まじない歌の世界~もしくは幸福論~


 目 次

   はじめに


   Ⅰ まじない歌の世界~もしくは幸福論~

    参考図書

(帯分)
きっかけは物差しの裏に書いてあったという歌の検索にあった。全く未知の世界、しかし二つの見立てが私の前進を支えてくれることになった。一つは呪い歌とは幸福論であること、今一つは五句三十一音詩という豊かな、そして全てを包括する詩型への畏敬にほかならなかった。 
  まじない歌の世界~もしくは幸福論~(2)


  Ⅱ 人から神へ~糟谷磯丸の世界~
    糟谷磯丸とは
    年譜で読む呪い歌
    年代不詳の呪い歌
  さいごに


 はじめに

 呪い歌について触れたのは現代歌人協会の会報一五八(平成三十一年四月三十日 2 発行)に掲載した「記憶以前、記憶以後」(初めて出会った歌)が最初である。
 次のような内容である。

   所蔵する本では『啄木歌集』(角川文庫)が昭和四十二年、『日本の詩歌』(中 央公論社)も第五巻の『石川啄木』が昭和四十二年で十六歳、一番早い。しかし 〈太平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も寝られず〉を社会科の教科書で 見たのは、それより早いかも知れない。新聞やテレビで知る宮中歌会始はもっと 古くから出会っている。百人一首然り、「君が代」などは五七五七七と気づかず に歌ってきた。さらに記憶は曖昧そして記憶以前となるが、記憶以前とは古人と 共有する記憶の謂いでもある。
  白山の峯の木蔭にやすらひて静かにすめる雷の島影
  千早ぶる卯月八日は吉日よかみさげ虫を成敗ぞする
   一首目は雷よけの歌、二首目は虫よけの歌、四句はウジ虫のことをいう。
    あと裁縫の上達を願う歌で、竹尺の裏に書かれていたというのだが、困ったこ とにその記事と再会できないでいる。

 物差しの裏の歌が、これを書いてからいよいよ私の中で大きくなっていった。五 七五七七が生活に溶け込んでいる、豊かで素晴らしい時代の証し、として映ったの である。何から手をつけたらよいのか、分からないままに、あと二首の縁で呪い歌 とは何かについて調べ始めた。まずデジタル大辞泉で「呪い歌」を引く。

 陰陽師や祈祷師が祈祷の場を清めるために唱える歌。また、福を呼び込み、災い や魔物を避けるために唱える歌。例えば、火除けの歌「霜柱氷のはりに雪のけた 雨のたるきに露のふき草」の類。

 次に日本大百科全書(ニッポニカ)で「和歌」を引くと「短歌から連歌(れん が)が分化し、それが俳諧(はいかい)(連句(れんく))を生じたし、短歌形式の ものでは優美さから外れた狂歌(きょうか)や、風刺性をもつ落首(らくしゅ)、教訓のための道歌(どうか)、さらには歌(うた)占いやまじない歌まで、日本の 伝統詩歌には短歌に根ざすものが多く、歌謡形式にも大きな影響を与えている」と いう箇所が目に止まる。やはり呪い歌に当たってみるよりないだろう。
 ところで私は五七五七七の総称として和歌という言葉を使わない。万葉集の時代 は五七五七七が単独で登場するときは歌、長歌とセットで登場するときは短歌であ る。いずれの場合も和歌ではない。和歌は勅選の漢詩文集を経た古今和歌集からで ある。しかも和歌は短歌の全てをカバーしなかった。その空白部分を狂歌が占めた のである。特に近世において近代語を導入した狂歌と、古代語を一歩も出なかった和歌の差は歴然として、現代に尾を引いている。これを三十一文字、正確には五句 三十一音詩と呼ぶのであるが、先の「和歌」から拾えば落首、道歌、歌占い、呪い歌も、文学というよりは生活に溶け込んだ五句三十一音詩といえよう。
 ともあれ全く未知の世界を歩きながらも、二つの見立てが私の前進を支えてくれ ることになった。一つは呪い歌とは幸福論であること、今一つは五句三十一音詩と いう豊かな、そして全てを包括する詩型への畏敬にほかならなかった。

  御詠歌に落首に道歌呪文歌とみそひともじは最強である

 Ⅰ まじない歌の世界~もしくは幸福論~

 秋過ぎて冬の初めは十月に霜枯れゆけば虫の音もなし

 「虫腹咒」(寄生虫を駆除する呪歌)。一六八四年に刊行された『邪兇呪禁法則(じやきようじゆごんほつそく)』(柏書房『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)より引用する。翻刻は片仮名混じりだが解説の表記に従った(いずれも羽田守快(はねだしゅかい))。もう一首ある。

  秋風は冬の初めに立つ物を木草(こぐさ)も枯るる虫も静まる

 一七八一年に刊行された『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』に花部英雄と古屋綾子編として翻刻と注釈が収録されている)にも「虫腹(むしはら)のまじなひの事」として同様の二首が載る。但し掲出歌の四句は「霜かれたけバ」になっている。また「此二首よめバふしぎきミやう也」とある。注釈では「腹痛みのまじない」として『符呪集』『秘密妙知伝重宝記』からも引用している。

 あさか山影さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかは

 『古今和歌六帖』(九六五)にある歌である。花部英雄著『呪歌と説話』の「歌 から転用した呪歌一覧」にあるが、掲出歌を呪歌とする例が二例ある。いずれも狩 猟の呪い歌である。永松敦著『狩猟民俗と修験道』が収録する近世の薩摩・大隅地 方の『山神作法之事』から「鉄砲持山ニ入時」(掲出歌)「泊リ山ニ鉄砲ヲ持時」 「マムシノズモン」「山からノズ モン」(「ズモン」は「呪文」)を引用する。

  朝ノ山かけさヘミれは山のいのあさくハ人をおまんものかわ
  君か代は久しかるへきためしにそそ矢をねしきに弓を枕に 三反
  ツチニシキワガサマタケニナルナラハヒメモルキミニカリテトラセン 三反
  やまからやわか行さきにあるならハやまたつミこにかりてとらせん

 朝日さす甲賀の山の真葛(さねかずら)根をさし切れば枝も枯れけり

 「腫物刑事」(腫れ物を治す呪い事)。一六八四年刊『邪兇呪禁法則(じやきようじゆごんほつそく)』(解説・解題 羽田守快(はねだしゆかい)『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)より引用する。もう一首ある。

  大ばくやばくやが作りし剣なれば腫るる物は腫れもあがらず

 『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』は原文、翻刻、解説よりなるが、解説は「小刀を筆にして歌を腫物の上に書く。もちろん腫物を切らないように書く。その際には、/『(掲出歌)』/『(二首目)』/『老いる者はえもあがらず汝(なれ)はこれ、きらう丸(まろ)ぞかい、とくとくまかり帰りてもとの肌へと成るべし』と、歌を詠みながらアビラウンケンの梵字と九字(四竪五横)を切る」とある。「九字」は「空中に指先でえがくかたち。縦四本、横五本の線から成る符字」(日本国語大辞典)をいう。
 

 朝日さすちがや畑に昼寝してわらびの恩を忘れたかあびらうんけんそわか

 中島惠子は「続 女の暮らしとまじないの歌」(一九八一年「女性と経験」復刊六号)で小說中の呪い歌を「宇都宮市在住の作家、立松和平の『遠雷』という小説には、呪禁を唱える二人の女が描かれている。選挙違反した父親が警察に連れて行かれたあと母親は『(掲出歌)』と三度くり返し、これはマムシに噛まれた時の毒消しのおまじないで、『これいうと、いつも父ちゃん微罪で帰ってくんだよお』と息子に説明する。また呆けの進んだ祖母は、近くの団地に救急車がきて妊婦を連れていった話など聞くと、かつて村の産婆だった時に唱えた、/朝日さす、たかがまはらの、みのりのふねもうち乗りてさおもささずも、いそぎまいる。あびらうんけんそわか/を腹の底から声を絞り上げて唱えるのである」と紹介している。
 河出文庫で読んだが、順番は、祖母そして佳境に入っての母の呪い歌である。
 

 朝日さす夕日輝く唐ユムギ余所へ散らさでここで枯らさん

「腫物咒事」(腫れ物をなおす呪い事)一六八四年刊の『邪兇呪禁法則(じやきようごんほつそく)』 (羽田守快(はねだしゆかい)解説解題『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の翻刻を見ると「呪符」の右上に「男順」、左上には「女逆」、「呪符」の下に「後【梵字】字を書く/「腫物咒歌 (掲出歌)三返念仏/四十八遍」とある。解説には「順は右転、逆は左転にまわす書き様のこと、『後ボロン字書』とは重ね書きをするのである。いずれも腫物の上に書く。歌には『(掲出歌)』。『ユムギ』は蓬(よもぎ)のことか」とある。
 同じ呪い歌を収録する一七八一年刊の『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』所収)には歌のあと「右三べんよミてその次に念仏四十八へんとなふべし又次にこの符(ふう)をしゆもつのうへにかくべし」(「符」以下省略)とある。注釈に「からゆむぎ」は「男蓬。キク科の多年草。汁は皮膚病に効く」とする。
 
 あさひめのをしへはじめしからころもたつたびごとによろこびぞます

 物指しの裏に書く呪い歌。「女性と経験 復刊(5)」(一九八〇年)所載の「女の暮らしとまじないの歌」(中島惠子)から引用する。もう一首ある。

  からくにのあられえびすのきぬなればときをも日をもきらはざりけり

 以下本文「裁ち物するときの呪いの歌を物指しの裏に書いておき、その物指しを使えば、歌よみしなくとも、日をえらばずに着物を裁つことができると言われている。文化八年刊の『染物重宝記』にも『ものさしにかくうた』として次の二種(ママ)を記す。/略/各地に見られる裁ち物の呪いの歌は、多少の変化はあるものの、右の二つの歌と同系のものが多い」とある。また「江戸時代の女子用の教養書にもひろくとり入れられてきた」として書名をあげるが、如何せん、翻刻されていない。
 
 あしハらやチはらのさとのひるぎつねひるハなくとも夜(よる)はななきそ

 夜泣きの呪い。一七八一年刊の『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』所収の翻刻と注釈に拠る)に「夜なきする子のまじなひ」がある。

  ひとよるハなくともひるなななきそとよミがへるなりけいなりとのへと

 計二首「右の哥をよミよミ男子(なんし)ハひだりのみみより吹入(ふきいれ)べし女子(によし)ハ右のみみよりふきいれべし」。一首目の初二句「葦原、茅原は狐の棲息地」、二首目の結句八音は「警なり、警告するの意か」、呪い歌を「耳から直接体内に入れ、侵入した狐の霊を追出す」とある。なお一八四二年刊の『新撰咒咀調法記大全』(八幡書店)も同様だが、二首目の結句が「けなりとのベ」と六音である。この本は上段が江戸時代の刊本、下段が明治時代の活字本だが、上段は「け、なりとのベ」に見える。
 
 あふ坂やしけミが峠(とう)のかぎわらび其むかしの女こそ薬なりけり

 蛇よけの呪い。『増補咒咀調法記大全』(一七八一年刊、花部英雄著『まじないの文化誌』所収の翻刻と注釈に拠った)に「蛇咬(へびくい)のまじなひの事」として、

  明藏主(ミやうさうす)いふともことをわするるなかハたつ女氏(むすめうじ)ハすがハら

の二首を載せる。掲出歌は注釈に「この歌は、蕨が茅の芽で動けない蛇を助けたという昔話『蕨の恩』の呪歌と同じ」、二首目だが「この歌は、河童(水難)除けの呪い歌『ひよふすべよ約束せしを忘るるな川だち男うじはすかはら』(『耳袋』)と同類」とある。「蕨の恩」とは「ヘビが昼寝している間にチガヤが伸びてヘビの体を突き刺した。ヘビが苦しんでいるとワラビがそのやわらかい手でヘビを持ち上げてチガヤを抜いてくれた」(『日本俗信辞典』中「蛇」)というものと思われる。
 
 あらちをのかるやのさきにたつしかもちがへをすればちがふとぞきく

 夢違えの呪い。藤原清輔(一一〇四~一一七七)著『袋草紙』上巻に「誦文(じゆもん)の歌」(呪文の歌)として載る。題は「吉備大臣夢違への誦文の歌」、吉備大臣は吉備真備(六九五~七七五)である。脚注に頼るが「『夢違へ』は『夢違ひ』とも。悪夢を見た時、災いを避けられるよう呪いをすること」。一首の意は「勇猛な男が狩をする矢の前に立つ鹿でも『ちがへ』をすれば男は矢をはずすと聞いている。『ちがへ』は『前脚を交差させる動作』(伴信友・比古婆衣)とする説がある」。
 石橋臥波の『二十世紀大雑書第一巻(民俗叢書第三編)』に収められている「夢の弁」(国立国会図書館デジタルコレクション、六〇から六一コマ)に「悪夢を吉夢に変へるには、(掲出歌)/といふ歌を誦(じゆ)する時は、しるしがある。これらの方法を夢ちがへといって居る」とある。「ちがへ」と「ちがふ」が注意を引く。
 
 いざさらば竜田の山の薄モミジ人の心にあきの来ぬ間に

 『日本俗信辞典』(角川書店)で「紅葉」を引くと「長居の客を帰すには、その客の下駄を吹きつつ、『(掲出歌)』と唱える(奈良)」がある。これで思い出したのが「箒」である。『江戸文学俗信辞典』(東京堂出版)には「いつまでも帰らない客を帰すのに箒を逆さまに立てかける。長居の客を退散させる呪いで、その箒に手拭を頬かむりにかける時もある。履物の裏に灸をすえて客を帰す呪いと同様であるが、このほうは廃れて、ほうきのまじないだけ最近まで残っていた」云々とある。

  さかさまにたてし箒に似ながらも野辺の尾花はなど招くらん
  さかさまはいなざる客のたて帚美女のたとへにつりしびいどろ

 一首目は『狂歌新三栗集』、二首目は『狂歌かがみやま』からの引用である。
 
 いしずゑの柱うごかばけたぬきのさはりとなりて住うかるらん

 化け狸を退治する呪い歌。『嬉遊笑覧(一)』の「居処(いどころ)」に「逆(さか)ばしらある家は家鳴(ヤナリ)などするものとか。(略)、『京に住人(すむひと)とかや、狸の所為とて、夜毎に家をゆる事ありて、祈祷などさまざますれども更にしるしなくて、せんすべなしと人に語りけるを、純全といふ者聞て一首の狂歌よみて贈りぬ。*礎の柱動かば桁貫の障りとなりて住(すみ)憂かるらん(漢字変換=筆者)。是にや感じけむ、其後は家ゆることやみにけるとぞ』。純全は甘露寺殿の雑掌、寺田宮内といふものの号也といへり。さか柱などいふも押あてにいふこと多く、大かた狐狸のわざなるべし。」とある。
 純全すなわち自然軒純全(じねんけんどんぜん)の狂歌は『五色集』『興歌老の胡馬』『朋ちから』『興太郎』『興歌河内羽二重』『夷曲哥ねぶつ』(いずれも「近世上方狂歌叢書」)で見ることができるが、残念ながら、掲出歌は確認することができなかった。
 
 いせのいのいせののけはぞいせにすむいせに帰りていせにこそすめ

 喉に棘が刺さったときの呪い歌。榎本弥左衛門(一六二五~一六八六)の『榎本弥左衛門覚書 近世初期商人の記録』(東洋文庫)の「万之覚(よろずのおぼえ)」に「のどへとげ立(たて)候時、めいよまじない歌、『いせのいの、いせののけはぞ、いせにすむ、いせへ帰りていせにこそすめ』右ノ哥水の上にてよみ、あひらうんけんを三べん申、水のませ候」とある。「めいよ」は面妖、「あひらうんけん」は阿毘羅吽欠(阿毘羅吽欠蘇婆訶の略)。これに続けて、喉に刺さった魚の骨を除く呪いがある。

  うのはふくうのはの風にさそわれて行衛も知らぬうをのほねかな

 「のどへうおのほね立たる時、めいよ歌、『うのはふく、うのはの風に、さそわれて、行衛(ゆくえ)も知らぬ、うをのほねかな』」で、することは同じである。
 
 急ぐとも心静かに手を添えて外に漏らすな松茸の露

 「西郊民俗談話会」のHP連載「民俗学の散歩道」(二〇〇九年十一月号)に長沢利明が「歌よみの国」を書いている。一九五四年生まれの氏、「学生時代の私は、毎晩のように仲間と酒場を飲み歩いていたのであるが、居酒屋の男子便所に用足しに行くと、目の前の便器の上の壁に歌を書いた紙が貼ってある。その歌は、『(掲出歌)』というもので、うまいことを言うものだなと感心しつつ、思わず便器に向かって一歩前に進み、こぼさぬように気をつけた覚えがある」というのである。  これで思い出したことがある。日記によると二〇〇〇年八月二十八日、鹿屋航空基地史料館の便所に入ったら「一歩前進捧げつつ/君のはそんなに長くない/手を添えて/外に漏らすな/マツタケの露」とあったのである。おそらく分かち書きだったろう。目的は辞世の取材、このあと慰霊塔に向かったのであった。
 
 妹(いも)が子は腹這(はらば)う比(ころ)に成りにけり清盛取りて養ひにせよ

 「生子夜鳴ノ符」。一六八四年刊『邪兇呪禁法則(じやきようじゆごんほつそく)』(羽田守快(はねだしゆかい)解說解題『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の解説に「生まれた子の夜泣きの符。符を書いて柱に貼る他、子供の両目の下に鬼と朱で書く。また歌詠みに」とあって二首が並ぶ。

  夜鳴きするただもり立てよ未の代に清く盛る事もあるべし

 『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』所収)は「生子(むまれこ)夜なきの符」で「【呪符】はしらにおす又いわく『鬼ト云』是を朱(しゆ)にて左右(ひだりみぎ)の目の下にかく也又此うたを三べんとなふべし」として二首が並ぶ。うち二首目の四句は「清く盛(さかへ)る」とルビがある。浅井了意の『浮世物語』には〈夜泣きすとただもりたてよ末の世に清く盛(さか)ふる人となるべし〉で登場、四句は「清く盛(さか)ふる」である。
 
 うちとけてもしもまどろむ事あらはひきおとろかせわがまくら神

 「夜(よ)るふしておきたき時おきるまじなひ」。一七八一年刊の『増補呪詛調法記大全』(花部英雄『まじないの文化誌』所収の翻刻と注釈に拠った)に「夜るねさまに大の字ひだりの手に三字かきて舌にてなむるなり/扨またまくらに/ふつにんふどうゆんたいにち/此遍をまくらに書(かく)なり/うたに/(掲出歌)/三べんよむべし/此まじないをきたき時目さむる又大事あれバをのずからしる法也」とある。注釈を見ると「起床のまじない」、清音の「おとろかす」だが「おとろかすは目を覚まさせるの意」とある。また「枕に呪力を施し、夢枕の神の力を借りて希望する時間に起きようとする意図のまじない。夜寝る前に『ほのぼのと明石の浦の朝霧に』と三べん唱えると希望の時間に目が覚め、起きたら『島隠れゆく船をしぞ思ふ』と三べん唱えるといい(「夢合延寿袋大成」)というまじない歌もある」という。
 
 鵜(う)の鳥の羽(は)がいの上に觜(はし)置(おき)て骨かみながせ伊勢の神風

喉に骨が刺さったときの呪い。根岸鎮衛(ねぎしやすもり)(一七三五~一八一五)著『耳袋』の巻之四から「喉へ骨を立(たて)し時呪(まじない)の事」(岩波文庫『耳袋』中)を引用する。

  小児など喉へ魚の骨を立て難儀の時、「鵜(う)の鳥の羽(は)がいの上に觜(はし)置(おき)て骨かみながせ伊勢の神風」と、三辺(べん)唱へて撫(なず)れば抜(ぬく)る事奇々妙々のよし、或人語りけるなり。

 「鵜」で思い出すのが『増補咒咀調法記大全』(一七八一年刊、花部英雄著『ま じないの文化誌』所収の翻刻と注釈に拠った)の「喉に魚の骨立(たち)たる時の咒(ましない)」の「鵜ののどと三遍となふべし」だが、注釈に鵜飼の鵜からの連想とあった。また「伊勢」と「風」からは榎本弥左衛門が伝える呪文との関連が思われた。
 
 うのみこのうえくう事をのうにしてこうのふちえぞちようといりけり

 「喉気咒事」(喉の不調をなおす呪い事)。一六八四年に刊行された『邪兇呪禁法則』(柏書房『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の翻刻は「生 此字を指にて三つ書其の指にてをさえて云 三返/(掲出歌)」である。解説は「指先にて生という字を三つ書き、喉を押さえて呪歌を詠む。『(掲出歌)』。『うのみこ』とあるのは鵜のことか。鵜は飲むことが自在であるゆえこれにあやかる呪歌か」である。
 一七八一年刊の『増補呪詛調法記大全』(花部英雄『まじないの文化誌』)は結句が「ひやうと入けり」だが、注釈で「う音を多用するこの歌は、鵜の咽喉を意識させることで腫れを鎮めようという思考を示したものであろうか」とする。
 なお一八四二年に刊行された『新撰咒咀調法記大全』(八幡書店)も同歌を「喉脾(こうひ)のまじなひ」として掲載するが初句は「このことの」となっている。
 
 梅が香のその木ばかりは匂い来て異木の花は移らざりけり

 一六八四年刊『邪兇呪禁法則』(解説・解題、羽田守快『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の翻刻文は「疾病除之守」(疾病除けのお守り)に続く「△同除守 梅か香の其の木計りは匂い来て異木の花は移らざりけりと書也【梵字】蘇民将来之孫也/是を天神の梅の守と云也 裏芸【呪符】」である。解説は「(掲出歌)と書く。梵字は『カン』で不動明王を表す。通常は牛頭天王の本地(ほんじ)である薬師如来を表す、『ベイ』もしくは『バイ』という梵字が多い。つづいて蘇民将来の子孫と書く。/『天神の梅の守り』といわれるものには、梅の種の核を去りそのなかに忍ばせるものがある。裏に曰く、『行バンカンボロン』と書く」とある。なお文中の「蘇民将来」は「神に宿を貸した善行により茅(ち)の輪の法を教えられ、子孫に至るまで災厄を免れることを約束された説話上の貧者の名」(デジタル大辞泉)をいう。
 
 大坂や八坂坂中鯖ひとつ行基にくれて馬のはら止む

 中島惠子の「まじないの歌」(一九八一年「月刊百科」二二〇号)によると「阿波から土佐へ越えようとする八坂矢浜の中ほどに、鯖大師という」(「大坂」は「大きい坂」)行基の伝説がある。塩鯖の荷を馬に付けた男に、行基が一匹を所望したところ、聞き入れないだけでなく、悪口雑言、通り過ぎようとした。そこで、

  大坂や八坂坂中鯖ひとつ行基にくれで馬の腹病む

と詠むと、馬は苦しみ、歩かなくなった。男は驚き、無礼をわびて鯖を献上した。今度は「くれで」を「くれて」、「病む」を「止む」にすると馬は元気になった。『雲錦随筆』(一八六二年)の記事だそうだが、各地へ伝わる中、馬の腹痛を治す呪いが、人の腹痛や競馬に勝つ呪いになったり、効果も色々だそうである。
 
 風ならハ風来風と吹されに人に当たつて何かえきれい

 山口県文書館のホームページから「行事・講座案内」「アーカイブズウィーク」その第十一回の「解説シート」「コレラの流行」を見る。一八二二年である。

 一急病遁れ候ましない歌左記之通
   風ならハ風来風と吹されに人に当たつて何かえきれい
   棟ハ八ツ門ハ九ツ戸ハ壱ツわか行先ハ柊の里
   棟ハ八ツ門ハ九ツ戸ハ壱ツみハいさなきの神代こそすめ
  右之歌を門口え張候事

 当時の萩藩の人口は約六十五万人、コレラによる死者は千九百四十人、江戸にいた藩主は二夜三日、国元では七日間、病難消除の祈祷が行われたとある。
 
 かたしはやゑかせせくりにかめるさけてゑひあしゑひわれゑひにけり

 百鬼夜行と出くわしたときの呪い。源為憲(みなもとのためのり)(?~一〇一一)の『口遊(くちずさみ)』(勉誠社『口遊注解』)の一首で注に「之を夜行の途中の歌と謂う」、注解は『簾中抄』(平安時代末期の成立、国立国会図書館デジタルコレクション)の「夜行のよあるく時の哥。(略)此哥を道にてとなふれば、百鬼夜行にあへりといへども、ことなし」を引くが、一方で特定の「子時の夜行を避け、にも関わらず、子時の夜行に当たってしまった際に唱える呪文であろう」とニュアンスの違いを見せる。
 また藤原清輔(一一〇四~一一七七)著『袋草紙』上巻に「誦文(じゆもん)の歌」(呪文の歌)として載る。題は「夜行の途中の歌」、歌は〈かたしはやわがせせくりにくめるさけてゑひあしゑひわれゑひにけり〉である。脚注に「堅い磐でも何でもこい。私は戯れに飲んだ酒で、手も酔い足も酔い、酔っ払ってしまった」とある。
 
 神もしる神もあまねくきこしめすみもすそ川のきよき水酒(ミづさけ)

 樽酒を開ける時の呪い。『増補咒咀調法記大全』(一七八一年刊、花部英雄著『まじないの文化誌』所収の翻刻と注釈に拠った)に「酒の口ひらく時の秘事」として掲出歌を含む三首をあげて「右いづれも三べんづつよむべし」とある。

  神もしる萬の神もきこしめすみもすそ川のきよきあま酒
  神もしる神ももらさずきこしめすみもすそ川の天(あま)のきき酒

 以下、注釈によるが掲出歌の三句は「飲むの尊敬語」、四句「みもすそ川」は「五十鈴川。伊勢内宮を流れる川」、三首目の結句「きき酒」は「試飲の酒」、総括して「神聖な酒を伊勢大神宮の神の加護のもとに頂こうとする趣意が示される。『符呪集』239『酒之口開加持』にある呪歌は同じ」(『符呪集』は未見)とある。
 
 神代(かみよ)より結び定めしひたち帯解くに解かれぬ神しゅせかな

 一六八四年刊『邪兇呪禁法則』(解説・解題、羽田守快『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の翻刻文は「△童子始帯之大事 先護身法如常/次小三古印明日【梵字】廿一返/次無所不至印【梵字】/次歌日ク 三遍/神代より結び定めしひたち帯ひとくにとかれぬ神しゆせかな/次弾指白掌如常云々」とある。解説は「『童子始帯之大事』『始帯』とは、赤ん坊にはじめて衣を着せることか。『小三古印明』の真言は、『オンキリキリバサラウンハッタ』。次行『無所不至印』の真言は、『アバンウンシッタ』とあるが、おそらくその末尾は『シッヂ』と梵字表記するのが正しいと思われる。呪歌に『神代より結び定めしひたち帯解くに解かれぬ神しゅせかな』」とある。呪い歌の結句、翻刻文は「神しゆせ」、解說文は「神しゅせ」、すると「しゅせ」は「受施」か。しかし「神受施」は不明、よく分からない。
 
 かむにちはたつにはじめてとほにとほひとつたらぬはさつきながつき

 「坎日(かんにち)を知る歌」(脚注に「陰陽道で凶とする日。外出・行事をはじめ諸事を見合わせる。『坎日を知るための歌』の意」)。『袋草紙』上巻「誦文(じゆもん)の歌」。さらに脚注は「坎日は、正月の辰の日に始まり、二十日を中に置いて次の月の坎日を数えるとよい。十九日を中に置くのは五月と九月だ」と続く。『国史大辞典』で「九坎(きゆうかん)」を引くと「あるいは坎日(かんにち)ともいう。具注暦には九坎と注し、仮名暦には「かん日」と注され、古くは出行および種蒔・蓋屋に凶日とされたが、近代は軽き凶日とされている。節切(せつきり)で正月は辰の日、以下、二月丑・三月戌・四月未・五月卯・六月子・七月酉・八月午・九月寅・十月亥・十一月申・十二月巳の日を九坎とする(節切の一ヵ月は、各月の節日から翌月の節日の前日までの一ヵ月をいい、たとえば節切の正月とは正月節(立春)から二月節(啓蟄)の前日までをいう)。」とある。
 
 唐国ノソノノミタケニ鳴ク鹿モチガヒヲスレバユルサレニケリ

 南北朝時代の百科便覧『拾芥抄(しゆうかいしよう)』に「夢誦」(「夢の呪い」の意か)があって、読み下すと「悪夢は草木に著く。吉夢は宝王と成る」「又説いて云う。南無功徳須弥厳王如来」「已上東を向いて水を灑(そそ)ぎ之を誦す」として掲出歌を見る。
 これと似た歌が『小栗判官(おぐりはんがん)』(東洋文庫『説経節』)にも登場する。「夢にだに、夢にさよ、心乱れて、悲しいに、自然この夢合うならば(略)、照手はなにとなろうぞの。さて明日の、蓬萊の山の門出でに、悪しき夢では、御ざなきか。お止まりあってたまわれの」と訴える姫に「小栗、このよし聞こしめし、女が夢を見たるとて、なにがしの、出(い)で申せとある所へ参らでは、かなわぬ所と思しめし、されども気にはかかると、直垂(ひたたれ)の裾を結び上げ、夢違(ゆめちが)えの文(もん)に、かくばかり、/唐国(からくに)や、園の矢先に、鳴く鹿も、ちが夢あれば、許されぞする」云々の部分である。
 
 鬼国(きこく)より作(さく)にたかりし虫なればそれ焼き散ず鹿島神風

 「田畑虫付男女病付札守開根大事」。『邪兇呪禁法則(じやきようじゆごんほつそく)』(羽田守快(はねだしゆかい)解説解題『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の解説に「一種の流行病を払う呪法と見られる。ここでいう流行病の正体は『虫』と称され、そもそもは供養されない霊の想いが虫となってさまざまの災いをなすというものである。この災いは人間一般の病から田畑の不作にいたるまで一元的に原因として想定されている。/呪歌に」

  壇(だん)飾るこれは高間の原なれば天下りたもう四方(よも)の神々

 作法の具体は省くが「これは本来施餓鬼などに用いて、浮かばれない精霊の得脱を成就するとされるもの。/(略)/呪歌に、『(掲出歌)』/全国的に不作・疾病などが発生した場合は、『鹿島神風』を『伊勢の神風』に読み替える」とある。
 
 きしひこそまつがみぎわにことのねのとこにわきみがつまぞこひしき

 「怪我をせぬ呪(まじない)札の事」。『耳袋(上)』(岩波文庫)の二之巻に天明二年、新見愛之助が登城の折「九段坂の上にて乗馬物に驚きけるや、数十丈深き御堀内へ馬と一所に転(ころ)び落(おち)けるが怪我もせず、着服等改め直(じき)に登城有りし也」。不思議がる人々に「『外に守りやうのものも無かりしが、一年(ひととせ)不思議の事ありしとて、知行(ちぎよう)の者より差越(さしこし)たる守護札有(アリ)し』とて」人に見せた由、それは「同人知行のもの、或日野に出て雉子(きじ)を射けるに、其矢雉子に当りしとおもへ共(ども)、雉子は恙(つつが)もなく敢(あえ)て立(たた)んともせざりし、弓術上手といわるる者争ひ射たりしが、外の雉子は弦(つる)に応じて斃(たお)るるといへ共右雉子に矢当らず。いづれもおどろぎて逐廻(おいまわ)し捕へけるに、羽がへに」「抬」の文字があったという。「何の訳に候や、文字も作り文字と相見(あいみえ)分りがたけれど」云々、「右呪の文字に附添居(つきそいい)候歌」となる。しかも回文である。
 
 きちきちときちめく浦にさわぐ血もこのこゑきけば流れてとどまる

 「鼻血を留る事」。一六八四年刊『邪兇呪禁法則(じやきようじゆごんほつそく)』(羽田守快(はねだしゆかい)解説解題『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の翻刻に「額に【梵字】字を書て上の点を人指すゆびにて押て心経三巻読也/又【梵字】字を書て呑せよ歌に云/『掲出歌』/三遍」、解説に「額に『バン』字を書き、バン字の上の点を人差し指で押さえながら心経三巻を読む、またバン字を符として飲ませる」とある。題の「留る」は何と読むか。
 一七八一年刊『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』)の注釈には「窮屈ですきまのないきちっとした状態であることを提示することによって、血の流れるすきまがないことへ誘導する意か」とある。題は「鼻血(はなち)とまるまじなひ」。一八四二年刊行の『新撰咒咀調法記大全』(八幡書店)にも載るが題は「鼻血をとめるまじなひ」。『邪兇呪禁法則(じやきようじゆごんほつそく)』だけが自動詞か他動詞か不明である。
 
 君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで

 山田孝雄の『君が代の研究』は舞納めの歌(鎌倉八幡宮における静御前)、隆達節、船歌、瞽女の門付など時や場所、身分を越えた「君が代」を教えてくれる。
 ところが、ここに宮内貴久は「奥会津の番匠巻物ー系譜・由来・呪い歌ー」(笹原亮二編『口頭伝承と文字文化ー文字の民俗学声の歴史学ー』)において番匠(大工)巻物に記された呪い歌二七首をアルファベットで整理し、「君が代」(Ⅰ)は「番匠巻物では、慶安年間から今日まで、綿々と『造作之大事』の呪い歌として書き継がれてきた。ただし、現段階では建築儀礼の場で、実際にⅠの歌が唱われていたかどうかは不詳である。(略)。『国歌』やイデオロギーから離れて、祝歌という本来の意味でⅠの歌詞を読むと、Ⅰは家を新築したさいに唱う祝歌としてふさわしい歌といえるのではないだろうか」と新たな「君が代」で納得させるのだ。
 
 清水や音羽の瀧は絶ゆるとも失せたる針の無きことはなし

 『江戸文学俗信辞典』で「音羽の瀧」を引くと京都には三箇所あるが「近世は音羽山清水寺の三筋の瀧がよく知られている」とし、掲出歌については「針を失った時、歌を三度唱えると失せ針が出て来るという俗信があった。(略)。裁縫の時は貴人に限らず針を大切にしたものである。この時の失せ針は危険であるので、始めと終わりに針の数を改め、見つからぬ時は『(掲出歌)』あるいは『清水や音羽の瀧は尽くるとも失せたる針の出ぬことはなし』という歌を三度唱えた」とある。
 このほか「旅と伝説」(三元社)の有賀恭一「唱ヘごと集ー長野県諏訪湖畔地方ー」(昭和九年八月号)は〈清水の音羽の瀧の白糸は失せたる針の知れぬ事なし〉を収録し、武田正は山形県で〈千丈の音羽の滝が埋まるとも失せたる針は出でぬことなし〉(『昔話世界の成立ー昔話研究序説ー』)と変型版を採集している。
 
 此路(このみち)に錦まだらの虫あらば山立姫(やまたちひめ)に告てとらせむ

 マムシ除けの呪い歌。『嬉遊笑覧(五)』(岩波文庫)に「『荻原随筆』に、『蛇の怖る歌とて、あくまたち我たつみちに横たへばやまなし姫にありと伝へむ』、といふことを載たり。是は『四神地名録』に、『多摩郡喜多見村に蛇除伊右衛門とて、毒蛇に食れしに呪ひする百姓あり。此辺土人のいへるに、蛇多き草中に入るに、伊右衛門々々と唱へていれば、蛇にくはれずと云。まもりも出す。蛇多き所は三里五里より、守りを受に来る。奇といふべし』といへり。予が聞けると件(くだん)の歌は異也、『(掲出歌)』といふ歌也。いづれよきとにはあらねども、あくまだちは赤まだらの誤(あやまり)、山なしひめは山立姫なるべし。野猪をしかいふとなん。これ蛇を好みて喰ふとぞ。」とある。なお野本寛一の『言葉の民俗 口誦と歌唱のあいだ』はマムシ除けの呪い歌を四種に分類し、山立姫型の類型として十三首を挙げている。
 
 来ぬ人をまつほのうらの夕なぎにやくやもしほの身も焦れつつ

 待ち人が来る呪い歌。定家の歌(『拾遺愚草』二五六八)だが「唱ヘごと集ー長野県諏訪湖畔地方ー」(『旅と民俗』昭和九年八月号)に、この歌を三唱とある。
 古典だと一七九五年刊『敵討義女英(かたきうちぎじよのはなぶさ)』(『江戸の戯作(パロディー)絵本(四)末期黄表紙集』(現代教養文庫)の下巻「(小しゅん)『松帆の浦のもの思い、はようお顔が見たい』/(岩次郎)『なにとぞ訪れたいものじゃ』」とある。解説に「恋人への義理立てと父親への孝のために、恋人の手にかかって殉」じた義女の物語とある。
 一八三三年刊の『柳多留 百二十一篇』(『誹風 柳多留全集 九』)には、

  嬉しいね松尾の浦かききいした

とある。なお「松尾の浦」は松帆の浦の別名、したがって誤りではない。
 
 心せよ瀬々のやはらたぬき川の水馴(みな)れてこそは身も沈(しずむ)なれ

 「歌に狸を伏する事」。『耳袋(下)』(岩波文庫)巻之十に「駿河台深谷氏、和歌を好(このみ)て折節歌の会などありしが、厩(うまや)へ度々狸出て馬を煩はせし。其(その)外時々近辺に色々の事あると言ひしを、呪(まじない)の守(まもり)を人の与へける故厩に張(はり)ければ、厩へは絶へて不出(いでず)。其つづきの中間長屋(ちゆうげんながや)に中間のうまく寝たりしを、狸来りて苦しめけるを、傍輩中間目覚て是(これ)を見出し、『例の狸来れり』と、傍輩を起し捕へんとせしが、棒やうの者も持たざれば、喰付(くいつき)などして終に取逃しぬ。其あくる夜、彼(かの)いちはやに起て傍輩を起し捕へんとせし中間、殊之外(ことのほか)うなされ苦しみければ、『又候(またぞろ)来れり』と、いろいろなせど捕得る事なし。横田袋翁歌よみて『此(この)歌もて呪にし給へ』とて、/(掲出歌)/斯(か)く詠じ与へしが、其後は狸も出ざりしとや。但(ただし)瀬々のやはらた、またぬき川の事、催馬楽(さいばら)の唄にて、源氏のうちにも書記(かきしる)しある」云々とある。
 
 西行も旅の衣に急がれて着て居て縫ふは目出度かりけり

 着物を着たまま縫うときの呪い歌である。花部英雄の『西行伝承の世界』第一部第五章「西行と呪歌」の一「西行呪歌」に登場する。掲出歌は茨城県土浦市の例、ほかに「西行」で始まり用途を同じくする類似歌(うち一首は「サイギョウ」)が五例(神奈川県伊勢原市岡崎・岐阜県稲葉郡・岐阜県本巣郡)、西行の歌として唱えられるが五七五七七になっていない一例(東京都多摩市)を挙げる。次の失せ針の呪歌もそうだが「安易に歌僧西行に直結していいのかためらわれる」として二「西行咄と昔話」、三「難題聟の謎言葉」、四「ウタヨミの民俗」(「ウタヨミ」は呪いなどの唱えごと)、五「呪術師西行の伝承」と展開する。この章の結論としては呪術師西行の側面については仮説としつつも「西行と呪歌との関わりは、民俗語彙サイギョウを含めて考えなければならない問題」とする点にあると思われる。
 
 サイキョウの麻の衣の縫う針は捨てても人の身には立つまい

 失せ針が出た時の呪い歌。地域は神奈川県伊勢原市成瀬である。あと和歌山県牟婁郡富里村の縫い針を落として危険な時の〈西行法師の麻衣ぬふ針でさえもどこのいづこのマチ針にあるやらナムアビラウンケンソワカ〉、大分県(求菩提山妙法呪詛)の「針失タルニ」から〈西行カ布ノ衣ヲ縫針ヲ何国ニ於テ我ゾ祭ラン)の二例を示す。で先の続きである。第一部「民間伝承の世界」第一章「民俗語彙サイギョウ」の一「辞書のサイギョウ」で「サイギョウという実体がいたのであり、それは歌僧西行と直接に比定される存在ではなかった」とする。二「民俗の中のサイギョウ」では「安房では大工など渡り歩く職人をサイギョウと言った」「栃木県那須地方では渡り職人のことを西行と云ふ」など多様な職種や境遇そして地域、二十九例を挙げるが、その「分布を見ると、関東とその周辺に限られる」としている。
 
 ささむささむささのささのささのささむささなければささむさもなし

 『旅と伝説』昭和九年八月号の「唱ヘごと集ー長野県諏訪湖畔地方ー」に糸くずをほぐす時は、掲出歌を唱える、とある。中島惠子の「女の暮らしとまじないの歌」(一九八〇年『女性と経験』復刊五号)であげる糸のもつれを解く呪いの歌から二首を抄出する。用途の微妙な違いよりも、歌の酷似に注目すべきだろう。

  やしゃむしゃのむしゃしゃのなかのやしゃむしゃもむしゃしゃなければやしゃ  むしゃもない
  やしゃもしゃのやしゃしゃのもしゃのやしゃもしゃのもしゃしゃもつれてもし  ゃしゃとけなん

 ちなみに一首目は静岡、二首目は山形、ほかにも類歌があるらしい。
 
 さよ姫や急いで旅に発つ時は後(のち)のものとてあとに残すなよ

 ウカガイと呼ばれる民間巫(ふ)術者が儀式を行う際の呪い歌である。四句「後のもの」とは後産(あとざん)をいう。長沢利明著『東京の民間信仰』の「桧原村の巫俗ー東京都西多摩郡桧原村ー」に載るが初出は一九七七年の『桧原村史研究』である。一八九三年生まれのE・S氏は「妊婦の身体を撫で、『歌読み』のまじないをおこなう。『(掲出歌)』という呪文を何回も唱えて祈るのがこれで、これをおこなうとイチ(後産)がまちがいなくおりて出産が終わる」と語る。夜泣き封じは耳に口を近づけて〈野原の里の白狐(しろうさぎ)、昼は鳴いても夜は鳴くなよ、アビラウンケンソワカ〉と三唱、虫歯治しには〈朝日さす夕日輝くゆむぎ他所(よそ)へ散らさずここで枯らさむ〉と十八遍、痛いところを撫でながら唱えるという。なお歌の表記は同氏の「うたよみの国」(ホームページ「西郊民俗談話会」二〇〇九年十一月号)に拠った。

 猿沢の池の大蛇が焼死て其葬を蛸がするなり

 『増補狸諺集覧』(名著刊行会)に掲出歌をあげて「一に猿沢の池の大蛇がお死にやつたおとむらいには蛸の入道に作る此歌湯火瘡(ヤケド)の時三度口の内にてとなへて水をかくる也即効と云ふ是本湯火瘡に冷水を注く事妙なりと云へるに拠て此咒をそへたるといへり」とある。三四句は「焼け死にて其の葬(とむらひ)を」と読んだ。
 なお根岸鎮衛(ねぎしやすもり)(一七三五~一八一五)著『耳袋』の巻之一に「焼尿(床)まじないの事」(岩波文庫『耳袋』上)があり、〈大沢に大蛇がやけておはします其(その)水を付(つけ)るといたまずうまずひりつかず〉という歌に続けて「右の通(とおり)唱へて水をかけ洗へば、極(きわ)めて痛みを去ると、人の物語なり」とある。注によると「焼尿」は「焼床」で火傷のことをいうらしい。また「やけどのまじないの歌は、『耳袋』の大沢を猿沢の池にして、下半は似た形のものが諸国にひろまっていた」ともある。

 猪と見てししとはいわぬならひなり猪ぞといヘバ早くいで行

 掲出歌は千葉徳爾著『狩猟伝承研究』が収録する「猪狩古秘伝(抄録)」(解說によると地名は現山口市付近の記事、時代は近世初期)に載る。寝伏の猪を見つけた時は「山鳥がおるといふへし。畜類もおのれが名をバかならすききしるものなり」とある。ほかに「宿出支度」についても所持品ほか記述があるので三首を引く。

  わすれなき火なわどふらん口薬(くちぐすり)火打袋にさてハ中食
  猪うたば鉄砲ぐわいからくしてあた落なきを肝要とせよ
  山おとのちかづくならハ火皿見よ火おばかくると火ふたはねまじ

 一首目「胴乱」は腰に下げる袋、「口薬」は火皿に置く発火薬、二首目は「具合」「辛うじて」、「徒落(あだおち)」は無駄打ち、三首目の結句は「まだ火蓋を切るな」。

 しし虫はここにはななきししらははかしみにしづがとにゆきてなきをれ

 「しし虫鳴く時の歌」(脚注「『しし虫』は馬追虫のことか(安西随筆)。鳴き声は災いの起きる前兆とされた」)。藤原清輔の『袋草紙』(岩波書店『新日本古典文学大系』)上巻に「誦文(じゆもん)の歌」(呪文の歌)として載る。一首の意、やはり脚注だが「しし虫よ、ここでは鳴かないでくれ。死ぬ死ぬと鳴くのなら、向こうの賤しい者の門口に行って鳴いていなさい、というほどの意か。第三句は意味不明。口遊は第三句『加良波々加志爾』、二中歴も同じだが『一云』として『加良比止乃志爾』」とある。幼学の会編『口遊注解』(勉誠社)は〈しし虫はここにはな鳴きからははが死にし塚処(つか)どに行きて鳴きをれ〉と字数も五句三十一音で読みやすい。また「しし虫」について「『宇鏡集』では『蟋蟀』に『シシムシ』の訓がある。またこれとは別に『日本霊異記』下、三八縁に見える『螓』に当てる説もある」という。
 
 渋柿に黄檗(きわだ)をそへて食(しよく)すればあぢハひあまく木ざハしとなる

 「渋柿をうまくするまじない」。一七八一年刊『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』所収の翻刻と注釈に拠る)に「渋柿の樹を木淡(きざハし)になすまじ なひ」として「しぶかき沢山になりたるとし木の根(ね)ぎハのまハりに錐にてあなをもミあけ木檗(きわだ)を釘にしていか程も打(うち)こミをけば其明(あく)る年より味(あぢハい)あまき樹淡(きざハし)になる也又哥本草にいわく/(掲出歌)」とある。注釈だが掲出歌の二句「黄檗(きわだ)」は文中の「木檗(きわだ)に同じ。ミカン科の落葉高木」、結句「木ざハし」(題の「木淡(きざはし)」)は「樹上で熱し甘くなった柿。きざがき。きざらし」、文中の「木檗(きわだ)」は「黄檗。ミカン科の落葉高木。皮は黄色の染料、実は健胃、火傷の薬に用いられる」とある。
 接ぎ木の一種であろうか。念のために『世界大百科事典』で「カキ」を引くと「接木の影響で渋柿が甘柿に変わるようなことはない」(品種)とあった。
 
 霜おちて松の葉かろきあたたかな雲のおこりをはらふ秋風

 『新撰咒咀調法記大全』に「瘧(おこり)を治(ぢ)する符」があり、次に「同 おとすまじなひ」として掲出歌と「月はいま日ませになりてかけもなし右盃の中へ字しやうみへぬやうに書(かき)て早朝の水にて字をあらひ呑(のむ)べし允(もつとも)あさ日にむかひて呑がよし」が続く。掲出歌の四句は「起こり」に「瘧」だろう。符と呪いのあとは「瘧のくすり」(「益母草(やくもさう)をかげ干(ぼし)にし水に酒を合(あは)せ壹ふく一匁五分ばかり常の如く煎じ用ひてきめうなり▲又胡桃を黒焼(くろやき)にして發日半(おこりびなかば)の日におこりたる数ほど水にて用ゆべし三(み)ふるひならば三ツ五ふるひならば五ツもちゆべし」)、「同 秘灸(ひきうてん)点」(「男は左女は右足の大ゆびより二本め三本目の間の真中に灸すべし三ふるいならば三火(みひ)五ふるひは五火若(もし)ふるい数(かづ)わからずは七ツ又は九(ここのつ)火すゆべし」)、「同 久しく落(おち)ざるを治(ぢす)る方」(「かうもりの尿(ふん)壹匁おこる前に茶のひえたるにて用ゆべし」)と詳しい。

 霜ばしら氷のたる木雪の桁(けた)雨の棟木(むなぎ)に露のふき草

 火除けの呪い歌。一八三〇年成立『嬉遊笑覧(一)』(岩波文庫)の「居処」中「さか柱」に「火を避くる歌とて、『(掲出歌)』。これを紀逸が『雑話抄』に、『能登国烏島の某が家は九百年来に及ぶとなむ。その梁札の歌也。弘法大師の御筆にて火防なり』といへり。いにしへかやうの歌はあるまじ」とある。
 また一六六六年刊行の『古今夷曲集』(『狂歌大観』)では〈霜柱氷のはりの雪のさす雨のたる木の露の草ぶき〉で、神祇、作者は「白衣のおのこ(略)我は鹿島のものなりこの御歌は明神此比の御神託なりといひすててさり侍りぬ」とある。
 武田正著『昔話世界の成立ー昔話研究序説ー』は山形で採集した「霜柱、氷のケタ(桁)に雪の梁、雨の垂木に露の吹き草」をあげる。さらに『肥後国阿蘇郡俗信誌』からも紹介、異同を伴いながら全国に流布した呪い歌であることがわかる。
 
焼亡(じやうもう)ハ柿の本(もと)まできたれともあか人なれバそこで人丸(ひとまる)

 「火事近所ニ有時(あるとき)の呪詛(まじない)」。一七八一年刊の『増補咒咀調法記大全』(以下、花部英雄著『まじないの文化誌』の注釈に拠った)所収。掲出歌に続けて「此うたかき表(おもて)の戸うらの戸におすべし火のこもきたらす」、また注釈には「柿本人丸を『火止まる』と読んで火伏の神とした信仰は江戸時代に見える。このまじない歌は、それにもとづく。明石の柿本神社では人丸を火伏せの神として祀る」とある。
 一八四二年に刊行の『新撰咒咀調法記大全』(八幡書店)にも「火事にたつるまじなひ」として「焼亡(しやうほう)は柿のもとまてきたれともあか人なればそこて人丸/此歌を書て表の戸うらの戸にはるべし近火(きんくわ)なりとも火のこもおちず」とある。
 また火事と地震、歌(棟(むね)は八つ~)も異なるが、『かなめいし』の「此哥(このうた)を札(ふだ)に書きて、家々の門柱(かどばしら)に押しぬれば」云々の付随行為が思い出される。
 
しやむしはむいねやさりねやわがとこをねたれぞねぬぞねねどねたるぞ

 藤原清輔(一一〇四~一一七七)著『袋草紙』(岩波書店『新 日本古典文学大系』)上巻に「庚申(こうしん)せで寝(ぬ)る誦文」として載る。脚注に「庚申待ちをせずに寝てしまう時の誦文。庚申の夜に寝ると、体内の三尸虫(さんしちゆう)が天に昇り、その人の悪事を天帝に告げるとされる」とし、歌意は「三尸虫よ、私の床から去って行ってしまえ。横になっても眠らないぞ。諸本とも一、二字分の空白を置く。『しや□□』は類似本は『しやむしは』とし、三尸虫のことか」としている。
 野本寛一は『言霊の民俗ー口誦と歌唱のあいだー』(人文書院)で呪歌の類型と構造を分類して直示型、秘匿型、音韻効果型とするが、これは音韻効果型だろう。曰く同音反復は「音韻効果のみを意図したものではなく、(略)。音韻の効果や呪力は、発声し、さらには歌われる場合に強い力を現わすのである」とする。
 
しらたみはいくせわたりてつづるくといくせわたりてここのせぞかし

 「霍乱(くわくらん)の誦文の歌」(脚注に霍乱は「夏に激しい下痢・嘔吐を伴う急性胃腸病」とある)、二首中の一首。藤原清輔(一一〇四~一一七七)著『袋草紙』(岩波書店『新 日本古典文学大系』)に「誦文(じゆもん)の歌」として載る。歌意は脚注に「不詳。疝気の病気はいくつの瀬を渡って直るかというと、いくつかの瀬を渡って九つの瀬だなあ(試解)。(略)。『つづるく』は意味不明」とある。さらに二首中の二首目、

  東や日向のうみにさほたててそれをみるみるあへれしらなみ

は脚注に「日が向かうという日向の海に棹を立て、それを目印にしながら白浪を乗り切ろう。病気を恐れずに立ち向かって克服しようの意か。『東や』は『日向かしや』の意で次の『日向』を修飾する。『敢へれ』は、やり切るの意」とある。
 
しらなみをつくしのきみのみつかどにつなぐわがむまたれかかとらむ

 馬の腹の痛むときの呪い歌。源為憲(みなもとのためのり)の『口遊(くちずさみ)』(勉誠社『口遊注解』)の一首で「之を馬の腹痛む時の哥と謂う」、続けて「今案ずるに、馬の左の耳の中に、三度之を誦す。人をして聴かしめず。即ち馬を東に向け、三反腹を踏む」とある。訓読文では〈白波を筑紫の君のみつ門につなぐ我馬たれかかとらむ〉である。

  しらなみをとりしのきみのみとかとにつなぐわがむまたれかかどはん

 右は藤原清輔の『袋草紙』に「馬の腹病む歌」として載る。解釈は「腹痛を取り除いて下さる御方の御戸の門前につないである私の馬を、一体誰がだまして連れ出せようか。『かどふ』は『勾引ふ』」。「しらなみ」とは何か、言及がない。なお『口遊』と違って『袋草紙』には呪文に随する動作についての記述を欠いている。
 
しほやまにしほつかつくるしほつなにわがむまつなぐむまのはらやむ

 馬の腹の痛む時の呪い歌。源為憲(みなもとのためのり)(?~一〇一一)が九七〇年に著した『口遊(くちずさみ)』(表記は勉誠社『口遊注解』の訓読に拠った。ちなみに本文は漢文、和歌は万葉仮名である)の一首で、先の「しらなみ」と〈同じき哥。亦誦すること三反〉とある。続けて「今案ずるに、馬の腹を踏み訖(お)わり、亦之を誦すること三反」。訓読文の右に括弧書きがあって、漢字を当てられているが〈塩山に塩塚作る塩綱に我馬つなぐ馬の腹病む〉となっている。また藤原清輔(一一〇四~一一七七)の『袋草紙』も「また云はく」として掲出歌と同じ歌を載せる。歌意は「塩の山と塩の塚を作り、塩の綱で私の馬をつないでおこう。馬の腹痛を直すために。塩は馬の腹痛の薬」としている。なお『口遊』と違って『袋草紙』には呪文に随する動作についての記述を欠いている。これも先の呪い歌と同様である。音の響きが快い。
 
白山の峯の木蔭にやすらひて静かにすめる雷の島影

 雷除けの呪い。一八〇六年刊、式亭三馬の『小野謔字尽(おののばかむらうそじづくし)』(三字目の「」は竹冠に愚)に登場する。国立国会図書館デジタルコレクションなら九コマ(結句は「鳥影」に見える)、原文は「かみなりよけ。くはばらくはばらをいふまにハ此うたをよむがよいとよ、白山之峯濃木蔭耳也寿比天、静仁住流雷之島影」(『江戸語の辞典』)である。『小野篁歌字尽(おののたかむらうたじづくし)』のもじりだが、これを『日本国語大辞典』で引くと「江戸前期の往来物。一冊。作者未詳。漢字学習のための、初歩的な教科書で、江戸時代に広く使われた」とある。また「バカムラ」に対する竹冠に皇の小野篁(八〇二~八五二)は学才と隠岐への配流などで知られる。なお中島惠子の「まじないの歌」(「月刊百科」二二〇号)は後鳥羽院の〈白やまの松の木陰にかくろへてやすらにすめるらいのとりかな〉(『夫木和歌抄』八九〇五)が本歌という。
 
 双六(すごろく)のおくれの筒(つつ)に打(うち)まけて羽蟻(はあり)はおのがまけたなりけり

 「羽蟻を止る呪(まじない)の事」。『耳袋(上)』(岩波文庫)に、こうある。

   羽蟻出てやまざる時、
    双六のおくれの筒に打まけて羽蟻はおのがまけたなりけり
 右の歌を書(かき)て、フルベフルヘト、フルベフルヘト唱へ張置(はりおけ)ば極めて止(やむ)と、与住氏 の物語なり。

 この「与住氏」は、巻之一「人の精力しるしあること」に「与が親友与住」とある。注によれば「与住玄卓。根岸家出入の町医(鈴木氏)」、「根岸」は『耳袋』の著者・根岸鎮衛(やすもり)、「鈴木氏」は国文学者の鈴木棠三をさす。話題を提供する人物だが巻之六「執心の説間違(まちがい)とおもふこと」では怪異譚の当事者として登場する。
 
 立ち別れいなばの山の峰におふるまつとし聞かばいま帰り来む

 『古今和歌集』(三六五)の在原行平の歌だが、「飼猫が行方不明になった時、紙に書いて貼っておく呪い歌」でもある。『日本俗信辞典』で「猫」を引くと長野、福井、金沢市、宮城、長崎、鳥取、群馬県群馬郡、安中市、愛知、能登、山形県新庄市、広島の例を紹介する。上の句を書き、戻ってきたら下の句を書き添える。単に唱えるだけのところ。貼り方(逆さか否か)も、貼る場所(門口、便所、ネコの食事場所)も、その他(ネコの茶碗に書き、その茶碗を伏せておく。歌を書いた紙にネコの皿を伏せておく)などと地域差を見せている。同じ新庄市でも「山で道に迷った時に唱えると、本道に戻れる」。堺市では「イヌがいなくなった時にも、この歌を貼る」。「民話の手帖」(第七号)の「土佐のまじない言葉」(市原麟一郎)には掲出歌「これを書いて、戸口へ逆さまに貼る。帰れば元へ戻す」とある。
 
 たまはみつぬしはたれともしらねどもむすびとどめつしたがひのつま

 「人魂を見る歌」。『袋草紙』に「誦文(じゆもん)の歌」として「三反(みかへし)これを誦して、男は左、女は右のつまをむすびて、三日を経てこれを解くと云々」とある。「したがひ(下交ひ)」(「したがへ」とも)は着物の前を合わせた時に内側になる方、「つま」は「端」をいう。『袋草紙』成立以前の文学作品に登場する魂結びを見てみよう。
 『伊勢物語』百十段「『今宵夢になむ見えたまひつる』といへりければ、男」。

  思ひあまりいでにし魂(たま)のあるならむ夜(よ)ぶかく見えば魂結びせよ

 『源氏物語』葵の巻、葵の上に取り憑いた六条御息所の生霊が詠う。

  なげきわび空に乱るるわが魂(たま)を結びとどめよしたがひのつま
 
 たまやかたよみちわれゆくおほちたらちたらまちたらこかねちりちり

 死人と逢ったときの呪い。源為憲(みなもとのためのり)(?~一〇一一)が九七〇年に著した『口遊(くちずさみ)』(表記は勉誠社『口遊注解』の訓読に拠った。ちなみに本文は漢文、和歌は万葉仮名である)の一首。本文の注に「之を夜の途中に死人に逢える哥と謂う」とある。注解を見ると「『たまやかた』は『霊館』か。『よみちわれゆく』は『夜道我行く』か。『おほちたら』以下の頌句は意味不詳」とある。
 また藤原清輔(一一〇四~一一七七)の『袋草紙』に「誦文(じゆもん)の歌」としても載る。題は「死人に逢ふ時の歌」、歌は〈たまやかたよみちわれゆくおほちだらちだらまだらにこがねちりちり〉である。意味不詳とするが、三句以下に「陀羅」「陀羅尼」を重ねつつ「死者の魂よ、夜道を私は行くが、大路にもどこにもたくさん仏がおられ、黄金も魂も散り散りに去ってゆくことだ」という解を試みている。
 
 血の道は父と母との血の道よ血の道留(と)めよ血の道の神

 「月水延符【呪符】」として一六八四年刊『邪兇呪禁法則』(柏書房『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)に出てくる。羽田守快の翻刻に「加持には先護身法次外五古の印にて【梵字】/廿一遍観音経三巻心経百巻慈救咒千遍千手咒千返/口伝に云菖蒲の白実をうすくへぎ三角にして此符を可書/歌曰/血の道は父と母との血の道よ血道留よ血の道の神/三遍【呪符】」、解説に「菖蒲の白実云々とあるが、これは薬種である。密教の現行法の口伝にも菖蒲を使うことはしばしばある」とする。
 また一七八一年刊の『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』)には「月水(ぐわつすい)のばする符」(「月経を延ばす(懐妊)のまじない)」として「血のミちハ父と母との血の道よ血の道留(とどめ)よ血のミちの神/此うた三べんとなふべし」とある。注釈は「歌は『ち』を多用することで呪力を高める効果を示す」とある。
 
 ちはやぶる卯月八日は吉日よ紙下げ虫を成敗ぞする

 虫除けの呪い歌。「紙下げ虫」は蛆、便所に掲出歌を書いた紙を逆さに貼っておくと上ってこないとされた。一七八五年刊、山東京伝の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(小学館『日本古典文学全集』46)の絵に描かれている(と注にあるが、小さくて読めない)。一八四三年刊、山崎美成の『世事百談』(日本随筆大成〈第一期〉18)には「都鄙ともにする風俗(ならはし)なり。これにも所によりて歌の詞(ことば)異なるあり」として二例あげ、さらに「この虫よけの歌のこころ何(なに)ともわきまえがたし。曳尾庵(えいびあん)の説に、この歌は神職の仏をいやしめたるなるべし」云々と続く。曳尾庵すなわち加藤曳尾庵(一七六三~?)は好事家として知られた医師である。なお小林一茶の『おらが春』(一八五二年)中「日陰の栗」にも「やや卯月(うづき)八日、髪さげ虫の歌を厠(かわや)に張るころ、山鶯の折(おり)しり顔に鳴けば、雪の消え口より見るに」云々、登場する。
 
 ちハやふる神のをしへをわれぞする此やどばかり富(とミ)ぞふりぬる

 女の衣服を裁つ呪い。一七八一年刊『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』所収)に「女の衣服たつ咒 哥三首」がある。

  あさひめのをしへはじめしから衣たつたびごとによろこひそま  す
  あさ日たつあひしのミやのをしへにて男のうハぎ今ぞたつなる

 「右物たつ日は吉日をえらミたつべし諸事祈祷になるぞ」。注釈に掲出歌の「ふりぬる」は「多く集まる」、二首目「『から衣』は『裁つ』に掛かる枕詞」とある。
 なお二首目の「あさひめの」は物指しの裏に書く呪い歌として「女性と経験 復刊(5)」(一九八〇年)所載の「女の暮らしとまじないの歌」(中島惠子)で紹介されている。その物指しを使えば歌よみや日を選ぶ必要がないというのである。
 
 ちはやぶる神代のからすつけをしていつしかわらん本(もと)のアバウン

 「カラスが鳴くのを不吉とする呪法」として一六八四年刊『邪兇呪禁法則』(柏書房『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)に出てくる。羽田守快の翻刻に「烏鳴咒大事 金剛合唱して歌曰く三遍/千刃破る神代のからすつけをして何つしかわらん本の【梵字】/七難即滅七福即生寿命長遠喼急如律令」、解説は「呪歌に『(掲出歌)』。呪文に『七難即滅(しちなんそくめつ) 七福即生寿命長遠(しちふくそくしようじゆみようちようおん) 喼急如律令(きゆうきゆうによりつりよう)』」とある。
 一八四二年刊『新撰咒咀調法記大全』(八幡書店)では「烏なき悪(あし)き時のまじなひ」で呪歌の三句が「つげをして」(ちはやふる神代のからすつげをしていつしかはらん本の【梵字】)である。四句「わらん」(はらん)の意味が分からない。また注釈だろう、「からす大小の二種(にいろ)あり大なるを鴉(からす)といひ小なるを烏(う)といふよく吉悪(よしあし)を人につぐ親に孝ゆへ其嘴(はし)の大なるを大嘴烏(たいしてう)といひ又嘴太(はしふと)ともいふ」とある。
 
 ちはやぶる神代もきかず龍田川韓紅(からくれなゐ)に水くくるとは

 在原業平の歌(『古今和歌集』二九四)だが、糸のもつれた時の呪い歌でもあるらしい。『旅と伝説』(三元社)昭和九年八月号の「唱へごと集ー長野県諏訪湖畔地方ー」(有賀恭一)に「糸のもつれをほぐす時は『千早ぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くぐるとは』と唱へ乍らやるとよくほぐれる」とある。「くくる」ではない。「くぐる」になっている。また糸くずをほぐす時は、

  ささむささむささのささのささのささむささなければささむさもなし

と唱える、とある。花部英雄著『呪歌と説話』の「歌から転用した呪歌一覧」に掲出歌があって、十例あげている。うち用途を同じくするのは『那珂川の民俗』であるが、こちらには二句「神夜のむかし」、結句「みずくぐるとは」とある。
 
 月ごとに開(さ)くべき花のさかざるはとどむる事は桃の木の枝

 生理不調の呪い歌。『邪兇呪禁法則』(『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)に「月水長留大事 東え指たる桃木の二俣成を切て其の人の朝夕使針を取て/彼の桃の木の二俣の中に指立て此の符を紙に書て針と枝との間を巻其の人の栖玉ふ家の東の雨落彼の枝を立加持には薬師の咒同経荒神咒千遍無他念可満不留間毎日可唱歌に云/(掲出歌)/と詠し此符を不留間朝日を礼し毎日一粒つつ可呑【呪符】」とあり、解説に「東の方へのびた桃の木の股になっている枝を取って、その木の股に針を立てる。さらに霊符をまくというのだが、枝と針の間というのはどこを指すのか不詳である。できあがったものは住居の東の方の雨だれのかかるところに立てる。薬師咒、薬師経、荒神咒を以て加持する。『(掲出歌)』と歌詠みし、朝日を拝んで毎日一粒を飲むとあるが、飲むのは符なのか米なのかはよくわからない」とある。
 
 つのくにのあしきえびすの衣(きぬ)たちて時をも日をもきらハざりけり

 急ぐ時に衣服裁つ呪い歌。一七八一年刊の『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』所収の翻刻と注釈に拠る)に「いそぐ物たつまじなひ 哥二首」がある。掲出歌と次の一首だが、お決まりの「三遍唱ふるべし」はない。

  から国のあられえびすのきぬなれば時をも日をもきらハざりけり

 以下、注釈によるが掲出歌の初句は「葦」(悪し)に掛かる枕詞、二句は「邪悪で野蛮な人、二首目の二句も掲出歌の二句に同じである。「邪悪な人の着る衣服だから、裁つ日や作法に従わずに行ってよいと宣言の意をこめたもの」という。
 なお「から国の」は物指しの裏に書く呪い歌として「女性と経験 復刊(5)」所載の「女の暮らしとまじないの歌」(中島惠子)で紹介されている。
 
 手に取りて三刀は何と言うやらん文殊の作り不動倶利伽羅

 「払切大事 小刀を手に取て歌に」。一六八四年刊『邪兇呪禁法則』の解説に「幣や呪符などをつくるために小刀を用いる際の呪歌」とある。同じ呪い歌ながら一七八一年刊『増補咒咀調法記大全』との際立った違いを次頁で確認したい。

  この串は高天(たかま)が原に折る串を神代の折りに相(あい)にける哉
  紙取りて神門(しんもん)立てて払いして蛇に成りてぞ神休むらん
  三(み)つ五つ七つの節に神立ちて障碍(しようげ)の神は早く退(しりぞ)け
  尾を巻きてひれ伏す形恐ろしや姿を見れば不動倶利伽羅
  祈念して高天が原で払いする今より後(のち)は残る咎(とが)なし
  年を経て身を妨(さまたぐ)る荒御前(あらみさき)榊(さかき)捨(すつ)るぞ崇りなすなよ

 手にとりて三刀(ミとう)ハ何といふやらん 文殊のつくり不動くりから

 「万(よろづ)の事はらひ切(きる)秘事」(全てを祓う)。『増補咒咀調法記大全』では「小刀(こがたな)を手にもちて左にしるす所の七首の哥よむべし/(掲出歌)/此串(くし)ハたかまが原におる串を 神代(かみよ)のおりにあひにけるかな/紙とりて神門(かみかど)たてて祓ひして 蛇になりてぞ神やすむらん/三ツ五ツ七ツの節(ふし)に神たちて 障(さはり)りの神ははやくしりぞけ/尾をまきてひれふす形(すがた)おそろしや 姿(すがた)をミれば不動くりから/きねんして高天が原で祓(はらひ)する いまより後(のち)は残る所なし/年をえて身を妨(さまた)ぐる荒御前(あらごぜん) さか木すつるぞたたりなすなよ/右七しゆの哥よミおハりて弊(へい)をもツてはらふべし」とある。
 注釈によると「くりから」は「倶利伽羅龍王。剣に蛇が巻きつき呑み込む図像が有名」、以下「神門」は「鳥居」、「三ツ五ツ七ツ」は「神域表示に、縄を七・五・三に縒り合わせたもの」、「荒御前」は「先頭に立つ荒々しい神」とある。
 
 
 天ぢくの流沙(りうさ)川なるわたしぶねこまもろともにのりの道かな

 「馬ふねにのらざるをのせてわたすまじなひ」。一七八一年刊の『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』の翻刻と注釈に拠る)に掲出歌と「此哥を三べん馬の左の耳へ口をそへてよミ入るなり」とあり、注釈に初二句は「玄奘三蔵が越えたゴビ(タクラマカン)砂漠。沙が川のように流れることから流沙川とたとえた」、結句「のり」は「乗りに法を掛ける」、また「馬の耳に向け歌を読むのは、幼児などの場合にも見られる。直接声に乗せて取り込む所作」とある。
 一八四二年刊の『新撰咒咀調法記大全』(八幡書店)も「馬を舟にのするまじなひ」として掲出歌(但し「沙」を「しゃ」と読む)をあげる。付随行為も「此歌を三べん馬の左の耳へ口をそへてよみ入るなり」は同じだが、これに加えて「又馬の額に賦の字を書(かき)て武の字の一点を舟の中(うち)へ打(うつ)べし馬すみやかに乗也」とある。
 
 ながきよのとをのねぶりのみなねざめなみのりぶねのをとのよきかな

 中村薫編『典拠検索 名歌辞典』(日本図書)で掲出歌を引くと『萬載狂歌集』(一七八三年)、『嬉遊笑覧』(一八三〇年)、『三養雑記』(一八四〇年)、『世事百談』(一八四三年)などをあげている。うち四方赤良、朱楽菅江編『万載狂歌集』巻第十五には「廻文哥」として掲出歌「宝舟のうた」(よみ人しらす)があり、「ある人のいはくこの哥全浙兵制附録日本風土記に見えたり日本の琴譜なりと」と左注する。「全浙兵制日本風土記(ぜんせつへいせいにほんふどき)」(日本風土記)は一五九二年頃に刊行された中国人の日本研究書である。喜多村筠庭の『嬉遊笑覧(四)』(岩波文庫)には「この宝舟は、種々の宝を舟につみたる処を絵にかきて、(掲出歌)、といふ廻文の歌を書そへて、元日か二日の夜敷寝(しきね)に、悪(あし)き夢を川へ流す呪事(まじないごと)也とぞ」また例をあげながら「いつの頃の歌とも、いまだ定かならず」「此歌、古きものとはみゆ」ともある。
 
 なかとみのふとのりとごといひはらへあがふいのちもたがためになる

 酒を造る歌。藤原清輔(一一〇四~一一七七)著『袋草紙』(岩波書店『新 日本古典文学大系』)上巻に「誦文(じゆもん)の歌」(呪文の歌)として載る。題は「酒を造る歌、家持、万葉集の如し」とある。この「家持」以下を脚注で見ると「万葉集に見えるの意。万葉集十七・四〇三一に『酒を造る歌一首』」として、

  中臣の太祝詞言(ふとのりとごと)言ひ祓へ贖(あが)ふ命も誰がために汝

 「『右は大伴宿禰家持作れり』と見える」とある。掲出歌も、脚注だが「底本『フトノリコトヽ』を万葉集により改める。中臣の祝詞のことばを唱えて祓をし、酒を差上げて長寿の命を祈るのも一体誰のためか、みなお前のためだ。『あがふ』は代償を差し出す意」とある。本文にもどって「已上、三反(さんべん)これを誦ずと云々」。
 
 流れ水留(とど)まる人だにあるならば某(なにがし)成りと日をば限らん

 生理不順を治める呪い歌。『邪兇呪禁法則』(一六八四年)は「月水留符」として「口伝には、菅を女性の右手の長さに切り、七つ作って束ねる、もしくは女性の胴回りの太さに切り、同じく束ねてこれを煎じ、生理不順が一から七日にいたるまで、この符を一から七粒ずつ丸めて飲むとある」(原文と翻刻文は漢字カタカナ混じり、羽田守快の解説によった)。そして掲出歌を三遍唱えるというのである。

  月ごとに開(さ)くべき花のさかざるはとどむる事は桃の木の枝

 これは「月水長留大事」の呪い歌。月水(がつすい)は月経のことをいう。長留は長く留まる生理不順のこと、『増補咒咀調法記大全』(一七八一年)にも「月水来(きた)らざる時の大事」また「月水とまらず殊の外もらし下る大事」もあるが歌を伴わない。
 
 夏は来(き)つ音(ね)に鳴く蝉のから衣おのれおのれが身の上に着よ

 「氏康狐を征する歌の事」。『耳袋(下)』(岩波文庫)巻之十に「狐出て樹木・草園を荒し、又は女児になど誑(たぶらか)しなどするを、氏康聞て、/(掲出歌)/かく詠じければ、翌日の朝園中に狐ふたつに成(なり)て死せしと、或書に見しと、石川翁の語りぬ」とある。注に「氏康」は北条氏康(一五一五~一五七一)。掲出歌は「来つ音に狐を詠みいれている。から衣の縁で身の上に着よという。凶事を狐自身の身の上に負うべしという。この話と歌は『醒睡笑』八、『北条五代記』五、『曾呂利狂歌咄』三などにあると鈴木氏の指摘あり」。鈴木は国文学者の鈴木棠三である。
 「石川翁」であるが、巻之一「土屋相模守御加増ありし事」に「石川自寛八十歳余にて予が許へ来り咄(はなし)ける」、同「時代うつりかはる事」で「其砌より相模守に勤仕のよし。我も美少年に有りし」と根岸鎮衛に語る石川自寛が思われる。
 
 寝るぞ根太頼むぞ垂木梁もきけ何事あらば起こせ屋の棟

 中島惠子は「まじないの歌」(一九八一年『月刊百科』二二〇号)で「青森から九州までの各地で類歌が採集され記録されている。この呪い歌の目的は『何事あらば起こせ』とあるように、就寝中に変事があったとき、すぐに目がさめるよう唱えるというのが一般的である。このようなことから、泥棒よけの呪いとするところもある。(略)。めざましを頼むことも広く行われてきた。芥川龍之介の『澄江堂雑記』に治める『家』(大正一三年発表)のなかにも、『四五十年前の東京には、こういう歌もあったそうである』として、次の歌が記されている。/ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、梁も聴け、明けの六つには起せ大びき」と書いている。
 なお『澄江堂雑記』は『字がハッキリ見える シニアの目にやさしい澄江堂雑記』(ゴマブックス)を買ったが、青空文庫ほかネットでも公開されている。
 
 はありとハ山のくち木にすむ虫のさとへいづれハをのかひがこと

 羽蟻除けの呪い歌。『増補咒咀調法記大全』(一七八一年刊、花部英雄著『まじないの文化誌』所収の翻刻に拠った)に「羽蟻出(いで)ざるまじない」として、

  とこがひかのをハれずいへとさの虫むすに木ちくの山ハとりあは

 「かやうにさかさまにかきて蟻のいづる木におしをくなり」とある。書いた紙を逆さまにして貼るのではないところが凄い。『新撰咒咀調法記大全』(一八四二年、八幡書店)は四句が「さとへ出(いづ)るは」で、「此歌かきて其出(いづ)る処へさかさまにはるベし」とある。結果は同じだが、紙を逆さまに、である。鈴木棠三の『日本俗信辞典』には石川県珠洲郡の例として「家にハアリが出た時には『羽蟻とは山の朽木に住むものをここに住むとは己が誤り』と長押などに書けば退去する」とある。
 
 人丸やまことあかしのうらならばわれにもみせよ人丸が塚

 朝、起きたい時に目が覚める呪い歌。一七八一年刊の『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』所収の翻刻と注釈に拠った)に「夜(よ)る臥(ふし)て起(おき)たき時に目のさむるまじなひ」として掲出歌をあげ「三べんつつしミよむべし」とある。注釈は「明石に、目を明かすの意を掛ける」また「明石の柿本人麻呂を祭る人丸神社に人丸塚がある。人丸歌とされる『ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く船をしぞ思ふ』の歌にちなむ」とある。但し人丸塚は人丸神社(柿本神社)にはない。あるのは明石城の本丸(明石公園)である。案内板に「明石築城後は城の守り神として祀られてきた」とあって古い。なお一八四二年刊の『新撰咒咀調法記大全』(八幡書店)にも「人まるやまことあかしの浦ならばわれにも見せよ人丸のつか/つつしんで三返よみ寝(ねる)ベし何どきにても起(おき)んと思ふとき目覚(めさむ)る也」とある。
めさ
 
 拍子よくたぬ鼓うてわたつみのおきな琴ひけ我笛ふかん

 「戯歌にて狸妖(りよう)を退けし由の事」。『耳袋(中)』(岩波文庫)巻之五より引く。

  京都にて隠逸を事とせる縫庵といへる者の隠宅の庭に、狸ならん折々腹鼓など打(うつ)音しければ、縫庵琴を引寄(ひきよせ)て右鼓に合せて弾じける、一首のざれ歌を詠める。
   やよやたぬまた鼓うて琴ひかん我琴ひかばまた鼓うて
 其(その)程近きに住める加茂の社司に信頬といへる有(あり)しが、
   拍子よくたぬ鼓うてわたつみのおきな琴ひけ我笛ふかん
 斯(かく)詠吟(えいぎん)なしければ、其後は狸の鼓うつこと止みけるとなり。

 なお「わたつみのおきな」(海の翁)は海老をいう。縫庵は不明。信頬は『氐爾乎波(てにをは)義慣鈔(ぎかんしょう)』を著した雀部信頬(ささきべのぶつら)がいるが、伝記未詳とあって、特定できない。
 
 ひよふすべよ約束せしを忘るるな川だち男のうぢはすがはら

 「河童の難を遁るる歌之事」。『耳袋(中)』(岩波文庫)巻之七に「上総国夷灊(いしみ)郡岩和田村半左衛門といへる者の方へ、其(その)村の船頭来り、『此(この)程夜々河童来りて恐(おそろ)しき』由語りければ、半左衛門家に菅相丞(かんしようじよう)の歌也とて持伝へしを書(かき)て与へければ、其後は河童来りても其まま逃失(にげうせ)しとや。右歌は、/(掲出歌)/右歌のひよふすべと云ふは川童の事の由。菅神の歌といふも疑敷(うたがわしく)、土人の物がたり取(とる)に不足(たらず)と思へど、聞(きく)まま書留めぬ」とある。注によれば岩和田村は千葉県夷隅郡御宿町岩和田。「ひよふすべ」は九州地方で河童のこと、「川だち」は水泳のうまい者をいう。
 なお石川一郎編『江戸文学俗信辞典』(東京堂出版)で「河童」を引くと「『笈埃随筆』『諸国里人談』などに肥前国諫早兵揃村の天満宮で『兵揃に川立せしを忘れなよ川立男われも菅はら』という河童除の守り札を出すと」とある。
 
 東や高雪のやまにふねつくるをろたいくかたのきまへをかし

 「蛇が咬みつこうとした時の歌」(脚注)。藤原清輔著『袋草紙』(『新 日本古典文学大系 29』岩波書店)に「誦文(じゆもん)の歌」として載る。歌意は「東の高雪の山に酒糟が作ってあるぞ。大蛇よ、お前の行く先にお前の飲み分がたくさんあるぞ。『高雪の山』を版本・類従本は『高間の山』とする。大和の国の歌枕。『をろた』は静嘉本のみ『をろち』だが、同義の語と解する。『のきまへ』を『残き前』と見て、残して置いた分と一応解しておく」(脚注)。本文は「三反(さんべん)これを誦ずと云々」。
 ちなみに蛇除けの呪い歌は、先行する次の二例を含めて三例目となる。

  あふ坂やしけミが峠(とう)のかぎわらび其むかしの女こそ薬なりけり
  此路に錦まだらの虫あらば山立姫に告てとらせむ
 
 ふなとさへゆふけのかみにものとはばみちゆくひとようらまさにせよ

 「夕食(ゆふけ)を問ふ歌、私、夕卦(ゆふけ)の占のことなり」(脚注に「底本の細字の注の『私』とは私注の意か。夕占。夕方に道端や門前に立ち通行人の言葉を聞いて吉凶を占うこと」とある)。藤原清輔(一一〇四~一一七七)著『袋草紙』(岩波書店『新 日本古典文学大系 29』)上巻に「誦文の歌」(呪文の歌)として載る。歌意は「岐の神、道祖の神、夕占の神に物をおたずねする時には、道行く人よ、正しく占いの言葉を言って下さい。『ふなと』は『岐』で道の神、『さへ』『塞へ』で道祖神。『うらまさ』は『占正』。簾中抄・拾芥抄・二中歴はこの歌を挙げた後、三度唱えてから櫛の歯を鳴らせなど、それぞれ付随する動作を必要条件としている」(脚注)とある。ちなみに『拾芥抄』(『新訂増訂 故実叢書』)の場合は「今案。三度誦此歌。作堺散米。鳴櫛歯三度後。堺内来人答。為内人。言語聞。推吉凶」である。
 
 ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ

 一八一四年刊『夢合延寿袋大成(ゆめあわせえんじゆぶくろたいせい)』の「夢現幻之伝」より「何時ねても朝はやく目をさます伝」(国立国会図書館デジタルコレクションならぬ62コマ)を引く。

 今ねるといふ時、心をあらためあくるあさ、何時におきやうと、そのこくげんを心ふかくきめて、このうたの上みの句ばかりとなへてねるなり。そのこくげんにきわめて目さむる也。めさめてのちに下のくをとなゆべし
   ほのぼのとあかしのうらのあさきりに
    しまかくれゆく舟おしぞおもふ

 掲出歌は『古今和歌集』(四〇九)の羈旅歌、「読人しらず」だが「この歌、ある人のいはく、柿本人麿が歌なり」とある。二句「明石」に「明かし」を掛ける。
 
 ほのぼのとまこと明石の神なれば我にも見せよ人丸の塚

 眼疾の呪い歌。柿本神社(明石市)の「人丸山柿本神社御由緒記」に「境内名所」の一つとして盲杖桜(拝殿前東四代目)をあげて、その由緒に触れている。旨杖桜の前には碑があり、こちらにも「昔ひとりの盲人が九州からこの社に詣でて(掲出歌)と詠じるとたちどころに両眼がひらいて物を見ることができるようになった。その人は光明を得たよろこびのあまり社前の庭に桜の杖を献じて去って行った。やがてその杖に枝が生じ葉が茂って春になると花を咲かせたのでこれを盲杖桜と名づけて後の世に伝えたものである」と由緒記がある。野本寛一の『言霊の民俗ー口誦と歌唱のあいだ』では「明石」に「『開かし』が秘匿されており、ここでは眼医者の『眼』を開く呪力が伝えられたのである」と説く。門を出て、人丸山から俯瞰する明石の街またその向こうに広がる明石海峡は絶景、立ち去りがたい。

 
 まかなくに何を種とてうき草のなみのうねうねおひしげるらん

 衣服の墨を落とす呪い。一六九二年刊『女重宝記』(現代教養文庫『女重宝記・男重宝記ー元禄若者心得集ー』)の四之巻「万(よろづ)染み物落し様(やう)の事」に「一、墨の付(つき)たるは、半夏(はんげ)の煎じ汁、白朮(ひやくじゆつ)の煎じ汁、米の酢の煎じ汁。右いづれにて洗ひても落つるなり。又ふくみ水にてあらひて、小野小町が歌を三遍唱(とな)ゆれば落つるなり。呪ひなり。その歌に、(掲出歌)」とある。この歌について脚注には「謡曲『草紙洗』による。大伴黒主の万葉集書き込みを洗い落した時の歌」とある。
 一七八一年刊『増補咒咀調法記大全』(花部英雄『まじないの文化誌』)の「服(きるもの)に付たる墨おとす事」は「哥ニ/まかなくに何をたねとてうき草のなミのうねうねおひしげるらん/此哥三遍よミよミふくミ水にて洗(あらふ)也」、注に「歌は、根のない草にすぎない墨の汚れは茂ることがないから、きれいに洗われると解く」とある。
 
 見し夢を獏のえじきとなすからにこころもはれしあけぼののそら

 安永六(一七七七)年の序がある『夢合延寿袋大成(ゆめあわせえんじゅぶくろたいせい)』の「夢現幻之伝」より「夢ながしの伝」(国立国会図書館デジタルコレクション58ー59コマ)を引く。
 あしきゆめをことことくけす哥
  〽みしゆめをばくのえじきとなすからにこころもはれしあけぼののそら
 あしきゆめをみる時は、はやくこの哥を三べんよむべし。そのままゆめきゆる事妙なり。又大きなあしきゆめをみて、夜あけてもわすれず心がかりなる時は、かならずその身にさいなん有。此時は右のうたを三べん紙へ書、水のながれる川へその朝四つまでにながすべし。いかやうなるあしきゆめをみてわが身にさいなんかかる事有ともことごとくゆめきえて、なんをのがるるをうたがひなし

 
 三日月を死ねと呪(のろ)うは田虫なり殺して食べよ十五夜の月

 田虫除けの呪い。一六八四年刊『邪兇呪禁法則(じやきようじゆごんほつそく)』(羽田守快(はねだしゆかい)解説解題『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の翻刻に「田虫咒大事 大黄を卅三へいで切り目に小刀のさきにて虫と云字を書て其の大黄にて喰処を磨る也去て磨りながら歌云/(掲出歌、但し表記は解説に従った)」とある。一七八一年刊『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』所収)は「田虫まじなひの大事」として、「大黄(たいわう)を三十三にへいで切目に小がたなのさきにて虫といふ字をかきて其大黄にてむしのくふ所をさするなり扨(さて)さすりながら此哥よむべし」とある。歌は〈三か月をしねとのろふハ田虫なりころしてたべよ十五夜の月〉。注に「田虫」は「水虫と同じ白癬菌に感染しておこる皮膚病」、「大黄」は「タデ科の多年生草本の根茎」、また「へいでは薄く削っての意」、歌の四句「たべよ」は「~してください」の意味とある。
 
 みどり子をもらさでつつめこけ衣(ころも)岩尾のをびでしめば長命

 疱瘡除けの呪い歌。一六八四年刊『邪兇呪禁法則(じやきようじゆごんほつそく)』(羽田守快(はねだしゆかい)解説解題『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の翻刻に「疱瘡符守【呪符】/此符は延喜の御時もがさはやるに此文を書て門にも押守にも掛け又符にも呑する也歌に曰/(掲出歌)/昔よりつたはりなればもはしかのやまでしなばや神門のうち/何れも三遍づつ」。解說に呪符の「梵字は【オンコロコロセンダリマトウギソワカ】これを門札としたり、符として飲ませることをする」。『増補咒咀調法記大全』(『まじないの文化誌』)でも「疱瘡の符守(ふうまもり)」として、同じ呪い歌を見ることができる。気になるのは、

  昔よりつたハりなればもはしかのやまでしなばや神門(かみかど)のうち

である。三句の「もはしか」は「いもばしか」(芋麻疹)の脱落であろうか。
 
 むかしよりやくそくなれハもはしかも病(やむ)とハしらず神がきのうち

 麻疹の呪い。一七八一年刊『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』)に「痘(はしか)ましないの事 札(ふだ)ニ書(かき)て戸ニおせ」として、二首が載る。

  もがミ川ながれて清き水なれバあくたハしづむぬしハさかへる

 一首目の注釈だが『符呪集』の「疱瘡除之符事」に〈昔ヨリ約束ナレハイモハシカヤムトモ死セジ神アキノウチ〉、「疱瘡除守咒事」に〈昔ヨリ約束ナレハモハ疱亦瘢(ハシカ)トモ 死ナシ神垣ノ内〉とあるらしい。呪禁の成立と刊行年の開きが思われる。
 なお一八四二年に刊行された『新撰咒咀調法記大全』(八幡書店)も「はしかを逃るるまじなひ」を「麻疹(はしか)流行のとき此符(このふう)並歌をかきて門戸にはるべし流行をのがる」として、『増補咒咀調法記大全』と同じ二首の呪い歌を載せている。

 むねのうへのうゑきをすればかれにけりこひのあめふれうゑきはやさん

 「胸の病の誦文の歌」。藤原清輔著『袋草紙』(岩波書店『新 日本古典文学大系』)に載る「誦文(じゆもん)の歌」。脚注は「胸の上に木を植えたら枯れてしまつた。乞うていた恋の雨よ降ってくれ、木を生やしたいから。『棟』と『胸』、『乞ひ』と『恋』が掛詞」、これだけである。「胸の病」とは恋だったのだ。面白い。参考として他の恋歌を探したが見つからない。そこで、こんなのもあるというのを『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』)から拾ってみた。以下「痔にのまする符」「うるしにまけざる咒」「こぶらがへりのまじなひ」「蚤虱耳のなかへいりたる時のまじなひ」「にきびほくろをぬく秘伝」等、男女関係なら「男に縁がなくなるまじない」「男を嫌うまじない」「夫婦円満のまじない」「男と離別するまじない」と何でもありだが、やはり恋だけは、その中でも異色のようであるらしい。
 
 
 棟(むね)は八つ門(かど)は九つ戸はひとつ身はいざなぎの内にこそすめ

 地震治めの御製。寛文二年五月一日、都の大地震に取材した『かなめいし』(小学館『新編日本古典文学全集』)に「何ものの仕(し)いだしけん、禁中(きんちう)よりいだされて、此哥(このうた)を札(ふだ)に書きて、家々の門柱(かどばしら)に押しぬれば、大なゐふり止(や)むとで、/(掲出歌)/諸人、写し伝へて、札に書き、家々の門柱に押しけれども、地震はやまず」また「夜あけても、猶ゆりやまず。ある人、京の町家のくづれかかるを見て、このうたを翻案してかくぞよみける。/むねはわれ門はくづれて戸はゆがみ身は子屋がけのうちにこそすめ」とある。頭注に、掲出歌は史料に載り、二首目は、

  棟は破れ門はひしみて戸は離れ身は小屋がけの内にこそ住め

という形で載るとした上で「巷間に流布したものを取り入れたか」とある。
 
 もとよりもちりにまじわる神なれば月のさはりもくるしかるまじ

 中島惠子の「続 女の暮らしとまじないの歌」(「女性と経験」復刊6)によると「月事のときには、神仏に詣でることをつつしんだ時代でも、月水除けの守札を身につければ差しつかえないとされていた。たとえば磐城の平地方の女子は、初潮があると『月水除之大事』と表に記した守札を所持したものだという。出羽の八聖山から出した守札で、そのなかには、/(掲出歌)/という歌などが書いてあつた」という。また「東北のワカサマとよばれる巫女や、命婦とよぶ対馬の女神主なども、月のもののときには、同じような歌を唱えている」として二首をあげている。

  昔より神にも父母があると聞く月のさはりはいかが苦しき
  世の中のちりにまじはる神なれば月のさはりはなにかくるしき

  山は三(み)つ石は九つこれやこの鬼の栖(すみ)ぬる岩屋なりけり

 一六八四年刊『邪兇呪禁法則(じやきようじゆごんほつそく)』(『江戸呪術教本邪兇呪禁法則』)の翻刻に「乳のめ咒事 我は地伝と観念して歌云/乳をみきる歌をよむ」で二首がある。

  思いきや朝日にはるる腫物は根も葉も枯れて跡絶えにけり

 解説は「『乳のめ咒事』不詳」。一首目の四句が「栖(やす)める」、翻刻に合わせた。一七八一年刊の『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』)は「乳(ち)のまするまじなひ」で「我ハ北伝 此文字(もんじ)を心ニくわんねんして/うたニ/乳をみきる哥をよむ」に続けて二首が並ぶ。注釈に「みきるは見限るの意か」とある。二首目の「あさ日にはるるは、朝日が『晴れる』に腫物が『腫れる』を掛ける」。とはいえ三句は「腫物(しゆもつ)」と音読み、また結句は「跡ハたへ」と五音である。

 やみの夜になかぬ烏の声きけばうまれぬさきの父ぞ恋しき

 『日本俗信辞典』に「熊本県阿蘇郡では、特に正月の夜明け前にカラスの鳴くのを聞いた時の歌詠みにこの歌をよめば、災難をのがれるという。福島県大沼郡では、夜ガラスが鳴くと村が火事になるといい、流しに水をかけて右の歌を三度唱える」とある。武田正の『昔話世界の成立ー昔話研究序説ー』によると山形県西置賜郡飯豊町でも聞いたとある。山崎美成(やまざきよししげ)の『三養雑記』(『日本随筆大成〈第二期〉6』)には「東山義政公の詠なるよし。長頭丸随筆に見えたり。生下未分といふ冊子には、母ぞこひしきに作れり」とある。これが事実なら「母」が「父」になることによって呪歌に転換したといえるかも知れない。野本寛一が『言霊の民俗ー口誦と歌唱のあいだ』で分析する呪いの目的・対象でいえば予防呪術、呪歌の類型と構造でいえば秘匿型だろうか。意味や解釈を求めると難しい壁が待ち構えていよう。
 

  ゆるぐともよもやぬけじのかなめいしかしまの神のあらんかぎりは

 地震除けの呪い歌。一六六二年の京都大地震を素材にした浅井了意の『かなめいし』(小学館『新編日本古典文学全集』)に「俗説に、五帝竜王、この世界をたもち、竜王いかる時は、大地ふるふ。鹿島の明神、かの五帝竜をしたがへ、尾首(おかしら)を一所にくぐめて、鹿目(からめ)の石をうち置かせ給ふゆえに、いかばかりゆるとても、人間世界は滅する事なしとて、むかしの人の哥に、/(掲出歌)/この俗哥(ぞくか)によりて、地震の記(き)をしるしつつ、名づけて要石といふならし」とある。頭注によれば「鹿島の明神」は茨城県鹿嶋市に鎮座、要石は鹿島神宮の境内に祀られる。鹿島明神が要石によって地震を封じる説が行われていた。掲出歌は鹿島の神詠と伝える古歌で、地震発生後、この歌が流布したらしい。なお「旅と伝説」(昭和九年八月号)の「唱へごと集(長野)」には、地震を静めるにはこの歌を三度唱へればよい、とある。
 
 夜泣きすとただもりたてよ末の世に清く盛(さか)ふる人となるべし

 一六六五年頃刊の浅井了意作『浮世物語』に「この子、生まれて一七夜(ひとしちや)のうちより、夜泣きをする事はなはだし。『むかし大相国清盛(だいしようこくきよもり)は、祇園女御(ぎをんにようご)の生みたるところ、刑部卿(ぎやうぶきやう)平忠盛が子なり。実には鳥羽院の御子と申す。しかるに清盛、生まれて夜泣きをせしかば、忠盛かくと奏聞す。帝(みかど)、/(掲出歌)/と、勅筆にあそばして給はりけるを、守りにかけさせければ、夜泣きはとどまりぬ。清く盛ふる人といへる歌によりて、清盛とは名づけし。これよりして夜泣きする子には、この歌を書きて床に置けば、夜泣きのとどまる圧魅(まじなひ)なり』といふ人ありければ、『さらば』とて、歌を書きて床に置きたれば、案のごとく夜泣きはとどまりけり」とある。
 なお同歌は〈妹が子は腹這う比に成りにけり清盛取りて養ひにせよ〉の歌と合わせて『邪兇呪禁法則(じやきようじゆごんほつそく)』と『増補咒咀調法記大全』で見ることができる。

  よひのかねつかざるさきにゆあみよとはみみつまなくにいひてしものを

 湯浴み中に鐘の音を聞くときの呪い歌。源為憲(みなもとのためのり)(?~一〇一一)の『口遊(くちずさみ)』(表記は勉誠社『口遊注解』の訓読に拠った。ちなみに本文は漢文、和歌は万葉仮名)に載る歌で「之を浴時に鍾槌(かねつ)く時の哥と謂う」。四句は「『耳抓(つ)まなくに』で耳を抓まみ塞がないように、の意」、浴時に鐘を聞くことが禁忌なのだろうが理由についての言及はない。これが貴族の子弟を対象にした教科書というのだから驚きである。また藤原清輔(一一〇四~一一七七)の『袋草紙』に「誦文の歌」として載る。題は「沐浴の間に鐘を槌(つ)く誦文の歌」、歌は〈よひのかねつかざるさきにゆあみよとみみつまなくにいひてしものを〉、三句が五音である。『古今和歌六帖』(九七六~九八三年頃、成立)に〈よひのかねつかざるさきにゆあみよといひてしものをみみつまなくに〉(一四三八)が載る。題は「かね」、四五句が逆である。

  よみつとりわがかきもとになきつなりひとみなききつゆくたまもあらじ

 鵺が鳴くときの呪い歌。源為憲(みなもとのためのり)(?~一〇一一)の『口遊(くちずさみ)』(表記は勉誠社『口遊注解』の訓読に拠った。ちなみに本文は漢文、和歌は万葉仮名)に載る歌で「之を鵺(ぬえ)鳴く時の哥と謂う」。注解によると初句は「黄泉つ島」、二句は「我が垣下に」(「垣下」は垣根のほとり)、結句は「行く魂もあらじ」。また藤原清輔(一一〇四~一一七七)の『袋草紙』に「誦文(じゆもん)の歌」として載る。題は「鵼鳴く時の歌」で〈よみつとりわがかきもとになきつとり人みなききつゆくたまもあらじ〉で三句が一字だが違う。脚注に鵼を「怪鳥で、とらつぐみに似た幼児のような声を立て、その声を聞くと災いがあるという」とする。ちなみに「鵼」を辞書で引くとトラツグミの方言とある。また『平家物語』で源頼政が退治したのは(頭は猿、むくろは狸、尾は蛇、手足は虎の姿なり。なく声鵼にぞ似たりける)、鵼そのものではない。
 
 よるミつる今夜(こよひ)の夢ハあしからじたがゑる戸(と)の下(した)にねぬれば

 悪い夢のまじない。一七八一年刊『増補咒咀調法記大全』(花部英雄著『まじないの文化誌』)に「あしき夢の夢違(ゆめちがへ)の咒」として三首がる。あとの二首。

  大はらや三狩(ミかり)の哥に立鹿(たつしか)もちかひをすればゆるされにけり
  おく山の根なしかづらに見つるゆめことなし草(ぐさ)に見ゆるなりけり

 いずれも「三べんよむべし」。注釈だが二首目の初句は「大原野。狩猟地で有名」、三首目の四句は「ことなし草は災いを回避されるの意をかける」、総体としては「夢を神仏の示現とする考え方から、方違えに悪夢の原因を求める誓いを立てる。また根もない夢だと覚醒後に影響がないことを強調する」。掲山歌の四句六音が気になる。「たがゑる」は「違へる」で方違え、二首目の二句「三(ミ)」は「御」か。

  わがおもふ心のうちの恋しさをまさしくつげよ神のまにまに

 『夢合延寿袋大成(ゆめあわせえんじゆぶくろたいせい)』より「思ふことを夢にみる伝」を引く。

 恋しい床しいと思ふ人か又は古郷親里の事何によらずゆめになりとも見たいとおもふときはすなわち此哥を三べんとなへてねるなりその夜の中にゆめにみる事うたがひなし
   我がおもふこころのうちの恋しさをまさしくつげよ神のまにまに
 尤その人のむねのうちにさまざま心がかりあるときはその夜のゆめにみる事あたはずよくよく心をあらひすましてぜひぜひ今宵此事をゆめにみやうとただ一心におもひて右のうたを三べんとなへてねるなりきわめてゆめにみる事うたがひなし

 国立国会図書館デジタルコレクションならば60から61コマである。

  わかせこが来べき宵なりささがにの蜘蛛のおこなひ今宵しるしも

 「蜘蛛」を『江戸文学俗信辞典』で引くと「夜の蜘蛛は殺してはいけないといい、吉兆とされ、特に待人の来る前兆として喜ばれた。これは『日本書紀』允恭天皇八年春二月に、衣通姫が天皇を慕って独り居た時に、天皇のお出でになるのを知らずに『(掲出歌)』と歌を詠み、天皇もこの歌をめでて返し歌をしたことによるものであろう。『古今和歌集』仮名序には『ささがにのくものふるまひかねてしるしも』とある。『ささがに』は蜘蛛のことである。『広益俗説弁』では『俗間家内にくもさがれば、婦女喜びありて視ふ』と女性の呪いにしており」云々とある。
 「旅と伝説」(昭和九年八月号)に載る有賀恭一「唱へごと集ー長野県諏訪湖畔地方ー」は「思ふ人を呼び寄せる時」は「『我が背子の来べき背なりささがにの蜘蛛の振舞ひかねてしるしも』の歌を三度唱へて居れば待ち人が来る」とする。

 わすれてはうちなげかるる夕べかなわれのみしりてすぐる月日を

 執筆者の名前はないが序は安永六年(一七七七)、出版は文化十一年(一八一四)の『夢合延寿袋大成(ゆめあわせえんじゆぶくろたいせい)』中「夢現幻之伝」より「ねつかれぬ時早速(さつそく)寝つく伝」を引く。国立国会図書館デジタルコレクションでは61コマから62コマである。

   〽わすれてはうちなげかるる夕べかなわれのみしりてすぐる月日を
 此うたを三べんとなゆればそのままねいるなり。又とかくねられぬといふ人あるもの也。此人は男女ともに今ねるといふ時、右のうたを三べんくりかへしとなへてねる時はその夜(よ)よりつづいてよくねさせる事うたがひなし

 一冊は「安倍清明 夢合延寿袋大成 全」とあって富士・鷹・茄子の夢から始まる。多様な夢書の中でも代表的なものらしい(『国史大辞典』の見出し「夢」)。
 
 
 わだつみの沖に住むらめわらわ人(びと)何時(なんどき)つらくとも足にして

 一六八四年刊『邪兇呪禁法則』(解説・解題 羽田守快『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の翻刻は「瘧(おこり)病の符【呪符】 此符を牛に書て歌云」で次の歌、

  哀れやな西より来たる一つ足急いで帰れ弥陀の浄土へ

の二首があって「三遍宛頌文に曰 あまてらす光り有る人を悩ます足哉/但し男は左女は右に書べし 又口伝に云是にて落ちずんば/肩に【呪符】胸に【呪符】右脇【呪符】左脇【呪符】/左の手紙に書て付よ」とある。解説には「牛に書く理由は定かでないが、(略)、瘧病で立ったり歩いたりすることができない時に四足獣の霊力を借りるものか、あるいは牛は牛頭天王にして病厄神であることを表しているのかと思う。肩・胸・右脇・左脇に書く呪符は、これは人に書くのみ」とある。

  悪だくみあるこころこそ鬼よ蛇よ何になるかやあと見よ蘇和歌

 『日本国語大辞典』で「あとみよそわか」を引くと用例に「合巻・後看世蘇和歌(1824)」として掲出歌を載せる。実際にも国立国会図書館のデジタルコレクション(「あとみよそわか 5巻 忍が岡常丸 編述」)の4コマで見ることができる。旧書名は『金生樹(かねのなるき)後見よそわか』、教訓雑話で分類されている。また藤本(忍が岡)常丸編『あと見よ蘇和歌』は一八二二年刊、やはりデジタルコレクションで見ることができるが、こちらは狂詠で「蘇和歌」を含む作品が並んでいる。

  買先を親のごとくにしたしめよあとみよそわかいつも繁昌

 なお「蘇婆訶(そわか)」は「仏語。幸あれ、祝福あれ、といった意を込めて、陀羅尼・呪文(じゆもん)などのあとにつけて唱える語」(デジタル大辞泉)という。
 
 我思う人をば人に思わせじ思い尽きなば離れやはせじ

 一六八四年刊『邪兇呪禁法則』(解説・解題 羽田守快『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の翻刻に「愛敬守 表書【呪符】 裏書【呪符】上褁青/紙にて/【呪符】/加持外五古印【梵字】智剣印にて【梵字】/歌に云(掲出歌)三返」とある。解説には「鬼子母神(きしもじん)、十羅刹女(じゆうらせつによ)は『法華経陀羅尼品』に登場する鬼女たちであるが、護法天であり愛敬の徳ありとする/外五古印アビラウンケン、智剣印アラハシャナ。歌には『(掲出歌)』と唱える。これは相手を特定したうえでの呪法」という。
 「愛敬」を調べると「男女間のこまやかな愛情、夫婦和合の意」(日本国語大辞典)云々とあり、「守(まもり)」は「神仏などがわざわいを取り除き、幸運をもたらしてくれること」(仏教語大辞典) 云々、「愛敬守」以下を見ると「男の手を離んと思女に守」「商売時守」「ばくちに勝守」「離別の守」のような呪禁が続く。
 
 われは虎いかになくとも犬はいぬししのはがみをおそれざらめや

 人喰(くい)犬(いぬ)防ぐ呪い。一七八一年刊『増補呪詛調法記大全』は「うたに/(掲出歌)/此うた三べんとなふべし/次にこれをよむべし/いぬいねうしとら/大指(ゆび)より五つのゆびにぎる也」とある。注に「『大』と『往ぬ』(去る)」を掛け、「大指よりにぎるは親指から順に五本の指を折ること。妖魔をよせつけないまじない」とある。一八四二年刊の『新撰咒咀調法記大全』も「かみ犬を防ぐまじない」として「われは虎いかになくとも犬はいぬししのはがみやおそれざらめや/此歌三べんとなへ次に/戌亥子丑寅(いぬゐねうしとら)と大(おほ)ゆびよりかぞへ五ツのゆびを握り固(かた)むべし」とある。
 『日本俗信辞典』は歌と呪言がセットの例として福井県鯖江市辺、山形県新庄市をあげている。「我は虎」の歌は富山県・三河・奈良県などでも見られ、「戌亥子丑寅(いぬゐねうしとら)」の呪言は群馬・茨城・埼玉・長野県でも行われていたという。
 
 をそたれの四方(よも)の狐を呼び集めとくとく帰れあららぎが里へ

 「狐放之大事」。『邪兇呪禁法則』(羽田守快『江戸呪術教本 邪兇呪禁法則』)の解説文より引く。翻刻文と対比しないためもあって分かりづらいが「呪符を勝の木(不詳)でつくり、病人の両手の人差し指を載せ、『ギャク五逆百逆ソワカ』と唱えてまわりを線引きする。その板の狐という文字に灸をする。またいよいよ狐を引き放す時は印をもって病者の中指を挟み呪歌を唱える。『(掲出歌)』。『をそたれ』は秦氏の先祖にいる『乙足(おとたれ)』のことか。この人は日本へ渡ろうとして大ナマズに飲まれた稲荷神と思われる。大汝小汝の二神を助けたことにより稲荷を守護神とするにいたったという。ここにいう大汝小汝はすなわち狐霊のことだろう。/(略)。『官ノ有無をキクヘシ』とは、憑依した狐の位を聞くことと思われる。稲荷大明神が正一位であるので眷属の狐であれば位のある者もいるだろう」云々とある。
 参考図書
 羽田守快(はねだしゆかい)解說·解題『江戶呪術教本 邪兇呪禁法則(じやきようじゆごんほつそく)』柏書房
『增補咒咀調法記大全』(花部英雄『まじないの文化誌』三弥井書店)
『古今和歌六帖』(角川書店『新編国歌大觀』第二卷)
花部英雄『咒歌と說話ー歌・呪(まじな)い・憑き物の世界ー』三弥井書店
永松敦『狩猟民俗と修驗道』白水社
中島惠子「続 女の暮らしとまじないの歌」(「女性と経験」復刊六号)
立松和平『遠雷』河出文庫
中島惠子「女の暮らしとまじないの歌」(「女性と経験」復刊五号)
『新撰咒咀調法記大全』八幡書店
根岸鎮衛『耳袋』上中下、岩波文庫
鈴木棠三『日本俗信辞典』角川書店
藤原清輔『袋草紙』(『新 日本古典文学大系 29』岩波書店)
石橋臥波『二十世紀大雑書第一卷(民俗叢書第三編)』国立国会図書館デジタルコレクション
石川一郎編『江戸文学俗信辞典』東京堂出版
燈果亭天地根『狂歌新三栗集』(『近世上方狂歌叢書八』)
栗柯亭木端『狂歌かがみやま』(『近世上方狂歌叢書一』)
喜多村筠庭『嬉遊笑覧』一~五、岩波文庫
自然軒純全(じねんけんどんぜん)『五色集』(『近世上方狂歌叢書二十二』)
自然軒純全『興歌老の胡馬』(『近世上方狂歌叢書二十三』)
自然軒純全『朋ちから』(『近世上方狂歌叢書十三』)
自然軒純全『興太郎』(『近世上方狂歌叢書十三』)
自然軒純全『興歌河內羽二重』(『近世上方狂歌叢書十三』)
自然軒純全『夷曲哥ねぶつ』(『近世上方狂歌叢書十五』)
榎本弥左衛門『榎本弥左衛門覚書 近世初期商人の記録』東洋文庫6965
長沢利明「歌よみの国」(「西郊民俗談話会」のHP連載「民俗学の散歩道」二〇〇九年十一月号)
浅井了意『浮世物語』(『新編日本古典文学全集64』小学館)
『夢合延寿袋大成(ゆめあわせえんじゆぶくろたいせい)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
中島惠子「まじないの歌」(「月刊百科」二二〇号)
山口県文書館のHP「行事・講座案内」「アーカイブズウィーク」第十一回「解説シート」「コレラの流行」
源為憲(みなもとのためのり)『口遊(くちずさみ)』(勉誠社『口遊注解』)
『簾中抄(れんちゆうしよう)』(『史籍集覧23』国立国会図書館デジタルコレクション173コマ)
『拾芥抄』(『新訂増補 故実叢書』明治図書出版)
『小栗判官』(『説経節』東洋文庫243)
山田孝雄『君が代の研究』宝文館出版
宮内貴久「奥会津の番匠巻物ー系譜・由来・呪い歌ー」(笹原亮二編『口頭伝承と文字文化ー文字の民俗学声の歴史学ー』思文閣出版)
有賀恭一「唱へごと集ー長野県諏訪湖畔地方ー」(三元社「旅と伝説」昭和九年八月号)
武田正『昔話世界の成立ー昔話研究序説ー』三弥井書店
野本寛一『言葉の民俗 口誦と歌唱のあいだ』人文書院
藤原定家『拾遺愚草』(角川書店『新編国歌大観』第三巻)
『敵討義女英(かたきうちぎじよのはなぶさ)』(『江戸の戯作(パロデイー)絵本(四)末期黄表紙集』現代教養文庫)
『柳多留 百二十一篇』(『誹風 柳多留全集 九』三省堂)
花部英雄『西行伝承の世界』岩田書院
長沢利明『東京の民間信仰』三弥井書店
『増補狸諺集覧』名書刊行会
千葉徳爾『狩猟伝承研究』風間書房
生白庵行風編『古今夷曲集』(『狂歌大觀』第一卷)
浅井了意『かなめいし』(『新編日本古典文学全集64』小学館)
式亭三馬『小野譃字尽(おののばかむらうそじづくし)』国立国会図書館デジタルコレクション
『夫木和歌抄』(角川書店『新編国歌大觀』第二卷)
『古今和歌集』(『日本古典文学全集7』小学館)
市原麟一郎「土佐のまじない言葉」(「民話の手帖」第七号)
『伊勢物語』(『日本古典文学全集8』小学館)
『源氏物語』(『日本古典文学全集13』小学館)
山東京伝『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(『日本古典文学全集46』小学館)
山崎美成『世事百談』(『日本随筆大成〈第一期〉18』吉川弘文館)
小林一茶『おらが春』(『一茶 父の終焉日記・おらが春 他一篇』岩波文庫)
中村薰編『典拠検索 名歌辞典』日本図書
四方赤良、朱楽菅江編『万載狂歌集』(『江戸狂歌本選集』第一巻、東京堂出版)
山崎美成『三養雑記』(『日本随筆大成〈第二期〉6』吉川弘文館)
芥川竜之介『字がハッキリ見える シニアの目にやさしい 澄江堂雑記』(ゴマブックス)
「人丸山柿本神社御由緒記」
『女重宝記』(『女重宝記・男重宝記ー元禄若者心得集ー』現代教養文庫)
『平家物語』(『日本古典文学全集29』小学館)
忍が岡常丸編述[他]『あとみよそわか』国立国会図書館デジタルコレクション
藤本常丸編[他]『あと見よ蘓和歌』国立国会図書館デジタルコレクション
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