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ウルトラウォーキング
 しっかり歩く人は寿命が延びることが分かっており、一日一万歩を目標にするとよい、などと言われているが、何ごともやり過ぎは逆効果である。一度に100km歩いてみようなどとは、普通は考えない。ぶらぶら歩けば1時間で4kmだから、25時間かかる計算になる。
 ところが調べてみると、100km歩くというイベントが各地で開催されており、「ウルトラウォーキング」、「エクストリームウォーク」などと称している。主催者も参加者も、一体何を考えているのか。これは、歩くことを趣味とする私としては放置できない事態だと考え、先日、「 歴史と文化に触れるディープ大阪ウルトラウォーキング104km」というのに参加してみた。

 スタート後しばらくは、大阪城、通天閣、道頓堀など、大阪市内の観光名所を網羅していくので、人をよけるのに苦労するが、目の楽しみもあった。その後はただひたすら歩き、堺市の仁徳天皇陵まで南下してまた帰ってくるが、まあ好きなことだから楽しいし、日がとっぷり暮れたころ合いでも、まだ余力はあった。これは最後までこの調子で行けるのではないかと思ったが、やはり正念場は深夜に来た。
 70kmあたりから膝が痛くなりはじめ、速度が落ちる。するとからだが冷えて、おなかが痛くなる。深夜2時ごろ、駆け込んだコンビニエンスストアでトイレを借りて、九死に一生を得た。セブンイレブンのお姉さんが神に見えた。そのあと足を引きずりながら、私は吹田市の万博記念公園の前を通ったらしいが、まっくらで何も見えないし、何も考える余裕はない。
 朝5時くらいになると、なぜかまた元気が出てくる。体内時計だか何だか知らないが、私はこれまでも徹夜で麻酔した時、いつもこの原因不明の復活現象に助けられたものだ。淀川の見晴らしの良い土手を歩いている頃に日の出を迎え、これから帰っていく大阪中心地の高層ビル群が浮かび上がってきた。なんとか22時間でゴールした。

 参加者は私と同じ、中高年男性が圧倒的に多かった。自分はまだ動ける、もうちょっと無茶ができるのだと、確かめたいのだろう。徹夜で100kmも歩くことに、それ以外の意味があるとは思えない。難しいお年頃なのである。
 寿命が延びるどころか、22時間歩く間に、寿命が22時間は縮んだ気がする。

2024.3.4

 
履物物語
 昔ある作家が、冷蔵庫ほどもあるスタンプウェッター(切手を濡らす道具)を愛用していたが、だんだん古くなって濡れ方が不十分になってきた。仕方なく機械の中を覗いてみると、中年のおっさんが入っていて、「すんまへん、年取ってツバの出が悪うなりましてん」と謝ってきたそうである。
 本当だろうか。
 実は私の頭の中にもおっさんが一人いて、当ブログのようなものの原稿を書いてくれるのだが、やはり年を取って干からびているらしく、書くことが思いつかないそうである。更新が遅くなっているのは、そのためである。

 年をまたいで、「履く」つながりで、手術室の履物の話である。
 20年くらい前まで、手術室に入る者はみな、靴下を脱ぎ、病院が用意するビニール製のサンダルを裸足で履くことになっていた。今から思えば根拠のない習慣であったが、手術室という神聖な清浄結界に入るためには、靴下すら忌まわしい不浄のものだったのである。

 一方、手術室の室温は、外科医が汗をかかないよう、低めに設定される。外科医がガウンを着ていることを割り引いても、手術中の外科医の暑がり方は異常なほどで、神経だかホルモンだかが壊れているとしか思えない。ある汗かきの外科医は、「とにかく部屋の温度を下げてくれ。北極じゃだめだ、南極だ」と毎回吠えるのであった。
 われわれ麻酔科医は、神経がおかしくなってもいないのに、南極の中で裸足なのであるから、足元が冷えて仕方がなかった。

 昔、侍は屋内では裸足、というのが正式の装いだったそうである。それがどうしても寒くて無理、という人は「殿中足袋御免」といって、自分は病弱あるいは老齢なので、タビを履かせてくださいと届け出る必要があった。
 そのころの庶民も、ほとんどの場合ワラジ履きで外を歩いていたのだから、ほぼ裸足である。私のように、手足の先が冷えてしまう人には、つらい時代だっただろうと思う。
 人は裸足でいるほうがが自然で健康的だ、現代人も昔の人を見習え、という考え方もあるだろう。しかし、昔の人のほうがはるかに短命だったわけだから、「自然」ではあっても「健康的」と言える根拠はない。

 今では、手術室においては靴下も履物も、患者の創部感染に影響しない、とされて、好きなものを履けるようになった。寿命が延びる思いである。
 私の頭の中のおっさんによると、この話にオチはない。

2024.2.4

 
手袋物語
 手術室などで清潔操作をする人は、滅菌手袋をつける。これの起源ははっきりしていて、その昔、アメリカの外科学教授ハルステッドが、ある手術室看護師の消毒薬による手荒れに心を痛め、グッドイヤー社に依頼してゴム手袋を作ってもらったのである。看護師は当時の毒性の強い消毒薬で手を洗わずにすむようになり、手荒れは治った。
 二人はやがて結婚したので、やはり教授の方に下心があったのだとわかる。

 私が研修医だった30数年前、外科医が滅菌ゴム手袋をつけるのは当たり前だったが、われわれ麻酔科医は素手で作業していた。医療者側の感染防護という思想がほとんどない時代だったのである。当時は静脈確保、気管挿管はもとより、患者さんの口の中に手を入れるような作業も、素手でやっていた。
 私が今、コロナにもインフルエンザにもかからないのは、このころ、ありとあらゆる病原体に暴露され、免疫ができたからではないかと、ひそかに思っている。(医学的根拠はない。)

 安価なプラスチック手袋の登場により、今では麻酔科医も手袋を使えるようになった。だが、私を悩ませる問題がまだ残っている。
 私はずっと、手袋は「履く」ものだと思ってきたし、研修医にも「はい、手袋履いてください」などと言い続けてきたのだが、これが標準語ではないらしいのである。私が当ブログのようなものに、「手袋を履く」と書いていたのに対し、ある麻酔科医からご指摘のメールをいただいたので初めて知った。
 その先生は関東のご出身で、北海道で働いておられるが、北海道の人たちが皆、「手袋を履く」と言っているのを聞いて、「強烈な違和感」を覚え続けておられるのだそうである。手袋は「履く」のではなくて、「する」、「つける」と表現してこられた、とのことである。(ネタのご提供、ありがとうございました。)
 あわてた私は、職場の人に聞いてみたが、確かに半分以上の人が、「手袋を履くと言われると、ちょっとおかしいと感じる」そうなのであった。ではこれが方言なのかというと、出身地で一意に決まるものでもなさそうなのである。
 私と同じ広島出身の人でも「履かない」派がいる一方、関東出身の人でも、「靴やズボンなど、腰から下のものは履く。手も降ろせば腰から下だから、履く、で正しい」と言い切る人もいる。ただ、北海道出身の人に聞けば、手袋は履くでよい、異論があることは知っているが、認めない、とのことであった。

 言葉のくせはこわい。
 医学の世界では、病状が悪化することを「増悪」と書いて「ぞうあく」と読むのだが、私の同僚でずっと「ぞうお」と言っている人がいた。「憎悪」と混同していたのだろう。教えてあげればよかったのだが、最初に言いそびれると、今さらとても言えない状態に陥る。その人の「ぞうお」を聞くたびに、私は罪悪感にさいなまれるのであった。
 私も「履く」の他に、おかしな言い回しで周囲に迷惑を与え続けている可能性がある。気を付けたいとは思うが、自分では絶対に気づけないだろう。絶望するしかない。
 もっとも、「手袋を履く」に関しては、手袋の本場と言える北海道でそうなっているのであるなら、標準語にしてしまってもいいのではないかと、ひそかに思っている。

2023.12.30

 
病院攻撃
 「シンドラーのリスト」(トーマス・キニーリー著)という実録小説は、ユダヤ人絶滅計画を進めるナチスと、その裏をかいて千人を超えるユダヤ人の命を守り抜いた一人のドイツ人の物語である。その中に、クラクフ(ポーランド)という都市のゲットー(ユダヤ人居住区)が解体される場面があるのだが、ここは医療関係者としては心穏やかには読めないところである。

 その日の朝、ゲットーの中にある病院には、動かせない重症患者が4人残っていた。しかし、ナチスがやってくれば、彼らが銃で撃ち殺されるのは確実だった。ゲットーのユダヤ人は全員ブワシュフ収容所に送られることになっていたが、いずれは根絶やしにされる運命にあり、わざわざ動けない病人を運ぶ手間をかける意味などなかったのである。
 ナチスの特別行動隊がすぐそこに迫る中、病院の医師と看護師は悩みぬいた挙句、「楽になれる薬だから」と青酸カリを溶かした水を飲ませた。患者たちは何の疑いもなくそれを飲み、静かな最期を迎えた。

 この医師たちの心情は、察するに余りある。この小説の中で、この医師たちだけが名を伏せられていることが、その立場の複雑さを示している。だがその場にいなかった何人も、極限状況下での彼らの行動を、称賛したり非難したりする資格を持たないだろう。自分がこの医師の立場だったらどうしただろうという問いさえ、私は保留せざるを得ない。

 そのような迫害を受けた民族が、今、迫害する側になってパレスチナ、ガザ地区の病院を襲撃している。ホロコーストと人質救出、目的に違いはあるが、やっていることはだいたい同じである。
 病院は人を治すところだ。攻撃してはいけない。子どもを傷つけるのもだめだ。そのことを身をもって知るはずのユダヤ人が、一体何やってるんだ、と、オスカー・シンドラーは草葉の陰でぼやいているに違いない。

2023.11.26

 
難渋
 今日11月11日は、その唯一無二の字づらから、ポッキーだけでなくいろんなものの記念日として設定されているそうである。私にとって今日は、「下駄の日」である。高校の化学の授業で、A先生が教えてくれたのだ。「今日は何の日か知っとる?下駄の日なんよ。11,11が下駄の歯の跡みたいじゃろ。」
 あの日から43年間、私は毎年11月11日になると必ず、今日が「下駄の日」であることを確認するようになった。そして、今年も無事そのことを思い出せたことに、深い安堵の念を覚えるのである。
 だが待て、来年も同じように思い出せるだろうか。うっかり忘れていて、そのことに11月12日に気がついてしまったら、取り返しがつかない。数十年の積み重ねがすべてパーだ。こうしてまた、不安な一年が始まるわけである。
 思えばA先生も、余計なことを教えてくれたものだ。

 上に書いたことも、これから書くことも、どうでもいい話だが、麻酔科の学会や論文で、「難渋」という言葉をよく見かける。こんな言葉を日常会話で使う人はいないだろうが、ものごとがうまく進まず、苦労しましたという意味のことを、ちょっと気取って言いたい時に、医師が好んで使うようである。私はどうもこの言葉に違和感を覚える。
 たとえば学会の演題で、「○○病患者の全身麻酔中、血圧維持に難渋した一例」みたいなのがある。だがこれは、日本語にありがちな主語抜き文である。難渋したのは「私」であるから、省略せずに言えば、「血圧維持に私が難渋した一例」となる。
 思わぬトラブルに直面した「私」の渋い顔が目に浮かぶようなタイトルであるが、発表者の苦労ぶりをタイトルに忍ばせるのはどうかと思う。そこに共感してあげなくてはならない義理は、こちらにはない。

 会話やSNSなら日本語のあいまいさを利用するのもいいが、科学の分野の発表であるから、もう少し客観的な表現を選んだほうがいいのではないか。たとえば「血圧維持が困難であった一例」などとするほうがすっきりする。「難渋しましたよ」と強調しすぎると、論破王みたいな人から、「それって、あなたの感想ですよね」と言われても仕方がないと思う。

2023.11.11

 
ぼやきの天才
 若い人は知らないだろうが、昭和後期に活躍した漫才師に、人生幸朗(じんせい・こうろう)という人がいる。この人の芸は「ぼやき漫才」と言って、世の中のいろんなことにけちをつけ、ぼやいて見せるのであるが、それが子どもだったわたしにも、ただもう面白かった。
 定番のネタに、桜田淳子(さくらだ・じゅんこ)というアイドル歌手のヒット曲に対するぼやきがある。「去年のトマトは青かったけど、今年はもう赤いわ...」という歌詞にいちゃもんをつけ、「そんなもん、今年になったらもう腐っとるわい」とぼやき、最後は必ず、「責任者出てこい」で決めるのである。

 しかし、ぼやくことで人を笑わせたり、元気にさせたりなどは、人生幸朗氏のような限られた天才にしかできないことだろうと思う。普通の人が、気に入らないことをぼやいてみせたところで、誰も聞いてくれるはずもない。
 たとえば私の場合、仕事のことでぼやくと必ず、「それはな、ちゃんと主張しない自分が悪いんと違うの」などと返され、どのみち全部私が悪いことになる。私のぼやきなど、つまらないから聞きたくないのであろう。今では私は、家では仕事のことは決して口にしない。

 手術室看護師の中からはときどき、ぼやきの天才が現れる。
 あるナースは、排泄ネタと師長(の悪口)ネタを得意としていた。
「ちょっと聞いてもらえますか。夕べの救急外来に3日間布団の中で動けなくなった便まみれの人が来て、からだを拭こうとするとほかのナースがみんなスーッといなくなって、最初は手伝おうかと言ってた師長さんも用事があるふりをして消えたし、全部ひとりでやったんですよ、どう思います?」
 こういう悲惨な話をおもしろく聞かせる能力は、持って生まれたものだろう。この人はほぼ毎日、新しいネタを職場に持参してくるので、私は楽しみにしていた。そのぼやきを聞くと、自分のぼやきを代弁してもらったような気がして、なんだかすっきりするのが不思議であった。

 「詩人とは、自分の内面を語ることによって、世界そのものを語れる者のことである」と誰かが言ったと誰かが書いていたが、この構文を拝借すると、ぼやきの天才とは、自分の悲劇を語ることによって、世界のストレスを解放してしまう者のことである、と言えるだろう。ストレス渦巻く手術室に一人、ぜひとも常駐してもらいたい才能である。

2023.10.8

 
眠い人の起こし方
 うちの子どもがまだ幼いころ、子どもたちを寝かしつけるのは私の役目であった。だが子どもはただでは寝てくれない。布団に入り、明かりを消すと、父が即興の作り話ごっこをしてやらなくてはならなかった。父が誰で、子どもが誰になるかは、そのときの思いつきで決まる。私は滝のヌシの龍になったり、宅配のおじさんになったりしたし、子どもはウルトラの母になったり、学校の先生になったりした。そして交互に発言して、他愛もない話を作っていくのである。
 お話の睡眠導入効果はてきめんで、私はただちに眠くなった。面白いもので、自分がれろれろと変なことを言っているのが、自分でわかってくる。しかし、仕事で疲れた父をこのまま眠らせてくれるほど、子どもたちは慈悲深くはない。あの手この手で、起こしにかかってくるのである。
 眠りかけた父を起こすのは、下の子がうまかった。「お父ちゃん、救急車呼ぶで」というのである。幼稚園児がどうやってそんな悪質な脅しを思いつくのかわからないが、我が家に救急車を呼ばれてはたまらない。これを何度聞いても笑ってしまい、父は束の間の覚醒を果たすのであった。

 手術終了後、麻酔を切っても患者さんがなかなか目覚めないとき、この「救急車呼びますよ」とやってみようと思うこともあるが、ここは病院だったと気がつき、思いとどまるのであった。

2023.9.16

 
ダンバー数
 ダンバーというイギリスの人類学者によると、ヒトが作る共同体の基本の人数は150なのだという。年賀状をやり取りする人の数、学校の1学年の生徒数なども、だいたいこの辺になる。これ以上になると、顔と名前を一致させたり、お互いの考えやバックグラウンドを理解するのが難しくなる。
 この数を「ダンバー数」といい、大脳皮質の大きさで決まっているのだそうだ。猿人とチンパンジーが50人,原人が100人であるから、ホモ・サピエンス(ヒト)も大したことはない。

 この手の仮説が正しいかどうか、証明はできなさそうだが、間違っていたらこの話は終わるから、正しいとする。ヒトは石器時代よりはるか昔から、100-150人くらいの群れを作って生活してきたのだろう。そして脳というハードウェア上の制約から、未だにその数字を超えることができず、150人以上の共同体を作ると不安定、非効率になるのかもしれない。

 確かに、私はこれまでいろんな病院に勤めてきたが、医師数100人あまりの今の病院くらいがちょうどよい気がする。顔を見れば何科の誰か、ものを頼みやすい人かどうか、互いに知っているから、働きやすい。
 大学病院ほどの規模になると、医師だけで多分300人から500人くらいいるから、もう誰が誰やらわからない。したがって各科の中で群れを作ってしまいがちになり、風通しが悪くなる。患者さんのことで他科にちょっと聞きたいくらいのことで、ものすごい手間と時間がかかったりする。
 では病院は小さいほどいいかというと、そうでもない。ちょっと話しかけたくない危険人物がその科の唯一の医師として君臨していたりして、これまたやりにくいのである。

 しかし、ヒトのダンバー数がいつまでも150のままでは困る。プーチンが隣の国に平気でミサイルを撃ち込んだり、全面核戦争のリスクをちらつかせたりできるのも、プーチンの脳がわれわれと同じように未熟で、周囲の150人しか自分の仲間であると認識できないからであろう。
 何とかしてヒトの脳の性能を上げていき、ダンバー数を80億まで引き上げることはできないものだろうか。そうなれば、地球の人類がみな自分の仲間であると理解できるようになるはずである。
 試しにダンバー数向上の具体的な指標として、毎年80億枚の年賀状を平気で書けるようになる、しかも手書きのコメント付きで、などと設定して見るといいだろう。それがいかに達成困難であるか、実感される。
 人類のこれからたどるべき道のりは、まだ遥かに遠い。

2023.8.12

 
遺伝子
 私はこの数年間で、実の父母と妻の父母を亡くした。今どきの葬式はもう、親族しか呼ばないが、その親族には毎回驚かされた。私の親の世代と言えばやたら兄弟が多いのだが、葬式に現れたその兄弟が、みんな故人にそっくりなのである。
 私の息子は、義父の葬式に現れた義父の弟を見て、こう言った。「おじいちゃんが死んだ気がせえへん。コピーがおる。」私も感心して、こう答えた。「なんと遺伝子とは、恐ろしいもんやな。」
 当の弟さんに聞いても、「なあにをゆうとるキャ、あにいとわしは全然似とりゃせんわ(岐阜弁)」というのだが、他人から見れば、顔や体格だけでなく、声や身振りも生き写しである。以前私は「行動遺伝学」について紹介したが、それによると遺伝の影響は年を取るほど顕著になるらしい。子供のころはみんな個性の皮をかぶっており、兄弟とはいえ自分たちは全然似ていないと思っているものだが、年を取ると個性など吹き飛んで、遺伝子がむき出しになってしまうのだと考えられる。一種の時限爆弾だ。
 こうして、親族が一堂に会する葬式とは、遺伝子の見本市のようなものであると思い知った。義父は個体としては消滅しても、遺伝子としては弟さんや、私の息子に残っているわけで、生命というのはこうやってつながっていくのだなあ、と頼もしく思ったものである。

 スバンテ・ペーボ氏は、ネアンデルタール人の遺伝子が現生人類の中に残っていることを示し、2022年のノーベル医学生理学賞を受賞した。ほんの数年前までは、「ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは、同時代を生きていたが、交雑(エッチなこと)はしていない」というのが定説であったが、それがひっくり返されたのである。
 これまで人類進化学は、主に化石つまり骨の形状を分析して進化の枝をたどってきたのであるが、化石からDNAを取り出すというとんでもない技術革新により、これまでの定説が次々と新しいものに塗り替えられつつある。これまでいろいろな説が上がってきた日本人のルーツも、かなりはっきりしてきたようだが、知りたい人は中公新書「人類の起源」(篠田謙一 -しのだ・けんいちー 著)を読んでみるといいだろう。ただし、アフリカから全世界へ拡がっていった、人類の遺伝子の旅の物語は複雑すぎて、私はついていけなかった。
 それはともかく、アフリカを飛び出したホモ・サピエンスが、ユーラシアのどこかでネアンデルタール人と出会い、一部の者が今風に言えば結婚したということなのだろう。このときすでに、両者は分岐して数十万年経っているのである。人種ではなく、種が違うのである。どういう夫婦生活だったのだろう?それでも、その子供たちはしっかり生き延び、すでに絶滅したネアンデルタール人の遺伝子を今に伝えているのである。もちろん、われわれ日本人もそれを持っている。
 遺伝子のしぶとさよ。私にはとてもまねできない。

2023.8.6

 
お金の使い方
 職場のお金を横領したりして捕まった人のニュースをときどき見るが、そのお金を何に使ったかというと、「飲食」と「ギャンブル」が意外に多い。せっかくわが身を滅ぼすリスクを冒してお金を手に入れたのだから、どうせなら貯金するとか、資産になるものを買っておくとか、将来に備えた使い方をすればいいのに、全部消えてなくなる使い方してどうするんだ、と私のような小市民は思ってしまう。
 だがよく考えてみれば、不正に得たお金を形のあるものに換えて、その前でふんぞり返っていられる人というのは、よほどの大悪党ではなかろうか。私ならたぶん、後ろめたいお金であればあるほど、手元に残らない形で使ってしまうだろうと思う。私はギャンブルは嫌いなので、やっぱり、飲み食いになる。
 ネコババしたお金で蓄財するのにいたたまれず、つい飲食に使ってしまう人たちというのは、まだしも普通寄りの人たちなのかもしれない。

 さて先日、当院麻酔科は臨時収入を得た。一種の報奨金のようなもので、患者さんや業者からもらったというようなやましいものではないが、不労所得の感は免れない。これは小悪党のやり方に倣って、さっさと使ってしまうに限る。
 5日後の昼、私はいつものお好み焼き屋さんに、そばめしを7つ注文した。いつもは研修医の分は自分の財布から出すのだが、今回は完全なただ飯である。逮捕される心配もない。また格別の味わいであった。

2023.7.30

 
時間旅行者
 手術はしばしば、予定より長引く。長引けば長引くほど、終わった後の外科医の表情には達成感がみなぎるのだが、まわりをよく見ろと言いたい。乱れた手術室ダイヤを復旧させるために、看護師と麻酔科医は全身全霊を傾けつつ、担当者を差し替え、手術室中を駆け回り、手術出しの遅れた患者に頭を下げているのだ。もはや手術室は阿鼻叫喚の生き地獄である。
 なのにどうして、混乱の張本人である外科医は涼しい顔をしていられるのか。私の長年の疑問であった。

 かつて、「手術してると時間を忘れるよね」と口走った外科医がいた。いやいや、時間を忘れてもらっちゃ困るんですよと言いたいが、謎を解くカギはこの辺にあるのかもしれない。彼らの中で時間の流れは、われわれ普通人と違うのではなかろうか。
 そういえば、彼らは10時間でも15時間でも休まず手術するが、腹も減らないし、トイレにもいかない。彼らの体内では、時間がゆっくり流れているようなのだ。つまり、手術をしている外科医は時間旅行者なのである。

 時間といえばアインシュタインである。アインシュタインは相対性理論により、強い重力場では時間の流れが遅くなることを示した。手術中の外科医はつねに重圧にさらされていると思われるが、重圧と重力を取り違えた結果、自分の周辺の時空にひずみをもたらし、時間の流れを遅くしてしまっているのであろう。
 われわれと異なる時空を漂いがちな外科医をこちらの世界に引き止め、時間を守らせるにはどうしたらよいか。

 アインシュタインは、相対性理論を一般人にわかりやすく説明するとき、このように表現したそうである。
 「ストーブの上に手を置いていると1分が1時間に感じられるけど、異性と楽しくしゃべっていると1時間が1分に感じられるでしょ、それが相対性理論です」
 これを聞いたどこかのオヤジが、「なんて頭のいいやつだ、こんな当たり前のことを言って有名になるなんて」と言ったとか、言わなかったとか。
 それはともかく、答えはもう出ている。手術中、時間旅行を始めてしまった外科医は、ストーブの上に載せるといい。

2023.7.1

 
歩き方
 インターネット上で「歩き方」に関する記事や動画を見かけることが増えたような気がする。歩くことに健康増進効果があることを前提として、「こういう歩き方のほうがいい」とか、「正しい歩き方はこれだ」みたいなことが主張されている。整体師、理学療法士、ヨガの人、医師、出自のよくわからない歩き方インストラクターなどがよってたかって、そういうのを出してくる。
 私は歩くことが好きなので、ついつい見てしまうのだが、その内容に面食らうことが多い。「胸を張れ」、「胸を張るな」、「ペットボトルのような姿勢で」、「つま先着地で」、「からだをねじらないナンバ歩き」など、数々の珍説が披露され、もうわけがわからない。こういうのをいちいち真に受けて、全部取り入れたらどうなるか。修学旅行の女子高生の団体の前を歩く男子中学生のような、ぎごちない歩き方が完成するだろう。
 いっそこれらの歩き方マスターたちが一堂に会し、自慢の歩き方で歩いてもらい、力尽きて倒れるまでにどれだけ進めるか、競ってもらったらどうかと思う。優勝した人の歩き方ならば、それなりの説得力はあるだろう。

 そもそも、「正しい歩き方」なんてあるのだろうか。人類の起源が二足歩行にあることを考えると、歩行は人間にとってもっとも基本的な動作のはずである。人に教わるようなものではないと思う。
 最近は歩容認証という技術があって、人の歩き方を分析すれば、その人物をほぼ特定できるのだそうである。歩くという行為がそれだけ、その人だけの個性に守られているという事だろう。それなのに、「この歩き方の方が正しい」、「その歩き方は間違っている」などと呼ばわるのは、余計なお世話であり、憲法で保証された基本的人権を侵害されている気分である。

 妻がよく私に言うようになった。「なんか、そのひょこひょこした歩き方、死んだおじいちゃん(私の父)に似てきたね。」うれしそうに言ってくるのならわかるが、どういうわけか、迷惑そうな顔で言うのである。
 歩き方奉行たち、および妻に言いたい。放っておいてください。歩きたいように歩くから。

2023.6.17

 
病院の地政学
 近年、「地政学」という言葉をよく聞くようになった。国家が行う政治的行動を、地理的環境、条件と結びつけて考える学問のことを指すそうである。
 たとえばロシアは歴史的に、ヨーロッパからの侵入に悩まされてきたため、緩衝帯となるウクライナ、ベラルーシなどを自分の子分にしておかねば安心できないのだという。だから去年、西側になびくウクライナにロシアが侵攻したのは、プーチンの頭がおかしくなったのではなく、ロシアが自衛のために取った必然的行動だった、ということになる。
 じゃあ戦争を仕掛けた国や個人に責任はないのか、という違和感は残るが、地政学の分析を聞いていると、世界のいろんなできことがわかったような気になってしまうのは確かである。また国の行動は指導者の気まぐれで決まるものではなく、宿命のようなものだから、将来何が起こるかも予見できるらしい。
 ジョージ・フリードマンという人によれば、日本の中で世界への野望がふたたびむくむくと頭をもたげ、数十年後には日本とアメリカが宇宙を舞台に戦争をするそうだ。恐ろしいことである。
 さて、病院を世界に見立てた場合、麻酔科国の地政学的な立ち位置はどのようなものになるだろうか。面白半分に分析してみよう。(私は常に面白半分だ。)

 まずその位置を見てみよう。麻酔科国は手術室とそれに隣接する集中治療室を領有し、病院の中央部門を握っている。これらは地理的にも、たいていは病院の中層階にあり、まさに心臓部に陣取っていると言える。
 他国との関係はどうか。麻酔科国は依頼を受けてサービスを提供する側であり、逆に他国に依存する部分は少ない。安全保障を考えるうえで、この立場の強さはきわめて重要である。
 例えば軍事的には、麻酔科国の主力武器は注射器と針程度であり、ドリルやノミ、電ノコで重武装した整形外科国の敵ではない。しかしその立場上の優位から、整形外科国から武力侵攻を受ける可能性は、ほぼないのである。
 一方、人口は国力の重要な因子であるが、麻酔科国はこの点ではやや弱い。しかしここで忘れてはならないのは、看護師国との同盟である。麻酔科国は手術室と集中治療室の看護師と近い関係にあり、普段からパワハラ、セクハラを控えている限り、味方になってもらえる可能性が高い。こうして数的優位を確保すれば、周辺国への圧力になる。

 結論を言えば、麻酔科国は地政学的に最強であり、覇権を握らない方がおかしいほどである。
 なぜ現実には、そうはならないのか。病院という名の世界には他にまだ、もっと強力なプレーヤーが存在している。病気を抱える患者さんを前にして、麻酔科国には地政学ごっこをやって遊んでいる暇はなさそうだ。

2023.6.4

 
手術室の覗き窓から見たコロナ
 2023年5月8日をもって、新型コロナの扱いが感染症第5類に格下げされた。感染症の専門家は、まだまだ気を抜くな、次の波が来ると警鐘を鳴らしているが、私はただの麻酔科医である。もうええやん、終わりにしようやという一般市民と同じ想念しか、頭には浮かばない。
 というわけで、私の一存で、新型コロナはもう終わったことにする。そして、コロナに多少は関わった麻酔科医として、長かった3年間を振り返ってみたいと思う。

 2019年末、新型コロナが中国武漢で流行していたころは、対岸の火事であったが、2020年1月、ダイヤモンド・プリンセス号で集団感染が発生し、死者が出た頃から、これは自分のところまで来るぞ、と素人の私でも思うようになった。私の病院はコロナの軽症、中等症までしか扱わないことになっているから、麻酔科医が直接診療に関わることはないだろうが、知らずに感染者に接するということもありうる。かかると死ぬかもしれない感染症である、そう思っただけで、からだに微熱を感じるのが不思議であった。

 予定をはずれ、当院で麻酔科医がコロナと直接対決するようになったのは、2021年1月のことであった。コロナで入院している患者さんが重症化し、重症を扱う病院に転送することになったが、転送前に気管挿管してくれという電話がかかってきた。コロナ患者の挿管は、もっとも熟練したものが行うべきなので、麻酔科医が行うことに決まっていたのである。
 それ以降、コロナの挿管依頼はどんどん来た。一日2回挿管したこともある。夜中でも休日でも麻酔科医が呼ばれた。麻酔科医以外が挿管したことは一回もなかったはずである。私だけで20例前後は挿管したと思う。

 当時は、重症化し人工呼吸になる人の中でも、30代から60代くらいの、それほど健康リスクのない人も多かった。普通の人がコロナで死亡することがある、という現実があった。ただ強いて言えば、肥満の人は明らかに多かった。肥満の人はかえって病気に強い面もある、というのが私の持論であるが、コロナに関してはそれは成り立たなかったように思う。
 挿管された人は、人工呼吸のまま命を失う可能性もそこそこあった。そうなると、その人が最後に耳にしたのは、私の呼びかけであった、ということになる。これはあまり気分のよいものではない。そこで私は鎮静剤を投与する前に、「これから口に管を入れますけど、必ずよくなって管が抜けますからね」と言うことにした。もしこれがウソに終わったとしても、「あの野郎ウソをつきやがったな」などと、わざわざいまわのきわに怒る人はいないはず、という作戦である。
 私だって、自分が感染するリスクを負って、最も危険と言われる処置を行ったのである。自分の気休めのために、これくらいのことは許されただろうと思う。

 その後もいろいろあったが、2022年の中頃からは挿管依頼はほとんど来なくなった。オミクロン株が主流になってからはより顕著だが、感染者の重症化は極めてまれになったのである。その証拠に、自分の周囲でも感染が多発しているのに、みんな普通に治っている。普通の風邪、とは言わないが、それに近いものになったと言える。
 感染症の専門家がなんと言おうと、もう日本人が普通の生活を取り戻すべき時が来たと、私は思っている。私は昨日、3年間自粛していた卓球の練習を再開した。

 災厄でしかない3年間だった。今ごろになってアマビエが海から出現し、私のおかげですが、などと言っても私は認めない。コロナの影響を受けなかった日本人はいないだろう。人生を狂わされた人も多かったと思う。いいことがあったとすれば、すべての宴会がなくなったことくらいだが、そんなことで喜ぶのは私くらいだろう。
 上記のように、私の病院でも麻酔科医はそれなりにウイルスを浴びたはずであるが、私を含め、中堅以上の医師は結局一度もコロナにかからなかった。家族に感染者が出ても、平気だった。麻酔科医は普段から、病院の運営に支障をきたすのでカゼをひかないことにしているが、それがコロナにも有効だったのだろう。あるいは何かの病気だろうか。

 コロナにかかった人も、かからなかった人も、本当によく戦った。今はそのように、声をかけあうべき時だと思う。

2023.5.14

 
たばこと肺がん

 私が図書館で何の気なしに選んだ医療史の本に、「肺がんの原因がたばこであるというのは根拠のない説である」というようなことが書いてあった。それらしい理由もいろいろ挙げており、予断なく素直にこれを読んだ人は、え、たばこでガンになるというのは嘘だったのかと驚くだろう。
 これを書いたのはある現代史家である。虫垂切除の歴史、コレラや結核などの感染症の歴史について述べたあと、こうやってたばこの害を否定して見せるところがどうもおかしい。これでこの人が非喫煙者だったら驚くが、Wikipedia を信じるならば喫煙者のようである。ただ、この本ではそこのところは黙っている。意図的に隠しているのかもしれない。

 本当にたばこは悪くないのか。国立がん研究センターのホームページを見ると、メタアナリシスの結果が紹介されている。日本人について行われた疫学調査を集めてまとめると、たばこを吸う人は男性では4.4倍、女性では2.8倍肺がんになりやすいのである。国の機関が調査し、専門誌で査読も受けた論文の結論をわざわざ疑う理由はない。これが真実である。
 養老孟司(ようろう・たけし)とかいう喫煙者も、たばこが原因というならそれを証明してみせろ、とか何とか偉そうに書きちらしているが、因果関係の証明を迫るのは話をややこしくするための詭弁である。肺がんの原因がたばこだけではないことは、当たり前の話である。たばこを山ほど吸ってがんにならない人も、山ほどいる。ただ、たばこを吸うと肺がんになる確率が2〜4倍になる。これ以上何が必要だろうか。

 こうしてみると、喫煙者がたばこの害を論じるなどは、最低最悪の利益相反である。プーチンが国際秩序や人権について語るのと同じことなのである。
 医学の中でも疫学調査というものは複雑なものだから、喫煙者はどんなデータでも料理次第で「たばこ無罪」に結びつけることができる。例の現代史家はさらに、受動喫煙説を延々と攻撃し、飲食店禁煙化を推進する行政を批判しているのだが、私にはそれが、「好きなところで好きなだけ吸わせろ」というニコチン中毒者のうめき声にしか聞こえない。(ここまで言って、この人がもし非喫煙者だったら怖いので、名前は書かない。)
 私が麻酔科医として日々実感するたばこの害は、肺がんだけではない。食道がん、膀胱がん、肺がスカスカになって死に至る肺気腫、心筋梗塞、足を切り落とすほどの閉塞性動脈硬化症などなど、キリがない。それでも喫煙者がたばこで寿命を縮めるのは、その人の選択である。しかし、たばこはそんなに悪くないと、不特定多数に宣伝するような行為は、殺人に近い。とくに医師免許を持つ養老氏の発言は、私は許せない。

 たばこの害について公の場で語るすべての人は、まず自分が吸う人かどうかという利益相反の有無をあきらかにすべきである。
 これだけ書いて私が喫煙者だったら、今世紀最大の驚きであるが、さすがに一本も吸ったことのない人間である。例の現代史家も、自分が吸うか吸わないか、はっきりさせればいい。これであいこだ。

2023.5.4

 
病院船

 2011年の東日本大震災のあと、こんな時病院船があったらなあ、という話が出た。災害、感染症の流行、その他急な傷病者の大量発生に際し、豪華客船みたいな船がさっと現れて患者を迎え入れ、治療、療養を担ってくれるとしたら、こんなに便利でありがたい話はない。
 実際に政府の方で検討されたこともあるようだが、資金、人材、運用、その他すべての面で実現困難であり、結局流れてしまう。何とかならないものだろうか。

 かつては日本も病院船を運用していた。戦争中、海外の戦地で傷ついた兵士たちを日本に送り返すための船である。おそらく居心地のよいものではなかったであろう。さらに、病院船への攻撃がジュネーブ条約で禁止されているのをいいことに、軍がむりやり武器や兵隊を積んだりしたものだから、かえって敵に攻撃される恐れがあった。こういう船には、私は乗りたくない。

 人類愛に立脚した病院船を作るなら、「サンダーバード」が参考になるだろう。サンダーバードはイギリスの人形劇で、日本では1970年代にテレビ放映されていた。大富豪が全く私的に作った「国際救助隊」なるものが、超絶かっこいい救助メカ(サンダーバード1号〜5号)を駆使して、世界中の絶体絶命な人を助けまくるというお話であった。もちろん、完全に無償である。
 うらやましいのは、大富豪やその息子たちが人命救助をしていないときは、もっぱら南海の島のプールでひなたぼっこをしていることであった。大富豪だからできるのである。この点、変身するために人間界の仕事を中断しなければならないスーパーマンやウルトラマンなどより、よほど余裕がある。
 しかし、現実にこんな方式の国際病院船を作ったら、どうなるだろう。世界中から呼ばれ続けてしまうに決まっている。日本の救急車のように、コンタクトレンズがずれたとか、夜の話し相手が欲しいとかで救助を要請する人がいるだろう。とてもひなたぼっこなどしている暇はなさそうだ。

 昔から世界中に幽霊船の伝説があり、「さまよえるオランダ人」などの例が挙げられるが、私はそういう形態の病院船がよいのではないかと思う。災害や戦争で多くの傷病者が発生したとき、海の上に立ち込める濃い霧の中から忽然とオンボロ船が現れる。傷ついた人たちが恐る恐る乗って見ると、なんだかよくわからない医療関係らしき人たちが出てきて片っ端から治してしまい、一段落したら患者を降ろし、霧の中に忽然と消えていくのである。
 この船を呼ぶ方法はない。向こうからやってくるのを待つしかないのだ。もっとも、船の方も動力なしで風まかせにふらふらと動いているだけだから、行きたいところに行くというわけでもない。
 船を操るのはネモ艦長か、フック船長か、それともブラックジャックか。私も家出をした時には、ぜひ乗せてもらって麻酔科医として働いてみたいものだ。手術室くらいはあるだろう。一旦仲間に入ったら、二度と陸には上がれないような気がするが。

2023.4.22

 
栄光なき軍隊、暁部隊

 広島原爆資料館が編纂した「広島原爆戦災誌」によると、1945年8月6日、広島に原爆が落ちたあと、最も早く救援にかけつけたのは「陸軍船舶司令部」、通称「暁(あかつき)部隊」の兵隊たちであった。原爆により市内の行政、医療機関が壊滅した一方、暁部隊は広島市でも南端の宇品(うじな)港という場所にあり、大きな被害を免れていたのである。
 彼らは8時15分、今まで見たこともない閃光と爆風を広島市街方面に観測したあと、何が起こったかも把握できないまま、真っ先に市内に入った。しかも彼らに与えられた使命は、陸軍の戦時体制維持とか、市内の秩序回復とかではなく、何より傷ついた市民の救護だったのである。
 指示したのは、司令官の佐伯文郎(さえき・ぶんろう)中将。彼は負傷者の救護だけでなく、水道の復旧にも力を入れた。被災者が生きのびるためにもっとも必要なものだったからである。(救護の現場では、負傷者に水を飲ませないということも発生したが、指導層にはそういう考えはなかったようである。)
 なぜ佐伯司令官がこのような的確な判断を下すことができたか。ここからは、今回の私のネタ本「暁の宇品」(堀川惠子、ほりかわ・けいこ、講談社)を読んでいただくしかない。読者は、陸軍船舶司令部に関する著者の執念深い取材を追体験したその果てに、著者とともに感動的な発見にたどり着くことができる。

 そもそも、船舶司令部とは何か。兵隊や武器、食料を海の向こうに送るとき、陸軍はすべてここ宇品から船を出していたのであり、それを一手に取り仕切っていたのが船舶司令部であった。
 太平洋戦争では、兵を船に乗せて戦地に運んでいかなければ話にならないわけで、船舶司令部は陸軍のもっとも重要な部署であったはずである。しかしなにしろ地味な役回りであるから、陸軍の中でも何かと軽んじられた。
 こんな軽装備、手薄な海軍の護衛では船は出せないと言えば、「そんな弱腰でどうするかっ!」と責められた。そのため戦争後半には、民間から徴発した船をほぼ丸腰で送り出さざるを得ず、待ち構えた敵潜水艦の魚雷を浴びて何千人単位の兵隊ごと、次々に海に沈められた。
 作戦がうまく行ってもほめられることはなく、兵や船を失えば叱責される。悔しいことばかりであっただろう。

 原爆投下後、船舶司令部は陸軍の命令や行政の要請を待つことなく、独自の判断で活動を開始し、目覚ましい働きを見せた。しかしそのまま戦争は終わり、陸軍とともに解体され、その功績は歴史に埋もれた。暁部隊がその名にふさわしく栄光に包まれることは、ついになかったのである。
 ああ、なんか、自分の境遇に似ているなあ、と思う人も多いかもしれない。私もその一人である。

2023.4.9

 
しぐさの歴史

 「日本のいちばん長い日」という2015年の映画で、私が驚かされたのが、昭和の軍人たちのしぐさであった。会話の中で「天皇陛下」の一語を口にするたびに、顎をひき、靴の踵をカチッと合わせ、直立不動になるのである。下手をすると、一回の発言中、何度も気ヲツケをしなくてはならなくなる。それでも言っている方はまだいい。聞く方もいちいち気ヲツケしなくてはいけないから、これでは全く気が抜けないではないか。
 イラストレーターの山藤章二(やまふじ・しょうじ)氏によると、これは軍人に限った習慣ではなく、戦時中は民間人も同じようにしていた(させられていた?)とのことである。ただ民間人の場合は安全装置があって、天皇陛下に言及するときはその前に必ず、「畏れ多くもかしくこも」という前置きをつけたのでそうである。「これからアレが出てくるからね」という親切心であろう。その枕詞が出てきたら、聞いている人はたとえ座っていても、とりあえず起立するのである。
 こんな疲れるしぐさは、敗戦後すみやかに消滅していったであろう。しぐさは文字と違って形に残りにくいから、もう100年もすれば誰も知らないということになるのではないか。ただ細部にこだわる映画人のおかげで、当時の窮屈な空気の証人として、少し延命したということだろう。

 江戸時代のしぐさも、時代劇や時代小説の中で何とか生き残っている。私が分かるのは、畳の上で家来が殿様に近づくとき、頭(ず)が高くならないよう膝で歩く「膝行」とか、町人がかっこつけて歩きたいとき、フトコロに手を入れて肩をつっぱる「やぞう」などだが、時代考証の専門家に聞けば、面白いものはいくらでも出てくるだろう。

 しかしたとえば、一気にさかのぼって飛鳥時代とかになるとどうだろう。歩き方とか、相槌の打ち方とか、喜怒哀楽の表し方とか、今とまるで違うのではなかろうか。
 何しろ、言葉の発音も、今と全然違うのだ。Youtube で「古代日本語、発音」などと検索すれば聞くことができるが、現代人がとうてい聞き取れるものではなく、タイムスリップしてこの時代に降り立ってしまっても、誰もそこが日本だとは気がつかないだろう。
 言葉でもそうなのだから、飛鳥時代のしぐさなど、想像を絶するものに違いない。古墳の埴輪の体内に動画でも残っていないものだろうか。見てみたいものだ。

 さて、われわれの時代のしぐさの中で、後世の歴史家をして「意味が分からん」と叫ばせるようなものがあるとすれば、どんなものだろうか。さしずめ「ペッパーミル」なんか、その最有力候補であろう。
 100年後の底辺歴史家のノートを覗いてみよう。
 「ペッパーミルとは、2023年3月末に、日本でごく短期間だけ流行したしぐさである。何を表現するものかはわかっていないが、何かコショウにまつわる目出たい出来ごとがあったものと見られている」

2023.4.1

 
年次有給休暇

 毎年この時期になると、総務課から電話がかかってくる。
「先生、年休があと半日残っています。年度内にかならず取ってくださいね」といった電話である。
 何年か前から、われわれ医師も、年5日の年休を消化しなくてはならなくなった。しかし子どもが大きくなってしまうと、夏休みなど取っても仕方がない。手術が少ない日に年休を入れるようにしているが、同僚に負担をかけながら5日休むのはなかなか容易ではない。どうしても最後まで取り残してしまう。

 手術の少なそうな午前に半年休を取ることにして、パソコンで年休届けを入力する。休む日時を入れて確定ボタンを押すと、エラーメッセージが出て、「理由を書け」という。よくこれを忘れる。
 どうして年休を取るのに理由がいるのか、意味が分からない。他の人に聞くと、「そこは、所用のため、と書くように言われています」とのことであった。だがこっちは、病院側に頼まれて、用もないのに休んでやっているのだ。なんでこちらの理由で休むという体裁をつくろわなくてはならないのか。

 この理不尽な要求に対しては、正しい言葉の力で戦うしかない。
 私はここ1,2年、この「理由」欄に、「年5日は休まなくてはいけないから」とか、「妻にトイレ掃除を命じられたため」とか、本当のことを書いてみた。しかし、総務課から何の反応もない。まさかとは思うが、書くだけ書かせておいて、見ていないのではなかろうか。
 こうなったら仕方がない。読む人をぎゃふんと言わせることを書くしかない。若い人に聞いてみると、「なんか理由がいるんですか、逆に」というのを提案された。この「逆に」というフレーズは、おじさんには思いつかない切れ味の鋭さがある。感心したが、これはもう少し追い込まれるまで取っておこうと思う。
 これからも地道に、年休を取る本当の理由を書いていこうと思っている。いつか総務課からこんな問い合わせが来ることを期待している。「どうして普通に書けないんですか、逆に。」

2023.3.4

 
国立国会図書館デジタルコレクション

 趣味や仕事の中で、どんな分野のどんなことでも、深く関わってしまったら歴史を知りたくなる。そうでない人もいるだろうが、私はそうだ。お茶の歴史とか、郵便やら鉄道やら、そういうメジャーな話ならすでに誰かがまとめてくれているはずだ。だがそれが、誰も知ろうとしたことのない些細なテーマだったとしたら、自分で一次資料を探さなくてはならない。
 たとえば私は昨年から、「日本では戦傷者が水を飲ませてもらえなかった件」について調べているが、こんなことをまとめた本やホームページなどないから、自分で調べるしかない。太平洋戦争時代の戦記ものをいくつかあたって見ると、そういう場面はちらほら見つかるのだけれども、なるべく例数を集めないと物は言えないし、かといってその手の文献をかき集めて網羅するほどの時間や熱量はない。

 そこで、久しぶりにインターネット上の国立国会図書館デジタルコレクションを訪れてみたら、驚いた。同サイトは昨年12月に完全刷新しており、素人歴史家にとって最強の資料室へと変貌を遂げているではないか。
 国立国会図書館デジタルコレクションはもともと、著作権の切れた書籍、雑誌のスキャン画像ならば自由に見ることができた。それが今回、すべての文献を自動文字認識でテキスト変換したらしく、これにより、検索が全文にかかるようになったのである。これまでは、検索の及ぶ範囲は書名や目次のタイトルくらいまでであったから、検索から漏れる文献が多かった。この差は大きい。さらに、著作権が切れる前の文献も、あらかじめ利用者登録しておけば、閲覧可能になった。
 おかげで、戦場で負傷した兵が水を求める場面を40件くらい集めることができた。これだけ集まれば、それなりに歴史の流れが見えてくる。
 明治時代の日清、日露の戦争では、何だかんだで兵が欲しがれば水を与えるケースが多く、とくに「末期(まつご)の水」は「武士の情け」として自由に与えられることがほとんどであったが、昭和になるとどんなに絶望的な状態でも一滴も与えないケースが多かった。「水を飲むと死ぬからだめ」という軍の不文律が、組織的に教育、実施されていたらしいことがわかった。

 この程度のネタでは誰の興味も引くまいが、調査のテーマによっては日本の近代史からとんでもないものが出てくるかもしれない。とにかく、今まで誰も手にしたことのない道具が、タダで使えるようになったのである。徳川の埋蔵金のありかが実は堂々と書いてあったとか、ゴジラがすでに江戸時代に一度上陸しており、大魔神に撃退されていたとか、そんなことが見つかるかもしれないのである。
 腕に覚えのある人は、AIがこの広大な資料の海を食い荒らす前に、ひと山当ててみたらどうだろう。

2023.1.25

 
失言

 よく政治家が問題発言をしてしまい、大臣をやめさせられたりしている。今年で言えば、「法務大臣は死刑執行のはんこを押して、昼のニュースに自分の名前が出るくらいの地味な仕事」で辞めた大臣がいた。
 こういう失言は大体、講演やパーティーのスピーチでウケ狙いでしゃべったときのものが多いようだ。面白いことを言おうとして失敗するのである。本人があとから言い訳をするのだが、「自分の真意は違う、全部聞いてもらえばわかる」と言われても、われわれも忙しいから、全部聞いてやる暇などない。政治家たるもの言葉は商売道具なのだから、ちょっと切り取られたくらいで本音がばれるような使い方をしてはいけないと思う。
 私の知る最悪の失言政治家は、森喜朗(もり よしろう)元首相である。去年、女性蔑視発言で五輪組織委員会を首になったが、もともと総理大臣になる前から失言王であった。しかも、「言葉は悪いが、大阪はたんつぼだ」(1988年)、「(無党派層は選挙に)関心がないといって、寝てしまってくれればいい」(2000年)など、内容がひどいだけでなく、品がなく、そもそも面白さのかけらもないから最悪だ。ただ人の気分を害するだけの失言の数々、こんな人が首相だった時代の気分の悪さを、私は忘れない。

 などと他人ごとのように言うけれども、医師も言葉は商売道具であり、それゆえしばしば言葉で失敗する。私もこれまで何度も、うかつな言葉で患者さんを怒らせてきた。その経験から得た教訓は、次のようなものである。
 患者さんに向かって、たとえその場を和ませる目的でも、決して面白いことを言ってはならない。病気で苦しんでいる人は、相手の言葉にちょっとでも笑いの要素を感じ取ると、許せない気持ちになることがあるのだ。サバアレルギーの人に向かって、「大丈夫、麻酔薬にサバは入っていません」と言っても嘘ではないが、怒りのツボを刺激してしまったとすれば、それは失言だ。
 また、ありきたりな言葉に飽きたからと言って、気の利いた言い回しや文学的な表現に走るのも危うい。その裏に自分でも気づかない別の意味を持つことがある。これから麻酔がかかって眠っていく人に向かって、「安らかにお眠りください」などと言ってはいけないし、麻酔から醒めた高齢者に、「帰ってこれましたよ、よかったですね」などもだめだ。

 政治家の中にも、私が見習いたい人がいる。現在の首相、岸田文雄(きしだ・ふみお)氏である。この人は失言しない。するはずがない。原稿通りのことしか発言しないからである(たぶん)。面白いことを言って受けようとか、ちょっとアドリブを入れてみようとか、一切思わないところがすごい。「面白くない首相」という評価にあえて甘んじる代わりに、わが身と日本の品位を守ってくれているのだ。

 医療界もぜひ、岸田流を取り入れなくてはならない。患者さんへの説明は、あらかじめ用意した文面を読むだけにする。患者さんからの質問に対してはさすがに原稿は用意できないが、よくある質問と回答例を作っておき、それをちらちら見ながら、一歩も足を踏み外さないまま回答する。大事なのは、患者さんに楽しんでもらおうとか、リラックスしてもらおうとか、まして面白いことを言って受けたいとか、余計なことを考えないことだ。
 解決法はわかった。ただ、私にそれができるだろうか。それができる立派な人なら、こんな下らない文章をネットに流したりはしないだろう。これからも失言との戦いは続くに違いない。ああどきどきする。

2022.12.12

 
毒舌応援

 コロナ対策の緩和に伴い、この秋、各地でマラソン大会が復活している。私がよく参加する静岡県の島田大井川マラソンも、3年ぶりに開催されたので、先日一走りしてきた。
 こういう草の根マラソン大会だと、ゴールにはタレントさんが陣取ってマイクを握り、大音声で応援コールを繰り返す。参加者の気分を盛り上げようと必死になって叫んでくれるのだ。
「やめることもできたのに、最後まで走り切った!みんな、すごいよ、かっこいいよ!これまでやってきたことは、無駄じゃなかったね!」

 だが、こういうのはタイムが3時間までの人にしてあげたらどうだろう。私は世界新記録を逃しただけでなく、自己記録更新もとっくにあきらめ、5時間台でほぼ歩きながらゴールに向かっているのだ。こんなに持ち上げていただいては、かえっていたたまれない。
 底辺ランナーの疲れきったからだと心は、こんなふうに毒舌をもって鞭打っていただきたいものだ。

「みなさーん、今5時間過ぎました。今日のトップは2時間30分ですよー。その倍も走れるなんて、凄いですねえ。恥ずかしくないですかー。」
「そこのお父さん、今まで歩いてたのに、ゴールが近くなって、急に走りだしましたね。10秒や20秒早くなって、何になりますか。それより明日は月曜日、会社じゃないですか。朝起き上がれなくなりますよ。見栄を張らず、歩きましょうねー。」
「はいここで、シンゴ君8歳からのお便りを紹介します。お父ちゃん、日曜はいつも、しんどいねんと言うて遊んでくれへんくせに、今日は42キロも走るんやてな。子どもが受ける心的外傷のことを考えたら、そんなことはでけへんはずやのに。」
「グレタさんからも、メッセージが届いています。二酸化炭素を撒き散らしながらエネルギーを無駄遣いして、何か役に立つことをするのかと思えば、出発点に戻っただけかよ。大人の遊びのせいで、地球がまた暑くなった。恥を知れ!」
「あさま山荘を包囲している機動隊からです。お前たちは完全に遅れている。お父さん、お母さんは泣いているぞ。シューズを捨てて、早くコースから出てきなさい。」

 底辺ランナーはマラソンの後半、膝が痛くなると、こんなことを考えるしか、やることがなくなる。

2022.11.6

 
核爆発対応覚え書き

 今、ウクライナとの戦争で不利になりつつあるロシアが、核兵器を使用する可能性が高まっていると言われている。万一地球の空を核が飛び交う事態になったりすれば、日本も危ないと心配をするのは当然だろう。そうなれば、6月11日に私の脳内で行われた核ミサイル対応演習だけで日本の病院を守れるかどうか、心もとない。
 ちょうどその折、自称「血の池地獄の番人」さんが専門家の本を貸してくれた。高田純(たかだ・じゅん)氏の「核爆発災害ー放射線防護学入門シリーズ」(医療科学社)である。日本が核攻撃された時の対処法について、正面から説明してくれる、貴重な教科書である。本を「血の池」に返す前に、病院として何ができるかという視点でメモをしておきたい。これまで書いたこととかなり重複するが、日本を守るためだ、やむをえない。

  • 北朝鮮からのミサイルであれば、警報が鳴ってから着弾まで、最大2-3分しかない。10分経てば、どこか別のところに飛んで行ったと考えてよく、避難を解除できる。
  •  爆発時、地下に潜るのがもっとも生存確率が高いのはもちろんであるが、鉄筋コンクリートの建物の中で伏せるのも、かなり有効である。とにかく、核爆発時の衝撃波と熱線をかわすことが、生存への鍵になる。
  •  窓ガラスは爆風で粉砕し、弾丸となって人を襲ってくる。窓の見えない場所に隠れる。
  •  爆風は2回来るかもしれない。爆心地から高熱の空気が超音速で飛び出した後、真ん中が真空になり、空気が戻ってくるのである。1回目と逆向きだが、やはり爆風である。
  •  爆風が通り過ぎた後、周囲の建物がほとんど倒壊しているとしたら、爆心地に近いと考えられる。病院が残っていたとすれば奇跡だが、間もなく火災が発生するし、残留放射線もきわめて強いので、病院に立てこもっている場合ではない。動ける人は、できるだけ地下を通って避難する。動けない患者さんをどうするか、究極の選択になるかもしれない。
  •  周囲の建物が半壊しても自動車が横転していなければ、爆心地からやや離れており、火災の危険は少ない。院内に1時間とどまった後、ラジオで情報を得ながら退避する。
  •  周囲の建物の窓ガラスが破損していなければ、爆心地から離れている。院内に留まる。
  •  灰が空から降ってきたら、放射能を含む核の灰と考える。空中爆発の広島、長崎と異なり、地表核爆発が起きた可能性がある。核分裂物質と地表の粉砕物の混合物からなる核の灰は、広島の「黒い雨」とは比べ物にならないレベルの核汚染をもたらす。
  •  核の灰を浴びた患者が病院に来たら、除染が必要である。すべての衣類、靴を脱がせ、ビニール袋に入れて外に出す。シャワーで全身を洗浄し、歯磨きとうがいをし、耳穴、鼻もよくふき取る。そう考えると、核爆発に備えてもっとも重要な医療資源は、水ではないだろうか。
  •  ある程度強い放射線を浴びると嘔吐、下痢を起こすが、これらは致死線量以下で起こるので、助かるチャンスは十分ある。意識障害、痙攣といった中枢神経障害は、致死線量に近い放射線を浴びたことを示し、厳しい。
  •  皮膚は放射線の影響をもっとも受けやすい臓器であり、紅斑から壊死まで、さまざまである。体内まで届かないβ線で皮膚だけがやられている場合も多いから、見た目の症状が派手でも、重症化するとは限らない。
  •  甲状腺防護のために、できるだけ早くヨードを投与する。あるいは昆布があれば、一人一日30グラムを煮て、汁とともに摂取する。
  •  全ての核分裂生成物の放射能は、時間とともに減衰する。経過時間が7倍になれば、放射能は10分の1になる。爆発後7時間経てば、1時間後に比べて10分の1である。もちろん、現場では最初の放射能レベルがわからないから、いつから外出を許容できるレベルになるかはわからない。ただ、屋外がいつまでも危険なままではないと知っておくのは、大事だろう。

 あとはこんな覚え書きが、役に立つような事態が起こらないことを、祈るのみである。

2022.10.27

 
海への家出

 以前私はここで、自分が家出した場合の行先として、山に入るのはどうかという検討を行った。どういう結論だったかよく覚えていないが、キツネやタヌキを素手で捕獲し、そのまま引き裂いて食べるくらいの元気があれば、山の中でも生き延びられそうだという話だった、ような。
 だが私もそろそろ還暦である。キツネやタヌキと戦うのは、本意ではない。たぶん、逆に食べられてしまうだろう。脱走先として、海という選択肢はどうか。今のうちに調べておこう。
 海に出る場合、さすがに船に乗るだろうが、アテもなく漕ぎ出したところで、その先、生き延びられるのか、どこか楽園のような新天地に着く可能性はあるのか、それが問題だ。

 参考になるのは、コンティキ号の冒険である。1947年、ノルウェーの人類学者とその仲間が、南米チリから南太平洋のポリネシア諸島へ無動力で漂着できるかどうか、自らが実験台になって挑戦した。コンティキ号はバルサの木で組んだイカダであったが、木に海草が生え、そこにカニやフジツボが住みつき、ときどき魚も飛び込んできて、「飢えることなど不可能」な状態だったという。しかも、無事ポリネシアに到着したのであるから、いいことづくめである。

 何という楽園だろう。だがちょっと、できすぎた話ではなかろうか。海がそんなにいいところなら、家出をした人々はつぎつぎとイカダを組んで海に出るはずである。彼らは話を盛っているか、ただ運がよかっただけではないかという気がする。
 江戸時代のジョン万次郎(まんじろう)や大黒屋光太夫(だいこくや・こうだゆう)などの漂流の話を聞けば、彼らの生還は奇跡であり、多くは海の中で、あるいは漂着した無人島で力尽きていったであろうと思われる。
 どう考えても、海は人間が住むところではない。気まぐれで家出をしたとしても、ひとりで海に出ようとは思わない方がよさそうだ。

 あまり知られていないが、中世の日本では、かならず楽園に行ける航海法が開発されていた。補陀落渡海(ふだらくとかい)である。昔の人は、南の海に補陀落山(ふだらくせん)という聖なる山があると信じ、僧侶などが小船に乗って旅立っていったのである。ただし、少量の水と食料だけ持って小さな部屋に閉じ込められ、外から釘を打ち付けられ、ただ波に揺られているのであるから、即身成仏を海の上で行っているようなものである。
 信じる者は救われる。楽園への直行便ならば検討の余地はあるが、途中でなかなか苦しい思いをしなければならないのは問題だ。少なくとも、閉所恐怖症を持つ私には無理だ。
 今、信者の財産を吸い尽くすカルト宗教が話題になっているが、こういう、宗教が人の命を吸い取る話を聞くと、カルトでない宗教はあるのだろうかと思ってしまう。

   海は厳しい。人類の創世記の時代、新天地を目指して船出していった昔の人たちの蛮勇には、ただただ感心するしかない。

2022.10.10

 
アントニオ猪木

 先日、プロレスラーのアントニオ猪木(いのき)氏が亡くなった。
 私が子供のころは、テレビでプロレスの試合がよく放送されていたが、当時から私にはまったく興味が持てなかった。どう見ても、筋書きに沿って演じられるショーとしか思えなかった。
 プロレスファンの作家中島らも(なかじま・らも、故人)によれば、プロレスを見る楽しみは、どっちが勝つのかとかいうことではないのだそうだ。筋書きとはいえ、あれだけ痛めつけられても死なないあの打たれ強さと言い、彼らが超人であることは間違いなく、彼らは「本当は」どれくらい強いのだろうかと空想を膨らませるところに楽しみがあるのだと。
 子供にはちょっとまねのできない、高級な楽しみ方である。

 というわけであるから、アントニオ猪木氏にも、私は何の思い入れもない。ただ、昔プロレス実況をよくやっていたアナウンサーの古舘伊知郎(ふるたち・いちろう)氏の語った猪木氏のエビソードだけが、ずっと私の頭の中に棲み着いている。
 古館氏がテレビ局をやめてフリーになるかどうか、ひどく悩んでいたころ、猪木氏はこんなことを言ってくれたそうである。
 「トラブルは必ずダマになってやってくる。それを一つひとつ解いてほぐしていけば、トラブルは必ず解決する!」
 この言葉のおかげで、古館氏は円満退社に漕ぎつけることができた。

 このシンプルな力強さ、人を励ます優しさ、これほど芯の入った励ましの言葉はめったに聞かれないものだと、私は思う。プロレス業界のごたごたをさんざん経験してきた猪木氏ならではの言葉なのだろう。
 猪木氏のご冥福を祈りたい。

2022.10.7

 
サードマン

 遭難や災害などで、人に死の危険が迫ると、まるで国際救助隊(通称サンダーバード)のように「サードマン」なるものが現れることがあるそうである。この言葉は、1910年代に世界初の南極大陸横断に挑戦したイギリス人、シャクルトンのエピソードに由来している。シャクルトンは大事な船を失い、最寄りの捕鯨基地まで氷の山を越える決死行を余儀なくされたが、このときの隊員3人の他に、一緒に歩いてくれているもう1人の存在を強く感じていたというのである。これだと「4人目の人」になるはずだが、エリオットとかいう人が「荒地」という詩にこの話を読み込んだ時、「3人目」にされてしまったのである。
 サードマンの出現は、決死の行軍だけでなく、漂流、生き埋め、登山、いろんな場面で報告されているが、そこにいてくれるだけで極限状況の中、生存をあきらめかけた人を励ましてくれる、ありがたい存在である。死んだ家族であることもあり、全然知らない人だったりもする。目に見えないが斜め後ろ辺りで確実な存在感を放っていることもあり、しゃべったり、現実の人間と区別のできないはっきりした姿を備えていることもある。
 サードマンはただ励ましてくれるだけではない。2001年のアメリカでの同時多発テロで、世界貿易センタービルの上階にいたある人は、何者かに強く促されて炎の中に飛び込み、そこを通り抜けて地上に脱出したが、あとからわかったのは、それは生還するための唯一のルートであった。このように、生存のための道案内をしてくれたという話も多い。

   宗教関係の人ならば、これを守護天使とか、お遍路さんに常に付き添ってくれる弘法大師(同行二人)とか、そういったものだと解釈するだろう。科学者はこれを、幻覚だというだろう。しかし、ただの幻覚で片付けてしまうのはもったいない。多くの経験者は、自分が生き残れたのはサードマンのおかげだった、と口を揃えるのである。
 私の立場としてはサードマンは、これまで当ブログのようなもので何度もネタにした臨死体験の一種であろうと思うし、とりわけ体外離脱、ドッペルゲンガーなどとよく似ている。極限状況の中で身体的、心理的限界を超えてしまったある時点で、もう一人の自分が現れるのではないか。おおむね、幻覚とか心理現象で説明できるだろうが、オカルトの余地は残しておきたいというのが正直なところである。
 たとえば、倒壊寸前のビルの中で唯一の逃避ルートを教えてくれたとか、いかだで漂流中の漁師に、あと何日でどこに着くと教えてくれたとか、これは本人が知りえないことであるから、ただの幻覚だったらできることではないのである。臨死体験の体外離脱でも、主治医の頭頂部のハゲを真上から見てしまったりとか、本当に視点が体外に飛び出したとしか思えない事例が報告されているから、似ている。ここは現在の科学では説明できない部分である。

 私自身は、うっかり正座したらお坊さんが話をやめないとか、ジョギング中に腹が痛くなったがトイレが見つからないとか、死ぬほどつらい目にあったことは何度もあるが、サードマンに出会ったことはない。そう簡単に出てくるようでは、ありがたみがないのだろう。ただ、本当に死にそうになった時、私のサードマンは実際、助けてくれるのだろうか、という疑問はある。
 サードマン体験を証言してくれるのは生き残った人だけである。来てくれたサードマンが方向音痴だったり予知能力がなかったりして、ものの役に立たなかった、ということになる可能性はある。それを証言する人が、もうこの世にいないだけである。
 もしもサードマンが、異世界にいる私の相棒のようなものだとしたら、命を救ってくれるほど有能であると期待しない方がいいだろうが、人生の最後に一度会っておくのも悪くはないと思っている。

参考文献: 「サードマン - 奇跡の生還へ導く人」、ジョン・ガイガー著、新潮文庫(絶版); 「漂流」、角幡唯介著、新潮文庫

2022.9.25

 
緑茶のすすめ

 夏には苦いものがよく似合ふ(たぶん)。苦いものと言っても、ゴーヤー、コーヒー、ビールなどいろいろあって、どれも暑さに効く(ような気がする)のだが、私は毎朝、緑茶(煎茶)の苦味で目を覚ましている。
 私が静岡県島田市の病院に勤めていた頃、町内会の寄り合いがあり、会長さんのお宅に上がらせてもらったことがある。お客さんにはコーヒーを提供する家が多いだろうが、静岡は違う。古式ゆかしく緑茶が出てくる。島田市は川根町、本川根町という、日本有数のお茶の産地に接しており、まさにそこはお茶の本場なのであった。
 なんだ、お茶か、などと侮ることなかれ、本場のお茶の葉を使って本場の人が本気で淹れたお茶は、濃厚に苦くて甘く、目の覚めるおいしさであった。

 今、お茶の葉を買って自分で緑茶を淹れる人は少ないのではないだろうか。だが、本物を味わってしまった私に言わせると、ペットボトルのお茶も、簡便にティーバッグで出すお茶も、薄すぎてつまらない。食事のついでに飲むお茶ならそれでいいだろうが、お茶そのものを楽しむには物足りない。お茶とはこんなようなものだ、と若い人に思われては残念至極である。
 ここはやはり、急須にお茶の葉をたっぷり入れて、何なら口が曲がるほど苦いお茶を楽しみたいものだ。よいお茶ならば、苦みが増すほどに、各種アミノ酸がかもす甘みもまた濃厚になる。この相反する味覚の複雑な調和こそ、コーヒーや紅茶にはない、緑茶の特徴である。
 使用するお茶の葉であるが、スーパーで安く売っているものは味わいに欠け、おすすめできない。お茶だけを売っている店というのは、今どんどん減っているから、私は川根のお茶を通販で買っている。等級があって値段もピンきりだが、中の下くらいで十分だ。お茶の本場、静岡の人が、まずいと知りつつ悪いお茶を売ることはありえない。おいしいお茶を確実にゲットする方法である。

 アフタヌーンティーなど、英国のお茶の文化をオシャレと思っている人も多いだろう。だがあれは要するに大航海時代の欧州人が、中国や日本のお茶を持ち帰ったものである。日本の戦国時代の茶道も、だいぶ影響を与えているらしい。こちらのほうが本家なのである。ただ、日本は本家でありながら、静岡以外ではお茶を淹れて飲む習慣が失われてきているような気がするので、こうして微力ながら応援している次第である。
 コンビニで激ニガのエスプレッソ緑茶が売られるくらいになれば、もう思い残すことはない。
 ロシアのウクライナ侵攻の影響で、今後さらに円安、食料輸入危機が問題になるだろうが、国内で自給できるごはん、さつまいも、お茶でだいたい生きていける私に死角はない。ロシアよ、どこからでもかかってこい。

2022.8.28

 
飲水禁止の歴史、その2

 前回私は「飲水禁止の歴史」の中で、けが人に飲水を禁じるのは根拠のない民間伝承に過ぎない、と書いた。ところがそのすぐ後に、根拠なしとは言えないと知ってしまった。今のうち、素知らぬ顔をして訂正しておくことにしよう。

 アメリカ軍は、戦闘中に負傷した兵士をいかに救命するか、という明確な目標を立て、根拠に基づく実践的なガイドラインを作り、更新し続けている。これが「戦術的戦傷救護ガイドライン」である。これを私なりに要約すると、出血に対してはとにかく止血、そしていきなり輸血である。もし止血と輸血がすぐにできない場合、リンゲルの輸液で血圧を維持する、というのはすでに昔の考え方で、むしろ生存率を下げてしまう。血圧を上げすぎると出血が増えるからである。止血が得られるまでは、血圧80−90mmHg の低め維持を目指すべきである、というのである。
 もしも外傷に対して水分の過負荷はむしろ害である、ということならば、過度の飲水もまた戒められるところかもしれない。「手負いに水は禁物」という伝承は、多くの事例に基づく正しい経験則だったという可能性はある。

 ただし、もしそうだとしても、それは止血を得るまでの一時的な処置として、水分の飲みすぎは避けたほうがよさそうだ、という豆知識に過ぎなかったはずである。戦時中に見られるように、負傷兵に死ぬまで一滴も水を与えないとか、熱傷とかマラリアの治療でも水を与えないとか、飲水制限がまるで、どんな病気でも塗って治すタイガーバームのような扱いになってしまっているのだから、戦争している日本人はもう正気を失っている。
 戦争の記録などを読むとわかるのは、戦場においてほぼすべての兵士は正気を失わざるを得ず、必然的にすべての戦争は残虐であるということである。今ウクライナに攻め込んでいるロシア人だけが特別ひどいのではない。日本人もアメリカ人も、戦争ではおかしくなるのである。

 日本軍が頼った経験則と違い、上記のアメリカ軍のガイドラインは科学的な検証を経て作られたものである。これなら信じていいのだろうか。
 しかしこれも、そもそも人がバタバタ死んでいく戦場で集めたデータに基づいている。生き残れたら儲けもの、という状況で作ったものだから、われわれ市中病院の医療とは目的も環境も違う。出血したら、とりあえずO型の血液を輸血しろ、できればまだ生暖かい、採れたての新鮮全血がよい、などと言われても、ちょっとわれわれにできる医療ではない。こういったものをありがたがって、民間に拡大適用したりすると、またあらたな犠牲者が出そうな気がする。

2022.8.23

 
飲水禁止の歴史

 WHOは2021年、災害や事故などで多数の熱傷患者が発生した場合の水分補給について、ガイドラインを示している(注1)。もちろんかなりの量の水分を与えるのだが、よほど重症でない限り、それは飲ませてもいいし輸液でもいい、となっている。医療資源が患者数に追いつかない場合を想定した、現実的な対処である。
 一方日本では、ちょっと前まで、水を最も必要とする人に飲水を我慢させるおかしな伝統があった。これは一体どこから来たものなのか。すでに終わったことを詮索したところで誰も幸せにはなれないが、麻酔科医は人を幸せにするのではなく、痛みという不幸を食い止めることを本懐とする職種である。誰も幸せにならなくても大丈夫なので、私は調べてみることにした。

 戦時中、外傷で出血している人、熱傷の人には水を与えてはならない、と言われていた。一般人も、兵隊も、衛生兵も、軍医もそう考えていた。その理由がはっきりしないのだが、いくつかのエピソードから推察されるのは、水を飲むと「気力が尽きて死ぬ」、「再出血する」と考えられていたことである。
 ところが、「軍陣衛生」とか「衛生下士官候補者教程草案」とか「防空救護の指針」など、当時の教科書的な立場の文献をどれだけ探しても、水分を飲ませるなとは書かれていない。むしろ出血ややけどには、コーヒーやぶどう酒を与える、などと書いてある。
 一体誰が、水は禁物などと主張し始めたのか。

 仕方がないので、もう少し古い時代のものを調べてみる。江戸時代まで遡っても、やはり偉い医師の書いた教科書的な資料には、外傷や熱傷に対して水を飲ませるなとは書かれていない。ところがここに、「雑兵物語」という江戸初期の本がある(注2)。武士でも足軽でもない、最下層の兵隊の実践的な知恵を集めた本である。ここには、「けが人に水や湯を与えてはならない、粥もだめだ、やわらかく炊いた飯をくわせろ」とあるのだ。
 その根拠がわからないが、昔から言われている当たり前のことだろ、という文脈である。戦場を駆け回った人たちが自分や仲間の命をかけて獲得した経験則なのだろう。あまり簡単に否定はできないようにも思われる。
 だが待て、この本には他にも、「けが人は自分の尿を飲んだり、葦毛の馬の糞を食うのがいい」と書いてある。うーん、これを見て、さすが現場の知恵はすごい、自分もやってみようと感心できる人がいたら、逆にすごい。
 これを言い出したのは、もっと昔の人だろう。調べたいが、とても調べきれない。太平記や平家物語にはたぶん、受傷時の飲水についての記録はない。もっと古く、古事記や孫子まで遡ったらどうなるか。興味はあるが、ちょっと私の手には負えない。

 そういうわけで、ケガをしたら水を飲むなというのは、葦毛の馬の糞を食うべし、というのと同じレベルの根拠不明の民間伝承であった。有名な医師や軍の指導部など、結果に責任を持つ立場の人からは、昔から取り上げられたことのない知見である。現に同じ江戸時代の「砦草」という戦陣向けの医書には、「昔からケガに対して水は駄目だと言われているが、人が信じているほどの害はない」と書かれている。
 そんな伝承がなぜか、肝心の戦場では昭和の時代まで生き残り、現場の軍医レベルにも信奉されていた。戦争のとき、水を禁じられたために亡くなった人は多かっただろうし、死は避けられなかったにしても、末期(まつご)の水を最後まで我慢させられた気の毒な人もまた多かったことだろう。なんという不幸だろうか。

 今は、欲しくなくても水を飲め、こまめに飲め、もっと飲めと言われる時代になった。だが、医療、健康の分野ではまだおかしな民衆の知恵が残っているのではないか。たとえば、「冷えは万病のもと」、「風邪をひいたら暖かくしろ」などは医師も普通に口にする言葉だが、根拠はあるのだろうか。私は怪しいと思っている。
 健康にまつわる伝承を、話題としておもしろがるのなら害はないが、変に信じて自分や周囲の人を不幸にしないよう、気をつけたほうがいいと思う。不幸駆除専門家としての麻酔科医の意見である。

(注1) Recommendations for burns care in mass casualty incidents: WHO Emergency Medical Teams Technical Working Group on Burns (WHO TWGB) 2017-2020. burns47 (2021) 349-70.
(注2) 現代語訳雑兵物語、かもよしひさ、筑摩書房。昔のカナに自信ある人は、国立国会図書館デジタルアーカイブでも。

2022.7.23

 
核ミサイル、その2

 以前にもここで書いたことがあるが、広島、長崎の原爆証言録を読むと、重傷を負い、「水をくれ」と訴える人がたくさん登場する。それに対し救護する側が、「水は決して与えてはならないと言われていたので、心を鬼にして断った」という体験談が多い一方、「あまりにかわいそうと水を飲ませてあげたところ、次の瞬間がっくりと首を垂れ、動かなくなったので驚いた」という話もまた多数ある。
 これを、「昔の話」で片付けることはできない。もし仮に今、われわれの上に核ミサイルが落ちてきたら、一瞬で数万人の重症熱傷患者が発生するかもしれない。平時ならば治療の第一歩は大量輸液であるが、このような状況で輸液製剤、点滴の器材、人手が足りるわけがない。したがって経口補液、つまりしっかり水を飲むことが救命のカギになるだろう。だが、「飲んだら死にました」では困る。本当に飲ませていいのかどうか。

 今私は、戦記ものなどの文献を調べているところであるが、おおかた次のような話ではないかと考えている。
 太平洋戦争の当時、主に軍人の実践的知恵として、熱傷、外傷の患者に水を飲ませてはならない、というものがあった。一般市民も、そのように教育されていた。このため、水を与えられるべき被爆者に対し、最初から一滴も水が与えられなかった。死ななくていい人が、脱水のために多数亡くなっただろうと思われる。死の寸前にやっと水を与えられた人もいるが、完全に干上がった状態で水を飲んだ人は緊張の糸が切れて、つまり交感神経が一気に緩んで、ショックになり、亡くなったのではなかろうか。
 つまり諸悪の根源は、受傷早期からの補水を制限したことにあった、というのが私の考えである。さっさと水を飲ませておけば、こういう事態は避けられたと思う。

 「死んでも水を飲ませるな。飲ませたら死ぬぞ」という矛盾に満ちた戒律は、昭和の時代の部活で言われた「練習中は水を飲むな」の無茶苦茶な根性論に通じるものを感じさせる。一方で原爆の体験談の中に、そういう集団狂気をあっさりと乗り越えたすごい話もある。
 ある少年は、母親と一緒に多数の傷病者を介抱していた。「水をくれ」とうめく重傷者に水を配るよう、母は少年に命じたそうである。水を飲んだ人たちはほとんど例外なく、「ああおいしかった」と言って亡くなっていった。母親はそうなることを知りつつ、水を飲ませていたのである。
 本当の勇気というのは、こういうものではなかろうか。

 ところで、世界に数人しかいないであろうこのブログのようなものの読者から、めずらしくメールをいただいた。被爆二世だそうで、この方の父親は爆心地から0.8kmの地点にいたが、ブロック塀の陰にしゃがんでいたため助かり、今もご健在である。やはり、爆発時の熱線と爆風から身を守ることがもっとも重要で、あとはなるようになるということのようである。
 この方は、私が先日書いた「核ミサイル飛来時の市中病院の対応の脳内演習」を補足したいとのこと。核かもしれないミサイルの爆発時、熱線と爆風から身を守る為にやらなくてはならいのは、

 カーテン(ブラインド)を閉めて、窓からできるだけ離れ、窓の方に足を向けてうつ伏せになり、目を瞑り、耳を塞ぎ「必ず口を開ける事」

 だそうです。
 私は漠然と、自分はミサイルが飛んできたらナースステーションにうずくまり、「見ざる聞かざる言わざる」のお猿さんのポーズを取るだろうとイメージしていたが、さすが体験者の子のアドバイスはリアルである。口は塞いではいけなかったようだ。

2022.7.17

 
ゴッドハンドへの道

 麻酔科学というのは実践の医学であり、麻酔科医には知識だけでなく、点滴や気管挿管などの技術も必要である。
 30余年前、私が駆け出しの麻酔科医だったころも、若い医師向けの麻酔の実践的手引書はいろいろあった。私が買った「麻酔のコツとポイント」という本の末尾には、著者自慢の麻酔川柳がまとめられており、「不整脈、キシロカインよりバッグ押せ」などが記憶に残っている。本文の方はよく覚えていない。
 思えば、あの頃は出版社にも節度というものがあった。今どき売れている麻酔科手引書は、たとえば「あっという間に上級者になれる本」である。これが帯に書いてある宣伝文句ではなく、書名なのである。出版社は、本さえ売れればなんでもいいと思って、こんな書名をつけるのだろうが、自分が書いた本にこんな名前を付けられてしまった先生は、どうするつもりだろうかと思う。「私はこの本を買って読みましたが、上級者になれませんでした。金返せ。」という訴訟が起こらないものか、ヒヤヒヤ、ワクワクする。

 私は幸い、上級者でもないし、有名でもないので、こんな本を書かされる心配はない。だが万が一、オファーが来てしまったら、私もまず書名から考える。
 「上級者」、「上達する」は今やありふれている。ここはずばり、「麻酔科ゴッドハンドへの道」という書名で若者の心をわしづかみにするしかない。これを買って読めば「ゴッドハンド」になれる、という錯覚を与えるのだ。
 書名は決まったが、内容も必要だ。私はゴッドハンドではないので、どうすればそれになれるのか、知らない。ここは、私がかつてここで紹介した、本物のゴッドハンド、O先生に登場してもらう。

 O先生は大学病院の私の先輩で、硬膜外穿刺に要する時間は大体5秒(だった気がする)、私が落として粉々にしてしまったフェンタニルのアンプルを接着剤でつなぎ合わせるなど、とにかく器用な先生で、麻酔で何か困ったことがあると真っ先に呼ばれるのであった。さらに、自分が麻酔をかけた小児の耳の奥の異物を、耳鼻科医が来る前にうっかり取りだしてしまい、照れ隠しに耳の穴の入り口にそっと戻すなど、みんなに愛される茶目っ気があった。
 O先生のこんな思い出話を集めて載せるだけで、若い人にはためになるはずだ。態度はでかいが麻酔はヘタ、という先生はあまり尊敬されないが、O先生はその対極にある先生だと思ってもらえれば、間違いはない。若い人の目標にしてほしい麻酔科医である。

 巻末でやっと本題に入る。「どうすればゴッドハンドになれますか」という問いに対し、O先生はプッと吹き出しながら、こう答えるだろう。「そんなもん、知らんわ。人が勝手にゆうてるだけや」
 近くで目撃してきた私が意訳しよう。「できてしまうのだから仕方がない。他の人がどうしてできないのか、わからない。」
 ゴッドハンドになる方法は、本人も知らなかった。幸い、本には「ゴッドハンドになれる」とは一言も書いていないので、訴えられる心配はない。

2022.7.2

 
核ミサイル

 何か気に入らないことがあると、「核ミサイルを飛ばすぞ」と脅してくるのは、北朝鮮の人だけかと思っていたら、今年2月のウクライナへの侵攻以来、ロシアの人もしきりに言うようになった。普通の感覚を持つ人ならば、「これはもしかして、何かのはずみで日本にも、核ミサイルが飛んでくるのではないか」と心配するものではなかろうか。
 ただ、欧州の国々と違い、日本には核シェルターがない。核で攻撃されてしまった時自分がどうすればいいか、答えられる人はまれだろう。私も自信がない。

 万が一の時、国民を守るのが政府の仕事だ。インターネットで探すと、「内閣官房国民保護ポータルサイト」というのがあるが、「弾道ミサイル落下時の行動について」のところを読むと、核への言及がない。核爆発に特有の熱線、放射線、強烈な爆風、その後の放射能汚染などにどう対処するか、情報がない。もう少しリンクを掘っていくと、「武力攻撃やテロなどから身を守るために」という小冊子のPDFが見つかる。ここには、核への対応について書いてあるが、ちょっと目立たなさすぎる。
 一方、民間の団体である「日本防災教育訓練センター」のサイトには、「北朝鮮からの核爆弾攻撃から身を守る方法」を、かなり具体的に書いてある。これくらいの情報量は、役所も用意してほしいものだ。

 さらに、我が街に核が落ちた後、多数の傷病者が病院に押し寄せてくることが予想される。その時病院はどうすればいいのか。核ミサイルが飛んできた際の対応を取り決めてあるという病院を、私は聞いたことがない。1945年の原爆による被爆者の治療に関し、膨大な資料を持つはずの広島大学原爆放射線医科学研究所、広島と長崎の赤十字・原爆病院のホームページを見ても、今、核が落ちた場合の対応については書かれていない。

 どうも日本では、核で攻撃される、という前提の話がタブーらしい。世界に平和を訴えれば、核を射つ国などなくなる、という理想ばかりが語られてきたような気がする。「核兵器は二度と使われてはならない」が、いつのまにか、「核兵器は二度と使われない」になってしまっている。ウクライナの惨状を毎日テレビで見ている今、そんなことを言い続けられるかどうか。
 こうなったら仕方がない。「日本防災教育訓練センター」の記事を参考にして、私自身が、核ミサイル飛来時の市中病院の対応を脳内演習してみるしかない。

 思考回路に異常をきたしたどこかの独裁者が、弾道ミサイル発射の赤いボタン(伝説)を押し、よりによってそれが日本に向かってきた。内閣官房の言葉を信じるなら、ミサイル到着前に「Jアラート」が発動し、街に警報が鳴り響き、全携帯電話に緊急メールが来る。飛んでくるのは核ミサイルであると想定したほうがいいだろう。
 幸か不幸か、私はたまたま病院にいた。爆発時には強い熱線と放射線、遅れて猛烈な爆風が来るから、患者、職員ともに病室の窓から離れ、ナースステーションの物陰に隠れる。地下に行くのが一番よいが、ミサイルの到着まで10分とかからない可能性があり、その時間的余裕はたぶんないだろう。病院は鉄筋コンクリートだから、かなりの爆風には耐えられるはずだ。コンクリートを通過する致死線量放射線、病院が崩れるほどの爆発ならば、もともと生き延びるチャンスはなかったということだ。
 爆発を生き延びたら、放射能との長い戦いになる。屋外には放射性物質が充満するから、爆発前に換気システムを停止しておく。そして最低2日間、建物の中で籠城する。待てば待つほど、放射能レベルは下がるから、数週間待つことができればベストだが、食料の備蓄量との相談になる。
 一方、外来には熱傷、外傷、放射線障害の患者が押し寄せるであろう。外から来た人は、放射性物質を身にまとい、あるいはすでに体内に取り込んでいる。できれば全員をシャワーで洗浄し、服を替えたいところだが、それだけの汚染されていない水があるかが問題だ。万一水道が止まったら、私がひそかに、病院の裏地で井戸を掘っておいたのが、役に立つだろう。
 外来に出ようと、血気にはやる研修医たちを、私が制止する。新型コロナ時代に余ったN95マスク、防護服をもってしても、放射性物質への暴露は防ぎきれまい。放射線が怖いのは、たとえ低レベル被曝でも確率的影響と言って、忘れたころにがんを発生させるなどのリスクがあるところだ。ここは生い先短いわれわれ老人の出番だ。ひよっこどもは下がっていなさい。では、年の順で院長、看護部長、おねがいします。

 畏れ多くて、ここで目が覚めた。

2022.6.11

 
耐寒秘法

 さきの知床観光船の沈没事故で、私たちは海の恐ろしさを、改めて思い知ることになった。
 事故を伝える報道の中で何度も聞かされたのが、人が冷たい海に落ちると、15分から30分で意識を失うという、海難救助の世界の知識であった。海の中で意識を失ったのでは、生存は難しいだろう。人類は驚くべき環境適応能力で、地球上の至るところに住むようになったが、やはり、ラッコやトドとは違うのだ。
 だが、真冬でも半そでシャツで街を歩く人がいるように、冷たい水の中である程度頑張れる人もいるのではなかろうか。その実力はどのようなものだろうか。

 以前私はたまたま、氷漬け耐久競争世界チャピオン(そんな競技があるとは)に生理学実験をさせてもらったという論文(注)を読んだことがある。この人は普通の体格の白人男性なのだが、チベット仏教の「ツンモ (g-tummo)」とかいうヨガに似た瞑想法をマスターしていた。これこそが、チベットの山の上でも凍死せずに修行を続けるための秘法なのだそうである。
 研究者はこの人に、クラッシュアイスの中に首まで浸かってもらい、88分間、体温や代謝などを調べた。するとこの間、皮膚温が下がったのは当然として、中心体温はほとんど下がらず、その代わり酸素消費量すなわち代謝が上昇していた。からだを動かすとか、震えるとかいう目に見える活動なしで、体内で燃料を燃やして熱を得ているようなのだが、どういう理屈によるものなのかは不明である。
 88分間氷に漬かっていても、この人自身はまだ余裕であったが、一応安全のためにここで実験を終了したとこのことである。

 想像を絶する耐寒能力である。この人なら冷たい海に落ちても、数時間耐えられそうだ。もし瞑想しながら泳ぐことが許されるのなら、陸に上がることもできるかも知れない。
 ただし、その日に備えて自分も、ツンモとやらを身につけねば、という気にはなれない。どういう修行が必要かは知らないが、きっと死ぬほど寒い目に会うのに違いない。私は寒いのが嫌いだから、こういう話をしている。凡人としては、じっとしていても意図的に体内でカロリーを燃やして暖を取る、その方法だけ、ちょこっと知りたいのだ。
 私がその能力を手に入れたあかつきには、寒いと思った時に、餅やラーメンを好きなだけ食う。そして、からだのスイッチを自ら入れて、発熱を始める。どう考えても、化石燃料を使った暖房よりもエネルギー効率がよいだろうし、出てくる炭酸ガスも化石由来ではない。たくさん食べても太らない。いいことだらけである。
 もしかしたら、砂漠や熱帯に行って探せば、発汗以外の方法で体温を下げられる秘法も受け継がれているかもしれない。だとしたら、温暖化対策の切り札になるだろう。

 そうやって、自由に体温を上げたり下げたりできるようになれば、人類はもっと楽に生きていけると思うのだが、進化の過程でそのような能力が身につかなかったということには、それなりの理由があったのかもしれない。すぐに暖房や冷房のスイッチを入れてしまって地球の温暖化を招いてしまった現代人のように、体温調節できる突然変異腫はついつい安易に自分の体温をいじってしまい、病気にかかりやすいとか、食費がかかりすぎるとかで、自然淘汰されてしまったのだろう。
 あきらめるのは早いけれども、この能力が、体得するために異常な努力を要する(多分)秘法でありつづけたことには、理由があると考えるべきだろう。

(注)Thermoregulatory, metabolic, and cardiovascular responses during 88 min of full-body ice immersion - A case study. Phyiological Reports 2019;7:e14304

2022.5.28

 
胆のう摘出術

 このところ私の病院では、毎日のように緊急の腹腔鏡下胆のう摘出術が入ってくる。緊急で取らなければならないくらいだから、胆のうは化膿し、腫大し、破裂寸前で、肝臓にべったりくっついており、手術には結構時間がかかる。緊急で入ってくるくせに、緊急には出ていかないところが、この手術の厚かましいところだ。
 それでも手術の結果、外科医がスイカほどの大きさの胆のうをドッカーンと取り出してくれるのであれば、麻酔科医としても多少の達成感は得られようというものであるが、実際に得られる標本と言えば、よくて鶏卵くらい、しばしばズタズタに破れて見る影もなかったりする。
 こんな小さな袋に石が溜まろうが、炎症が起きようが、放っておいたらいいのに、と私などはつい、思ってしまう。そこで、何とかの一つ覚えで、「外科の夜明け」という医学史小説に基づいて、胆のう摘出の歴史を振り返ってみよう。

 胆のう摘出術を初めて成功させたのは、ドイツのランゲンブッフという外科医である。1882年であるから、日本で言えば明治初期である。その時まで人類にとって、胆石とそれによる胆のう炎は、繰り返す激痛発作に苦しみぬいたあげく、いずれは敗血症や腹膜炎を起こし、死に至る病だったのである。
 手足を切り落とすとか、会陰部を切開して膀胱結石を取り出すといった手術は、かなり古くから行われていたが、これらは手荒にやれば短時間で終わる手術だから、麻酔なしでもできたのである。腹腔内の奥の方に収まっている胆のうを取り出すなどという手術は、全身麻酔と消毒法の発明なしでは絶対に不可能である。人類が19世紀末まで待たされたのは、仕方のないことだったろう。

 それから約100年後の20世紀末、私は麻酔科医になったが、この頃、胆のう炎に対して緊急で摘出術を行っていたという記憶がない。当時は、強い炎症を持つ患者にメスを入れるのは危険、というイメージがあったように思う。炎症が収まるのを待って、落ち着いたところで開腹手術が行われていたはずである。その後、腹腔鏡下手術でからだの負担の少ない胆のう摘出が可能になり、麻酔薬が格段に良いものに置き換わっていった結果、胆のう炎は早期(3日以内)に摘出したほうが治療成績が良いことが証明され、21世紀初めからは緊急で行われるようになったようである。

 このように緊急胆のう摘出術は、3つの世紀をまたぐ外科と麻酔の進歩によって初めて可能になった救命手術であり、近代外科の勝利の証なのであった。
 この苦闘の歴史を踏まえるならば、夕方から始まった胆のう摘出術の終わり際、時刻にして午後8時頃、もう一人いるんです、と外科医に言われた時、麻酔科医たる者、明るい声で「やりましょう」と受けて立つことができるはずであるが、我々の人格がその高みに達するまでには、あともう1世紀ほど時間をいただきたい。

2022.5.15

 
咬傷

 人間はいろんな動物に噛まれ、傷を負う。これを咬傷(こうしょう)と呼ぶ。
 手術室に棲息する麻酔科医として、もっとも多く遭遇してきたのはネコによる咬傷である。たいていノラネコに手を噛まれるのがことの発端で、最初はたいした傷ではないが、ネコの口の中の菌が組織に入って増殖し、数日後にパンパンに腫れ上がる。こうなると抗生剤では太刀打ちできず、手術室でしっかり麻酔をかけて、切開排膿しなくては絶対に治らない。
 こういう症例を何度か見てしまった以上、私も麻酔科医の端くれであるから、どんなにおとなしそうなノラネコを見かけても絶対に触らない。左手がドラえもんになってしまっては、喉頭鏡が持てない。

 新卒の研修医に、クイズを出してみた。
 「咬傷のなかでも、ネコはもっともやばい。ネコの他に、感染を伴う咬傷を起こす頻度が高い動物を、あと2つ挙げよ。」
 「まずは、イヌですね。あとはうーん、ヘビとかイノシシとかですか。」
 「イヌは当然あるよね。ヘビやイノシシは確かにありうるけど、頻度的にどうだろう。イノシシのキバに刺された人の手術は、経験あるけど。あと一つの動物、ヒントは、地球上で最も凶悪な中型哺乳類。」
 「わかりません。」
 意地悪な先輩の出すこの手のクイズの答えはたいてい、一周まわって「ヒト科ヒト」に決まっている。ヒトも人間を噛む動物なのだ。社会人になってまだ1か月足らず、からだも脳も力みかえっている新卒さんには、難しい問題だったかもしれない。

2022.4.25

 
昼食の固定

 内田百閒(うちだ・ひゃっけん)という小説家は、昼食にはかならず近くの蕎麦屋のざるそばを取り寄せていたそうである。また、山田風太郎(やまだ・ふうたろう)という小説家は、豚肉でチーズを挟んで焼いたものを一度食べて、そのあまりのおいしさに驚嘆し、これを「チーズの肉トロ」と名づけて毎晩欠かさず食べていたそうである。
 本人たちは、おいしいと思って食べているのだろうが、同じものを食べ続けられる人というのは、美食家とは言えないと思う。ある意味で食への無関心であり、「食べ飽きない」という一種の才能ではなかろうか。

 この才能は、麻酔科医にも欲しいものである。麻酔科医も若いうちは、30分の昼食休憩をもらえるが、年を取れば昼食休憩を与える方の立場になり、自分の昼食時間は短くなっていく。忙しいときは10分くらいだろうか。もう、おいしいとかそういうのはどうでもよくなる。血糖値を上げ、腹持ちするものであれば、それでいい。
 そのような状況なのだから、昼食はもうこれでいいと固定することができたなら、食事時間やお金の節約になり、メニューを考える手間も省けるだろう。日々の仕事の完遂のみを目指すのが真の麻酔科医というものならば、自然にこうなるのではないか。そして、他の仕事はよく知らないが、これはあらゆる現場労働についても言えるのではないか。上記の例を見ると、小説家というものも、ある種の現場労働者なのかもしれないと思う。

 私は一時、焼き芋こそが理想の昼食と考え、ほぼ毎日焼き芋を食べていた。周囲の冷たい視線は気にならなかったが、そこは凡人の悲しさ、やがて飽きてくるのであった。次第にコーンフレーク、サンドイッチ、おにぎりなどへと関心が拡がっていき、結局その日の気分と状況で昼食を選ぶという、情けない状態に戻ってしまった。真の麻酔科医になるのは、私には無理だった。
 いや、昼食に変化を求めるのは普通でしょ、と思ったあなた、それは甘い。昼食が完全に固定した真の麻酔科医は存在する。

 私の知るある麻酔科医は、3年ほど、毎日同じ業者の弁当を食べていた。それがある日、カップ麺に変わり、毎日かならずカップ麺を食べていた。ある怖いもの知らずの研修医が思い切って、毎日カップ麺で大丈夫なのかと尋ねたところ、「カップ麺が悪いと、誰が決めたんですかね?」が答えだったそうである。4年ほど経って、これが何の前触れもなく、菓子パンに変わった。今も毎日、棒状のパンを端からポリポリかじっては咀嚼し、嚥下している。(どうしてこんなによく知っているかは、問わないでいただきたい。)
 この鉄壁な固定ぶりを見よ。この人は仕事も完璧で、私はひそかに「麻酔職人」と呼んでいるが、その臨床能力と固定昼食に耐える力とが、体内の深いところで関連しているのではないかと思っているのだ。

 いつか、真の麻酔科医の真の昼食についてくわしく調査し、学会発表してみたいと思っているが、標本数が1しかなく、その1も本人の許可が出るとは思えないので、こういう形でこっそり世に問う次第である。

2022.4.3

 
奇跡の3日間

 去年の12月、新型コロナの感染はすっかり下火になり、もうさすがにコロナは終わるだろう、と私も思っていた。しかし、やつらはまた来た。オミクロン株を主体とする第6波である。よろしい、コロナは永遠に終わらない、と思うことにしようではないか。そうすればあちらも油断して、もうさすがにコロナは終わるだろう。

 さて先日、コロナの関係でうちの麻酔科スタッフがひとり、10日間の自宅待機に入ってしまった。手術を減らしてもらいたいところだが、外科系の医師たちは、だからといって自分の手術を中止しようなどとは誰も考えない。実際、がんや骨折など、どうしても必要な手術なのだ。何とかやりくりしていたが、とうとう、明日は手術の数が完全に麻酔科の能力を超える、という事態になった。
 だが、心配はない。私はこれまで麻酔科部長として、こうした絶体絶命の危機には何度も直面したが、そのつど大小なんらかの奇跡が降って湧いたのだ。ただ予想外だったのは、今回の奇跡がほかならぬコロナからもたらされたことであった。

 今回のコロナ感染の波では、小児を中心に家庭内で濃厚接触者が多数発生した結果、当院の看護師も数十人が出勤停止となった。そこで、足りなくなった看護師の配置を調整したところ、集中治療室を一時閉鎖せざるをえなくなった。すると何ということか、集中治療室をローテートしている研修医が、仕事がないので麻酔科で2度めの研修をしたいと申し出てくれたのである。
 彼が手術をひと枠担当してくれたおかげで、例の一日の問題は、公式を偶然思い出した中学生が解く方程式のように、さらさらと解決していった。奇跡に慣れた私もさすがに感極まり、彼にこう言った。「手伝ってくれてありがとう。麻酔科を救ってくれたお礼に、この手術室にいつか先生の銅像を建てることにする!」
 この研修医の活躍はそこでは終わらなかった。次の日には彼にとって久しぶりの脊椎麻酔を見事成功させ、2つ目の銅像をゲットした。その次の日は始業前に舞い込んできた超緊急手術をイヤな顔せず担当してくれ、3つ目の銅像を約束されたところで、翌日から集中治療室が復活するという知らせが来た。

 奇跡の3日間の終わり、研修医が麻酔科離任の挨拶に来た。
「明日から集中治療室に復帰します。銅像、何個までいけるかと楽しみでしたが、3つで終わりでしたね。」
「うん、3つでよかった。正直、4つも5つもとなったら、どうしようかと心配だった。」
 あとは、彼が銅像のことを忘れてくれる、ささやかな奇跡を待つのみである。  

2022.3.12

 
冷え性麻酔科医のためのカイロ活用法

 この冬私は、突如「カイロ愛」に目覚めた。理屈で考えるならば、あの程度の熱量で、30-50リットルの水のカタマリである人体の温度を上げられるわけがないが、「血流を失った手を温め、冬の苦しみを和らげる道具」であると考えれば、かなり有用なのではないか。
 そういうわけで、冷えに苦しむ麻酔科医のカイロ活用法についての研究成果をまとめておきたい。

  1.  私が中学生の頃、母から買い与えられたのは、木炭の棒のようなものを使うカイロだった。これに火をつけると、線香のように端からゆっくり燃えていくのである。カイロは、漢字で書くと「懐炉」であるが、まさにフトコロに炉が入っていたわけである。
  2.  今は木炭カイロなどどこにも売っておらず、使い捨てカイロの独壇場であるが、持続可能性を求められる時代にあって「使い捨て」というところに引っかかる人も多いのではないか。そのような人のために「ハクキンカイロ」がある。これはずっと昔からあるもので、ベンジンを白金の触媒作用でゆっくりと酸化させるのである。少しベンジン臭いのが欠点であるが、熱さ、持続時間に関しては使い捨てカイロよりはるかにまさる。もちろん本体も、白金も半永久的に使える。
  3. カイロ  このカイロを店頭で見ることはほとんどないので、あっさりネット通販で注文したほうがいいでしょう。

  4.  ハクキンカイロの説明書には、火の消し方は書いていない。ベンジンがなくなるまで放置しておけ、ということである。しかし出勤したあとただ職場の机の表面を温めさせておくのももったいないし、ベンジン臭いし、気になる。そこで気密性の高めなビニール袋に入れておくと、酸素不足によりまもなく火は消える。帰宅する時にまた点火すればいい。ちなみに使い捨てカイロも、もとの袋に戻して封をすれば、一旦反応が止まり、袋から出せばまた温かくなる。ケチケチ人間がニッコリする瞬間だ。
  5. 袋  この袋の中には気化したベンジンが充満しているので、気をつけてください。

  6.  ハクキンカイロに点火するのはマッチかライターで、ということになっているが、こういうものを職場で使うのは心配だ。電子ライターといって、電極から火花を飛ばすものが便利で安心だと思う。
  7. スイッチ  これもなかなか店では売ってない。

  8.  手術室も、けっこう寒い。術者の好みや体調によっては、手やからだが冷えて仕方がないことがある。しかし、火気厳禁の手術室にハクキンカイロは持ち込めない。そういう時は、私が開発した手術室専用湯たんぽ(写真)に、電気ポットのお湯を入れるとよい。手術中の患者さんを温める手段(保温庫の輸液など)を自分用に拝借することもあるが、やけどを恐れてぬるいものばかりだ。その点、自分専用だから思い切った熱さにできるところが、この湯たんぽのいいところだ。100℃でも物足りないようであれば、煮えたぎったてんぷら油を入れるとよいだろう。
  9. スイッチ  この特製湯たんぽを欲しい方があれば、一つ1万円でお分けしたいと思っています。

2022.2.20

 

 2月半ばにさしかかっても、まだまだ寒い日が続いている。
 私の場合、寒い日にジョギングすると、手が冷たくてしびれるのがつらい。いくらからだが温まり、うっすら汗をかいたとしても、手だけはどうしても温まらない。こういうのを冷え性というのだろう。

 手の循環は、かなり複雑である。皮下に動静脈吻合というのがあって、これが開いているか、閉まっているかで皮膚の血行が大幅に変動する。足と顔も同様であり、ヒトは手足と顔の血流を変化させることで熱の放散量を調節し、体温を管理しているのである。
 寒いときに手の皮膚の血流が低下するのは、体温維持のために有用であるが、手がしびれて痛いのは困りものだ。とくに、走っていてからだが温まっているのであれば、手の温度が上昇して少々熱を逃してしまっても問題はないはずなのに、私の場合はそうはならない。これではとても、袖なしシャツで正月の箱根駅伝を走る気にはなれない。

 寒くても手が冷たくなりにくい人もいる。これは寒冷血管拡張反応のおかげである。
 冷たい水で手を洗っていると、そのうち手がかえって温かくなることがある。顔に冷たい風が当たり続けると、かえって顔が火照ってくることがある。これが寒冷血管拡張反応である。手や顔が冷たさに晒され続けると、凍傷をふせぐために動静脈吻合が開くことによると考えられている。
 寒冷血管拡張反応のよしあしには先天的要素が大きく、寒さに強い民族や個体ほどこの反応がしっかりしている。訓練や根性では、私の手のしびれは治らないもののようである。

 こうなったら仕方がない。温まらないのであれば、温めるしかない。先日、使い捨てカイロを手に持って走ってみた。こういう年寄りくさいことを堂々と行えるのが、年寄りの特権である。なかなか快適だった。
 カイロさえあれば、私でも箱根駅伝を走れるのではないかという自信が湧いてきた。

2022.2.11

 
お見舞い

 新型コロナの影響で、病院の何が変わったかと言えば、「お見舞い」である。感染防止のために、患者への面会が大幅に制限されてしまった。家族でさえ、ほとんど病室に入れないのだから、ただの知り合いというくらいでは、病院に入ることもできない。
 今、病院のエレベーターはガラガラだ。病院の売店、食堂は売上が減って大打撃を受けているだろうが、肝心の患者さんはどうなのだろうか。精神面でダメージはないのか、それが治療成績に影響の出るようなことはないのだろうか。

 私がかなり昔読んだアメリカの論文だが、ICU(集中治療室)の患者の家族の「お見舞い」に関して興味深いものがあった。
 ICUにいるくらいだから、患者はよくてもグッタリ、悪ければ死線をさまよっている。論文によると、患者と見舞い客が白人系だと、患者の重症感に合わせて静かなお見舞いになる一方、ヒスパニック系だと患者そっちのけでわいわいがやがや、賑やかなお見舞いになるのだそうだ。で、どっちのほうが患者の予後(治り具合)がいいかというと、断然ヒスパニック系だという。
 しかし、お見舞いのにぎやかさと、患者の予後との因果関係を、そう簡単に証明できるものだろうか。ヒスパニック系の患者さんの回復力が強いだけかもしれない。正直言ってこの論文は、ちょっと怪しい気がする。 ただ、話としては面白い。患者の魂がそろそろあちらの世に鞍替えしようかと思案中、足元で楽しそうにしている家族に気を取られ、うっかりこっちに戻ってきてしまう光景が目に浮かぶ。

 さて、かくも頼もしい見舞い客は、誰なのか。家族とは限らない。高齢の入院患者のキーパーソン(第一連絡先)が、疎遠になった息子ではなく、近所の友達、というのも、よくあることだ。
 手術を受ける患者が、何があっても家族には連絡しないで欲しい、と言ってくることもあれば、やっと連絡の取れた娘が、「死んだら連絡ください、ガチャッ」となることもある。それが現実である。遠くの親戚より、近くの他人、とはよく言ったものだ。

 今、コロナのせいで、手術を受ける人、ICUで闘病する人にも簡単にはお見舞いできなくなった。しかし、そこにいない誰かが心配してくれている。それだけで本人は背中を押してもらえるし、われわれ病院のスタッフは、お尻を押される思いである。

   私は去年9月、突然軽いネタ切れを起こし、このブログのようなものをちょっと休むことにした。そのちょっとが、4ヶ月続いたのであった。ただ、それに気づいた人は、日本で3人くらい、世界でも2人くらいだろう。今もネタ切れ感は続いており、今後どうなるかわからないが、こんなものがどうなっても、どうでもいいような気はしている。

2022.1.23

 

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