パキスタン地震 緊急支援・中期支援活動記録(2005年10月)
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<2005年10月31日の記録>
瓦礫の中の第1号店‐床屋さん テントすらない被災者 ナシィーマちゃん
早朝5時にイスラマバードを出発し、再びバラコットを訪問しました。
目的は傷の酷い人たちのケアと、イスラマバードに設置予定のテント村への移住に関するリサーチです。バラコット手前は、ここ数日間でかなりテント村が増えていました。徐々にテント集落が山の下へと下りてきているようです。

バラコットでは、何人か気になっていた傷の深い人を探して傷の手当てを行いました。額に大怪我をして数針縫ったナシィーマの傷は完全にふさがっていて抜糸されました。


<2005年10月29日の記録>
子どもたちの笑顔が救い ムザッファラバードの街を走る乗り合いバス ムザッファラバードの倒壊した建物
8日間テントを張ったバラコットから、NWAのメンバーが帰ってきて、現地での第一次緊急支援は終わりました。今後は被災者の中でももっとも弱い、本当に支援を必要としているところへ支援を継続したいと考えています。活動は、今からが本当のスタートです。

朝4時、バタグラム(日本の緊急援助隊が入っている街)、そしてカシミールの州都ムザッファラバードへと、被災地調査に出かけて来ました。
バタグラム県は、人口が約30万人の山間のこじんまりとした町で、家屋の40%ほどが全半壊。住民はテント生活を続けているけれども、水と電気は復旧していて使用が可能でした。また、街中の商店などは営業しており、医薬品の購入もできます。

やはり、最初に支援に入ったバラコットの街の方が家屋の80%が全壊していて、被害が大きいようです。支援の行き届かない、でも本当に支援を必要としているところへ支援できるよう、協力者を得ながら解決していきたいと思います。

今後とも、皆さまのご支援・ご協力をお願いいたします!


<2005年10月26日の記録>
バラコットで活動中の仲間たち 被災者とともに 治療後、笑みがこぼれる
バラコットで医療テントを張り、支援を行っていたメンバーが一旦イスラマバードに戻ってきました。

支援当初、被災者の裂傷などは、何でこんなになるの?というくらいに化膿していて、包帯がベッタリと傷に張り付き、包帯を取って膿をきれいにするだけでも一苦労、ひどい時にはひとりの患者さんに1時間以上もかかる…というような状況でしたが、日が経つごとに膿がひき傷も乾いて、子どもたち自身も痛みが減少するのか、治療中に笑顔が見られるようになりました。

けれども、被災時に学校にいて、友だちが目の前で亡くなったことや、助け出されたものの、家も潰れていて、家族の誰かが亡くなっていたり…と、子どもたちの心の傷が癒えるまでには、本当に時間が掛かるのだろう…と思います。


現在、長期支援のための体制を整え中です。


<2005年10月23日の記録>
被災者の要望を聞く 督永 強 支援物資を求める手 古着は路上に放置されて
地震から2週間が過ぎ、政府は死者が5万2000人を超えたと発表しました。住宅を失った人は300万人を超え、まだまだ支援物資が行き届かず、治療の受けられていない被災者が多く見られます。

NWAでは、被災者の声に耳を傾け、要望があれば山の上で孤立状態になっている人へも支援しています。山の上の村々は全ての家屋が倒壊し、殆どの人が山を下りました。怪我人を抱えるか、男手を失った貧しい人だけが、山を下りることもできずに、点々と支援を待っています。

11月初めのイード(断食明けの大祭)までには、テントや暖かいフリース・ジャケットなどが、ひとりでも多くの人に配布できるよう、全力で努めます。

なお、日本から毛布や衣類のご支援など多くのお申し出をいただいておりますが、日本からですと倉庫での保管料、日本からパキスタンへの輸送費、パキスタンでの通関費、また古着の場合はその洗濯料…と、日数も費用もこちらで調達する数倍も掛かることになります。現在は、支援物資の全てをパキスタンでの現地調達とし、日本からの物資のお申し出はお断りさせていただいております。ご了承ください。


<2005年10月21日の記録>
生き残ったもの同士 傷の手当てを受ける男の子 痛みを必死にこらえて
昨夜まで被災地に出かけておりましたので、Webページの更新が遅れましたこと、お詫び申し上げます。

被災地では、日中の気温は30℃、夜間の気温1℃(それもテントの中で)と、寒暖の差が激しく、重病・傷患者は落ち着いたものの、これからは小さい子どもたちの風邪・肺炎が増えることになりそうです。

小さく弱いもの、貧しいものが一番に被害に合う理不尽さに、本当に胸が痛み、涙が流れますが、まずは、自分のできることから…と気持ちを切り替えて、1日に30人から40人ほどの患者さんの治療に当たってきました。

現在は、医療支援のほか、テント、防寒着、キッチンセット、飲料水の配布などに加え、毎日500人分ずつですが暖かい食事の配布も始めました。


<2005年10月17日の記録>
壊れた家の廃材で暖を取る子どもたち 医療支援テントを訪れた親子 パキスタン人の医師がボランティアで参加
被災地では、15日未明から雨が降り出し、気温も急激に低下しました。
NWAでは、バラコットの中心地から僅か2kmほど山へ入った地区に支援基地を作りました。市内に入る道は一本、その大通りは支援団体の「垂れ幕」が下がりNGOが軒を並べていますが、市内の中心から僅か2km奥だとは言え、歩いて荷物を運ばねばならない場所へは、どこのNGOもまだ入っていません。

被災者も、瓦礫の下の生存者は望めず、負傷者の手当てが最優先になってきています。幸いなのは、化膿してグチュグチュでどうしようもない傷も、抗生剤を投与すると、傷が乾き始めるということでしょうか。

飲み水もない被災者は川の水を飲んでおり、下痢症などの感染症もこれから増えそうです。NWAの医療支援テントにも、下痢症で脱水症状の子どもが何人か運ばれて来ました。


<2005年10月15日の記録>
全壊したバラコットの街 トラックも建物の下敷きに 建物の下敷きになったままの被災者
本日15日も、朝2時から車への荷物(医薬品、食料、テントなど)の積み込み、そして2時半にはバラコットへと支援隊が出発しました。

今回は、体制を建て直し、パキスタン人の医師2名がボランティアとして参加してくれます。また、長期滞在を考えて、炊き出し要員もお願いし、総勢13名の支援隊となりました。

震災後すでに1週間がたち、今まで適切な治療が出来ていなかったせいで、やや遅いとは思いますが、それでも今回は簡単な手術(縫ったり切開したり)くらいは出来そうです。化膿した箇所を清潔に保ち、ほどほどの栄養がとれ、抗生物質が効けば、傷も治癒するかな?と。


<2005年10月13日の記録>
NWA緊急医療テント けが人がベッドで運ばれて 傷を負った少女−痛みも感じない
イスラマバードから約5〜6時間の街、バラコットでは谷間を挟んで広がる大きな街がほぼ全壊していました。今回は、支援場所確定のためのリサーチと医薬品約5000人分を持っての現地訪問でした。バラコットは、街の繁華街・中心街と思われるバザール、ホテル街、山の斜面にある住宅は、すべてプレスされたようにつぶれ、全く原形をとどめていませんでした。街は支援物資を求める人々が路上にあふれ、支援物資を奪い合う光景もあちこちで見られました。

私たちは、バングライ村での医療支援を行いました。この村は、約50軒400人が住んでいたのですが、地震で約80人が死亡したそうです。

私たちのテントを訪ねて来るのは、瓦礫の下から救出され、怪我をした子どもたちが多く、骨折と裂傷で、傷は「ぱっくり」割れ腐りかけていました。顔にけがをした女の子は、家族8人が死亡、おじいちゃんと2人だけ残されました。消毒したり手当てをしていて、絶対に痛いはずなのに痛がらず、もう痛みも感じなくなってしまったのかと、心が痛みました。

僅かな裂傷が手の切断にもつながりかねない現状に、手の施しようもなく無力さを噛み締めています。傷の多くは、打撲と骨折、裂傷が化膿したもの。完全ボランティアの医者や看護師がいれば…と切に願っています。


<2005年10月12日の記録>
被災地へ向かう車、そして人 全壊したバラコットの街 粉塵が舞い、死臭が漂う中での作業
今朝も3時前から現地バラコットへ行き、たった今、ヘロヘロで帰って来た。初日からの睡眠時間がこたえてきたかな…という感じ。

バラコットでは谷間を挟んで広がっている街がほぼ全壊、4年前に見たアフガニスターンの首都カーブルの崩壊とは違うショックを受けた。オバハンたちが昔、泊まった川沿いのホテルは影も形もない。ようやく軍隊が活動を開始しているものの、全般的に救援活動が進んでいないので、崩壊した家々に埋まったままの遺体からただよう死臭が街全体をおおう凄じい状況。しばらくすれば鼻がなれてしまうものの完全な死の街。

被災者たちの、地震による崩壊で受けた些細な打撲傷や裂傷は、地震後4日で化膿。手の付けられない状況になっている。僅かな裂傷が手の切断にもつながりかねない現状に、オバハンたちは手の施しようもなく無力さと、むなしさのみを噛み締めて帰って来た。敗退!!

体制を立て直して、また現地へ出かける。


<2005年10月11日の記録>
重機もなく、手作業での掘り出しが続く 崩壊した学校−子どものカバンだけが… 被災した少女−顔の血のりもそのままに
昨日10月10日は、往復300kmばかりの道を12時間もかかって震源地まで走って来ました。
被害が大きい震源地にも、軍隊や機材は到着し救援物資もボツボツと集まりかけているのですが、作業指揮を執る人がないので1000人からの軍隊が道端にボーッと佇んでいるばかりでした。素手でがれきを取り除いている被災者の横の畑で、何の作業にも携わらず見ているだけなので救援活動につながっていません。また、物資配布の指揮をとる人もまだ居ない様子でした。

重傷者はマンセラ県の中心病院へヘリコプターで運ばれていますが、骨折や裂傷ていどの被災者は、シートを張り巡らせただけの場所に放置されています。市内には医療品が払底して来ましたので、今日は木綿布を裂いて包帯や三角巾を、手すきの者を動員して作ります。
パキスタン保健省の話でも医薬品が払底しているので、遠くシンド州などからも取り寄せるとのことです。代用品は幾らでも作り出せますが、とにかく作業できる人が足りません。


<2005年10月08日の記録>
イスラマバードで崩壊したマンション
パキスタン北部で、8日午前8時50分ごろ、マグニチュード(M)7.6の強い地震があり、カシミール地方、北方地域を中心とする広い地域で900人以上の死亡が確認されました。

パキスタン北方地域のカラコルム・ハイウエー沿いの山村は、中国々境のクンジェラブ峠まで1本道。おまけに現地は急斜面に建てられた石積み家が多く、救援物資の搬入はおろか、人命救助もままならないような状況です。
インダス河沿いにはユーラシア大陸とインド亜大陸の縫合部があり、活断層が目に見える場所で走っており、約70年前にもコヒスターンを中心に大地震がありました。カラコルム・ハイウエーはクンジェラブ峠まで土砂崩れのため、全面封鎖。余震のせいで土砂崩れがまだ続いていますが、小麦や食用油などの緊急支援を開始します。