書架新風(上半期)

矢澤氏までは昨年の上半期、間違えて去年の下半期を消してしまいました。下半期には、今年の上半期2冊か入っています。


島田暉歌集『戦あらすな』(角川書店)
・春になり水嵩増して鳴る瀬音寿命持たざる水の勢ひ
・万両の赤く丸き実眺めたりまだまだ丸くなれない僕は
・境内に集ひし晴着の新成人戦に易(やす)くゆかせてならじ
・補助輪を取りし自転車漕ぎてゆく春の少女は風になりたり
・車窓占めて稲穂まぶしく光れりと復員せし日を語る老い人
・チャップリンやベーブ・ルースを乗せて来し氷川丸いま港に憩ふ
・一日に一回廻るこの地表振り落とされず椅子に居眠る
・老いぼけし犬と話せる妻の声居間より漏れ来常世のごとし
・妹の送りくれたる新米は令和のひかりを集めて白し
・眼と耳と皮膚の医院を梯子する賞味期限の切れしわが身は

内野光子歌集『野にかかる橋』(ながらみ書房)
・眠りより覚めたる犬は見回して再び自らの足にあご置く
・かつて娘の通いし保育園炎天の砂場に幼の帽子が動く
・目取真俊・野坂昭如のサングラスひそめる闘志が嫌いではない
・入館者ひとりの「塚本邦雄展」ふたたびめぐり戻りてもひとり
・池の水掛け合う声のきらきらと児らの遊べる詩歌文学館前
・新しき商業施設そこのみの賑わいなるか幟はためく
・届かざる手の置きどころ病院の壁に記さるる津波の高さ
・薄っぺらな念仏のような答弁の合間にのむ水いま浴びせたし
・かぼちゃ組ゆうぎの輪をはみ出していずこに向かうあなたの匍匐
・検索の途上のデジタル資料には思いもかけぬ亡母の名ありて
・外壁は工事シートに囲われて穴のごとき入り口目指す
・院内のコンビニ弁当の温めるを待つ議員らの無防備な肩
・来し方を査定されたる思いにて手放す書籍の埃をぬぐう
・巨いなる保存樹の根が押し上げる歩道はつかに上り坂なる
・議員らの背広の体かさなりて見えぬ委員長席に怒号飛び交う

渡辺茂子歌集『アネモネの風』(不識書院)
・かたくなに人に合はさず帰り来ぬ直立の電柱いくつ数へて
・駅に来て財布無きことに気付きたり一生の不覚は何度でもある
・昼餉にはフランスパンは似合はぬと夫の啜れる素麺の音
・八十の媼の度胸も意気地なし手術不能か血圧あがる
・光彩のあやに激しく渦まきて今し人工のレンズ嵌めらる
・本能と言ふは易しもアサギマダラ超えゆく海のはたて想へば
・雲井から勅旨とつづく駅名も雅なるかなローカル電車
・無視されて長々続く会議なり持ち来たる自負持て余しをり
・自(し)が姿少し誇示すや白鳥は遠景の比良と被写体となる
・無口なる隣家のあるじ軒忍に水やる音すいつも定刻

小林幹也歌集『小林幹也歌集 現代短歌文庫』(砂子屋書房)
・身嗜(みだしな)みやたら煩(うるさき)き伯母上に顔を背(そむ)ける向日葵(ひまわり)二輪
・共犯者明かさず獄死せし彼に金木犀の匂ひはやどる
・父親の拳骨(げんこつ)の跡(あと)苦笑して隠すはスラム街の初恋
・バレリーナくるりとまはる透明感 雨は硝子を打ち続けたり
・おぼつかなげに昆布茶を運ぶ君がゐて画廊の空気が若返りゆく
・胴体にあまた漢字を書き付けて台湾バスの芳一もどき
・「はるちやんを起こして」と妻にたのまれて私は鶏の鳴き声まねる
・三井寺の若き学僧立ち並び北極星を見上げてゐたり
・『細雪』の姉妹も乗りし阪急の車窓に昔の春よぎり去る
・太鼓橋少し大空持ち上げて確保してゐる神の通ひ路
・京都駅はしだて5号の停まりたるところは暗く山陰本線
・ブランコの児童消えては顕はるる路上駐車のバックミラーに
・斎場へマイクロバスはのぼりゆく窓にもみぢをちらほら見せて
・父の失業知らざるわが子満面の笑みにて迎ふパパおかへりと
・しばらくはお金の心配いらないと妻はささやく子を寝かしつけ

川本千栄歌集『森へ行った日』(ながらみ書房)
・蟬声のこもる玉川上水は水嵩低く情死為し難し
・本棚を挟んで声は聞こえおりパキラに当たる空調の風
・授業辛くてたまらぬわれに癌重き校長がする研究授業
・昼寝から覚めれば生家 若き母が西瓜を切っている音がする
・地蔵五体大から小へ並び立ち祠の中から黄(きい)の田眺む
・寒風に湖(うみ)無き里は乾きたり姪を抱きたる島崎藤村
・文学が詩歌が政治を変えること不知火の海の辺に一つ灯ともし
・泥酔しトランプの手品してくれた切る度に数枚をこぼして
・力尽くで廻すスキー板 樹氷見て私が追いつくのを待っていた
・Go Toが始まり大学始まらず下宿で息子はゲームしている

山本枝里子歌集『無人駅』(ながらみ書房)
・自慢することでもないがわが町の平均年齢四十二歳
・海も山もないおだやかさ鉄塔を這ひのぼりゆく今宵の月は
・徳島ナンバーがゐますの声に振り向けばキャンピングカーの人と目が合ふ
・母の待つ家に食事をはこびゆく長靴ぐづぐづぽちやぽちやと鳴る
・ゴミ箱のふたを探せどみつからず台風のたび何かが消える
・かづら橋なかばまできてふるへをりもう後戻りなんてできない
・スーパーの自動扉は天界と地獄を仕切るやうな真夏日
・四国霊場一番札所霊山寺の池に肥満の鯉およぎゐる
・髪をあらふ指の動きの強弱にうつとりとしてまなこをつむる
・着替えを届けるたびに窓から手を振るを駐車場にて待つてゐるなり

万造寺ようこ歌集『サンドマンの影』(本阿弥書店)
・昼過ぎの電車いづくを走れるや栞の紐のページを移す
ガラス戸の一枚いく度もまはりつつ電線を越え吊られゆきけり
・玲とめぐみが並んでなにかうなづくが向かうに見えをり手術は済んだ
・研修生が緊張したるおももちに並びゐるなり診察室は
・忘れ物のやうにつくつくほふし鳴く中学校の裏山を越す
・海ちかく走る電車はちらちらときらめき乗せる子らのひたひに
・地の起伏わづかに腕に伝ひくる夜明けの駅へ鞄を曳けば
・山並みのうしろの山がまつ白と一人が立てば五人が眺む
・玉串の振らるるたびに部屋内に森の深処のさやぎ満ちくる
・海面下百五十米竜飛駅なくなるといふ行くことなけれど

松野志保歌集『われらの狩りの掟』(ふらんす堂)
・図書館の窓辺にいつも座していた君 思春期を晩年として
・着せかけるフロックコート甘噛みのあまさを知っているその肩に
・ベッドからこぼれた腕(かいな)この夜の闇の深さを測るごとくに
・二時間に一本のバスを待ちながら秋風万里の一語を思う
・髪を切る、という天啓そびえ立つチョコレートパフェ攻略中に
・ひびわれたホームに菫 何本の最終列車を見送ったのか
・薔薇の咲く角を曲がればその先にあなたの好きな永遠がある
・さらばとは男の言葉さればこそ黙して黒い口紅をひく
・兵士らの羅紗のマントは暖を取るためならず風にはためかすため
・菖蒲湯に身をゆだねれば確かなる輪郭を取りもどす魂

堀岡洋子歌集『花のこゑ』(朔日短歌会)
・黄昏れて鮎を釣る人の帰り来る生ぐさき水の匂ひ引き連れ
・バックミラーに夕映えの街をひき連れて深みゆく秋をわがものとする
・ローカル線のドアは開きて風の音海の匂ひを乗せて閉まりぬ
・上げ潮に逆らふことなくのぼり来る海月(くらげ)よ水母(くらげ)美しき文字
・このパワーもらひなさいよと促され橅の巨木を思ひきり抱く
・冷やかな風にまじりて梅の香が〈踊り子号〉に乗り込みてきつ
・田の中に一本の道できてより銀河に続く気のして歩く
・若きふたりのカヌーが桜の下をゆくわれのカメラに笑顔残して
・最南端の岬に立ちて口ぐちに地球が丸い丸いと言へり
・夫はお湯娘は水で割る焼酎のボトルが炬燵の上を行き来す

志垣澄幸歌集『鳥語降る』(本阿弥書店)
・買物の老人を待つタクシーがスーパーの駐車場に並べる
・バス待てるわが両鬢をかすめゆく風音ときに泣き声となる
・自らの季節過ぎたる人々が公園にゲートボールしてをり
・保育園の運動会に一人だけ逆走してゐる幼児が見ゆ
・夏の野を過ぎゆく特急すこしづつ縮小されてゆく後尾みゆ 
・キャンプせし跡ならむ土の焦げてゐるところを過ぎて海に降りゆく 
・もつれるやうにあまたの脚がうごめきて女子マラソンの一団がくる
・マラソン走者に負けじと走りゆく少年がみゆ歩道の奥に
・置かれたるままの時間を残しゐるタンスを運び出したる畳
・鎧着けしやうなキャッチャーゆさゆさとピッチャーのもとに歩み寄りたり
・干されゐる女男のセーター風吹けばかたみに手をかけ絡みあひたり
・「桜を見る会」の桜は今年も真盛りいつも桜は汚されてきつ
・降りてきし無人の駅に賑はひし頃の駅舎の写真が掛かる
・われに翼あらねば平らなる背中いくどもいくども洗ひながせり
・米兵を竹槍で突かむと訓練をさせられてゐし日本の婦女子

武藤ゆかり歌集『光の柱』(南天工房)
・足元に気を付けながらのぼりけり司令長官専用階段
・寄贈本多くて困っているという図書館司書のつぶやきを読む
・壇上の人と目が合う喜びよ最前列に近く座りて
・楽しみに録画見るから今はまだ羽生結弦(はにゅうゆづる)の順位は言うな
・歯磨きをしながらなぜに水流す父の習慣むだの極みぞ
・被災地を写して回り無人機は泥も付けずに本社へ戻る
・山里にぴすとるの音鳴りひびき八十二歳の父走り出す
・鯉の口ぱっくり開(あ)いてすぐ閉じる極楽浄土の入口ならん
・長時間露光で撮らば幾重にも山を飾らん北斗七星
・我ばかり目がけて落ちるしずくかと天井仰げば顔にも落ちる

増田テルヨ歌集『V空間』(本阿弥書店)
・ツルゲエネフ「初恋」読みて涙せし戦後焼跡木造校舎
・戦傷の義足で田を植ゑ草を取りし兄の戦後の四十六年
・祖母となりて母をおもへり母となりて母をおもひし日よりも深く
・テラノドン、トリケラトプスをさなごと読めば杳けきせいめいのれきし
・小さきシャツ干しつつ思ふ「小さき」とは何と未来に富むことばかな
・膝にさす陽のあたたかし遠き日に吾子と遊びし公園にゐる
・木もれ日のちらちらひかり水辺とぶ青きトンボの細きはつなつ
・月見草わが手にのせし若き日の夫に逢ひたしつくつく法師
・子らの声水族館をとびかへど亀は動かず憲法記念日
・亡き夫のつね着し手編のセーターの袖口繕ふ冬の日なたに

横山季由歌集『気迫』(現代短歌社)
・物の怪の棲むと記しし司馬遼太郎北山ここの志明院に泊まりて
・仕事忙しく母のいまはに会へざりき三十二年悔いて忘れず
・蚊遣り二つ腰に吊して土起こす社の藪に近き吾が畑
・残りわづかの登りに足吊り力入らずけふの登頂断念せむか
・藤原宮址の土壇に茂る樫の木蔭野球少年ら昼餉とりゐる
・酒に酔ひし吾が赤ら顔を見るごとし正倉院展酔胡従の面は
・覚えたる文字書きそめし吾が幼「ばあば」と書けど「じいじ」は書けず
・病持ち四十五歳とならむ子に結婚せよと吾が切り出せず
・切り立ちし岩峰に登り見上げたり大峰山(おほみね)のうへに輝く星を
・「大臣禅師」と署名して記しし道鏡の正倉院文書の文字は拙し
・人事課長吾は出張に明け暮れゐき中島先生逝きましし時も 
・ジジババとひと日過ごすとリュックサック背負ひて五歳の海里は来り 
・延命治療一切不要家族葬にてと妻子らと決めぬ元気なる今 
・小雪舞ふ道べに着ぶくれ送迎のバスにて帰る海里吾が待つ 
・吾が畑に巣造りゐたる雉の雛育ちゆきたり来れざりし間に 

田中翠友歌集『ふるさとの駅(ホーム)に立てば』(ながらみ書房)
・地球とう乗り物に乗り半年後太陽の向こうに運ばれるわれ
・寝たままの介護タクシー揺られつつ見知らぬ街に転院する母
・公園の鯉にパンきれ投ぐる男ときおり自分の口にも入れる
・靴を脱ぎ窓に向かって膝立ちの車内の吾子よ たつ蜃気楼
・「父」とうを行書で書けば「欠」に似る 父逝き早も五十余年に
・早苗田に映る青空その上をかるがも親子ゆうゆう泳げり
・ぬくもりは今も忘れぬ五歳にて父の添い寝を姉と取り合う
・天国って二人の国と書くんだね母の骨壺父の隣に
・展示ケースに付着のおでこの跡を拭く職員せわし正倉院展
・三時間待ち受診三分その後に「オダイジニ」とは精算機の声

寺田信子歌集『荻のひとむら』(角川書店)
・バスガイドのお国自慢と民謡がとろとろとわが瞼にかかる
・われもまた誰かの夢に現れてものなど言うかと目覚めて思う
・トンネルを抜ける間に雨雲が先まわりして日光は雨(*「日光」に傍点)
・ロングドレスに居並ぶ女性コーラスの平均年齢六十五歳
・終点の町に住むわれ帰りたくない日ありても降りねばならぬ
・飛ぶことは出来ぬながらも箒もて家族の留守に玄関を掃く
・わたしたちこの界隈で育ったの詮なきことをホテルマンに言う
・本堂と墓地をつなぐはJR中央線の下のトンネル
・二階に住む息子が階段おりくるを天孫降臨と夫は笑う
・マッチ棒の太さに切るが通じない不便ですねと料理の先生

黒瀬珂瀾歌集『ひかりの針がうたふ』(書肆侃侃房)
・一歩一歩干潟を重く歩めるに鯊(はぜ)は逃げゆく吾の影より
・ウェットスーツ冷えゆく蒼き周防灘浮標(ブイ)に浮きつつ見渡せば空
・『どうぶつのおやこ』の親はなべて母 父欲る吾子を宥めあぐねて
・一摑み土砂降ろすたびをさなごの笑ひにゆらぐ運搬船よ
・ずつとずつと裸族でゐたい一歳児追ひかけて父は朝食逃す
・起重機車(ユニーク)のフロント照りて長月の花火さみしき浜辺に来たり
・定規(スケール)を当てて鯰は戻したり産土とほく生きゐる吾が
・草影に銀色の腹さらしつつ持子(もつご)浮くわが仕事のゆゑに
・パパゴリラごりらをどりを披露せりママゴリラまだ恥じらひのある
・高千穂に降灰煤塵量を見て俺はもうじき九州を去る

笹川諒歌集『水の聖歌隊』(書肆侃侃房)
・飼い慣らすほかなく言葉は胸に棲む水鳥〈水の夢ばかり見る〉
・こころが言葉を、言葉がこころを(わからない)楽器のにおいがする春の雨
・花冷えのミネストローネ 生きること、ゆたかに生きること、どうですか
・食事という日々の祭りの只中に墓石のように高野豆腐は
・引き出しをひっくり返す音に似た雷、あれは神の断捨離
・花柄のシャツをよく着る友人がこの夏に飲む水の総量
・冷えた手の甲を重ねて僕たちは既視感の王国を出る舟
・グラスには静かなレモン 搾るほどあなたが痩せるような気がして
・公園を逆さにしたら深くまで一番刺さるあの木がいいな
・いつもより小さく座る ひまわりの北限の島のような静けさ

内田いく子歌集『とっぴんばらりのぷう』(角川書店)
・過去世訪う道のごとしも昼冥き樹々の下ゆく明治記念館まで
・百年生きる人を憐れむ熊蝉の声の力は死にゆく力
・夜の工事の男の怒声地底から音の柱となりつつ昇る
・子を育てぬわが名〈育子〉は家系図に二人子の母〈育子さん〉と並ぶ
・横にも下にも線は生まずにわれの名は涼しそうなり家系図のなか
・頸立てて白鳥手賀の水面来るつゆ水中の足搔き見せずに
・ふれあいの洗礼のごと「お孫さんは」と人ら寄り来るふれあい喫茶
・呼び出してやらむケイタイ紙に描き〈090……〉も付して柩へ
・ガンバレの声積むような健康福祉部健康いきがい課健康増進係
・婚なくて子なし孫なし〈生産性〉なしか しっかり税払っとる

↓  去年の下半期、最後の一冊
杉浦詩子歌集『白鳥伝説』(九曜書林)
・四十肩と言ってはばかり無きわれに苦笑する医者を見逃さずいる
・ごみ荒らし追い立てられる野良ねこは振り向き生きる権利のあると
・吉野川三度チャレンジ ラフティング秋あかね群れ七十歳(ななじゆう)の歓声
・おばあちゃんは大切だから会えませんコロナは愛の概念変えた
・おままごと今を映してお人形にコロナですねと聴診器あつ

矢澤靖江歌集『音惑星』(本阿弥書店)
・夕焼けが窓にひろがる ふるさとに実る柘榴のその実の色に
・戦場の父より届きし絵手紙を母読みくれき三歳のわれに
・歳月はしづかに澄みて青年のオール、真赤(まつか)な夕日を掬ふ
・官僚を辞して入りたる酒造(しゆざう)の道けはしくあれど子は励みをり
・母の亡き七年おもふ大銀杏の見下ろす寺の門をくぐれば
・水中の西瓜つつけば縞目ある木星のごとぐるり自転す
・ものの音絶えたる宵を夜行性動物のごとファックス作動す
・この世より滅びてゆかむ夫(つま)の呼吸(いき)見守(まも)りて三男二女の子らあり
・十一時二十二分、夫の臨終子は告げぬ慶應病院D棟一〇六七号室
・診(み)つつ来ていま自(し)が父の臨終を告げたる吾子よ泣きたくあらむ

田中伸治歌集『冬陽坂』(私家版)
・夢のなか捏(こね)たる粘土が唇(くち)となり妻の言葉で小言を言ひぬ
・見つけたる語のきらきらし年譜にはチェホフ十二の春の「留年」
・草の花に蝶またとまりまた離る真昼鎮かに刻深みゆく
・失踪の父待つ生徒思ひつつ砂場に寂しく子ども遊ばす
・迷ひつつ駒進めをり五手先は負けやも鈍くビショップ光る
・悠々と鱏泳ぎをりえらのなき我ら見上ぐる秋の水族館
・現日世αⅡC理B体 教科略せば記号のごとしも
・建築家を夢とし語る女生徒の背に透明なつばさ見し朝
・見舞ひたる夜(よ)の病棟の裏門に死者専用の出口に気づきぬ
・水を掛け墓洗ひをり念入りに三十三にて逝きたる祖父の

藤原龍一郎歌集『202X』(六花書林)
・真夜中のタイムラインに鳩を呑む蛇の動画が流れる不快
・新国立競技場のトラック喘ぎつつ夜ごと円谷幸吉走る
・材木を切る職人の肌脱ぎの汗 唐獅子の彫り物綺麗
・江東区立平久小学校二年生藤原龍一郎学級委員
・同級生チノ・タケシ君イカダから運河に落ちて溺死せし夏
・母子寮の三畳の部屋オカアサン泣きて棺(ひつぎ)のチノ君の死顔
・ラジオから聞こえる歌に声合わせ「黒いはなびら、静かに散った」
・日没の後の運河の水暗く工場の灯の映るさびしさ
・不安その形象として芥川龍之介そのデスマスクあり
・一九四五年三月十日未明なる劫火に追われいるはわが母

高尾恭子歌集『裸足のステップ』(現代短歌社)
・焼きたてのパンを抱えて闊歩する「おおきに毎度」の声ひびく町
・スタートのピストルかわいた音はなつ十月十日の空青かりき
・質問が詰問となり煮つまったカレーのような放課後の室(へや)
・熊蝉の果てし八月〈ぶっころす〉〈むかつく〉などの耳慣れにけり
・初春の日は昇りきて父宛の賀状どさりと喪の家に着く
・釣り糸を垂るる人影突堤の先に残して海暮れゆけり
・托鉢の列のしんがり三人の少年僧の頸すじ細き
・祝婚の三十九年目うしろから抱きしめられて夕日が赤い
・鴨川の飛び石ひょいひょい渡りたり初めて紅を引きし日のごと
・大阪のおばちゃんと括られ気がつけばヒョウ柄スカーフ三枚持てり

柘植周子歌集『寂光』(六花書林)
・世にあらぬ父の記憶は深藍のあぢさゐ咲きて往診の道
・イヤリングどこかで失くしてからの日々菜の花畑に生れ継ぐ蝶は
・曲り角いとたはやすき表示にて死への指図は暮れなづみをり
・あはあはと光陰ゆるる桜花(はな)のした被写体として亡きひと立てり
・断水の日々に届きし救援水アルプスの水由布岳の水
・しんけん度うすれぬままに手を洗ふ十指は十志水匂ふまで
・球体といふめでたさに鎮座して林檎の肩はやや右さがり
・表裏なき闇にわたせる雨樋をあふれやまざる雨夜のひびき
・足ばやに陸橋わたるゆふまぐれひさしく逢はぬ子をおもふなり
・一笑に付すとばかりに起ちあがる猫ゐてけふの日没の景

馬渕礼子歌集『白光』(短歌研究社)
・遊覧船に従(つ)きて舞いゆくカモメらの翼は白く海に閃く
・破魔矢持つ人ら過ぎゆく愛新覚羅木造旧居表札は無く
・裏返る耳やわらかく白くして春草の上に子犬寝そべる
・乗客はわれのみとなりしバスを降り城上(きのえ)の跡のみ社に来ぬ
・医師の操る液晶画面に浮く印(マーク)われの後さき癌ばかりなり
・飼い犬に流行ありて草の野に集う品種にスピッツを見ず
・亡き父と交流ありし清張(せいちょう)のドラマは桂林・ハノイを巡る
・坂下をしなう遮断機上がりゆき人らのたつき動き出したり
・わが夫を診察しくれし医師二人若きカップルとなり夕あゆむ
・灯台の野鳥の崎の翳りつつ白兎をなして岩に寄す波

森嶋郁子歌集『白き花房』(北羊館)
・見渡せば年下ばかりとなりてをり職員室の昼の語らひ
・宵つ張りの叔父卓行を起こすのは五歳のわれの大連の日々
・眼下(まなした)に海見はるかす喜望峰出しし葉書はふた月後に着く
・ちちははの眠れる石の闇に置く継母の壺の位置を言ひあふ
・引揚げの記念館に名をのこす高砂丸の五歳の記憶
・日傘持つをみなのモネに並ばせて館員が撮る夫とわれを
・椅子の背にかけられてゐるセーターが外出(そとで)の夫の咳き込むに見ゆ
・クロアチアのツアーのバスに銃弾の痕の著けき民家の続く
・付き合ひのなかりし従弟にけふ会へり四十年経て仲立ちは歌
・否定してゐし四歳がほめやれば名のりをあぐる椅子の落書き
・子が嫁してわが城となるこの部屋に真紅のパソコン輝きてゐる
・神殿の鎮もりてゐて下鴨の社に式をあげし日ありき
・三十桁の個体識別番号がホテルのメニューに記さる飛騨牛
・手をあぐるたびに安堵し孫を見るばはの国語の授業参観
・円舞曲ボランティアとして弾く息子その晴れやかさに和みてをりぬ

足立尚彦歌集『冬の向日葵』(ミューズ・コーポレーション)
・殺されて切り刻まれて串刺しにされて焼かれて百二十円
・鉛筆は投票のときしか使わないなどと選挙のたびに思えり
・占い師だった頃占い師のすすめで占い師をやめてしまった
・休肝日を設けはしたが休肝日以外の酒量が増えに増えたり
・散骨をしたあたりにて祈りおりむかし母なりし分子に原子に

桑山則子歌集『ゆかり』(角川書店)
・なにゆゑにかくもいとしき勾玉はわが失へる胎児のかたち
・思はざる位置に三日月冴えゐたり眠れぬ夜を勾玉おもふ
・をりをりにあがなひきたる勾玉のわが歳の数を超えてふえをり
・実を超え虚の美しき 水の面(も)に苗代桜いまを盛れる
・結集せよ大地の力 あつめたる小石の力 すべてを夫へ

松延羽津美歌集『水の神さま』(ながらみ書房)
・ストーブにケトルは音を立ててをり土曜の朝のゴールドブレンド
・コホロギの声聴くゆふべ孫たちは夏の宿題してゐるならむ
・羊水に守られ人は生まれきぬとプールに浮けば母ゆかしけれ
・空港に後ろ姿を見送れば息子は振り向かずゲートをくぐる
・三十年を過ぎ来し「黒髪三丁目」の官舎跡地に夫と佇む

橋場悦子歌集『静電気』(本阿弥書店)
・唇の端に残れる塩味をぬぐひて午後の会議へ向かふ
・壇蜜は嫌ひではない壇蜜を好きと言ひ張る女が嫌ひ
・絹豆腐掬(すく)ふ手首を涼しげと思ふ季節もそろそろ終はる
・信号が変はり次第の発車です 見えないそれが変はるのを待つ
・たくさんの光の粒のひとつぶに閉ぢ込められて夜の渋滞
・眼をつぶる方がこはいと諭されぬジェットコースターの先頭にゐて
・山間(やまあひ)を走る列車は降りるひとなきホームにも律儀に止まる
・終点を前に流れるアナウンス「次はすべてのドアが開きます」
・〈当職〉といふ主語による通知書に封をす切手の裏は舐めない
・ぬひぐるみみたいだなんて本物のパンダ見ながら言つては駄目だ

伊東一如歌集『蓬萊橋』(六花書林)
・音のなきことに気づきて外を見れば音をつつみて雪降りしきる
・教科書に日本歴史を学べどもわが青森はつひに出で来ず
・横浜から嫁ぎし母の婚礼でうたはれたるは「弥三郎節」
・〽こごの親だづあみな鬼だこごさ来る嫁みなバガと、うたひたるらし
・円覚寺の墓所をおとなひ手をあはす開高健(たけし)五十八歳
・捨聖・一遍の像あまたあれど清浄光寺の面立ちぞよき
・「蔑」の字の点は斜めか横一か校閲部会の侃侃諤諤
・「らくさい」と打ち込まざれば「洛西(らくせい)」の文字の出でざる電脳哀し
・正座して両手を添へて襖あけ姿消したし世を去(い)ぬる日は
・どこまでもおのれむなしうしてゆけば風になれるか雲になれるか

奈良橋幸子歌集『こゑのゆくへ』(六花書林)
・遠天をしら雲流れ畔の道ほつほつほつとふきのたう生ふ
・羽たたむ鳥ありひらく鳥もあり風に乱るるゆふべの沼に
・見舞花只見の奥のひめさゆりうすくれなゐをよろこびましき
・たまきはるいのちの際に記されし歌二首きみの息の緒そよぐ
・梅めづる女人ふたりの伊予ことば梅花の下をやはらかに過ぐ
・男(を)のこゑの一語一語がとびはねてなりはひ明るし青物市場
・人の世でたんと生きたといふやうに目つむる犬のゐる秋の庭
・リクルートスーツを着たる一群のをとめにをとめの闘志が見ゆる
・逆様にぶら下がりたる鉄棒の男の子三人、笑ふ蝙蝠
・日月を経てなほ残る調度品火鉢にかざしし手は大きいか

梶原さい子歌集『ナラティブ』(砂子屋書房)
・とことはに学生のわれ「学校さ行つてきたが」と祖母に問はれて
・跡継ぎを持たぬ田畑と跡継ぎを持てる田畑が畔(くろ)に分かたる
・走るたひ小さく打ちけむランドセルその持ち主のやはらかき背を
・戦争がいつ終はるかを知りながら読み進めゆく戦中日記
・シベリアより戻りたるのち裏山にあまたの杉を植ゑし祖父なり
・連なりて白鳥わたるこの今も原子炉建屋にひとの働く
・十時間目は「国語表現」昏れてゆく夜に教室ひとつ浮かべて
・屋上より向ひの屋上見てゐしと 波来るたびに人流れしと
・十年だねと院長が言ひお陰様でとわたしが言うた 暖かき部屋
・わたくしの右胸にメスを入れしひと十年分を老いて笑まひぬ

小林幹也歌集『九十九折』(飯塚書店)
・救急車の音漏れ聞こゆ在校生送辞が半ば読み上げられて
・太鼓橋少し大空持ち上げて確保してゐる神の通ひ路
・焦がれ死にたる御霊か邪気かどこまでも遊覧船を追ひゆくかもめ
・青春はベッドの下の鉄唖鈴、覗けば昏く定位置にあり
・桟橋の上より霧が濃くなりて世界のはてにゐる寂しさよ
・犬橇に牽かれ記憶の果てに消ゆ植村直己の丸い背中よ
・日陰にてペットボトルの水ごとり落つる音より夏始まれり
・足へぐうとよぶんの力込めて立つぶあつい本をコピーするとき
・父の失業知らざるわが子満面の笑みにて迎ふパパおかへりと
・しばらくはお金の心配いらないと妻はささやく子を寝かしつけ

やまたいち歌集『バルカン半島より』(短歌研究社)
・「ピボ」というはビールのことと聴きてより巷たのしき色彩となる
・安宿(ソベ)ありとつげる女のあとをゆけばストーブの部屋にマット一枚
・「あしたまたな」と手をばかたく握られて心残して居酒屋を去る
・案内所に、日本人がたくさん住んでいる、と教えられれば行きて見んとす
・尋ねゆき捜しあてたるブザー押す、うさん臭がられしがやがて開けられ
・教会に人集いおればまぎれ入り歌をうたいて帰るたそがれ
・ベッドにいて今日のひと日を想いつつ遠い市電の音をきくなり
・バザールのイチゴ赤黒く熟したり一キロ買ってジャムをつくらん
・イチゴジャム作り方をば尋ぬれば手伝いましょうと言いくれしかな
・村人のトラクターに声かけられ駅ちかくまで送られたりき
・五月半(なか)はやくも白夜の気配なり二十一時の空暮れなずむ
・緩やかな流れに架ける橋ありていちめんに鍵ぶらさがりをり
・結婚の誓いに堅く鍵をかけときおり二人で見にくるという
・VISAカードで現金引き出しあれこれとスーパーに入り物色するなり
・バス停はと問えば欅の木の蔭にポストが立って「タルトゥ行」とある
・煉瓦壁古き教会の椅子にきて朝の祈りに加わりたりき
・車内にて切符買わんと銭かぞえおるときぎぎっと、カーブに転倒
・銅製の杯(はい)に蛇からむ看板は一四二二年創業の薬局
・薬効あるシナモンビールを飲みたればかすかに甘き蜜入りなりき
・はるかなりし中世霧の彼方なる食の豊を想いおりたり
・身のせまきシングルベッドの個室なり、シャワーを浴びてカフェバーへゆく
・雨過ぎし広場に出れば銅像のナヒモフ提督海に向き立つ
・ワイン一本ビール二リットル入り瓶で宿の夫婦を庭に誘い出し
・こころみに「カチューシャ」唄えば声合わせ思わざる日よ歌声酒場
・「ともしび」を唱えばわれの日本語(につぽんご)かれらロシア語の合唱となり
・乗れという黒のベンツがタクシーなり、「ホテル・パサージュ」と告げて乗りたり
・正面に着ける初老のドライバー、ドア開けて立ちわれに一礼
・明りうすきフロントにきて、部屋代は四千円程なり滞在証明もつく
・何ビルかと寄れば〈National〉の文字のこる荒れにし日本の会社跡なり
・傍らに桑の木あれば子供らは登りて桑の実を食みており
・著名なる文学者の名を冠したるキエフのオペラ劇場に来たりき
・いつの間にオペラファンになりにしか夏至祭ちかき東欧に居て

やまたいち歌集『雪蔵(HIMALAYA)より』(短歌研究社)
・紫に暮れゆく谷の彼方にはヒマラヤ連山あかねに浮きて
・日本食の店「風の馬」宿近く久しぶりなるえどんを食いき
・争いを厭いて来たりしものなるかこの極限に人は住みたる
・ヒマラヤの夜の一人道危険なり妖かしの出で谷に引かると
・ヒマラヤの峰より出でて珊瑚石むかし海底の証をのこし
・里遠き院に一夜のやどりして夕べの勤めに加えられにき
・経よむすべあらざりければ教わりしままに太鼓を打ちつづけたり
・ラマ僧ら寡黙につどう夕餉にてとぼしき食(じき)を賜れりけり
・喘ぎのぼる岩みち陽ざしの強ければたちまちわれの血尿となる
・時と場所うつしてふたたび語りあう照る日にむかい岩山か゜ある
・十二人相乗るジープすし詰に峠へむかう星のふる夜
・前輪を崖にはずせし軍用車、後続のものら連なりて待ち
・大いなる象の背に乗り象飼は象の鼻から喜捨をうけとり
・馬鈴薯の袋つみたる驢馬二頭やさしく耐える目をしておりぬ
・相客の犬と山羊とを乗せるバスその糞尿も運びて走り
・無事とだけ書いてよこせと諭されき今日一便をしたためており
・魔の住むと村人怖れ近寄らぬ谷を見出せし英人のあり
・一千種をこえる高山植物の宝庫と書きて人に知られる
・夜も更けの声をあやしみたどりゆけばシーク教徒ら部屋に呑みおる
・床(とこ)を降り瓶を囲んでのみおりきスコッチなりにき中に招かる
・帰るさに細き腕輪を贈らるる、勇気と力を汝に授くと
・客去りし茶屋にもどれば火残りて羊の肉を煮てくれるという
・五〇ルピー無視して走れば百ルピー百ルピーと叫び追いかけてくる
・ドアー閉めてステップを上り行け行け(ゴーゴー)とわれの叫べばバス行きたりき
・忽然と学童たちの消えうせて山下る道を霧の手がおおう
・連れ去られし兄を求めて出でしかどそのまま帰らざるZ・らいまん(三十六歳・作家・映画監督)
・ダッカ大学教授R・ハッサン同居の友人と共に拉致され行方不明(三十九歳・英文学者)
・「理性・直観・実在」の哲学を講じおりしがG・デーブ学園祭に虐殺され(六十四歳・哲学者)
・地域復興に努めおりにし政治家実業家K・ゴシエも虐殺さる(八十三歳・弁護士)
・十四日朝S・カーンを連行し殺したる裏切り者らを「軍協力者」と呼ぶ(四十五歳・大学講師)
・女流詩人セリナ・パルヴィン殺されし十二月十四日という運命の日(四十歳・ベンガル文学研究者)
・ベンガル語回復運動の活動家S・カイザー同じ日連れ去らる(四十四歳・ジャーナリスト・作家)
・パ軍の残虐行為を報じしがゆえ捕えられ帰らざりN・アーメドは(四十二歳・ジャーナリスト)
・宿舎より誘拐されしA・パシャら知識人として一括殺害され(四十三歳・評論家)
・六人の兵に襲われ捕えられしレジスタンスのM・ラビ十五日深夜殺さる(三十九歳・心臓病学舎)
・心身を病みておりしがM・チョウドリ独立の朝に拉致殺害され(三十九歳・大学教授)
・切断され体のこしたり解放運動を支援しおりしG・アーメドは(三十六歳・歴史学者)
・ディマプール、コヒマ、インパールと夜行バス呼び込む声にふと涙わく
・真夜中にドンと爆竹の音走りま近に新年の喚声あがる
・霧の中にブーゲンビリア咲く街は今朝すこし冷えて衿巻の人

松本実穂歌集『黒い光』(角川書店)
・機関銃四本の前を通り過ぐ斜め下に向く銃口四つ
・息を止めてゐたと気づけり半押しに焦点が合ふまでの十秒
・光線を抱いて回転する人のその恍惚を捉へる恍惚
・子の命抱きて海を渡りしに不法移民の不法とは何
・盗難のリスト打ち込む細長き指に光れる緩めのリング
・フランス語の間違ひだらけの供述に間違ひなしと三度署名す
・五時間を滞在許可証申請の移民の列にわが並びゐき
・〈Mission vigipirate〉(テロ特別警戒)パトカーのミラーより見られてをらむ三叉路にゐて
・それぞれの村にひとつの教会のやさしく建つが車窓より見ゆ
・さかさまにマリアンヌ像は歪みをり水の鏡となれる広場に

髙橋啓子歌集『自己増殖』
・しっとりと雨が夜道をぬらす町タクシーを待つ列に並ぶ
・かたちよく爪にゆすりをかける時ふと浮かんでくる自立という文字
・昼休みの職場の風景 鳴りやまぬ電話に応じる気配はない
・真紅のマニキュアを塗り判断力ゼロに近づけ操作するキー
・名を告げず社名を盾に話す時尊大になる語尾がすこし
・炎天下の暑さを知らぬ者たちが冷えたビールで乾杯をする
・草刈機エンジン全開人の声うぐいすの声の聞こえなくなる
・私の左の肩に手を置いて石段を登るちちはゆっくり
・年末の多忙の外側 病室に母とむきあうひとときがある
・手間をかけ育てた稲が穂を垂れて晩夏の風にいまゆれている

江原登美子歌集『風の子』(角川書店)
・夕立が来そうで来ない農園に夫の出で行く麦藁帽子
・角多き人と共なる日日なれば風に柳のわれとなるべし
・オカアサンワタシヲ画イテ人形が云うおどろおどろの刻の間のあり
・ふり仰ぐ銀座の夕空これの世をふと太平法師(だいだらぼつち)覗き込まぬか
・髪を染め少し若やぎそれだけのことにて足りる明日は彼岸会
・修理せる古きミシンの調子良くわたしの長き伴走者なる
・女狐に息子(こ)は騙されたりと老いの言うその女狐がゴミを捨てに来
・すぐそこが歩めば遠い農業祭道の花ばな眺めつつ行かん
・まなさきにゴッホのひまわりセザンヌありビル四十二階の私の充実
・二週間前まで畑を共にせし 言うまいあなたは逝ってしまった

エリ歌集『スタンダード』(六花書林)
・罪だとは思いもしない恋をして夕暮れひとりの人を待ちおり
・硝子ごし光の春を背に浴びて三毛猫はは等身大の夢
・蓮の花茶、実の砂糖漬けここもまたブッダのもとに寄りあう国か
・振り切って駆けこむ木立ほんとうは追いかけてきてくれると信じて
・波音に厚みのあると気づきたり加計呂麻島 渡連浜に泊まって

小谷博泰歌集『河口域の精霊たち』(和泉書院)
・花虻はホトケノザに来てとまりたり三千世界のここがまん中
・港から低く聞こえて唸るようなサイレンの音ぱたと止みたり
・草の上にシートを広げる園児らのランチタイムか百年生きよ
・橋脚にテニス・ボールを打つ音が聞こえてあたりは菜の花盛り
・ベンチごとに老人ひとり座っていてどれか一人が僕のようだよ
・永遠の栄耀栄華がなんであろ白いベッドで死ぬ夜明け前
・遠くには赤いサツキが咲いておりわが愚かにて懐かしき日々 
・花水木白きが咲いて鳩が鳴く 眠ったままで目ざめぬもよし 
・橋の上を子ども神輿(みこし)が過ぎて行く青葉若葉の汗ばむ季節 
・通勤の電車で疲れた多くの夜きょうは真昼の電車で疲れ 
・サイレンを聞いて家から駆けだしてきた人たちに火の雨が降る 
・この古い博物館にはいつか来た、わが不確かな記憶のひとつ
・鶏が一羽来て庭でコーココとつぶやいており地面ついばみ
・ぶらんこが少ない公園、「恋せよ」と歌って昔、モノクロ映画
・雨が洗うアスファルト道にうつっている逆さの電柱 遠い日の空

筒井幸子歌集『ならやまの月』(ながらみ書房)
・夕空の茜に沈む高層のビル群のなす柱状列石(ストーンサークル)
・冬池の寂しき水面しづまりて虚空に刺さる鉄塔うつす
・街空にゴジラ出現夢見たる少女よ今日は雷雲を待つ
・慈姑剥く歳晩がまためぐりきぬ今年の慈姑少し大きめ
・楠の千年椎の五百年映す水面に吾が顔うつす
・いつになく夜汽車の音の近々ときこゆる夜なり家棄てざりき
・松の木は伐り払はれて谷間(たにあひ)に星座のごとく光る切り株
・生駒・信貴、金剛・葛城やまなみは盾のごとしも河内海風
・背をそらし見上ぐる空を高々と鳥一羽ゆくラジオ体操
・古手紙古写真など映画なら庭で燃やさむ昭和は遠し

飯沼鮎子歌集『土の色草の色』(北冬舎)
・帰り来る子にあらざれど思うなり奄美の浜をゆくゴム草履
・塩辛い風があの子を運んでいったガジュマルの根に覆われし島
・荻野神社賽銭箱に届かない五円玉がきらきら転ぶ
・肩車されているわれ夢のなか父の頭を撫で回したり
・魚を揚げる臭い入りくる窓を閉めローマの古きホテルに眠る
・テーブルに置かれた眼鏡よこの部屋に起こっていること映さないでね
・帰りたい帰らせてくれと繰り返す碁笥(ごけ)より石を取り出しながら
・妻と子の名さえ忘れて眠りおりエアコンの風にそよぐ顎鬚
・繰り返しわが手を探り触れんとす微か残りていたる力に
・わが膝に父あたたかく置かれあり桐ヶ谷斎場を出でし車列に

髙橋みずほ歌集『ひとふりの尾に立てる』(砂子屋書房)
・にわか雨の上がる気配に蟬声のわきだしてくる夏林
・電車から力士降りればなんとなく振り返りつつ人らはなやぐ
・遊びつかれた足指につままれた下駄の音
・ときおり蠅をはらう耳もつ牛のほうけるような顔の骨格
・八幡さまの石段に手合わせて頭をたれてゆく土地のひと
・栴檀の実のたるる空を映しとり水甕深くしずまりぬ
・梅の花黄の蘂にある香りかなとおくむかしの春がまたくる
・的へとからだのりだす瞬時に人馬の息も矢のさきにある
・ながきながき系図の切れに養子つぎつぎてなお直系
・青竹ののびてしなる風音の気高さという形なきもの

 


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