草食獣・勇怯篇

 

   

吉岡生夫第3歌集。昭和63年9月14日、短歌新聞社発行。定価1,500円。体裁四六版。目次なし、本文217頁、後記等なし。1頁1首組。歌数215首。装幀・加藤智也。

絶版。

解説の時代/作者の横暴とまではいわないが、饒舌の時代だからこそ、作品は汚されることなく、黙って、無条件で読者の前に屹立していてもらいたいのである。/(『草食獣への手紙』より)

参考図書/田島邦彦編『この歌集この1首―現代短歌のディテール―』(ながらみ書房・1991年)/永田和宏著『「同時代」の横顔』(砂子屋書房・1991年)


進化論うべなはむかなわが女児は耳の裏まで毛が生えてゐる
上の子を幸男といへり下の子を幸子といへり心中の記事
夕刊をもちて入り来し茶房には水の壁ありエンゼルフィッシュ
もちをとるほかに用なき「とりこ」てふ粉が世にあることもたのしゑ
子の持てる未来とわれの待つ未来かさなりあへる部分をおもふ
フリーザーの扉しめたりこのむかうは犬橇走る北極ならむ
吊革をもちてゆらるる不美人の脇の和草みだりがはしも
オルゴールのネジまく音が受話器よりきこえてひとはまだあらはれぬ
まばたきをせずにしきりとうなづけるかたはらのひとわれはおそろし
歴代の会長ならむ健在のひとり、ふたりも額の中なる
一攫千金などを夢みをるわれを阻みて電車通過す
下駄はきて坂道おりてくる音をききをり何といふ自由かと
月光仮面のやうにパッチはくわれにふたりの子がつきまとふ
みかんの袋のすぢを丹念にとらねばならぬ小心のこと
玄関に立ちてゐるなりひとをらぬ居間より銃撃戦の音する
吸殻を拾ひてをりぬわれわれからわれへともどるスト終へしあと
力なくば正義もあらじ高見山のやうな男とすれちがひたり
扇風機うごきてさらにむしあつし電車に立ちてわが運ばるる
酒の話題が「酒の強さ」に移りゆくバーバリズムは嫌悪すれども
ゴキブリも生きてゐるなり水のみに降り来し夜の台所にて
世紀末といふ語を知らずやうやくに歩きはじめし吉岡麻乃
消しゴムのある鉛筆は書きて消し書きては消してまた書くものぞ
あふれくるビールの泡をひげのごと口にかざりて夏逝かむとす
運転手の帽子の下に顔あれば何を怖るる夜の国道
「競争を拒まば負けるほかなし」と聞こえしがながき研修である
スカートをはかされゐるは女にて布団乾すなり午後の日ざしに
犯罪を匂はすごとしトランクにゴルフ・バッグをつみこむが見ゆ
だれよりの私信ならむか一枚の枯葉まじれる郵便受けに
一男と一女の父となりしかば降る蝉しぐれ挽歌のごとし
連休の終はる夕べを無精髭のびし顎まで湯につかりゐる
生活のにほひをもたぬほそき手をいくどもにぎりゐたり?次会
はだざむくなるまで呆と立ちゐしがネクタイはづす電気をつけて
遮断機の上がりし空のゆふあかねああ雪辱戦の今を渡れる
父よ、あるいはあるいは母よシュレッダーのあらば人生紙ふぶきする
人一人二人三人否四人五人六人七人憎む
人一人二人三人否四人五人六人七人愛す
デパートは百貨店ゆゑ「戦争」も売られてをりぬ玩具売場に
妻が子の手などにぎりて歩めるも他人のごとし道をへだてて
タワリシチと叫ぶことなき半生の雨にぬれこしからだを拭きぬ
笑ひてゐるにあらねど霊長目ヲナガザル科のヒヒが歯をむく
すれちがふ子らの背負へるランドセルまことおもたき勉学ならむ
「タンポポ」ときけばさておき通学の道に面してゐしラブホテル
アカヒトデイトマキヒトデモミジガヒ海のそこひをゆく大文字
さてもをどりの名手といはむ鉄板のお好み焼きにふる花がつを
いちじるしき変化に山のいただきへのぼる人家の灯をいへり
妻と子と母がすわれば空をとぶかたちとなりぬ電気カーペット
マンションの窓の一つが灯りたり一番星といふにあらずや
休日の広場にわれら父といふものつれだして家族いこへる
死にて咲く一例ならむ父の父の父の土饅頭いま花ざかり
四00字詰の格子をゆさぶれるをとこ無実の三十五歳
釣りあげて栓を抜きしが「瓶詰の地獄」あらねば波にもどしぬ
鼻かみてまた鼻かみぬ鼻翼とふたのしきことば滅びたるにや
中納言水戸光圀の白髯にからみつきしや納豆まぜる
火をつかひ刃物をつかひふりむかぬ廚の倶利伽羅竜王なりき
ぬばたまの闇にききをり時計といふ時計の律儀ふともおそろし
くちびるにはこびてきたる盃の底に目があり涙湖といはむ
節分の夜を電車にゆられをり赤鬼あまた青鬼あまた
歯をみがき爪きり髪をくしけづるああ身体といふあばれ馬
アルバムをめくれば父の字が太し「四国三郎吉野川にて」
殺意などふともわきくる中年の背中がありぬ冬のホームに
チョークもて描かれしかば空をとぶかたちにひとは投身したり
少年のときやはらかかりし爪切ればひぞりし音たてて飛ぶ
狸寝入りのつもりなけれどバス電車とにかく乗れば目をつぶる癖
妻子への電話を切りて音にしかすぎぬテレビを大きくしたり
目にいたきまでのみどりの芝に水まきてつくれる虹といふもの
かぎりなく手話にちかづく会話あり空の港を離着陸する影
だれの手に愛撫さるると知らねどもレントゲン車にならぶ少女子
大き音させて切ること謀りをり五月の蠅のごとき電話を
カーテンのむかうで注射うたれゐるきたなき尻の中年おもふ
われものを包みてゐたるビニールの気泡つぶすは快感なりき
家を出るときにかならず躓けば子の三輪車にくきものの一つ
印影の徐徐に大きく太くなりすなはち件の決裁終はる
どうしても思ひ出せざる顔として改札口の目深き帽子
宇宙遊泳たのしみたまへふたり子は夜の畳に寝返りをうつ
一八0度股をひろげし兄ちやんがバイク走らす世紀末へと
孫悟空ならば飛ぶべし祝日の終はりてもどすステンレスの棒
八00年幽閉されて来し怒り爆発せむか仁王は立てり
わきの下に乳首のごときいぼあればしばしば触るる夏の夕べを
右の手がたばこの箱にのびてゆきまた一本を抜きとりにけり
「川」の字に一人をたして夏の夜をわれらねむりぬ家具のきりぎし
ラジオ体操流れゐにけりかかる朝ひとは滅びむポンペイのごと
二十二歳以後を知るのみ妻はしも何を刻んでゐるのであらう
模造紙に書き込みながらマジックのにほひの鼻につくはたのしも
「曲者だ!出合へ出合へ」と呼ぶ声にとびおきしかど窓の満月
非道なることのためしは雨蛙ふみて潰して朝顔ちぎる
沿道に「大売り出し」と染め抜きし幟はためく合戦の今
おびただしきけいくわうとうが点りゐる大阪駅のホームなりけり
逆縁といふを怖るるガラス戸に顔おしつけてふたり子あそぶ
ソクラテスの妻にあらねどくはへゐし煙草もろとも奪はれにける
のぞき込む医師の顔ありあげさうになるのどなれど口あけしまま
テレビ・カメラにたちまち寄りて来し子らがVサインする地球の裏ゆ
「家庭の医学百科」をめくりゆくこの熱心が笑はれてゐる
百の鬼消えし路上に牛乳の瓶のふれあふ音がするなり
ふとおもふ井上井月 井のなかにうつりし月といふ意味なるか
中年の汗をふきつつトレーニング・ルームにペダルこぐをとこたち
電話するコードをながくみてゐしが嘔吐もよほす眩暈ぞしきり
新聞をひろげる視野のかたすみにまた組み変へるOLの脚
亡き父を知れる床屋の主人よりまた保守的に世を諭さるる
切れかけの街灯ひとついつまでも事務所の窓に昼を危ふし
どちらからといふにもあらず立ちあがり点けしテレビを義父とみてゐる
柿の木に柿がのこりてその柿にいまふる雪がつもりてゆきぬ
ワン・タッチの傘をひろげてゆかむかな男の花道には遠けれど
くそまれるものは蝮の裔なるか便器の底にとぐろ巻きゐつ
保険屋がくばりてゆきしガム噛めばおもふスタンカ、バッキーなどを
鉄亜鈴もちてきたふる一0キロはわが贅肉の重さに等し
呪文かなにかのやうに唱へゐる「外面似菩薩内心如夜叉」
たてつづけにコップの水をのときし胃の腑の行者ゆびくむらむか
ふきさらしの公衆便所に用を足すをとこのかほが地蔵のごとし
阿吽の呼吸といふをおもひゐるわれの後に上司きてをり
エレベーターのなかに鏡のある理由考へゐしがドアひらきたり
へへへへへへへへへへへとくらがりに嗤ふ声する公園の怪
エ、ウソ、ホント、隣席の他社のOLこそかはゆけれ
にはか雨なれば「フォーカス」かざしつつ男走れり都心の午後を
年長の理髪店主が肩もみてくるるはいつになつても慣れぬ
神かくしに遭ひし男の胴乱を拾ひぬ蝉の鳴くただの山
「銭」といふあからさまなる語を背負ひ亀はうごきぬ盥の底を
空に入道雲がわきをり湧きながらかたちなしくる猿飛佐助
壁にペンキをぬりてゆきつつ透明になりし男の声のみ聞こゆ
アルファベットの文字が右へとつづられてゆくはまさしく蟹のごとしも
「先生!」ときこえてならず日焼けせしスポーツ選手の宣誓を聞く
妻と子とわれの四人で「ばばぬき」をしてゐるときに母もどりきぬ
寿老人の気配ならむか雨やみし奈良公園にひとのすくなし
オルガスムスとオルガニズムにはさまれて辞典にオルガナイザーありぬ
内風呂の時代となりてさみしきかふたつの膝を立ててゐる
中の島公会堂の地下にきてジャーのにほひのする昼をとる
またしても留守番電話の家なれど気をとりなほし用を告げゐる
単純に尾をふることのかなしくて犬の頭を抱き寄せにけり
神のごとわれは立ちたり円型の螢光燈を頭にいただきて
夏布団ふかくかぶりてきく鳩の時計は野鳥観察めきぬ
わんぱくの語源知らねど日焼けせし吾子のからだを洗ひてをりぬ
不良になりたかりにし単純にしかもたくみに振れるシェーカー
空耳にあらず悲鳴は「嬲」てふ漢和辞典をめくりしあたり
空となりし弁当箱を包むころ将棋さす音まはりにおこる
お百度を踏むにしあらむ階段を上りて下りてまた上る駅
改札を過ぎておもひぬいづこへと消えし切符をきるをとこたち
ライオンは火の輪くぐりぬその火の輪ふたりの吾子の目に燃えてゐる
川の辺のいつ藻の花のいつもいつも頭下げゐる工事の図柄
あいさつの顔あげしかばマンションの扉がしめらるるその音と会ふ
いづれともわかねど餌を争へるコガモカルガモキンクロハジロ
ブラインドのかげがあたりて人物をだるまおとしのごとくに見する
偽経のゆゑにぞ愉し父の恩母の恩説く恩重経は
ビールまた一本抜きてつまらなき管理野球のつづきを見むか
決裁に印をたしかめ押しながら半日妻をにくみてをりぬ
「母ちやん」と呼ぶならはしは徳島県麻植郡川島町に生まれて
サブマリン山田久志のあふぎみる球のゆくへも大阪の空
負けてこそヒーローならむふりかぶるときの江川の耳はピクルス
さすらひの渡り鳥にてマウンドに歩む江夏のその太鼓腹
勝ちてなほ愁ひただよふ青年の柏戸剛は雲竜なりき
高見山長嶋茂雄胸毛こきをとこの声は金切るごとし
服部を改め藤ノ川関のややおとなしくたまりにすわる
海があり山あり谷あり川もある醜名の花となるまでの汗
「関ヶ原」過ぎて愉しも日常といふ引力をややに離れて
橋のたもとにひとまつときぞ擬宝珠の先もてあそぶてのひらの快
ふきさらしの下りホームにこの夜ふけ人畜無害の身を立たしむる
文法といへる小姑声あはせべくべくべしべきべけれやかまし
エンドレス・テープの中に幽閉をされて血をはくまでほととぎす
二の腕をさかひに白きこのからだ休日なれば水に遊ばす
足早に信号わたる大阪のあしあしあしあしあしあしあしあし
田や畑のこるところにビルが建ち「丸の内町」とぞ雨に煙れる
二時間と八分すぎしマラソンをみてたちあがるわれの残生
ふたり子のパンに塗りをり蜜蜂のマーヤあつめし蜂蜜ぞこれ
磨崖仏ならずやのめばごくごくとただごくごくとなるのどぼとけ
眼底の写真とられて立ちあがる刹那たしかにパンダのごとし
ドイツ原産ダックスフント狩せずば胴長短足愛さるるのみ
左利きが箸うごかすをみてをりぬニホンとニッポンいづれぞ日本
両生類ならぬからだのあがりきて歩みゆきたりプールサイドを
車よりおりきてミニチュアプードルの犬より人にちかきその顔
つはものどもが夢の跡なる沢に追ふゲンジボタルぞヘイケボタルぞ
愛愛愛愛愛愛と八月の波打ちぎはを走るカニたち
尾籠なる話なれども硬き便しつつおもへり衆道といふを
「お父さん」の指と子がいふ親指の太く短しどの指よりも
親指と人差指に糸をひく接着剤のみだりがはしも
頂点に達したるごと二度三度大きく揺れて独楽がとまりぬ
栓抜けばああああああと渦巻きの芯にむかへるものたちの声
夜の窓をあけてみるなりサイレンがしきりと鳴ればゴジラとおもひ
飄飄と生きたきわれも突風に盾つき歩むかうもりをとこ
さかだちをしたる天使の性別に話題は移るキャラメルむきて
その父の因果ならむか源氏名のごとき園児も泳ぎてをりぬ
菊の花に埋れて死者の顔ありぬ「見らるるのみの死者」に礼する
バスの中のみが明るし衛兵の立ちてうごかぬところを過ぎて
世間さまが黙つてゐないといふときの婆が世間にみえてくるなり
蜂の巣のやうに撃たれて歩みくるミラー・ボールの下のタフ・ガイ
頭よきことは罪にてあらねどもときにねたましうとまし○○
いちまいにまいさんまい菊ならぬ妻が憤怒の皿割るところ
ひとはぶしはなはさくらぎとりかごの鸚鵡に餌をやりてゐるなり
ハイヒールその他いきかふ陸橋に鳩はくくくく一六三羽
草にねてあふぎゐる空とつぜんにふさぎて犬の顔あらはるる
幼児期のバナナおもへば黄金の皮むくことのたのしきろかも
男にうまれてきたるよろこびはヘア・トニックを髪にふるとき
鶴女房ならずや襖のむかうにて灯もかうかうとミシンうごかす
この甘きカレーライスと引き換へに福神漬が大量にある
馬のごといななくならむくやしくばビヒズス菌といつてみろ
天地開闢ならむつくゑのひきだしをあけて光のさしそむるとき
継ぎて断ち祝ひて呪ひてをあはせ拝みしのちはみな排したり
卑猥なることおもへとや参観の日の黒板の「♂」と「♀」
琉金といふはおかまの金魚ゆゑひれふりながらゑさにちかづく
快感のソフトクリーム汝が舌のたてにぞ舐むるよこにぞ舐むる
ポリ袋で覆面されてああわれは流人のごとく笑はれてゐる
ひとのいふことには耳をかさずして若き男の何 カムチャッカ
日曜はシェ夫と呼ぶべし子を二人待たせて刻む葱がありたり
方言は文化やさかいと東京に来ていちだんとなまりが強し
えげつないことをしやはる新聞をたたみて母がポツリと言ひぬ
水洗のペダルを踏みて出できたり排泄せしは腸にあらずや
十の指くみてねむりぬ壁紙の花に埋もれて死者のごとかり
男の朝の儀式ぞシェービング・クリームたつぷりつけて剃るべし
夕立のごとき拍手とおもふときさらに雷雨となるアンコール
鼻に抜けし声もてなにか質しゐる園遊会の××××
うたたねの夢に義賊の次郎吉となりてばらまく小判の雨よ
「苦労せぬゆゑにぞやせぬ吉岡」といへる言葉もなかば真実
トイレ二つある家などを夢想する朝のもつともいそがしきとき
たとへばこのマイルドセブンのセロハンのほそき封切るときの快感
いつだつて「ドンマイ、ドンマイ」二十余年前の少年野球のことば
「おほわらはですよ」と言ひてふと思ふ兜の落ちしもののふの髪
スイッチを押してあかるむ部屋にをり明日がみえるといふこと寂し
万歩計の万に足らねば一駅を歩きか行かむその怒り肩




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草食獣・第五篇 草食獣隠棲篇    草食獣・第七篇 
 番外歌集 イタダキマスゴチソウサマ一九九五年  草食獣・第八篇  
     


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