SORAの活動報告 (2002年01月01日〜12月31日)

活動報告2001(2001年11月活動開始〜12月31日)
活動報告2003(2003年01月01日〜12月31日)
活動報告2004(2004年01月01日〜12月31日)
活動報告2005(2005年01月01日〜12月31日)
活動報告2006(2006年01月01日〜12月31日)
活動報告2007(2007年01月01日〜 )





----記事より----
−「タナからボタ餅」では 自立心は芽生えない−

数えてみたら、今年のアフガニスタン滞在は200日を超えていた。
米国の空爆で夫を失った女性たちや子どもへの支援活動を始めて1年。
女性たちが働くカーペット製作所を、カーブルに2ヶ所つくった。
自立のための縫製学校も3ヶ所開き、現在170人がミシンの使い方を学ぶ。
「モノを配るだけの支援はしない。タナからボタ餅式では、自立の心は芽生えない」




2002年12月22日 毎日新聞より

[2002.12.29]


パキスタン国境を越えて粘土団子の専門家(女性2人)がアフガンに入り、来春の準備が始った。
粘土団子のために日本全国から集まった種は約15トン。植林のために用意した苗木は2万本。住民感情を考えて、中・長期の2本立てで緑化を進める予定。

[2002.12.26]


小雨の中を国立の孤児院へ行ったり、アチコチ走り回りバタバタ慌しい一日だった。
カーブル市内の孤児院にはいろいろと問題があるようで、政府は民営(NGOを含む)の孤児院を閉鎖すると1ヶ月半前に発表している。特に今年に入ってからは雨後の竹の子のように民営(NGO)孤児院ができ、その殆どが寄付金集めに奔走、経営者はその寄付金を懐に入れ、孤児を食い物にしているという。
「アフガンの孤児のために」と、幾つか日本のNGOが孤児院(もどき)を設立して寄付金集めをしているが、現地でその実態を見れば驚かれるだろう…。

[2002.12.17]



2002年12月08日(日) 讀賣新聞


----記事より----
タリバン政権崩壊後のアフガニスタンの復興、支援に取り組む「アフガン難民を支える会」の現地責任者、督永忠子さんが日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞を受けた。アフガンから一時、帰っている督永さんは「缶ジュース一本分でアフガンでは10人が2日間食べることができます」と援助を呼びかけている。
-中略-
食べ物を配る活動から始め、砂漠に緑を取り戻すための井戸堀り、作物や樹木の種の詰まった粘土の団子まき、巡回医療などを続けている。

難民などの状況を「オバハンからの緊急レポート」と題して、インターネットで毎日のように発信。3月に出版された同名の本がJCJ賞に選ばれた。

13日に現地に戻る。

[2002.12.12]


2002年12月06日、現地責任者・督永忠子が帰国し、東京で報告会を行いました。


----記事より----
(督永は)「事務所のスタッフにあきれられながら200日以上をアフガンで過ごした」と苦笑する。
アフガン難民を支える会では、カーブル市内で無償の縫製学校を開くほか、アフガニスターン人医師の協力による巡回医療や、緑化運動などを行っている。
督永さんの信条は「タダでモノを配る支援はしない」というもので「ミシンをあげるのなんて簡単だが、それは自分で手に入れてほしい」。
戦乱続きで産業もなく将来の展望が見えないアフガンの状態が、人々の勤労意欲を奪っている。-中略-
「どうしたら、現地の人々が働く気になるのか」が目下の悩みだ。
「いろいろな意味でまだ人々に余裕がない。戦乱は目上の人を尊敬するなどの小さな秩序も破壊した。彼ら自身が、生まれた村や国を立て直すためにエネルギーを注げば、復興はもっと早くなると思う」と話した。



2002年12月06日 東京新聞より

[2002.12.08]


近くの孤児院を訪ねた。
今年の2月だったかは450人の子供たちが収容されていたが、今では850人にも増えていた。一説によるとカーブル市内だけで1万人にも上る戦災孤児がいるという。もっともアフガニスターンでは、孤児とは父親のいないものを指す。先進諸国などと異なり、女性の職場がないアフガニスターンでは、父親を初めとする男手がなければたちまち生活が困窮する。
市内で政府が保護している孤児は約2000人。後は個人レベルの胡散臭いNGOが、雨後の竹の子状態で運営しているらしい。
SORAでは、孤児たちの自立支援に10台のカーペット製作用の外枠と、カーペット10枚分の毛糸、指導の先生を派遣しようと考えている。冬場は家の中でじっくりカーペットを織る季節。何10枚もの暖かいカーペットを日本で販売できる日も近い。

[2002.11.23]


某新聞社の方が、「寒くてストーブを入れました!」ということだったので、識字教室などにもストーブを大至急に用意しなくては!と焦っていたが、まだまだ寒いというほどでもない。
カーペット織り工場には、家計を助ける少年たちも多く、元気な彼らは真冬でも暖房なしの中でカーペットを織り、暖房は不要だと言い切る。男は強くなければならない、男は我慢ができなくてはならない!と信じている彼ら。私たちも、「寒い」などとは言っていられない。

[2002.11.14]


ハザラジャード地方を中心に、今年5月から開始された巡回医療は、村人たちから純粋に感謝されています。
若い医者も見つかり、この間の巡回には彼にも参加してもらいました。

山村での栄養指導、栄養剤の配布や簡単な母子保健指導ができれば、乳幼児死亡率が少しは改善されるのではと願っています。
アフガニスターンの乳児死亡率は、UNICEFの発表では165/1000人(日本は4/1000人)ですが、督永(現地責任者)が実際に聞き取り調査を行なった山村ではそれよりも更に高く、人間の生活や生命に、身近に結びついている医療活動は今後も必要であろうと考えています。巡回医療が続けば、住民も少しは安心して定住が可能になるような気がするのですが…。

[2002.11.10]


アフガニスターンの緑化計画。
粘土団子を蒔く準備も進んでいるが、それだけでは時間がかかり過ぎる。なので、植林も平行して進めていく予定でいる。
高度に強い種のりんご、杏、アーモンドなどの苗木、合計2万本をギルギット(パーキスターン北方地域)の林野庁出張所に注文。植林は効果がないという人たちも多いが、何事もやってみなければ!

[2002.11.01]


嬉しい報告がカーブルから届きました。

カーペット工場では、子どもたちが元気に作業を続けています。児童労働が取り沙汰されますが、子どもも大切な働き手であり、母親と並んで1人前の働き手としてカーペットを織る子どもは微笑ましく、それを「母と子で織るカーペット」として皆様にお届したいと思います。カーペットは100枚近くが織りあがりました。

また縫製学校の卒業生約70人のうち、16名は仕立て屋の看板を出し、或いは家庭内での内職に励み自活の道を歩みつつあります。

[2002.10.28]


早いもので活動開始から1年が経とうとしています。

ご支援くださった皆さま方に、活動1周年を記念して、ささやかな報告書をお送りさせていただきました。
皆さまのお手元に届きましたでしょうか。

これからも皆さまのご支援をよろしくお願い致します。

[2002.10.27]


カーブルで織り上がったカーペットが、サンプルとして届きました。
サイズは120cm×175cm。
鮮やかな色、そして、複雑な模様。とてもステキです。

未亡人の自活につながると良いのですけれど…。

[2002.10.05]


カーペット工場では、順調にカーペットが織りあがっています。
カーペット工場で働く子供たち用にと識字(ダリ語、英語、算数)教室を開始したら、大人たちも算数教室に参加するようになって賑やかです。庭には子供達が遊べるようにバレーボールの小さいコートも出来ました。

純な子供たちの織るカーペットは、大人の織るカーペットより間違いが少なく、心がこもっているように思えます。12月上旬に予定している展示会(東京)でもお目見えすることと思いますので、ご期待ください!

[2002.09.23]


カレーズ掘り(整備)は7月半ばから始まり、降雪の始まりそうな11月半ばまで続けられる予定だが、この4ヶ月間で述べ約4万人もの雇用も出来たし、アチコチのカレーズから水が出て来ているのも嬉しい出来事。おまけに今年は小麦の収穫が例年の5割増しだったと、村人のまとめ役(村の評議員長)の話を聞き、少しホッとしている。
村(ハザラジャード・ワルダック県スルハバット郡)では、4万人の雇用で僅かながらも現金収入があり、小麦の配布も受け、よそのNGOの道路工事に出た人もあったろうしで、厳冬をなんとか乗り切れそうな明るい雰囲気が漂っている。

山村での巡回医療も、3回の調査をもとにボチボチだがスタートし、村人に大層喜ばれている。援助は、巡回医療のように明快そのものの行為が喜ばれるという、単純な結果に落ちつくのが一番かもしれない。
厳しい冬がもう目前、村人は短くなった陽射しに追われるように、動物の飼料を刈り込み納屋に積み込んで冬支度に精を出す毎日だ。

[2002.09.17]


7月半ばから始まったカレーズ(地下水路)掘り。
最初は7ヶ所155人で始まりましたが、現在では44ヶ所700人が作業しています。

開始当初からアチコチのカレーズを見て廻っていますが、平均標高3300mの高地を徒歩で廻るのは楽ではありません。
村人たちは、スコップや一輪車を使い、もくもくと作業を続けます。手も足も泥だらけ…。でもそれは、水が出始めている証拠なのです。
自給自足を続けるため、そして人間が生きるために必要な水。カレーズ掘りは冬が来る前の11月半ばまで続きます。

[2002.09.01]


アフガニスターンで活動していた督永忠子(現地責任者)が、パーキスターンに戻ってきた。
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ただいま!
本日アフガニスターンから帰って来ました。3kgもダイエットができました。
カーブルの事務所は井戸も枯れ、飲料水はパーキスターンから輸入のミネラルウォーターのみ。食器を洗う水もないため、最低限の食器での生活。シャワーはカーブルから外へ出たときのみ、汚いホテル(半端に汚いのではない共同シャワー)で。
病気にならない方が不思議な生活でしたが、元気に働いてきました。

また、今月半がにはカーブルに戻ります。
ハザラジャードへの巡回医療を進める計画や、次々に織り上がり出したカーペットの売り口の打ち合せなどを予定しています。

[2002.08.06]


アフガン難民を支える会の事務所は、カーブル旧市街から7〜8kmのカルテ・セイ(KARTAYI SE)という地区にあります。カルテ・セイは、アフガン人の中でも最も貧しいハザラ人が多く暮す地域ですが、近くにはバザールもあり(野菜や果物、肉が売られています)、結構、便利なところです。
しかし、事務所には電気も水道もありません。もちろん、シャワーもお風呂もない生活です。炊事には井戸水を使いますが、最近、その井戸も、慢性的な干ばつのために水位が下がりはじめました。
同じ地区にある裁縫学校の井戸も水位が下がり、泥水・汚水が入って使えなくなりました。

学校に通っている女性たちは、自分の分の飲み水を家から持って来ることに。ミネラル・ウォーターのペットボトルが、水筒の代わりです。

[2002.07.24]


本日も、朝6時半から村人が薬を求めて次々と訪れて来る。
殆どの女性が頭、肩、腰、体の節々が痛いと訴える。ナーンとヨーグル トが中心の食生活、3700mの高地では野菜などどこにも見られず、栄養の偏りは被うべくもない。
80歳か?と思うような、歯が抜け落ち、皺だらけ、節くれだったガサガサの手を差し伸べて来る老婆たちへ年齢を聞くと、50歳だという。「まっさかぁ!」と思いながら、血圧を測るべく腕をまくりあげると、膚の張りは督永(アフガン難民を支える会=SORAの現地責任者)より遥かに若く、確かに50歳だと認識ができる。
出産数、子供の死亡数も多く、女性への負担は計り知れない。母体、また生まれて来る子供の障害を出来ることなら少なくすること、生まれた子供を少しでもよりよく育てるために、ほんの少しの栄養剤を定期的に投与するだけで改善されるのではないかという気がする。巡回医療チームが必要だ。

肩、腰などの痛みはチャードルやブルカを被って前かがみで歩くせいもあると思う。薬をもらいに来た30人ばかりの女性(部屋に入れる人数)を対象に、「痛み止めでは肩や腰の痛みは解消しません!ハイ、みなさん立って下さい。肩の上げ下げをしましょう!」と肩凝り体操を教える。ついでに腰痛体操も。
30代の若い女性でも両腕がまっすぐ上に上げられない人が多く、ふだんチャードルを被っている姿勢に体が凝り固まっている感じ。30人ほどの中で督永の号令通りに手が上げられる人は2人だけ、次の30人組でも似たようなありさまだった。

[2002.07.20]


タイラシャック村への活動を開始した5月頃は、カーブルからジープで9時間もかかったが、最近は各地で道路工事が行われているせいもあり、7時間半で来られるようになった。カーブル市内にある『アフガン難民を支える会=SORA』の事務所にも電気はないが、地方にも電気があるわけも無く、干ばつが酷いハザラジャード高地には飲み水にも事欠くありさまです。飲み水は村人が遠くまで汲みに行ってくれる、とにかく、大変なところです。

イラシャック村では、カレーズと井戸を合計8箇所で掘る予定になっています。カーブル市内でカレーズ堀の道具を揃える大変さは言葉に表せず、道具や小麦を運ぶトラックは途中で壊れ、現地到着は2日遅れ、しょっぱなから山あり谷ありです。
今朝は、8時半からカレーズと井戸堀の道具を配布する予定になっていたが、10時半になっても責任者と称する人たちが全員集まらず「誰のためのカレーズ堀なのか!」とため息をついている…。

[2002.07.19]


カーブルからジープをぶっ飛ばして7時間半、ハザラジャード・スルハバット郡・タイラシャック村へ調査に出かけました。

タイラシャック村はバーミアンの南約70kmに広がる、東西約30km、標高3300m〜3700mの地域で、かつては1万5000世帯が暮す村でした。現在は、干ばつのため小麦ができず、何家族もが村を捨て6000世帯ほどが暮しています。

村へは、地方へ行くときの必需品、痛み止め、解熱剤、抗生剤、目薬、耳の薬などを持参。120人の女性を対象に保健衛生指導、健康状態のチェックなどを実施しました。女性ということで督永(SORA現地責任者)が直接、聞取り、薬を配布。結果、村の乳幼児死亡率は、3割…とアフガニスタン全体よりは、かなり高め。栄養の偏りにより非常に短命で、リュウマチや肩こり、腰痛、頭痛、胃痛を訴える女性がかなりみられました。

また、村人からは「一番近い薬屋までも、車で5時間もかかる。巡回医療のようなことはしてもらえないか?」とい希望もありました。村長と話し合い、今後は、2ヶ月に1回、基本的な薬を配布すると約束しました。

[2002.07.14]


土団子を作るための特注ミキサー3台が出来あがり、パーキスターンからカーブル市内への運び込みが完了しました。アフガン政府農業省の敷地内に粘土団子を作り、緑化推進のための事務所も貸してもらえることになりました。秋になれば、農業省のスタッフや福岡正信(粘土団子発案者)門下生2名の協力のもと、本格的に種まきに取りかかります。

「粘土団子」は直径1.2〜1.5cmのもので、様々な種類の種を粘土質の土に混ぜて作ります。無肥料、無農薬、不耕起(耕さない)、無除草、無機械。種を粘土団子に混ぜ入れて土地にばら播くだけの農法です。作物は人間が余計なことをしなければ、自然にたくましく育つものなのだそうです。何種類もの種を蒔くので、どんなに過酷な条件でも必ず芽を出すものがあるそうで、その土地に適した種子が芽を出し、土地本来の姿に還るきっかけをつくることができるのです。

空爆ではなく、粘土団子を空から届けたいと思います。

[2002.07.05]


アフガニスターンでは、リーシュマニア症(サシチョウバエを介する病気で、原虫は全身の細網内皮系細胞で増殖し、内臓にも病変を形成する感染症)が多く見られます。カーブル市内でも感染している子どもたちをたくさん見かけました。
アフガン難民を支える会-SORAでは、ネットワーク「地球村」と共同で2万ドル分のワクチンや注射器をカーブル市内の小児病院に支援しました。

[2002.06.30]


縫製学校(工場)の初級コースを終了した生徒たち90人は、中級コースへ。
初級用の生徒には安い練習用のミシン100台を、教室で貸与してあったが、中級コースへ進み製品が作れそうな生徒には、外国製(中国)のミシンを購入の予定。7月からは軍隊のパジャマを作る予定です。

[2002.06.27]


4月はじめに運び込み、未亡人宅に設置したカーペットの枠。
15の枠から、ぼちぼちカーペットが織りあがってカーペット卸し商人の手にわたり、賃金を受け取る未亡人が出てきました。
SORAとしてはノン・プロフィット、ノン・ロスのプロジェクト。しかし、どちらかといえば走りまわっている分だけは経費がかかっているので損かもしれません…。

[2002.06.27]


イスラマバードのカッチャ・アバディ(難民居住区)内にあった4つの識字学校が、すべて取り壊されました。
識字学校だけではなく、カッチャ・アバディ内の家のすべてがパ政府によって取り壊されました。カッチャ・アバディ内が麻薬や密輸品を隠すための巣窟になっているような説明
が政府からあったようですが、これはまったく言いがかりにしか過ぎない気がします。
いずれにせよ、順調に稼動し、子供たちが喜んで学んでいただけに無念の一言に
つきます。詳しくは気まぐれ通信を。

[2002.06.04]


カーブルではハザラ族の多く住む地域に裁縫学校(識字教室を併設)を3ヶ所(ミシン100台、生徒計170人)設置、女生徒たちは嬉々として学び、縫い物に余念がない。
また、カーペットの家内工場は3ヶ所に設置、約600人がカーペットの製作に励む予定。
最初カーペット織りのための外枠は、「未亡人の家に設置して彼女たちの生活を支える」ということであったが、借金のカタに持って行く輩があったり、勝手に自分達の都合で移動させたり、挙句が移動費用だ、設置費用だ、修理代だ、アレくれ、コレくれと次々に難問が持ちあがり、20年余り外国からの援助を貰い慣れたもの特有の厚かましさ、無神経さに督永(現地責任者)の声もツンツン尖がり気味。
結局、家賃を払うのは業腹だが、キチンと管理をするためにも家内工場として稼動させることにし、雇用をふやして行きたいと考えている。

とにかく、無料でモノを配布する援助ではなく、自活につなげるということで、それぞれの働きに対して、現地へお金を落とすことが支援だと思い切ることにした。
手を広げすぎると充分な管理が出来ないとの意見もあるので、鍛冶屋さんと木工所には「自分たちが是非やりたい」という人が現れるまで待ち、時間をかけるつもり。

[2002.05.21]


トラック5台分の荷物がカーブルに向けて出発しました。
荷物は、カーペット用グリル185台、粘土団子用ミキサー3台など…。
緑化5ヵ年計画のための粘土団子用ミキサーは、なんとパキスタンで作ってもらった特注品…。


何事も、時間のかかるアフガニスターンですが、地球の将来を見据えて、
ゆっくり、じっくり取り組んで行きたいと思っています。

[2002.05.13]


カーブルの縫製教室は、順調良く進んでいます。
教室は、ワンクールが3ヶ月で、午前8時から11時半のクラスと13時から16時半の2クラスがあります。
各60名前後が学んでいます。
3カ月でオーバーロップなど基本的なことはできるようになります。

[2002.05.07]


カーブルに到着したミシン100台は、裁縫学校へ50台、裁縫教室へ50台の2ヶ所に分配。
女性たちに大変、喜ばれています。

[2002.04.24]


アフガニスターン・カーブルに、ミシンを100台運び込みました。
また、カーペットの外枠も順次、未亡人の家に設置されつつあります。

[2002.04.15]


アフガニスターン緑化5ヵ年計画というのを、政府に持って行ったところ予想外の反応で、種(ねんどダンゴにして蒔く)をカーブルを取り巻く丘陵や山々へ、ヘリコプターを使って試験的に蒔くことになりました。予定としては4月末です。
農業大臣やカルザイ議長もヘリコプターで参加するとのこと。
本格的には秋に蒔くことになりますが、8トンの種に粘土を60トン混ぜ込み、ハザラジャードを中心に蒔きます。

5年したら少しは成果が出るでしょうか?

[2002.04.12]


現地責任者・督永が、また明日からアフガニスターンに出かける。
今回も、ミシンの設置や識字教室の場所選び、未亡人宅へのカーペットの外枠の設置といろいろ忙しい。

[2002.03.26]


カーブル市内南西部のハザラ族が多く住む居住区で、未亡人を対象とした生活支援プロジェクトが開始する。
カーペットの織り機や縫製用ミシンを貸し出す。カーペットの織り機は、各家にセット。でき上がったカーペットを販売し、織り機の代金を返金してもらい、また次の織り機を購入する…という計画。
ミシンは裁縫学校に設置予定。裁縫学校には、識字教室も併設する。

[2002.03.10]


暖かくなってきたイスラマバード。識字教室の子ども達は元気です。

今月24日、イスラーム暦の最終月 第10日、EID-UL-ADHA(犠牲祭)が祝われました。
犠牲祭は、例えて言うなら日本のお正月…。この間、学校はお休みです。

子ども達には、お年玉としてノート3冊、エン ピツ2本、消しゴム1つ、みかん、バナナ、ビスケットが配られました。在イスラマバード日本人学校の先生方や、ボランティアの若者たちがお手伝いくださいました。

[2002.02.28]


イスラマバードはすっかり春!
今月24日、25日には犠牲祭が祝われました。

『支える会』では、この2日間、難民の方たちと一緒に犠牲祭をお祝いしようと、ナーンを配りました。暖かくなったせいか、夜にもかかわらずたくさんの人たちがナーンを待っていました。


右写真:ナーンを持つ少女

[2002.02.28]


イスラマバードとラワルピンディの中間に広がる広大な難民の定住地。
暖かくなったので、泥まみれの子供たち、水牛たちがノビノビしている。
子供たちの識字教室も、今日から24日までは犠牲祭休みになるというので、昨日は先生方の給料を前払いに行った。
諸式が値上りして生活が楽でないのは判る。
「UNの識字教室では先生方の給料が3000Rsも貰えると聞いている、私たちも…」
「あら!それではUNの識字教室へ移って下さってけっこうですヨ、ご遠慮なく!」
「子供たちが勉強に使っているモスクの有力者たちが、使用料の要求をしています。幾らか支払って頂けると……」
「まぁ!私の将来のために勉強しているンじゃないンですヨ、ご存知ですヨね。誰の子供なンでしょうネ?……。」

無料で使わせて頂いているモスクだが、何かをすれば何かを言う人もある。やっぱり教室を借りようかと考え始めている。

[2002.02.21]


社会の最下層に属し、民族、宗教(シーア派)差別のゆえに、国連などからの援助物資が極端に少ないと言われているハザラ族。しかし、彼らでさえも「食べるだけなら食べられる、バーミアンにまで食料は届いている、食料が届いていることで人々は安堵している」とバーミアンから来た人自身が言う。

現地責任者・督永がアフガニスターン・カーブルを訪れました。
「ハザラジャード(バーミアン)へ食料援助をしてくれれば、そういうNGOを持ってきたことで私への尊敬は深まり、政治家としての立場は固まりポイントは上がる。しかしそれでは我々は何時までたっても自立出来ない。今までハザラ族は虐げられてはいたが、それでも他人にすがることなく努力して生きて来た。しかし、今や国連などの援助により我々自身はスポイルされている。待っていれば援助が来るとわかり、細々とした田舎での手工業もなくなり我々は家畜と同じになっている。我々が自立して行けるための援助を考えて欲しい」
アフガニスターン政府のNGO長官が言った言葉が印象的でした。

[2002.02.14]


1月4日 産経新聞より
識字教室が紹介されました。

[2002.01.04]


先般、キャンプへ行った時に、先生用の椅子を4脚ばかり欲しいと頼まれていたので、本日はそれを持って行って来た。

この間は聞こえなかったが、きょうはモスクの外まで響く(日本式に言えば、アイウエオの)大合唱だ。子ども達はさらに増え、3箇所で合計400人にもなっている。グランド・シートを敷いただけの青空教室は、男の子と女の子に分けられてはいるが、隣のクラスの大合唱で先生の声も聞き取り難い。

それでもペルシア文字で算数をするクラスもあるし、パシュトーン語を習うクラス、コーランの暗唱をするクラスといろいろ。何よりも子ども達の熱気が凄い。

[2002.01.03]


難民居住地に行って来た。どうせ、まだ授業なんかしていないと思って、足りない備品を届けるつもりで行ったのだが、車を降りてからモスクまでの路端に子どもの姿が殆どない。朝早くて寒いせいだと単純に考えていたが、モスクの板戸を押して中に入ると、なんと、なんと!寒い屋外で授業が始まっていた。

3ヶ所のモスクでは合計260人の子どもがシートの上に座り、元気な声を張り上げ、「1(ヤク)2(ドー)3(セー)」と年長者について嬉々していたのには感動、ちょっと目頭が熱くなった……。

今週中には、後3つの寺子屋が開始になる。先生の人件費が膨大な金額になる!とアタマの中で計算が一瞬よぎったが、オバハンも稼ぐし、善意ある多くの方々に支えられているから大丈夫!! アッラー(神)もついていて下さるし。

[2002.01.02]


『アフガン難民を支える会』が発足して1ヶ月あまり。年末に発送された小麦粉と食用油が、無事にハザラジャードに到着しました。

[2002.01.02]



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