続・草食獣

   

吉岡生夫第2歌集。昭和58年12月25日、短歌新聞社発行。定価2,500円。体裁148o×200o、目次1頁、本文209頁(TUVWX)、「後記」1頁。緑字印刷、1頁1首組。歌数198首。

絶版。

参考図書/安田純生著『歌集の森』(和泉書院・1999年)/高松秀明著『私の選んだ百壱冊の歌集』(短歌新聞社・平成8年)濱口忍翁著『現代短歌鑑賞 斜面の上の作家』(短歌新聞社・昭和63年)

 





 T
わが撞きし球ころがれりさげすまれきたる思ひにみまもるべしや
さりげなくコップに花の挿してある部屋あかるくてきみ娶りたり
幸福の駅の表示を背景に撮られゐるなりほほゑみながら
吊革の間(あひ)よりみたり河原にリモコンの機をとばす人影
のどぼとけ上下させをりかたむけしジョッキの丸き底みせながら
宝さがしの古地図ならねど手にしたる男に道をきかれてをりぬ
まむかへば腐食するらしわれの貌しきりと雨はガラスを伝ふ
チエホフに疲れて昼を眠るかな「小役人の死」をかほに被せて
放浪に駆らるるおもひ舗装してまなきに犬はあしあとのこす
紙かぶとかむりて亡父にまたがりし記憶ありともなしとも思ふ
あけきらぬ四囲の窓なる朽ちてゆく館にねむれる白骨(ほね)もあるべし
亡父(ちち)の墓に酒をやりつつ思ふこと少なくあらず男と男
客の顔みることもなくレジスター打ちて二枚の釣銭(つり)をくれたり
プールにはロックながれてゐたりけり身体(にく)のつかれをひたぶるに恋ふ
電話するひとの視線はゆきどころなしとて宙に据ゑられてをり
目薬を注してしばらく中庭をへだてし窓の会議みてゐつ
瞑想にふけるにあらず板壁を背にしてサウナの熱に耐へゐる
かぎ裂きに裂けしパジャマの上衣より傷つかざりし素肌がのぞく
買ひ換へてもらひし車磨きをりまたしても母の術中なれど
兄よりの手紙に母はさりげなく老眼鏡といふをかけたり
話すことしばらくなくて熱き茶に息かけてゐるもてあますごと
ときに水くはへてひとは包丁を研ぎゐたりおのが怒りも研げよ
ゆたかなる青春あらむみられゐることをたのしむモデルの少女
やさしき眼してゐしならむマンモスの牙はするどき反(そり)をもちたり
ひとりきてひとりプールにすごしゐつ孤独のかたちといふは知らねど
事務所へと朝を急げば吐瀉物の雨に打たるるところもまたぐ
寿司にぎる指の巧みさおのづから慚愧の念のよみがへるなれ
昼なりき環状線にループタイしめてゆらるる初老のをとこ
 U
間の抜けし声もて鳥にあいさつをされゐるわれといふおろかもの
垂れてくる髪をしきりにかきあげるそのたのしさに振る指揮の棒
ナプキンをつけて食事をする人の寂したとへば勤勉に似て
忘れられ砂に埋もれサングラス空の茜を映してゐたり
煙草に火つけしがときをおかずして通路へだてし人も吸ひをり
赤電話をはりて人の去りしあと受話器をとればのこるぬくもり
うしろめたきことはなけれどブラインド鎖してのぞけば道ゆく人ら
うちつけにマイクつきつけ「街角の声をきかせてください」といふ
学(を)へてよりを指折り数ふるにこのさびしさやひとに狎れたり
手際よくカードくばられゆきしのちわが人生のごとき札ある
受話器よりどなたですかと幼児にきかれてをりぬやくたいもなく
気にかかることのいくつか思ひつつ鉛筆削りを回してゐたる
吊革を持つほかなにもなきわれの視界をふとん干すひと過(よぎ)る
ふりむけばたれもつけくるものはなし歩きだすときまたさわぐ樹樹
ベランダに乾ししズボンがぶらぶらと揺れてゐるなり自殺者のごと
東京にあらねど浴衣きて歩くここも銀座と呼ばるるらしも
幼児は眠りてをりぬその膝におかれて瞳閉ぢざる人形
真夜中をすぎしホテルの廊下きて「非常出口」の点るやさしさ
長髪にしてよりわれの考へのやや鷹揚になりしや否や
電話するときにコードをいぢるくせ愛撫のごとくわれはしてゐる
「俺の女」のごとき錯覚午前二時すぎたるディスク・ジョッキーの声
理髪店の椅子にもたれてみし夢の残滓よわれはほほゑみて醒む
世の中に背中むけるといふ意味よ浮浪者ねむれば胎児のかたち
内緒話するかのやうに息かけて窓のくもりを拭く女の子
降伏の標(しるし)のごとくわが家の二階の窓に風はらむシャツ
触診の指うごかしてゆくときも女医には女医の匂ひがありぬ
写真にて知るのみなれどわが親し中南米に棲むナマケモノ
陰微なるたのしみあらむ背をむけてカルテになにか医師は書き込む
試合なき日も球場に聳えゐてスコア・ボールド まみどりなりき
もしやタイム・トンネルならむ腋毛こき道路工夫は穴を穿てり
食堂に遅き昼食とるわれは一部始終をみられてをりぬ
誰が躰を巡りをりしやわが掌(て)にて討死したる蚊がのこす血は
あたらしく家建つ音に紛れつつ路地を過ぎたり子の泣く声は
しばらくのためらひありて書き込めり賞罰欄に「なし」の二文字
 V
頭のうへの鋏のおとに片笑みぬ慚愧慚愧とふともきこえて
井の底に幽閉されしをとこゐてのぞけば彼もわれをみてゐつ
はめられし壁の鏡を歩みゆくひとりをわれと知るまでのとき
掠奪をされゆく人にあらざれどラッシュ・アワーの扉(と)が閉りたり
わざはひのさきがけならむいろがらすはめし車が径にとまりて
朝をゆく舗道にいつもすれちがふジョギング男まだ死なずけり
さりげなくのぞきみすればかたはらのをとこ洋書をひろげてゐたり
目的の地まで無言の運転手ふりむき尋常のことをいひたり
アキレス腱みてしまひたり『壮快』といふ名の雑誌立ちて読む人
孫たちに手をふりゐたるその手もて老婆みかんをむきはじめたり
もらひたる地図を片手にさがすときポルノ映画の看板多し
椰子を背に妻と肩くむ写真ありて遺影とおもふまでにほほゑむ
ハイウェイ・ランプ灯れりひのくれは幽界ならず明界ならず
また負けてきたる力士は名を変へて戦はすのみ紙相撲ゆゑ
泣くまいぞ勤め帰りを立ち寄りてケーキ買ふ店明るすぎたり
春なりきのつぺらばうの墓石をならべて客を待つ石材店
いちやうに三脚据ゑてアマチュアの写真家のぞくそののぞき穴
「故障」てふ紙の貼られし壁時計ときどき見てはまた事務をとる
あがなはむ罪あるごとし天高く差し上げしかばよろこべる子も
舗道よりとある事務所のなか透けてホワイト・カラーはいきいきと見ゆ
不器用に生きて何せむかさたてにあるはずの傘また奪(と)られたり
門柱のインターホンと話するひざかり昼のものぐるほしさ
借りてきた猫のやうにも坐りゐる新聞のなき朝の食卓
解きがたき日日なれどグラタンは電子レンジのなかを回れる
自転車をとめて電車の通過待つわれは滅びむこの小さき町
いちはやく町の不幸をとらへむとそびえゐるなり消防本部
トラックの幌のうちらに笑ひをり演習終へて帰る自衛隊員
二十代さいごの汗とおもひつつ自転車押しゆく七月の坂
引退をうはさされをり四股を踏む力士とわれの年ことならぬ
寡婦として生き来し母と争へり貧しき夕餉かこみてわれは
自転車のバック・ミラーに佇ちてゐる妻は木槿の角まがり消ゆ
病院のベッドに妻のくるしむをみてしまひたり夕鶴のごと
天井にぶらさがりゐる時計にて長針うごくほかに別なし
待つほかに用なきわれのかたはらを車椅子患者通り過ぎたり
こふのとりが運ぶにあらぬ証にて汚物処理場の白き壁見ゆ
産声のあがりて間なく出できたる妻にみらるる木偶の坊にて
大き旅して来しゆゑかガラス戸のむかうにわれのみどりご眠る
水道の水いつぱいに拈りをり父となりたる顔洗ふとて
さりげなくヒモが空より垂れてゐてひけどもひけども限りがあらず
一瞬、不吉のごとくみてゐしが胴震はせて電話鳴り出づ
われになき感情ひとつ審判に怒りて抗議する背番号
抱きやりて児をみてをりぬ父となることたはやすき創造のひとつ
ゆふやみの迫りし部屋に灯もつけず妻が母乳を与へゐるなり
うたがふといふこと知らぬ赤児ゆゑ首さだまらず妻の腕に
ある夏の林間学校の朝のごと蝉が鳴きゐる歯刷子もてば
戦中にみどりごたりし人なれば「勝」といふ字を名にし負ひたり
遠景の都会(まち)に夕日のかかれるはノストラダムスの予言のごとし
ほどほどの貧しさなれば窓外の夜景(まち)みおろして肉は切るべし
UFOに連れさられしや男らの声せぬ昼の住宅街(まち)を歩めり
外灯を消し忘れたる下に来て尿する犬暮れてをりたり
流されてゆくにあらねば一本の杭あり蜻蛉の翅やすませて
足首をつかめば獲物めきてくる児にあたらしき襁褓を当つる
ロッカーに服ぬぐときしみどりごの乳のにほひにふとつつまるる
滅亡の刻到るべしスクリーンに地球が杳くうつりてをりぬ
 W
帰宅後もデスク・マットにはさまれてほほゑむ家族の写真ありたり
父が逝き兄去り祖母となりし母この十年を括りていへば
そのかみの亡父が坐りてゐし場所を占めて一年経にけるわれか
ぐじやぐじやに荒れたる胃などおもひつつ覚めてをりしは夜のどの部分
児に乳をふふませ眠る妻の背にこの淋しさはひろがりゆきぬ
吊革にサラリーマン氏揺られゐる朝のしたしさ夜のしたしさ
夢の中にてわが炎上せしめしはこの邸宅(いへ)ならむ犬が吠えをり
もどりくるひとなどなきにちらほらとふる夜の雪に家族はなやぐ
刺客なき一世(ひとよ)淋しむぬるき湯に義朝おもひマラーをおもひ
ねぢまきて玩具の犬を吠えさせてをりたり妻も児も家に居ず
母の背にありたる日より厳然と女は怒らぬものとおもひぬ
夢なれど木の下かげに憩ひをる石仏ひとつわれのものなる
姿勢よきアナウンサーが伝へくる「世界」をみつつ夕飯をとる
気負ひたるこころもいつか寂しくて誤植の多き本を閉ざしぬ
ハングルは知らねどいつも横幕のをはりの!が気になる車窓
マンホールまたぐときにし流れゐる水の音きくやさしさを聞く
まるきことうたがはざれば地球儀を棚にならべる売場も歩く
泳ぎつかれてシャワーを浴びる夜の室に汗かくものの体臭は充つ
車窓よりテニスたのしむ少女みえとりとめもなく思ふ「階級」
いつかわがききたることもおぼろにてまぐはひの化石のこるポンペイ
その母に足をあづけてみどりごはなまあたたかきもの排泄す
同姓の市川房枝逝きし日の午後にし伯母は息ひきとりぬ
高這ひをはじめし吾児をイグアナのごとしと咲(ゑま)ふ その母が咲(ゑま)ふ
この人も選民意識もつならむしきりと使ふ「民衆」の語を
つんつんと土筆の生えし霊園を歩めば死者の指折るごとし
文庫本のモーパッサンをひろげゐし辻占ひに視らるる運命(さだめ)
夜来の雨に散りたるなごりにて桜まみれの自動車走る
亡父よりも長く生きゐる伯父のことふとも憎しむ電話を切りて
ランニング・シューズの裏をみせながら選手しだいに落日の中
竜の刺繍の戦闘服の少年が何思ひしかVサインする
右翼の街宣カーにマイクもつ男は猪首と決まりたるらし
少年期のわれらが星よマウンドに歩みて敗戦処理託さるる
ベランダに団地サイズの鯉のぼり釣りたるごとく上げむとしつつ
張り子の虎の頭をたたきたる吾児にしきりと首ふる張り子
しよぼしよぼとしてゐし顔も卓上の眼鏡をかけて生き返りたり
いつのまにか夜のカーテン引かれをり窓の主をみしことあらず
歯のごとく並ぶピアノの鍵盤をたたきて遊ぶ児の小さき背
かたくなにわれの意見を通したる夜は鏡に猿が映らむ
王さまの耳はロバの耳王さまの 叫べとごとく夜のマンホール
想像の難き未来のひとつにて吾児が二十歳(はたち)となる二〇〇〇年
わが押ししボタンの数の音のむた複写されゆく履歴書の貌
佇ちどまりまた佇ちどまり歩みくる児に一歳のかがやく夕べ
出奔は夢のまた夢この小さき町におとしてゆく機影あり
解体をされゆく家のかたはらを過ぎつつたのし町滅ぶべし
非常階段おりくるくつの音かるくかるく生きよと歌へるごとし
咀嚼する余裕もなくて奪はるる命とは何 担架に白く
 X
弓夫のはらからなれば丈生といふ男の子 麻乃といふ女の子
涅槃図に杳きゆふぐれマンションのアンテナ群に折れたるもありて
ポストの腹にたまりし用無用たばねて郵便夫が持ち去りぬ
水切りしレタスを口にはこびつつさみしもよ小鳥のごとき朝食
掃除機を恐るる吾児が掃除機にまたがり宇宙を旅する童話
あいてゐる猪口としみれば注ぐ癖は父方ならむ母方ならむ
地勢図をたとふればたつのおとしごのわが街 われの家は尾にある
鳩時計の鳩が時刻を知らせをりまたふたたびの幽閉の身ぞ
なぶられてゐるにあらねど丁重にわが家族ボーイにメニューきかるる
婦人もの下着売場にブラジャーが威圧するごと飾られをりぬ
眼だけをわづかにみせし過激派のその後 なかんづくシンパのその後
台所の窓より今宵満月が昇りぬ飼ひ慣らされたるやうに
エレベーター・ガールとわれの二人なるしばらくありて扉(どあ)がひらきぬ
一人の女の運命を狂はせしことさへなくてバスに揺らるる
ドライヤーあてむとひらく鏡台にべたべたと児の手形のこれり
ポケットに財布をもたず出できしが街に師走を急ぐ声する
なまぐさき風を意識す閉園のちかき動物園をゆくとき
トー・シューズはきたる少女つま立ちぬああ選ばれし生誕のごと
金網のなかの兎をわが干支とおもふときかなししきりとかなし
投身のありてもふしぎなきごとくビルは四方に窓ひからする
そのひとの吐きし煙がわが顔をつつみたるときふと話題なし
ホームにてチューインガムを踏みつけし朝の不運がつづきてをりぬ
エスカレーターにのるとき頭下げくるる女がありてこころなごめる
弁当を食べ終はる頃いづこともなくあらはれてくる外交員
ラッキーといふ名の犬が尾を振りて朝朝送る隣家の男
スタンドに昼を酒のむ中年の背中がならぶ光景もよし
福耳とのかかはり如何亡き伯母の遺産を少しわけてもらひぬ
アレルギー性鼻炎なるらし鼻かみて鼻かみておもふ 人生のこと
夏の夜のわづらはしさよあかるくて近所の主婦にあたまさげゐる
亡父へのこれもさよなら新しき表札われの名を書いてゐる
いきものの走るおとあり真夜すぎし家をわれらは共有すらし
玩具売場の玩具の陰ゆふとみれば孤児のごとくにわが児遊べる
武者小路実篤の額がかかりゐて待たさるるわれは好人物を
なまけものなるわれが子のため働くは滑稽ならむネクタイしめる
ぬばたまの闇におもへりねむるまもわが少額の利子殖えをらむ
無表情に立つ駅員は杭のごとしそこより分かれひと流れゆく
 後記
 『草食獣』つづく、私の第二歌集である。『続・草食獣』と命名した。ずいぶんと迷ったあげくが、これである。まだ『草食獣』の世界を精算していない、という心のこり、あるいは、人間、そんなに簡単に変わってたまるものか、といった気持。それらが交錯して、新しい歌集名を拒んだわけであるが、むろん、怠惰なせいもある。
 作品は、昭和五十三年から五十七年にかけて発表したもので、一九八首を収録した。年齢にして二十七歳から三十一歳。五部構成のかたちをとっているが、ほぼ制作年順にまとめてみたもので、特に意味はない。
 今回も、高瀬一誌氏、石黒清介社長には、万端、お世話になった。厚くお礼申しあげる次第である。

  昭和五十八年九月十四日                     吉 岡 生 夫


  草食獣  草食獣・勇怯篇 草食獣・第四篇
草食獣・第五篇 草食獣隠棲篇     草食獣・第七篇      
   番外歌集 イタダキマスゴチソウサマ一九九五年  草食獣・第八篇  
     

 

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