𠮷岡生夫第6歌集。2005年1月11日、青磁社発行。定価1,905円。体裁四六版。目次1頁、本文236頁、1頁1首組、歌数210首。散文「ニュートラル」21頁。装幀・川本浩美。 歌集に対する思い、和歌史に対する思い、そして歌に対する思いを綴る「ニュートラル」。大きな結節点であると同時に新たな展望を示す第六歌集。 参考/「隠棲するにはまだ早い草食獣への手紙」(「東郷雄二のホームページ」中「𠮷岡生夫歌集『草食獣隠棲篇』書評」) |
きのふまたけふも来てをりストリート・ミュージシャン歌ふかたはらを過ぐ |
食事後の口さみしさになめはじむるチャイナマーブルなかなか固し |
大統領直筆の碑もなりしとふ日本名「竹島」の記事が小さし |
二の鳥居三の鳥居は知らねども「一の鳥居」の駅に着きたり |
けふもまたティッシュペーパーくばりをりガードの下に立つ女の子 |
ティッシュペーパーさしだされたりもらはねば困るだらうと手に受取りぬ |
朝夕のわれのかひなをはなさざるテルモ電子血圧計嬢 |
コロトコフ音とらへてのちの判決はテルモ電子血圧計官 |
店員のをらねばただになりひびくレジの電話をわれはとるべし |
窓口にすわる𠮷岡生夫くんこのまま畢るわけにはいかず *「吉」の上は「土」 |
十余年のこる職業人として専門職をおもふこのごろ |
証明用写真撮らむとネクタイの結び目なほしてあごを引きたり |
四十代後半にして身につくる学生証はわれを励ます |
うれしくてまたみる通信教育の学生証は学割きかず |
資格取つてあとは計算外のこと猪突猛進せざるべからず |
そこぬけにあかるき空の下に立つガクランを見ず近畿大学 |
みどりこきかげをおとせるキャンバスに花の応援団いまいづこ |
AVはアダルト・ビデオならずしてあとがうかばず今日の試験に |
をじさんもをばさんもゐて日曜の通信教育受験会場 |
答案を書きなづみをりゆくさきにこころ待ちつつ右手が遅し |
ボールペン持ちかへてをり左手にこころ添ひつつかたちが不味し |
たのしみにしてこし学生食堂は閉まりてをりぬ日曜のゆゑ |
生協も休みすなはちキャンパスの自動販売機の烏龍茶 |
さしかけてくれる傘なき銅像にあはれ痕跡ある酸性雨 |
パイプ椅子にすわれる中の一人にて辞令を受くるエイプリル・フール |
カルテには小人症と書かれたりスコットランドに行く女の子 |
オランダの従姉に託し一日の案内を請ふアンネ・フランク |
四半世紀すぎてふたたび学生のわれに階段教室の夏 |
父われは御免かうむるイレギュラーのホーム・ステイも屈託がなし |
留年をまたしたのかときく声にさめて四十七の秋の夜 |
鳴きかはす鳥の群れあり縄文の時代にワープするてふ噂 |
あまたある若宮伝説そのなかのひとつのここも豊饒の秋 |
秋ふかき径をゆくとき伝説にふさはしくして四囲の集落 |
JRのよこぎる音を雨かとも聞きてソファより身を起こしたり |
香典を辞退するてふ葬式の閑散として椅子あるばかり |
旧式の紐ひつぱればゐせいよく水のながれてかたじけもなし |
進学はいや就職も拒否といふ父になげきの子はインディーズ |
おもほえば教育ママを完膚なきまでに裏切る子はインディーズ |
大学卒就職円満人生の母の常識外のインディーズ |
関学の軽音楽部卒といふ大江千里のやうな生き方 |
シンバルにペダルそのほか重さうに抱へてライブに行くインディーズ |
われのみのためにとまりて申訳なけれどエレベーターに身を押し込みぬ |
午前二時すこし前より子をにくみふたたびねむるまでの薄明 |
駅おりて傘をさしたり下千本人のをらねば桜も咲かず |
木の名前花の名前を知る人はたのしみならむ道をゆくさへ |
またの機会といふもなければ撮りておく著作堂隠誉簑笠居士(ちよさだういんよさりふうこじ)の墓 |
もちあはせてゐませんのでと頭を下げていただく名刺けふは三枚 |
名刺なき四年すなはち病後とはたのしからざることのみならず |
乗らぬとぞきめし車も仕事ゆゑハンドルにぎるおぼつかなけれ |
隅田川また淀川をゆく船の記憶にあをきてんとせいくわつ |
乱舞とはすこしちがひて阿古谷の川の両岸ひかりをやどす |
われのみの螢ならねど捕虫網もたすな懐中電灯ふるな |
まむしのこはさしらねば川中に三脚据ゑてほたるをまちぬ |
境内の池の水もて洗ひたる首のその後の消息のこと |
いまはもう水にしずみし集落をおもへと茅葺民家が二棟 |
雨ふつてゐるのかどうか日曜の朝を窓よりのぞく水田 |
最明寺川てふ川の土手になる枇杷の実きんにかがやくくもつ |
最明寺川てふ川の名にのこる寺をさがしてつひにわからず |
最明寺さがしあぐねて川の面をのぞけばうつる伽藍ありたり |
死んでゆく最明寺川みづあまく螢とびかふ六月の夜 |
わがしらぬ最明寺川よくはれて月をたよりにくる人の列 |
三階の窓のガラスを打つ音は世にカナブンといふ訪問者 |
硝子戸のガラスは均等ならずしてそこばく歪む大正の庭 |
ころもがへちかきあしたの食卓の芋粥うましなるときんとき |
さかのぼりくれば最明寺滝がみえ堂あり燭台あり炎あり |
茶店などあらうかと腹をすかせきし滝はも滝に人立たすのみ |
表装も高からむ額も高からむ妻ささやきぬギャラリーに来て |
山ならば単独登攀海ならば一人ぼつちの航海が好き |
たいざうかいたいざうまんだら湯に入りて荒井注氏のおもむくところ |
墓なんぞ、まことにかなしあとたえて廃墓とならむ石のかたはら |
左へと書きてゆくときてのひらの文字を汚して故由もなし |
子の蔵書すなはち週刊マガジンのたばねてかるしけふはゴミの日 |
たどるがに石のおもてをみてゐたり卒塔婆の風に鳴る聞名寺(もんみやうじ) |
実参院悟阿在焉居士とある石にカメラを向けてをりたり |
城として機能してゐし頃ならば仰ぐほかよりなき天守閣 |
白虎隊自刃の跡に立ちたれど城も天守もしかとわからぬ |
左足ふとくなりたりいな右の肉のつかざること五年ほど |
また例によつて精神鑑定の申請するを朝刊に読む |
「天守まであと四十分」にせはしなき旅の身なれば下りてきにけり |
天守よりはるかに高しチェック・インしたる今宵の部屋の夜景は |
ホームレスのひとりふたりを棲まはせてこの駅ずいぶん大きくなりぬ |
風がはこび虫がはこびていまを咲く花の秩序に如くものはなし |
最明寺滝の由来を入道と知りてたちまち憑きものも落つ |
番犬にふさはしき犬愛玩にふさはしき犬すれちがひたり |
気にいらぬ作はこはしてかへりみぬ陶器のやうに子はゆかぬもの |
左バッターボックスに立つイチローのあごのあたりは野武士然 |
おもろうてやがてかなしき蝶々の話芸も記憶のなかにしまはむ |
堰を切るやうなおもひの早口の桂ざこばの吃音もよし |
デジタルの点滅するとおもひしがわれの瞬きしてゐたるなり |
おもひだす森乃福郎ぬばたまの夜に棲むてふ森の梟 |
ただならぬヘリコプターの数はきて蝗のやうにゆく秋の空 |
戦場とならばすさまじあまたゆくヘリコプターは影おとしをり |
耳といへばまづはおもはむ耳塚のかたはら豊国神社ありたり |
春となれば耳てふ耳もひらひらと花をもとめてとんでゆくのだ |
耳てふは深き洞窟いつよりぞ左の耳に人の棲むらむ |
耳のみの木枯らし洞に棲む人も風の悲鳴を聴きておはさむ |
夢てふは夢てふうつつ現つとは現つてふゆめ明恵上人 |
おやすみは夢の入口おはやうは夢より現つに架かる桟橋 |
夢てふに脈絡あらずわたくしは飛び込み台で揺れてをります |
左手の受話器の声の早口をせきとめてまたせきとめて書く |
うづきその花の下ゆく甲冑の巴御前をカメラにおさむ |
十萬堂跡碑のぞけばリヤカーと青いテントも被写体となる |
パラグアイ国イタプア県ピラポ市は生まれかはりてのちゆくところ |
北海道増毛郡増毛町舎熊のごとく髪のはえこよ |
玄関を出でこしところおのづから大きためいき一つ吐きたり |
空泳ぐ鯉をのがしてなるまじと金太郎しかとだきつくところ |
金太郎あらため坂田金時のえにしめせませ宇治の金時 |
手にかこふほたるのひかりなかぞらに尾をひくひかり草生のひかり |
くやしさの代償としてたたきつくバナナのやうな右のグラブを |
阿字池にそそぐ陽光うらうらと波のごとけむ堂のうちらも |
くもにのる供養菩薩のいつたいはしづもりゐたり合掌をして |
輪光の菩薩半眼かんばせもふくよかにしてみちたらひたり |
人界に落としこしもの手には欠き菩薩はおはす早雲の上 |
くもにのる供養菩薩の天衣ゆれエキゾチックな立ち姿よし |
いまでいふならばハープをかなでゐる供養菩薩の面立ちやさし |
大太鼓いまし打たんとかまへたる供養菩薩も雲の上なり |
いくたびの戦火のがれて今をある供養菩薩はたのしさうなり |
あせたるはときのたまものありがたみ雲中供養菩薩をあふぐ |
携帯のメールひらきておもひをり右から始まるアラビアの文字 |
しきしまのやまとのくにの携帯のメールの文字よ立ちあがれかし |
ケータイを持たせたき人にあふひと坂本龍馬のどうざうのまへ |
秋草にすわれば風がわたりをりこれだけの生これだけのこと |
妻の許可おりて加はる特定非営利活動法人のこと |
そそらそらそらそそらそらそら満月にドロップ・アウトを夢みるうさぎ |
たまごからひなへとそだつ鳩の巣に人は寄り来る窓際の席 |
をのこまたをみなおなじく水泳のガッツポーズの脇に毛のなし |
おのづから視線はうごくスリットのスカートまちあひしつを過(よ)ぎれば |
うしなひし歳月たとへばふたり子のいとけなかりし日の秋の空 |
よきことばおぼえし今日のそのことば先人植栽後人乗涼 |
ガラス器よし陶器またよし漆器よし買はない客も品定めする |
キャンドルのほのほゆらめく部屋おもひおもふのみにて売場を離る |
ひぢまくらして客を待つ信楽の狸もぐわんばらないを主義とす |
なむあみだ靴の裏にはかまきりの質感のある腹がありたり |
人の背のうしろに立ちてのぞきこむ正倉院展あきひるつかた |
どことなうだらしがなくておもしろし前に肘置く聖武天皇 |
本館の仏像あまたおはすなか自坊を留主にしてこしほとけ |
個人蔵の仏はうれしガラス戸をへだててあまたの人つどふゆゑ |
ふとわれの加齢臭かと汗をかく腋をにほひぬ電車のなかに |
香水をかけてでかけし長男の茶髪ののこり香くさしくさしくさし |
桜井市大字鹿路をかちわたり大字竜谷くもわくところ |
若からば迷ふことなく大宇陀町大字嬉河原に待たむ |
空腹の身はさりながら道路より中のみえねばとほりすぎたり |
空腹の身はさりながら外よりは値段わからずとほりすぎたり |
コンビニはリュックサックを負ふ身にはやさしきところお握りを買ふ |
てのひらにうくる六花のほどもなく絹延橋の界を占めたり |
踏切をわたりてあかねさす昼のシャッター商店街をゆくめり |
梅さいて桃さいて桜さかざりし加藤紘一おもはざらめや |
稲光のち雷鳴のあはひさへみじかくなりて雨を降らしむ |
いまはただ策なし風神雷神図屏風ぬけこしゆゑの暗雲 |
みちにまよふ不運と運のうらはらのモラエス通りを歩みてゐたり |
ロープウェイでのぼりし駅の屋根裏のやうなるモラエス館に客なし |
てのひらにかこふ螢をのぞきみし胸の動悸のやうなるくらさ |
川筋のかぎりを棲息する螢ひかりてまひてほそりてふとる |
おのづからミックスナッツに好き嫌ひありてさいごに残るハシバミ |
ぷらすちつくの豚のそこひゆたちのぼるベープマットの夏はきにけり |
蚊の鳴いてちかづくからに払ひしが耳の洞へと逃げてゆきたり |
食肉目ネコ科の猫の野生とはたてにぞほそき虹彩の闇 |
食肉目イヌ科の犬はかひぬしのくさりのさきで用を足しをり |
ポンチョともあるひはおもふビニールに刈らるる髪のおちてたまりぬ |
スキバサミの切れ味わるく二度三度ひめいをあげて散髪を終ふ |
もみあげの左右のかたちながさなど少しちがへど散髪を終ふ |
病院の待合室におかれたる擬似水槽におよぐうをたち |
ねむりへとおちゆくかなたオニアンカウひさしく待つといふ顔で待つ |
くらければチヤウチンアンカウくははりぬ海の底ひはそろりと参らう |
怪物も棲むてふうみのそこひゆくフクロウナギは餌をもとめて |
ひかりなければ識別不能の魚らゆき光あてれば竜宮城ぞ |
よく知れるキンメダヒまだしもそのほかはすがたよからぬ深海魚ゆく |
とよあきつしまのとりわけ徳島の一太郎ぐわんばれ花子ぐわんばれ |
算盤をうち振りうちふるトニー谷もはるけくなりぬ秋の空だよ |
さくらさく四月ぞわれの就職は手廻式計算機のをはるころ |
ねがひましては算盤はじく遠き日をおもへばコンピュータはつらいぞ |
大寅のねり天まづはきくらげを箸はえらびぬけふの晩酌 |
大寅のねり天つぎはいか焼きのつぶつぶ感ぞけふの晩酌 |
大寅のねり天たらこ巻きならば紫蘇の香たのしけふの晩酌 |
天敵のタコが鮑をおそふさま海の底ひも艶めかしけれ |
岩の間ゆあらはれおつる滝つ瀬は大きをみなのゆまれるところ |
しんのざうとりはづしなばかろくわがタップ踏み出す体なるらむ |
窓あいてぬすびとはぎの散りゐたり今昔物語をめくる風 |
高円宮は保険に入つてゐるのかと母が言ひたりテレビを見つつ |
木蓮の花をみあげてをりしとき隣家の窓にひとうごきたり |
フルーツの実のなるやうだあけがたの駅前左右(さう)の街灯の列 |
女性専用車両に隣る車両にも女性を乗せてうごきだしたり |
立ちてするゆまり座りてするゆまり犬にも足を上げざるがをり |
よこはひりしたる女を乗せて去る京都駅前タクシー乗場 |
妻は手に息子また手に娘また手にケータイをひらくリビング |
土俵こそいのちをつくす場所なればロボコップ高見盛ぐわんばれ |
大き羽根がちひさき羽根をしたがへてタカラジェンヌのはなやぐ舞台 |
吸盤の前肢みせてのぼりくる守宮かはゆし恐竜に似て |
ゲーセンにのみ棲息を確認すモグラ叩きの土竜よいづこ |
ああといひああとこたへて霊園のカラスにけふの日がのぼるかな |
孵化しつつある熊蝉をよろこびぬ油蝉より格上の蝉 |
若者にくばるチラシかわかものにあらざるわれにちかづきてこず |
実感としては無職にちかけれど職業欄に書く著述業 |
わが建てし家はすこしくかたむきてボールペン走るテーブルの上 |
大阪の駅のホームに停まることあらざる東西線はのどけし |
木津川を左にみては右にみてちかづく伊賀は霧こきところ |
ざじずぜぞざじずぜぞとぞ移動するクロコダイルの口ひらくとき |
犬用の缶詰あれどイヌ肉の缶詰あらずしきしまのくに |
わゐうゑを胴の低くてつぶれたるかんばせみせてくるブルドッグ |
伊賀上野のお堀のはたをゆく鴨の人をおそれぬ尊大ぞよき |
活字もてなれこしイメージこはしつつ茂吉の自作朗詠つづく |
主導権妻にうばはれ巡る旅さはさりながらマッカリうまし |
客室のつくゑにねむる聖書また和英対照仏教聖典 |
八戸発周遊バスに乗る客は妻とわれのみ下北をゆく |
釜臥山展望台の下にみる地の影そして影おとす雲 |
セルロイドの花のさかりを奥の院不動明王にきてぬかづきぬ |
岩場にも立つ風車さへぎらむものなくかぜにまはりだしたり |
一本がまはればつぎの二本目がまはりつぎからつぎと鳴る風車 |
亜硫酸ガスの噴き出すそこかしこ順路に沿ひてゆく恐山 |
バスで来てバスで去るとき宇曽利湖もテーマパークとして映りたり |
ニュートラル |
本集は私の六冊目の歌集である。 歌集に対する思い入れであるとか、こだわりについては「NHK歌壇」(平成十六年二月号)の「自選五十首」の中で触れる機会があった。またセレクション歌人シリーズ「𠮷岡生夫集」(邑書林)の解説「無敵の草食獣」の中で藤原龍一郎氏(以下、敬称略)も触れていた。しかし、この際であるので、もう少し詳しく、また範囲を広げて述べておきたい。 これが異例のスペースを割く理由である。 一、歌集名 たのんだわけではないが、偶然が左右して「草食獣」の命名は小池光となった。炯眼恐るべし。私は肉食獣への変身を夢見ていただけにショックだった。そして逃れようのないことを知った。これが『草食獣』の始まりである。 過去五冊の奥書から確認すると次のようになる(括弧内は発行年月日)。 『草食獣』(昭和五十四年七月十日)。 『続・草食獣』(昭和五十八年十二月二十五日)。 『勇怯篇 草食獣そのⅢ』(昭和六十三年九月十四日)。 『草食獣 第四篇』(平成四年九月三十日)。 『草食獣・第五篇』(平成十年三月三卜日)。 三冊日が分岐点だった。従来より『草食獣勇怯篇』と呼び慣わしてきたが正確に書くと、こうなる。世話をしてくれた高瀬一誌の配慮が窺われる。振り出しにもどることのできる最後のチャンスだったからだ。 団伊玖磨の『パイプのけむり』を教えてくれたのは永井陽子だった。「続」「続々」その後は「又」「又々」方式である。しかし私の歌集は「又又」までも届かないだろう。そして軽快なステップに二の足を踏んだ。 好きな言葉は「生涯一捕手」(野村克也)と「草魂」(鈴木啓示)。 これに『挙白集』(木下長鳴子)・『六帖詠草』(小滞蘆庵)・『藤簍冊子』(上田秋成)・ 『海人の刈藻』(太田垣蓮月)・『柿園詠草』(加納諸平)・『向陵集』(野村望東尼)・ 『志濃夫廼歌集』(橘曙覧)ほかのイメージが重なった。 すなわち歌集とは家集の謂いでもあった。 二、一頁一首組 第一歌集(二八一首)は一頁三首組である。目次も「あとがき」もある。岡部桂一郎に「践」文も書いてもらった。第二歌集(一九八首)は一頁一首組、目次はローマ数字のみ、簡単な「後記」がある。第三歌集(ニー五首)と第四歌集(ニー五首)は一頁一首組で目次も「あとがき」の類もない。第五歌集(三一七首)は一頁二首組、目次と簡単な「あとがき」がある。 この中で、どれが会心の歌集かと訊かれて私は迷うところがない。それは第三歌集と第四歌集である。第一歌集のときには見識を持ち合わせていなかった。第二歌集のときは模索していた時期である。前年に出た高瀬一誌の『喝采』が参考になった。一頁一首組、本人の「あとがき」の類なし。代わりに横田専一が「〈喝采〉ノート」を書いている。第五歌集のときは病後で体力も気力も低下していた。そして連作の色合いが出てくる作品の処理に迷いもあった。 一頁一首組にこだわるのは何故か。『草食獣への手紙』に収録した「解説の時代」から引用する。「序文、解説、後記、帯文、栞といったものがさかんである。このうち、どれかを欠く歌集はあっても、すべてを省略した歌集といったものはまずお目にかかることがない」。このようなことを前提として次の言挙げがある。 饒舌の時代だからこそ、作品は汚されることなく、黙って、無条件で読者の前に屹立していてもらいたいので ある。 この文章を書いたのは昭和六十一年、『草食獣への手紙』の刊行は平成四年、残念ながら私は反則を犯している。坪内稔典に帯文をもらった。 世間並みに生きている者の感じや考え。それが吉岡生夫の拠り所である。だから、彼は短歌や歌人を特権化 しない。この歌論集では、石川啄木や長塚節などを論じながら、特権化されがちだった近代短歌の意識をほぐし ている。そして、そのほぐした跡には、新しい歌の始まる気配がある。 評論集『草食獣への手紙』は歌集『草食獣第四篇』との同時出版だった。こちらには織田正吉から帯文をもらった。どちらも批判は覚悟で再掲したい。 和歌における新古今集、俳諧における芭蕉。日本の伝統詩は笑いを排除し、隔離することによって芸術的完 成を遂げたとみなしてきた。敷島のやまとの国びとは、和歌・狂歌の歴史的分裂関係を今に引きずり、短歌から 笑いの排除をつづける。それで現代の感性を詠むことは可能なのか。吉岡生夫は実作によってその疑問を呈す る。 「解説の時代」を書いてから十八年、右の二著を世に問うてから十二年、何が変わり、何が変わらなかったのか。一頁一首組への未練はある。しかし作品の出来る切っ掛けは得てして芋づる式であったりする。 示唆は歌集を再読する中でやってきた。岡部桂一郎歌集『緑の墓』、収録歌数二二六首、その「後記」である。 歌数を少なくしたのは、読みやすいかたちという気持ちからである。私の作品は連作が少なく、一首ずつ孤立 している。いうまてなく作品は私の分身にちがいない。が、また私を離れて独立した一個の物でもあった。作者 の経歴を述べないで、じかに作品の訴える能力にまかせたい。(傍点筆者) 潔癖性が薄らぐことによって姿を現した潜在意識、それが右の「後記」に反応した。とりわけ傍点を付した部分である。 三、俗 文化六年(一八〇九)に出版された宿屋飯盛編『新撰狂歌百人一首』(江戸狂歌本撰集刊行会編『江戸狂歌本撰集』第七巻、東京堂出版)には「戯咲歌古調」として万葉集巻第十六の誦詠歌・戯笑歌・詠数種物歌(四十三首)から三十二首を列挙している。ほかにも巻第四・巻第十八などからも引用されているが「狂歌のおこり」を万葉集の戯笑歌にありとして、こうも述べている。 今の世には狂歌をさして誹諧歌とおほえたる人あり狂歌は俗語をもてつつけいふなれはこれを誹諧歌なりと いはんはあまりなるしひことなるへし 「しひこと」(誣言)と論難されているのは四方真顔である。しかし、こちらも負けていない。むしろ後味の悪さが残るが『俳諧歌兄弟百首』(『江戸狂歌本撰集』第九巻)の序は文化十二年(一八一五)、その中で次のように述べている。 隔なき垣内の人々に我物申す。夏痩のやつれ癒さんには。大江戸の鰻(ムナギ)思りめすべく。よみ歌のやま ひなほさんには。俳諧歌集をよみ味はふべし。 この二人に対する評価はどうだろう。小学館の『日本古典文学全集』第四十六巻『黄表紙 川柳 狂歌』の「総説」は水野稔が書いている。 起源をどこにおくかについては異論も多いが、『万葉集』の喰笑歌(ししょうか)や『古今集』の俳諧歌にさかの ぼって狂歌を考えようとするのは、狂歌の本旨にもとるものであろう。 岩波書店の『新日本古典文学大系』第六十一巻、『七十一番職人歌合 新撰狂歌集 古今夷曲集』の「狂歌略史-源流から二つの撰集まで」は高橋喜一と塩村耕の連名となっている。 狂歌を単に滑稽歌と定義づけるならば、その起源は和歌の起源に埋没してしまう。なぜならば、滑稽は和歌 が本来持っていた機能の一分野であるからである。『万葉集』には「戯に嗤へる歌」があり、勅撰集に「俳諧歌」 の部立が見られるが、これを狂歌の古例とすることはできない。狂歌の始源は「狂歌」の語が文芸のジャンルの 名として文献に現われ始める鎌倉初期を待たねばならないのである。 角川書店の『鑑賞 日本古典文学』第三十一巻『川柳・狂歌』の狂歌の総説は森川昭が書いている。こちらは近世以前の狂歌として上代の『万葉集』から戯笑歌・無心所著歌(むしんしょじゃくうた)を挙げているし、中古の『古今集』から俳諧歌を挙げている。正直なところほっとさせられる解説であった。 最後に『日本古典文学大辞典』(岩波書店)の「狂歌」の項目を見てみよう。書いているのは浜田義一郎。「初期狂歌」からの抜粋である。 『古事記』の夷振(ひなぶり)、『万葉集』の戯笑歌、『古今和歌集』の俳諧歌、あるいは軍記物の中の落首な どに起こるとする古人の説には賛しがたい。狂歌という語は平安時代すでに用いられ、現に『明月記』建久二年 (一一九一)の条に 「当座狂歌アリ」と記されているし、狂歌の上手と評される歌人もいた。しかし歌道の権威 を憚って、狂歌は「言捨て」るのが不文律となっていたから、記録されることはなかった。 云々と劣勢である。しかし私は宿屋飯盛に肩入れしたい。四方真顔に肩入れしたい。理由は簡単である。 一、狂歌滅亡以前の実作者による発言は血脈の表明にほかならない 一、万葉集の戯笑歌は勅撰和歌集の世界において登場しない。 一、誹諧歌は勅撰和歌集の世界にあって正当に評価されたとは言えない。 『日本古典文学大辞典』で誹諧歌を見ると「正統的な典雅端正な歌に対して、傍流的な卑俗滑稽な歌をいう。また『ひかいか』と読み、おどけそしる歌というのが原義とする説もある」とも「軽妙洒脱・機智風刺・卑俗猥雑・暴露誹謗・稚気蒙昧など多様な戯笑滑稽の世界を展開する」ともある。飯盛は誹諧歌を雅言だとして真顔を「雅俗のさへちをたにしらぬやうにてかたはらいたきことならすや」と批判する。しかし忘れてならないのは雅言の世界の「さへち」(差別)である。 たとえば勅撰和歌集における部立の有無と収録歌数を比較してみると次のようになる(テキストに選んだのは角川書店「新編国歌大観」第一巻。○は「有」、×は「無」。上の歌数は全体、下の歌数は誹諧歌)。 古今和歌集(○、一一〇〇首中五八首)、後撰和歌集(×、一四二五首中〇首)、拾遺和歌集(×、一三五一首中〇首)、後拾遺和歌集(○、一二一八首中二一首)、金葉和歌集(×、六六五首中〇首)、詞花和歌集(×、四一五首中〇首)、千載和歌集(○、一二八八首中二二首)、新古今和歌集(×、一九七八首中〇首)。 以上、八代集を誹諧歌からみると三勝五敗、登場率は古今和歌集の五・三%を最高に○%、○%、一・七%、○%、○%、一・七%、○%となる。 次に十三代集を見てみよう。新勅撰和歌集(×、一三七四首中○首)、続後撰和歌集(×、一三六八首中○首)、続古今和歌集(×、一九一五首中○首)、続拾遺和歌集(×、一四五九首中○首)、新後撰和歌集(×、一六〇七首○首)、玉葉和歌集(×、二八〇〇首中○首)、続千載和歌集(〇、ニー四三首中二〇首)、続後拾遺和歌集(×、一三四七首中○首)、風雅和歌集(×、ニニー一首中○首)、新千載和歌集(〇、二三六四首中一八首)、新拾遺和歌集(〇、一九二〇首中一七首)、新後拾遺和歌集(×、一五五四首中○首)、新続古今和歌集(〇、ニー四四首中一九首)。 以上、四勝九敗、登場率は○%、○%、○%、○%、〇・九%、○%、○%、〇・八%、〇・九%、○%、〇・九%となる。 最初の古今和歌集の序は九〇五年、最後の新続占今和歌集の成ったのは一四三九年。およそ五六百年、拒否され続けた俗言は、どこに行ったのだろう。冷遇され続けた雅言はどうしていたのだろう。どこにも行かない。野にあってエネルギーを蓄えていた。そしてその出口の一つが狂歌でもあったろう。 四、定型詩年表 勅撰和歌集も終わりになると私の定型詩年表も活況を帯びてくる。 定型詩年表とはツールとして文学年表等から作成した私的なノートである。縦に西暦、年号、短歌、狂歌、連歌、俳諧の連歌、俳句、川柳、それに歌謡(仏教歌謡)として御詠歌の欄を設けている。名称は現在に基づいている。したがって勅撰和歌集は最上段の短歌の枠に収まっている。多少の飛躍はあるかも知れないが、これがなかなかの優れものである。 『新続古今和歌集』以後の主立った作品を追っていく。一四八八年、『水無瀬三吟百韻』。一四九五年、『新撰菟玖波集』。この二つは連歌である。一五四〇年、『独吟千句』。一五五四年(天文年間)、『新撰犬筑波集』。この二つは俳諧の連歌である。一六四五年、『毛吹草』。一六五一年、『俳諧御傘』。この二つは俳句である。そして、狂歌だが一六四九年、『吾吟我集』。一六六六年、『古今夷曲集』となる。あと一七六五年、『柳多留』。川柳である。参考ながら一六八七年、『四国遍路道指南』。現在のガイドブックであるが定番の御詠歌にも漏れがない。同年には西国巡礼の『観音霊場記』も出版されている。 定型詩年表への登場は短歌の磁場からの離脱の順序でもあろう。したがって狂歌の出遅れは、同じ三十一文字の束縛あるいは権威から最後まで自由でなかったということでもある。先導したのは俳諧の連歌や俳句であった。 これを短歌の側から眺めたらどうだろう。あきらかに才能の流出である。定型詩年表で言えば才能の分散。勅撰和歌集の時代から言えば長期低落傾向である。 一方で「五七五七七」対「五七五」という構図で眺めるとどうか。今の大型書店の詩歌コーナー以上に「五七五七七」は健闘しているだろう。 また仏教歌謡としての御詠歌について十返舎一九は「何人(なんぴと)の作意なるや、風声(ふうせい)至(いたつ)て拙く手爾於葉(てにおは)は一向に調(ととの)はず、仮名違ひ自他(じた)の誤謬(あやまり)多く、誠に俗中の俗にして、論ずるに足(たら)ざるものなり」(日本本図書センター『十返舎一九全集』第三巻、『金草鞋(かねのわらじ)』)とにべもない。しかし哀調を帯びた節回しと鈴(れい)の音によって慰籍と救済の場を提供したことは特筆に値しよう。 五、正史と稗史 明治になると狂歌の記載はない。代わって正岡子規の発言が目を惹く。「万葉集巻十六」(講談社『子規全集』第七巻)の一節である。 滑稽は文学的趣味の一なり。然るに我邦の人、歌よみたると絵師たると漢詩家たるとに論なく一般に滑稽を 排斥し、萬葉の滑稽も俳句の滑稽も萄(いやしく)も滑稽とだにいへぱ一網に打尽して美術文学の範囲外に投 げ出さんとする、是れ滑稽的美の趣味を解せざるの致す所なり。 このあと狂歌も誹諧歌も万葉には遠く及ばないというふうに展開するところが子規の子規たる所以であろう。それでも新時代の到来を思わせるに充分である。 また、こうも断言する。 真面口の趣を解して滑稽の趣を解せざる者は共に文学を語るに足らず。 子規の論を継承した長塚節は滑稽についても「嘗て亡師の所論載せて『日本』紙上に在り、敢て蛇足を添へざるべし」(「万葉集巻の十四」、春陽堂『長塚節全集』第四巻)と絶対的な傾倒を示しているし、実際にも滑稽趣味の作品が多い。 いとこやの妹とさねてぱ嫁が君ひくといはじもの妹とさねてば 利鎌もて絶つといへどももとほるや蚯蚓(みみず)の如き洟垂るる子等 しかし評価となると概して低い。たとえば右のような作品を例に挙げて柴生田稔は「節の歌の中ではもっとも低級な部類のものであり、また節の歌境の進展のためには、むしろ好ましからぬ傾向であったと考えられるのである」(「長塚節」、弘文堂『日本歌人講座』第六巻)と全面的に否定する。田中順二は『アララギ歌風の研究』(桜楓社)において肯定的論調を展開しているが、そのよってきたるところとして三つの理由をあげている。すなわち「その一つは、万葉集や催馬楽などの熟心な研究と柔軟な理解による語句の自由自在な駆使がいちじるしかったこと、その二は節の性格が真面目冷静であったこと、その三は節の生涯の悲哀に満ちていたこと」 (「長塚節のユーモア」)である。また総括して、こうも書いている。 正岡子規に発したユーモアの歌は根岸短歌会の人々に継承されはしたものの、その多くは浅く終ってしまっ たようである。(略)。だが子規の発見した冷い抒情のユーモアはかならずしも全くその後絶えたわけではなかっ た。茂吉と節との歌に、その性質こそ異ってはいるか、その命脈を伝えながら、それぞれに独特の境地を展開 していったことを知るのである。特に茂吉にしても、その最晩年の歌には深い人生的な詠嘆が奏でるユーモラス なひびきを聴くことができるように思うのである。そうしてさらにいうならば、近代歌人の多くにこうした境涯的な 高次のユーモアの歌をほとんど見出だすことができないのはさびしいことである。けだし、節と茂吉とは風土や 環境を異にしながら、両者とも子規の遺髪をよく継承しつつ、その生涯がいたく悲劇的であったことにかかわり があったのであろう。 同書「歌風から見た節と茂吉――特にユーモアについて」からの引用である。数少ない肯定派もしくは理解者であることは間違いないのであるが、それでも私には不満である。柴生田稔の「もっとも低級な部類」云々に至っては問題外であるにしても「深い人生的な詠嘆」や「境涯的な高次のユーモア」とか「悲劇的」であるとかは茂吉に引きずられての展開であろう。子規は「滑稽は文学的趣味の一なり」と書いた。また「真面目の趣を解して滑稽の趣を解せざるは共に文学を語るに足らず」とも書いた。そこに前提条件のなかったことを私は大切に思うのである。 まくらがの古河の桃の樹ふふめるをいまだ見ねどもわれ恋ひにけり 紅の下照り匂ふももの樹の立ちたる姿おもかげに見ゆ 横瀬夜雨の弟子、若杉鳥子(当時十八歳)の写真を見て節の詠んだ擬古二首。全集第六巻の巻末記に「明治四十三年六月、紅の大奉書に染筆して夜雨に贈った」とある。伊藤左千夫にも絵葉書の芸者三人に添え書きしたくたちならふたかお栂の尾まきのをやいつれまされる紅葉とか見む〉(岩波書店『左千夫全集』第九巻、書簡番号二六五)がある。こういうのを戯歌と呼ぶのだろう。もっとも若杉にはくまくらがの古河の白桃咲かん日を侍たずて君はかくれたまへり〉という挽歌もあり、節の執心が伝達を予想したものであったことが窺える。どうやら正史と稗史は個人の中にも並存するようである。 ことわっておくが私は狂歌が好きなのではない。和歌が好きなのではない。短歌が好きなのでもない。五句三十一音の定型時すなわち歌が好きなのである。 道草を楽しみたいのである。 ☆ ☆ ☆ 平成十一年から十五年の作品より二百十首を収録した。うち平成十五年三月、それまでの公務貝生活に別れを告げた。〈定年の日まで勤める庁舎かとみあげて夜の襟を高くす〉と歌ったこともある。しかし病気があった。また振り返ると職歴よりも長い歌歴があった。「される人事」と「する人事」の二者択一を思った。 左は、その頃の心境である。 柏手をうちて願はくこののちはみのりの秋の人生をこそ 現在の肩書は「歌人」である。しかし歌人名簿の職業欄に歌人で登録するわけにもいかない。そんな場合は「文筆業」と書いている。退職して間もない頃、青春18切符で東京に行ったことがある。日帰りができないのでホテルに泊まることにしたが、ここにも職業欄がある。思わず「無職」と書きかけたが、ひとつ深呼吸をして「講師」と書いた。ともあれ今したいことを列挙すると、次のようになる。 一、「短歌人」に連載している随筆「あっ、螢」の出版。 一、仮題「宝船-狂歌百人一首」の執筆と出版。 一、御詠歌を意識した仮題「四国曼荼羅紀行」の敢行及び執筆と出版。 先の「短詩型年表」に即して言えば右より短歌、狂歌、御詠歌を念頭に置いた「仕事」ということになるだろう。 はつゆめはつよくおもはむおもふべしおもはばかぜをよぶたからぶね 過日、久松潜一編著『日本文学史 上代』(至文堂)を開いていたら文学の発生説には心理学的発生説と歴史的発生説があると述べられていた(大久保正「文学の発生とその諸形態」)。触角が働いたので読み進めると模倣説、吸引本能説(性欲起源説)、感情起源説、遊戯衝動説、生産起源説、労働起源説、信仰起源説、宗教起源説などが登場して話も複雑である。もう少しコンパクトな説明がほしい。「周知のように」とあるので目を辞典に転じると、やはりあった。新潮社の『日本文学小辞典』、項目は「古代文学」、執筆しているのは久松潜一である。 文学の発生の動機としては、感動起源説、性欲起源説、模倣起源説、遊戯説などの心理的な動機による起 源説や、信仰起源説、労働起源説などの社会的動機による起源説がある。これらは互いに関連しつつ文学を 発生し成立させている。 目から鱗というが、これは歌の作り手としての実感であった。すなわち私の歌材に対する反応を顧みるとき、濃淡の差はあれ、あれもある、これもある、右のどれ一つとして登場しないものはないからである。文学の発生は遠い過去のことではない。私たち自身の中にある。常に現在進行形なのだ。 そしてそのどれ一つとして斥ける理由を私は持たないのである。 今回は青磁社の永田淳氏のお世話になった。装丁は『草食獣第四綸』『草食獣への手紙』以来となる川本浩美氏にお願いした。 私には再出発の「草食獣」である。 平成十六年秋 𠮷岡 生夫 |