面影探訪記


永井尚政と興聖寺、淀城ほか 豊蔵坊信海ゆかりの地を歩く  一本亭芙蓉花の墓  栗柯亭木端の墓  玉雲斎貞右の墓 
 仙菓亭嘉栗の墓 鯛屋貞柳の墓  由縁斎鯛屋貞柳植柳跡地   蝙蝠軒魚丸の墓  半井卜養の墓 
豊蔵坊信海の墓   揚果亭栗毬の墓  一本亭芙蓉花建立貞柳追善碑   永田貞因の墓(紀海音の墓)  永井走帆の墓
 渓月庵宵眠の墓 念声寺の貞柳追善碑   藤本由己の墓 岡西惟中の墓   芥川貞佐建立油煙斎碑銘  
 西山宗因の故郷(熊本城下篇)   西山宗因の故郷(八代城下篇)  西山宗因と京都(牢人生活) 柏木遊泉の墓  夫木和歌抄の里、牧之原~清浄寺篇
夫木和歌抄の里、牧之原~勝間田城址篇   糟谷磯丸行(1/2)  糟谷磯丸行(2/2)     


対     象 探  訪  場  所  及  び  写  真  ほ  か
永井尚政と興聖寺、淀城ほか
(2015.6.16)
  
 YouTube講座の第23回「豊蔵坊信海~永井尚政と『狂歌旅枕 上』~」を投稿した。以下のとおりである。朝食後、取材に出る。昼食抜き、歩数は17219歩だった。
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京阪の宇治駅下車、永井尚政が再興した興聖寺に向かう。右が宇治川、対岸に平等院がある。
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山門に1648年(慶安元年)建立とある。辞書辞典は1649年が圧倒的に多い。万安英種を迎えて中興とし五世住職に据えたのが1648年、建物の完成が1649年なのだろう。寺としては前者に意味を置いたのだろう。
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琴坂。
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龍宮門。
 
ここまでが観光的はセールスポイントだろう。
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いちばん奥、階段を上ったところにある開基塔(平面図)を拝見する。上部の右から左に「永井月丹居士石表辞」と読める(多分そうだろう)。「月丹」は永井直勝(1563~1625)、永井尚政の父親である。下の漢文の左下段つまり署名相当部に一部剥落しているが慶安二年(1649年)と永井信濃守が読める。父親の伝記のようである。あと大きな墓であろう、並んでいたが誰のものか不明、家紋らしきものも永井のものではなかった。
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開基塔から寺を俯瞰する。400年以上にわたって廃絶になっていた寺を再興したのである。もう少し永井尚政を顕彰する案内板等がほしかった。
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京阪の丹波橋で下車、タクシーで伏見区下鳥羽城ノ越町の恋塚寺に向かう。茅葺きの門を除くと立ち並ぶ民家の一軒である。
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ゆるい階段を下りていくとあった。民家の庭に無断で入り込んだような感じである。
 恋塚寺は、怪僧と呼ばれた文覚が、恋した袈裟御前の菩提を弔うために建立したと伝えられている浄土宗の寺院。→京都:恋塚寺~袈裟御前の菩提寺~ (yoritomo-japan.com)
 
袈裟御前の墓。
*こひづかのゆらひくはしくをしへぬるきつねはきつねさてもとうとや(永井尚政)
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こちらが正面らしい。永井尚政が尋ねたときと同じ場所、同じものかどうか…。道も分かったので駅まで歩くことにした。昼を食べていないこと、昼寝の習慣もあって、体がだんだんきつくなってくる。
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中書島まで戻って京橋、古絵図と比較すると埋め立てもあってだろう、雲泥の差である。
 
伏見船場です。頁をまたがって京橋ず見えます。今とは地形も川幅違っているようです。(_ _)。絵図の引用元をメモするのを忘れました。
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ここから信海が便乗した御座船や民謡「三十石舟歌」に登場する伏見港を想像するのは間違いだろう。龍馬で有名な寺田屋はすぐそば、駅に戻る道に迷ったが、おかけで広大な大倉記念館に沿った道も楽しむことができた。
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淀で下車。三川合流の地に立つ淀城、広大な巨椋池もあって、かつては美しい水郷の城下町であったろう。今はその片鱗もない。朝、電車が淀駅に着く直前に高架から写真を撮るべきであった。

 
【淀城】考古学者といく、水に浮かぶ名城「淀城」と「淀古城」へ:~地形と古地図で読み解く、三川が合流した水上都市~#ky18d189 | 京都のミニツアー「まいまい京都」 (maimai-kyoto.jp)
【参考】
YouTube
第22回
豊蔵坊信海
~淀城主とその周辺~

第23回
豊蔵坊信海
~永井尚政と『狂歌旅枕 上』~

第24回
豊蔵坊信海
~永井尚政と『狂歌旅枕 下』~
  
豊蔵坊信海ゆかりの地を歩く
(2015.7.25) 
   ひさしぶりに外へ出た。YouTube講座第28回「豊蔵坊信海~その人脈、文人篇~」と第29回「豊蔵坊信海~徳川光圀と淀屋重当~」の取材である。まず第28回、大坂の談林俳人かせ長老と慕われたという任口が住職をしていた伏見の西岸寺である。
 信海の歌に「西岸寺の如羊はいかいも上手なれば」という詞書きをもつ、

  所がらあぶらかけたる門口のすべりてはやき長老さま哉

がある。
 また芭蕉の『野ざらし紀行』にも登場する。
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京阪の伏見桃山を降りて西に1㎞もなかっただろう、突如として右に現れた感じ、中書島で降りて北上していたら確実に迷っていただろう。油懸山地蔵院西岸寺、浄土宗の寺である。住所も伏見区下油掛町である。
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くだんの油懸地蔵を祀った御堂である。
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任口の墓である。すぐに分かった。
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再び芭蕉句碑。『野ざらし紀行』に、
    伏見西岸寺任口上人に逢(あう)て
  我がきぬにふしみの桃の雫せよ
とある。ときに芭蕉42歳、任口80歳であった。
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 伏見桃山駅から八幡市駅と移動、男山登山。右に豊蔵坊、真鍋広済氏の論文に眼下を見渡せばとあったが、木が生い茂って何も見えない。最後の登りである。
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右を見ると三の鳥居。裏参道は、この日は通行止め、したがって表参道では石清水八幡宮に最も近い坊舎となる。奥に社殿が見えています。
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現在の社殿は1634年に修造なったものということですので信海も同じ風景に立っていたことが思われる。
 
左上部に豊蔵坊が見えます。
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向きが変わりますが右下部に「徳川家祈願所」とあります。
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八幡市教育委員会『石清水八幡宮境内調査報告書』より頂きました。
  【参考】
狂歌大観33人集
 
【参考】左の二図は「石清水八幡宮」http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_iwasimizu.htmからお借りしました。
一本亭芙蓉花の墓
(2015.9.15)
 
 ネットサーフィンで一本亭芙蓉花の墓が兵庫県三田市の大舟寺にあるということを知ったので行ってきた。JR福知山線の三田駅下車、9時08分。北口11番のりばの神姫バス・波豆川行きに乗車したのが9時25分、これを逃すと次は12時00分、時刻表を調べてこなかったが冷や汗ものものである。23番目の停留所「大舟寺前」下車、歩いて5分。帰りのバスは10時35分、これを逃すと12時40分、あきらめていたが運良く墓と遭遇、10時35分のバスに乗ることができた。 
 
逆光である(いや私の指かも知れない)。
 
本堂の右側を進むと、それらしい墓の一群である。

 
前から二列目に発見、あきらめかけていたときであった。
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たしかに「一本亭芙蓉花墓」とある。
 
前列から見ると、こうなる。墓と墓の距離、通路は40~50㎝と撮影のしにくいこと、この上もない。
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写真は菅竹浦著『近世狂歌史』より拝借した。著作権法が気になるが菅氏の生没年は確認できない、ちなみに著書は1940年の刊行である。なによりも往事を偲ばせる貴重な写真である。
 以下、墓の履歴を推測すると、こうなる。
 大正11年刊の鎌田春雄著『近畿墓跡考 大阪の部』(国立国会図書館デジタルコレクション)によると所在は「南区伶人町清水寺に在り。西坂下。貞柳の墓の右にありて西面す。」。刻文は正面に「一本亭芙蓉花墓」。背面に「辞世 一本亭芙蓉墓(花押)/いつまでもきのふは人の身の上と/我身のうへは思はさりけり」。左側面に「天明三年癸卯正月廿六日」とある。
 真鍋広済の『未刊近世上方狂歌集成』の1255ページには墓の写真が載っている。「大阪天王寺新清水寺(昭和43.4.7)」とあるが、墓は二段重ね三段重ねの一群である。どうやら、この墓群が、すべてではないだろうが、引き取られてきた模様である。とすると正面が隠れている墓には一本亭社中も含まれている可能性が大ということになろう。
 いやはや凄い光景である。

*一本亭芙蓉花については西島孜也著『近世上方狂歌の研究』(和泉書院)の「第四章 大衆化と正統化の時代-一本亭派と丸派の勃興-」の「一 一本亭芙蓉花の狂歌活動-大衆化に棹さして-」が、いろいろと教えてくれます。
①江戸下向の理由について
「芙蓉花は、天明期の江戸を含めて上方の狂歌壇において、勝負を争い、滑稽や諧謔のみを追求する風潮が拡がっていることに強く反発していたのである。上方の狂歌が、貞柳以来の正統的な狂歌として継承されねばならないと強く意識していたのであり、そのような貞柳以来の上方風の狂歌風の狂歌の正当性を堅持して、当時の大衆化されていく狂歌壇を指導しようとするものであった。芙蓉花は上方に蔓延する大衆化の流れが、江戸に根源すると意識したところに、江戸下りを決意したとすらいえるのではなかろうか。」
②狂歌観について
「芙蓉花は『ただ狂歌は和歌を詠ずるにひとしく……』と主張するが、これは芙蓉花のみの主張ではなく、貞柳以来の上方狂歌の主張なのであって、貞柳、木端以来の上方の狂歌師が等しくその狂歌集の序跋に繰り返し書き記しているものである。狂歌が和歌の一体であるというのは、和歌と等しいということではなく、中世以前の和歌と異なった近世的な新しい和歌ともいえるものを意味しているのである。近世的な新しい風雅としての道を求めるものであったといえる。そこには滑稽や諧謔のみを本質とするものではないとする意識があったのである。」
③俳諧活動について
「大魯を介して蕪村門につながって活動したところに、芙蓉花と蕪村門との共通性をみないわけにはいかない。蕪村門の俳諧のあり方が、大衆的なものでなく、高踏的、文人的な意識にささえられたものであったことは周知のことであり、その集団に共通するところがあってこそ、芙蓉花門は蕪村門とスムーズな交渉を持ち得たのである。そこに芙蓉花門の狂歌のあり方、性格があったといえよう。」
④貞柳碑の建立と出版活動について
「あえて貞柳の辞世のことを記し、その辞世を石碑に『えりつけ』(略)、なお追善の集を出版するという熱心さは、『名を売るべき一策』(頴原退蔵氏「一本亭芙蓉花」)、「一面自家宣伝の具」(菅竹浦氏『狂歌書目集成』)といわれるような、ただ単なる売名行為ということでは説明しがたい。貞柳の狂歌を『年頃集め置し。翁の歌の。あまたの集にもれ侍を選みて』と『拾遺家土産』上下二冊(上二十六丁、下二十五丁)にまとめるということは、並大抵の努力ではない。そこには、『狂歌をあた口のやうに心得』て単なる滑稽を追い求めることに対して『翁の風体』を継承せねばならないとする強い意識があったと考えねばならないであろう。『狂歌は和歌を詠するにひとしく』と、狂歌を和歌の一体として位置づけ、正統的なあり方を求める姿勢は、蕪村一門の蕉風復帰運動にも類するもので、一つの時代風潮でもあった。この時期の芙蓉花が一門の狂歌撰集ということを考えずに、貞柳、暁月坊、貞徳の狂歌集を出版したというところに、その上方狂歌壇における特異な、同時に高踏的なあり方がうかがえるのである。」

(私見)
「狂歌は和歌を詠するにひとしく」は五句三十一音詩という概念を導入すれば理解しやすいと思われます。和歌と狂歌の違いを一つだけに絞るならば古代語の和歌に対して近代語に道を拓いたことでしょう。

【参考】
浅草寺絵馬事件~一本亭芙蓉花と大田南畝~
一本亭芙蓉花~その失われた風景~
仙人掌上玉芙蓉
一本亭芙蓉花~人と作品~ 

投稿者:ふく
はじめまして 清水寺の墓地にあった寄せ墓の無縁の墓石『如春齋』について調べています。以前に墓石を確認していましたが、一策年行ってみると改装されてなくなってしまっておりどうなったのかと心配していました。
たまたま以前に撮りました写真のなかに「一本亭芙蓉」という文字が読めたので、手がかりにならないかと検索していたところこちらのホームページを拝見することができました。私が調べているのは如春齋という西宮の絵師です。墓石は一本亭さんの墓石の隣に如の文字がみえるので、一緒にここに来ているのだと思いました。
如春齋は狂歌集にも若干とりあげられているようで、狂歌関連は専門外なので全く調べきれていませんが、二人の生没年がほぼ同じなので、師弟関係にあったりしたのかもしれません。
大舟寺は三田とありますが、かなりの山中で、すぐには行けないとは思いますが温かくなったら行ってみたいと思います。大変恐縮ですが西宮文化協会で刊行しております、印刷物に如春齋の墓石の写真を使用させていただけますればと存じますが、ご許可たまわれれば幸いです。またあわせて次回執筆いたしますブログへのリンクを貼らせていただければとお願い申し上げます。よろしくお願い申します。

http://shukugawan.exblog.jp/22211398/
 栗柯亭木端の墓
(2015.9.18)
 『日本古典文学大辞典』(岩波書店)によると栗柯亭木端は「浄土真宗西本願寺派の末寺大阪尼崎町善行寺の住僧。生地・俗名ともに未詳」とある。尼崎で善行寺を検索するがヒットしない。廃寺となったものだろう。
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地下鉄の四天王寺前夕陽丘駅で下車、めざす住所は大阪市天王寺区四天王寺2-1-15、浄土宗の寿法寺である。検索した地図を片手に歩くと迷わずに行けた。但し正面から撮ろうとしても、これ以上のバックは出来ない、表道路を入った中であった。
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門をくぐって右側、だいぶ剥落しているが「栗柯亭木端墓」とある。側面も台座にも何もない。
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裏に回ると「安永二癸巳七月七日」とある。1733年である。
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噺家の墓が多いことで知られているらしい、なるほどであった


【参考】
近世上方狂歌叢書50人集
 
 玉雲斎貞右の墓
(2015.9.18)
 『日本古典文学大辞典』(岩波書店)で引くと「姓は雄崎氏。名は勝房、幼名定丸、通称尼屋弥兵衛、隠居後は定右衛門と改む。享保十九年(一七三四)八月十五日、大阪敷屋町の塩魚問屋に生まれ、寛政二年(一七九〇)二月十四日に没した。享年五十七。法名玉雲斎昇誉貞右居士、墓は大阪天王寺逢坂一心寺にある」。アクセスマップはhttp://www.isshinji.or.jp/access.htmlである。
 
その立派な、現代的な一心寺の門をくぐると大きな本堂が見える。左の方に納骨堂、さらに左に墓地への入り口がある。
 
通路に面して玉雲斎の墓が建っている。右に案内柱、右後方に見えているのは通天閣、これぞ大阪といったロケーションである。

雄崎氏の血筋は途絶えていないのだろう。花が供えてある。尼屋弥兵衛の文字も読める。
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 左に雄崎氏の墓が並ぶ。

 
「玉雲斎貞右居士墓」。
【参考】
近世上方狂歌叢書50人集
 
仙菓亭嘉栗の墓
(2015.9.21)   
  狂歌名「仙菓亭由甲斎嘉栗」、浄瑠璃作者としては「紀上太郎」、本名は三井高業(たかなり)、三井家の南家第四代当主の墓は大阪市天王寺区生玉寺町7-29、最寄りの駅は地下鉄「四天王寺前夕陽ヶ丘」下車、数百メートルの西方寺にある。
 
三井家の家祖・三井高利の墓もある。辞書を引くと三井家の墓所は京都の真如堂とある。嘉栗の妻も真如堂だったはずで、そうした作品があった。西方寺とは別の縁があったのだろう。
 正面に嘉栗の墓、左に別の墓が二基並ぶ。夭折した子供かと思って撮影した。この隣に「三井家の墓」という石柱があって三井高利の墓が建っている。  
 
嘉栗の墓にズームイン。『日本古典文学大辞典』(岩波書店)によると「仙菓亭嘉栗」(墓は「仙菓嘉栗」あと「居士」だろう)は師の栗柯亭木端から与えられたもの、その上の「由甲斎」は京の居宅の町名油小路押小路によるらしい。また〈幕串のあとはそのまま有ながら夕暮さびし花の木のもと〉〈呑つづけ日数もひいふうみいら取そのむかひ酒そのむかひ酒〉の二首が刻まれているらしい。台石が新しいのは、この墓の履歴を思わせる。
 
上記辞典より引用する。嘉栗は「寛政八年五十歳の時、三井家は内紛のため取り潰しの危機に瀕したが、罪を一身に引きうけ、重追放(江戸十里四方日本橋より五里宛、山城伊勢御構)に処せられて近江国大津に仮寓し、翌年剃髪して和春と号し大坂江戸堀に居を移した。寛政十一年四月二十二日、旅次伏見乗船の際に中風を発し、密かに京都家原家に運ばれて翌日没した。死後、文化十年(一八一三)正月、その罪を赦されている」。「皆川淇園撰の碑文に伝記が詳しい」は、この側面また背面の文字をいうのだろうか。波乱に富んだ生涯てあった。


【参考】
近世上方狂歌叢書50人集
  
 
 鯛屋貞柳の墓
(2015.9.21) 
 貞柳の墓があるというので大阪市天王寺区下寺町1-3-64にある光傳寺に行ってきた。最寄りの駅は四天王寺駅前夕陽ヶ丘である。地図を片手に学園坂を下ると、すぐのところにある。
 「鯛屋貞柳墓所」の石柱が訪問者に優しい。  本堂の横を通って左の方向を仰いだところである。  案内板が立っている。文字のない瓢箪を重ねたようなのが墓らしい。  右端が墓、真ん中が辞世、左端は新しそうなので見忘れた。   
側面から撮したところ。昭和八年、鯛屋の八代が建てたとある。こちらの方に驚いた。真ん中の方は天保と読める。江戸時代も後期である。 
 
辞世は〈百居てもおなじ浮世におなじ花月はまんまる雪は白妙〉である。 
 鯛屋貞柳の墓は新清水寺にあるのが本家と思っていたので軽い気持ちで訪問した。しかし帰って大正11年刊の鎌田春雄著『近畿墓跡考 大阪の部』(国立国会図書館デジタルコレクション)を見ると「貞柳没後二十五回忌に丁る宝暦八年一本亭芙蓉の建つる所なり」とある。形式も「位牌形。碑。砂岩。高五尺。幅一尺四寸九分。厚九分九寸。台石三層。上。亀跌。砂岩。高一尺九寸。中。御影石。高九寸三分。下。御影石。高九寸五分」とあるから立派なものである。
 どうやらこの墓は西島孜哉氏の『近世上方狂歌の研究』に「芙蓉花が貞柳の二十五回忌を記念して、『拾遺家土産』を出版し、大坂新清水に貞柳碑を建立したことについて」云々とあるものらしい。
 して、この貞柳碑はどこにいったのだろう。
【参考】
狂歌大観33人集
 由縁斎鯛屋貞柳植柳跡地
(2015.9.21)
 阪堺電車の聖天坂駅下車、百数十メートルだろう、公園と道をはさんで安養寺がある。住所は大阪市西成区岸里東1丁目6-7。
クリックすると元のサイズで表示します 「佐藤魚丸墓所」の石柱と並んで寺名の上に「由縁斎貞柳翁手植柳」「関取猪名川の墓」「紙治おさんの墓」連記の石柱が立つ。
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門を入って右側に「貞柳翁植柳」、昔は柳が風と遊んでいたのだろう。その柳が消えて左後方の「由縁斎鯛屋貞柳植柳跡地」となったのだろう。歌は〈名にしおはばここも安養浄土とぞ願いの糸をかくる青柳〉である。
 
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 周囲には、御覧のように墓が迫っている。


【参考】
狂歌大観33人集
     
  蝙蝠軒魚丸の墓
(2015.9.21)
  阪堺電車の聖天坂駅下車、数分、写真ではいえば寺の左後方のマンションの前の道を歩いてくることになる。安養寺の所は大阪市西成区岸里東1丁目6-7、道をはさんだ公園の側からの撮影である。
 
寺名の上に「由縁斎貞柳翁手植柳」「関取猪名川の墓」「紙治おさんの墓」連記の石柱があって、その左に単独で「佐藤魚丸墓所」の石柱が立つ。
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入って正面、本堂の前あたりに「佐藤魚丸の墓所在地」の案内板が立っていた。いわく「佐藤魚丸は蝙蝠軒魚丸と号し、寛政年間の人、鯛屋貞柳の流れをくむ狂歌師である。/魚丸の墓は、昭和十年頃までは本堂の北横の土蔵の前に西向に立っておりましたがその後間もなく無縁の墓に摘れました。/無縁墓の北向になっております。蝙蝠の字も風雨にさらされて、はっきりしませんがかすかにのこっております。」。
 
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今では読む手がかりもない状態である。左に「蝙蝠軒魚丸狂歌墳」、右に「辞世」として〈散らぬ間の花を我身にせかれけりつねにある風常になき風〉の碑が立つ。とすると墓碑に刻まれていたのであろうか。そう考えるのが自然であろう。
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右側面も剥落している。
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上の丸い石の字は読めそうで読めない。


【参考】
近世上方狂歌叢書50人集
 
半井卜養の墓
(2015.9.21)  
 半井卜養の墓は『日本古典文学大辞典』(井波書店)に「江戸品川東海寺定恵院に葬る」とある。好事家も多いと思われるが、ネットを探索しても、その情報が一向に出てこない。そこで唯一の情報であった堺の南宗寺に行ってきた。阪堺線の御陵町駅から10分ぐらいか、住所は「堺市堺区南旅篭町東3-1-2」、拝観料は大人400円である。 
クリックすると元のサイズで表示します今までとは勝手が違うようだ。 ガイドさんが案内してくれる。        
で写真撮影は駄目だというのでパンフレットから引用しておく。
【津田家・半井家一門の墓】
正面左より津田宗及 津田宗達 翠厳和尚 半井云也 半井卜養 利休と並び称される津田宗達、その子宗及及び一門の碑、今は、宗及の娘婿、半井卜養の墓碑も並ぶ。
※吉岡註。翠厳和尚は卜養の弟で大徳寺195世、半井云也は父である。
【牡丹花肖柏の墓】
室町時代の連歌師、/宗祇につき堺古今伝授と称す
※吉岡註。牡丹花の息子が堺半井家を興し、卜養は曾孫にあたります。

森川昭氏『江戸貞門俳諧の研究』に収録されている「半井卜養年譜」に「卜養の江戸に於ける直系は孫の代を以て絶えたが、卜養の実子羊庵は、卜養の実弟真伯宗珠の家を次ぎ、この系統が長く堺の地に繁栄していた」とあります。
【参考】
狂歌大観33人集
 
 豊蔵坊信海の墓
(2015.9.23)
  豊蔵坊信海の墓については塩村耕氏の1984年の論文「豊蔵坊信海の伝と文事」に「信海の墓の所在は、現在のところわかっていない」とある。しかし、その後に発見されたようで Y-rekitan 八幡の谷村勉氏が2回にわたってレポートしている。

 2014年2月「会報第47号より-05 墓石をたどる④」
 2014年4月「会報第49号より-06 墓石をたどる⑤」

 これほど親切な解説もない。私も信海に会いにいくことにした。地図を見ると京阪本線の八幡市駅より橋本駅が近そうなので、こちらで下車した。しかし歩き始めて道に迷いそうなことを確信、タクシーもないので再び電車に乗って八幡市駅で下車、タクシーに乗った。「足立寺史跡公園」までと告げたが分からないという。観光案内所でもらった地図を見て「和気神社のところか」ということで走り出した。和気神社の前まで来たところでメーターは920円、運転手さんは足立寺史跡公園が分からない。メーターを切って周囲を走ってくれたが、やはり分からない。元のところにもどってきて申し訳なさそうに降ろしてくれた。見ると階段の左に「足立寺史跡公園」の看板が立っていた。
 
八幡市駅下車徒歩も迷うこと必至、地図からは予測できないことが多々あるようです。
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瓦を焼いた施設を復元しているようです。ここを上っていくのが遠慮される気分ですが…。
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三宅安兵衛碑の「豊蔵坊信海墓」を残して、
 墓が消えた!!


【参考】
狂歌大観33人集 
   
 揚果亭栗毬の墓
(2015.9.23)
  岩波の『日本古典文学大辞典』第2巻の184頁「狂歌布もとの塵」で栗毬は「楊果亭」、木偏の「楊」である。狩野快庵編『狂歌人名辞書』も木偏の「楊」である。対して『近世上方狂歌叢書』の編著者である西島孜哉氏は一貫して手偏の「揚」である。その著『近世上方狂歌の研究』も同様で「『狂歌ふもとの塵』を刊行し、木端の序文にあるように揚果亭栗毬の号を授けられて」とあるとおりである。で、私も「揚果亭」に従っている。木偏の「楊」は『字通』の訓義で①かわやなぎ②揚に通じ、あがる。これからしても「揚」であろう。
 ほかに韃翁、瓢箪坊、ほうろく庵、茶々麿、往生と号したとある。
 墓のあるのは浄蓮寺(大阪府枚方市禁野本町1-6-12)。ネットサーフィンで以前からつかんでいた。京阪の枚方市駅下車、禁野本町方面のバスに乗るつもりで7番出口を出たがバス停の見つからないまま歩く。天の川を渡って、この川であった心中を詠った作品が栗毬にあった、信号のある交差点を右折して府道の坂を上っていく。
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ほどなく右に浄蓮寺の石柱が見える。この裏に韃翁がいる。
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右に大きな宝篋印塔、左奥から栗毬翁歌書墳、瓢箪坊の墓となる。
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瓢箪の上に墓が建っている。
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栗毬翁歌書墳と読める。「清誉」が人名だとすると随分と自己顕示欲の強い人である。
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宝篋印塔。『日本国語大辞典』を引くと「塔の一種。方形の基礎の上に、方形の塔身をおき、上に段形になった笠石があり、相輪を立てる。笠石の四隅に隅飾りの突起があるのが特色。主に石造で、まれには金銅製や木製がある。本来は宝篋印陀羅尼の経文を納めたが、後には供養塔・墓碑として建てられた」とある。
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ズームインして「韃翁造立」を確認、歌書墳の「清誉」が人名なら、こうあるのが本来であろう。


【参考】
近世上方狂歌叢書50人集
 一本亭芙蓉花建立貞柳追善碑
(2015.10.9)
 大舟寺(兵庫県三田市波豆川605-1)を再訪することになった。
 大正11年刊の鎌田春雄著『近畿墓跡考 大阪の部』(国立国会図書館デジタルコレクション)に「鯛屋貞柳墓」として、所在 南区天王寺伶人町清水寺に在り。西坂の下北側中程にありて西面す。林孝徳の碑文を刻む。貞柳没後二十五回忌に丁る宝暦八年一本亭芙蓉の建つる所なり。
形式 位牌形。碑。砂岩。高五尺。幅一尺四寸九分。厚九寸九分。台石三層。上。亀跌。砂岩。高一尺二寸。中。御影石。高九寸三分。下。御影石。高九寸五分。とある。相当に立派な碑である。目当ては亀跌である。また

刻文
永田貞柳翁碣誌(横額楷書)
 永田貞柳。(以下略)

背面として、

貞柳翁二十五回忌になほ侍りければ辞世の歌をおもひ出て
 名も高き月とまむ丸百ねんの
    よつひとふんの秋の中空
                       芙  蓉  拝
とある。
なお「略伝」の最後に、

尚碑は下寺町二丁目光傳寺にもありて異形の五輪塔建ち側に天保四年貞柳貞柳百回忌追福碑建てり。
とある。
 これを読んで、俄然、大舟寺が気になってきたのである。
 前回と同じ時刻、探索に与えられた時間は40分弱である。 
 
前回うまく撮れなかったところである。
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ここが山門である

本堂の右を奥に進む。あとから分かったのだが捜し物は右に「さ」の字が見える墓碑から数えて4基目にあった。
 
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右に「永田」、左に「柳」と読めます。碑の表でしょう。
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いつ剥落しても不思議でない危機的状況です。
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「横額楷書」とは、これをいっているのでしょうか。
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裏に回ると羊歯に隠れて読めません。
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右に「貞柳翁二」まで読めましたが、緊張していたのか、入っていません。
左に歌と思われますが、こちらは判読できません。
クリックすると元のサイズで表示しますメジャーで測ると幅と厚さはほぼ一致、落剥しているのでピッタリとはいきません。
高さは目測ですが五尺、三層の台石はありませんでした。
亀跌はどこに消えたのでしょうか。
 
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一本亭芙蓉花編『拾遺家土産』(1758年)より「新清水寺図」。 右中央に「貞柳翁碑」とある。
 
写真は菅竹浦著『近世狂歌史』より拝借した。著作権法が気になるが菅氏の生没年は確認できない、ちなみに著書は1940年の刊行である。なによりも往事を偲ばせる貴重な写真である。台石は三層で上は亀跌というらしい。亀の石彫である。
*一本亭芙蓉花については西島孜也著『近世上方狂歌の研究』(和泉書院)の「第四章 大衆化と正統化の時代-一本亭派と丸派の勃興-」の「一 一本亭芙蓉花の狂歌活動-大衆化に棹さして-」が、いろいろと教えてくれます。
①江戸下向の理由について
「芙蓉花は、天明期の江戸を含めて上方の狂歌壇において、勝負を争い、滑稽や諧謔のみを追求する風潮が拡がっていることに強く反発していたのである。上方の狂歌が、貞柳以来の正統的な狂歌として継承されねばならないと強く意識していたのであり、そのような貞柳以来の上方風の狂歌風の狂歌の正当性を堅持して、当時の大衆化されていく狂歌壇を指導しようとするものであった。芙蓉花は上方に蔓延する大衆化の流れが、江戸に根源すると意識したところに、江戸下りを決意したとすらいえるのではなかろうか。」
②狂歌観について
「芙蓉花は『ただ狂歌は和歌を詠ずるにひとしく……』と主張するが、これは芙蓉花のみの主張ではなく、貞柳以来の上方狂歌の主張なのであって、貞柳、木端以来の上方の狂歌師が等しくその狂歌集の序跋に繰り返し書き記しているものである。狂歌が和歌の一体であるというのは、和歌と等しいということではなく、中世以前の和歌と異なった近世的な新しい和歌ともいえるものを意味しているのである。近世的な新しい風雅としての道を求めるものであったといえる。そこには滑稽や諧謔のみを本質とするものではないとする意識があったのである。」
③俳諧活動について
「大魯を介して蕪村門につながって活動したところに、芙蓉花と蕪村門との共通性をみないわけにはいかない。蕪村門の俳諧のあり方が、大衆的なものでなく、高踏的、文人的な意識にささえられたものであったことは周知のことであり、その集団に共通するところがあってこそ、芙蓉花門は蕪村門とスムーズな交渉を持ち得たのである。そこに芙蓉花門の狂歌のあり方、性格があったといえよう。」
④貞柳碑の建立と出版活動について
「あえて貞柳の辞世のことを記し、その辞世を石碑に『えりつけ』(略)、なお追善の集を出版するという熱心さは、『名を売るべき一策』(頴原退蔵氏「一本亭芙蓉花」)、「一面自家宣伝の具」(菅竹浦氏『狂歌書目集成』)といわれるような、ただ単なる売名行為ということでは説明しがたい。貞柳の狂歌を『年頃集め置し。翁の歌の。あまたの集にもれ侍を選みて』と『拾遺家土産』上下二冊(上二十六丁、下二十五丁)にまとめるということは、並大抵の努力ではない。そこには、『狂歌をあた口のやうに心得』て単なる滑稽を追い求めることに対して『翁の風体』を継承せねばならないとする強い意識があったと考えねばならないであろう。『狂歌は和歌を詠するにひとしく』と、狂歌を和歌の一体として位置づけ、正統的なあり方を求める姿勢は、蕪村一門の蕉風復帰運動にも類するもので、一つの時代風潮でもあった。この時期の芙蓉花が一門の狂歌撰集ということを考えずに、貞柳、暁月坊、貞徳の狂歌集を出版したというところに、その上方狂歌壇における特異な、同時に高踏的なあり方がうかがえるのである。」

(私見)
「狂歌は和歌を詠するにひとしく」は五句三十一音詩という概念を導入すれば理解しやすいと思われます。和歌と狂歌の違いを一つだけに絞るならば古代語の和歌に対して近代語に道を拓いたことでしょう。


【参考】
狂歌大観33人集近世上方狂歌叢書50人集浅草寺絵馬事件~一本亭芙蓉花と大田南畝~一本亭芙蓉花~その失われた風景~仙人掌上玉芙蓉一本亭芙蓉花~人と作品~ 
 永田貞因の墓(紀海音の墓)
(2015.10.20)
 
  永田貞柳の父親が、なぜ榎並貞因なのか?
 『日本古典文学大辞典』(岩波書店)をはじめとして軒並みに「榎並貞因」であるが、貞柳が永田姓の説明がない。しかし「貞因の姓は榎並と永田の何れが正しいかが問題になるが、永田の方が正しいと考える」石田賢司氏(「紀海音の浄瑠璃作者引退に関する一考察 : 兄油煙斎貞柳との和解をめぐって」)に従って「永田貞因」とする。その石田氏によると鯛屋の檀那寺は称念寺というらしいが所在がつかめない。で大正11年刊の鎌田春雄著『近畿墓跡考 大阪の部』(国立国会図書館デジタルコレクション)によって宝樹寺(東大阪市菱屋西6-1-28)にある紀海音の墓に行ってきた。JRの河内永和駅を下車、近鉄に沿って河内小阪駅の方向に歩き、大阪樟蔭女子大学を右に見て左折、疎水に沿って歩いた。時間にして20分ぐらいである(近鉄の河内小阪駅で降りると便利だった。帰宅してから気のついたことだが)。 
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立派な寺である。もとは上本町にあったが昭和になって現在地に移転したとある。往事は文人たちが盛んに出入りしていたらしい。
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門の右に石柱と案内板が建っている。東大阪市の史跡なのだ。
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「史跡紀海音墓と宝樹寺」。拡大すると何とか読めます。
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墓の右に建つのは「史跡 文化財 紀海音之墓」。
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右が海音(1663~1742)、左が妻、享保15年(1730年)は妻の没年だそうです。建てたのは花崗岩の台石にある「太いや忠七」、養子の魚周堂貞風です。海音からすると生前墓となります。ちなみに父の貞因は1700年没、貞柳は1736年没ですから兄も生存中となります。
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正面から見ると左側です。貞因の文字が見えます。妙因は称念寺の過去帳に貞因の母と記載されている名前と同じです(仙果亭嘉栗『狂歌貞柳伝』(大谷篤蔵「翻刻『狂歌貞柳伝』」文林12号)を見ると貞柳の最初の妻と海音の妻の法名が同じ妙隆である)。ちなみに豊蔵坊信海に「難波の鯛屋といふ菓子屋に」の題詞で〈菩提やか妙なる歌の言因にかの蓮台にのる菓子袋〉があり、貞柳の母を妙因つまり貞因の妻と思っていた。常識的には父の隣は母だろう。不思議なのは貞富(?~1712)の名が見あたらないことです。
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裏側に刻印はないので、正面から見て右側を撮影しました。それにしても砂岩というのは脆いものです。
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花立てだそうです。鯛屋八代そのあと竹三郎、何とかと案内板にありましたが忘れました)。
 
いずれ砂岩は剥落し、台石の文字と花立ての文字だけが残るのかも知れません。
 で、私の関心が最後になりました。
 『日本古典文学大辞典』(岩波書店)に「俳諧を貞門の安原貞室に学び、のち談林の新進俳人にも親しんで、遊俳ながら大阪俳壇の重鎮となった」とあります。さらに談林との関わりだが「西鶴にも近づいて、『生玉万句』に出座、『歌仙大坂俳諧師』の十番右座に据えられた。また西鶴妻の追善に発句を寄せ、『西鶴大矢数』では後見役をつとめてもいる。一方西鶴のライバルである惟中にも親しみ、『太郎五百韻』『次郎五百韻』等に一座、延宝七・八両年にはその三つ物に加わるなど、一党一派に偏しない活躍ぶりを示した」とある点です。書いているのは乾裕幸氏です。貞因に限らず、卜養もそうですが、系譜だけからからは見えてこないもの、そこに時代の大きなうねりの中における自立した作家の精神かあると思われます。

*同辞典に「大阪宝樹寺に葬る」とあるが、もしそうなら海音と別の墓があって然るべきでしょう。
*「妻妙因との間に二子を設けたが、共に父の感化を受けて文事にいそしみ」てあるが、墓の刻印からしても、貞柳海音異母兄弟説の入り込む余地はいように思われます。
*「姓は榎並」とあるが、これについての感想は先述のとおりです。

名和久仁子氏の「紀海音考―近世上方の文人の素顔―」を紹介しておきます。岡西惟中とのつながりの深さが貞因を通して海音にまで及んでいることに興味を覚えました。
*私の談林並びに岡西惟中への興味については「豊蔵坊信海~その史的ポジション、惟中より貞柳へ~」に始まります。

【参考】
狂歌大観33人集 
 永井走帆の墓
(2015.10.20)
 
 永井走帆の墓は源聖寺(大阪市天王寺区下寺町1丁目2番35号)にある。地下鉄の谷町九丁目駅下車10分ぐらいだっろうか。天王寺七坂の一つである源聖寺坂を下りる。 
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右が、その源聖寺坂。左が源聖寺。
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崩れそうな壁の補強工事か、関係車両が駐まっていた。山門の上に丸いボール状のものが見えていますが、あれはラブホテルのオブジェです。
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砂岩ですが、まだ剥落を免れています。刻文の文字も読めますが白文です。鎌田春雄著『近畿墓跡考 大阪の部』(国立国会図書館デジタルコレクション)に明らかです。『日本古典文学大辞典』(岩波書店)によると「墓誌には、松浦候の知を受け、禄二百石で招聘されたが、病に託して応じなかった由を載せる」とあるそうです。
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逆光ですが、いちばん上に「自得永井先生墓碣」とあります。自得は号、ほかに如瓶子、靜翁。走帆の号は狂歌に使用した。
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墓碑の裏面です。「孝子道純及門人等建之」とあります。
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どうしようもなく逆光でした。
 『日本古典文学大辞典』によると『狂歌乗合船』の序を書いている螬菴は西山宗因の子である。集中に次のような歌がある。

     孫娘りやうが誕生日の祝にまねかれて
  祝ひ歌かく墨色に雲起り出世の竜の末ぞ見えける
     孫娘髪たれに名を徳とつけて
  よい名とてはやしたつれば後万歳(ごまんざい)と祝ふて祖父(じい)かよめる徳和歌
     同賀 わが為にも孫なれば
  生れ子も名に叶へばやとくとくと乳をのむ智恵の出来たうれしさ

 一首目と二首目は走帆の歌、三首目が螬菴の歌、どうやら走帆の娘が螬菴の息子に嫁いでいるらしい。徳ちゃんは内孫と外孫の関係らしい。
 走帆は『貞柳翁狂歌全集類題』にもよく登場している。

  西をさして乗合船は出でて行く南無あみた仏我はをくれた

 『狂歌ますかがみ』に収められた貞柳の挽歌である。題詞は「永井走帆此のごろ死去につき追善」、走帆の帆は船の縁語でもあった。

【参考】
狂歌大観33人集
 渓月庵宵眠の墓
(2015.10.23)
  
  渓月庵宵眠の墓のある瑞景禅寺(奈良市法蓮町690-4)に行ってきた。JR奈良駅で下車、歩けば迷うこと間違いなしと思われたのでタクシーに乗った。場所は奈良高校の下から徒歩1分、表通りからは見えない、運転手さんも寺自体は知らないようだった。運賃は960円である。

 宵眠については西島孜哉氏の『近世上方狂歌の研究』(和泉書院)の第三章「栗柯亭木端の活躍記-貞柳風の継承と狂歌の自立-」の三「宵眠-奈良狂歌圏-」に詳しい。
 
少し遠回りしてしまったが数分で着いた。
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門をくぐって直進、右側の墓地にはいる。なかなか見つからなかったがブロック塀に近く道路側を向いて建っている。私には背中しか見えなかったのである。「宵眠」の上の「葊」は「菴」(「庵」の異体字)の異体字である。1784年没、77歳。
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宵眠の左の墓碑。「溪」は「渓」の旧字、本字は「磎(谿)」だそうである。「渓月庵宵瑞翁墓」、弟子で二代目となる。1811年没、66歳。
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宵瑞の左の墓碑は三代目となる「渓月庵宵甫翁墓」である。
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再び宵眠の墓碑、「渓月庵宵眠翁墓」である。裏の碑文は前著で読むことができる。
 
三基を正面から撮りました。
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先と逆、手前から宵甫・宵瑞・宵眠の順、右側面に歌らしきもの(辞世かも知れない)、裏・左側面にも文字が刻まれていた。
 なお宵眠には渓月庵のほかに坤井堂の号があるが、これに関連して西島氏は次のように述べている。


 宵眠は、木端の『狂歌かゝみやま』に坤井堂宵眠として初めて名がみえ、『狂歌生駒山』にも同様に「坤井堂」としてみえる。ところが宵眠の狂歌集である『狂歌渓の月』は、渓月庵宵眠の狂歌を坤井堂宵瑞が撰したもので、その号によって「渓の月」の署名を冠している。木端門として坤井堂の号で通していた宵眠は、その時期は不明ながら、後掲の瑞景寺の碑文に「兎求を営み、渓月と曰ふ」とあるところから、隠居してからその号を二代目宵瑞に譲って渓月庵と号しているわけである。そしてその『渓の月』には、木端門として活躍した時代の狂歌が集成されているにもかかわらず、何故か木端との関係が明確でないように作意されているように思われる。『渓の月』が宵眠の没後十一年の寛政七年に出版されたもので、宵眠のあずかりしらぬ部分があったと思うが、撰者宵瑞の個人的な意図のみではなく、奈良狂歌壇の中央狂歌壇への関係のあり方の反映という部分があったのではなかろうか。

云々。

【参考】
近世上方狂歌叢書50人集
念声寺の貞柳追善碑 
(2015.10.23)
  西島孜哉氏の『近世上方狂歌の研究』(和泉書院)の第五章「狂歌の庶民化の時代-集歌順評と高踏的狂歌-」の二「念声寺の貞柳狂歌碑と追善集-上方狂歌壇の連携と対江戸風の一例-」に「この寺の中庭に永田貞柳の狂歌塚がある。長らく忘れられていたのであるが、昭和十五年に木崎好尚氏が発見されて世に知られることになった」とある。
 たまたまヤフオクで「狂歌色紙拓本/永田貞柳/浄土宗・念声寺」を見つけた。

 「中庭」が気になったが奈良女子大学の東側、奈良県庁の北側にある念声寺(奈良市川久保町30)に行ってみた。扉が閉まっているのでベルを押すが応答がない。女性の方が通ったので声を掛けると墓参りに来たものだが扉は開いているというので入らせてもらった。墓地をくまなく見てもない。扉を入ったところも丹念にみたがない。やはり建物に囲まれた庭、一般公開は望むべくもないのかと諦めて帰ってきた。こんなお寺である。
 
 大きさについては、こうある。
貞柳碑は碑面の高さ九十一センチメートル、二段の台石にのり二メートルに達している。台石の正面に「由縁斎歌塚」と横書きされ、碑面には例の「月ならで雲のうへまですみのぼるこれはいかなるゆゑん成らん」の狂歌が刻まれている。碑の前に「由縁斎歌塚」と記された二基の石灯籠がある
 想像するだけでも立派なものだ。
 建てられたのは寛政七(1795)年、貞柳の没後六十一年にあたる。
 いきさつについては、こう書かれている。
貞柳の孫にあたる念声寺の住職法誉が貞柳碑の建立を思い立ち、竹外・宵瑞が協力したのであり、とくに奈良の狂歌壇の中心であった渓月庵宵瑞が諸方の貞柳門柳に呼びかけたわけである。その宵瑞を中心とした呼びかけに対して浪華・京都を中心とする狂歌人都合二百二十二人が二五三首の献詠を行ったのである。

念声寺に貞柳の歌塚があるという記事は結構見つかるが実際の写真が出てこないというのは、こういうことだったのだろう。実に実に惜しまれる記憶遺産である。

【参考】
狂歌大観33人集 
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 藤本由己の墓
(2015.10.23)
 
  藤本由己(1647~1726)を『日本古典文学大辞典』(岩波書店)で引くと「ふじもとゆうこ 狂歌作者。初号は松庵、後号は理庵で春駒翁とも号した。由己は字。京都愛宕の産。享保十一年(1726)三月十一日没、八十歳。墓所は大和郡山の瑞竜山雲幻寺」とある。

 雲幻寺は現在、良玄禅寺(奈良県大和郡山市野垣内町2-2)と名前が変わっている。ネットで検索しても由己の墓は出てこない。法名も分からない。しかし儒学と医術を学び、水戸家に仕え、その後、医師として柳沢家に仕えた人である。江戸駒込の藩邸に勤仕したが主家の移封に従って大和郡山に転じた。行ってみる価値はあろう。 
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JR郡山駅から500メートルぐらいか、地図を片手にだが、迷うこともなかった。門を入って右に墓地がある。扉が開いていたので入らせてもらった。こちらは縁故者のある墓ばかりらしい。それらしき墓に行き当たらなかった。
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となると無縁墓となる。
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数の多さ、隠れて一部しか見えない墓碑と情報量の少なさ、ここはいちど撤退することにした。

【参考】
狂歌大観33人集
     
 岡西惟中の墓
(2015.10.25) 
  『古今狂歌仙』(『狂歌大観 第2巻 参考篇』)の「解題」に「本書の板下は岡西惟中の筆蹟の特徴をあらわしているので、編者愛香軒睋子は、その匿名かもしれない」とある。その「序」を読むと内容からも惟中が思われる。これについてはYouTube講座「豊蔵坊信海~その史的ポジション、惟中より貞柳へ~」で述べたとおりである。  また貞柳の父・貞因( 永田貞因の墓を尋ねて)を知り、貞柳の弟・紀海音(名和久仁子氏の「紀海音考―近世上方の文人の素顔―」)を知るにつけて、惟中しかいないという思いを強くした。  その談林の論客、岡西惟中の墓は銀山寺(大阪市天王寺区生玉町6-2)にある。谷町九丁目駅を下車して500メートルぐらいか、源聖寺坂の下り口にある。貞柳の墓は下りきって左折後ほどなくにある光傳寺である。

 銀山寺の山門、横に車の出入り口が開いていた。関係者と思われる女性が掃除していたで、一礼して墓地に入る。
 
 屋根に覆われているのが岡西惟中をはじめとする著名人の墓らしい。
 
 岡西惟中(1639~1711)の墓である。「北水先生岡西君碑」と読める。「北水」は号である。
 
  こういう感じである。

 隣の妻の墓、「釈妙理墳」。その右に「正徳五○○年」(「○○」はおそらく「乙未」)、左に「十月五日 逝」とある。1715年である。『日本古典文学大辞典』(岩波書店)に「天和元年(1681)に妻を失い」とあるので再婚であろう。
 
こういう感じになる。先の引用の前後を含めると、
「談林派内部の反感を集める結果となった。延宝末の泥仕合的混戦のあと、談林派は急速に行きづまりを見せて後退するが、惟中も天和元年(1681)に妻を失い、翌春には宗因が没したこともあいまって、俳壇への野心を失う」
とある。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

ふたつ並んだ墓を見ていて、なぜか石川啄木の歌(『一握の砂』)が思い出された。
芥川貞佐建立油煙斎碑銘
(2015.12.6)
 
広島に芥川貞佐が建立した碑があるというので訪ねることにした。
情報源は、地元の「古田公民館だより」(二〇一二年一月号)である。
http://www.cf.city.hiroshima.jp/furuta-k/kanken/No20.pdf#search='%E8%B2%9E%E6%9F%B3+%E5%BA%83%E5%B3%B6+%E9%8A%98'
http://www.cf.city.hiroshima.jp/furuta-k/tayori/furutatayori1201ura.pdf#search='%E8%B2%9E%E6%9F%B3+%E5%BA%83%E5%B3%B6+%E9%8A%98'
下の記事が元で、上が補記を加えたもののようである。書いている河府清志氏は郷土史家であろうか。
以下、コピペすることをお許しあれ。

古江上一丁目の福蔵寺の境内に、「由縁斎碑銘」と彫られた石柱がある。これは狂歌中興の祖と仰がれた永田貞柳(1)を供養する石碑で、250 年余り前の宝暦9 年(1759)に建てられている。当時、狂歌は貞柳の住む大阪を中心に名古屋や広島などでも広まっていたようで、広島には高弟の芥川貞佐が居り、90 名余り( 2 )の門人を擁していたと言う。石碑には建立の経緯が記されており、概略「(貞柳の二十五回忌に当たる)去年、大阪の門人達は師の供養のために石碑を建立した。これを知った貞佐は師への追慕の念に堪かね、今年、門人達と共に同門の者が管理する福蔵寺に石碑を建立し、香火の地とした」とある。この時の興行の様子を記した書によると、宝暦9 年8 月15 日に福蔵寺において二十五回忌の法要を営み、石碑の落成を祝い、夜には境内にて「追福狂( 3 )歌」の会を催したようだ。会の終わりに、貞佐は次の歌を詠んでいる。「見かへりの花に悪みし鐘もけふ月にはいとし山寺の秋」
注(1) 号は由縁斎、(2)某研究資料を基に「90 名余り」いた旨記載しましたが、広島藩編纂の知新集には「千余人に及んだ」とあります。この違いは恐らく、前者は直弟子の数を、後者は孫弟子あたりまで加えた一門の総数を言ったものと思われます(3)死者の冥福を祈ること (文・写真河府清志)」

新幹線のぞみ97号で広島着9時19分、山陽本線に乗り換えて西広島に着いたのが9時40分ぐらい、このあと広島電鉄に乗る予定だったが、タクシーに変更、福蔵寺(広島市西区古江上1-659)に直行した。 
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左側面にも文字が刻んでいるが、意味を追うことはしない(拓本でもとれば素人にも少しは分かるかも知れない)。
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右側面、裏側にも文字が刻まれている。碑の右側に「被爆建物」の説明板が見える。
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右端に福蔵寺の説明板、左端の石柱の文字に目をこらしたが、全くわからなかった。
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こんな感じである。碑の右側にも背の低い石柱があり、気になったが、読めない。
 
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芙蓉花の碑と材質が違うのであろう、こちらは永遠に不滅の感のする碑であった。
クリックすると元のサイズで表示します 福蔵寺の入り口である。寺の北側に広島学院高校がある。  クリックすると元のサイズで表示します
坂の上にある寺なのだ。貞柳顕彰碑は、おそらく芥川貞佐を思い出すことのできる唯一の直接的物証なのだろう。〈死んで行く処はおかし仏護寺の犬の小便するかきの本〉の墓は、調べても情報が出てこない。歳月に加えて爆心地てあったことは決定的だったろうと思われる。
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海が見えるので写真に撮った。左は陸橋、下は西広島バイパス、タクシーの運転手さんに教えてもらった道である。陸橋を越えて10分ほど歩くと広電宮島線の古江駅が出てきた。3駅目で下車、11時17分発新幹線の乗客となった。2時間弱の広島行であった。
 【参考】
狂歌大観33人集

近世上方狂歌叢書50人集
   
 西山宗因の故郷(熊本城下篇)
(2016.1.13)
 西山宗因の年譜(全集第1巻)に「加藤清正家臣西山次郎左衛門の子として肥後熊本に生まれる」とある。その熊本に行ってきた。
 ちなみに私の関心は談林の総帥として作品に近代語を登場させた点にある。

 1605年~1682年、西山宗因
 1607年~1678年、半井卜養
 1626年~1688年、豊蔵坊信海
 1654年~1734年、鯛屋貞柳

 上記の三人は、それぞれ短詩型において近代語に道を拓いた代表格ないしリーダーである。しかし西山宗因の死後、俳諧の世界では詠う以前のツールとしての近代語が姿を消していく。狂歌人の半井卜養は弟子を持たなかった。これら二人の功績は豊蔵坊信海の弟子、鯛屋貞柳に流れ込んで継承されていく。
 このような構図を描いているのである。 
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1612年、8歳「本年もしくは前年頃、肥後熊本釈将寺に寺入し、豪信僧都に師事して歌道を学ぶ」(年譜)。その寺の名前が残る坂の入り口である。「京町3」のプレートがあった。
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側面に「京町二丁目」とあった。
 
少年「次郎作」がどこから通ってきたのかは分かりません。ただ、このあたりは坂の多い地形だそうで、それぞれに道標(石碑)があるということです。釈将寺坂は上の道に出ます。京陵中学校(熊本市中央区京町本丁1-14)が左に見えてきます。
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地図でいえば南下、城の石垣と建物が見えてきました。低い気がしますが橋の下を道路が走っています。立体化されて、宗因の父親が登城した当時とは変わっています。
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二の丸広場からの撮影です。すると「お父さん」は西大手門からの「出勤」でしょうか
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城の威容を正面から撮ろうとしながら出来ず、熊本市役所の前から撮しました。天守閣をとらえたつもりだったのですが、木の間がくれで、分かりません。

【参考】
狂歌と歌謡~鯛屋貞柳とその前後の時代~
 西山宗因の故郷(八代城下篇)
(2016.1.13)
 
 西山宗因が側近として仕えた八代城主・加藤正方(1580~1648)の「加藤」は父・片岡可重が加藤清正から拝領したものである。また八代城は元和の「一国一城令」の例外として存続が許された。その正方は連歌に秀でていた。しかし宗因が京の里村家に連歌留学するのは主君の道楽からではない。鳥津亮二は「加藤正方の生涯と実像」(『八代城主・加藤正方の遺産』)で「十六世紀後半頃になると、肥後の武家層においても連歌素養の蓄積がみられ、戦勝祈願・追善・法楽など様々な契機に連歌を実施して、人的紐帯を強めるとが一般的になっていた。そしてその傾向は必然的に連歌師養成という課題に行きつくことになる」と述べる。まさに公務だったのである。
以下、加藤家改易までを見ていく。

1619年、15歳「この頃より、八代城主加藤右馬允正方の側近として仕え始める」(全集年譜)。正方、40歳。大地震により八代(麦島)城損壊。熊本藩主加藤忠広、幕府に八代城移転新築を申請し、認可。正方、松江で新城・城下町建設に着手(『八代城主・加藤正方の遺産』の「略年表」より)。
1621年。正方42歳「6月、9,358石の加増を受け、計2万石余りの知行を有する加藤家筆頭家老となる」(『八代城主・加藤正方の遺産』の「略年表」より)。
1622年、18歳「春頃、初上洛を果たし(略)、里村家の学寮に入門して里村昌琢に連歌を学ぶ」(全集年譜)。正方43歳「2月、八代(松江)城竣工。(略)。以後、加藤家筆頭家老・八代城主として領内統治に努める」(『八代城主・加藤正方の遺産』の「略年表」より)。
1623年、19歳「正月、歳旦吟『新しき詞となるや今日の春』」(全集年譜)
1624年、20歳「正月、歳旦吟『春につれ春をさそふや朝霞』」(全集年譜)
1630年、26歳「本年前後の春、八代城下の泰平を『万代やうちはへ春の花の宿』と詠む」(全集年譜)。

     肥州八代城にて
  万代やうちはへ春の花の宿
  むべしこそ宮居さだめし花の庭
  さかぬまのあらましよりや花の友
  花の滝中に有てふ淀もがな
  年をへぬ中さへふかし花の友
  花の外の物思もなし春の宿
  風や又つくり出たる花の庭
  花遅き春をことはる嵐哉
  爰に咲くや花も流木遠つ島

1631年、27歳「江戸において正方と熊本藩主加藤忠広嫡男光正の元服を祝して連歌『両吟千句』を興業し、昌琢に批点を請う(略)。『宗因』号の初見、改号時期は本千句興業に先だつか。」(全集年譜)。
1632年、28歳「四月下旬頃、嫡男豊後守光正の謀書事件により江戸召喚された太守加藤忠広を擁して、正方、肥後出立。五月二十二日、品川着。詮索吟味の末、六月一日、加藤家改易の処置発令。二十日頃、城引き渡しのため、正方、忠広の親書を携えて帰国。七月二十二日、熊本城・八代城収公成る(略)。」(全集年譜)。※鳥津亮二の「加藤正方の生涯と実像」(『八代城主・加藤正方の遺産』)によると「忠広は出羽庄内の酒井忠勝のもとへ一万石でお預け、子・光正は飛騨の金森重頼のもとへお預け(略)。忠広は肥後に戻ることも許されず、そのまま出羽に赴くことになった」という。正方53歳「10月には京都六条本国寺に移住。以後『風庵』と号し、牢人生活へ」(『八代城主・加藤正方の遺産』の「略年表」より)。
1633年、29歳「七月、江戸から京都に戻ったのち、単身熊本に下る。九月末頃、親類縁者を残し、京都の正方の許を目指して熊本出立。二十九日、黒崎津出船。瀬戸内海を東上して、十月十二日、難波入江着船。日没頃、伏見着。十五日、入京。下京区堀川の日蓮宗本圀寺塔頭了覚院にて隠棲中の正方を訪ね、その付近に草庵を結んで本格的な牢人生活に入る。」(全集年譜)
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八代城の西側に位置する八代市立博物館未来の森ミュージアム。ここで『平成24年度秋季特別展覧会 八代の歴史と文化22 入城400年記念 八代城主・加藤正方の遺産』(八代市立博物館未来の森ミュージアム)と柿衞文庫編『宗因から芭蕉へ-西山宗因生誕四百年記念-』(八木書店)を買う。
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博物館を出て東側を撮影。県道250線の右側に天守台跡と石垣が見える(だろうか)。左側に加藤正方の屋敷跡という松井神社がある。
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県道を歩いて接近。橋が見える。
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その橋を渡って左側に宗因の句碑が建っている。
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県道250号にもどり東へ進んだところから撮影。右側に松井神社。
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城の南側から天守台跡、その向こうの松井神社を望む。
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階段を上って大天守台跡、足が震えだしてから高所恐怖症であることを思い出した。
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句碑のある橋を撮したつもりだったが、本丸入り口の橋であるらしい(結果オーライ)。
 【参考】

狂歌と歌謡~鯛屋貞柳とその前後の時代~
     
西山宗因と京都(牢人生活)
(2016.1.28) 
 1633年、29歳「七月、江戸から京都に戻ったのち、単身熊本に下る。九月末頃、親類縁者を残し、京都の正方の許を目指して熊本出立。二十九日、黒崎津出船。瀬戸内海を東上して、十月十二日、難波入江着船。日没頃、伏見着。十五日、入京。下京区堀川の日蓮宗本圀寺塔頭了覚院にて隠棲中の正方を訪ね、その付近に草庵を結んで本格的な牢人生活に入る。」(『西山宗因全集』第5巻、年譜)。

     京都住宅のはじめ
   かけきはやみやこに今年宿の春


 「宗因発句帳」(全集第1巻)にある。1634年、30歳の新春であろう。初句「かけきはや」は思いもかけなかった意を表す。
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本圀寺は山科に移転、跡地は西本願寺の聞法会館とその駐車場となっている。道を挟んで南側(私の立っているところ)が西本願寺である。右(東)が堀川通、左(西)に進むとが大宮通である。
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塀にに沿って左に進み、右折すると勧持院という寺が見えてくる。
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「加藤清正公御宿院の寺」と読める。『八代城主・加藤正方の遺産』(八代市立博物館未来の森ミュージアム)によると改易になった「加藤忠広はその後の重臣たちの行動について、京都六条本圀寺に移住するように指示を出していたよう」だという。正方は1644年まで牢人・加藤風庵として本圀寺門前に住む。「しかし『牢人』といえども、慎ましく本圀寺で隠棲していたわけでなく、頻繁に里村家の連歌師たちと連歌を興行し、松花堂昭乗(1582-1639)や小堀遠州(1579-1647)、大坂の豪商淀屋仐庵(1576-1643)らの茶会に出席するなど(略)、上方の文化人と交友を重ねている」とある。
「宗因発句帳」(全集第1巻)に、

    本圀寺石橋、風庵建立供養
   橋柱たてしちかひや世々の秋


があるが、資金的にも潤沢だったのである。
 
勧持院のあった猪熊通を北進、五条通に出て左折、大宮通を南進すると淳風小学校の手前に大きな碑か見えてくる。正面に「大本山本圀寺」、左に題目「南無妙法蓮華経」が見える。右に回ると「大正八年一月建之」云々とあって随分と新しい。
 時期は不明だが、こんな句がある(「宗因発句帳」)。

   牢人西国に望ありて行人に
雨はれて西に待出る五月かな
降ふらずながめくらせる五月哉
五月雨はつのぐむほどのあしべ哉
さみだれは水草ならぬ草もなし

     牢人衆所望
時しあらばむもれははてじ雪の松
凌ぎこし雪にめでけり庭の松
世はなべて雪ならぬ雪や富士の雪
遠山や雪よりいづる窓の竹


 また連句「やくわんやも」百韻(全集第3巻)に、

 浅茅生の宿かへすれは月出て
    侘牢人をまつむしの声


があって、むしろ牢人すなわち宗因の心の内をのぞき込むような思いがする。

1640年、36歳。江戸より「帰京後、伏見に居を移し、妻帯か」(『西山宗因全集』第5巻、年譜)。

 さて、伏見は広い。どこに住んでいたのか。想像するほかないが、竹田街道に面して肥後町がある。『日本歴史地名大系』によると地名の由来は肥後熊本54万石の伏見屋敷からである。また秀吉の城下町時代だが「南部に武家屋敷があり、そのほかはほぼ町家地であった」という。
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市バスの「肥後町」停留所、後ろに見えるのはドラッグストア「ダックス」の伏見肥後町店(写真では読めないか)。
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ドラッグストアの駐車場から写しました。左(北)が京都方面、右(南)が中書島方面です。

 全集第1巻の「宗因発句帳」に「伏見にて、もと住し所なれば」の詞書で連歌の発句六句がある。

月の前にみし世をもみる今宵哉
今宵又難波は月の都かな
出ばへを月もおもへるこよひかな
今宵こそ月の世中四方の宿
遠島やちかき今夜は月の宿
おとこ山名だたる月のかつら哉


 なお「西山三籟集」は同じ詞書で七句、次の句がある

月も名を宮古におもふひかり哉
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バス停付近から見た竹田街道南方向です。最初の信号を左折すると伏見区役所が出てきます。

1647年、43歳「九月、摂津中島天満宮の連歌所宗匠に就任」。
1654年、50歳「九月二十五日-二十九日、如羊こと任口興行の『伏見千句』に宗匠として出座」(全集年譜)

 任口は西岸寺の住職、その寺は肥後町から竹田街道を500メートルぐらい南下した信号を左折したところににある。「宗因発句帳」(全集第1巻)から引く。

     伏見西岸寺にて
 市のうちに山里えたりけさの雪
 けさや又初花すすき雪の庭
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西岸寺は油懸山地蔵院西岸寺、通称「油懸地蔵(あぶらかけじぞう)」として知られています。豊蔵坊信海に「西岸寺の如羊はいかいも上手なれば」という詞書で〈所がらあぶらかけたる門口(かどぐち)のすべりてはやき長老さま哉〉があります。句を付けるのが早かったのでしょう(豊蔵坊信海~その人脈、文人篇~)。
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任口(1606~1686)の墓。

【参考】
狂歌と歌謡~鯛屋貞柳とその前後の時代~

     
 柏木遊泉の墓
(2017.4.18)
  サイト「近世上方狂歌叢書50人集」に収録する柏木遊泉については、その一族でもある忍頂寺務(1886~1954)の「柏木遊泉とその子孫たち」(稿本『訪書雑録』P39~P42)が、私の調べた範囲では、これが唯一の資料である(国文学研究資料館共同研究成果報告書『近世風俗文化学の形成 ―忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』)。
 で、そこに書かれている宝林寺(兵庫県明石市材木町)を訪ねた。結論から言えば、柏木家の墓というのはあったが、めざす江戸期の墓は皆無であった。墓碑は墓碑を越えて、明石の繁栄を物語る格好の文化財と考えるのだが、まことに惜しまれる限りである。
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本堂の裏が墓地になっている。 
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右のスロープから入って左に行く。
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錦江橋から宝林寺方面を望む。右に本町。
 
  たはこ好く人ても九度三ふくのきつきあつさにむせかへるなり

 かつて「題は『苦熱』。二三句の『九度三ふく』は『九度三分』に『三伏』(夏の最も暑い時期)と煙草の『三服詰め』を掛けた。『九度』は『二十九度』の意であろうか。温度計が日本に伝わったのは平賀源内がらみで明和二(一七六五)年とされるが、このとき遊泉は生きていない、実際はもっと早かったに違いない」と書いたが、温度計を素材にしているとしか思えないのである。そして通説と異なる情報としか考えられないのであるが、如何。

【参考】
近世上方狂歌叢書50人集
夫木和歌抄の里、牧之原~清浄寺篇
(2017.4.20) 
 夫木和歌抄が作られた牧之原とはどんなところなのか。その特色も、その地と完全に無縁ではなかっただろう。清浄寺を訪ねたい、訪ねなければならない、それが長年の宿題のようになっいた。ただ鉄道が走っていない牧之原市に行くにはバスしかない。
 検索すると静岡駅まで行って藤沢駅にもどってくる。
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観光案内所で確認して藤枝口南口に回る。右がバス乗車口。
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逆方向からの写真。
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バスに揺られること43分、停留所にして30近くあっただろうか、仲町で降りる。移動の手段はマイカーなのだろう。バスの時刻表が淋しい。後ろは仲町中央公民館である。
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前の道を南下、橋を渡って右折すると寺らしきものが見えてくる。方向音痴としては幸運であった。
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門をくぐって右側に説明板があった。
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拡大すると、読めるか?
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本堂に向かって左側を回って眺めると、中腹あたりに、それらしき建物が見える。
 
あれだ!
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墓地の最上段である。
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植物の影が邪魔しているが、拡大すると、やはり読める。
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右に回ると、こんな感じ。
 
下から、コンクリートの壁に立って、足下がこわい。
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振り向くと本堂、その向こうに駿河湾が見える。
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本堂を写すのが後になった。
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もう少し下がって撮影。
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本堂の右側からも一枚、写っていないが、この右側が駐車場になっていて墓参りに来た人が車で去っていった。高齢になっても免許証の返還は難しいだろう。
 たぶん、その昔、阿仏尼が通った道も、その息子・冷泉為相が立ち寄った勝間田長清の館も、このあたりだったのだろう。駿河湾を望む地に立ちながら、そんなことを思った。そんな空気を吸ったのである。  【参考】
夫木和歌抄の歌人たち
夫木和歌抄と狂歌
 夫木和歌抄の里、牧之原~勝間田城址篇
(2017.4.20) 
10時半、東海タクシーに電話して、清浄寺に来てもらい、勝間田城址まで運んでもらう。車の乗り入れはできないはずだが舗装路が続くので、不安だが登っていく(たぶん茶の栽培農家のためなのだろう、これはあとで分かったことである)。 
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出曲輪というのが見えてきて安心する。曲輪(くるわ)とは「城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画」(大辞林)をいう。出曲輪は「城から張り出して、あるいは少し離して設けた曲輪。出丸」(大辞林)である。
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しばらく歩くと石碑が出てきた。安心。
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さらに進むと「三の曲輪」、この奥に進むと土塁の看板が立っていた。
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近づきすぎてしまったようである。
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三の曲輪の斜め右側に西三の曲輪。
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それに対するような左に二の曲輪、土塁の看板も見える。
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けっこう広い。
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礎石風の説明盤(クリックし、拡大すれば読めるか)。
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やはり礎石風の案内蕃、読めるか。
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看板はなかったように思うが北尾根曲輪ⅠとⅡとあるⅠの方であろうか。藤原(勝間田)長清の「下荻もかつ穂にいづる夕露に宿かりそむる秋の三日月」(玉葉集)の碑が建つ。
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いよいよ本曲輪である。
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本曲輪。説明板、城跡寄進の碑、祠などかあったが、省略。
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本曲輪を下りて、すこし行くと左に南曲輪がある。写真では簡単に登れそうだが、左の斜面で足を滑らすと、道(たぶん尾根)まで這い上がってこれない予感がしたので止めた。この先にまだ何か(腰曲輪)ありそうたったが、足を滑らすと新聞種である。引き戻すことにした。
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本曲輪の右下つまり西側に一段と高くなっている土地があったので登ってみた。あとで東尾根曲輪だと分かった。
 
東尾根曲輪から眼下を一枚。
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下山しつつ振り返ると東尾根曲輪の樹木が高く屹立しているのが分かる。
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二の曲輪からの出口、両側が土塁(だろう)。
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三の曲輪からの出口、やはり両側が土塁と思われる。
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しばらく歩くと勝間田城跡の碑が見えてくる。
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さらに進むと‥。
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出曲輪が見えてくる。左は茶畑である。
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下山の途中も茶畑である。急な坂だが、写真に撮ると、その茶畑の緑にかき消されるようである。
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ほぼ下山して、いま来た道を写すが、やはり意に反して、のどかな茶畑が続く。
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初めて案内図をゆっくりと見た。
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フィルムを逆送するようだが、カメラを構えている背後からやってきた。まっすぐ進んで勝間田川を渡って県道233号に出てバス停を探すか、遠くてももと来た道をもどるか、方向音痴は後者を選択した。12時16分のバスには間に合わない。金谷駅まで歩くほかない。こんなときのための毎朝のウオーキングなのだ。あきらめかけていた。
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振り返ると、これから帰っていく道である。右に城跡の案内図が写っている。
 
左に勝間田城跡の看板が見える。やってきたのは背後の右からである。
 
勝間田川と県道233号が見えてきた。バス停は橋を渡って左側、距離は分からない。しかし、もしかしたら間に合うかも知れないと思えるようになってきた。
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必死で走った。朝のウオーキングで培ってきたのは、このようなときのためであった。

バスに乗れた幸運は、走り出してすぐに分かった。坂と曲がり角、これに方向音痴が加わるのだから大変であったろう。無事に金谷駅に降り立った。
 
金谷駅の駅前風景である。バスは左からやってきた。
 なお勝間田城の築城は夫木和歌抄の完成以後、つまり藤原長清の後世代による。その長清の館は不明であるが、このような都から離れたところで編纂されたことと、それが近世において狂歌や俳諧に影響を与えたこととの間に、ある種の符号を覚えずにはいられないのである。

【参考】
夫木和歌抄の歌人たち
夫木和歌抄と狂歌
夫木和歌抄の里、牧之原市はは鉄道が走っていない。机上旅行を繰り返したものの不安は解消しない。念のために男性用尿ケア専用紙パンツもはいていったが、寺にも、城址の登り口にもトイレがあり、こちらは杞憂に終わった。

家を出たのは5時過ぎ、以下、次のとおりである。
新大阪    6時23分発 JR新幹線のぞみ100号。
名古屋    7時13分着。
       7時18分発 JR新幹線ひかり504号。
静岡     8時10分着。
       8時17分発 JR東海道本線
藤枝     8時36分着。
藤枝口南口  9時00分発 しずてつジャストライン、藤枝相良線(1時間に1本である)。
仲町     9時43分着 740円

    清浄寺

東海タクシーに電話、勝間田城址まで乗る。3060円。

    勝間田城址

風光院前  12時16分発 自主運行 勝間田線(これを逃すと15時16分までない。必至だった。客は私一人)。
金谷駅前  12時36分着
金谷    12時53分発 JR東海等本線
浜松    13時32分着
浜松    13時55分発 JR新幹線こだま653号。
新大阪   15時50分着

帰宅は16時半、歩数は14209歩だった。

 
 糟谷磯丸行(1/2)
(2019.8.20)
 5時22分発の川西池田発のJRに乗る。新幹線のぞみで名古屋、こだまで豊橋、8時11分発の飯田線天竜峡行きに乗って新城着8時50分、タクシーに乗り換え白鳥神社を目指す。国道301号。想像もしなかった山の中の道、ヘアピンカーブ、「私の若い頃は林道みたいな‥」、耳がキーンとして運転手さんの声が聞こえにくい。高く上って、今度は下がり、人家も見えてくる。あそこを右に曲がったところが白鳥神社です。「そしたら近くのバス停のところまで行って下さい。時間を確認します」と、そこで下りて6810円を払った。しかし時刻表が、地名も分からず、二本あってよく分からない。運転手さんが下りてきて次は12時51分だという。雨の中、ここで待つのは大変だから、あの信号を右に曲がったら屋根のあるバス停がある。あそこからバスが出るから。「ありがとうございます。そしたら神社へ行ってきます」。歩き始めると、料金はいらないから。言葉に甘えて乗せてもらう。しかし、ことは違う。白鳥神社は、このあたりに10幾つあるらしい。安江茂の『伊良湖の歌ひじり 糟谷磯丸』の194頁を開いて見せる。「木が二本あるけど鳥居がない。階段もない。前を川が流れていると思うんですよ」。運転手さんは再び私を乗せて走り出した。聞くにも人がいないな。その人を見つけて聞いてくりる。あまりにも悪いのでメーターを立てて走ってくれとお願いする。そうして辿りついたのが目的の白鳥神社である。料金720円を払う。 
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9時31分。場所は「新城市作手高里宮前」らしい。無人。安江によると作手村の人たちは「彼の没した後も村人たちが磯丸を慕う気持は変らず、五十五神社の傍らに磯丸を神とする磯丸神社を祀った。この五十五神社と磯丸神社は明治六年に同村川尻の白鳥神社に合祀されて現在に至っている」とあるが、そうした記載は見られない。勿体ない話である。
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安江茂『伊良湖の歌ひじり 糟谷磯丸』の194頁、『新編 磯丸全集』の口絵の写真と同じである。なお『漁夫歌人 糟谷磯丸展』の年譜天保14年、『補遺編 磯丸全集』の年譜の天保14年、夏目隆文『漁夫歌人 糟谷磯丸』の年譜の天保14年に「白馬神社」とある。白鳥神社の誤りであろう。
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前を流れているのは巴川、来た方向を映す。
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帰り道、川尻というバス停が出てくる。補強資料である。
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十二所神社。ますます確信を強くする。
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右、標柱。
正面、本殿。
左、「磯丸歌碑」案内板。
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安江茂の『伊良湖の歌ひじり 糟谷磯丸』の229頁から231頁に「里の栄歌碑 新城市作出高里・十二所神社境内」によると「奉納 萬代をまもりまします 神かけて/里の栄を いのることのは/里の栄を いのることのは/天保十四年卯九 八十翁 磯丸」とあるらしい。「奉納」の文字は読める。
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二代目歌碑。昭和54年の建立とある。
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鳥居の左に見えるのは歴史民俗資料館、このあと訪ねダが閉まっていた。
 
最初に尋ねた白鳥神社に行ってきた。
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時刻表を確認する。10時31分、2時間と20分を潰さなければならない。
 12時50分のバスで作手高里から乗って新城栄町下車、400円であった。飯田線で豊橋までもどり、渥美線で三河田原で下車、バスに乗って伊良湖シーパーク前で下車、予約しておいた龍宮之宿に向かう。17時、看板には私ともう一人の名前が書いてあるのみであった。
 歩数は10807歩だった。
 【参考】
まじない歌の世界
~もしくは幸福論~
 糟谷磯丸行(2/2)
(2019.8.21)
 7時にホテルを出る。バス停の明神、信号を右に曲がる。三河田原方面なら左折である。しばらく進むと鳥居が見えてきた。左を見ると灯籠が見える。 
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参道としては、この道らしい。ずいぶんと長い。
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その手前にあった「伊良湖集落移転百周年記念碑」。

右を御覧下さい。
 伊良湖集落移転百周年事業。安江茂『伊良湖の歌ひじり 糟谷磯丸』の34頁に「磯丸の家は、伊良湖明神の参道登り口の傍らにあった。(略)、麓にひらけたわずかの平地に、寄り添うようにして民家が並び、そこから山の上の本殿まで、急坂の参道が木々の間をうねりながら九十九(つくも)折に続き、参道の両側には小さな祠(ほこら)ゆ石灯籠が点在している。(略)/明治三十九年、この地に日本陸軍の試験場が建設され、伊良湖明神と麓の集落は、全村を挙げて一、五キロほど内陸寄りの現在地に移った。そこに建つ記念碑には『被収容土地二百十七町七畝二十一歩、価格金九萬七千九百十圓四十一銭、移転個数壹百拾弐戸、人口七百弐拾九人なりき』と当時の部落の概要が簡潔に記録されている。/かつての明神山は今は国の管理する自然保護林で、亜熱帯性広葉樹が生い茂っている。その茂みの中にわずかに残る石段の跡が往事を偲ばせるが、鬱蒼たる原生林には蔓性の灌木が行く手を阻んでいて、容易に近づくこともできない。したがって、当時の磯丸が日参した本殿の位置や、境内の伊勢神宮遙拝所から伊勢湾を望む眺望を追体験することはできないが、渥美半島の先端近くに鉢を伏せたように盛り上がっている明神山からの見晴らしは、さぞ見事だったに違いない」とある。
 明治39(1906)年から100年とすると平成18(2006)年ということになる。 
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 鳥居をくぐる。
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社務所を左に過ぎて、手水舎を右に見て、左折した左側である。
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磯丸霊神祠
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 「糟谷磯丸里」の碑。
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左に磯丸霊神祠、右に旧里の碑。
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入り口の「磯丸廟」案内板。
 
安江茂の本の磯丸年譜の天保五年(75歳)に「九月・遠江の国中泉の青山維明が発起人となり、磯丸の和歌の効験を称え、伊良湖明神へ石燈籠奉献の運動起る。天保七年正月頃完成奉献」とある。その石灯籠はどこにあるのか。わからない。で安江本の口絵に写っている写真の石段が四層、その下の自然石の形状をたよりに探すと、この石灯籠だろうという結論になった。
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磯丸廟の前、本殿に向かう階段を上った右側にある石灯籠である。
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階段を上ると左に本殿。
 
参道の入り口を出て右折、振り返ったところ。磯丸の墓に行くのである。『新編 磯丸全集』の口絵に写真があって「伊良湖圓通院墓地の磯丸墓碑銘に『歌貞良道居士嘉永元年五月三日』とあり」とある。ネットで調べると圓通院から少し離れたところにあり、分かりにくい。このためレンタサイクルで自転車を借りることも考えたが、9時からの営業なので諦めたのであった。
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「歌人の」その下が読めないが、期待が湧いてくる。
 
見つけられない。行き会った年配の男性に聞くと、墓は北側だという。安江本の23頁に写真のある「伊良湖村跡地に建つ記念碑と磯丸の塚」のことを言っているらしい。地元でも知られていないらしい。さらに歩いたが、諦めて国道42号に出た。
 見えているのは日出の石門である。
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セミが二匹とまっているのでシャッターを切った。暑い。朝抜き、ドリンクなし。
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椰子の実記念碑。
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気が遠くなる。
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伊良湖崎の磯丸像である。左(磯丸からすると右)に道の駅かある。右に進むと遊歩道である。
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遊歩道を進んで振り返ったところ。磯丸の歌碑群が並んでいる。
 
反対方向を望む。だれも歩いていない。
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左正面にフェリー乗り場。
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11時50分発のフェリーに乗船。
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「伊良湖村跡地に建つ記念碑と磯丸の塚」方面を望む。昨日、バスの中から、それらしいのが見えていたのが思い出される。これと墓を見つけられなかったことが小さな悔いとして残る。
 近鉄の中之郷駅13時22分発、五十鈴川着13時36分、乗り換え、14時18分発の急行で16時45分に鶴橋着、JRに乗り換えて、ようやくもどってきた気分になる。17時50分、自宅着。歩数は19541歩だった。  【参考】
まじない歌の世界
~もしくは幸福論~
   


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