星たちのワルツ

暦の上では春だというのに、相変わらず肌を突き刺すような冷たい風がリョーマのキャップを吹き飛ばした。
溜息をついてキャップを拾いに振り向くと、そこにはコートでは久しぶりに会う先輩の姿があった。
「あ……」
「やっほ〜、おチビ!背、伸びたかにゃ?」
「ちーっス。珍しいっスね、菊丸先輩」
現役を引退してしまった三年の菊丸が、変わらぬ笑顔でフェンスの外に立っていた。
「あーれー?桃ちんは?」
菊丸はコートの中を見回すと意外そうな声をあげる。
「予算委員会とか言ってたっスよ。最近雑用が多くて練習できないってイライラしてるみたいっス」
「にゃるほろね。桃ちん、大変だにゃ〜。手塚の苦労がよく分かっただろうにゃ」
「…ねえ、菊丸先輩」
少し沈黙してから見上げてきたリョーマに、菊丸は「ん?」と笑いかけた。
「日本では、バレンタインデーって女の子のための日なの?」
「はにゃ?」
「チョコレートしかあげちゃいけないってホント?」
「はぁっ?」
「それは日本の製菓会社の策略なんだよ、越前くん」
部室の方から不二が、やはりいつもの微笑みを湛えて歩いてきた。
「英二、お待たせ」
「うんにゃ」
リョーマは「待ち合わせだったんスね」と呟いてから、不二を真っ直ぐに見た。
「セイカガイシャの策略って?」
「2月14日には、大好きな彼にチョコレートを贈って告白しよう、ってね。大手の製菓会社がバレンタインデーって言う特別な日をチョコレート販売の宣伝に使ったんだよ」
「ふーん。なるほどね」
リョーマは拾ったキャップを深く被り直すと、何か考え込んでしまった。
そんなリョーマを見てクスッと笑った不二がさらに付け足す。
「でも日本ではそれがすっかり定着しちゃっているね。越前くんも覚悟しておいた方がいいよ」
「覚悟?なにを?」
不二と菊丸は顔を見合わせてクスクス笑いあった。
「なんスか?」
「傍観者っていうのは楽しいんだよ」
「…………そーみたいっスね」
溜息をつきながらリョーマがそう言うと、ちょっと心配そうに菊丸が言った。
「気をつけてにゃ、おチビ…」
「………?」
「じゃあ、もういくよ、越前くん。ああ、そうそう、手塚は今まで誰からもチョコレートを受け取ったことないから安心してね」
不二の言葉に赤くなりながら睨み付けてくるリョーマを置いて、不二と菊丸はコートから離れていった。
二人の姿が見えなくなると、リョーマはまた溜息をつく。
「チョコレート………かぁ」
「おーい、越前、打ち合い付き合ってくれ!」
「あ、桃先輩、いーっスよ。委員会、終わったんスね」
「おう、バッチリ予算ぶんどったぜ!」
「お疲れ様っス」
ちょうど空いたコートに入りながらリョーマがニヤッと笑った。
「結構、そーゆーの、似合っていたりして?」
「よせよ、もうウンザリだぜ」
笑いながらリョーマがサーブを打った。


「なあ、越前」
「なんスか?桃先輩」
練習が終わって帰る道すがら、桃城が頭を掻きながらリョーマをチラッと見た。
「チョコ……くれねぇ?」
「は?なんで?」
「なんでって………」
口ごもる桃城をチラッと横目で見てからリョーマはこっそり溜息をついた。
「金払うから、買ってきてくれよ」
「なにそれ」
リョーマが今度は吹き出した。
「…お前から何か貰ったことってないから寂しいんだよ」
「ダメっスよ。チョコは」
「だよな〜……」
桃城がガックリと肩を落とした。
「あの人には、何か渡すのか?」
「…………べつに」
「冷てぇな。冷てぇよ」
ちょっと楽しそうに桃城が笑った。


家に到着すると、玄関まで甘い匂いが立ちこめていて、リョーマは密かに急いでキッチンに向かった。
「ただいま、…………何作ってンの?」
「あ、お帰りなさい、リョーマさん」
従姉の菜々子がちょっとビックリしたように振り返った。
「もうこんな時間!ごめんなさい、すぐお夕飯を…」
「母さんは?」
「何か会議が長引いているらしいの。先に食べていて、ってさっき電話があったのよ」
「ふーん」
リョーマはさりげなく「親父は風呂?」などと言いながら菜々子に近づいて行き、手元を覗き込んだ。
「チョコ?」
「ええ、そうよ。練習に作ってみたの。食べる?」
「うん」
菜々子が「はい」とリョーマの口元に作ったばかりのトリュフを差し出した。つられてリョーマが口を開ける。
「…………どう?」
「ん……おいしい。ちょっと苦いけど。それに…なんか………お酒入ってる?」
「大人の味でしょ?リョーマさんにはちょっと早かったかしら」
「………着替えてくる」
ムッとしたようにそれだけ言って二階へ行こうとするリョーマを見て、菜々子はリョーマの機嫌を損ねてしまったかと思い、謝ろうと口を開きかけたその時、
「ねえ」
リョーマが立ち止まって菜々子をチラッと振り返った。
「それの作り方、後で教えて」
「え?………え、ええ、いいわよ」
菜々子の返事を聞くと、リョーマは小さく笑って二階へ上がっていった。




数日後。
「ねえ堀尾くん、何そわそわしてるの?」
「え?だって今日はバレンタインだろう?チョコに埋もれちゃったらどうしようかな〜って」
「堀尾くんはそんな心配しなくていいと思うけど」
カチローのツッコミにショックを受ける堀尾の横をすり抜け、リョーマがコートに向かう。
さわさわとコートの周りにざわめきが起こった。
「越前くんよ」
「いや〜ん、可愛い〜」
「小さいけど、何か格好いいわねぇ」
「越前くんって、甘いもの好きなんだって!」
いつもの朝練の風景の筈が、今日はやけに騒がしい。
殺風景なコートの周囲を、学年を問わずぐるりと女子生徒が囲んでいた。
「…………」
リョーマは溜息をつくと桃城のもとに歩み寄った。
「桃先輩、何これ」
「青学の全運動部恒例のバレンタインパニックだ」
「???」
少し離れたところにいる海堂も舌打ちをして大きな溜息を吐いた。
「今年のうちの部のターゲットはお前だな、越前」
「は?」
「どこの学校でもそうなんだろうけどよ、青学は特に『バレンタインのチョコレート持ち込み禁止』なんだ。だから運動部の連中には学校の始業前、つまりは朝練の時に『こっそり』渡すって風習が女子の間に伝わってンだ」
「こっそり………?」
リョーマはコートを囲む女子生徒の数をざっと見回して「どこがこっそりなんスか」とげっそりした。
「とりあえずは練習だ!全員、寒いからしっかり身体をほぐせよ!」
「ういーっス!」
桃城の声に部員たちがワラワラと散らばり、アップを開始した。
「うっかりつかまるとひどい目に遭うからな、越前。気をつけろよ」
池田がそっとリョーマに耳打ちする。
「ご忠告、ありがとうゴザイマス、池田先輩」
溜息混じりにリョーマが一応礼を言った。
朝練の終了からターゲットが校内に入るまでが勝負の彼女たちは、短い時間内に確実にチョコを手渡そうとするため、ひどいときには怪我人さえ出るらしい。
「ねえ、池田先輩。手塚部長とか、不二先輩とかの方がすごかったんじゃないんスか?」
「んー、確かに一年の時はすごかったらしいけど……二人ともきっぱりしていたから」
「きっぱり?」
「ああ。手塚部長は『絶対に受け取らない』ってみんな知っていたし、不二先輩は『チョコをくれるより、恵まれない子供達に募金してくれた領収書の方が嬉しい』とか言ってさ、どっかのアイドル事務所みたいなこと公言していたから」
「ふーん」
「あ、でも大石先輩と菊丸先輩が大変だった」
昨年を思い出したのか、池田が身震いした。
「女は怖いぞ、越前」
「でも池田先輩は大丈夫みたいっスね」
「ほっとけ!」
クスクス笑いながら、リョーマはすでに『対処法』を心に決めていた。


朝練の終了時刻が近づくと、コートを囲む女子の目つきがギラギラと輝き始める。
クールダウンを始めたリョーマに突き刺さるような熱い視線が集まっている。
「越前………どうする気だ?お前」
桃城が心配そうに声をかけてきた。
「べつに」
「女子だからって甘く見るなよ。すげぇぞ。ガンガン攻めて来るぞ」
「そろそろ朝練終わりっスよね」
「…………ったぁく…」
まるで意に介していないようなリョーマに溜息をついてから桃城は練習終了の声を張り上げた。
「お疲れっした」
リョーマは真っ直ぐにコートの出口に向かった。
コートを囲んでいたほとんどの女子が出口に集結し始める。さすがに『神聖なコートの中』にまでは、彼女たちも入って来られないらしい。
出口の手前でリョーマは足を止めた。女子生徒が出口を完全に塞いでしまっている。
「ねえ、出られないんだけど」
「越前くん、これ受け取って!」
「私のも、受け取ってください」
口々に女子生徒たちが「私のチョコレートを受け取って」と言い始める。次第にそれは大きなさざ波のようにリョーマに押し寄せてきた。
リョーマの後ろにいる部員たちが、哀れみを込めた目でリョーマの背中を見つめている。
溜息をついた海堂が、救いの手を差し伸べてやろうとしたその時、リョーマがぐいっと顔を上げた。
「あのさ」
あんなに騒いでいた女子生徒たちが、リョーマの声にしんと静まり返った。
「悪いけど、オレは受け取れないから」
一瞬の間をおいて女子生徒たちが悲鳴に似た声を挙げ始める。
「えええっ、どうしてぇ!?」
「受け取ってくれるだけで良いのに!」
「越前くん、お願い、受け取って!」
リョーマは浅い溜息をひとつつくと、バッグを抱え直した。
「オレさ」
また女子生徒たちが静まり返る。
「Steadyがいるから。だから悪いけど、他の人から『気持ち』を貰うわけにはいかない」
女子生徒たちが凍り付く。
目を見開いたまま固まってしまっている女子生徒たちの間をすり抜けて、リョーマが部室に姿を消した。
部室のドアが閉まってからしばらくして、女子生徒たちの間から溜息が漏れ始めた。
「残念だけど、やっぱり格好いいわ、越前くん……」
「手塚さんもあそこまではっきり言わなかったわよね」
「素敵……ますます好きになっちゃいそう」
女子生徒たちが肩を落としながらもうっとりしたように頬を染めてコートから立ち去って行く。
出口が開放されて安堵したテニス部員たちは、しかし、冷静な頭でリョーマの発言を反芻して、ギョッとした。
「なにぃっ!?あいつ彼女いるのかっ!?」
「まだ一年のくせに!くっそーっ!」
「リョーマくん、いつの間に…」
「相手は誰だ!?」
女子生徒たちよりもパニックを起こし始めた部員たちを横目で見ながら、桃城は「あーあ、言っちまいやがんの」と笑いを漏らした。



その日、青学をひとつの重大ニュースが駆けめぐった。
『テニス部の越前リョーマに恋人がいる!』
すでに『越前リョーマ』の名前は青学の中でも知らない者はいないほどにまで知れ渡っていたため、学校中がこの話題で持ちきりになった。
「何か、大変なことになったみたいだね、手塚」
昼休み、手塚のクラスを訪れた不二が笑いながら手塚に話しかけた。
「あいつらしい対処のしかただ」
手塚は軽く溜息をつくと、読んでいた文庫本にしおりを挟んでから机の中にしまい込んだ。
「どうするの?」
「なにを?」
「放っておくの?」
「騒ぎを大きくするわけにもいかないだろう」
ここで手塚が行動を起こせば、リョーマの恋人が誰であるかを自ら暴露するようなものだ。
「外で会いづらくなるね」
「関係ない」
手塚が立ち上がった。
「どこ行くの?」
「次の時間は自習なんだ。図書室に行く」
筆記用具と英語の教材を一纏めにして手塚は教室を出ていった。
「あ、辞書借りようと思ったのに…」
不二は「ま、いいや」と、どこか楽しげに微笑んだ。


手塚が図書室の扉を開けると、そこがいつもと少々違う空気であることに気が付いた。
思い当たるフシがあり、カウンターに視線を走らせる。
案の定、輝く大きな瞳と目があった。
手塚は表情を和らげてカウンターに歩み寄る。
「そういえば金曜の昼は当番だったな」
「ういっス。アンタは?」
「次が自習なんだ」
「ふーん」
会話だけ聞いていると素っ気ないものだが、当人たちの心の中は、思いがけない遭遇に嬉しさでいっぱいになっていた。
こんな、偶然のようなちょっとした遭遇の可能性があったから、リョーマは後期も図書委員をやめられなかった。
「一人か?」
「ううん、もう一人いるけど、今トイレ行ってる」
「そうか…」
手塚はさりげなく周囲に視線を走らせる。
あからさまな視線は向けられていないが、図書室に居合わせた多くの生徒がこちらに関心を寄せているのがピリピリと伝わってくる。
「思った以上に監視がきついな」
「有名人はつらいっスね」
他人事のように言うリョーマに手塚は小さく苦笑した。
関心を持たれているのは感じるが、構わず手塚はカウンターに肘をついて、リョーマに顔を寄せる。
書棚の陰の方で女子がなぜか上擦った声を挙げるのが耳に入ったが手塚は無視を決め込んだ。
「今日の練習は普段通りか?」
「ういっス」
「その後の予定は?」
「ぎっちり詰まってるよ。アンタと同じ予定が」
リョーマが頬をうっすらと染めて手塚を見上げる。
「………ばかもの。そんな顔をするな」
「え?」
手塚の声がさらに潜められた。
「……その気になる」
リョーマが少し俯いてクスクスと小さく肩を揺らした。
「…………ねえ」
少し潤んだ瞳で、リョーマが手塚の瞳を覗き込む。
「ん?」
こみ上げる愛しさをどうにか押しとどめながら、手塚が熱っぽい瞳でリョーマを見つめ返す。
「今日、泊まってもいい?」
「ああ」
リョーマの顔が嬉しそうに綻んだ。
「明日も、明後日も、一緒にいられる?」
「お前さえよければ、ずっと傍にいてくれ」
「うん」
「…………マズイな………」
手塚がリョーマから視線を外して熱い吐息を漏らした。
「なに?」
「お前に近づきすぎた」
「その気になっちゃった?」
手塚がリョーマの額を軽く小突いた。
「…ってぇ」
リョーマが額を押さえて手塚を軽く睨む。
「じゃあ、あとでな」
「ういっス」
手塚はリョーマに微笑むと閲覧室の机についた。その手塚をずっと熱い瞳で追いかけていたリョーマは、もう一人の当番の生徒が隣に座る音で我に返ったようにはっとした。
直後、タイミングを計ったように目の前に差し出された本を反射的に受け取ると、遥か頭上から「やあ」と声が降ってきた。
思い切り上方を見上げると乾が見下ろしていた。
「ちーっス。返却っスか?」
「ああ、頼む」
「ういーっス」
愛想無く手続きをしていると、乾が手塚と同じように身を屈めてカウンターに肘をついてきた。
だが今度は、先程のような女子生徒の上擦った声は挙がらなかった。
「もうちょっとうまく隠さないとバレバレだよ?」
リョーマは無言で乾を見上げた。
「………今朝、海堂先輩がチョコ貰ってたの、知ってマス?」
「………………」
今度は乾が一瞬無言になった。
「…それ、ホント?」
「自分で確かめた方がいいんじゃないっスか?」
溜息混じりにリョーマが答える。
「それもそうだね。いい情報をありがとう越前。じゃあ、本はよろしく」
「ういーっス」
パーソナルカードを受け取り、眼鏡の位置を直しながら足早にカウンターを離れる乾を見送ってリョーマはこっそりと微笑んだ。
(あの二人ってどういう会話するんだろう…)
ちょっとそんなことを考えながら、リョーマはもう一度手塚に視線を向けた。
左手にシャーペンを持ち、辞書を捲っている手塚の姿をぼんやりと見つめていると、その手塚のそばに一人の女子生徒が近づいていった。
(あ、あの人………)
リョーマはその女子生徒に見覚えがあった。
以前、不二に映画のチケットを貰い、手塚を初めてのデートに誘おうとしていたときに彼女と話している手塚を目撃してしまい、二人が日曜日に会う理由をリョーマが勘違いをして落ち込んでしまった、あの時の彼女だ。
図書室のせいもあるが声を潜めて話をする二人の会話が聞こえるはずもなく、リョーマはただジッと成り行きを見つめるしかなかった。
しばらく話をしてから、女子生徒の方が周囲をさりげなく確認した。誰も自分たちを見ていないと判断したらしく、抱えていた荷物の中から小さな紙袋を取り出す。彼女がそれを手塚に差し出すと、手塚は頷いてしっかりと受け取った。
(え…………)
かろうじて聞き取れた会話の中で、女子生徒は頬を染めて手塚に「ありがとう」と言い、手塚も「いやこちらこそ気を遣わせてすまない」と言った。
リョーマはちょっとデジャヴを覚えながら、二人を見つめていた。
あの時のように、ただの事務的なやりとりかもしれない、とリョーマは思おうとした。
しかし、『今日』と言う日の意味と、手渡された紙袋の大きさを照らし合わせると、どう考えても結論はひとつしか出てこない。
ふいに、先日の不二の言葉がリョーマの頭を掠めた。
『手塚は今まで誰からもチョコレートを受け取ったことないから安心してね』
リョーマは微かに目を見開いた。
(じゃあ、あの人は特別ってこと…?)
リョーマの胸に小さな痛みが走る。そのリョーマが見つめる先で、女子生徒はニッコリと手塚に微笑みかけ「じゃあね」と言って図書室を出ていった。
呆然としたまま彼女を見送ったリョーマが手塚に視線を戻すと、少し困ったような顔をした手塚と目があった。
その手塚の表情を見て、リョーマは自分の推測が正しいであろうことを確信した。
(なんで………)
リョーマの瞳に、だんだんときつい光が宿り始めた。唇を噛み締めて、手塚を見据える。
そんなリョーマの表情の変化に気づいた手塚が椅子から立ち上がった、ちょうどその時、無情にも昼休みの終了を告げる予鈴が鳴り響いた。
リョーマはきつい瞳を手塚から逸らすと、隣に座る生徒に「お疲れ」と一言言ってから、振り返らずに図書室を出た。
教室に戻ろうとする生徒の合間を足早にすり抜けて階段まで辿り着くと、手摺に左手をかけて立ち止まり、リョーマは後ろを振り返った。
手塚は追ってこなかった。
リョーマは手摺から手を離して、その手をギュッと握りしめる。
(オレが見ていたのに……なんで………っ)
手塚のことを信じていないわけではない。しかし、だからといって目の前であんなところを見せられたら、リョーマが不快に思うことくらい手塚には分かっているはずだった。
なのに、追ってきて言い訳をしようともしない手塚に、リョーマは苛立ちを感じた。
一度目を閉じて短く息を吐き捨てると、リョーマはきつい瞳のままゆっくりと階段を昇っていった。



放課後の練習が始まった。
リョーマはずっと不機嫌なまま、がむしゃらにボールを追いかけ、力任せにコートに叩きつけている。
「おい越前、何苛立ってンだよ」
「べつに」
呆れたように声をかけてくる桃城に素っ気なく言い捨てて、リョーマはベンチに置いてあるタオルを手に取った。
「お呼びじゃないってか」
桃城が溜息をついてコートに入っていった。
ゴシゴシとタオルで汗を拭くリョーマの目の前を海堂が通りかかった。すかさずリョーマが呼び止める。
「ねえ、海堂先輩」
海堂が無言でリョーマに目を向ける。
「何でチョコレート、受け取ったんスか?」
「………あぁ?」
「今朝、部室を出たところで女子から受け取っていたじゃないっスか、チョコ。見られてないと思ったんスか?」
「…………」
海堂が、ほんの少し頬を染めてたじろいだ。
「てめぇにゃ、カンケーねぇだろ」
「カンケーはないけど、参考に聞いてみたいんスよ。決まった相手がいるのに、何で他の人から『気持ち』を受け取れるのかなって」
「…………」
海堂がリョーマをジッと見つめた。珍しく睨んでこない海堂に少し驚きつつ、リョーマも海堂を真っ直ぐに見つめ返す。
「………嬉しかったからだ」
「え?」
海堂は視線を少しリョーマからずらして、珍しく穏やかな口調で話した。
「人の想いってもんは大事にしなきゃなんねぇ。その人が俺のために一生懸命作ってくれたもんを無下にはできねぇだろ」
「……でも、それで先輩の気は済むだろうけど、先輩のことを想ってるあの人がどう思うか考えないんスか?」
「俺は後ろめたいことはしてねぇ!モノは受け取ったが、彼女にはきっぱり断りを入れた」
いつものように海堂がリョーマを睨み付けてきた。いつもはそんな瞳を受け流すリョーマも、今日は同じように海堂を睨み返す。
「だからって、アンタを好きなあの人が嫌な気分になっても良いって訳?」
「…俺は俺のしたいようにする」
それだけ言うと海堂は隣のコートへ向かって歩き始めた。
(あ…)
リョーマはすれ違いざま、海堂の襟元の奥に、つけられたばかりのような赤い痕を見つけた。
「海堂先輩、今日は胸のボタン全部締めておいた方がいいっスよ」
「?」
キョトンと振り返った海堂に、自分の襟元を指さしてリョーマがニヤリと笑った。
「!」
思い当たるフシがあったのか、海堂が慌ててボタンを締めながら歩いていった。
(『お仕置き』でもされたのかな………)
リョーマは何となく毒気を抜かれてしまったように、ふぅっと息を吐いた。
多分手塚も海堂のように『後ろめたい気持ちがない』から、リョーマの目の前で彼女からチョコレートを受け取って見せたのだろう。
それが分からなくもない気はするが、見せられたリョーマの方はいい気分ではないのだ。
『感情』が駄々を捏ねている。
今までも何度かこんな気分にさせられた。その都度、後から『ちゃんと話せばよかった』と後悔してきた。
(ちゃんと、オレの気持ちを伝えなきゃ…)
リョーマが大きく深呼吸をした。
「おい」
隣のコートから、海堂がリョーマに声をかけてきた。
リョーマが海堂に目を向けると、海堂が何も言わずにコートの向こう側を顎で示す。
示された方を見ると、フェンスの向こうに手塚が佇んでいた。
「回りくどいコトしてねぇで、てめぇで確かめろ」
背を向けた海堂がぼそっと言った。
「そっスね」
リョーマはキャップを深く被り直しながらふっと笑った。



「お待たせ」
電話ボックスから出てきたリョーマが手塚の方を見ずに言った。
「いいのか?」
「昨日、ちょっと伏線張っておいたんスよ。部長…じゃなくて、『元』部長のところに遊びに行くかもって」
「そうか」
手塚の表情が和らいだ。そんな手塚をチラッと見上げたリョーマは頬を染めて軽く溜息をつく。
図書室でのことをまだ口に出せずにいるリョーマは、きっかけを探しつつ、黙ったまま手塚の横を歩いていた。
どう切り出せばいいのか、リョーマにはわからない。
いつもと変わらぬふうに前方を見つめて歩く手塚の横顔を時折盗み見ては、手塚の真意を早く確かめたくて、リョーマは唇を噛み締めた。
「そんなに唇を噛むな。切れるぞ」
「…………っ」
前方だけを見て歩いていると思った手塚にしっかりと見られていたと知ったリョーマは、恥ずかしさと共に積もり積もった感情が静かに溢れだした。
「誰のせいだと思ってるんスか」
「………くどくどと言い訳をするつもりはない。俺の家に着けばすべて分かる」
「…………」
リョーマにはよく意味がわからなかった。
むしろ余裕たっぷりの手塚の態度に、余計に腹が立ってきた。
チョコレートを確かに受け取っておいて、それをどう説明するというのか。生徒会の時に手塚に世話になったからと言う意味で彼女がチョコレートを渡したのなら、そしてそれを手塚が受け取ったなら、それは彼女の『気持ち』を受け取ったことにはならないのか。
リョーマは完全に黙り込んだ。手塚の家に着くまで、絶対に口をきくものかと意地になった。
手塚もそんなリョーマに一言も話しかけないまま、黙って前を向いて歩いた。


手塚家の前まで来て、リョーマはほんの少し鼓動が早くなった。
(さあ、どう説明するわけ?)
手塚はリョーマを振り返ることなく玄関の戸を開ける。
「只今戻りました」
「お邪魔します」
奥の台所から彩菜が姿を現す。
「お帰りなさい国光。越前くんもいらっしゃい、よく来てくれたわね。さあ上がって!」
「母さん、お祖父さんは帰っていらっしゃいますか?」
脱いだシューズを揃えながら、手塚が母親を振り返った。
「ええ、さっき帰っていらしたわよ。リビングにいらっしゃるわ」
「そうですか。ありがとうございます」
リョーマもシューズを脱いで手塚がしたようにきちんと揃えると、彩菜にペコリと頭を下げて手塚の後に付いていった。
「只今戻りました」
「おお、国光、お帰り。越前くんもよく来たな。ゆっくりしていきなさい」
「お邪魔します」
リョーマがまたペコリと頭を下げた。
手塚はスッと国一の傍に歩み寄ると、鞄から紙袋を取り出した。
「実は学校で預かりものをしまして、持って参りました」
「儂にか?」
「はい」
「あ!」
リョーマは手塚の差し出した紙袋を見て思わず声を挙げた。例の女子生徒が手塚に渡した、あの紙袋だった。
「はて。誰からかな?」
「一週間ほど前に、電車の中で不届き者を撃退なさったそうですね」
「ん?…………ああ、あのけしからんヤツか!」
「その時に助けられたのが俺と同学年の女子の妹さんだったようです」
リョーマは目を見開いた。
「あの可憐な少女か。可哀想に、声も出せずに震えておった」
「その輩を取り押さえるときに『儂は警察で柔道を教えておる手塚だ。もう逃げられんぞ』と仰ったそうですね。その言葉を覚えていた妹さんが姉に話し、助けてくれたのが俺の祖父であるあなただと分かったようです」
「ふむ……そんなことも言ったかの…?」
リョーマは揺れる瞳でそっと手塚を見上げた。
(………ごめん………くにみつ……)
「妹さんがとても感謝しているそうです。中に感謝の手紙が入っているといっていました。妹さんの手作りだそうですので、受け取ってあげてください」
「あい分かった。ご苦労だったな国光」
「いえ。では失礼します」
手塚は一礼してリビングを後にした。
「納得できたか?」
やわらかな瞳でリョーマを見下ろすと、手塚は静かに言った。
「ん…」
リョーマは小さく頷き、そのまま俯いてしまった。
「部屋に行こう」
手塚がリョーマを促し自室へ向かう。部屋に入ると俯いたままだったリョーマが顔を上げた。
「何で言ってくれなかったんスか?ちゃんと言ってくれればオレ………」
「図書室で言いそびれたんでな……それならお前の目の前で祖父に渡す方がいいと思ったんだ」
「だからずっと帰り道、余裕タップリだったんスね」
「余裕?」
「そう言う事情があったから、オレがすぐ納得してアンタのことを許すと思っていたんでしょ?」
手塚がガクランを脱いで振り返った。
「…そんなことは考えていなかった」
「え?」
「そうだな……俺の場合、余裕と言うよりも………」
手塚がリョーマを見つめて黙ってしまった。
リョーマが瞳を揺らしながら手塚を見つめる。
「俺は、どんなことがあってもお前を手放さないと決めているんだ。だから例えばお前が今日のことを許さなかったとしても、お前を逃がすつもりはなかった」
「!」
「つまりは『お前に愛されていると思う余裕』と言うよりは『お前を絶対に逃がさないという決意』があるのかもしれないな」
手塚はふっと微笑むとリョーマに背を向け、ガクランをハンガーに掛けて壁に吊した。
ドサッとバッグが落ちる音に手塚が振り向こうとすると、リョーマが身体をぶつけるように抱きついてきた。
「リョーマ……?」
「……っくしょう……んで……」
「…?」
リョーマは手塚の前に回り込むと、背伸びをして噛みつくような勢いで唇を重ねてきた。
「…っ!?」
いきなりの口づけに驚きつつも、しっかりとその背に腕をまわして手塚もリョーマに応えてゆく。
まるで情事の最中に交わすような熱っぽい口づけに、互いの鼓動が早まり、身体が熱を帯び始める。
自分を抑えられるうちに、手塚の方からそっとリョーマの身体を離した。
「リョーマ……」
激しい口づけに息を乱したリョーマが、睨むような目で手塚を見上げた。
「なんで……っ」
「……え」
「こんなに好きでしょうがないのに……これ以上好きになるわけないと思っているのに……っ」
手塚は目を見開いた。
「きっと、まだ全然足りないんだ…っ………だって、逢うたびに、アンタのこと、もっともっと好きになってく」
「……リョーマ……」
「オレだってアンタを逃がさないっ………絶対に離さないからっ!」
湧き上がる激情を抑えきれずに手塚がリョーマの身体をきつく抱き締めた。リョーマも思い切り手塚を抱き締め返す。
「リョーマ…っ」
「くにみつ……好きだよ……大好き…」
手塚が愛しげにリョーマの髪を撫で、そのまま両手でリョーマの頬を包み込む。
リョーマが今にも泣き出しそうに瞳を揺らしながら、小さく微笑んだ。
「リョーマ……」
手塚も優しく微笑みかける。
そして目を閉じてそっと互いの額を摺り合わせ、手塚はリョーマの顔を唇で確かめるように優しくキスをしてゆく。
最後に辿り着いたリョーマの唇にとびきり優しく触れるだけのキスをし、そっと唇を甘噛みする。
「唇……切れていないな……やわらかい……」
リョーマはクスッと笑った。
「自分で噛むと痛いけど、アンタが噛むと…たまんないね……」
「ばか………煽るなよ……まだ早い……」
もう一度ゆっくりと深く唇を重ねてゆきながら、手塚がリョーマの髪を指で優しく梳いた。
「………続きは後で、な」
唇を触れさせながら、手塚が甘く囁く。
「……できるの?みんないるのに……」
「…じゃあ、今夜は我慢するのか?」
口づけの合間に手塚が意地悪な質問をする。
「絶対バレる………」
「それは困るな」
「…でも…………したい……」
「ああ………俺もだ………今すぐにでも……お前のここに……」
言いながら手塚の指がリョーマの秘蕾のあたりを布越しになぞった。
「あ………やっ」
小さく声を発して身体を震わすリョーマに、手塚が溜息のような熱い吐息を漏らす。
「……マズイな…」
「それ、今日二回目…」
リョーマが手塚にしがみつきながらクスッと笑った。
その時、階下から彩菜の声が聞こえた。
「越前く〜ん、国光〜、ご飯できたわよ〜っ」
二人は顔を見合わせると、同時にクスッと笑った。
「タイムアップだ」
「うん。実は腹減ってたんだ」
「行くか」
「ういっス」
熱くなりかけた身体をどうにか宥めて、二人は階下に降りていった。



「越前くん、お風呂どうぞ」
「あ、はい」
夕食が終わり、片づけを手伝っていたリョーマに彩菜が声をかける。
「一緒に入っちゃったら?国光」
「え……」
手塚は洗っていた皿を落としそうになったがなんとか堪えた。
「なぁに?恥ずかしいの?国光ったら」
「いえ、そういうわけでは…」
手塚がチラッとリョーマを見ると、リョーマも手塚を見つめていた。
「オレは別にいいっスよ。光熱費の節約ってことで」
リョーマの言葉に手塚が内心狼狽える。
「あらあら、越前くんったら経済観念が優秀なのね」
彩菜がクスクスと笑う。
「男はハダカの付き合いが大事って言うじゃない?ゆっくり二人で語ってきなさいな」
「はーい。先輩、行こうよ」
リョーマがしれっと手塚に言う。
手塚は彩菜に気づかれないように小さく溜息を吐くと、なんでもないような顔で「じゃあ入るか」とリョーマに言った。
「片づけの途中ですがよろしいですか?」
「あ、いいわよ。もうほとんどやってくれたから、後は私がやるわ」
「そうですか。ではお先に風呂を使わせていただきます。行くぞ、越前」
「ういーっス」
手塚はリョーマを従えて風呂に向かった。


「まったく、どうなっても知らんぞ」
脱衣所で二人きりになると手塚が呆れたようにリョーマに言った。
「どうなっても、って……どうなるわけ?」
ニヤッと笑いながら言うリョーマの額を、手塚が小突く。
「ってぇ!…これも今日二回目!」
「どうなるのかはお前が一番よく知っているだろう?」
リョーマは一瞬目を見開くと頬を染めて俯いた。
「………だって………ちょっとでも離れんのヤだから……」
手塚は暫しの沈黙の後、ポンポンとリョーマの頭を軽く叩いた。
ふと顔を上げるリョーマの額に、今度はチュッと口づける。
「……わかってる。大丈夫だ…何もしない」
手塚にやわらかく微笑まれて、リョーマがさらに頬を赤く染める。
「入浴剤はどれにするんだ?」
手塚が開けて見せた箱を覗き込んで、リョーマが「じゃあこれ」と言って好みの袋を選び出した。


「ねえ、くにみつってチョコ好き?」
湯船の縁に顎を乗せて洗い場の手塚へ、リョーマが唐突に尋ねた。
髪を洗い終わった手塚が濡れた前髪をかき上げながらリョーマに視線を向ける。
「嫌いではないな。……段ボール一箱分食えと言われると遠慮するが」
「そんなのいくらオレでも逃げるよ」
笑いながら言うリョーマに、手塚が至極真面目な顔で言った。
「実際に『食おうとしたヤツ』はいるぞ」
「え?誰?」
「菊丸だ」
「あ…」
そう言えば…と、朝練の時に池田が言っていた言葉をリョーマは思い出す。
「去年、大石先輩と菊丸先輩が大変だったって聞いたけど……ホントにすごかったんだ…」
手塚は頷くと、昨年を思い出したように溜息をついた。
「菊丸は気分屋と言われているが、実際はちゃんと人のことを考えるヤツだ。だから貰ったチョコレートをその日のうちに食べてやりたいと思ったんだろう」
「………で、食べたんスか?」
「いや…途中で気分が悪くなってギブアップしたらしい」
「だよね、やっぱ…」
さすがのリョーマも想像しただけで気分が悪くなりそうだった。
「………ねえ」
池田の言葉を思い出すついでに、リョーマはもう一つ教えて貰ったことを手塚に聞いてみたくなった。
「アンタはなんで今まで誰からもチョコを受け取らなかったんスか?」
「…特に理由はない………恋愛というもの自体に、あまり興味がなかったんだ」
「ふーん」
リョーマはなぜかちょっと嬉しくなった。そんな胸の内を手塚に知られたくなくて、手塚からそっと視線を外す。
横を向いてしまったリョーマにふっと微笑みかけてから身体をシャワーで流すと手塚が湯船に入ってきた。
「…リョーマ」
「ん?なに?……あっ」
手塚の方へチラッと視線を向けるリョーマの身体を手塚は少し強引に引き寄せ、反転させて後ろから抱き締めた。
「………何もしないって言ったじゃん……」
「ああ、言った………だが予定変更だ。……どうしても抱き締めたくなった」
リョーマは甘い溜息をつくと、手塚に身体を預けて目を閉じる。
「ワガママ」
「悪いな」
「………気持ちいいね」
「ああ…」
手塚が湯を手ですくって、そっとリョーマの肩にかけてやった。静かな水音が浴室に響く。
「…ねえ、わかる?」
「ん?」
リョーマが目を閉じたまま手塚に問いかける。
「…すっごく………ドキドキしてる」
「……俺もだ」
「マズイ?」
「……かなり、な」
二人でクスクスと笑いあった。
「まだ『今日』が終わるまでだいぶあるよね?」
あまりの心地よさにうっとりとしていたリョーマは、ふと、心配になって目を開ける。
「ああ。二時間以上ある」
リョーマがまた目を閉じて「よかった」と呟いた。
「………ちゃんと今日中にあげるから」
「…何を?」
「バレンタインの……甘いもの」
そう言ってリョーマがクスッと笑う。
「俺からもお前に貰って欲しいものがある」
「え?なに?」
「………『バレンタインの甘いもの』、だ」
「ふーん」
リョーマは自力で体の向きを変えると、向かい合う形で手塚の膝の上に座った。
「ヒント、くれない?」
「ん?」
やわらかく目を細める手塚の首に腕をまわし、リョーマが唇を寄せる。しっとりと舌を絡ませあってから、名残惜しげにそっと離れた。
「…これより甘いもの?」
手塚がふっと微笑んだ。
「ああ、もっと甘くて熱い、とびきりのヤツだ」
「…なんかヤラシイ」
「ばか」
今度は手塚から口づける。さっきよりも長い口づけに、そろそろ二人は本気で我慢の限界を感じ始めた。
「…こんなキスしないでくんない?……歩けなくなりそ……」
唇の隙間から、リョーマが甘い抗議の言葉を零す。手塚も堪らず熱い吐息を漏らした。
「…あがるか」
「うん」
二人は微笑み合うと、風呂から上がることにした。



二人で同じ石鹸の香りをさせながら部屋に戻ると、早速リョーマは自分のバッグをあさり始めた。
探し物を見つけると、リョーマがちょっと恥ずかしそうに手塚を振り返る。
「くにみつ、これ…」
リョーマの手の中に、10センチ四方くらいのシンプルな箱が乗っていた。差し出された箱を受け取ると手塚は嬉しそうに「ありがとう」と礼を言った。
「俺からはこれを…」
言いながら手塚が机の引き出しから、リョーマのものより一回り小さな箱と、もう一つ小さな紙袋を差し出した。
リョーマが大きな目をさらに大きく見開く。
「ありがと………アンタからもらえるとは思ってなかった…」
「日本の悪習にのせられたわけではないんだが、お前はチョコレートが好きだから作ってみた」
「作ってくれたんだ……ありがとう、くにみつ」
とてつもなく嬉しそうに微笑むリョーマの笑顔に魅入ってしまった手塚は、ふと自分の手の中にあるリョーマからの贈り物に視線を落とした。
「開けてもいいか?」
「うん。オレのも一応手作り!…………オレも開けていい?」
「ああ。口に合うといいんだが」
二人はそれぞれ、自分へ贈られた箱を丁寧に開けてみる。
「うわ………これ、生チョコ?」
「ああ。初めて作ったから上手くいったか分からないが………お前はトリュフにしてくれたのか…」
「うん。菜々子さんに教えてもらって作ったんだ。…ねえ、これ、食べていい?」
手塚は微笑んで「ああ」と頷くと、自分もリョーマの作ったトリュフをひとつ取り出した。
「…綺麗に出来ている……食べてしまうのが惜しいな」
「食べてくれないと作った意味がないじゃん」
「まあな。そっちの袋はホットチョコレート用のフランスのチョコだ。明日作ってやる」
「うん……………んんっ!」
いきなり唸ったリョーマに手塚が驚いて視線を向ける。
「美味しい………すごい、くにみつ!さすが元部長」
「それとこれとは関係ないだろう…………んっ」
今度は手塚が黙り込んだ。リョーマが不安そうに手塚を覗き込む。
「くにみつ…?」
「…コアントローか?絶妙だな……美味しい……甘さもちょうどいい」
感心したように呟く手塚に、リョーマは得意げに説明する。
「菜々子さんはブランデーとかラム酒を使っていたんだけど、チョコとオレンジって合うから、オレはこっちにしてみたんだ」
「ああ……そうだな、お前のイメージかもしれない」
「オレの?」
リョーマが頬を染めて首を傾げる。
「見た目も整っているが、甘いだけじゃなく味に個性がある………それに、知っているか?」
「え?」
「コアントローには『妖しの酒』という別名もあるんだ」
「えっ………」
リョーマがさらに頬を赤くする。
手塚はふっと微笑むと真っ赤なリョーマの頬に優しく触れた。
「まさにお前そのものだな」
「……くにみつ……」
リョーマは自分の頬に触れてくる暖かな手に自分の手を重ねた。
二人は視線を絡ませると、そのまま自然と時計に目がいく。
「…まだ、だめかな…」
「多分、もう上には誰も上がってこない………俺の部屋と下の父と母の寝室、そして祖父の寝室は対角線上にあるから…多少の音は聞こえないはずだ」
手塚の言葉を黙って聞いていたリョーマが瞳を揺らしながら手塚を見つめる。
「じゃあ………もういい、かな……」
手塚がリョーマの頬にあった手をその首筋にずらすと、そっと引き寄せる。
「……これ以上は、俺がもたない……」
吐息混じりに耳元で囁かれて、リョーマの身体がビクッと震えた。
「くにみつ…」
リョーマの切ない声が手塚の唇に吸い込まれた。





激しすぎた情交のせいで、リョーマはなかなか呼吸を整えることが出来ない。
それは手塚も同じで、珍しく肩で息をしながらリョーマの隣に身を横たえてきた。
「…大丈夫か?…リョーマ…」
手塚が優しくリョーマの前髪をはらってやる。
「……ん、死ぬかと思ったけど……たぶん……大丈夫、みたい…」
リョーマは気怠い身体をゆっくり起こすと、手塚に覆い被さって口づける。
「くにみつ………オレ、美味しかった?」
頬を染めて尋ねるリョーマの身体をしっかり抱き締めると、手塚はその耳元に「最高だった」と甘く囁いた。
「もう寝るか?…………それとも…」
言いながら手塚の指がリョーマの唇を優しくなぞる。
「………ちょっと休ませてよ………死んじゃう…」
手塚が「そうだな」と言って小さく笑った。





「やっぱり減ってる」
翌朝。
ベッドの中で、リョーマが呟く声に手塚は目を覚ました。
「……どうした?」
手塚がちょっと掠れた声で尋ねながら、リョーマの方へ身体を向ける。
「アンタ、オレのチョコ、食べた?」
「………ん?」
リョーマがちょっと拗ねたように頬を膨らませた。
「アンタがオレにくれた生チョコの数が減ってるんスよ」
「………さあな。俺は食べてはいない」
リョーマは手塚の言葉に何か引っかかりを感じたが、なぜ引っかかるのか思い浮かばなかった。
「また作ってやる。拗ねるな」
「べつに……拗ねてなんかいないけど…」
眺めていたチョコレートの箱をベッドサイドに置いて、手塚に身体を擦り寄せる。
「ん?どうした?」
手塚を見つめて嬉しそうに頬を染めるリョーマに、手塚が優しく問いかける。
「…なんかさ……アンタってPolestarみたいだなって……」
「 Polestar………北極星、か?」
リョーマは微笑んで頷いた。
「オレの中でアンタはもう、誰にも動かせないくらい大切なところにいるから……だからオレのPolestar」
手塚は一瞬目を見開くと、やわらかく微笑んだ。そっと、リョーマの肩に腕をまわして抱き寄せる。
「ならば、俺にとってもお前はPolestarだ。俺の世界はお前を中心に回っている」
「オレを……中心に?」
リョーマに唇を寄せながら、手塚が甘く囁く。
「お前がいないと、俺は動けない……きっと自分を見失う…」
「アンタが?………みんなの中心にいた『手塚国光』が?」
「俺の中にあるべき本当のPolestarと出逢ってしまったからな……」
言いながら手塚がリョーマに深く口づける。
リョーマは手塚の求めるままに唇を開いて甘く応えた。
「…愛しているんだ……リョーマ……もう元には戻れない」
真っ直ぐに見つめてくる手塚の瞳を受け止めて、リョーマが瞳を揺らした。
一途で切なげな手塚の告白が、リョーマの心の奥底にある誰にも踏み込ませなかった場所にまで染み込んで甘く揺さぶってくる。
「オレも、アンタを愛してる………たぶんずっと、アンタはオレのPolestarだ」
手塚が微笑んだ。リョーマも微笑み返した。
誰にも入り込めない、心の奥の神聖な場所に、二人は互いの名前を刻み込む。

どこにいても、どんなときでも、変わらずに頭上にあり続けるPolestarのように。
決して見失わない、『永遠』という言葉に似た想いを、今、二人は誓い合う。

    『愛してる』



新たな光の世界へと、二人は共に足を踏み出した…………




THE END       
2003.2.14      
(と書きたいけど2.15)   


-Side Stories-
■乾×海堂Side■ ■不二×菊丸Side■