売れたで、一日24時間労働をさせても構わないわけです。バイトをしながらバンドをやってるような人を雇った場合、親からの援助はもうないわけですから売れなくても(ある一定期間拘束したければ)ある程度の給料は事務所が出さなきゃいけないのに対し、高校生アイドルの場合、売れなきゃ金払わなくて良いし、売れたら月十三万で一日二十時間ぐらい働かせて、休みなんか入れなくても、相手は子供だから労働基準法とか世間の仕事の相場とか知らないから、こんなもんだと思わせておけば良い訳です。仮に、時給八百円のバイトでも、一日二十時間働けば一日一万六千円、三十日休まず働けば、三十一万八千円、なのになんで月給十三万なんだという発想は月の小遣い三千円の子供にはない。仮にあっても、口答えさせなきゃ良い。親が出てきて事務所ともめるのは大抵そういう状況のときですね。仮にここで親が出てきて事務所を独立したとしましょう。売れてるタレントが勝手に事務所を独立なんてことをしだしたら全部の芸能事務所が困るので、全ての芸能事務所がその人を干そうとします。干されたその人はテレビや雑誌には出られません。ただ、その人に芸の力があって、集客力があるなら、ライブハウスを回ってライブミュージシャンとして活躍するか、地方の劇場を回って舞台役者として活動するか、地方の小屋を回って、寄席芸人として活躍するかという、興行の仕事で食っていく道があるわけです。

何故、ベテランミュージシャンがテレビに出ないのかというと、出ても金の流れが基本的に上記のアイドルとあまり変わらないからなんですよ。大手のプロモーターが「あなたの次のニューシングルのプロモーションを私が受け持ちましょう。あらゆる音楽番組に出ていただいて、ワイドショーでもスポーツ新聞の芸能欄でも取り上げさせましょう。その代わり、そのシングルの権利は全部私の事務所に任せてください。」という言い方をしてきた場合、無名の新人であれば「向こうのいう通りにして、有名になって名刺代わりの曲もできたら、プロモーターと手を切ってライブ回って金稼いだら良いやん。今回のシングルはネームバリュー上げるためのタダ働きかもしれんけど、そのネームバリューとシングルヒットを持ってライブ回ったら良いやん」となりますが、ある程度の大物のベテランになるとプロモーターのいう通りには動かないわけです。

じゃあその大手のプロモーターというのは一体何をしているのかとなると、スポーツ新聞や写真週刊誌や女性週刊誌の芸能欄の担当記者にメシおごったり、彼らと飲みに行ったりマージャンしたりしているわけです。オールドジャーナリズムというのは基本的にすべて政府や官庁の公式発表をそのまま載せているだけです。その公式発表の中身が事実かどうか検証するなんてことは一切していないわけです。下手に検証して政府見解と違ったことを書けば次から政府の行う記者会見に呼んでもらえなくなります。基本的に公式発表に対して批判なんてのはできないんですね。その政府の公式発表の芸能版を行うのが芸能界のドンで、ワイドショーやスポーツ新聞の芸能欄の情報源を一手に握ってます。マスコミ側からすれば、何百もある芸能事務所からバラバラに何百もの情報を送られるよりもは一つにまとめてもらった方が仕事がしやすい。写真週刊誌に毎週載っている水着の女の子のグラビアページ、今週は誰を載せるのかなんてのも決めるのはドンのお仕事らしくてですね。芸能メディア全般に広くお金をばら撒こうと思ったら、ものすごく多くのお金が必要になるのですが、その金はどこから調達するのか。例えば、Aという女性アイドルを抱えている事務所があって、その事務所のタレントはA一人だけだと。今現在、AはCMを八本抱えていて売れっ子だとする。CMの契約内容には、タレントイメージを大きく変えてはいけないという一文があって、具体的には不純異性行為が発覚してはいけないし、交際発覚や結婚や離婚をしてもまずいし、犯罪を犯して逮捕されてもマズイ。とにかく企業がマズイと判断するようなことをタレントがした場合、賠償金を事務所に対して請求します。仮に一本一千万のCMだとして、賠償金は二倍返し、三倍返しになるので、A一人しか抱えていない事務所だとCM八本分賠償金が請求されたら事務所は簡単につぶれてしまう。そこで芸能界のドンが出てきて、Aに関する記事を全部握りつぶすから、Aに関する権利を全部うちの事務所に移してくれと言えば、Aに関するおいしい利権は全部ドンの事務所に移ってしまう。まあ、そんなシステムらしいのですね。

そういうことを知った上で、スポーツ新聞の芸能欄を見ると、たまぁーに、普段テレビに出ないキャリア20年になる大物ライブミュージシャンが、どこどこで何歳の誕生日ライブを行ったとか載ってて、載りたかったのかこの人は。と思ってしまうこともあったりしてですね。いや、その大物ミュージシャンが「俺の誕生日の記事を載せてくれ」と芸能界のドンにお金を包んで持っていったのか、それとも単に新聞記者の趣味だったのかは分からないのですが。

4/5 いろんな意味で泣きが入ってますが、夜明け前が一番暗いとは言いますが、ろうそくは消える直前に一瞬炎が大きくなるとも言います。書きたいことは色々あるのですがどうすりゃ良いのか分からないという感じで。

前は大学を卒業する22・23が一つの区切りだったのですが、次は35だぞとネットのオフ会やバイト雑誌を見ながら思ってます。最近まで60歳定年だったので、定年までに子供を育て上げて30年ローンの自宅ローン払い終わってという計算から、30過ぎたら転職できないとか言われていたのが、65に定年が引き上げられたことで35歳までは転職可能な、逆にいうとフリーターを続けられる。そういう環境であるようです。プログラマーでも35歳までは未経験者可の就職先ありますしね。

以前に科学とオカルトの境界線が曖昧になる話を書いたのですが、哲学とオカルトの境界線が曖昧になる話とか、ロックバンドと漫才の関係とか書きたいことは色々あるのですが、取り合えず、某氏某嬢に対する問いかけということで、フェミニズムについてとか。

某チャットで「男はみんなホモでナルシストだ」「男はみんなマザコンだ」「社会のシステムが男性優位にできている」と某嬢が檄を飛ばし、某氏が「そうなんだよね」ということをおっしゃられていてですね。具体例を聞くと「そんなのは考えなくても分かるだろ」という反応で(笑)。まあ、理論派の某氏が「ホモとはホモソーシャル、日本の島国文化、単一民族幻想や単一文化幻想のことを言っているのだ」「アメリカの植民地である日本は男女問わず、アメリカ(=母)の保護下に置かれたマザコンなんだ」といったことをおっしゃられて、まあ、なるほどなと。これを掘り下げていくと面白くなりそうだから掘り下げたいと言ったら、面倒くさいと相手にされなかったのですが。取り合えず、お二人がフェミニズムの側に論を張られているので、私はその逆の反フェミニズムに論を張りたいと。

私の中の興味は某嬢が何に対して怒っているのかを知りたい、でも分からないという部分なのです。某嬢はJUNEを好み、同性間の性交渉、ホモやレズは好きなのですが、異性間の性交渉や妊娠や出産といった物を極端に嫌う。もちろん現実の社会で異性間の性交渉や妊娠出産が慎重にならざるをえないのは当然ですが、彼女の書く小説の中においてさえ、それらが極端に禁止されている。つまり作者(の無意識)にとってそれは避けて通るべき恐ろしい物としてとらえられている。妊娠出産が未経験で、かつ周囲からそれが期待されるような年齢の女性が妊娠や出産に恐怖感を持つのはごくあたりまえのことで、本屋のそういうコーナーに行けばその手の本はいくらでもありますし、雑誌で言えばたまごクラブなんて本もある。途上国の社会で、娘が嫁に行くとき母が娘に持たせる本(タントラ)には性交渉のやり方と妊娠出産の心得が主として書かれている。初めての出産にまつわる恐怖や不安は自分の母からも聞かされたし、別の女性からも「私が生むのでなくて、孤児院から養子をもらうのでは何故ダメなのか」という話をされたこともある。JUNEという小説はそのような心理に支えられている。そして、いまの私はそういう出産に対する恐怖や不安といったものに対する下世話な好奇心がある。

妊娠や出産に対しての恐怖というのは、育児に対する恐怖ともつながっていて、子供や家庭と言った物は女性にとって、義務や責任や仕事を押し付けてくるもので、手を抜こうとすればいくらでも手を抜けるかもしれないが、手をかけ出すと、いくら手をかけても際限がなく、家=職場という意識が発生しだすと二十四時間働かされて、どこまでやっても仕事が終わらず、いくらがんばっても誰も見てないし誰もほめてくれない。残業で帰ってこない夫と、ただ泣きわめくだけの乳児を抱えた女性というのは気晴らしをする時間も場所も相手もいない。実家で出産育児をするならともかく、核家族化したマンションでなどと言い出すと、真面目な人などは簡単にテンパってしまう。

何故こんな思いをしてまで、結婚出産をしなくてはいけないのだろうと言い出したときに、30〜35までに初出産をしておかないと高齢初出産は厳しい。時期を逃すと子供を持たないまま、大人になり、歳をとったときに介護してくれる子供がいないまま身寄りのないお年寄りとして死んで行くのは辛い。AERAの女性副編集長がこのあいだテレビに出てて、35ぐらいなのですが「子供要らない、結婚もしなくて良い、そう思ったら急に気が軽くなった」とおっしゃられていて、それはすごくきれいな笑顔だったのですが、そのぐらい結婚や出産というのは女性にとってプレッシャーになるのだなと思うわけです。

だけどさ、これ、男も同じじゃないの?と思うわけです。30〜35、妻子抱えて30年ローン組んで、もう転職できない、もうどんな嫌なことがあっても逃げられない。男性にとってもそれは恐怖でしょ。日雇いをしていたとき、40〜60ぐらいで職場の独身寮で日給五千円もらって一日五時間働いて、というおじさん達みた時、一生独身で流浪の人生を送る旅芸人や宣教師の伝記を読んだとき、ああ、これで良いんだ、最悪こうなっても生きていけるんだと思ったとき、気が軽くなったもん。たださ、上記のAERAの副編集長はカッコイイんだよ。それに対して、独身寮の日雇いはカッコ悪いんだよ。この差はなんなのかなと思ったりね。

TVタックルの田嶋陽子女史みたいに、女性のやることは何でもかんでも正しくて、男性のやることは何でもかんでも間違っているというカリカチュアライズというかディフォルメというか誇張と省略というか、そんなフェミニズムしかテレビレベルの娯楽では提供できないようなのですが、フェミニズムと言ったときに正反対の意味が二つ発生してしまうんですね。

a)女性はか弱いものなので大事に守ってあげる。(性別役割分業の強化)
b)女性も男性と平等に扱う。(性別役割分業の廃止)

で、女性や子供の労働時間に制約があったり、女性の深夜労働が禁止されていたりするのはa)の方ですね。逆に女性でも、結婚退職しないし、転勤や残業も受け入れるから、賃金や役職を男性と同じように査定するってのはb)ですね。あなたのいうフェミニズムというのはabどちらの方向性を志向するのですか?という問いはとりあえず基本でしょう。女性の人としゃべっていると家事も育児も仕事も男女半々というのが男女平等だという考えが意外に多いのですが、そうならない職業も多いと思うのです。就業形態を大きく3つに分けると。

1)家事育児専門
2)公務員・パート・アルバイト(残業・転勤を断っても首にならない。定時の仕事)
3)仕事専門(残業・転勤を断ってはいけない。不定時の仕事)

会社人間と専業主婦という組み合わせは1&3なのですが、高校の先生同士、中学の先生同士の夫婦だと2&2で、家事も育児も外での仕事も男女半々で行けます。あと、男が1女が3というパターンもありえますね。問題は夫婦ともに3の組み合わせで、日本では少ないですがアメリカやヨーロッパなどでは割りと多く、乳児はベビーシッター、児童は寮制の学校に入れて、夫婦ともに単身赴任で、年に二回だけ家族全員が集合して夕食をとる。なんてのが割りとよくある形態であるようなのです。小説かノンフィクションの形で、3&3の夫婦のメリットデメリットを資料集めて書いたら、これからの新しい家族のあり方として面白いかもしれません。ただ実際に単身赴任している上司の生活とか見ると、スーパーのぞうさいコーナーでポテトサラダ買って、六畳のアパートで缶ビール飲みながら、寝転がって巨人戦みてるのって、哀しかったですけどね。あれだと下手すると大学生の方が良い生活しているし。アメリカのドキュメンタリー番組に出てくる夫婦とも単身赴任というのは二人ともエグゼクティブで自家用ジェットとか乗りかねないようなのが、年収一千五百万とか三千万とかで子供が私立の超エリート校でって奴なんだけど、日本でクルーザーとかジェット乗ってる会社員ってイメージできないからね。

性別役割分業の廃止という方向でフェミニズムを考えたときに、1と3を足して2で割って、夫婦ともに2番ってのじゃなくて、性別に関係なく男女ともに1から3のうち好きな方を選択できるってのが、正しい方向だと思うんだけどさ。そして、性別役割分業の廃止・流動化の方向でフェミニズムをとらえるなら、女性だからフェミニスト、男性だから反フェミニストという田嶋女史的なパターン化はおかしくて、男性でも男性的であることを強制されるのが嫌、男性的責任や義務や仕事を負わされるのが嫌って人はいるし、そういう人は積極的なフェミニストだと言えると思うんだ。(上野千鶴子氏によると、外からの役割期待からいかにして逃げるのかがフェミニズムであるらしい)男性として期待される義務や責任を負わないのがフェミニストだという書き方は、女性に対しても義務や責任を回避するようなタイプの男性のことも含んでいるわけだから、非常識なことを書いているわけだし、某氏や某嬢から批判や反論がくるだろうと思うし、それを期待して書いているんだけど、最近のパターンでは「面倒くさい」で放置されることが多い。放置されるとボケ役って弱いよね。

戦争は結婚の一形態だなんてことを学生時代に言って顰蹙を買っていた私ですが、ある説によると結婚には三つの形態があって、

1略奪婚(強姦・レイプ)
2贈与婚(売春)
3恋愛結婚

1から3に向かって結婚は進化してきたのだという話があって。戦争というのは、略奪婚の要素を持つわけです。ある種類の猿などは、群れのメス猿全部がボス猿の子供を身ごもっていて、群れの外から強い猿がやってきて、ボス猿を倒してしまうと、群れのメス猿は前のボス猿との間にいた自分の子供を殺して、新しいボス猿との間に子供を作ったりします。古代の中国の皇帝なんてのを考えてみても、始皇帝なんて千人の奥さんがいたとかで、皇帝は自分の国の女性にいくらでも好きなだけ手を出せるし、気に食わない男が居ればいくらでも殺せる。ただし、他の国から攻められて負けたら一番最初に殺されるのは負けた国の皇帝だと。戦争というのはオスによる別の群れのメスの分捕り合戦だと。だから、どうして政治家に女性が少ないのか、男性中心の社会じゃないのかなんて話は当たり前で、国や政治という概念はオスが勝手に、ここからここまでは俺達のメスと境界を作っているだけの話で、メスにとってはそんなものは始めから存在しない。どっちの群れのオスだろうが最終的に自分にとって都合の良い、勝った側につけば良いだけの話で。

具体的に日本の第二次大戦の敗戦の話をしたいのだけれども、巨人の星という漫画が昔あって、星一徹というのが頑固親爺で、すぐにちゃぶ台をひっくり返す。昔野球選手になろうとしたけど体を壊してなれなかった。その昔の自分の夢や挫折感を自分の息子の星飛馬にしょわせて、野球選手になるための猛特訓をさせる。そして星家の女性は、酒を飲んでは暴れてちゃぶ台をひっくり返す星一徹に何度も泣かされながらも、影から星一徹や星飛馬を支えてフォローする。典型的な男尊女卑漫画だったんだけど、あれの背景に何があるのかを考えると、日本の敗戦なんですよ。野球選手になろうとしたけど結局体を壊して成れなかったというのは、アメリカに勝とうとしたけど勝てなかった当時のお父さん達の挫折感を示している。そして、何故、星家の女性は朝から酒を飲んで女子供に暴力を振るうようなお父さんに理解を示すのか。

アメリカのベトナム戦争の帰還兵などでも、戦争のショックから立ち直れずに酒やマリファナにおぼれたままの人というのはいっぱいいるわけです。さらに日本の場合、戦争中は米軍から日本の女性を守るのだと教え込まれて若者達は戦争に行っているわけです。それが戦争に負けて米軍が上陸してくると、米兵と恋に落ちる日本人女性というのがいっぱいいるわけです。傷だらけのボロボロになって帰ってきた帰還兵より、米兵の方が金も食料も持ってるし、レディースファーストで優しい。背も高くてカッコイイ。で、二・三年して米兵が本土に帰ったら、父のいないハーフの子供がいっぱい日本に発生してしまう。村上龍は初期エッセー集の中で、戦争に負けるということは、幼なじみの女の子が肌の色の違う子を産むということだと言ってます。漫画のはだしのゲンをみると、鬼畜米英から大和撫子を守るのだと言って戦争に行った若者が敗戦して日本に帰ってきたら、命を掛けて守ったはずの女の子が米兵といちゃついている。して、米兵が帰還すると今度はその米兵との間に子供ができた母親が今度は他の日本人から売春婦・売国奴として差別される。先ほどの猿の群れの話で行けば、メスにとってどの群れのオスであろうが、いま自分の群れを支配していて、いま自分にとって都合が良いオスであれば、それが自分のつがいなんですよ。ただ、オスの論理で行けば、自分の群れのメスを守るために命掛けて闘ったのに、戦争負けたら自分から勝った側のオスに尻尾振るんかいという思いはあるわな。その辺の後ろめたさが、巨人の星に出てくる女性にはあると。さらにいうと戦争で結婚適齢期の若い男子が大量に死んでいるので、結婚しようとすると女性が大量に余る計算になってしまう。この辺の男女比も男尊女卑的なものに拍車を掛けている。

そういう巨人の星みたいな家庭で育ったのが団塊世代で、彼らは昼まっから働きもせずに酒飲んで暴力振るう父を嫌だと思って、女性を大事にしようとした。また、女性は大事にされたいと思った。それが専業主婦を生んでいくわけです。女性は外で働かなくても良いんだ、ただ存在するだけで価値があるんだという優しさの裏返しが、女性を家に閉じ込めるという状況を生んで行った。よくフェミニストの人が口にする専業主婦批判、女性を家庭に閉じ込めて云々とか、ここ二千年というもの女性は男性の下で抑圧されてどうこうというのは、本当に二千年間も専業主婦が存在したのかって話ですよね。専業主婦なんてのは団塊世代の問題であり、高度成長期の問題なのですよ。まず専業主婦なんてのは自営業者や家内製手工業者の中では存在し得ないわけです。働く場所と住む場所が物理的に離れているという前提があって初めて発生する問題で、家でお好み焼き屋をやっていて、お客さんにお好み焼きを焼くのは父の仕事で、子供にお好み焼きを焼くのは母の仕事なんて決まってなくて、誰が店をやって誰が家事をやっても問題ないわけです。戦後すぐなんてのは財閥解体をされてますから、公務員を除くとあとは自営業者しかないわけです。農業にしろ漁業にしろ工業にしろみんな自営業者であれば、家庭と職場の仕事の区別なんてないんですよ。高度成長期になると、ここでいう高度成長は戦前の炭鉱や八幡製鉄所なんかも含む意味で言っているので、やっぱり二千年間男は女性を抑圧してきたんじゃないかという話になるのですが、高度成長期は、電気ガス水道道路といったインフラが何もない大自然の中で、トンネルを掘ったりダムを作ったり工場と工業団地を作ったりします。大体、大規模な工場なんてのは既に大勢の人が住んでいる町などには作れないので、もう、工場内の寮に住むしかないような、工場内の食堂以外では飯を食う施設もないようなド田舎に工場は作られるわけです。工場から一歩外に出ると、荒地と森と谷と山しかないような場所で工場がらみのトラック以外は交通機関もなかったりします。鉄骨の建物の中で働いていると、そこが地上か地下かなんて分かりません。太陽の光が当たらないからです。仕事が終わって寮に帰るときに初めて太陽の光をみて、ああ生きていると思って、また日の光が当たらない寮の中に入っていって寝て起きたらまた工場の仕事だったりします。男ばかりの工場でベルトコンベアにのって運ばれてくる部品にひたすらネジを入れるだけの仕事を延々繰り返して、一日十二時間労働の二勤制で働き、工場の機械は二十四時間動きっぱなしで、労働者は工場内の寮と工場の往復ばかりで、工場の外には出ても周囲に何も遊ぶところがない。これだと女性と知り合う機会もないし、生活に張りも潤いもない。二・三年働いて金たまったら実家に帰って親のあとを継ぐか、自分で店か工場を持って自営業者になるか、とにかくみんな今の仕事をいつ辞めるのかタイミングを見計らっていたりする。そんなんだと工場に長くとどまって熟練工になってゆく人や労務管理をするような人がいなくなってしまうので、独身寮だけでなく妻帯者も住めるような環境を会社も作りたいわけです。二十畳の和室に三十人が雑魚寝から、二段ベッド、三段ベッドの仮眠室タイプ、ペライベートを重視した四畳半の個室に12インチのテレビ付きと、徐々にグレードを上げていった独身寮も、妻帯者が住めるようにしようとすれば、内風呂やキッチン・トイレなども完備した2LDKぐらいは欲しい。トイレや風呂が共同では嫌だ。近所に買い物が出来るスーパーぐらいは欲しいなどとなってくると、もう一企業の力ではどうしようもなくなって、国や地方自治体の力を借りる形で都市開発事業団に頼んで妻帯者用の社員寮=工業団地を作ってもらうことになるのです。これが今でいうニュータウンの始まりですね。工業団地を前提にすれば、家事や育児の相談をする相手がいない、妊娠や出産に関して不安を感じるなんてのは当たり前のことです。外=祖父母から隔離された未開の地に作られた工場に住んでいるわけですから。人が住みやすい環境を作るのではなく、工場としての機能性・採算性をもとに作っているわけですから。

女性からすると定期安定収入を得てくれる夫が欲しい。男からすると常にそばに居てくれる女性が欲しい。工場からすると、安定した労働力が欲しい。そして、安定した労働力といったときに、女性は結婚すると、妊娠すると工場を辞めてしまうが、男は結婚させて住宅ローン組ませりゃ工場から逃げない。だから男手が必要だと。いうような三者の思惑の一致があったりしてですね。

その次の世代、俺ら第二次ブーマー世代は円高で製造業がダメになってますし、インフラもある程度整備されてしまってるので、ダムやトンネル造りが産業としてそれほど大きくなくなっている。同時に男女雇用機会均等法などの整備もされて、徐々にいろんなことが変化してどうなっていくのか。

段々何を書いているのか自分でもよく分からなくなっているのですが、こういう親子三世代の物語をインフラの整備や経済の状況などを絡めて上手く小説風に書ければ、中上健次かフォークナーかみたいになれるのでしょうけど、脱線につぐ脱線で、贈与婚やなんかの話はどこへ行ったのだよと思いつつ、どこが反フェミニズム側へ張った論なのかも分からなくなりつつ、頭の悪さ露呈しまくりな私の文章を見た限りではまあ、そんな大それたこと考えるだけ無駄だなと。

P.S.片桐さん元気?

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