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奈良ウルトラウォーキング |
今年1月、私は2回目の100キロウォーキング大会に参加した。前回は大阪だったが、今回の舞台は奈良県である。奈良公園の鹿たちに見送られて出発し、石舞台古墳とか法隆寺とか、多くの観光名所に立ち寄りながらもひたすらスルーし、ただただ歩いて奈良盆地を一周するコースである。 走ってはいけないというのがルールであるから、100キロとなると、徹夜は必至である。 若者ならば、こういうイベントで新たな出会いを期待するのかもしれないが、私も、まわりもみんなおじさんで、もはやおじさんの祭典である。今さらおじさんと出会ってもなあ、と思うのだけれども、私はおじさんと出会ってしまった。 夜も更けようという頃、 60キロあたりの地点で、私は道に迷いかけ、近くの参加者と一緒に大会が設置した道しるべを探すことになった。で、それきりその人と連れになってしまったのである。 私はあまりおじさんには興味がないので、スピードを上げて振り切ろうとしたり、疲れてついていけないフリをしようとしたが無駄だった。「ここまで来たら、最後まで一緒に行きましょうや 」というのである。 聞けば、私と同じ62歳、公務員の仕事は定年でやめ、毎日散歩三昧、ときどき仲間とコースを設定し、夜まで歩いてそのまま飲み会、かつ、月に1回はこのような大会に参加して歩きまくっているのだそうだ。 よくしゃべる人で、聞きもしないのに、生い立ち、家族の話、あれやこれやの趣味の話、これまで参加したウォーキング大会の思い出話、全部語ってくれた。私は相づちを打つだけでよく、そういう意味では気楽な道中であった。 とにかく元気なおじさんで、せっせと歩くスピードが、明らかに私のペースより速く、ついていくのに苦労したが、おかげで前回の自分の記録を大幅に更新し、約19時間でゴールすることができた。 ウルトラウォーキングに2回参加して思うのは、これはただ長時間歩くだけの退屈な娯楽ではない。60歳過ぎてこういうことをすると、危険がいっぱいなのである。 迷子になって気がついたらアフリカにいる自分を発見する危険、大や小をおもらしする危険、行き倒れて無縁仏になる危険、池に落ちて行方不明になる危険、草木も眠る丑三つ時、何かに出会ってしまう危険、などなど、F1レース顔負けのスリルが満載、のるかそるかの大冒険と言っていい。私の場合、出会ったのが人なつこいおじさんだったのは、幸運だった。 日頃、刺激がなくて困っている人がいたら、ぜひお試しあれ。(ただし、夏はいけません。) 2025.7.5 |
抜管 |
集中治療室において、「抜管」は一大行事である。人工呼吸を受けている患者さんから呼吸器をはずし、気管チューブを抜く作業であるが、その人が本当に呼吸器なしでいけるのかどうか、確実に予測する方法はない。つまるところ、抜管してみなければわからない。 あるベテラン麻酔科医は、研修医から「どうなったら呼吸器からの離脱が成功しますか」と聞かれ、「集中治療室退室の前日になったら、です」と答えた。それほど難しい。 術後呼吸不全のために人工呼吸を受けている患者さんについて、集中治療担当の研修医と話し合った。 「この方、気管挿管、人工呼吸を始めて1週間になりますが、そろそろ抜管はできそうでしょうか」 「胸のレントゲン写真も、酸素化もよくなってるし、もう抜くしかないよ」 「痰が多いので主治医が心配していますが」 「抜管はね、結婚と一緒なんですよ。盛り上がっているうちに、勢いでやるもんなんだ。少々の欠点には、目をつぶらないと、いつまでたっても結婚なんかできない。やってみてダメなら、別れたらいい(再挿管すればいい)」 「なるほど、自分の友達にも、結婚して早くも別れた人が複数います」 「もっとも、別れないで続いている夫婦が、幸せだとは限らないから、勘違いしないように。あくまで一般論だけど」 どういうわけか、ここだけ声が低くなってしまった。 「勉強になります」 話を合わせるのがうまい奴である。 2025.6.15 |
歯科医最強説、その2 |
このブログのようなもので最近、歯科医と仮想バトルを繰り広げたあと、私は2週間くらい歯痛に苦しんでいる。歯の神を怒らせてしまったのかもしれない。 思えば前々回、「8000運動」(80歳で歯がゼロ)を提唱したのはまずかった。 こうなったら仕方がない、ここらで歯科医の先生方を持ち上げて、歯の神のご機嫌を取っておくことにしよう。(歯の神と歯科医の関係が良好だと仮定する。) 吸入麻酔を発明したのは麻酔科医ではない。麻酔科医は、麻酔が発明された後に発生したのだから、当たり前である。エーテル麻酔を発明したモートン、それより一歩早く笑気麻酔を発明しながら、生きている間は報われなかったウェルズは、いずれもアメリカの歯科医であった。逆に言えば、歯科医自らが麻酔を発明しなければならないほど、当時の歯科治療は恐怖と悲鳴で血塗られたものだったのだろう。歯科医が昔から最凶、じゃなかった最恐、いやいや最強であったことの、動かぬ証拠である。 もし病院勤務の歯科の先生が、めんどくさい麻酔科医ともめごとになったりしたら、こう言ってやるといい。 「誰のおかげで仕事ができていると思っているんですか。吸入麻酔を発明したのは、歯科医なんですよ」 ただ、そのいやみな麻酔科医は、「麻酔を発明したのは、先生(お前)じゃないですけどね」と言い返すはずだから、その先の戦い方は、ご自分で考えておいていただきたい。 前回私は、「口をむりやり開けさせることのできる歯科衛生士」に言及したが、そんな技はあるのだろうか。 鼻をつまんでも無駄である。 歯をくいしばったままでも、口呼吸は可能なのだ。 かつて麻酔科に研修に来てくれた歯科医のP先生が、Kポイント刺激法というのを教えてくれた。何でも、知的障がい者や認知症のご老人など、歯科治療を受けつけない人たちの口を開けるときに、歯科医や歯科衛生士がこの方法を使うのだそうだ。 やり方は簡単である。歯ががっちりかみ合っていても、 一番奥の歯のその奥には、上下の歯ぐきに隙間がある。その隙間に人差し指をすべり込ませ、下顎側の歯ぐきをぐいっと下に押す。やる人がやれば、口がパカッと開く。 麻酔からの覚醒時、口の中の分泌物を吸引しようとすると、まだしっかり覚めていない患者さんが歯を食いしばることがあるが、P先生がKポイントを刺激すると、必ずパカッと口が開くのであった。私もやってみるのだが、必ずしもうまくいくわけではない。 何か、言葉で説明できないコツがあるのだろう。よいものを見せてもらった。この技とドリルがあれば、天下を取れるはずだ。 ゴールデンウイークと、その後の手術の殺到時期が過ぎて、ようやくかかりつけの歯科医院で、痛い歯の治療を受けることができた。これが江戸時代だと、この痛みに終わりがなかったのだと思うと、ぞっとする。歯の神とは、普通に歯科医のことかもしれない。 2025.5.25 |
歯科医最強説 |
歯医者さんが怖すぎて、歯の治療がどうしても受けられない人たちがいて、歯科治療恐怖症と呼ばれている。こういう人たちに歯の治療を行う場合、全身麻酔になる。私たち麻酔科医も、そういう適応での全身麻酔をよく担当する。 この人たちは、決して心が弱いわけではないと思う。口の中にドリルを突っ込まれることに耐えられないというのは、ごくまっとうな感覚である。痛くても、痛いと言えない。動きたくても、動けない。動くと、ドリルがどこに刺さるかわからない。私たちにできるのは、全身を硬直させることだけだ。 歯科の他に、たとえば皮膚科恐怖症とか、泌尿器科恐怖症とかいうものが、存在するだろうか。歯科だけが、広く人民の恐怖の対象になっているのである。 かつて私はここで論じたことがあるが、病院内で各科が自分の商売道具で武装し、実力で覇権を争った場合、整形外科が最強であることは間違いない。しかし、ドリルを持った歯科もまた、頂点を狙えるダークホースの位置につけていると思う。 もしここに、どんな状況でも人の口をパクっと開けることのできる歯科衛生士がいたとして、歯科医とタッグを組めば、たとえ屈強な整形外科医も電気ノコギリを捨てて降参するだろう。 ここまで、歯科医が悪役レスラーみたいになっているが、それは誤解というものである。かねがね思っているのだが、現代の医療者たちの中から一職種だけ、江戸時代にタイムスリップするとしたら、一番喜ばれるのは歯科医ではないだろうか。 江戸時代では、感染症、胃潰瘍や虫垂炎からくる消化管穿孔などで、数日前まで元気だった人が急死していったのであろうが、さすがに日常茶飯事のことではなかっただろう。一方江戸時代には砂糖が普及したため、齲歯(虫歯)で苦しんだ人が多かったのである。無限に続く虫歯の痛みをとってくれるのであれば、ドリルも我慢する、何でも差し出すという人は、当時あふれるほどいたのではなかろうか。 また、野生動物は年を取って歯を失ったら、もう死ぬしかないのであるが、現代の人間でも歯の状態が健康にかなり影響すると言われている。江戸時代の人が歯を失えば、露骨に寿命が縮んだことだろう。 江戸時代に現代の歯科医を100人ほど送り込んだとしたら、彼らが軽減する痛みの総量と、延長する寿命の総年数は、他の職種に比べてダントツに多いのではないか。あまり根拠はないが、私はそう思っている。 江戸時代に行けば、最も役に立たないであろう麻酔科医が言うのもなんだが、歯科医は最強である。今、弱り目に祟り目のフジテレビが、性懲りもなく救急外来で大暴走するスーパー救急医のドラマを放映しているが、CTも撮らずに意識のない人の頭に穴を開けるシーンはもう見飽きた。こんなものを作る暇があったら、社運をかけて、歯科医を主人公にしたほうがいい。冴えない風貌の中年歯科医が実はスーパー歯科医で、ドリル1本ですべての病気を治し、傾いた病院経営を立て直し、世界中の独裁者を退治するのである。 2025.4.26 |
歯コンプレックス |
麻酔科医は、あまり歯が好きではない。気管挿管するときに、声門を見ようとする麻酔科医の視界を妨げるからである。邪魔なだけならまだいい。中にはシイタケを噛んだだけで落ちそうな、ぐらぐらの前歯が我々の前に立ちはだかることがあり、「挿管の時、ぼくを傷つけたら許さないからね」と主張するのである。いやいや、これでは好きになれというほうが無理である。 術前診察をするとき、患者さんの歯を見せてもらうのであるが、一番うれしいのは正直、歯がぜんぜんないことが分かった時である。(私だけか?)思わず、ありがとうございます、と言いたくなるが、失礼だから言わない。 患者さんがある程度のご高齢であれば、歯の見た目がどうであろうが、術前診察の際に「麻酔のために折れる可能性がある」と説明せざるを得ない。どんなに気を付けても、喉頭鏡による歯の圧迫は避けられず、脱落することがあるのである。 それを聞くとたいていの患者さんは、驚いたり、心配したりするものだが、中には肝の据わった人もいて、「それはもう、その歯の運命です。文句なんか言いません。」と言い切ってくださった。心の中で手を合わせる瞬間である。 歯に対して、複雑な感情を抱いているため、麻酔科医の術前診察録への記載も、ついついぞんざいになる。(私だけか?)それに対し、かつて麻酔科で研修していた若い歯科医から突っ込まれたことがある。実際にはささやかな指摘であったが、その心の声を私なりに翻訳してみると… 術前用紙のここ、「歯なし」とか、「総入れ歯」とかじゃなくて、医学用語でお願いします。「無歯顎」のほうがいいですね。 で、この「前歯は自分の歯」って何ですか。ちゃんちゃらおかしいんですけど。歯は、自分の歯に決まってるから、「歯」でいいでしょう。自分の口の中に他人の歯が生えてたら、気持ち悪いですよね。 あー、差し歯じゃないという意味だったんですか。「差し歯」より「クラウン」のほうが医者っぽいですけどね。 なるほど、勉強になります。と言った私の心の声は… 歯科の先生はよく、「8020」(80歳でも歯が20本保てるようにしようという運動)と言いますけど、接着剤のゆるんだ古い差し歯とか、ぐらついた自分の歯ばかり20本並んでいても、麻酔科医は苦しいばかりなんですよ。そんなこと言うんなら、こちらは「8000」運動始めますよ、それでもいいんですか。 麻酔科医と歯科医が本音で歯を語ると、ややこしいことになる。お互い、歯にキヌは着せたほうがよさそうである。 2025.3.22 |
子の名前 |
子が生まれたら、親が名前をつけてやらなくてはならないわけだが、私と妻にとってはこれが、けっこう苦しい仕事だった。一生ついて回るものだから、よい名前をつけてやりたいが、子にとって何がよいのか、まるで見当がつかない。赤ちゃんが生まれたら、顔を見ればひらめくかも、と思ったが、見ても何も浮かばない。 名前に親の願望を盛りこむのは、考えものだと、もともと私たちは思っていた。名前が立派すぎると、よその子はどうか知らないが、自分たちの子にはきっと重荷になるだろう。それに私と妻のどちらに似ても、ひねくれ者になるのは確実だから、つけた名前の反対側に行ってしまいそうな気がする。 結局、二人の子には、自分がどっちに向かって育ったらいいのか分からないよう、方向性のないありふれた名前をつけてしまった。それでよかったのかどうか、今だにわからない。 親の願いが込められた名前には、意外なものもある。 戦前生まれの高齢者には、「末子(すえこ)」、「留吉(とめきち)」など、古風な名前を持つ方がおられる。まず間違いなく、子だくさんの家に生まれた、だいぶ下の方の子どもである。若い人は知らないだろうが、これは、親の願いがこもった名前なのである。子どもはもう十分こしらえたから、そろそろお前で最後(末っ子、打ちどめ)になってほしい、という願いである。 おいおい、そんな願望を子どもの名前につけてどうするよ、と突っこみたくなる。何とも大ざっぱな話である。 ちなみに、そういう名前の人には、たいていもう一人か二人は、年下の兄弟がいるものだ。 昔聞いた話では、チベットでは子どもに、「馬のくそ」みたいなイヤな名前をあえてつけるのだそうだ。すると子どもをさらいにきた死神が、何だつまらない、と通り過ぎていくから、丈夫に育つという。大人になってから、自分で好きな名前をつけ直すのである。 「末子、トメ子、留吉」にも、今どきのかっこいい名前にも、親の愛はそれなりに注入されているのだろうが、「馬のくそ」に勝る愛はなかなかないだろうと思う。 2025.3.2 |
説明と同意 |
医師が患者さんに、治療の内容や経過を説明することは、治療そのものと同じくらい重要である。昭和のころはこれを「ムンテラ」と称していた。ドイツ語の "Mund Therapie" を略したもので、直訳すると「口で行う治療」ということになる。何か、口先で患者さんを丸め込む、という誤解を招きかねない表現であった。今はインフォームドコンセント(IC)と言うのだが、私が思うに、わざわざ英語を使わなくても、日本語で「説明と同意」、略して「説明」でいいんじゃないだろうか。 姉が腸の手術を受けることになったので、私は仕事を一日休み、外科医による手術の説明を、外来で姉と一緒に聞くことにした。私は麻酔科医として、毎日患者さんに説明をしているが、患者側に立って手術の説明を受けるのは、初めてである。 外科の主治医は30代と見られる女性であった。これは吉兆である。今、医学界で話題になっているが、女性の主治医のほうが、内科系でも外科系でも、治療成績がよいという研究結果が出てきているのだ。これが逆だったら怒られるから言えないが、主治医が女性だったのはラッキーだったとは、堂々と言える。 女性外科医は、男性の多い職場で働く女性によく見られる、非常にきびきびした感じの人で、説明は10分くらいで終わった。素人の姉にしてみたら、話が速すぎて消化不良だったと思うが、同業者である私から見れば、これも吉兆である。 私の経験上、手術の速い外科医は、手術の説明も速い。麻酔科術前診察のために病室に行ったとき、外科医の説明が終わるまで待たされることがあるが、もう説明が終わったの?と思わされるのは、手術の速い先生の場合が多いのだ。 短かすぎる説明は、患者さんにとって必ずしもよいとは言えないが、手術が速いというのは、その欠点を補ってあまりある。腕のよい外科医はほぼ必ず、手術が早いからである。 姉にはあとで私から、説明を補っておいた。 説明の途中、主治医の院内PHSが鳴った。私はうっかり、自分のポケットに手をやってしまった。自分のPHSが鳴ったと、私の手が勝手に勘違いしてしまったのである。最初に、自分は麻酔科医であると挨拶していたから、主治医も何が起こったかを察したらしい。二人で同時に、苦笑いである。 手術当日は、もう立ち会う必要はないかなと思っている。 2025.2.16 |
名前を呼ぶ |
去年あたりから、われわれ病院職員がつける名札から、下の名前が消え、名字だけになった。交通機関、飲食店など、不特定多数の人と接する職場では、だいたいそうなっているようだ。フルネームを知られてしまうと、SNSなどインターネットの上で特定され、攻撃を受けやすくなるらしい。 名前は、知らない人に簡単には教えない方がいい、重要な個人情報というわけである。 ただ私は、名前には、個人情報であるという以上のものがあると思う。名前はその人の分身であり、それを知る、覚える、呼ぶ、叫ぶといった行為は、それだけでその人の本体に働きかける作用があるのではないか。 たとえば、昔ばなしの「大工と鬼六」では、橋をかけてやった代わりに目玉を寄越せと迫る鬼が、大工に「おい、おにろく」と名前を言い当てられて泡になる。 神林長平(かんばやし・ちょうへい)のSF「完璧な涙」では、正体不明の戦車が時空を超えて主人公を追尾し、問答無用で攻撃してくるのだが、やはり秘密にしていた名前を呼ばれて、その完全自動報復を永久に停止するのであった。 相手の名前を呼ぶことの呪術的な効果を暗示する話である。 麻酔科医は、麻酔で眠っている患者さんを起こすとき、その名前を呼ぶ。名前を呼ぶと、早く起きてくれるなどの実利的効果があるのかどうか、それはわからない。患者さんの方も、「名前を呼ばれて目が覚めた」ことを覚えている人はほぼいない。しかし、名前を呼ばないで起こすというのは、味気なさすぎて、なかなかできるものではない。 麻酔からの覚醒とは、手術中、生き物として生きることに専念していた患者さんが、人に戻ることである。麻酔科医は患者さんの名前を呼ぶことでここに帰ってきてもらい、人と人との関係に戻る合図にしたいと、無意識に願うのだろうと、私は思っている。 2025.1.18 |
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