パキスタン地震 長期支援活動記録(2006年04月〜06月)
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<2006年06月23日の記録-その3>
1995年1月17日 午前5時46分。阪神淡路大震災で亡くなった加藤はるかちゃんの「はるかのひまわり」の種を持ってきてくださった、国境なき奉仕団の皆さん。

皆で、「はるかのひまわり」の種をマンセラとヌーリーにも蒔きました。
日本とは少し気候の違うパキスタン…。特に、ヌーリーは、標高1800m…と、夏でも涼しいくらいなので、ちゃんと咲いてくれるか少し心配なのですが…。
でも、パキスタンの被災地にも明るいひまわりの花がたくさん咲くことを願っています。

国境なき奉仕団の皆さん、暑い中、被災地をご訪問くださり、ありがとうございました!


*はるかちゃんは、当時、本山第2小学校の6年生でした。はるかちゃんが飼っていたハムスターと、お隣のおうちのオウムにエサとしてあげていたひまわりの種が、はるかちゃんの亡くなった跡地に、はるかちゃんの生まれ代わりのように咲き、「はるかのひまわり」として言い伝えられています。
絵本「はるかのひまわり」の紹介


<2006年06月23日の記録−その2>
これ、な〜に? 笑顔の子どもたち 見てください!この表情…
「これ、な〜に?」
ヌーリー小学校でも、紙芝居が上演されました。
国境なき奉仕団の方々も、被災地訪問2日目とあって、リラックスされた様子、ウルドゥー語で上演する紙芝居も板についてきました!子どもたちが本当に嬉しそうで、その笑顔が全てを物語っています。

また、ヌーリー村の男性陣が、日本からのお客さまのためにお昼ごはんを用意してくれました。
炊き込みご飯が美味しかった〜!ごちそうさま!


<2006年06月23日の記録−その1>
山間にあるNWAヌーリー小学校 バルーン・アートを手にして 先生に絵本をプレゼント
引き続き、国境なき奉仕団の方々をヌーリー村にあるNWAテント小学校へとご案内しました。

NWAテント小学校(現在、生徒数は43名)でも、紙芝居やギター演奏、バルーン・アートなどが披露されました。子どもたちには、初めて見るものばかりです。風船でできた子犬を大切に抱きしめる子どもたち…。ステキな思い出ができました。

ここでも、先生には紙芝居や絵本、ハーモニカが贈呈されました。


<2006年06月22日の記録−その3>
バルーン・アート 紙芝居をプレゼント みんなで記念撮影
紙芝居や歌のプレゼントのほかに、折り紙やバルーンアートも披露されました。
細長く伸びた風船が、お花の形になったり、かわいい犬の形になったり…。子どもたちと一緒に、楽しいひと時を過ごすことができました。

先生には、紙芝居や絵本、それから子どもたちのためにハーモニカが贈呈されました。


<2006年06月22日の記録−その2>
紙芝居の上演 歌のプレゼント 真剣に見つめる子どもたち
国境なき奉仕団の方々からは、紙芝居やギター演奏など、様々なプレゼントがありました。

「イエ キャー ヘイ?(これ、な〜んだ?)」
次々に現れる紙芝居の絵(野菜や果物の絵)を、食い入るように見つめる子どもたち。でも、日本の果物や野菜とパキスタンのものは、少〜し、形や色や大きさが違ったみたい…。「赤くて、ま〜るい果物」は、「りんご」ではなく、「ざくろ!」…なんだそうです。


<2006年06月22日の記録−その1>
国境なき奉仕団のメンバー マンセラのテント学校 まずは、ご挨拶…
6月21日、日本から『日本青年会議所−国境なき奉仕団』の団員さん9名が、パキスタン地震被災地支援にいらっしゃいました。被災地の子どもたちとの交流を希望され、マンセラにあるテント学校へとご案内しました。マンセラの学校はUNICEF(ユニセフ)の援助を得ている学校で、50人ほどの子どもたちが勉強しています。

まずは、子どもたちにご挨拶をしました…。


<2006年06月19日の記録>
村の雑貨屋さん キッチン シャワールーム!
ヌーリー村には、小さな小さな雑貨屋さんがあります。NWAのテント村にいたアフザルさん一家が営んでいるもので、最初はテントでお店を開始したんだとか…。今は、トタンを使った小さな小屋になっています。お店には、村で必要とされるあらゆるものが並んでいます。

このキッチンは、NWAのテント村で生活していたアルシャッドさん一家のものです。掘っ立て小屋の中に、土を固めて作った棚があって、所帯道具である食器類が大切に飾られています。彼らがテント村で生活していた頃に使用していた食器も一緒に並んでいます。シャワーは、水道があるわけではないので、バケツなどに水を汲んで、柄杓のようなもので水浴びをします。まだ薄暗い早朝が、女性のシャワータイムです。


<2006年06月11日の記録>
地滑りの跡もそのまま… バラックが立ち並ぶバラコットの街 瓦礫に建ちかけの家
7日、被災地ムザッファラバードから震源地ガリ・ハビーブッラ、そしてバラコットへと、12時間もの強行軍でしたが訪問しました。

街中には、整地された土地が所々見られましたが、一般住宅はまだまだ手付かずの状態で、多くの人たちがテント暮らしのままでした。バラコットは、地震レッドゾーンに指定されていますが、政府から正式な通達は何も出ておらず、「家を建てて良いのか、ダメなのか…」と、身動きの取れない人が多いようです。


<2006年06月03日の記録>
ヌーリー小学校が開校しました! 第1期生たち 授業がはじまりました
山の斜面に設置されたコミュニティ・テントで、『NWAヌーリー小学校』が開校しました。初日には、イスラマバードのNWAテント村で暮らしていた子どもたちや、両親を震災で亡くし、山を下りずに村で冬を越した兄弟たちが、登録に訪れました。
まだ、黒板もない学校ですが、子どもたちは先生と一緒に、輪になって歌を歌ったり、先生に作ってもらった帽子(それぞれの名前が書いてあり、先生が子どもたちの名前を覚える)をかぶって嬉しそうでした。

ヌーリーへ戻ってからは、学校もなく、遊ぶ場所もなかった(地震による地滑りにより、わずかな遊び場所もなくなった)子どもたち。これから徐々に小学生らしく?なっていくのかな…。


<2006年05月24日の記録>
コミュニティー・テントを設置 山の斜面に立つテント 学校の先生です
5月14日、土地の整地も無事に終わり、コミュニティー・テントを設置しました。
本当に平らな土地がなく、コミュニティー・テントも整地した土地ギリギリに建っています。コミュニティー・テントの上も下も、山の斜面です。ジープ道からは少し離れているので、テントのところまで行くには山の小道を歩かなければなりません。ほんの少しの距離ですが、急斜面なので息が切れます。

コミュニティー・テントは、午前中はヌーリーの小学校として、そして午後からは女性たちが縫製を習ったりするために使用される予定です。小学校の先生も決まりました。カーリッド・メヘムード先生、28歳です。ヌーリーの誰もが、彼が先生に一番、適している!と推薦しました。
小学校は、まだまだ何もない状態ですが、これから徐々に黒板や教材を、山へと運び上げる予定です。


<2006年05月21日の記録>
バラコットでジープに乗り換えて… 重さ40Kgのテントを担いで テントを張る前に、土地の整地
5月13日からファリダバード村へと出かけていたNWAのメンバーが、イスラマバードへ戻ってきました。
13日は、ハイエースでバラコットまで、バラコットからジープに乗り換えて2時間半、そこから更に徒歩で1時間半を掛けて、ファリダバード村のヌーリー集落へと向かいました。重さ40Kgのコミュニティー・テントを、おじさんが一人で担いで山道を登りはじめたのにはビックリ!さすが、山の民です…。

ヌーリーでは、コミュニティー・テントを張るために、土地の整地が始まりました。山の土地は、地震の時に起きた地滑りで、平らな場所が殆ど残っていません。みんな、畳3枚分くらいの平地を切り拓いて、テントを張って暮らしています。ヌーリーの男の人たちが大勢やってきて、コミュニティー・テントを張るための整地を手伝ってくれました。


<2006年05月14日の記録>
ヌーリーからの眺め 目の前を飛ぶヘリコプター ヌーリーの空
5月13日から再び、NWAのメンバーがバラコット、そしてファリダバード村へと出かけて行きました。
前回の調査を踏まえ、今回は、村人が集会所として使用できるようなコミュニティ・テントや、村の女性の要請を受けてミシンなども、ファリダバード村の上の集落へと運びます。地震の影響で、幹線道路も修復中、村へのジープ道も崩壊したまま…ですので、物資の運搬も簡単ではありません。特に、コミュニティー・テントは重さが40kgもあるため、徒歩で急斜面を登るのは、本当に大変です。

コミュニティ・テントを設置予定のヌーリー集落は、標高1800m、ちょうど目の前の高さをヘリコプターが飛んでいきます。イスラマバードは、連日42℃の暑さですが、ヌーリーは、朝晩はまだまだ涼しいようです。


<2006年05月03日の記録>
見覚えのあるテントを発見! ラッバーニさんの家 テントで学ぶ子どもたち
バラコット周辺の学校の調査に出かけました。
公立(政府)の学校は、全て崩壊し、現在は仮設のテントで運営されている私立(様々なNGOが運営している)の学校が殆どだそうです。

また、NWAイスラマバードテント村で生活していたグラーム・ラッバーニーさんにも会うことができました。山の上の道から崖下を見下ろすと、遠くの方に見覚えのあるテントが…。下りて行って見ると、ラッバーニーさんのテントでした。ラッバーニさんは、現在はテントと、その側に建てた小屋で生活をしているそうです。ご家族は、結婚式に出席するため、親戚を訪ねていてお留守でした。残念!


<2006年04月28日の記録>
テントも山の斜面に… 村で唯一の再建中の家 ザフールも元気でした!
4月25日から3日間、テント・寝袋を担いで、ファリダバード村のヌーリー、シャルディミ、カラス、ナッカの集落を訪問しました。イスラマバードから車で4時間、バラコットでジープに乗り換えて2時間半、最後は徒歩で、山の急斜面を直登して1時間半…という辺鄙な集落です。が、NWAイスラマバードテント村で生活をしていた懐かしい顔・顔・顔に再会することができました。

家屋は、地震によって全壊、また、家屋が建っていた土地も、地震の影響で滑り落ち、家屋の再建ができなくなっています。現在、村人たちは、危険だけれど、やや危険度が低い土地にテントや小さな小屋を建て、生活をしています。水は豊富にあるのですが、電気はありません。

この集落には、学校が2校あったそうですが、崩壊してしまい、現在では使用することができません。また、集会所のようなものもないので、巡回医療の拠点となるような適当な場所もありません。次回の訪問では、大型おテントを運び上げて設置し、巡回医療の拠点にしたいと考えています。


<2006年04月19日の記録>
元NWAの緊急支援ベースキャンプ地 バラコットの街は瓦礫の街 子どもたちは元気です
再び、バラコットを訪問しました。
バラコットのベースキャンプ地(NWAが緊急支援のテントを張っていた所)は、道路沿いの瓦礫が取り除かれ、きれいになっていました。バラコットの街中も、崩壊した2階建て建物など全てのコンクリートブロックが細かく砕かれ、鉄筋が取り除かれて、瓦礫の街になっていました。

バラコットの街は、地震の活断層の上にあるため、この場所への街の再建は認められていません。街は、政府が用意する新しい場所へ移転することが決まっています。住民たちは、先祖代々が暮らしてきた土地を離れて、新しい土地で家を再建することになります。街だけでなく、山間部もレッドゾーンになっていますが、どこからどこまでがレッドゾーンなのか、移転はいつ頃までに行われるのか、詳しいことを知らない住民が殆どです。


<2006年04月16日の記録>
家は修復されぬまま…。 真ん中がアンサルくん アンサルくんのおばさんたち
NWAイスラマバードテント村で生活していた、アンサルくん一家を訪ねて、カシミールへ出かけました。貰った住所を頼りに、捜しながら出かけたので、イスラマバードから約5時間も掛かりました。
アンサルくん一家は、壊れた自宅近くにテントを張って生活していました。

アンサルくんは、近所に学校がないため、叔父さんのところに身を寄せて、上の学校へ行くための勉強をしています。私たちが訪ねた時は、たまたま試験休みだとかで、家に帰っているところでした。


<2006年04月08日の記録>
パキスタン北部大地震から、4月8日で半年が過ぎました。
山岳地帯の被災地では厳しい冬が終わり、国連のアナン事務総長が懸念していた「第二の死の波」の発生の恐れは遠のきました。けれども、約400万人ともいわれる被災住民の生活再建はほとんど進んでいません。

私たちは、第3次長期支援のため、村民が何を求めているのか、ニーズ調査を開始し、バラコットのベースキャンプ地(NWAが緊急支援のテントを張っていた所)では、懐かしい顔に出会いました。
バラコットの被災者たちは、未だにテント生活です。生活の糧だった家畜や畑を失ったため、自活することができません。パキスタン政府は、家が全壊した被災者1世帯あたり約15万円の支給を決めましたが、金額が少ない上、補助金をめぐる不正が後を絶たず、被災者全体には行き渡っていないのが実状です。
被災者たちの戦いは、まだ始まったばかりです。

私たちも、今後はハングライ、ヌーリー、そしてカシミールへと調査を続ける予定です。被災者たちにとって、どのような支援が必要なのか、最善策を検討中です。
笑顔も見せるようになったナシーマちゃん