SORAの活動報告 (2001年11月活動開始〜12月31日)
◆活動報告2002(2002年01月01日〜12月31日)
◆活動報告2003(2003年01月01日〜12月31日)
◆活動報告2004(2004年01月01日〜12月31日)
◆活動報告2005(2005年01月01日〜12月31日)
◆活動報告2006(2006年01月01日〜12月31日)
◆活動報告2007(2007年01月01日〜 )
第2陣、28トンの小麦粉と8.5トンの食用油が、アフガニスターン・ジャララバードに向けて発送されました。
[2001.12.31]
識字教室のまとめ役は、温和でシッカリしたドクター。
キャンプの大人達も、進んで協力し、持って行った教科書などの荷物を車から順次降ろしてくれた。
「昨日も来てくれるのを待っていたンだよ。教科書を持って来てくれたの?」
小学校高学年くらいの子どもが話しかけてくれる。
「あぁ、神さま!ありがとうございます。勉強の機会ができました」
たくさんの人達から挨拶された。
[2001.12.29]
ペシャーワルの本屋さん。
幼稚園、1年生用のペルシア語の教科書はなかなか売っていなくて、探すのが大変だった…。
国語(ペルシア語)の教科書、算数の教科書、この他に筆記用具、黒板なども購入。教科書は450人分を揃えた。
子ども達のリストはできている。明日は子ども達に教科書が配れる、教室がスタートできる。
無駄な『式』らしいことはしないが、開校は1月1日から。
[2001.12.28]
ペルシア語で書かれた初等クラスの教科書をペシャーワルまで買いに行く。
アフガン難民の子ども達が使用するペルシア語で書かれた教科書はイスラマバードには売っていない。
あの道端で泥まみれになって遊んでいた子ども達の何十人かが教室に通うのかと思うと、なんだか心が暖まる。
[2001.12.27]
イスラマバードには約7万人のアフガニスタン人が暮らす難民居住地がある。約5000軒からの家が密集しており、狭く曲がりくねった泥塀の続く小路で日が暮れるまで子ども達が転げまわる。
居住地の規模が大きく、ペシャーワルなどのモデル・キャンプよりも条件が悪いので誰も手が出せないようだが、『アフガン難民を支える会』が支援する識字教室はここで開かれることになった。
識字教室の場所は男の子用2つと高い塀に囲まれた女の子用1つが本日、決まった。
[2001.12.25]
12月17日夜、パーキスターンでは新月が観測され、1ヶ月間の断食月が明けた。
「せめて断食明けのイード(正月)には、難民の人たちにもお腹いっぱいに食べさせてあげたい!」
イスラマバードでは18日・19日の2日間に渡って、ふっくらと焼き上がった熱々の香ばしいナーンを「イード・ムバーラク!(ラマダン明けおめでとう!)」と言いながら一人ひとりに配りました。ナーンは手で持てないくらいに熱く、寒さに震えながら待っていた 人達のフトコロの中で、ホカホカして体まで暖まったようです。
また、現地日本人学校の先生方4人もお手伝い下さり、お正月用にと甘いものも配って下さいました。
12月19日 産経新聞(夕刊)より
[2001.12.19]
ハザラジャードの入り口、セアペ・トップ(峠)にようやく、小麦粉が到着。
カーブルで購入した小麦20トン,食用油1.5トンを運び終わった。
次回は、断食明け早々、年内にバーミアンに向かいます。
[2001.12.11]
小麦粉と食用油が、無事カーブルに到着!!
本日は、『アフガン難民を支える会』の第1陣が無事、カーブルに到着した。カーブルには冬野菜や、小麦粉などの物資があふれ(パーキスターンからカーブルへ運ぶ途中で強奪された物資や、何処かからの横流し品と見られるものがたくさん)、お金さえ出せば何でも買える状態。貧しい人には、赤十字などから食料配給カードが渡されていて、それによって配給が受けられるという。
『アフガン難民を支える会』は、まず、ハザラジャード(バーミアン)への情報集めと準備の後、バーミアン地方へ向かいます。もし、道中危険で、当分運べないようなら、近郊の最下層民の住む地域などへの援助を行い、ハザラジャードへの時期を待ちます。
[2001.12.01]
アフガニスターンから帰って来た友人が、「いやぁ、何処からも援助の届かない中央部の悲惨さは聞いていた以上だった」と声をひそめる。「ハザラの連中は草を食べているンですヨ。これから冬になったら雑草もない」
別の友人は「3-4日も食べていない子ども達は、もう、起きあがる元気もないンですヨ。そんな子ども達の様子に耐え切れなくって、母親は子ども達に背をむけ、火も焚いていないかまど(石を置いただけ)に鍋をかけ、水を入れて掻き回しているンです。鍋の中で何かを煮ているのかという期待で、子ども達が元気つくからと……。」
子どもに何も与えられない母親、そんな無力な母親が1人でも減ることを祈って、アフガニスターンに小麦粉を運ぶ。
[2001.11.30]
本日、アフガンへのビザがとれましたので、明日はジャララバードへ。あさってはカーブルです。
さぁ、いよいよです。小麦粉をハザラ(バーミアン)へ送り出します!!アフガニスターン国内で、各国の援助から一番遠いところにいるハザラ地域へ行きます。
とりあえず、テスト・ケースで20トンの小麦粉と1トン半の食用油を送ってみます。ハザラ族はアフガニスターン人口の約20%を占め、私達日本人と同じ容貌を持つモンゴロイドです。アフガンでは最下層に属していますが、性格は温和・勤勉・我慢強い(他の部族に比べて)人達で、常に虐げられて来ました。
とにかく、たった今、手配の打ち合わせが完了。ペシャーワルを出発です。
雪が降る前に、本当はたくさん送り出したいのですが、何処まで出来るか分からないので、20トンということで……。
[2001.11.28]
本日、小麦粉(アタ)運びの第一陣がイスラマバードを出発、ペシャーワルで2-3日準備の後、カーブルへ向かいます。
「小麦粉、食用油、そして何としても医薬品を用意して欲しい」と頼まれて います。3つのコンビネーションがあって初めて、子ども達の命が救われる可能性が高まると。日本で買う薬は凄く高いのに、カーブルではイラン製、ロシア製が凄く安く買えます。もちろん日本からの薬は人気があります(信用度が高い)が、高くては数が揃えられません。ちなみに、日本で買う風邪薬(メーカー同じ、輸入物)1500円が、パーキスターンでは約100円です。
[2001.11.26]
『アフガン難民を支える会』初の大仕事。
アフガニスターンの中央部ハザラジャード(バーミアンの近く)で、飢餓線上にいる人たちへ小麦粉(アタ)の送り出しを開始します。ハザラジャードの山岳部はもう雪に降り込められつつあります。
今回はとりあえずトラ ック2台分20トンのアタと、1トン半の食用油を送ってみます。これが順調 に行くようなら、出来る限り(と言っても皆様のご協力を仰ぐことになる のですが)のアタを送り出したいと思います。
[2001.11.25]
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