SORAの活動報告 (2005年01月01日〜2005年12月31日)


活動報告2001(2001年11月活動開始〜12月31日)
活動報告2002(2002年01月01日〜12月31日)

活動報告2003(2003年01月01日〜12月31日)
活動報告2004(2004年01月01日〜12月31日)
活動報告2006(2006年01月01日〜12月31日)
活動報告2007(2007年01月01日〜 )




11月23日(水)、目黒区中小企業センターの5階会議室において、『督永忠子(SORA現地責任者 2005年秋の帰国報告会』を開催いたしました。

講演会では、現在のアフガニスターンの状況、SORAの支援活動の様子など、督永がアフガン報告を行い、アフガニスターンの今の様子を聞くことができました。
また、10月に起きたパキスタン北部大地震に関しても、現地での緊急支援の様子が報告されました。

[2005.12.22]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(16)』−by 田城 薫
朝6時半起床、庭の手こぎ井戸のところに行くと、金だらいに、がっちりと氷が張っていました。
寒暖計は3℃くらいなのですが、地表近くは0℃を下回っているようです。

今回、約2週間のアフガン滞在中、少なくともカーブルでは心配された選挙後の混乱もなく、平穏な内に過ごすことができました。選挙当選者の正式な発表は、未だなされていませんが、人々は大方誰が当選したか分かっているようです。それにしても、選挙の不正があまりにも多く発表できないとはいえ、1ヶ月半を経てなおとは。なんとも、先が思いやられる状況ではあります。

また、建設ラッシュは加速度的にビルの数を増やし続けていますが、そのほとんどが北部同盟(タジク人)トップのファヒム氏やハザラ人トップのハリリ氏らの所有と聞くと、軍閥にお金が集まる構造はまったく変わっていないことを示しているわけで、これまたこの先、きな臭いことが起きなければ良いなと思うことしきりです。

まあ、先を憂いてばかりいても仕方がないので、私たちは、小さくてもできる支援を確実に積み上げていくことが大切だと思います。小学校は、ほぼ完成しましたし、農場の八升豆は全滅したものの、事務所の方はぷくぷくと太った豆が穫れました。ジャガイモも肥料さえ徹底的に与えれば、大きな粒ができそうですし、1年の成果としては良しとして帰国することとします。

[2005.12.01]



『2005年 カーブル便り(19)』−by 督永忠子
アフガンでは地方選挙が終わって2ヵ月、日本政府外務省の言うところの海外安全情報では「まだまだ危険で、退避勧告が出たまま」だが、冬を迎える前にと、田城事務所長がカーブルへ出かけてくれた。
「危険な状況が改善された」わけでもないが、地方選挙の前から日本人の駐在がなしになっているカーブル事務所、おまけに大切な八升豆の生育状態、さらにはジャガイモも気にかかっていた。

農業試験場に借りた土地で栽培していた、多収穫種のジャガイモは土地が痩せているせいか一株に8-10個、多いものには14個もついているものの粒が非常に小さいと。比較のため植えたアフガン特産バーミヤンのジャガイモも同じ状況とか。パーキスターンの北方地域で出来るものなら、アフガンでも出来るはず!さらに来年を目指す!!

同じく農業試験場の八升豆は、発芽時期に寒かったこと、発芽してからは水不足に悩まされ生育が阻まれた。カーブル事務所内の敷地に植えたものはせっせと水をやり続けたので生育状態は上々、水さえあればバッチリという結果となった。
バイアグラ効果もあるという八升豆だけに、期待を背負い過ぎたのかも!

[2005.11.16]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(15)』−by 田城 薫
アフガニスターンの秋空は、真夏の青空より一層深みの増した青になります。「抜けるような青空」と良く表現されますが、これはもう、さしずめ宇宙まで「抜けきった青空」とでもいいましょうか。

支援地スルハバット郡へ行って来ました。
その「抜けきった青空」の下、小麦の刈り入れも終わり、牛やロバを半径5mほどの円形に沿って歩かせ、麦を踏せることで脱穀する様子がいたるところで見られました。何人かの農民に、今年の麦の作況を聞いてみたところ、「豊作だよ!去年の50%増しというところかな」という答えが、示し合わせたように返ってきました。冬場の大雪と春先の雨が、功を奏したということです。これで、アフガニスターンはこの1年、飢えに苦しむことはないでしょう。なんとも、のどかな2日間でした。

スルハバットへ行く途中、プレアフガーナ村に寄り、高地(2500m前後)で生育するか否か試していた多収穫ジャガイモの状態を調査しました。
結果は、ダルラマン農業試験場と同等のできとなり、生育することが確認できました。収量は、ダルラマンと同じくらい(茎1本に8個〜10個、多いもので14個)付いていました。二つの場所に共通していえるのは、粒が非常に小さいということです。
けれども、これは比較のため植えたアフガン特産のバーミヤンのジャガイモも同じなので、土地が痩せているからと思われます。農場スタッフは、「ここの土地はダメだよ。来年は、あっちの土地に植えよう!」と平然と言いました。「なら、最初からそっちにしてくれよ」というと、「悪い悪い。ガハハハハ」で終わりです。こっちは、管理代まで払っているのに…。

ちなみに、ダルラマンでは200kgのジャガイモが取れました。
粒の良いものを選りすぐり、1週間ほど種芋として乾かし、庭に1.5mほどの穴を掘って保存します。スタッフのファリードの家が農家だけあってなかなか詳しいようです。本人も、「ワタシ、ノーミンデス」と言って、来年、八升豆とジャガイモ、それに渡邊さん(SORA運営委員)の蒔いたゴーヤーを家の畑で試したいと、意欲を見せています。それに触発されるように、他のスタッフも自宅の庭で育てると張り切っていて、それが今から楽しみです。

ホラ・チュラン村の小学校は、屋根の最終仕上げと井戸掘りの仕上げ、その他、細々としたものを残すのみとなっていました。
屋根の仕上げ、井戸の作業は、雪が降る前に終わらせないといけないので、急がなければなりません。しかし、今年中には細かい詰めも含めて完了すると思います。
低学年は、既に冬休みに入っていましたが、金曜日の休日だったにも関わらず、学校に20人くらいの生徒が集まってくれました。「一冊の会」から託された鉛筆と消しゴムと、各支援団体から託された支援金で買ったノートを子どもたちに渡すと、小さな手で嬉しそうに握り締めていました。

明日は、八升豆の取り入れにダルラマンへ行きます。
それでは、また。

[2005.11.16]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(14)』−by 田城 薫
空路、秋空の広がるカーブルに到着しました。さすがに10月ともなると、真夏の強い日差しは影をひそめ、秋らしく、やさしくも少し物悲しい太陽が、相変わらず建設ラッシュの続くカーブルを照らしています。
 
総選挙後の気になるカーブルの治安は、ひとまず落ち着いているようです。事務所に向かう車の中で、現地スタッフに確かめた限り、自爆テロや誘拐の類の事件は起こっていないということでした。
ただ、現在はラマダン(断食月)の最中なので、人前で飲んだり食べたりは慎まねばなりません。スタッフの話では、18日、アメリカのNGOスタッフが車の中で物を食べていたら、周りを取り囲まれ石を投げつけられ、ボコボコにされたという自業自得のニュースがあります。

ダルラマンの農業試験所に八升豆とジャガイモの生育状態を見に行ってきました。八升豆は4〜5mにまで伸び、7月中旬頃の悲観的な発育状況からすれば予想外の成長です。しかし、強い日差しに1日中晒されるせいか、葉も茎も葉焼けしてまっ茶色で、豆の房もごく小さめです。それでも、実が付いただけ、良しとすべきか。それとは対照的に、事務所の西塀の内側に栽培した八升豆は2時半頃から日陰になるので、まだ青々としていて豆の房も大きめです。いずれにしても、来年蒔くくらいの豆は目途がつきました。収穫は、2週間から1ヵ月後くらいでしょう。ジャガイモは、今度の土曜日に収穫する予定です。

いずれにしても、ラマダン中で皆、気が立っている中、行動には十分注意しながら活動しなければなりません。
それでは、また。

[2005.11.08]



『2005年 カーブル便り(18)』−by 督永忠子

3ようやく咲いた八升豆(ムクナ)の花が散り、その後にようやく実が生った。花が咲くまでも時間が掛かったが、この豆が収穫されるまでにまた2ヶ月以上もかかるらしい…。

豆は、チクチクした産毛に覆われていて、近づくだけで痒くなるとかなので、要注意だ。収穫は11月半ばころかしたら…。
ようやく実をつけたイスラマバードの八升豆

[2005.10.10]



9月17日(土)〜19日(月)、滋賀県彦根市の「ギャラリー いと〜」で、写真展「アフガニスターンの人々」が開催されました。

----記事より----
アフガン支援を紹介
写真展 あすまで

NGO「アフガン難民を支える会」(本部東京)の支援活動を紹介する「帰国報告写真展 アフガニスタンの人」が17日、彦根市本町の「ギャラリー いと〜」で始まった。同会運営委員の渡邊弘俊さん(68)が活動に参加して現地で撮影した写真や現地の衣装などを展示している。
渡邊さんは、彦根市出身でパキスタン在住の同会代表、督永忠子さんと交流があり、以前から活動に協力している。今年3月25日から約3ヶ月間、アフガニスタンの復興支援にも参加した。
活動の合間に撮影した写真の中から選んだ約150点を展示。町を警備する警官や商店街の様子、登校する子どもたちなど、最新のアフガニスタンの人々の表情や暮らしぶりから、03〜04年度に撮影した子どもたちに学用品を手渡したり文字を教えるなどの支援活動、地雷の撤去活動、荒れ地にリンゴなどの苗木を植える作業などの写真も展示。崩壊前後のバーミヤンの大石仏や石窟内の仏画などの写真もある。
パキスタンのショールや電話マット、ポーチから生活用品などを展示販売するほか、民族衣装や現地に関する資料も展示。募金箱に寄せられた寄金と純益金は現地の支援活動に充てる。
渡邊さんは「多くの人に見てもらい、アフガンなどの現状、難民問題について何かを感じ、支援活動の輪を広げていきたい」と話している。19日まで、入場無料 【松井圀夫】

2005年9月18日(日)
毎日新聞

[2005.10.01]



『2005年 カーブル便り(17)』−by 督永忠子
3月に蒔いた八升豆(ムクナ)の花が本当に、ようやく咲いた。
一房が20cmもある大振りで「藤の花」のように垂れ下がった華麗な豆の花にビックリ!
3月に蒔いて花時の今までに6ヶ月もかかった。花が咲くまでに時間がかかるとは聞いていた、しかし、せいぜい4ヶ月もあれば咲くものと思っていたから、最近では「もしかしたら土地が合わなくって咲かないのでは」と心配もしかけていた。
第一、つぼみがついて「咲く」と思ってからも2週間近く待たされた。けれども、今から11月までの期間に次々と花をつけ、実をならせるというので、楽しみが出来た。

家から30分ばかりの郊外へ蒔いた豆は、7月の下旬までは観察に通っていたが、夏の商売に忙しくて見にいけなかった間に、花も実もつかないというので小作人に全部抜かれてしまった…。「実がなるまでに時間がかかる」と説明しなかったオバハンも悪いが、黙って処分されてしまうなどとは、誰が想像するか!!
結局、自宅の庭に蒔いた分と、アフガンに気候が似て(乾燥している)ペシャーワル近くの畑で栽培している分だけが残った。
イスラマバードで咲いた八升豆の花

[2005.09.16]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(13)』−by 田城 薫
カーブルの治安は、より悪化しています。
先日も、ワジール・アクバルハーンという各国大使館の集まる高級住宅街とカーブル空港近くに、それぞれロケット弾が打ち込まれました(幸い怪我人はいない模様)。また、ドイツのNGOの現地人スタッフが車ごと誘拐されました。欧米人、そして日本人は、「バリューターゲット」=価値ある標的として狙われています。噂では、5月に起きたイタリア人女性誘拐に際し、解放の為に1億円が支払われたということで、類似犯がすでに6件ほど起きています。これから、国会議員選出の選挙運動が始ると、益々治安が悪化することは間違いありません。

スルハバット郡ホラ村・チュラン村小学校の仮竣工にも行きたかったのですが、諦めました。それは、マイダンシャーとジャレーズという2つの町を通過しなければならないからです。アフガン人の中でも敬虔なイスラーム教徒の多いパシュトゥーン人の多く住むその2箇所は、反米意識が強く、コーラン冒涜事件の時も大きなデモがあったところで、今の時期、絶対にさけなければならない地域だからです。
外出できないストレスと、思うように事が運ばない消耗感の中で、ホラ村とチュラン村の小学校の完成は、少しだけ喜べる結果なのでこの目で確認し、ささやかな達成感にも浸りたかったのですが諦めました。万が一、何かに巻き込まれたらSORA/JRU-PACの今までの活動は、水泡に帰してしましますから。

今日、スタッフがホラ村・チュラン村から帰ってきました。ホラ村・チュラン村の小学校は、無事竣工し、授業がスタートしたという報告を受けました。デジカメの写真を見ると、小林豊さんの『世界一美しいぼくの村』の絵本や、近藤日佐子さんからいただいた生地を利用し、SORAの縫製学校で作った文房具入れの袋を、スタッフたちから嬉しそうに受け取る子どもたちの姿が映っていました。

選挙後の混乱も落ち着くであろう10月半ば過ぎには、小学校の落成式ができることを心に描きながら日本へ一時帰国します。

[2005.09.01]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(12)』−by 田城 薫
一時の異常な暑さから解放されたとはいえ、カーブルは、相変わらずレーザー光線のような直射日光と40℃近い気温で、人々の日中の活動を鈍化させています。私がまだ、あまりアフガニスターンやパキスタンの事を知らない頃、日中木陰で昼寝をしているこの地の人々の姿をテレビなどで見ると、グーたらなことをしているなぁなどと思ったものでしたが、当然にも、今はその行動を理解しています。

さて、多収穫ジャガイモと、八升豆の試験栽培の話をします。

ジャガイモは、今、花を付けさせる時期だそうで、普段より水を多く必要とするそうです。で、今は3日に一度ほどスタッフを農場に出向かせ、水をやっています。既報のとおり、川の水を引くことはすでに望めず、ディーゼルポンプで地下から水を汲み上げています。ヒンズークシュの山々から流れくる冷たい雪解け水は、ポンプを介して汲み上げられ、灼熱の大地を潤します。

私は、汲み上げられた水が、再び大地に吸い込まれていく様を眺めながら思います。この荒涼とした砂漠を相手に、カレーズ(地下灌漑用水路)という、あくまでも自然の力を用いて農業を営んできたアフガン人に対し、畏敬の念を抱く一方、ディーゼルエンジンでCO2をまき散らし、文字通り「砂漠に水を撒く」という反自然的行為をしている私は、なんたることかと、漠然とした矛盾を感じたり。このレーザー光線のように強力な直射日光を利用し、ソーラーの電気でポンプを動かせたら、この矛盾は解消するのになどと思ったり。どこか、無償でソーラー発電システムを提供してくれる企業はありませんか。なんて。しかし、そんなことは、この際考えても仕方のないことなので、この水が秋の大収穫に繋がるのだとそれだけを思いこみ、交錯した思いを吹っ切ります。
先週も、イモを大きく育てるために、低くなった畝を盛り上げる作業をしました。ジャガイモは、順調に育っています。

八升豆は、結論からいうとあまり順調ではありません。決定的にいえば、水不足が原因なのです。が、発芽の管理と移植がしやすいということで用いたピートポットが、どうも成長を妨げている一因であるように思われるのです。
ピートモスで作られたピートポットは、土に埋めると生分解が始まり、ポットそれ自体が肥料にもなり、何より移植の時にそのまま植えられるので、根の弱い八升豆の移植には適しているということで導入したのですが、これがどうも、理屈どおりにはいっていないようなのです。

説明文には、「常に保湿を」とあるように、ポット自体は、乾燥しやすい材質です。ダルラマン試験場の畑の状態は、ポットが土から露出していると、廻りが湿っていてもポット内の土だけ丸く乾燥しています。考えられるのは、地中の水分が極端に少ないこと、それに伴い地中のバクテリアも極端に少なく、ポットの生分解が起きにくい状態にあるのではないかと思われます。そのため、根の張りが抑制され、水分や養分を吸収しにくい状態になっていると考えられます。
事務所の庭に植えたポット苗を見ると、毎日水をあげていますが、それでもポットはまだ分解していません。直播きした豆は、茎も太く1.5mまで育っていますが、ポット苗の方は、茎も細く今だ20〜25cmくらいしか育っていません。水やりが5日に一度くらいの農場では、推してしるべしです。ポットがカパカパになって露出しているのを、土を被せて乾燥を防いでいる状態です。
今年は、カーブルも、暑さで学校が臨時休業になるくらいですから特別だと思いますが、私たちの想像を越えた気温と乾燥、或いは直射日光が原因なのでしょうか。八升豆の発育は、今ひとつ思わしくありません。やるだけやるさ!ということで、頑張ります。

もうすぐ、ホラ村・チュラン村の小学校が、仮の竣工を迎えます。

それでは、また。
ピートポットに植えた八升豆

[2005.08.01]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(11)』−by 田城 薫
皆さん、お元気のことと思います。
こちらカーブルでは、連日の猛暑で、なんと学校が今日から臨時休業になりました。「暑さで休校になるのは、恐らく初めてでしょう」と、スタッフ。また、彼は「今、パキスタンのペシャワールから妹が避暑にきています。彼女は、かの地は54℃にもなったと話しています。ジャララバードは、50℃だということです」と。
確かに、カーブルも一昨日は40℃をこえていましたが、私も、6月に気温が40℃を越えるのは、アフガンに関わって4年目で初めての体験です。これも、地球温暖化の影響なのでしょう。

さて、日本のニュースではどこまで伝わっているでしょうか。秋の総選挙について、少し書きます。
アフガニスターンでは、国会議員を選ぶ総選挙が、9月18日に行われる予定です。既に、立候補の届け出も締め切られ、249人が選挙戦に臨みます。
一方、タリバンやそれを支持者するグループは、「アメリカ主導のこの選挙は、認められない」として、民衆に選挙に参加しないよう呼びかけています。また、南部ザーブル州では、すでに2名の候補者の家が爆破され、殺されるという事件も発生しました。
しかし、この選挙を妨害しようとする勢力は、おそらく前記したグループだけでは済まないでしょう。今回の選挙は、立候補の前段で、あらかじめ精査が行われ、相応しくない人物は立候補の許可が得られないシステムになっているからです。(このこと事態、民主的ではないという見方もありますが)主な対象と考えられるのは、今だ武装解除していない軍閥のコマンダー・クラスです。
例えば、北部同盟の故マスード将軍の側近で、前カルザイ政権の国防大臣だったファヒーム氏。彼は、前回の組閣でポストを外されました。当然、彼は、部下を選挙に立たせ国会に勢力を伸ばそうとするでしょう。しかし、恐らくこのシステムにより、立候補を許可されないのではないかと考えられます。精査の結果は公表されていないので、あくまでも憶測ですが、許可されない場合、彼ら北部同盟がどう出てくるか。
いずれにしても、昨年秋の大統領選より、部族や地域の利害関係が露骨にぶつかりあう総選挙だけに、9月18日の投票日前1ヶ月と、それ以降約2週間くらいかかるのではないかと思われる開票作業の期間中は、かなりの治安悪化が予想されます。

その時は、私もイスラマバードに一時待避することになると思います。が、いずれにしても、土台のないところへ立派な母屋を建てても、いつか崩れ落ちてしまう…。そう、私は、イラクやアフガンの現状を見ていると、どうもそういう感覚に陥ってしまうのです。

やはり、米英は掃討作戦を直ちにやめ、日本をはじめ諸外国はそれに協力することはやめ、一度仕切直しをし、イラク或いはアフガンへの関わり方を、最低限の治安確保と民主的な選挙が行われるような環境を整えることに特化し、アフガンの人々の主導による国造りをサポートするという方向にシフトすべきだと思います。仮に、多少の小競り合いがあったとしても、米英露や近隣の諸外国が過去にしてきたような、軍閥への武器や資金の援助さえしなければ、内戦に発展するようなことはないのですから。

それでは、また。

[2005.07.23]



『2005年 カーブル便り(16)』−by 督永忠子
アフガニスターンでスクスクと伸びているジャガイモは、フランスのNGOがパーキスターンのフンザ地方に紹介したものだと思っていたが、今回、ナンガパルバットの山麓へ行って来たら、そこでも数年前から栽培が始まっていた。今や「この多収穫種のジャガイモ」はパーキスターンの北方地域全体で栽培されているようだ。今まではトウモロコシを栽培して細々と自給自足をしていた村々も、この多収穫種のジャガイモを栽培、現金に換えることによって前よりは生活が楽になったというではないか。
豆でもジャガイモでも、とにかくたくさん採れるとの確証があれば、自然に人々の手に渡って行くのだと思う。八升豆が失敗でも、ジャガイモだけでもたくさん採れればと願っている。

八升豆は芽の出る時期に水を少しやれば良い、暑さには強いと聞いてはいたのだが、イスラマバードの畑で蒔いた八升豆は発芽時期に水が少なかったのか伸び悩んでいた上、てんとう虫に新芽を食い荒らされ、ほぼ全滅状態となって来た。日本では何処もかしこも農薬散布が当たり前、全般的に害虫が少ないのかもしれない。
イスラマバードから西へ100km、アフガンに近い北西辺境州の畑で試験的に蒔いた八升豆は水遣りをマメにしたせいか、また農薬散布のおかげか、順調に成長している。イスラマバードの降雨で成長出来なければ、さらに雨の少ないアフガニスターンでは八升豆は難しいかもしれないとアタマを悩ませている最近だ。でも、まぁ20本でも順調に成長し、収穫できれば160升(300リットル)からの豆が採れるから、味噌つくりには間に合うとノー天気な思考に陥っている。

[2005.07.12]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(10)』−by 田城 薫
午後4時、気温38℃。やっと日が西にかたむき、外に出ても直射日光に「撃たれる」ことはなくなる時間になりました。
今の時期、カーブルは午後1時ともなるとほぼ太陽は直角の位置にあります。なので、窓から日射しが差し込むということはありません。家の中にいる分には、その熱は全部、泥の屋根が吸収してくれるのです。けれども、一たび外に出るやいなやレーザー光線で、脳天めがけて「撃たれる」という表現がピタリとあてはまります。

カーブルは、周囲を山々に囲まれた盆地です。その西方に見えるパグマンの山々の頂には、未だに雪が付いています。その雪も、さすがにこの2〜3日の猛暑で溶け出し、山は、みるみる茶色い地肌を見せてきました。
ダルラマン農業試験場の八升豆畑も、さすがに川から用水路をつたって引いてくる水は干上がり、ポンプ小屋から畑に60mのホースを引っ張り、ディーゼルエンジンを介してポンプで水を上げざるをえない状態になりました。まあ、例年になく雪が多く、今まで川から水が引けたことを喜ぶべきでしょう。

「寒さには弱いが暑さと乾燥には滅法強く、水がそれ程なくても育つ」はずの八升豆も、さすがにアフガンの直射日光と乾燥の度合いには苦戦しているようで、思うように発育してくれません。その上、発芽時に、朝の冷え込みをさけ室内で管理するべく用いた紙製のポットが、今となっては根の張るのを妨げ、地中からの養分と水分もカットしてしまい、ひょろひょろと15cmくらいで止まっています。事務所の庭で、地べたに直接蒔いた豆が、茎も太く70cmくらいに育っていることと比較すると、どうもポットが発育を邪魔しているようです。

まあ、庭には3本の八升豆がすくすくと育っています。少なくとも3本×8升=24升の豆は確保できる!?

それでは、また。

[2005.07.12]



『2005年 カーブル便り(15)』−by 督永忠子
夏至も近く、暑さがピークに近づいているというのに、カーブルの朝は13℃と涼しい。おまけに首都を取り巻く山々の残雪はまだまだ多く、気分は初夏にもならない。そのせいか、八升豆の成長がとても遅くて大きいものでもようやく30cmくらい。事務所の敷地内に植えた八升豆だけは塀際なので日当りが良く、グングン伸びているが、農業試験場に植えた八升豆は収穫できるのか??と、とても心配。
反して、4年前に失敗したジャガイモはスクスク伸びて薄紫色の花を咲かせ、このジャガイモに関しては成功間違いなし!!と、嬉しくてワクワクする。SORAの支援活動は農業指導などというものではなく、在来種に比べて多収穫のジャガイモや豆をアフガニスターンに紹介することにあるので、在来種に比べてたくさんのジャガイモや豆が採れないと紹介の意味もない。

[2005.07.07]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(9)』−by 田城 薫
今日は、金曜日のジュマ(日本の日曜日に当たる)。カルテ・セイのバザールも、人影は疎らで、肉屋の店先で皮を剥かれたヒツジの肉がほとんど売れずに、お尻を上に、ほぼ全身を残してぶら下がっています。

一日5回の礼拝が義務であるムスリムの人々も、ここカーブルでは仕事も忙しく、5回のそれを全うすることが難しくなってきているようです。そんな人々のために、金曜日のジュマに1週間分まとめて礼拝することが許されているのです。人々は、朝早くからハマーム(公衆浴場)で身を清め、それからモスクへ行き、1週間分アッラーの神への忠誠を誓うべく、お祈りをするのです。きっと午後には、礼拝を終えた人々がバザールへ繰り出し、明日から1週間の鋭気を家族と共に養うべく、ヒツジや牛の肉、野菜の買い込みに、賑わうことでしょう。今はフォーシュリャ(白いインゲン)やボーミヤ(オクラ)、ムーリーソルファック(赤いハツカ大根)などが旬の野菜です。ちなみに、オクラや白インゲンは、250gでかなりの量ですが、10Af(約20円)という安さです。(あくまでも、日本人にとってという意味です。)

さて、最近カーブルでは、インターネットカフェでの自爆テロや米軍基地でコーランがトイレに捨てられたという記事への抗議デモ、イタリアNGOの女性スタッフ誘拐など、立て続けに事件が起き、私たちも普段以上に警戒しながらの活動を余儀なくされています。

支援地スルハバットへ行く途中にも、要チェックポイントが2ヵ所ほどあります。昨日、高地のプレアフガーナへフンザからの多収穫品種のジャガイモの苗を運ぶべく、車を出発させたのですが、私と渡邊さんは行くことを断念、現地スタッフに指示して任務を任せざるを得ませんでした。ジャガイモは、多収穫かつ寒さに強いという品種で、高地であるプレアフガーナやスルハバットにはもってこいの、是非、栽培を成功させたい期待の品種です。このほか、昨年、川崎の市民団体We21の支援を受けてダニクール村に植樹したリンゴの苗木の、その後の様子を写真に撮ってくることもスタッフに託しました。

また、八升豆もそろそろポットの苗をダルラマンの農業試験場の畑に移植しようかと考えています。カーブルは、いまだに朝方10℃を切る日もあり、寒さに弱い八升豆をフィールドに植えるのには、一抹の不安があります。3ヶ月間の成長期のあと、3ヶ月間の収穫期を迎えるこの豆は、今植えないと、11月の収穫期に寒さにやられてしまうことにも注意しなければなりません。自然を相手としての農業とは、本当にむずかしいものです。全滅したら、責任重大!とにかく今日、ダルラマン農業試験場の畑を30m×50mの面積で耕す段取りをしてしまったので、やるしかありません。でも、失敗したら来年がある。

それでは、また。

[2005.07.07]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(8)』−by 田城 薫
今日のカーブルは、晴れ。敢えて「快晴」と書かないのには、わけがあります。
それは、白と灰色の混じった雲が青い空のいたるところに、三つ四つ、二つ三つと浮かび、その一つ一つがついさっきまで固まって雹を降らせていたような、攻撃的な形をしているからで、上空の大気の不安定さを現しています。

以前にも書いたとおり、今年のカーブルは冬場の雪も非常に多かった上、春先の雨もかなり降りました。先日も、午後になるとこれでもかと思うくらいの雷雨に見まわれました。お陰で、庭に咲くバラの花も、白にピンクにと、それは鮮やかな色を身につけて、存在をアピールしています。
今の季節のカーブルでは、少しお金のある家の庭には必ずといって良いほどバラの花が咲いてます。アフガニスターンでは、「グレ・モルサル」と呼ばれるバラの花は、チューリップと共に、ごくポピュラーな花のひとつです。(「グレ」が花、「モルサル」がバラの固有名詞)

さて、なぜガラにもなく花の話になったのか。それは、この3日間、事務所の敷地を一歩も出られず、3匹の犬と戯れるか、NHKワールドを見るか、メシを作るか、本を読むか、庭をボーッと眺めているしかない状態が続いているからです。(日本で、忙しく働く皆さんには、申しわけありませんが)なんでも、タリバンやアルカイダを収容しているキューバの米軍基地で、コーランがトイレに捨てられたと、ニューズウィーク誌が報じたことで、5月11日にジャララバードでかなり大規模な暴動があったということで、日本大使館より「絶対、事務所外に出ないように」という待機の指示が出ていたからです。

それでも、そろそろ大丈夫だろうと、車で7〜8分ほどのダルラマンの農業試験場に、ジャガイモやその他の作物の様子を見に行きました。すると、この近くに住むスタッフのラヒームが、農場の隣にあるISAF(カナダ軍)基地の方向を指さし、「昨日、あそこで多くのカーブル大学の学生や高校生が集まって、集会があった。デモをしたり、基地に向けて石を投げたり、危ない状況だった。3〜4千人はいたと思う」と、その時の状況を話してくれました。

なぜ、アメリカはイスラーム諸国の人々を逆撫でするようなことをするのか。テロを誘発し、再び叩こうとでも思っているのか。そういう気はないにしても、また一つ、ムスリム(イスラーム信者)の人々の心の中に、反米感情が積み上げられたことは間違いありません。
そして、アメリカを支持する国々に対しても。それは同時に、私たち日本人の、アフガンでの支援活動を妨げる要因が、また一つ積み上げられた事をも意味しています。

治安状況には充分注意しながら、活動を継続します。
それでは、また。

[2005.07.01]



『2005年 カーブル・レポート(3)』−by 渡邊弘俊
アフガニスターンに来て2ヶ月近くが過ぎました。
活動は計画通りとは言えないまでも何とか前には進んでおります。
ただ、治安状況があまりよくなく、カーブルでも事件が多発していて、活動以外では外出を控えております。これ以上危険な状態が続けば私たちも一旦パキスタンに引上げることを考えて活動生活を送っています。

5月14日より再度、積雪のため中断していたスルハバット郡(標高3600m)のホラ・チュラン村小学校の建設作業現場に入る予定でいましたが、11日キューバのアメリカ軍収容所内でイスラームの聖典「コーラン」をトイレに捨てたと報じた記事が発端でアフガニスターンでも各地でデモや暴動に発展し、15名が死亡。カーブルでも各地でデモが予定され緊迫した状態となりました。
そのため、スルハバット郡への道程の数ヵ所において厳しい部族の村を通らねばならず、危険を避けるため入山を1週間延期しましたが、依然各地で小規模の事件が発生していて回復が見られず、外国人である私たちの移動を控えました。
それでも、カーブルに仮植えをしていたジャガイモをプレアフガナ(苗木を育てるために借りている畑のある村)に移すため、現地スタッフ3名を入山させました。

また、19日には、カブールの郊外にある学校(カライワジュール校)へ絵本を進呈するために訪問しました。
学校は、ハイクラスを含めて男女2200名で8ヶ村から生徒が集まり、近隣に学校がないために遠距離から通学する児童が多く、途中で誘拐される事もあるとか。1年前は10教室、今年は8教室の校舎が日本の草の根NGOの手で完成、その他の児童は空き地(校庭)の5張りのテントで、3組は青空教室で授業を行っていました。相変わらず、学校や町の再建はNGOや市民の手によるもので、政府の手による復興再建はまだまだ遅れているようです。

民間による建築ラッシュの中で一部、政府機関と思われる建物も見られますが、学校などはNGOの手によるものが多く、世界からの支援金が充分には生かされている様子はあまり感じられません。アフガニスターンの復興と共に政府の機構や制度の変化も見られ、外国のNGOへの登録基準が厳しく見直されて来たとの情報もあり、政府や官僚の都合の良い団体が残るとすれば、今後、小さなNGOは消えてしまうのか、先の見えない現況です。

23日は子どもたちの施設『MMCC−子どもたちのための移動サーカス(子どもたちに演劇、音楽、絵画、スポーツなどなどを教える活動をしているNGOで、23年間の戦争で心を閉ざされた人々の意識全体の治療、リハビリを実施し、成果をあげている)』に招かれて、その活動を見学しました。MMCCの希望で施設内にあるテコンド(男子)と空手(女子)の子どもたちに私が修得した少林寺拳法を披露し、互いの交流を通じて楽しいひとときを過ごしました。

最後に、私のカブールでの活動は5月末日とし、パキスタンに引上げますが、その前に八升豆の種蒔きと苗の植え付けをして終わります。その後は、小学校の建設と八升豆、ジャガイモ、その他植樹などの活動経過は田城さんが10月まで滞在して見守ってくれます。

アフガニスターンでの様子やSORAの活動については、改めて帰国後に写真展などを通じて報告をさせていただきたいと思っております。今回で『カーブル・レポート』を終わります。ありがとうございました。

[2005.06.25]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(7)』−by 田城 薫
皆さま、お元気のことと思います。
こちらは、1週間に1回程度で雨が降り、肌寒いくらいの毎日を過ごしています。

さて、今回は、問題のダルカ村小学校に関してです。
小学校の状態は、渡辺さん、米山さんとの検証の結果「雪で流された」のではなく、雪どけ水や春先の豪雨で完成していない屋根から水が侵入、石を固めている泥を浸食して流れ出し、耐えきれなくなって崩れ落ちたと思われます。いずれにしても、屋根材であるポプラの木の価格つり上げにはじまり、校長と村長の建設費の持ち逃げ、そして、先日の「今までの建物は要らない。コンクリートの新しい建物を造ってほしい。ダメなら他のNGOを探す」という、私たちからすればあまりにも理不尽な村人からの手紙など、次から次へと問題が起こってきたダルカ村です。
私は、無惨にも崩れ落ち、石の下敷きになった『SORA/JRU-PACスクールプロジェクト』と書かれた看板を見ながら、やり切れない思いで、村人との話し合いの内容を考えていました。

翌日の話し合いの場で、改めて村人に先日の手紙の内容を確認したところ、「村人の総意だ」といいます。「馬鹿にするのもいい加減にしろ」と、私が言う前に、運転手のアクバルが、怒りに充ちた声で話し始めました。「お前たち、今まで日本の人たちが学校に使ったお金をどう思っているんだ。金を返せ。カーブルからここまで、悪路の中、車を壊しては直しながら来ている日本の人たちに悪いと思わないのか。」普段穏やかなアクバルが、凄い形相でまくし立てます。
「ありがとう、アクバル。でも、もうよそう」。私は、彼に言い、「その話は、受け入れられない。私たちの最初のポリシーで良いのなら話合いに乗る。もう一度、村全体で話し合い、それでよければカーブルの事務所に伝えてほしい」と言い渡し、村を後にしました。

1週間〜10日後、私たちは、ホラ・チュラン村の学校を完成させるべく、再びスルハバットに入ります。ダルカ村小学校は、大変残念ですが、これ以上、子ども平和基金や皆さまからの貴重なお金をつぎ込むわけにはいきません。完成を諦める方向で検討しています。
それでは、また。

[2005.06.25]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(6)』−by 田城 薫
雨がちな日が4〜5日続いたカーブルも、今日は久しぶりに白い雲が浮き立つように真っ青な青空が広がっています。午後2時、24℃を指している寒暖計は、ほぼ今日の最高気温となるでしょう。

さて、「雪で小学校の一部が流された」というダルカ村を含め、5月3日・4日と支援地スルハバット郡を調査してきました。
メンバーは、私、SORAの渡邊さん、写真家の米山さん、それに、現地スタッフのラヒーム、ファリード、アクバルという布陣です。

雪の多かった今年は、5月中旬までは、標高3000mのスルハバット郡へは行けないものと思っていました。しかし、連日の雨で泥沼と化した道を物ともせず突き進む、90年型ハイラックス4WDダブルキャブの威力に加え、近道も発見したことから、ドライ・コンディションと同じ、8時間という短時間で200kmを走りきり、ダルカ村経由でダウード村長の住むタイラシャック村に到着しました。(当初は、12時間の予想)

ホラ・チュラン村共同の小学校は、完成間近となっていました。
あとは、職員室と倉庫、トイレが出来れば完成です。当初は、現在の6教室で完成の予定でしたが、政府の指針で職員室と倉庫を含めた8教室が最低ラインのようです。リーダーのナーセルとは、本当に理性的に話せるお陰で、工事も順調に進めることができています。完成までに、あと1ヶ月といったところでしょうか。

ダルカ村の小学校に関しては、次回に…。

[2005.06.20]



『2005年 カーブル・レポート(2)』−by 渡邊弘俊
2001年11月よりスタートした『アフガン難民を支える会−SORA』の支援活動も3年半が経ち、支援活動の内容も年々変化しています。

本年度の活動は、スルハバット郡のホラ・チュラン村とダルカ村の2校の小学校を完成させること。それと、『八升豆プロジェクト』−八升豆(学名・ムクナ)をアフガニスターンの土壌で栽培する−と、高品種多収穫のジャガイモの栽培です。また、従来の縫製・識字、カーペット製作は自立のためのプロジェクトとして、アフガン人女性各自の自宅での活動に移行して援助は継続中です。

さて、現在の活動状況ですが、4月4日にカーブル入りしてから、数日間にわたり農業省を訪ねて、八升豆栽培のための土地借用の手続きを進めました。アフガニスターンではすべてが手続きに数日間を要するのは日常のことです。4月19日には仮契約(口約束)の後、早々にジャガイモ(60kg)を畑に植え付けました。借りた畑は王宮跡の直ぐ側に広がる農業省管轄の農業試験場(23ヘクタール)の一角0.5ヘクタールです。正式に契約が整えば気象条件を見て八升豆の種蒔きがスタートします。

一方4月20日には、スルハバット郡の村人(ダルカ村)が建設中断中の学校が雪で押し流されたので再建して欲しいとの要望を携えて、カーブルの事務所を訪ねて来たことで、山への道路が通行可能であることを知り、早速22日に2校の小学校の状況を把握するため、私と現地スタッフ2名、運転手の4名で出発しました。
片道約200kmと言っても8時間を要する悪路を、所々道を塞いでいる雪をかき分けつつ、標高3600mのスルハバット郡の村に入り、2泊3日の視察を終えてカーブルに戻りました。ホラ・チュラン村共同の小学校は順調に建設が進んでおり、内装など一部を残して完成していましたが、ダルカ村の小学校は雪で一部が崩壊しており、建設は進んでいなくて昨年のままの状態でした。

改めて、5月3日には田城所長、写真家の米山さん、私、現地スタッフ2名、運転手の6名で入山し、再建に向けての話し合いを行いました。
ダルカ村は相変わらず、援助に対する意識の差は大きく、大人の利害で子どもたちのための学校建設を一時中断するのは忍びないけれども、今回も再度、中断を宣言せざるを得ない状態で、一旦カーブルに戻りました。
何時もながら、アフガニスターンでの支援のあり方について自問自答しながら活動をしているのが現状です。

[2005.06.14]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(5)』−by 田城 薫
先日もお伝えしましたが、「雪解け水で、小学校の一部が流された」と、村人が訴えてきたダルカ村の小学校の現状を報告します。

渡邊さんをはじめ、アフガン人スタッフが現地を調査してきた報告によると、雪解けで破壊されたのは、土台ではなく、壁と屋根であること。したがって、雪解け水で土台自体が流されたという第一報は、誤りであったこと。また、なぜ村人は自分たちで直さないのか疑問に思う…ということでした。
同時に、ダルカ村から要請書が出されました。内容を要約すると、「鉄筋コンクリートの建物に、造りかえてほしい。ダメなら、他のNGOを探す」というもので、これには腑が煮えくりかえりました。今まで使ったお金をどう考えているんだ、もうダルカ村とは縁を切りたいという思いと、村の子どもたちのために、小学校を早く完成させたいという思いが交錯し、本当に悩んでしまいました。
壊れたダルカ村の小学校

ところが、その翌日ダルカ村の他の村人が事務所を訪れ、「今まで通りで良いので、早く完成させてほしい。」と言ってきました。要するに、村は真っ二つに割れているようなのです。
いずれにしても、完成間近なホラ村・チュラン村の小学校の最後の仕上げのためにも、数日後にはスルハバット郡を訪れ、各村との話し合いの場を持つこととします。

[2005.06.09]



『2005年 カーブル便り(14)』−by 督永忠子

4月の13、14日に植えたジャガイモの芽が次々に顔を出して来ました。

きょうは新しい芽がさらに増えると思います。
やっぱり初年度に植えたジャガイモは「食われた」との確信を得ました。「食われたに違いない」と、思いつつも、どこかで自分の思いこみではないか!と感じていた部分がないともいえず、他人を疑うことにやましさがあったのですが、こんなにも簡単に??次々顔を出すジャガイモさんに感激しています。
農業省のジャガイモ畑

[2005.06.05]



『2005年 カーブル・レポート(1)』−by 渡邊弘俊(SORA運営委員)
2005年度におけるアフガニスターンでのSORAの支援活動が4月より始まるのに合わせて、3月25日にパーキスターンに入り、4月4日、カーブルに到着しました。
2年前(アメリカによるイラクへの攻撃が開始された直後)には、パーキスターンからカイバル峠を越え、国境の街トルハムからハイエースでアフガニスターンに入りましたが、今回は、昨年来よりの治安の不安定な状況を考慮し、空路で田城氏(JRU−PACカーブル事務所長)と2名でカーブル入りしました。

2年ぶりに見るカーブルの町は、廃墟と化していた多くの建物が、一部を残して店舗に改装され、ビルも建設ラッシュに湧き、町には多くの人々で溢れておりました。
私たちが生活しているカーブル事務所のある、カルテセイ−通称ハザラ・バザールも出店も含めて店の数が2倍から3倍に増えており、今までは、カーブルの中心地のバザール−シャレナウまで行かねば手に入らなかった品物が揃っていて、買い物には大変便利にはなりましたが、あらゆる物の値段が高騰していて、こちらの主食のナーンも1枚4Af(約8円)が6Afから8Afと値上りし、庶民の生活にも少なからず影響を及ぼしています。

私たちの事務所も家賃の値上げを迫られ、運営経費削減のため、カーブルに着くなり家賃の安い家を探し移転いたしました。それでも今度の事務所は頻繁に停電をするものの電気が来ていて嬉しい限りです。
活気に満ち急速に発展しているカブールの町を見る限り危険など全く感じられないのですが、昨年来の大統領選挙から前後してテロ行為も多発しており、また今年の9月にも選挙があり、決して安心できる治安状況ではありません。
特に日本人を問わず外国人に対しての危険度は以前よりも増していて、見えない所に危険が存在している不気味さを、ここアフガニスターンに居て感じております。一昨年は、自由にシャレナウのバザールへも出掛けていましたが、今回は出来るだけ外出を控えている状況です。

本格的な支援活動はまだ動いてはいませんが、本年度の新しいプロジェクトである八升豆(学名・ムクナ)栽培の作付けの為に、畑を借用できるよう農業省へ出向いたり、縫製教室や識字教室を巡回しております。
2小学校を建設中のスルハバット郡(標高3600m)へは雪解けを待って入山する予定です。

[2005.06.05]



『2005年 カーブル便り(13)』−by 督永忠子
4月28日は、ムジャヒディーンによるアフガン解放の記念日なんだそうで、数日前から街は準備に沸いています。しかし、記念式典をするジャミア・マスジッド(モスク)の周辺にある露店や自動車修理工場などは、強制立ち退きを命じられ更地に様変わり。いかなる不審者も入り込めないようにとの配慮とはいえ、あらゆる行事に対して、まずカルザイ大統領の安全確保や、街のあちらこちらで進むISAF(多国籍軍)やNATOの基地設営が最大限優先される現アフガンの現状には、被害を受けた露天商などからの恨みが声高になっていると聞きます。
アメリカが後押しをするカルザイ大統領(パシュトーン族)への配慮がますます厚くなっているせいか、北部同盟の影響力が徐々に減りつつあり、街角では北部同盟の英雄マスードの写真や肖像画が減りつつあります。

SORA/JRU-PACのカーブル事務所の駐在員は、年配者ばかりのせいか朝は早く、ほぼ毎朝6時にモーニング・コーヒーで始まります。ナーンとお茶(コーヒー)、チーズとジャムの朝食が終わったら作業開始。今朝は八升豆を日当たりの良いところでピートポットに植え付け、花インゲンは直播きに。
後はいろいろ持って来た野菜の種を思いつきで蒔いていますが、朝の気温が10℃前後になって来たので、昼間の暑さに期待しています。

[2005.05.17]



『2005年 カーブル便り(12)』−by 督永忠子
初夏のイスラマバードから春の深まっているカーブルへ戻って来ました。
パーキスターンへ向け、10日前に辿った悪路を再びカーブルへ走って来たのですが、前日に降った強い雨で道路には深い水たまりが幾つも。それらを避けながら右に左に揺れる車内で頭を強打すること8回。久々に首ガードのプロテクターを装着しましたがタンコブが幾つか出来、カーブルへ到着早々、渡邊さんの整体マッサージを受けました。

スンニー派とシーア派の抗争が激しく、2ヶ月以上もギルギット(パーキスターンの北方地域)から運び出せなかったサクランボの苗(アフガンにはない種類のサクランボで、佐藤錦に似たフランス種のもの)も無事、カーブルへ到着。本日は農業試験場へ植え付けることが出来ました。残りの10本はハザラジャードのプレアフガーナに借りている農場に植え付けます。
プレアフガーナへは3日後くらいに、多収穫種のジャガイモも持って行き、初年度の雪辱を果たす??予定です。とはいうものの、やはりカーブルの朝晩は冷え込み、八升豆を蒔くにはまだ早すぎる気候のようです。プレアフガーナ(2800m)でのジャガイモにも、まだ早いかもしれません。

なお、縫製教室で使っていた手回しのミシンがいよいよダメになって来ました。現在、使えるものが30台くらいでしょうか?それで、思い切って欲しい生徒たちには超格安で上げてしまうことを検討中です。アフガンの復興は凄くて、SORAのようなNGOに出来ることが少なくなって来ました。出来るだけ身軽になっておき、今後は当初のような農業支援や巡回医療に重点を置きたいと思います。

詳しい報告をすると長々となりますので簡単に書きますと、人々の暮らしは向上し、政府もNGOからの支援に対して、注文が多すぎるようになって来ました。例えば小学校一つに関しても、条件が物凄く多くて、それに合致しなければ完成許可も下りず、賄賂の要求が大きいことなどなど。聞くところによりますと、建築現場へ警察官が2-3日おきにやって来て、ヤレ壁が5mm薄いとか、厚いとか、とんでもない嫌がらせまであるようです。また、人々のNGOへの要求にも同じものが見られます。今後は身軽な体勢での支援を考えるべきかもしれません。

[2005.05.11]



『2005年 カーブル便り(11)』−by 督永忠子
一昨日はアフガニスターンも土砂降りだったようで、トルハムからカーブルまでの道中は深い水たまりの連続。それを右へ左へと避けながら車が走るので、首にプロテクターを嵌めてガード。ガードをして安心したせいもあり、半分は居眠りをしているせいもあって、8回も頭をガラスに激突。タンコブを作って事務所に到着、渡邊先生に凝った体と首筋をほぐしてもらいました!久々のタンコブです。

本日、農業試験場へサクランボの苗木を15本植えて来ました。
プレアフガーナにも欲しいというので、残りとジャガイモをプレアフガーナへ2-3日後に持って行きます。

[2005.05.05]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(4)』−by 田城 薫
カーブルは、この4〜5日朝の冷え込みがめっきり和らぎました。最低気温も、10℃を割ることはありません。それに比例して、最高気温も33℃くらいまで上昇し、日なたでは強い日射しが肌を刺します。ただ、45cmはあろう分厚いレンガとコンクリート制の壁に覆われた事務所の中はとても涼しく、足が冷えてしまう程です。これは、毎年書くことですが、真夏の43℃といえども同様で、湿度10%の世界のなせる技といえます。

さて、アフガニスターン農業省・ダルラマン農業試験場での、ジャガイモの栽培についてです。
このジャガイモは、督永さんによるとパキスタンのフンザ地方でフランスのNGOが栽培に取り組んだ多収穫の種芋で、元はオランダから取り寄せたものだそうです。今年は、農業試験場でひたすら種芋を確保することが目的です。

本日、畑に水を引きました。
水源は、ポンプによる地下水と聞いていましたが、農場の南西に見える山から流れ出る川の水を引いて、畑を水で満たしました。職員が農場の縦横に広がる水路の一方を閉じ、もう一方を開けるという作業を繰り返し、ジャガイモ畑までの水の進路を構成します。作業開始から、畑に水が満たされるまでに約5時間。次回は約1週間後に水を引く予定です。

朝方の冷え込みも和らいできたカーブル。寒さに弱いといわれる八升豆も、そろそろ蒔く時期を窺うことにします。

[2005.05.05]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(3)』−by 田城 薫
農業試験場にジャガイモを植えてきました。
水は、あとから流してもらうので、明日AM10時に確認に行きます。

ジャガイモ専用の土地(30m×18m)に、22畝つくり、13.5畝に、1145個のジャガイモを植えました。農場長をはじめお偉方が来て質問責めにあいましたが、適当な英語でハッタリをかましておきました。パキスタン・フンザの品種だというと、「アフガニーの方がテイスティーだ」などとライバル心を燃やしていました。
残り8.5畝に、アフガンの通常のジャガイモを植えて、どちらの収穫が多いか、どちらが美味しいか、比較するのもおもしろいと思います。実際、より多く取れても、美味しくないと広がらないという危惧もあります。「貧しい農家は、質より量」の論理が理解されるかも課題となります。とにかく、収穫が楽しみです。

[2005.05.01]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(2)』−by 田城 薫
皆さま、お元気のことと思います。
今年のアフガニスターンは雪が非常に多く、その雪解け水の被害が各地で報告されています。そして、なんと一昨日の朝8時、私たちの支援地であるスルハバット郡・ダルカ村から1人の村人が、「雪解け水で小学校の一部が流された」という一報を持って、SORA/JRU-PACの事務所を訪れました。
幸い怪我人はいないということなので一安心。流されたのは、8教室ある内の西側の3教室ということで「修復可能か。いや、そもそも完成しても来年同じ状況にはならないか。建物の裏に、大きな側溝を造れば…いや、水の勢いを考えると危険か…」など、ネガティブな事ばかりが頭をよぎります。
早速、イスラマバードの督永さん・堀さんに報告。とにかく、「現状把握を!」ということで、渡邊さん(SORA運営委員)と、現地スタッフのファリードとサリーム、ドライバーのアクバルというチームで、現地に向かいました。
村人の話によれば、私たちの予想に反して、山は雪をかぶっているが道はドライ。額面通りドライなら、スムースに進めば、約200kmの道のりを8時間〜10時間で村に着くはずですが、スタック、パンク…数々のトラブルを予想して…。と、渡辺さんから約束のPM5時に定時連絡。途中ダルカ村に寄って現状調査をし、PM3時半にタイラシャック村に無事到着。「流水で3教室の土台が斜めになり、屋根も傾いているが、村人たちが自分で直せるんとちゃうかなぁ」というのが、渡辺さんからの報告の第一声でした。

ということで、今後の方向性は調査チームの報告を受け、更に本体が現地へ行って村人から話を聞いたうえでの検討ということになりますが、結構ショックを感じているというのが、私の現在の正直な気持ちです。
それでは、また。

[2005.04.25]



『2005年 JRU−PACカーブル事務所長からのメール(1)』−by 田城 薫
カーブルへ到着して、約2週間。最低気温-0.5℃という日もあり、日本なら真冬の朝が続きます。しかし、昼間は28℃くらいまで上がるので、冬から初夏の陽気を1日の中で体感できます。
今年初めてのメールは、SORAとJRU-PAC事務所の引越しの経緯を通し、カーブルの近況についてお知らせします。
カーブルは、いつも春先になると物価高で、今回も早速、今までの事務所の家賃の値上げ話が持ち上がり、今までの1.5〜2倍近くまで値上げしたいと大家さん。交渉しても、値上げは避けられないと判断し、早速、格安物件を探し、新しい事務所は、カルテセーという以前住んでいた事務所の近くに戻るかたちになりました。

新事務所は旧事務所の半分の建物ですが電気も通じていて、パソコンなどやるのにイチイチ発電機を回さなくても良いのでとても便利です。ただ、予想通り停電も多いし容量も少ないので、冷蔵庫などのある生活は望むべくもありません。また、バスルームの排水も悪く、ペットボトルシャワーとしゃれこむことも、今のところむずかしそうです。
ちなみに、今日2週間ぶりにハマーム(公衆浴場)に行き、体を洗いましたが、入浴料が10Afから15Afに値上げされていました。その他にも、主食のナーンが、4アフガニー(Af)から6Af、少し大きく焼いて8Afとか、カバブという串焼肉が45Afから55Afへ上がるなど、庶民生活に直接ひびくものが、軒並み値上がりしています。けれども、風呂に入れない、ノミに食われながらのアフガン支援4年目ですが、今年は、スルハバット郡での2校の小学校の完成と、農業試験場での八升豆の栽培の成功を目指して頑張ります。

[2005.04.21]



『2005年 カーブル便り(10)』−by 督永忠子
2日間で荷物を全部移動、無事に引越しが終了しました。
今度の場所は、今までの事務所から王宮へ向かうハザラ・バザールの表通りに面し、家の前には水銀灯の街灯までがついており、家の庭が一晩中明るくて結構な条件です。停電はあるものの、4年目にして電気のある事務所に移れ感動です。頼りない電灯の下ですが、それでも常時大体において電気があるということは凄いことです。
これもアフガン復興の一面だと思います。とにかく今回の事務所は隣近所からの底鳴りするジェネレーター音にも脅かされず、昨晩はグッスリ眠れました。また、何よりも身の丈に合った小さな事務所に移れて満足です。今日は一日かかって大体の掃除を済ませ、明日から八升豆プロジェクトに向け準備します。

とは言え、朝は0℃で日中でも13℃くらいと寒く、昨日はバーミアンやバダクシャーンでは雪でした。もちろんスルハバットも雪でした。今年のフィールド入りは確実に遅れるでしょう…。

[2005.04.16]



『2005年 カーブル便り(9)』−by 督永忠子

最初の引越しには数時間、2回目の引越しには丸1日、今回の引越しには2日間かかり、荷物が増えているのを感じます。
今回の引越しではハイラックスが大活躍、15回くらい往復しましたからトラックを雇わずに済みました。他にJRU−PACとアクバルのプラドゥ2台が活躍しました。アクバルは昼食の差し入れをしてくれたり、なかなか大人の振る舞いでした(引越し初日の夜と、2日目の朝飯抜きだった)。

こちらの気温は明け方には0℃になり、午後になると寒風が吹きます。日中でも13℃くらいか??
ようやくガスが使えるようになり、暖かいモノが飲めるようになりました。電気もあって、家の前の道路には水銀灯があるので家の庭は一晩中明るい!泥棒対策にぴったりです。事務所は凄く小さくなったけれど、犬の鳴き声以外には喧しくもなく快適?です。
新しい事務所

[2005.04.12]



『2005年 カーブル便り(8)』−by 督永忠子
アフガニスターンで、いよいよ八升豆プロジェクトの開始。
今冬から今春にかけて雪と雨が多くて、農業プロジェクトの開始が遅れ気味だが、アフガン農業省は畑を掘り起こし、畝まで作って待機していてくれたので感激!八升豆だけではなく、1年目に失敗した多収穫のジャガイモも再度挑戦予定で、他にも幾種類かの豆と高原野菜を…と、欲深く考えている。

カーブル市の物価は冬場に比べて高騰、SORAとJRU−PACの現地事務所も家賃の大幅な値上がりに抗し切れず、経費節減のため4度目の引越しをする。今までの事務所の半分以下と寝る場所もない小さな事務所となるが、なんと!電気が付いた事務所で、水洗トイレ、水の出る台所があるというので大喜び!
ついに電気のある事務所に引っ越せる…。

[2005.04.06]



『2005年 カーブル便り(7)』−by 督永忠子
イスラマバードのカッチャアバディのアフガン難民キャンプへは、今も年に3〜4回の医薬品配布を行っている。
今回も、鎮痛剤、風邪薬、胃腸薬、目薬の他、妊産婦や女性のためのビタミン剤や鉄剤などを診療所に寄付してきた。

子どもたちの服装は良く、政府に取り壊された泥の家もほとんどが元の状態に近く戻っていた。近くの生鮮野菜卸市場で働く人も多く、TVのアンテナが凄く増え、ザット見て15軒に1軒くらいの割合でTVがあるようだった。2年前は極わずかなアンテナしか見られなかったことを思い起こすと、僅かな間に隔世の感あり。

[2005.03.15]



『2005年 カーブル便り(6)』−by 督永忠子
昨日のカーブルは終日粉雪が舞い、暗い1日でした。街を走る車も極端に少なく、アチコチで車がぶつかったり、転んだりしている人が目立ったけれど、全体的には街行く人も少なくて静かでした。でも粉雪のせいかアンテナの調子が悪くて電話もつながらず、今朝は−9℃まで下がりました。そして今は室温1℃の中で寒さに震えながらPCを触っています。居間には薪のストーブがありますが、事務所にはストーブを設置しません。ちなみに今冬の薪の値段は7kgが32AFで、1日平均1つのストーブで10kgの薪代(約115円)がかかります。この薪代金が家計を圧迫しているのは間違いありません。(私たちは、寒さに体が慣れていないため、1日中ストーブを焚いているので、20kgからの薪を消費しています。)

本日は農業省の試験場(王宮のすぐ横後ろ)、デダナ側の土地を1ヘクタール程を借りる話がつき、現場を見に行ってきました。今までに農業省の試験場として見て来た場所よりも近く、水の条件も断然良さそうです。作業員も月50−60$くらいで働いてくれそうです。とりあえず3月半ば、または下旬になったら作業にとりかかります。今年の目標は、八升豆を栽培してソーラークッカ−で煮る。可能なら来年からはその普及に取り掛かります。

あすは日本大使館の「草の根」担当にあうつもりです。

[2005.03.01]



『2005年 カーブル便り(5)』−by 督永忠子
今冬一番の冷え込み、早朝のイスラマバードは濃霧で50m先も見えないくらいで、空港へ向かう車はノロノロ運転。カーブルからのエアサーブも着陸が出来ないとかで、結局、空港では長々と待たされたが、何とか晴れ間をつかんで飛び立った。神さま、ありがとうございます!
8人乗りセスナは約1時間のフライト、右手に真っ白なヒマラヤ山脈を見ながら雲の上をフラフラしながらも、雪景色のカーブルへ到着。空港からは農業省へ直行し、農業副大臣のシャリフさんに挨拶してから事務所へと向かった。

[2005.03.01]



『2005年 カーブル便り(4)』−by 督永忠子

カーブルの朝は連日−12〜13℃。29日の朝は−16℃まで下がりました。ラジエーターの水まで凍ってしまう寒さで、車の暖房は効かず車内の窓には氷の華が出来るありさま。

カーブルからは陸路でイスラマバードへ。でもツルピカに凍った道路では多くのトラックが立ち往生、峠越えに7時間もかかりました。その間、氷の華の咲く冷凍車内で耐寒訓練でした。たぶん峠付近は−20℃近いのでは?と、米山さん(写真家)の体験から。いずれにしても、良い体験が出来ました。ラッキー!!!


また、事務所の居間ではストーブを焚きっぱなし。1日まるまるストーブを焚き続けると薪代金が2$もかかることが判りました。
けれども、一般家庭ではそのような贅沢は許されず、カーペットを織っている未亡人の家庭などでは、朝晩ストーブを焚くだけのようです。どこの家の子どもたちも裸足で薄着、私たち日本人の贅沢さを改めて思いました。でも、こうした寒さにもメゲズ、街は相変わらずの建築ラッシュ、復興にむけて人々は働き、寒くても人間が生き生きしています。

[2005.02.10]



『2005年 カーブル便り(3)』−by 督永忠子
年末年始の寒さからは想像もできないくらい、ペシャーワルは暑かった。
本来なら11月末には完成品となっているカーペットが、天候不順などで延び延びとなっていたのを、ようやく出来上がったので、受け取りに出かけた。今月末には日本へ向けて送り出すことができそうで、ホッとしている。
カーペットを織っている未亡人たちも、犠牲祭前に現金が手に出来、ホッとすることだろう。イスラーム教徒にとって一年で一番の大祭、犠牲祭は20日〜23日まで。

SORA/JRU−PACカーブル事務所の番犬が1匹亡くなった。今までは3匹もいて心強かったのに…。


*カーペットのページと合わせてご覧ください!

[2005.01.20]



『2005年 カーブル便り(2)』−by 督永忠子
アフガニスターンでの支援活動、丸3年が終わった。
内戦中、そしてタリバーン政権崩壊直後のアフガニスターンから見れば、この間の復興振りは目覚しい。願わくばこのまま順調に復興し、人々が明日の糧を心配することなく、生活できることを祈る。

この3年間に識字教室で学んだ子どもたちや成人女性は、延べ2070人になったが、希望する子ども全員が学校へ入れるようになって、子どものための識字教室は不要になった。また、未亡人対象の縫製教室は初年度だけで1200人が初級コースを、中級コースは270人が修了し、仕立て屋さんや内職の看板を出した。最近の縫製教室は生徒が平均して80人、家にミシンやアイロンがない人が集まり、おしゃべりしながら情報を交換したり読み書きを習ったり、内職に勤しむ場となっている。
カーペット織りの枠160台は希望者に市価より安く販売した。家での内職が可能になり外へ出なくて良くなった、と女性から喜ばれている。また、今まで通りにカーペットを織りたいという人には、カーペット製作を続けて貰っている。

JRUとの共同プロジェクトであるカレーズ堀りや、学校建設、植林、ソーラークッカーなど自然エネルギーの利用と普及、巡回医療、いずれもささやかな支援でしかないが、持続することでアフガニスターンでの経験を積み重ね、次へのステップを踏み出す。
特に4年目の今年は、換金可能な農作物の栽培に力を注ぎたい。アヘン栽培が世界一になってしまったアフガニスターンを救うのは、現金化できる農作物の普及以外にない。

[2005.01.12]




2005年12月9日(木)、滋賀県守山市の樂修院大学にて『自分流の生き方』が開催されました。
9.11以降のアフガニスターンの復興の様子、SORAの支援活動の状況など、督永が、アフガン報告を行いました。
また、アフガニスターンそしてパーキスターンの現在の様子を聞くことができました。

[2005.01.06]



『2005年 カーブル便り(1)』−by 督永忠子(アフガニスターン現地責任者)
2005年、新しい年を迎え、おめでとう存じます。
昨年もたくさんの方々から厚いご支援を頂き、2004年の活動を無事に終えることが出来ました。皆々様に心より感謝、申し上げます。
本2005年は、今までの試行錯誤から1歩も2歩も前進し、一人でも多くの方の現金収入につながる、あるいは生活向上につながる支援に結びつけたいと頑張ります。
今年もどうぞよろしくご支援下さいますよう、失礼を省みず、HP上からお願い申し上げます。

[2005.01.01]


過去の活動報告
活動報告2001(2001年11月活動開始〜12月31日)
活動報告2002(2002年01月01日〜12月31日)

活動報告2003(2003年01月01日〜12月31日)
活動報告2004(2004年01月01日〜12月31日)
活動報告2006(2006年01月01日〜12月31日)
活動報告2007(2007年01月01日〜 )