SORAの活動報告 (2007年01月01日〜 )

このページでは、現地からの活動報告、現地スタッフが日常生活で感じたこと、
又、我々の活動が掲載された新聞記事などをご紹介しています。
過去の活動報告
2001年11月活動開始〜12月31日
2002年01月01日〜12月31日
2003年01月01日〜12月31日
2004年01月01日〜12月31日
2005年01月01日〜12月31日
2006年01月01日〜12月31日


『2007年 カーブル便り(12)』−by 督永忠子
カーブルのスタッフから、パーキスターンの国境を経由して、事務所へと様々な写真と報告書が届いたが…。
写真は、毎回、毎回、感心するほどにピンボケで汚くセピア色のものばかりだ。おまけにアフガニスターンの臭い(匂いではない)までが届く。事務所は古くなった燻製を置き忘れたような臭いに包まれる。
「あぁ〜!」と、アフガニスターンの山村からテントの受領書などなどが届いたことを実感する。

こちらからは縫製教室用の布や防寒着、給料などを国境まで届け、現地スタッフに手渡し、特別に何も起こらなければ…これで今年の野外活動は休眠に入る。

ヨーロッパ系の調査団だかの調査では、10月、タリバーンがアフガニスターン全土の54%を掌握したと。
無理をして活動を続ければ(タリバーン政権が来た時に)、アフガン難民を支える会−SORAの事務所は閉鎖されるだろう…。静かに目立たず、今いるスタッフや縫製教室を運営するオリファたちを守ることに留意しながら活動を続けたい。

[2007.12.03]


『2007年 カーブル便り(11)』−by 督永忠子
夏以来、雨が一滴も降らなかったが、ようやく11月末になって雨が降り出した。
支援対象地域のベスートの山村ではとうとう雪になったという。

ベスートへ行くには、タリバーン強硬派の支配地ジャレーズ通らなくては行けない。春から続く誘拐事件を恐れ、「カーブル近郊より外へは活動に出ないこと。万が一、誘拐されてもSORAでは身代金が払えない。無理して活動しないように!」と、スタッフへは堅く指示しておいたが…。

スタッフたちは、「テントや布団の配布に当たって、クーチー(遊牧民)に家を焼かれた状況を把握し、村人への適切な配布のためには現場へ」と、寒い中(夜間は−13℃)、山村廻りをして来た。

ベスート1地区
50の小さな谷に分かれ、約400家族が暮らしている。そのうちの23家族が家を焼かれ、14人が負傷10人が武装したクーチーに殺されたという。半壊の家も結構多かったというから、クチたちは行く先々で暴れたのであろうか。

ベスート2地区
33の小さな谷に約300家族が暮らし、3家族が家を焼かれ1人が殺されていたという。
クーチーたちは草を求めて自由に通過出来ないからと、村人と揉めたようだが、それではかえって自分の首を絞めているようなものだ…が。

ベスートでは、政府役人立会いの下、子だくさん、未亡人、特に貧しい家庭を対象に冬支度を届けることができた。

[2007.11.29]


『2007年 カーブル便り(10)』−by 督永忠子
『アフガン難民を支える会−SORA』の近況を報告します。

<縫製学校・識字教室>
オリファの縫製教室は、縫製教室+内職場に変わりました。
家内工業の仕立て屋から大量注文を受けて下縫い、あるいは刺繍を施すなどなどの注文が増え、毎日10人余の女性たちが集まって内職に励めるようになりました。
 
ファウジアの方は、相変わらず真面目に縫製学校と識字教室を開いています。識字教室は、英語とダリ語を学ぶ女性で賑わっています。
また、こちらも縫製を習う生徒が帰った後は内職の場と化しています。

オリファ、ファウジアの縫製教室のどちらにも新しいミシンが入り、仕立て台の大きい机などが(アフガン政府の規定通りに)入り、立派になりました。

<テント・寝具配布事業>
ベスートからカーブルへ降りてきた家族200世帯(子どもの多い家庭)には一律テント、布団などを配布しました。一部の有力者の手にテントが渡らないようにするため、国会議員を介しての引渡しセレモニーなどは省きました。一括して渡してしまえば簡単だったのですが、子だくさんの家庭、一軒一軒にテントなどを手渡しして廻っていますので、受け渡し作業終了までには時間がかかりそうです。

このプロジェクトでは、在アフガニスターン日本大使館の方々に、大変お世話になりました。

<緑化プロジェクト>
春3月初旬〜4月初旬には、セアペトップの村人の希望により、例年通り果樹(リンゴ、杏)1800本はアフガン農業省の薦めに従いアフガニスターン国内で購入。佐藤錦に似たフランス種のサクランボ苗200本は、パキスタンから現地へ運び入れました。

<巡回医療支援>
診療所建設の件は、2006年夏〜晩秋にかけて、また2007年春と、何度も現地へ足を運び、頻繁にリサーチを重ね村人とも話を重ねて来ました。
当初予定のシアハックでは、建設予定地まで見つかったものの、出来たばかりの個人診療所の妨げになり、恨みを買うと怖いというので、シアサングまで調査の範囲を広げました。

保健省や経済省とも建設許可の件など、長々の協議を重ねながらの調査や、話し合いで、最終的に当局より「診療所は各国の支援(JICAプロジェクトを含む)で、たくさん出来上がっている。当面、これ以上は要らない。ただ、運営の費用がないので、どこの診療所も稼動していないので、医者と医薬品を」という話に落ち着きました。が、早い話がローカルNGOに運営費用を落として欲しいというだけの話になったので、その後、話は進んでいません。

現実には診療所があっても稼動していないものばかりで、運営費用は必要だと認識していますが、運営費用を出す以上はSORAのスタッフが診療所へ(せめて月に1回は)通わなくてはなりません。しかし診療所を予定している地域では、春から外国人(現地スタッフを含む)拉致が出ており、万が一、SORAのスタッフたちが拉致された場合には、対応できるような状況・(身代金が払えるような)余裕がないことから、カーブル以外でのプロジェクトは、今のところ控えたいと思います。

巡回医療を待つ人は多く、スタッフたちが廻った時にも、「もう一足延ばして来てくれればいいのに」と、巡回医療に来てもらえなかった地域から残念がられていたといいます…。

アフガニスターンだけでなく、パーキスターンの北西辺境州でもタリバーン化が急激に進み、スワート地方からは難民も出始めました。今後はアフガニスターンでもパーキスターンでもタリバーン化が進み、来年はもっと活動が制限されると懸念されます。
幸いSORAでは、活動の手を広げていなかった分、何時もと変わらずの細々とした活動を続けられています。
危険な時には無理をせず、静かにしているのが一番だと思います。

会計報告は、近々に掲載をいたします。

[2007.11.22]


『2007年 カーブル便り(09)』−by 督永忠子
べスート(標高3200m)の村々は氷点下になった。

経済省へ日参するスタッフに知恵をつける。経済省へ最後通告をするようにと。
「テントが輸入できなくて困るのは我々の団体ではありません。寒さで困っているのは山から降りてきた村人です。アフガニスターンへの輸入許可が得られそうにないのなら、このプロジェクトは中止いたします。」
結果、毎日、日替わりで担当官がいなくて、ズルズル長引いていた許可問題にようやく輸入許可書が得られそうだ…。

今冬は、まだ山々にも白いものが見られない。
7年おきに旱魃がやって来ると言われているアフガニスターン(イランも)なので、そろそろ旱魃の年がやって来ても不思議ではない。タリバーン政権が倒れた2001年の翌春から雨が降り始めたことを思い返すと、アフガンは来年あたりから旱魃になりそうな可能性がある。

[2007.10.20]


『2007年 カーブル便り(08)』−by 督永忠子
隣国パキスタンからの遠隔操作につき、先ごろから2つの(日本の)NGOから助言を求められ、現在、協力中。

パキスタンも2年前の大地震で、世界中からNGOが大挙して押し寄せたが、支援金額に見合う内実のある支援の出来たところは極少だったようで、NGOに対する不信感が大きい。結果、地震後半年くらいからNGOに対する許可やビザが下りなくなった。

しっかり真面目に運営されている『ペシャワール会』ですらも、NGOビザが取得し難くなり活動に支障が出そうだというから、真面目に活動しているだけではダメだということか…。
難しいことになったものだ。

[2007.10.03]


『2007年 カーブル便り(07)』−by 督永忠子
そろそろカーブルも寒くなって来た。
ベスート(標高3200m)から山を降りて来る家族は、結局のところ200世帯にも膨れ上がり、200世帯分のテントなどを支援することになった。
話がスタートしてから既に1ヵ月半というのに、誰かが何処かで邪魔をしているらしく、アフガニスターンへのテントの輸入許可が出ない。許可取得のため経済省へ、スタッフたちは日参していると言い、日本大使館へも許可取得に助力をお願いしているという。

経済省はアフガニスターン国内でテントを購入せよと言うが、アフガニスターンではテントを作っていない。テントのみならず、毛布や布団ですら、全て隣国からの輸入ではないか…!自衛隊が緊急支援で日本から運んで来たテントもパキスタン製だったのに…。

誰かが自分の利益のために邪魔をしているに違いない…。

[2007.09.20]


『2007年 カーブル便り(06)』−by 督永忠子
外務省(日本)から、アフガニスターン国内に滞在する日本のNGOに退避勧告が出だした。曰く、「隣国から、アフガニスターン国内の支援活動を遠隔操作するように」と。
いずれ、外務省はアフガニスターンからの退避勧告を出すと思っていたから、不思議ではない。

『アフガン難民を支える会−SORA』では外務省に言われるまでもなく、アフガニスターン国内の支援活動の多くを遠隔操作によって遂行している…と言えば聞こえはいいが、実は超怖がり故に、アフガニスターンに滞在することに腰がひけている。
毎年、(本職の日・パ旅行社で)幾つもの事故処理に携わる経験から、事故になればどのくらい周囲への迷惑がかかり、大変なことになるかを熟知しているから…という方が正しいかもしれない。

外務省は気軽に、「隣国パキスタンやイラン、タジキスタンからアフガニスターン国内の遠隔操作を!」という意味であろうが、簡単に出来るものではない。

[2007.08.15]


『2007年 カーブル便り(05)』−by 督永忠子
ワルダック州べスート出身の国会議員から、「あちこちの村でクーチー族(遊牧民)が暴れ、クーチーに家を焼かれた村人が多数出たので、その人たちへの支援を」と頼まれた。
ワルダック州の何時も走っている道は、クーチーたちが家畜に食べさせる草を求めて自由に行き来していた。
しかし、クーチーたちも2005年くらいから、大昔から通れた地域が自由に通れなくなって困窮していると、クーチーたち自身から直接、聞いていた。中には「外国人のあなた方から自由に山々(村)を通過出来るようにアフガニスターン政府へ口を利いてもらえないか」と言う依頼もあった…。

村人は、「クーチーは泥棒集団でテロリストだと決め付ける…」
クーチーたち自身も、草を求めて自由に行き来できず、家畜を連れてどう生きていけばいいのか、物凄く困惑しているのだと思う…。その困惑と自由に行き来できない苛立ちが村人たちとの衝突になっているようだ。

家を焼かれた村人だけではなく、今夏は小麦の収穫もイマイチだったので子だくさんの家はカーブルへ降りたいともいうので、テント100張り、布団などの手配を考え始めている。

[2007.08.01]


『2007年 カーブル便り(04)』−by 督永忠子
韓国人23人が拉致されてから、2週間近くになっている。

2005年末から「韓国人への拉致予告」が出ていて、韓国人に似ている私たち日本人は用心に用心を重ね、陸路を走らなければならないような活動を避けるようになっている。
2002年から昨2006年までは、なんとか普通に走っていた(チャードルを深く被り、車の中に身体を沈めるようにして移動)ワルダック州も、今春になってからはイタリア人、ドイツ人2名(同行のアフガン人スタッフも5人)が立て続けに誘拐され、今夏はスタッフたちでさえも現地へ行かせられなくなって来た。

春のセアペトップ村650世帯で、リンゴや杏の苗木を2000本近く植えたが、今になって思えば事故もなく幸いだった…。

『アフガン難民を支える会−SORA』では、2006年に、運営委員の中で診療所を建設しようという話が持ち上がり、昨年夏過ぎから晩秋へとかけてワルダック州で調査を重ねて来た。
当初は、診療所を建てるつもりでいた。村人の希望により建設予定地も決まり、建設許可取得で保健省や経済省を廻っているうちに、「診療所は各国NGOが幾つも建設。幾つもあるけれど運営費用がなく、いずれも稼動していない。診療所を無料で提供するから稼動させて欲しい」という依頼になり、現在は、その下準備に変わって着々と進んでいた。

地域住民にとっては待たれる医療活動だが、アフガン人であってもNGO関係者が殺されたり、誘拐の対象になりかねないなど、治安は悪化。もう何をするにも腰が引ける状況に居竦んでいた矢先の事故続き。

特に今回の韓国人23人の拉致では、アフガンから撤退するNGOが幾つも出そうだ。そして、撤退することは責められない…。

[2007.07.31]


『2007年 カーブル便り(03)』−by 督永忠子
とうとう恐れていたことが起こった…。
市内でバザールの写真を撮り歩いていた日本人が、自爆テロに巻き込まれたようだ。
今春3月、アフガニスターンのタディ・ツアーを募集していた時から、「危うい」と案じていた。アフガニスターンも治安がまぁまぁだったのは2002〜2004年くらいで、後は徐々に悪化の途をたどっている。

時たま、『アフガン難民を支える会−SORA』へもボランティアの申し込みがあったりするが、2005年からは全てお断りして来た。
中には知り合いから紹介されたと言って、カーブルの当事務所へお訪ね下さる方があったりするが、それらの方々にも失礼を承知で、プロジェクト現地へお連れすることなどの係わり合いを避けて来た。
万が一、同行中に何かがあった場合には、責任を取りきれないと思うからだ。

新聞では、「自爆テロに巻き込まれた日本人は上腕骨折のみ」と、あたかも軽傷だったように書かれている。が、実は全身に細かい細かい爆弾の破片が刺さり、それらを取り除く治療には半年もかかる重傷だと専門家はおっしゃっている…。自爆テロだけではなく、誘拐されても周囲には多大の迷惑をかけることになり、もうオイソレとアフガニスターンのスタディ・ツアーなどには誘えない。カーブル市内の外へは気軽に出られないのが現状だ…。

[2007.06.18]


『2007年 カーブル便り(02)』−by 督永忠子
SORAカーブル事務所の更新が出来ました。
2002年春、カーブル事務所を設置。毎年のように法外な家賃の値上げに怒りを覚え、手間暇はかかるものの、この6年間に5回もの引越しをして来ました。このたびは初めて2年続いての事務所です。良心的な大家さんにようやく当たり、気持ち良く更新が出来ました。

さて、イラクや北朝鮮問題、またインドネシア沖地震・津波。さらにはパーキスターン大地震、世界中で起こる災害や紛争などの陰に隠れ、またまた国際舞台から忘れられたようなアフガニスターンですが、人々は逞しく明日にむかって生きています。子どもたちは長かった内戦、アメリカの空爆があったことすら忘れ、学校へ通えるようになりました。敵国語だった英語を習うことは、若い女性たちにとって、いまや流行にすらなっています。

[2007.04.15]


『2007年 カーブル便り(01)』−by 督永忠子
911同時多発テロで、犯人たちがオサマビンであるとの確証もなくアフガンへの報復に踏み切ったアメリカ。そのアメリカ軍の誤爆によって一気に8人もの家族(夫と子どもたち)と、家財のすべてを失くしたオリファ。未亡人になり、幼子5人と第一妻の母親を抱えて困窮するオリファを2002年春から応援して丸5年、彼女の家がようやく人間らしく住める場所へ引越しました。
2004年から始めた小さな縫製教室では、街の縫製屋さんから預かってくる刺繍仕事や内職のミシンの音が絶えることもありません。
縫製教室に通って来る女性は10人と少ないものの、大きな縫製台が入り、作業がしやすくなりました。支援を続けて下さっている皆様にオリファから「ありがとう!」が届いています。

ファウジアの教室には、縫製を習う生徒が20人、英語が35人、ダリ語には40人がコンスタントに通っており、縫製教室からはこの4年間で250人近い卒業生が出ています。SORAの縫製教室では最初の1年間で900人からの卒業生を送り出しましたが、その後、教室は3ヶ所に分散、学びたい女性たちで賑わっています。
特に英語は「流行」の先端??、若い女性たちに人気があります。

[2007.04.01]


過去の活動報告
2001年11月活動開始〜12月31日
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