SORAの活動報告 (2004年01月01日〜2004年12月31日)


活動報告2001(2001年11月活動開始〜12月31日)
活動報告2002(2002年01月01日〜12月31日)

活動報告2003(2003年01月01日〜12月31日)
活動報告2005(2005年01月01日〜12月31日)
活動報告2006(2006年01月01日〜12月31日)
活動報告2007(2007年01月01日〜 )




12月7日(火)、広島市の西区民文化センターで『パキスタンとアフガニスタンの今』が開催されました。

現在のアフガニスターンの状況、SORAの支援活動の様子など、督永が、アフガン報告を行い、アフガニスターンそしてパーキスターンの今の様子を聞くことができました。

[2004.12.24]




12月6日(月)、滋賀県立大学で『地球の迷い方−女ひとりワハーンを行く』が開催されました。

----記事より----
「現地の人の自立支援必要」
アフガン難民を支える会 督永さんが講演

NGO(非政府組織)「アフガン難民を支える会」の総括責任者で、彦根に出身の督永忠子さん(60)が6日、同市の滋賀県立大で帰国講演を行い、「モノを贈るだけでなく、現地の人の自立への支援が必要」とアフガニスタン復興支援の在り方を説いた。
同会は2001年11月に発足し、識字教室や緑化プロジェクトを行っている。パキスタンに23年間在住する督永さんの一時帰国に合わせ、同大学の主催で講演会が実現した。
督永さんは、タリバン政権の崩壊後、諸外国の復興支援が曲がった方向に使われ、アフガンが世界最大のアヘン生産国になったことや、イラクよりも劣悪な衛生環境であることなどを統計で紹介。「都市部の復興は進んできた。しかし、『棚からぼたもち』式ではなく、現地の人の自立につながる支援でないといけないと、学生ら80人を前に熱弁を振るった。
さらに、日本の国際報道について「前後左右が切り落とされた報道だ」と厳しく批判。「こうした報道が続くと、日本も戦争の道に進んでしまう」と警鐘を鳴らした。

2004年12月7日(火)
京都新聞

[2004.12.20]



12月6日(月)、滋賀県立大学で『地球の迷い方−女ひとりワハーンを行く』が開催されました。

----記事より----
自立できる支援を
アフガン支える会の督永さん

アフガニスタンの復興、支援活動と取り組むNGO「アフガン難民を支える会(SORA)」の総括責任者で彦根市出身の督永忠子さん(60)の講演会「地球の迷い方−女ひとりワハーンを行く」が6日、彦根市の県立大学交流センターで開かれた。学生や教官、一般参加者ら約100人を前に督永さんは現地での活動を報告し、「棚ぼた式の支援ではなく、現地の人たちが働き、自立できる支援が必要」と訴えた。
督永さんは約30年前にパキスタンの首都イスラマバードに移り住み、旅行会社と民宿を経営。01年10月の米軍のアフガン攻撃時、パキスタンに殺到した日本の報道陣の前線基地となった。タリバン政権崩壊後、インターネットで復興への支援を呼び掛け、支える会の活動を始めた。
講演で督永さんは、緑化プロジェクトや小学校建設、農作物づくり、女性の縫製教室などを実施し、「食べ物や物を提供する棚ぼた式の支援ではなく、自立のための支援」を目指していること、30年来の夢だったロシア国境のワハーンに入ったことなどを紹介。最後に「米国の強権的なやり方では平和はこないし、テロもなくならない。子どもたちが安心して暮らせる世の中にすることが大事」と結んだ。【松井圀夫】

2004年12月7日(火)
毎日新聞

[2004.12.17]




12月6日(月)、滋賀県立大学で『地球の迷い方−女ひとりワハーンを行く』が開催されました。学生や先生、一般の方々も詰めかけ、参加者は約100名となりました。

会場には、アフガニスターンの写真や、SORAの自立支援活動の一環として製作された手織りのカーペットなども展示され、大盛況でした。

[2004.12.17]




12月3日(金)、川崎市で『子どもたちの未来のために アフガン支援フォーラム −アフガンチャリティーバザールから1年−』が開催されました。

現在のアフガニスターンの状況、SORAの支援活動の様子など、督永が、アフガン報告を行いました。定員50名の会場が満席となり、活発な意見交換が行われました。

[2004.12.17]




11月27日(土)、さいたま市で『督永忠子 講演会−アフガニスタンとパキスタンは今』が開催されました。

----記事より----
アフガンに平和な未来を
SORA 督永 講演 際立つ貧しさ指摘

アフガニスタンは今、急速に復興が進む一方で、ケシ栽培の増加など新たな問題を抱えている―。パキスタンに二十三年間在住し、タリバン政権崩壊後のアフガンで難民支援を続けるSORA(アフガン難民を支える会)総括責任者の督永忠子さん(60)=がこのほど中央区内で、日亜友好会の彩の国国際貢献賞受賞記念の講演を行い、アフガンの現状を語った。イラクの陰で、日本国内での関心が薄くなりつつあるアフガン。督永さんは、子どもたちの平和な未来に目を向けてと、訴える。(平野照恵)
新たな問題生むケシ栽培

「小泉さんはイラクにきれいな水をと言っているが、アフガンには水すらない」。督永さんは、世界子供白書をもとに「改善された水源を利用する人」が日本では99.9%、パキスタンが90%なのに対し、アフガンは13%と、際立つ貧しさを指摘する。
そのアフガンでは今、都市部の人口が急増している。帰還難民に加え、隣国のパキスタンからの労働者が大量に流れ込んでいる。パキスタンでは、一日の日雇い労賃は二百円ぐらい。アフガンでは、その倍の賃金がとれるからだ。鉄筋、鋼材も税金で賄われ、安い。
今春からは、全国で子どもたちが小学校で学べるようになり、都市では生活物資も豊富になってきた。山村にも復興支援事業に伴う現金が徐々に流れている。
だが、問題点もある。土地代や家賃、野菜など物価が高騰。夫が亡くなり、働く場所のない女性らが貧困に苦しんでいる。
さらに、アヘンが復興を妨げている。かつては自給自足できたアフガンだが、今は現金収入が必要。タリバンが統制していた01年に二百トンだったアヘンが03年には、約五千トン。今年は、国民総生産の約60%がケシ栽培の金だといわれ、世界生産の約九割を占める。
国際連合世界食糧計画の支援で小麦がただで手に入るので、栽培可能な水を確保できるとケシを作る。NGOの灌漑用水路整備支援との悪循環も生まれている。また、アヘンの利益の一部が軍閥などに流れ、情勢を不安定にしているという。
アヘン中毒も深刻だ。小学生はもちろん、幼稚園児にまで及んでいる。母親が農作業など働く時に乳児の口にアヘンをちょっと塗って眠らせるので、次第に常習化する。
督永さんは、ケシに代わる換金作物の栽培や、日本でアフガンの物を売るなど現金収入の道があれば彼らもアヘンを作らないとして、彼ら自身の意欲につながる支援が必要性と呼びかけた。

2004年12月3日(金)
埼玉新聞

[2004.12.14]




11月27日(土)、さいたま市で『督永忠子 講演会−アフガニスタンとパキスタンは今』が開催されました。

2001年の9.11、そしてタリバン崩壊と世界中の注目を集めたアフガニスターン。あれから3年が経過しました。
2002年1月からパーキスターンとアフガニスターンを行き来し、アフガニスターンでの滞在が500日を超えた督永が見た、アフガニスターンそしてパーキスターンの今を直に聞くことができました。

[2004.12.12]




11月23日(火)、東京の目黒区中小企業センター5階会議室にて開催いたしました『督永忠子 講演会』には、多数の方々にご来場いただき、大盛況の内に終えることができました。

会場には、『アフガン難民を支える会−SORA』の活動内容を紹介する写真パネルを展示、休憩時間にはご来場くださった方々へお茶のサービスも実施し、大好評でした。
質疑応答では、緑化や地質の保湿に関する様々なご提案を専門家の方々からいただきました。また、若い方からも多くの活発なご発言、ご提案をいただき、有意義な時間を過ごすことができました。

[2004.12.09]



『2004カーブル事務所便り(23)』−by 督永忠子
アフガニスターンの人口、約2200万人。その85%が農山村に住み、農業に従事しているというから、自給自足が出来ていた30年前の状況に戻すべく、国際機関や一部のNGOが灌漑用水路などの整備に尽力している。しかし、農業用水が確保できると、まず換金可能な農作物というので、ケシが栽培されるという悪循環だけではなく、住民の(中には乳幼児も中毒にかかっている)多くもアヘン中毒にかかっている現実に、砂上の楼閣と知りつつ住民に対して痛み止めを中心とする医薬品の配布を行っている。
住民との約束通り、雪の来る前にとスタッフが現地へ行った。しかし、タジキスターンとの国境をなすイシカシム地区は既に雪。
イシカシム地区の司令官と、ハンドゥード地区の司令官へ医薬品を託して受け取りを貰って帰って来たとスタッフの報告を受けた。住民の95%は読み書きが出来ず、医者もいないハンドゥードでは、警察や軍隊が住民の健康管理にまで気を使って??いる。
畑で乾燥したケシ坊主…
帰路は、来春の植林に向け、苗木の確保にマザリシャリフまで足を延ばして来たとスタッフからの電話連絡で、断食中にもかかわらず、遠路は大変だったと思うが、来春の苗が確保できて良かった。

イラクでの邦人殺害、アフガンでの外国人拉致で、日本政府はアフガンへの日本人の入国、派遣を見合すと。当分は現地スタッフ中心の活動になりそうだ。

[2004.11.10]



『2004カーブル事務所便り(22)』−by 督永忠子
新聞によると、『アフガニスターンではタリバーンの1勢力によってカーブル市内から選挙監視関係者であった3人の外国人(英国人、フィリッピン人、コソボ人)が誘拐されています。彼らは約20日前から6人ほどを誘拐する予定であったそうですが、3人しか誘拐できなかったと。多国籍軍や国軍が治安維持にゾロゾロ巡回している小さなカーブルの市内で、国軍のユニフォームを着けた人間に車の停止を求められたら、何の疑問もなく止まるのが普通だし、ましてや平気で銃口を向けている人間の前では抵抗も出来ません。誘拐犯たちによると、「3人の処遇についてはシュラ(全体集会)で決定するが、アメリカの敵は我々の友人。アメリカの友人は我々の敵。アメリカに協力するものには容赦をしない』と。

日本大使館は一昨日、選挙も終わったので「もうよかろう」と、退避勧告を解除していたのですが、やっぱり危ないからアフガン入りを控えろ!と。

[2004.11.07]



『2004カーブル事務所便り(21)』−by 督永忠子
選挙が終わって2週間近くにもなろうとしているのに、まだまだ不安定要素がイッパイのアフガニスターン。普段なら、カーブルの事務所からパーキスターンの国境まで来る半日の道のりにも、スタッフたちは余裕をみて2日がかりでやって来た。

2004年の支援活動のほとんどは終了している。今月は、断食月で不便なのにもかかわらず、バダクシャーン(ワハーン)地方への巡回医療(薬の配布)と、来春の植林に備えて苗木の確保、ホラ村・チュラン村の小学校建設完了に伴うチェック、ダルカ村小学校の建設の進行報告、来春から建設するかもしれないぺトップなどの小学校についての意見の交換。また、年末までに完成させるカーペットの手配…と、超特急の打ち合わせを完了。
彼らは再びカーブルへ戻って行った。

たくさんのメモ書きと報告書、支援をして欲しいという申請書、契約書や領収書の類は次回に受け取ることにしたが、短時間で膨大な打ち合わせに齟齬があるようで少し心配…。

[2004.10.26]



10月9日〜11日の3日間に渡り、滋賀県彦根市のギャラリーいと〜にて写真展を開催いたしました。

----記事より----
アフガンの現状 支援活動知って
「アフガン難民を支える会」が写真展「アフガニスタン・パキスタン展」を「ギャラリーいと〜」で開いている。
再建が進むものの依然として情勢が不安定なアフガニスタンの現状を知ってもらおうと開催した。
地雷の撤去や文字の勉強といった支援活動や、世界遺産の仏教遺跡であるバーミヤン、首都カブールの荒廃した町並みなどが撮影されている。また、売上金を支援に充てるため、パキスタンのショールやポーチも販売している。

2004年10月10日(日)
京都新聞

[2004.10.26]



『2004カーブル事務所便り(20)』−by 督永忠子
10月の活動の打ち合わせをするべく、カーブルからローカル・スタッフたちを呼び寄せようと試みたが、選挙妨害を防ぐためか、アフガニスターン国内の幹線道路は封鎖され、携帯電話も使えない状況という。

最近のアフガニスターンで何が怖いかと言えば、何よりも携帯電話が怖い!通信事情が改良されて便利にはなったが、反対にそれは悪事にも簡単に使用できるわけで、携帯からの電波によって通過点が簡単に特定出来るようになった「誘拐」が怖い!と、心配が増えた。もちろんテロにも、自爆にも携帯電話は活躍していることと思う。カーブルにいるスタッフたちも緊張し、事務所に車輌を止めて置くのさえ「キケンだ!」と言い出した。「何かを放り込まれたらそれまでだ!」と。しかし、そんなことになったら何処にいても状況は変わらないだろうし、人間にさえ何もなければ良いと思う。

とにかく、選挙が終了し少し落ち着くまでは軽挙妄動を避けるつもり。

[2004.10.19]



『2004カーブル事務所便り(19)』−by 督永忠子
大統領選挙を控え、急速にアフガニスターンの治安は悪化、これ以上カーブルに留まるのは止めるべし!との結論で、たった一人残って頑張っていたJRU−PACカーブル事務所長に対しても「退避」命令を出した。「残務整理のために、せめて後1日…。」と、所長は粘ったが、その1日で取り返しが付かなかったらどうするのか??いったん「状況を怖い」と思いだしたら、イスラマバードにいても心配でならない。イスラマバードにいるからこそ、そう思うのかもしれないが。
国際機関で働く人や、知り合いたちも続々とカーブルからイスラマバードへ退避をして来ている。おかげで、イスラマバードでは高級ホテルの部屋が確保出来ないと。

とにかく、アフガニスターンの大統領選挙が終わるまでは、暫くパーキスターンで待機する。治安の回復を待って、活動を再開の予定。

[2004.10.10]




10月2日、3日の2日間に渡って、東京・日比谷公園で開催された『国際協力フェスティバル』に参加しました。今年は、国際協力50周年ということで、国際協力に携わる政府機関、国際協力市民団体(NGO)、国際機関、在京大使館など約200団体が参加しましたが、3日(日)は朝から雨に降られ、寒い1日となりました。

『アフガン難民を支える会−SORA』のブースでは、縫製学校、カーペット製作所の様子、植樹や学校建設などの活動写真を展示しました。

「ボランティアに興味があって…」という高校生、「海外で仕事がしてみたい…」という女の子、「今までずっと国際協力に携わっていました…」という年配の方などなど。多くの方々に出会い、そして私たちの活動にふれていただきました。

また会場では、カーペット作業所で作成された手織りカーペットやアフガニスターン・パーキスターンの小物も販売しました。

[2004.10.10]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(16)』−by 田城 薫
1週間前に、ダッシュトパッチという街にロケット弾が打ち込まれました。その街は貧しい街で、今までのように高級住宅街とか各国大使館、繁華街での事件とは傾向を異にしていて、攻撃は無差別的になってきています。選挙に協力するものすべてを対象範囲にしたとも取れる事態です。
8月28日には、東南部パクティア州の宗教学校で爆発があり、子ども9人を含む10人が亡くなりました。31日には、東部クナール州でタリバン掃討作戦と見られる米軍の空爆があり、民間人6人が死亡しました。

10月9日の大統領選を前にして、タリバンをはじめ選挙に反対するイスラム原理主義各派は、無差別な妨害活動を活発化させています。また、その中には選挙に反対する各派の印象を更に悪くするために謀略的に行われる爆発事件も数多く起きるでしょう。いずれにしても巻き沿いを食うのは、毎日を平穏に暮らせればそれで良いと願っている一般の人々です。

[2004.09.24]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(15)』−by 田城 薫
イスラマバードに戻りました。
カーブルで8月29日、5時過ぎに発生した爆弾テロとそれに付随して把握したいくつかの治安情報をもとに、「現在のカーブルは危険」と判断、イスラマバードへの緊急待避を決め、9月1日早朝、カーブルを後にし、陸路13時間をかけてイスラマバードに到着しました。

爆発は、カーブルの繁華街シャレナウにほど近いアメリカの民間警備会社の事務所の前で起き、アメリカ人2名、ネパール人3名、アフガン人2名が死亡、多くの負傷者が出ています。また、「遠隔操作により爆破させた」というタリバンからの犯行声明が出ていると報じられています。ちなみに、その警備会社は、アフガニスターンの警察官の訓練とカルザイ大統領の警護を請け負っている会社だそうです。この日は別の場所でも、もう一発の爆弾が事前に発見されるなど、危うく水際で惨事は食い止められています。スタッフのファリードは、事務所からの帰宅途中、現場を通り過ぎたあと、後ろからの爆風をもろに感じたということですが、間一髪セーフでした。私も、同日の午前中、支援のベッドの件でアリアバット国立病院へ行く途中、現場を通り過ぎているので、事件を聞いて背筋が寒くなりました。

[2004.09.17]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(14)』−by 田城 薫
朝5時半。私たちの事務所があるカーブルのサライ・ガズニー地区は、タクシーのけたたましいクラクションや荷車を引く馬車馬の蹄のリズミカルな音などが入り混じり、既に相当の活気を帯びています。事務所の向かいにある、恐らくカーブルで一番大きなハマーム(公衆浴場)も、多くの人々で賑わっています。

今日は、早朝から窓枠の完成日に合わせて注文しておいた小学校建設のための資材類を、各店を回ってトラックに一斉に積み込み、スルハバットに向かわせる日です。張り切って1番目のセメント店に行ったのですが、トラックドライバーから「家族が病気になった。11時からにしてほしい。」との電話が入り肩透かしを食ってしまいました。ここアフガニスターンでは良くある話で、結局、午後2時半ごろから夜7時くらいにかけて、積み込み作業をし、トラックは翌日の出発となりました。

嬉しかったのは、セメントの積み込み中に新たな大型トレーラーが到着。私たちの買ったそれと同じ銘柄のセメントを下ろし始めたとき、店主が、「昨日、アンタたちに売ったのは184Afにできたが、今日なら190Afにしかできなかったよ!」といってくれたこと。ラッキーです!建設資材も、日に日に値上がりしているのを、肌身で感じました。

[2004.09.09]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(13)』−by 田城 薫
85年前、アフガニスターンが、イギリスからの自由を取り戻した日を記念した熱い夏の3連休が終わり、やっと快適なカーブルに戻りました。というのも、この4〜5日、気温42〜44℃、湿度25%という日々が続き、お世辞にも快適…と言える気候ではなかったからです。

それに輪をかけるように、『季節はずれの凧』が飛んでいるので、なおさら不快指数は上がる一方です。
カーブルでは、『真夏の凧』は季節はずれではないのですが、『正月』か、少なくとも『寒い冬空に凧』がインプットされている私には、『42℃の夏空に凧』はどう見ても季節はずれの許せない凧なのです。ちなみに、カーガス・パタングと呼ばれるこの凧は、いわゆるビニール・カイトをイメージしていただけば良いでしょう。(ただし、アフガニスターンのものは紙製。)カーブルでは大流行で、無数に飛ぶ凧に向かって、のりか、モチ、たいらの3匹の番犬が、ひっきりなしに吼えているます。その喧しさも不快指数を上げているのかもしれません。

さて、今日、久しぶりに外出しました。
小学校建設の資材を調達するためです。セメントは、昨年1袋130〜150Afでしたが、今年は建設ラッシュのためか、170〜220Afに値上がりしていました。交渉役のラヒームが、「私たちは日本のNGOだが、政府や国連からの支援を得て活動しているわけではなく、日本の一般の人々からの寄付だけで活動している。小学校の建設に使う資材なのだから、できるだけ安くしてほしい。」と、なかなか胴に入った話振りです。
目当ては、1袋220Afの一番良質のセメントがいくらに下がるか。店を4〜5軒件回り、なかなか190Afを切らない中、最終的に184Afまで下げてくれた店で、130袋の購入を決定。他の資材も、逐次このような仕方で、良質のものを、できるだけ安く確保するよう努力しています。全部の資材が明日には揃う予定なので、朝5時起きして荷積みの監督をし、トラック1台を仕立て、スルハバット郡ホラ村に向けて走らせます。

[2004.09.05]



『2004カーブル事務所便り(18)』−by 督永忠子
こちらのモンスーンは明けたようですが、まだムシムシと暑い日が続いています。
それでも、昨夜は急に9時頃からピカピカゴロゴロ、大粒の雨がドッと降って来て風もゴウゴウ。
でも、もう1週間もしたら朝晩は確実に爽やかになるでしょう。

カーブルで使用中のカーペット枠は、150台以上が織り手の未亡人に渡り、すごく喜ばれています。
また、40台近くは、1年以内に枠代を支払うから貸して欲しい…と大変、意欲的だったので、現在、貸し出し中です。

[2004.09.05]




宮城県石巻市門脇小学校における『総合学習』で話をする機会がありました。
小学校では、国際理解教育について話をし、後半の30分ほどはアフガニスターンの話をさせていただきました。

子どもたちには、カーブルで織られたカーペットを見てもらったり、アフガニスターンの女性がかぶるブルカを実際にかぶってもらいました。

また、アフガニスターン現地の子どもたちが使っている教科書や、その子たちの書いた絵も見てもらいました。

日本の子どもたちは、目をキラキラとさせ、大変、興味深そうに見入っていました。質問もたくさん出て、笑顔あふれる楽しいひと時を過ごすことができました。

[2004.09.01]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(12)』−by 田城 薫
スルハバット郡で建設中の小学校の状況です。
ホラ村、チュラン村の小学校の建設は、順調に推移しています。懸案である屋根材の丸太も、この村ではスムースに提供され、どんどん建設が進んでいます。昨日、現地から要請のあった窓枠とドアを注文してきました。その完成には10日ほどかかりますが、その日に合わせてセメント、チュナ(石灰のようなセメントに混ぜる壁材)ガラスなどを調達し、一台のトラックを仕立てて、スルハバットに向かわせます。順調に行けば、9月末には完成の運びとなることでしょう。

ダルカ村小学校の状況は、丸太の問題が基本的に解決していません。あと約220本、屋根材の丸太が必要なのですが、村人は依然として値を崩そうとはしません。もちろん、この1校だけを考えれば払えない額ではありませんが、この先何校も造ることを前提にすると、高値安定相場はつくりたくありません。村人に、「彼らからは金儲けは無理だ」と思わせる状況を目指し、もう少し駆け引きをしてみます。

[2004.09.01]



『2004カーブル事務所便り(17)』−by 督永忠子
今月は随分とアフガニスターン中を走り回ったというか、なんというか、とにかくほとんどをアフガニスターンで過ごしてしまった。支援活動も大切だが『SORA』からは給料を貰っているわけでもなく、食費までを自前で出している強み??で、ありがたいことに比較的好き勝手をさせて貰っている。…ということで、WFP世界食糧機構からの(非公式だが)依頼によって、バダクシャーン州へリサーチに出掛けた。

出掛ける寸前の6月はじめには、国境なき医師団が5人、中国人道路建設者11人が殺害され、選挙人登録監視団の関係外国人が続けて殺害されたり、またパーキスターンとアフガニスターンの国境では苛烈なアル・カイーダ掃討作戦が続き、カンダハールでは日本人に対してテロ予告が出たので「日本人は退避せよ」という情報が飛び交い、在ア外国人は超要注意という状況に置かれていた。たまたま調査先のWFPの人とは現地情報の交換が出来ていたから、念のためにバダクシャーンの州都までは陸路での移動を避け、フライトすることにしたが、オバハンたちの調査に対する周囲の心配配は相当のようだった。
第一、SORAのスタッフであるアフガン人医者でさえ「恐怖」に腰が引けてしまい前々日になってから「バダクシャーンへは同行できない」と言い出した。「我々は年間を通していったい何ヶ月間活動するのか??その大切な活動日に同行出来なければ、アナタたちは事務所に必要ないことになる」というわけで、事務所規定に従い仕方なく解雇してしまったが、まったく…。

結局、現地へ同行してくれたのは大量の医薬品、その他、荷物を満載した車2台の運転手2名とレンタカー会社の親方、スタッフのファリードだけ。仕事には大いに差し障るが、急遽、代替が見つかるわけでもなく、首都警察庁から現地警察への指令書を文字通り握り締めて出発することになった。
州都のファイザバード空港では(滑走路があるだけ)、2日半前に先送りした車両2台と警察の護衛車が、オバハンの指示通り大半の手配を終えて既に待っていてくれ、幸先の良いスタートに気を良くしながら、まずはWFP世界食料機構の事務所へ向かった。

[2004.08.01]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(11)』−by 田城 薫
ホラ村のリーダーは、ナーセルという青年で28歳。彼の「何としても、この人たちを説得して小学校を建てるんだ!」と、私たちに訴えかけてくる眼差しは真剣そのものでした。彼はまた、ホラ村のリーダーであると同時に、建設中の小学校の教師のリーダーでもあります。
昨年、「あなたたちからビタミン剤を貰わなくても済むように、しっかりカレーズを掘って水を出し、たくさんの野菜を作るんだ!」と言って、他村が支援金なしではカレーズを掘らない中、支援金はいらない、道具のみを貸してくれと申し出て、立派なカレーズを完成させたのも彼です。

ダルカ村の小学校では、一部適正価格で購入済みの丸太を使って完成した4教室を使って、既に授業が行われていました。私たちは、教えていた5人程の先生に集まってもらい、「屋根材である丸太の価格を村人自身が高騰させている中で、予算に合わず、作業が中断している現状」を確認しました。そして、「まず、丸太を適正価格で村人自身が集めること」、「今後の予算の検討などは、丸太の問題さえクリアできれば、幾らでも話に乗ること」、「早く、屋根のある学校で子どもたちに勉強させてあげられるか否かは、あなたたち自身にかかっている」という、私たちの意志を伝え村を後にしました。
責任者のアヌワル校長が、カーブルに出ていて不在とのことでしたが、話は、すぐ校長に伝わるはずです。私たちは、どんな答えが聞けるのか、「期待通り」と「期待外れ」の両方の答えを心に準備しながら、ダルカ村の人々の来訪を待つことにしました。

[2004.08.01]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(10)』−by 田城 薫
午後3時半のカーブルの気温は40℃、湿度は20%…。熱線を遮るカーテンのお陰もあり、例によって室内は快適。若干湿度が高い状態は、白く濁った青空と前方のダルラマンの山々の稜線との区別がつきにくいことに現れています。それでも、室内でスチールの椅子に座ろうとすると、静電気が起きます。「夏に静電気」という組み合わせは、どうやら、まだ私の脳にインプットされていないようで、無警戒のうちに、「ピシッ」とやられてしまいます。

さて、今回は、SORAとJRU−PACが、スルハバット郡で取り組んでいる小学校建設について報告します。SORAの督永さん・米山さん、JRUの堀さん・私、そして、現地スタッフのファリード、ラヒームという、超にぎやかな布陣で、23日、24日とスルハバット郡タイラシャック村へ行ってきました。

中断している、ホラ村・チュラン村とダルカ村の2校の小学校建設の現状を把握し、彼らに前向きな姿勢の変化が見られれば、この秋の完成を目指し、一気に建設を進める決意で村に入りました。
ホラ村、チュラン村共同の小学校は、石積の外壁が3分の2ほど積み上がった状態で止まっていました。リーダーのムーサとナーセルが、「子どもたちのために、早く小学校を建てたい。できれば、エンジニア代としての賃金を、一般の村人が建設に関わった場合にも分けて良いか?」と問うてきたので、「契約で決まったお金の範囲内で、あなたたちがどう使おうと構わない。私たちが問題にしているのは、水増し申告などの不正のことだ」と答えました。その後、これから必要な資材、運搬費、エンジニア費などの概算を出してもらいました。私たちは、申告内容が適正と判断し工事を一気に進めるべく支援金の援助を約束しました。順調にいけば、10月末には竣工の運びとなりそうです。

[2004.07.28]



『2004カーブル事務所便り(16)』−by 督永忠子
アフガニスターンでも国連関係者やNGOのスタッフ、選挙人登録名簿の監視人、中国人11人の虐殺などと情勢不安の中で、皆さまからのご心配をよそに、アフガン最北地での調査は無事完了いたしました。
この2年半、支援活動の合間にアフガニスターンのアチコチを、比較対照するべく調査と称して走り廻って来ましたが、今回は今までとは違ったものの見方をしてしまいました。
私たちSORA/JRU−PACでも、大地を緑に戻すべく農業用水の確保ということで、今までに80余りのカレーズなどを掘っているのですが、大地を緑にするべく純粋な思いで努力する支援団体との思惑とは別に、水が確保出来た大地ではケシ栽培が盛んになって行く事実に愕然としています。小麦の作付けを上回るケシ栽培、WFP世界食料機構が小麦の支援をすればするほど、大地は小麦ではなくケシの花の妖艶な美しさに被われるのです。支援は本当に難しいと思いました。
幸いハザラ民族は(私の知る限りにおいて)ケシ栽培に手を染めてはおりませんが、ケシ(アヘン)に代わる現金収入の道を早急に作らない限り、パシュトーン族やタジク族の彼らはアヘンを生産し続けるこことでしょう。

詳しい報告は改めていたしますが、タジキスターンとの国境をなす川幅100m足らずのアムダリアの向こうから、ロシアの女性が気さくに手を振ってくれたり、ロシア、中国、パーキスターンに囲まれたグレート・ゲームの舞台の真ん中、玄奘やマルコ・ポーロがキャラバンした禁断の地ワハーン、パミールに足跡を印せたことは本当に幸運でした。とにかく毎朝3時半起床、夕方4時まで馬上、うち3日間は降雪、寒さと眠さに歯を食いしばり、久々に体力的にもキツイ2週間でしたが、とても充実していました。
多分、バダクシャン州都のファイザバードからパーキスターン国境へ抜けた外国人の記録としては、第一次世界大戦後初??の記録ではないかと、ワハーン研究の大御所に言われており、大いに気を良くしている次第です。

[2004.07.28]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(9)』−by 田城 薫
カーブルは、一昨日、昨日と夕立がありました。山向こうのカーブル中心街は、深い水たまりがてきるほど降りましたが、私たちの事務所のあるサライ・ガズニは、2日間とも土埃がたたない程度の、ほんのお湿りでした。けれども、本日は庭の芝生に水を撒かなくても良い程度に降ってくれました。3日連続の夕立です。事務所の前のカーブル川では、カラカラに干上がった川底に生えた僅かばかりの雑草に、大小のヒツジや山羊が群がり、我先にとその草をはんでいます。

アフガニスターンの大統領選挙及び議員選挙は、それぞれ10月9日と来年4月〜5月に延期されました。これで、当初6月の予定が9月になり、そして今回で3度目の延期となります。タリバン、ヘクマティアル派をはじめとしたイスラーム諸政党の選挙妨害が多発している中で、安全で公平な選挙は難しいというのが延期の主な理由です。では、大統領選だけなぜ10月9日と、僅か1ヶ月足らずの延期なのか。それまでに、公正な選挙は確保できるのか、疑問が出てきます。

[2004.07.25]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(8)』−by 田城 薫
午前11時、カーブルの日陰の気温は30℃、湿度15%です。
当然のように快晴で、アフガニスターンのTVに天気予報番組がないのもうなずけます。
午後には、日向の気温が40℃を超えるでしょうが、分厚い壁で造られた建物の中にいれば、土蔵の中のように快適です。もちろん、電気がないのでエアコンなど望むべくもありませんが、その必要もありません。

さて、現地スタッフから最近のカーブルを中心とした、アフガニスターン情勢を聞きました。
昨日も、ナーンを買って驚いたのですが、1ヵ月半前は1枚3アフガーニだったナーンが、現在は4アフガーニで、しかも一回り小ぶりになっていたのです。更にに1.5リットルのコーラが35アフガーニから40アフガーニに。ディーゼルエンジンの燃料である軽油が、1リットル15アフガーニから20アフガーニに。
「とにかく、何もかもが値上がりしている。我が家の家賃も、2500アフガーニから5000アフガーニに値上がりした。今、もっと安い家を探してる最中です。」とスタッフ。その上、「今の政府は、金持ちアフガン人と外国人のための政府だ!貧乏人は、タリバン政権時代の方が物価も安く、安定していて暮らしやすかったと感じている…。」とまくし立てていました。

*1アフガーニは約2円

[2004.07.22]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(7)』−by 田城 薫
7月5日にイスラマバードへ到着し、諸準備を済ませ、7月8日に空路カーブル入りしました。
現在、カーブルのSORA/JRU−PAC現地事務所に無事到着しました。

気持ちとしては、GTロードをドライブし陸路カーブル入りしながら、舗装工事が始められたか否か、途中の村や街の変化、湖の水の状態などをつぶさに観察したかったのですが、1週間程前にもGTロードの途中の街、ジャララバードの中心街で爆発があり死者が出ているということで、危険回避のため空路としました。

パーキスターンのイスラマバードは、7〜8月は雨も比較的多く、湿度が60〜70%と高いので、まるで日本の梅雨のようでした。(気温は、日本より5〜10℃は高い。)その上、飛行機のエアコンが故障していて、蒸し風呂のような機内でしたが、ひとたびカーブル空港に降り立つと、身体中の汗が一瞬のうちに蒸発し、気化熱も伴い、爽やかなことこの上ありません。

今回は、5月に、スルハバット郡の村人へ宛てた、『姿勢を正す手紙』のその後について、話し合いを持ちたいと考えています。また、来春のリンゴの木の接ぎ木に向けて、スタッフともども技術トレーニングを行う予定です。

[2004.07.18]



『2004カーブル事務所便り(15)』−by 督永忠子
カーブルでは水をやっても30cmくらいにしか伸びなかったヒマワリ。風船蔓も20cmにしか伸びなかったのが、イスラマバードでは大して水をやらなくても、伸びる伸びる。特にモンスーンに入ってからは、空気中の湿気を吸いあげて、アッという間に背丈まで伸びた。やっぱりアフガニスターンでの緑化は、乾燥に強い現地のモノを植えるという、当たり前のことを確認している。

今年は、カレーズ堀りのプロジェクトもなく、学校建設も一時的に休止とあって、他に何ぞプロジェクトを考えなくては…としているところに、バダクシャン州のWFP(世界食料機構)にいる知り合いから話があった。カーブルから北のバダクシャン地方は、中央アジアのタジキスターンと国境を接し、ハザラジャードと等しく貧しく辺鄙な地域だ。WFPで働くその人も言う。「結局、どこのNGOもカーブルのような大都会や、そこから近いところ、バーミアンのように有名なところでしか支援活動をしないのですヨ。本当に必要なところには支援が行き届かないのです」と。
バダクシャン地方の人は日本のNGOに来て欲しいといつも言うのですが、誰も来てくれなくって…という、その人の話にのって、巡回医療を兼ね現地調査へ行くことになった。ここ3年の経験から、一つの地域で馴れ合い的に支援活動をするのではなく、2〜3の地域を順繰りに巡るほうが村人の一方的な甘えを交わせると考えていただけに、渡りに船。

…ということで、6月28日からはバダクシャン地方へ巡回医療を兼ねて、現地調査に行ってきます。

[2004.06.27]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(6)』−by 田城 薫
昨日の午後、カーブルに戻って来るやいなや、雷雨に見舞われました。
一昨日のプレアフガーナ村でも雷雨に遭いました。スタッフに聞くと、同日のカーブルも雨だったということです。お陰で、庭の芝生の広がりにも勢いがあり、約1ヶ月前に植樹したリンゴの苗も完全に根を付けました。村の人々も、「冬の雪が少なかった分、今の雨は本当にありがたい…。」と顔をほころばせています。

プレアフガーナ村へ出かけた目的は、毎年、村人たちに植樹のための苗木を買い与えるのではなく、畑を借りて、私たちで苗木を増やしながら各村に植樹をし、緑を広げていくためです。
幸い12m×14mの土地を無料で貸してもよいという村人が現れ、カレーズもすぐ脇を流れているので、水やりも含め管理費だけで契約ができました。ここでリンゴや杏の苗木を育てる計画です。

[2004.06.23]



『2004カーブル事務所便り(14)』−by 督永忠子
イラクや北朝鮮のニュースの陰に隠れて、アフガニスターンのニュースが報道されないのは皆さまもご存知の通りですが、今朝のこちらの新聞によると、10日木曜日未明にクンドゥーズの南35kmのところで、中国人道路建設者がテント泊のところ約20人に襲われ、11人が死亡しています。

タリバーンによる犯行ではないとの声明が出され、クンドゥーズの司令官も「タリバーンではないと思う」と声明していますが、タリバーンの残党、アル・カイーダ、元首相のヘクマティヤールが関係しているものとみられています。
今年5月にパーキスターンのアラビア海に面したグワダール港、建設現場でも3人の中国人が殺され10人余りの人が負傷したのですが、そちらとの関連性の方がありそうだとのこと。

[2004.06.20]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(5)』−by 田城 薫
こんにちは。
曇りがちな今日のカーブルですが、それでも気温は33℃と日本の真夏の陽気です。しかし、家の中でパソコンに向かっていると、足の方が少し冷える感じがして、靴下をはいたところです。湿度が低いということがこれほど過ごしやすいと、梅雨の日本が思いやられます。

さて、今回、電気もない、燃料も未だに薪が主力のアフガニスターンで、そういう物を一切使わず煮炊きができないかと督永さんが目を付けた、ソーラークッカーという物をこしらえ実験してみました。
日本では、足利工業大学の教授にご指導いただき、写真も撮影してきたのですが、不器用な私には材料を揃えるのが精一杯。
作ったのは、SORAの櫻井くんです。督永さんが実験したところ、お米がふっくら炊けました。それに気をよくして、翌日、私がルビャーという豆を煮てみたところ、10時にセットし、15時半に約5時間半かけて、煮豆が柔らかく炊きあがりました。記録を取るため30分ごとに水温を測ることにより熱気が逃げているので、手をつけなければ30分から1時間は早くなる可能性があります。ちなみに、最高89℃を記録しました。

忙しい日本では、4〜5時間もかかると実用には耐えられないでしょうが、アフガンの家庭の主婦にはたくさんの時間があります。おまけに、薪やガスは高価格ですが、アフガニスターンには無料で手に入る太陽の光が溢れています。ということで、実験結果は完全に実用の範囲内。材料の確保や細部の煮詰めを進め、是非広めていきたいと思います。

[2004.06.20]



5月29日(土)、30日(日)の2日間に渡り、京都市の『ギャラリー・スペース4U』にて、写真展を開催いたしました。

----記事より----
アフガンの今 知って−戦争の傷跡色濃く

アフガニスタンの復興状況を伝えようと「アフガン難民を支える会」が29日、写真展を開く。現地の戦争未亡人らが手織りしたカーペットやお菓子も販売し、収益を復興支援に役立てる。
同会はカブールなどで小学校の建設や、巡回医療などを行っている。写真は昨夏に現地を訪れたメンバーが撮影した約180枚を展示する。
学校で学ぶ子どもたちや、市場がにぎわう様子などを撮影。地雷撤去作業の場面をとらえた写真もあり、復興したように見えても、戦争の傷跡がまだ色濃く残っていることが分かる。


2004年4月21日(水)
京都新聞

[2004.06.17]



『2004カーブル事務所便り(13)』−by 督永忠子

3−4日前には雲が多く、夜になると風と雷が酷かった。
でも、その風で雲がちぎれ空気が澄んで、本日も快晴。

ソーラークッカーにすっかり嵌まって、光線具合をチェック、ご飯を炊き、豆を煮て、昨日は日本風のカレーも出来ました。スタッフは、目をキラキラさせながら温度チェックなどをしています。グツグツ沸騰している時は、95℃になっています。

アルミ箔を張っただけのものですが、まったく太陽の力は凄いです。
ソーラークッカーで料理中!

[2004.06.17]



・・・・・村人へ宛てた手紙・・・・・
ギル地区およびペトップ地区の皆さんへ

アッサラーム・ア・ライクム

皆さん、お元気のことと思います。
私たちは、SORAとJRU−PACです。
あなた方と出会い、支援活動をはじめて3年目に入りました。
過去2年間、何らかのトラブルが起き、カレーズ支援や学校建設支援が中断してしまっていることを、大変残念に思っています。

共通している問題は、「不正」です。カレーズで5人しか働いていないところ15人と申請し、不正に10人分も多くの小麦やお金を受け取っていたこともあります。学校づくりでは、丸太の値段1本250AFから300AFといっていたのが翌日には600AFから700AFにつり上がったこともあります。トラックで石を運ぶのにも「不正」がありました。エンジニアの人数を誤魔化して、多くの人件費を不正に受け取るということも起きました。またカレーズ掘りの人件費がでないというので、私たちの貸した道具を勝手に雇った人にあげてしまったと今回マンドリアの集会で聞き、大変残念でした。

ご承知のとおり、私たちは日本政府からも国連からも、支援金の援助を受けていません。日本に住む決して裕福ではない私たちの友人が「アフガニスターンの平和」を心から祈り、願いをこめて集められたお金です。だから、私たちはそのお金が不正に使われると怒りを憶えます。

今、私たちは、あなた方を信頼できる状態ではありません。しかし、まだまだチャンスはあります。現在、お貸ししているカレーズ掘りの道具が、今だに返ってきていません。その道具を、すべての村から戻すことです。それが実現できれば、クリニックについても、学校についても、カレーズについても話し合いの余地はあります。努力してください。

なぜ、私たちは道具にこだわるのか。それは、約束を守らないまま、新しいプロジェクトをはじめても、また、同じような不正が必ず起きるからです。その時は、本当に終わりです。私たちは、あなた方が良い村をつくるための努力をするなら、まだまだお手伝いするでしょう。
どうか、頑張ってください。良い連絡を待っています。

2004年5月
SORA督永 忠子/JRU−PAC 田城 薫

[2004.06.14]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(4)』−by 田城 薫
今年は、よく雨が降ります。ペトップ村に滞在している間も、雷が鳴り雹まで降りました。4000mを越える山々は、滞在した3日の間に雪化粧を濃くしました。
カレーズ掘りの要否について、村人に集まってもらい話し合いを持ちましたが、春先の雨が多いせいか、一昨年のようなひっ迫した様子は感じられず、「支援してくれるなら、掘るか…。」といった態度でした。おまけに、昨年、私たちが不正へのペナルティーとして支援金を出さないということと引き替えに、カレーズ掘りの道具を雇っていた人夫にあげてしまったというではありませんか。これでは信頼関係は0です。私たちは、信頼回復のために村人が努力することを求め、彼らへ宛てた手紙を出すことにし、あまり利害の絡まない緑化支援以外は、プロジェクトを見合わせることとしました。

というわけで、今年もアフガン支援は波乱の幕開けとなりました。しかし、アフガニスターンは、農業を基盤に生きていくしかない国であることに違いありません。しっかりと腰を据えて、地道に支援していくこととします。

[2004.06.14]



『2004カーブル事務所便り(12)』−by 督永忠子
今年は、カーブルの農業試験場で苗を買わず、ウナイ峠2時間手前のジャレーズというところで苗木を求めました。ここは私たちの注文通り苗1本ずつを土と一緒にナイロンの袋で包んでくれたので、活着率は抜群です。接木の技術もあるので、彼らが現地へ指導に行ってくれるのが一番なのですが、ハザラ族の地域にパシュトーン族は行きたがりませんし、ハザラ族もパシュトーン族が来ることを望みません。
ギルギットでは50円の苗が、アフガニスターンでは200円と高くなりました。農業試験場の苗木は、土を付けて売ってくれず、根っこがむき出しなので、そんな苗木を山へ持って行っても根付くわけがありません。そこで、苗木も買うが、苗作りも自分たちで…と、考えるようになりました。
苗作りの指導、接木、挿し木の指導をするために小さな土地を借ります。現地は標高が2600mくらいのヘルマンド河沿いの日当たりが良い集落で、プレアフガーナという村を予定しています。

[2004.06.01]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(3)』−by 田城 薫

2泊3日でぺトップへ行って来ました。
途中、りんごの木100本をジャレーズで買い求め、ペトップの小学校を訪ねました。小学校は、ヘルマンド川沿いの谷間に広がるダニクールという村にあり、その川岸の運動場に50本程の苗木を植樹し、残りは、マンドリア村に託しました。
植樹は、村人に穴を掘ってもらい、そこへ子どもたちが自分たちで一本、一本植えました。「みんな、水をたくさんあげて、大切に育ててヨ!」と言うと、子どもたちは「バレ(ハイ)」と楽しそうに大きく頷いてくれました。その嬉しそうな笑顔は、アフガニスターンでの支援活動の大変さを忘れさせ、新たな活力を与えてくれます。本当に幸せな一瞬です!
10日程前にも、ローカルスタッフが先行して1000本の苗木を植樹しました。これで、1100本をぺトップに植樹したことになります。
子どもたちが楽しく植樹

[2004.05.31]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(2)』−by 田城 薫
カーブルの街を行く人々の顔が柔和になり、昨年までのバザールの人ごみがかもし出す殺気にも似た雰囲気は、微塵にも感じられなくなりました。ブルカを脱いでいる女性も3割くらい見られ、半年前より2割ほど増えた気がします。大勢の女の子が黒い制服と真っ白なチャーダルを身にまとい集団登校する風景は、東南部のパシュトゥーン・ベルトでの戦闘状態をよそに、「平和なカーブル」を象徴しているような光景です。

先日、空港へ行った時にも、今まで厳しかった空港手前の2重検問もフリーパス。建物へ入る時の厳しいボディチェックも全くなく、チェックされるこちらの方が「これで大丈夫なのか?」と思ったほどでした。

いい意味でも、悪い意味でも、今のカーブルの街はあらゆる意味で緩んでいるようです。

[2004.05.25]



4月23日(金)〜25日(日)まで、滋賀県彦根市の『ギャラリーいと〜』にて、写真展『アフガンの今』を開催いたしました。

----記事より----
アフガンの姿 克明に−彦根で写真展

NGOのアフガン難民を支える会の渡邊弘俊さんの写真展「アフガンの今」が23日から夢京橋キャッスルロードの『ギャラリーいと〜』で始まる。渡邊さんは昨年3月から約3ヶ月間、同会の支援活動の一環でアフガニスタンを訪問。撮影した1000枚以上の写真で帰国後、市内で写真展を開催してきた。今回は大小約70点の出展作品の半数が世界遺産の仏教遺跡バーミヤン。崩壊前後の大仏立像や、石くつ内部などから破壊の様子を克明にとらえている。このほか、バーミヤンから首都カーブルまでの道路に放置されたままの戦車、地雷の撤去作業、同会の巡回医療や識字教室などの場面も並べる。

民族衣装約10点も登場する。

渡邊さんは「見てくれた人が平和を考えるきっかけになれば。できれば学校も回って若い人へのPRもしたい」と話している。

2004年4月21日(水)
京都新聞

[2004.05.22]



『JRU−PACカーブル事務所長からのメール(1)』−by 田城 薫

緑化プロジェクトを進めるため、昨年もお世話になった農業省農業試験場へ出かけました。
農業試験場は、カーブル市のカルガーという所にあるのですが、そこまでの行き帰りに見た建設ラッシュの凄さといったらありません。お城のように大きな住宅の建設から巨大なビルの建設まで、大小様々な建物がポプラの木材、レンガ、砂などの建材の山に囲まれていました。それにしても、5階建て幅100mはあろうかというビルの鉄筋の細いこと!本数も少なく、手抜き工事というレベルにもならないくらいで、不安になりました。
アフガニスターンでの内戦を避けて海外で暮らしていた国民が、大金を持って帰国し大きなビルを建てたり、土地を相場の5倍の値段で買ったり。現在のカーブルは、建設バブルと言っても良い状態です。そのお金が回りまわって一般市民にも行き渡り、カーブルのバザールはどんどん郊外に広がっています。

SORA/JRU−PACの事務所も、1年前はハザラ・バザールの外れの寂しい場所でしたが、今では西のコテサンギ・バザールと繋がって、「街の真ん中」といった趣です。
建設中のビル

[2004.05.18]



『2004カーブル事務所便り(11)』−by 督永忠子
GWも終り、日本は匂うような若葉につつまれていることと存じます。

アフガニスターンも低地部のジャララバードなどでは麦刈りが終り、スイカやメロンが大きく葉を伸ばしていましたが、今回行って来たプロジェクト・サイトでは連日のように雷とともに雹や霙に見まわれ、村を取り巻く4000mの山々は3日間で雪線を低く下げました。首都カーブルも午後になると厚い雲におおわれますし、今年初めに心配したような旱魃の様子は少しばかり影を薄めました。とにかくこの春先からは雨や雪が多く、この分では山村でも小麦が順調に発芽し生育期を迎えられそうです。

2002年1月からアフガニスターンへ通うこと24回、計400日間の定点観測からこの春に見たものは、アフガンが確実に復興しているということです。世界各国からの復興支援金の多くが目に見える形で使われていると断言するには至りませんが、流れ込んでいる支援金と個人ベースでの再建に使われるお金が、確実に末端まで流れ初めていることを今回は何度か感じました。
また、農村部でもパーキスターンやイランからの帰国民が定着、小麦の作付け面積が2002年春の2倍、多いところでは3倍にもなり、雨や雪が降るせいで帰国当初のような切迫した生きるためのガッツが感じられません。村人から受ける「私たちの村のためにどんな支援をしてくれるのか?」というギラギラするような期待感も感じられなくなりました。
支援してくれるのは嬉しい、カレーズも掘ってくれるのなら嬉しい、カレーズ掘りのための支援金をくれるのなら「掘ってもいいが…」という、あなた任せの態度が見え隠れするようになり、生活が成り立って来たことを確信させました。プロジェクト・サイトへの道中でも、新しい自転車を積んだハイエースが次々と土ぼこりを舞い上げて走り去りますし、子どもたちも新しい自転車にまたがり並んで楽しそうに走って行きます。女の子が学校へ通う姿も格段に増え、ほぼ全員の制服がパリッとした新しいものに変わりました。

首都カーブルでは希望する子どもたちの全員が学校へ通えるようになり、『アフガン難民を支える会−SORA』の、生徒向け識字教室も不要になってきました。また、カーペット・プロジェクトも、作業所へ通うのを嫌がる未亡人が増えたため、これについても閉鎖を決め、当初の計画通り未亡人宅へカーペット枠を無料で貸し出すシステムへと今冬、変更。したがって、デダナにあったカーペット製作所兼識字教室は、賃貸契約が切れた5月5日をもって閉鎖としました。ただ、タリバーン時代に学校へ通えなかった16歳以上を対象とした、成人女性向けの識字教室は市内に3ヶ所残しています。

[2004.05.15]



北海道余市町立東中学校の皆さまへのご報告
…昨年11月下旬、北海道余市町 (札幌から約55Kmほど西にある、海に面した町) の中学校の生徒さんたちが、『総合研究発表』の一環として、『余市と水産業』というテーマから「余市で獲れる魚で料理を作ってアフガニスタンの人たちを支えよう」とアフガニスターンの人たちのためにレシピを作られ、事務局にお送りいただきました。(詳しくは、「北海道余市町立東中学校の総合研究発表会」をご覧ください。)

アフガニスターンには海がありませんので、魚を使ったレシピには少々無理がありましたが、この程カーブルの督永(現地責任者)より、下記報告がありました。
昨夕ペトップから帰って来ました。
北海道余市中学校の生徒さんが自分たちで考えたレシピについて…。

<カーブルにて>
カーブルは標高が1800m、水の沸点が85℃程度にしかなりませんので、茹でたスパゲッティには芯が残ります。茹で時間を長くしても、麺が溶けるだけで美味しくゆだりません。オリーブ油は一般庶民には高峰の花、欧米から帰って来た新興のお金持ちなら購入できますが、一瓶(缶)が気軽に買える人はアフガニスターンにはありません。また、一番近い海からでも1000Kmも離れていますので、一般市民で海産物を食べた人はありませんし、バザール(市場)にも売っていません。
また、首都とはいえ電気のある地域は僅かですから、冷蔵庫を備えている個人住宅は皆無と思われます。冷蔵庫を備えているのは、国際機関、大きなNGOなどと、病院だけと思われます。ちなみに、私たちSORAの事務所にも電気はありませんし、冷蔵庫もありません。
スパゲティ(100g) 14アフガニー(約30円)
オリーブ油(大さじ1と半) 20アフガニー(約45円)
塩こんぶ(5g程度)
赤唐辛子、塩
<スルハバット郡ペトップ地区(タイラシャック地区の対岸)にて>
カーブルから200km西、ジープで8〜10時間かかる地域で、標高は約3000mもあります。ここでの水の沸点は70℃くらいです。
長時間スパゲッティを茹でることによって、麺はどろどろに溶けてしまいました。
なお、海から遠くて、生の鰯(魚)などは一切手に入りません。
畑では小麦と家畜のための牧草を栽培するだけですから、トマトやネギなどの生野菜は、カーブルへ行った時にしか手に入れることはできませんが、現金収入の途がありませんから、お金を出して野菜を買うことなどは不可能です。
何処にでもありそうな玉ねぎですら村では超貴重品で、村長宅のお呼ばれの時に、客人に対して16分の1かけらが供されるだけです。
都市生活者は工事現場などで働き、現金収入がありますが、山村で農作業に従事する者は小麦などを作り、自給自足の生活を営んでいます。そういう人はアフガニスターンの70%くらいかと思われます。
また、アフガニスターンの人々はイスラーム教徒で、彼らには酒を飲む(使う)習慣はありませんし、豆板醤や味醂などの輸入品は首都の大きな店でも見かけることはありません。さらに、生姜を売っているのさえ、このカーブルでは見かけたことがありません。セロリやパセリも見かけません。よって、このレシピも実現しておりません。

それでは村人は何を食べているのでしょうか?
朝、昼、夕食ともにナーンと緑茶だけです。そのナーンも燃料となるものがないため、1週間に1度まとめて焼くだけですから、モノを茹でるというような贅沢な生活は許されていません。
一般のアフガニスターン人(カーブルで生活する人)の食事
朝、昼 ナーン1枚(3アフガニー約6.5円)と緑茶のみ
ナーン1枚(3アフガニー約6.5円)と何かの野菜、または豆の塩茹スープ
*アフガニスターンでの公務員の給料は、3300円〜7700円です。ただし、小麦・油・砂糖などは現物支給される。

[2004.05.15]



『2004カーブル事務所便り(10)』−by 督永忠子
今年からの新しい取り組みで、「ソーラークッカー」のテスト品を櫻井さんが作成してくれました。
事務所のスタッフたちも興味を凄く持っていました。
本日はバスマティ米(細長い米)が香り高く、凄く美味しく炊けました!!

取りあえず、スタッフたちの家から普及させます。
まだまだ改良の余地はありますが、燃料になるモノもないアフガンでは素晴らしい(画期的な)クッカーです。

[2004.05.12]



『2004カーブル事務所便り(9)』−by 督永忠子
2年間お世話になったデダナのカーペット(識字教室)プロジェクトも、いよいよ閉鎖。
既にカーペットもなくガラーンと空いてしまった各部屋、教室を眺めて淋しい気持ちになっています。一時は300人を超す生徒たちで溢れていた3教室、カーペットを織っていた母親と子どもたちや女子生徒のはにかんだ顔、中学生たちの賑やかな顔が浮かびます。
庭でバレーボールをしたり、渡邊さん(SORA運営委員)の指導で少林寺拳法を真似てみたり、粘土団子を丸めたり、粘土団子や草花の種を蒔くための畑作り…など、また、子どもたちに対しては「日本からのお客さまに対しては挨拶を!」、「物を欲しいとねだるのは乞食と一緒だ」と怒ったり。
思い出して見ると僅か2年のプロジェクトにも多くの想いがありました。

きょうは櫻井さん(SORA運営委員)もカーブルに到着ですから、午後からはデダナの片づけに行って来ます。こんなに淋しい気持ちになるとは自分でも以外でした。

[2004.05.09]



『2004カーブル事務所便り(8)』−by 督永忠子
5月2日(日)、「一昨日のカーブルはマイナス気温になった」との、AIR SERVE(セスナ機)事務所の人たちの話しに聞き耳をたてながら、僅か1時間ほどのフライトでカーブルに戻ってきました。

たった1ヶ月前に比べても、またまたきれいな車の数は増えていると感じられ、野外バザールで売られている中古品の服も小綺麗で、白いものは白く、小ざっぱりしたものばかり。カーブルの生活は、確実に向上してきていて喜ばしい限りですが、それでもイラクの生活水準に比べると、比較にならないくらいに貧しいのは確か。上空から眺めたカーブル市、そしてその近郊では2年前、1年前と比較して明らかに緑の広がりが倍以上になっていました。

スタッフに任せておいたリンゴと杏の苗木1000本は、無事、彼らの手によって植林が終了、ペトップ村の人々にも感謝されようです。今回の調査の結果、ペトップ村の世帯数や村々の希望などが出揃ったので、数日後には村へ行き、全体会議を持ちたいと考えています。また、足りなかった苗木100本も追加の予定です。

[2004.05.05]



『2004カーブル事務所便り(7)』−by 督永忠子
パーキスターン政府からの通達です。
アフガン難民を支える会−SORAの登録に際し、今年度はパ政府の方から通達を受けました。
今後、パーキスターン政府はアフガン難民が国内に留まるのを認めない、したがってパーキスターンにはアフガン難民が居なくなるので来年度からは再登録が認められないと。2004年7月(パーキスターン会計新年度)からの再登録は完了しましたが、パーキスターン国内での難民支援活動も無くなりましたし、当地での登録は不要ですネ。
アフガン国内での登録が継続出来ていれば良しとしましょうか!

[2004.04.25]



『2004カーブル事務所便り(6)』−by 督永忠子
昨夕、イスラマバードへの帰着と同時に、イラクでの3人解放と、さらに2人の誘拐を知りました。後から誘拐された2人のうち1人は911以来の知り合いで、新聞社の枠内での取材に飽き足らず、フリーとなった勇気ある友人です。彼らの無事を祈るとともに、皆様のご心配をよそに、現地での活動を優先したため、「可及的速やかにアフガンを離れて欲しい」という指示に、若干遅れましたが、ともかく無事にイスラマバードまでは帰って来ておりますので、ご安心下さい。
春先は1年間の活動予定の始まりでもあり、植林のように季節的なものもあって、今でなければ間に合わないこと多々でした。

3ヶ月ぶりのカーブル市内は、生活全般に落ち着きが見られ、以前の沸騰するような(他人を押しのけ、掻き分け)利あるものに押し寄せるといった風潮が静まっていました。多分に生活のメドもつき、実際問題として個人のポケットに流れ込むお金が増え、生活が向上していることの表れなのでしょう。

…とりあえず、無事イスラマへの帰着連絡まで。次回は5月1日にはカーブルへ戻る予定です。

[2004.04.19]



『2004カーブル事務所便り(5)』−by 督永忠子
イラクでの誘拐事件で、カーブルから一時待避するようにと指示が来ていますが、春先で一番忙しい時なので、まだイスラマバードにも戻らず、モタモタ?しています。

本日は農業試験場からリンゴや杏などの苗を選んで来ました。明日からパッキングを開始し、16日にはスルハバットへ運び上げる予定でいます。植林と巡回医療は現地スタッフたちに任せ、私たちは一旦イスラマバードへ戻ります。
5月1日からは、2004年のカレーズ掘りが始まりますので、その頃にはまた、カーブルへ戻って来る予定です。デダナのカーペット工場は、5月10日に閉めますが、縫製教室は1つ増えますし、デダナの引っ越しもあって、5月は当分カーブルにいることになりそうです。

[2004.04.14]



『2004カーブル事務所便り(4)』−by 督永忠子
ご無沙汰いたしておりました。
早や4月も1週間が過ぎようとしています。日本と同じくカーブルでも花は2週間以上も早く、カーブル市内を取り巻く山々にも残雪が少なく、今年は暑い夏を迎えそうな予感があります。
イラクでの占領軍に対するような過剰反応は、当地ではまだ見られず、タリバーン政権の崩壊から2年半、人心には落ち着きさえも見られるようになっています。今年で3度目の春をカーブルで迎えるのですが、ここ2年間ばかり感じた、沸騰するような人間の熱気も感じられず、人々の顔つきが人間らしくなったように思えます。
戦闘状態ではない普通の市民生活、「平和」という私たち日本人にとっては当たり前の日常生活がもたらすものの大きさ、その価値をここカーブルで再確認をしています。

[2004.04.10]




3月16日(火)、神奈川県川崎市で『アフガニスタン講演会』が開催されました。

『Women's Empowerment 21ジャパン・さいわい』の主催で開催された講演会には、30名ほどの方々がご参加くださり、督永忠子による現地活動報告の後、WE21の皆さま手作りのお料理をいただきながらの質疑応答と、とても和やかな会となりました。

[2004.03.29]



3月13日(土)、東京の目黒区中小企業センターホールにて開催いたしました『督永忠子 春の活動報告会』には、80名を越える方々にご来場いただき、大盛況の内に終えることができました。「このようなお話は聞く機会がなかったので、とても有意義でした」とは、ご参加くださった方のご感想です。質疑応答も活発に行われ、楽しいひと時を過ごすことができました。
当日は、会場に写真パネルやカーペットも展示いたしましたが、たくさんの方々が熱心にご覧くださいました。

[2004.03.16]




アフガン難民を支える会の統括責任者 督永忠子が、3月5日(金)予定通り成田に到着いたしました。

3月6日(土)には、日本婦人団体連合会主催で、『アフガニスタンはいま』と題した講演会が開催され、現在のアフガニスターンの治安状況、復興支援の様子、SORAの自立支援活動の様子など、アフガニスターンの人たちの目線で見た、リアルタイムな話を聞くことができました。
50人ほどの方がご参加され、活発な意見交換が行われました。

[2004.03.09]



『2004カーブル事務所便り(3)』−by 督永忠子
またまた昨日から雨、カーブルも大雪とのことで電話の回線コンディションは最悪、電話は終日、まったくかからず非能率的なこと甚だしい。

『アフガニスターンで武器庫が爆発、米兵9人が亡くなった』と日本でも報道されている模様だが、アフガンのニュースはイラクのニュースに隠れて最近は本当に少ない。しかし、28日にも、カーブル市内の南部にあるSORA事務所から近い、王宮通りではカナダ軍の車列に自爆テロの車が突っ込み、カナダ兵1人が亡くなっているし、パーキスターンとアフガニスターン国境沿いの山々では、アルカイダやタリバーン掃討と称して空爆が休むことなく続いている。いつも書いているように、タリバーンと称する人々は日々、イスラーム教を学ぶ中から際限もなく生まれて行くが、タリバーンの全員が外国軍やその組織されたものに対して害なすものではない。
むしろアメリカなどの外国軍が、アフガニスターンに対して理不尽な空爆や掃討作戦なるものを続けるから、彼らの一部はますます反発し、戦わざるを得ないのだ。この「鬼ごっこ」をアメリカ自体が生み出しているのは今や、誰が見ても自明だ。

[2004.02.01]



『2004カーブル事務所便り(2)』−by 督永忠子
昨日もカーブル市内では4発のロケット弾が炸裂。ローヤ・ジルガ会場とSORAの事務所の中間にロケット弾は落ち(2kmほど離れている)、タリバーンから犯行声明が出ている。この1週間に市内で見つかったロケット弾は94個。
パーキスターン国境からジャララバードの間では、地雷撤去グループの車が3台撃たれた。ローヤ・ジルガが終わっても危険は去らないようだ。国連を中心とする外国人団体、カーブルのJICA事務所にも2週間ほど前に自爆テロ予告が出、当面はローカル・スタッフだけによる運営を余儀なくされそう。

12月初旬、SORA事務所にも盗賊が押し入りかけたが(高塀の上から飛び降りたところ)、3匹の犬とガードマンに撃退?された。以来、事務所は、昼3名、夜2名づつの体制で、保安に務めている。

[2004.01.20]



『2004カーブル事務所便り(1)』−by 督永忠子(アフガニスターン現地責任者)
2004年が明けました。
こんなご時世ですから、手放しで「メデタイ」とも言えず…ですが、2004年の活動には更なる努力をいたしたいと存じます。
活動に際しましては、皆々さまからのご支援を本当に感謝申し上げております。

アフガンの情勢は、まだまだ混沌としておりますけれども、地方での活動につきましては予定通り果樹の植林から手をつけるつもりでおります。カーブル市内のプロジェクトにつきましては、カーペットを製作するための場所を独自に設ける、或いは設けない、を4月までに検討し、決めたいと考えております。

なお、督永は3月1日〜15日まで、日本に滞在予定でいます。この間に、アフガニスターンでの『活動報告会』などを希望されます方は、ご希望の日時をお早めにお知らせください。時間のある限り何処へでも参上いたしたいと存じます。

[2004.01.09]


活動報告2001(2001年11月活動開始〜12月31日)
活動報告2002(2002年01月01日〜12月31日)

活動報告2003(2003年01月01日〜12月31日)
活動報告2005(2005年01月01日〜12月31日)
活動報告2006(2006年01月01日〜12月31日)
活動報告2007(2007年01月01日〜 )