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       「いらっしゃい越前くん、もう、遅いから心配しちゃったわ」 
      手塚家に到着すると、彩菜が心底嬉しそうに出迎えてくれた。 
      「こ、こんばんは」 
      「さあ、早く上がって!着替える前に二人ともお風呂入っていらっしゃい!」 
      二人は声を揃えて「えっ」と小さく叫んだが、彩菜にとってはリョーマも手塚も「男の子」、一緒に風呂に入っても何ら問題はない。 
      「二人で入った方が早いでしょう?さあ、早く!上がったら、そのまま玄関の横の和室に来てね」 
      「分かりました、入ってきます」 
      手塚がリョーマに小さく笑いかけながら彩菜にそう告げる。 
      リョーマは何がなんだかわからないうちに、手塚と二人で風呂に入ることになった。 
      「変なコトしないよね?」 
      「またそれか」 
      脱衣所でリョーマが手塚を上目遣いで見上げながらおそるおそる訊いてくるのを、手塚は溜息をつきながら答えた。 
      「お前が仕掛けなければ、俺は何もしない」 
      「…なにそれ」 
      リョーマが顔を赤らめながらムッとして下を向く。 
      「ほら、早く脱げ。時間が勿体ない」 
      「時間?」 
      手塚はさっさと衣服を脱ぐと浴室へ入っていった。リョーマも首を傾げながら後に続く。 
      二人はさっとシャワーを浴び終えると、バスタオルに身を包んで彩菜の待つ和室へ向かった。 
      「よーく身体を拭いて、下着はこっちね。国光は自分でできる?」 
      「帯の方は自信がないので仕上げを見てください」 
      「わかったわ、さあ、越前くんはこっちよ」 
      「はい………あっ?」 
      彩菜の手には藍色の浴衣が乗っていた。 
      「たぶん、昔国光が着ていたので合うと思うんだけど。ほら、袖を通してみて」 
      「わ………」 
      きっと久しぶりにタンスの奥から出されたのであろうその浴衣は、だが、樟脳の匂いなどはほとんどしなかった。袖を通すとゴワつくのとは違う、張りのあるしっかりとした生地が肌を包む。 
      「うん、丈もゆきもぴったりね!はい、腕上げて!」 
      リョーマは言われたとおりに腕を上げる。 
      チラッと手塚の方を見ると、手塚は少し緑がかった紺の浴衣に袖を通し、襟を正してきっちりと着こなしていた。 
      手慣れた様子で、シュッ、シュッと小気味よい音をさせながら帯を締めてゆく。 
      そのあまりの男っぽさに、リョーマは彩菜の存在を忘れて見惚れてしまった。 
      「もう腕、下ろしていいわよ、…越前くん?」 
      「あ、え?、ああ、はいっ」 
      リョーマが慌てて腕を下ろすと、彩菜がクスッと笑った。 
      「越前くんも似合うわ、ステキよ」 
      そのまま姿見の方へ連れて行かれて自分の姿を鏡に映し出すと、そこにはキリッと浴衣を身にまとった越前リョーマがいた。 
      「ちゃんとした浴衣なんて初めて着た……すごい、格好いい……」 
      「気に入ってくれたかしら?」 
      「あ、はいっ!…ありがとうございます!」 
      嬉しそうに礼を言うリョーマをニコニコと見つめていた彩菜は手塚の方へ視線を移すと、「国光もいい感じにできたじゃないの」と帯の形を整えてからポンと軽く叩いた。 
      「さあ、いってらっしゃいな」 
      「はい、行って参ります」 
      そこまで来てリョーマは大事なことを思い出した。 
      「えっと、どこ行くんスか?」 
      
 
 
  昼間の暑さを多少残して、空気はうっすらと身体にまとわりついてくる。 
      それでもシャワーを浴びたおかげか、幾分涼しく思いながら二人は鳥居をくぐり、提灯の並ぶ細長い道を歩いていた。 
      二人分の下駄の音が輪唱のように軽やかに響く。 
      「歩きづらいか?」 
      「いや、コツは掴んだ。…オレ、お祭りって、ちゃんとしたのは初めてかも」 
      「そうか」 
      リョーマが瞳を輝かせて見上げてくるのを、手塚は眩しそうに見つめ返した。 
      神社が見えてくると、人の数が多くなってくる。それと同時に屋台の数も増えてきた。 
      「なんかイイ匂い」 
      「まずはお参りしてからだ」 
      「お参り?」 
      手塚は人混みの中をスルスル避けながら神社の方へ向かって歩いてゆく。 
      「くにみつ、待って…っ」 
      下駄と浴衣に阻まれて、普段のようにスタスタと歩けないリョーマの声にちゃんと反応して手塚が振り向く。 
      そしてすっと左手を差し出してきた。 
      「え?」 
      「離れないように、しっかり握っていろ」 
      「……うん」 
      リョーマは素直に手塚の左手を取った。途端にリョーマの心の中に大きな安心感が生まれる。 
      リョーマがギュッと握ると、手塚はギュウッと握り返してくれる。 
      嬉しくて嬉しくて、手塚を見つめるリョーマの瞳は普段見たこともないほど輝いていた。 
      自分を引っ張ってゆく手塚の背中が、リョーマの目にはとても大きく見えた。 
      手塚がふと振り返る。リョーマと目があうと優しく微笑んでくれた。リョーマも微笑み返す。 
      そしてリョーマは今すぐにでも手塚の背中に抱きついてしまいたくなった。 
      手塚のことが、好きで好きでたまらない自分に、今更ながらに気付いた。 
      この世には想像もできないほどたくさんの人間がいるのに、自分の手を引く、この男以外の存在は、リョーマにとってはなんの意味もなかった。 
      自分たちとすれ違ってゆく人々がスローモーションでフェードアウトしてゆく。 
      この手が、この背中が、手塚国光がいれば、誰もいらない、とリョーマは思った。 
      リョーマは手塚の背中だけを見つめて歩き続けた。 
       手塚の歩調がゆっくりになる。 
      まだ拝殿までには距離があったが、お参りする人の列が出来上がっているのだ。 
      リョーマは繋いだままの手塚の手をくいくいと引っ張る。 
      「ねえ、お参りって……パンパンとか手を叩くヤツ?」 
      「ああ、そうだ。俺の真似をすればいい」 
      「ふーん」 
      程なくしてリョーマたちの番が回ってくる。 
      「賽銭を入れろ。ほら、これを」 
      「うん」 
      リョーマは手塚に手渡された5円玉を賽銭箱の中に投げ入れた。 
      手塚が2回頭を下げる。リョーマもそれに倣って頭を下げた。 
      そうして2回手を打ち、手塚はそのまましばらく何事かを願っているようだった。 
      リョーマも手を合わせる。あまり願い事なんてする質ではないけれど、人間より大きな存在に願うとすれば、人間の力ではどうにもできないことを願おう、とリョーマは願い事を思い浮かべる。 
      ふと目を開けた手塚がまた一礼した。リョーマも倣って一礼する。 
      「行くぞ」 
      「終わり?」 
      「ああ」 
      「ふーん」 
      リョーマはチラッと本殿の方を振り向いてから、手塚の後について階段を下りていった。 
      「さて、何か食べるか?それとも遊ぶか?」 
      「食べる」 
      即答したリョーマに、手塚は表情を崩した。 
      「いろいろあるぞ」 
      「みんな美味しそう」 
      先程からの『いい匂い』にリョーマの腹は鳴りっぱなしなのである。 
      手っ取り早く、真っ先に目に飛び込んできた焼きトウモロコシに飛びついた。 
      少し人混みを避けて端によってから、思い切りかぶりつく。 
      醤油の焦げた香ばしい匂いとトウモロコシの甘さが口の中に広がった。 
      「おいしい!」 
      「ああ」 
      お祭りのお囃子と人々のざわめきが心地よく意識の中に滑り込んでくる。 
      手塚と二人でしばらく会話もなくトウモロコシを食べ続けていると、そっと手塚の手がリョーマの口元に伸ばされた。 
      「ん?」 
      「ついてる」 
      口の横についていたトウモロコシの欠片を手塚の長い指が奪ってゆき、そのまま自分の口に運んでいった。 
      (あ…食べた…) 
      リョーマはなぜか照れくさくなって、「ありがと」と小さく呟いてからますます寡黙に食べ続けた。 
      そうして二人とも食べ終わるとゴミ箱を探しながら、次に何をしようかとあれこれ屋台を覗いて歩く。 
      人だかりの中に『金魚すくい』の看板が見えた。 
      「…やるか?」 
      手塚がリョーマを振り返ると、リョーマは首を横に振った。 
      「オレの家じゃ、飼えないし…なんか小さい生き物で遊ぶのって抵抗ある」 
      手塚は頷いた。 
      「そうだな。それにこういうところの金魚は家に持ち帰ってもあまり長生きしてくれないから…死なれるのはあまりいい気分ではない」 
      リョーマは手塚を見上げた。 昔そんなことがあったのだろうか、と幼い頃の手塚を想像して、リョーマはこっそり微笑んだ。 
      「次、いくか」 
      「あ、あれならいいね、あれやろうよ」 
      リョーマが指さしたのは『ヨーヨー釣り』だった。 
      「アンタ、釣り好きでしょ?」 
      「あのな…」 
      上目遣いで笑いながらそう言われた手塚は、苦笑しながらリョーマに100円玉を手渡す。 
      「じゃ、勝負だね。多く取った方が勝ち!」 
      「勝負……か。…そう言われると負けられんな」 
      普段、口数も少なく、顔色を変えて誰かに挑むことなどないが、乾の組んだメニューを完璧にこなそうとするあたりからして、実は手塚も青学男子テニス部の中で1・2を争う『負けず嫌い』であるというのは、すでに周知の事実である。 
      「オレが勝ったら、オレの言うこと聞いてもらうから」 
      「ならば、俺が勝ったら俺の言うことを聞くのか?」 
      「いっスよ」 
      リョーマがニヤリと不敵に笑った。 
      「わかった。受けて立とう」 
      手塚が部活の時のような気迫でリョーマを見下ろす。 
      「お兄さんたち、楽しくやろうね」 
      店番の親父が困ったように笑いながら、紙縒に吊された針金を二人に渡した。 
      
  「あーあ、あと少しだったのに」 
      「惜しかったな」 
      手塚が微笑みながらリョーマを見る。 
      リョーマの手にはヨーヨーが二つ。左手の人差し指と中指にそれぞれ輪ゴムを通してブラブラと振り回している。 
      手塚の左手にも、ヨーヨーが二つぶら下がっていた。勝負は『引き分け』に終わったのだ。 
      手塚の紙縒が切れてしまったとき、リョーマの紙縒はまだ健在だった。リョーマは自分の勝利を確信して3つ目のヨーヨーを釣り上げようとした、その瞬間、ヨーヨーの重さに堪えきれずに紙縒が切れて、獲物は水面に水しぶきを上げて落ちた。 
      「言うこときかせたかったのに」 
      ブツブツと嘆き続けるリョーマを覗き込んで、手塚はひとつ提案をした。 
      「引き分けだったんだ、お互いの言うことをきき合うというのはどうだ?」 
      「え…」 
      リョーマは驚いたように顔を上げて手塚を見た。 
      「それではダメか?」 
      「だって…」 
      リョーマが提灯のせいだけではない赤みを頬に浮かべたのを見た手塚は、ぶら下がっているヨーヨーを激しく揺らしながら、左手でリョーマの右手を掴んだ。そのまま、リョーマは神社の裏の林の方へ引きずるように連れて行かれる。 
      数メートル奥に入ったところで、手塚はリョーマの身体を木の幹に押しつけた。 
      「…俺に何をさせる気だったんだ?」 
      「…………」 
      俯いたまま顔を上げないリョーマを覗き込むようにして、手塚が顔を近づける。 
      「…………て」 
      リョーマの唇が微かに動く。 
      「ん?」 
      「……ス、……て」 
      「聞こえない」 
      そう言いながら、手塚の唇がリョーマの唇に重なってゆく。 
      リョーマの手からヨーヨーが落ちる。 
      バシャンと弾ける音がして、ひとつが中の水を撒き散らした。 
      そんな音は全く耳に入っていないリョーマは、両腕をしっかりと手塚の背に回す。 
      深く、激しくなる口づけにリョーマの眉が苦しげに寄せられる。唇が少し離れた瞬間に急いで息を継いで、手塚が求めてくるだけリョーマも応え続けた。 
      「あ………ふ、ぅ………っ」 
      長い口づけからようやく解放されると、リョーマはぐったりと手塚に身を預ける。手塚の肩に頭を乗せ、荒くなってしまった呼吸をどうにか鎮めようと大きく息を吸って、吐いた。 
      「アンタは……オレに……なにを、させたい?」 
      「…頼む前に、お前はもう、してくれている」 
      リョーマは顔を上げて、手塚を見た。 
      「オレはまだ、何もしてないっスよ…?」 
      手塚は微笑みながらリョーマをすっぽりと腕の中に抱き込む。 
      そして耳元に囁かれた言葉に、リョーマの頬は真っ赤に染まっていった。
    
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