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𠮷岡生夫第7歌集。2010年12月20日、ブイツーソリューション発行。定価1,000円(本体価格)。体裁四六版。112頁。1頁2首組、歌数180首。付論「文語体と口語体」14頁。 「和歌と狂歌と短歌、五句三十一音の定型詩は名称を変えつつ時代の波をくぐり抜けてきた。そこには先行する五句三十一音詩の衰退があり、それを受けた復活劇があった。/ただ明治に入って散文の世界では言文一致運動が成果をあげるが、短歌の世界は少し事情が異なっていた。王政復古による揺り戻しは国歌大観を生み、文語体のスタンダード化が推し進められた。しかし今その文語体が綻びを見せているのは付論で眺めたとおりである。/ともあれ私の口語体への参入は第八歌集に持ち越されることになった。/グッド・ラック! 吉岡生夫。グッド・ラック! 草食獣。」(「あとがき」より) |
目次 | 草食獣 第八篇 |
付論 文語体と口語体 | |
あとがき |
セピア色した写真に あたたけく包みぞくれし若き日の父とおもひぬ母とおもひぬ |
啄木の記念館まだ見えてこずバス走らねど車の多し |
渋谷のバス停にある時刻表みのがさずしてシャッター押しぬ |
ペコ餅のしろきはだへに彩色のあかとみどりの花さくところ *初句「べコ餅」 |
無間地獄血の池地獄ひとをらぬ賽の河原を連れ合ひとゆく |
地蔵尊ひをへてお地蔵さんとなりときへて異形のけはひを宿す |
アルミ貨に黄銅貨まじり青銅貨ちらばる地蔵尊のあしもと |
定番の個食コンロにあをいろの固形燃料もゆ湯の宿の膳 |
金瓶(かなかめ)のバス停もまた忘れずにシャッター押して先を急ぎぬ |
吉相の墓とは白き花崗岩わかどしよりの講釈つづく |
高野山奥の院には正座してひとをむかふる福助のはか |
かゆき目を掻かむとするに老眼鏡かけてしあれば指はとまどふ |
「じんぼ」町うたがはず来し地下鉄に「じんぼう」町のアナウンス聞く |
不忍池にドラマのあることを鴨に見てをり傘さしながら |
鴨なれば鴨胸やはらかさうなむね押し合ひへしあひ求愛ならず |
いづかたの辺にこそ散らめ敗れ来し鴨の歩みは翁のごとし |
「ふなばし」を関西人は「ふなはし」と読むてふ会話ながれきにけり |
ロープウェイにのる幽霊譚おそらくは樹下山人の著書にありたり |
いくたまの神社の森のかなたにはローマ建築なすラブホテル |
中正国際空港に降りてまづわがなしたるは洗盥の用 |
ところかはればジャンボ線香三本を持ちて祈れる台湾のひと |
褪せたるをひとはよしとふ日本に比して金地のかみほとけたち |
あの世またいちばん大事なものとして紙銭は積まる供物の台に |
儀仗兵は動くことなし動かざることを任務として立ちゐたり |
生きてゐるにんげんのゆゑ儀仗兵のうしろに大き扇風機あり |
台北凱撒大飯店で一時間先のNHKニュースを見たり |
コンビニは便利商店コンビニとの違ひは冷えてゐないドリンク |
くみとりのにほひにややもにるところありて夜市の雑踏をゆく |
輪廻車を回して止まる六道に一喜一憂する銀山寺 |
をとこらの専用車両あらばこそこころやすかれあしたゆふべに |
ひのくれを電車すぎたり踏切のそばにいつより立つ地蔵尊 |
男にうまれてきたるよろこびはヘア・トニックを髪にふるとき(『草食獣・勇怯篇』) 男にうまれてきたるかなしみはヘア・トニックをふる髪のなさ |
ひねもすをひとなく消波ブロックに波の花ちる沖ノ鳥島 |
絵手紙は氷かき機がけずりゆく音の涼しさ盛らるるところ |
絵手紙の麦藁帽子をさなくて赤くなりゆくかき氷待つ |
朝日子のとどく和室にまぶしとぞ坐る睫毛のなき妻の顔 |
夢を見るやうな瞳のヨン様の視力は零点なにがしならむ |
通はざることはたとせに余りあるパチンコ店の楽威勢よし |
人が名を残す事例にトカレフといふ名の銃が人を殺しぬ(『草食獣・第五篇』) 死後に名を残す事例のまたひとつドイツ人医師アルツハイマー |
したながき吉野屋のよしこだはりの牛丼たべてみたくなりたり *二句「吉」の上は「土」 |
釣りをせず将棋を指さずゴルフせず付き合ひに悩むことなき無職 |
親しみしへのへのもへのよく似たるへのへのもへじは盗人なりき |
フラッシュの焚かるるなかをあらはれてばつ悪からう深々と礼 |
芸術の名をいただかずスミソニアン自然博物館の生人形 |
いきにんぎやうの首あり手あり胴なくてばらばら事件の現場なすさま |
三階のホームへ昇る京橋のエスカレーター左整然と空く |
定期券もたざるわれは列をなす自動券売機に並びをり |
NHKのスポーツニュースは取り上げることなしK―1に立つ曙を |
あしわざに出足払ひありまた小内刈りありキャリーバッグのうしろ |
横笛を吹く迦楼羅(かるら)王に翼ありいまをときめくキャラクターの感 |
花束を手にしてわれはふかぶかとひかるあたまをさげてをりたり |
きもちよしきもちよしとぞ風呂桶は声あげるべし朝の掃除に |
逃げしとふ八丈島のキョンはいま海岸線の夕映えにゐむ |
ことばうまれことばほろびむさはいへどバージンロードに祝福のあれ |
優があり良あり妻のよろこぶといへども娘のやつぱり無職 |
わが歩む速度は人に劣るらしひとり追ひ越しゆくまた一人 |
みちばたに犬はくそまる自由あり朝朝おのが飼ひ主つれて |
食べたくもなき釜飯の匂ひして新幹線は米原を過ぐ |
朝まだき声はすれども樹にすがたかたちもあらず蝉は忍者だ |
はごろものそらへ翔ちたる蝉ながらいま腹みせて蟻がたかれる |
歯ブラシを銜へて立ちぬ鏡には鉄腕アトムのやうな髪型 |
はいてこし靴あり右の足いれて左の足をいれる酔漢 |
酒のんで帰る車中の点検は「一、セクシャルハラスメントなし」 |
のどみせるために用なき舌を出す舌先三寸とはいかぬ舌 |
実篤の仲良きことは、よこならぶをみなの道を譲ることなし |
正面をつかうか横にそれようかサラリーマンのよこならびくる |
舌圧子もちひて医師がのぞきこむをみなののどにあるのどちんこ |
つね右にすわる座席を変へしかば進路も逆のごとし京阪 |
となりにはすわらないでといふやうに鞄を置いてゐる二人がけ |
ひとりごとやまざる客とあいてゐる席をふたつにして遠ざかる |
爪を切る要なき犬のねそべれり爪をとばして爪きる主人 |
グライダーのやうに滑空する鷺の白きつばさを土手よりみたり |
竹島が独島になる百年を冷静に冷静に待つてゐるのだ |
痛風の足をかばへば空にむけ開く傘をも杖としたのむ |
足引きの山田の駅の構内にエレベーターのあるありがたさ |
あしといひよしといふとも歩けねば難行苦行の階段ぞかし |
駅からのわが家が遠し横歩く蟹のやうにも泡吹きながら |
あごをひいて釦をとめてまぶしめり履歴書に貼る写真のために |
焼酎の一升瓶が十日へてまだあることをほめられてゐる |
霊園の入口にして昔風ポストは立ちぬ気を付けをして |
ブラシもてみがく墓石俗名のわれの朱文字もなかば消えたり |
この世なるご近所さんはあの世でもご近所さんで並ぶ墓石 |
吉井勇記念館 大土佐にいさな捕らむとこしわれにあらねどはるか潮ふく勇魚 |
トランクを手にした吉井先生が坂道のぼつてくるといふ声 |
渓鬼荘の夜はぬばたま星ひとつふたつみつつとかがやきを増す |
爵位返上するしたせざるを得なかつた昭和九年吉井伯爵 |
華族とははなあるうから白蓮の姪とふ吉井伯爵夫人 |
大日本帝国憲法下爵位得て爵位うしなふ吉井家の場合 |
いさむ命名酒麻呂がさけ瀧嵐は高知の駅の構内に見ず |
大土佐は韮生の山峡、在所村猪野々の里に建つ渓鬼荘 |
席ひとつありて座れば前後横よりたばこのけむりただよふ |
映写機のひかりの粒子あらくして神さぶる原節子伝説 |
いい年の息子、輪を掛けいい年のわれより借りていく二千円 |
海越えてやつてきましたお遍路にあらずアイランドリーグ見るため |
生ビールも焼きそばげその天ぷらも売れて野球日和の四国 |
鳴り物にメガホン 旗も打ち振られ一塁側は数もて優勢 |
三塁側のスタンド 人もまばらにて中のひとりがトランペット奏づ |
少年の指に余りし硬球も小さくなりてピッチャーズ・マウンド |
海ちかければ海の匂ひの心地よし海の向かふにある甲子園 |
甲子園の夢のつづきか青空に緑まばゆきスコアボールド |
アナウンスさるる「神戸大学」の卒てふ独立リーグの選手 |
品定めするかのやうにエラー見て球速表示計を見てゐる |
夢見るはNPBのほかになしされば渚のスライディング・キャッチ |
ゆきゆけど猪鹿蝶にあらずして猿に注意の徳島自動車道 |
石器館の上に出でたる三日月は旗本退屈男のやうだ |
複写機のカバーの下にまたどこのだれかが置いてゆきし原稿 |
ものをいふことはあらねど複写機の排出トレイのぬくもりぞこれ |
ゴキブリを紙に包めば触覚の二本がはみでて動くしばしば |
ゴキブリを水に流しぬゴキブリは水に流してくれぬと思ふ |
水洗化以前は便所の主のごと金蝿とびぬ銀蝿とびぬ |
蝿帳をとればはじまる攻防の蝿伊呂泥(はへいろね)いづこ蝿伊呂杼(はへいろど)いづこ |
立ち話してゐし二人ほどもなく日傘三つとなりてうごかず |
告白をするなら顔を洗はずに歯を磨かずにゆふぐれがきた |
面妖とおもふは魚の知らぬこと魚おしのけて魚のこぶ鯛 |
階段を上れば太虚の底にして大空放哉居士のおくつき |
まちがはむおそれのあればメモしおくつとにの夙とことにの殊と |
ニュースにも明暗ありてゆふぐれの蛍池(ほたるがいけ)につくモノレール |
海苔フィルム外して巻いてゆくときのさみしきさみしき音を聞かしむ |
剥くにしても剥きにくからう洋なしの腰のくびれのやうなところは |
節分の夜にいただく巻きずしの具にもつかない蘊蓄のこと |
構内のジューススタンドしあはせのパインジュースは往還にみる |
ポケットに螢のごとく光りをりせんかたなくてわれのケータイ |
昼ながら夜のそこひをゆくやうなおもひは傘の外に降る雨 |
このごろは飲むこともなし遠い日は桃のかほりの不二家ネクター |
砂浜にスイクワを割りて遊びをりひとのあたまのやうなすいくわを |
かんづく戦後歌謡史まづもつてあかるくリンゴの唄ぞ響かふ |
ど忘れをすることあらむど忘れをされたるわれはしばらくを待つ |
つかのまの青春といへ妻を得て子を得て初めて立ちしゲレンデ |
二〇〇八年四月二十八日、長野 はたはたと五星紅旗は集結す横に倒さば安田講堂 |
あまたある和製英語と今日知りぬカッターシャツの元は「勝つたー」 |
あらためておもへばきれいな名といはむ能勢電鉄の「鶯の森」駅 |
単線の駅のホームは改札も出口もあらず一両電車 |
能勢電はいまし過ぎをりそのかみの銭取岩といふ新道を |
移り来し頃のおもかげ遠くして川西能勢口駅の周辺 |
駅名は「川西池田」池田にはレール向かはぬ川西池田 |
ツアーゆゑ迷はずにきてらふそくを上げをり有馬皇子の墓前に |
恍惚の顔としおもふ泣きさうな顔ともおもふ歯石とらるる |
墓石も冷たからうと水垢離もそこそこにして墓掃除終ゆ |
わが家また然りといへど祝日に国旗かかげぬ街はしづけし |
レシートをまず置き釣りを落としたり不可触民の手に返すごと |
薬剤師なれば白衣に身を包む清潔症候群のへたれが |
さはりたくもなき手が先手うつやうに釣りをつまみて落とす手のひら |
気持ちよくお釣りもらひて帰りたしコイントレーを仲立ちとして |
名にし負ふ但馬ビーフはたれもかもンメーと云はむンモーと云はむ |
午後の陽は移ろひにつつ京阪のテレビ電車にみる甲子園 |
赤毛氈にこしかけたべる草餅の粒あんうましきな粉が落ちる |
買つてみたい気にさせるのは参道のテキ屋のよもぎもちのやきもち |
やはらかく生八つ橋をつまみたる指腹に残るニッキの匂ひ |
やはらかき餅はいなばのしろうさぎ黄粉と砂糖にくるまれてゐよ |
キャスターのはいごの書棚に広辞苑おかれてをスノビズムただよふ |
御神輿のわつしよいわつしよい大団扇の祭の文字もゆれてちかづく |
御祭礼提灯ともるその下のぜんなんぜんによぜんなんぜんによ |
記憶 抱き上げてもらつて迷子は泣き出しぬセピア色した夏の夜祭 |
玄関に入船出船くつそろひ妻の音楽室はにぎはふ |
パンデミック2009HINI 町中のマスク消えても階段をのぼりおりする妻の教室 |
地中海を知らずおそらく知らず逝くマスカット・オブ・アレキサンドリア |
種なし葡萄たねなし西瓜たねのなきものら殖えゆく未来といふは |
苦しさうにしてゐし酸素マスクもうはづされ伯母は眠れるごとし |
裏口といふにしあらむストレッチャーにのりたる伯母の出でたるところ |
ご遺体となりたる伯母に深々と頭下げをり発車するまで |
現役の少なくなりて法要も集まりやすいと喪主が云ひたり |
いかならむ矛盾といふはかくのごとシーッシーッと蝉が鳴きをり |
回転の寿司こそよけれ軍艦もイクラをのせてイラクへいかず |
ーふれあいの祭典ー兵庫短歌祭 われでなくわたしでもなく僕で書く女子高生の短歌がならぶ |
式典の準備のさなか賞状の「紫」の字が「柴」と知らさる |
落ち込んでまた落ち込んで押して来る時間が気になる裏方のわれ |
しやべり方声の出し方斎場の司会は独特の節回しもつ |
エレベーターのやうな扉の閉まりたり十七基ある火葬炉十一 |
おごそかに一礼したるのちにして白手袋がボタンを押しぬ |
その先をわれら知るなし火葬炉の二〇〇九年宇宙への旅 |
隣組といふにあらねどふたつおくランプも赤く点りてゐたり |
片腕を手錠のやうに吊革にとられてくだをまく酔つぱらひ |
十三歳 木造のまなびやよりぞ赤煉瓦の焼き場のけむりながめてゐたり |
赤煉瓦の焼き場のぞけばと人の云ふ炎のなかにおきあがるひと |
音声ナビ登載家電の多くして人のをらねばするむだばなし |
お湯はりが終はりましたとわかくさの音声ナビが三つ指をつく |
目的地周辺に来てカーナビの「音声案内を終了します」 |
わからないわけではないがいまうんこしてゐますといふトイレ消音機 |
でかせぎのやうな中南米音楽の路上ライブと満天の星 |
サンポーニャケーナチャランゴ今宵もか広場を遠く横切るところ |
付論 文語体と口語体 |
一 宮地伸一と安田純生 歌言葉の専門家として著名な歌人に宮地伸一と安田純生がいる。宮地には『歌言葉雑記』(短歌新聞社)と『歌言葉考現学』(本阿弥書店)の二冊の著書があり、安田は『現代短歌のことば』『現代短歌用語考』『歌ことば事情』の三冊を邑書林から出している。この二人の本を読み比べると、その違いがはっきりして面白い。 たとえば形容詞のカリ活用について二人の意見を聞き比べてみよう。周知のように用例が「多し」に限られるため文法の本では活用表の終止形の欄は空白になっている。つまり終止形はないのである。ところが近現代短歌において連用形「かり」を終止形とする歌は珍しくない。この現実を背景として宮地は活用表が「カリ活用の終止形を空欄にして認めないというのはあまりに不自然である」(『歌言葉考言学』所収「遠かり――カリ活用につき」)と主張する。逆に終止形が空欄であるのは打ち消しの助動詞「ず」の場合も同様で、やはり連用形「ざり」を終止形とする歌も珍しくない。ところがこちらについて宮地は「何か収まりが悪い」(『歌言葉考言学』所収「『楽にならざり』」)と否定的なのだ。では安田純生はどうかといえば「『悲しかり』も『在らざり』も、近代の文語体短歌における非文語的な要素を示している。現代短歌には、一見、文語ふうの表現でありながら、実際にはそうでないものがある。逆の見方をすれば、それらの非文語的要素を、現代の文語体を特色づけるものとして捉えることもできよう」(『現代短歌のことば』所収「悲しかり・あらざり」)と客観的である。 おそらく宮地伸一も、その一人あることを免れないだろう。安田純生の「歌人の気まぐれ」(『歌ことば事情』)から引用する。 文語の体系のなかになかった言い方が、すべてうるさく指摘されているかというと、そう ではない。(略)。文語の体系になかった言い方=誤りのなかにも、大いに問題にされる ものと、あまり問題にされないものとがある。何か確固とした基準があって、問題にした り問題にしなかったりしているとも思えない。歌人は、文法に対して気まぐれであるとも いえよう。 もう一つ「ひそけし」の場合を見てみよう。宮地は釈迢空と斎藤茂吉の用例を引きながら「古典に例がなくても、近代現代の短歌に普通に用いられているのであるから、広辞苑などで採用しないのは、編集者の怠慢であると言ってもいいのではあるまいか」(『歌言葉考言学』所収「ひそけし、かそけし」)と強気である。対する安田は「ひそけし・さはやけし」(『現代短歌のことば』)の中で近代詩歌語という概念を導入し、その一環として「終止形の語尾が『…けし』のかたちをとる形容詞」について言及する。ちなみに近代詩歌語とは「明治以後、詩人や歌人によって数多くの古語風新語(一見、古い時代の語彙にあるようで、実際にはなかった新語)がつくられた(略)。そのような語」(「ひそけし・さはやけし」)で「祖父(おほちち)」「祖母(おほはは)」ほか枚挙に遑がない。 ここまでくると安田純生の文語に対する基準についても紹介しておく必要があろう。「文語と〈文語〉」(『現代短歌のことば』)から引用する。まず「貫之の生きていた時代では、書きことばと話しことばとの間に、まったく同じとまではいえないにしても、それほど大きな違いはなかった」と述べて「文語には二つの種類がある。一つは、貫之の生きていた時代すなわち平安時代の言語体系を意味する文語であり、もう一つは、その言語体系を志向した言語を意味する文語である。二種ともに文語と呼んでいたのでは、どうもややこしい。前者の文語と区別して後者を文語体と呼んでもいいが、さしあたり、後者をヤマカッコ付きの〈文語〉とし、前者を単に文語として」扱う。ここからである。 〈文語〉が成立したのは、日常生活のなかの言語がどんどん変化して文語の体系が崩れて いくにもかかわらず、和歌を詠んだり文章を書くときには、古い時代の言語体系にのっと っていこうとしたためである。〈文語〉は、本来、文語に一致しているのが理想であった。 しかし文語と日常語との差が大きくなればなるほど、文語と一致した〈文語〉を書くのは 困難になる。文語と日常語との差が大きくなれば、文語についての正しい知識を得るのが 難しいうえ、文語を使っているつもりでも、日常語が折々に顔を出して似て非なることば になりがちである。その結果、〈文語〉は、時代がたつにつれて変化していく。 さらに、 室町時代や江戸時代の〈文語〉には、誤用が頻出する。平安時代の文語と室町・江戸時代 の〈文語〉を同一視し、〈文語〉を証拠にして正しい文語であると主張したりするのは、 いささか問題がある。〈文語〉が文語であることが、〈文語〉によって証明されたりはし ない。 というのである。まして現代短歌の〈文語〉に於いてをや。しかし安田純生は原理主義者ではない。宮地伸一が読者を誘導するとすれば安田は覚醒させる。そこが違うのだ。 二、歌人の気まぐれ 宝暦八(一七五八)年に刊行された栗柯亭木端撰『狂歌かかみやま』(『近世上方狂歌叢書一』)を見ていたら次のような作品があった。 いぬかひと男星をいへはかのえ申はわるい出合とおもほへらるる 題は「七夕ノ庚申」、作者は木端である。男星(おぼし)は彦星のこと、彦星は犬飼星とも云う。牽牛星と織女星の出会う七夕の月が庚申だったので四句「わるい出合」(犬猿の仲)と云ったのだろう。私が目を留めたのは結句の「おもほへらるる」であった。 宮地伸一が『歌言葉雑記』の前半で「思ほえば」を取り上げ、後半で「思ほへば」を取り上げ、『歌言葉考言学』の前半の「『思ほへば』など」で言及し、中頃の「目をあきて」で態度に変化が現れ、後半の「星のしたび」で再び取り上げるが、それだけではない。余白が出たといっては用例で埋めるこだわりの「思ほえば」(思ほへば)であり、しかも五度目の「星のしたび」では私の「おもほへば」も登場する、因縁の「おもほへば」でもある。 一回目。茂吉の用例を示して「『思ほえば』(つまり、『思ほゆ』の未然形『思ほえ』に『ば』がついた形。)」は「これから先のことを仮定しているのに、茂吉のは『思われるので』と既定の条件に使っている」。しかし先例を開いたのは土井晩翠の「おもほへば」であり、「茂吉はこの誤用に気づいたらしく、その後使用しなくなった。ところが現代でも平気で使う御仁がいる。しかも『思ほへば』などと仮名違いまで加えて。」さらに「『おもほふ』などという動詞はもともと存在しない」と展開する。ともあれ木端の「おもほへらるる」は「おもほふ」の未然形に助動詞「らる」が接続した形になる。当然のことながら土井晩翠より古い。 二回目。馬場あき子ほかの「思ほへば」の用例を示して、一回目の繰り返し、そして「要するに『思ほへば』は、無理な言葉である。これに市民権を与えるのは、古典に対する冒涜であるとさえ私には思われる」とヒートアップする。 三回目。「思ほえば」「思ほへば」引っくるめて「また繰り返すのもどうかと思うが、相変らず誤用がまかり通っているとも言えるようなので、またここに記してみることとした」。うち「思ほへば」については「そういう言い方が成立するには元来『思ほふ』というハ行に活用する動詞が存在しなければならないのに、そういう動詞は今も昔も日本語にはない」。 四回目。武川忠一と坂井修一の用例を示し、「無理が通ると道理は引っ込む。これはやむを得ない特例としてもう認めるほかないであろうか」とトーンダウンする。 五回目。私の「おもほへば」も登場するが問題はそのあとである。「なお『思ほえば』と書いても、語法的には誤であることは、私がしばしば指摘した通りである」に続けて、 秋水に石榴一顆(せきりゆういつくわ) おもほえば歌ひて喪ふ言(こと)かず知らず 「塚本邦雄氏のこの一首を『献身』に発見してやんぬる哉と私は長大息した。もう一つの言語現象として認めなければいけないものなのかも知れない」とは何事か。 私は笑ってしまった。 ちょうど前登志夫の『大空の干瀬』(角川書店)を読んでいたときで、そこにも「思ほえば」の用例を見つけたからである。 おもほえば三輪山神話の神々の人戀ほしめりかなしかりけり 定見を持たない歌人のミス・リード、滅びの笛に踊らされてはならないのである。 三 異端の人、土屋文明 宮地伸一の『歌言葉雑記』に斎藤茂吉は「茂吉」として登場するが土屋文明はしばしば「土屋先生」として登場する。その土屋文明が安田純生の「歌人の気まぐれ」(『歌ことば事情』)に登場する場面があるので引用する。 五十年前に土屋文明は、「現在の短歌が使つてをる文語といふものは、これは厳格な意味 においての文語ではない。(中略)さういつた批評が文法学者なんかからはしばしばされ るのでありますが、それは私はその通りだと思ふ」という認識を示し、「それが全く日本 語として通じないものといふ風になればとに角、まあとにかく日本語として通じてをる」 (『新編短歌入門』所収「短歌の現在及び将来に就て」)といっている。しかし、現在で も広く「日本語として通じ」、作者と読者を繋いでいるかどうか、あるいは、今「通じて」 いるとしても、これからも「通じて」いくかどうか、ちょっと、いや相当に気がかりであ る。 また宮地伸一は「居れり・死にぬ」(『歌言葉雑記』)で、 「居れり」の茂吉の例は「やまみづのたぎつ峡間(はざま)に光さし大き石ただにむらがり居れり」 (あらたま)その他がある。この「むらがり居れり」につき土屋文明先生は「『居れり』 という語法は標準文語文法では違法ということになっているが、吾々の使う文法は、そん なことはかまわないのだ。」(「斎藤茂吉短歌合評」)と明快である。茂吉、文明の間に考 え方の多少の差がある。 と書いている。これは茂吉が「居れり」「死にぬ」は間違いだから「こういうのはアララギの選歌にあったら直してくれたまえ」と云ったという『童馬山房随聞』(佐藤佐太郎)の記事から始まっている。茂吉は間違いを承知で使っているのである。しかし文明との間が「多少の差」とは考えられない。「『食(を)す』と茂吉」(『歌言葉考言学』)に茂吉の「食(を)す」という用例に対して「国語学者の金田一京助が、自分の『飯を食ふ』ことを『飯を食(を)す』と言うのは、『食(を)す』は『召し上がる』『食し給ふ』ということだから、田舎出の女がうっかり『私がおつしゃった』とまちがうようなものと批判した」という記事がある。茂吉は「何もびくびくする必要はないと宣言した。そして用語に対する作家の態度は自主的たるべく、極端にいうなら用語は作家の自由勝手たるべきものとまで息まいてしまった」。しかし「結局金田一の批判が常に頭にあり、それ以後は『自主的な用語』の使用を中止してしまった」というのであるが、時の「標準文語文法」に拠るか、「吾々の使う文法」に拠るかは、正統と異端の分岐点でもある。 土屋文明の著書に『万葉集私注』全二十巻がある。『万葉集』の専門家であるが、不思議なことに本居宣長が発見した字余りの法則に触れるところがない。それが「吾々は五七五七七の五句三十一音から成立して居る詩的形式を短歌と呼んで居る。勿論これは中心形式を示すだけで、実際の作品では音数にも数音の増減があり、各句の区分も必ずしも五七五七七と典型になって居らない場合もあるのであるが、それ等を引きくるめて短歌と呼ぶことは、昔も今も変りはない」(『短歌入門』所収「短歌概論」中「一 短歌の形式」。傍点筆者)や「短歌は一首を一息によみ下すのが本体であつて、ただ句間にたまたま小休止の出来ることがあるに過ぎない」(『短歌入門』所収「短歌概論」中「四 歌の調子」)また「短歌に破調の存することは決して短歌の形式を軽んずることからは生ぜず、又破調の存することが無形式の自由律への移行の根拠とならない」(『短歌入門』所収「短歌概論」中「五 再び短歌の形式」)という発言を可能にしたとも云える。対する茂吉は「短歌声調論」(岩波書店『斎藤茂吉全集』第十三巻)で字余りの法則について触れ「この字余(じあまり)、字不足(じたらず)は、おのおの句単位のそれぞれが破れるのである」と述べ、総括して「字不足、字余の音の増減の限界は数学的に行かないこと無論であるから、歌人はただ句単位五個の声調といふことを自覚し、念中に有つて製作することが緊要」と説く。このような経過もあって用語としての「破調」のプライオリティーは文明にあることが明白である。その後の『近代短歌辞典』(昭和二十五年)と『現代短歌辞典』(昭和五十三年)も文明説に基づいている。しかし近年の『現代短歌辞典』(平成十一年)と『現代短歌大事典』(平成十二年)になると茂吉説にシフトしている。この変化の背景には定型律を守ろうとする無意識の歌壇的要請が働いているだろう。 土屋文明は異端の人なのだ。 四 文語体と口語体 安田純生のいう文語と〈文語〉の距離は広がりこそすれ縮まることはない。また縮めようとする努力がされているとも思えない。近代詩歌語がそれに輪をかけ、文明の「吾々の使う文法」は深く歌壇を浸食していることであろう。宮地の言にしたがえば「言葉は伝染するので」(『歌言葉雑記』所収「濃ゆし・酸ゆし」)あり、大家や人気歌人の破格表現となればなおさらで抵抗も少ない。加えて文語表現の前提として「現代短歌は、文語を一応の立てまえにしても、口語で発想するので」(宮地伸一『歌言葉雑記』所収「たとふれば」)あり、さらに拾うと「我々は、作歌する際にまず口語で発想して文語に転換する」(宮地伸一『歌言葉考言学』所収「『いづくより来りしものぞ』」)のである。同様の指摘は安田純生にも「現代短歌の文語体は、大まかにいって、日常語の一語一語を文語的な語に置き換えたものである」(『現代短歌のことば』所収「合はす」)、また「現代短歌の文語は、文語といいましても、実は口語の置き換えから成り立っていますので、純粋の文語ではありません。文語めかしといってもいいような気がします」(『歌ことば事情』所収「現代短歌のことば」)ほか多くあり、総括すれば「現代においては、オーソドックスな文語表現が、かえって読者に違和感を与えるという場合があるようです」(『歌ことば事情』所収「歌ことば事情」)、また同じ『歌ことば事情』の「夜の更け・生きの身・黄葉」には、 近現代の文語体短歌の用語には、一般の人には耳慣れないことばが少なくない。古語ゆえ に耳慣れないばかりではなく、一種の業界語のようなことばが用いられているのである。 歌人になるというのは、そのような耳慣れない語に親しみ、さらには、それらを自在に使 って短歌が作れるようになることでもある。 ともある。文語といい、一般の人といい、つまり通時的に見ても、共時的に見ても、文語体短歌は土屋文明の頃よりも、さらに異形の度合を強めているのであろう。 その安田純生が「大阪歌人クラブ会報」(第一〇八号)に講演録「文語体と口語体」を載せている。『日本文法大辞典』(明治書院)から林巨樹(言語学者)の定義を紹介して「文語は『平安時代中期の文章』とあって、そこに『話しことばを写したもの』とあります」とし、「文語という言葉が使われ始めたときは、その当時、書き言葉、つまり文章語の文体だからというので、その名称が文語になってしまったのです」と述べる。また「私は、平安時代中期の日本語の体系に、その前後の時代の要素を加えた形の言葉は文語と呼びます。そして、それを志向し、それを規範として書かれた文章は、文語体と呼んだらどうかと思います」と述べ、口語については「現代語の体系が口語なのです。話し言葉という意味じゃありません。だから、われわれが書く文章は口語文、書き言葉でも口語なのです」とある。ただ口語体の説明がない。図書館で『日本文法大辞典』を開くと「①ある時代の話しことばのスタイル。話しことば体」「②現代の話しことばの語法(文語・口調・言い回し)を基にして書く文章様式。口語による文章」とある。書いているのは林巨樹。②は明治の言文一致運動の成果である。これらを五句三十一音詩の歴史に適用するとどうなるか。万葉集の時代には固有の文字がなかった、したがって①の口語体である。平仮名の誕生した平安時代は言文一致の時代であった。したがって②の口語体の時代である。言文が二途に分かれて文語体の時代が始まる。文語体の時代は同時に①の口語体と並存の時代でもある。 いかのぼりしあげてみれば吹く風に細工はりうりうりうりうとなる 栗柯亭木端 ちかづきにちよつとあふむの挨拶やようふるといへばようふるといふ 山果亭紫笛 ゆふ立の雲助かごが杖のやうな雨に暑さのいきつぎをした 燕果亭千樹 明治以後は文語体と②の口語体の並存時代である。 ところで『現代短歌大事典』(三省堂)を開くと「文語」も「文語体」も項目にない。文語で作るのは当然というわけか。では「口語体」はどうか。「口語歌運動」と「口語短歌」はあるが「口語体」はない。五句三十一音詩の歴史に日本語の歴史を重ねれば口語体と文語体が見えてくる。「口語短歌」も「口語歌運動」も口語体の一部でしかない。念のために昭和五十三年に出た『現代短歌辞典』(角川書店)を見たが同様であった。これから出す短歌辞典には是非とも口語体と文語体を項目に加えてもらいたいものである。 歌のスタンダードは口語体なのだ。 五 蛇足あるいは短歌の現在及び将来について 私の短歌教室では、レジメの終わりに土屋文明の「自ら恃む処ある者は詠む可からず」(『新編短歌入門』所収「短歌手ほどき」)と橋本義夫の『だれもが書ける文章』から「競争しない」「人それぞれに真実を書く」「だれもけなさない」「学歴、身分など関係なし」「お互いにはげます文友をもとう」を引用し、扁額よろしく掲げている。受講生の皆さんを励まし、また私の意に添わない受講生を暗黙裏にお断りする護符の役割を兼ね備えたものだ。 土屋文明の言葉は昭和七年に書かれた「短歌手ほどき」の「五 歌を作るに適せざる人々」の一つである。すなわち「一、嫌ひな人は詠むべからず」「二、多芸多能の人は詠むべからず」「三、自ら恃む処ある者は詠む可からず」で、次のように続く。 良寛の歌に やまかげの石間をつたふ苔水のかすかにわれは住み渡るかも といふのがあるが、歌の道は凡そ斯の如きものである。 故に社会的の地位でも或はまた精神的の能力でも、その他あらゆる点に於て自らたのみ、 自ら負ふ処のある者は大体歌の道に入るには適しない。ただ謙虚の心を以て人の世に処し、 自然に対し得る辛抱づよい少数の者だけがこの道に入る可きであらう。 プライドが邪魔するということでもあろうが、それよりも自己表現と自己顕示の違いと解したい。有名な生活即短歌(「短歌の吾々に歴史的にも教へること、また現在でもさうであることは、それが生活の文学であり、生活即文学である」)を含む講演「短歌の現在及び将来に就て」(『新編短歌入門』)は、これより十五年後の昭和二十二年である。 「ふだん記運動」で知られる橋本義夫(一九〇二~一九八五)の『だれもが書ける文章』(昭和五十三年、講談社)は魅力的な言葉で一杯である。レジメで挙げた以外に「私でも書ける、書けないものなし」「書くは書かぬに優る」「アマチュアは、書くとき骨を折り、終わって劣等感をもち、時と共に書かなくなってしまう。(略)。プロが下手を恥じるのは当然だが、アマチュアが下手でも、稚拙でも、そんなことは恥じることはない。アマチュアがプロを標準にして、劣等感をもつのは馬鹿気た話だ」「方言なしに生活なし」等、数多い。自分史という言葉は、この本に「ある常民の足跡――橋本義夫論」を寄せている色川大吉に始まるが、すでにその「自分史」を橋本義夫は「ふだん記運動」で実銭していたのである。 色川は『ある昭和史 自分史の試み』(昭和五十年、中央公論社)中「わが個人史の試み」を「個人史は、当人にとってはかけがえのない〝生きた証(あか)し〟であり、無限の想い出を秘めた喜怒哀楽の足跡なのである」「人間にとって真に歴史をふりかえるとはなにを意味するのか。その人にとってのもっとも劇的だった生を、全体史のなかで自覚することではないのか」「こう記す私は、その全体像を描くべき職人としての歴史家である」と記すが、この一冊には橋本義夫論「ある常民の足跡」(一七五頁~二五八頁)が柱の一つになっている。 さて、 歌のスタンダードは口語体なのだ。 こう宣言して、にわかに開けてきた眺望がある。 繰り返すが『万葉集』の時代は当代の口語体であった。『古今和歌集』の時代も『新古今和歌集』の時代も当代の口語体であった。それを現代の人間が真似る必要はどこにもない。真似ていけないというのではない。真似るのであれば徹底して真似てもらいたい。それは「オーソドックスな文語表現が、かえって読者に違和感を与えるという」(『歌ことば事情』所収「歌ことば事情」)覚悟を問われることでもある。 それこそ限られた少数者の道である。私は、私たちはといおうか、私たちは今の言葉を使って文語文法に悩まされることなく、掛け替えのない、一回限りの人生を歌に残したい。 私たちは自由を得たのである。 いきいきとした現代の口語体で五句三十一音詩に命を吹き込むこと、そうすることによって短歌は最も有効な自分史のツールとして蘇るのである。 |
あとがき |
平成十六年から平成二十二年の作品一八〇首を収録した私の第七歌集である。年齢にして五十三歳から五十九歳となる。但し、付論「文語体と口語体」に導かれて「短歌人」の平成二十二年七月号より現代仮名遣いを使用することになった。したがって本集は歴史的仮名遣いに拠った平成二十二年六月号までの作品ということになる。「文語体と口語体」はホームページ「草食獣・吉岡生夫の世界」に発表したものであるが、活字になるのは今回が初めてである。 歌のスタンダードが文語体てあるというのは近現代短歌について見れば、そのとおりである。しかし歌の発生からを視野に入れるならば口語体は動かない。現代でもジュニアといわれる世代の作品はすべて口語体である。もし歌のスタンダードが文語体ならば、彼らの作品はどうなるのか。つまりどこかで変わらなければならないことになる。オタマジャクシがカエルになるように、蛹が蝶になるように、羽化する蝉のように変態しなければならないことになる。しかしそうではない。文語体こそ特別ないし特殊な選択の結果なのである。 固有の文字を持たない時代の『万葉集』は当代の口語体であった。 平仮名の生まれた時代の『古今和歌集』も当代の口語体であった。 『日本語の歴史4 移りゆく古代語』(平凡社)によると言文が二途に開けるのは『徒然草』の頃だというから十四世紀に入ってである。では口語体はどこに行ったら見られるのかといえば狂歌である。では狂歌とは何かということになるのであるが、その前に五七五七七の名称について触れておきたい。『万葉集』は単独で登場するときは歌、長歌とセットで登場するときが短歌である。後年これらを和歌という概念で括ったことによって混乱が生じることになった(広義に解するなら狂歌も和歌であって然るべきなのだ)。さて『万葉集』の後に国風暗黒時代がやってくる。裏を返せば漢風全盛時代である。勅撰の漢詩文集が作られもするが、この風は遣唐使の廃止によって止む。こうして登場するのが『古今和歌集』である。和歌とは漢詩文に対する謂いである。そして両者を比較すれば短歌が素材において、また用語において、軽重なく、すべてを包含していたのに対して和歌は短歌をそのまま継承しなかった。すべてをカバーするのではなく、一つの排他的世界を選択し、その完成に向かったのである。これがフォーマルな場で行われた和歌とすれば、インフォーマルな場で「言い捨て」を条件に許された五句三十一音詩があった。これが狂歌である。ネーミングライツは和歌の側にあった。すなわち狂歌とは和歌が否定した世界、書き継がれることのなかった幻の短歌史なのである。 和歌と狂歌と短歌、五句三十一音の定型詩は名称を変えつつ時代の波をくぐり抜けてきた。そこには先行する五句三十一音詩の衰退があり、それを受けた復活劇があった。 ただ明治に入って散文の世界では言文一致運動が成果をあげるが、短歌の世界は少し事情が異なっていた。王政復古による揺り戻しは国歌大観を生み、文語体のスタンダード化が推し進められた。しかし今その文語体が綻びを見せているのは付論で眺めたとおりである。 ともあれ私の口語体への参入は第八歌集に持ち越されることになった。 グッド・ラック! 吉岡生夫。グッド・ラック! 草食獣。 平成二十二年 晩秋の兎月庵にて 𠮷岡生夫 |