SORAの活動報告 (2003年01月01日〜2003年12月31日)


活動報告2001(2001年11月活動開始〜12月31日)
活動報告2002(2002年01月01日〜12月31日)

活動報告2004(2004年01月01日〜12月31日)
活動報告2005(2005年01月01日〜12月31日)
活動報告2006(2006年01月01日〜12月31日)
活動報告2007(2007年01月01日〜 )




『現地活動視察報告(10)』−by 若山榮久
SORAの支援活動は単なる物資の援助ではなく、その大きな役割は、アフガン難民の自立支援にある。
一NGOのできることには限界があるが、多くの方々から寄せられた支援に応えるために何ができるか。ここで考えられたのが、何でも自分たちでやることであり、結果的に最低限の支援金で最大の効果を上げることができているのではないかと思う。
今回の視察では、アフガニスターンで行われている様々な支援の状況を見てまわることができた。SORAは、カーブルから遠く離れた、国連などの支援が行き届かない地域の学校建設や巡回医療、緑化支援などを実施。これらの村々で活動していることは、日本での支援者にも自信を与え、理解を得られるものと強く感じた。
現地スタッフは、できることは自分たちで行うので、地元の村人との折衝や工事の資材などの購入だけでなく、巡回医療の薬袋作り、子どものカバンへのSORAマークの刷り込み、勉強机などの整備などもこなしている。
日本でのSORAの活動は、現地での支援活動を理解し、自分たちができることを、できる範囲で支援するということだと思う。

[2003.12.30]



『現地活動視察報告(9)』−by 若山榮久
陸路で、再び国境を越えてパーキスターンへ戻る。

途中の平原の悪路でパンクをし、交換までの間、一時休憩を取ったが、道路脇の平原一帯は地雷が埋まっており、危険地域だ。
国境では何があったかわからないが12時でゲートが閉まるとのこと。アフガニスターンの国境係官が「早く行け!」というが、人や車が多く、やっとゲートについた時には1cmもなく閉まりかけていた。ここで閉められたら野宿しかない!「NGO!NGO!」と叫びながら、半ば強引に押し開け出ることができた。パーキスターンの入国審査を終え、ペシャワール〜イスラマバードへと無事に帰ってきた。

[2003.12.26]



『現地活動視察報告(8)』−by 若山榮久
ダルカ村などの視察が終わり、バーミアンへも行くことになった。
およそ230km、8時間もかかるので早朝に出発。いくつもの岩山の間を通り抜けた。また、途中、温泉が湧き出ており、しばし足浴を楽しんだ。しばらく走るとチンギスハーン時代の砦の跡が赤土の岩山の上に見え、さらに遠くに緑の多い地域が見られた。バーミアンの街だ。タリバーンによって爆破された磨涯大仏のTV画面では、確かに草木は一本たりともないが、撮影しているすぐ後ろは小麦・野菜畑や果物の樹などTVでは映し出されない光景が広がっていた。現地スタッフが「行ってみると驚く」と言っていたのはこのことなのだ。
バーミアンは標高2700m、バーミアン川が流れており肥沃な盆地だった。新しいバザールもできつつあり、農作物も豊富で人々の表情は明るく感じられたが、多国籍軍が駐留しているのを見ると早くアフガン人による政府樹立の必要を考えさせられた。

岩山の磨涯大仏は、側で見るとものすごく大きい。53mと35mの大仏は爆破されてしまったが、復元するかしないかまだ結論は出ていないようだ。この岩山には住居の洞穴がある(現地人は住んでいない)が、ほかの岩山にはまだ生活している人の洞穴がある。ナーンを焼く釜戸や穀物の倉庫もある。天井は、四角形を交互にだんだん小さくした四角錐の形をしたものもある。
磨涯大仏を正面から見る岩山には、タリバーンの武器の残骸が残っていた。また、この岩山にある道以外は地雷が埋まっているとのことで一瞬鳥肌がたった。

[2003.12.21]



『カーブル事務所便り(23)』−by 督永忠子
イラクに連携してアフガンの治安も悪化の一路を辿っている。
もっともアフガンの場合は、ローヤ・ジルガ(国民大会議)の開催も因の一つになっているし、他にも4つくらいの原因が治安の悪化に絡み合っているので、ここはしばらく静観しようと、SORAの事務所を一時閉鎖することにした。頑張って支援活動を続け、テロや誘拐に遭ったとしたら、「それ見たことか!」と言われ、外務省にも迷惑をかけるだけだ。人間、生きていてこそナンボ!の世界、ローヤ・ジルガが終わり治安の様子がつかめるまで、しばらくは活動も休止。

幸い現地スタッフがしっかり育っているので、彼らが事務所や識字教室、そしてカーペット製作所や縫製教室などを運営してくれるので心強い。アフガンやイラクへの支援は、本来なら彼ら自身が自分たちの手で行うべきものなのに…。

[2003.12.21]



『オバハンの「本の出版を祝う会」報告』−by 若山榮久・美代子

パーキスターンで日・パ旅行社の代表を務め、アフガン難民を支える会−SORAの総括責任者である督永忠子著の『民宿シルクロード今日も開店休業大忙し』の出版を祝う会が、目黒・さつき会館で合同出版(株)とJRUの呼びかけにより開催されました。

第1部では、JRU-PACアフガン事務所の所長から『アフガニスタンの活動報告』がありました。
報告の中で、アフガン自立支援に当たってはSORA/JRU−PACの共同プロジェクトで学校建設、カーペット製作所、カレーズ掘り、緑化のための植樹などを進めていること、また、日本人とアフガン人の感覚は宗教や、生活習慣などの違いにより必ずしも順調に進まなかったこと、巡回医療で村人の健康診断を実施していることなど実績を上げているが、アフガニスターンの人々は、各国からの物資の支援などが当たり前のように受け取られており、自立することと相反する傾向が見られることなど苦労の多いことも含めて報告されました。
一方、カーブル市内、支援活動地域の現状など、新聞に報道されない話は、現地に駐在しているからこその真実の話として聞くことができました。

また、督永忠子の出版を記念した特別講演では、長くパーキスターンで生活しているため今ではイスラームにドップリとつかり、たまに日本に帰国すると息が詰まる?とのこと。パーキスターンにいながら毎日が日本食で外出以外はハダシの生活などと、日本人らしくない話で笑いがありました。

アフガニスターンの写真による説明と質疑の中では、メディアは必ずしも公平な報道ではないことなど説得力のあるわかりやすい応答がありました。
第2部では、引き続き懇親会が開かれました。
JRU委員長からのご挨拶では、「リンゴなど食べ終えたものはどこででも捨てない!ヒツジのいる所で捨てれば、ヒツジが食べるでしょう!」とアフガニスターンでは督永から厳しく注意されるなど、うるさいオバハンの一面が紹介されました。

SORAからは、若山榮久が代表で挨拶しました。
長年パーキスターンに在住し、必要な支援のために奔走している督永の考えに共感し活動が開始したこと、日本では、個人ができることをできる範囲で行い、他の人を強制しないことを基本に支援活動を行っていることを話しました。司会者から急に挨拶をと言われて戸惑いましたが、何とか出席者の理解を得られたようです。

懇親会では、いろいろな人と話ができました。
JRUの役員の方々とアフガニスターンについて、いつも航空券の予約でお世話になっている風の旅行社の方、パキスタン大使館の方とNPOについてなどなど、時間を忘れて話し込んでしまいました。
SORAの活動、JRU−PACの活動などを通して集まった多くの支援者で盛大な会となりました。
改めて、個人個人の力、組織の力を見せられました。

[2003.12.17]



『現地活動視察報告(7)』−by 若山榮久
ダルカ村で1日を過ごした。
近くといっても車で40分くらいの川へ行き、埃にまみれた身体を拭いて頭を洗った。アフガニスターンで使われている赤土の石鹸?を使用したが大変よく落ちる。2つのペットボトルに水を入れ、日向で温めた簡易温水で髪を流し終えた。お湯は生活の知恵だ。この様子を村人たちが遠巻きに見ていた。

しばらくすると薬の空き箱を持った娘さんたちが寄ってきた。以前、巡回医療をした時に渡した痛み止めの薬がなくなったので欲しいということらしかったが、あいにく持ち合わせていないというと残念そうな表情で帰っていった。巡回医療のない日だったが、どこか村へ行くときは、簡単な薬(目薬や痛み止めなど)を持ち歩く必要があるとのことだった。

[2003.12.12]



 
[支局長からの手紙]塩田敏夫・大津支局長 外から見える日本
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 「日本は今、戦争に大きく踏み出そうとしています。でも、後方支援ということで、国民は対岸の火事ととらえて無関心。戦争をしかけているという認識がなく、いざという時の覚悟ができていない。自分の子どもが戦場に行くかもしれないと思って、戦争反対の声を上げないといけないと思います」

 26日、八日市市大森町の法蔵寺。「アフガンの今」をテーマにした講演会。パキスタン在住でアフガニスタン難民の支援活動を続けている督永忠子さんは、参加者からの「外から日本はどう見えるか」との問いかけにこう答えました。イラクへの自衛隊派遣について、自分の考えをはっきりと述べたのです。
(中略)
 地雷が今も650万個以上も残るといわれ、硝煙のにおいが立ちこめる中での支援活動。現地で多くの報道陣の行動を実際に見てきた体験を踏まえた発言といいます。さらに、自由にものが言えない空気がマスコミ界にあるのではないか、記者はひるんで署名記事を書けないのではと問いかけたのです。

 講演会が終わり、夜遅くまで話し込みました。マスコミのありようについての批判は重く受け止めなければなりません。ただ、毎日新聞は署名記事が原則と説明したうえで、「自由に言うべきことを言う。これが新聞記者の命です。これがなくなったら新聞はおしまい。現場に立ち、現場の視線から書き続けます」と語りかけました。反骨精神こそ、新聞記者の神髄であると思います。再会を約束しました。

2003年12月01日(月) 毎日新聞

[2003.12.10]



『現地活動視察報告(6)』−by 若山榮久

タイラシャック村の学校は既に完成しており、4教室がいっぱいなほど子どもたちが勉強していた。この学校の机(細長い座卓)と下駄箱はSORAのスタッフの手作りによるものだ。校庭にはもちろん井戸が掘られている。

子どもたちの学校生活の中で、最近、変わったことといえば、教室へは靴を脱いで入るのだが、始めのうちは脱ぎっぱなしが多かった靴が、日を重ねるごとに下駄箱へ入れるようになったということ。整理整頓ができるようになり、帰りがけには下駄箱を教室の中へしまうようになってきたことだ。
小学校の下駄箱

[2003.12.07]




11月24日〜27日まで、滋賀県八日市市の大森・法蔵寺で、写真展「アフガンの現場から」を開催いたしました。


----記事より----
アフガンの「復興」活写 八日市で写真展

アフガニスタンの現状を伝える写真展「アフガンの現場」が24日、八日市市大森町の大森法蔵寺で始まった。
アフガニスタンの自立を支援する「アフガン難民を支える会」の渡邊弘俊さんが撮影した。今年3月にアフガニスタンへ行き、現地の子どもや復興支援の様子を記録した。
破壊された建物で生活する人々など、約100点が展示された。「真の復興はまだ遠いが、人々はたくましく一生懸命生きていることを知ってほしい」と渡邊さん。

2003年11月25日(火) 京都新聞

[2003.12.04]



滋賀県八日市市の大森・法蔵寺で、督永忠子の話を聞く会が開催されました。


----記事より----
アフガンの現状考える − 督永さんの話を聞く会

パキスタン在住でアフガニスタンの難民支援を続けている督永忠子さんの話を聞く会が開かれる。「アフガンの今」をテーマに、米同時多発テロからイラク戦争へと揺れる世界、失われ続けている命を考える機会となりそうだ。
督永さんは彦根市出身。その活動に共感した法蔵寺住職、阿頼耶文雄さんたちが、一時帰国した督永さんを招くことになった。当日は督永さんの手作りのカレーを味わいながら話し合いの場を持つ。

2003年11月19日(水) 毎日新聞

[2003.12.01]




活動報告のために帰国中の督永忠子(SORA総括責任者)が、KBS滋賀ラジオ『さんさんわいど滋賀』に出演しました。

パーソナリティを勤める小池由香さんと、アフガニスターンでの活動の様子や世界の平和について歓談しました。オバハンは、少〜し緊張していたみたい…。

また、合同出版より刊行された、新しい本についても話が弾みました。

[2003.11.28]



『現地活動視察報告(5)』−by 若山榮久

ダルカ村と同じスルハバット郡にある、タイラシャック村、ホラ村へ出かけた。ダルカ村から車で3時間ぐらいかかったが、ホラ村では学校建設の基礎工事が始まっていた。この村の現在の学校は少し離れた場所にあるが、新しい学校ができるまでは、そこで授業が行われている。

ホラ村の工事は遅れ気味であったが、10数名の工事人により施工中である。工事を予定通り進めるためにも、何度も村人との話し合いを持っているが、アフガニスターンの人々は一般的に自意識が強く、我流で押し進めることは得意だが、反面、団結や他の人と協調して行動するのが苦手であると思われている。話し合いの場でも、日本の感覚で協力・共同してやることがどういうことか説明しても、なかなか理解できないようであった。それでも、工事が進まない状況を目の当たりにし、大勢で工事をしているのを見ると少しづつ変わってきているようにも感じた。


12、3歳くらいの子どもが、工事に必要な水のために、丘の上から小さな水路を造っているのが印象的だった。
水路を造っていた少年

[2003.11.24]



『現地活動視察報告(4)』−by 若山榮久
ダルカ村は3000人ほどの村だが、いくつかの集落が散在しており、SORA/JRU−PACのフィールド事務所は、小学校を建設している集落の一角にある民家を借りている。周りには緑も少なく、自給できる程度の畑があるだけだが、事務所前では地元の人が集まって話しに花を咲かせていた。

学校建設は、基礎部分とブロック外壁が終わり、12月の雪の降る前に屋根の梁組を終える予定で工事を進めている。学校建設現場のすぐ側では、井戸の掘削が始められており、水が出始めていた。井戸掘りは、地元の村人にお願いしているが、地下で掘る人、地上で巻き上げる人の2人1組で、単調な作業ではあるが、村の生活向上にも役立つものなので営々と工事が進められていた。

SORAの支援に対する基本的な考え方は、例えば学校建設の工事では地元の村に全てを丸投げするのではなく、木材1本、セメント1袋、運搬費、工事人代にいたるまで、見積もりは全てスタッフが直接相手方と交渉し、支援金がムダなく有効的に活用されるように努めている。外部に一括してお願いすると支援金がいくらあっても足りなくなるという話もあるようだ。
スタッフの労力は大変である。やる気がないと務まらない。言葉、生活習慣、何かを進めるときの考え方の食い違いなど一つ一つ解決していかなければならない。毎日の食事は、主にナーンと少しの野菜、そして節約しながら使う日本からの差し入れ物などで賄っている。体調を崩さないかが心配だ。

[2003.11.20]




11月6日、7日の2日間、『アフガニスターン写真展』in東京を開催いたしました。

東京ウィメンズ・プラザ1Fの視聴覚室に、識字教室、カーペット工場、ダルカ村の小学校建設現場、巡回医療活動の様子など、SORAの活動写真を展示。また、アフガニスターンの小学生の絵93点を紹介いたしました。

ご来場くださった方々からは、「写真が非常にきれい」、「テーマ別になっていて非常に分かりやすい」、「構成がシンプルで分かりやすい」、「ダルカ村の子どもたちの絵が非常に印象に残った」、「非常になごやかに雰囲気で良かった」など、多くのコメントをいただきました。

[2003.11.11]



『現地活動視察報告(3)』−by 若山榮久
SORAの識字教室とカーペット製作所は、民家を借り改装した立派な2階建ての建物だ。1階が製作所、2階が教室となっている。私たちが訪問した時は、ちょうど授業の真っ最中だったが、しばらくの間お邪魔した。
1つの教室では30名くらいの子どもたちが英会話を学んでいた。会話が中心で、先生のあとについて復唱したり、子ども同士2人ずつで会話のデモンストレーションをしたりと一生懸命に勉強していた。ほかの教室では、20名ほどが教科書の問題を解いているところだった。
この教室は、当初は学校に行けない子どもたちの教室であったが、最近では、日本で見られるような補習塾のような感じで勉強しに来る子どもが増えているとのこと。今後のこの教室のあり方を、再検討する必要があるようだった。

夜には皆で、スルハバット郡ダルカ村での巡回医療に使う薬袋を、週刊誌を利用して折った。

[2003.11.11]



『現地活動視察報告(2)』−by 若山榮久

カーブル市内(標高1800m)は、旧ソ連の侵攻とその後の内戦、米軍の空爆などの影響により、いたるところに破壊されたままの建物が無残にも置き忘れられていた。国外へ亡命していたザヒール・シャー元国王の宮殿も破壊されたままで、政情の不安定もあるのだろうが、未だに復旧されていない。何とも悲しい思いがした。

また、電柱は建っていても架線がなく、電気のない地域が多かった。道路も舗装されているところは一部であり、他は未舗装で穴もあいたままであったが、1年前に比べると大分修復されているとのことだった。

街のバザール地域周辺は、交通ルールがあってないようなもので、人、車、荷車、荷馬車などでごった返し活気に満ちていた。少しずつではあるが建物の復旧が始められており、建築ブームらしく建材を扱う商店が増えていた。
破壊されたままの宮殿

[2003.11.02]



『現地活動視察報告(1)』−by 若山榮久(SORA運営委員)
パーキスターン北西辺境州の州都ペシャーワルから、アフガニスターン国境のカイバル峠(約40kmの広い一帯)を通過するには許可を必要とし、銃を持った警察官の護衛が義務付けられている。
国境に近い地域は、以前はアフガン難民キャンプが広がり、バザールもにぎわっていたのだが、今では故国へ戻ったのか殆どの地域は広大な空き地となっていた。
峠の40kmの一帯は、トライバル・エリア(部族地区で自治がまかされている)と呼ばれ、国道以外はパーキスターンの法律も適用されず、物事すべてが、その地域の部族の掟によることとなっている。この地域を通過するあたりから緊張が高まってくる。
国境には、大きくて頑丈な鉄のゲートがあり、国境周辺に暮らすパシュトーン人などの往来がはげしい。私たち外国人の出入国手続きは、それほど時間もかからずに終わり、一路カーブルへと向かった。途中のジャララバードまでの広大な平原地帯は、道路以外は地雷が埋まっている危険地域で、緊張の度がますます増してくる。

イスラマバードを朝の6時に出発し、カーブルのSORA/JRU−PAC現地事務所へは午後4時ごろ到着。約10時間の移動であった。現地事務所は2階建ての民家を借り上げ、1階が事務所に、2階がスタッフの部屋と来訪者が宿泊できる部屋となっていた。電気は通っていないので自家発電機を使い、午後8時が消灯時間となっておりヘッドランプが大いに役立った。

[2003.10.28]



『カーブル事務所便り(22)』−by 督永忠子
アッという間に10月も下旬になって、標高1800mのカーブルは寒い!!…と思ってやって来たのに、朝晩も思ったほどには冷え込まず、毎日が快適な日和。乾燥が激しく、脱水症状気味で若干アタマが痛むけれど、ジッとしていれば余計に気分が悪くなりそうなので、思い切って台所の大掃除に半日あてた。オバハンがこの世で一番嫌いなのが実は掃除と洗濯。にもかかわらず、誰もいない本日は、大掃除日和?と思いたい。そうでも思わなければ、土埃や油で汚れ放題の台所をきれいにする気分にはなれない。

一昨日も、昨日も早朝から夕方まで、スタッフや村人が次々に事務所を訪れ、気分がせわしい。
後、一ヶ月ばかりで山には根雪が積もり、今年度の支援活動は終了となる。年内に学校の屋根を!と、村人もオバハンたちも願っていたが、予定通りに物事が進むわけもなく、今年は3教室分の屋根が上がれば上等らしい。オバハンたちが山から下りてから、村人とスタッフのコミニュケーションがうまく行かず、それらも学校作りが順調に進まない原因の一つではあるが、アメとムチの使い方が出来ないと何事もうまくは行かないと思う。
カーブルでの縫製教室では、新たに25名が中級コースを修了するので、その認定書を渡すべく準備中。ダシュトバッチの教室は先生が替り、午前と午後の2部制に変更。
カーペットの方も、新たに70枚ほどがペシャーワルへ送り出され、完成品となれば日本での販売にまわされる。

[2003.10.24]




滋賀県彦根市立城西小学校の新館1階ロビーにて − 写真、絵画を展示


----記事より----
アフガンの子どもたちの日常伝える−写真、絵画で支援訴え

彦根市立城西小学校(今西陽向校長)で、タリバン政権崩壊後のアフガニスタンの写真や現地の子どもたちが描いた絵画が展示されている。NGO『アフガン難民を支える会』の一員で、(今年)3月中旬から約3ヶ月間、現地で難民支援に参加した渡邊弘俊さんが提供した。展示は今月末まで。
今回はカブールや周辺で緑化事業や医薬品、学用品を贈る活動に参加。活動の合間に写真やビデオ撮影をした。
展示は渡邊さんが絵画提供を申し入れた。学校側も「国際理解の生きた教材に」と新館1階ロビーに展示。文字を学んだり、廃墟と化したカブールのビルで生活する子どもたちの写真約30枚と、学校や家庭の様子を描いた子どもたちの絵画10数枚で、地雷が埋まっているとみられる荒れ地で遊ぶ子どもの姿などの緊張感が感じられる写真も。渡邊さんは「アフガニスタンの現状や難民問題を児童や保護者に知ってほしい。何かを感じ支援の輪が広がればうれしい」と話している。
今西校長は「写真や絵を見て児童が難民問題に関心を持ち、優しい心を育んでくれたら。保護者ら多くの人に見てもらいたい」と話している。

2003年10月11日(土) 毎日新聞

[2003.10.24]



10月4日、5日の2日間に渡って、東京・日比谷公園で『国際協力フェスティバル 2003』が開催されました。

フェスティバルには、国際協力に携わる政府機関、国際協力市民団体(NGO)、国際機関、在京大使館など約200団体が参加し、様々な民族衣装を着た人たちと出会いました。『アフガン難民を支える会−SORA』のブースでは、識字教室やカーペット工場の様子、巡回医療の活動写真などを展示、また、小物などの民芸品を販売しました。
今年のフェスティバルのテーマは、「来て、見て、参加して!」
ご来場くださった皆さま、楽しんでいただけましたでしょうか?

[2003.10.09]



『カーブル事務所便り(21)』−by 督永忠子
スルハバット郡ダルカ村小学校の窓枠、ガラスなどは既にカーブルで製作が完了し、それら全てを現地へ運び上げました。
チュラン村小学校は、ダルカ村小学校の半分以下の規模で、この2週間で土台部分がほぼ完了しつつあり、来週からは校舎の壁部分がスタートです。2カ所同時の小学校建設は、想像していた以上に大変な作業で、10月初めからは工事監督のためにローカルスタッフを現場に泊まり込ませる予定です。荒尾さん(現在、スルハバット郡に滞在し奮闘中)と朝野さん(3日後には現場入りをする)は、ダルカ村とチュラン村の現場を2日おきに見回りの予定です。

小学校の屋根部分に使う木材は予定の本数が揃わず、24日に村長会議を臨時招集をしましたが、農繁期のために約半数の24人しか集まらず…。それでも全スルハバット郡をあげて、自分の子どもたちのための小学校建設完了に向け努力するとの確約を得ました。ただ、この約束は今までと同じようにその場かぎりという可能性も多々含んでおり、スルハバット全村が協力しなければ、今冬だけに限らず、来冬も屋根なし教室のまま授業をしてもらうことにもなること、更には、この2校の完成を見た後、改めて他のプロジェクトに取りかかることを宣言、この2校が完了しなければ、SORA/JRU−PACは完全撤退をし、他の地域に転進することを言明して村長会議を終わりました。

[2003.10.01]



『アフガニスターン訪問記(7)』−by 竹中スエ子

SORAの活動はワルダック州スルハバット郡を中心に展開しているが、お隣のバーミヤーン州へ視察旅行に出かけた。ダルカ村からバーミヤーンまでは、約180km、11時間あまりかかった。途中、温泉が湧いていて、周辺の土地は、黄、赤、白に変色していた。温泉の温度は低くお湯は不透明であった。

州都に近づくにつれ、山肌は何万体もの仏像が立ち並んでいるかのように見えはじめ、山々は夕焼けでばら色に染まった。バーミヤーンの丘に作られた55mと38mの大石仏は、ターリバンによって破壊されたが、今尚無数の仏が山肌に残っているように感じられる不思議な場所であった。二大石仏の丘には無数の洞窟があり、下の方の洞窟では人々が生活を営んでいた。
バーミヤーンの丘
その日の宿泊は、目の前に55mの仏像跡が見えるホテルであった。翌朝は、ダルカ村小学校の建設用木材を探しに出かけたが、値段が高く買うことはできなかった。
バーミヤーン州の台地は緑に溢れ、適度な湿度もあった。苗木が育ち、村人の努力が実っており、現在は豊な州なのだろうと思われた。自転車に乗っている子どもも数人見かけた。しかし、この美しく豊かな村も、一歩外へ出ると、途中の道路脇や山々にはまだまだ多くの地雷が埋設されているということであった。

8月29日に帰国します。
これでアフガニスターン訪問記を終わります。

[2003.10.01]



『アフガニスターン訪問記(6)』−by 竹中スエ子
ダルカ村を訪問しました。
ダルカ村では現在、小学校を建設中ですが、現場では校長先生も石運びに参加していました。基礎工事も終わり、石の外壁が1.5mほどの高さにできあがっていました。懸命に作業している村人の姿から、小学校を建設したい!という強い意志が感じられました。その夜の宿泊は村のモスクでした。夜空には、火星が一際明るく輝き、天の川もくっきりと見えました。標高3000mならではの夜景でした。

また、ダルカ村の子どもたちが勉強しているモスクも訪ねました。
日本から持参した画用紙とクレヨンで子どもたちに絵を描いてもらいました。絵を描くのは初めてだったのか、教科書の絵を模写している子どもが多く見られました。お手本用に似顔絵を描いてみましたが、その間、子どもたちの好奇心いっぱいの目が画用紙に集中していました。子どもたちに描いてもらった絵は予想外に細かく描かれ、明るい色をしていました。
その頃、竹中一郎(SORA事務局長)と荒尾さん(ボランティア・スタッフ)は、ナウラ村の小学校で下駄箱を製作していたとか。ちょうど夏休み明けで、生徒たちは興味深く作業を眺めていたそうです。

[2003.09.28]



スルハバッド郡は実りの季節に入りました。
小麦畑は黄金色に色づき、そよ風に吹かれて刈り取りを待っています。また、すでに刈り取られた穂は、まとめて畑に敷き詰められ、その上を、牛やロバが子どもに追われ、同じ場所を何度も何度も円を描いて回って脱穀の最中でした。
間借りしているダルカ村のゲストハウスから、遠くバーミヤーンの方角を見渡せば、昨年より2週間も早く薄っすらと雪を頂いた山々が見えます。

ダルカ村の小学校建設工事は、ここにきて一つの難関にあたっています。外壁工事までは順調に進んでいましたが、屋根に使う丸太の価格が、まったく予算にあいません。丸太は、ポプラの木を使います。木の少ないスルハバット郡ですが、小学校に使う分くらいはあるはずだと、車で悪路を走り回り、丸太の横たわっている家を見つけては声をかけ値段交渉をするのですが、「1本600AFだ、700AFだ。」と、ふっかけてきます。中には、値下げ交渉をしているのに、750AF、800AFと値段をつり上げる者もいました。ちなみに700AFという値段は、カーブルでの市販価格です。スルハバットでも、丸太をカーブルに出荷していますが、多分高くても250AFほどで卸していると思われます。どこの国でも、欲の皮の突っ張ったのはいるものです。

私たちが、適切な価格としている300AF前後で確保できている丸太は、まだ213本。ダルカ小学校の必要本数360本にはまだまだ及びません。これから、ホラ村、チュラン村の小学校建設もはじまります。丸太の価格論争を通して、村の協力体制を如何につくれるか。村人の公共の意識をどれだけつくれるか…。

[2003.09.23]



ダルカ村の小学校建設について、建設責任者や学校長と話を詰めた。
窓・窓枠からトイレの数など細かいことを取り決めたほか、各教室の飾り棚や倉庫・台所建設などの要求があがった。
また、建物に対する全体のイメージをつかむため、建設途中の校舎の実寸を測り、設計どおり作業が進められているかも確認した。すると、教室のひとつは横幅に50cmもの誤差があり、長方形の筈が台形になっているなど問題が見つかった。それを指摘すると、「日本やアメリカなら5mmでも問題になるが、ここはアフガニスターン。ノー・プロブレム(問題ない!)」と言って笑っている。私たちも、今まで培われたアフガニスターンの基準からして仕方のないことだと、苦笑いするしかなかった。しかし、斜面に建てている校舎だけに、「垂直だけはシッカリ取り、壁が倒れて生徒や作業員にもしもの事がないように、気を引き締めて工事を進めるべきだ。こんないい加減なことをやっていると、事故が起きるぞ」と注意を促した。
工事は概ね順調に進んでいる。後は、カーブルで如何に良い建材を安価で手に入れられるかが課題だ。

[2003.09.20]



『カーブル事務所便り(20)』−by 督永忠子

カーブルは秋の気配が濃くなってきた。
現地プロジェクトを展開中のスルハバット郡では、9月5日の午後から急に寒くなり、明けて翌日には、遠くに見えるコーヒ・バーバが雪をかぶっていた。例年より2週間も早い雪の訪れに、村人たちも冬支度に余念がない。

カーブルでの未亡人を対象にしたカーペット・プロジェクトはそれなりに成果を上げているし、縫製教室の方でも今月から卒業生が先生(アシスタント)を務めるようになった。
さらに行きたいと希望する子どもたちは学校にも通えるし、強い陽射しを避けるために華やかな傘をさして通学する女子学生や、勤め人らしい女性を見ると、カーブルが大きく変わったと感嘆せずにはいられない。もちろんブルカを被った女性もまだまだ多い、しかしコスモポリタンな大都市カーブルは確実に往年の姿を取り戻しつつある。
雪をかぶったコーヒ・バーバ(父なる山)

[2003.09.19]



ワルダック州スルハバット郡ダルカ村の小学校建設は、多少工期に遅れが出ているものの、建設は順調に進んでいる。
現場を訪ねると、校長先生が自らセメントをこね、作業員の一員として頑張っていた。村によっては、「お金をくれないのであれば、カレーズは掘らない!」と、自分たちのカレーズさえもお金なしに掘ろうとしないところがある中で、ダルカ村は村人たちの無料奉仕で小学校の建設が進められている。この村では、カレーズも「お金はいらない、道具だけを貸して欲しい。」と申し出て、支援金なしで現在もカレーズ掘りが進行中だ。
これは現在、小学校建設に向けて調査中のチュラン村にも共通しており、お金なしでカレーズを掘り、小学校建設にあたっても村人が無料奉仕をするという原則を受け入れている。小学校建設候補地を提供するホラ村もまた、同条件を受け入れています。やはり、その村のリーダーの質によるようだ。

ホラ村のリーダー・ナーシィルは、群を抜いている。水の少ないホラ村で、今年、支援金なしでカレーズ掘りを続けており、私たちも心配していたのだが、村を訪ねると彼は、足取りも軽くカレーズを案内してくれた。
カレーズの出口のため池には、満々と水が湛えられていた。去年80m、今年30m程掘り進み、ついに山の水槽を掘り当てたのだ。穴の傍には、堅そうな岩盤を削り進んだのか、岩や石がゴロゴロしていて、それは難工事であったろうと思わせた。春に配布したリンゴの木も、5本の内3本が根付いており、小麦の発育も順調で、青々とした田園風景を作り出していた。
ナーシィルは、「あなたたちが、いつまでビタミン剤や薬の支援を続けてくれるかわからない。ニラや玉ネギなど多くの野菜を作って、ビタミン剤の必要ない状態にしたい。」と嬉しいことを言ってくれた。

[2003.09.16]



『アフガニスターン訪問記(5)』−by 竹中スエ子
朝5時半、車はスルハバット郡に向けてSORA事務所を出発した。タイラシャック村までは、カーブルから約190kmの距離で、到着は夕方4時半だった。道路事情は、以前と比べ随分良くなったらしいが、砂埃のデコボコ山道はきつかった!
到着後、ドイツのNGOの援助によって建設され、現在はSORA/JRU−PACが設備、教科書などの支援・維持管理を続ける小学校を訪問した。教室には、渡邊さん製作の机が並んでいた。
夜は、干草の匂いが広がるタイラシャック村の村長宅にお邪魔した。村長の家の横の水路には、水が勢い良く流れ、畑にはたくさんの野菜が育っていた。カレーズ掘りのおかげで緑が増えている様子が伺えた。

次の日はドクターと一緒に巡回医療活動に出かけた。
午前中はナウラ村で診察開始。女性、子どもから診察を始め、続いて男性へと移った。総患者数は約110名で、いつもより少なかったとのこと。
スルハバット郡への悪路
今は収穫期なので、来られない人も多いようだった。重い症状の人もなく、ビタミン不足など栄養不良の患者が主であったが、手を切ったという少女と手の不自由な子の2人は引き続き手当てが必要だろう。
午後からはタイラバード村を回った。ここでの診療は初めてということで、多くの村人が待ちわびていた。約80名の患者は、やはりほとんどがビタミン不足のようであった。戸外で順番待ちの女性たちは、表情も明るくはにかむが、顔は隠していなかった。村では、ブルカを着用している女性は見かけなかった。

[2003.09.13]



『アフガニスターン訪問記(4)』−by 竹中スエ子
SORAカーブル事務所の斜め前に、大衆浴場(ハマーム)がある。女性ばかり4人で入浴に出かけた。督永さんから、大体の雰囲気は聞いていたのであまりビックリはしなかったが、やはり冷や汗はかいた。
60名ほどのアフガン人女性が、パンツを着けたままゆっくりと体を擦っていた。浴場はサウナ風呂のようで、湯気が漂っていた。浴槽はなく、バケツに湯を汲み上げ、体に流す。脱衣場の足場もぬれているので、着衣もままならない。男性浴場は、個室になっていて、水と湯が蛇口から出るシステムらしい。

事務所では、水は豊富に出ない。また水のシャワーでは、完全に汚れは落ちない。たまには、この大衆浴場で埃にまみれた体を流すのも良いかもしれない…と考えた。

[2003.09.13]



『カーブル事務所便り(19)』−by 督永忠子

ここのところ、アフガニスターンの治安はあまり良くない…。

約1週間前には幾つかの地域で、たった1日で60数人が殺された。昨日もワルダック州で地雷除去チームの数人が殺されている。カルザイの弟宅にも爆弾が投げ込まれたというし、ロガール州でもテロと見られる爆発騒ぎ。

多国籍治安維持軍から本格的な軍隊であるNATOに治安維持が委譲されたが、この本格的なNATO軍をアフガン全土に配置したいがためのゆさぶり作戦では??と、NATOのアフガン全土掌握を願わない一部の国民はうがった観測をしているし、NATO軍に対する嫌がらせだとも。

いずれにせよ、マスード元国防大臣の3回忌も近い。要注意季節に突入だ。
ISAF(多国籍治安維持軍)のジープ

[2003.09.10]



『アフガニスターン訪問記(3)』−by 竹中スエ子
日中45℃の厳しい暑さにもめげず、SORA識字教室には多くの子どもたちの笑顔がありました。
教室は10クラスあるそうですが、今日は2クラスを見学しました。
算数の教室では、子どもが一生懸命に黒板の掛け算の問題を解いていました。全員が整列して座り、先生の説明を静かに聞いていました。英語の教室は、人気があるらしく大勢の子どもたちで溢れていました。督永さんの話では、3ヶ月も学ぶと大体の会話ができるようになるとのこと、私も一緒に勉強したい!と思いました。

識字教室の1階は、カーペット工場になっていて、8人の少年がカーペット製作に取り組んでいました。子ども2〜3人が一緒に、1枚のカーペットを織り上げるそうですが、年長の少年は1人で作品に取り組んでいました。

中庭では、井戸の周りに子どもたちが集まり、汲み上げた冷たい水を飲んだり、頭からかぶったりしていました。乾燥したアフガニスターンでは、井戸はオアシスとして重宝がられているようです。隣接されたバレーボール・コートには誰もいませんでしたが、秋には賑わうことと思います。

[2003.09.07]



『アフガニスターン訪問記(2)』−by 竹中スエ子
今朝は、SORA事務所を8時半に出発。
デンマーク地雷撤去グループ(Danish Demining Group−DDG)による地雷の撤去作業を見学しました。現場は、SORA事務所より車で30分、小高い丘の上にあり、その周りには約600家族が暮らしているということでした。小高い丘がゆえに、軍事的に重要な場所ということで、敵に攻め込まれないよう地雷が埋設されたそうです。

私たちは、万一の地雷炸裂によるケガなどを防止するため、首から膝までもある重々しい防護服を着用し、DDGのリーダーを先頭に道の両端の「白い石」が並べられているセイフティ・ゾーンと呼ばれる道路を5m間隔で歩きました。防護服の重さと暑さで汗ビッショリになり、作業に携わる人々の苦労が身にしみました。12時前には、今日発見した4つの地雷爆破作業も見ることができました。ドーンという大きな音とともに赤い炎が立ち上がり、煙がモクモクと広がりました。なかなかできない貴重な体験に、暑さも吹っ飛びました。

[2003.09.07]



『カーブル事務所便り(18)』−by 督永忠子
日本は冷夏というのに、今年のカーブルは例年にない暑さの毎日…。

7月からは40℃以上の気温が続いて学校も急遽夏休みに入った。冬場は3ヶ月もの休みがあり、夏休みのないのが普通のカーブル。扇風機もない今年の暑さにはまったく閉口で、家畜もグッタリしている。乾いた空気の靄が立ちこめ、街を取り囲む丘陵もほとんど見えない。しかしその中に白く浮かぶモノがあって目を凝らすとお墓だという。ここ最近はお墓だけでなく、丘の中腹に建つ家々も白くペンキを塗られるようになって来たし、崩壊した家々の修復が急ピッチで進み、色鮮やかなペンキが目立つようになって来た。早い話がお墓にまで手をかけられる余裕が出来てきたということ。

[2003.09.06]



『アフガニスターン訪問記(1)』−by 竹中スエ子(SORA運営委員)
8月15日から2週間、アフガニスターンを訪問しました。

パーキスターンの首都イスラマバードより車で5時間、カイバル峠を越えるとそこはアフガニスターンでした。昨年より、できるだけ早く訪れたい!と思っていましたが、社会情勢が安定するのを待つ内に今日に至りました。パーキスターン/アフガニスターンの国境の町トルハムは、非常に多くの車が行き交い、国境の扉前には人が溢れていました。トルハムからは車で約6時間半、無事にSORAカーブル事務所に到着しました。

次の日は、事務所近くにあるJIFF(Japan International Friendship and Welfare Foundation:財団法人日本国際親善厚生財団)の診療所やカーブルの街を見学しました。活気に満ち溢れたバザール、目を見張る復興がそこにはありました。2年の間にかくもエネルギッシュな街に変わっているとは!

督永さんの案内でこれからの滞在は充実することと思います。明日は地雷撤去作業現場の見学、またSORAが支援中の識字教室、カーペット製作所などを訪問予定です。

[2003.09.06]



『カーブル事務所便り(17)』−by 督永忠子
アフガニスターン、特にカーブル市内の復興振りには目を見張るものがある。
乾燥してカラカラのカーブルでは、蒔いた種から芽が出ても一向に大きくならないというのに、カーブルから僅か250km離れたペシャーワルは強烈な湿気に覆われている。ペシャーワルから170km東のイスラマバードでは、更に湿気が強く、汗が文字通り身体中を伝い落ちる。この僅か東京から大阪までの距離でここまで大きく気候が異なるのが、不思議といえば不思議でならない。
それでも、日本政府から寄付された散水車が活躍しているせいで、カーブル市内の街路にも僅かながらも緑が見られるようになって来た。10年もすれば、王宮通りは昔ながらの並木道に戻るであろう。

1年前には本当にロクなレストランもなかったというのに、今春過ぎからは外国人や高級官僚を狙ったレストランが林立。いまや狭いカーブルの街(中心街は4km×4kmくらいか?)に、中華料理店が6軒、インド料理店が2軒、イタリアン・レストラン2軒、タイ料理店、イラン料理店が各1軒。そのいずれででも国際治安維持軍か、国際関係の事務所から横流しされて来たらしいビールやワインが飲める。どの中華料理店のウエイトレスも太腿までスリットが入ったチャイナドレスのお姉さんたちであり、タイ料理店でも民族服を来たタイ人のお姉さんが7人は働いている。インターネット・カフェがアッという間にいくつもオープンしたし、アイスクリーム屋やジュース屋、ガソリンスタンドなどもネオンがキラキラと街角に溢れているありさまだ。
昨年の今頃は、夜9時になると人影もまばらで真っ暗、車に乗っていても何処かに怯えるような重苦しい気分があったというのに、今や一部とはいえ街路灯が連なって光り、夕涼み気分の人も見かけるし、女性も結構歩いていて驚く。

[2003.09.03]



『カーブル事務所便り(16)』−by 督永忠子
春に引越しをしたSORAとJRUの共同事務所の斜め前に、ハマームと呼ばれる共同浴場がある。ただし、電気もガスもない地域なので大量の薪を消費する。そのため、ハマーム屋からは1年中、煙突から黒い煙がモクモクと出ている。

山村の巡回医療から帰った日、女性3人勇を奮ってそのハマームへ出かけた。
ハマームの使い方を指導してくれる人もなく、その上たいして言葉が通じるわけでもないので、近所の人に見習ってバケツ持参で出かけた。
大量の薪の山、土埃を立てながらその間を通り抜けて裏へ廻ると小さな女性用の入り口にレースのカーテン。番台の大女は寝そべったまま10アフガニー(20円)と言い、横にだらしなく座っているバァさん2人はチップを寄こせと汚い手を突き出す。早い話が敗戦後の日本にあったような大衆浴場のようなもの。脱いだ服は番台の横にある開けっ放しの棚に預ける。ただし周囲を見れば殆どの人がパンツをはいたまま。こちらの人は、普段の生活ではパンツなしなのに、ハマームへ行く時にはパンツを付けるらしい。普段はノーパン、ノーブラのオバハンが、この日は寒い山から帰ってきたままだったのでパンツをはいていた!ラッキー!!
足元は、掃除が行き届いていないので、ツッカケのまま洗い場へ入る。縦・横1m奥行き30cmくらいの湯と水の溜められた水槽が1つずつ、底の方に僅かに溜まった水や湯を自前の汲み桶(空き缶に紐を付けたもの−そんなモノが要るとは知らなかったので、近くの人に貸してもらった)から、自分のバケツに汲み込んで身体を洗う。オバハンたち3人に60の目玉が集中した。
男性の方には個室シャワーがあるというのに、女性の方にはそれがない。しかし日中から女性用の浴場も混雑していて、アフガン人たちの生活にも余裕が出てきたことが確信できた。

[2003.08.27]




2003年8月8日(金)〜10日(日)の3日間、夢京橋・ギャラリーいと〜(滋賀県彦根市)で『アフガン難民を支える会−SORA』写真展 in 彦根を開催しました。


----記事より----
NGO「アフガン難民を支える会」の一員として3月中旬から約3ヶ月間、タリバン政権崩壊後のアフガニスタンで難民支援に参加した渡邊弘俊さんが現地の様子などを紹介する写真展「アフガニスタンの現状報告」が始まった。
今回は、カーブルや周辺地域で緑化事業や医薬品、学用品を贈る活動に参加した。活動の合間にフィルム十数本とビデオなどで撮影。会場には、その一部の約100枚を展示した。
廃墟と化したカブールのビルで暮らす人々、学用品や医薬品を受け取ったり、カーペット作りや文字を習う難民の子どもの表情など、現地の状況を物語る写真ばかり。
荒れ地にリンゴなどを植える作業、地雷が埋まっていると見られる荒れ地に花が咲き、そこで遊ぶ子どもたちの姿、地雷撤去活動の様子、破壊された宮殿を警備する多国籍軍など、緊張感が感じられる作品も多い。
難民の子どもたちが作ったカーペットや絵、住民の衣装なども公開している。渡邊さんは「アフガニスタンの現状、難民問題について何かを感じてもらいたい。現地の人たちの自立のため、支援の輪を広げたい」と話している。

2003年08月09日(土) 毎日新聞

[2003.08.21]




カーブルは、昼間の暑さも一時ほどではなくなりましたが、それでも日中は40℃を超えます。朝方は20℃を切るようになりました。寒暖の差、20℃以上です!

さて今春、パーキスターンの北方地域ギルギットの苗木センターから譲り受け、2000kmもの距離を運んで植樹した苗木から待望の新芽が出ました。
植樹したスルハバット郡タイラシャック村は標高3700〜3800m、ギルギットと気候条件が良く似ています。ギルギットからの苗木20000本、またカーブルの農業試験場からの苗木6000本がハザラの大地で芽を吹きました。
今年のスルハバット郡は雪、雨が多かったため、雪解け水も大量に流れ植樹した苗木の生長を助けてくれました。
ギルギットから運んだ苗木

[2003.08.19]



『カーブル事務所便り(15)』−by 督永忠子
夏のピークシーズン、イスラマバードの事務所が手不足らしいので急遽カーブルから帰って来ました。道路事情が少し良くなり、以前より2時間も短縮でき、その分が身体に優しくなりました。移動の間は、眠る習慣がついていたのですが、年末にムチ打ち症になり、以来車内では居眠りもせず緊張しながら走っています。とにかく、酷い揺れで気を許すとムチ打ちになるのです。
モンスーン真っ只中のイスラマバードでは、ヒマワリが急激に大きくなってきました。アフガニスターンの大地に蒔いたヒマワリなどは空気の中の水分が少ないせいか、水をやってもやっても縮こまったままで大きくならず、今更ながらに空気中の湿気までもが植物の成長に及ぼす影響を感じています。

今年のアフガニスターンは、冬に例年通りの降雪に恵まれ、ハザラジャードの大地では小麦などが力強く成長していました。水の戻った農村ではイランやパーキスターンから帰国した難民たちがカレーズの修復や農作業に勤しみ、緑の戻った大地が増えました。農民たちも元の生活に戻ったかのように落ち着いて見えます。巡回医療チームは各村で感謝され、第1期(実験的)植樹プロジェクトの方でも高地に果樹が根付きつつあります。

揺れ動く世界情勢の中から忘れられつつあるアフガニスターン…。イラクの受難にも同情を禁じえませんが、イラクは(TVで見る限り)アフガニスターンよる数段も豊かです。イラクにはオイルがありますが、アフガニスターンには本当に何もありません。アフガニスターンには今少し、私たちの支援が必要だと考えます。

[2003.08.15]



『巡回医療活動報告(2)』−by 橋本志麻子
スルハバット郡タイラシャック村、ダルカ村、チュラン村、ダニクール村と巡回医療を続けました。多くの女性が様々な悩みを抱えて相談に訪れましたが、最も多かった訴えが肩こりとそれに伴う頭痛・腰痛でした。
デモンストレーション用に、即席で布ポスターを作成し、皆で『肩こり体操』を実施しました。
体操は、主に首と腰の関節を伸ばす動作を中心に首廻し、肩タタキ、肩モミ、ツボ押し。また、つま先立ちで全身伸ばし、上体を前後左右に伸ばす、あお向けに寝た状態で下肢を丸める、うつぶせに寝て下肢は正座し、上体を伸ばすなどの柔軟体操をそれぞれ20秒間を目安に2人1組で行いました。

初めは、なかなか体操をやろうとしなかった女性たちですが、「一緒にやりましょう!」と声を掛けました。実際にやってみると筋肉や腱が伸びることを感じる女性たち、自然と笑みがこぼれるようになりました。20、30代の女性は羞恥心が強いけれど、40代以上になるとだんだん積極的になってきて、「気持ちいい〜。」「極楽、極楽…。」「わかったわ!」などの歓声が上りました。

[2003.08.11]



『カーブル事務所便り(14)』−by 督永忠子
スルハバット郡ダルカ村は、タイラシャック村の北東にある比較的大きな村です。小学校では4人の先生と242人の生徒が勉強しています。

ダルカ村での小学校建設に関しては、今春早々より支援要請が来ていました。既に2回現地に行き、学校建設規模等の見直し、村人の協力が得られるかどうか…など調査を行いました。どこの村でも貰って当然、何でも作って貰って当然とする中で、ダルカ村は自前で(例え基礎だけでも)建築を開始したということで熱意が感じられました。他所のNGOから貰った支援金を他に流用したために学校が作れなくなったというようなことでもないようで、現地だけでなくカーブルの方でも良く調査した上で、支援に踏み切ることになりました。


今年の村人は、将来ある子どもたちの教育や、村で安心して暮らせる状況作りに力を入れつつあります。
村人が建設した小学校の基礎・土台部分
ドイツやアメリカのNGOなら600万円から800万円くらいの予算で、現地NGOへ丸投げの形で学校や診療所などを建設するのが通例ですが、SORAの方針は「タナボタをしない!」ですから、村人側がどれだけできるか、そのやる気を引き出すことに重点を置いています。こういう方式が上手く行けば、安い予算でいくつもの学校や診療所などが作れるのですが。

[2003.08.11]



『巡回医療活動報告(1)』−by 橋本志麻子(看護師)
6月23日より10日間、カーブルそしてスルハバット郡タイラシャック村に、巡回医療チームの一員として出かけて来ました。

楽しかった!
村人たちは素朴で良い顔をしているし、子どもたちもかわいかった。村それぞれに村人の個性があり、ある村では非常に図々しかったり、他の村では肩コリ体操の理解力が高い村もあったり…で、とても興味深い毎日でした。
村人みんなが好奇心一杯で、楽しそうな表情あり、深刻に訴える表情あり…。今回は、幸いなことに重症な方はいなかったですが、時間が限られており多くの人をと思うと、丁寧に話が聞けなかったのが残念です。村の女性たちは自分の心配はもちろんですが、自分の子どもたちの心配を何度も訴えていました。親なら、当たり前のことですよね。
子どもの病気がもちろん深刻な問題でもあるのですが、親の不安に対応することの方に時間を割くことが多かったような気がします。ちょっと相談にのるだけで、親たちは安心します。こんなに山深い村の人々には、病院に行くことは不可能に近く、何とかヘルスポストぐらいできないものか…と強く感じました。が、アフガニスターンの行政の状態を考えると、いつのことになるのかと途方にくれます。
今回出会った女性や子どもたちは、そんな厳しい条件を行き抜いてきた人たちです。ここでは、本当に弱い人間は生きていけません。大袈裟かもしれませんが、自然に生きる野生動物を思い起こしました。

[2003.08.07]




ハザラジャード地方ワルダック州スルハバット郡チュラン村へ、手作りのカバンと学用品を届けました。
チュラン村は、カブールから約8時間、タイラシャック村からは車で約40分の所にあります。村の学校は、車を降りて徒歩で約20分のマドラサ(モスク)で冬のみ開校しており、春・夏・秋は休校です。どうして通年で開校していないのか…。「生きるため」「食べるため」には、子どもの労働力が必要だからなのです。
村の代表から、生徒約40人分の学用品の支援要請があり検討の結果、手作りカバン40個、教科書各学年3種類(ダリ語、英語、算数)各10冊の計180冊、鉛筆80本、消しゴム40個、ノート40冊、黒板・チョークなどを支援しました。
子どもたちの輝く笑顔!

[2003.07.21]



『カーブル・レポート(7)』−by 渡邊弘俊
4年前、大干ばつに見舞われたアフガニスターン。スルハバット郡タイラシャック村もその例外ではなく「こんな僻地に来るNGOはいない。」と言われた『最困窮地』なのだが、今年は多少の雪解け水があり、それなりの水量が確保されていた。一部の地域を除いては、支援の必要がない所も見られた。けれども、夏場はどうなるかわからない。それなのに、村の人々…というより代表と言われる人たちは、「今は良し!」としてカレーズ掘りに積極的に取り組まず、支援物資(道具一式)や支援金だけを得ようと知恵を絞る。何のための支援か…疑問を感じつつ、試行錯誤の日々が続く。時には、「これがアフガニスターンだ。」と苦笑してしまうこともあるが、前に進むしかない。
支援物資や支援金をばら撒くだけなら楽だが、自立を促し、継続させることこそ…で、支援の難しさを感じる。支援する側、される側、支援のあり方について、他のNPO、NGOの活動も含めいろいろと考えさせられた。これからも試行錯誤をしながら「世界平和」を目指して、新たな支援活動が続くだろう。

今回で『カーブル・レポート』を終わります。予定通り6月上旬に帰国します。

[2003.06.05]



『カーブル・レポート(6)』−by 渡邊弘俊
アフガニスターンに来て50日近く過ぎました。
今、私がいるタイラシャック村は標高3700m。まだ、周りの山の頂には雪が残り、見渡す限り360度にアフガニスターン独特の茶褐色の山々が広がる絶景です。カーブルとこの村とでは、天と地の差を感じます。けれども、天と感じるこの大地でも支援が必要とされています。

4月27日早朝にカーブルを出発。僅か200kmの道程を悪路と奮闘しながら11時間(通常でも8時間)かかってタイラシャック村に到着しました。
この村での支援はSORAとJRU-PACとの共同プロジェクトで、カレーズ堀(水源確保)、植樹、巡回医療が主な活動です。活動地域の移動には主に車を使いますが、「車で6時間、徒歩で2時間」という村もあり、いくつもの山を越えつつ2〜3時間は歩いて、時にはロバで移動し毎日がトレッキングの日々です。
巡回医療では村を一日ごとに移動します。聴診器と血圧計で診た後は、症状ごとに薬を渡すのがドクターの仕事です。村の大きさによって、訪れる患者数は違いますが、今回は約200人ほど、村の人口の8〜9割が薬を求めて遠くから徒歩で、またロバでやって来ました。この地の人々にとっては、薬は高価なため、それを手に入れることに懸命です。薬のほとんどはビタミン剤などですが、ここに来て栄養の偏り、食生活の指導の重要性を感じました。
植樹は、今回はアプリコットなどの苗木7500本を各村の代表に分配し、それぞれの村の家々に植えてもらうことになりました。今後も2万本の苗木が届くことになっています。カレーズ堀は、プロジェクトとしては2年目を迎えたわけですが、今年も新しい問題が発生し壁にぶち当たりつつの活動開始となりました。

[2003.06.01]



『カーブル・レポート(5)』−by 渡邊弘俊
カーブルの街(標高1800m)は変わりなく、バザールは車と人と埃の渦で活気に溢れています。しかし、見えないところでアフガニスターン国内は、経済も治安も決して良くはありません。
世界中からの復興支援金(日本は4年間で25億$)は、そのほとんどが政権内部(権力者)の利権がらみで、あまり復旧には使われていないようです。街の復旧は市民自身で、道路や施設の復旧はNGOの支援で、というのが常識のようです。
アフガニスターンの国民は皆、平和を口にします。けれども、祖国再建、平和構築への意識は希薄です。20年に及ぶ戦争、内戦によって国民の意識が変わってしまったと、あるアフガン人のひとりは嘆いていました。昔は、アッラーの神の次に隣人を大切にしたという。今は、その助け合いの精神よりも隣人よりも、平和よりも、先ず自分とその家族だけの幸せ主義になり、アフガニスターンの真の再建はまだまだ遠いとアフガニスターンの人々と接していて感じます。
現政権内での利権争奪、権力関係が激化すれば、再び内戦状態になるのでは…と市民の良識派のひとりは囁きます。軍の給与も、既に3ヶ月間が未払いになっているとか。

先般のイラクへのアメリカ侵攻の影響がアフガニスターンにも及んでいて、カーブル市内でも時々、ロケット弾が飛んで来ています。4月14日にもカーブル空港近くに2発が落ちました。カンダハールやジャララバード付近では、タリバーンなどによるジハード(聖戦)布告もあって危険が増しています。
小泉政権のアメリカ追従に伴って、アメリカ、イギリスへのジハード宣言に次いで日本も例外ではなくなっています。従って、我々日本人も決して安全とは言えないのが実情です。4月24日にもアメリカ(大使館)へのテロ活動の兆しありとの情報で、在カーブル日本大使館からは、邦人は72時間の外出を慎むようにと通達がありました。72時間に限らず、テロはいつ起こるかわからないのが実態です。身近なところでは、NGOの住居を狙っての金銭目的の強盗が侵入する事件が発生しています。警察官や警備員を雇っていても、安心できない状況にあります。

4月27日からは、カーブルを後にして、200kmの悪路を車で8時間のスルハバット郡タイラシャック村(標高3700〜3800m)に入り、10月末まで村人と共にカレーズ堀、植樹、巡回医療を行います。しばらく、カーブルの雑踏から離れて景色の美しい村で頑張ります!

[2003.06.01]



『カーブル・レポート(4)』−by 渡邊弘俊
カーブルに来て1ヶ月近くが経ちました。
SORAの活動は、JRUとの共同プロジェクトである植樹が開始です。先日、農業省より6,500本の苗木(りんご、アプリコット、アーモンド)を買い付け、カーブルより60km(走行2時間余り)のセアペトッップ村(標高2,200m)に移動させました。(カーブルに置いておくと、花が咲いてしまうので、寒い場所への移動です。)
雪解けを待って、バーミアン近くのスルハバット郡タイラシャック村(標高3700〜4000m)へ入り、数日間の植樹活動を始めます。

この間は、市内の廃墟に住んでいる家族120世帯への巡回医療活動を実施。当日は、督永、ドクター、私の3人で訪問しましたが、この日も薬を求めて多くの人々が集まって来ました。この巡回医療は定期的に実施しています。

[2003.05.30]



『カーブル事務所便り(13)』−by 督永忠子
タリバーン時代にも細々とあった結婚式の衣裳、化粧、車のデコレーション屋などの繁盛振り。
SORAのローカルスタッフ達も、定期収入が入るようになったせいか、昨年から今春にかけて結婚する者が多かった。
カーブル市内のアチコチでは、西洋式のウェディング・ドレスをショウ・ウィンドゥに飾る店が多くなった。花嫁さんはウェディング・ドレス、式への女性参列者はベルバラか、宝塚かというような派手な服装をまとい、ついこの間まで「難民でした」というような人は一人も見うけられない物凄さ。

小さなカーブル市内に、中華レストラン(アルコールも出す)は4軒も見られ、中にはイスラマバードからマッサージ・パーラー(中国人)も進出し、大稼ぎしているという、根性モノだ。レストランで出されるアルコール類は、国連関係や多国籍治安維持軍からの横流し物資で、中華レストランだけではなく、他にも何軒かのレストランで飲めることを思えば、これは相当な量が流れ出ているとしか思えない。
カーブルの結婚式屋
2年前までタリバーンによる締め付けが厳しかった分、歯止めの効かない(と自分達で表現する)アフガン人がレストランには溢れている。アルコールを飲むという行為で、自分は古い人間ではなく、近代的なんだ!と思い込んでいるような彼等が国の中枢にいると思うだけで、近代化は不可能に思える。

[2003.05.30]



『カーブル・レポート(3)』−by 渡邊弘俊

先日、カーペット製作所近くの元王宮に出かけてみました。
宮殿のすぐ後ろの小高い丘には女王宮殿があり、その周辺には軍事施設がありました。そのためこの場所は、カーブルでももっとも激しい戦闘地になり、王宮と女王宮殿は建物の形はかろうじてその姿を残していましたが、軍事施設は完全に破壊され跡形もなく、現在も瓦礫のままでした。そこには今も軍が駐屯しており、1km先の女王宮殿には入ることができませんでした。
王宮へは、警備兵の了解を得て上って見ましたが、宮殿の横を通りかかった時に、道路中央に空き缶らしきものを発見しました。それは信管が付いたままの地雷でした。そんな中、宮殿を見学していると何処からともなく5〜6人の子どもたちが集まって来ました。その中の1人は松葉杖をついた片足の少年でした。

数日前には、カーブルの北方70kmの町チャリカールへも行きましたが、そこでは今も毎日、防護服を身に付けて地雷の撤去作業が続いていました。
カーブルの王宮、左奥に見えるのが女王宮殿

[2003.05.29]



『カーブル・レポート(2)』−by 渡邊弘俊

首都カーブル市の人口は約350万人。その中心地のバザールは10〜20m巾の広い道路で、昼間は多くの車と人、そして自転車に荷馬車でごった返しの状態です。そんな中を車で移動するのも一苦労…。周辺に隣接する建物は、破壊された当時のままで建物の復興は進んでいません。店が多く並んでいるとは言え、それは廃墟となっている建物の一階部分を店舗にしていて、その上は壊れたままです。幹線道路も穴だらけで、まっすぐには走れません。

現地にいると、世界各国からの何百億ドルの復興支援金は、今、どうなっているのか首を傾げます。が、「1年前の状態に比べると新地も増え、学校も整備されて通学する子どもたちが増えている。」と督永さんは言います。事実、当会が支援しているカーペット製作所に併設されている識字教室の子どもたちも、その多くが、午後から学校に通えるようになっています。

[2003.05.29]



『カーブル事務所便り(12)』−by 督永忠子
しばらくカーブルを留守にしていたら、ついにここにもインターネット・カフェが出来ていた。30分が2$というから、アフガンの物価からすると決して安くはないが、欧米への電話代を思えば安いモノなのかもしれない。911以降、貧富の差が大きく広がりつつあるアフガニスターンでは、2$というのが大した金額ではない人が増えているようだ。

今回は、本業のTV取材コーディネイターとして、イラン国境に近いヘラートや、そこからガタガタ道を13時間も揺られ、世界遺産に指定されているミナレ・ジャムへも行ってきた。とにかく、山中の田舎街。アフガニスターンは、大都市以外はどこでも、たちまちド田舎と言っても言い過ぎではない。しかし、どこの田舎にもユニセフによる小学校があるのには感動する。ユニセフに限らず、国連機関はどこも総経費の20〜30%しか、現地へ落ちないと批判されているが、それでもアフガニスターンの各地に小学校があり、子供達の学んでいる姿を見かけると無性に嬉しくなる。ユニセフ頑張れ!!

また、今回は取材コーディネイト中の合間にバーミアンで3日間、ミナレ・ジャムでも6日間の薬配布と住民の医療相談にのった。
SORAの巡回医療は、ハザラジャードの各地域で喜ばれており、可能な限り活動を展開したいと思いつつも、巡回用の車輌はまだ購入せずにいる。アフガン政府発出の車輌規則(4月)がややこしく、今後の情勢も不穏な見込みなので、買うのを控えようかと考えているくらい。

5月15日にはデダナのカーペット製作所(識字教室併設)の再契約、家賃は300$が350$(1ヶ月)に値上りした。
織り上がったカーペットは、パーキスターンへと運び込み、洗いと毛揃えに出していたが、漸く昨日仕上がり、本日ペシャワールで引き取った。

[2003.05.25]



4月28日、今年度のスルハバット・プロジェクトが正式にスタートしました。第2期プロジェクトです。
倉庫に保管してあったカレーズ堀りの道具が村に届き、各村の代表に集まってもらいました。ミーティングでは、緑化のための苗木配布やウォーター・プロジェクトの概要を報告。作業の進め方、苗木の配布やカレーズごとの管理方法などは村人の要望を聞きながら決定しました。
また、半年ぶりに巡回医療を再開。1日に200人にもおよぶ患者が訪れ、巡回医療への期待が高まっています。

縫製学校、カーペット工場、カレーズ掘り、緑化活動、巡回医療などの取り組みは、アフガニスターンの人々が自立して生活できる基盤を着実につくりだしてきています。日本では、アフガニスターン関連のニュースが減り、人々から忘れられつつありますが、この国は未だに多くの支援を必要としています。私たちは、今年も元気に活動を続けています。

[2003.05.21]



カーブルは、一気に夏になるかと思いきや、以外と春らしい気持ちの良い日々が続いています。
湿度は、17〜18%と、日本なら異常乾燥注意報の連続発令状態です。普段の肌はかさかさで、強い日射しと共に、肌にはあまり良い環境とはいえません。

4月27日の早朝から、渡邊さん、朝野さん、川村 力、純子夫妻、JRUのメンバー、それから現地スタッフ3名でスルハバット郡へと向かいました。もちろん、今年のウォーター・プロジェクトをスタートさせるべく…です。JRUプラド、SORAプラド、そして新顔のハイラックス・ダブルキャブに食糧やスペアタイヤ、燃料のポリ缶、巡回医療用の薬などを満載し、車輌3台編成でカーブルを後にし、GTロードを真西に向かいました。結局、雪解けのドロドロ道を走ったトラックの深い轍や突き出た岩などの悪路に次ぐ悪路で、今までで最長の11時間を要しながら、スルハバット郡はタイラシャック村のダウード村長宅に到着。一同は、ダウード村長の淹れてくれたチャイでぐったりした体を癒しつつ、夕食の羊の脂煮とナーンが出てくるのを待つのでした。

翌日より、活動を開始。カレーズ掘りの道具や、約7600本の杏の苗木などを配布。更に村人への今年の支援内容の説明のための集会の開催と、1日があっという間に過ぎました。2日目も、各カレーズの情況を把握するため、3000mの高地を歩き回りました。
久しぶりのスルハバットは、今年の冬は、この5年の旱魃とは打って変わってことのほか雪が多く、大量の雪解け水が褐色の大地を潤していました。

[2003.05.18]



『カーブル事務所便り(11)』−by 督永忠子

バーミアンへ出かけて来ました。
バーミアンへの道中は杏などの花が終わっていましたが、現地ではリンゴの花が満開でした。リンゴの花を見ていたら、「カチューシャ」の歌詞が自然に浮かんで来ました。現地では破壊された仏像を背にして、石窟に住む人たちを対象に3日間、医療活動に励みました。とにかくアフガニスターンでは医薬品の配布が何よりも喜ばれます。

ハザラジャードへ向かった渡邊さんたちは、雪解けの悪路に悩まされ大変だったようですが無事に現地へ到着し、カレーズ堀り用の道具を配ったり、植林の打ち合わせ・手配など頑張っているようです。巡回医療の方も、5ヶ月ぶりの医師到着に沸いたと言いますから、巡回医療活動を始めて本当に良かったと思います。

ギルギット(パーキスターン北方地域)からの苗木2万本は、昨日無事にアフガニスターンとの国境を通過。荒尾さん(ボランティア・スタッフ)とローカルスタッフが国境まで受け取りに行きました。本日はカーブルへ到着しますので、トラックからの荷物はそのまま次のトラックへ積み替えてハザラジャードへ送り出します。ギルギットからの送り出しなど、手間のいる仕事ばかりでしたが、パーキスターン側のスタッフたちが上手く手配してくれました。

また、織りあがったカーペット100枚がスタッフと共に国境を越え、パーキスターンへ入りました。パーキスターン国内で、毛揃いや洗いが済めば仕上がりです。

[2003.05.03]



『カーブル事務所便り(10)』−by 督永忠子

10日ぶりにイスラマバードからカーブルへ帰って来たら、事務所門の脇に折りたたみ可能(次の引っ越しにも持って行ける)という、ガードマンが待機するための小屋が出来上がっていた。他にも巡回医療用の医薬品を整理するための棚、本棚。すべて渡邊さんの手製によるもので、ガードマン小屋などはアフガン人から見たら驚嘆すべきものらしい。

巡回医療の責任者Dr.シャフィークが車で走行中、目の前で事故。警官に呼び止められ、けが人を運ぶ羽目になったのは仕方がないが、現地人でさえも事故を起こした当事者と間違われ、取り囲まれて殴られそうになったというから恐ろしい。パーキスターンでも「事故を起こしたら現場に立ち止まらずそのまま走り去り、その後、警察へ届けしかるべく対処せよ」と教えられて来た。身近に事故を見ても協力をするな!とは、よく言われることだ。知り合いにも事故の手助けをして袋叩きにあった人がある。

[2003.04.26]



『カーブル事務所便り(9)』−by 督永忠子

本日はギルギットの種苗センターへ向け、積み出しのトラックをイスラマバードから送り出しました。トラックは直行で2000kmからの距離を走り、2万本の苗をカーブルまで送り届けます。無事に届きますように。4月26日からはスタッフの全員がハザラジャードへ上がり、総計28000本弱の苗をハザラの大地へ植え、果樹園が広がることを夢見て活動することになります。植林の活動は5月末頃までの予定、それ以降はカレーズ堀りが中心になる予定です。

今年に入ってから政府のNGOに対する取締り(監視)が厳しく、よく目立つようにと大きなSORAステッカーを作りました。目立つのは厭だけれど、さりとてイチイチ警官や軍人を相手に説明をするのも面倒臭い…。国家としての形態を、まだまだなしていないかのようなアフガニスターンだからこそ、くだらない(と思える)監視が厳しい。

自活支援(カーペット織り)は、カーブル市内から外れ徐々にハザラジャードへ移行していく予定。出来あがったカーペットは買取ではなく、何か別の方法を…と、思案中です。
木工所、鍛冶屋は人に教えたり出来るような技術者は、何を勘違いしているのか、物凄い高給を要求。ちょっと手に負えません。市内では物凄い勢いで木工所や鍛冶屋、ブリキや、自転車や、ペンキ屋、車の修理や、仕立てや、アイスクリーム屋、レストラン等が店開きをしており、僅か1年なのに今や自活支援よりも、人間として安心出来る生活環境整備の一つとして、病院などの要請が大きいようです。彼らの逞しさ、生活力の凄さは日本人にはないものです。自立自活のための支援などというまどろっこしさは飛び越え、とにかく生活を築いています。自立支援に拘っていても良いのですが、住民の欲する方向を支援するのも大切ではないかと考える毎日です。

[2003.04.24]



『カーブル事務所便り(8)』−by 督永忠子

JRUと共同で借りているカーブルの事務所に、JRUが買ってくれたTVが入った。
もちろん天下のNHKも見られる。さらには中近東を中心に300チャンネルも映るというから凄い!おかげでアメリカのイラク攻撃をイライラ、カリカリしながらついつい見ることになった。まったく余計なモノは見ないに限る!!
アメリカがカタールだったかの基地に設置したメディア・センターからの情報、そして放映。それも一つの情報だとは解かっていても、アメリカ側に都合良く切り取られた映像、作られた映像としか見られない。それらに高い経費をかけているのだと思うだけで、ニュースの有り方を考えてしまった。

[2003.04.22]



『カーブル事務所便り(7)』−by 督永忠子

未亡人を中心に、自立のための支援を始めてきましたが、未亡人そのものもいつの間にか生活の安定した?親戚にでも吸収さてれしまったのか、貧しいハザラ地区にも少なくなりました。カーペット織りに来ている人たちも、大学へ行くための授業の足し?になど、明らかに1年前とは質が変わって来ています。もちろん全国規模では、自立支援を必要とする人々がまだまだあることは確かですが、この1年間のサマ変わりには目覚しいものがあり喜ばしい限りです。
 
反面、北部同盟を中心とした政権は暗い陰りを見せているようです。何と言ってもパシュトーン族が多く、今後は復興支援金の配分をめぐっての勢力争いに突入?するのでは…と、再び内戦状況への懸念が高まって来ています。ある意味では昨年より治安状況は不安定になっているかもしれません。
SORAの新事務所もガードマンを1名増やし(計3名)、防犯ベルの設置、塀の上に侵入防止の割れガラスを設置、犬を増やす、事務所や各部屋の鍵を厳重にする、隣りの事業所へ防犯ベルが鳴ったら助け?に来て貰うなどの依頼を取りつけています。隣りにはカラシニコフで装備したガードマンが2名います。

新事務所は、家賃が少し高くなりました(JRUとの共同事務所のため、家賃は折半)が、ジェネレーター(発電機)をまわして水を屋上のタンクへ汲み上げ、ようやく蛇口から水が出るという近代的?な生活に入りました。トイレは屋内にありますが、シャワーは使えません。それでも皆様方にお越し頂いても大丈夫?な条件となりました。
私個人には贅沢な事務所ですが、今までの超ボロ事務所と今回の事務所の中間くらいの物件が活動地域内に全くなくて、アフガンにしては贅沢だと思いつつも決めました。

[2003.04.16]



『カーブル事務所便り(6)』−by 督永忠子

3月下旬からカーブルへ出掛けておりましたが、昨夜、イスラマバードに帰って参りました。
明日からはギルギット、フンザへ行って来ます(JRU子供平和基金による、第3回ナンガパルバット地震被災地支援のためです)が、23日にはまたカーブルに戻る予定です。

カーブル事務所便りをお届けいたします。

カーブル市内に限ってだろうと思いますが、とにかく希望すれば子どもたちは公立学校へ行けるようです。ただし1日に3交代授業なので、1学校3,000人〜12,000人もいます。
現在、SORA識字教室へ来ているのは、公立学校へ入るための準備をしている生徒215人。英語や算数、ダリ語の補修?を受ける生徒たちで、以前とは生徒の質がガラリと変わりました。服装もますます小奇麗になり、生活の苦しさを感じさせるものがとても少なく感じます。
また、街で物乞いをする人も減ったように思われますが、反対に今も物乞いしている人(子ども)は専門化したようで、そのしつこさは以前の比ではありません。

政府レベルでの復興は、数ヶ所のモスク修復(建築)だけのようにしか見えません。国民も世界からのNGOも、政府に落とされた筈の復興支援金が何処へ消えたのか?と大きな疑問を持っています。個人レベルでの復興(家の修復、建築)、大規模なビル(商店が入居すると見られる)や小売り店、個人企業の復興は目覚しく、人々のバイタリティには驚くものがあります。資金は海外で暮らすアフガン人が出していると言います。ただ、膨大な個人資金が流入しているようですが、皆が口を揃えていうのは「生活の場を全面的にアフガンへ移す気はなく、半分は海外に残している」と。

神戸が震災後、驚くべき早さで復興していったものに通ずるものがあるようです。

[2003.04.16]



『カーブル事務所便り(5)』−by 督永忠子

4月1日に運び終える予定だった苗木6000本は、トラック業者が注文していたトラックより小さい車を持って来たために乗せきれず、結局は1日で運び終えられずに翌2日もまるまるかかってしまった。
デダナ識字教室は進級試験も終わり、新たなクラス編成で土曜日からスタート。
ZORAの縫製教室には、新たに識字教室が併設されるので、ダリ語の教科書などを20人分を配布。縫製教室の生徒には、ハサミやメジャーなどを配布した。

午後からはソ連時代に作られたシアター(劇場)の瓦礫跡に住んでいる人たち(120世帯)のところへ、巡回医療(のつもり)に出かけた。3ヶ月振りに訪れたが、何人もが3ヶ月間、あるいは4ヶ月間も暖かいパーキスターンへ避寒に行っていて、帰って来たばかりだという。暖かくなったせいか、子ども達も元気で風邪などの病人もほとんどなく、栄養のバランスが悪いところから来る(のかもしれない)、関節や背中の痛さを訴える女性が多かっただけで、たいした病人はなかったが、持って行った薬はたちまち無くなり、2〜3日後を約束して帰って来た。
夕方は、在アフガニスターン日本大使館で定例懇談会が開催され、SORAからは朝野さんが出席。

ところで、先日、刺されたサソリですが、サソリの毒は後から効く!!体がムッチャクッチャ痒かった。それ以外は大丈夫ですが、怖くてトラウマ。以来2階で寝ています。

[2003.04.12]



4月3日に、在カーブル日本大使館にて月例懇談会が開催され、出席しました。
その際、大使館の方から下記のような報告がありました。
1. 3月27日、カンダハール〜ウルズガン間で、ICRC(国際援助機関)の職員が、40人乗りの集団に襲われ殺害された
2. 殺害の目的は、カルザイ政権に打撃を与えること
3. したがって、金品目的ではなく、狙いはあくまでも「命」であること
4. その目的性から、日本人も例外ではないこと
5. イラク戦争に対して、アフガニスターン人の直接的な反発は今のところないが、ヘクマティアール派、タリバンまたはそのシンパなど、よりイスラーム原理主義的な部分が反米闘争として、そういう動きを活発化させている中での事件であること
6. 危険地帯は、それらの出身地や、拠点のあるパシュトゥーン・ベルトと呼ばれるパーキスターンのトライバル・エリアとアフガニスターン東部南部のクナール、ナンガハル、パクティア、パクティカ、カンダハール、そして西に行ってウルズガンという地域であること
これらの結果を踏まえ、主に地理的な治安上の問題を考慮し、ナウール地方で計画していた粘土団子の緑化計画を秋まで見合わせることになりました。ナウールは、アフガニスターン中央部ハザラジャードの南部に位置し、上記の中には含まれないハザラ人の地域なのですが、かつてタリバンの拠点であったガズニー州であり、すぐ西は事件のあったウルズガンということで、移動時の治安に大きな不安を残すことから、秋まで見送りという結論に達したという次第です。

[2003.04.05]



『カーブル事務所便り(4)』−by 督永忠子

3月31日未明、右手の中に針状のモノを掴んだ感じ、思わず左手ではね除けたら瞬間、ピリリ、ジャッキーンと激痛。未明のアザーン(朝の礼拝への呼びかけ声)を聞きながら、急いで右手指に吸い付いた。眠い目をこすりつつ、懐中電灯で照らし布団の周囲を見たりしても何も見えず、結局寝られぬままに朝を迎えた。
痺れる痛みのまま朝のコーヒーを飲んでいたら、渡邊さんが何かを見つけた!
指でちょいちょいつついたら、小さいくせに尻尾を高々とあげ威嚇してくるサソリ!!
ヒエ〜〜〜ッ、急に痛みとしびれがひどくなったぁ!!!

[2003.04.01]



『カーブル事務所便り(3)』−by 督永忠子

本日は、事務所へお客さんが来るというので、泊まれるようにと物置になっていた2階の部屋を大掃除。床に敷くためのモノをカーペット製作所へ取りに行く。カーペットは既に100枚近くが織り上がっているので、政府から輸出許可を取り、パーキスターンへ運び込み、毛揃えと洗いに出して完成させるのだが、まず輸出許可の取得に途方もなく書類と時間がかかる。根性を入れて許可取得に取り組まねば…。
許可取得といえば、何についてもそうで、アフガニスターンの滞在延長許可を貰うだけにも、結局のところ丸々1週間もかかり、ようやく今日、許可が貰えた。毎朝のように外務省やパスポート事務所へ出頭。「はい、係官がいません」 また明日!

ゾラ(縫製教室の先生)の縫製教室も5日前から新学期が始まった。生徒は22人と少ないが、3月中旬の修了式には40人が中級クラスを修了、家での内職や仕立屋の看板を出す生徒が何人かいるだろうとのこと。縫製教室は他に2ヶ所あるのだが、2教室ともに結婚式で忙しく、頼まれものの仕立をこなすため、レポートの提出どころか給料すら取りに来ない。
識字教室は昨日が試験日、校長先生の方が緊張していたように見える。

[2003.04.01]



『カーブル事務所便り(2)』−by 督永忠子

3月もいよいよ終わりです。
日本でも各地で桜便りが聞かれ、暖かくなって来たことと思われますが、こちらカーブルは雨模様の天気が多く、近郊の山々は雪で真っ白です。カーブル川も泥水が川幅いっぱいの流れになっています。舗装した道路が少ないので町はドロドロ、家々から流れ出る汚物でズルズル、ヌルヌル…。
日本から長靴を持ち込んだ朝野さん(ボランティア・スタッフ)に、熱い羨望の目が集まっています。

こちら市内の状況は平常ですが、各地ではターリバン達が力を盛り返しつつあり、アメリカと同盟国の人間に対して攻撃(報復)を呼びかけるビラがパシュトーン地区を中心に撒かれていると新聞に報じられ、心穏やかではありません。

緑化のために農業省から6000本(りんご1000、アーモンド1000、杏4000)の苗木を川村さん(ボランティア・スタッフ)が交渉の上、確保してきてくれました。20本づつの束にして4月1日にはセアぺトップ(標高2600m)に送り出します。本日未明、ローカルスタッフがセアぺトップへ行き、苗の保管場所と手伝い人も確保。
パーキスターンのギルギットでも、2万本の苗木がいつでも送り出せるように準備完了。4月下旬の本格的な活動にむけ、ボチボチ動いています。渡邊さんが、粘土団子用のミキサーにSORAの名前を書いてくださいました。

[2003.03.31]



『カーブル・レポート(1)』−by 渡邊弘俊(SORA運営委員)

3月18日、無事にイスラマバードに到着しました。
私たち(督永、朝野、渡邊)は、当初、20日にカブール入りを予定していましたが、アメリカによるイラクへの空爆が始まった日に、こちら在パーキスターン日本大使館の強い要請もあり延期。週明けの24日に3人でイスラマバードを出発、ペシャーワルから、カイバル峠を抜けてアフガン国境に到着しました。

2001年にパーキスターンを訪れた時は、カイバル峠の展望台より1km先のアフガニスターンの国境の街を遠く眺めていたのに、今回はあの時の緊張感も無く、アフガニスターンに入りました。

国境を越えた私たちは一路目的地のカーブルへ直行。
初めて見るカーブルの街は、日本で、テレビや新聞で見た廃墟と化した街並みが、今もそのままの姿で私の目に飛び込んで来ました。けれども、カーブルの人々はその壊れた建物の合間に店を開き、たくましく生活しています。
24日に、カーブルのSORAの事務所(電気、水道、ガスなし)に着いてからは特別な支援活動はありませんが、粘土団子と植樹のための下準備は着々と進んでいます。

このたびアフガニスターンの復興の手伝いができることに感謝しつつカーブルより報告します。
アフガニスターンへと続く道−カイバル峠

[2003.03.29]



『カーブル事務所便り(1)』−by 督永忠子(アフガニスターン現地責任者)

3月24日6時、雨上がりの生暖かい風の中をイスラマバードから出発、ペシャーワルへ着いて国境越えの許可取得と共に、道中の安全のために警護の警察官をつけてもらおうと役所へ行ったら、「アフガニスターン?きょう、今から?外国人は事務所か自宅待機の筈なのに、本当に行くの?」と、呆れられてしまった。おまけに顔をシゲシゲと眺められ、「アメリカ人じゃないから良いかぁ…。でも、行くのなら早くパーキスターンを抜けて出て行って欲しい、パ国内で何かあっては困るからネ。」ニコリともせず、口をへの字に曲げたまま、許可書類にサインをしながら言われてみると、小心モノのオバハンなどはいささか居心地悪く、後味も悪い。しかし、まぁ、だからといって家に帰るわけにも行かず、結局はカーブルへ来てしまった。

SORAのカーブル事務所(貴重な寄付金を少しでも有効に使うため、JRUとの共同使用で経費をケチっている)は丸一年が終了。新たに再契約をするのか、もう少しマシな場所へ移るのか未だに決めかね、心は慌ただしく落ち着かない。
大旱魃で雨がなかったここ数年、そして今冬は雪と雨の連続で、充分な手入れのされていなかった泥造りの家の屋根はぬかるみ状態。室内の壁には屋根からしみ込んだ泥水の痕がのたくって流れ、床のカーペットも水を含んで寒々しく汚い上にも汚らしい。大NGOに比べると、50分の1の家賃に住む小NGO事務所らしく、かえって納得してしまう貧乏性が自分でも笑える。

正月以降、しつこい咳と頸椎を痛めて治療をしたりしていたので、カーブルには3ヶ月も来られなかったが、スタッフ一同の明るい笑顔に迎えられ、なんだかとっても嬉しい。識字教室の生徒も、近郊の学校へ行けるようになった子が増え、3日前の新学期になって一挙に60人も減り200人余りになった。それだけ、カーブル市内の学校が整備されて来たということだろう。カーペット織りの方も減っていて、これらはSORAの支援に頼らずとも、他に自活可能な何かの手段が出来たということで、嬉しい現象と言わねばならない。織り手のいなくなったカーペット枠を、今春にはハザラジャードの高地へ運び上げる。本当は昨年末に運び上げたかったが、村人の意識がイマイチ高まらず、また例年より早い雪に制限を受けた。

さぁ!きょうからアフガンでのオバハンの活動再開!

[2002.03.27]


3月18日は、またまた雨でした。寒かったので、山には雪が降ったと思います。夏場のカーブルの水不足が少しは解消されるよう願っているのですが…。さて、新事務所探しなのですが、難航しています。アフガニスターンらしい…と言えば、アフガニスターンの人たちに失礼でしょうか?

16日の夕方、予定通り不動産屋に手付けとして1000$を支払い、契約書にもサインをして、2〜3日中にオーナーに残金を支払うということで、1年契約が成立するところでした。が、17日の午後、不動産屋の使いが来て、「オーナーは、死んだ。契約は、難しい」といって帰っていきました。急いでローカルスタッフと共に不動産屋へ行き説明を求めましたが、「オーナーは亡くなった。だから、契約できない。」というのです。「亡くなった」とは、にわかに信じられないので、ローカルスタッフにお葬式に出るよう言いましたが、「葬式はもう終わった」ということで、それ以上は突っ込めませんでした。

というわけで、事務所の引越しは、もう少し先になりそうです…。

[2003.03.19]


3月12日、13日の2日間、カーブルの街では冷たい雨が降り続きました。
泥づくりのアフガニスターンの家は、ひどい雨漏りに見まわれ、庭や道は泥沼状態です。また、普段はほとんど雨が降らないアフガニスターンでは、傘を持たないアフガン人がずぶ濡れになって外を歩いていました。

さて、新事務所ですが、ローカルスタッフを通して不動産屋に契約の意志を伝え、16日の夕方、現地で正式契約する事にしました。台所や手を加えなければならない所が数ヶ所ありますが、良い物件だと思います。20日には引越ししたいと思っています。

ところで、現在、アフガニスターンには、900のローカルNGOと300のインターナショナルNGO(計1200)が活動しているそうです。けれども、その殆どがNGOビジネスに精を出し、支援を必要としている人々への支援がなされていないそうです。また、最近のNGOは、地方へ地方へと活動の場を移し、カーブルの重要な小児病院などには支援がされずに酷い状態になっているそうです。

[2003.03.16]


3月に入り、いよいよ2003年の活動も本格的に開始です!

カーブルは朝晩の冷え込みもずい分と和らぎ、昼間の暖かさは日本の初夏を思わせる気持ちの良さとなりました。
当面の行動としては、第一に新しい事務所を探さなければなりません。現在の事務所は、今月半ばにも契約が切れるので、事務所の引越しが必要です。格安物件を探して、経費の節約に努めます!

また、春を待って開始しようと考えていた植樹は、アフガニスターン・スルハバット郡の気候から考えると、5月ごろが適当ではないか…と思われます。苗木2万本は、パーキスターン・ギルギット地方の農業指導センターから分けてもらえるよう確約済み。5月までは準備期間と考え、状況把握や村人への啓蒙活動に励むつもりです。

[2003.03.07]


冬の間は雪に閉ざされるハザラジャードの大地。
春が来るまで、カレーズ堀や巡回医療はお休みです。
が、SORAのカーブル事務所は新しい日本人ボランティアを迎え今年の活動を開始しました。

昨年末から調査を続けていた国立孤児院2施設(約1750人)、シアター跡や靴工場跡の廃墟に暮らす国内避難民(約1500人)を対象に、JR貨物労組が中心となってご支援くださった難民用物資を配布しました。40フィートコンテナの中には、衣料品や毛布、布団などと一緒に、「厳しい冬をどうにか乗り切って欲しい!」という支援者の願いがたくさん詰まっていました。

配布する際に沸き起こった混乱や、「関係者」が無秩序に申し立ててくる陳情に軽い酔いを覚えましたが、支援品を受け取った人々は輝く笑顔を見せてくれ、反対に私たちが元気を分けてもらいました。

カーブルのシアター跡、この廃墟にも暮らす人々が

[2002.01.20]



活動報告2001(2001年11月活動開始〜12月31日)
活動報告2002(2002年01月01日〜12月31日)

活動報告2004(2004年01月01日〜12月31日)
活動報告2005(2005年01月01日〜12月31日)
活動報告2006(2006年01月01日〜12月31日)
活動報告2007(2007年01月01日〜 )