HP管理者日記19
/1/11>1/28 俺が口走るべき話題じゃないけど、いまの政治ってどうなってるんやろね。アメリカは大義のないイラク戦争してるし、日本ではプロ野球が大変なことになっている。イラク戦争を行うアメリカの表向きの理由・建前じゃなくて、本当の目的すら実はよく分からない。イラクの石油目的だとは言われるが「イラクの石油をアメリカによこせと」そんな単純なことを言ったら、イラク戦争以前の地点でもイラク石油の権利の何割かはフランスやドイツやロシアも持っているわけで、イラク戦争勃発当初、アメリカの行為に真っ先にフランスが怒ったのはその辺の事情があってのことだし、いま、仏独露対米英日で戦争になってないということは、石油のぶん取り合戦じゃないわけだ。例えばだ、戦争が激しくなったり長引いたりすれば石油が高騰し、中東が安定すれば石油が安値になるとして、アメリカ政府がイラクとどう関わるのかを、公式発表する前に、事前に一部企業に情報を流していたら、その企業は石油相場のインサイダー取引でかなり儲けることが出来るわけだ。政府は情報を流して企業献金を受け取る。企業は情報をもらって石油相場で儲ける。石油に限らず、石油を原料にした火力発電の電力会社の株やガソリン会社や運輸会社やプラスチック製品の会社やの株でも何でも石油と連動して動くものなら、何でも金儲けの道具になる。
日本のプロ野球もね、巨人・西部が失墜して、楽天やライブドアが出てくるのは、森派出身の小泉首相が、旧田中派経世会(現橋本派)のスポンサー企業を叩いて、IT関連企業を支援し、森派のスポンサーを育てようとしている結果だと見えなくもない。道路や鉄道といった旧インフラ産業から、IT系の新社会資本への転換。その中には読売のような日本全国の道路・郵便・鉄道網の完成と共に歩んだ全国紙から、ITへという転換もあるだろうし、森派VS橋本派のシーソーゲームもあるだろうし。
小学生ぐらいの頃って俺結構政治的なこと口走る嫌な奴だったんだけど、いま大人になって小学生のときより政治のことが分ってないような気がするし、自信を持ってこうだと言える政治的な視点がなくなってる。暗いニュースでも田中宇でも良いけど、この手のニュースは日本のメディアにほとんど載らないし、この辺を情報源に政治を語ると下手すると「陰謀史観だ」と言われるんだけど、田中宇でも元々共同通信の海外ニュースを日本語に訳してた人で、暗いニュースの情報源を見てもタイムズやニューヨークタイムズやワシントンポストと言ったメジャー媒体だし、日本の三大紙やNHKニュースなんかよりよっぽど信用おけるわけで、海外のニュースを知らない俺らって、情報統制されてる北朝鮮の国民とあんま、変わんないじゃんとか思う。TBSで金曜深夜2:40〜3:35にやってるCBSドキュメントなんかも、すごい情報流してるからね。軍事的にアメリカ保護下にいたイスラエルが、アメリカからの独立を目指して、まず、経済的自立のために国内産業を育てようと。イスラエルの国内産業で世界市場に輸出するだけの国際競争力を持っているのは軍需産業だと。で、アメリカと仲が悪くてアメリカから兵器が買えないパキスタン政府にイスラエルがアメリカに内緒で兵器を売っていたというのをアメリカのCBSニュースで流されてんだよ。アメリカ産の軍事兵器がイスラエル経由でパキスタンに転売。イスラエルの元首相もテレビの前でそれを認める発言をする。つまり、アメリカとイスラエルが必ずしも仲良い訳じゃないとかいうニュースがアメリカで普通に流れている。
映画「華氏911」でも有名なブッシュ家とサウジ家の交友、もしくはブッシュ家とビンラディン一家との交友とかみると、ブッシュはアラブの石油富豪と仲良くしてきたわけだ。そして中東ではイスラエルvsアラブ諸国の戦争があって、イラク戦争はそこにアメリカが関与した形になっているわけだが、イスラエル・アメリカ連合vsイラク・アラブ連合かというと、そうでもなく、むしろアメリカはアラブ側に付いているという読みもあるわけだ。9・11でアラブ側の人間がニューヨークの貿易センタービルに突入したと。おもいっきり(悪い意味での)陰謀史観的にいうと
ユダヤ人=金融=貿易センタービル
アラブ人=石油=貿易センタービルへの攻撃
という中東におけるアラブとユダヤの対立がニューヨークにおいて起こったと。で、まあ。こういう単純化は危険なんだけど
ヨーロッパ=ユダヤ人=金融=民主党
アメリカ=ホワイトアングロサクソンプロテスタント=石油=共和党=ブッシュ
という典型的陰謀史の視点でみたときに、イスラエルは石油をアメリカ政府に差し出すことで軍事的にアメリカに守ってもらっていたのが、いつまでも大量の石油をアメリカに差し出すのが嫌になってヨーロッパ側に近づいてEU入りをねらったりつう話もあるわけだ。アメリカのイスラエルとアラブを両天秤に掛けてより条件の良い方を取るという選択があるわけだ。ヨーロッパとアメリカを天秤にかけて、より少ない石油で自国を守ってくれる方と組もうとするイスラエルと、アラブとイスラエルを天秤にかけて、より多くの石油をくれる方と組もうとするアメリカ。なんか無責任に色々書いたが、正直、分からない以外には何も言えない。
1/19 最近面白かったビデオ。大空あすか「堕天使X」。高校を卒業して2年、ハタチになる彼女が、同級生から就職活動の話を聞かされつつ、この仕事を選んで本当に良かったのだろうか?これから先いつまでこの仕事を続けて行けるのだろうかと思い悩み、将来に対する不安を吐露し、女優という職業を続けて行く上での女優論・演技論を語り尽くしてます。女優について、スタッフとの人間関係やプロ意識について、真剣に語るそのまなざしをみていると、アダルトビデオだということを忘れてしまう一品。
冬は寒いので、部屋の中でもマフラーを巻いている。でも外に出掛けるときはマフラーを外す。これとゆうのも、ペ・ヨンジュンのせいだ。
2005/1/8 アントニオ猪木のプロレス観について。アントニオ猪木はどのようなプロレス観を持っているのだろうか?蝶野選手と絡みではプロレス派=蝶野VS格闘技派=猪木の路線対立があったというし、前田日明がらみではUWF時代に、リングサイドに猪木が前田日明に招待されたときに、プロレスマンガ「1・2の三四郎」のゴム人形のお面を付けて猪木がリングサイドで観戦し、最後まで覆面を取らなかったことに前田日明が怒ったという話もある。エンターテーメント性を排した真面目な格闘技を作り上げようとしているときに、何故格闘技と関係のない変な演出をするのだと前田選手は怒ったらしい。あるときは格闘技寄り、あるときはプロレス寄りのアントニオ猪木はどのようなプロレス、もしくは格闘技を良しとしているのだろうか?
私が個人的に思うには、猪木のプロレス観は梶原一騎のプロレス観と近似している。選手として一番輝いていた時代の猪木プロレスは、選手:猪木&営業:新間寿&シナリオ:梶原一騎&広報:東京スポーツ新聞という組み合わせで出来ていた。猪木-新間という新日内部の人間の立ち位置はわかりやすいので省くとして、まず梶原一騎だ。三流の売れない大衆小説家だった梶原一騎が、少年マガジンでマンガ原作をやり、巨人の星、あしたのジョーで当てる。おそらく、一生食べて行けるぐらいの金はこのとき手にしていたと思う。金を手に入れた小説家が次に何を欲しがるか。純文学作家としての地位や名誉を欲しがるのは世の常で、この時代の日本で純文学といえば、フィクションを排したノンフィクションの私小説であり、事実に基づいた物語を意味する。文学関係者にとって、純文学がそのようなものであるかどうかは別にして、世間的には大衆文学=作り話で、純文学=事実だったりするわけだ。一生食っていけるだけの見通しが立った梶原一騎が次に手に入れたかったものは、巨人の星やあしたのジョーをマンガの中の作り話でなく、現実の世の中で実現してくれるヒーローだった。そこで梶原一騎は極真空手の大山倍達をモデルに「空手バカ一代」を描く。もちろんこれは、大山倍達の体験したことをマンガにするというよりもは、こんなヒーローがいたら良いなという漫画の世界の主人公の体験を大山倍達に実現してもらうというベクトルを持っている。現実を描くのではなく、漫画で描いたことを現実に実現させるという方向だ。小説家がこういう方向へ動いてしまった例の一つとして、麻雀放浪記で当てた阿佐田哲也が麻雀新撰組を作り、「魅せて勝つ」を合い言葉に麻雀のプロリーグを作って、麻雀観戦をプロ野球などと同じような一大エンターテーメントにしようとした例がある。巨人の星やあしたのジョーを漫画の中だけで終わらせずに、現実の世の中で実現させたいと考えた梶原一騎が最初にパートナーに選んだのが極真空手の大山倍達であったとすれば、梶原一騎の夢により協力的で、より実践的だったのが新日本プロレスだったといえる。
梶原一騎の空手漫画やプロレス漫画を見ると、当然だけど、生身の人間では実現不可能なこと(熊を一撃で倒すとか牛を一撃で倒すとか)が描いてある。だけども、それを実現できると言い切って、実現出来ないまでも実現したかのようにみせることを当時の猪木選手はしたわけだ。この辺の虚実入り混じった感じが猪木のプロレス観ではなかろうかと思う。この辺りね。蝶野選手は、出来ないことは出来ないと、猪木オーナーには言っちゃってると思うんだ。お客さんにはそれなりの手品も見せつつも、猪木オーナーや新日本の経営トップ人には、嘘をつかずに、出来る出来ない言っちゃうんだよ。逆に前田日明との関係で言うと、梶原一騎が原作をしていた巨人の星やあしたのジョーは少年マガジン連載の漫画で「1・2の三四郎」もまた、少年マガジンの連載漫画なんだよな。猪木からすれば、プロレス団体がお金を儲けようとした時に、テレビや新聞や雑誌といったメディアとのメディアミックスというのは当然必要なわけで、400万部を誇る少年週刊マガジンには、多少梶原一騎時代からのパイプがある。いまここで「1・2の三四郎」のお面をかぶっておけば、むこうもまたUWFを取り上げてくれるだろうという親心というか計算というかあったと思うんだ。
昔のプロレスの興業の記録をみると、力道山選手がエースだった時代やジャイアント馬場選手&アントニオ猪木選手のIG砲時代、日本プロレス時代には、読売・朝日・毎日といった大手新聞社が協賛についていたりする。大手新聞社にはそういったイベント事業部みたいなのがあって、正力松太郎伝なんかをみると、昔の読売なんかそういうのにすごく力を入れていたりする。野球で言えば、朝日=高校野球、毎日=社会人野球、読売=プロ野球と住み別けがあったりする。読売がそういうイベントに力を入れるのは、主催者の公式発表の情報をどこよりも早く欲しいからだ。自分たちが主催のイベントであれば、同業他社を排除して、読売一社独占で記者会見ができる。他の新聞社は読売の記事の後追いしかできない(Ex:ビートルズレポート)。こういった、特定の新聞社とだけ仲良くするというシステムが主催者にとって良いのか悪いのかは分からないが、ある時期から、プロレスイベントの協賛が大手新聞社でなく、スポーツ新聞になり、協賛が付かなくなりといった状況がみられる。新聞社にとって、主催・協賛に名を連ねることが、プラスになるのは情報を早く取れる以外に、イメージ戦略的なものも多い。文化的な香りがあるのか、高級なカルチャーの香りがあるとか、大衆に広く支持されているイベントだとか、そういうイメージがあれば、それらのイメージが加わることで、新たに広告を取ってこれたりするわけだ。ところが、プロレス八百長論というのは、報道をつかさどる新聞社にとって命取りでもあるわけだ。悪や虚偽を暴き、真実や正義を報道すると、仮にも言っているマスコミが、八百長を報道していたとなれば大問題だ。WWEのように、試合前からマスコミ各社に試合結果をFAXし、これはスポーツ競技でなくエンターテーメントですと公言しているのであれば、それはそれで報道しやすい。ストマックダウンのどのシリーズの脚本家は誰で、その脚本のできが良かったのか悪るかったのか、タレント(WWEではプロレスラーのことをこう呼ぶらしい)の演技や動きは良かったのか悪かったのか。これはこれで、報道も批評もしやすい。逆に、シナリオのないスポーツ競技は、それはそれで報道できるだろう。それに対して、真剣勝負と言いながら、シナリオがあるとかないとか言われているプロレスは、非常に報道しにくい。新聞社にとって扱いが困難だ。
そこで東京スポーツ新聞が出てくる。人面犬や人面魚や河童と東スポの一面にはオカルト的な生物が出てくる。当然、有識者からの批判や反論も多いという。けれども、一面にそれらのネタを持ってくると新聞の売り上げが普段の3倍になるという。一番最近で心惹かれたキャッチコピーは「白昼堂々と横断歩道を渡る宇宙人」というコピーで半年から一年ぐらい前の記事だったと思うが、駅のスタンド売りの折り方だと、その宇宙人の写真がギリギリ見えそうで見えないのだ。どうせ、合成写真か何かだと思うが、でも見たいじゃないか。ピンぼけで小さく写ってるとかじゃなくて、おそらくはっきりと大きく写っているはずだ。何しろ、「白昼堂々と横断歩道を渡る宇宙人」なのだから。
現役時代の猪木選手の会見時に、会見が終わっても東スポの記者が中々帰らないのを見て当時の猪木選手は「一面が欲しいのだろ?」と言って、東スポの一面に使えるような見出し作りに新聞記者・猪木選手・新間営業部長の三人で腐心したという。スポーツ新聞の一面にはみんなが思わず手に取りたくなるような見出し記事が必要だ。けれども、スポーツイベントが何もないウィークデーで、芸能スキャンダルも何もない、スポーツ新聞社としては、一面の見出しが作れない日があるという。河童や宇宙人といったネタは火曜・水曜・木曜といったどうにもならない曜日に使われる。このスポーツイベントがなくて、記事が作れない曜日に、プロレス興業の広告にもなる内容で何か派手なことをぶち上げなきゃいけない。猪木オーナーが立ち上げたUFOという団体名や「イノキ・ナチュラル・パワー4」という永久機関の発明などは東スポの流れだと思う。世界のどこかで大事件が起きると、そこでプロレス興業をやりたがる猪木オーナーの思考というのは、1970年代のアングラオカルトカルチャーが見え隠れする。
その流れで言うと、水曜スペシャルの藤原弘探検隊がジャングルの奥地に住む謎の巨大生物を追いかけていくときに、普通の人間が旧ザクみたいなシルエットだとすると、ゴックやズゴックやビグザムみたいなシルエットで、人間の倍の大きさで、物凄い怪力だと。その巨大生物の雄たけびがジャングルに響き渡るとどんな猛獣も震え上がる。とかいう現地の人の証言があったり、その巨大生物のものだと思われる足跡を追いかけたりして、ついにホーーー!という巨大生物の雄たけびが聞こえて、隊員がその生物を追う、そしてカメラはその巨大生物を捕らえる。そこにはジャングルで自主トレをする中西学選手の姿があった!とかあっても良いと思うんだよな。ルックスも西村選手とかのルックスだとハッタリ効かないけど、中西選手だとハッタリ効くじゃん。公式プロフィールで身長180センチと聞いて、中西選手ってそんなちっちゃかったっけ?と思うけど、そこはプロのカメラマン・照明さんいれば、デカく見せるって。で、その放送後、水曜スペシャルに出た謎の巨大生物(ビッグフット)が新日本に参戦!となれば、みんなチケット買うじゃん。
熊殺しのウィリー・ウィリアムスの映像もすごくて、雪山で熊とウィリーがスパーリングしてるんだけど、普通そういう猛獣を扱う場合は、カメラと猛獣の間にオリなり柵なり強化ガラスなりがあって、鉄格子越しに熊がいて、その鉄格子の中に人が入っていく。バラエティ番組で体を張ったリアクション芸をするお笑い芸人の場合はそういうことをするので、カメラと猛獣の間に鉄格子が入る。けれど、その映像では、二本足で直立しパンチを打ってくる熊を真正面から映し、ウィリーの拳が画面下から熊の顔面に向かって伸びる。ウィリーは頭にCCDカメラを付けたままスパーリングしているのか?向かい合うウィリーと熊との横からの映像を見た限りではウィリーは頭にCCDカメラを付けていない。にも関わらず、ウィリー視点で熊と闘う映像が入る。普通熊は、猫のように前足で上から下に物を叩き落とす動きはするが、拳を顔の前で構えたり、ジャブやストレートやフックを放ったりはしない。しかしその映像では、熊がファイテイングポーズをとり、切れの良いジャブやフックやストレートを放つ。熊がどうみても中に人が入っている着ぐるみで、雪山で周りに何もないのは、ウィリーや熊の大きさを比較する対象物を置かない事で、熊を少しでも本物っぽく見せる演出だと思われる。でも、その映像をスタジオで見ている芸能人の人はそこに一切突っ込まない。芸能界とはそういうものだ。「すごい迫力ですね」とウィリーをほめる。
70年代寺山修司は文化とは見世物小屋だと言った。東スポの記事だって、「白昼堂々と横断歩道を渡る宇宙人」という見出しを見て、どんな写真が載っているのか想像して、買うか買うまいか迷っている段階が一番楽しい。買って写真を見てもどうせ、本物の宇宙人が写っているわけがないのだ。けれども東スポの購入者は東スポにダマされたと詐欺罪で訴えることはない。だまされても良い、いやむしろだまされよう、と思って東スポを買っているのだから。だまされる楽しさを買っているのだ。梶原一騎原作の漫画を東スポの見出しだとすれば、当時の新日本プロレスのプロレスは東スポの写真だった。消える魔球やコークスクリューのような、漫画の中でしかありえない何かを現実に見せますと言っているのだ。ウィリー・ウィリアムス戦にしろ、モハメッド・アリ戦にしろ、ありえないものを見せると言っているのだから、試合自体は期待外れになるのは当然なのだが、ブーイングを浴びせて、だまされたとか、詐欺だとか言いながらもお客さんは喜んでいるのだ。普通に考えると、全日本プロレスからノアにつながるあの流れが、プロレスビジネスとしては堅実に決まっているし、本音を言えば新日本内のレスラーや社員だって、ノアみたいな普通のビジネスをやりたい人が多いと思う。でも、猪木オーナーのプロレス観は入場料を払ってプロレスを観に来る10万人や20万人を相手にしたノアのようなビジネスじゃなくて、少年マガジンを読んでいる400万人の読者や、日本の人口が一億二千万人でテレビの視聴率10%だと1200万人相手の、だまされたお客さんが幸せになるような壮大な詐欺をやろうとしているように見える。
棚橋選手と中邑選手の服装の差が面白い。棚橋選手は汗の染み込んだ白いTシャツ一枚で写真を撮る。肌にぴったりと貼りついたピタTで、上半身の筋肉を見せつける。プロレスファンが選手に求める肉体美をピタTで表現し、汗や汚れで変色したシャツで、日々の厳しいトレーニングや努力を物語らせる。中邑選手は違う。白いワイシャツのえり元やそで元のボタンをはずし、えりを立て、黒のジャケットを羽織る。黒いジャケットのえりやそでから白いワイシャツのえりやそでを出しフォーマルな中に着崩した不良っぽさを演出する。撮影場所はL.A.のオフィス街で昼食時、スクエアなファッションに身を包んだ人達で賑わうオープンエアの路上カフェテラスの前で、消化栓に座ってハンバーガーにかぶりつくなど、シティーウィズっぽい空気を作る。プロレスファンがプロレスラーに求めるレスラー像とはかけ離れた映像を中邑選手は作る。お洒落で若くてカッコイイやり手のヤングエグゼクティブ。ananやメンズノンノ、じゃなきゃ日経ビジネスにでも載っていてもおかしくない写真をプロレス雑誌に載せる。棚橋選手がお金を払ってプロレスを観に来る10万〜20万人ほどの人に向けて情報を発信するのに対し、中邑選手はプロレス会場にこない人達に向けて情報を発信する。例えば、サラリーマンやビジネスマンというのは数的に多いし、潜在需要の豊富な大きなマーケットだと想像出来る。その人達に向けて、その人達と同じようなファッションで会社員文化に馴染み、さらにサラリーマンファッションをベースにしならがらも、それをこう崩してこう着ればよりカッコ良いというファッションリーダー的な身だしなみさえ見せる。
試合内容を観ても、棚橋選手の受けを重視したノア的なオーソドックスなプロレスに対し、黒タイツをはいている時の格闘技的な動きや、初代タイガーマスクのような青ラメタイツをはいたときのエルニーニョと呼ばれるサマーソルトキックを必殺技とするメキシカンプロレス(ルチャ)まで素人客重視のプロレスをする。プロレス会場に来ているお客さんに評価される棚橋選手のプロレスと、その外側に向けた中邑選手のプロレスの住み別けは非常に面白い。猪木オーナーのプロレス観が根本のところで興業オンリーの全日本−ノア型から外れ、雑誌や新聞やテレビと結びついたメディアミックス的な物になっている以上、新日のエースにはプロレス以外に芸能活動や格闘技への参戦等が期待される。その期待にこたえる数少ない選手が中邑選手で、棚橋選手とは同じ目的に対しても違う役割を担うべきだ。ちょっと最近、中邑選手が棚橋選手寄りになっているのが、気持ちは分るがギリギリのところで踏ん張って欲しい。
いまの俺の新日理解。花形満=中邑選手、星飛雄馬=棚橋選手、左門豊作=天山選手・真壁選手。
今日は擬人法を習った。 例えば、「確定申告」に擬人法を使うと、「香取慎吾くん」になる。
「焼きソバ」に擬人法を使うと、「ペ・ヨンジュン=ソース焼きソバ」になる。
10/26 自分の中で、リアルタイムで経験したと感じられる時代は1960年代と1970年代と1980年代しかない。それ以降の時代の記憶が自分の中にはない。60年代といえば、学園紛争であり、恋と革命であり、高度経済成長であり、ロックンロールであった。70年代は、学生運動が挫折し、就職転向すると共に、経済がオイルショックで停滞し、省エネと挫折とフォークソングであった。80年代は、バブル景気で物質文明を謳歌し、ネクラであることが罪とされ、キラキラチャラチャラすることが正義とされた、BGMはシンセとユーロビートとディスコミュージック。1945年に第二次大戦が終わり、戦場から若者達が戻ってくるとベビーブームで一斉に出生率が上がる。仮に45年に生まれた子をベビーブーマーと呼ぶとして、60年代の半ば、1965年にはブーマーはハタチ、70年代半ばには30で、80年代には45。人口の多いボリュームゾーンがハタチで反抗し、30で就職転向し、40でそれなりの金を手にしたとして、1974年生まれの第二次ブーマーは、2004年現在で30の就職転向を迎えているわけだ。ニューミュージック・シティーポップと呼ばれる曲は、物質文明を謳歌しつつ、就職転向のやましさみたいな物を抱えていて、そこが泣けたりするわけだが、ジブラのティーンエイジ・ラブで泣けたり、ラウンドテーブルで感傷に浸ったり、つうのは典型的な70年代なわけで。P.S.ラウンドテーブルは、インディーズで出してた最初の5枚のマキシシングルまでだな。などと嫌なことをほざいてみる。
10/21 こんなことを書いている場合ではないのだけれども、うさばらしにプロレスについてでも書く。高山選手がIWGP王者だった時、ウルトラマンの銅像の前で、ジャーマンスープレックスホールドを決めているウルトラマンのイラストが入ったTシャツを着て、高山選手はスポーツ新聞に載っていた。元K−1の佐竹選手は怪獣のプラモデルを収集する怪獣マニアで、テレビ番組でレア物怪獣プラモデルの値段を言い当てたりしている。両選手のプロレス・格闘技観が「プロレス=怪獣映画」だったとして、いま最も支持されているプロレスラー高山選手のプロレス観がそうだとすると、これは多くの人に支持されているプロレス観だと言える。私が子供の頃、幼稚園・おともだち・テレビくん・小学○年生といった子供雑誌には、付録や特集でウルトラ怪獣大百科やプロレススーパースター列伝のような物があった。ページのレイアウトは、一ページに一怪獣もしくは一レスラーで、上3分の2が怪獣やレスラーの全身写真で、下3分の1に、身長や体重や出身地や必殺技が載っている。もう少し上の世代だと仮面ライダーカード、下の世代だとビックリマンチョコのシールに近い構成だ。レイアウトが怪獣もプロレスラーも同じなので、子供の頃、レスラーと怪獣の区別があまりついてなかった。写真は円谷プロの狂暴な怪獣や外人悪役レスラーがメインで、ウルトラマンや日本人のベビーフェイスは写真も地味だし、種類も多くないので、正直あまり面白くなかった。メインはやはり怪獣なのだ。
高山選手が半年交代でやってくる怖い外人レスラー=怪獣役を重視し、自ら怖い外人レスラーになろうとした時、ウルトラマンはずっとそこにいるとして、怪獣は次から次に、新しいのが出てこなきゃいけない。覆面をしたり、ペイントをしたりして、何役もこなすにしろ、基本的には、アメリカ・日本・ヨーロッパと世界を転々と旅して、その土地その土地のベビーフェイスと死闘を繰り広げて、一箇所に定住=ウルトラマン=ベビーフェイス化しないことが大事であったりする。
さて、今年はオリンピックがあった。オリンピック日本代表に選ばれた経験のある柔道の小川選手とアマレスの中西選手はプロレスラーとしても非常に似ている。小川選手は柔道という日本発祥のスポーツで日本が金メダルと取って当然というプレッシャーの中で金メダルには届かず、周りからの期待やプレッシャーが嫌で一度柔道を辞めて、JRAで公務員として働いている。中西選手も新日本プロレスのバックアップや周囲からの期待・重圧を背負ってオリンピックに出て、オリンピックで8位という成績に負い目を感じていたりする。一般にプロ格闘技とプロレスだと、格闘技の方が強いというイメージがあるが、色んなインタビューをみると、プロ格闘技のスター選手でも、アマチュア格闘技でトップに立った選手を、自分より強いかのように語るんですよ。パンクラスの鈴木選手でも、アマレスルールなら、永田選手の方がポイント取るのは上手いだろと言うわけ、俺の方が怖いよ、ポイントを取りに行かずに相手をつぶしに行くよ、でも、細かいポイントを取ってそのまま逃げ切るのは永田選手の方が上手いだろと言うわけ。リングスの前田日明なんかも、アマチュアスポーツのトップはすごいよと、プロ格闘技とは比べ物にならないぐらいすそ野の競技人口が多くて、その中でオリンピックに行くというのはほんの一握りなわけだから、プロ格闘技のリングに上がっても、やっぱりすごいと言うわけ。格闘技のイメージで売っている柴田選手も、ケンドー・カシン選手は強いと言うわけ。プロ格闘技の選手が永田選手強い、カシン選手強い、秋山準選手強い言いながら、それらのアマレス出身プロレスラーに、強いと言われているのが中西選手で、この中西選手がね、みんなから強いと言われているにも関わらず、アマレスのことを言われると嫌がるんですね。インタビュアーに「中西選手ってアマレス強いんですよね」と言われて、「いや、そんなこというなよ」と答えると、中西選手はすごく謙虚で良い人に見えるが、本人は謙虚なのじゃなくて本当にアマレスのことを言われるのが嫌なのだと思う。オリンピックで周りから期待だの重圧だのプレッシャーだのをかけられるのが嫌で、アスリートの道を避けたのに、まだアマレスの話をされるのかいってわけだ。
中西選手のインタビューをみると面白い。アマレスを始めるきっかけは、農家をやっている父親から「後を継げ」と言われて、それが嫌で、高校で一番遅くまで練習をやっているクラブに入って、家に寄りつかないようにしたら、アマレスの全国大会で優勝してしまったという。それまで柔道をやったことがなかったのに、高校でいきなり柔道の才能を見出されて、なりたくもないのに長時間の練習と才能で、わずか一年もしないうちに柔道を幼いうちから十何年もやっているような人達を抜いて日本一になったという小川選手のインタビューと同じで、トップアスリートなんか目指していなかったのになれてしまったという戸惑いがインタビューのあちこちに入る。勝手に才能を見出され、勝手に期待を掛けられ、最後に結果がついてこなかったと勝手に罵声を浴びせられる。中西選手・小川選手がオリンピックで経験した基本的なストーリーがこれだ。国家公務員になりたかったと語る中西選手と実際に公務員をやっていた小川直也選手。
プロレス八百長論というのは昔からあるけど、最近はそれが格闘技にまで飛び火している。UWFやパンクラスやリングスの元選手たちが事実を語り、それが雑誌にも載っている。一番驚いたのは、PRIDEのノゲイラ選手が、「受け」について語っていて、自分がキメれる場面であっても、わざと逃したり、一般に有利とされるマウントポジションを相手選手に取らせて自分は下からの逆転劇を見せたりするという話をしていたり、柔道からPRIDEに参戦の秋山選手が「お客さんが見たいと思うような試合をします」と、勝ち負けよりも試合内容の面白さを優先させるかのようなことを言っていたりする。本物のガチンコ勝負の場合、力量が同じだと、カウンター狙いで待っている側が有利で、勝敗は判定ばかりになるという。お互いに攻めずに、カウンター狙いで待ち、小さなポイントを少し取ったら、後は逃げ回って判定勝ち狙いという試合が多くなると当然面白くないから観客動員も落ちる。負けても良いから自分から攻めて派手で面白い試合をすれば、次回のチャンスも、勝者並みのギャラも弾むよというのが、K−1では裏で選手に言っていたのが、PRIDEでは主催者が堂々とメディアの前で言うようになっている。こうなると、プロ格闘技が真剣勝負かどうかが怪しくなる。プロボクシングでも、勝敗&何ラウンドでKOするか、が諸外国ではギャンブルの対象になる以上、やっている本人達もどっちが何ラウンドで勝つのか知らないわけだが、いくら強くても観客動員がなく、チケットが売れない選手の場合チャンピオンと闘わせてもらえないというシステムを考えると、アマチュアボクシングのようなアスリートとしての要素以外に芸能的な要素が選手に求められているのは自明だろう。そう考えると、
ガチンコ・アスリート←−−−アマチュア格闘技−−−プロ格闘技−−−プロレス−−−−→エンターテイメント・芸能人
こういう配列になる。した時にアマチュア格闘技出身のプロレスラーの位置は微妙だ。
日本にプロの総合格闘技を根付かせたのは前田日明だ。総合格闘技のルール・技術・戦術を観客に教え、試合を見て、どっちが勝っているのかや、どの選手のどの技術がどのぐらいすごいのかなどを分かる観客を育てたのは前田日明だ。アスリートの人は自分の感覚を人に伝えるのが苦手だ。長島監督が内角の球を打つスイングについて「ボールがビュッときたら、ギュッと行け、ビュッと来たらギュッだ」と擬音語だらけのことを言ってるが、何を言っているのか分からないという話になったときに、ある野球選手が言っていたのが「僕にも長島さんが何を言われているのか分かりませんが、なぜああいう言い方になるのかは分かります。バットを握ったことがない人間に、バットの芯に当てるということを説明するのは難しいのです。実際にバットを握らせて、バットの芯にボールを当てることで、ここが芯だという感覚をつかませるしかないわけです。長島さんクラスの超一流の選手になると、僕らが経験してない感覚や体の動きがあるので、それを経験してない人に説明しようとしても、ビュッとかギュッになってしまう。ああゆう、ガー−ッときてドンみたいな言い方でも、分かる選手には分かるし、分からない人間には分からない。」一流のアスリートにしか分からないような感覚や体の使い方を説明しようとして、独特の奇妙な言葉を生み出してしまう。その独特な言葉を面白がられている・ありがたがられていると感じているのが長州選手だとすると、独特な言葉使いを指摘されると、馬鹿にされていると感じて怒るのが中西選手で、言語化不可能と思われたそれらの感覚を、ケビン山崎経由の医学用語・専門用語を駆使して言語化したのが前田日明・佐山聡・藤原組長で、**第二関節を、ねじ曲げることで**筋を伸ばし痛めつけるのが、この技で・・てなことを、分かる観客をUWF時代に育てて、その観客がいまのプロ総合格闘技の観客につながっている。
正直、俺はWJは格闘技だったと思う。UWFやパンクラスやリングスでもあらかじめ勝敗が決まっていたというが、格闘家として通用する人が、格闘技として通用する技術や動きをみせていた以上は、格闘技だったと思う。WJは選手のキャラクターやストーリーを排除し、試合は必ずロックアップから始まり、実践的でない技を禁止し、限られた技だけで試合を組み立てようとした。これを格闘技と呼ばないのは、ルールや技術や戦術を観客に説明する言語能力が主催者に無かったからだとしか思えない。長州選手に前田日明並みの言語能力があれば、あれは格闘技と呼ばれていたはずだ。あれをプロレスと呼ぶと、PRIDEのようなプロ格闘技ですら取り入れているいくつかのエンターテイメント的要素を積極的に排除した理由が分からない。正義対悪でも、外人対日本人でも、ベテラン対新人でも、テクニシャン対パワーファイターでもなく、そのようなキャラの書き分け、試合のテーマを拒否し、ただ理由もなく淡々と闘うのは、アマチュア格闘技をやろうといていたと言わなければ説明がつかない。
格闘技専業で食って行けるプロ格闘技を普及させようとしたら、スター選手も必要だが、ルールや技術や戦術を観客に解説出来る人間も必要だ。プロ野球やプロサッカーリーグが成立するためには、ツーストライク・ツーボールとかオフサイドとかいう用語が理解出来る程度にはルールを知っている客層が必要だし、送りバンドやバスターやヒットエンドラン、オフサイド・トラップやフラット・スリーやディレイといった戦術用語が理解できる程度には戦術を知っていた方が楽しめるし、さらに詳しく技術や戦術を知れば同じ試合でもより楽しめるだろう。日本のプロ格闘技界においてマウントポジションやガードポジションやパスガードといった専門用語=概念を普及させた前田日明の功績は大きい。
中西学選手にスター選手になる資質はあっても、それとは別に言語能力に優れた解説者は必要となるだろう。かつて中西選手は永田選手との関係のことを、鉄人28号と正太君に例えていた。永田選手がアイデアを出し、中西選手が実行する。そういう役割分担を指しているのだろう。しかし、永田選手が中西選手のブレーンとして機能するほど優れたアイデアや言語能力を持っているとは思えない。一例を出せば、かつてIWGPチャンピオンであった当時、永田選手のポージングである敬礼に対して、アントニオ猪木は「どのような意味があるのか?」と本人に問いただしたところ、永田選手は何も答えられなかったという。敬礼というのは「私はあなたのしもべです」という意味を指すジェスチャーで、当時IWGPチャンピオンの永田選手が客だけならまだしも、対戦相手に敬礼するのはチャンピオンとしておかしくないかというのは、誰でも持つ疑問である。その疑問に対して、きちんと答えられないのは永田選手の限界を示している。中西選手は「俺は永田選手のように口が達者ではないけれど」という言い方をよくする。中西選手との比較で言えば、口が達者かもしれないが、世間的にみれば、永田選手ですら口下手な方だ。ただ、アマレスの経験を踏まえてアスリートとして語る中西選手の言葉を一般の人にも分かる言葉に翻訳したり、一般の人の言葉を中西選手に分かる言葉に翻訳したりする通訳が出来るのは永田選手しかいない。
で、永田選手は中西選手というスターとしての資質はあるが、自己演出能力や言語能力が足りない選手から、それらを補うブレーンとして期待されつつも、ブレーンとしての能力が足りていない自覚もあるため、秋山準選手やケンドー・カシン選手といった、演出能力・言語能力に優れた選手と中西選手とを引き合わせようとする。中西選手−秋山準選手は前回のG1グランプリで対戦が実現したが、双方の言葉・技の行き違いが発生し上手くいかなった。プロレスで試合をする以上は、試合前に相手選手の悪口を言ったりケンカをしたりして、二人の仲が悪いという噂を作ってチケットを売らなくてはならないのだが、中西選手と同じ専修大学のアマレス部で中西選手が四年のとき、一年生で合宿所でも二人同じ部屋であった秋山選手がプロレスとして言った中西選手への言葉の中に、プロレス抜きで中西選手を怒らせたセリフがあったのか、もしくは中西選手が思っている以上に秋山選手のアマレスの腕が落ちていたのか、試合後もプロレス的なストーリー抜きで中西選手が秋山選手のことを良く思わなかったらしい。
で、次にケンドー・カシン選手−永田選手−中西選手というラインが出来る。カシン選手が何故全日を一身上の都合で辞めたのかを考えると、永田選手とのラインしか浮かんでこない。カシン選手自身、中西選手としゃべって話があったことがないというように、永田選手という通訳抜きにアイデアだの演出だのストーリーだのを語っても、通じないと思っている節がある。永田選手はプロレスに入った当初から、プロレスの中にアマレス的要素を入れ、G-EGGSという格闘団体を作ったように、アマレスベースのプロ格闘技を作りたい人だ。それは永田選手の付き合うプロレスラーが新日本という団体の枠から大きくはみ出しているにも関わらず、アマレス出身レスラーという枠からは絶対にはみ出さないのを見てもあきらかだ。永田選手のやりたいアマレスベースのプロ格闘技と中西選手が避けて通ろうとしているアマチュアスポーツのアマレスは非常に似ている。永田選手はつい最近もプロレス雑誌でG-EGGS旗揚げの経緯について語っている。当時現場監督であった(と同時にアマレスでオリンピック日本代表にもなっている)長州選手に格闘団体を作りたいと話したところ、長州選手に「中西選手も入れないとインパクトがない」と言われ、団体を作る条件にされた。新日本内でエリートコースを歩む中西選手に永田選手が対抗する手段として考えたアイデアだったのに、中西選手もついて来ることを条件とされた。何で、俺だけじゃダメで、中西選手も入ることが条件となるのだと、悔しがる話を、何故いま永田選手がするのか?G-EGGS立ち上げの条件と同じような状態がいまだに続いているからに他ならない。アマレスベースのプロ格闘技を作りたいという永田選手の思いに「中西選手が参戦するなら、協力するよ」という返事が返ってくる。何故、俺じゃダメで中西選手なんだ、彼はアスリートにもプロ格闘家にも成りたがらない。なのに何故、自分の夢を実現しようとするとすぐにみんな「中西選手と一緒なら」と言うのだと。雑誌では永田選手とカシン選手が対談し、俺達は中西選手で食っている、中西選手がダメになると、俺達にもしわ寄せが来るし、中西選手が良いと俺達もうるおうという言い方で、中西選手を最大限たたえ、その直後にカシン選手から中西選手へ年末のK-1ダイナマイトで闘おうと対戦依頼が出される。アマレスという格闘技の素晴らしさをプロ格闘技の大舞台で見せないと、アマレス出身レスラー全体の地位と収入が落ちてしまうというわけだ。
この対戦依頼を中西選手は受けず、中西選手に当時近づこうとしていたウルティモ・ドラゴン選手と組むようになる。闘龍門の創始者で実績・知識・経験も申し分のないブレーンでかつ、メキシカンプロレス系なので、格闘技の依頼も出さない。中西選手にとっては理想的なブレーンに見えただろう。が、ウルティモ・ドラゴン選手は中西選手を取り込むと今度は永田選手・カシン選手に近づいた。同じ専修大でアマレスをやった秋山選手でも上手くコミュニケーションを取れなかった中西選手だ。永田選手という通訳抜きで中西選手とコミュニケーションを取るのは困難だと判断したのだろう。また、(おそらく永田選手とのパイプで)全日を辞めてフリーになったカシン選手を無下に扱うことを永田選手が良く思うわけがない。カシン選手・永田選手に取り入ったウルティモ選手に、まずカシン選手がOKを出した。が、永田選手は最後までOKを出さず、ウルティモ選手に誘われた闘龍門の試合にも顔を出さなかった。さらにカシン選手が「俺、ヒールをやる」と言い出し、これにウルティモ選手があわてた。全員、ベビーフェイスで良いじゃないか、闘龍門でもそうだが、リング上でケンカをすると最初は演出だった物が最後にはプライベートでの人間関係も悪くなってしまう、全員仲良しの仲良しグループそれが一番だよ。中西−秋山戦の遺恨を思い出させるのと、大学生時代から十年来の付き合いがある三人の中に付き合いの浅いウルティモ選手が入って、三人がケンカになったとき「だいたい、13年前にお前は〜〜」みたいになったら、付き合い一年やそこらでは止めようがない。結局、ウルティモ選手は再びアメリカのWWEへ行き、カシン選手は年末のK-1ダイナマイトでのカシン−中西戦を再び要求。アマレスベースのプロ格闘技を生み出そうとしたら、まずアマレスの素晴らしさを大舞台で見せるしかない。でも、中西選手はアマレスをやりたくない。中西選手−永田選手の人間関係は10年以上、この平行線から出ていない。カシン選手からすると、アマ格闘技と違って、プロ格闘技は勝ち負け以外に内容も評価されるから、中西選手の思うような冷酷で詰まらない物ではないよという話だと思うが、中西選手からすると、格闘技用の瞬発筋だらけの体を作るに時間が掛かるのと、格闘技用の体からプロレス用の受けが出来る体に戻すのにも時間が掛かり、その間プロレスの仕事が入れられないのが辛いと。公務員になり安定した生活と安定した収入が欲しかった中西選手にはプロ格闘技は公務員から遠いものなのだ。
個人的に観たいカード (アマレスルール) 永田選手VS鈴木選手
(アブダビもしくはパンクラスのキャッチレスリングルール)中西学選手VS菊田早苗選手
中邑選手の百人組手(一人一分計算で一時間40分。百人組手を完成させてこそエース・・梶原一騎な俺)
中西選手はプロ格闘技の試合に出る/出ないの二者択一ではなくて、どのルールでというルール闘争はすべきだと思う。頭部への打撃ありのルールだと変な負け方するわけじゃん。打撃のプロが目を狙って殴ってくるわけでしょ。ルールに関してごちゃごちゃいうのはスポーツマンらしくないと思うかもしれないけど、仮にマイクタイソン選手をボクシングの試合に招いて試合してもらうのに10億円必要だとして、対戦相手が二転三転して最終的に、タイガーウッズ選手とゴルフルールで闘ってもらいますになったら、タイソン選手に10億払う価値があるのかって話だからさ。ルールの話した方が選手の価値が上がるのなら、ルールの話できる人(Ex永田選手・新間さん)をバックに付けないと、アルテメット大会の北尾選手みたいに、勝ってる場面でドクターストップもらって負けたりとかするからさぁ。PRIDEでのカシン選手だって負けてないのに、スタンディングダウン取られたりしてるじゃん。
11月13日の大阪ドーム中西&中邑VSカシン&藤田戦ですが、何故、試合後中邑選手は猪木オーナーに殴られたのか。試合直前のカード変更に闘魂批判をしたからだとか、色んな推論はあるのですが、「新日どうしでやっていると、どうしても遠慮が発生するがそれではダメなんだ」という趣旨のことを言っている。中西(新日)&中邑(新日)VSカシン(フリー)&藤田(猪木事務所)戦で、中邑選手に対して、相手が同じ新日でも遠慮するなということは、中邑選手に中西選手と戦えと言っている訳だ。現に試合前に永田選手は11/13サンスポに中西は孤立するのじゃないかと言い、中西VSカシン&藤田&中邑になることを予想している。つまり、中邑選手が中西選手を裏切ることで、中邑−中西の総合格闘技戦を年末にやろうという意図がどこかにあったと思える。今年末の格闘技に関して、準備期間が無いから出ないと発言している中邑選手が、格闘技をやれという猪木オーナーから、中邑選手自身と中西選手を守った形になっている。
9/28 マラソンリーディングでは、チケットを買ってくださった方からはラップを期待され、イベント自体は短歌のイベントで、私は短歌とラップを融合すべく努力し、「マーズのSSWSがどうこう」などとSSWSの広報もしながら、ラップで短歌批評をやった。パフォーマンスの後、田中槐さんの高校の後輩で、攻殻機動隊の音楽を作ったり、HIP-HOPのテレビ番組(たぶん、「音魂」だったような気がする)を作ったりされているというビクターの方に声を掛けて頂いた。市川に住んでいるというと、ラップの人は市川在住が多いと言われた。メテオさんはじめ、ドラゴンアッシュも浦安・市川周辺だし、言われてみればそうだ。他にはSinさんを観に来た川柳雑誌を発行している新葉館出版の雨宮朋子さんにも声を掛けて頂いた。お二人ともSSWSに興味を持たれたらしい。宗前さんにも喜んで頂けたようだし、パフォーマンスは結果として成功であったようだ。細部の完成度は色んな意味で低く失敗も多かったのだが、偶然とかお客さんとかが味方をしてくれた。マラソンリーディングの演出をされた秋月祐一さんは、サナ*エミの演出もされていて、私のサナ*エミのレポートを読んで下さっていたらしい。伊津野さんに言われて取りあえず、サナ*エミのレポートをメルマガにアップする。
9/20 漫画の「ぼくんち」を買った。2冊目だ。同じ本を二度買うことはあまりない。一ページ辺りの縦の段がほぼ100%四段だ。四コマ漫画から生まれた正当な漫画の流れを受け継いでいる。漫画なのに文体が一人称なのが異色だ。最初、ぼくんちというタイトルは「僕の家庭」という意味だと思っていた。通して読むと「(建物としての)僕の家」を意味しているのだと思った。漫画の登場人物は描き分けの都合上、同じ服をいつも着ているという。服や髪型が変わると、漫画の場合、登場人物の区別がつかなくなるらしい。この漫画は登場人物の服がよく変わる。特にお兄ちゃんの一太は、子供から大人に変わっていくプロセスを服と身長で表すため、頻繁に服が変わる。文学的な漫画で、瀬戸内海が出てくるパターンをよく目にした。大江健三郎、もしくは大林宣彦の影響だと思った。この漫画も東北地方の日本海のような荒れた冬の海でなく、凪いだ日当たりの良い海と急斜面の山が出てくる。大江の影響だと思っていたら、長崎の話だと聞いて、原爆の影響だと思った。矢沢栄吉の「成りあがり」は広島の原爆の話から始まる。貧困が犯罪を生むというテーゼがあるが、その貧困を生み出したのが原爆だ。
それとは描かれていないが、じゃりんこチエは在日の街を描いていると呉智英は言う。ウルトラマンでは怪獣やウルトラマンに踏み潰され倒壊した家屋が多く映る。初期の頃のウルトラマンをみていると、敗戦直後の日本の大衆は戦争を、台風や山火事のような自然災害として受け取っていたように思う。
9/11 メビウスアートラグの初代編集長K.O.さんが主催されているHomesizeさんの企画で、みうらじゅんさんのインターネットラジオ最終回が聞けるのだが、聴いていると痛い。みうらじゅんさんのアルバム17枚、全400曲辺りを流すラジオらしいが、そのみうらじゅんさんのベストアルバムを下北沢で見たが、痛みを売りにしているとはいえ痛い。他人事じゃない痛みがある。萩原健太氏ゲストのAOR特集も色んな意味で辛い。AORの質の高さを認めた上で、「洋楽版のムード歌謡でしょ?」と思うのは俺だけなのか?BoΦwyやレベッカを歌謡ロックと批判する人達は、AORに対して、「ムード歌謡じゃん?」「英語で歌う殿様キングスやクールファイブでしょ?」とは思わないのか?
9/6 ネットに余計なことを書かないと決めたのに、愚痴をこぼさずに生活することは困難だ。ROUND TABLEの「ONE DAY IN SEPTEMBER」が好きだ。
8/28 ここのHPは本来、作家を気取るために始めたものだ。
しかし、今の状態で本当に作家を気取っていると
言えるだろうか
作家を気取るにはまず、外見から入らねば。
私は文豪の顔マネをしてみようと思った
そう、例えば町田康
某文芸誌でサングラスをかけた彼は
こんな顔をしていた
似てなかったらゴメン
次になんといっても今年の主役
文学界の電撃ネットワーク
モブ・ノリオ
まちがっていたらゴメン!
でも確か、こんな感じの顔だったような
側頭部が文学的だ
トサカに愛がある
サングラスがロボットのようだ
というより
上下逆のような気がする
誤解だったらゴメン!
ただ、そんな気がしただけなんだ。
うつむいた方がシリアスに見える
そう思ってんだろ?
正直に言えよ
本当は
猫背なんだ!
って
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